いつだったか、多分数年前になるかとは思うのだが、長き友S君と奥多摩から仙元峠を越えて秩父を結ぶ道を歩いたことがある。そのとき、「奥多摩・秩父往還(この名前が正式にあるかどうか定かではない)の次は、信州から十文字峠を越えて秩父の栃本を結ぶ秩父・信州往還を歩きましょう」という話にはなった。が、あれこれとしている間に数年がたってしまった。
で、今年こそはと、S君からの十文字峠越えのお誘い。パーティはS君と私、そして会社の仲間であるT君の3名。行程は1泊2日。計画では中央線で小淵沢駅まで進み、そこから小海線に乗り換えて信濃川上駅で下車。信濃川上駅からバスに乗り換え終点の川上村梓山に。梓山から3時間程度歩き十文字峠まで上り、初日は峠近くの十文字小屋に泊まりその日を終える。
2日目は早朝に十文字小屋を出発し、白泰山経由の稜線を8時間程度歩き秩父の栃本集落に。栃本からは三峰口まで西武バスを利用し、三峰口からは秩父鉄道でお花畑駅へ。そこからすぐそばの西武秩父駅まで歩き、西武特急で東京に戻る、といったもの。
(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平23業使、第631号)」)
ところで、今回の散歩で越える十文字峠って、今でこそ甲武信ヶ岳を中心とする奥秩父の登山を楽しむ人や、我々のように酔狂にも往昔の道筋を辿り、峠を越える人が踏むだけではあろう。が、古の昔より昭和初期の頃までは信州と秩父を結ぶ物流や信仰の道として人馬の往来多き峠であった、よう。石器時代にはすでに八ヶ岳山麓や和田峠でとれる黒曜石が、石器の材料として佐久盆地から秩父、そして武蔵へと運ばれた、とか。江戸の頃までは牛馬も通れぬ険しい道ではあったようだが、秩父・長瀞産の板碑が能登国輪島に運ばれてもいる。正応5年(1292)の銘を持つというから鎌倉時代のことである。戦国時代には信州の武田勢が奥秩父の山中にある金山に米や味噌などを運ぶ道として利用していた、とも。
江戸に入り、道の改修も進み庶民の生活に少しゆとりがでるにつれ、秩父の三峰の社への参詣道として、また信濃の善光寺への参詣道としてこの往還が利用された。明治には秩父での決起に敗れた秩父困民党が、佐久の主力部隊と合流すべく栃本から十文字峠を経て梓山へと辿った「敗走路」でもある。
ことほどさように十文字峠を越える信州・秩父往還は、秩父と信濃を直接結ぶ主要往還であったようである。耕地の少ない奥秩父の集落では炭をつくり、繭をつくり、和紙の材料となる楮をつくり、木材を育て、そして十文字峠を越えて信濃に運び米や穀物を秩父に持ち帰った。秩父の栃本集落では信濃で仔馬を買い秩父で育て、再び十文字峠を越えて信濃に入り馬市でそれを売った、と言う。野辺山から信濃川上の途中に「市場坂」という地名があるが、それが馬市の名残とのことである(『奥秩父 山、谷、峠 そして人;山田哲哉(東京新聞)』)。
明治の終わりの頃、奥秩父の重厚な森林、深い原生林の魅力を愛した田部重治は、その著書『秩父の山々』で、十文字峠を「この峠はそれ自身の美を持っている。蜿蜒として連なる峠道は、やがて幽邃(ゆうすい)なる樹木に蔽われ、峠の真中頃は針葉樹林ふかく、林間には苔がぶくぶくしてあたりは掃き清められたように綺麗である」と描く。頃は秋。10月27日、28日の週末であり、紅葉の美しい奥秩父の深林(明治の登山家小暮理太郎は秩父の森林を、その重厚さゆえに「深林」と敢えて呼ぶ)を楽しめそうである。
初日
中央線小淵沢駅>梓山>毛木平>狭霧橋>一里観音>水場>八丁の頭>十文字峠>十文字小屋
二日目
十文字小屋>股の沢分岐>四里観音避難小屋>東に展望が開けたところ>林道合流点>三里観音>鍾乳洞入口>岩戸屋>二里観音>白泰山標識>一里観音>栃本広場分岐>車道合流>十二天>両顔神社>下山口>栃本関所跡>川又バス停
■中央線小淵沢駅
自宅を出て、中央線の小淵沢駅に。当初の予定ではここから小海線に乗り換え、信濃川上駅まで行く予定であったが、現在小淵沢に住む元同僚M君との久しぶりの再会を楽しむことになった。別荘風のお宅を訪れ、しばし近況などの話しに時を忘れる。
