2012年2月アーカイブ

流山散歩;往昔、みりん・醸造で賑わった下総流山を彷徨う先日、利根運河を利根川から江戸川へと辿ったとき、江戸川河口近くに「今上落し」と呼ばれる農業用水とおぼしき水路に出合った。流れは南に下り,流山旧市街の辺りで江戸川に注ぐ、と言う。この「今上落し」もさることながら、利根運河の南北に広がる谷津の景観に魅せられ、そのうちに、利根運河の南に広がる流山の大青田湿地や周辺の谷津を南から辿り、利根川運河の北の三ヶ尾の谷津を野田へと歩いてみようと思った。
今回の散歩は、流山から野田へと南北に辿る散歩の第一回。スタート地点の流山を彷徨うことにした。とはいうものの、流山って、江戸から明治にかけて、みりん醸造で賑わったところであるとか、幕末に新撰組局長・近藤勇が降順したところ、といったことしか、街についての知識はない。いつだったか、神田の古本市で手に入れた『みりんの香る街 流山;青木更吉(崙書房)』を本棚から取り出し、家から1時間半ほどの車中にて一読するも、今ひとつポイントが絞れない。とりあえずは郷土資料館(流山では市立博物館)を訪れ、流山のあれこれについての情報を手に入れることにして、あとは資料次第の成り行きで、といった、いつものお気楽散歩のスタイルで流山を彷徨うことになった。

本日のルート;流鉄流山駅>市立博物館>大杉神社>ましや>流山広小路>呉服新川屋店舗>浅間神社>今上落とし>江戸川・今上落常夜灯>矢河原の渡し跡>常与寺>閻魔堂>新撰組流山本陣・近藤勇陣屋跡>見世蔵>流山キッコーマン(株)・万上みりん発祥地>長流寺>一茶双樹記念館>杜のアトリエ黎明>光明院>赤城神社>流山寺>丹後の渡し跡>流山糧秣廠跡>流鉄平和台駅

流鉄流山線・馬橋駅

地下鉄千代田線・JR常磐線直通乗り入れの我孫子行きに乗り、馬橋で下車し、流鉄流山線に乗り換える。二両編成、改札に駅員さんも見えないのんびりとした風情である流鉄流山線は、大正5年(1916)、町民の出資で流山軽便鉄道として誕生し、流山と馬橋の間、5.7キロを結んだ。明治44年(1911)には、野田と柏の間に県営軽便鉄道野田線(現在の東武野田線)が開通し、野田の醤油を柏経由で常磐線に運ぶようになっていたため、流山も鉄道敷設の機運が高まり、町民116名の出資による「町民鉄道」として開通したとのこと。旅客と貨物の輸送、特に、流山で生産される醤油やみりんを馬橋経由で国鉄・常磐線へと結んだ。
大正13年(1924)になると、陸軍の糧秣廠の倉庫が本所から馬橋に移されることをきっかけに、軌道を国鉄と同じ幅に拡張し、糧秣廠への引き込み線を敷設。昭和3年には、みりんの工場への引き込み線もつくられ、貨物の輸送は昭和52年(1977年)頃まで続いた、とのことである。鉄道の名称も、流山軽便鉄道、流山鉄道、流山電気鉄道、流山電鉄、総武流山電鉄を経て平成20年(2008年)には流鉄株式会社となり、路線も総武流山線から流鉄流山線となった。流鉄って、略したものかと思っていたのだが、会社の正式名称ではあった。編成毎に色分けされ、また名称がついた車両はすべて西武鉄道で使われていたもの、とか。

流鉄流山線・小金城趾駅
馬橋を出てしばらくすると小金城趾駅。車窓から小金城趾のある大谷口歴史公園の緑の台地が見える。いつだったか、平安の頃から官営の馬の放牧地であった小金牧、そして、その放牧地を囲う土手である「野馬除土手」を求めて北小金の辺りを辿ったことがあるのだが、そのとき、小金城趾まで足を運んだ。
この小金城には戦国の頃、下総西部を領有した高城氏の居城があった。南北600m、東西800mという大きな構えをもつ下総屈指の城郭であったが、現在は外曲輪の虎口であった達磨口と金杉口が残るだけで、あとはすべて宅地なっている。城趾には、大きな土塁や障子掘や畝掘が残っていた。高城氏が築いた小金城は北条方の西下総の拠点であった。永禄3年(1560年)、長尾景虎こと上杉謙信が関東攻略のため、古河城に進出し、古河公方の足利義氏はこの小金城に逃れ来る。高城氏は謙信の関東侵攻時は、一時謙信に属したとか、いや、謙信の攻城を篭城戦で乗り切ったとか諸説あるも、ともあれ、謙信が越後に戻ると再び北条氏に属する。
永禄7年(1564年)の第二次国府台合戦では、市川付近で兵糧調達を試みた里見義弘、大田資正を妨害するなど、北条軍の勝利に貢献。天正18年(1590年)の秀吉による小田原征伐に際しては小田原城に入城し秀吉と戦うも、小田原開城とともに、居城・大谷口の小金城を開城。江戸時代は700石の旗本、御書院番士そして小普請として続くことになる。

坂川
小金城趾駅を越えるとほどなく坂川を渡る。この川は利根川と江戸川を結ぶ北千葉導水路の一部となっており、坂川放水路とも呼ばれる。水路は印西市木下(きおろし)と我孫子市布佐の境辺りで利根川から取水し、手賀川・手賀沼の南を手賀沼西端まで地下水路で進む。手賀沼西端では、手賀沼に注ぐ大堀川を大堀川注水施設まで川に沿って地下を進み、注水施設からは南へと下り、流山市の野々下水辺公園(野々下2-1-1)にある坂川放水口から坂川に水を注ぐ。地下を流れてきた水路は放水口からは開渠となって江戸川へと下ってゆく。
北千葉導水路の役割は、第一に東京の水不足に対応するため利根川の水を江戸川に「運ぶ」こと。次に、手賀沼の水質汚染を防ぐこと。柏市戸張新田にある第二機場では直接手賀沼に、大堀川注水施設では大堀川の水質改善も兼ねて大堀川経由で手賀沼を浄化する。そして、第三の目的としては、周辺より地盤の低い手賀川や坂川の洪水対策として、あふれた川の水を利根川や江戸川に放水し水量を調節する、といったこと。いつだったか我孫子から手賀正沼を辿り、手賀正川から印西市木下の利根川堤まで歩いたことがある。北千葉導水路にはそのとき出合ったのだが、ここでその一端に触れることができて、なんとなく心嬉しい。

流鉄流山線・流山駅
坂川を超えると鰭ヶ崎駅。「ひれがさき」と読む。地名の由来が弘法大師伝説に登場する神龍の「ひれ」故とか、台地の地形が魚の「背びれ」に似ているから、とか、あれこれ。駅の近くには名刹・東福寺がある、と言う。
二輌連結の車輌は平和台の駅を過ぎると流山駅に到着。駅前は予想以上に「つつましやかな」雰囲気。江戸の頃は江戸川の水運やみりんの製造で栄え、明治期には葛飾県庁もおかれた西下総地域の中心地といった姿は、今は昔、といった静かな佇まいである。

六部尊

駅前を北へ、県道5号・流山街道を流山市市立博物館に向かう。図書館と博物館のある台地への上り口辺りに祠がある。案内によると、明和4年(1767)建立の六部廻国の石塔が祀られる、とのこと。六部廻国とは法華教六十六部を書き写し、全国六十六カ所の霊場に一部ずつ奉納して廻ること。その巡礼または遊行の僧を六十六部と称し、白衣に手甲・脚絆・草鞋がけ、背には阿弥陀尊を納めた長方形の龕(がん)を負い、六部笠をかぶった姿で諸国をまわった。六十六部は物乞い、行き倒れも多く、その場所には六部塚がつくられた、とのことだが、この地にの六部尊は巡礼を終えた記念に建てられたもの、と言う。

流山市市立博物館
台地に上り、市立博物館で流山の歴史や、流山と言えば新撰組、といった幕末の流山と新撰組に関するあれこれを、ざっと頭に入れる。受付で頂戴した『水と緑と歴史の流山 タウンナビ』なども、流山の右も左もわからない者にも心強いお散歩マップである。
流山の歴史のおさらい;流山地域の台地には石器時代、縄文、弥生といった時代の遺跡も残り、戦国の頃も先ほどの小金城、そしてその支城である深井城址(利根運河沿い)、花輪城址(流山市街の北)、前ヶ崎城址(坂川流域;前ヶ崎字奥之台409-1)などに人跡が残るが、流山駅前の旧市街の辺りが歴史に登場するのは建久8年(1197)の頃、市街の南にある「丹後の渡し」こと、「矢木(八木)の渡し」の記録がはじめて。とは言うものの、「矢木(八木)の渡し」は所詮、中世の荘園である風早荘八木郷への渡し場、ということであり、現在坂川の上流部に「八木」を関した学校名などが残るので、流山の旧市街からは少し離れるし、そもそも「流山」の地名が記録に登場しないと言うことは、流山の旧市街には未だ人が住んでいたわけではない、と言うことではあろう。
また、旧市街には鎌倉時代創建との縁起の寺院があるも、それとて、それ以外の寺社の創建は江戸となっており、余りに乖離が激しく、鎌倉創建というのも確証がない、と言うことであり、はっきりとしたことは不明ではあるが、江戸川沿いの低湿地帯である流山駅前の旧市街に人が住み始めたのは江戸の頃からではないか、と『みりんの香る街 流山;青木更吉(崙書房)』は言う。
人が住み始めたと思われる江戸の頃は、流山旧市街、昔の地名で根郷とか宿、そして馬場、現在の流山1丁目から8丁目辺りは天領であったが、それ以外の流山市域は藩領、旗本の領地などが混在していたようである。この博物館のある地、昔の加村は田中藩下総領。先日の利根運河で出合った駿河国の田中藩(静岡県藤枝市)の飛び地であり、この博物館の辺りには先日の田中藩の下屋敷・陣屋があった、と言う。鰭ヶ崎、加村など田中藩下総領42ヶ村でとれる米は良質で、江戸の相場を左右するほどであり、御用河岸である加村河岸から江戸へ運ばれた。また、駒田新田、十太夫新田、大畔新田といった天領からの米は流山河岸から船に積まれたとのことである。
河岸ができた頃にはそこの旧市街の辺りには人が住んでいたのであろうが、そもそも河岸が成立するのは江戸川こと、昔の太日川が舟運の幹線として整備されてから、であろう。流路定まらぬ太日川が整備されたのは、利根川東遷事業により、古来江戸へと下っていた利根川の水を銚子へとその流れを変えてからのことである。その利根川東遷事業が一応の完成をみたのは17世紀中頃、と言うから、東遷事業の一環として、曲りくねった太日川(江戸川)を一種の放水路としてまっすぐな水路に整備し、利根川から江戸川を経て江戸へと結ぶ船運路の中継基地として流山の河岸ができあがり、流山の町並ができはじめたのは17世紀の中頃ではなかろうか。単なる妄想。根拠なし。
良質の米の集散地、名水として知られる江戸川の水、そういえば、葛西の旧江戸川沿いの熊野神社の前あたりは「おくまんだし」と呼ばれる名水で知られていたようであるが、それはともあれ、江戸の頃、良質の米と水をもとに酒の醸造からはじまり、みりんで栄えた流山の町は、明治の御一新になり葛飾県の県庁が置かれるほどになっていた。葛飾県庁はもともとは東京の薬研堀に置かれていたようだが、明治2年(1869)には田中藩が房州長尾に国替えとなり、流山にあった下屋敷が空いたため、この地に県庁が移された。
その後明治4年(1871)の廃藩置県により房総30余の県は木更津県、印旛県、新治県の3県に統合され、この地は印旛県となり県庁は行徳におかれるも、明治5年(1872)には県庁所在地となった佐倉の庁舎建設が間に合わず、明治6年(1873)に印旛県と木更津県が合併し千葉に県庁が移されるまでは、この流山が印旛県の県庁所在地となった。今は静かな街並みではあるが、明治の頃は、この流山は商家が酒造蔵やみりんの醸造蔵が建ち並び、下総の中心地ではあったのだろう。
因みに、田中藩は先日の利根運河散歩のときにメモしたように、元和元年(1616)、本多正重がこの下総の地を拝領したのがはじまり。本多正重は家康の重臣・本多正信の弟。家康の家臣であったが、一時期出奔し、滝川一益、前田利家、蒲生氏郷などに仕えるも、結局は徳川家に帰参。関ヶ原の合戦、大阪の陣で秀忠をよく支え、その功もあって、この相馬・下総の地を拝領した。その後、本多氏は上州沼田城2万石、享保6年(1722には)駿河国の田中城(静岡県藤枝市)へ田中藩4万石として転封されるも、この下総の地は上知(返上)されることなく、田中藩船戸村として、本多氏は代々250年の長きにわたり、この地で善政を施した、とのことである。

