2012年8月アーカイブ

綾瀬川も歩いた、古綾瀬川も辿った、草加宿も訪ねた。その他にどこか見所はと、地図を眺めていると、草加市の南西部、毛長川脇に毛長神社が目にとまった。いつだったか、足立区花畑の大鷲神社や毛長川に沿った伊興遺跡跡を彷徨い舎人へと向かったとき、毛長神社にまつわる伝説に出合った。美しき娘の入水自殺の伝説とその娘の髪を祀る神社に惹かれたのだが、如何せん時間がなく神社を訪れることができなかった。先回の散歩でも草加宿から伝右川を毛長川との合流点まで下ったのだが、毛長神社へと辿る気力は失せていた。
草加散歩の第三回は毛長川を訪れる。ルートは草加宿を離れ草加市域の南の谷塚辺りからはじめ、毛長川の北の瀬崎地区を彷徨う。その後、西へと折り返し辰井川を毛長川へと下り毛長神社へと進むことに。谷塚にしても、瀬崎にしても、如何にも「湿地」をイメージする地名である。もとより現在では湿地の痕跡など残るとも思えないのだが、往昔低湿地に覆われていたとされる草加の原風景の名残などないものかと、行き当たりばったりの散歩を楽しむことにした。



本日のルート;東武伊勢佐木線・谷塚駅>宝持院>大正実科学校跡>東武東上線と交差>浅間神社>善福寺>火あぶり地蔵>東武東上線と交差>辰井川>うさぎ田稲荷>山王社>大日堂>柳島氷川神社>辰井川>常福寺>細井家>毛長川と合流>毛長神社>泉蔵院>むじな大尽>いぼ地蔵>徳性寺>新里氷川神社>天王神社>西願寺>毛長川>見沼代用水親水公園>舎人諏訪神社>日暮里・舎人ライナー見沼代用水公園駅

東武伊勢佐木線・谷塚駅
草加駅のひとつ手前の谷塚駅で下車。大正14年(1925)に開設。開設当時、付近は一面の湿地帯であったようであるが、昭和37年(1962)、地下鉄日比谷線の乗り入れが始まると、都心に30分という地の利故に開発が進み、現在駅周辺に「谷塚」の示す湿地の面影はなにも、ない。

谷塚の由来は、谷=湿地+塚、より。湿地に塚がある一帯、ということだろう。実際、毛長川に沿った谷塚から瀬崎にかけては往昔多くの古墳があったようで、江戸時代後期に編纂された『新編武蔵風土記稿』や絵地図の『日光道中分間絵図』には古墳とおぼしき塚が記される。「旧跡 加賀屋敷 村の南の方畑中にあり。何人の住せしと云ことを知らず、ここに古塚あり、先年此塚下より古刀勾玉及白骨など掘出せしと云(『新編武蔵風土記稿』;瀬崎村(現草加市瀬崎町))、「小名 弁慶塚 此所の田間にかく唱ふる小塚あり。故に是を土地の小名とす(大日本地誌大系『新編武蔵風土記稿』;遊馬村(現草加市遊馬町)」、「小名 富貴塚 此所に古塚あり、来由詳ならず、塚上に稲荷を祀れり(『新編武蔵風土記稿;上谷塚村(現草加市谷塚上町)』、などとある。
足立区竹の塚の伊興古墳遺跡と毛長川を隔てた北の一帯は谷塚古墳群と称されるが、江戸末期の頃までにはすでに塚は切り崩されていたようで、現在発掘調査で古墳の存在が確認されたのは瀬崎にある蜻蛉遺跡だけであり、古墳群とは言うものの、ほとんどその名残をとどめない、とのことである。
先回の散歩でもメモしたように、毛長川は、古墳時代の入間川の流路跡、と言う。そして古墳時代の入間川は利根川水系の主流で、熊谷>東松山>川越>大宮>浦和>川口>幡ヶ谷、と下り、現在の毛長川に沿って流れ足立区の千住あたりで東京湾に注いでいた、とのことである。葛飾・柴又散歩のときにも、東京下町低地の二大古墳群は柴又あたりと毛長川流域とメモしたが、千住あたりが当時の海岸線である、とすれば、この毛長川流域は東京湾から関東内陸部への「玄関口」。交通の要衝に有力者が現れ、結果古墳ができても、なんら違和感は、ない。

宝持院
駅を下りてどこか散歩の手掛かりを探す。地図を見ると、西口を少し南西に200mほど下ったところに宝持院というお寺さまがある。文久4年(1864)に建てられた山門を、頭上の彫刻を見やりながら境内に入ると六地蔵。その先、参道の左右にお堂。右手が閻魔堂。左手が護摩(不動)堂。本堂にお詣り。真言宗のこのお寺様の創建葉不詳だが、江戸初期に建てられた、とのこと。手水舎の横に「谷塚小学校発祥の地」の案内。明治6年(1873)、谷塚小学校の前身である「下谷塚学校」が開校した。

大正実科学校跡
宝持院の前、現在は東武ストアの駐車場となっている辺りに、その昔、大正実科学校があった、とか。創立者は関藤十郎。各地で教鞭を執るも、大正6年(1917)、故郷である谷塚に戻り、村人の実務能力を養成する学校を設立した。修業年限は中学部・女学部が3年、専修化1年であった。
思うに、この大正実科学校は農家経営教育をおこなったのではなかろうか。どこかの学校での関藤十郎の祝辞に、「小生は貴校を辞して岐阜県の女子教育に従事し、在職満十年を同一学校に送り、郷里の事情と自己の素願とにより、断然退隠、大正四年故山に帰臥し、自家経営の傍ら私学を創設し」とある。また、あの「有名」なりし思想家・陽明学者である安岡正篤の日本農士学校の見学先に「北足立郡谷塚村 関藤十郎氏農家経営」、「大正護国農場設立稟吉 昭和2年 大正護国農場長 埼玉県北足立郡谷塚村大字下谷塚 正七位 関藤十郎」などとある。関藤十郎は自ら農場を経営しながら、農業経営のための学校を開いたのではなかろう、か。
この大正実科学校は昭和2年(1927)、財団法人松寿実業学校に併合される。この松寿実業学校とは大正7年(1918)、現在の谷塚上町に開校した私立中等学校である。辰井川が毛長川に合流する手前、氷川橋の辺りに跡地がある、と言う。
創立者は細井為五郎。私塾を開いていた細井は、大正6年(1917)に開校した男女別学の大正実科学校に刺激を受けたのか、切敷善吉氏とともに男子中等教育機関である松寿学館を設立。修業年数は普通科にあたる正科が3年、夜間科にあたる別科が8か月であり、定員は各50人であった。その後、公立の実業補習学校などの開設に影響を受け入学者が減少し、昭和2年(1927)には財団法人松寿実業学校と改称して大正実科学校を併合し、昭和6年(1931)年の廃止まで、近隣の中等教育を担った、と。

瀬崎
大正実科学校跡から、次はどちらへと考える。西へ進み草加バイパスを越えればすぐに辰井川につくのだが、本日はかつて湿地帯であった草加南部を辿るのも目的のひとつ。谷塚駅の東の「瀬崎」という、如何にも「水」のイメージの強い地区へと折り返すことに。因みに瀬崎の由来は、「瀬」は「流れ」、「崎」は「突き出た地形」。微高地が低湿地帯に西から東へと鏃のように突き出ていたから、とか。実際、瀬崎の境界を見るに、現在もその形状を残す。

富士浅間神社
東武伊勢佐木線を越え県道49号・旧日光街道の瀬崎浅間神社南交差点を北に折れ、谷塚駅入口交差点手前に富士浅間神社。社は道より少し小高いことろに建つ。古墳の跡地ではないか、との説もある。創建年次は不詳。『新編武蔵風土記稿』には「浅間社、村の産神とす。善福寺持」とある。神仏習合の頃、この神社の別当が善福寺であった、ということである。寺伝によると、「寛永4年(1627)の開基にして、他の場所に祀られていたのを、明暦年間(1655~1657)に、現在地に移建した」と伝えられる。本殿は天保13年(1842)再建とのこと。

浅間神社とは富士山を霊山として祀る山岳信仰の社。江戸時代、冨士講が盛んになった頃、此の地の布晒業者と地元の農民の協力で建てられた、とか。富士講とは霊峰富士への信仰のための講社。 講(こう)とは、同一の信仰を持つ人々による相互扶助組織、といったもの。御師のガイドで富士への参拝の旅にでかける。境内にはいくつかの社が祀られるが、それは明治の末に、周辺の九つの社を合祀したもの。

上で、この社は布晒業者の協力によって建てられたとメモした。この草加は「ゆかた」で知られる。県の伝統的手工芸品にも指定され、「東京本染ゆかた」のブランド名でも販売されている。草加のゆかたは江戸時代中期、大火で焼け出されてこの地に移り住んだ染色業者が草加近郊で紺屋を営み始めたときに遡る。江戸に近く、舟運に恵まれかつ豊富な水が手に入るこの地に、ゆかた生産に関わる晒業、形付業、白張業、運送業者が集まり栄えた、とのことである。

手洗石の高低測几号
鳥居の右手の境内に手水舎。慶応元年(1865)の銘の入った手水舎の石には、高低測几号(水準点)が刻まれる。案内によれば、「内務省地理寮が明治9年(1876)8月から一年間、イギリスから招聘した測量技師の指導のもと、東京塩釜間の水準測量を実施したとき、一の鳥居際(現在、瀬崎町の東日本銀行草加支店近く)の境内末社、下浅間神社の脇に置かれていた手洗石に、この記号が刻まれました。
当時、測量の水準点を新たに設置することはせず、主に既存の石造物を利用していました。市域でも二箇所が確認されています。この水準点が刻まれた時の標高は、三・九五三メートルです。測量の基準となったのは霊巌島(現在の東京都中央区新川)で、そこの平均潮位を零メートルとしました。
その後、明治17年(1884)に、測量部門はドイツ仕込みの陸軍省参謀本部測量局に吸収され、内務省の測量結果は使われることはありませんでした。
以後、手洗石も明治40年代(1907~1912)と昭和7年(1932)に移動し、記号にも剥落が見られますが、この几号は、測量史上の貴重な資料であるといえます(草加市教育委員会)」とあった。そういえば、先回散歩した草加宿の北端にあった神明社にも同様の高低測几号があった。

富士塚
本殿裏手に広場があるが、ここはもと「ひょうたん池」があったところを埋め立てた跡。今となっては低湿地の面影はなにも、ない。広場の先に浅間神社ならではの富士塚がある。
散歩の折々で富士塚に出会う。葛飾(南水元)の富士神社にある「飯塚の富士塚」や、埼玉・川口にある木曾呂の富士塚など、結構規模が大きかった。富士講は江戸時代に急に拡大した。「江戸は広くて八百八町 江戸は多くて八百八講」とか、「江戸にゃ 旗本八万騎 江戸にゃ 講中八万人」といった言葉もあるようだ。
富士塚は富士に似せた塚をつくり、富士に見なしてお参りをする。富士信仰のはじまりは江戸の初期、長谷川角行による。その60年後、享保年間(17世紀全般)になって富士講は、角行の後継者ふたりによって発展する。ひとりは直系・村上光清。組織を強化し浅間神社新築などをおこなう。もうひとりは直系・旺心(がんしん)の弟子である食行身禄。食行身禄は村上光清と異なり孤高の修行を続け、富士に入定(即身成仏)。この入定が契機となり富士講が飛躍的に発展することになる。
食行身禄の入定の3年後、弟子の高田藤四郎は江戸に「身禄同行」という講社をつくる。これが富士講のはじめ。安永8年(1779)には富士塚を発願し高田富士(新宿区西早稲田の水稲荷神社境内)を完成。これが身禄富士塚のはじまり、と伝わる。その後も講は拡大し、文化・文政の頃には「江戸八百八講」と呼ばれるほどの繁栄を迎える。食行身禄の話は『富士に死す:新田次郎著』に詳しい。

善福寺
富士浅間神社から谷塚駅からの道筋を挟んだ北側に善福寺。創建年代は不詳。明治の神仏分離令により神と仏が分離されるまでは、この真言宗のお寺さまは富士浅間神社の別当寺であった。『新編武蔵風土記』には「本尊弥陀は運慶の作、長一尺八寸許り」とある。
現在はお寺と神社は別物である。が、明治の神仏分離令までは寺と神社は一体であった、神仏混淆とも神仏習合とも言われる。それは大いに仏教界の勢力拡大のマーケティング戦略、か。膨大な教義をもつが外来のものであり今ひとつ民衆へのリーチに乏しい仏教界。日本古来の宗教であり古くから民衆に溶け込んでいるが教義をもたない神道。共同でのブランドマーケティングを行えば、どちらも繁栄する、とでも言ったのではないだろう、か。
で、その接点にあるのが権現さま、であろう。権現って、「仮」の姿で現れる、ということ。神仏混淆の思想のひとつに本地垂迹説というものがあるが、日本の八百万の神は、仏が仮の姿で現れた権現さまである、とする。因みに、「神社」って名称も、明治以降のもの。それ以前は、社とか祠、などと呼ばれていた。

火あぶり地蔵

旧日光街道を北に進み瀬崎町と吉町との境・吉町5丁目交差点脇に、「火あぶり地蔵」と呼ばれる地蔵堂がある。案内によれば、「昔、瀬崎の大尽の家に千住の孝行娘が奉公していた。母親の大病を聞いて帰宅を願い出たが許されず、悩んだ娘は奉公先が火事になれば暇がもらえると思って火をつけ、捕まって火あぶりの刑に処せられた。村人は娘を供養するため地蔵堂を建立した。『武蔵国郡村誌』によれば、明治初期には敷地面積が36坪程度あったという。お堂は瓦葺き・宝形造りの形式で、1956(昭和31)年に県道松戸草加線の拡張により改築された。堂内には2体の石造地蔵立像があり、1体には1776(安永5)年の年銘がある。毎月24日の縁日には堂が開帳され、参拝者がお参りにくる。かつては近くの河内堀に火あぶり橋という橋もあった」とある。また、この地は昔の処刑場跡とも伝えられる。