話の中で直近の日経新聞に載っていた山梨県北杜市の「三分の一湧水」や、武田信玄が開いた軍用道路「棒道」の話題に。M氏によればその他にも「大滝湧水」やパワースポットである大滝神社もすぐ近くにある、とのこと。今回は時間がないので寄り道できなかったのだが、近々、湧水、棒道を尋ねるべく再会を約す。
■川上村
○原集落
辞するに際し、M氏が梓山集落まで愛車で送ってくれることに。感謝。清里を越え、JRの駅では最標高点(1,345m)にある野辺山駅をへて川上村に。川上村は平安時代には既に開け、徳川時代は幕府直轄地であった、よう。寒冷地故に農耕地には不向きで、年貢はカモシカの毛皮を納めていた、とか。明治23年(1890)、川上郷八か村が合併して現在の川上村になった。川上村は長野県南佐久郡。野辺山の手前で長野県に入っていた。
千曲川に沿って県道68号梓山海ノ口線を東に向かう。原集落の手前で右に山梨県の「信州峠」に続く県道106号を分ける。川上村は日本一のカラマツ苗の産地とのことだが、なかでもこの原集落は栽培面積が一番大きかったようである。北海道で防風林として植えられているカラマツのほとんどが川上村から送られて苗がもとになっている、とか。
○秋山集落
原集落の先の川上村役場手前で「馬越峠」を経て相木川に沿って南相木村を小海に下る県道2号を分け、秋山の集落に。このあたりには山梨県へと「大弛峠(おおだるみ)」を越える林道が分岐する。大弛峠の標高は2,360m。車で通れる峠としては最も高い標高点とのこと。山梨側は舗装されているようだが、長野側は砂利道のようである。峠越えフリークとしては、次々と峠名が登場するたびにフックがかかり、メモの寄り道が多くなる。
■梓山_午前11時53分;標高1,309m
秋山の集落を越えるとほどなく梓山の集落に。梓山のバス停付近で車から降り、M君とお別れ。千曲川の支流である梓川に架かる橋を渡り、県道の両側に軒を連ねる集落を歩く。梓川は金峰山や国師ケ岳にその源を発する。
梓山などの川上村の集落は千曲川によって形成された狭い河岸段丘上にある。現在では千曲川の源流へと続く行き止まりともいえる場所ではあるが、往昔秩父・信州往還の人馬往来が盛んな頃は宿場として賑わったのではあろう。
雑貨店で水や食料を買い求め、先に進むとほどなく人家が途切れ、県道の終点となる。終点部分はY字に分岐し一方は「秩父 三国街道 中津川林道」、もう一方は「千曲川源流 十文字 農道」との道路標識がある。我々は「十文字」方面へと坂を上り段丘面へと進む。
○川上犬
ところで、梓山と言えば、県の天然記念物である川上犬の元の名前は梓山犬と呼ばれていたようである。上で川上村は年貢としてカモシカの毛皮を納めたとメモした。梓山犬は十国犬や秩父犬と同じく山犬(ニホンオオカミ)の血を継ぐ、とか。カモシカ猟に使うべく、岩場でカモシカより敏捷に動ける足と体をもつ犬として秩父山塊の猟師によって飼い慣らされた、とも言われる。その梓山犬も、戦争中の食糧難の時期に数頭までに激減。その血統を継ぐ犬が川上村のほかの地区に残っていたようで、その純血度を高め、現在の川上犬となった、とか。因みに、足の治療に通う整体院に佐久出身の人がおり、その人がこの川上犬を飼っていた。貰い受けるには役場で審査を受けないといけない、とのことであった。
○戦場ヶ原
河岸段丘面に上る途中に「千曲川源流 十文字峠8km」の標識にならんで「開拓記念碑」が建っている。裏面に刻まれている、であろう開墾の沿革を読んだわけではないのだが、戦場ヶ原と呼ばれる段丘面の、一面に広がるレタス畑は林野を開墾していったものではないだろうか。
偶然古本屋で買い求めていた『峠と高原;田部重治(角川書店)』には「一里ほど行けば、のびのびとした梓山の戦場ヶ原に出る。あたりの山々を仰ぎ、白樺や落葉松の美しさを驚嘆しつつ一里八町を歩けば、やがて千曲川のほとりの梓山の村につく。どこを見ても白樺が目につき、流れは爽やかな音を立てている」、とある。田部重治が最初に奥秩父に足跡を残したには明治43年(1910)であるので、明治の頃は一面の白樺林であったようだ。
