2012年3月アーカイブ

利根運河散歩をきっかけに数回に渡って辿った柏、流山の谷津や小金牧、流山の旧市街の散歩もおおよそ気になる事跡はカバーし終え、やっと野田へと足を運ぶこととなった。みりんで栄えた流山旧市街は今では静かな街並みが残るだけであったが、醤油と言えば野田と言われるその街並みが如何なるものか、実際に訪れてみると、野田市街はいわく言い難い町ではあった。古い街並みが続くわけでもなく、かと言って、雑とした街並みでもなく、歴史を感じる醤油工場の広いプラントと民家、そしてその中に旧家が同居する、他の町では感じたことのない雰囲気を醸す町であった。

旧市街を彷徨うも、結局は醤油にかかわる事跡を辿った、との思いしか残ってなく、それでも、何か見落とし、時空散歩につながる深堀りのきっかけを求めながら散歩のメモをはじめる。

本日のコース:東武野田線野田市駅>有吉町通り>野田町駅跡>茂木本家美術館>文化通り>茂木佐公園金福宝龍金寶殿本社>野田市郷土博物館>茂木佐邸>本町通り>興風会館>須賀神社>堤>県道松戸野田線>下河岸桝田家住宅>江戸川>報恩寺>上河岸戸邊右衛門家住宅>高梨本家上花輪歴史館>上花輪香取神社>本町通り>奥富歯科医院>株式会社千秋社社屋>旧野田醤油株式会社本店初代正門>野田市立中央小学校校舎>キノエネ醤油株式界社本社社屋および工場群>愛宕神社>浪漫通り>キッコーマン稲荷蔵>茂木七左衛門邸および煉瓦塀>弁天通り>茂木七郎治邸>キッコーマン給水所>厳島神社弁財天>駐輪場>野田野田線野田市駅

東武野田線・野田市駅
通いなれたるつくばエクスプレス&東武野田線に乗り東武野田線・野田市駅に。駅を下りると駅前ロータリーの向かいには巨大なプラントとその入門ゲート。キッコーマン野田工場とある。右手もテニスコートの先にはプラント、駅の裏手もプラント。キッコーマン食品の工場とある。醸造所との言葉とは程遠い巨大なプラントに囲まれた、とはいいながら工場特有の喧騒とは程遠く、また駅前商店街といったものもなく、少々さびれた感じの街並みが、他の町では感じたことのない野田の第一印象であった。
振り返り駅舎を見やる。昭和の名残を残すレトロな雰囲気が、いい。この駅舎は昭和4年(1911)に建築され、昭和61年(1986)には鉄組みを残し、全面的に改装された、とのことだが、それでも建築当時の面影を今に伝える。

野田町駅跡・有吉町通り
駅を下りるも、野田散歩のきっかけとなるものは何もない。例のごとく、とりあえず郷土資料館を訪れ、なんらかの資料を手に入れることに。工場の間を通る県道46号を道なりに進む。県道46号は野田と牛久を結ぶが、利根川のあたりで一時道筋が無くなるという。
散歩をするまで、県道や国道で途中道筋がなくなるなど考えてもみなかったのだが、時としてそのような道に出合う。印象に残るのは、都道184号。都下日の出町の平井川に沿って北に上り、途中道筋がきえるのだが、御岳山から日の出山へと辿る尾根道に都道184号とあった。御嶽の集落に都道の表示もあり、馬の背の尾根道に道を通す計画があったのだろうか。御嶽の集落から先の道筋は確認できなかた。

野田町駅跡・有吉町通り
県道を進むとほどなく道脇に「野田町駅跡・有吉町通り」。案内によると、「明治44年(1911)、野田・柏間に県営軽便鉄道が開通。そのころの野田町駅があったところである。また、当時の千葉県知事・有吉忠一氏の功績をたたえて新設の駅前通りを有吉町と命名した」とある。
野田に鉄道敷設の気運が出てきたのは、明治10年代のことと言われる。野田と国鉄・常磐線柏駅を結び、野田の醤油を鉄路を通じて東京や各地へ運ばんとした。しかし、従来の江戸川を使った、舟運業者との関係からその計画は進まず、結局千葉県営軽便鉄道として野田~柏間が開通したのは30年後の明治44年(1911)。建設費は全額を県債とし,野田の醤油醸造者による野田醤油組合が引き受けた。この時の千葉県知事が有吉忠一氏であり、駅がこの地に建設された。

大正11年(1922)には、野田醤油醸造組合が民間払下げ運動を起こして県から譲り受け、野田・柏間の路線を継承し、併せて柏・船橋間を開くべく北総鉄道株式会社を設立。昭和4年(1929)には愛宕、清水公園の両駅を新設、社名も総武鉄道株式会社と変更した。
先ほど下りた野田市駅は、この総武鉄道の拠点駅として建設された。単なる駅舎だけでなく、本社機能もそなえたものであり、結構大きな規模の駅舎が建設されたようである。この時に旅客業務は野田市駅へと移管されたが、貨物業務は昭和61年(1986)まで行っていたとのことである。
総武鉄道は昭和5年(1930)には大宮~船橋間の全線(62.7キロメートル)が開通。昭和19年(1944)、総武鉄道は国策により東武鉄道に合併され現在に至る。先ほど醤油プラントに囲まれたところに駅がある、とメモしたが、よくよく考えれば、そもそもが、鉄道は醤油輸送を目的として作られたわけであるから、当たり前と言えば当たり前のことではあった。

茂木本家美術館
県道を少し進み、右手に折れて野田市郷土博物館へと向かう。北に進むと「茂木本家美術館」があった。茂木本家十二代当主である茂木七左衞門氏が収集した、葛飾北斎、歌川広重の浮世絵をはじめ、小倉遊亀、梅原龍三郎、横山大観、片岡球子など絵画から彫刻、陶芸などおよそ700点にも及ぶ作品を所蔵する、とのこと。情緒・情感に乏しく、美を愛でる心に欠けるわが身であるので、少々敷居が高いのだが、意を決して美術館に近づくに、予約制とのこと。故なく、ほっとして美術館を離れる。
ところで、野田と言えば醤油、醤油と言えばキッコーマン、キッコーマンと言えば茂木ということは知って入るのだが、茂木本家って?チェックすると、茂木家の始祖であり真木しげに遡る。夫の真木氏が大坂夏の陣に西軍に与し自刃を遂げたため、妻のしげが野田に逃れ来た、と言う。名も真木から茂木と改め、しげの子が茂木家の初代当主茂木七左衞門となった。本家と称する所以は、時をへて茂木家が茂木佐平治家、茂木七郎右衛門家、茂木勇右衛門家、茂木啓三郎家、茂木房五郎家といった分家ができたため、本家と称するのだろう。

茂木佐公園・金寶殿本社・手水舎

野田本家美術館脇の道を北に進む。前方に緑の森が見えてきた。郷土博物館はそのあたりであろうと先に進む。道の右手に郷土博物館らしき建物があるのだが、左手に公園があり、そこに建つ社殿がなんとなく、いい。郷土博物館を後回しにし、先に社殿に向かう。
公園内の鳥居脇に手水舎があり、この造作も、いい。社殿に向かいお参りし、脇にある案内を読む。「茂木佐平治家の稲荷神と竜神を祀るための、立川流大工・佐藤里次則壮による総欅造りの大唐破風の社寺建築(大正3年)。鳥居脇にある手水舎も豪華な大唐破風造りとなっていて、たいへん珍しい神社。堂には十六羅漢や花鳥魚類や十二支と見事な彫刻や錺(かざり)金物が約150点施されており、江戸から大正にかけての伝統的職人技が花びらいた近在屈指の建造物である。大正15年より、遊楽園内のよろこび教会釈尊堂として使用されたが、平成17年に元に戻された」、とあった。

茂木佐平治家とは茂木家の分家のひとつ。野田の醤油醸造は1661年(寛文元年)に上花輪村名主であった髙梨兵左衛門が醤油醸造を開始。その翌年(1662年) に茂木佐平治が味噌製造を開始した、とされる。茂木家はその後醤油製造も手がけ、 1800年代中頃には、髙梨兵左衛門家と茂木佐平治家の醤油が幕府御用醤油の指定を受けた、とか。ところで、キッコーマンの商標はこの茂木佐家の商標である。大正6年、高梨家、流山で関東白味醂を生産していた堀切家と、 茂木本家をはじめとする茂木家六家が大同団結して野田醤油株式会社を設立し、合併当初は各家の商標をつけた醤油を併売してたが、 やがて当時もっとも人気の高かった茂木佐家のキッコーマンの商標に統一することになった、とのことである。1877(明治10)年に開催された「第1回内国勧業博覧会」で、茂木佐平治家が「亀甲万印」の醤油で賞を獲得するなど、「亀甲万印」のブランドが一番知られていたのであろう、か。

野田市郷土博物館

公園から郷土博物館に向かう。博物館は元の茂木佐平治邸、現在は市に寄贈され市民会館となっている旧家邸内にある。公園脇に蔵に囲まれた通用門の周囲の塀の赤はベンガラ塗り。インドのベンガル地方産の赤い顔料であり、格式の高い屋敷に使われる。通用門から入ると、玄関はいかにも市民の集会所入口といった雰囲気。
塀にそって南に下り、左に折れて表門より邸内に入る。この立派な表門・薬医門は、かつては特別のゲストや行事のときだけ開けられたもの、と言う。薬医門の名前の由来は、矢の攻撃を食い止める=矢食い、とも、医師の屋敷門であるから、とも。建物は国登録有形文化財、国登録記念物に指定されている。
門を入ると邸内左手に野田市郷土博物館があった。設計は日本武道館などを設計した山田守氏。昭和34年に建設された。1階は「野田の歴史と民俗」の展示。野田貝塚・山崎貝塚や三ツ堀遺跡の土器、東深井古墳群の埴輪など、市内を中心に東葛飾地方から出土した考古遺物、野田人車鉄道に関する資料、樽職人の道具、そして昭和初期の童謡作曲家・山中直治などが展示されている。2階は「野田と醤油づくり」とのテーマで醤油醸造に関する資料が展示されていた。
郷土博物館で気になったことは、江戸の頃醤油を江戸に運んだ江戸川の上河岸と下河岸、野田人車鉄道、そして山中直治氏。上河岸と下河岸には、市内彷徨を後回しに、まずはその地に向かうことにするとして、野田人車鉄道、そして山中直治氏についてチェック。野田人車鉄道とは明治33年(1900)に野田鉄道が開通すると、大正2年(1913)には人車鉄道は野田町駅へと路線を延長。大正6年(1917)、野田醤油醸造組合が合同し野田醤油株式会社(現キッコーマン)が設立されたときは、人車鉄道は同社の運輸部門となるも、大正12年(1923)の関東大震災を契機に鉄道輸送がトラック輸送にシフトし、大正15年(1926)にはその営業を停止した。

山中直治氏は野田出身の童謡作家。童謡「かごめかごめ」を全国に広めた人としても知られる。全国に広めた、という意味合いは、童謡「かごめかごめ」は歌詞を変えながら全国で歌われていたのではあるが、昭和8年頃、山中氏が野田地方で歌われていたこの童謡を採譜し、楽譜にして広島高等師範学校(現在の広島大学)発行の『日本童謡民謡教集』に紹介。これが契機となり昭和38年に岩波文庫から『わらべうた』で野田で歌われている童謡として知られていった、ということだろう。

「かごめかごめ 籠の中の鳥は いついつ出やる 夜明けの晩に 鶴と亀と滑った 後ろの正面だあれ?」。これが昭和8年頃、野田地方で歌われていた歌詞。童謡自体は江戸の文献にも残るが、歌詞はそれぞれ異なる。特に「鶴と亀と滑った」「後ろの正面」という表現は明治以前には確認されていないようだ。意味も各人が各様に解釈している。深読みもそれなりに面白いのだけれど、単なる「語呂合わせ」や「リズム合わせ」「ことばの連想遊び」程度との話がなんとなく落ちつく。「囲め」が「籠目」に。「籠」から鳥を連想。鳥と言えば「鶴」。鶴といえば「亀」でしょう。「鶴」からつるっと「滑る」を連想。鳥が鳴くのは「夜明け」。「夜明けから逆の「晩」を連想。かくのごとく、こともたちが口調次第で自由に語り継いでいったのではないだろう、か。

茂木佐邸

郷土博物館を出て邸内茂木佐邸・茂木佐平治氏のお屋敷に向かう。正面破風造りの正面玄関からお屋敷に足を踏み入れる。大正13年、当時の贅をつくしたと伝わるお屋敷を一巡。10もあるこの和室のどこかで吉永小百合さんのシャープAQUOSのテレビコマーシャルの撮影が行われた、とか。長い廊下から眺める庭園も誠に、いい。先ほど訪れた茂木佐公園も含めた一帯が茂木佐平治氏の敷地であり、市立中央小学校の辺りには茂木佐家の醤油醸造所があった、とか。茂木佐公園は大正の頃に一般に公開されたが、屋敷は昭和31年(1956年)市に寄贈され、同年一般公開されるようになった。

