流山散歩;往昔、みりん・醸造で賑わった下総流山を彷徨う先日、利根運河を利根川から江戸川へと辿ったとき、江戸川河口近くに「今上落し」と呼ばれる農業用水とおぼしき水路に出合った。流れは南に下り,流山旧市街の辺りで江戸川に注ぐ、と言う。この「今上落し」もさることながら、利根運河の南北に広がる谷津の景観に魅せられ、そのうちに、利根運河の南に広がる流山の大青田湿地や周辺の谷津を南から辿り、利根川運河の北の三ヶ尾の谷津を野田へと歩いてみようと思った。
今回の散歩は、流山から野田へと南北に辿る散歩の第一回。スタート地点の流山を彷徨うことにした。とはいうものの、流山って、江戸から明治にかけて、みりん醸造で賑わったところであるとか、幕末に新撰組局長・近藤勇が降順したところ、といったことしか、街についての知識はない。いつだったか、神田の古本市で手に入れた『みりんの香る街 流山;青木更吉(崙書房)』を本棚から取り出し、家から1時間半ほどの車中にて一読するも、今ひとつポイントが絞れない。とりあえずは郷土資料館(流山では市立博物館)を訪れ、流山のあれこれについての情報を手に入れることにして、あとは資料次第の成り行きで、といった、いつものお気楽散歩のスタイルで流山を彷徨うことになった。
本日のルート;流鉄流山駅>市立博物館>大杉神社>ましや>流山広小路>呉服新川屋店舗>浅間神社>今上落とし>江戸川・今上落常夜灯>矢河原の渡し跡>常与寺>閻魔堂>新撰組流山本陣・近藤勇陣屋跡>見世蔵>流山キッコーマン(株)・万上みりん発祥地>長流寺>一茶双樹記念館>杜のアトリエ黎明>光明院>赤城神社>流山寺>丹後の渡し跡>流山糧秣廠跡>流鉄平和台駅
流鉄流山線・馬橋駅
地下鉄千代田線・JR常磐線直通乗り入れの我孫子行きに乗り、馬橋で下車し、流鉄流山線に乗り換える。二両編成、改札に駅員さんも見えないのんびりとした風情である流鉄流山線は、大正5年(1916)、町民の出資で流山軽便鉄道として誕生し、流山と馬橋の間、5.7キロを結んだ。明治44年(1911)には、野田と柏の間に県営軽便鉄道野田線(現在の東武野田線)が開通し、野田の醤油を柏経由で常磐線に運ぶようになっていたため、流山も鉄道敷設の機運が高まり、町民116名の出資による「町民鉄道」として開通したとのこと。旅客と貨物の輸送、特に、流山で生産される醤油やみりんを馬橋経由で国鉄・常磐線へと結んだ。
大正13年(1924)になると、陸軍の糧秣廠の倉庫が本所から馬橋に移されることをきっかけに、軌道を国鉄と同じ幅に拡張し、糧秣廠への引き込み線を敷設。昭和3年には、みりんの工場への引き込み線もつくられ、貨物の輸送は昭和52年(1977年)頃まで続いた、とのことである。鉄道の名称も、流山軽便鉄道、流山鉄道、流山電気鉄道、流山電鉄、総武流山電鉄を経て平成20年(2008年)には流鉄株式会社となり、路線も総武流山線から流鉄流山線となった。流鉄って、略したものかと思っていたのだが、会社の正式名称ではあった。編成毎に色分けされ、また名称がついた車両はすべて西武鉄道で使われていたもの、とか。
流鉄流山線・小金城趾駅
馬橋を出てしばらくすると小金城趾駅。車窓から小金城趾のある大谷口歴史公園の緑の台地が見える。いつだったか、平安の頃から官営の馬の放牧地であった小金牧、そして、その放牧地を囲う土手である「野馬除土手」を求めて北小金の辺りを辿ったことがあるのだが、そのとき、小金城趾まで足を運んだ。
この小金城には戦国の頃、下総西部を領有した高城氏の居城があった。南北600m、東西800mという大きな構えをもつ下総屈指の城郭であったが、現在は外曲輪の虎口であった達磨口と金杉口が残るだけで、あとはすべて宅地なっている。城趾には、大きな土塁や障子掘や畝掘が残っていた。高城氏が築いた小金城は北条方の西下総の拠点であった。永禄3年(1560年)、長尾景虎こと上杉謙信が関東攻略のため、古河城に進出し、古河公方の足利義氏はこの小金城に逃れ来る。高城氏は謙信の関東侵攻時は、一時謙信に属したとか、いや、謙信の攻城を篭城戦で乗り切ったとか諸説あるも、ともあれ、謙信が越後に戻ると再び北条氏に属する。
