旧市街を彷徨うも、結局は醤油にかかわる事跡を辿った、との思いしか残ってなく、それでも、何か見落とし、時空散歩につながる深堀りのきっかけを求めながら散歩のメモをはじめる。
本日のコース:東武野田線野田市駅>有吉町通り>野田町駅跡>茂木本家美術館>文化通り>茂木佐公園金福宝龍金寶殿本社>野田市郷土博物館>茂木佐邸>本町通り>興風会館>須賀神社>堤>県道松戸野田線>下河岸桝田家住宅>江戸川>報恩寺>上河岸戸邊右衛門家住宅>高梨本家上花輪歴史館>上花輪香取神社>本町通り>奥富歯科医院>株式会社千秋社社屋>旧野田醤油株式会社本店初代正門>野田市立中央小学校校舎>キノエネ醤油株式界社本社社屋および工場群>愛宕神社>浪漫通り>キッコーマン稲荷蔵>茂木七左衛門邸および煉瓦塀>弁天通り>茂木七郎治邸>キッコーマン給水所>厳島神社弁財天>駐輪場>野田野田線野田市駅
東武野田線・野田市駅
通いなれたるつくばエクスプレス&東武野田線に乗り東武野田線・野田市駅に。駅を下りると駅前ロータリーの向かいには巨大なプラントとその入門ゲート。キッコーマン野田工場とある。右手もテニスコートの先にはプラント、駅の裏手もプラント。キッコーマン食品の工場とある。醸造所との言葉とは程遠い巨大なプラントに囲まれた、とはいいながら工場特有の喧騒とは程遠く、また駅前商店街といったものもなく、少々さびれた感じの街並みが、他の町では感じたことのない野田の第一印象であった。
振り返り駅舎を見やる。昭和の名残を残すレトロな雰囲気が、いい。この駅舎は昭和4年(1911)に建築され、昭和61年(1986)には鉄組みを残し、全面的に改装された、とのことだが、それでも建築当時の面影を今に伝える。
野田町駅跡・有吉町通り
駅を下りるも、野田散歩のきっかけとなるものは何もない。例のごとく、とりあえず郷土資料館を訪れ、なんらかの資料を手に入れることに。工場の間を通る県道46号を道なりに進む。県道46号は野田と牛久を結ぶが、利根川のあたりで一時道筋が無くなるという。
散歩をするまで、県道や国道で途中道筋がなくなるなど考えてもみなかったのだが、時としてそのような道に出合う。印象に残るのは、都道184号。都下日の出町の平井川に沿って北に上り、途中道筋がきえるのだが、御岳山から日の出山へと辿る尾根道に都道184号とあった。御嶽の集落に都道の表示もあり、馬の背の尾根道に道を通す計画があったのだろうか。御嶽の集落から先の道筋は確認できなかた。
野田町駅跡・有吉町通り
県道を進むとほどなく道脇に「野田町駅跡・有吉町通り」。案内によると、「明治44年(1911)、野田・柏間に県営軽便鉄道が開通。そのころの野田町駅があったところである。また、当時の千葉県知事・有吉忠一氏の功績をたたえて新設の駅前通りを有吉町と命名した」とある。
野田に鉄道敷設の気運が出てきたのは、明治10年代のことと言われる。野田と国鉄・常磐線柏駅を結び、野田の醤油を鉄路を通じて東京や各地へ運ばんとした。しかし、従来の江戸川を使った、舟運業者との関係からその計画は進まず、結局千葉県営軽便鉄道として野田~柏間が開通したのは30年後の明治44年(1911)。建設費は全額を県債とし,野田の醤油醸造者による野田醤油組合が引き受けた。この時の千葉県知事が有吉忠一氏であり、駅がこの地に建設された。
大正11年(1922)には、野田醤油醸造組合が民間払下げ運動を起こして県から譲り受け、野田・柏間の路線を継承し、併せて柏・船橋間を開くべく北総鉄道株式会社を設立。昭和4年(1929)には愛宕、清水公園の両駅を新設、社名も総武鉄道株式会社と変更した。