興風会館

茂木佐邸を離れ、江戸川の河岸へと向かう。西に向かい、県道17号・流山街道へと向かう。途中道の左手に琴平神社がある。二代目茂木七郎右衛門が讃岐の金毘羅神宮をこの地に勧請した、と。現在は一般公開されていない、と言う。
流山街道、野田市内では本町通りと呼ばれているようだが、その通りを南に下り県道46号と交差する野田下町交差点を目指す。道の左手にキッコーマン本社を見やりながら進むと、近代的な本社ビルの脇に、レトロなビルがある。昭和4年に竣工の「興風会館」である。ロマネスクを加味したルネサンス風の建物は竣工当時、千葉県庁に次ぐ大建築であった、とか。国登録有形文化財に指定されている。
興風会とは野田醤油株式会社が社会教育事業推進の目的で昭和3年(1928)に設立された財団法人。「興風会」は「民風作興」から。このフレーズは昭和初期に流行った言葉のようで、ライオン宰相・浜口雄幸もその随想録の中で「最後に言はしめよ。現代の青年は余りに多く趣味道楽に耽って居るのではあるまいか。之が果たして其の人を成功に導く所以であるか、之が果たして民風を作興する所以であるか」と述べる。意味するところは「一般庶民が風を起こし、町を作る」といったところである。
興風会設立の背景には、歴史に残る「野田労働争議」がある、とも。興風会が設立された昭和3年(1928)は、大正11年(1922)から連続的に起こった野田の醤油醸造所での労働争議が和解された年でもある。樽の加工をおこなう樽工170名が樽棟梁によるピンハネの撤廃を要求しおこなったストライキに端を発し、翌年には全工員が参加する大ストライキに発展。一時終息するも、再燃。会社側による暴力事件も頻発した、とか。結局は昭和3年(1928)争議団長による天皇直訴事件を契機に和解に至った、とか。

須賀神社

興風会会館の向かい、野田下町交差点脇に須賀神社がある。土蔵造りの社に惹かれてちょっと立ち寄り。境内に猿田彦の像が建つ。文政6年(1823)造立の丸彫立像。猿田彦は、天津彦火瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)が高天原から日向に天孫降臨降臨するに際して、高千穂まで道案内したという記紀神話の神。そのゆえに「導きの神」「道開きの神」とされる。道祖神や庚申信仰と結びつく所以である。
通常須賀神社の祭神は牛頭天王とか、素戔嗚命、と言っても、神仏習合で牛頭天王=素戔嗚命ではあり、同じ神であり仏ではあるのだが、この社の祭神は誰だろう。チェックし忘れてしまった。

市道の碑

野田市下町交差点から、成り行きで上花輪地区を南へと下り下河岸跡へと向かう。花輪って美しい言葉と思い由来をチェックすると、「土地の出っ張り。末端」の意味とのこと。「端+回(曲)」が転化したものだろう。端は文字通り、回(曲)は、「山裾・川・海岸などの曲がりくねった辺り」を意味する。
南へ進むと東福寺の脇道に出た。そこを少し進むと台地端となり、台地下には低地が広がり、そこに県道5号が走る。台地端の道脇に「市道」の碑。案内によると、「現在市道の土手と知られているこの道は、かつて土手下にあり、その頃道の両側には和野菜の市がたっていたことから市道と呼ばれるようになった。昭和のはじめ鹿島原(注;野田市駅の東辺り)から大量の土砂が運ばれ土手が築かれたため、旧道はその下に埋もれ野菜市も行われなくなったが、花輪道が今では市道といわれるようになった」とある。
利根川水系江戸川 浸水想定区域図(国土交通省関東地方整備局 江戸川河川事務所)を見ると、土手下あたりは洪水時2mから5mの浸水予想。その南は5m以上の浸水予想。土手の東側は0.5m未満と表示されていた。洪水予防のため高い土手を築いたのであろう、か。単なる妄想。根拠なし。

下河岸桝田家住宅

土手道のはじまるところに甲子講(きのえねこう)の石塔。甲子の日に集う民間信仰で大黒講、とも。お参りを済ませ、土手道下にキッコーマンの工場を見下ろしながら進む。土手道は緩やかな坂道となっており、下り切ったあたりで県道5号に当たる。交差点を渡り、江戸川堤防手前の下河岸桝田家住宅に。国登録有形文化財に指定されている。周囲に人家のない江戸川の堤防下にぽつんと一軒家が建つ。下河岸の船積問屋であった桝田仁左衛門家である。明治4年に建てられたたもの。1階が帳場、2階が船宿であった、とか。標識に桝田とあり、現在もお住まいのようである。



家の前には洪水除けの煉瓦塀が残る。江戸川に堤防は大正と昭和の二度にわたって築かれた。第一回は大正3年(1914)。底幅も高さも現在の半分ほどであった、と言う。二度目は昭和30年代。昭和22年のキャサリン台風の被害がきっかけで大規模改修工事が実施され、現在の姿になった、と言う。
千葉県立関宿城博物館所蔵の『回漕問屋開業広告』、枡田家がつくった広告パンフレットには江戸川に面した船積問屋・枡田家が描かれている。堤もない江戸川には高瀬舟や蒸気船・通運丸も浮かぶ。この下河岸が通運丸の発着所でもあったようだ。往昔、野田の醤油醸造所から馬車や人車で運ばれた醤油が江戸川を下り、江戸や上州に向かったのであろう。また、醤油の原料となる大豆は常陸、下総から、小麦は相模から、そして塩は赤穂など十州塩田(瀬戸内10カ国の塩田)から運ばれ、此の地で荷揚げされた。
下河岸は上河岸に対してつけられた名称であり、船積問屋の主人の名をとり「仁左衛門河岸」とも、地名をとり「今上河岸」とも呼ばれたようである。

報恩寺

下河岸跡を離れ、江戸川の堤を北に辿り、野田橋の近くにある上河岸跡へと向かう。堤防に東には醤油プラントが続く。かつてはこの辺りに宮内庁に納める醤油をつくる御用蔵があったようだが、現在は駅前のプラント内に移された、と。
堤を歩きながらiphoneをチェックすると堤下の緑の中に浄水池らしきものが見える。市の浄水場かと思ったのだが、キッコーマンの排水浄化装置のようである。
水に惹かれ、堤防を下り、成り行きで森の中に入る。行き止まりを恐れながらも進むと、前方が開け、そこにお寺さまがあった。道なりに四国八十八カ所霊場が祀られており、弘法大師がご本尊。山号も大師山報恩寺となっていた。このお寺様、もともとは此の地の北、野田市堤台にあり、堤台八幡神社の別当として、江戸の頃は末寺二十四ヶ寺をもち、幕府より朱印状を与えられた寺格であったようだが、明治の廃仏毀釈の時、この地に写った。

上河岸戸邊五右衛門家住宅

報恩寺を離れ,工場プラントの塀に沿って、ぐるっと周り県道19号に。野田橋下交差点を越えたすぐ先に、県道から左斜めに堤防方面に向かう道がある。平成食品工業というキッコーマンのグループ会社を左手に見ながら進むと趣のある邸宅があった。そこが上河岸戸邊五右衛門家住宅。上河岸(五右衛門河岸)の船積問屋跡である。この屋敷も国登録有形文化財に指定されている。
上河岸(五右衛門河岸)の船積問屋跡は現在も個人のお宅であり、塀の外から主屋や重厚な土蔵を眺める、のみ。このお屋敷は昭和の江戸川改修に伴い現在の地に曳き屋した、とのこと。地名ゆえに、中野台河岸とも呼ばれる。

高梨本家上花輪歴史館

上・下河岸を見終え、それなりに昔を偲び旧市街へと戻る。途中、上花輪にある高梨本家上花輪歴史館に訪れることに。成り行きで県道5号まで戻り、キッコーマンのプラントを左手に見ながら、下河岸桝田家住宅近くの交差点まで戻る。そこを先ほど下りてきた緩やかな土手道を上り、途中左手に折れ、国名勝のけやき並木が並ぶ公園を左手に見ながら進むと高梨本家上花輪歴史館。
国指定名勝に指定されている歴史館は、残念ながら改修工事かなにかで、邸内に入ることはできなかったが、この歴史館は江戸時代に上花輪村の名主で醤油醸造を家業として
いた高梨兵左衛門家(高梨本家)の居宅。中には醤
油醸造の道具類の展示と広壮な庭園の散歩と、贅沢な
座敷が見られる、とか。

野田における醤油生産の歴史は、戦国時代も末期の永禄年間、飯田市郎兵衛という人物がたまり醤油を製造、甲斐の武田氏に献上したことに遡る。たまり醤油って、鎌倉時代に和歌山県の湯浅で, 味噌の桶に溜まった汁(たまり)を調味料として作り出したのが最初とされる。味噌から分離された液体が「たまり醤油」と言うことだろう。江戸時代の初め頃までは 近畿地方と四国の讃岐などから たまり醤油が関東へと「下って」きていたのだが、如何せん、 たまり醤油は製造から出荷まで3年程の長期間かかり, 需要に追いつかず, 関東では 銚子・野田などで1年で製造できる「濃口醤油」が, 関西では 兵庫県(たつの)で「薄口醤油」が 開発されることになった。
濃口、薄口って、味の違いかと思っていたのだが、濃口は本醸造とも呼ばれるように、製法自体がたまり醤油と異なっている。「たまり」はその原料が大豆がほとんどで、極めて少量の小麦を加えるだけであるが、「濃口」って原料は大豆・小麦が50%、塩分16%から20%使い十分に発酵・醸造させた本醸造のこと。野田において最初にこの濃口醤油の製造を開始したのがこの高梨兵左衛門家とのこと。寛文元年(1661)のことである。
ちなみに、醤油の「醤(ひしお)」って食品に塩を混ぜて放置しておくと旨みを出したもの。中国の宋の時代にその製造がはじまった、とか。食品の種類により、草醤(くさびしお=漬物に発展)、肉醤(にくびしお)、魚醤(うおびしお=塩辛といったもの)、穀醤(こくびしお)に分けられる。このうち、穀醤が味噌となり、醤油となったようだ。

上花輪香取神社

歴史館の次は、須賀神社のあった野田市下町交差点まで戻り、流山街道・本町通りを北に辿り、時間の許す限り、河岸に直行故に見残していた見どころを訪れることにする。途中香取神社が。何気なく立ち寄るに、銅葺屋根の立派な社殿。社殿の前に門を構え塀が囲む。
社殿の建築棟梁は茂木佐公園の社殿と同じく棟梁佐藤里次。監督は佐藤良吉。昭和8年の『香取神社正遷宮大祭』の写真には人力車に乗り群衆の歓喜の中を進む両名の姿があり、歴史が少々のリアリティをもって現れてくる。社殿を彩る彫刻も立派。彫工は石川三五郎信光の手によると伝わる。石川三五郎は柴又帝釈天や川越・連雀町の蓮馨寺にその名を残す

奥富歯科医院と旧奥富薬局店舗

興風会館を右手に見やり、キッコーマン本社を越えた通りの左に古き趣の家屋がある。この奥富歯科医院と旧奥富薬局店舗は大正から昭和初期に建てられたもの。大正期の出桁造の旧薬局店舗と、昭和初期のモダンな洋館である。




株式会社千秋社社屋
野田市下町交差点まで戻り、奥富歯科医院と旧奥富薬局店舗の通りの反対側に陸屋根(傾斜のない平面の屋根。平屋根とも)、鉄筋2階建ての建物。大正15年(1926)に建てられ旧野田商誘銀行として使われていた。野田商誘銀行は野田醤油醸造組合の発起により明治33年(1900)に設立された。「商誘」の名称は 、醤油の語呂にちなんで名付けられた。野田商誘銀行は、太平洋戦争中の金融統制に より、千葉銀行に合同され、昭和45年まで千葉銀行野田支店として使用されていたが、その後キッコーマン系列の千秋社の所有とな っている。
千秋社は大正6年、野田の醤油醸造業者が合同し設立した野田醤油株式会社を支援する経営者団体として組織されたもの。興風会館でメモした、財団法人興風会も千秋社の寄付により設立されたものであり、現在キッコーマン株式会社の株の3.1%を所有し、主要株主となっている。

旧野田醤油株式会社本店初代正門
株式会社千秋社社屋脇の道を少し入ると旧野田醤油株式会社本店初代正門が残る。キッコーマンの初代正門と言うことだ。土蔵と塀に挟まれた門の向こうはキッコーマンの敷地のようで、通り抜けはできない。





野田市立中央小学校校舎
流山街道・本町通りに戻り、北に進むと、通りの右手に野田市立中央小学校の門柱。門柱の脇には煉瓦造りの塀が残る。門柱から中を見るに、民屋や商家らしきものがあり、ちょっと奇妙な感じではある。
野田市立中央小学校校舎はその奥にある。昭和3年(1928)から7年(1932)の頃建てられた校舎は当時珍しい鉄筋コンクリー3階建。外観のレリーフや校庭側のテラスがモダンな造りとなっている。





