2012年11月アーカイブ

いつだったか、多分数年前になるかとは思うのだが、長き友S君と奥多摩から仙元峠を越えて秩父を結ぶ道を歩いたことがある。そのとき、「奥多摩・秩父往還(この名前が正式にあるかどうか定かではない)の次は、信州から十文字峠を越えて秩父の栃本を結ぶ秩父・信州往還を歩きましょう」という話にはなった。が、あれこれとしている間に数年がたってしまった。

 で、今年こそはと、S君からの十文字峠越えのお誘い。パーティはS君と私、そして会社の仲間であるT君の3名。行程は1泊2日。計画では中央線で小淵沢駅まで進み、そこから小海線に乗り換えて信濃川上駅で下車。信濃川上駅からバスに乗り換え終点の川上村梓山に。梓山から3時間程度歩き十文字峠まで上り、初日は峠近くの十文字小屋に泊まりその日を終える。
2日目は早朝に十文字小屋を出発し、白泰山経由の稜線を8時間程度歩き秩父の栃本集落に。栃本からは三峰口まで西武バスを利用し、三峰口からは秩父鉄道でお花畑駅へ。そこからすぐそばの西武秩父駅まで歩き、西武特急で東京に戻る、といったもの。 


(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平23業使、第631号)」)

ところで、今回の散歩で越える十文字峠って、今でこそ甲武信ヶ岳を中心とする奥秩父の登山を楽しむ人や、我々のように酔狂にも往昔の道筋を辿り、峠を越える人が踏むだけではあろう。が、古の昔より昭和初期の頃までは信州と秩父を結ぶ物流や信仰の道として人馬の往来多き峠であった、よう。石器時代にはすでに八ヶ岳山麓や和田峠でとれる黒曜石が、石器の材料として佐久盆地から秩父、そして武蔵へと運ばれた、とか。江戸の頃までは牛馬も通れぬ険しい道ではあったようだが、秩父・長瀞産の板碑が能登国輪島に運ばれてもいる。正応5年(1292)の銘を持つというから鎌倉時代のことである。戦国時代には信州の武田勢が奥秩父の山中にある金山に米や味噌などを運ぶ道として利用していた、とも。
江戸に入り、道の改修も進み庶民の生活に少しゆとりがでるにつれ、秩父の三峰の社への参詣道として、また信濃の善光寺への参詣道としてこの往還が利用された。明治には秩父での決起に敗れた秩父困民党が、佐久の主力部隊と合流すべく栃本から十文字峠を経て梓山へと辿った「敗走路」でもある。


ことほどさように十文字峠を越える信州・秩父往還は、秩父と信濃を直接結ぶ主要往還であったようである。耕地の少ない奥秩父の集落では炭をつくり、繭をつくり、和紙の材料となる楮をつくり、木材を育て、そして十文字峠を越えて信濃に運び米や穀物を秩父に持ち帰った。秩父の栃本集落では信濃で仔馬を買い秩父で育て、再び十文字峠を越えて信濃に入り馬市でそれを売った、と言う。野辺山から信濃川上の途中に「市場坂」という地名があるが、それが馬市の名残とのことである(『奥秩父 山、谷、峠 そして人;山田哲哉(東京新聞)』)。


明治の終わりの頃、奥秩父の重厚な森林、深い原生林の魅力を愛した田部重治は、その著書『秩父の山々』で、十文字峠を「この峠はそれ自身の美を持っている。蜿蜒として連なる峠道は、やがて幽邃(ゆうすい)なる樹木に蔽われ、峠の真中頃は針葉樹林ふかく、林間には苔がぶくぶくしてあたりは掃き清められたように綺麗である」と描く。頃は秋。10月27日、28日の週末であり、紅葉の美しい奥秩父の深林(明治の登山家小暮理太郎は秩父の森林を、その重厚さゆえに「深林」と敢えて呼ぶ)を楽しめそうである。



初日

中央線小淵沢駅>梓山>毛木平>狭霧橋>一里観音>水場>八丁の頭>十文字峠>十文字小屋

二日目

十文字小屋>股の沢分岐>四里観音避難小屋>東に展望が開けたところ>林道合流点>三里観音>鍾乳洞入口>岩戸屋>二里観音>白泰山標識>一里観音>栃本広場分岐>車道合流>十二天>両顔神社>下山口>栃本関所跡>川又バス停

■中央線小淵沢駅
自宅を出て、中央線の小淵沢駅に。当初の予定ではここから小海線に乗り換え、信濃川上駅まで行く予定であったが、現在小淵沢に住む元同僚M君との久しぶりの再会を楽しむことになった。別荘風のお宅を訪れ、しばし近況などの話しに時を忘れる。
話の中で直近の日経新聞に載っていた山梨県北杜市の「三分の一湧水」や、武田信玄が開いた軍用道路「棒道」の話題に。M氏によればその他にも「大滝湧水」やパワースポットである大滝神社もすぐ近くにある、とのこと。今回は時間がないので寄り道できなかったのだが、近々、湧水、棒道を尋ねるべく再会を約す。

■川上村


○原集落
辞するに際し、M氏が梓山集落まで愛車で送ってくれることに。感謝。清里を越え、JRの駅では最標高点(1,345m)にある野辺山駅をへて川上村に。川上村は平安時代には既に開け、徳川時代は幕府直轄地であった、よう。寒冷地故に農耕地には不向きで、年貢はカモシカの毛皮を納めていた、とか。明治23年(1890)、川上郷八か村が合併して現在の川上村になった。川上村は長野県南佐久郡。野辺山の手前で長野県に入っていた。

千曲川に沿って県道68号梓山海ノ口線を東に向かう。原集落の手前で右に山梨県の「信州峠」に続く県道106号を分ける。川上村は日本一のカラマツ苗の産地とのことだが、なかでもこの原集落は栽培面積が一番大きかったようである。北海道で防風林として植えられているカラマツのほとんどが川上村から送られて苗がもとになっている、とか。


○秋山集落
原集落の先の川上村役場手前で「馬越峠」を経て相木川に沿って南相木村を小海に下る県道2号を分け、秋山の集落に。このあたりには山梨県へと「大弛峠(おおだるみ)」を越える林道が分岐する。大弛峠の標高は2,360m。車で通れる峠としては最も高い標高点とのこと。山梨側は舗装されているようだが、長野側は砂利道のようである。峠越えフリークとしては、次々と峠名が登場するたびにフックがかかり、メモの寄り道が多くなる。

■梓山_午前11時53分;標高1,309m
秋山の集落を越えるとほどなく梓山の集落に。梓山のバス停付近で車から降り、M君とお別れ。千曲川の支流である梓川に架かる橋を渡り、県道の両側に軒を連ねる集落を歩く。梓川は金峰山や国師ケ岳にその源を発する。

梓山などの川上村の集落は千曲川によって形成された狭い河岸段丘上にある。現在では千曲川の源流へと続く行き止まりともいえる場所ではあるが、往昔秩父・信州往還の人馬往来が盛んな頃は宿場として賑わったのではあろう。





雑貨店で水や食料を買い求め、先に進むとほどなく人家が途切れ、県道の終点となる。終点部分はY字に分岐し一方は「秩父 三国街道 中津川林道」、もう一方は「千曲川源流 十文字 農道」との道路標識がある。我々は「十文字」方面へと坂を上り段丘面へと進む。