先回の散歩でもメモしたが、この地、吉原の地名は昔の地名である吉笹原の「吉」から採ってつくられた。吉笹原は江戸時代初期は吉篠原村と呼ばれ、その後、吉笹原村と改められた。1もともと芦や笹の繁る「芦篠原」と呼ばれていたが、「芦」という読みは「あし(悪)」につながるということで、「芦」をめでたい「よし(吉)」に変えたもの、とか。

河内掘
吉町5丁目交差点の西に用水路が開く。これが河内掘であろう。あれこれチェックするも、正確なことはわからないが、吉町5丁目交差点を東西に走る道路(交差点から東は県道5号、西は東武伊勢佐木線から西は県道104号とある)に沿って、西は新里町の毛長川から、東は八潮市の柳之宮橋辺りの綾瀬川まで続いているようである。 辰井川用水路は東武伊勢佐木線の手前で暗渠となる。県道104号・川口草加線に沿って西に進み国道4号・草加バイパスを越えると辰井川にあたる。川に架かる辰井橋の東西には排水口が見えるが、それは辰井川で分断された河内掘ではあろう、か。




で、この辰井川であるが、この川は人工の川。洪水被害軽減のため昭和56年(1981)から6年かけて開削された。水路のもとになったのは「辰井掘」。この流路は川口市から草加の苗塚町に入り、西町を経て谷塚町で河内掘に合流していた。幅は1.8mほどの用水であった、とか。辰井川は苗塚町から東へと西町方面に進む流路を南に変え、柳島町、谷塚上町、谷塚仲町を下り毛長川に注ぐ。

兎田稲荷神社
辰井橋で、次はどちらへ、と考える。このまま辰井川を下るのも少々芸がない。地図をチェックすると、北東に500mほどのところに兎田稲荷神社がある。名前に惹かれて訪れることに。
辰井川を北に進むと、水路は草加南高校敷地で暗渠となる。高校の敷地に沿ってクランク状に道を進み、宅地開発された住宅街を成り行きで進むと畑の残る住宅街の一角に兎田稲荷神社があった。鳥居をくぐりお詣り。この社は谷塚古墳群のひとつ、とも言われるが、円墳の面影を残すようでもなく、周辺の宅地開発の折、なにか遺物が発掘されたわけでもないようではある。
で、気になっていた「兎田」の名前の由来であるが、周辺に野兎が居たとの説と、此の地が旧谷塚村の飛び地であったため、との説があるようだ。飛び地>兎が跳ねる、ということ、か。少々想像力過多とも思うが、よくわからない。

柳島治水緑地
兎田稲荷を離れ、成り行きで辰井川筋へと戻る。橋の北に調整地らしき公園。少し北に進むと、川の東側に辰井川の洪水調整機能のために造られた柳島治水緑地があった。西半分が調整池、東半分が緑地(グランド)となっているようだ。

山王社
柳島治水緑地を離れ、次はどこへと考える。『埼玉ふるさと散歩 草加市;中島清治(さきたま出版会)』に県道103号沿いに三王社がある、とあった。川筋から少し東に離れ県道103号を少し北に進み、草加スカイハイツと呼ばれるマンション(草加市柳島町525-1)手前の角にささやかな山王社の祠があった。雨屋の中には明暦2年(1656)の庚申塔と寛文4年(1664)の供養塔が安置されている、とか。

此の辺りは柳島地区。柳島の由来は、『草加市史地誌材料編(明治10年代の地誌調べ)』には、「昔、泥沼ノ地ニシテ、老柳数千樹岡陸茂生シ遠ク此レヲ望ム所々蒼々トシテ柳樹ノ一島ノ如ク然ルニ何年ノ頃ニカ人民開墾シテ村落ヲ為ス故ニ村名ヲ柳島ト名付ケシト云フ」とある。




大日堂
県道103号(吉場・安行・東京線)を南に下り中柳島バス停脇に享保18年(1733)の青面金剛、天保12年(1841)の出羽三山権現など3基の石塔。その奥に享保6年(1721)の六体の地蔵と文政10年(1827)の馬頭観音が並ぶ大日堂があった。大日堂とは言うものの、雨露をしのぐ屋根があるだけではある。



柳島氷川神社
大日道から少し南に下り、県道103号を少し東に入ったところにある柳島氷川神社に立ち寄る。柳島の由来に「昔、泥沼ノ地ニシテ」とあったように、道筋に水路の暗渠が目に付く。成り行きで進み、宅地に囲まれた耕地脇の如何にも暗渠跡らしき道筋の先に柳島氷川神社があった。境内で地元の子どもが遊ぶ、ささやかな社ではあった。『風土記稿』に「氷川社、村内の鎮守とす。村持ち」とある。本殿の棟札に宝永4年(1707)造立とあるので、創立はこの時期とされる。

■辰井川を下る


辰井橋まで戻り、辰井川に沿って下る。橋の上に花壇が置かれがちょっとした公園の風情がある栄橋を越えると谷塚治水緑地。谷塚治水緑地は先ほどの柳島治水緑地と同じく、辰井川の洪水調整機能のために造られたものである。その先にはレンガと花壇を組み合わせた大沼橋。欄干の意匠に工夫をこらす丸野橋。高欄にひのきを使った蜻蛉橋。人造石を欄干の上に敷いた仲町新橋。そして 擬宝珠と朱塗りの高欄の氷川橋と続く。人工的に開削された辰井川に架かる橋は、それぞれその設置段階から意匠が施されることが計画されていたようである。

氷川神社・天満宮
氷川橋の西詰めにささやかな社。氷川神社・天満宮とあった。

常福寺
氷川神社の南にお寺様。創立は天正7年(1575)と伝わる。入口右手に青面金剛、参道の突き当たりに六地蔵。境内にはそのほか地蔵堂や鐘楼堂が並ぶ。市内唯一の曹洞宗のお寺さまである。

細井家の屋敷林
常福寺の南に鬱蒼とした緑。細井家の屋敷林とのころ。屋敷林を成り行きで辰井川筋に戻る。川沿に耕地が残るが、このあたりはかつて私立松寿実業学校があったところ。
大正実科学校のところでメモを繰り返す;松寿実業学校は大正7年(1918)、現在の谷塚上町に開校した私立中等学校。創立者は細井為五郎。私塾を開いていた細井は、大正6年(1917)に開校した男女別学の大正実科学校に刺激を受けたのか、切敷善吉氏とともに男子中等教育機関である松寿学館を設立。修業年数は普通科にあたる正科が3年、夜間科にあたる別科が8か月であり、定員は各50人であった。
その後、公立の実業補習学校などの開設に影響を受け入学者が減少し、昭和2年(1927)には財団法人松寿実業学校と改称して大正実科学校を併合し、昭和6年(1931)年の廃止まで、近隣の中等教育を担った。

辰井川排水機場
張り出したバルコニーと照明灯の上町境橋、松寿実業学校から名付けられただろう松寿橋を越えると、辰井川排水機場、そして辰井川が毛長川に注ぐ水門が見える。この辰井川を含め草加を流れる河川は勾配が緩やかであり、ために洪水の際にも流下能力が低く、特に河川が合流する地点では互いの川の水位差によって流下能力は一層悪くなる。ために、合流地点に水を強制的に排水するポンプ場・排水機場を設置し、洪水被害を防ぐわけであろう。
草加にはこの辰井川排水機場(平成13年;2001年完成との記録がどこかにあった、よう)だけでなく、伝右川の神明排水機場(昭和58年;1983年完成)、古綾瀬川の古綾瀬排水機場(平成17年;2005年完成)、綾瀬川放水路(平成8年;1996年完成)の南北水門と八潮排水機場(八潮市)などの治水対策施設があるが、きっかけは昭和54年(1979)の台風20号による浸水被害。その被害をもとに、「激特事業=河川激甚災害対策特別緊急事業」が施行され平成7年(1995)まで河川の大規模改修工事がなされた、とか。

毛長川
あれこれと草加の南部を彷徨い、やっと毛長川に。毛長川は埼玉県川口市東部(安行慈林辺り)に源流点をもち、市内を南へ下り、草加市と足立区の境を東流し、大鷲神社近くの花畑で綾瀬川に合流する。
毛長川を訪れたのはこれで何度目だろう。はじめは、花畑の大鷲神社を訪れたとき。綾瀬川・伝右川・毛長川の合流点から毛長川を西に進んだ。その時は毛長川南岸にある伊興古墳遺跡、そして毛長川の一筋南を下る見沼代用水の親水公園に惹かれ、途中から毛長川を離れてしまい、毛長川の名前のと由来ともなった毛長=長い髪にまつわる伝説の残る毛長神社を訪れることができなかった。また、先日も伝右川を下り、綾瀬川・毛長川との合流点から大鷲神社まで下ったのだが、このときも毛長神社を訪れる気力・体力は失せていた。今回の散歩の目的のひとつは毛長神社を訪れること。毛長川の北岸を進み新里地区の毛長神社へと向かう。
この毛長川は、古墳時代の入間川の流路跡、そして古墳時代の入間川は利根川水系の主流で、熊谷>東松山>川越>大宮>浦和>川口>幡ヶ谷、と下り、現在の毛長川に沿って流れ足立区の千住あたりで東京湾に注いでいた、と上でメモした。千住あたりが当時の海岸線などとは、埋め立てが進んだ現在の東京下町区域の拡がりからすれば想像もつかないつかないたが、古墳時代には東京湾から関東内陸部への「玄関口」であったこの毛長川、古代の交通の要衝の地に有力者が現れ、伊興古墳遺跡や谷塚古墳遺跡などを残したであろうことを想い先に進む。

毛長神社
谷塚地区から両新田東町(昔の市左右衛門新田)を経て新里地区に入る。『地誌材料稿』によれば、新里の地名の由来は「俚伝云、本村ハ古時入海ノ地ニシテ泥沼多ク村落ナシ、常ニ水溢ノ患アリシカ何年頃ニカ此ノ地ヲ開墾シテ一ノ村落ヲ為ス。故ニ新タニ里ヲ開クヲ以テ新里村ト名ヅケシト云ウ」とある。毛長川の堤を離れ、宅地の中を成り行き進むと毛長神社があった。創建年度は不詳ではあるが、享保年間辺りとされる。御影造りの鳥居は元水戸家の屋敷内にあったもの。出入りの商人が譲り受け、隅田川・綾瀬側・毛長川を遡り境内地に建立された、とのことである。
で、この毛長神社に伝わる伝説であるが、毛長川を隔て、埼玉の新里すむ長者に美しい娘がいた。葛飾・舎人の長者の息子と祝言をあげるも婿殿の実家と折り合い悪く実家に戻ることに。その途中沼に身を投げる。その後、長雨が続くと沼が荒れる。数年後沼から長い髪の毛を見つける。娘のものではないかと、長者に届ける。長者感激。ご神体としておまつり。それ以降沼が荒れることがなくなる。その神社が現在新里にある毛長神社。沼を毛長沼と。
この話には例によって、いく通りものバリエーションがある。祝言の前に新里で疫病がはやり、破談となりそれを悲しみ身を投げたとか、娘は須佐之男命の妹と言ったものである。須佐之男命の妹は武蔵一宮が氷川神社、つまりは出雲の簸川の神からもわかるように、出雲文化圏であったが故のストーリーではあろう。
また江戸時代の地誌である『新編武蔵風土記稿』には、「毛長明神社 祭神詳ナラズ。稲荷雷神ヲ合祀ス。此社毛長沼ノ辺リニアリ。沼ヲ隔テテ舎人町ニ祀レル諏訪社ヲ男神ト称シ、当社ヲ女神ト称セリ。古ハ髪毛ヲ箱ニ納メテ神体トセシガ、何ノ頃ニヤカカル不浄ノ物ヲ神体トスルハアルマジキコトナリトテ、毛長沼ニ流シ捨シト云伝フ。神号モ是ヨリ起リシニヤ。又毛長沼ノ辺ニ鎮座アルニヨルカ」とある。手長沼を隔てた舎人の諏訪神社の男神に対し、この社は諏訪神社の女神であり、その女神は出雲の簸川に住まいする翁嫗の夫婦神の手名椎(男神は足名椎。八人の娘を八俣大蛇に奪われた夫婦神である)とする。手名椎>手長、ということであろう、か。
さまざまな説の是非などもとより門外漢にはわからないが、沼や川、そして湖を隔てた男女の神、男女の悲恋の話は散歩の折々に出合う。荒川区の「あらかわ遊園」の西隣の船方神社には、この地域の荘園主 豊島清元(清光)が、熊野権現に祈願してひとりの娘を授かる。その娘、足立少輔に嫁ぐことに。が、 心ない仕打ちを受け、荒川に身を投げる。姫に仕えていた十二人の侍女たちも 姫に殉じる、といった伝説があった。
この話は足立区側では敵役が足立氏ではなく豊島氏になっていたように思うが、それはともあれ、このような悲しみのあまり入水自殺を、といったお話のベースとなるのは市川の真間で出合った手児奈(てこな)姫の伝説ではないだろうか。『万葉集』にも詠われる絶世の美女・手児奈。ために幾多の男性から求婚される。が、誰かひとりを選べば、その他の人を苦しめることになると思い悩み、入水自殺したとされる。先日、流山の江戸川台辺りを散歩したとき、香取神社の中に手児奈塔があった。万葉の頃から都にまで知られる手児奈の話は当然武蔵の各地に伝わっていたのだろうし、そのバリエーションとして毛長の伝説ができたのかもしれない。単なる妄想。根拠なし。