ノエネ醤油株式会社本社社屋および工場群

通りを更に北に進み、京葉銀行野田支店を左に折れキノエネ醤油株式界社本社社屋および工場群に向かう。左に折れる手前に「野田醤油発祥の地」があったようだが、見逃した。上でメモしたように戦国時代も末期の永禄年間、飯田市郎兵衛がこの地ではじめて「たまり醤油」を製造したところではあろう。
先に進むと落ち着いた佇まいの中、黒板塀に
囲まれた醸造所が見える。天保元年(1830)の創業、野田を代表する醤油工場の一つキノエネ醤油である。本社社屋は明治30年、鉄筋コンクリート造りの作業場は大正10年(1921)築とのことである。大正6年(1917)の野田の醤油醸造者の大同団結にも加わらず、独自路線を貫いた、と言われるだけで、なんとなく全体が有難く感じる。
ちなみに、このキノエネ醤油は映画監督小津安二郎氏と深い関係にある。小津安二郎監督の妹さんが山下家に嫁いだ関係から、戦時下、小津監督の母親が野田に疎開。監督も戦地より引き揚げてから鎌倉に住むまでの6年間野田に住んだ。といっても、ほとんど大船の撮影所に泊まり込みであったたようではある。

愛宕神社
流山街道・本町通りに戻り、少し北に進むと愛宕神社前交差点。野田の総鎮守で、創建は延長元年(923)と伝えられ、雷神を祀り、防火を司る迦具士命を祭神とする。現在の権現造り・木造銅版葺様式の社殿は、文政7年(1824)に再建されたもので、社殿彫刻は左甚五郎を祖とし、そこから10代目の名工二代目石原常八の手になるもの。石原常八の出身地、群馬県の花輪村は「匠の里」と呼ばれ、隣の上田沢村とともに彫刻師の一派があり、上州の左甚五郎と呼ばれる関口文治郎などの名工を生み出した。
これほどの匠を招くには茂木家の力も大きくあったのではなかろうか。愛宕神社の東には茂木房五郎氏の邸宅があったとのことだし(現在は一部が割烹料亭に)、一説には愛宕神社に初代茂木房五郎が祀られる、とも。また、愛宕神社の北には、愛宕権現の本地仏である勝軍地蔵尊があるが、この地蔵尊を建立したのは初代茂木啓三郎とのことである。



キッコーマン稲荷蔵
日暮も近い、大急ぎで残りの見どころを辿りながら野田市駅へと向かう。流山街道・本町通りを南に下り、キッコーマン本社北の通りを左折。浪漫通りと呼ばれる道を進むとキッコーマン稲荷蔵。明治41年頃に建てられたもの。黒板塀が美しい。元は茂木七左衛門の仕込蔵であったが、現在は倉庫として使用されている。





茂木七左衛門邸および煉瓦塀
キッコーマン稲荷蔵に続く赤い煉瓦塀は茂木本家・茂木七左衛門邸。邸宅は関東大震災の後、大正15年築。煉瓦塀は明治末期築と言う。設計は上花輪の香取神社や愛宕神社と同じく立川流宮大工の流れをくむ佐藤良吉、建築は佐藤里次則の手になるとのこと。国登録有形文化財に指定されている。





茂木七郎治邸
浪漫通りを文化通りのT字路にあたり、右に折れ、すぐに左に折れると弁天通り。通りの左手に一見すると農家かと見まがう古いお屋敷。門札に茂木とありチェックすると茂木家の分家のひとつである茂木七郎治邸であった。安政7年(1854)頃に建てられた野田市内最古の木造住宅とのこと。地主農家としての長屋門と金融業としての帳場を併せ持つのが特徴、とあった。




キッコーマン第一給水所
通りの右側にはキッコーマン第一給水所。大正12年(1923)から昭和50年(1975)頃まで工場および地域住民に供給された。通水までには苦労があったようで、大正10年(1921)の地下水汲み上げのための第一号削井工事では予定の水量が確保できず、第二号削井工事で予定水量の目途がたち、水道施設工事をおこない、通水、各戸給水の追加工事に着手。上記のごとく大正12年には給水をはじめ、昭和50年に野田市に移管されるまで企業が水道事業を行っていた、とのことである。なお、昔はこの地に給水塔があったようだが、老朽化のため耐震基準をみたせず取り壊しとなった。
それにしても、この給水所=水道だけでなく、銀行、病院(養生所から発展)、学校(中央小学校はキッコーマンの寄贈)、そして鉄道など、醤油会社が社会インフラの整備を行政に代わりおこなっているわけであり、企業経営上の合理性とは言うものの、その財力に少々の驚きを感じる。

厳島神社
弁天通りを進み、野田市駅へと右折するところにちょっとした緑の森が見える。中に入ると厳島神社が祀られていた。この社は安永7年(1778)創建。「下の弁天さま」と称される。この辺りが下町という地名故の命名であろう。ちなみに、野田市内には古春、柳沢にも弁天さまがあり、野田の三弁天と呼ばれるようである。
社の後ろには弁天社お約束の池。弁天さまはインドの神様で、河を守る水神・農業神であり水辺に鎮座するのが普通である。昔は湧水だった、とか。

東武野田線野田市駅
弁天様の脇道を進むと緩やかなカーブ。自転車置き場となっているこのカーブは工場への引き込み線の跡かとチェックする。上で、野田町駅は昭和4年(1929)に野田市駅が出来たときに旅客業務は市駅に移管されたが、貨物業務は昭和61年(1986)まで続いたとメモした。その引き込み線は市駅の南手前から分岐され、野田市駅第一、第二自転車駐輪場に沿って進み、県道46号に沿って野田町駅に結ばれていた。同じ自転車置き場ではあるが、こちらの自転車置き場ではなかった。それでも、このカーブ、なんとなく怪しい、などと思いながら東武野田線・野田駅に向かい、本日の散歩を終える。

野田散歩は結局醤油醸造に関わる文化遺産を辿る以上のものにはならなかった。日本の醤油消費量の28%ほどを製造するとも言われる野田であれば仕方なしとすべし、か。それと、散歩してはじめて知ったことは、野田は枝豆の主要生産地である、ということ。2002年には全国一の生産量を記録した、とも。醤油の主要原料は大豆であるので、当然か、などと思っていたのだが、野田で枝豆栽培が本格的にはじまったのは、それほど昔でもなく、1960年代に入ってから。もとは自家製の味噌造りのために栽培していた大豆を枝豆生産に切り替えたようである。町には「まめバス」と呼ばれる枝豆由来のコミュニティバスが走り、枝豆を核にした町おこしもはじまっているようである。とはいうものの、結局は大豆=醤油からは離れることはできないようである。

利根運河散歩をきっかけにはじまった流山から野田へと北に辿る散歩も、流山旧市街、そして利根運河の谷津と、二度の散歩になってしまった。基本成りゆき任せの散歩のため、散歩のメモの段となって、はじめて見逃しに気がつくことが多いのだが、今回は特に小金牧に関連した人物や事跡で取りこぼしが多い。ということで、野田へと進む前に、小金牧での新田開発で善政を施した岩見石見守ゆかりの地や野馬除土手、馬の水飲み場、そして明治になって旧幕臣が中心となり進めた小金牧跡の開墾地跡など、気になった事跡をまとめて辿ることにした。

目的の場所も結構バラけている。また、家を出るのも例の如くゆったりとしたものであり、柏駅についた時には既にお昼をはるかに過ぎている。今回は、歩きのみ、という散歩の基本方針を少々「封印」し、見残し・後の祭りを1日で終えるべく、歩きと電車の乗り継ぎを組み合わせることにした。それにしても結構タイトな1日とはなった。



本日の散歩;東武野田線柏駅>東武野田線・豊四季駅>坂川放水路>天形星神社>諏訪神社>東武野田線・豊四季駅>(東武野田線)>東武野田線・流山おおたかの森駅>オランダ観音>東武野田線・流山おおたかの森駅>(つくばエクスプレス)>つくばエクスプレス柏の葉キャンパス駅>厳島神社>こんぶくろ池>常磐道>皇大神社>流通経済大柏高校・野馬除土手>大青田の谷津>円福寺>利根運河>駒形神社>下三ヶ尾谷津>東武野田線・運河駅>オランダさま>東武野田線・江戸川台駅

東武野田線・柏駅
最初の目的地は天形星神社。岩見石見守が祀られる。最寄りの駅は東武野田線・豊四季駅。常磐線・柏駅で東武野田線に乗り換えることになる。JR柏駅の改札を出て東武野田線の改札からホームに入ると、駅はターミナル・終点駅となっており、南の船橋行も、北の大宮行きも柏駅が始発駅である。
地図を見るに、大宮方面からの路線は土浦・水戸など「下り方向」にカーブを描き柏駅のホームに入る。また、船橋からの路線も「下り方向」に向かって柏駅に入る。東武野田線は千葉県船橋から埼玉県大宮を結ぶわけで、何故このような直通運行には不都合な入線仕様となっているのかチェックすると、歴史ゆえの状況が見えてきた。
明治44年(1911)、野田の醤油を常磐線柏駅と結ぶべく千葉県営軽便鉄道が開設された。その時、柏駅には「下り方向」に向かって常磐線と合流させたわけだが、その理由は、駅近くにあった柏競馬場を避けるには「下り方面」へと繋げるのが工費の観点でメリットがあった、とのこと。柏競馬場は現在の豊四季台3丁目と4丁目の豊四季台団地あたりにあったが、昭和27年に廃止された。県営軽便鉄道は、大正10年(1921)、千葉県から払い下げを受け、その路線の継承と同時に船橋と柏間の建設を目的として北総鉄道(現在の北総鉄道とは関係なし)が設立された。完成された柏・船橋間の入線は下り方向に向かって柏駅に入る。野田からの入線が下り方向になっている以上、それに接続させるには路線を西、と言うか北方向から大回りさせる必要があるだろうし、そもそも駅自体が、船橋方面駅が常磐線柏駅の東、野田方面駅が柏駅の西と、常磐線を挟んでサンドイッチといった状況であり、接続させることができない状況であったのか、とも思う。単なる妄想。根拠なし。
その後、大正15年(1926)、野田から東武線粕壁をへて大宮を結ぶ構想がもち上がり、その路線が完成した昭和4年(1929)には北総鉄道を総武鉄道(現在の総武本線とは関係なし)と改称。昭和5年(1930)には別々であった船橋線・野田線の駅を野田線の駅に統合した。
昭和18年(1943)には東武鉄道と合併し、野田線・船橋線という呼称も野田線に一本化し、東武野田線として現在に続いている。東武野田線という如何にも直通路線といった呼称に引っ張られ、何故に柏でのスイッチバックか、とチェックしたのだが、本来別の会社、というか路線(野田線・船橋線)が後になって名称統合された、と言うことであった。
そういえば、西武線の飯能駅もスイッチバックであった。これも、まずは、木材の集散地でもあった飯能と池袋が結ばれ。その後、秩父のセメント輸送のため飯能から吾野へと路線が延ばすに際し、地形故の制約より飯能を始発とした時計逆回り方向への路線を余儀なくされ、スイッチバックの形になったのではあろう。その後飯能をパスした直通路線も検討されたようだが、輸送量が少ない割に飯能が発展してしまっていたため、敢えて短絡直線路線を敷く必要性がなくなっていた、と言うことだった、よう。物事にはそれなりの理由がある、ということではあろう。

東武野田線・豊四季駅
柏駅より豊四季駅に向かう途中、車中でiphoneであれこれ本日のコースをチェックしていると、豊四季駅から南柏駅方面へ少し戻ったところに豊四季稲荷神社があり、そこに「豊四季開拓百年碑」があるとのこと。当初の予定では豊四季駅で下り、最初に岩見石見守が祀られる天形星神社へ、などと思っていたのだが予定変更。少々戻ることにはなるが、稲荷神社へと向かうことに。
豊四季とは小金牧が徳川幕府の崩壊とともにその役割を終えた後、その跡地を開拓地とする計画により開墾された集落の名前に由来する。その時開墾された13の集落名は現在も地名として残る。地名は開拓された順に数字で示され、1番目 初富(はつとみ)(鎌ヶ谷市)-小金牧内・中野牧>2番目 二(ふた)和(わ)(船橋市)-小金牧内・下野牧>3番目 三咲(みさき)(船橋市)-小金牧内・下野牧>4番目 豊(とよ)四季(しき)(柏市)-小金牧内・上野牧>5番目 五(ご)香(こう)(松戸市)-小金牧内・中野牧>6番目 六(むつ)実(み)(松戸市)-小金牧内・中野牧>7番目 七(なな)栄(え)(富里市)-佐倉牧内・内野牧>8番目 八街(やちまた)(八街市)-佐倉牧内・柳沢牧>9番目 九(く)美上(みあげ)(佐原市)-佐倉牧内・油田牧>10番目 十倉(とくら)(富里市)-佐倉牧内・高野牧>11番目 十余一(とよいち)(白井市)-小金牧内・印西牧>12番目 十余二(とよふた)(柏市)-小金牧内・高田台牧>13番目 十余三(とよみ)(成田市)-佐倉牧内・矢作牧。豊四季は四番目に開墾された集落であり、四季を通じて豊かなれ、といった思いを込めた地名となっている。
豊四季駅で下車。駅には南口はないので、北口に下り、線路を跨ぐ通路を通り南口に。豊四季駅南口交差点を柏方面に向かって進む。道は豊四季と野々下の境を進む。野々下は小金野の南下が地名の由来、とか。西に向かって緩やかに下る地形が感じられる。