○川上犬
ところで、梓山と言えば、県の天然記念物である川上犬の元の名前は梓山犬と呼ばれていたようである。上で川上村は年貢としてカモシカの毛皮を納めたとメモした。梓山犬は十国犬や秩父犬と同じく山犬(ニホンオオカミ)の血を継ぐ、とか。カモシカ猟に使うべく、岩場でカモシカより敏捷に動ける足と体をもつ犬として秩父山塊の猟師によって飼い慣らされた、とも言われる。その梓山犬も、戦争中の食糧難の時期に数頭までに激減。その血統を継ぐ犬が川上村のほかの地区に残っていたようで、その純血度を高め、現在の川上犬となった、とか。因みに、足の治療に通う整体院に佐久出身の人がおり、その人がこの川上犬を飼っていた。貰い受けるには役場で審査を受けないといけない、とのことであった。

○戦場ヶ原
河岸段丘面に上る途中に「千曲川源流 十文字峠8km」の標識にならんで「開拓記念碑」が建っている。裏面に刻まれている、であろう開墾の沿革を読んだわけではないのだが、戦場ヶ原と呼ばれる段丘面の、一面に広がるレタス畑は林野を開墾していったものではないだろうか。
偶然古本屋で買い求めていた『峠と高原;田部重治(角川書店)』には「一里ほど行けば、のびのびとした梓山の戦場ヶ原に出る。あたりの山々を仰ぎ、白樺や落葉松の美しさを驚嘆しつつ一里八町を歩けば、やがて千曲川のほとりの梓山の村につく。どこを見ても白樺が目につき、流れは爽やかな音を立てている」、とある。田部重治が最初に奥秩父に足跡を残したには明治43年(1910)であるので、明治の頃は一面の白樺林であったようだ。
田部重治と同じく明治後期の近代登山家の一人、その美しい紀行文で知られる大島亮吉も、その著『登高者;秩父の山村と山路と山小屋と』において、「秩父を歩くものにとっては是非とも訪れなければならない山村は、南佐久の最奥の村、その名もうるわしい聯想をよぶところの梓山の村であろう。むかし私らにとってはこの山脈の山歩きの父と言い得べき先蹤車らがはじめてこの山村に訪れた時分に、それらの人たちにまで惑溺的に美しかったこの白樺と、落葉松との谷あい、ホトトギスと山鳩と雉子のなく山里、石をのせた屋根の低い百姓家の、自然にうずもれた牧歌の村へも、その人たちが訪れる度ごとにその美しさをこわす文明のさわがしい楽隊が乗り込んで来た。いかに愛惜の情をその人たちは感じつつこの谷、この村をすぎたことだろうか。小略。ちょうどその頃に私ははじめてこの村を訪れたのであった。けれどなおそのときに於いてもこの村、この谷は私をしてこよなく愛さしめたのである」と梓山を描く。

田部氏や大島氏が描く美しい白樺の林は、今は、ない。開拓の歴史をチェックすると、白樺林に囲まれた戦場ヶ原や梓山の一帯は、昔は馬産地として牧草地であったようだ。『峠と高原;田部重治(角川書店)』には「牧場や高原の興へる牧歌的な情緒は、峠と村との連携を詩的ならしめ和らげる。そうした意味で、十文字峠から梓山に降りる方面は、特別に美しいなごやかな、また、一層深い感じをもっている。あちこちのなごやかな牧場、白樺や落葉樹、その他、平地には余り見られない樹木は、この土地に柔らかい感じを興へると共に、美しい晴朗な色彩を興へる」と続ける。
その白樺の林も大正の頃には既に伐採がはじまっていたようである。「村外れで戦場ヶ原から霧のように炭焼きの煙が立ち迷うている。原の美しさは、闊葉樹〈注;かつようじゅ。広葉樹の古い名称〉が切られてからすっかり失われ。道の左の低地に炭焼きのかまどのいくつか煙をさかんにあげている」と、田部重治はその著『山と渓谷』で描く。大正15年(1926)の戦場ヶ原の姿である。

牧草地を利用した馬産地、また養蚕や木材・木炭等を生産、ソバの移出などを生活の中心であった川上村であるが、昭和10年(1035)の小海線の開通とともに、生活の基盤を次第に野菜の栽培に移していった、とか。戦前は白菜の栽培をおこない、キムチの材料として関西に送ったが、戦後はレタス栽培中心となる。米軍の要請によりはじめられた、とか。それもあってか、牧草地であった共有地を住民で分け農林省の補助のもと耕地として開墾されていった。その結果、レタスの出荷額は現在では100億円を超える、とか。日本有数のレタス栽培地である。

レタス畑の中を一直線に続く農道を進む。前方に今から辿る山塊が聳える。甲武信ケ岳から北に十文字峠を経て三国峠に続く、信濃・武蔵・上州を隔てる山稜である。田部重治著は『新編山と渓谷;新緑の印象より』に、「千曲川の上流では、八ヶ岳の裾野、川上の梓山及び川端下がその最も優れたものであるが、梓山の新緑は特にうるおいに充ちた色彩に映え返っている。梓山の新緑の最も鮮やかなのは、秩父から山越えして、戦場ヶ原にかかる時、右手に見える十文字峠から三国山へ連なる尾根一面を覆うている新緑の一帯がそれである。誰でもここを初めて通る人は、戦場ヶ原の落葉松や白樺が、一つは夢のようにおぼろに、他はくっきりと際立って、ところどころ悲調をかなでている時鳥が若葉に洩れて聞こえるのに、いたく心を打たれるに相違ない。梓山から1時間ほど農道を歩き、ささやかな沢を越えるあたりで農道の簡易舗装も切れ、砂利道となるとその先に駐車場が見えてきた。そこが手木平である」と描く。かつての白樺の林を想い、レタス畑を進み毛木平へと進む。

■毛木平_12時56分;標高1,464m

毛木平には駐車場がある。60台ほど停められる広いスペースである。トイレや休憩所もあり、ここで昼食をとることにする。しばし休憩を取りながら、休憩所にある案内板に目を通す。
案内には、「千曲川源流の里 川上村:千曲川源流・分水嶺[三国峠-甲武信ケ岳]  甲武信ケ岳周辺の自然に育まれ流れ出す清らかな水が千曲川。この流れは上流域を潤しながら、やがて日本最長の信濃川になり、日本海に注ぐ。三国峠、甲武信ケ岳、金峰山などの山々は分水嶺となっており、群馬県、埼玉県、山梨県に流れ出た源流は荒川や笛吹川となって太平洋に注ぐ」とある。


案内によれば、千曲川源流・水源地標の標高は2,200m。標高2,475mの甲武信ケ岳の直下といったところ。標高1400mの毛木平から上り3時間といった行程である。そのうちに辿ってみたいものである。
また、「十文字峠付近はシャクナゲの群生地として6月初旬にその群落が見れる」、とある。花鳥風月に誠に縁のないわが身であるが、十文字峠付近は石楠花(シャクナゲ)で名高い一帯であった。
「高原野菜の産地;夏季の冷涼な気候をいかして、レタスに代表される高原野菜の産地」といった川上村の特産物は既にメモしたとおりであろう。