大杉神社

博物館を離れ、県道5号・流山線を北に進み、文化会館前交差点を越えるとほどなく道の西側、住宅に囲まれたところに大杉神社があった。如何にも、あっさりとしたお宮さま。大杉神社に最初に出合ったのは江戸川と中川に挟まれた江戸川区大杉にある大杉神社である。その後、川越から新河岸川を下る途中、富士見市の百目木(どめき)河岸の先でも出合った。
大杉神社の本社は茨城県稲敷市。その昔は霞ヶ浦、利根川下流域、印旛沼、手賀沼などを内包した常総内海に突き出た台地上に神木である杉の大木があり、その大木は舟運の目印でもあったようであり、ために、海上交易や船を水難から護るという言い伝えから、船頭・船問屋に信仰された、という。この地の大杉神社はこの辺りの加村の産土神。加村河岸など、江戸川の船運の安全を祈る社ではあったのだろう。
大杉神社のある加村って、全国でも珍しい一音の面白い地名。チェックすると、その由来は、桑原郷が桑村となり、加村となった、とか、クワの「ク」は「崩れ」で「ハ」は端。崩れた端、から、とか、川が転化したとか、船荷を架したことに由来するとか、例によって諸説あり、定まることなし。

流山広小路

大杉神社を離れ、流山広小路へ。広小路の手前に立派な蔵をもつ老舗の呉服屋「ましや」がある。元々醸造業であったが、安政6年(1859)に呉服屋となり、「増屋」と名乗る。「ましや」となったのは戦後のこと。流山広小路って、上野広小路ではないけれど、江戸の頃の地名だろうと思っていたのあが、実際は、昭和27,8年頃、「ましや」のご主人の命名、とのことである。
広小路は田中藩加村と天領であった流山の境。ここから南は流山の根郷となる。根郷は本郷とか本田と同じく集落のはじまりの地といったもの。現在本通り(表通り)は県道に移ってはいるが、元々の本通りである旧道を古い街並みを眺めながら南に進む。

旧道

旧道こと、もとの本通り(表通り)は江戸川が長い年月をかけて築いた自然堤防の跡と言われる。『みりんの香る街 流山;青木更吉(崙書房)』によると、明治の末までは江戸川には堤防はなく、この本通りが堤防であった、とか。自然堤防上に1mほど高く土を積み上げ、水面より2mほど高い堤防ではあったようではあるが、それで江戸川の洪水を防げるわけもなく、流山はしばしば洪水被害を被ったとのこと。
洪水被害を防ぐべく、大正時代と昭和30年代の二度に渡る江戸川堤防改修工事により、現在の江戸川の堤防ができたわけだが、そうなると自然堤防の盛り土が邪魔になりを、今度は自然堤防を削り道路として整備した、と言う。現在、旧道を歩いても、周囲とそれほどの段差を感じないのは、こういった事情であろう、か。

呉服新川屋

道を進むとほどなく呉服新川屋。広化3年(1846)創業の商家。国の登録有形文化財となっている土蔵造りの店舗(見世蔵)は明治23年(1890)に建築された。ところで、見世蔵って、土蔵の一種ではあるが、通常の倉庫や保管庫といったものではなく、店や住居としても使用している蔵のこと。江戸時代以降、商家の建築様式のひとつになっている。




浅間神社

新川屋から先に進むと、ほどなく浅間神社。旧道がもとの自然堤防であったためか、心持ち境内が道より低く感じる。この根郷の鎮守さまは江戸初期の創建。新撰組を包囲した新政府軍が境内裏に仮本陣を敷いたところでもある。本殿裏に市指定文化財の富士塚がある。富士塚が築かれたのは明治24年。そこに祀られる「富士浅間大神」の碑は明治19年と言うから、浅間大神さまが先に祀られ、その後に富士塚がきずかれた、とか。溶岩船で運ばれてきた、と言う(『みりんの香る街 流山;青木更吉(崙書房)』)。


今上落し

浅間神社を離れ江戸川の堤へと向かう。堤の手前に「今上落し」の水路があった。「今上落し」に最初に出合ったのは利根運河の散歩のとき。野田の野田橋のちょっと南からはじまり、江戸川の一筋東の水田の中を進み、利根運河の下を潜り(今上落悪水路伏越)、流山1丁目で江戸川に注いでいる。利根運河の辺りは水田の中の水路ではあったが、流山では自然の小川といった風情となっている。




「今上落し」は元々、水田の農業用排水路ではあったのだろうが、この流山市街では江戸川から一筋街へ入った舟運の水路の役割をも果たしていたのではないだろうか。実際、昔、「今上落し」は流山3丁目の万上のみりん工場のあたりまで続いていたようであり、江戸川の堤が大正、昭和に渡って築かれた後は、堤一筋街側を流れる「今上落し」を舟運路として活用したのではなかろう、か。舟運路としては重宝した「今上落し」ではあるが、洪水時は江戸川からの逆流が押し寄せ、街が水害に見舞われることになった、と言う。

江戸川堤
「今上落し」が江戸川に注ぐ辺りを堤に上る。江戸川の河川敷が美しい。「今上落し」が江戸川に注ぐ水門のところに「今上落常夜灯」がひっそり佇む。行徳の河岸にあった常夜灯に比べ、まことに小ぶりな石塔であり、実際に使われたようには思えない。思うに記念碑といったものとして造られたものではなかろう、か。石塔の建立年をチェックしておけば、と今になって思う、のみ。
既にメモしたように、この江戸川の堤は大正と昭和の2度に渡って改修工事が行われた。第一回は大正3年。底幅も高さも現在の半分ほどであった、と言う。二度目は昭和30年代。キャサリン台風の被害がきっかけで大規模改修工事が実施された。底幅も拡げられ、根郷の南部と宿では表通りが堤防にかかることになり、それがきっかけで表通りが現在の県道に移り、元々の本通りが旧道となった、とか(『みりんの香る街 流山;青木更吉(崙書房)』)。それはともあれ、人工の堤防ができるまでは流山広小路から南に下る旧道が自然堤防であり、土積みをおきない川面より2mほどは高かったようではあるが、その程度で洪水を防げるはずもなく、水害に悩まされ続けた地域も堤防の完成によって、被害が大幅に改善された、とは既にメモした通り。

流山の水運華やかなりし頃は、田中藩の御用河岸・加村河岸、幕府天領の流山河岸、加村河岸の北には輪河岸(三輪野河岸)、また、みりん醸造・秋元家の天晴河岸、堀切家の万上河岸など、利根運河を往復する蒸気船・通運丸の蒸気宿などで賑わった川辺は今は昔の静かな川面が広がるのみである。ちなみに、流山から行徳までは4時間、酒問屋の集まる日本橋小網街へは朝6時に出航すれば夕方には着いた、とか(『みりんの香る街 流山;青木更吉(崙書房)』)。


矢河原の渡し跡
「今上落し常夜灯」から堤を少し北にすすむと「矢河原の渡し跡」の標識。「やっからの渡し」とも「加村の渡し」とも呼ばれ、昭和10年、下流に流山橋ができた後も、昭和35年頃まで続いた、という。
この渡しは、流山に陣を敷いた近藤勇が、官軍に降順し越谷へと流山を後にした地として知られる。諸説あるも、一説では、慶応4年(1868)4月3日未明、東山道鎮撫総督府副参事である薩摩藩士・有馬藤太は威力偵察により新撰組の流山駐屯を知り、有馬率いる官軍の一隊が新撰組を包囲。突然の官軍の出現に驚いた新撰組は銃を放つも官軍は応戦せず。そこに、大久保大和と名乗る近藤勇が出頭し、下総鎮撫隊として治安維持を図る幕軍である旨を伝える。
有馬は、官軍参謀のいる越谷への同道を求めると、大久保こと近藤は出立準備のため、しばしの猶予を求める。同日午後3時頃には官軍主力が矢河原の渡しの北にある、羽口の渡しを経て流山に着陣。夕刻には出頭の遅れにしびれを切らした有馬は本陣のある長岡屋に乗り込み、早々の出立を求めたと、言う。思うに徹底抗戦派の土方との意見の相違があった、とか、否、切腹を図る近藤を土方が説得した、とか、幕府治安維持部隊との主張が偽りで新撰組局長であることは官軍の知るところであり出頭は危険である、といった意見噴出で出頭に時間がかかった、とも。とは言うものの、官軍も幕軍もその動向はあれこれ諸説あり、はっきりしたことはわからない。ともあれ、午後10時頃(これも8時頃との説もある)には矢河原の渡しを越えて、越谷に出向いた。結局は近藤勇であることが官軍の知るところとなり、4月25日、板橋で斬首の刑となった。JR板橋駅前で近藤勇の供養塔があったが、これでやっと流山から板橋への襷が繋がった。

常与寺

江戸川堤を離れ、旧道に戻る。先ほど訪れた浅間神社の南に常与寺がある。鎌倉時代創建の日蓮宗寺院とのこと。とはいうものお、旧市街にはこのお寺さま以外に鎌倉といった古い創建の寺社はなく、創建年代の隔たりが300年程もあるということで、鎌倉創建に少々違和感がある、といった説もある(『みりんの香る街 流山;青木更吉(崙書房)』)。
境内には「千葉師範学校発祥の地」の碑。明治5年(1872)、県内最初の「流山学校(小学校)」と教員養成のための「印旛官員共立学舎(後の千葉師範学校=千葉大学)が設置されたとのこと。共立学舎は明治6年、印旛・木更津県の合併により千葉市に移った。

閻魔堂
常与寺の一筋南の通りに閻魔堂。閻魔堂と言っても、閻魔堂らしき祠があるわけでもなく、ごくありふれた民家と見まがう家が現在の閻魔堂のよう。安永5年(1776)の作との閻魔様はその民家の居間の奥といったところに安置されていたようだ。ちょっと勇気を出して拝観しておけばよかった。
閻魔堂には、江戸時代の義賊で天保六歌仙のひとり、金子市之丞の墓がある。金持ちから盗んだ金を貧しい人に分け与えた、といった話が伝わる。とはいうものの、この義賊、記録によれば「流山無宿 市蔵かねいち事盗賊悪党につき大阪にて召し捕られ、今日小塚原へ引き回し獄門にかかり候由」、とある。悪党と呼ばれ、義賊のかけらも感じられない。『みりんの香る街 流山;青木更吉(崙書房)』によれば、盗賊悪党の流山無宿である市蔵かねいちが、義賊に変わっていったのは講談や歌舞伎の影響である、とのこと。講談「天保六花撰」において、河内山宗春、片岡直次郎、暗闇の丑松、とともに流山醸造問屋の倅・金子市之蔵、花魁の三千歳として登場し、また、明治14年には歌舞伎「天衣紛上野初花」と言った演目ともなっている。かくのごときプロセスをへて、単なる盗賊悪党が義賊へと「昇化」されていったとのことである。