永禄7年(1564年)の第二次国府台合戦では、市川付近で兵糧調達を試みた里見義弘、大田資正を妨害するなど、北条軍の勝利に貢献。天正18年(1590年)の秀吉による小田原征伐に際しては小田原城に入城し秀吉と戦うも、小田原開城とともに、居城・大谷口の小金城を開城。江戸時代は700石の旗本、御書院番士そして小普請として続くことになる。
坂川
小金城趾駅を越えるとほどなく坂川を渡る。この川は利根川と江戸川を結ぶ北千葉導水路の一部となっており、坂川放水路とも呼ばれる。水路は印西市木下(きおろし)と我孫子市布佐の境辺りで利根川から取水し、手賀川・手賀沼の南を手賀沼西端まで地下水路で進む。手賀沼西端では、手賀沼に注ぐ大堀川を大堀川注水施設まで川に沿って地下を進み、注水施設からは南へと下り、流山市の野々下水辺公園(野々下2-1-1)にある坂川放水口から坂川に水を注ぐ。地下を流れてきた水路は放水口からは開渠となって江戸川へと下ってゆく。
北千葉導水路の役割は、第一に東京の水不足に対応するため利根川の水を江戸川に「運ぶ」こと。次に、手賀沼の水質汚染を防ぐこと。柏市戸張新田にある第二機場では直接手賀沼に、大堀川注水施設では大堀川の水質改善も兼ねて大堀川経由で手賀沼を浄化する。そして、第三の目的としては、周辺より地盤の低い手賀川や坂川の洪水対策として、あふれた川の水を利根川や江戸川に放水し水量を調節する、といったこと。いつだったか我孫子から手賀正沼を辿り、手賀正川から印西市木下の利根川堤まで歩いたことがある。北千葉導水路にはそのとき出合ったのだが、ここでその一端に触れることができて、なんとなく心嬉しい。
流鉄流山線・流山駅
坂川を超えると鰭ヶ崎駅。「ひれがさき」と読む。地名の由来が弘法大師伝説に登場する神龍の「ひれ」故とか、台地の地形が魚の「背びれ」に似ているから、とか、あれこれ。駅の近くには名刹・東福寺がある、と言う。
二輌連結の車輌は平和台の駅を過ぎると流山駅に到着。駅前は予想以上に「つつましやかな」雰囲気。江戸の頃は江戸川の水運やみりんの製造で栄え、明治期には葛飾県庁もおかれた西下総地域の中心地といった姿は、今は昔、といった静かな佇まいである。
六部尊
駅前を北へ、県道5号・流山街道を流山市市立博物館に向かう。図書館と博物館のある台地への上り口辺りに祠がある。案内によると、明和4年(1767)建立の六部廻国の石塔が祀られる、とのこと。六部廻国とは法華教六十六部を書き写し、全国六十六カ所の霊場に一部ずつ奉納して廻ること。その巡礼または遊行の僧を六十六部と称し、白衣に手甲・脚絆・草鞋がけ、背には阿弥陀尊を納めた長方形の龕(がん)を負い、六部笠をかぶった姿で諸国をまわった。六十六部は物乞い、行き倒れも多く、その場所には六部塚がつくられた、とのことだが、この地にの六部尊は巡礼を終えた記念に建てられたもの、と言う。
流山市市立博物館
台地に上り、市立博物館で流山の歴史や、流山と言えば新撰組、といった幕末の流山と新撰組に関するあれこれを、ざっと頭に入れる。受付で頂戴した『水と緑と歴史の流山 タウンナビ』なども、流山の右も左もわからない者にも心強いお散歩マップである。
流山の歴史のおさらい;流山地域の台地には石器時代、縄文、弥生といった時代の遺跡も残り、戦国の頃も先ほどの小金城、そしてその支城である深井城址(利根運河沿い)、花輪城址(流山市街の北)、前ヶ崎城址(坂川流域;前ヶ崎字奥之台409-1)などに人跡が残るが、流山駅前の旧市街の辺りが歴史に登場するのは建久8年(1197)の頃、市街の南にある「丹後の渡し」こと、「矢木(八木)の渡し」の記録がはじめて。とは言うものの、「矢木(八木)の渡し」は所詮、中世の荘園である風早荘八木郷への渡し場、ということであり、現在坂川の上流部に「八木」を関した学校名などが残るので、流山の旧市街からは少し離れるし、そもそも「流山」の地名が記録に登場しないと言うことは、流山の旧市街には未だ人が住んでいたわけではない、と言うことではあろう。
また、旧市街には鎌倉時代創建との縁起の寺院があるも、それとて、それ以外の寺社の創建は江戸となっており、余りに乖離が激しく、鎌倉創建というのも確証がない、と言うことであり、はっきりとしたことは不明ではあるが、江戸川沿いの低湿地帯である流山駅前の旧市街に人が住み始めたのは江戸の頃からではないか、と『みりんの香る街 流山;青木更吉(崙書房)』は言う。