■三峰大権現
大文字峠へと向かう。休憩所の案内によれば、おおよそ上り2時間。峠の標高は2,000mであるから比高差600mを上ることになる。標高1600mから1800mあたりが八丁坂と呼ばれ、「胸突き八丁」の急場のようである。
駐車場から先の樹林の中の道を進む。すでに紅葉が始まっており、美しい。先に進むと「三峰大権現 右山道 左江戸道」と書かれた木の標識とその脇に石仏三基。どの仏が三峰大権現か定かではないが、信州・秩父往還が、信州の人には三峰道と呼ばれたように、信州から秩父の三峰詣での名残ではあろう。


いつだったか、秩父の三峰神社を訪れたことがある。そのときの三峰信仰についてのメモをコピー&ペースト;「三峯講についての資料に惹かれる。山里では猪鹿除け、町や村では火ぶせ(火難)よけ・盗賊よけの霊験あらたか、という三峰の御眷属・「お犬さま」の霊験を信じる多くの人が講をつくり、このお山に登ってきた。三峰神社の記念館にはその道筋がパネル展示されていた。江戸からの道は、「熊谷通り」、「川越通り」、そして「吾野通り」。これら江戸からの道は観音巡礼でメモした。そのほか三峯詣でには上州、甲州、信州からの道がある。上州からの三峯詣・「上州道」は出牛峠>吉田・小鹿野>贄川>秩父大宮からの道筋にあたり、52丁の表坂(表参道)を三峯に上る。「甲州道」と呼ばれる甲斐からの道筋は秩父湖のメモのところで辿った道筋。三富村の関所>雁坂峠>武州>栃本の関所>麻生>お山に、となる。「信州道」は信州の梓山>十文字峠(長野県南佐久郡川上村と埼玉県秩父市の境、奥秩父にある峠)>白泰山の峠>栃本の関所>麻生>お山に。
三峯信仰は17世紀後期から18世紀中期にかけて秩父地方で基盤をつくり、甲斐や信濃の山国からまず広がっていった、とか。まずは、作物を荒らす猪鹿に悩まされていた山間の住人の間に「オオカミ」さまの力にすがろうという信仰が広まった、ということだろう。農作物に被害を与えるイノシシやシカをオオカミが食べるという関係から、農民にとっての益獣としてのオオカミへの信仰がひろまった、ということだ。
山村・農村に基盤をおいた三峯信仰も、次第に「都市化」の様相を示してゆく。都市化、という意味合いは、山里では重要であった「猪鹿除け」が消え去り、「火ぶせ(火難)よけ・盗賊よけ」が江戸をはじめとした都市で三峯信仰の中心となってくる、ということ。都市化への展開要因として木材生産に関わる生産・流通の進展が大きく影響する、との説もある(三木一彦先生)。江戸向けの木材伐採が盛んになった大滝村で三峯山が村全体の鎮守、木材生産に関する山の神としての機能が求められたことを契機にして、三峯信仰が浸透したと言う。秩父観音霊場の普及は秩父の絹織物の生産・流通と大いに関係ある、ともどこかで見たような気もする。信仰って、なんらかの政治・経済的背景があってはじめて大きく展開する、ってことは熊野散歩のメモで書いたとおり。

■石像一里観音菩薩_13時39分;標高1,525m
先に進むと「十文字峠方面」と「千曲川源流地標」への分岐の標識がある。千曲川源流点にはここから東沢を上り、更に上流で西沢に乗り換え標高2,200mの源流点へと進むのであろう。
「十文字峠方面」に道をとり、標識から100mほどで東沢に架かる「千曲川源流挟霧橋」を渡り、東沢の一筋東の沢に沿って先に進む。沢を覆う苔むした原生林の中を進むと「石像一里観音菩薩」。栃本から梓山までの六里六丁、26キロの十文字峠道に一里ごとに里程観音が佇む。江戸時代の享保年間のもの、と言う。通常、この観音は栃本から見て「五里観音」ではあろうが、信州側の川上村からみて「一里観音」としているのであろう。標識には「川上村教育委員会」とあった。納得。





■水場_14時32分;標高1,766m

道なのか沢の岩場なのか、いまひとつはっきりとした道筋はわからないながらも、道筋を示すリボンを頼りに先に進む。「上りあと一時間半」といった木にぶら下がった案内を見やりながら進む。苔が誠に美しい。
沢も次第に細くなり、倒木の多い一帯をクリアすると、また一層苔の美しい一帯に入る。標高1,680m辺りで沢が見えなくなってしまうが、水場はその更に上の標高1,766m地点にあった。ブルーの生地に「水」と表示されている。脇に確かに水場があった。

■八丁の頭_14時51分;標高1,917m

水場から先は勾配が急になる。険路なのだろうか残置ロープなどが残されている。この辺りが「八丁の坂」であろう。次第に空が開けてくる。もう尾根も近くなってきた。
「八丁」は「八町「」。およそ872m。「八丁」は「胸突き八丁」から。元は富士登山で頂上近くの険しい八丁の道から、とか。それが富士以外の山でも使われるようになった。先日歩いた四国札所44番の大宝寺から45番の岩屋寺に辿る山道にも「八丁の坂」と呼ばれる険しい山道があった。




■十文字峠_15時25分:標高1,963m
尾根筋に入っても、ピークを通ることなく巻いて道は進むようだ。尾根筋を30分程度進むと大文字峠に到着。奥秩父の主峰甲武信ヶ岳から北に延び、長野と埼玉を分ける尾根は三国峠で群馬に至るが、その手前の大きなたわみが大文字峠。通常の峠に見られるような切り通しや鞍部になった明瞭な峠ではなく、峠を境に下る道もない。峠はコメツガの森が覆い、わずかに明るい広場があるといったもので、峠と言うよりも尾根の少し低くなったところ、といった案配である。
x大島亮吉はその著『登高者;秩父の山村と山路と山小屋と』の中で、十文字峠を「この古い、むかしは中仙道の裏道として峠をこす旅人のゆきかいもはげしかった峠路。その古びたもののみのもつ雅韻を帯びた、影ふかい峠路。その七里にわたる里程から、その峠の高さから、その古さから、そのうつくしいふたつの山村のあいだをつなぐことからみて、十文字峠はこの山脈のうちで、どうしてもわたくしから はなれがたいものである。
五月にそこをこえれば、渓々のどこからも若葉の層がむらむらと、それをゆする青い山風のかおりもほのかに、人の匂いもない、森閑とした深山の峠路を飾る、わびしくも、きよい石楠花と花躑躅の花の祭りを見ては、山を越える旅者の胸もその花の精神に染められてしまうだろう」と描く。

十文字小屋l15時26分;標高1971m
峠を離れ十文字小屋に。本日の宿泊先であるこの山小屋には、我々のパーティの他、出版社と書店勤務のご夫妻と、地衣類の研究者3名。道すがら原生林の木の根元を覆う美しく分厚い苔の景観に魅了されていたこともあり、薪のストーブを囲んだお話は誠に楽しかった。曰く、東京都では石原都知事が実施した排ガス規制で苔が蘇生してきている、曰く、北海道や白神山地の苔は危機的状況にあるが、それは中国大陸か流れてくる排ガスの影響?などなど。ランプの宿での夕食の賄いを美味しくご馳走になり、早々に寝床に入る。暖房の無い山小屋であり、寒さに震える。布団もあるようなので、寝袋は不要かと、シュラフカバーだけしか持ってこなかったことを少々後悔。それでも自身の体温で次第に暖もとれてきて、眠りにつく。