新撰組流山本陣・近藤勇陣屋跡

閻魔堂のある細路を先に進むと道脇の蔵の前に「誠」の旗印。慶応4年(1868)4月、新撰組が本陣とした醸造家「鴻池」(永岡三郎兵衛)の跡地である。慶応4年(1868)3月6日、甲州勝沼で敗戦の後、新撰組を主力とする150名の甲州鎮撫隊は江戸へ敗走。3月13日の夜、大久保大和(近藤勇)以下48名が浅草から五兵衛新田(足立区綾瀬)に、2日後には内藤隼人(土方歳三)が率いる50名も到着。幕府天領であった五兵衛新田(足立区綾瀬)で隊士を増強し、慶応4年(1868)4月1日の深夜、200名が流山を拠点にすべく陣を移し、ここ醸造家「鴻池」(永岡三郎兵衛)の屋敷を本陣に、光明院、流山寺などに隊員を分宿させた、と伝わる。流山に着陣の目的は、加村の田中藩の陣屋を奪うとか、天領であり調練に便利であったとか、あれこと。根拠はないが、江戸川を前にすることにより安心感もあったのだろう、か。実際、4月11日には大鳥圭介の率いる幕軍2500名が江戸川を前面に配した市川に布陣している。
一方官軍の動きであるが、諸説あるも、3日未明には官軍の一隊、午後には官軍主力も流山に着陣。羽口の渡し(三輪野の渡し)を越えて、流山北方から進出。広小路で三手に分かれ、一隊は本通りを進み光明院や流山寺に対峙しながら新撰組本陣を窺う。また、一隊は浅間神社に進出し、錦の御旗を立てる。ここが官軍本陣といったところだろうか。残る一隊は加村台地(市立博物館のある台地)に進出し大砲を備えた、と。
合戦の模様は詳しくは分からない。分からないが、このような両軍があまりに接近した陣立てで激しい合戦が行われたようには思えない。思うに、幕府治安部隊として、不逞の徒から町の治安を護る、といったスタンスを保つ隊員200強の新撰組と、それを不審に思いながらも今ひとつ新撰組との確信のない800名弱の官軍が様子眺めの睨み合いをしていたのだろう、か。不意をうたれた新撰組が大敗し降参したとか、加村から大砲をうったのは新撰組であるとか、諸説あり流山の両軍の合戦模様はよくわからない。合戦の様子はあれこれ不明ではあるが、「流山宿内の者は大人も子どももみさかいなく立ちのき、近郷や近村へ逃げ去り、近在の者までが皆あわて騒ぎ、共々に難渋したのである」と住民は多いに迷惑したようである。
流山の後の近藤勇は既にメモしたとおりであるが、近藤と別れた副長の土方は、旧幕府軍と合流し、鴻之台(市川市国府台)で大鳥圭介軍に合流し、小金宿(松戸市北小金)などを経て、宇都宮、会津と転戦し、函館で戦死。奥州道中などの主要路は、既に新政府軍が押さえていたため、布佐(我孫子市)から利根川を船で下り、銚子から船を乗り換え、潮来から陸路で水戸街道へ抜けるという、つらい移動であった、とか。

見世蔵
新撰組本陣跡から本通り(現在の旧道)に戻り、南へと進む。と、ほどなく万華鏡ギャラリー見世蔵。明治22年(1890)に建築された「寺田園茶舗」跡であり、現在はコミュニティスポットになっているほか、万華鏡作家である中里保子さんの作品を展示している。見世蔵って、土蔵の一種ではあるが、通常の倉庫や保管庫といったものではなく、店や住居としても使用している蔵のこと。江戸時代以降、商家の建築様式のひとつになっている、とは既にメモしたとおり。



流山キッコーマン(株)・万上みりん発祥地
道を進むと流山キッコーマン(株)の工場がある。ここが流山で「天晴」ブランドとともに名高い「万上」ブランドのみりん発祥の地である。創業は明和3年(1766)、埼玉の三郷からこの地に移ってきた堀切家・相模屋が酒の醸造をはじめたことに遡る。
18世紀後半にはミリンの製造をはじめ、また、19世紀の前半になって流山みりんの持ち味ともなった、白みりんの製造をはじめることになる。もち米と米糀によってつくられるみりんは褐色であったが、それに焼酎をくわえることにより白くなったみりんは江戸の人々に好評で、上方からの褐色のみりんを駆逐した。
現在は調味料として使われるみりんであるが、みりんは古来より甘い酒として愛用されていた、とか。「その味甘く、下戸および婦女好んでこれを飲む」、とある。調味料として使われるようになるのは明治の後半、本格的には昭和になってから、とのことである。
万上の由来は宮中に献上の折り、「関東の 誉れはこれぞ一力で 上なきみりん 醸すさがみや」と詠われたことによる、と。ら「一力」を「万」の字に代え、「上なき」の「上」をとって「万上」とした、と言う(『みりんの香る街 流山;青木更吉(崙書房)』)。
堀切家の相模屋は1917年には万上味醂株式会社、1925年には野田醤油醸造株式会社、1964年にはキッコーマン醤油株式会社、1980年にはキッコーマン株式会社、2006年にはキッコーマン殻分社化され、流山キッコーマン株式会社として現在もみりん製造を行っている。

長流寺

江戸初期の浄土宗寺院。境内の両側に梅の木が並び、銀杏の大木がそびえている。新撰組隊士も分宿した、と言う。

一茶双樹記念館
先に進むと一茶双樹記念館。万上の堀切家とともに、みりんで財を成した秋元本家五代目三佐衛門(俳号「双樹」)と俳人小林一茶との交誼を記念したもの。安政年間(19世紀中頃)の家屋を解体修理し往時の主庭と商家を再現している。秋元家も堀切家と同じく埼玉の出身。八潮からこの地に移り、酒造りをはじめる。秋元家がみりんや白みりんの製造をはじめたのは万上の堀切家と同じ頃とのこと。「天晴」ブランドとして好評を博した。

この秋元本家五代目当主三佐衛門は俳号「双樹」をもつ俳人でもあり、一茶のよき理解者であった、とか。ために一茶は双樹の元に足繁く通った、と。その数五十四度に及ぶ、と言う。この地で多くの句を詠んでいるが、いつだったか我孫子を歩いた時に、市役所近くに一茶の「名月や江戸の奴らが何知って」が句碑として建っていた。そのときは流山の秋元家との関係も知らず、ひたすら、この地で見る月はさぞや美しかったのだろうな、などと思っただけではあったのだが、この句も流山へと道すがら、下総を彷徨ったときに詠んだ歌なのではあろう。
もっとも、一茶の句集にはこの句の記録がなく、誰の作か不明、との説もある。それはともあれ、この記念館にも「夕月や流れ残りのきりぎりす」との句碑が残る(平成7年に建てられたもの)。江戸川の洪水の後の風情を詠ったもの、と言う。
秋元家の天晴みりんは現在その製造はおこなっていない。大正11年秋元合資会社、1940年、帝国酒造に売却、1948年には東邦酒造に売却、1965年には三楽オーシャンに急襲合併。1985年三楽株式会社に社名変更、平成2年(1990年)にはメルシャン株式会社に社名変更となるも、流山での操業はすべて停止し、工場跡地はケーズデンキとファッションセンターしまむらとなっている。

ところで、流山でどうしてみりんの醸造が栄えたのだろう。あれこれチェックするに、流山近辺で生産されていた名産のもち米、おいしい江戸川の水、江戸への船運もさることながら、醸造元である堀切家と秋元家の切磋琢磨に負うところ大、とのこと。販売促進にもつとめ、文政7年、8年(1824,25年)の頃には江戸での人気をもとに、全国に広がっている。また、1873年のオーストリアの万国博覧会には両社ともに出展し有功賞牌授与を受賞している。かくのごとき努力の賜ではあろう。

杜のアトリエ黎明
一茶双樹記念館の斜め前に鬱蒼と茂る屋敷林とお屋敷。「杜のアトリエ黎明」とある。秋元家の分家である秋元平三こと「秋平」、とも「見世の家」とも呼ばれたお屋敷跡。分家「秋平」の五世平八は俳号を「酒丁」と称し、菱田春草の後援者として知られるが、それ以外にも文人墨客との交誼も広く、岡倉天心や横山大観もこのお屋敷を訪れたとのこと。折しも、「酒丁と赤城神社」といった企画展が開かれており、そこにはこのお屋敷を訪れた、皇族や芸術家が紹介されており、中にはお散歩随筆でお気に入りの田山花袋の名もあった。
「アトリエ黎明」の由来は、画家であった秋元松子さんと、その夫で同じく画家であった笹岡了一氏が戦後の昭和32年、このお屋敷にアトリエを建て柳亮の主催する絵画研究会「黎明会」活動を行っていたことによる。その後、この屋敷を寄贈するにあたり、「アトリエ黎明」の名を残し、創作・文化活動の場として新たに生まれ変わった、とのことである。

光明院

「杜のアトリエ黎明」を離れ先に進むと光明院。真言宗寺院であり、赤城神社の別当寺。幕末には新撰組が分宿した。秋元双樹の眠るお寺様でもあり、境内に双樹と一茶の連句の碑や双樹の句碑が残る。
「豆引きや跡は月夜に任す也」と双樹が詠えば、それに対して「烟らぬ家もうそ寒くして」と一茶が返す。文化元年(1804)の連句である。「豆の引き抜き作業も終わり、後はお月さんにお任せしよう。夕餉の支度の煙も見えたり見えなかったりではあるが、秋の夕暮れは少し寒い」といった意味だろう。この文化元年(1804)は流山が洪水被害に見舞われた年でもある、先ほど一茶双樹記念館で見た「夕月や流れ残りのきりぎりす」は、こと年の句であろう、か。また、本道の前庭に双樹の句碑「庭掃てそして昼寝と時鳥」。ゆったりとしたお大尽のゆとりの感じられる句と評される。
境内を歩いていると、木に案内があり、「タラヨー;多羅葉」、別名「ハガキの木」とのこと。この木の葉っぱの裏を堅い物でひっかくと、30秒ほどで文字が浮かび上がる、とか。「葉書」の語源とも言われる。古代インドではこの木と似た貝多羅(バイタラ)樹に経文を書き写し、法隆寺には「貝多羅般若心経写本(八世紀後半)」が伝わっている、とのことである。

赤城神社

光明院のお隣りに赤城山と呼ばれる小山があり、そこに流山村宿地区の鎮守様赤城神社が祀られる。比高差10mほどのこの小山が流山の地名の由来ともなったところ、とか。上州の赤城山が崩れてこの地に流れ着いた、との伝説があるが、そんなわけもなく、近くの台地が洪水によって切り離された、とか、江戸川を流された砂礫が長い年月にわたって積もり積もって小山を造ったとか、そして、その小山が、吉田東吾が「この丘も江中にありて、形状流移するものに似たりければならん」と描くように、「丘は川の中にあり、その丘が流れるように見えたから」、とか、また、高台の斜面林が長く連なった山のように見えたため、「長連山」が転化した、とか、例によって地名に由来はあれこれ。

神社にお詣りし、石段を下ると、右側に一茶の句碑がある。「越後節 蔵にきこえて秋の雨」。酒の杜氏が謳うのだろうか、一茶が故郷を懐かしむ。参道を本通り・旧道へと向かうと、正面山門に巨大な注連縄。市の無形文化財とのことである。

流山寺
丹後の渡し跡へと江戸川に向かう途中に流山寺。秋元、相模屋、紙喜、鴻池とともに流山を代表する醸造家「紙平」の浅見家が再興した。幕末には新撰組の隊士が分宿したお寺でもある。境内には第二次世界大戦のとき、米軍艦載機の機銃掃射跡のある句碑が残る

丹後の渡し跡
流山寺脇を抜け、江戸川の堤に出ると丹後の渡し跡。八木野の渡しとも呼ばれるこの渡しは、慶応4年(1868)4月1日、新撰組が五兵衛新田(足立区綾瀬)を離れ、この流山に来たときに利用したとも伝わる。
丹後の渡しとも、八木野の渡しとも呼ばれる所以は、中世の風早荘八木郷(八木村と流山村の一帯。坂川の上流部には八木小学校といった名前が残る)の支配者・井原丹後が二郷半領(三郷市早稲田辺り)を開拓するときに渡った、から。上でメモしたように、建久8年(1197)には矢木(八木)の地名が文献に残るので、流山一帯では古くから開けたところであったのだろう。丹後の渡しは昭和10年、流山橋ができるとともに廃止された。

秋元醸造跡地
江戸川の堤を離れ、流山糧秣廠跡へと向かう。途中、光明院と一茶双樹記念館脇の道を進むと右手にケーズデンキとファッションセンターしまむらが見える。ここは秋元の工場、と言うか、メルシャンの工場跡地である。

流山糧秣廠跡
道を進み県道に出ると、正面にイトーヨーカドーなどの大型ショッピングセンターが見える。このショッピングセンターやその南の流山南高等学校を含む一帯は、大正14年(1925)から昭和20年(1945)にかけて陸軍の流山糧秣廠があったところ。糧秣廠とは兵員や軍馬の食糧を保管、供給する軍の施設ではあるが、この施設は馬糧すなわち軍馬の糧秣を保管、供給することを任務とし、近衛第一師団隷下の各部隊や宮内省警視庁に供給した、と言う。
もとは陸軍馬糧倉庫として東京本所錦糸堀にあったものが、周辺に家屋が建ち、火災の危険もある、という状況となり1922年(大正11年)に本所秣倉庫移転が起案。移転先として流山が選ばれた。流山が選ばれた理由は千葉・茨城という干草原料の生産地をひかえていたこと、また、江戸川の水運も利用できるという交通の利便性、そして比較的東京に近いという地理的条件もあった。流山糧秣廠移転に先立って、流山鉄道が国鉄と繋ぐべく軌道を広げ、引き込み線などを用意したといった鉄路については先にメモした通りである。開庁は1925年(大正14年)である。
戦後北側はキッコーマンの倉庫群、南側は住宅や学校敷地をへて、現在のショッピングコンプレックスとなっている。道路脇にはキッコーマンが立てた「流山糧秣廠跡」の碑と、その裏手には如何にも軍馬の糧秣廠の名残を伝える「千草神社」が佇む<。