人が住み始めたと思われる江戸の頃は、流山旧市街、昔の地名で根郷とか宿、そして馬場、現在の流山1丁目から8丁目辺りは天領であったが、それ以外の流山市域は藩領、旗本の領地などが混在していたようである。この博物館のある地、昔の加村は田中藩下総領。先日の利根運河で出合った駿河国の田中藩(静岡県藤枝市)の飛び地であり、この博物館の辺りには先日の田中藩の下屋敷・陣屋があった、と言う。鰭ヶ崎、加村など田中藩下総領42ヶ村でとれる米は良質で、江戸の相場を左右するほどであり、御用河岸である加村河岸から江戸へ運ばれた。また、駒田新田、十太夫新田、大畔新田といった天領からの米は流山河岸から船に積まれたとのことである。
河岸ができた頃にはそこの旧市街の辺りには人が住んでいたのであろうが、そもそも河岸が成立するのは江戸川こと、昔の太日川が舟運の幹線として整備されてから、であろう。流路定まらぬ太日川が整備されたのは、利根川東遷事業により、古来江戸へと下っていた利根川の水を銚子へとその流れを変えてからのことである。その利根川東遷事業が一応の完成をみたのは17世紀中頃、と言うから、東遷事業の一環として、曲りくねった太日川(江戸川)を一種の放水路としてまっすぐな水路に整備し、利根川から江戸川を経て江戸へと結ぶ船運路の中継基地として流山の河岸ができあがり、流山の町並ができはじめたのは17世紀の中頃ではなかろうか。単なる妄想。根拠なし。
良質の米の集散地、名水として知られる江戸川の水、そういえば、葛西の旧江戸川沿いの熊野神社の前あたりは「おくまんだし」と呼ばれる名水で知られていたようであるが、それはともあれ、江戸の頃、良質の米と水をもとに酒の醸造からはじまり、みりんで栄えた流山の町は、明治の御一新になり葛飾県の県庁が置かれるほどになっていた。葛飾県庁はもともとは東京の薬研堀に置かれていたようだが、明治2年(1869)には田中藩が房州長尾に国替えとなり、流山にあった下屋敷が空いたため、この地に県庁が移された。
その後明治4年(1871)の廃藩置県により房総30余の県は木更津県、印旛県、新治県の3県に統合され、この地は印旛県となり県庁は行徳におかれるも、明治5年(1872)には県庁所在地となった佐倉の庁舎建設が間に合わず、明治6年(1873)に印旛県と木更津県が合併し千葉に県庁が移されるまでは、この流山が印旛県の県庁所在地となった。今は静かな街並みではあるが、明治の頃は、この流山は商家が酒造蔵やみりんの醸造蔵が建ち並び、下総の中心地ではあったのだろう。
因みに、田中藩は先日の利根運河散歩のときにメモしたように、元和元年(1616)、本多正重がこの下総の地を拝領したのがはじまり。本多正重は家康の重臣・本多正信の弟。家康の家臣であったが、一時期出奔し、滝川一益、前田利家、蒲生氏郷などに仕えるも、結局は徳川家に帰参。関ヶ原の合戦、大阪の陣で秀忠をよく支え、その功もあって、この相馬・下総の地を拝領した。その後、本多氏は上州沼田城2万石、享保6年(1722には)駿河国の田中城(静岡県藤枝市)へ田中藩4万石として転封されるも、この下総の地は上知(返上)されることなく、田中藩船戸村として、本多氏は代々250年の長きにわたり、この地で善政を施した、とのことである。
大杉神社
博物館を離れ、県道5号・流山線を北に進み、文化会館前交差点を越えるとほどなく道の西側、住宅に囲まれたところに大杉神社があった。如何にも、あっさりとしたお宮さま。大杉神社に最初に出合ったのは江戸川と中川に挟まれた江戸川区大杉にある大杉神社である。その後、川越から新河岸川を下る途中、富士見市の百目木(どめき)河岸の先でも出合った。
大杉神社の本社は茨城県稲敷市。その昔は霞ヶ浦、利根川下流域、印旛沼、手賀沼などを内包した常総内海に突き出た台地上に神木である杉の大木があり、その大木は舟運の目印でもあったようであり、ために、海上交易や船を水難から護るという言い伝えから、船頭・船問屋に信仰された、という。この地の大杉神社はこの辺りの加村の産土神。加村河岸など、江戸川の船運の安全を祈る社ではあったのだろう。
大杉神社のある加村って、全国でも珍しい一音の面白い地名。チェックすると、その由来は、桑原郷が桑村となり、加村となった、とか、クワの「ク」は「崩れ」で「ハ」は端。崩れた端、から、とか、川が転化したとか、船荷を架したことに由来するとか、例によって諸説あり、定まることなし。