十文字峠を実際に歩くまでは、この峠道は秩父と信濃を結ぶ物流の道であり、また信仰の道として、往昔より人々の往来があった往還道であり、それゆえにその道筋を辿ってみようと思っていた。このような歴史のレイヤーを想いながら散歩をはじめたわけだが、田部重治が描いたように「蜿蜒として連なる峠道は、やがて幽邃(ゆうすい)なる樹木に蔽われ、峠の真中頃は針葉樹林ふかく、林間には苔がぶくぶくしてあたりは掃き清められたように綺麗である」、と、誠に美しい原生林の一帯であった。明治になりスポーツとしての近代登山、山旅としての登山を切り開いた木暮理太郎、田部重治、そして大島亮吉氏などが奥秩父の自然に魅了され、名文をもって描いた奥秩父の魅力の一端に触れた1日であった。


今年も例年の如く、田舎の愛媛県新居浜市の「新居浜太鼓祭り」に帰省。高校を卒業し、大学。そして社会人になり、還暦を大きく過ぎた現在に至るまで、祭りをパスしたのは、大学を休学して3年ほど海外を放浪していたとき、子供が祭り前日に生まれたときと、オーストラリア出張のときを除き「ほぼ皆勤賞」。日本三大喧嘩祭りなどと呼ばれているようだが、今年も派手に太鼓台の鉢合わせが行われた。
それはともあれ、祭り帰省に合わせ、「お四国さん」を辿ることにした。我々愛媛で育ったものは、四国八十八カ所やそこを辿るお遍路さんのことを、まとめて「お四国さん」と呼ぶ。こどもの頃に悪さをすると、「へんど(お遍路さんのことを「へんど」と呼んでいた)にやるぞ(連れて行ってもらう)」と叱られると、その怖さのあまり、悪戯をやめたものである。
そのお四国さんのうち、今回は前々から気になっていた第45番の岩屋寺を訪ねることにした。岩屋寺は時宗の開祖・一遍上人の「一遍上人聖絵」などにも登場し、奇岩・大岩壁に口を開けた「岩窟」に石仏が祀られる山岳修行の道場。それが如何なる風情か遍路道を辿り、実際に目にしたいと思った。
ルートを調べるに、国道33号線沿いの久万高原町役場近くにある第44番大宝寺から山道・野道を通る遍路道を12キロほど歩けば第45番・岩屋寺に着く。その先の第46番の浄瑠璃寺は国道33号の三坂峠から山道に入り、県道207号をずっと下った松山市にあり、遍路道も結局は岩屋寺からは一度第44番の大宝寺のある辺りまで戻ってこなければならないようである。
ということで、今回のルートは遍路用語では「打ちもどり」とも呼ばれる、第44番大宝寺から第45番岩屋寺間のピストンルートとした。その距離、往復で20キロ弱。5時間ほどの行程。もっとも、岩屋寺の辺りからは大宝寺方面へと1日2便。午後には1時5分発のバスがあるので、うまくゆけば帰りはバスを、との計画とする。メンバーは四国の山を歩き倒している弟と娘と私の3人。新居浜市から久万高原町の大宝寺までは2時間ほどかかるので、家を7時過ぎに出発。一路久万高原へと向かった。



本日のルート;国道33号・三坂峠>久万高原町>第44番札所・大宝寺>菅生峠・峠の御堂>有枝川・下畑野川の合流点・河合地区>>狩場地区>八丁坂>尾根道>第45番札所・岩屋寺>伊予鉄バス・岩屋寺バス停>伊予鉄バス・大宝寺バス停

三坂道路
新居浜を出て、松山自動車道で松山インターに。そこから国道33号を久万高原へと向かう。砥部焼で知られる砥部を越えると国道33号は三坂峠に向かって上ってゆく。途中、トンネルをくぐり、道がくるりと一回転した先に「三坂道路」の標識があった。
三坂道路は最近出来たものなのか、四国に住む弟も知らないとのこと。どこに続くのかわからないためパスしてしまったが、この道は屈曲・急勾配の続く国道33号三坂峠越えのバイパス道として建設されたものであり、2012年の3月に全線開通したばかり、とのこと。「三坂道路」の標識があった松山市久谷で国道33号と分かれ、ふたつのトンネル、8つの高架橋で三坂峠を迂回する。久万高原側の第一三坂トンネルは3キロ、松山側の第二三坂トンネルは1.3キロ。三坂峠の山腹を穿った全長8キロ弱の三坂道路は久万高原の東明神で国道33号に合流する。この道を通れば楽に久万高原に行くことができただろうが、後の祭りではある。

三坂峠_標高720m
「三坂道路」をパスし、国道33号の急勾配ワインディングロードを進むと三坂峠。標高720mの峠は松山市と上浮穴郡久万高原町の境にあり、瀬戸内海と太平洋水系の分水嶺ともなっている。北に流れる重信川水系の三坂川は瀬戸内海に、南に下る仁淀川水系の久万川は太平洋へと注ぐ。

ところで三坂峠、であるが、この地に限らず「みさか」を冠した峠は多い。太宰治の「富士には月見草がよく似合う」で知られる甲斐・駿河国境には御坂峠がある。昨年、信越国境・塩の道を辿ったとき、地蔵峠ルートには三坂峠があった。
御坂、三坂、神坂、見坂、美坂、深坂などと表記は様々であるが、もとは「神(かみ)の坂=みさか」とされ、古代において祭司が執り行われたところ、と言う。古代東山道の濃信国境の「神坂峠」が「科野坂・信濃坂」と呼ばれたように、古代は「峠」を使わず通常「さか(坂)」が使われていた。さ=滑りやすい、か=場所、の意味である。古代に「峠」が使われなかったのは、その言葉がなかったため。「峠」という国字(日本で独自に作られた漢字)が登場した次期は、室町時代とも鎌倉時代とも、平安時代末期とも言われ、正確にはわかっていない。「たむけ=手向け」をその語源とし、道中の安全を祈って手向け=神を拝む、の意をもつ「峠」ではあるが、「山の上、下」とは言い得て妙である。

久万高原町_標高490m
三坂峠を越え、久万高原町に向かって道は下る。標高720mの三坂峠から、東明神で「三坂道」を合わせ、西明神を経て標高490mの久万高原町の町役場辺りまで、比高差340mを下ることになる。
久万高原町は平成16年(2004)、上浮穴郡久万町、面河村、美川村、柳谷村が合併してできた町。面積は県内市町村で最大である。久万の地名は、名物「おくま饅頭」にその名を残す「おくま」婆さん、三坂峠を越えてきた旅の僧・弘法大師をお饅頭でもてなした「おくま」婆さんに由来する、とも言われる。お話としては面白いが、実際のところは、この久万高原町、仁淀川上流域一帯が室町の頃より、「久万」と呼ばれていたことに由来するのが妥当なところだろう。
「くま」とは、紀州の熊野と同じく、「山と山に挟まれた奥深いところ、隈」の意。『紀伊続風土記』によると、「熊野は隈にてコモル義にして山川幽深樹木蓊鬱なるを以て名づく」、つまり、鬱蒼たる森林に覆い隠されているためという。あるいは、死者の霊がこもる場所とも解釈される。
また、五来重氏によれば;死者の霊魂が山ふかくかくれこもれるところはすべて「くまの」とよぶにふさわしい。出雲で神々の死を「八十くまでに隠りましぬ」と表現した「くまで」、「くまど」または「くまじ」は死者の霊魂の隠るところで、冥土の古語である。これは万葉にしばしば死者の隠るところとしてうたわれる「隠国」とおなじで熊野は「隠野」であったろう。熊野は「死者の国」である、とする。
現在は道路が走り、人の往来も容易になってはいるが、往昔の久万は、山川幽深樹木蓊鬱な一帯ではあったのだろう。


