2012年1月アーカイブ

鈴鹿峠越えも二日目。前日は亀山宿から鈴鹿峠を越えて土山宿まで歩いた。本日は宿泊地である土山宿からスタートし、水口宿まで辿る。水口宿は関ヶ原の合戦の時、島津主従の集結地として、合戦前より手配されていた場所、と言う。東西両軍の激戦の中において、ひとり粛として動かず、西軍の敗軍による合戦終了後、東軍の真っ直中、しかも家康本陣直前まで進み、そこで南進し、堂々たる退却戦を演じた。東軍の追撃戦により伊勢街道を下ったもの、鈴鹿の山系を越えて近江路を進んだものなど、四散した主従が辿り着いた水口が如何なる地形で、どのような往還道が集まっていたのか、実際に目にしたいと思っていた。
今回、鈴鹿峠の「盗賊除け」、「露払い」として鈴鹿の峠越えに加わったのだが、水口宿がコースにあるとは思ってもいなかったので、思わぬプレゼント。これもセレンディピティ(偶然に出合った幸運)と、土山宿を出立し水口宿へと向かうことにする。


 本日のルート;土山支所前交差点>大黒屋公園>大黒橋>「御代参街道起点」の石碑>松尾(の)川・野洲川>垂水斎王頓宮跡>土山町前野>地安寺>土山町頓宮>土山町市場の一里塚>大日川堀割橋>土山町大野>国道1号・大野西交差点>水口町今郷・今在家一里塚>岩神社>東見付け>水口町元町・水口宿本陣跡>高札場跡>問屋場跡>からくり時計>近江鉄道と交差>水口城址>近江鉄道水口城南駅

土山支所前交差点_午前7時57分
国道1号脇にある宿のすぐ傍の土山支所前交差点の向こうに巨大な石灯籠。平成万人燈とのこと。鈴鹿峠にあった万人燈の平成版、と言ったものだろう。平成万人燈を見やりながら、交差点を南に、一の松通りを進み、昨日歩いてきた旧東海道筋へと向かう。

大黒屋公園_午前8時3分
一の松通りと旧東海道との交差する角に大黒屋公園がある。この公園は大黒屋本陣跡、問屋場跡、そして高札場跡でもある。土山町教育委員会の案内をそれぞれメモする。

大黒屋本陣;「土山宿の本陣は、土山氏文書の「本陣職之事」によって、甲賀武士土山鹿之助の末裔土山氏と土山宿の豪商大黒屋立岡氏の両氏が勤めていたことがわかる。土山本陣は寛永十一年(1634年)、三代将軍家光が上洛の際設けたのがそのはじまりであるが、参勤交代制の施行以来諸大名の休泊者が増加し、土山本陣のみでは収容しきれなくなり、土山宿の豪商大黒屋立岡氏に控本陣が指定された。
大黒屋本陣の設立年代のついては、はっきりと判らないが、江戸中期以降、旅籠屋として繁盛した大黒屋が土山本陣の補佐宿となっている。古地図によると、当本陣に規模は、土山本陣のように、門玄関・大広間・上段間をはじめ多数の間を具備し、宿場に壮観を与えるほどの広大な建築であったことが想像される」、と。

高札場跡 :「高札は、室町時代より近世になってもっとも普及した制令掲示であり、一般民衆ことに百姓・町人らに発した掟書・禁令・法書などを板札あるいは紙に記して掲げるもので、その場所は高札場といわれ、一般に崇敬すべき除地として区画されていた。土山宿の高札場は、問屋場や本陣などが設けられた御役町の東西二ヶ所にあって、この内の一ヶ所が北土山の吉川にあったと言われている。東の高札場は、田村川橋の西街道の南側にあったと記録されている。

高札は桁行5メートル・横巾1.8メートル、高さ3メートルの構築物であり、高札場は五街道の宿場とか、村の庄屋宅前など民衆の注目をひきやすいと ころに制札を立て、法令の周知を期したが、明治七年(1874年)廃止された」、とあった。