流山広小路
大杉神社を離れ、流山広小路へ。広小路の手前に立派な蔵をもつ老舗の呉服屋「ましや」がある。元々醸造業であったが、安政6年(1859)に呉服屋となり、「増屋」と名乗る。「ましや」となったのは戦後のこと。流山広小路って、上野広小路ではないけれど、江戸の頃の地名だろうと思っていたのあが、実際は、昭和27,8年頃、「ましや」のご主人の命名、とのことである。
広小路は田中藩加村と天領であった流山の境。ここから南は流山の根郷となる。根郷は本郷とか本田と同じく集落のはじまりの地といったもの。現在本通り(表通り)は県道に移ってはいるが、元々の本通りである旧道を古い街並みを眺めながら南に進む。
旧道
旧道こと、もとの本通り(表通り)は江戸川が長い年月をかけて築いた自然堤防の跡と言われる。『みりんの香る街 流山;青木更吉(崙書房)』によると、明治の末までは江戸川には堤防はなく、この本通りが堤防であった、とか。自然堤防上に1mほど高く土を積み上げ、水面より2mほど高い堤防ではあったようではあるが、それで江戸川の洪水を防げるわけもなく、流山はしばしば洪水被害を被ったとのこと。
洪水被害を防ぐべく、大正時代と昭和30年代の二度に渡る江戸川堤防改修工事により、現在の江戸川の堤防ができたわけだが、そうなると自然堤防の盛り土が邪魔になりを、今度は自然堤防を削り道路として整備した、と言う。現在、旧道を歩いても、周囲とそれほどの段差を感じないのは、こういった事情であろう、か。
呉服新川屋
道を進むとほどなく呉服新川屋。広化3年(1846)創業の商家。国の登録有形文化財となっている土蔵造りの店舗(見世蔵)は明治23年(1890)に建築された。ところで、見世蔵って、土蔵の一種ではあるが、通常の倉庫や保管庫といったものではなく、店や住居としても使用している蔵のこと。江戸時代以降、商家の建築様式のひとつになっている。
浅間神社
今上落し
浅間神社を離れ江戸川の堤へと向かう。堤の手前に「今上落し」の水路があった。「今上落し」に最初に出合ったのは利根運河の散歩のとき。野田の野田橋のちょっと南からはじまり、江戸川の一筋東の水田の中を進み、利根運河の下を潜り(今上落悪水路伏越)、流山1丁目で江戸川に注いでいる。利根運河の辺りは水田の中の水路ではあったが、流山では自然の小川といった風情となっている。
「今上落し」は元々、水田の農業用排水路ではあったのだろうが、この流山市街では江戸川から一筋街へ入った舟運の水路の役割をも果たしていたのではないだろうか。実際、昔、「今上落し」は流山3丁目の万上のみりん工場のあたりまで続いていたようであり、江戸川の堤が大正、昭和に渡って築かれた後は、堤一筋街側を流れる「今上落し」を舟運路として活用したのではなかろう、か。舟運路としては重宝した「今上落し」ではあるが、洪水時は江戸川からの逆流が押し寄せ、街が水害に見舞われることになった、と言う。
江戸川堤
「今上落し」が江戸川に注ぐ辺りを堤に上る。江戸川の河川敷が美しい。「今上落し」が江戸川に注ぐ水門のところに「今上落常夜灯」がひっそり佇む。行徳の河岸にあった常夜灯に比べ、まことに小ぶりな石塔であり、実際に使われたようには思えない。思うに記念碑といったものとして造られたものではなかろう、か。石塔の建立年をチェックしておけば、と今になって思う、のみ。
既にメモしたように、この江戸川の堤は大正と昭和の2度に渡って改修工事が行われた。第一回は大正3年。底幅も高さも現在の半分ほどであった、と言う。二度目は昭和30年代。キャサリン台風の被害がきっかけで大規模改修工事が実施された。底幅も拡げられ、根郷の南部と宿では表通りが堤防にかかることになり、それがきっかけで表通りが現在の県道に移り、元々の本通りが旧道となった、とか(『みりんの香る街 流山;青木更吉(崙書房)』)。それはともあれ、人工の堤防ができるまでは流山広小路から南に下る旧道が自然堤防であり、土積みをおきない川面より2mほどは高かったようではあるが、その程度で洪水を防げるはずもなく、水害に悩まされ続けた地域も堤防の完成によって、被害が大幅に改善された、とは既にメモした通り。