(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平23業使、第631号)」)

第44番・菅生山大宝寺_午前8時45分;標高550m
国道33号・久万中学前交差点、「おくま饅頭」の店舗を目安に左に折れる。店舗の国道を隔てた逆側に、空海にお饅頭を接待したと言う「おくま」婆さんを祀る「於久万(おくま)大師堂」があったようだが、見逃した。
少し進み、久万川手前の道を右に折れ、総門橋で左に折れ橋を渡る。橋の先にある総門をくぐると大宝寺の駐車場。駐車場脇に古びた地蔵堂が佇む。ここに車を停め、第45番岩屋寺へのピストン「歩き遍路」を開始する。
勅使橋を渡り、種田山頭火が「お山は霧のしんしん大杉そそり立つ」と詠んだ杉の大木が並ぶ参道を進む。道脇にささやかな観音堂、大師堂、地蔵堂。参道脇に「陵権現」があったようだがこれも見逃した。成り行き任せの散歩のため「後の祭り」が多いのだが、今回もさっっそくふたつの旧跡を見逃してしまった。
それはともあれ、勅使橋と陵権現は後白河法皇ゆかりのもの。12世紀中頃の保元年間、後白河法皇が病気快癒を祈願し成就。ために、その「御礼」にと伽藍を再建。勅使をたてて帝の妹宮をこの寺の住職に任じた。勅使橋の名前の所以である。また、妹宮はこの地で他界され、堂宇と五輪塔を建てた。「(姫宮の)陵権現」がそれである。写真で確認しただけではあるが、風雪に晒された古びたお堂、と見える。

参道を進み寺標石を見やりながら進むと仁王門。巨大な草鞋がぶら下がっている。「歩き遍路」を迎えるものであろう、か。百年に一度取り替えられる、とか。

仁王門をくぐり宝筐印塔や不動明王を見やりながら参道石段を上る。石段脇には山頭火の歌碑。「朝まゐりはわたくし一人の銀杏ちりしく」、と刻む。山頭火は昭和14年(1939)に巡礼に訪れたようである。
石段を登ると本堂、興教大師堂、観音堂、鐘楼、そして少し右に大師堂護摩堂が並ぶ。一段低いところに本坊と納経所、それと修行大師像がある。
興教大師とは、真言宗中興の祖である興教大師覚鑁上人(こうぎょうだいしかくばん)のことである。見逃してしまったが、境内には、寛保3年(1743)芭蕉翁50回忌に建立された芭蕉塚「霜夜塚(しもよづか)」があり、芭蕉の句「薬のむさらでも霜の枕かな」が刻まれている、とか。

第44番菅生山大宝寺。真言宗豊山派。本尊は十一面観世音菩薩。縁起によれば、その昔、明神右京・隼人という兄弟の狩人がこの地で十一面観世音菩薩を発見し捧持、安置したのがはじまり、とか。また、大宝元年(701)百済の僧が渡来し、この地にお堂を建て、奉持した十一面観世音像を安置したのが始まり、との説もある。
何故に「狩人」が唐突にも登場するのか?少し気になりチェックすると、四国八十八カ所の縁起には「狩人」が登場するケースがいくつかある。そしてそれは、熊野権現御水垂迹縁起に関係ある、との説があった(『巡礼と遍路;武田明(三省堂選書)』)。熊野権現御垂迹縁起によると、「唐の国から、九州の弥彦、四国の石鎚などを経て熊野本宮の大湯原の大木に天下った熊野権現は、獲物を追ってきた狩人の前にその姿を現した、と言う。





熊野権現御垂迹縁起の影響なのかどうか定かではないが、弘法大師・空海にまつわる高野山開創伝承にも狩人が登場する。『金剛峯寺建立修行縁起』によれば、空海が修行の地を求めて探し歩いていたとき、大和国宇智郡(現在の奈良県五條市)で、犬をつれた狩人に出会う。空海は狩人に告げられるまま犬の後を追うと、紀伊国天野(現在の和歌山県かつらぎ町)で土地の神である丹生明神(にうみょうじん)が現れる、空海は丹生明神から高野山を譲り受け、伽藍を建立することになったというストーリーだが、この狩人は実は狩場明神であり、山の神である丹生明神を祀る祭祀者であった、とのこと。高野山では狩場明神(高野明神とも)と丹生明神とをその開創に関わる神として篤く敬っているとのことである。聖なる山に異国の神である仏教伽藍を創建するに際し、地元の山の神に「礼を尽くした」ということではあろう。ともあれ、狩人の「謎」は少し解決。

開基の縁起と同様、大宝寺の名前の由来も諸説ある。文武天皇の勅願寺となり、時の年号をとって大宝寺と名づけられた、との説。弘仁年間(810‐24)弘法大師がこのお寺を訪れ、密教の修法を厳修し堂塔を整え、開創された年号をとって大宝寺と号した、との説もある。
寺名の由来はともあれ、後白河法皇の勅願寺として庇護を受けるなど、その後寺運も栄え、山内には 48坊が建ち並ぶも、16世紀後半の天正年間、 長曽我部軍の兵火で 伽藍は焼失するも、松山藩主・加藤嘉明の家臣である佃次郎兵衛などの寄進もあり元禄年間に再興された。
寛永15年(1638)8月には、大覚寺の宮空性法親王が、この大宝寺から出発し、その年の11月に打ち戻る四国遍路をおこない、『空性法親王四国御巡幸記』を残している。また、寛保元年(1741)の飢饉は久万の百姓3000人 が一揆を起こし大洲に逃散。藩の依頼により時の住職の説得によって一人の断罪者もなく無事帰村させた。天明7年(1787)、土佐藩紙漉一揆の時も農民がこの寺に逃げ込み、土佐藩は住職と折衝して事態の収拾をはかるほどの名刹であった、とか。明治7年大火によって堂塔を失ったが、その後、本堂、大師堂 その他のお堂が再建された。
御詠歌 今の世は大悲のめぐみ菅生山 ついには弥陀の誓いをぞ待つ

峠の御堂_午前9時18分;標高737m
仁王堂に戻り参道脇の道標に従い、峠の御堂へと向かう。きれいに間伐された杉の林を進む。久万地方は林業が現在でも息づいているようである。最高温度32度、最低温度マイナス15度、年間平均15度、降雨量年間だ2200ミリ、と杉の生育条件に恵まれている、と言う。
道を進むと「河合2.4キロ」の標識。河合は峠を越した有枝川の谷筋の集落である。石の遍路道碑を見やりながら先に進むと次第に坂が急になる。結構きつい。峠までの直線距離500mを180mほど坂を上ることになるわけで、勾配18度弱というところだろうか。