稲荷神社・豊四季開拓百年記念碑
道なりに進み柏第二小学校脇、稲荷神社前交差点の西に稲荷神社があった。境内の右隅に「公爵岩倉具視報恩碑」、右側に「豊四季開拓百年記念碑」がある。まずは社殿にお参りし、記念碑前に。
「豊四季開拓百年記念碑」は昭和48年に建立されたもの。長文の内容を簡単にまとめると、「明治維新の社会不安、民生の安定のため窮民対策として小金牧・佐倉牧を廃し、東京窮民を開拓農民とする計画が立案された。開墾局を設け、明治2年、三井八郎衛門などを中心とした開墾会社が設立され、開拓地積を1万町と推定し、1万人の入植を計画。募集に応じた東京窮民のうち6461人が入植。入植者は「三年間衣食住は勿論万事世話致し、四年目より自分活計を定め一旦会社請負人と相成、開墾入費を十ケ年の内に会社に返済致候得ば、会社一般独立農夫」となり、其の後自力新開は地主となれる、という文言で開墾に努めた。しかしながら、その労働条件は「会社の管理督励苛酷言語に絶し労働過重心身供に疲弊困憊し脱落逃亡が続出した」との表現が示す通り過酷を極め、「会社は経営よろしきを得ず」、明治5年事業解散するに至る。この時点で開拓農民は半数にまで減っていた、とのこと。
明治6年、開墾事務は県に移管され、出資社員(富民)は土地を得、それも地券面の数倍といった有利なものであったが、一方入植者(力民小作人)に開墾地の所有権もなく、債務処理など会社に対して裁判に訴えるも敗訴の連続。その抗争の間、「住家は雨露を凌ぐまでにて、眷属襤褸を纏い」「畠は枯痩の色を呈し収穫甚だ寥々」「住する者十中二三を余すに過ぎず、その他悉く四方に離散し」「一戸の人煙みざる所あり」といった悲惨な状態であった。このような状況の中でも、この地に残った東京窮民と野付村移民、通い村民たち先人が切り開いた茨の道を偲んでたてられたのがこの石碑である。
維新当時の東京の人口は50万人。そのうち、家禄を失った旧武士階級や都市困窮民は10万人に上った、と言う。社会不安に対する民政安定が焦眉の急であったのだろう。なお、この豊四季は三井八郎衛門の引請地であり、明治2年に122戸478人が入植したが、明治5年までには約半数の50戸が脱落した、と言う。また入植者が開墾土地を自分のものとするのは戦後の農地改革を待ってからであった。
次いで、「公爵岩倉具視報恩碑」に。何故にこの地に岩倉具視?チェックすると、岩倉具視と東京窮民による小金牧開墾地の関係が見えてきた。まずは、そもそもが、民生安定を目的とし開墾計画を発意した元水戸藩士北島秀朝は岩倉具視の知遇を得て幕末・明治維新に活躍した人物。討幕軍司令を務めた岩倉の次男を補佐し実質的軍司令官として活躍。明治維新に入ると、東京府判事として東京を治める立場となり、民生安定のため下総の牧跡の開墾策を提言。下総開墾局知事として開墾事業に関与した。
その開墾会社が解散するに際し、開墾された土地の大部分、719町歩のうち714町歩が三井のものとなり、入植者のもとに所有権がなく、ゆえに長年にわたる裁判沙汰となるわけだが、その裁判を有利に運ぶべく三井はその土地を大隈重信、岩倉具視、青木周蔵といった明治の元勲に譲渡した、と言う。この記念碑はこの地の大地主となった岩倉具視の記念碑といったものだろう。少なくとも開拓農民の感謝の碑とは思えない。

坂川放水口
稲荷神社で次の天形星神社へのルートをiphoneの地図でチェックしていると、豊四季の西、野々下に坂川の川筋がある。ということは最上流点には坂川放水口がある。ついでのことではあるので、坂川放水口に向かうことにする。
野々下はその地名が示すように、豊四季地区のある台地の平坦地から川筋に向かって下ってゆく。坂川の水の恵み故か、室町の頃より開けたという野々下の地は起伏豊か。緩やかな傾斜地を先に進むと低地となり坂川筋に出た。
川の上流端へと進むと放水口近くは親水公園となっている。小川を配した公園を辿ると放水口に到着。放水口は堰といった造りで坂川へと流れ落ちていた。坂川は利根川と江戸川を結ぶ北千葉導水路の一部となっており、坂川放水路とも呼ばれる。水路は印西市木下(きおろし)と我孫子市布佐の境辺りで利根川から取水し、手賀川・手賀沼の南を手賀沼西端まで地下水路で進む。手賀沼西端では、手賀沼に注ぐ大堀川を大堀川注水施設まで川に沿って地下を進み、注水施設からは南へと下り、流山市の野々下水辺公園(野々下2-1-1)にあるこの坂川放水口から坂川に水を注ぐ。地下を流れてきた水路は放水口からは開渠となって江戸川へと下ってゆく。
北千葉導水路の役割は、第一に東京の水不足に対応するため利根川の水を江戸川に「運ぶ」こと。次に、手賀沼の水質汚染を防ぐこと。柏市戸張新田にある第二機場では直接手賀沼に、大堀川注水施設では大堀川の水質改善も兼ねて大堀川経由で手賀沼を浄化する。そして、第三の目的としては、周辺より地盤の低い手賀川や坂川の洪水対策として、あふれた川の水を利根川や江戸川に放水し水量を調節する、といったこと。

いつだったか我孫子から手賀正沼を辿り、手賀川から印西市木下の利根川堤まで歩いたことがあるる。北千葉導水路にはそのとき出合ったのだが、江戸川筋への放水口・放水路に出合えて、誠にうれしい。

天形星神社・岩見大明神
やっと、最初の目的地であった天形星神社(流山市長崎2-57番地)に向かうことに。予定になかった寄り道も、岩倉公記念碑といった思わぬ事跡に出合ったりと、成り行き任せの散歩はやはり、いい。
坂川放水口から成り行きで台地に上る。金乗院を右手に眺め、畑地や宅地の間を長崎地区へと向かうと深い緑の中に天形星神社があった。境内に入り、左手に岩見神社を見やり、まずは本殿にお参り。本殿に限らず幣殿、拝殿、そして岩見神社も結構新しい。説明によると、寛文2年(1662)創建とあるが、このあたりの長崎、野々下は戦国の頃には既に集落が形成されえいたようであり、そうであれば社が祀られたのは更に時代を遡るとも。時を経て荒廃した古き社を昭和62年に改築された、とあった。
境内の岩見神社にお参り。社脇の感恩碑によると、「寛政年間、徳川幕府の房総三牧の野馬方総取締・旗本岩本石見守をお祀りしたお宮。長崎、野々下の両村は小金牧の野付の村として、隣接した牧内に野馬入り新田を開拓することは多年の願であった。この願いを許したのが石見守。寛政六年のこと。この新田は原新田と呼ばれた。林畑であり、秣の育成、松、杉、楢等の植林がなされ、薪、炭の生産も成果を上げ豊かな村となった。
村民一同、石見守の人徳のお陰と感謝の念を深め、報恩の一念から文化九年には「石見大明神」の石碑を建てる。明治初年にはこの碑を御神体として長崎一丁目七四二番地に境内を定め、社を設け、鳥居も建てて代々祭祀を続けたが、昭和62年、天形星神社境内に造営竣工された新社殿に遷座された」、とある。『小金牧を歩く;青木更吉(崙書房出版)』によると、村民の野馬入新田開墾の願いは石見守により、半年もたたず認められ、広さは村の面積に相当し、燃料に困ることもなくなり、馬の飼料も得られえ、また、薪、炭などにより現金収入も手に入り、生活は豊かになった、とのこと。新田開発とは言うものの、それは単に水田開墾だけ、と言うわけではなく、林畑、そこから生まれる薪、炭など、その意味するところは、広範囲なものであったようである。
岩本石見守正倫は、甲斐の国に生まれ、徳川幕府に仕える知行二千石の岩本正利を父とし、長姉お富の方は、一橋中納言治済卿に仕えて、第十一代将軍家斉の生母となる。家斉は将軍職を五十年つとめ、正倫は将軍の信任篤く、要職を経て寛政五年(1793・37歳)に、小金、峯岡、佐倉三牧の取締支配に任ぜられ、以後も栄進を果たす。

ところで、この天形星神社、はじめて出合う神社である。名前に惹かれてチェックする。祭神は素戔嗚命(スサノオのミコト)。この素戔嗚命と天形星との関係であるが、道教というか陰陽道では天形星は牛頭天王と同一視される。仏教の守護神でもある牛頭天王、祇園精舎のガードマンでもあったため「祇園さん」とも呼ばれた牛頭天王であるが、その父は、道教の神であるトウオウフ(東王父) 、母は セイオウボ(西王母)とも見なされたため、牛頭天王はのちには道教において冥界を司る最高神・泰山府君(タイザンフクン)とも同体視される。

泰山府君は、十王信仰(十人の冥界の王が、冥土で亡者の罪を裁くと信じられた)では、十王のひとりである泰山王(タイザンオウ)(閻魔さま) とも同体視されるに至るが、その泰山王・閻魔様の本地仏は薬師如来であり、素戔嗚尊の本地仏も薬師如来。ということで、天形星=牛頭天王=素戔嗚尊、という神仏習合関係が出来上がった、とも。閻魔様=冥界=黄泉の国といえは素戔嗚尊、といったアナロジーもあったのだろう、か。
また、素戔嗚尊は、新羅の曽尸茂利(ソシモリ)という地に居たとする所伝も『日本書紀』に記されている。「ソシモリ」は「ソシマリ」「ソモリ」ともいう韓国語。牛頭または牛首を意味する。素戔嗚尊と新羅との繋がりを意味するのか、素戔嗚尊と牛頭天王とのつながりを強めるためのものなのかよくわからない。が、 素戔嗚尊と牛頭天王はどうあろうと同一視しておこうと、ということなのであろう。
この神社、もとから天形星の社と呼ばれていたのか、牛頭天王の社と呼ばれていたのが定かではないが、ともあれ天形星神社に素戔嗚命が祀られるのはかくのごとき所以からではあろう。

諏訪神社
天形星神社を離れ、北東に続く道を成り行きで辿り県道278号に向かい、県道を進むと東武野田線と交差。線路に沿って右に向かえば豊四季の駅に出るのだが、線路の少し先、道の左手に鬱蒼とした森の中に諏訪神社がある。流山や柏の散歩の折々に、「駒木のお諏訪さま」として登場するため、どんな社かと訪れることにした。
境内に入ると、誠に立派なう社である。木々に覆われた参道を進み随神門をくぐり、本殿にお参り。祭神は健御名方富命(たけみなかたとみのみこと)。広い境内には姫宮神社とか大鳥神社など八つの社が合祀されている。
童謡をテーマにした散歩道などを彷徨い、本殿脇に戻ると騎馬武者の像。源義家とある。奥州での後三年の役を終えた義家が武運のお礼として乗馬と馬具を奉納した、とのこと。奉納の際に鞍を掛けた松の伝説を示す鞍掛け松の碑もあった。
義家の鞍掛け松や腰かけた岩といった伝説は散歩の折々によく出合う。最初はあまり気にもしていなかったのだが、その伝説の跡を見やると、奥州への古道跡を示したり、といったこともあり、伝説も伝説以上の意味をもつこともあるようだ。
本殿の脇には御神水。天保12年(1840)、江戸の文人友田次寛が、その著小金紀行に「神垣の 杉のうつろの 真清水は つきぬ恵みの ためしなるらむ」と描く。「道問へば大根曳いて教えけり」と詠む蕪村碑も残る。

諏訪神社の創建は古く、平安時代のはじめとも、それより古いとも伝わる。大和の国より天武天皇の第一皇子である高市皇子の後裔がこの地に移り、その心の拠り所として信濃の諏訪大社より勧請したのが駒木のお諏訪さまである。移住の理由は、高市皇子の第一皇子である長屋王が、その英明さ故に藤原一門に「睨まれ」、長屋王の乱という陰謀により妻子共に自刃に追い込まれる。そういった一門の危機を避けるべく、大和を離れ、この地に移った、とも。また、諏訪社勧請の理由は、高市皇子の養親が奈良の大神社の祭祀者であり、大神神社の祭神が大国主命。また、高市皇子の母は九州宗像族の出身。宗像族は出雲系の一族であり、出雲族と言えば国ッ神系・大国主命がその代表格。諏訪大社の祭神である健御名方富命は大国主命の子であり、諏訪神社勧請のストーリーは理屈にあっている。
この諏訪神社、由緒ある神社故なのか、兼務社が多く、30近くもある、と言う。今までの散歩で出合った神社のうち、先ほど訪れた天形星神社、豊四季開拓百年記念碑のあった稲荷神社、先日訪れた流山旧市街・加の大杉神社、青田の香取神社、小青田の姫宮神社なども諏訪神社の兼務社であった。そういえば、それらの神社には社務所がなかったように思う。