流鉄平和台駅
日も傾いてきた。イトーヨーカドー脇の道を進み流鉄平和台駅に向かい、本日の散歩を終える。次回は流山から北へと向かう事にし、一路家路へと。 酒の醸造からはじまった流山のみりんではあるが、酒の醸造は明治末で終えている。また、万上の焼酎も平成8年には流山でのその歴史を閉じた。現在では江戸川沿いの流山キッコーマンだけがみりん醸造の伝統を今に伝えていた。
流山には銭湯が無かった、という。みりんを製造する過程でできる熱湯を社員用の浴場に使い、社員だけでなく町の人達も利用したり、熱湯そのものを無料で給湯したから、とのことである(『みりんの香る街 流山;青木更吉(崙書房)』)。 

神田川散歩の二回目。今回は環八から環七までの神田川散歩をメモする。大雑把に言って、杉並区の高井戸東からはじめ、浜田山、永福町、和泉へと、武蔵野台地を開析した神田川の谷筋を下ることになる。台地と谷筋の比高差は5mから10mといったところ。この地域も台地崖線下からの湧水なども多く、井の頭池からの水源に流れを加え南東へと下り、永福と和泉の境辺りに至り、流路が台地に阻まれ、流路を大きく北に変える。北に切り返す辺りは、勾配が緩やかなことも相まって、その昔は大きな池があったようであるが、大池に注いだ神田川はその下流でも池や沼の湧水を集め、崖線に沿って環七辺りへと下ってゆく。

杉並は標高50mから30m、武蔵野台地であった「平地」と、神田川や善福寺川、そして神田川・善福寺川水系に注ぐ小さな川が掘り刻んだ谷筋の低地、そして、台地と谷筋との境界にある坂道と、結構うねりに富んだ地形となっている。現在は川の両岸はびっしりと家が建ち並び、元々の比高差5m程度の地形のうねりを感じるのは結構困難ではある。カシミール3Dでつくった地形図や、GOO(ポータルサイト)の昭和22年航空写真、そこには神田川の両岸は田畑が広がるのみで人家とて一軒もない田園風景ではあるが、これらの地形図や写真で往昔の景観を想い描き、時空散歩に出かけることにする。



本日のルート;井の頭線・高井戸駅>杉並清掃工場>正用橋>池袋橋・三泉淵>乙女橋・三井の森>柏の宮公園>堂ノ下橋>塚山公園・高井戸塚山遺跡>鎌倉橋・鎌倉街道>堀兼の井>下高井戸・浜田山八幡>かんな橋・下高井戸用水排水口>永福橋・永福寺池跡>永福寺・永福稲荷>永泉橋・和泉中学校>龍光寺・龍光寺下の湿地>宮前橋・和泉熊野神社>貴船神社・御手洗の池>大円寺>文殊院>弁天橋>方南橋・環七

井の頭線・高井戸駅
自宅を出て、井の頭線高井戸駅で下車。高井戸の地名の由来は諸説ある。杉並の川と橋(杉並区立郷土博物館)』によると、村内に小字・堂ノ下というところがあり、そこに昔、辻堂があった。今はその跡もないのだが、その昔、辻堂の傍らに清水があり、小高い地の冷泉であったので、高井戸と呼ばれた、と。また、16世紀の中頃、この地に住んだ御家人・高井氏の土地、ということで「高井土>高井戸」、その高井家が開いた高井山本覚院にあった不動堂「高井堂」が高井戸に転化したなど、例によって諸説ある。なお、高井山本覚院は明治の廃仏毀釈の時、明治44年、宗源寺(下高井戸4-2)に移された。
高井戸と言えば、甲州街道の2番目の宿で知られる。高井戸宿は下宿と上宿に分かれ、下宿・下高井戸は現在の桜上水駅辺りが宿の中心。上宿・上高井戸は京王線八幡山の先となる。慶長5年(1601)、徳川幕府により江戸と甲府を結んだ甲州道中に設けられた高井戸宿では、月の前半を下高井戸村、後半を上高井戸村が助郷を務め、伝馬25頭、人足25人が常置していた、とか。江戸を立った旅人の最初の宿場でもあったため、24軒の旅籠が軒を連ね結構な賑わいであったようだが、新宿に宿が開かれるに及び、次第に廃れていった、と言う。

杉並清掃工場

駅を下りると環八の東、神田川の左岸には高い煙突が見える。東京ゴミ戦争で物議をかもした杉並清掃工場である。東京ゴミ戦争とは、この地に計画された清掃工場建設が地域住民の反対によって進まなくなり、杉並区のゴミを受け入れていた江東区は、それを地域エゴとして、杉並区からのゴミの搬入を実力阻止したという騒動である。昭和47年に起きたこの事件がきっかけとなり、その後ゴミの自区内処理の原則が確立された、という。
この杉並清掃工場も昭和49年には和解が成立し、昭和53年に工事着工、昭和58年に創業を開始した。工事中には縄文時代の遺跡が見つかり、「高井戸東遺跡」と呼ばれている。普段清掃工場辺りを歩いても搬入トラックの姿が見えないと思っていたのだが、搬入口は環境を考慮して、井の頭通りと環八通り交差点から専用の地下道を通って工場に入る、とのことである。

杉並清掃工場の西、区立高井戸地域区民センターの敷地辺り、かつて高井戸の大名主・内藤家の屋敷内に「富士見園(高井戸3-7)」と名付けられた小池があった、とのこと(『杉並の川と橋(杉並区立郷土博物館)』;以下『杉並の川と橋』)。現在も公園内に人工の小池が残る。このあたり一帯は内藤家の土地であり、清掃工場の敷地も、そのおよそ半分が内藤家の所有地であった、とか。内藤家は「高井戸丸太 杉の丸太なり、細きこと竹の如し。上品にて吉野丸太と同じ。江戸にて作事に用うる良材とす」と『武蔵野名所図会』に称された良質の杉の植林に貢献した、とのことである。昭和22年のGOO航空地図を見るに、杉並清掃工場の北辺りに、鬱蒼とした林が見える。内藤家の屋敷であり、杉林であろう、か。

正用下橋(しょうえい)

高井戸橋を越えると「正用下橋」。江戸の頃、このあたりの小字に正用、正用裏、正用下といった地名があった。「正用」の由来は『地名の研究;柳田国男』によれば「正用、正邑、築田、佃は、いずれも(中世)領主の直轄地に付けられた地名である」と記す、とある(『杉並風土記』)。
環八に架かっていた「佃橋」も佃は、庄園などの領主の直営田のことであり、新たに開墾した「作り田」にはじまる、といったことであり、このあたりにはそのような荘園領主の直営田が開墾されていたのではあろう。

 


池袋橋・三泉淵
正用橋を越え、池袋橋に。『杉並の川と橋』によると、江戸期の「神田上水絵図」に「池袋」の記録が残る。絵図を見るに、風船のような丸い池が狭い口を通して神田川と繋がっている。また、小字に「池袋」の地名も残る。

「袋」とは、水の巻いている所とか。川などの出口がない所、とか。高井戸東1-16辺りには三泉淵(三田釜;さんぜんかま)と呼ばれる湧水地があった、とある。『武蔵名所図会』に、「往古は古き沼にして大蛇住みけり・村民弥五左衛門が先祖なるもの草刈りに出かける時如何にしたりけん。大蛇の頭を鎌にて切り落として、その大蛇死したればそれより水枯れて、今は僅かに五間四方なり。いまもその真中は深さ六、七尋余もありという」、と。また、『新編武蔵風土記稿』では「北辺に廻り九尺許の古井戸みゆる所あり。土人の伝えには昔はかかるさまもあらで、広かりし池にてありしや」とあって大蛇伝説も記されている。
三泉淵(三田釜)を求めて、辺りを彷徨う。手掛かりとしては、環八の神田川右岸から東へと続く水路跡の雰囲気を残す細路がある。道なりに先に進み日本郵政高井戸レクリエーションセンターグラウンドまで進み、グランドのフェンスに沿って神田川へと向かうと、池袋橋の少し東、グランドの西北端の一隅にささやかな祠が見える。フェンス越しに弁天社とあった。この辺りが三泉淵(三田釜;さんぜんかま)のあった辺り、とか。その昔、このグランドは池袋の名前が示す広き沼・池が広がっていたのだろう。
フェンス越えに弁天様にお参りし、フェンスに沿って久我山運動場グランド南の崖線下を進む。高井戸小学校下を過ぎ、都営アパートがあるあたりに「三泉淵緑地」が残る。緩やかな崖面につくられたささやかな緑地ではあるが、「三泉淵」の名前が残るだけで、何となく嬉しい。「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平23業使、第631号)」)


乙女橋・三井の森
グランドをぐるりと廻り神田川に戻ると「乙女橋」。橋を渡り川の左岸にある三井の森公園に。崖線の斜面林にあるささやかな入口から公園に入る。この地は、もともとは昭和11年より70年に渡り旧三井グループの運動場であった。が、バブル崩壊にともない、その福利厚生施設を処分し、西側と南側の森を杉並区の公園として整備したもの。運動場の敷地は三井不動産によって宅地開発されている。宅地開発まえの森の広がりは失われたが、落ち着いた街並みがつくられつつある。『杉並の川と橋』には、乙女橋西には天水田圃があり、この辺りには多くの湧水があった、とか。

柏の宮公園
三井の森公園の崖線に沿って東に進むと、崖線下には現在でも湧水池が見られる。段丘や崖線の説明とともに、柏の宮公園や、神田川の右岸の塚山公園の崖面下の湧水の説明があった。崖下の湧水は自然のままの雰囲気を残し、湧水もジワジワ、といった風情がなかなか、いい。
この湧水のある崖上には宅地開発された一帯が広がり、この湧水のある辺りは三井の森公園の一部なのか、その東に広がる柏の宮公園の一部なのか定かではないが、それはともあれ先に進むと柏の宮公園になる。この公園は日本興業銀行の所有地であったが、バブル崩壊時の銀行再編でみずほ銀行と統合される際に杉並区に売却され区の公園となった。杉並区では最大の公園となっている。道路に沿ったフェンスの向こうに庭園が見える。フェンスに狭い入口があり、そこを抜けると池に大石が配置された日本庭園があった。この庭園は、元々は寛永年間(1624年から1643年)、若狭小浜藩主・酒井忠勝公が新宿矢来町にあった酒井家下屋敷に小堀遠州の手によって造営されたもの。その後、酒井家の下屋敷の敷地を所有した日本興業銀行の頭取が、この地に茶室を復元し、茶室を移築復元し「林休亭」と名付けた、とか。

もっとも、『杉並風土記;森泰樹』によれば、「大正中頃に横倉善兵衛(よこくらぜんべえ)氏が整備して数奇屋を建て、「柏ノ宮園」と呼んで東京各地から文人墨客を招待して、歌会や観月会を行った。昭和初期には絵葉書にも紹介されるほど有名なところになった」との記事がある。横倉善兵衛氏は高井戸では先述の内藤家と並ぶ大地主であり、三井グランド辺り一帯の土地持ちであったとのことであるから、興銀が取得する前にもそれらしき庭園があったのか、とも思える。因みに、戦時中、海軍の帝都防衛隊が使用し荒れ果てたこの地を、昭和25年に横倉氏が興銀に売り渡した、とある(『杉並風土記:森泰樹』。以下『杉並風土記』)。
なお、柏の宮、といった如何にもありがたそうな名前は、室町時代の武将・太田道灌の命により、その家臣・柏木左右衛門が鎌倉の鶴ヶ丘八幡を勧請し建立した柏の宮、現在の下高井戸・浜田山八幡に由来する。江戸の頃は此の辺りを「柏の宮」と呼んでいたようである。