峠にはささやかな石の祠があり、中に石の仏が佇む。これが峠の御堂だろう。仏に一礼し峠を下る。杉の林の中の道を進むと石積みの祠に仏が佇む。直線距離500mを140mほど下ると、峠御堂隧道脇に出る。道脇に「林道 菅生峠御堂線」とあった。ということは、峠は「菅生峠」、ということだろう。峠御堂隧道は全長630m。竣工1974年。開通2000年。大宝寺辺りから旧県道12号が通っていたが、大宝寺から畑野川に至る峠御堂付近は自動車通行不能区間となっていたようである。地図を見るに、この隧道ができるまでは久万の町と河合との往来は峠を歩くか、久万の町の南の宮ノ前まで下り越ノ峠を経て有枝川の谷筋に下り、そこから川筋を北上したのではあろう。隧道ができて往来は至極便利になったように思う。

河合の住吉神社_午前9時45分;標高533m
峠御堂トンネルから河合の集落までのおおよそ1キロは県道12号を歩く。河合はその名前が示すとおり、有枝川と下畑野川の二つの川が合流する地点にある集落。この集落にはかつて遍路宿が15軒もあり、一晩に300人もの客が泊まったという。第45番札所から第46番札所へはピストン順路として再びこの集落に戻ることになるため、その「打ちもどり」で賑わった、とか。
集落に立派な構えの住吉神社があった。伊予旧記には、「厳宮住吉大明神として古殿宮の称号あり」と記載されている、とか。大阪堺の神官が奉じていた住吉の神を畑野川村の鎮守として勧請し、上畑野川岩川の地に創建されたが、天文16年(1547年)に現在地に移った。一見「能舞台」の様なオープンなつくりの拝殿は印象的。比翼形神明造の本殿も壮麗なつくりである。県天然記念物に指定されているカヤをはじめ、杉や檜で覆われる境内には丸い玉に乗った狛犬が佇んでいた。

県道12号・旧土佐街道
峠御堂から辿ってきた県道12号は、現在の国道33号が開通する以前、伊予と土佐を結んでいた土佐街道・松山街道の道筋のようだ。歴史は古く、百済が滅亡した662年に開かれた久万官道に遡る。その道筋は、松山から久万まではおおよそ現在の国道33号に沿ったもの。久万からはこの県道12号筋を進み、直瀬川に沿って七鳥まで下る。そこから国道494号の道筋を東へと進み池川、そして大崎に到りて国道33号の道筋と合流。
地図を見るに、愛媛と高知の県境となる明神山、雑誌山、二箆山の東の谷筋を通のが土佐街道、西の谷筋を通るのが国道33号となっている。国道33号の道筋と合流した後は、仁淀川に沿って佐川、伊野を経て高知へと至る。
因みに、国道33号はその前身を明治に遡る。明治19年(1886)、「四国新道」計画としてスタート。香川の丸亀を起点として、多度津、琴平、池田、高知へと進み、高知より西進して佐川、三坂峠と続き松山に至る270キロの新道建設であった。四国新道は明治27年(1894)に完成。昭和20年(1945)に国道23号、昭和27年(1952)に一級国道33号となった。国道33号の最大の難所である三坂峠の改修を終えるのは昭和42年(1967)になってからである。

狩場
小川に沿って県道12号を進む。この辺りの地名は「狩場」とある。上でメモした、弘法大師・空海にまつわる高野山開創伝承に登場する「狩場明神」に関係があるのかどうか不明ではある。が、そうあって欲しいとの想いは強い。
県道12号を先に進むと、ほどなく小橋があり、その脇に「遍路道」の案内がある。橋を渡り野の小径といった風情の小径を進む。「45番岩屋寺5.4キロ 44番大宝寺3.5キロ」、「岩屋寺5.0キロ」といった道標を見やりながら畑の畦道といった野道を進むと「八丁坂 45番岩屋寺」の案内が出る。ここからは農道といった簡易舗装の道を進む。「八丁坂2.1キロ」といった道標を過ぎると一度県道をかすり、ほどなく道標が現れ山道へと入る。
沢に沿って山道を進み、直線距離500mほどを標高560mから640mまで上げる。途中には「出会う遍路びと 人生も旅の途中かな」などと書かれた短冊のような遍路札(勝手な命名)が木にいくつもぶら下げられている。ここが八丁坂かと思ったのだが、ピークから一度600m辺りまで下り、一度森が開けた先に「八丁坂0.4キロ」の道標が現れる。八丁坂はまだ先であった。林道を進むと古岩屋浄水場。そこから沢に沿って580mあたりまで下り切ったところで道は沢を離れ南に急な上りとなる。ここからが八丁坂のはじまりである。

八丁坂の入口_午前10時56分;標高578m
八丁坂の上り口に案内:「昔の人は、この2,800mの坂道を修行のへんろ道として選んだ。弘法大師が開いた岩屋寺は、霊場中最も修行に適した場所であるから、参道は俗界を行かず峻険な修行道として八丁坂を「南無大師遍照金剛」を唱えながら上りました」とある。

○南無大師遍照金剛
「南無大師遍照金剛」って、「南無」は「帰依し奉る」、「大師」は弘法大師・空海のこと。「遍照金剛」も空海の灌頂名であり、大日如来の別名でもある。空海が中国で真言密教の教えを受け、その最後の仕上げである灌頂と言う儀式が行われた時、目隠し・合掌した手に花を持ち、仏さま、如来さま、菩薩さまの書かれた曼荼羅の上にその花を投げ、仏さまとの縁を結ぶ「投華得佛」がおこなわれるわけだが、その儀式において空海は二回投げて、二回とも大日如来の上に投げられたのがその所以、とか。

○大師
ところで、「大師は弘法にとられ太閤は秀吉に取られ」とのフレーズがある。大師と言えば弘法大師空海との印象が強いのだが、大師号を持つ徳の高いお坊様は二十数名いるし、日本ではじめて大師号を受けたのは最澄こと伝教大師の弟子である円仁である。
大師号は入定(なくなって)して後に朝廷より与えられるもの。円仁の入定年は864年。大師号を受けたのが866年。最澄の入定年は862年。大師号を受けたのが866年。と言うことは、円仁は最澄とともに大師号を受けた、ということ。一方、空海の入定年は835年。大師号を受けたのが921年。大師と言えば、の空海が大師号を受けるのに、結構時間がかかっているのが意外ではある。どういったポリテックスが働いた結果なのだろう。また、それでもなおかつ、大師=空海となっていったプロセスなど、好奇心がくすぐられる。そのうちに調べてみたい。

八丁坂の頭_午前11時17分;標高724m
直線距離で300mほどを標高580mから724mまで一気に上る。誠、胸突き八丁といった急坂であった。20分程度坂を上り八丁坂が尾根道に上り切ったところに「八丁坂の茶屋跡」の案内。「ここは野尻から中野村を経て槇ノ谷から上がる「打ちもどり」なしのコースとの出合い場所です。槇ノ谷は、昔、七鳥村の組内30戸程の人たちが、この道こそ本来のコースでることを示そうとの意気込みをもって、延享5年(1748)に建てた「遍照金剛」と彫った大石碑が建っている」とある。
地図でチェックすると、大宝寺の南に野尻がある。そこから宮ノ前、越ノ峠(こしのとう)を経て有枝川の谷筋の中野村に出る。そこから北東へと沢を進みヌダノ峠を経て尾根道をこの地へと進むのが打ちもどり」なしの道筋のことだろう、か。
「打ちもどり」なし、と言うことであるとすれば、大宝寺と岩屋寺をピストンするコースではないのだろうから、大宝寺の前の第43番明石寺からの遍路道を見るに、番明石寺から久万には、内子を経て、小田川を進み町村で大平川筋に乗り換え、真弓峠、下坂場峠を越えて二名川筋に下り、鶸峠(ひわだとうげ)を経て久万へと下りてくる。そこから第44番の大宝寺に進むことなく、この「打ちもどり」なしの道筋を第45番岩屋寺に進み、第44番大宝寺へと「逆打ちした」、ということだろう、か。全くの想像。根拠なし。