諏訪道
境内を出て、再び県道278号に。県道278号は流山から諏訪神社まで北東へと上り、諏訪神社の北で右に折れ、東武野田線に沿って柏に向かう。その昔、布施弁天の北、県道47号が利根川を渡る近くにあった布施河岸から流山の加村河岸を結ぶ諏訪道と呼ばれる道があった。もともとは、布施から諏訪神社を結ぶ信仰の道であったようだが、江戸の中期以降は利根川の布施河岸で荷揚げされた物資を江戸川の加村河岸へと運び、そこから江戸川を下り、江戸へと物資を運ぶ道となった。
利根川筋から江戸への物資運搬ルートは、もともとは、利根川を関宿まで上り、そこから江戸川を江戸まで下っていたとのことだが、関宿付近が土砂の堆積で浅瀬となり、冬場の渇水期には船の航行ができなくなったため、この地で陸揚げされた。布施河岸の少し上流には鬼怒川の利根川合流点もあり、北関東の物資も布施河岸を経て江戸へと結ばれた。最盛期の寛政期頃には年間16000駄の荷受け量があったという。
諏訪道は大雑把に言って、布施弁天の北にあった布施河岸から県道47号に沿って南東に下り、大堀川と国道16号が交差する辺りで北南西から北東へと方向を変え、大堀川の北を進み、諏訪神社の北で再び方向を南西に変へ諏訪神社に。諏訪神社からは、おおよそ現在の県道278号に沿って流山に向かう。かつては江戸川には多くの渡しがあったようであり、埼玉との往来も盛んで、諏訪道を通り諏訪神社へと向かう埼玉側からの参拝者も多くいたとのことである。

利根川から江戸川への「バイパス」はこの諏訪道だけでなく、布佐の納屋河岸から松戸を結ぶ「鮮魚街道」、木下(きおろし)から行徳河岸を結ぶ木下街道などがある。木下街道は印旛沼散歩のとき、一部を歩いたのだが、そのうちにこれらのバイパスも歩いてみたい、と思う。ちなみに、諏訪道は、手賀沼・印旛沼名産のうなぎ故に、「うなぎ街道」と呼ばれた、とも。

東武野田線・つくばエクスプレス流山おおたかの森駅
次の目的地は流山おおたかの森駅近くにあるオランダ観音。今回は「歩き&トレイン」ということで、先ほど下車した東武野田線・豊四季駅に向かう。豊四季駅から一駅。駅を下りると駅周辺は再開発の真っ最中。すでに完成したショッピングセンターや高層マンションと造成工事中の建設機械、掘り起こされるも、未だ整地されていない荒地などが入りまじり、雑とした状況。駅の西に駅名の由来ともなった、おおたかの営巣地である「おおたかの森」も宅地開発で半減し、現在は20ヘクタールほど。かつてはつくばエクスプレス線の北と流山おおたかの森駅から北に進む東武野田線の西側一帯の50ヘクタールが鬱蒼とした森であったとのことであるが、現在は宅地や建設予定地で囲まれながら、かろうじて森の緑を保っている。

オランダ観音
流山おおたかの森駅の北に下り、東武野田線の東側の造成地の中を進むと住宅街の家と家の間の細路の先にオランダ観音(流山市東初石5‐153)があった。祠の中には二基の馬頭観音が祀られる。諸説あるも、寛文8年(1668)、品種改良のため輸入したペルシャ牡馬二匹のうちの病死した一匹であろう、と。オランダ観音の由来は、オランダの東インド会社長崎商館を通して輸入された、ため。
小金牧の野馬は蒙古系の馬であり、馬高は1.2m程度。現在私たちが目にするサラブレッドの馬体とは似ても似つかない、かわいいものである。乗馬すると足が地面につくといってもそれほどオーバーな表現ではない。『小金牧を歩く;青木更吉(崙書房出版)』によれば、品種改良に関心の強かった将軍吉宗は、ペルシャ馬27匹(牝21、牡6匹)を輸入した。当時の値段ではペルシャ馬一匹は野馬360匹に相当するという高価なものであった、と言う。
オランダ観音の説明には、「葦毛の三歳駒を輸入し牧に放牧したが、気候や風土の違いから小柄な日本馬ともなじめないまま気質が凶暴になり、野馬堀を一気に超え作物を食い荒らし、人にも危害を及ぼすようになった。これを見かねた牧士頭は勢子を動員して駒を追いよせ狙撃してし、傷を負った葦毛馬は四苦八苦の末、日頃住みなれた十太夫新田の沢にたどりつき、そこで水を飲みながら息絶えた、と。その哀れな姿に村人や狙撃した牧士たちは、馬を哀れみその霊を慰めるためにその近くに祠を建てた」、との説明もあるが、そんな高価な馬を射殺するのは不自然であり、また碑文は後世になって建てられたものであり、「伝説」として伝わっていた射殺説が刻まれたのではないか、と言う。

つくばエクスプレス・柏の葉キャンパス駅
次の目的地は厳島神社にある「高田原開拓碑」。つくばエクスプレス・柏の葉キャンパス駅の近くにある。今回は取りこぼし・後の祭りを1日でカバーするため「歩き&トレイン」が段取りの基本。流山おおたかの森駅よりつくばエクスプレスに一駅乗り、柏の葉キャンパス駅に。
駅の周辺は流山オオタカの森駅周辺の開発途上の乱雑さ、一駅先の柏たなか駅前の開発がはじまったばかりの「なにも無さ」に比べ、結構整備されている。思うに、この地域一帯は国有地が多かったため、地権者との折衝の困難さはないわけで、それ故に開発計画が容易に進めることができたのではないだろうか。

この一帯の土地の歴史を眺めるに、江戸の頃は小金牧のひとつである高田牧、明治に入り東京窮民を入植者とした三井を中心とする開墾会社が開墾した開墾地・十余二である。そして、その開墾会社が解散した後、開墾地の土地の大半が入植者ではなく三井の手に落ち、その後、入植者との裁判沙汰を有利に図るために大隈重信などの明治に元勲に土地を譲渡している。戦前にはこのあたりに柏陸軍航空隊と飛行場があったと言うことだが、その大半は大地主となった大隈など明治の元勲の土地であろう、か。それはともあれ、飛行場跡地は戦後は一時米軍に接収され通信基地となっていたが、それも昭和54年(1979)には日本に返還されている。その跡地に東京大学や千葉大学、そして各種国の研究機関などが建設された、ということである。

厳島神社・高田原開拓碑
厳島神社は県道47号脇にある。線路に沿って進めば距離は近いのだが、工事用の空き地などで行く手を阻まれ、結局、大回りして県道47号を歩くことになった。県道を進み、つくばエクスプレスの高架をぐぐると、最初の交差点手前に、誠に、誠にささやかな祠があった。
祠にお参りし、脇にある高田原開拓碑を見る。裏には「当地は元小金原高田台牧也 明治二年より入植開拓せり初期入植者は自作農たるべき筈の処大隈及鍋島等の所有となりて八十余年昭和廿二年来の農地改革により初志貫徹すべて入植者の有に帰す」と刻まれる。
柏市十余二・高田のほか流山市の一部にまたがる高田台牧は、明治に三井ら政商を中心につくられた開墾会社によって開墾されるも数年で会社は解散。土地は入植者の手にならず、大半が三井のものとなり、それも裁判沙汰を有利に運ぶため明治の元勲に譲渡した、とは上にメモした。実際このあたりは大隈重信の土地となり大地主として広大な土地を所有した。土地が開墾民の手になるのは記念碑が刻むように戦後の農地改革が行われてからであり、それまでの裁判、小作民としての遺恨故か、「大隈及鍋島」と呼び捨てにしているのが直截で誠に、いい。なお、この神社も駒木の諏訪神社の兼務社であった。

柏の葉公園
厳島神社を県道に沿って少し進み、最初の交差点で右に折れ、道の右手に柏の葉高校や千葉大学環境健康フィールド科学センター、左手に柏の葉公園をみやりながら進む。この柏の葉公園のあたり、西は航空自衛隊システム通信隊の敷地から東の東京大学柏キャンパスのあたまでは戦前には陸軍の柏飛行隊と飛行場があったところである。
日中戦争勃発直前の昭和12年(1937)、首都防衛の飛行場としてこの地に開設することが決定され、昭和13年(1938)に工事が着工され同年完成。陸軍東部百五部隊の飛行場、柏飛行場が開設され、立川より陸軍飛行第五戦隊が移転してきた。
太平洋戦争が勃発すると、飛行第五戦隊はジャワ島に移り、柏飛行場にはいくつかの飛行戦隊の変遷があり、フィリピンでのレイテなど戦地への移動、また首都防衛の任にあたった。戦争末期に開発されたロケット戦闘機である「秋水」の飛行基地に予定されていた、とか。また、柏飛行場の南、高田には第四航空教育隊が設置され、そこで短期訓練を受けた隊員は、鹿屋や知覧の特攻基地に移っていたとのことである。

戦後は一時戦後海外からの引揚者、旧軍人ら約140人に払い下げられ開墾されたが、朝鮮戦争時には一部が米軍に摂取され、昭和30年(1955)には「米空軍柏通信所」、トムリンソン通信基地が建設され、200mの大アンテナなどのアンテナが林立していた、とか。
昭和54年(1979)には米軍から日本に返還。雑草の生い茂る荒地となっていたが、その跡地に柏の葉公園が整備され、東京大学や千葉大学、そして各種国の研究機関などが建設されている。
ちなみに陸軍飛行第五戦隊は立川から移ったとメモしたが、

いつだったか玉川上水を辿っていたき、立川市の砂川地区で上水が突然暗渠となり、何故に、とチェックしたことがある。暗渠化の理由は立川の航空隊用の滑走路の延長を考えてのことであったわけだが、その飛行隊は柏に移り、結局滑走路の延長はなくなった、とのこと。散歩をすれば、いろんなところで、いろんなものが紐づいてくる。誠に面白い。

こんぶくろ池
道の左手に柏の葉公園、右手に科学警察研究所や税関研修所などの建物を見遣りながら進むとT字路にあたる。T字路の先は東大柏キャンパス、右手の国立がんセンター東病院に沿って折れ、がんセンター東病院の敷地が切れるところで右手を見ると森が見える。こんぶくろ池はその中であろう、と右に折れると「NPOこんぶくろ池自然の森」の旗がたっていた。こんぶくろ池のある森一帯はNPOの活動によって環境保護がたもたれているのだろう。
左手にNPOの管理小屋を見ながら、とりあえず森に入る。雑木林の中を成り行きで進むと湧水池があり弁天池とあった。小さな祠は弁天さまではあろう。弁天池からの水路に沿って遊歩道を進むとT字路にあたり、左に折れると弁天池より大きな池が見えてきた。それが「こんぶくろ池」であった。池の畔には水神社のささやかな祠が祀られていた。
こんぶくろ自然の森は東京ドーム4個分の広さがある、と言う。また、弁天池とこんぶくろ池から湧き出る水は大堀川の水源でもあり、手賀沼へと注いでいる。そのためか、こんぶくろの主(うなぎ?)と手賀沼の主(蛇)が年に一度デートをする、といった伝説も残る。
こんぶくろ池は小金牧のひとつ、高田台牧に放牧される馬の水飲み場であった、とのこと。こんぶくろ池の左手には小ぶりな野馬除土手も残っていた。小ぶりの野馬除土手は、牧内に開墾された新田、と言うか、林畑、村地への侵入を防ぐために造られたもの、と言う。
「こんぶくろ」の名前の由来は、池の形が「小さな袋」のようであったから、とか、巾着(金のふくろ)とか、「子を産むふくろ」、とか、「米を産む袋」など、あれこれ。

常磐道
次の目的地は流通経済大学付属柏高校付近に残るという野馬除土手。こんぶくろ池から北東に常磐道を超えた先にある。こんぶくろ池自然の森を離れ、東京大学柏キャンパスの東端を進み、キャンパス北端を西に折れ、成り行きで進む。右手には森が続く。先日歩いた大青田の湿地手前の森の緑であろう。先に進むと森の手前に常磐道。土地を掘り割って進んでいた。

皇大神社
常磐道を超えると流通経済大学付属柏高校前交差点。道脇に野馬除土手らしきものを探すも、それらしき風情はない。キャンパスに沿って成り行きで東へと進むと高校の敷地に組み込むように社がある。とりあえずお参りと境内に入ると皇大神社とあった。
創建は新しく明治15年。十余二開墾住民の心の拠り所となるべく、三井組の市岡晋一郎によって建てられた。市岡晋一郎は現在の長野県塩尻市に生まれ,明治初め,開墾会社の三井組代人として小金牧12番目の開墾地である十余二の入植事業に携わった。
岩倉具視に見出された農民出身の開墾地の監督官として、農業(製茶・さとうきび・養蚕)を振興し、農民のために三井学校(伊勢原学校)を開校したと言う。皇大神宮といえば、伊勢神宮(内宮)のこと。このあたりの地名も、この神社勧請に由来するのだろう。なお、この神社も先ほど訪れた駒木の諏訪神社の兼務社であった。