流山の水運華やかなりし頃は、田中藩の御用河岸・加村河岸、幕府天領の流山河岸、加村河岸の北には輪河岸(三輪野河岸)、また、みりん醸造・秋元家の天晴河岸、堀切家の万上河岸など、利根運河を往復する蒸気船・通運丸の蒸気宿などで賑わった川辺は今は昔の静かな川面が広がるのみである。ちなみに、流山から行徳までは4時間、酒問屋の集まる日本橋小網街へは朝6時に出航すれば夕方には着いた、とか(『みりんの香る街 流山;青木更吉(崙書房)』)。
矢河原の渡し跡
「今上落し常夜灯」から堤を少し北にすすむと「矢河原の渡し跡」の標識。「やっからの渡し」とも「加村の渡し」とも呼ばれ、昭和10年、下流に流山橋ができた後も、昭和35年頃まで続いた、という。
この渡しは、流山に陣を敷いた近藤勇が、官軍に降順し越谷へと流山を後にした地として知られる。諸説あるも、一説では、慶応4年(1868)4月3日未明、東山道鎮撫総督府副参事である薩摩藩士・有馬藤太は威力偵察により新撰組の流山駐屯を知り、有馬率いる官軍の一隊が新撰組を包囲。突然の官軍の出現に驚いた新撰組は銃を放つも官軍は応戦せず。そこに、大久保大和と名乗る近藤勇が出頭し、下総鎮撫隊として治安維持を図る幕軍である旨を伝える。
有馬は、官軍参謀のいる越谷への同道を求めると、大久保こと近藤は出立準備のため、しばしの猶予を求める。同日午後3時頃には官軍主力が矢河原の渡しの北にある、羽口の渡しを経て流山に着陣。夕刻には出頭の遅れにしびれを切らした有馬は本陣のある長岡屋に乗り込み、早々の出立を求めたと、言う。思うに徹底抗戦派の土方との意見の相違があった、とか、否、切腹を図る近藤を土方が説得した、とか、幕府治安維持部隊との主張が偽りで新撰組局長であることは官軍の知るところであり出頭は危険である、といった意見噴出で出頭に時間がかかった、とも。とは言うものの、官軍も幕軍もその動向はあれこれ諸説あり、はっきりしたことはわからない。ともあれ、午後10時頃(これも8時頃との説もある)には矢河原の渡しを越えて、越谷に出向いた。結局は近藤勇であることが官軍の知るところとなり、4月25日、板橋で斬首の刑となった。JR板橋駅前で近藤勇の供養塔があったが、これでやっと流山から板橋への襷が繋がった。
常与寺
江戸川堤を離れ、旧道に戻る。先ほど訪れた浅間神社の南に常与寺がある。鎌倉時代創建の日蓮宗寺院とのこと。とはいうものお、旧市街にはこのお寺さま以外に鎌倉といった古い創建の寺社はなく、創建年代の隔たりが300年程もあるということで、鎌倉創建に少々違和感がある、といった説もある(『みりんの香る街 流山;青木更吉(崙書房)』)。
境内には「千葉師範学校発祥の地」の碑。明治5年(1872)、県内最初の「流山学校(小学校)」と教員養成のための「印旛官員共立学舎(後の千葉師範学校=千葉大学)が設置されたとのこと。共立学舎は明治6年、印旛・木更津県の合併により千葉市に移った。
閻魔堂
常与寺の一筋南の通りに閻魔堂。閻魔堂と言っても、閻魔堂らしき祠があるわけでもなく、ごくありふれた民家と見まがう家が現在の閻魔堂のよう。安永5年(1776)の作との閻魔様はその民家の居間の奥といったところに安置されていたようだ。ちょっと勇気を出して拝観しておけばよかった。
閻魔堂には、江戸時代の義賊で天保六歌仙のひとり、金子市之丞の墓がある。金持ちから盗んだ金を貧しい人に分け与えた、といった話が伝わる。とはいうものの、この義賊、記録によれば「流山無宿 市蔵かねいち事盗賊悪党につき大阪にて召し捕られ、今日小塚原へ引き回し獄門にかかり候由」、とある。悪党と呼ばれ、義賊のかけらも感じられない。『みりんの香る街 流山;青木更吉(崙書房)』によれば、盗賊悪党の流山無宿である市蔵かねいちが、義賊に変わっていったのは講談や歌舞伎の影響である、とのこと。講談「天保六花撰」において、河内山宗春、片岡直次郎、暗闇の丑松、とともに流山醸造問屋の倅・金子市之蔵、花魁の三千歳として登場し、また、明治14年には歌舞伎「天衣紛上野初花」と言った演目ともなっている。かくのごときプロセスをへて、単なる盗賊悪党が義賊へと「昇化」されていったとのことである。
新撰組流山本陣・近藤勇陣屋跡