公園内には「明治天皇聖跡」の石碑や「高桑闌更(たかくわらんこう)の句碑」が残る。高桑闌更は江戸中期の俳人。与謝野蕪村とともに、俳諧中興に貢献した。「土山や 唄にもうたふ はつしぐれ」と詠む。
この大黒屋公園が、本日の旧東海道を水口宿へと向かう散歩のスタート地点であるが、昨日田村神社から道の駅・あいの土山での休憩の跡、宿まで辿った土山宿のメモをまとめておく。

土山宿
この土山の地は、平安期に鈴鹿峠を越える伊勢への道が整備されて以来、近江と伊勢を結ぶ交通の要衝であった。室町時代の後期、土山の地が荷駄の中継地として、土山の馬方に運搬を依頼する記録が残る。
江戸になり、慶長6年(1601)、五街道が整備され、この土山も東海道の宿となり、当初は伝馬三十六疋であったものが、街道の賑わいに伴い、伝馬100疋、人足100人まで増えた、とのことである。

土山宿は日本橋から数えて東海道49番目の宿。天保14年(1843)の記録によれば、本陣2,脇本陣1,家数351軒、人口1505人、旅籠44軒とある。また、この地は幕府の天領であり、代官の支配を受けていた。 


「上島鬼貫(おにつら)」の句碑
道のえき・あいの土山から昨日辿った土山宿のメモを始める。道のえき・あいの土山を離れると、沿道には茶畑が広がり、やがて土山宿の街並みに入る。昔の屋号の書かれた木札が掛かっている民家を眺めながら進むと「上島鬼貫(おにつら)」の句碑『吹けばふけ 櫛を買いたり 秋の風』があった。
案内によれば、「上島鬼貫は、大阪の伊丹で生まれた俳人で、東の芭蕉、西に鬼貫とも言われ、独自の俳諧の境地を拓いた人である。この俳句は、上島鬼貫が、貞享3年(1686年)の秋に、東海道の旅の途中、土山に寄り、お六櫛を買い求め、鈴鹿の山へ向う時に詠んだ句である」、と。

お六櫛とは、土山の名物であった、とか。その昔、お伊勢参りの旅人がこの土山宿で急病に。看病のお礼にと、櫛職人であったその旅人が、腕に覚えの「お六櫛」の作り方を教え、宿を後にした。お六とは、信州でその櫛を考案した女性の名前。この土山・生ま里野には十数軒の「お六櫛」の店が並んでいた、とのこと。そう言えば、道すがら「お六櫛商 三日月屋」との木札の掛かった民家を数軒見かけたように思う。





くるみ橋
しばらく歩き、右手の民家前に建つ「東海道一里塚跡」の石柱をちらりと見やり、さらに5分程度進むと白壁の欄干の橋。この来見川に架かる「くるみ橋」には、宿場の姿や「土山茶もみ唄」が描かれていた。

白川神社
橋を渡ると街道の南側、少し離れたところに鳥居が見える。白川神社の鳥居である。白川神社って、関東ではあまり見かけない神社。少々気になりながらも、信心よりも先を急ぐ同僚諸氏の「勢い」に負けパスするも、メモの段になり、やはり気になりチェックする。
この神社、元は牛頭大王社とも、祇園社とも呼ばれていたが、後に白川神社となったもの。白川神社の祭礼が「土山祇園祭花笠神事」と呼ばれる所以である。
いつの頃から白川神社となったのか定かではない。が、「神社」という名称は明治の神仏分離令以降のことであるので、明治以降ではあろう。で、何故「白川」か、ということだが、土山宿の西を流れる田村川(横田川とも野州川とも呼ばれる)に合流する松の尾川が別名、「外の白川」とも呼ばれたことにも関係あるのではないだろう、か。
この川は、京の北にある白川で祓いを済ませた斎宮群行や伊勢勅使が、伊勢への途上の祓所として早くから知られたようである。また、その祓所であった故か、土山の集落が出来た頃は土山荘とも、白川荘とも呼ばれたようである。
かくの如き所以をもって、明治になって、神仏混交の牛頭天王社を神仏分離するときに、その由緒ある「白川」の名前を使ったのではなかろう、か。(『考証 東海道五十三次;綿谷雪(秋田書店)』)。単なる妄想。根拠なし。明治天皇も東京への遷都の途上、この宮に立ち寄られたとのことである。