大青田の野馬除土手
皇大神社を離れ、野馬除土手を探して先に進む。それらしきものは見当たらない。それではと、校舎裏手のグランド側に向かうことに。成り行きで進み、左手に入る野道を大青田の森の方向へと向かう。大青田の森は一度歩いているので、勝手知ったる、といった按配ではある。
道なりに進み、校舎裏手、グランドとの間を抜ける道を野馬除土手を探して西へと戻る。道の左手のグランドではサッカーの練習中。流経大付属柏って、サッカー名門校であった、かと。サッカーの練習を見ながら進むと、校舎敷地と道を隔てる土手がいかにも、野馬除土手の風情。ところどころに土手の切れ目があり、そこに入り土手を眺めるに、案内はないものの、これは間違いなく野馬除土手であろう、と確信。比高差も大きい。南柏でみた野馬除土手ほどの高さがある。江戸川台や先ほど「こんぶくろ池」で見た土手は高さも低く、土手もひとつであったが、この地の土手は大土手と小土手の二重土手となっていた。

既にメモしたとおり、野馬除土手とは、下総台地の牧(小金牧や佐倉牧)に放牧された馬が村や畑に入り込み、耕作物を荒らすのを防ぐための土手である。特に享保や寛政の改革に伴い、幕府の財政不足を補うべく新田開発が奨励され、小金の牧の中にも水田や林畑の開発が推進される。その結果、牧の中には村が点在することになり、野馬は村や畑に侵入して耕作物などを荒らした。 各村々は、村境に野馬除土手をつくり被害を防ごうとしたわけだが、完全に防ぎきれず被害に大変苦しんだ、とのことである。先ほど訪れた長崎の天形星神社の「岩見大明神」、先日訪れた大青田の円福寺の「岩見大権現」は、農民に被害を与えていた野馬の里入防止に尽力した岩本石見守に感謝した村人が、その善政をたたえ記念碑をつくったとのことである。

円福寺
次の目的地は国道16号が利根運河を渡った北にある駒形神社。これといって理由はないのだが、先日の利根運河の谷津を辿る散歩の時に、この神社を見落としていたので、今回の後の祭り・取りこぼしフォロー散歩に加えることにした。
流経大付属柏高校を離れ、先日も歩き、「通いなれた」大青田の森を抜け、大青田の湿地・谷津に出る。谷津を辿り、国道16号が利根運河を渡るところに進む。と、そこには先日訪れた円福寺があり、小金牧の奉行であった岩見石見守を祀る「岩見大権現」がある。今回に散歩は、小金牧の名残を辿る、ということでもあり、ちょっと立ち寄り。岩見大権現は天形星神社の岩見神社のような祠もなく、小ぶりな石塔が残るだけである。




駒形神社
利根運河を超え、最初の信号を左に折れるとほどなく道を少し南に入った民家の間に駒形神社、と言うか、香取駒形神社があった。香取神社と駒形神社のダブルブランドである。ダブルブランドが、いかなる理由でできたのか定かではないが、下総や常陸にはいくつか目にする。
それはともあれ、先日の散歩のおり、この神社にあたりにB29 が撃墜された、とメモした。柏の航空隊からの迎撃か、高射砲によるものか定かではないが、東京空襲を終え帰還中の第314航空団29爆撃群所属のB29一機が被弾。村の上空を旋回し空中分解、香取駒形神社周辺に落下した。乗組員のうち機長含め10名が墜落死、2名が捕虜となるも、そのうち一名が憲兵隊へ送られる途中重体で死亡、残り1名は東京刑務所に収監中、米軍の空襲によって亡くなった、とのことである。

東武野田線・運河駅
駒形神社を離れ、里道を成り行きで進むと利根運河の堤に出た。利根川運河の北側を東武野田線・運河駅へと向かうと、土手の右手下に雑木林に囲まれた池が見える。美しい。下三ヶ尾の湿地・谷津の景観であろう。東京理科大のキャンパスの一部でもあろう、か。見慣れた土手道を進み運河駅に。
ここで本日の予定は終了、とも思ったのだが、日暮には未だ少々時間がある。運河駅と江戸川台駅の中間に「おらんだ様」もあるわけで、小金牧の名残を辿る散歩の締めにと、あと少々散歩を続けることにした。



駒形神社
運河駅前の流山街道を南に下る。と、ほどなく駒形神社交差点。道脇にある神社にちょっとお参り。結構立派な構えである。鳥居の横には馬の銅像。社伝によれば、八幡太郎義家公の駒繋ぎの伝説が残る、と。
社殿にお参りし、境内左奥に並ぶ庚申塔と思しき石塔のもとに。その脇には小ぶりな富士塚と浅間神社。また、その脇には「待道大権現」と刻まれた小ぶりな石塔。あまり聞いたことがない名称でありチェックする。
待道講は我孫子を中心とし、利根川右岸と江戸川左岸に挟まれた北総地区に限られた女人講。本社は我孫子・岡発戸の八幡神社、とか。観音講、子安講、十九夜講などと同じく、毎月17日に集い、子育てや安産祈願を願う。待道大権現の軸を掲げ念仏を唱え皆で会食する(「我孫子市史文化財編」)。とあった。

道六神
道を進むと道脇に誠に構えの立派な旧家がある。塀の前には浅間神社の祠がある。浅間神社にお参りし、右手を見ると社といくつかの石塔が見える。社は八坂神社、石塔群は道六神や馬頭観音。道六神は道祖神と同じ。塞の神とも呼ばれ、村の入口に祀られ、村に厄病が入るのを防ぐ(塞ぐ)。ちなみに、塞の神は石だけでなく、木を祀られることもある。いつだったか、信州から越後へと塩の道を辿り、大網峠を下ったところにあった「大賽の一本杉」が記憶に残る

道六神の前に「成田さん」と刻まれた道標があった。この地は旧日光街道(日光街道の脇往還)の辻であったよう。旧日光街道脇往還は南柏のあたりで分岐し、流山・野田・関宿を抜けて日光街道本道に合流する。日光参詣のためだけでなく、大名の参勤交代や物資の運搬などにも利用されたようである。南柏駅付近の国道6号・水戸街道には「旧日光街道入口」と呼ばれる交差点がある。

オランダ様
東深井地区から美原地区に入ると、道脇にコンクリートブロックに囲まれた祠がある。少々窮屈そうな祠に二基の馬頭観音が祀られていた。これがオランダ様である(美原3丁目44)。祠脇の碑文には、「徳川八代将軍吉宗は馬匹改良のためオランダ馬を輸入し小金牧に放牧した。このペルシャ馬のうち此の地で死んだ馬を祀ったのがこの馬頭観世音である。元文二年(1737年)の建立で古くよりオランダさまとして信仰され、またこの前にあった坂はオランダ坂と呼ばれていた」とある。
オランダ観音のところで、品種改良に関心の強かった将軍吉宗は、ペルシャ馬27匹(牝21、牡6匹)を輸入した(『小金牧を歩く;青木更吉(崙書房出版)』)とメモしたが、それがこのことではあろう。オランダ観音に祀られるペルシャ馬は、寛文8年(1668)、品種改良のため輸入したペルシャ牡馬二匹のうちの病死した一匹のようだが、ここに祀られるペルシャ馬は少し時代が下った、亨保年間に輸入された馬のようである。

少々長かった本日の散歩もこれで終了。一部公園とし残る樹林に、江戸川台開発前の景観を想いながら東武野田線・江戸川台駅に向かい、一路家路へと。これで、流山、利根運河散歩で取り残した事跡はほぼカバー。次回はやっと野田市街へと。


利根運河を散歩したとき、その南北に広がる谷津の景観や、流山へと下る今上落し(農業用水路)の流れが気になり、それではと流山からはじめ、利根運河周辺の谷津を南から北に辿り、谷津の景観を楽しみながら野田へと進もうと思い立った。その散歩の第一回は予定とは大きく異なり、流山に「捉まり」、結局は流山旧市街から先に進むことができなかった。今回は、流山の旧市街を離れ、利根運河の南北に広がる谷津を辿ることにする。スタート地点を探すに、東武野田線の江戸川台駅あたりから散歩をはじめれば、谷津へのアプローチが至便のよう。つい最近までは、まったくの不案内であった流山へのアプローチではあるが、今ではもう勝手知ったる、といった案配。秋葉原から、つくばエクスプレスで流山おおたかの森駅、そこから東武野田線に乗り換えて一路江戸川台駅に


本日のルート;東武野田線・江戸川台>野馬除土手>稲荷神社>香取神社>大青田の森と谷津>東深井古墳群>利根運河>円福寺>妙見神社>国道16号・柏大橋>普門寺>大杉神社>三ヶ尾の谷津>江川排水路>水堰橋>三峯神社>姫宮神社>つくばエクスプレス・柏田中駅

東武野田線・江戸川台駅
駅前には住宅街が広がる。広い野と森が点在する、といった景観を想像していたのだが、予想とは大いに異なる街並がそこにあった。江戸川台駅周辺は、1960年代に千葉県住宅協会によって大規模宅地開発が始まった。開発がはじまる前は、「狐の野」、「兎の村」などと呼ばれ、現在の江戸川台駅の西に農家が一軒だけ、という樹林地帯であったようである。江戸川台駅が開業したのも、宅地分譲が開始された昭和33年(1958)、と言う。
Google mapの航空写真を見るに、整然と区画整理された戸建て住宅が江戸川台駅南の初石から江戸川台駅の北まで広がる。特に江戸川台の東は、こうのす台やみどり台、そして大青田谷津に近い東深井のほうまで戸建住宅が広がっている。当初想い描いていた谷津の景観、その緑が駅近くから運河まで続く、といったイメージは早々に修正しなければならなくなった。

野馬除土手
駅の近くにどこか見処はと案内板を探す。と、駅のすぐ近くに野馬除土手と江戸川稲荷神社の案内。此の地で野馬除土手に再び出合えるとは思ってもいなかったので、偶然の賜を感謝しながら、まずは野馬除土手に。駅の東口を成り行きで進むと流山市江戸川台浄水場。深井戸と江戸川から取水・浄水された水を供給する。野馬除土手は浄水場のすぐ南、整備された緑地帯(江戸川台四号緑地)の中にあった。
野馬除土手とは、下総台地の牧(小金牧や佐倉牧)に放牧された馬が村や畑に入り込み、耕作物を荒らすのを防ぐための土手である。野馬除土手にはじめて出合ったのは南柏駅の近く、日光街道の北にある豊四季第一緑地の中である。そこで見た土手は外側の大土手と内側の小土手からなる二重土塁構造。大土手側は底からの比高差3m弱もあったろう、か。戯れにV字の底から土手を越えんと駆け上がるも、頃は秋、落ち葉に足をすくわれ、とてもではないが、一気に土手を越えることはできなかった。馬もこの土塁を越えるのは結構大変ではあろう。
それに比べこの地の土手はひと筋の土手で、高さも1m強、といったもの。昔は、土手の前には掘がつくられ、それなりの比高差があったのだろうが、馬なら簡単に飛び越せるように思える。一説には掘に木の柵が建てられ、馬の進入を防いだ、とも言う。
土手のサイズは幕府が牧をつくり始めた頃が大きく、時代が下って、江戸の亨保・寛政の頃、新田開発奨励に伴って、牧の中に開かれた新田、というか林畑の作物被害を防ぐ目的でつくられた土手は小さいものとなっていたようである。

野田市立図書館・電子資料室のHP、また『小金牧を歩く;青木更吉(崙書房)』などを参考に小金牧や野場除土手についてまとめておく;小金牧とは下総台地上、現在の野田市から千葉市にかけて(野田、流山、柏、松戸、鎌ヶ谷、船橋、習志野、八千代、千葉、臼井、印西)点在していた放牧場の総称。もともとは、周辺の村から逃亡した馬などが原野で育ち、自然発生的につくられた牧場といったもの。平安時代にはすでに5つほど牧があった、とか。
徳川幕府は、慶長9年(1604)頃、綿貫氏を野馬奉行兼牧士支配役とし馬牧の経営や軍馬の育成に力を入れ2つの牧をつくった。「佐倉牧」とそしてこの「小金牧」である。江戸初期、小金牧には7牧あった。庄内牧(野田市。新田開発のため消滅)、高田台牧(柏市)、上野牧(柏市)、中野牧(松戸市・鎌ヶ谷市)、一本椚牧(享保8年に中野牧に吸収)、下野牧(船橋市)、印西牧(白井市)である。
下野牧は京成本線・八千代台の南、新川を南端にした現在の陸上自衛隊習志野演習場から北に、おおよそ新京成本線に沿って木下街道あたりまでの船橋市域。中野牧は、新京成線と東武野田線の交差するあたりから北上する東武野田線の西側の鎌ヶ谷市から松戸市域。水戸街道・常磐線のラインが北端のようでもある。
上野牧は柏から野田市の境となる利根運河までの東武野田線の東西に広がる市域。高田台牧は上野牧の一筋東の柏市域。庄内牧は利根運河北、東武野田線の東の谷津と、すこし離れ東武野田線が江戸川を渡るために北への路線を西に変える一帯。印西牧は手賀沼の南の臼井市域である。江戸川台のこのあたりは、上野牧ということであろう。
牧では、幕府の役人・牧士(もくし)が管理し、時期がくれば捕込(とっこみ)に野馬を追い込んで捕らえ、良馬は軍馬に、それほどでもない馬は近郊農民達にも売り払ったりしていた、と。とはいうものの、馬は野で育てて、野で捕まえる、といったもので、計画的に馬の飼育が行われていたわけでなかったようだ。
慶長の頃はじまった幕府の牧経営も、八代将軍吉宗による亨保の改革(18世紀前半)にともない状況に変化が現れる。幕府の財政不足を補うべく新田開発が奨励され、小金の牧の中にも水田や林畑の開発が推進される。牧支配も綿貫氏に加え、野方代官として小宮山杢之進が金ヶ作(中野牧;現在の松戸市。新京成線常盤台駅北)に陣屋を構え、従来綿貫氏が支配していた小金牧を南北に分け、南は小宮山氏(中野牧と下野牧)、北(高田台牧、上野牧、印西牧)を綿貫氏が支配することになる。
新田開発の結果、牧の中には村が点在することになり、野馬は村や畑に侵入して耕作物などを荒らした。 各村々は、村境に野馬除土手をつくり被害を防ごうとしたわけだが、完全に防ぎきれず被害に大変苦しんだ、という。野田市中里の愛宕神社には「野馬除感恩塔」があるという。それは、農民に被害を与えていた野馬の里入防止に尽力した岩本石見守に感謝した村人が、その善政をたたえ記念碑をつくった、とのこと。
寛政の改革の頃(18世紀後半)、新田開発の責任者でもあった御小納戸頭取・岩本石見守は愛宕神社の他にも、野田の船形の香取神社、流山の大青田の円福寺、長崎の天形星神社にも「岩見大権現」とか「岩本大明神」などとして顕彰碑や祠が建つ、と言う。
小金牧で飼育した馬の数は、初期は400匹(疋)、中期は1000匹、後期は1500匹、幕末は1800匹ほどであった、と言う(『小金牧を歩く;青木更吉(崙書房))』)。馬や牛の数え方は「頭」と思っていたのだが、「匹」が正しいようだ。匹はもともと、一対の意味。牛馬の後ろから追うときに、牛馬の左右のお尻が一対に見えるから、とか。
ちなみに、村々の被害は馬だけではなかったようである。野に繁殖する鹿や鳥獣による被害も多大なものとなった。ために年貢が減るといった状況にもなり、その対策として鷹狩が行われている。八代将軍吉宗を始めとして、3人の将軍が4回にわたって鹿狩りをおこなっている。