田部重治と同じく明治後期の近代登山家の一人、その美しい紀行文で知られる大島亮吉も、その著『登高者;秩父の山村と山路と山小屋と』において、「秩父を歩くものにとっては是非とも訪れなければならない山村は、南佐久の最奥の村、その名もうるわしい聯想をよぶところの梓山の村であろう。むかし私らにとってはこの山脈の山歩きの父と言い得べき先蹤車らがはじめてこの山村に訪れた時分に、それらの人たちにまで惑溺的に美しかったこの白樺と、落葉松との谷あい、ホトトギスと山鳩と雉子のなく山里、石をのせた屋根の低い百姓家の、自然にうずもれた牧歌の村へも、その人たちが訪れる度ごとにその美しさをこわす文明のさわがしい楽隊が乗り込んで来た。いかに愛惜の情をその人たちは感じつつこの谷、この村をすぎたことだろうか。小略。ちょうどその頃に私ははじめてこの村を訪れたのであった。けれどなおそのときに於いてもこの村、この谷は私をしてこよなく愛さしめたのである」と梓山を描く。
田部氏や大島氏が描く美しい白樺の林は、今は、ない。開拓の歴史をチェックすると、白樺林に囲まれた戦場ヶ原や梓山の一帯は、昔は馬産地として牧草地であったようだ。『峠と高原;田部重治(角川書店)』には「牧場や高原の興へる牧歌的な情緒は、峠と村との連携を詩的ならしめ和らげる。そうした意味で、十文字峠から梓山に降りる方面は、特別に美しいなごやかな、また、一層深い感じをもっている。あちこちのなごやかな牧場、白樺や落葉樹、その他、平地には余り見られない樹木は、この土地に柔らかい感じを興へると共に、美しい晴朗な色彩を興へる」と続ける。
その白樺の林も大正の頃には既に伐採がはじまっていたようである。「村外れで戦場ヶ原から霧のように炭焼きの煙が立ち迷うている。原の美しさは、闊葉樹〈注;かつようじゅ。広葉樹の古い名称〉が切られてからすっかり失われ。道の左の低地に炭焼きのかまどのいくつか煙をさかんにあげている」と、田部重治はその著『山と渓谷』で描く。大正15年(1926)の戦場ヶ原の姿である。
牧草地を利用した馬産地、また養蚕や木材・木炭等を生産、ソバの移出などを生活の中心であった川上村であるが、昭和10年(1035)の小海線の開通とともに、生活の基盤を次第に野菜の栽培に移していった、とか。戦前は白菜の栽培をおこない、キムチの材料として関西に送ったが、戦後はレタス栽培中心となる。米軍の要請によりはじめられた、とか。それもあってか、牧草地であった共有地を住民で分け農林省の補助のもと耕地として開墾されていった。その結果、レタスの出荷額は現在では100億円を超える、とか。日本有数のレタス栽培地である。
レタス畑の中を一直線に続く農道を進む。前方に今から辿る山塊が聳える。甲武信ケ岳から北に十文字峠を経て三国峠に続く、信濃・武蔵・上州を隔てる山稜である。田部重治著は『新編山と渓谷;新緑の印象より』に、「千曲川の上流では、八ヶ岳の裾野、川上の梓山及び川端下がその最も優れたものであるが、梓山の新緑は特にうるおいに充ちた色彩に映え返っている。梓山の新緑の最も鮮やかなのは、秩父から山越えして、戦場ヶ原にかかる時、右手に見える十文字峠から三国山へ連なる尾根一面を覆うている新緑の一帯がそれである。誰でもここを初めて通る人は、戦場ヶ原の落葉松や白樺が、一つは夢のようにおぼろに、他はくっきりと際立って、ところどころ悲調をかなでている時鳥が若葉に洩れて聞こえるのに、いたく心を打たれるに相違ない。梓山から1時間ほど農道を歩き、ささやかな沢を越えるあたりで農道の簡易舗装も切れ、砂利道となるとその先に駐車場が見えてきた。そこが手木平である」と描く。かつての白樺の林を想い、レタス畑を進み毛木平へと進む。
■毛木平_12時56分;標高1,464m
毛木平には駐車場がある。60台ほど停められる広いスペースである。トイレや休憩所もあり、ここで昼食をとることにする。しばし休憩を取りながら、休憩所にある案内板に目を通す。
案内には、「千曲川源流の里 川上村:千曲川源流・分水嶺[三国峠-甲武信ケ岳] 甲武信ケ岳周辺の自然に育まれ流れ出す清らかな水が千曲川。この流れは上流域を潤しながら、やがて日本最長の信濃川になり、日本海に注ぐ。三国峠、甲武信ケ岳、金峰山などの山々は分水嶺となっており、群馬県、埼玉県、山梨県に流れ出た源流は荒川や笛吹川となって太平洋に注ぐ」とある。