森鴎外ゆかりの地
街道を進むと左手に『森白仙終焉の地(井筒屋跡)』の案内。その向かいには『森鴎外の泊まった平野屋 』の案内もある。森白仙は鴎外の祖父。津和野藩亀井家の典医として参勤交代の途上、此の地で病に伏しむなしくなった。
平野屋は、高級軍医将官であった鴎外が、祖父の墓参で土山を訪れたときに滞在した旅籠。「墓より寺に還りてこれを境内に移さんことを議す。固道(当時の常明寺住職)許諾す。」乃ち金を借りて明日来り観んことを約して去る。寺を出つるころおほひ天全く晴る。平野屋藤右衛門の家に投宿す。宿舎井筒屋といふもの存ぜりやと問ふに、既に絶えたり。」と『小倉日記 』にある。鴎外が訪れた時には、井筒屋は既になく、荒れ果てた祖父のお墓を建て直した、と。

土山宿問屋宅跡
「二階家脇本陣跡」や「東海道伝馬館」を見やり先に進むと、ほどなく土山宿問屋宅跡。案内には「土山宿問屋宅跡;近世の宿場で、人馬の継立や公用旅行者の休泊施設の差配などの宿駅業務を行うのが宿役人である。問屋はその管理運営を取りしきった宿役人の責任者のことで、宿に1名から数名程度おり庄屋などを兼務するものもあった。宿役人には、問屋のほかに年寄・帳付・馬指・人足指などがあり問屋場で業務を行っていた。土山宿は、東海道をはさんで北土山村、南土山村の二村が並立する二つの行政組織が存在した。土山宿の問屋は、この両村をまとめて宿駅業務を運営していく重要な役割を果たした」とある。

本陣跡
問屋宅跡のすぐそばに「本陣跡」。案内をメモする:「土山宿は、東海道の起点である江戸日本橋より、百六里三十二町、終点京都三条大橋まで十五里十七町余の位置にある。土山宿本陣は、寛永十一年(1634)、三代将軍徳川家光が上洛の際設けられた。土山氏文書の「本陣職之事」によってわかるように、甲賀武士土山鹿之助の末裔土山喜左衛門を初代として之を勤めた。本陣は当時の大名、旗本、公家、勅使等が宿泊したもので、屋内には現在でも当時使用されていたものが数多く保存されており、宿帳から多くの諸大名が宿泊したことを知ることができる。
明治時代になると、皇室の東京・京都間の往来も頻繁となり、土山宿にご宿泊されることもしばしばであった。なかでも明治元年九月、天皇行幸の際には、この本陣で誕生日を迎えられて、第一回天長節が行われ、土山の住民に対し、神酒・鯣が下賜され、今なお土山の誇りとして語りつがれている。本陣は、明治維新で大名の保護を失い、明治三年(1870)宿駅制度の廃止に伴いなくなった」、と。

本陣横には明治天皇聖蹟の石碑があり、その傍らには大正時代の仏教哲学者の井上圓了(えんりょう)博士の漢詩碑が並ぶ。大正3年に博士が訪れた時、明治天皇がここに泊まられた明治元年九月二十二日が、偶然即位後最初の天皇の誕生日であり、それを記念し住民全戸へ酒・肴を御下賜あった事に感激し、詠まれたもの、と。
『鈴鹿山の西に、古よりの駅亭あり。 秋風の一夜、鳳輿(ほうよ)停る。 維新の正に是、天長節なり。 恩賜の酒肴を今賀(いわい)に当てる; 土山駅先帝行在所即吟 井上圓了道人』と言った内容、とのこと。
井上圓了博士は中野散歩の時、哲学堂で出合った。哲学堂は、もともとは学校用地として購入したものだが、それが中止となり哲学堂77と称する建物が妙正寺川に沿った園内に点在していた。