牧は徳川幕府の終結と共に廃止される。その後、新田開発を目的として、牧野が開拓されることになる。これは、新政府の最初の事業とも言われる。江戸というか東京に集まった旧武士8000人をこの地に移し、入植・開墾に従事させることにする。社会不安の根を摘む施策でもあったよう、である。明治2年のこと。結局この事業は失敗に終わったようだが、そのときできた13の開墾集落の名前は今に残っている。数字は開墾された次期の順をも示している。13の開拓地区名;1番目 初富(はつとみ)(鎌ヶ谷市)-小金牧内・中野牧>2番目 二(ふた)和(わ)(船橋市)-小金牧内・下野牧>3番目 三咲(みさき)(船橋市)-小金牧内・下野牧>4番目 豊(とよ)四季(しき)(柏市)-小金牧内・上野牧>5番目 五(ご)香(こう)(松戸市)-小金牧内・中野牧>6番目 六(むつ)実(み)(松戸市)-小金牧内・中野牧>7番目 七(なな)栄(え)(富里市)-佐倉牧内・内野牧>8番目 八街(やちまた)(八街市)-佐倉牧内・柳沢牧>9番目 九(く)美上(みあげ)(佐原市)-佐倉牧内・油田牧>10番目 十倉(とくら)(富里市)-佐倉牧内・高野牧>11番目 十余一(とよいち)(白井市)-小金牧内・印西牧>12番目 十余二(とよふた)(柏市)-小金牧内・高田台牧>13番目 十余三(とよみ)(成田市)-佐倉牧内・矢作牧(野田市市立図書館の資料より)

牧といえば、いつだったか、会社の同僚と平将門の営所のあった石井、現在の板東市に出かけたことがある。で、この際と、将門の資料をいくつか読んだのだが、その中に、牧の話がしばしば登場した。相馬御厨だったか、どこかの御厨で馬、それも半島渡来の馬を飼育し、実績を上げていた、とか。
実績の話はともかく、その資料の中で、馬の放牧の話があった。はっきりとは覚えていないが、馬は自由に放っていた。それは、沼地や台地で遮られ、馬が逃げることができなかった、と。現在の開発された下総台地からは、いかにしてもその姿を想像するのは難しいが、利根運河周辺の谷津は牧の一部であったとのこと。今回の散歩も、当初予定である谷津の景観を楽しむだけでなく、往昔の牧の景観の一端に触れる楽しみもできたようである。

江戸川台稲荷
野馬除土手を離れ、浄水場に沿って北に進み駅前から東に向かう通りの江戸川台東1丁目交差点に。交差点を右に折れ先に進むと、道脇に江戸川稲荷神社があった。社殿はトタン葺切妻造りの覆屋の中にこじんまりとした木の祠が祀られる。お稲荷さまではあまりみかけない造りでもあり、なんとなく惹かれる。11の朱塗りの明神造りの鳥居や唇・耳・爪に赤い化粧のほどこされた狐も面白い。御神木は松とのことである。
このお稲荷さまは江戸の頃、もとは江戸川台駅の西、流山の中野久木の中野久木貝塚の近くに住んだ鈴木家が祀った、と伝わる。後に平七稲荷大明神と呼ばれ信仰を集めた、とのことだが、江戸川台のあたりって、昭和になって宅地開発が開始される時でも、農家一軒だけの林野であった、と言う。鈴木家とは、その一軒だけあった農家であろう、か。また、平七稲荷大明神って、その由来はなんだろう。日本三大稲荷のひとつである豊川稲荷は平八郎稲荷とも呼ばれ、平八狐の話も残る。平七と平八、なんとなく関係あるのだろうか、などなど妄想が広がってゆくが、このあたりで止めておこう。なお、この地に移ったのは、昭和になってから。江戸川台の東地域に住宅を建てた住民によってこの地に祀られることになった、とか。

香取神社
駅前を東に進む通りを江戸川台東交差点を越え、みどり台と青田の境の道を進むと、常磐道の少し手前に香取神社。荒川流域より西は氷川神社、江戸川・利根川流域より東は香取神社、その間の元荒川流域には久伊豆神社とその祭祀圏がくっきりと分かれると言われるが、誠に今回の流山からの散歩では香取の社に出合うことが多い。
境内に入ると社殿は瓦葺入母屋造。趣があってなかなか、いい。この社は江戸の中頃に開発された青田新田の産土神。荒廃した社殿は昭和になって再建された、とか。境内には庚申塔、青面金剛石像などの石像群とともに「手児奈塔があった。これも、こんなところで「手児奈塔」に出合えるとは思ってもみなかったので、偶然の賜に再び感謝。成り行き任せの散歩の妙。

『万葉集』に詠われた娘子・手児奈に最初に出合ったのは市川市真間の手児奈霊堂。手古奈って、絶世の美女であった、とか。ために幾多の男性から求婚される。が、誰かひとりを選べば、その他の人を苦しめることになると思い悩み、入水自殺したとされる。そのロジックはいまひとつ理解できないが、ともあれ、万葉の頃から真間の手児奈のことは知られていたようで、『万葉集』の中で、山部赤人が「吾も見つ 人にも告げむ 葛飾の 真間の手児奈が 奥津城処」、「葛飾の 真間の入江に うち靡(なび)く玉藻刈りけむ手児奈し思ゆ」、と詠う。「ここが葛飾の真間の手墓所。手児名ことは忘れることはないだろう」、「入り江に揺れる玉藻をみると手児名を思い出される、といった意味だろう。
ところで、「手児奈」であるが、東国では娘子のことを、「手児」とか「児奈」と呼ばれる。「手児奈」は、神格化し「別格」な娘子とすべく、万葉の歌人がつくった造語(「手児」+「児奈)との説もある(『手児奈伝説;千野原靖方(崙書房)』)。それはともあれ、伝説の娘子が安産・子育ての神となり、人々の信仰の対象となったのは19世紀前半分、江戸の文化・文政から天保時代の頃から、と言う。真間=崖の上にある日蓮宗の名刹・真間山弘法寺が、文政7年(1824)、ささやかな祠であった手児奈霊堂を再建し、安産子育てのお札を発行し、広く信仰を集めるように努めた、と言う(『手児奈伝説;千野原靖方(崙書房)』)。

江戸のお散歩の達人・村尾嘉陵(宝暦10年1760~天保12年1841)が75歳の時というから、天保6年に真間を辿った記事がある。それによると、「畦の細道を蛇が進むようにくねくねと行き、辿り着いたところが手古奈の社の前である。(昔は)社は,蘆荻(ろてき)の生い茂った中に、5,6尺の茅葺きの祠があるだけで、鳥居などもなかった。それから多くの年月を経て詣でたときは、社は昔の面影のままであったが、鳥居が建っていた。なお年月が経て詣でたときには、もとの茅葺きの祠は取り払われ手、広さ2間ほどに造り変えられ、(中略)さらに今日、40年を経てきてみると、祠は、広さ5間ほど、太い欅柱に、瓦葺き、白壁造りのものに建て替えられていた。鳥居も大きなものを建て並べるなどして、昔の面影はどこにもない。誰がこんな社にしたのであろうか。人がなしたことなのか、知るすべもなし(『江戸近郊ウォーク;小学館』より)」とある。
手児奈霊堂が再建される前後の様子が伺えて誠におもしろい。伝説の真間の手児奈が立派な霊堂となり安産・子育ての神様になってしまったのを嘆いているようでもある。少々メモがながくなったが、かくのごときプロセスを経て安産子育ての神として、此の地の香取の社に祀られているのではあろう。

大青田の谷津
香取神社を離れ、みどり台を成り行きで進み、大青田の湿地へと向かう。住宅街を成り行きで進むと前方に林が見えてきた。住宅街と林の境を辿り、林の中へと入る道筋に入る。鬱蒼とした林、と言うか森を進みながら、駅から辿った道筋も昭和の中頃までかくの如き森であったのか、少々の感慨を抱く。
森の中をゆったりと500m強歩くと前方が開け、大青田の湿地帯に出る。大青田の湿地帯は小金牧のひとつ、高田台牧の北端あたりではあるが、江戸の頃には新田開発が行われたため、牧は常磐道の南の伊勢原から十余二あたりとなっていたようである。牧には300匹ほどの馬が放牧されていた、とか。
大青田の湿地帯の畦道を進む。元々の湿地なのか、休耕田になった故に結果なのか定かではないが、湿地に葦が生い茂る。台地を開析してできた大青田の谷津には、湧水や小川が流れ込んでできた、如何にも自然の湿地といったところも目に入る。なかなか、いい。
谷津の谷を開いた田圃・谷津田の畦道を進む。畦道の分岐点で、右に向かえば葦の茂る湿地から谷津に開かれた畑地へとのぼり、左に折れれば、再び森に入り、その先に東深井古墳群がある。はてさて、右か左か少々迷うも、古墳群という言葉に惹かれ、左に折れることに。

東深井古墳群
左に折れ再び森に入り、そしてその森を抜けると一転、住宅街が広がる。利根運河の手前まで宅地開発が広がっていた。住宅街を西に進み、森を目安に成り行きで進み東深井古墳群に。森に入ると緑の平地があり低い柵で囲われており、8号墳とある。案内がなければなんだかわからない。先に進むと9号・前方後円墳、10号墳などとある。これも、一見するに単なるブッシュといったもの。成り行きで進むと東深井古墳群についての案内があった。
『東深井古墳群について ;東深井古墳群が作られたのは、古墳と埴輪の研究により六世紀から七世紀の初め頃と考えられています。古墳時代の人々は、一族の首長や権力のあった人が死ぬと、多くの時間と労力を費して古墳を築きました。古墳は、死者への敬意と悲しみを表現した重要な遺跡です。
古墳には、粘土で人・動物・家・武器などを形どった焼物がみられ、これを埴輪といいます。埴輪は、死者の供物として、また古墳を飾るために墳丘上や墳丘を囲むように立てられました。東深井古墳群では、発掘を行ったほとんどの古墳から見つかっています。なかでも七号墳からは珍しい魚とニワトリの埴輪が、また九号墳からは人物の埴輪が発見されました。このような埴輪の他に、円筒形の埴輪もあります。円筒形の埴輪は、墳丘の廻りに数多く立てられ、古墳が特別の場所であることを表したと考えられています(以下略)」、とあった。
案内板の横に古墳群の分布図がある。公園内には7号から18号古墳までがある。1号から6号古墳は古墳の森の南にある汚泥再生処理センターの敷地内にあるようだ。7号から18号まで成り行きで辿る。見落としもあったろうが、取り敢えず古墳群を一回りし、7号墳から最初に見た8号墳に戻る。
古墳といえば、埼玉・行田市のさきたま古墳群や、千葉でも印旛沼の北にある房総風土記の丘古墳群で規模の大きな古墳を見たわけだが、この地の古墳はいかにも小振り。前方公後円墳とされる9号墳にしても、後円部の径13.5m、高さ1.5m、前方部の最大幅は4.9m、墳丘の全長は20.8m。このようなささやかなる古墳もなんとなく、いい。