泉蔵院
毛長神社を離れ、成り行きで泉蔵院に向かう。鎌倉時代後期に草創されたと伝わるこのお寺さまは江戸時代に中興され、草加で最も古い歴史をもつ、とか。明治20年(1887年)に編集された「地誌材料稿」には、「毛長沼の辺りに昔からの万石長者が住んでいたが、ある時、天、突然として黒雲を起こし天地鳴動して長者の家宅・家族 全て悉く巻き上げられ、毛長沼に埋没してしまった。後に残ったものは御幣1箇、阿弥陀如来1尊であった。村民はこれを見て昨日まで万石長者といわれしも、一朝の天災のために、かくも無惨な状態に至れりと痛く嘆き、長者の酒造蔵跡に一字を創り残されたものを安置し、御幣山阿弥陀寺泉蔵院と名付け、長者の菩提を祈った」と、草創の縁起を説く。また、同じく「地誌材料稿」には毛長神社の縁起として「長者が天災害を受けた後、毛長沼の岸辺に毛髪数尺なるものが漂い、村民がいかに流そうとしても流れないので、これは長者の娘の毛髪に違いないとして稲荷社に合祀し神社とした」とある。泉蔵院が毛長神社の別当寺とのエビデンス強化のストーリーであろう、か。
山門の左に十三仏。なくなった人の追善供養のための石仏であり、初七日の守り本尊である不動明王から、釈迦如来(二七日の守り本尊)、文殊菩薩(三七日の守り本尊)、普賢菩薩(四七日の守り本尊)、地蔵菩薩(五七日の守り本尊)、弥勒菩薩(六七日の守り本尊)、薬師如来(七七日の守り本尊)、観音菩薩(百か日の守り本尊)、勢至菩薩(一周忌の守り本尊)、阿弥陀如来(三回忌の守り本尊)、 阿閦 (あしゅく)如来(七回忌の守り本尊)、大日如来(十三回忌の守り本尊)、虚空蔵菩薩(三十三回忌の守り本尊)までの十三の仏が並ぶ。境内にはその他、六道輪廻救済の六地蔵が立つ。





新里むじな公園
泉蔵院を離れ、一筋東にある通りを少し北西に進むとヴィ・シティ草加壱番館というマンション群のの道路脇に「新里むじな公園」がある。その昔、この地には吉岡家という旧家があり、その広い屋敷地内に多くの大木があり、その中のケヤキの古木に大きな洞が開いていて、そこにムジナが住み、家人がかわいがっていた、とか。そのため村人は、ここを「ムジナの森」と呼んでいた。家主も「むじな大尽」と呼ばれていたという。
家人が盗賊にあった時にかわいがっていたムジナがご主人様を助けたという「むじなの恩返し」伝説も残されている。戸締まり厳重にしたにもかかわらず、盗賊に襲われ屋敷外に逃れようにも厳重な戸締まり故に逃げ道無し。と、あら思議や、門が開きご主人さまが逃れ得た。盗賊はらんらんと光りご主人様を護る目に立ちすくんだ、とか。

いぼ地蔵
新里町交差点を東に折れ、ガソリンスタンドを越えた先で県道104号を脇に入り、耕地を右に見ながらクランク状の小径を進むと、道ばたにいくつかの石仏が佇む一隅がある。そこに「いぼ地蔵」があった。泥ダンゴを供え、願が叶った暁にはお米のダンゴを供えるとお願いし、お礼参りに際しては白ダンゴを供えたとのことである。いぼ地蔵の他の石仏は地蔵菩薩や青面金剛などである。因みにいぼ地蔵って、草加市内だけでもこの地蔵を含めて5体ある、と言う。




徳性寺
いぼ地蔵の東に徳性寺。境内に入ると右手に六地蔵、供養塔、三山大権現が並ぶ。本堂の右に近代的な3階建ての薬師堂。堂内には弘法大師の作と伝わる薬師如来があり、太田道灌の身代わりとなり危難を救った、とか。





新里氷川神社
県道104号を北に進み、県道から一筋東に入った道筋に氷川神社。歳月を経たアパートアパートなどに周囲を囲まれ、少々窮屈そうな社ではあった。『風土記稿』には、「氷川社、村内の鎮守なり 泉蔵院持ち」とあるが、創建は不詳。ただ、境内に奉納されている石灯籠と手洗石には文化、文政と刻まれるので、19世紀の前半の創建ではないか、と言われる。また、境内には牛頭天王と疱瘡神が祠に佇む。

遊馬
氷川神社を越えると新里地区を離れ、遊馬地区に入る。遊馬(あすま)の地名の由来は、奈良時代(710~784)舎人親王がこの地に別館を持ち、時々飼い馬を放畜した、との説がある。また、中世期にこの地の開発領主となった横山党の矢古宇氏の牧場があったためという説もある。

遊馬東交差点
県道を進み遊馬東交差点に。交差点東脇に2基の庚申塔など3体の石像、西脇に三王社がある。後ろに用水路の暗渠らしき水路を配して佇む庚申塔の台座には「見ざる・聞かざる・はなさざる」が彫られる。文化10年(1813)頃の作、とのことである。ささやかな祠である牛頭天王社も天明7年頃のもと、と言う。




西願寺
交差点の少し北東の西願寺に。入口参道の松並木を通り元和元年(1615)創立のお寺さまにお詣り。この西願寺は芝増上寺の流れ。それもあってか、あの二代将軍・徳川秀忠が、舎人村、遊馬村にお鷹狩に来ていた」とか。『舎人西門寺書上』に『遊馬村に鷹狩に参る』と記されていいる、と言う。遊馬の由来で、「奈良時代(710~784)舎人親王がこの地に別館を持ち、時々飼い馬を放畜した」、とメモしたが、放牧は江戸の頃も行われたようで、『新編武蔵風土記稿』には「徳川家康・駅伝馬の制を定めた1601年頃より放牧され、約70年続く」との記載がある。

見沼代親水公園
遊馬町東交差点から西に向かい、遊馬西交差点を南に折れて県道58号・尾久橋通りに。毛長川を越える日暮里・舎人ライナー見沼代親水公園駅に向かう。ここが本日の最終地点。が、駅手前にある見沼代親水公園を少し東に戻り、先ほど毛長神社の伝説にあった「男神」のおわします舎人諏訪神社に向かう。見沼代親水公園は見沼代用水を親水公園として整備したもの。

いつだったか大宮台地の下に広がる見沼田圃を歩いたことがある。そのときはじめて見沼代用水に出合った。沼と田圃、そして用水、しかも代用水とある。この遠いような近いような単語の集まりに少々混乱し、我流で筋が通るように整理した。その時のメモ;「見沼と見沼田圃。沼と田圃?相反するものである。これって、どういうこと。それと見沼代用水。代用水って何だ?沼や田圃との関係は?
見沼というのは文字通り、沼である。昔、大宮台地の下には湿地が広がっていた。芝川の流れが水源であろう。その低湿地の下流に堤を築き、灌漑用の池というか沼にした。関東郡代・伊奈氏の事績である。堤は八丁堤という。武蔵野線・東浦和駅あたりから西に八丁というから870m程度の堤を築いた。周囲は市街地なのか、畑地なのか、堤はどの程度の規模なのだろう、など気になる。その堤によって堰き止められた灌漑用の池・沼、溜井は広大なもので、南北14キロ、周囲42キロ、面積は12平方キロ。山中湖が6平方キロだから、その倍ほどもあった、と。
見沼田圃とは水田である。見沼の水を抜き水田としたものである。伊奈氏がつくった「見沼」ではあるが、水量が十分でなく灌漑用水としては、いまひとつ使い勝手がよくなかった。また、雨期に水があふれるなどの問題もあった。そんな折、米将軍と呼ばれる吉宗の登場。新田開発に燃える吉宗はおのれが故郷・紀州から治水スペシャリスト・伊沢弥惣兵衛為永を呼び寄せる。
為永は見沼の水を抜き、用水路をつくり、沼を水田とした。方法論は古河・狭島散歩のときに出合った飯沼の干拓と同じ。まずは中央に水抜きの水路をつくる。これはもともとここを流れていた芝川の流路を復活させることにより実現。つぎに上流からの流路を沼地の左右に分け、灌漑用水路とする。この水路を見沼代用水という。見沼の「代わり」の灌漑用水、ということだ。
見沼代用水は上流、行田市・利根大橋で利根川から取水し、この地まで導水する。で、左右に分けた水路のことを、見沼代用水西縁であり、見沼代用水東縁、という。上尾市瓦葺あたりで東西に分岐する」、と。この地に下った見沼代用水は地図を辿るに、見沼代用水東縁の流路のように思える。

諏訪神社
見沼代親水公園を先に進むと親水公園脇に諏訪神社。ささやかな祠と尺の少々アンバランスアンバランスに低い鳥居があった。案内によれば、 「舎人諏訪神社本殿は、一間社、流造千鳥破風付、向拝正面に軒唐破風が着く社殿形式である。屋根は総柿葺で、現在は覆舎によって囲われている石組基壇上に建立されている。身舎の大壁、小脇壁、脇障子、柱上組組物、縁腰組の間が彫刻で飾られ、竜の彫刻は見事である。牡丹の彫刻を施した手挟、向拝柱の獅子鼻、象鼻など、江戸時代末期の神社建築の特徴が如実に現れている。 身舎内部に、天保7年(1836)の建立である棟札がある。江戸時代末期の神社建築の手法を知る遺稿として注目される」、とある。
また、『新編武蔵野風土記稿』に、「諏訪社 西門寺ノ持ナリ。此社地ニ夫婦杉ト唱エテ二樹アリシガ、三沼代用水掘割ノ時、コノ二樹ノ間ニ溝ヲ開キシヨリ、土人婚嫁ノ時前ヲ過ルハ嫌イシトテ此道ヲ避ルト云。此杉今ハ枯タリ」と。見沼代用水を掘り割るとき、水路を隔て泣き別れに。以来、里人は縁起をかつぎ、この地を避けて通ることに。その心は、婚礼の時、難儀するほうが後々幸せに、といったこと、また、里を練り歩き、婚礼を披露するための方便に、といったこともある、とか。 神社の鳥居は神殿に対して、斜めに立っているのは、毛長神社の方向に向けたため、とのこと。男神と女神のペアの縁起のエビデンスを補強する。

日暮里・舎人ライナーの見沼代親水公園駅
これで本日の散歩を終える。日暮里・舎人ライナーの見沼代親水公園駅から一路家路へと。


先回の散歩で東武伊勢佐木線・新田駅辺りから直線に下る綾瀬川の川筋は江戸の頃の河川改修の結果であり、元々の綾瀬川(古綾瀬川)は複雑に蛇行を繰り返す川筋であったことがわかった。古綾瀬川は外環道路より南にも下っていることも散歩を終えた後わかったのだが、その流路は蛇行を繰り返す外環道路の北の流路とは異なり、如何にも河川改修がなされたような流路となっている。それはともあれ、古綾瀬川と合流した綾瀬川は南に下り、足立区花畑のあたりで、綾瀬川と沿って南に下ってきた伝右川、東から流れくる毛長川と合流する。合流点から下流は、大きく緩やかなカーブを描いた後、南花畑の内匠橋辺りからは小菅に向かって一直線に進む。この流路は江戸初期に関東郡代・伊奈氏によって新たに開削された水路、とか。一雨毎に流路が変わったとも言われ、千々に乱れる往昔の綾瀬川下流域ではあるが、大雑把に言って、一筋は足立区花畑あたりから東へと向かい松戸の近くで江戸川に流れ込んでおり、そして、もうひと筋は水元公園の辺りから中川筋(といっても、開削される前の古利根川の細流)へと下ったようである。

草加散歩の第二回は、草加宿からはじめ足立区・花畑に向かって綾瀬川筋を下ることにする。先回の散歩でメモしたように大川図書が湿地を埋め立て、草加から越ヶ谷へと直線に進む道を開いた結果、多くの人がこの道筋を往還するようになり、越ヶ谷宿までの「間の宿」として草加宿の設置が図られた、と言われる。また、天和3年(1683年)、伊奈半左衛門が、九十九曲がりと称され千々に乱れる綾瀬川の流路の直線化工事を行った大きな要因も日光街道・草加宿の設置に伴うものと聞く。
散歩のルートは草加宿を巡った後、直線化工事の行われた綾瀬川に進み、草加松原に。その後は綾瀬川でなく、綾瀬川に沿って花畑に下る伝右川を辿ることにした。理由は特にないのだが、伝右川と言う川の名前に惹かれたから。ゴールは綾瀬川、伝右川、そして毛長川が合流する花畑の大鷲神社。数年ぶりに訪れることになる、「お酉さま」の本家本元の現在の姿を楽しみに、散歩に出かける。



本日のルート;東武伊勢佐木線・草加駅>歴史民俗資料館>旧日光街道・駅入口>回向院>浅古正三家>浅古家の地蔵堂>草加神社>葛西道>天満宮>三峯神社>葛西道>八幡神社>藤城家>大川本陣跡>清水本陣跡>氷川神社>おせん茶屋>東福寺>神明宮>河合曽良像>おせん公園・草加せんべい発祥の地>札場河岸公園>芭蕉像>草加松原遊歩道>矢立橋>谷古宇橋>甚佐衛門堰>古綾瀬川合流>谷古宇稲荷>樫の大木>シイの木稲荷>天満宮>日枝神社>伝右川>伝右川・綾瀬川・毛長川合流点>花畑・大鷲神社>東武伊勢佐木線・谷塚駅

歴史民俗資料館

東武伊勢佐木線・草加駅で下車。まずは駅近くにある歴史民俗資料館に向かう。建物は大正15年(1926)に建てられた草加小学校西校舎跡を活用したもの。埼玉県初の鉄筋コンクリート造りの校舎として、平成20年(2008)、国の登録有形文化財に指定されている。館内には板碑などと共に、金明町の綾瀬川から発掘された縄文時代の丸木船が展示されている。
実のところ、この資料館には数年前に訪れたことがあるのだが、結構雑然と置かれている、といった印象であった資料が、少し「展示」の姿になっていた。それでも、散歩の折々に訪れる幾多の郷土資料館と比べて、依然、少々寂しげな資料館ではある。時空散歩のヒントになるような資料も見つからず、結局は古本市で買い求めてあった『埼玉ふるさと散歩 草加市;中島清治(さいたま出版会)』を頼りの散歩となった。



地蔵堂
歴史民俗資料館を離れ、とりあえず草加宿の南端から散歩をスタートすべく、草加駅の東を少し下った草加市役所の敷地に残る地蔵堂に向かうことにする。そこが往昔の草加宿の南端とのことである。
この地蔵堂は江戸中期、草加の豪商である浅古半兵衛が創建した地蔵堂。ために、浅古家の地蔵堂とも称される。建築様式は本瓦葺(現在は銅板葺)宝形造りで、正面のみに後背をつけ、屋根を葺き下ろす。本尊の地蔵菩薩は赤掘用水に流れてきたものを拾い上げて祀ったもの(『埼玉ふるさと散歩 草加市;中島清治(さいたま出版会)』より)。草加宿の南端にあるため宿の境神(塞の神)として疫病など悪しきものから宿を護った。
浅古半兵衛は幕末から明治にかけて大和屋の屋号で全国二位とも言われる商いを誇った質屋、とか。草加16人衆の中でも最大の実力者であり江戸店も出していた、と言う。現在の市役所は浅古家の屋敷神であるこの地蔵堂を除く浅古家の屋敷跡を購入して建てたとのことである。