堂ノ下橋
柏の宮公園を少し西に戻り、神田川に架かる「堂ノ下橋」に。橋の名前の由来はよくわからない。わからないが、橋の北側の小字は堂の上とか堂の下、また寺前とよばれていたと言う。現在は人見街道に沿ったにある松林寺(高井戸東3-34-2)は開創当時、この堂ノ下橋の北側にあった、と言う。松林寺がそのお堂かどうかは定かではないが、ともあれお寺かそのお堂があったのがその名の由来だろう。因みに、上でメモしたように、堂ノ下にあった辻堂が、高井戸の地名の由来、との説もある。

塚山公園・高井戸塚山遺跡

「堂ノ下橋」から神田川右岸を東へと進むと塚山公園。公園の崖下に人工の池が造られているが、これって『杉並の川と橋』の言う、往昔の湧水のあった辺りだろう、か。
公園に入り、池をぐるりと廻り、池の南側に向かうと高井戸塚山遺跡がある。縄文時代の住居のモニュメントも建つ。井の頭公園の御殿山遺跡、高井戸の高井戸東遺跡、そしてこの高井戸塚山遺跡など、神田川に沿った台地には遺跡も多い。杉並南部を流れるこの神田川流域に限らず、杉並北部の妙法寺川や中部を流れる善福寺川流域を合わすと、杉並区内の縄文時代の遺跡の 数は200を越える、という。水辺の台地には古くから人が住んでいた、ということ、か。
なお、『杉並風土記』によれば、この地は長らく朝日新聞の農園であり、朝日農園と呼ばれていたようであるが、昭和48年、朝日新聞社はこの地と築地の国有地と交換。国は大蔵省の官舎を建設予定であったが、住民の反対運動の結果、官舎建設は中止となり、杉並区に払い下げられることになった、と。

鎌倉橋・鎌倉街道

塚山公園の東に鎌倉橋。甲州街道・鎌倉街道入口より浜田山方面へと進む古の鎌倉街道の道筋、とのこと。『武蔵名所図合会』には「上高井戸の界にあり。古えの鎌倉街道にて(中略)いまは農夫、樵者の往来道となりて、野径の如し」とある。往昔、鎌倉・室町の頃は東国御家人が鎌倉へと往来したのであろうが、江戸の頃には廃れ、「野径の如し」といった状態となっていたようである。鎌倉橋の少し南、神田川に沿ってうねる水路跡らしき細路が下高井戸運動場の手前まで続く。神田川の昔の流路跡であろう、か。

堀兼の井
「梢橋」、「藤和橋」を見やりながら進む。『杉並の川と橋』によれば、「鎌倉橋」の東、浜田山1-5辺りには「堀兼の井」があった、とある。『杉並風土記』には「昭和11年頃まで直径4mほどの湧水池があったが、30年頃に埋め立てられた」と描かれている。昭和22年のGOO航空写真には、それらしき影が映る。
堀兼の井、とは言うものの、井戸を掘るような地形ではない。神田川左岸の崖下からの湧水で出来た池ではあろう。また、堀兼の井は文明18年(1486)、東国を巡歴した聖護院門跡の道興準后の紀行文『廻国雑記』に記されるが、その場所は諸説あるも、狭山市の堀兼神社に残るものとの説が有力である。この地の堀兼の井は、江戸の頃、掘兼の井を聞きかじった誰かが、この地の池にその名を冠したもののようである。因みに、聖護院門跡って、山伏の元締め、といったもの。東国巡行は、組織引き締めの目的もあった、とか。

下高井戸・浜田山八幡

先に進むと「八幡橋」。橋の手前の神田川右岸には下高井戸・浜田山八幡の鎮守の森が見える。柏の宮のところでメモしたように、この社は太田道灌が江戸築城の際、工事の安全を祈念し、家臣の柏木左衛門に命じて鎌倉の鶴岡八幡を勧請して建立したもの。境内には稲荷社、天祖神社、御嶽神社、祖霊社が合祀されている。また、先ほどの鎌倉橋の名前の由来も、鎌倉の鶴岡八幡を勧請したこの社の近くにあった、とする説もあるようだ。

浜田山
この辺り、神田川の北側は浜田山。浜田山の地名は江戸の頃、内藤新宿の商人である浜田屋弥兵衛に由来する。浜田屋は浜田山4丁目の杉並南郵便局辺り一帯に松やくぬぎの林(此の辺りでは「山」と呼ぶ)を持っていたようである。そこには一族が眠っており、お彼岸には浜田屋の一族がこの地を訪れ、仏の供養へと村の子供たちにお菓子や銭を配り、それはもうお祀りのような騒ぎでもあり、一躍「浜田山」という名が有名になった。浜田屋は明治に米相場に失敗し没落したが、浜田山は小字として残った、と言う(『杉並風土記』)。

かんな橋・下高井戸用水排水口
「むつみ橋」、「弥生橋」、「向陽橋」、「幸福橋」と続く神田川の左岸は西永福。西永福近辺は江戸の頃から武州多摩郡永福寺村水久保と呼ばれていたようだ。久保は窪。水が湧き出る土地である。永福町となったのは昭和7年のことである。
荒玉水道道路に架かる神田橋を越え、「かんな橋」に進むと、大きな排水口が見える。これは下高井戸用水が神田川に注いでいたところ。下高井戸用水は、甲州街道の鎌倉街道入口交差点の少し西辺りからはじまり、鎌倉街道を東西に横切り、街道の東を街道に平行に北に進み、塚山公園の南東、下高井戸4-23辺りで東に流路を変え、向陽中学の南を進む。荒玉水道道路を越えると、東電総合グランドの南を進み、グランドと都立中央ろう学校の間を北に向かい神田川に注いでいる。
水路跡を辿るに、車止め、周囲との若干の段差、道のカラー舗装の水路跡3点セットのうち、カラー舗装はなかったが、神田川排水口から甲州街道の分水口らしきところまで、車止め、周囲との若干の段差を頼りに迷うことなく行き着いた。
因みに、都立中央ろう学校の上には吉田園(下高井戸2-19)と呼ばれる、池と花菖蒲の庭園、そして湧水を利用したプールなどを設けた娯楽庭園があった。このあたりは淀橋上高井戸水爆布線上にあり湧水点が高く、数m掘ればすぐに湧水が出た、と言う(『杉並の川と橋』)。

永福橋・永福寺池跡
「かんな橋」を越えると「永福橋」。井の頭線永福町駅前交差点から甲州街道・下高井戸駅入口交差点を結ぶ都道427号、通称永福通りに架かる。この「永福橋」の辺りにはその昔、永福寺池と呼ばれる池があった、と言う。明治に編纂された「東京通誌」には、「神田上水 源ヲ北多摩郡三鷹村(牟礼)井頭池ニ発シ東流東多摩郡高井戸村(久我山) ニ入リ、同村(上高井戸・下高井戸)ヲ経テ、和田堀之内村(永福寺)ニ至リ、永福寺池ノ下流ヲ併セ、同村(和泉・和田)ニテ善福寺川ヲ併セ中野村(雑色・本郷)ヲ経テ...」、とある。
井の頭の池を水源とし、途中幾多の支流を合わせた神田上水は、永福寺池に注ぎ、更に下流に下ったとのことである。池の規模は結構大きく、西端はこの「永福橋」あたり、東端は神田川が井の頭線と交差するあたりであった、とも言う。もっとも、地形図を見るに、中間の「永高橋」の辺りは神田川左岸の台地が川脇までせり出しているようにも思えるので、池は二つにわかれていたのかもしれない。地形図故の推論であり、根拠、なし。
その昔、永福寺池のあった辺りには、現在、「永福橋」、「ひまわり橋」、「永高橋」、「明風橋」、井の頭線のガードを越えたところには「蔵下橋」が架かる。蔵下は、現在の明大和泉校舎がある台地には江戸幕府の硝煙蔵があったと言う。その台地下ということで、蔵下なのだろう、か。
それはともあれ、井の頭の池からおおむね南東へと下ってきた神田川は、「永福橋」を最南端として、流路を北に向ける。地形図を見るに、東西、そして北を台地で囲まれているわけであり、護岸工事もない当時は穏やかな勾配の川は水を留め、池となっていたのであろう、か。昔の地名は小字・曽根の辺りだろうか。曽は「高いところ」の意。曽根は「高いところの根=下」ということであるから、台地下の低地、といった意味(『杉並風土記』)。

永福寺・永福稲荷
永福寺池北の台地上には永福寺。永福の地名の由来ともなったお寺様。大永二年(1522年)開山の古刹。戦国時代は北条氏家臣ゆかりの所領であった、とか。北条氏滅亡後、検地奉行であった安藤兵部丞が帰農し当寺を菩提寺とし現在にいたる、と。 杉並最古の庚申塔がある。近くの永福稲荷は享禄三年(1530)永福寺の鎮守として創建。明治11年頃神仏分離令により現在の場所に移転、村の鎮守様に。

永福・和泉
此の辺りの永福・和泉の歴史は古い。永禄2年(1559年)の「小田原衆所領役帳」には高井堂(高井戸)とともに永福寺(永福町)が中野郷に属すると考えられる記述があるそうだ。また、宝徳3年(1451年)の「上杉家文書」には和田、堀の内とともに泉(和泉)が武蔵国中野郷に属する、との記述がある。東端の井の頭線のガード北の永福町駅方面へと上る道は古くからの道であり、また、西端の永福町通りも、大山道(世田谷通り)の世田谷宿(世田谷線上町駅付近)から、世田谷八幡、豪徳寺を経て、大宮八幡へ向かう古くからの道であった、とか。
江戸の頃は、和泉村、永福村の大部分は旗本五百石・内田氏の領地。和泉村と永福村の一部は幕府直轄地であった。現在の明大和泉校舎がある台地には江戸幕府の硝煙蔵(火薬庫)があったと言う。直轄地って、その辺りであろう、か。

永泉橋・和泉中学校
井の頭線を越え和泉2丁目に入ると、周辺の沼や池からの水も本流に合わさり、井の頭通りに架かる「神泉橋」、和泉中学脇の「永泉橋」、和泉小学校前の「宮前橋」と続く。『杉並の川と端』によれば、「永泉橋」の西側、龍光寺がある台地下の湿地には昭和13年、「泉湧菖蒲園」があった、とか。現在は護岸工事がなされ、湿地跡の名残はどこにもないが、龍光下にあるフェンスで囲まれた芝の一画、春には地域の人が花見を楽しむ辺りは、その昔、湿地であったのだろう。
湿地と言えば、龍光寺対岸の和泉中学校も洪水で悩ませられ続けたと『杉並風土記』にある。同中学の開校10周年の記念誌には「水にはじまって水に終わる。これが和泉中10年の歴史であった」ではじまる。台風の度に洪水の被害を受け、とくに狩野川台風のときには「神田川が氾濫し一面海のようになり、道路も橋も水没し」といった記述がある。

龍光寺・龍光寺下の湿地
湧山医王院・龍光寺は真言宗室生寺派の寺院。本尊は薬師如来立像で平安時代末期(十二世紀後半)の造立。開創は承安2年(1172年)、と伝えられる。山号の「泉湧」は龍光寺の少し北にある貴船神社の泉から。院号の「医王」は、本尊の薬師如来から。寺号の「龍光」は神田川の源流・井之頭池に棲む竜が川を下り、このあたりで雷鳴をともども、光を放って昇天したことに由来する、とか。
実際のところ、除夜の鐘のとき以外、このお寺さまに出かけたことはなかった。今回寺域に入り、造作の落ち着いた雰囲気に結構惹かれた。境内裏手には四国八十八箇所巡りもある。いいお寺さまであった。

宮前橋・和泉熊野神社

「宮前橋」を渡る道が台地へと上る坂道の龍光寺と道を隔てた南には和泉熊野神社。旧和泉村の鎮守さま。創建は鎌倉北条時代の文永4年(1267年)、と言う。弘安7年(1284)には、上杉氏を破り江戸を略した北条氏綱が社殿を整えた、と。現在の社殿は文久3年(1863年)の造営。明治4年に修復されている。建築学者からも注目される社殿、落ち着いた境内の雰囲気故か、昭和53年には拝殿内で、「犬神家の一族」の撮影が行われた、と(『杉並風土記』)。境内からは縄文時代後期の土器・打石斧・石棒や,古墳時代の土師器が出土している。また,境内には,徳川家光が鷹狩りの折り、手植えした、との松の大木もある。とはいうものの、初詣、お祭りなど、折に触れてこのお宮さんに出かけているが、手植えの松などは目にしたことは未だ、ない。