利根運河
東深井古墳群の森の東端に水路が見える。汚泥再生処理センターの入口付近の湧水を水源に利根運河へと注ぐ諏訪下川、とのこと。水路に沿って時に湿地に足を踏み入れたりしながら、利根運河の堤に出る。利根運河のあれこれは、先日歩いた記事に譲る。

円福寺
利根運河の堤を国道16号に向かって東に進む。国道16号に架かる柏大橋の手前で、右に入る道を成り行きで進み妙見山円福寺に。境内に入る手前に十九夜講の如意輪観音や馬頭観音、青面金剛像合掌型の庚申塔といった石塔が並ぶ。境内に入ると、左手に祠。真言宗のこのお寺様は下総三十三番札所の三十一番札所とのこと。
本堂にお参りし、小金牧の奉行であった岩見石見守を祀る「石見大権現」の石塔を探す。と、境内を入った右手にこぶりな三つの石塔がある。近くに寄って眺めるに、右端の石塔に「石見大権現」とあった。右脇には寛政十年と刻んである。

上の野馬除土手のところでメモしたように、岩見石見守は幕府財政の疲弊を改革すべく行われた寛政の改革時、寛政5年(1793)に小金・峯岡・佐倉三牧の取締支配に任ぜられ、新田開発につとめ、同時に、野馬による耕作物被害を防ぐことに尽力した。新田開発も農民の要請に応えて「野馬入新田」と呼ばれる野馬と農民が「共生」する施策も認め、その善政故に「大権現」などと家康並みの称号で祀られている。
流山の長崎にある天形星神社の境内に「岩本大明神」を祀る社殿があったが、それに比べると小振りな石塔のみである。もとは大青田の別の地に祀られていたものを、この地に移したとのことであるので、その過程で社殿が無くなったのだろう、か。単なる妄想。根拠なし。妄想ついでに、岩本石見守の長姉は11代将軍である家斉の生母とのことであり、将軍の叔父として家斉の信任篤く、故に大明神とか大権現といった称号が許されたのだろう、か。

妙見神社
円福寺の隣、国道16号脇に妙見神社。神仏習合の頃は、妙見山円福寺が、この妙見の社の別当寺であった。創建は元禄9年の頃。境内には青面金剛像合掌型など11の庚申塔が並ぶ。
妙見様とは北斗七星を神としたもの。大阪の能勢の妙見さん、江戸の本所や柳島、池上本門寺の妙見堂など日蓮宗関連の寺院に妙見さんが目につくが、もともとは空海の真言宗からはじまったものである。
妙見信仰といえば、秩父神社が思い出されるが、秩父神社は平良文の子が秩父牧の別当となり「秩父」氏と称し妙見菩薩を祀ったことがはじまり。平忠常を祖とする千葉氏はその秩父平氏の流れをくみ、妙見菩薩は千葉家代々の守護神であった。 千葉一族の家紋である「月星」「日月」「九曜」は妙見さまに由来する。かくして、妙見信仰は千葉氏の勢力園である房総の地に広まっていったのであろう。経典に「北辰菩薩、名づけて妙見という。・・・吾を祀らば護国鎮守・除災招福・長寿延命・風雨順調・五穀豊穣・人民安楽にして、王は徳を讃えられん」とあるように、現世利益の功徳を讃えているのも人々に受け入れられた要因ではあろう。実際、稲霊、養蚕、祈雨、海上交通の守護神、安産、牛馬の守り神など、多種多様である。現在のお札の原型とされる護符も民間への普及には「わかりやすい」信仰モデルであった、とか。

下三ヶ尾の谷津
利根運河に架かる国道16号・柏大橋を渡り、橋を少し北に過ぎたあたりで最初の信号を右に入り台地を下り下三ヶ尾の谷津に入る。谷津の入口あたりでは湿地帯は休耕田となっているようで、少々荒れており、埋め返しの残土など、少々無粋な光景も見受けられる。それでも、道ばたに僅かに残る湿地や湧水や、湿地の水を集め谷津の中央を流れる水路のあたりでは、谷津の景観を楽しめる。眼を細め、利根運河が開削される前、この辺り一帯に広がっていたであろう三ヶ尾沼を想う。
下三ヶ尾や西三ヶ尾の谷津は小金牧の中の庄内牧のあったところ。庄内牧はこの地と、北の方の二カ所に別れていたようではあるが、新田開発により18世紀後半の寛政年間にはすべて消滅していたようである。三ヶ尾の名前の由来は不詳。通常、三ヶ尾とは、三つの尾根・稜線をもつ山、のということではあるので、丘陵地が浸食されて谷状の地形=谷戸・谷津が形成されるとき、丘陵地が三つの地形となった、ということだろうか。単なる妄想であり、根拠、なし。

普門寺

谷津を進み、台地に上り畑地を北に折れる道を進み普門寺に。開創は寛永元年(1624)。落ち着いた雰囲気のお寺様である。本尊の「涅槃図」は天文6年(1537)の作と言う。毎年2月11日に一般公開しているとのことである。
境内の左手には閻魔堂があり、承応元年(1652)に造られた寄木造りの座像を祀る。散歩の折々に閻魔様に出合うことも多い。印象に残るのは所沢を東川に沿って歩いた時に出合った長栄寺の閻魔様。関東随一の大きさとのことであった。あとは、文京句・小石川の「こんにゃく閻魔」も名前に惹かれる。
閻魔さまって、もとはインドのサンスクリット語「ヤーマ」の音訳。地獄の王である。それが中国に伝わり、道教における冥界・泰山地獄の王である泰山府君とともに、冥界の王とされ、十人の冥界の王のひとりとして、冥土で亡者の罪を裁くと信じられるようになった。十王信仰である。閻魔様が道教の修行者の服である道服を着ているのは、こういった事情ではあろう。
その閻魔様、地獄の大王である閻魔大王が日本に伝わると、閻魔天と呼ばれ、仏法を守り、人々の延命を助ける神様の色彩が強くなる。日本では閻魔大王は地蔵菩薩の化身とされる。亡者を裁く裁判で被告を弁護するのが地蔵菩薩であり、判決を下すのが閻魔大王であるが、その閻魔大王が地蔵菩薩の化身とであれば、弁護人と裁判官が同一人物と言うことであり、閻魔様=地蔵様を熱心に信仰するのは「合理的」ではあろう、か。閻魔信仰が日本に伝わったのは平安末期であり、鎌倉期に盛んになった。この野田の地には17世紀中頃には、十王信仰が普及していたようである。

大杉神社
普門寺を離れ、台地を成り行きで進むと道脇にささやかな祠。境内も何もないが大杉神社とある。大杉神社に最初に出合ったのは江戸川と中川に挟まれた江戸川区大杉にある大杉神社である。その後、川越から新河岸川を下る途中、富士見市の百目木(どめき)河岸の先でも出合った。
大杉神社の本社は茨城県稲敷市。その昔は霞ヶ浦、利根川下流域、印旛沼、手賀沼などを内包した常総内海に突き出た台地上に神木である杉の大木があり、その大木は舟運の目印でもあったようであり、ために、海上交易や船を水難から護るという言い伝えから、船頭・船問屋に信仰された、という。この社はどのような由来があるのだろう、か。不明である。

三ヶ尾の谷津
大杉神社脇の小径を進み、成り行きで東へと向かい森を抜け、台地を下り、千葉商大野田総合グランドの北を抜け、三ヶ尾の谷津に向かう。低地の中程を江川排水路が流れる。かつてはこの低地は三ヶ尾沼と呼ばれる湿地帯であったが、利根運河開削の残土で沼を埋め、昭和20年代は水田となっていた。平成2年頃にはその水田も耕作放棄され、一時宅地開発の計画もあったようだが、環境保全政策により宅地開発は中止となり、現在「原野」として残る。

東西の長さが1.6キロ程度の平坦地の真ん中を江川排水路が流れ、平地の両側には斜面林が広がる、典型的な谷津・谷戸の景観を呈している。
江川排水路に沿って新江川排水機場まで進み、調整池脇を東に折れ、江川排水機場前を越えて利根運河の土手に戻る。

三峯神社・田中藩飛び領地代官所跡
堤を水堰橋まで戻り、先回の利根運河散歩で見逃した、橋近くにあるという農業用水の樋管を探す。煉瓦造りということですぐに見つかるかと思ったのだが、あちこち彷徨うも、結局見つからず、これも先回の散歩で見落とした田中藩の代官所に向かう。



北部クリーンセンター脇の道を、成り行きで進み先回訪れた医王寺を越え、三峯神社を目指す。台地を下り、田中調整池(地)への坂の途中小さな鳥居とこれまた小径のようなコンクリートの参道が坂道から小丘に向かう。参道を登り切ったところに三峯神社があった。
ささやかな石の祠。結構新しい。祠のそばにある記念碑を読むと、無病息災を祈り秩父郡大滝村の三峯神社を信仰し社を建てた。また講中を組織し、昭和28年までは秩父まで代参していた、と。その後荒廃したが、平成11年旧社を取り除き再建したとのことである。



三峯神社前の坂を少し下ったところに朱に塗られた木造の建物がある。少々古びたこの建物は不動堂。不動堂脇の案内によれば、田中藩飛び領地代官屋敷はこの不動堂の向かいにあった、とか。
田中藩は本多正重にはじまる。本多正重は家康の重臣・本多正信の弟。家康の家臣であったが、一時期出奔し、滝川一益、前田利家、蒲生氏郷などに仕えるも、結局は徳川家に帰参。関ヶ原の合戦、大阪の陣で秀忠をよく支え、その功もあって、この相馬・下総の地を拝領した。その後、本多氏は上州沼田城2万石、享保6年(1722には)駿河国の田中城(静岡県藤枝市)へ田中藩4万石として転封されるも、この下総の地は上知(返上)されることなく、田中藩船戸村として、本多氏は代々250年の長きにわたり、この地で善政を施した。
田中藩の飛地領は流山市域にあった30余りの村のうち14を占めたとのこと。この船戸の代官所は飛領地の北半分の村々を治めた、と言う。ちなみに、南半分を治める代官所は藤心(東武野田線逆井駅の東)にあった、とのことである。なお、その他の村は大名領、旗本領、幕府直轄地が混在し、「碁石混じり」とも称された。
明治維新、下総の領地が上地となるとき、村民はこぞって留任を嘆願。願はかなわなかったが、小村合併の時、本多公の封地であった田中藩の名前を村名とした。田中調整池とか、柏たなか駅が残る所以である。

田中調整池
代官屋敷跡を離れ、田中調整池の周囲堤に沿って南に下る。先には常磐自動車道、堤下には田中調整池(地)と呼ばれる1175ヘクタールにおよぶ広大な農地が広がる。先回の散歩の時に訪れた船戸天満宮にあった「船戸村開拓の碑」によると、「利根川沿いの舟渡から布施・我孫子へ至る広大な水田は、昔は洪水になると作物が流され、ために、流作場と呼ばれた。流作場は江戸の亨保10年(1725)、八代将軍吉宗の新田開発策の一環として実施され、田畑、また牛馬の飼料田の肥料用の秣の草刈り場として使われた。茨城側や鬼怒川口より上流には秣場がなかったため、紛争の因となる地でもあった。流作場は昭和23年に開拓がはじまり、昭和32年に完了。後には区画整理が行われ、現在のような立派な水田となった」、とある。
この広大な農地が調整池と呼ばれるのは、5年か10年に一度の利根川の大洪水のとき、水をこの農地に入れて、東葛地方を水害から護るため。その時は「湖」が出現する、とか。堤防を低くし、利根川の洪水を取り込む越流堤は、少しくだった布施の方にある、とのことである。また、洪水により冠水した農地は共済組合よりの補償金が制度化されている、と。ちなみに調整「地」は国土交通省の使用名であり、調整「池」は農林水産省の使用名とのこと。

姫宮神社
田中調整池周囲堤を進み、常磐道の下をくぐると、堤のすぐそばの台地に緑の一隅が眼に入る。地図で確認すると姫宮神社とある。名前に惹かれて境内に。神社の由緒などは不詳であるが、室町の頃にはこの辺りに集落があったとのことであり、創建はその頃、かと。
境内の案内によると、この社はお姫宮様として親しまれる小青田の鎮守さまであった、とか。小青田とは、なりたエクスプレス柏たなか駅周辺の地名である。神社が新しいのは、常磐鉄道新線(なりたエクスプレス)の施設に伴い、駒木の諏訪神社より隣地を寄進され、従来の境内と合わせて平成9年に鎮守の森として整備されたため。
駒木の諏訪神社とは「お諏訪様」として知られる社である。お諏訪様へのお参りの道として、諏訪道が残るくらいの由緒ある社であり、そこには姫宮神社が祀られ、その御祭神は八坂刀売神。諏訪大神の妃神である。諏訪神社の境内はその昔、現在よりずっと広く、西は諏訪神社、東は姫宮神社の境内であった、という。姫宮と言う地名の字名もあったようであり、また、此の地の姫宮神社は駒木の諏訪神社の兼務社と言うことでもあるので、諏訪神社およびその姫宮神社との関わりのある社ではなかったのだろうか。単なる妄想。根拠なし。
本日の散歩もこれでお終い。つくばエクスプレス・柏田中駅に向かい、一路家路へと。 

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