先ほど下りた野田市駅は、この総武鉄道の拠点駅として建設された。単なる駅舎だけでなく、本社機能もそなえたものであり、結構大きな規模の駅舎が建設されたようである。この時に旅客業務は野田市駅へと移管されたが、貨物業務は昭和61年(1986)まで行っていたとのことである。
総武鉄道は昭和5年(1930)には大宮~船橋間の全線(62.7キロメートル)が開通。昭和19年(1944)、総武鉄道は国策により東武鉄道に合併され現在に至る。先ほど醤油プラントに囲まれたところに駅がある、とメモしたが、よくよく考えれば、そもそもが、鉄道は醤油輸送を目的として作られたわけであるから、当たり前と言えば当たり前のことではあった。
茂木本家美術館
県道を少し進み、右手に折れて野田市郷土博物館へと向かう。北に進むと「茂木本家美術館」があった。茂木本家十二代当主である茂木七左衞門氏が収集した、葛飾北斎、歌川広重の浮世絵をはじめ、小倉遊亀、梅原龍三郎、横山大観、片岡球子など絵画から彫刻、陶芸などおよそ700点にも及ぶ作品を所蔵する、とのこと。情緒・情感に乏しく、美を愛でる心に欠けるわが身であるので、少々敷居が高いのだが、意を決して美術館に近づくに、予約制とのこと。故なく、ほっとして美術館を離れる。
ところで、野田と言えば醤油、醤油と言えばキッコーマン、キッコーマンと言えば茂木ということは知って入るのだが、茂木本家って?チェックすると、茂木家の始祖であり真木しげに遡る。夫の真木氏が大坂夏の陣に西軍に与し自刃を遂げたため、妻のしげが野田に逃れ来た、と言う。名も真木から茂木と改め、しげの子が茂木家の初代当主茂木七左衞門となった。本家と称する所以は、時をへて茂木家が茂木佐平治家、茂木七郎右衛門家、茂木勇右衛門家、茂木啓三郎家、茂木房五郎家といった分家ができたため、本家と称するのだろう。
茂木佐公園・金寶殿本社・手水舎
野田本家美術館脇の道を北に進む。前方に緑の森が見えてきた。郷土博物館はそのあたりであろうと先に進む。道の右手に郷土博物館らしき建物があるのだが、左手に公園があり、そこに建つ社殿がなんとなく、いい。郷土博物館を後回しにし、先に社殿に向かう。
公園内の鳥居脇に手水舎があり、この造作も、いい。社殿に向かいお参りし、脇にある案内を読む。「茂木佐平治家の稲荷神と竜神を祀るための、立川流大工・佐藤里次則壮による総欅造りの大唐破風の社寺建築(大正3年)。鳥居脇にある手水舎も豪華な大唐破風造りとなっていて、たいへん珍しい神社。堂には十六羅漢や花鳥魚類や十二支と見事な彫刻や錺(かざり)金物が約150点施されており、江戸から大正にかけての伝統的職人技が花びらいた近在屈指の建造物である。大正15年より、遊楽園内のよろこび教会釈尊堂として使用されたが、平成17年に元に戻された」、とあった。
茂木佐平治家とは茂木家の分家のひとつ。野田の醤油醸造は1661年(寛文元年)に上花輪村名主であった髙梨兵左衛門が醤油醸造を開始。その翌年(1662年) に茂木佐平治が味噌製造を開始した、とされる。茂木家はその後醤油製造も手がけ、 1800年代中頃には、髙梨兵左衛門家と茂木佐平治家の醤油が幕府御用醤油の指定を受けた、とか。ところで、キッコーマンの商標はこの茂木佐家の商標である。大正6年、高梨家、流山で関東白味醂を生産していた堀切家と、 茂木本家をはじめとする茂木家六家が大同団結して野田醤油株式会社を設立し、合併当初は各家の商標をつけた醤油を併売してたが、 やがて当時もっとも人気の高かった茂木佐家のキッコーマンの商標に統一することになった、とのことである。1877(明治10)年に開催された「第1回内国勧業博覧会」で、茂木佐平治家が「亀甲万印」の醤油で賞を獲得するなど、「亀甲万印」のブランドが一番知られていたのであろう、か。