案内によれば、千曲川源流・水源地標の標高は2,200m。標高2,475mの甲武信ケ岳の直下といったところ。標高1400mの毛木平から上り3時間といった行程である。そのうちに辿ってみたいものである。
また、「十文字峠付近はシャクナゲの群生地として6月初旬にその群落が見れる」、とある。花鳥風月に誠に縁のないわが身であるが、十文字峠付近は石楠花(シャクナゲ)で名高い一帯であった。
「高原野菜の産地;夏季の冷涼な気候をいかして、レタスに代表される高原野菜の産地」といった川上村の特産物は既にメモしたとおりであろう。
■三峰大権現
大文字峠へと向かう。休憩所の案内によれば、おおよそ上り2時間。峠の標高は2,000mであるから比高差600mを上ることになる。標高1600mから1800mあたりが八丁坂と呼ばれ、「胸突き八丁」の急場のようである。
駐車場から先の樹林の中の道を進む。すでに紅葉が始まっており、美しい。先に進むと「三峰大権現 右山道 左江戸道」と書かれた木の標識とその脇に石仏三基。どの仏が三峰大権現か定かではないが、信州・秩父往還が、信州の人には三峰道と呼ばれたように、信州から秩父の三峰詣での名残ではあろう。
いつだったか、秩父の三峰神社を訪れたことがある。そのときの三峰信仰についてのメモをコピー&ペースト;「三峯講についての資料に惹かれる。山里では猪鹿除け、町や村では火ぶせ(火難)よけ・盗賊よけの霊験あらたか、という三峰の御眷属・「お犬さま」の霊験を信じる多くの人が講をつくり、このお山に登ってきた。三峰神社の記念館にはその道筋がパネル展示されていた。江戸からの道は、「熊谷通り」、「川越通り」、そして「吾野通り」。これら江戸からの道は観音巡礼でメモした。そのほか三峯詣でには上州、甲州、信州からの道がある。上州からの三峯詣・「上州道」は出牛峠>吉田・小鹿野>贄川>秩父大宮からの道筋にあたり、52丁の表坂(表参道)を三峯に上る。「甲州道」と呼ばれる甲斐からの道筋は秩父湖のメモのところで辿った道筋。三富村の関所>雁坂峠>武州>栃本の関所>麻生>お山に、となる。「信州道」は信州の梓山>十文字峠(長野県南佐久郡川上村と埼玉県秩父市の境、奥秩父にある峠)>白泰山の峠>栃本の関所>麻生>お山に。
三峯信仰は17世紀後期から18世紀中期にかけて秩父地方で基盤をつくり、甲斐や信濃の山国からまず広がっていった、とか。まずは、作物を荒らす猪鹿に悩まされていた山間の住人の間に「オオカミ」さまの力にすがろうという信仰が広まった、ということだろう。農作物に被害を与えるイノシシやシカをオオカミが食べるという関係から、農民にとっての益獣としてのオオカミへの信仰がひろまった、ということだ。
山村・農村に基盤をおいた三峯信仰も、次第に「都市化」の様相を示してゆく。都市化、という意味合いは、山里では重要であった「猪鹿除け」が消え去り、「火ぶせ(火難)よけ・盗賊よけ」が江戸をはじめとした都市で三峯信仰の中心となってくる、ということ。都市化への展開要因として木材生産に関わる生産・流通の進展が大きく影響する、との説もある(三木一彦先生)。江戸向けの木材伐採が盛んになった大滝村で三峯山が村全体の鎮守、木材生産に関する山の神としての機能が求められたことを契機にして、三峯信仰が浸透したと言う。秩父観音霊場の普及は秩父の絹織物の生産・流通と大いに関係ある、ともどこかで見たような気もする。信仰って、なんらかの政治・経済的背景があってはじめて大きく展開する、ってことは熊野散歩のメモで書いたとおり。
■石像一里観音菩薩_13時39分;標高1,525m
先に進むと「十文字峠方面」と「千曲川源流地標」への分岐の標識がある。千曲川源流点にはここから東沢を上り、更に上流で西沢に乗り換え標高2,200mの源流点へと進むのであろう。
「十文字峠方面」に道をとり、標識から100mほどで東沢に架かる「千曲川源流挟霧橋」を渡り、東沢の一筋東の沢に沿って先に進む。沢を覆う苔むした原生林の中を進むと「石像一里観音菩薩」。栃本から梓山までの六里六丁、26キロの十文字峠道に一里ごとに里程観音が佇む。江戸時代の享保年間のもの、と言う。通常、この観音は栃本から見て「五里観音」ではあろうが、信州側の川上村からみて「一里観音」としているのであろう。標識には「川上村教育委員会」とあった。納得。