浅古家の蔵屋敷
旧日光街道を北に進む。草加宿は明治3年(1870)の大火で壊滅的な被害を受けており、僅かに旧家が残る、のみ。草加の町並みは新旧の建物が同居しており、ビルやマンションの間に旧家があると言う感じである。左手に見える蔵造りの商家は浅古家の建物。明治30年(1897)に建てられたもの。店舗と住居と蔵が連なる平面形式は町屋建築の基本、とか(『埼玉ふるさと散歩 草加市;中島清治(さいたま出版会)』より)。




回向院観音寺
地蔵堂から旧日光街道を北に少し進むと道の右側、奥まったところにこじんまりとした本堂。草加山観音寺と称する浄土宗のお寺さま。寺伝によると、回向院とも称されるこのお寺さまは承応2年(1653)、村民源右衛門が開基。元禄14年に開山とのことではあるが、大正11年(1922)の火災で焼失したため、詳細は不明。本堂には阿弥陀三尊、善導大師、法然上人が祀られる、とのことである。





草加神社の標柱
地蔵堂から北に向かって100mほど進むと、草加市役所北交差点に「草加神社」の標柱。大正4年(1915)に建立されたもの。地図を見るに、草加神社は結構西に離れてはいるのだが、草加宿に来て草加神社をパスするのも、なんだかなあ、ということで旧日光街道を離れ草加神社へと向かう。

草加神社
道を折れるとすぐに「おびんずる様」を祀る薬師堂がある、とのことだが、その場所は、コインパーキングの辺りだとは思うのだが、見つけることができなかった。オビンズルさまとは十六羅漢のひとつ。オビンズル様こと、ビンズル尊者には散歩の折々に出合った。撫で仏様として坐っていることが多かったように思う。赤ら顔の飲ん兵衛がキャラクターイメージ。放蕩の末、反省し仏弟子となった、はず。十六羅漢とは、仏を護持する16人の佛弟子のこと。

東武伊勢佐木線のガードをくぐり先に進むと草加神社があった。旧日光街道から400m強といった距離。石造りの鳥居には、「氷川神社」の旧名が掲げられている。参道に沿って公園があったり、SLが置いてあったりと、厳めしい社の雰囲気ではない。二の鳥居をくぐると拝殿。江戸末期の建立と伝えられる。境内の左右には明治に合祀された境内社が鎮座する。
二間社流造りの本殿は天保の頃の造営と伝わる。本殿を飾る多彩な絵様彫刻は宝暦年間(1751~1764)、江戸の名匠立川流の職人の手になるものである。
草加神社(当時・氷川神社)は、安土桃山時代(天正年間頃1573~1592)に、武蔵國一宮である大宮の氷川神社を分祀し小祠を祀ったのがはじまり。元は氷川神社と呼ばれ、南草加村の鎮守であったようだが、明治40年(1907)に草加市内の11の社を合祀し、同42年(1909)には氷川神社を改め草加神社とし、草加の総鎮守となした。

立川流彫刻
立川流彫刻とは江戸時代後期に栄えた伝統彫刻。伝統彫刻には仏像彫刻と神社・仏閣などの楼閣彫刻があるが、立川流は宮彫と称される楼閣彫刻の流派である。宮彫は当初は宮大工の棟梁がおこなっていたが、次第に宮大工と宮彫師と専門化することになる。宮彫には大隅流と立川流があり、江戸の前期は大隅流。後期は立川流が主流となる。
立川流も元は大隅流から分かれたもの。もとは江戸の本所立川掘りに居を構えたことから立川流と称されるようになった。これを江戸立川流と呼ぶ。が、一般的に立川流と呼ぶのは信州の諏訪立川流。もとは江戸立川流で修行するも、地元の諏訪に戻り、本家の江戸立川流を凌ぐ流派となった。そのきっかけとなったのは地元諏訪での大隅流とのコンペ。諏訪退社春宮を大隅流、秋宮を諏訪立川流が受け持ち、結果秋宮が圧倒。諏訪立川流の出世作となった。
大隅流の代表的な作品は日光東照宮や湯島の聖堂。立川流の代表的な作品は静岡浅間神社、長野善光寺、京都御所、静岡秋葉神社本宮、諏訪大社上社、豊川稲荷、山車では亀崎の山車、高山の山車などが代表的で、現在多くのものが国や県の文化財に指定されている。しかしながら、宮彫も、明治以降は時代の流れで衰退し、流派は途絶えた、と。

葛西道道標

草加神社道標のある交差点まで戻り。少し北に進むと、「埼玉りそな銀行」脇に「日光街道 葛西道」道標がある。この道はかつて草加宿と東京の葛西方面を結んでいた道で、千住宿・越谷宿間の日光街道の新道が敷かれる前から通じていた古道とのことである。江戸の頃には、赤山(川口市)にあった関東の幕府天領を納める関東郡代・伊奈氏の陣屋と、その支配地であった葛西地域(東京都葛飾区・江戸川区)を結ぶ道であった、とも。草加市の手代町の北を通り、八条村、潮止村(八潮市)にも通じる本道であったようでもある。






三峯神社

銀行脇を通る葛西道を辿り、県道49号線まで進む。県道の東に、如何にも葛西道の続きらしき道筋は見えるのだが、葛西道の雰囲気を感じるのはここまでとし、歩みを止める。葛西道の少し南に三峯神社。ささやかな祠にお参りし、草加宿の道筋に戻る。






高砂八幡神社
草加駅入口交差点の脇にある道路元標を見やり、交差点から70mほど北に進むと道の東側、商店街というか民家の続く路地の奥まったところに八幡神社があった。
八幡神社の創立年は不詳とされるが、「草加見聞史 全」には、享保年間(1716年~1736年)に稲荷神社として創建され、安永6年(1777年)ごろ神明宮に寄進された八幡像を稲荷社に合祀して八坂神社と称し、草加宿下(シモ)三町の鎮守となった、とある。新編武蔵風土記稿には「正徳(1711-1715)の頃神主長太夫なるもの、八幡の神体を稲荷社に合殿として祀った、となっている。どちらがどうなのか門外漢にはわからない。





当神社は明治42年(1909年)4月、草加神社に合祀されたが、現在も高砂2丁目町会によって管理されている、と。草加宿は南草加村、北草加村、吉笹原村、原島村、立野村、谷古宇村、宿篠葉村が集まって造られたとのことであるが、下(シモ)三町って、南草加、北草加、吉笹原の辺りだろう、か。拝殿には、昭和56年(1981年)に市の文化財に指定された獅子頭一対が社宝として所蔵されている、とのことであるが、もとより拝見すること叶わず。






藤代家道に沿って明治初期建築の旧商家藤代家。草加宿に残る数少ない町屋建築の建物である藤代家を見やりながら進むと道路元標識。明治44年(1911)建立。ここを起点に谷塚・千住・越谷・浦和・栗橋への距離が示される。千住町へ2町17丁53間三尺、越谷へ1里33丁30間2尺、などといった案配である。この道路元標がかつての問屋場があったところ。その先隣りが本陣清水家跡である。





本陣跡
本陣・清水家は現在堀川産業本社となっている。その先に脇本陣の松本家。脇本陣は松本家と丸山という旅籠が交代で務めていた、と。清水家本陣跡の旧日光街道を隔てたマンションが大川本陣跡。大川本陣は宝暦年間(1751-1763)まで。その後は明治まで清水家が本陣を務めたとのことである。
草加宿のはじまりは慶長11年(1606)に遡る。宿篠葉村(松江町)の大川図書が中心となり、瀬崎(草加市の南端。足立区との境をなす毛長川の北一帯)から谷古宇にかけての低湿地を土、柳の木、葦などの草で埋め固め、千住~越ケ谷間をほぼ一直線に結ぶ新往還道を築き上げた。この草を重ね加えたことが草加の由来、とも言う。
新往還道が開かれる以前の千住~越ケ谷間は、沼地に遮られ花俣(現在の花畑)から八条(八潮市)に出て、古利根川と元荒川の自然堤防伝いに越ケ谷に出るという迂回ルートとなっていた。新往還道が完成すると旧来の迂回路を避け、新往還を利用する旅人が急増し、新道沿いに町場が形成されていった。そして新往還に旅人が増大していく中で、人馬を千住から越ケ谷まで長距離継立てすることが困難となり、寛永7年(1630年)、草加は千住宿に次ぐ2番目の宿、千住宿と越ケ谷宿の「間(あい)の宿」として取り立てられることになる。
当時、新道沿いには1つの村で宿を編成できるほどの大きな集落がなかったため、南草加、北草加、吉笹原、原島、立野、谷古宇、宿篠葉、与左衛門新田、弥惣右衛門新田の9か村(与左衛門新田、弥惣右衛門新田を除いた7新田とも)が組合立で草加宿を成立させたとされる。
開宿当初の規模は、戸数84軒、南北の距離685間、伝馬役人夫(人馬の継立て役)25人、駅馬25頭といわれ、旅籠屋の数5、6軒、他に豆腐屋、塩・油屋、湯屋、髪結床、団子屋、餅屋が1軒ずつ軒を並べる程度で、他はすべて農家だった、とか。
元禄2年(1689年)ごろになると戸数は120軒に増え、正徳3年(1713年)に草加宿総鎮守として神明神社が建てられ六斎市(毎月6回、定期的に開かれた市)が開かれるようになると、草加宿は近郷商圏の中心地として急速に発展した。

享保13年(1728年)には、伝馬役人夫が50人、駅馬が50頭となって開宿当初の2倍まで増加し、天保14年(1843)には、南北12町(およそ1.3キロ)、人口3,619名。家数723軒。本陣1,脇本陣1、旅籠67軒(大2軒、中30軒、小35軒)と飛躍的な規模拡大が見られ、「宿村大概帳」によれば、草加宿の街道沿いには余すところなく家々が軒を連ねた、と記す。日光街道の往還や綾瀬川の舟運の発達により、江戸の頃、草加は大宮や浦和より大きい集落ではあったわけである。草加宿の位置は、南は草加市役所の前に建つ地蔵堂付近から、北は神明一丁目の草加六丁目橋付近までと考えられている。

氷川神社
さらに先に進むと、道の西側、草加小学校のあたりにこれまたささやかな祠。氷川神社とある。この社には縁結びの神としての「平内さん」の縁起がある。平内さんとは江戸時代の実在の人物で、夜な夜な辻斬りなどの悪行を重ね、市それ故に自身の財業消滅を願って己の像を造り、通行人に「踏みつけ」させた。これが後に「踏みつけ>文付け」に転化され、縁結びの神として親しまれるようになった、とか。
とはいうものの、この「平内さん」は、この社だけに登場するわけでもない。いつだったか浅草の浅草寺を歩いたとき、そこに「久米平内堂」が祀られており、そこでもこの氷川の社の縁起とまったく同じストーリーで縁結びの神として祀られていた。
平内は実在の人物。江戸初期の津和野藩士、城下で津 和野小町といわれた呉服商の娘お里の危急を救い人を殺めて、江戸に出奔。剣の修行に努めた。その後は千人切りを目指し、夜ごと辻斬りを行い悪行を重ねたとか、も心ならずも喧嘩のあげく人を殺めたなど諸説あるようだが、ともあれ、その罪を償うために浅草寺内に住まいし禅の修行に励んだ。そして死後罪を償うために己の像を道下に埋め、人に踏み付けられることを求めた、とか。踏み付け>文付けの転化で、恋の仲立ち>縁結びの神として祀られた、と。この平内さんの話は滝沢馬琴が読み本にしたり、歌川豊国が浮世絵に描いたりした結果、この話がひろがり、この地にも伝わったのだろう。

おせん茶屋
八幡神社から500mほど、旧街道沿い右側におせん茶屋跡。草加せんべいの祖「おせんさん」に因んだ公園・休憩所となっていた。高札を模した掲示板などもあり、おせんべいの製造法などを見やりながら少々休憩。
草加せんべいのはじまりにはいくつかの伝説がある。代表的なものは、日光街道の草加松原に旅人相手の茶屋があり、おせんさんのつくる団子が評判だった、と。おせんさんは、団子が売れ残ると川に捨てていたが、ある日それを見た武者修行の侍だか、旅人が「団子を捨てるとはもったいない、その団子をつぶして天日で乾かして焼餅として売っては」とアドバイス。おせんさんが早速売りだしたところ、日持ちもいいし、携帯できる美味しい「堅餅」として大評判になり、日光街道の名物になった、とか。このような、穀粉をゆでてから焼いて(または揚げて)つくる菓子の製法は、遣唐使が中国から持ち帰ったものといわれる。

東福寺
おせん茶屋の少し北、道の東に東福寺参道入口がある。長い参道を進むと山門。四脚門切妻造りの山門は堂々として、いい。本堂にお詣り。欄間の龍の彫刻もなかなか、いい。境内にある鐘楼にも龍の彫り物が施されている。山門、本堂の欄間彫刻、鐘楼は市の文化財に指定されている。
東福寺は草加宿を開いた大川図書(ずしょ)が、慶長11年(1606年)に創建したと伝えられる。大川図書は、小田原北条氏に仕えていたが、天正18年(1590年)に小田原城が落城したことにより浪人となり岩槻に移る。その後、朋友の関東郡代・伊奈備前守忠次の計らいで草加の谷塚村、宿篠葉村に移り住む。