野田市郷土博物館
公園から郷土博物館に向かう。博物館は元の茂木佐平治邸、現在は市に寄贈され市民会館となっている旧家邸内にある。公園脇に蔵に囲まれた通用門の周囲の塀の赤はベンガラ塗り。インドのベンガル地方産の赤い顔料であり、格式の高い屋敷に使われる。通用門から入ると、玄関はいかにも市民の集会所入口といった雰囲気。
塀にそって南に下り、左に折れて表門より邸内に入る。この立派な表門・薬医門は、かつては特別のゲストや行事のときだけ開けられたもの、と言う。薬医門の名前の由来は、矢の攻撃を食い止める=矢食い、とも、医師の屋敷門であるから、とも。建物は国登録有形文化財、国登録記念物に指定されている。
門を入ると邸内左手に野田市郷土博物館があった。設計は日本武道館などを設計した山田守氏。昭和34年に建設された。1階は「野田の歴史と民俗」の展示。野田貝塚・山崎貝塚や三ツ堀遺跡の土器、東深井古墳群の埴輪など、市内を中心に東葛飾地方から出土した考古遺物、野田人車鉄道に関する資料、樽職人の道具、そして昭和初期の童謡作曲家・山中直治などが展示されている。2階は「野田と醤油づくり」とのテーマで醤油醸造に関する資料が展示されていた。
郷土博物館で気になったことは、江戸の頃醤油を江戸に運んだ江戸川の上河岸と下河岸、野田人車鉄道、そして山中直治氏。上河岸と下河岸には、市内彷徨を後回しに、まずはその地に向かうことにするとして、野田人車鉄道、そして山中直治氏についてチェック。野田人車鉄道とは明治33年(1900)に野田鉄道が開通すると、大正2年(1913)には人車鉄道は野田町駅へと路線を延長。大正6年(1917)、野田醤油醸造組合が合同し野田醤油株式会社(現キッコーマン)が設立されたときは、人車鉄道は同社の運輸部門となるも、大正12年(1923)の関東大震災を契機に鉄道輸送がトラック輸送にシフトし、大正15年(1926)にはその営業を停止した。
山中直治氏は野田出身の童謡作家。童謡「かごめかごめ」を全国に広めた人としても知られる。全国に広めた、という意味合いは、童謡「かごめかごめ」は歌詞を変えながら全国で歌われていたのではあるが、昭和8年頃、山中氏が野田地方で歌われていたこの童謡を採譜し、楽譜にして広島高等師範学校(現在の広島大学)発行の『日本童謡民謡教集』に紹介。これが契機となり昭和38年に岩波文庫から『わらべうた』で野田で歌われている童謡として知られていった、ということだろう。
「かごめかごめ 籠の中の鳥は いついつ出やる 夜明けの晩に 鶴と亀と滑った 後ろの正面だあれ?」。これが昭和8年頃、野田地方で歌われていた歌詞。童謡自体は江戸の文献にも残るが、歌詞はそれぞれ異なる。特に「鶴と亀と滑った」「後ろの正面」という表現は明治以前には確認されていないようだ。意味も各人が各様に解釈している。深読みもそれなりに面白いのだけれど、単なる「語呂合わせ」や「リズム合わせ」「ことばの連想遊び」程度との話がなんとなく落ちつく。「囲め」が「籠目」に。「籠」から鳥を連想。鳥と言えば「鶴」。鶴といえば「亀」でしょう。「鶴」からつるっと「滑る」を連想。鳥が鳴くのは「夜明け」。「夜明けから逆の「晩」を連想。かくのごとく、こともたちが口調次第で自由に語り継いでいったのではないだろう、か。
茂木佐邸
郷土博物館を出て邸内茂木佐邸・茂木佐平治氏のお屋敷に向かう。正面破風造りの正面玄関からお屋敷に足を踏み入れる。大正13年、当時の贅をつくしたと伝わるお屋敷を一巡。10もあるこの和室のどこかで吉永小百合さんのシャープAQUOSのテレビコマーシャルの撮影が行われた、とか。長い廊下から眺める庭園も誠に、いい。先ほど訪れた茂木佐公園も含めた一帯が茂木佐平治氏の敷地であり、市立中央小学校の辺りには茂木佐家の醤油醸造所があった、とか。茂木佐公園は大正の頃に一般に公開されたが、屋敷は昭和31年(1956年)市に寄贈され、同年一般公開されるようになった。