貴船神社・御手洗の池
熊野神社の台地下を少し北に進んだところに貴船神社。江戸時代から和泉熊野神社の末社。創建は文永年間(1264~75)とのこと。山城国貴船神社を農作雨の神として勧請したと伝えられる。祭神は「たかおかみ神」。この神は山または川にいる雨水をつかさどる竜神。雨乞い,止雨に霊力があるとのこと。境内に「御手洗の池」。昔はいかなる日照りにも涸れることなくコンコンと清水が湧き出ていた。「和泉」の地名の由来、ともなり、神田川の水源のひとつでもあったこの湧水も、神田川の改修工事や宅地化の影響で昭和40年頃に水が枯れてしまった、とか。江戸の頃は、龍光寺からこの貴船神社がある台地の下の小字は「根河原」。如何にも、台地下(根)の神田川の河原といった地形を著した地名である(『杉並風土記』)。

大円寺
神田川から少し離れるのだけれども、神田川左岸の台地上、井の頭線・永福町永福町から一直線に方南通りまで続く商店街の道筋に泉谷山大円寺。慶長2年赤坂に家康が開いた、と。延宝元年(1673年)、薩摩藩主島津光久の嫡子の葬儀をとりおこなって以来、薩摩藩の江戸菩提寺となる。庄内藩士による三田の薩摩藩焼き討ちで倒れた薩摩藩士や、戊辰の戦役でなくなった薩摩藩士のお墓がある。益満休之介の墓もあるとか。「泉谷」という山号がこの地の和泉との関連で気になるのだが、このお寺さまは、その昔、赤坂溜池の辺りにあったとのことではあるので、そちらに由来するものかとも思える。

益満休之介
益満休之介って魅力的な人物。王政復古の直前、西郷が江戸を騒乱状態に陥れるために送り込んだ工作グループの立役者。浪士500名を集め、江戸市内で佐幕派豪商からお金を巻き上げる「御用盗」や、放火、そして幕府屯所襲撃などやりたい放題。幕府を挑発。それに怒った江戸市中見巡組(新徴組)がおこなったのが、上にメモした三田の薩摩藩邸の焼き討ち。この焼き討ちの報に刺激を受け、会津・桑名の兵が「鳥羽・伏見」の戦端を開いた、という説もある。ともあれ、休之介は庄内藩に捕らえられ、勝海舟のもとに幽閉。たが、官軍の江戸総攻撃を前に、無血開城をはかる勝は山岡鉄舟を駿府に送り西郷隆盛と直談判を図る。そのときに、山岡に同道したのが益満。西郷とのラインをもつが故。山岡が西郷との会談に成功したのも、この益満あればこそ、である。その後休之介は体を壊し、明治元年、28歳の若さでなくなった。歴史にIFは、とはいうものの、益満が生きていれば、明治の御世はどうなったのであろう、か。

新徴組
ついでに新徴組。新徴組って、墨田区散歩のとき、本所で屯所跡(墨田区石原4丁目)に出会った。本所三笠町の小笠原加賀守屋敷である。屯所はもう一箇所、飯田橋にもあった。田沼玄蕃頭屋敷(飯田橋1丁目)。新徴組はこの2箇所に分宿していた。
新徴組誕生のきっかけは、庄内藩士・清河八郎による浪士組結成。将軍上洛警護の名目で結成するも、清河の本心は浪士隊を尊王攘夷を主眼とする反幕勢力に転化すること。それに異を唱え清河と袂をわかって結成したのが「新撰組」。結局、幕命により清河と浪士隊は江戸に戻る。清河は驀臣・佐々木只三郎により暗殺され、幕府は残った浪士隊を「新徴組」とし庄内・酒井家にお預け。
当初は存在感もなかったようだが 、文久3年(1863年)に新徴組は歴史の表舞台に登場する。江戸の治安悪化を憂えた幕府が、庄内藩を含む13藩に市中警護の命を下したからだ。が、幕府と命運をともにした庄内藩・新徴組は、戊辰戦役以降,塗炭の苦しみを味わうことになる。

文殊院

神田川脇の遊歩道に戻り「中井橋」、「番屋橋」、「一本橋」、「和泉橋」と先に進む。北に進む神田川が東に向きを変える和泉4丁目の舌状台地のうえに文殊院。本尊の弘法大師坐像は室町末期のもの、とか。縁起によると、寺の起こりは1600年。家康が駿府に開創。1627年に浅草に移り、1696年には港区白金台に。現在地に移ったのは大正9年、とのこと。




弁天橋
和泉橋の次に「弁天橋」。弁天という以上、近くに弁天様であり、水の神様故の池などないものかとチェックする。と、「弁天橋」から少々離れた神田川右岸の舌状台地上、専修大学附属高校脇に和泉弁天社があった。ささやかな鳥居と社からなる境内に池はないが、弁天池の名残なのか、龍の刻まれた小さな水鉢が残っていた。地形図を見るに、水路跡らしき刻みが環七を越えて方南小学校辺りで神田川に注いでいたようである。弁天橋は、弁天社への参道に架かる橋、ということではあろう。




神田川・環状7号線地下調整池
弁天橋から方南第一橋、そして環七に架かる方南橋まで、神田川は比高差のある舌状台地に沿って進む。江戸の頃、この辺りの小字は「崕」。高い崖のある地形を著した地名となっている。
往昔は、この辺りにも池や沼があったようであり、その水を合わせ、環七を越え、現在は方南小学校辺りにあった方南田圃を潤した、と『杉並の川と橋』にある。
崖線の対岸、神田川の左岸を進むと、護岸の壁面に水を取り込むための取水口(越流堰;えつりゅうぜき)が見える。これは神田川周辺地域の洪水被害を防ぐため環状7号線の地下につくられた貯水トンネルへの神田川取水施設の取水口。環七下につくられる調整池は第一期と第二期に分けて実施されており、第一期は神田川対策、第二期は善福寺対策を主眼としており、この神田川周辺は梅里に造られた立抗からおおよそ2キロ、地下40mか50mのところに内径12.5mという巨大な貯水池が建設されている。
武蔵野台地を流れる神田川や善福寺川、石神井川流域は急激な都市化の進展により、流域の保水・遊水機能が減少し、集中豪雨の度に多くの水害が発生するようになった。そのため、1時間あたり50mの降雨に対応するように河川整備を行っているとのことだが、神田や善福寺川などの流域は住宅が密集し50m対応の護岸工事に時間を要するため、洪水の一部を貯める施設としてこの地下調整池が建設された、とのことである。現在環七から上流は順次50m対策の護岸工事が進んでいる。

環七
方南橋の架かる環七建設の構想は古く、昭和2年の頃には素案ができている。戦前には一部着工。戦時下になり中止となり、戦後も計画は遅々として進まなかったようである。Goo地図で見ると昭和22年の航空写真には、環七の道筋に代田橋あたりから青梅街道手前まで、世田谷通りから国道246号まで、など環七の道筋が断片的に見て取れる。
状況が動いたのは1964年(昭和39年)の東京オリンピック。駒沢競技場や戸田のボートレース会場、そして羽田空港を結ぶため計画が急速に動き始め、オリンピック開催までには大田区から新神谷橋(北区と足立区の境まで開通した。Goo地図で見ると、オリンピックを翌年に控えた昭和38年の航空写真には荒川の神谷橋あたりまで道筋が開通している。
その後、計画は少し停滞し、最終的に葛飾区まで通じ、全面開通したのは1985(昭和60年)のことである。構想から全面開通まで60年近い年月がかかったことになる。ちなみに、環七、環八、および環六(山手通り)は知られるが、その他環状一号から五号も存在する。環状一号線は内堀通、二号は外掘通り、三号は外苑東通り、四号は外苑西通り、五号は明治通り、とのことである。本日の散歩メモはここまで。通りなれた道筋を家路へと。 

我が家のある杉並区和泉の小高い丘の下を、丘に沿って巻くように進む川がある。神田川である。春の桜の頃に限らず、折に触れ川沿いの遊歩道を歩いている。玉川上水散歩と同じく、あまりに幾度も歩いており、あまりに身近であるために、未だ散歩のメモをすることがなかったのだが、先日、家の近くを環七の先まで歩いた時、釜寺などと言うお寺さまに出合った。また、そのとき家の近くに弁天橋があり、それでは弁天さま、弁天池って、どこにあるのだろうなどと、辺りを彷徨った。あらためて思うに、神田川流域のあれこれについては、知っているようで、あまり知らなかったようである。それではと、神田川流域を、気分も新たに歩き直し、水源から隅田川に注ぐまでメモをまとめることにした。
 
神田川は吉祥寺の井の頭公園の池をその源とし台東区、中央区、墨田区の境となる両国橋辺りで隅田川に注ぐ。江戸の頃は、上水路として大江戸の人々に潤いをもたらした流路ではあるが、もとより現在はその機能はあるはずもなく、洪水対策の護岸工事の施された一級河川として、武蔵野台地に開析された谷筋を、1キロ1.9mといった緩やかな勾配で下ってゆく。流路を見るに、杉並区を南東に下り、杉並区永福町でその方向を北東に向けて大きく切り返し、中野区富士見町で善福寺川を合わせる。河川流域としては神田川より広い善福寺川の水を集めた神田川は、更に新宿区に向かって北東に進み、新宿区落合で妙正寺川の水を合わせ、目白台の崖線に沿って東に進み、文京区関口の江戸川橋交差点へと向かう。関口はかつて上水として使われた神田川・神田上水が満潮時に遡上する海水を防ぐため造られた大洗堰のあったところである。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平23業使、第631号)」)

神田川が上水として使われていた江戸の頃は、流路はここから二手に分かれ、一手は上水路として小日向台地の崖下に沿って水戸藩江戸屋敷のあった現在の小石川後楽園へと向かい、そこから江戸市中、とくに神田・日本橋辺りへと上水路が整備されていった。もう一方の流路は、上水余水として現在の神田川の流路を南東へ下り、大曲交差点で流路を南に変えて千代田区飯田橋に進む。江戸城外濠に続く飯田橋で流路を直角に変え、水道橋、そしてお茶の水の切り通しの谷を越え、神田を経て隅田川に注ぐ。
隅田川へと向かう神田川の流れは、途中、水道橋の辺りから南に水路を分ける。現在、日本橋川と呼ばれるこの川筋が往昔、平川とも古川とも呼ばれた神田川の旧路である。現在は神田橋、呉服橋、江戸橋などを経て永代橋あたりで隅田川に注ぐが、この流路も人工的に開削された水路であり、更に古くは浅瀬の入り江であった日比谷へと注いでいた、と言う。因みに、日比谷の「ヒビ」とは、海苔を付着させて生育させるもの。古くは竹や木を浅瀬の海中に差し込んで使っていた、とか。
古川とも平川とも呼ばれ、飯田橋辺りから南へと流れていた流路を、東へとその流れを変え、お茶の水から神田へと流した理由は、洪水から江戸城を守るため、とのこと。本郷台地を切り崩し、お茶の水に切り通し・人工の谷をつくり、流路を神田へと変へる普請が仙台・伊達藩の掛かりで行われた。
江戸の上水として使われた神田上水は、武蔵野台地の尾根道を人工的に開削した玉川上水とは異なり、井の頭から流れ出す自然の流路に途中の支流を合わせ整備したもの、と言う。杉並区立郷土博物館で手に入れた『杉並の川と橋』の湧水マップを見るに、神田川の杉並区域にはそれぞれ十数カ所の遊水池と宙水地が記載されている。井の頭池を開析谷の谷頭とし流れ出した流路に、開析谷にそって点在する幾多の湧水地や宙水地か流れ出す支流を集めた自然の流れを、上水路として整備していったのではあろう。
通常武蔵野台地に降った雨はローム層とその下の砂礫層に浸透し、その下にある堅い粘土層に遮られ地下水の帯水層をつくり、その帯水層が崖線の谷頭などで地表にあらわれる。これが湧水池を形成するのだが、時として地下水がローム層と礫層の間にできた粘土層に帯水することがある。これを本格的な地下帯水層と区別して、ちょっと「宙ぶらりん」な帯水層ということで、「宙水」と呼ぶようだ。
今回の散歩は、完全護岸工事が施された神田川の谷筋を進みながらも、地形図の等高線の変化などを見比べ往昔の湧水池・宙水地などに寄り道をしながら、かつて自然流路であった神田川の痕跡を辿りつつ、水源より隅田川までの散歩を始めることとする。