既にメモしたことではあるが、当時、草加より越ヶ谷間には一雨毎に流路が変わるとも言われた綾瀬川によってつくられた湿地・沼が広がり、越ヶ谷に行くには古利根川と元荒川の自然堤防伝い大廻り強いられる迂回ルートしかなかった。ために、慶長11年(1606年)に、宿篠葉村(松江町)に住んでいた大川図書が中心となり、瀬崎から谷古宇にかけての低湿地を土、柳の木、葦などの草で埋め固め、千住~越ケ谷間をほぼ一直線に結ぶ新往還道を築き上げた。
この越ヶ谷を直線で結ぶ道が完成すると、大廻りの迂回路を避け、この新道の往還が急増。日光街道の千住と越ヶ谷の間の宿として草加宿ができることになる。草加宿を開く立役者となった大川図書はこの功績により幕府から「名字帯刀」を許され、草加宿で宿役人などの職が与えられた。図書はその跡も新田の開発や農業の振興などにも大きな功績を残している。現在の草加小学校は大川図書の屋敷跡、とか。
上で草加の由来は、湿地に草や葦を敷き加えたことによる、とメモした。異説もある。『草加宿由来』には「二代将軍徳川秀忠が鷹狩りを大原村(八潮市)で行い、舎人(足立区)の御殿で宿泊することとなったが、大原と舎人の間には草野が広がり沼もあって人馬が進みにくかった。ために、大川図書に道の補修を命ぜられた。図書は村人を集め、草を刈り、葦や柳を切って湿地を埋め立て新道をその日のうちに造った。そして、秀忠から「これは草の大功である。これからはここを草加と名付けよ」と上意があった、という記述がある、と。「草の功」が、草加の由来との説がこれである。

神明神社
旧日光街道を進み、右にカーブし県道49号足立・越谷線に合流する辺りに神明神社。祭神は天照大神で、そのほか御神霊石も祀られている、と。創建は与左衛門新田の名主吉十郎の祖先が、元和元年(1615)に、宅地内に小社を建立したことに始まる、と。「草加見聞史 」によれば、元和(1615年~1624年)の初め、一人の村人が宅地内に自然石を神体とする小社を建てたのが始まりとする。八幡神社の縁起と同じく門外漢にはどちらがどうとも詳らか成らず。それから約百年後の正徳三年(1713)に、この地へ移され、草加宿組9ヶ村の希望により草加宿の総鎮守となった。 その後、安永六年(1777)に、草加宿の一丁目から三丁目までが、二丁目稲荷社を八坂神社と改称したことから鎮守の分離が行われた。この稲荷社とは、先ほど訪れた高砂八幡神社のことではあろう。
天保年間(1830年~1844年)に社殿を焼失。弘化4年(1847年)に再建され、明治34年(1901年)と昭和52年(1977年)に修繕が施されて現在に至っている。上記の八幡神社と同じ明治42年(1909年)に草加神社に合祀された。

境内を眺めていると境内入口に「高低測量几号」の礎石がある。「神明宮鳥居沓石(礎石)の高低測量几号」の案内によると;石造物に刻まれた「(木の上が飛び出していない形」の記号は明治九(1876)年、内務省地理寮がイギリスの測量技師の指導のもと、同年八月から一年間かけて東京・塩釜間の水準測量を実施したとき彫られたものです。記号は「高低測量几(き)号」といい、現在の水準点にあたります。この石造物は神明宮のかつての鳥居の沓石(礎石)で、当時、記号を表示する標石には主に既存の石造物を利用していました。この水準点の標高は、4.5171mでした。
その後、明治十七年に測量部門は、ドイツ方式の陸軍省参謀本部測量局に吸収され、内務省の測量結果は使われませんでした。しかし、このような標石の存在は測量史上の貴重な歴史資料といえます」とあった。

伝右川
神明神社の北側、県道49号と旧日光街道の合流点の交差点脇に「おせん公園」がある。公園には「草加せんべい発祥の地碑」が建つ。公園の北側を流れるのが伝右川である。
伝右川はさいたま市緑区高畑(もう少し北の見沼区膝子辺り、とも)を源とし、同区の大門に到る。大門地区からは綾瀬川に沿って川口市戸塚の低地を流れて草加市市に入る。新栄町で東に流路を変える綾瀬川と離れ、南東へと下り学園町の辺りで流路を東に変え、この地・おせん公園に下る。





この地から伝右川は再び綾瀬川と平行して流れ、札場河岸公園付近では綾瀬川と並行して流れ、足立区花畑で綾瀬川に注ぐ。川の名前は開削者の井手伝右衛門より。寛永5年(1628)関東郡代・伊奈半十郎忠治の家臣であった伝右衛門が低湿地の干拓を目的に開削したとされる。伝右衛門堀とも呼ばれた。 伝右川は川幅が狭いため洪水被害も多く、昭和3年(1928)には増水時に綾瀬川に水を流す「一の橋放水路」が掘られている。県道162号に沿って、新栄小学校の南を東西に貫く水路がそれであろう。





伝右川は綾瀬川の支流では最も水質が悪く、草加市の吉町の浄化施設や、埼玉高速鉄道のトンネルを使って荒川の水を伝右川に導水するといった水質改善が行われている、と。水面を眺めるに、臭気は無いものの、水質は依然として濁った状態ではある。

札場河岸公園
県道と旧日光街道の合流点脇に「河合曽良の像」。芭蕉の門人として「奥の細道」を共に辿った俳人である。「河合曽良の像」を見やり横断歩道を渡り、伝右川に架かる「草加六丁目橋」の先は「札場河岸公園」。綾瀬川の舟運華やかなりし頃の河岸跡を公園として整備している。公園に入ったところには芭蕉像や河岸の雰囲気を伝えるためか、望楼が造られている。用水フリークとしては、何をおいても河岸であり堰であるので、望楼や芭蕉を差し置いて、まずは公園の南端にある札場河岸跡と甚左衛門堰へと向かう。

札場河岸
望楼を見やり休憩所を越えて少し南に進むと綾瀬川に船着場らしき石段。札場河岸跡は綾瀬川災害対策事業の終了を記念し平成元年(1989)から3年にかけて整備されたもの。ぱっと見た目には、最近整備されたものとは思えなかった。船着場には柵があり下りることはできなかった。
札場河岸はもともと甚左衛門河岸と呼ばれ、野口甚左衛門の私河岸。札場河岸と呼ばれたのは、甚左衛門の屋号が「札場」であり、また、安政大地震により御店を河岸脇へ移転したため。
甚左衛門は年額12両の河岸使用料を請負業者から受け取る代わりに、この河岸から130mほど下流の谷古宇土橋までの堤防の修理を行うことを、その義務とした。
綾瀬川の舟運は、江戸時代の中期から、草加地区と江戸を結ぶ大切な運河として多くの船が行き交い、草加、越谷、粕壁(春日部)など流域各所に河岸が設置され、穀物等の集散地としてまちが発展した。この札場河岸では草加宿や赤山領(現・新田地区の一部)の年貢米を積み出し、そのほかさまざまな荷の船積み、荷揚げをおこない、舟運は、明治、大正に至るまで発展を続たが、鉄道の開通など陸上交通が急速に発展したことで衰退し、昭和30年代には姿を消した。

甚左衛門堰
札場河岸の右手には甚左衛門堰がある。建設当初の姿を留める煉瓦造りの堰は、用水フリークには誠に有り難い遺構。案内によれば、「明治二十七年から昭和五十八年までの約九十年間使用された二連アーチ型の煉瓦造水門。煉瓦は、横黒煉瓦(鼻黒・両面焼煉瓦ともいう。)を使用している。煉瓦の寸法は、約21cm×10cm×6cm。煉瓦の積み方は段ごとに長平面と小口面が交互に現れる積み方で、「オランダ積」あるいは「イギリス積」と呼ばれる技法を用いている。
煉瓦造水門『甚左衛門堰』は、古いタイプの横黒煉瓦を使用しており、建設年代から見てもこの種の煉瓦を使った最後期を代表する遺構である。また、煉瓦で出来た美しい水門は、周囲の景観に溶け込み、デザイン的にも優れたものであり、建設当初の姿を保ち、保存状態が極めて良く、農業土木技術史・窯業技術史上でも貴重な建造物である(草加市教育委員会)」、とあった。

望楼
河岸跡や堰でゆったり時間を過ごした後、今度は綾瀬川に沿って草加の松並木を少しだけ北に辿る。甚左衛門堰を離れるとすぐに先ほど通り過ぎた望楼閣。五角形の建物の高さは11mほどの見張り櫓。内部を上ることもできるとのことだが、パス。某建築設計事務所の作品としてこの望楼が記されていたので、造られたのはそれほど昔、というものではないようだ。
子規歌碑
望楼の隣りにある休憩所の後ろに正岡子規の歌碑。「梅を見て 野を見て行きぬ 草加まで 子規」。案内によれば、明治27年(1894)、東京郊外に梅を愛でる吟行のため高浜虚子とともに上野の根岸から歩きはじめ、草加に立ち寄った時に詠ったもの。

松尾芭蕉像
札場河岸公園の入口にあった芭蕉像まで戻る。この像は『おくのほそ道』旅立ち300年を記念して製作されたブロンズ像。友人や門弟たちの残る江戸への名残りを惜しむかのように江戸を見返る姿、とのこと。
綾瀬川に沿って続く松並木を辿ると、松尾芭蕉に関する説明が記載された看板が建っていた。解説板によると;「1689年(元禄2) 3月27日、46歳の松尾芭蕉は、門人の曽良を伴い.奥州に向けて江戸深川を旅立ちました。深川から千住宿ま舟で行き、そこで見送りの人々に別れを告げて歩み始めたのでした。この旅は、草加から、日光、白河の関から松島、平泉、象潟、出雲崎、金沢、敦賀と、東北・北陸の名所旧跡を巡り、美濃国大垣に至る600里 (2400km)、150日間の壮大なものでした。この旅を叙したものが、日本三大古典に数えられる「おくのほそ道』です・
 月日は百代の過客にして、行きかふ年も又旅人なり。舟の上に生涯を浮かべ、馬の口をとらへて老をむかふる者は、日々旅にして、旅を栖とす・・・・

あまりにも有名なその書き出しは、「予もいづれの年よりか、片雲の風に誘はれて漂泊の思ひやまず・・・」と続き、旅は日光道中第2の宿駅の叙述に進みます。
もし生きて帰らばと、定めなき頼みの末をかけ、その日やうやう早加(草加)といふ宿にたどり着きにけり

 芭蕉は、肩に掛かる荷物の重さに苦しみなから2里8町(8.8km)を歩き、草加にたどり着きました。前途多難なこの旅への思いを吐露したのが草加の条」です。「おくのほそ道」の旅は、この後草加から東北へと拡がっていくことになります)、とある。

日光街道の松並木
公園から北には綾瀬川に沿って松並木が続く。この松並木は先回の散歩でメモしたように、天和3年(1683年)に伊奈半左衛門がおこなった綾瀬川直線化工事の区間であり、綾瀬川に沿って日光街道が通る。松林は日光街道に沿っておよそ1.5キロ、江戸時代より「草加松原」「千本松原」と呼ばれる名所となっていた。松並木は天和年間の開削工事に合わせ日光道中を開削した時に植えた、とも言われるが、寛延4年(1751年)成立の『増補行程記』(盛岡藩士清水秋善筆)には松並木は描かれてはいない。寛政4年(1792年)に1230本の苗木を植えたということが記録に残り、文化3年(1806)完成の『日光道中分間延絵図』には街道の両側に松林が描かれている。
松並木の続く遊歩道には矢立橋、百代橋などという如何にも芭蕉を想わせるような橋が続く。日光街道の趣きを演出するためだろうか、橋の形も太鼓橋のようなものになっている。百代橋の南詰めには橋名の由来碑。碑面に「月日は百代の過客にして、行かふ年も又旅人也」の文字を刻む。

松尾芭蕉文学碑
橋の北詰めんには「おくのほそ道」の草加の段を刻む松尾芭蕉文学碑。「ことし元禄二とせにや、奥羽長途の行脚只かりそめに思ひたちて、呉天に白髪の恨を重ぬといへ共、耳にふれていまだめに見ぬさかひ、若生て帰らばと、定なき頼の末をかけ、其日漸早加と云宿にたどり着にけり。痩骨の肩にかゝれる物、先くるしむ。只身すがらにと出立侍を、帋子一衣は夜の防ぎ、ゆかた・雨具・墨筆のたぐひ、あるはさりがたき餞などしたるは、さすがに打捨がたくて、路次の煩となれるこそわりなけれ。また、その北隣りには奥の細道文学碑。「その日ようよう草加という宿にたどり着にけり」と刻する。

■伝右川を下る
草加の松並木を百代橋辺りで折り返し、再び南へと下ることにする。川筋は綾瀬川に沿って下るか、伝右川に沿って下るか少々迷ったのだが、結局は伝右川筋を歩くことにした。理由は特にないのだが、どうしたところで本日の最終目標地である花畑の大鷲神社の辺りで伝右川は綾瀬川に合流するわけで、それなら散歩をはじめるまで名前も知らなかった川筋を歩いてみよう想ったのではあろう、か。

谷古宇稲荷
甚左衛門橋まで戻り、神明排水機場を左に眺めながら伝右川を下る。八条小橋を越えて100mほど進んだところに谷古宇稲荷がある。創建は不詳。神体は自然石とのこと。神社の建物は18世紀後半から19世紀はじめの特徴を示すと言う。境内の眷属である狐の像は素朴な表情とともに、子狐をあやす姿が誠に、いい。眷属の台座には、草加宿商家の屋号と女性の名前が刻まれており、多くの人々の信仰をあつめた証しではあろう。