興風会館
茂木佐邸を離れ、江戸川の河岸へと向かう。西に向かい、県道17号・流山街道へと向かう。途中道の左手に琴平神社がある。二代目茂木七郎右衛門が讃岐の金毘羅神宮をこの地に勧請した、と。現在は一般公開されていない、と言う。
流山街道、野田市内では本町通りと呼ばれているようだが、その通りを南に下り県道46号と交差する野田下町交差点を目指す。道の左手にキッコーマン本社を見やりながら進むと、近代的な本社ビルの脇に、レトロなビルがある。昭和4年に竣工の「興風会館」である。ロマネスクを加味したルネサンス風の建物は竣工当時、千葉県庁に次ぐ大建築であった、とか。国登録有形文化財に指定されている。
興風会とは野田醤油株式会社が社会教育事業推進の目的で昭和3年(1928)に設立された財団法人。「興風会」は「民風作興」から。このフレーズは昭和初期に流行った言葉のようで、ライオン宰相・浜口雄幸もその随想録の中で「最後に言はしめよ。現代の青年は余りに多く趣味道楽に耽って居るのではあるまいか。之が果たして其の人を成功に導く所以であるか、之が果たして民風を作興する所以であるか」と述べる。意味するところは「一般庶民が風を起こし、町を作る」といったところである。
興風会設立の背景には、歴史に残る「野田労働争議」がある、とも。興風会が設立された昭和3年(1928)は、大正11年(1922)から連続的に起こった野田の醤油醸造所での労働争議が和解された年でもある。樽の加工をおこなう樽工170名が樽棟梁によるピンハネの撤廃を要求しおこなったストライキに端を発し、翌年には全工員が参加する大ストライキに発展。一時終息するも、再燃。会社側による暴力事件も頻発した、とか。結局は昭和3年(1928)争議団長による天皇直訴事件を契機に和解に至った、とか。
須賀神社
興風会会館の向かい、野田下町交差点脇に須賀神社がある。土蔵造りの社に惹かれてちょっと立ち寄り。境内に猿田彦の像が建つ。文政6年(1823)造立の丸彫立像。猿田彦は、天津彦火瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)が高天原から日向に天孫降臨降臨するに際して、高千穂まで道案内したという記紀神話の神。そのゆえに「導きの神」「道開きの神」とされる。道祖神や庚申信仰と結びつく所以である。
通常須賀神社の祭神は牛頭天王とか、素戔嗚命、と言っても、神仏習合で牛頭天王=素戔嗚命ではあり、同じ神であり仏ではあるのだが、この社の祭神は誰だろう。チェックし忘れてしまった。
市道の碑
野田市下町交差点から、成り行きで上花輪地区を南へと下り下河岸跡へと向かう。花輪って美しい言葉と思い由来をチェックすると、「土地の出っ張り。末端」の意味とのこと。「端+回(曲)」が転化したものだろう。端は文字通り、回(曲)は、「山裾・川・海岸などの曲がりくねった辺り」を意味する。
南へ進むと東福寺の脇道に出た。そこを少し進むと台地端となり、台地下には低地が広がり、そこに県道5号が走る。台地端の道脇に「市道」の碑。案内によると、「現在市道の土手と知られているこの道は、かつて土手下にあり、その頃道の両側には和野菜の市がたっていたことから市道と呼ばれるようになった。昭和のはじめ鹿島原(注;野田市駅の東辺り)から大量の土砂が運ばれ土手が築かれたため、旧道はその下に埋もれ野菜市も行われなくなったが、花輪道が今では市道といわれるようになった」とある。