■水場_14時32分;標高1,766m
道なのか沢の岩場なのか、いまひとつはっきりとした道筋はわからないながらも、道筋を示すリボンを頼りに先に進む。「上りあと一時間半」といった木にぶら下がった案内を見やりながら進む。苔が誠に美しい。
沢も次第に細くなり、倒木の多い一帯をクリアすると、また一層苔の美しい一帯に入る。標高1,680m辺りで沢が見えなくなってしまうが、水場はその更に上の標高1,766m地点にあった。ブルーの生地に「水」と表示されている。脇に確かに水場があった。
■八丁の頭_14時51分;標高1,917m
水場から先は勾配が急になる。険路なのだろうか残置ロープなどが残されている。この辺りが「八丁の坂」であろう。次第に空が開けてくる。もう尾根も近くなってきた。
「八丁」は「八町「」。およそ872m。「八丁」は「胸突き八丁」から。元は富士登山で頂上近くの険しい八丁の道から、とか。それが富士以外の山でも使われるようになった。先日歩いた四国札所44番の大宝寺から45番の岩屋寺に辿る山道にも「八丁の坂」と呼ばれる険しい山道があった。
■十文字峠_15時25分:標高1,963m
尾根筋に入っても、ピークを通ることなく巻いて道は進むようだ。尾根筋を30分程度進むと大文字峠に到着。奥秩父の主峰甲武信ヶ岳から北に延び、長野と埼玉を分ける尾根は三国峠で群馬に至るが、その手前の大きなたわみが大文字峠。通常の峠に見られるような切り通しや鞍部になった明瞭な峠ではなく、峠を境に下る道もない。峠はコメツガの森が覆い、わずかに明るい広場があるといったもので、峠と言うよりも尾根の少し低くなったところ、といった案配である。
x大島亮吉はその著『登高者;秩父の山村と山路と山小屋と』の中で、十文字峠を「この古い、むかしは中仙道の裏道として峠をこす旅人のゆきかいもはげしかった峠路。その古びたもののみのもつ雅韻を帯びた、影ふかい峠路。その七里にわたる里程から、その峠の高さから、その古さから、そのうつくしいふたつの山村のあいだをつなぐことからみて、十文字峠はこの山脈のうちで、どうしてもわたくしから はなれがたいものである。
五月にそこをこえれば、渓々のどこからも若葉の層がむらむらと、それをゆする青い山風のかおりもほのかに、人の匂いもない、森閑とした深山の峠路を飾る、わびしくも、きよい石楠花と花躑躅の花の祭りを見ては、山を越える旅者の胸もその花の精神に染められてしまうだろう」と描く。
十文字小屋l15時26分;標高1971m
峠を離れ十文字小屋に。本日の宿泊先であるこの山小屋には、我々のパーティの他、出版社と書店勤務のご夫妻と、地衣類の研究者3名。道すがら原生林の木の根元を覆う美しく分厚い苔の景観に魅了されていたこともあり、薪のストーブを囲んだお話は誠に楽しかった。曰く、東京都では石原都知事が実施した排ガス規制で苔が蘇生してきている、曰く、北海道や白神山地の苔は危機的状況にあるが、それは中国大陸か流れてくる排ガスの影響?などなど。ランプの宿での夕食の賄いを美味しくご馳走になり、早々に寝床に入る。暖房の無い山小屋であり、寒さに震える。布団もあるようなので、寝袋は不要かと、シュラフカバーだけしか持ってこなかったことを少々後悔。それでも自身の体温で次第に暖もとれてきて、眠りにつく。
十文字峠を実際に歩くまでは、この峠道は秩父と信濃を結ぶ物流の道であり、また信仰の道として、往昔より人々の往来があった往還道であり、それゆえにその道筋を辿ってみようと思っていた。このような歴史のレイヤーを想いながら散歩をはじめたわけだが、田部重治が描いたように「蜿蜒として連なる峠道は、やがて幽邃(ゆうすい)なる樹木に蔽われ、峠の真中頃は針葉樹林ふかく、林間には苔がぶくぶくしてあたりは掃き清められたように綺麗である」、と、誠に美しい原生林の一帯であった。明治になりスポーツとしての近代登山、山旅としての登山を切り開いた木暮理太郎、田部重治、そして大島亮吉氏などが奥秩父の自然に魅了され、名文をもって描いた奥秩父の魅力の一端に触れた1日であった。