閻魔堂のある細路を先に進むと道脇の蔵の前に「誠」の旗印。慶応4年(1868)4月、新撰組が本陣とした醸造家「鴻池」(永岡三郎兵衛)の跡地である。慶応4年(1868)3月6日、甲州勝沼で敗戦の後、新撰組を主力とする150名の甲州鎮撫隊は江戸へ敗走。3月13日の夜、大久保大和(近藤勇)以下48名が浅草から五兵衛新田(足立区綾瀬)に、2日後には内藤隼人(土方歳三)が率いる50名も到着。幕府天領であった五兵衛新田(足立区綾瀬)で隊士を増強し、慶応4年(1868)4月1日の深夜、200名が流山を拠点にすべく陣を移し、ここ醸造家「鴻池」(永岡三郎兵衛)の屋敷を本陣に、光明院、流山寺などに隊員を分宿させた、と伝わる。流山に着陣の目的は、加村の田中藩の陣屋を奪うとか、天領であり調練に便利であったとか、あれこと。根拠はないが、江戸川を前にすることにより安心感もあったのだろう、か。実際、4月11日には大鳥圭介の率いる幕軍2500名が江戸川を前面に配した市川に布陣している。
一方官軍の動きであるが、諸説あるも、3日未明には官軍の一隊、午後には官軍主力も流山に着陣。羽口の渡し(三輪野の渡し)を越えて、流山北方から進出。広小路で三手に分かれ、一隊は本通りを進み光明院や流山寺に対峙しながら新撰組本陣を窺う。また、一隊は浅間神社に進出し、錦の御旗を立てる。ここが官軍本陣といったところだろうか。残る一隊は加村台地(市立博物館のある台地)に進出し大砲を備えた、と。
合戦の模様は詳しくは分からない。分からないが、このような両軍があまりに接近した陣立てで激しい合戦が行われたようには思えない。思うに、幕府治安部隊として、不逞の徒から町の治安を護る、といったスタンスを保つ隊員200強の新撰組と、それを不審に思いながらも今ひとつ新撰組との確信のない800名弱の官軍が様子眺めの睨み合いをしていたのだろう、か。不意をうたれた新撰組が大敗し降参したとか、加村から大砲をうったのは新撰組であるとか、諸説あり流山の両軍の合戦模様はよくわからない。合戦の様子はあれこれ不明ではあるが、「流山宿内の者は大人も子どももみさかいなく立ちのき、近郷や近村へ逃げ去り、近在の者までが皆あわて騒ぎ、共々に難渋したのである」と住民は多いに迷惑したようである。
流山の後の近藤勇は既にメモしたとおりであるが、近藤と別れた副長の土方は、旧幕府軍と合流し、鴻之台(市川市国府台)で大鳥圭介軍に合流し、小金宿(松戸市北小金)などを経て、宇都宮、会津と転戦し、函館で戦死。奥州道中などの主要路は、既に新政府軍が押さえていたため、布佐(我孫子市)から利根川を船で下り、銚子から船を乗り換え、潮来から陸路で水戸街道へ抜けるという、つらい移動であった、とか。
見世蔵
新撰組本陣跡から本通り(現在の旧道)に戻り、南へと進む。と、ほどなく万華鏡ギャラリー見世蔵。明治22年(1890)に建築された「寺田園茶舗」跡であり、現在はコミュニティスポットになっているほか、万華鏡作家である中里保子さんの作品を展示している。見世蔵って、土蔵の一種ではあるが、通常の倉庫や保管庫といったものではなく、店や住居としても使用している蔵のこと。江戸時代以降、商家の建築様式のひとつになっている、とは既にメモしたとおり。
流山キッコーマン(株)・万上みりん発祥地
道を進むと流山キッコーマン(株)の工場がある。ここが流山で「天晴」ブランドとともに名高い「万上」ブランドのみりん発祥の地である。創業は明和3年(1766)、埼玉の三郷からこの地に移ってきた堀切家・相模屋が酒の醸造をはじめたことに遡る。
18世紀後半にはミリンの製造をはじめ、また、19世紀の前半になって流山みりんの持ち味ともなった、白みりんの製造をはじめることになる。もち米と米糀によってつくられるみりんは褐色であったが、それに焼酎をくわえることにより白くなったみりんは江戸の人々に好評で、上方からの褐色のみりんを駆逐した。
現在は調味料として使われるみりんであるが、みりんは古来より甘い酒として愛用されていた、とか。「その味甘く、下戸および婦女好んでこれを飲む」、とある。調味料として使われるようになるのは明治の後半、本格的には昭和になってから、とのことである。
万上の由来は宮中に献上の折り、「関東の 誉れはこれぞ一力で 上なきみりん 醸すさがみや」と詠われたことによる、と。ら「一力」を「万」の字に代え、「上なき」の「上」をとって「万上」とした、と言う(『みりんの香る街 流山;青木更吉(崙書房)』)。