先回の散歩において、谷古田用水のところでメモしたが、谷古宇とはこの地だけに残る古い地名とのこと。江戸時代後期の地誌『新編武蔵風土記稿 足立郡之四』の谷古田領本郷村(現在の川口市本郷)の項に、「本郷村ハモト谷古田郷ト唱ヘシヨシ云伝フレバ、其本郷タルコト知ベシ。按ルニ鶴岡八幡宮ニ蔵スル古文書及ビ東鑑ニ武蔵国矢古宇郷ヲ鶴岡社領ニ寄進アリシ由載タルハ、則此邊ノコトナルベシ。今此領ニ属スル村ニ谷古宇ト称スル所アリ。是古ノ遺名ニシテ舊クハ此邊スベテ矢古宇郷ト唱ヘシヲ、後イカナル故ニヤ谷古田ト改メ、今ハ領名トナリシナラン」、と。また『東鑑』にも、承久3年(1221年)鎌倉の鶴岡八幡に寄進されという50町の矢古宇郷(草加市神明)の記述が残る。何故か後世、矢(谷)古宇が矢古田に改められた、とある。
鎌倉時代の谷古宇郷の地頭の名に谷古宇右衛門次郎の名が残る。また、谷古宇という姓は全国に1200ほどあると言うが、その40%から50%は埼玉にある、とのことである。
いつだったか足立区の北端を彷徨ったとき、草加の南を区切る毛長川流域・足立区の竹の塚に伊興遺跡があった。毛長川流域に古代栄えた一帯であり、埼玉古墳群の先駆けとなるような豪族の存在があった、とのことであるが、それよりなにより、この「伊興」は「伊古宇」であり、「伊古宇」も「矢(谷)古宇」も同じ意味、というかどちらか一方から音が変化したもの、との説がある。「い」も「や」も「湿地」を著す、とか。「古宇」は市川の国府台(こうのだい)に代表される「国府」とも。湿地にある国府のような政治の中心地の意味、と言う。その説が妥当か否か、門外漢には判断できないが、鎌倉時代の『東鑑』に伊興遺跡や伊興古墳群が存在する足立区伊興を管轄する地頭として「伊古宇又二郎」の名が登場する。伊古宇も矢古井戸も地元の有力者であったことは間違いないようだ。

椎の木稲荷
南へ下り、谷古宇新橋を越え、道脇の椎の大木を過ぎた少し南に椎の木稲荷。畑の脇に僅かに残った数本の大木の下に祠がかろうじて残るといった社である。境内などといった趣は何も、ない。落雷の被害に遭った、とか。

天満宮
椎の木稲荷を過ぎた頃より、伝右川の先に東京スカイタワーが見える。なかなか、いい眺めである。更に南へ200mほど進むと県道327号(鶴ヶ曽根・草加線)。この道を東に進めば草加駅にあたる。この県道沿い、裏手に伝右川を見下ろすように天満宮がある。創立は不詳とのこと。
県道327号に架かる東小橋、その南の地蔵橋を越え先に進む。地蔵橋の南100mほどのことろに灌漑用の水門であった手代堰跡がある、とのことだが、探すも、結局見つけることができなかった。
手代堰跡は見付けられなかったが、川沿いにいくつかの野仏、皇太子御降誕記念碑とともに「成田山」と刻まれた大きな石碑があった。成田山参詣を記念した石碑であろう、か。
手代の由来はこの辺りが古くから手代、手白、手城などと呼ばれており、大字吉笹原字手白と大字谷古字の一部を合わせて町とする時、手代町とした。

日枝神社
上山王橋、山王橋へと下る。山王橋の右手前に日枝神社。創立は不詳であるが、境内の手洗石や石灯籠、そして本殿の棟札に残された記録から19世紀の前半頃には社があったかと推測されている。彫刻の施された一間社流造りの本殿は市の文化財指定を受けている。
この橋と神社のように山王と日枝はペアで登場することが多い。その理由は、日枝神社は、日吉山王権現が明治の神仏分離令によって改名したもの。「**神社」って呼び方はすべて明治になってからであり、それ以前は「日吉山王権現の社(やしろ)」のように呼ばれていた(『東京の街は骨だらけ』鈴木理生:筑摩文庫)。その日吉山王権現という名称であるが、これって、神+仏+神仏習合の合作といった命名法。日吉は、もともと比叡山(日枝山)にあった山岳信仰の神々のこと。日枝(日吉)の神々がいた、ということ。次いで、伝教大師・最澄が比叡山に天台宗を開いき、法華護持の神祇として山王祠をつくる。山王祠は最澄が留学修行した中国天台山・山王祠を模したもの。ここで、日吉の神々と山王(仏)が合体。権現は仏が神という仮(権)の姿で現れている、という意味。つまりは、仏さまが日吉の神々という仮の姿で現れ、衆生済度するということである。

吉町浄水場
南に下ると吉町浄水場。草加市にある5つの浄水場(新栄配水場、中根浄水場、吉町浄水場、旭浄水場へ、谷塚浄水場)のひとつ。草加市の上水は江戸川水系と荒川水系から(これを「県水」と呼ぶ)の水と地下水によってブレンドされてつくられている。ブレンド率は県水85%と地下水15%とのこと。江戸川水系の県水は庄和浄水場(春日部市)経由と、新三郷浄水場(三郷市)経由。荒川水系は、大久保浄水場(さいたま市)経由となる。庄和浄水場の水は中根浄水場とこの吉町に送られ市内へ、また中根浄水場(市内の北東側)を経由して旭浄水場(松原団地一帯)から市内へ、この吉町上水場を経由し谷塚浄水場(市内の東南部)から市内に送られる。新三郷浄水場からは新栄浄水場(市内の北西部)に送られ市内へ。一方荒川水系の水は大久保浄水場から新栄浄水場を経て市内へ送られる。
地下水と言えば、原発事故で放射能が問題になったとき、この草加では地下水を各家庭に配給したことでニュースになっていた。

吉原の地名は昔の地名である吉笹原の「吉」から採ってつくられた。吉笹原は江戸時代初期は吉篠原村と呼ばれ、その後、吉笹原村と改められた。1もともと芦や笹の繁る「芦篠原」と呼ばれていたが、「芦」という読みは「あし(悪)」につながるということで、「芦」をめでたい「よし(吉)」に変えたもの、とか。

伝右川浄化施設
県道54号を越えて先に進むと伝右川の流路は直角に曲がる。その角に伝右川浄化施設があった。伝右川浄化施設の上はテニスコートやグランドになっている。案内によれは、伝右川の水を取り込み、水質汚染の原因となる有機物等を浄加槽内に設置した球状砕石集合体に生息する微生物の代謝活動により分解し浄加し、再び伝右川に戻す。伝右川が直角に曲がるところに暗渠となった水路がある。これは赤堀用水とのことであるが、伝右川浄化施設からの水はこの赤堀用水を経て伝右川に流されているようである。
赤堀用水とは大門村差間(現在の川口市差間)に設けられた用水。関東郡代伊奈氏の赤山領を流れる灌漑用水。川口市の安行中学辺りから草加市の氷川町を経てこの地へと下っているのだろう。

伝右川排水機場
伝右川と赤堀用水の合流点で道は行き止まりとなる。右に折れすぐに左に折れ、瀬崎中学校脇を南東に下る。ガスタンクが見える手前で左に折れ、伝右川の川筋に出る。草加市記念体育館脇を進み成り行きで伝右川の橋を渡り「あやせ川清流館」にちょっと立ち寄り、伝右川排水機場に。
伝右川排水機場は、伝右川と綾瀬川、そして毛長川の合流部に位置し、草加市、八潮市に大きな被害をもたらした昭和56年(1981)の台風24号の激特事業の一環として、伝右川流域の洪水、内水被害の軽減を目的として建設。平成16年(2004)に完成した。

伝右川・綾瀬川・毛長川の合流部
伝右川排水機場の脇に立ち、左手から下る綾瀬川、右手から合流する毛長川、そして排水機場の水門から注ぐ伝右川の合流点を眺める。この伝右川排水機場のある三川が合流する三角州といった辺りは東京都足立区花畑。元は花俣(又)村。明治に近隣の村が一緒になるとき、もとの花又村の{花}と、近辺が畑地であったので「畑」を加え、「花畑」に。それはともあれ、もとの花又であるが、花 = 鼻 = 岬・尖ったところ。又 = 俣>分岐点。毛長川と綾瀬川、伝右川のが合流・分岐する三角洲、といった地形を美しく表した名前である。現在はこの三角州の部分だけが毛長川の北に飛び地といった案配で足立区となっているが、往昔、河川改修が行われる以前は流路がこの飛び地の北端辺りであったのだろう、か。単なる妄想。根拠なし。

毛長川
で、右から合流する毛長川であるが、埼玉県川口市東部(安行慈林辺り)に源流点をもち、市内を南へ下り、草加市と足立区の境を東流し、この地で綾瀬川に合流する。依然、足立区散歩の折り毛長川という名前に惹かれてその由来などを調べたことがある。そのときのメモ;毛長川を隔て、埼玉の新里すむ長者に美しい娘。葛飾・舎人の若者と祝言。婿殿の実家と折り合い悪く実家に戻ることに。その途中沼に身を投げる。その後、長雨が続くと沼が荒れる。数年後沼から長い髪の毛を見つける。娘のものではないかと、長者に届ける。長者感激。ご神体としておまつり。それ以降沼が荒れることがなくなる。その神社が現在新里にある毛長神社。沼を毛長沼と。
それと、毛長川流域に伊興遺跡などの有名な古墳がある、何故にこの地に、などと好奇心に駆られチェックした。そのときのメモによると:「毛長川は、古墳時代の入間川の流路跡、とか。そして古墳時代の入間川は利根川水系の主流で、熊谷>東松山>川越>大宮>浦和>川口>幡ヶ谷、と下り、現在の毛長川に沿って流れ足立区の千住あたりで東京湾に注いでいた、とのことである。葛飾・柴又散歩のとき、東京下町低地の二大古墳群は柴又あたりと毛長川流域とメモした。そのときは、それといったリアリティはなかった。が、千住あたりが当時の海岸線である、とすれば、この毛長川流域、って東京湾から関東内陸部への「玄関口」。交通の要衝に有力者が現れ、結果古墳ができても、なんら違和感は、ない」、と。
現在入間川は飯能辺りを源流都市、川越とさいたま市の境あたりで荒川に注ぐ。江戸の荒川西遷事業の頃は、現在の荒川・隅田川の流路を下っていた、というが、現在の元荒川・古利根川筋を流れていた荒川の流れを、西に流れる入間川に瀬替しする荒川西遷事業という大工事によって、入間川は荒川に「吸収」された、ということではあろう。

大鷲神社
毛長川を渡り本日の最終目的地である大鷲神社に。鬱蒼とした社の森に社殿が佇む。この神社を訪れたのはこれで3度目、か。はじまりは、このこの神社が「酉の市の発祥の地」らしい、ということで訪れた。そのときのメモ;「大鷲神社。大鷲神社はこの地の産土神。中世、新羅三郎源義光が奥州途上戦勝祈願。凱旋の折武具を献じたとか。
ここは酉の市の発祥の地。室町時代の応永年間(1394 - 1428年)にこの神社で11月の酉の日におこなわれていた収穫祭がお酉さまのはじまり。「酉の待」、「酉の祭り」が転じて「酉の市」になった、とか。
この地元の産土神さまのおまつりが江戸で有名になったのは、近隣の農民ばかりでなく広く参拝人を集めるため、祭りの日だけ賭博を公認してもらえたこと。賭博がフックとなり千客万来。江戸から隅田川、綾瀬川を舟で上る賭博目的のお客さんが多くいた、と。が、安永5年に賭博禁止。となると客足が途絶える。新たに浅草・吉原裏に出張所。これが大当たり。本家を凌ぐことになった。賭博にしても、吉原にしても、信仰といった来世の利益には、こういった現世の利益が裏打ちされなければ人は動かじ、ってことか。ついでに、参道で売られた熊手も、もとは近隣農家の掃除につかう農具。ままでは味気ないということで、お多福などの飾りをつけて販売した。
「大鷲」の名前の由来:この産土神さまは「土師連」の祖先である天穂日命の御子・天鳥舟命。土師(はじ)を後世、「ハシ」と。「ハシ」>「波之」と書く。「和之」と表記も。「ワシ」と読み違え「鷲」となる。ちなみに、天鳥舟命の「鳥」とのイメージから「鳥の待ち」に。この待ちは、庚申待の使い方に同じ。鳥の話、といえば、鉄道施設と鳥のかかわり。東武伊勢崎線はこの花畑地区を通る予定だったらしい。が、この「陸蒸気」、その轟音と煤煙でにわとりが卵を産まなくなる、とか、大鷲神社の「おとりさま」に不快な思いをさせるのは畏れ多い、ということであえなく中止。電車が通っていたら、この辺りの環境は今とは違った姿に、なっていたのでは、あろう」、と。大鷲神社を離れ、記念体館前まで北へと少し歩き、バス停で最寄りの駅まで進み、本日の散歩を終え一路家路へと。 

先日、旧中川を歩いた時、荒川放水路で切り離された中川に合流する綾瀬川に出合った。2004年と2010年の水質ワーストワンといったあまり有り難くないタグ付けされたこの綾瀬川であるが、この川は江戸の頃、利根川の東遷事業や荒川の西遷事業が実施される以前に江戸に流れ込んでいた利根川・荒川水系の本流であった。当時の利根川・荒川は現在の綾瀬川源流点の近く、桶川市と久喜市の境までは元荒川筋の流路を下り、そこからは上尾、さいたま、越谷、草加へと現在の綾瀬川の流路を下っていた、と言う。草加から下流の川筋は流路定まることなく、洪水の度に川筋が変わる氾濫原の低湿地帯であった、とか。綾瀬川の名前の由来が、流路定まることのない、「あやし川」から、との所以でもある。
歩くこともままならないこの低湿地帯を北に進むには、氾濫原を蛇行する河川の自然堤防を辿ったのではあろうが、慶長11年(1606)には大川図書が草加の地の茅野を開き、沼を埋めて、八潮の八条、大相模へと大きく東に迂回していたそれまでの奥州街道をまっすぐに越ヶ谷に進む新道を開いた、と。また、江戸に入ると、代官伊奈氏により足立郡内匠新田(足立区南花畑)から葛飾郡小菅(小菅)に、流量を調節すべく新たに水路を開削した。これが現在の綾瀬川の水路となっている。
その後、五街道制定にともない、寛永7年(1630年)に草加宿の設置が決まる。これに合わせ、天和3年(1683年)に蒲生大橋(東武伊勢佐木線新田駅の北東)辺りから九十九曲がりと称され、千々に乱れる綾瀬川の流路の直線化工事を行った。直線化工事とは、この蒲生大橋から古綾瀬川との合流点辺りまでの一直線になった綾瀬川の区間ではあろう。綾瀬川と平行する日光街道の松並木で知られる区間でもある。当時の日光街道(奥州街道)は、江戸付近の千住宿から、いったん東に回って松戸宿を経由し、西に戻って越ヶ谷宿に出てから北に向かっていたが、これ以後、日光街道は一部綾瀬川沿いを通るようになった。