利根川水系江戸川 浸水想定区域図(国土交通省関東地方整備局 江戸川河川事務所)を見ると、土手下あたりは洪水時2mから5mの浸水予想。その南は5m以上の浸水予想。土手の東側は0.5m未満と表示されていた。洪水予防のため高い土手を築いたのであろう、か。単なる妄想。根拠なし。
下河岸桝田家住宅
土手道のはじまるところに甲子講(きのえねこう)の石塔。甲子の日に集う民間信仰で大黒講、とも。お参りを済ませ、土手道下にキッコーマンの工場を見下ろしながら進む。土手道は緩やかな坂道となっており、下り切ったあたりで県道5号に当たる。交差点を渡り、江戸川堤防手前の下河岸桝田家住宅に。国登録有形文化財に指定されている。周囲に人家のない江戸川の堤防下にぽつんと一軒家が建つ。下河岸の船積問屋であった桝田仁左衛門家である。明治4年に建てられたたもの。1階が帳場、2階が船宿であった、とか。標識に桝田とあり、現在もお住まいのようである。
家の前には洪水除けの煉瓦塀が残る。江戸川に堤防は大正と昭和の二度にわたって築かれた。第一回は大正3年(1914)。底幅も高さも現在の半分ほどであった、と言う。二度目は昭和30年代。昭和22年のキャサリン台風の被害がきっかけで大規模改修工事が実施され、現在の姿になった、と言う。
千葉県立関宿城博物館所蔵の『回漕問屋開業広告』、枡田家がつくった広告パンフレットには江戸川に面した船積問屋・枡田家が描かれている。堤もない江戸川には高瀬舟や蒸気船・通運丸も浮かぶ。この下河岸が通運丸の発着所でもあったようだ。往昔、野田の醤油醸造所から馬車や人車で運ばれた醤油が江戸川を下り、江戸や上州に向かったのであろう。また、醤油の原料となる大豆は常陸、下総から、小麦は相模から、そして塩は赤穂など十州塩田(瀬戸内10カ国の塩田)から運ばれ、此の地で荷揚げされた。
下河岸は上河岸に対してつけられた名称であり、船積問屋の主人の名をとり「仁左衛門河岸」とも、地名をとり「今上河岸」とも呼ばれたようである。
報恩寺
下河岸跡を離れ、江戸川の堤を北に辿り、野田橋の近くにある上河岸跡へと向かう。堤防に東には醤油プラントが続く。かつてはこの辺りに宮内庁に納める醤油をつくる御用蔵があったようだが、現在は駅前のプラント内に移された、と。
堤を歩きながらiphoneをチェックすると堤下の緑の中に浄水池らしきものが見える。市の浄水場かと思ったのだが、キッコーマンの排水浄化装置のようである。
水に惹かれ、堤防を下り、成り行きで森の中に入る。行き止まりを恐れながらも進むと、前方が開け、そこにお寺さまがあった。道なりに四国八十八カ所霊場が祀られており、弘法大師がご本尊。山号も大師山報恩寺となっていた。このお寺様、もともとは此の地の北、野田市堤台にあり、堤台八幡神社の別当として、江戸の頃は末寺二十四ヶ寺をもち、幕府より朱印状を与えられた寺格であったようだが、明治の廃仏毀釈の時、この地に写った。
上河岸戸邊五右衛門家住宅
報恩寺を離れ,工場プラントの塀に沿って、ぐるっと周り県道19号に。野田橋下交差点を越えたすぐ先に、県道から左斜めに堤防方面に向かう道がある。平成食品工業というキッコーマンのグループ会社を左手に見ながら進むと趣のある邸宅があった。そこが上河岸戸邊五右衛門家住宅。上河岸(五右衛門河岸)の船積問屋跡である。この屋敷も国登録有形文化財に指定されている。
上河岸(五右衛門河岸)の船積問屋跡は現在も個人のお宅であり、塀の外から主屋や重厚な土蔵を眺める、のみ。このお屋敷は昭和の江戸川改修に伴い現在の地に曳き屋した、とのこと。地名ゆえに、中野台河岸とも呼ばれる。
高梨本家上花輪歴史館