堀切家の相模屋は1917年には万上味醂株式会社、1925年には野田醤油醸造株式会社、1964年にはキッコーマン醤油株式会社、1980年にはキッコーマン株式会社、2006年にはキッコーマン殻分社化され、流山キッコーマン株式会社として現在もみりん製造を行っている。
長流寺
江戸初期の浄土宗寺院。境内の両側に梅の木が並び、銀杏の大木がそびえている。新撰組隊士も分宿した、と言う。
一茶双樹記念館
先に進むと一茶双樹記念館。万上の堀切家とともに、みりんで財を成した秋元本家五代目三佐衛門(俳号「双樹」)と俳人小林一茶との交誼を記念したもの。安政年間(19世紀中頃)の家屋を解体修理し往時の主庭と商家を再現している。秋元家も堀切家と同じく埼玉の出身。八潮からこの地に移り、酒造りをはじめる。秋元家がみりんや白みりんの製造をはじめたのは万上の堀切家と同じ頃とのこと。「天晴」ブランドとして好評を博した。
この秋元本家五代目当主三佐衛門は俳号「双樹」をもつ俳人でもあり、一茶のよき理解者であった、とか。ために一茶は双樹の元に足繁く通った、と。その数五十四度に及ぶ、と言う。この地で多くの句を詠んでいるが、いつだったか我孫子を歩いた時に、市役所近くに一茶の「名月や江戸の奴らが何知って」が句碑として建っていた。そのときは流山の秋元家との関係も知らず、ひたすら、この地で見る月はさぞや美しかったのだろうな、などと思っただけではあったのだが、この句も流山へと道すがら、下総を彷徨ったときに詠んだ歌なのではあろう。
もっとも、一茶の句集にはこの句の記録がなく、誰の作か不明、との説もある。それはともあれ、この記念館にも「夕月や流れ残りのきりぎりす」との句碑が残る(平成7年に建てられたもの)。江戸川の洪水の後の風情を詠ったもの、と言う。
秋元家の天晴みりんは現在その製造はおこなっていない。大正11年秋元合資会社、1940年、帝国酒造に売却、1948年には東邦酒造に売却、1965年には三楽オーシャンに急襲合併。1985年三楽株式会社に社名変更、平成2年(1990年)にはメルシャン株式会社に社名変更となるも、流山での操業はすべて停止し、工場跡地はケーズデンキとファッションセンターしまむらとなっている。
ところで、流山でどうしてみりんの醸造が栄えたのだろう。あれこれチェックするに、流山近辺で生産されていた名産のもち米、おいしい江戸川の水、江戸への船運もさることながら、醸造元である堀切家と秋元家の切磋琢磨に負うところ大、とのこと。販売促進にもつとめ、文政7年、8年(1824,25年)の頃には江戸での人気をもとに、全国に広がっている。また、1873年のオーストリアの万国博覧会には両社ともに出展し有功賞牌授与を受賞している。かくのごとき努力の賜ではあろう。
杜のアトリエ黎明
一茶双樹記念館の斜め前に鬱蒼と茂る屋敷林とお屋敷。「杜のアトリエ黎明」とある。秋元家の分家である秋元平三こと「秋平」、とも「見世の家」とも呼ばれたお屋敷跡。分家「秋平」の五世平八は俳号を「酒丁」と称し、菱田春草の後援者として知られるが、それ以外にも文人墨客との交誼も広く、岡倉天心や横山大観もこのお屋敷を訪れたとのこと。折しも、「酒丁と赤城神社」といった企画展が開かれており、そこにはこのお屋敷を訪れた、皇族や芸術家が紹介されており、中にはお散歩随筆でお気に入りの田山花袋の名もあった。
「アトリエ黎明」の由来は、画家であった秋元松子さんと、その夫で同じく画家であった笹岡了一氏が戦後の昭和32年、このお屋敷にアトリエを建て柳亮の主催する絵画研究会「黎明会」活動を行っていたことによる。その後、この屋敷を寄贈するにあたり、「アトリエ黎明」の名を残し、創作・文化活動の場として新たに生まれ変わった、とのことである。
光明院
「杜のアトリエ黎明」を離れ先に進むと光明院。真言宗寺院であり、赤城神社の別当寺。幕末には新撰組が分宿した。秋元双樹の眠るお寺様でもあり、境内に双樹と一茶の連句の碑や双樹の句碑が残る。
「豆引きや跡は月夜に任す也」と双樹が詠えば、それに対して「烟らぬ家もうそ寒くして」と一茶が返す。文化元年(1804)の連句である。「豆の引き抜き作業も終わり、後はお月さんにお任せしよう。夕餉の支度の煙も見えたり見えなかったりではあるが、秋の夕暮れは少し寒い」といった意味だろう。この文化元年(1804)は流山が洪水被害に見舞われた年でもある、先ほど一茶双樹記念館で見た「夕月や流れ残りのきりぎりす」は、こと年の句であろう、か。また、本道の前庭に双樹の句碑「庭掃てそして昼寝と時鳥」。ゆったりとしたお大尽のゆとりの感じられる句と評される。