尾根道
「遍照金剛」と彫った大石碑を見やり、八丁の頭の茶屋跡で出会った歩き遍路としばし会話し、杉の木立の中、馬の背を越え尾根道を辿る。「岩屋寺まで1.9キロ」といったところである。
アップダウンを繰り返し、時に南に開ける場所から山並みを眺めたり、道脇の木の根っこや路傍に佇む石仏を見やりながら進む。標高のピークは750m程度であるので、快適な尾根歩きではある。峠の茶屋跡からおおよそ30分で750mピークに到着。ここからは岩屋寺のある標高580m地点に向かって下ることになる。

第45番岩屋寺_ 12時15分;標高577m
○三十六童子遍路道を岩屋寺へと下り、「44番大宝寺へんろ道 せりわり(白山)行場」の案内があるあたりから、「三十六童子 行場」と書かれた青い上りが見えてくる。三十六童子とは密教の根尊である大日如来の化身である不動明王の眷属である。八大童子が従う場合もあるが、通常は八大童子のうち矜羯羅童子(こんがらどうじ)と制多迦童子(せいたかどうじ)を両脇に従えた三尊で現れることが多く、これを不動明王二童子像または不動三尊像と言う。それはともあれ、この岩屋寺には北の金剛界峰、南の胎蔵界峰と呼ばれる岩尾根に囲まれた谷筋に三十六童子が侍り不動明王を護る。










○せりわり行場
「せりわり(白山)行場」に向かって坂道を下ると、道脇に普香王童子、善爾師童子が佇む。童子だけでなく金剛夜叉明王、大威徳明王といった石仏も見える。明王とは大日如来の命を受け、民衆に仏法帰依をひろめる任を担う仏尊である。坂を下りながら見やると10体ほどの明王が見て取れた。
ジグザグに道を下ると「せり割行場」に到着。文字通り岩塊が割れている。巨大な岩場の下に立つ真っ赤な不動明王にお参り。案内によると、「開山の法華仙人が、弘法大師に通力を見せた跡と伝えられます。岩の裂け目を鎖と梯子でよじ登り頂上の白山大権現に詣でます。山岳修験者達の古くからの行場で、山岳重畳の眺望をほしいままにし、はるかに石鎚を望むこともできます」、とあった。
岩の裂け目にはロープが垂れており、如何にも岩場を上る、といった風情ではあるのだが、入口には門があり、しっかりと施錠されており中に入ることはできなかった。後からわかったことなのだが、納経所で鍵を頂けば中に入れた、とのこと。とはいいながら、鎖禅場などと称され、ロープや梯子で岩場をよじ登り尖峰にある白山権現に参るには、高所恐怖症の我が身には少々荷が重かった、かとも思う。
栗田勇の『一遍上人;新潮文庫』によれば、「巌と巌の間に、身ひとつ、やっと通れるほどの割れ目が天から生じ、「迫割(せりわり)」と言う。「その姿形は、地母神への胎内回帰の原始信仰に通じるものがある」、と。

○多羅多門
佛守護童子、法守護童子、僧守護童子などを見遣りながら坂道を下り、更に道脇の幾多の童子、孔雀明王などにお参りしながら先に進むと多くの童子に囲まれた不動明王の石仏に出会う。
岩肌の下を辿り、道脇の童子、明王に一礼しながら坂を下ると古き風情の門がある。門の手前に案内があり、「第45番岩屋寺 弘法大師以前に法華仙人という女修行者が籠っていたといわれます。鎌倉時代、一遍上人が参籠したことで有名です。四国巡拝の道筋が南予の海辺から瀬戸内の海岸へ移る転回点を占めています」、とあった。

○法華仙人
弘仁六年、弘法大師がこの地を訪れた頃、この怪岩奇峰の深山には、岩窟に籠るなどして、法華三昧を成就、空中を自在に飛行できる不思議な神通力をもった法華仙人と称する土佐の女人がいた。この法華仙人は大師に帰依し、一山を献じて大往生をとげた。そこで大師は木像と石像の二体の不動明王を刻み、木像は本堂へ、石像は奥の院の秘仏として岩窟に祀り、全山をご本尊の不動明王として護摩修法をなされた、と。先ほど歩いてきた、36童子が佇む金剛界峰、胎蔵界峰に囲まれた全山が不動明王そもののであった、ということであろう、か。
法華仙人については、『一遍上人;栗田勇(新潮社)』「仙人は又土佐国の女人なり」と女身の仙人譚が現れる。そこに、迫割の女胎回帰という原始信仰の痕跡をみることは自然であろう」、とあった。






○一遍上人
案内に「一遍上人が参籠したことで有名です」とあるように、今回お四国さんの歩き遍路の手始めに岩屋寺を選んだのも、「一遍上人聖絵」にあった「菅生の岩屋」の絵が印象的であった、からである。
『一遍上人;栗田勇(新潮社)』には、;大師練行の古跡であるこの菅生の岩屋こと、岩屋寺に一遍上人はおよそ6ヶ月参籠し、「いわゆる既成仏教からおおきくはみ出した、在来の日本人の原始的宗教体験に直接的に参入し」「不動や観音や権現に護られて苦行を続け」、「一宗一派を捨て、寺家を捨て」「一口にいえば、ここに行者、聖=ひじりとしての決意が固まった」、とある。遊行の聖である一遍上人再生の地がこの岩屋であったのだろう。

○大師堂・本堂・仙人堂
多羅多門をくぐると大師堂、本堂、そして大岩壁の中腹に「仙人堂」などが見える。現在の本堂は昭和2年(1927)の再建。大正9年(1920)再建の大師堂は国の重要文化財に指定されている。
大師堂、本堂にお参りをし、大岩壁の中腹にある仙人堂に架かる梯子を上る。「一遍上人聖絵」に本堂脇から峻険な巌の中腹に開く洞窟に続く梯子、そしてその洞窟にある仙人堂の絵があるが、この梯子がそれであろう。仙人堂への垂直の梯子に取り付く。怖いながらも、それでも、行きはよいよい、ではある。が、岩窟に立つも「足元がゾンゾン」し、景色を楽しむ余裕もなし。早々にお堂を引き上げようにも、高所恐怖症の我が身には、誠に「帰りは怖い」の梯子下りとはなった。

○穴禅定
大師堂、本堂から一段下りたところに「穴禅定」。中は真っ暗。上下前方の感覚はまるで、なし。奥に灯る蝋燭の明かりを頼りに手すりや岩肌に手を添えて20m程進み、なんとかお参りを済ますことができた。独鈷の霊水があったとのことだが、文字通り、見逃した。「帰り道は少しは目が暗闇に慣れたのか、行きほどの漆黒の暗闇とはならなかった。独鈷とは大雑把に言って、杖のこと。