上・下河岸を見終え、それなりに昔を偲び旧市街へと戻る。途中、上花輪にある高梨本家上花輪歴史館に訪れることに。成り行きで県道5号まで戻り、キッコーマンのプラントを左手に見ながら、下河岸桝田家住宅近くの交差点まで戻る。そこを先ほど下りてきた緩やかな土手道を上り、途中左手に折れ、国名勝のけやき並木が並ぶ公園を左手に見ながら進むと高梨本家上花輪歴史館。
国指定名勝に指定されている歴史館は、残念ながら改修工事かなにかで、邸内に入ることはできなかったが、この歴史館は江戸時代に上花輪村の名主で醤油醸造を家業として
いた高梨兵左衛門家(高梨本家)の居宅。中には醤
油醸造の道具類の展示と広壮な庭園の散歩と、贅沢な
座敷が見られる、とか。
野田における醤油生産の歴史は、戦国時代も末期の永禄年間、飯田市郎兵衛という人物がたまり醤油を製造、甲斐の武田氏に献上したことに遡る。たまり醤油って、鎌倉時代に和歌山県の湯浅で, 味噌の桶に溜まった汁(たまり)を調味料として作り出したのが最初とされる。味噌から分離された液体が「たまり醤油」と言うことだろう。江戸時代の初め頃までは 近畿地方と四国の讃岐などから たまり醤油が関東へと「下って」きていたのだが、如何せん、 たまり醤油は製造から出荷まで3年程の長期間かかり, 需要に追いつかず, 関東では 銚子・野田などで1年で製造できる「濃口醤油」が, 関西では 兵庫県(たつの)で「薄口醤油」が 開発されることになった。
濃口、薄口って、味の違いかと思っていたのだが、濃口は本醸造とも呼ばれるように、製法自体がたまり醤油と異なっている。「たまり」はその原料が大豆がほとんどで、極めて少量の小麦を加えるだけであるが、「濃口」って原料は大豆・小麦が50%、塩分16%から20%使い十分に発酵・醸造させた本醸造のこと。野田において最初にこの濃口醤油の製造を開始したのがこの高梨兵左衛門家とのこと。寛文元年(1661)のことである。
ちなみに、醤油の「醤(ひしお)」って食品に塩を混ぜて放置しておくと旨みを出したもの。中国の宋の時代にその製造がはじまった、とか。食品の種類により、草醤(くさびしお=漬物に発展)、肉醤(にくびしお)、魚醤(うおびしお=塩辛といったもの)、穀醤(こくびしお)に分けられる。このうち、穀醤が味噌となり、醤油となったようだ。
上花輪香取神社
歴史館の次は、須賀神社のあった野田市下町交差点まで戻り、流山街道・本町通りを北に辿り、時間の許す限り、河岸に直行故に見残していた見どころを訪れることにする。途中香取神社が。何気なく立ち寄るに、銅葺屋根の立派な社殿。社殿の前に門を構え塀が囲む。
社殿の建築棟梁は茂木佐公園の社殿と同じく棟梁佐藤里次。監督は佐藤良吉。昭和8年の『香取神社正遷宮大祭』の写真には人力車に乗り群衆の歓喜の中を進む両名の姿があり、歴史が少々のリアリティをもって現れてくる。社殿を彩る彫刻も立派。彫工は石川三五郎信光の手によると伝わる。石川三五郎は柴又帝釈天や川越・連雀町の蓮馨寺にその名を残す
奥富歯科医院と旧奥富薬局店舗
興風会館を右手に見やり、キッコーマン本社を越えた通りの左に古き趣の家屋がある。この奥富歯科医院と旧奥富薬局店舗は大正から昭和初期に建てられたもの。大正期の出桁造の旧薬局店舗と、昭和初期のモダンな洋館である。
株式会社千秋社社屋
野田市下町交差点まで戻り、奥富歯科医院と旧奥富薬局店舗の通りの反対側に陸屋根(傾斜のない平面の屋根。平屋根とも)、鉄筋2階建ての建物。大正15年(1926)に建てられ旧野田商誘銀行として使われていた。野田商誘銀行は野田醤油醸造組合の発起により明治33年(1900)に設立された。「商誘」の名称は 、醤油の語呂にちなんで名付けられた。野田商誘銀行は、太平洋戦争中の金融統制に より、千葉銀行に合同され、昭和45年まで千葉銀行野田支店として使用されていたが、その後キッコーマン系列の千秋社の所有とな っている。