中・下流域では千々に乱れる綾瀬川であるが、それでもその流路としては、一筋は足立区花畑あたりから東へと向かい、松戸の近くで江戸川に流れ込んでおり、そして、もうひと筋は水元公園の辺りから中川筋(といっても、開削される前の古利根川の細流)へと下ったようであると、先日の中川散歩でメモした。その時は草加辺りを直線に下る綾瀬川が江戸の開削工事の結果ということがわかっておらず、綾瀬川の乱流は花畑辺りから下流かとも思ったのだが、実際はもっと上流、草加の蒲生大橋の辺りからはじまっていたようである。
地図を眺めていると草加の蒲生大橋の辺りから蛇行を繰り返す川筋跡が目に止まった。川の名前も古綾瀬川とある。これはもう実際に歩き、古い綾瀬川の川筋を辿るべしと、とある週末、草加へと出かけることにした。



本日のルート;東武伊勢崎線・新田駅>金明・鳩ヶ谷線>閻魔堂跡>金明通り>稲荷神社>田中家ふるさとの森>天満宮>松森稲荷>金明氷川神社>宝積寺>綾瀬川>綾瀬大橋>蒲生大橋>蒲生の一里塚>藤助河岸>古綾瀬川暗渠>葛西用水>八幡神社>浅井家ふるさとの森>外環状道路>厳島神社>観正院>女軀神社>谷古田用水>草加宿松並木>東武伊勢崎線・松原団地駅

東武伊勢崎緯線・新田駅
古綾瀬川の川筋跡が現在の綾瀬川から分かれる蒲生橋の最寄りの駅である東武伊勢崎線・新田駅に向かう。草加駅、松原団地駅を越え新田駅で下車。駅名の由来は、江戸の頃盛んに開墾された「新田」から。元禄から亨保(きょほう)までの田を「古新田」、以降のものを「新田」と称するとのことだが、明治になり9ヵ村を合併して誕生した村のうち、6ヵ村が近世開発新田だったところから「新田」と命名し駅名にもなった、とか。
明治13年(1880)の草加の地図を見るに、新田駅の西には、綾瀬川に沿って南から「九佐衛門新田(現在の旭町;以下同じ)」「金右衛門新田(金明町)」「長右衛門新田(長栄町)」「新兵衛新田(新栄町)」「九左衛門新田(旭町)」、その南、伝右川に沿って北から「清右衛門新田(清門町)」「善兵衛新田(新善町)」「弥惣右衛門新田(栄町)」と確かに、九つの新田が記されている。奇妙なのは現在の綾瀬川の東には「新田」と名のつく地名はほとんど見あたらない。新田駅周辺に限らず草加市域全体を見ても、新田と名前のついた地名は綾瀬川の東だけである。そもそも伝右川は17世紀の前半、鈎上新田(現・さいたま市岩槻区)の伝右衛門により、新田開発を目的として開削された河川であり、一帯の低湿地の悪水を落とし新田開発を容易にしたものであるわけで、新田が多いには当然ではあるか、とも。
ということで、新田跡の「今」が如何なるものかと、新田駅を下りて、すぐに駅の東にある蒲生橋の古綾瀬川流路の分岐点へと進む前に、新田駅の西側を彷徨うことにした。

閻魔堂跡地
駅の西口側に下り、成り行きで県道328号・金明・鳩ヶ谷線を進む。この辺りの金明町は昭和33年(1958)の市制施行の際、大字である「金右衛門新田」を改めたものである。
金明・鳩ヶ谷線を進み、北に折れて新田幼稚園の手前に閻魔堂跡地。上組・下組・八木組の三組からなる金右衛門新田のうち、八木組持ちの閻魔堂があったところ。昭和60年(1985)に取り壊されたとのことだが、なんらかの名残でも、と訪れるも、なにも、なし。





稲荷神社
幼稚園前の道を北に進むと金明通りに当たる。通を西に折れ、少しすすみセブンイレブンの手前を入り用水路跡らしき道筋を進む。この用水路跡は「川戸落し」と呼ばれる用水路に繋がる、とか。川戸落しは草加市の北端、川口市との境にある新栄団地辺りから先ほど駅から辿った県道328号をもう少し西に進んだ新田小学校辺りに向かって下る、とのことである。




それはともかく、用水路跡の暗渠を先に進むと誠にささやかな祠。祠の中にお狐さまに跨る宇迦之御魂命を描く掛け軸が架かる、とか。掛け軸には「笠間稲荷」の印がある。この祠は江戸末期のもの、と言う。
この辺りも昭和40年(1965)頃までは一面の田畠であったとのことだが、現在では周囲を宅地で囲まれ、神社の廻りに畑地が残る、のみ。






天満宮
稲荷神社から成り行きで北に進み、屋敷林(「ふるさとの森田中家屋敷林」)などを眺めながら東に折れ用水路跡とおぼしき暗渠を進むと天満宮(金明町1212)。明神鳥居をくぐると、右側には4つの石仏が並んでいる。一番左の六十六部供養塔。寛政元年(1789)と刻まれている。
六十六部供養とは法華教六十六部を書き写し、全国六十六カ所の霊場に一部ずつ奉納して廻ること。その巡礼または遊行の僧を六十六部(六部とも)と称し、白衣に手甲・脚絆・草鞋がけ、背には阿弥陀尊を納めた長方形の龕(がん)を負い、六部笠をかぶった姿で諸国をまわった。



六十六部は物乞い、行き倒れも多く、その場所には六部塚がつくられた。この供養塔がこのような六部僧の供養のためのものか、巡礼を終えた六部尊の記念のためにつくられたものか、どちらだろう。左から二番目の地蔵菩薩には、宝永4年(1707)と刻まれている。あと右二つの石仏は崩れて刻字は不明であった。社ヒノキの柱が立派な瓦葺、寄棟造の社殿の姿は御堂のようにも見える。内部に本殿が納められているのだろう、か。社殿は新しく、昭和53年(1978)に再建された、とか。



松森稲荷
天満宮から西に進み、長栄町と金門町の境の道を少し南に下り、新田中学校・長栄小学校に折れる隅に茅葺きの屋根をもつ松森稲荷がある。創立は不詳であるが、この辺りから西側の長右衛門新田(現在の長栄町)は元和・寛永(17世紀の前半から中頃)の頃の開発であるので、この社はそれ以降のものではあろう。長栄町は北を綾瀬川、南を清門町と新栄町、西を川口市との境あたりで綾瀬川まで町域を拡げた新栄町、東を金明町に囲まれた一帯である。




金明氷川神社
長栄町と金明町の境の道を北に進む。長栄町の北端、T字路を右に折れ金明町を200mほど進むと、旭神社がある。通称金明氷川神社と称される。もとは氷川の社であったものが、明治40年にこの近隣36の社を合祀し旭神社と改めた。社の創建は不詳。境内の石碑に明和2年(1765)、享保9年(1724)と刻まれており、金右衛門新田の鎮守であるとすれば、この頃の創建であろう、か。鳥居には藁で編んだ注連縄を絡ませている。蛇ねじりの行事は豊作と悪疫退散を願った神事とのこと。町内を4組に分けて注連縄つくりを担う、とのこと。注連縄の頭は当番となった地域に向ける、とのことだが、どこが蛇の頭なのか、いまひとつわからなかった。
また、この社には算額が奉納されている。案内によれば、江戸から昭和にかけて、和算家が解法を祈願、また祈願成就の御礼に奉納したもの。全国に数百、埼玉に90ほどの算額があるとのことであるが、この社の算額は埼玉で7番目に古いもの、とか。草加地方の和算家として大川図書の名前が記してあった。上でメモしたように大川図書って、それまで大きく東に迂回していた奥州街道を、茅野を開き湿地を埋めて、越ヶ谷に向かってまっすぐな新道を開いた。また、草加の地に宿駅を置くように幕府に願い出て、周辺9ヶ村で恆成する草加宿を開いた人物と言われる。土木工事に算術を活用したのだろうか。神社の裏手には綾瀬川が流れ、川底から縄文時代の丸木舟が出土している。

宝積寺
氷川の社から200mほど東に進むと宝積寺。創建は慶長年間(1596-1615)とのこと。このお寺さまは千体地蔵が知られる。案内によると、境内の地蔵堂に祀られているようであり、あちこち境内を彷徨うが、それらしきものは見あたらない。結局は本堂の中に祀られていた。ほの暗い本堂の奥に並ぶ千体地蔵を目をこらして眺め、そしてお詣りを済ます。
案内によれば;宝積寺は金明山と号し、本尊に、弥陀を安置する新義真言宗の寺である。当寺の千体地蔵は、境内に新築された地蔵堂に安置されており、須弥壇中央に本尊の勝軍地蔵及び両脇侍地蔵を置き、その周囲に1列50体、20段にわたって千体の小地蔵を並列している。
本尊の勝軍地蔵は鎧、兜に身を固め、右手に錫杖、左手に宝珠を持ち、白馬に騎乗する姿の寄木造、彩色からなり総高40.5cmである。両脇侍の地蔵は、ともに一木造、彫眼、色彩からなり、像高は約39.4cmで、右脇侍は黒衣を、左脇侍は朱衣をまとっている。また、千体の小地蔵は、平均像高23.0cmほどで、概ね黒衣をまとうが、うち横1列10体毎に、数を計る目安にするためか、朱衣の地蔵を置く。
この千体地蔵の構造は、だいたい一木造、彫眼、色彩からなるが、一部に薄材を前後二材寄せ、足先を別につけた寄木造のものがある。これは、後世の補作によるものとも思われる。
千体地蔵は、地蔵菩薩が六道に苦しむ衆生を教化するため分身した有様を造形化したもので、中世を頂点にかなりの作例がある。この宝積寺の千体地蔵は、作風から見て江戸時代後期頃の造立と見られるが、今日までほぼ完備した姿で伝えられているのは珍しく、貴重な存在である。
なお、その後の地蔵堂改築により、現在は左右2箇所に別けられて安置されている(草加市教育委員会)」、と。境内に新築された地蔵堂、って見つけることができなかったのだけど。。。

蒲生大橋
宝積寺を離れ、綾瀬川の堤を進み東武伊勢崎線を潜り、県道49号・日光街道に掛かる綾瀬橋を越え蒲生大橋に。橋の真ん中が市境となっており、対岸は越谷市である。ここは天和3年(1683年)、関東郡代・伊奈半左衛門が九十九曲がりと称され、千々に乱れる綾瀬川の流路の直線化工事を行った北端。今から辿る改修前の綾瀬川(古綾瀬川)は蒲生大橋の東詰め辺りから蛇行を繰り返し、東へと向かい、葛西用水の手前あたりで流路を南に替え、蛇行を繰り返しながら南西へと向かい、草加駅の北東辺りで綾瀬川に合流している。
直線化工事とは、この蒲生大橋から古綾瀬川との合流点辺りまでの一直線になった綾瀬川の区間ではあろう。綾瀬川と平行する日光街道の松並木で知られる区間でもある。
昔の日光街道はここで綾瀬川の東側に移っていたようであり、この地に土橋が掛かっていた、とのこと。文化3年(1806) の『日光道中分間絵図』には大橋土橋と記され、長さ12間4尺、幅2間1尺であった、とか(一間は六尺;一間はおよそ1.8m)。





蒲生の一里塚
橋を渡ったところに「蒲生の一里塚」。案内によると;「文化年間(1804~1818)幕府が編纂した『五街道分間延絵図』には、綾瀬川と出羽堀が合流する地点に、日光街道をはさんで二つの小山が描かれ、愛宕社と石地蔵の文字が記されていて、「蒲生の一里塚」が街道の東西に一基づつ設けられていたことがわかる。現在は、高さは2m、東西幅5.7m、南北7.8mの東側の東側の一基だけが、絵図に描かれた位置に残っている。
また、塚の上にはムクエノキの古木・太さ2.5mのケヤキのほか、マツ・イチョウが生え茂っている。多くの塚が交通機関の発達や道路の拡幅などによって姿を消した中にあって、『蒲生の一里塚』は埼玉県内日光街道筋に現存する唯一の一里塚である(埼玉県教育委員会 越谷市教育委員会)」、と。出羽堀とは二代将軍秀忠の頃、越ヶ谷の土豪である会田出羽が越谷の出羽地区の沼沢地を干拓し開削した水路。地図を見るに、北越谷の県民福祉村公園から南越ヶ谷駅に向かって南東に下り、駅の手前で南に流路を替える水路らしきものが見てとれる。蒲生の一里塚の南で綾瀬川に合流する水路があり、一里塚を挟んで北に水路、そしてその先に緑道らしきものがあある。これが現在の出羽堀ではあろう。

藤助河岸
蒲生の一里塚から綾瀬川に合流する出羽掘を越えると、蒲生大橋の袂に藤助河岸跡がある。「地酒 越ヶ谷宿」の看板が掛かる古き風情の店舗が河岸の名残を伝える。綾瀬川の堤にある案内によれば、「綾瀬川通りの蒲生の藤助河岸は、高橋藤助氏の経営によるもので、その創立は江戸時代の中頃と見られている。当時綾瀬川の舟運はことに盛んで年貢米はじめ商品荷の輸送は綾瀬川に集中していた。それは延宝8年(1680)幕府は綾瀬川通りの用水引水のための堰き止めを一切禁止したので、堰による荷の積み替えなしに江戸へ直送できたらで、以来綾瀬川通りには数多くの河岸場が設けられていった。
明治に入り政府は河川や用水路普請に対する国費の支給を打ち切ったので、とくに中川通りは寄洲の堆積で大型船の運航は不可能になり中川に続く古利根川や元荒川の舟運は綾瀬川に移っていった。
この中で陸羽道中(旧日光街道)に面した藤助河岸は地の利を得て特に繁盛し、大正2年(1913)には資本金5万円の武揚水陸運輸株式会社を創設した。当時この河岸からは、越谷・粕壁・岩槻などの特産荷が荷車で運ばれ、高瀬船に積み替えられて東京に出荷された。その出荷高は、船の大半を大正12年の関東大震災で失うまでは、年間18,000駄着荷は20,000駄以上に及んだといわれる。この河岸場は昭和初期まで利用されていた。なお、ここに復元された藤助河岸場は、藤助18代当主高橋俊男氏より寄贈されたものである(越谷市教育委員会)」、と。
綾瀬川の舟運が盛であったのは、蛇行が多く、蛇行が多いということは水流がそれほど激しくもなく水量も安定していた、ということと、そして、延宝8年(1680)に幕府が綾瀬川用水堰禁止令が発布し、綾瀬川に取水堰がなくなり、往来の妨げがなくなったこと、それに天和3年(1683年)代官伊奈半左衛門により、乱流する綾瀬川を改修し、直線に南に通したことなどがその要因のようである。