境内を歩いていると、木に案内があり、「タラヨー;多羅葉」、別名「ハガキの木」とのこと。この木の葉っぱの裏を堅い物でひっかくと、30秒ほどで文字が浮かび上がる、とか。「葉書」の語源とも言われる。古代インドではこの木と似た貝多羅(バイタラ)樹に経文を書き写し、法隆寺には「貝多羅般若心経写本(八世紀後半)」が伝わっている、とのことである。
赤城神社
神社にお詣りし、石段を下ると、右側に一茶の句碑がある。「越後節 蔵にきこえて秋の雨」。酒の杜氏が謳うのだろうか、一茶が故郷を懐かしむ。参道を本通り・旧道へと向かうと、正面山門に巨大な注連縄。市の無形文化財とのことである。
流山寺
丹後の渡し跡へと江戸川に向かう途中に流山寺。秋元、相模屋、紙喜、鴻池とともに流山を代表する醸造家「紙平」の浅見家が再興した。幕末には新撰組の隊士が分宿したお寺でもある。境内には第二次世界大戦のとき、米軍艦載機の機銃掃射跡のある句碑が残る
丹後の渡し跡
流山寺脇を抜け、江戸川の堤に出ると丹後の渡し跡。八木野の渡しとも呼ばれるこの渡しは、慶応4年(1868)4月1日、新撰組が五兵衛新田(足立区綾瀬)を離れ、この流山に来たときに利用したとも伝わる。
丹後の渡しとも、八木野の渡しとも呼ばれる所以は、中世の風早荘八木郷(八木村と流山村の一帯。坂川の上流部には八木小学校といった名前が残る)の支配者・井原丹後が二郷半領(三郷市早稲田辺り)を開拓するときに渡った、から。上でメモしたように、建久8年(1197)には矢木(八木)の地名が文献に残るので、流山一帯では古くから開けたところであったのだろう。丹後の渡しは昭和10年、流山橋ができるとともに廃止された。
秋元醸造跡地
江戸川の堤を離れ、流山糧秣廠跡へと向かう。途中、光明院と一茶双樹記念館脇の道を進むと右手にケーズデンキとファッションセンターしまむらが見える。ここは秋元の工場、と言うか、メルシャンの工場跡地である。
流山糧秣廠跡
道を進み県道に出ると、正面にイトーヨーカドーなどの大型ショッピングセンターが見える。このショッピングセンターやその南の流山南高等学校を含む一帯は、大正14年(1925)から昭和20年(1945)にかけて陸軍の流山糧秣廠があったところ。糧秣廠とは兵員や軍馬の食糧を保管、供給する軍の施設ではあるが、この施設は馬糧すなわち軍馬の糧秣を保管、供給することを任務とし、近衛第一師団隷下の各部隊や宮内省警視庁に供給した、と言う。
もとは陸軍馬糧倉庫として東京本所錦糸堀にあったものが、周辺に家屋が建ち、火災の危険もある、という状況となり1922年(大正11年)に本所秣倉庫移転が起案。移転先として流山が選ばれた。流山が選ばれた理由は千葉・茨城という干草原料の生産地をひかえていたこと、また、江戸川の水運も利用できるという交通の利便性、そして比較的東京に近いという地理的条件もあった。流山糧秣廠移転に先立って、流山鉄道が国鉄と繋ぐべく軌道を広げ、引き込み線などを用意したといった鉄路については先にメモした通りである。開庁は1925年(大正14年)である。
戦後北側はキッコーマンの倉庫群、南側は住宅や学校敷地をへて、現在のショッピングコンプレックスとなっている。道路脇にはキッコーマンが立てた「流山糧秣廠跡」の碑と、その裏手には如何にも軍馬の糧秣廠の名残を伝える「千草神社」が佇む<。
流鉄平和台駅
日も傾いてきた。イトーヨーカドー脇の道を進み流鉄平和台駅に向かい、本日の散歩を終える。次回は流山から北へと向かう事にし、一路家路へと。 酒の醸造からはじまった流山のみりんではあるが、酒の醸造は明治末で終えている。また、万上の焼酎も平成8年には流山でのその歴史を閉じた。現在では江戸川沿いの流山キッコーマンだけがみりん醸造の伝統を今に伝えていた。
流山には銭湯が無かった、という。みりんを製造する過程でできる熱湯を社員用の浴場に使い、社員だけでなく町の人達も利用したり、熱湯そのものを無料で給湯したから、とのことである(『みりんの香る街 流山;青木更吉(崙書房)』)。