千秋社は大正6年、野田の醤油醸造業者が合同し設立した野田醤油株式会社を支援する経営者団体として組織されたもの。興風会館でメモした、財団法人興風会も千秋社の寄付により設立されたものであり、現在キッコーマン株式会社の株の3.1%を所有し、主要株主となっている。
旧野田醤油株式会社本店初代正門
株式会社千秋社社屋脇の道を少し入ると旧野田醤油株式会社本店初代正門が残る。キッコーマンの初代正門と言うことだ。土蔵と塀に挟まれた門の向こうはキッコーマンの敷地のようで、通り抜けはできない。
野田市立中央小学校校舎
流山街道・本町通りに戻り、北に進むと、通りの右手に野田市立中央小学校の門柱。門柱の脇には煉瓦造りの塀が残る。門柱から中を見るに、民屋や商家らしきものがあり、ちょっと奇妙な感じではある。
野田市立中央小学校校舎はその奥にある。昭和3年(1928)から7年(1932)の頃建てられた校舎は当時珍しい鉄筋コンクリー3階建。外観のレリーフや校庭側のテラスがモダンな造りとなっている。
キノエネ醤油株式会社本社社屋および工場群
通りを更に北に進み、京葉銀行野田支店を左に折れキノエネ醤油株式界社本社社屋および工場群に向かう。左に折れる手前に「野田醤油発祥の地」があったようだが、見逃した。上でメモしたように戦国時代も末期の永禄年間、飯田市郎兵衛がこの地ではじめて「たまり醤油」を製造したところではあろう。
先に進むと落ち着いた佇まいの中、黒板塀に
囲まれた醸造所が見える。天保元年(1830)の創業、野田を代表する醤油工場の一つキノエネ醤油である。本社社屋は明治30年、鉄筋コンクリート造りの作業場は大正10年(1921)築とのことである。大正6年(1917)の野田の醤油醸造者の大同団結にも加わらず、独自路線を貫いた、と言われるだけで、なんとなく全体が有難く感じる。
ちなみに、このキノエネ醤油は映画監督小津安二郎氏と深い関係にある。小津安二郎監督の妹さんが山下家に嫁いだ関係から、戦時下、小津監督の母親が野田に疎開。監督も戦地より引き揚げてから鎌倉に住むまでの6年間野田に住んだ。といっても、ほとんど大船の撮影所に泊まり込みであったたようではある。
愛宕神社
流山街道・本町通りに戻り、少し北に進むと愛宕神社前交差点。野田の総鎮守で、創建は延長元年(923)と伝えられ、雷神を祀り、防火を司る迦具士命を祭神とする。現在の権現造り・木造銅版葺様式の社殿は、文政7年(1824)に再建されたもので、社殿彫刻は左甚五郎を祖とし、そこから10代目の名工二代目石原常八の手になるもの。石原常八の出身地、群馬県の花輪村は「匠の里」と呼ばれ、隣の上田沢村とともに彫刻師の一派があり、上州の左甚五郎と呼ばれる関口文治郎などの名工を生み出した。
これほどの匠を招くには茂木家の力も大きくあったのではなかろうか。愛宕神社の東には茂木房五郎氏の邸宅があったとのことだし(現在は一部が割烹料亭に)、一説には愛宕神社に初代茂木房五郎が祀られる、とも。また、愛宕神社の北には、愛宕権現の本地仏である勝軍地蔵尊があるが、この地蔵尊を建立したのは初代茂木啓三郎とのことである。
キッコーマン稲荷蔵
日暮も近い、大急ぎで残りの見どころを辿りながら野田市駅へと向かう。流山街道・本町通りを南に下り、キッコーマン本社北の通りを左折。浪漫通りと呼ばれる道を進むとキッコーマン稲荷蔵。明治41年頃に建てられたもの。黒板塀が美しい。元は茂木七左衛門の仕込蔵であったが、現在は倉庫として使用されている。
茂木七左衛門邸および煉瓦塀