本日のルート;井の頭公園・井の頭池>水門橋>井の頭線の高架を潜る>夕やけ橋>井の頭付近の支流らしき水路>井の頭線・三鷹台駅>三鷹台付近の支流らしき水路>久我山稲荷神社>井の頭線・久我山駅>清水橋付近の崖面上>井の頭線・富士見ヶ丘駅>高井戸駅付近・左岸の水路跡>浴風会>環八・佃橋

井の頭公園・井の頭池
神田川は井の頭池をその主水源とする。その昔は、武蔵野台地を伏流してきた地下水が湧水となり池に水を湛えていたが、現在は周辺のマンション建設などで、その地下水路が断たれ、井戸を掘りポンプアップによる地下水汲み上げを行っている、とのことである。池の西端の崖下に「お茶の水」と呼ばれる水の湧き出る石組みの一隅がある。家康がこの地を訪れたとき、ここの湧水でお茶を点てたのがその名の由来とのことであるが、この湧き出る水も、井戸を掘ったポンプアップの水である。
七井の池とも、七井の湖とも称され、7カ所からの豊かな湧水点を有し、現在、池の中央に架かる七井橋にのみ往昔の湧水の名残を残す井の頭池の湧水であるが、その標高はおおよそ50mと言う。この井の頭池に限らず、善福寺川の水源ともなる善福寺池、妙正寺川の源流点ともなる妙正寺池、石神井川の主水源ともなる三宝寺池、そして池ではないが清冽な水を湛える落合川の水源となる南沢湧水群(東久留米市)など、武蔵野台地の標高50mの地点には湧水点が多い。武蔵野台地を形成している洪積層中のローム層や砂礫を浸透してきた地下水は、堅い粘土層にぶつかると帯水層をつくり、その帯水層が露出したところが標高50mの辺りであり、そこに湧水池・湧水点を形づくる、ということであろう。
杉並区立郷土博物館で手に入れた『杉並の川と橋』によると、往昔の井の頭池からの流出量は1日当たり2万トンから3万トンとあったのこと。現在、深井戸から井の頭池に汲み上げる地下水は3千トンから4千トン、その1日の流出量は千トン、と言うから、往昔のその豊かな湧水量が偲ばれる。
井の頭池の崖の上には御殿山遺跡が残る。御殿山の由来は三代将軍・家光の鷹狩りの際の休憩所から、とのことであるが、それはともあれ、縄文時代の中期から後期の竪穴住居、敷石住居、土器や石器の発掘されたこの遺跡も、井の頭池の豊かな湧水があってこその集落ではあったのだろう。

水門橋

井の頭池の最東端に水門橋が架かる。このコンクリート造りの小橋が神田川の始点であり、ここから全長24.6キロの神田川がはじまる。始点付近の水路には多数の岩が配されてはいるが、水路の周囲、特に南に続く公園に趣を添えるためのものではあろう。家族連れの姿を見やりながら進み「よしきり橋」を越えると井の頭線の高架を潜ることになる。

井の頭線
井の頭線は渋谷と吉祥寺の間、12.8キロを結ぶ。線路の軌道幅は1067mmと標準狭軌サイズで京王本線の1372mmと異なる。これは、元々資本の異なるふたつの会社、旧京王電気軌道(京王本線の系統)と旧帝都電鉄(井の頭線の系統)が京王電鉄の前身、京王帝都電鉄として発足したためである。
京王本線の軌道が1372mmとなっているのは、旧京王電気軌道時代、当時の東京市の市電と繋ぐためにその軌道幅に合わせた、とのことであるが、それはそれとして、ここでは井の頭線の系統である旧帝都電鉄の変遷をまとめておく。
旧帝都電鉄は1926年(大正15年;昭和元年)申請し、翌年免許が交付された東京山手電鉄にまでその歴史を遡る。当時、第二山手線構想のもと、現在の山手線の外周を繋ぐ路線建設の計画が持ち上がった。大井町から自由が丘、梅ヶ丘、明大前を経て、中野、江古田、下板橋、田端、北千住、砂町から須崎を結ぶこの構想は、不況の影響などで計画は停滞し、結局、東京山手電鉄は小田急鉄道(小田急電鉄)の傘下に入る。また、1928年(昭和3年)には、渋谷・吉祥寺間の免許をもつ城西電気鉄道(後の、渋谷電気鉄道)も小田急鉄道の傘下に入る。
しかしながら、その小田急鉄道も第二山手線構想を実現する余力もなく、結局は、収益性の高い渋谷・吉祥寺間の路線建設を優先することとし、東京山手鉄道を改称した東京郊外鉄道が渋谷鉄道を合併。社名を帝都電鉄と改称し、渋谷・吉祥寺間を順次開設していった。井の頭線の軌道が京王本線と異なり、小田急の軌道と同じくするのはこういった経緯が背景にある。帝都電鉄は昭和8年(1933)には渋谷から井の頭公園駅まで開通。翌9年(1934)には吉祥寺まで繋がった。井の頭公園駅と吉祥寺駅までの開通に1年を有した要因は水道道路(現在の井の頭道路)を高架で越える必要があったため、とのこと。
以前、玉川上水散歩でメモしたが、井の頭線の明大前駅の手前に跨線橋がある。上下2つの複線にもかかわらず、橋桁は4路線分となっている。これは第二山手線構想の準備として用意した遺構、とのこと。因みに、境浄水場から和田堀給水所へと導水管を埋めた水道道路を井の頭街道と命名したのは首相の近衛文麿。荻窪の私邸から官邸へのルートとして水道道路を利用していたため、と言う。井の頭通りと甲州街道が合流する手前に石碑が建つ。

夕やけ橋

井の頭線を越えると井の頭公園駅。上でメモしたように、昭和8年(1933)、帝都電鉄として開業。その帝都電鉄は昭和15年(1940)、小田急鉄道と合併し同社の帝都線となるも、昭和17年(1942)には、小田急電鉄が東京急行電鉄(大東急、とも)に併合される。その東京急行電鉄から分離し、京王帝都電鉄となったのは昭和23年(1948)のことである。京王井の頭線が誕生するまでには、戦時体制下とは言いながら、小田急や東急とも関係があった、ということである。
駅の北を流れる神田川の周囲は親水公園となっている。少し進んだところにある橋の名前も「夕やけ橋」。昭和60年代の都による河川改修の計画では、当初このあたりも周辺の樹木を伐採し、コンクリートで護岸工事される計画であったようだが、周辺住民の努力により、計画を変更し、せせらぎと親しむ公園となった。この親水公園も次の神田上水公園辺りからはコンクリート護岸の川筋となる。

井の頭付近の支流らしき水路

「神田上水橋」を越え、「あしはら橋」へと進む。と、「あしはら橋」の少し上流に神田川に注ぐ大きな排水口が見える。カシミール3Dでつくった地形図で見るに、50mの標高線が神田川の谷筋から西に向かって井の頭公園駅前通の先まで大きく食い込んでいる。『杉並の川と橋(杉並区立郷土博物館)』の湧水点分布図にも、食い込んだ谷頭辺りに宙水点のマークがある。ということで、水路跡の痕跡でもないものかと、ちょっと寄り道。



排水口のあたりからの道筋を進むと、すぐに井の頭線に当たる。踏切を渡り痕跡を探すと、線路脇に水路を塞いだ溝らしき箇所があり、その先にカラー舗装された、いかにも水路跡、といった緩やかなカーブの道が続く。カラー舗装の道、所々に車止め、それに少々の段差という、水路跡によく見られる三点セットもあり、往昔の水路ではあったのではなかろう、か。水路跡らしき道は井の頭公園通りを越えて、玉川上水の近くまで続いていた。この水路は神田川の谷筋から切れ込んだ小さな開析谷の谷頭の宙水からの湧水だけでなく、玉川上水からの助水を受けていたのかもしれない。単なる妄想。根拠なし。

井の頭線・三鷹台駅
元に戻り、「あしはら橋」を越え、「丸山橋」まで進むと井の頭線・三鷹台駅。三鷹台?武蔵野市ではないの?と地図をチェック。神田川を境に南が三鷹市、北が武蔵野市。その武蔵野市も三鷹台駅の川を隔てた北にある立教女学院の西側まで。立教女学院から東側は杉並区久我山となっている。三鷹台駅は三鷹市の東端であった。ちなみに、井の頭の池も三鷹市にあった。作家・小沼丹はその作品「三鷹台附近」に、「三鷹台駅に改札口の附いたのは多分昭和十二、三年頃だったらう。その頃は、駅に降りると線路を横切る道が一本左右に伸びてゐるばかりで、辺り一帯は葦の茂つた湿地であつた。線路沿ひに、井の頭池から出た小川(神田上水)が流れてゐて、釣師の姿をよく見掛けたりした。尤もこの湿地も三鷹台から先は田圃に変つて、菅笠を被つた女が田植ゑをするのを見たことがある。小川に架つた土橋を渡つて左に行くと東京市で、立教女学校があり、人家もある」と描く。
ここには、辺り一帯は葦の茂った湿地であった、とある。丸山橋の手前に「あしはら(葦原)橋」があった所以である。現在の姿からはその由来など想像もできなかったのだが、昭和初期までは橋の名前の通りの情景が広がっていたのだろう。また、小川に架かった土橋というのが「丸山橋」の前身ではあろう。因みに、立教女学院は関東大震災後の大正13年、中央区から移転した。

三鷹台付近の支流らしき水路

三鷹台駅を越えると、少しの間、川沿いの遊歩道が切れる。一旦、立教女学院の方に向かい、最初の角を右に曲がり道を進む。道筋は杉並区久我山と三鷹市の境を歩くことになる。ほどなく踏切があり、井の頭線を越えて川添いの遊歩道に戻る。「神田橋」を見やり、「みすぎ橋」まで進む。ここが三鷹市最東端の橋。「みすぎ」は「みたか」と「すぎなみく」の頭の文字を合わせたもの。

この「みすぎ橋」の少し上流にも四角のおおきな排水口がある。地形図を見るに、「みすぎ橋」あたりから三鷹台駅前通りのあたりまで、50mの等高線が大きく切れ込んでいる。ここでも、水路跡の痕跡でもないものか、と川筋から離れる。排水口辺りから、これまた、カラー舗装の道、車止めといった水路跡の「目印」を辿り、三鷹台駅前通りまで進む。これといった湧水点の痕跡は見あたらなかったが、台地と神田川のから切れ込んだ谷筋の標高差は5m以上もあるわけで、分水界から神田川へ注ぐ流路はあったのかとは思う。

因みに杉並区の地名の由来は杉並木、から。江戸の初期に成宗と田端村を領した岡部氏が領地の境を示すために植えた、と言う。江戸を通じてこの杉並木は名を知られ、明治になって高円寺・馬橋・阿佐ヶ谷・天沼・田端・成宗の6つの村が合併し、新しい村名となったときその名を「杉並村」とした。その後、「村」から「町」になった杉並は、昭和7年10月井荻町・和田掘町・高井戸町と合併し区が誕生するとき、最も知られる杉並をその区の名称にした、とのことである。また、三鷹は徳川将軍家や徳川御三家の鷹場の村が集まっていたこと、そして世田谷領・府中領・野方領にまたがっていたことに由来するとも言われるが、定まった説は、ない。

久我山稲荷神社
杉並区に入って最初の橋「緑橋」を越えると「宮下橋」。橋の北にある久我山稲荷神社に由来する名前ではあろう。久我山稲荷はこの地の鎮守さま。幕末に板橋にて刑に処せられた新撰組局長・近藤勇のなきがらを密かに掘り起こし、三鷹の龍源寺に埋葬すべく夜道を急いだ係累・門弟が一休みしたところ、との話しが伝わる。

いつだったか、久我山稲荷を訪れたことがある。久我山駅北口に下り、崖線に沿って東に進むと崖面に社があった。鳥居の横にある久我山稲荷の石柱を見るに、氏子代表としてふたりの秦さんの名前があった。また、正面の鳥居に続く少々古き趣の二番目の鳥居には寄進者として江戸の文政期は秦野姓、大正期にはその後継者として秦姓が名を連ねる。
この久我山には秦姓が多い、と言われる。元は秦野姓であったものが、明治の戸籍法の制定にともなう戸籍提出に際し、あまりに秦野姓が多いので、手間を省くために「秦」とした、といった話も伝わる。あまりにできすぎた話ではあり、また、そもそもが、この地の秦野氏は相模の秦野氏ではなく、別系統の「秦」氏の出自とする説もあるようで、真偽のほどは定かではない。それはともあれ、神社を訪れたときは、寄進者を書き示した石柱などを見るのが楽しみでもある。そこに多く現れる名前が、その地を開いた人々の末裔であろう、との思いからではあるが、いつだったか奥多摩より仙元峠を越えて下った秩父山中の浦山にあった浦山大日堂に浅見姓が多かったのが印象に残っている。浅見姓は現在でも秩父に多い姓である、と言う。