第45番海岸山岩屋寺。真言宗豊山派。本尊は不動明王。弘仁6年、弘法大師がこの地に練行のおり、「山高き谷の朝霧海ににて松吹く風を波にたとえん」と岩屋山の景観を詠んだことが山号・海岸寺の由来。海岸の岩壁といった景観もさることながら、四国遍路の特徴である海辺の辺路、山辺の辺路の特徴をあわせもい、また、山岳・霊地信仰や観音浄土を目指して船出してゆく補陀落渡海信仰といった山と海での信仰を併せ持つ四国遍路の特徴を著す山号ではないだろう、か。
栗田勇さんの『一遍上人』には、「一遍上人聖絵」を編纂した一遍の弟子である聖戒の岩屋寺の縁起として「ここは、観音顕現の霊地、仙人練行の古跡なり」とあり、続けて「安芸の狩人がこの峰で鹿を追い、矢を放ったところ、光る古木につきささった。見ると、何やら尊いもので、仏法を知らないが、自然自得して観音ということがわかった。そこで堂をたて、狩人は後に守護神となることを誓って野口の明神となった。用明天皇の世に、随文帝のきさきが懐胎のあいだに、霊夢を感じて、三種宝物をこの観音に捧げたという。その使いが止まって白山大明神となった」とある。ここにも狩人にからむ縁起が登場してきた。 地名は七鳥。三宝鳥、恋悲声鳥(ジュウイチ)、鉦鼓鳥(ホトトギス)、皷鳥(キジバト)、慈悲心鳥(ウグイス)、鈴鳥(キビタキ)、笛鳥(ヒヨドリ)の七種の霊鳥が住んでいたと言う故事から成るとのことではある。

神仙境とも見まがうこの地には、古来より修験者の練行の場であり、13世紀の末頃までは四十九院の岩屋、三十三所の霊窟などがそのまま残っていたと伝わる。いつの頃からか、第44番大宝寺の奥の院となっていたようだが、明治7年に普山するも、明治31年(1898)には仁王門と虚空蔵洞を残し諸資料共々、全山焼失。大正9年大師堂再建。昭和2年に本堂、9年に山門、27年に鐘楼を復興した。
ご詠歌;大聖のいのる力のげに岩屋  石のなかにも極楽ぞある

岩屋寺バス停_12時45分;標高442m
納経所からお堂のある踊り場を曲がり、御手洗川という小川に架かる極楽橋を渡り、お大師さまの像を見遣りながら進むと山門。さらに石段を下り、お土産屋をひやかしながら直瀬川に架かる岩屋橋を渡り、1時少し前に「岩屋寺前バス停」。1時5分発のバスに間に合ったので、ピストンはやめて伊予鉄バスに乗り、大宝寺で下車。大宝寺駐車場に置いた車に載って一路、実家の新居浜に戻る。

四国に生まれ、遍路とかお大師さまは身近な存在ではある。折に触れて札所を訪れたことも結構多い。とはいうものの、そのすべては車でちょっと立ち寄る、といったもの。本格的、というのはおこがましいが、所謂「歩き遍路」ははじめてである。結構いいものだ、と改めて感じた。
で、改めて遍路について考えるに、遍路のことはあまりよくわかっていない。散歩のメモをはじめ、八十八の霊場は弘法大師が開いた真言宗だけではない、ということがはじめてわかった。真言宗の他、天台宗が4寺、臨斎宗が2寺、曹洞宗が1寺、時宗が1寺もある。その他にも浄土宗、法相宗、国分寺は華厳宗、また神仏習合のお寺もある、と言う。四国八十八の霊場=弘法大師空海=真言宗、と思い込んでいただけに、新鮮な驚きであった。それではと、四国八十八の霊場、また遍路についてちょっと整理してみようと思う。
四国遍路の始まりは、平安末期、熊野信仰を奉じる遊行の聖が「四国の辺地・辺土」と呼ばれる海辺や山間の道なき険路を辿り修行を重ねたことによる、と言われる。『梁塵秘抄』には、「われらが修行せし様は、忍辱袈裟をば肩に掛け、また笈を負ひ、衣はいつとなくしほ(潮)たれ(垂)て、四国の辺地(へち)をぞ常に踏む」とある。
とはいうものの、四国遍路が辿る四国八十八カ所霊場は霊地信仰であって熊野信仰といった特定の信仰で統一されたものではないようだ。自然信仰、道教の影響を受けた土俗信仰、仏教の影響による観音信仰、地蔵信仰などさまざまな信仰が重なり合いながら四国の各地に霊場が形成されていった。それが、四国各地の霊場に宗派に関係なく大師堂が建てられ、遍路は大師堂にお参りする大師信仰が大きく浮上してきたのは室町の頃、と言われる。そこには遊行の僧である高野聖の影響が大きいとのことである。「辺地」が「遍路」と成り行くプロセスは、辺地を遊行する道ということから「辺路」となる。熊野の巡礼道が大辺路、中辺路と呼ばれるのと同じである。そして、辺路が「遍路」と転化するのは室町の頃、高野聖による四国霊場を巡る巡礼=辺路の「遍照一尊化」の故ではないだろうか。単なる妄想。根拠無し。
ところで、この霊地巡礼が八十八箇所となった起源ははっきりしない。平安末期、遊行の聖の霊地巡礼からはじまった四国の霊地巡礼であるが、数ある四国の山間や海辺の霊地は長く流動的ではあったが、それがほぼ固定化されたのは室町時代末期と言われる。高知県土佐郡本川村にある地蔵堂の鰐口には「文明3年(1471)に「村所八十八ヶ所」が存在した事が書かれている。ということはこの時以前に四国霊場八十八ヶ所が成立していた、ということだろう。遍照一尊化も室町末期のことであり、四国遍路の成立が室町末期と言われる所以である。

現在我々が辿る四国霊場八十八ヶ所は貞亭4年(1687)真念によって書かれた「四国邊路道指南」によるところが多い、とか。「四国邊路道指南」は、空海の霊場を巡ることすること二十余回に及んだと伝わる高野の僧・真念によって四国霊場八十八ヶ所の全容をまとめた、一般庶民向けのガイドブックといったものである。霊場の番号付けも行い順序も決めた。ご詠歌もつくり、四国遍路八十八ヶ所の霊場を完成したとのことである。
遍路そのものの数は江戸時代に入ってもまだわずかであり、一般庶民の遍路の数は、僧侶の遍路を越えるものではなかようだが、江戸時代の中期、17世紀後半から18世紀初頭にかけての元禄年間(1688~1704)前後から民衆の生活も余裕が出始め、娯楽を兼ねた社寺参詣が盛んになり、それにともない、四国遍路もまた一般庶民が辿るようになった、とか。
「四十九院の岩屋あり、父母のため極楽を現じ給へる跡あり、三十三所の霊窟あり、斗藪の行者霊験をいのる砌なり。おおよそ、奇厳怪石の連峰にそばだてる月法心常住のすがたをみがき、隂条陽葉の幽洞にしげれる風妙理恒説の韻をしらぶ」。「一遍上人聖絵」で描かれる菅生の岩屋の情景である。実際に目にした岩屋寺は、奇峰が天を突き、巨岩壁の中腹の岩窟に堂宇が佇む山岳修験の霊場であった。





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