■古綾瀬川を辿る



谷古田河畔緑道
さて、やっと本日の目的である古綾瀬川を辿る出発点にやってきた。とはいうものの、古綾瀬川の始点がどこにあるのかはっきりしない。藤助河岸辺りを彷徨い、水路跡らしきところを探すと、綾瀬川から北東に延びる下水溝が目に付いた。なんらかの「展開」があるものかと先に進むと緑道というか親水公園といった風情の水路に出た。これが古綾瀬川かと少しすすむと案内があり、「谷古田河畔緑道」とあった。
谷古田河畔緑道は越ヶ谷駅の東、葛西用水や八条用水を分ける瓦曽根溜井から取水した谷古田用水の岸を整備したもの。流路を見るに、葛西用水に沿って小さな水路が南に下り、JR武蔵野線を越えた先から南西に流路を変え、蒲生大橋に向かって進む。これがここの案内の辺りである。谷古田用水はここで再び流路を変えて、南東へと下ってゆく。

古綾瀬川跡
谷古田用水には出合ったのだが、古綾瀬川の流路は何処?と再び彷徨う。と、谷古田用水が流路を南東へと下る、と言っても道路に埋められており、川筋などないのだが、ともあれ、谷古田用水が流路を変えるポイントの民家の裏に開渠となったささやかな水路がある。これが現在の古綾瀬川の水路ではあろう。民家の間をささやかな開渠が蛇行を繰り返し東へと進む。
水路脇に道があるわけでもないので、付かず離れず水路脇を進むと、ほどなく暗渠となる。暗渠のを覆う蓋の上を進む。公園脇を大きく迂回すると再び開渠となり県道115号、通称産業道路に当たる。
県道115号を越えると水路は北東に向かって蛇行を繰り返し進む。県道115号を越えると水路脇に道があり、水路を見ながら先に進む。ほどなく宅地開発された一画に広い農地が現れる。農地の真ん中の緑は屋敷林であろう、か。水路は農地に沿って大きく迂回し葛西用水手前で流離を南東に変え、葛西用水に沿って下る。
流路を地図で辿るに、蛇行を繰り返す古綾瀬川の流路が草加市と越ヶ谷市の市境となっている。川が行政区の境というのはよく見かける。昔の村境が現在の行政区境に反映されているのではあろう。

葛西用水
葛西用水は埼玉県羽生市の川俣で利根川から取水され、加須市・鷲宮町・久喜市・幸手市・杉戸町・春日部市・越谷市・東京都足立区へと続き、足立区からは曳舟川となる。全長70キロ。見沼代用水(埼玉)、明治用水(愛知)とともに日本三大用水のひとつと言われる。
この葛西用水は、自然の流路と溜井という遊水池を組み合わせた関東流の送水路のつくりをその特徴としている。流路については、羽生から加須までは人工的に開削されているが、加須市から下流は、利根川の東遷・荒川の西遷事業により取り残された河道跡や廃川を整備しその流路がつくられている。大雑把に言って加須市大桑から川口までは「会の川」、川口から杉戸までは「古利根川」、杉戸から越谷の瓦曽根溜井までは「大落古利根川」、「元荒川」の河道を使っている、ということだ。
もうひとつの葛西用水の特徴である溜井とは、農業用の溜池といったもの。川のところどころの川幅を広げるなどして、水を溜め灌漑に使っていた。瓦曽根溜井と松伏溜井。松伏溜井は古利根川にある。葛西用水はその松伏の地から南西に一直線に下り、新方川を横切り、越谷の市役所の少し上で元荒川に合流している。
葛西用水は曽根溜井から下流は「東京葛西用水」とも呼ばれている。流れは、南東にほぼ一直線に草加市・八潮市を貫き、足立区の神明に下る。神明から先は、先日散歩した曳舟川の川筋となり、足立区を南下。葛飾区亀戸からは南西に流路を変え、四ツ木で荒川(放水路)を越え(といっても荒川放水路が人工的に開削されたのは、昭和になってから)、墨田区の舟曳・押上に続いている。 葛西用水は関東郡代・伊那氏によって開発された。万治3年(1660年)のことである。

八幡神社
道脇に佇む馬頭観音や石碑だけの「男体八幡神社」などにお詣りをしながら葛西用水脇を進む。ほどなく東に折れ葛西用水から離れた古綾瀬川が再び南に向かって流路を変える辺りに八幡神社がある。
この社は旧槐戸(さいかちど)村の鎮守。本殿と拝殿は天保2年(1831)の造立、とか。神社建築と仏堂建築が合わさった建築手法、とのことではあるが、門外漢にはその有り難みはよくわからない。境内には稲荷社、御嶽山、雷電社の祠が合祀される。槐戸村の由来は、さいかちの木が古綾瀬川の津に生えていた、とか、村に侵入する疫病を防ぐ「塞(さい)の神」による、とか諸説ある。

「浅井家屋敷林ふるさとの森」
八幡神社を離れ、水路に沿って八幡北小学校脇を進むと、左手に屋敷林が見える。ちょっと川筋を離れ屋敷林に向かう。「浅井家屋敷林ふるさとの森」とのこと。とは言うものの、個人のお宅のようであり、外から欅やシラカシ、スダジイが茂る屋敷林を眺めることにする。風格ある母屋や玄関は安政年間(19世紀中頃)のもの、とか。



綾瀬川放水路
水路に戻り、南に下る。草加高校の西を進むと水路は外環状線(東京外郭環状道路)の側水路となっている綾瀬川放水路に合流するかたちで一旦断ち切られる。綾瀬川放水路への合流地点で古綾瀬川はふたつに分かれ、ひとすじは左に分岐し、網一筋は古綾瀬川上流排水機場へと向かう。何の根拠もなく単なる想像なのだが、左に分岐するのが北側の放水路、排水機場へと向かうのが南側の放水路なのではなかろう、か。
綾瀬川放水路は平成4年(1992)、外環状線の建設と平行して計画されたもの。川幅が狭く、洪水を流下させる能力の低い綾瀬川の洪水被害を防ぐため綾瀬川の水を中川に流すべく平成4年(1992)には北側の放水路、平成8年(1996)には南側の放水路が完成した。地下には貯溜槽もある、と言う。北側放水路と南側放水路の役割の違いなど、よくわからないが、単に放水量を大きくするためのものか、とも。因みに平成3年(1991)草加市内で11,000件あった床下浸水の被害は平成8年(1996)には913件まで減少している、とか。

厳島神社
外環道路を越えて、さて次はどこに、と少々迷う。後からわかったのだが、外環道路を東に進んだところから古綾瀬川が南に下り、途中で流路を南西に向け草加駅の北東の辺りで綾瀬川に合流していた。それを見逃し、先ほど古綾瀬川が外環にそった中川放水路に合流したとき、てっきり古綾瀬川の川筋はそこでお終い、と思い込んでしまった。なりゆき任せの散歩のため、後の祭りが結構多いのだが、今回も「懲りない」ケースのひとつ、となった。
で、結局、次の目的地としたのが厳島神社。鬼瓦に結構怖い蛇の装飾が施されている、との話に惹かれ訪れることにした。外環道路を越えて南東に、八幡小学校脇を下る。小学校を越えた辺りに水路が残る。地図でチェックすると古綾瀬川に繋がっている。先に進み「槐戸入口バス停」近くの交差点を右に曲がり厳島神社に。社殿にお詣りし、屋根に目をやり怖そうな鬼瓦を探すも、それらしき趣の瓦を見付けることができなかった。ひょっとすれば拝殿の奥の社殿にあったのか、とも想うのだが今となっては、これまた後の祭りのひとつ、である。
天保12年(1727)建立の石の幟立ての残るこの社には厳島神社ならではの、「弁天」さまの伝説が残る。案内によると、「その昔、水中で連なる光が昇るという不思議な沼があった。その正体を確かめるべく村人が沼に行くと、光の昇る沼底に一体の弁天様が沈んでいた。村人はそれを拾い上げ祠にお祀りした。また、その沼には篠竹が生い茂っており、竹が生い茂る近江の竹生島に則り、この地を篠葉村、沼を宮沼と呼ぶようになり、慶長10年(1605)には一院を建立、沼は拓かれ田畠となった」、と。もっとも、篠葉の「シノ」には「湿地」の意味があり、「シノバ」とは「湿った場」ということで、沼や湿地の多い土地、というのがその地名の由来との説もある。
ついでのことながら、厳島神社へ曲がった辺りに「槐戸バス停」があった、と上でメモした。先ほど訪れた八幡神社は槐戸村の鎮守であるが、槐戸村って、八幡神社の辺りからこのバス停辺りまで、現在の八幡町が昔の槐戸村の範囲ということである。

観正院
少々アンバランスほど長い参道を抜け、社の隣にある観正院に。創建は慶長10年(1605)。当時は東照寺と称された。その後元和3年(1617)に東正寺と改称。同年東照大権現となった徳川家康に「遠慮」しての改称だろう。明治41年(1908)、槐戸村にあった観音院と合併、両寺の名前を合わせ「観正院」とした。お寺さまの名前にもあれこれとポリティックスが働いている、ということだろう。新しい風情の本堂は昭和41年(1966)に解体修理されたもの。境内には寛文2年(1662)の地蔵堂と、延宝6年(1678)の大師堂がある。地蔵堂には篠葉村の37名が庚申供養のため造立した地蔵立像が祀られている。

女體神社
観正院を離れ、成り行きで西に向かい県道115号(産業道路)に。そこを少し北に上り、草加八幡郵便局のある交差点を左に折れ、先に進むと道脇にささやな社。鳥居には女體神社とある。旧中曽根村(現在の中根町)の鎮守で、創建は不詳ではあるが、享保年間(19世紀前半)には社があったようである。境内には雷電神社、笠間神社、御嶽神社の小祠が合祀されている。

谷古田親水公園
そろそろ家路への時間。女體神社を離れて西に向かうとほどなく水路に出合う。親水公園のようである。思うに、古綾瀬川散歩のスタート地点で出合った谷古田河畔緑道の水路ではあろう。
上でメモしたように、谷古田用水は越ヶ谷駅近くの瓦曽根溜井から取水し、谷古田領(現在の草加市と川口市)を灌漑し、流末は古綾瀬川に落ちていた。瓦曽根溜井からの取水がはじまったのは延宝8年(1680)の綾瀬川用水堰禁止令にまで遡る。それまで谷古田領の用水は、蒲生村(現.越谷市蒲生)に堰を設けて綾瀬川から取水していたのだが、綾瀬川に堰を設けることが禁じられたために、瓦曽根溜井を新たな水源とした、ということである。
ところで、この「谷古田」であるが、もともとは「谷古宇」であったようである。江戸時代後期の地誌『新編武蔵風土記稿 足立郡之四』の谷古田領本郷村(現在の川口市本郷)の項に、この矢古宇郷について次のような記述がある;「本郷村ハモト谷古田郷ト唱ヘシヨシ云伝フレバ、其本郷タルコト知ベシ。按ルニ鶴岡八幡宮ニ蔵スル古文書及ビ東鑑ニ武蔵国矢古宇郷ヲ鶴岡社領ニ寄進アリシ由載タルハ、則此邊ノコトナルベシ。今此領ニ属スル村ニ谷古宇ト称スル所アリ。是古ノ遺名ニシテ舊クハ此邊スベテ矢古宇郷ト唱ヘシヲ、後イカナル故ニヤ谷古田ト改メ、今ハ領名トナリシナラン」、と。

谷古田郷とは『東鑑』に、承久3年(1221年)鎌倉の鶴岡八幡に寄進されという50町の矢古宇郷(草加市神明)のことであり、何故か後世、矢(谷)古宇が矢古田に改められた、とある。鎌倉時代の谷古宇郷の地頭の名に谷古宇右衛門次郎の名が残る。また、谷古宇という姓は全国に1200ほどあると言うが、その40%から50%は埼玉にある、とのことである。因みに、「谷古田」という姓は見あたらない。
ついでのことであるが、先日、草加の南を区切る毛長川流域を辿ったことがある。そのとき毛長川に沿って、足立区の竹の塚に伊興遺跡があった。毛長川流域に古代栄えた一帯であり、埼玉古墳群の先駆けとなるような豪族の存在があった、とのことであるが、それよりなにより、この「伊興」は「伊古宇」であり、「伊古宇」も「矢(谷)古宇」も同じ意味、というかどちらか一方から音が変化したもの、との説がある。「い」も「や」も「湿地」を著す、とか。「古宇」は市川の国府台(こうのだい)に代表される「国府」とも。湿地にある国府のような政治の中心地の意味、と言う。その説が妥当か否か、門外漢には判断できないが、鎌倉時代の『東鑑』に伊興遺跡や伊興古墳群が存在する足立区伊興を管轄する地頭として「伊古宇又二郎」の名が登場する。伊古宇も矢古井戸も地元の有力者であったことは間違いないようだ。

草加松原
谷古田親水公園を越え、綾瀬川に。綾瀬川に沿って松林が続く。この辺りは上でメモした天和3年(1683年)に伊奈半左衛門がおこなった綾瀬川直線化工事の区間。綾瀬川に沿って日光街道が通る。日光街道に沿っておよそ1.5キロ、江戸時代より「草加松原」「千本松原」と呼ばれる名所となっていた。松並木は天和年間の開削工事に合わせ日光道中を開削した時に植えた、とも言われるが、
寛延4年(1751)成立の『増補行程記』(盛岡藩士清水秋善筆)には松並木は描かれてはいないとかで、寛政4年(1792)に1230本の苗木を植えたということが記録に残る。文化3年(1806)完成の『日光道中分間延絵図』には街道の両側に松林が描かれている。

松原団地駅
日も暮れてきた。草加松原散歩は次回に回し、本日の散歩はここまで。綾瀬川から急ぎ足で東部伊勢崎線の松原団地駅に進み、一路家路へと。

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