井の頭線・久我山駅
「宮下橋」の辺りから神田川の両岸にカラー舗装や車止めといった水路跡らしき道筋はあるのだが、地形図で見るに、特に等高線の切れ込んだ谷頭もない。護岸工事をする前の、旧神田川の流路かとも思う。「宮下人道橋」、「都橋」を過ぎると井の頭線・久我山駅。駅の吉祥寺側は45mと50mの等高線が迫っており、急坂となっている。久我山という名前からは公家の久我家が連想される。とはいうものの、久我山の久我の由来は、「陸(くが=りく)」、から。「くぼ(窪)」の逆と考えてもいいだろう。つまりは、川などの近くの盛り上がった山のようなところ。久我山の「山」は、雑木林などを山と呼ぶことも多いので、久我山とは「川のそばの雑木林の茂る台地」といった地形を差すのだろう。
ちなみに、公家の久我家の名前の由来も、元々は源の姓であったものが、京都の伏見区・桂川ちかくにつくった別邸の「久我水閣」、から。その別邸があったところも、桂川近くの少し小高い地にある、と言う。

人見街道
久我山駅前を東西に走る道を人見街道と呼ぶ。「井の頭通り」の京王井の頭線「浜田山駅入口」交差点から分岐して、久我山駅東側の踏切を渡り三鷹市の牟礼に入り、新川、野崎、大沢を経て、府中市若松町まで続く12キロの道である。そもそもの人見街道は甲州街道の烏山付近から北へ何本かの道筋が通り、その道筋は今の下本宿通りにつながり、市役所前から野崎、大沢を経て、府中市の八幡宿へ通じていた、とのこと。人見山のふもとを通り人見山(現在の浅間山)が見えたということなどから、「人見道」とか「人見街道」と呼んでいたそうではある。また、この道は、甲州街道の烏山から府中方面へ抜ける近道でもあったので、「甲州裏道」とも「府中裏道」とも呼ばれていた。人見の地名は武蔵七党の猪俣党の人見氏一族が住んでいたことに由来する、とか。
この道は古道のひとつで、武蔵国府府中から大宮(埼玉)に行く大宮街道、下総の国府(市川市)に通じる下総街道の道筋であったと言われ、近世以前は東西を結ぶ重要な道路であった、よう。江戸に入り甲州街道ができると、脇街道的な性格を強めることになった。近くの久我山五の九の辻にある石塔には「これよりみぎ いのがしらみち」とあり、井の頭への道としても利用されていたようである。
昭和初年に久我山駅前の直線化や拡幅がおこなわれるなどの経緯をへて、正式に通称名が人見街道となったのは昭和59年。その際、旧来の人見街道の道筋変更がはかられ、杉並区内を含む上の部分が新しく人見街道に組み込まれた、とのこと。新たに組み込まれた箇所は久我山から浜田山区間。ために、久我山道とも呼ばれたようである。

清水橋付近の崖面上

久我山駅前の人見街道に架かる久我山橋を渡り、神田川左岸を進む。右岸は段丘崖が迫り川沿いの道は清水橋の先でなくなる。左岸は駅を越えると谷幅は少し広くなるが、その敷地は京王線の車庫(富士見ヶ丘検車区)となっている。車庫はかつて永福町駅にあったようだが、昭和45年に、この地に移ってきた。

右岸の遊歩道を清水橋まで進み、崖線上がどのようになっているのが、ちょっと寄り道。急な石段を上ると東京都太田記念館があった。中国と縁の深かった太田宇之助氏が東京都に寄贈した土地に都が建設したアジアからの留学生の宿舎、とか。

建物前に案内板がある。太田記念館の説明かと足を止めると、その説明は向ノ原遺跡の説明であった。案内をメモ;向ノ原遺跡B地点は、武蔵野市にある井之頭池を水源とする、神田川南岸に形成された急崖な台地上に位置しています。当遺跡は、杉並区久我山二丁目16番を中心とした、先土器時代(約16,000年前)から縄文時代早期後半(約8,000年前)にかけての集落跡で、当遺跡の東側に隣接する向ノ原遺跡(大蔵省印刷局運動場内)と同一遺跡で、その西端をなすものと思われます。
東京都太田記念館建設に先立ち、昭和62年から63年にかけて実施された発掘調査では、先土器時代のナイフ形石器をはじめとする石器類、バーベキュー跡と考えられる拳大の石を数10個集めた礫群が7箇所発見されています。
縄文時代では、草創期(約10,000年前)の隆起線文土器と爪形文土器約30点が出土して注目されました。最古の縄文土器であるこれらの土器群は今のところ、区内はもとより武蔵野台地における当該期の資料として最大の質と量を誇っています。
また、この他にも早期前半(約9,000年前)の住居跡も6基発見されており、神田川流域の当遺跡を中心とした一帯が、区内における最古の縄文文化発祥の地点である可能性を提供した重要な遺跡であると言えます。(なお、出土した考古遺物は、すべて杉並区立郷土博物館に展示してありますので、当記念館では見学することはできません。)」、とあった。

久我山運動場
崖面上を彷徨うに、グランドが広がる、のみ。この久我山運動場(元大蔵相印刷局)のグランドには戦時中は高射砲の陣地があったとのこと。中島飛行機の荻窪工場や武蔵工場(武蔵野市)を防衛するためのもの。最新鋭の15センチ砲据えられ、B29二機が被弾し、一機は久我山4丁目に墜落した、と言う(『荻窪風土記;森泰樹』)。
久我山運動場の南には富士見ヶ丘運動場。この元NHKのグランドの南には玉川上水が流れる。道なりに進み、成り行きで王子製紙の社宅に沿って坂を下ると富士見ヶ丘検車区の入口に続く橋に出る。神田川左岸には線路などもあり、右岸から車庫への車両の出入りのために造られた、車庫専用の橋にようであり、特に橋に名前はない。

井の頭線・富士見ヶ丘駅
車庫を見やりながら進み、京王線の車庫が切れる先に井の頭線・富士見ヶ丘駅。駅前の南の神田川には「月見橋」がかかる。『杉並の川と橋(杉並区立郷土博物館)』によれば、通称「清水山」とよばれる地域がこの富士見ヶ丘駅の近くにあり、辺りの神田川両岸は雑木林が続き、崖のあちこちから湧水が見られた、と言う。
地形図を見るに、少し南に切り込んだ地形が富士見駅の南東にある。そのあたりが湧水点なのか、はたまた、先ほど歩いてきた遊歩道に清水橋があったが、橋の南の現在、久我山運動場となっている一帯の崖面から湧水・清水が流れ出していたが故の橋名であろうか。いずれにしても現在はどちらにも湧水跡の痕跡はみつからなかった。

高井戸駅付近・左岸の水路跡

「月見橋」を離れ、「高砂橋」、そして「あかね橋」へと。「たかさご橋」、「あかね橋」の南北に通る道筋は緩やかな曲線を描き、如何にも水路跡らしき雰囲気。地形図を見るに、45mの等高線が北西に切れ込んでいる。神田川左岸の崖線の切れ込んだところへと寄り道。「たかさご橋」を越えたところからカラーブロックの道があり、先に進み井の頭線を越え、高井戸児童館辺りを進む。道は農園でその先を阻まれるが、農園の先には雑木林が残り、周囲も小高くなっており、この水路跡は台地からの水を集めた流路であったのか、とも思う。

浴風会

左岸を彷徨った後、今度は、神田川の右岸に続くカーブの道を辿る。地形図で見た地形の切り込んだところ、清水山の住所は高井戸西1-16辺りとあるので、丁度端から南に蛇行するその先端あたり。なんらかの痕跡でもないものかと彷徨うも、特段それらしき名残は見あたらない。清水山と呼ばれた辺りの東には結構立派な建物が見える。浴風会の施設である。ぱっと見には、昨今登場した高級ケアハウスかと思ったのだが、はじまりは大正12年(1923)の関東大震災に罹災した老廃疾者や扶養者を失った人々の救護のため、御下賜金や一般義援金をもとに設立されたもの。現在は社会福祉法人浴風会として老人保健・福祉・医療の総合福祉施設となっている、と。建物は平成に成って建て直したものが多いが、本館は安田講堂の設計を手がけた内田祥三の手になるもの。都の歴世的建造物の指定を受けたこの建物は、その趣き故、テレビや映画の舞台として数多く使用されている。とか。

環八・佃橋
「むつみ橋」、人道橋である「錦橋」、「やなぎ橋」、そして「あづま橋」を越え環八に架かる「佃橋」に。先日、玉川上水を散歩したときに、江戸の頃、環八、といっても、環八が出来たのは昭和になってからであり、江戸の頃にはなんらかの道筋ではあったのだろうが、それはともあれ、その道筋とクロスするところに「佃橋」が架かっていたと『上水記(寛政3年(1791)に幕府の普請奉行が編纂)』にある。
この佃橋がいつの頃架けられたものか定かではないが、佃の語源には。「作り田」が転化したとの説があり、「作田、突田、築田」などが当てられる、とか。つまりは、突き固めた田、低地に土を盛り上げた田、河川沿いに湿地を開墾した田、といった意味がある。地名の起こりは、庄園などの領主の直営田のことであり、新たに開墾した「作り田」にはじまるようである。
佃の由来はともあれ、「佃橋」の下にある排水口から割と勢いのある水が流れ出ている。この水は玉川上水の境橋から地下の導水管を通り此の地に導かれ、神田川の浄化に活用されている。この玉川上水の水は、昭和61年(1986)、東京都の「玉川・千川上水清流復活事業」により小平監視所より下流に流されることになったものである。
昭和40年(1965)、新宿の淀橋浄水場を廃止し、その機能を東村山浄水場に統合・移転することになる。この施策にともない、羽村で取水された多摩川の水は小平監視所より、東村山浄水場に送られることになった。このため、小平監視所より下流には玉川上水の水は一部維持水を除いて流れることがなくなったわけだが、上記事業施策により、小平監視所から世田谷・浅間橋までの18キロの間、水流が復活した。水源は都多摩川上流処理場で高度処理水された西多摩地区の下水を日量23,200トン流している、と。で、「浅間橋」(先ほど歩いた清水橋の崖上にあったグランドの南東端)から地下を環八まで進み、環八に沿って佃橋下まで下っている。
散歩をしてわかったことだが、水源の湧水を失った東京の河川は、高度処理された下水にその水流を任すことが結構多い。目黒川も西落合の水再生センターで高度処理された下水を烏山川と北沢川の合流点に送り、それが下って目黒川となる。そういえば呑川も大岡山の東京工大辺りで西落合の高度処理水によって助水されていた。

環八
現在交通の大動脈となっている環八であるが、この幹線道路は昭和2年(1927)の構想から全面開通まで、80年近くかかっている。戦前も、戦後も昭和40年(1965)代までは、それほど交通需要がなく、計画は遅々として進むことはなかった。昭和22年、38年のGOOの航空写真を持ても、高井戸の近辺に環八の道筋らしき跡が見えるが、道は途切れたままである。が、その状況が一変したのは、昭和40年(1965)の第三京浜の開通、昭和43年(1968)の東明高速開通、昭和46年(1971)の東京川越3道路(後の関越自動車道路)昭和51年(1976)の中央自動車道の開通などの東京から放射状に地方に向かう幹線道路の開始。が、幹線道路は完成したものの、その始点を結ぶ環状道路がなく、その始点を結ぶ環八の建設が急がれた。しかしながら、地価の高騰や過密化した宅地化のため用地取得が捗らず、全開通まで構想から80年、戦後の正式決定からも60年近くという、長期の期間を必要とした。最後まで残った、練馬区の井荻トンネルから目白通り、練馬の川越街道から板橋の環八高速下交差点までの区間が開通したのは平成18年(2006)5月28日、とか(「ウィキペディア」より)。
今日の散歩メモはここまで。京王線・高井戸駅から見慣れた風景の中を家路へと。

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