キッコーマン稲荷蔵に続く赤い煉瓦塀は茂木本家・茂木七左衛門邸。邸宅は関東大震災の後、大正15年築。煉瓦塀は明治末期築と言う。設計は上花輪の香取神社や愛宕神社と同じく立川流宮大工の流れをくむ佐藤良吉、建築は佐藤里次則の手になるとのこと。国登録有形文化財に指定されている。
茂木七郎治邸
浪漫通りを文化通りのT字路にあたり、右に折れ、すぐに左に折れると弁天通り。通りの左手に一見すると農家かと見まがう古いお屋敷。門札に茂木とありチェックすると茂木家の分家のひとつである茂木七郎治邸であった。安政7年(1854)頃に建てられた野田市内最古の木造住宅とのこと。地主農家としての長屋門と金融業としての帳場を併せ持つのが特徴、とあった。
キッコーマン第一給水所
通りの右側にはキッコーマン第一給水所。大正12年(1923)から昭和50年(1975)頃まで工場および地域住民に供給された。通水までには苦労があったようで、大正10年(1921)の地下水汲み上げのための第一号削井工事では予定の水量が確保できず、第二号削井工事で予定水量の目途がたち、水道施設工事をおこない、通水、各戸給水の追加工事に着手。上記のごとく大正12年には給水をはじめ、昭和50年に野田市に移管されるまで企業が水道事業を行っていた、とのことである。なお、昔はこの地に給水塔があったようだが、老朽化のため耐震基準をみたせず取り壊しとなった。
それにしても、この給水所=水道だけでなく、銀行、病院(養生所から発展)、学校(中央小学校はキッコーマンの寄贈)、そして鉄道など、醤油会社が社会インフラの整備を行政に代わりおこなっているわけであり、企業経営上の合理性とは言うものの、その財力に少々の驚きを感じる。
厳島神社
弁天通りを進み、野田市駅へと右折するところにちょっとした緑の森が見える。中に入ると厳島神社が祀られていた。この社は安永7年(1778)創建。「下の弁天さま」と称される。この辺りが下町という地名故の命名であろう。ちなみに、野田市内には古春、柳沢にも弁天さまがあり、野田の三弁天と呼ばれるようである。
社の後ろには弁天社お約束の池。弁天さまはインドの神様で、河を守る水神・農業神であり水辺に鎮座するのが普通である。昔は湧水だった、とか。
東武野田線野田市駅
弁天様の脇道を進むと緩やかなカーブ。自転車置き場となっているこのカーブは工場への引き込み線の跡かとチェックする。上で、野田町駅は昭和4年(1929)に野田市駅が出来たときに旅客業務は市駅に移管されたが、貨物業務は昭和61年(1986)まで続いたとメモした。その引き込み線は市駅の南手前から分岐され、野田市駅第一、第二自転車駐輪場に沿って進み、県道46号に沿って野田町駅に結ばれていた。同じ自転車置き場ではあるが、こちらの自転車置き場ではなかった。それでも、このカーブ、なんとなく怪しい、などと思いながら東武野田線・野田駅に向かい、本日の散歩を終える。
野田散歩は結局醤油醸造に関わる文化遺産を辿る以上のものにはならなかった。日本の醤油消費量の28%ほどを製造するとも言われる野田であれば仕方なしとすべし、か。それと、散歩してはじめて知ったことは、野田は枝豆の主要生産地である、ということ。2002年には全国一の生産量を記録した、とも。醤油の主要原料は大豆であるので、当然か、などと思っていたのだが、野田で枝豆栽培が本格的にはじまったのは、それほど昔でもなく、1960年代に入ってから。もとは自家製の味噌造りのために栽培していた大豆を枝豆生産に切り替えたようである。町には「まめバス」と呼ばれる枝豆由来のコミュニティバスが走り、枝豆を核にした町おこしもはじまっているようである。とはいうものの、結局は大豆=醤油からは離れることはできないようである。