「林羅山の漢詩の石碑」
少し歩くと、土山公民館。もとは土山宿の旅籠「山田屋跡」。そこには「林羅山の漢詩の石碑」が置かれている。『 行李(あんり)、東西、久しく旅居す。風光、日夜、郷閭(きょうりょ)を憶ふ。 梅花に馬を繋ぐ、土山の上。 知んぬ是崔嵬(さいかい)か、知んぬ是岨(しょ)か』。「あちこち旅をし、いろいろな景色を見る度に故郷のことを思い起こす。今、梅の花に馬をつないでいるのは土山というところ。土山とは、土の山に石があるのか、石の山に土が覆っているのか、はてさて」と言った意味、と。林羅山は江戸前期の儒学者である。


 


本日の散歩スタート_午前8時分
林羅山の漢詩の石碑を見ながら進むと、ほどなく本日の散歩のスタート地点である大黒屋公園である。ここまでが昨日の土山宿散歩のメモ。ここからが、本日の散歩メモとなる。

散歩のメモをはじめるに際し、ちょっと気になることを思い出した。馬子唄で「坂は照る照る 鈴鹿は曇る あいの土山 雨が降る」とある。そもそも、このあいの土山って、どういう意味だろう。てっきり間の宿、つまりは、正式な宿と宿の間に難路があるときなどに設けられる間の宿との説だと思っていたのだが、鈴鹿峠をはさみ、坂(坂下宿)と相対する土山(土山宿)という説、または、北伊勢地方の方言で「あいのう」が「まもなく」という意味であり「まもなく土山は雨が降る」という意味、また、坂は松の尾川(外の白河)西岸の松尾坂であり、鈴鹿峠との間の土山という説など、あれこれ。定説はないようである(『考証 東海道五十三次;綿谷雪(秋田書店)』。
因みに、坂は鈴鹿峠の伊勢側、坂下宿と唱える説もある。鈴鹿峠の南は晴れていても、鈴鹿峠は曇っており、土山の宿は雨。これは此の地方の典型的な冬型の天候との、こと。真偽の程、定かならず。

大黒橋_午前8時6分
70m進むと橋がある。大黒川に架かるこの大黒川橋も、先のくるみ橋戸同じく白い土塀風になっていた。この橋を渡ったあたりに土山陣屋があった、とか。幕府の直轄領であった土山宿は代官支配の地であり、その役所である陣屋は東西46m、南北55mの屋敷であった。陣屋跡の石碑は見逃した。
ちなみに、これもパスしたお寺さまではあるが、橋を渡って左手に進んだところに常明寺がある。既にメモした鴎外の祖父の眠るこのお寺様は和銅年間の建立との古刹。臨済宗東福寺派のこのお寺さまには、奈良時代の般若波羅蜜多経が残る、とか。長屋王願経とも呼ばれ国宝に指定されている。芭蕉もこのお寺さまを訪れて詠んだ「さみだれに 鳰(にお)のうき巣を 見にゆかむ」(「鳰」はカイツブリの古名)の句碑がある、と言う。

「御代参街道起点」の石碑_午前8時12分
道を進むとほどなく南土山交差点で国道1号に合流。その角の三角地に石燈篭のある小庭園があり、土山宿の案内板があった。国道を50mほど先に進むと「御代参街道起点」と書かれた石碑がある。
御代参街道は「多賀道」とも呼ばれたが、江戸の頃、京の公家が天皇の名代として彦根の近くにある多賀大社への参拝に往来したり、公家の名代の使者が往来した街道であるが故に「御代参道」と呼ばれるようになった。道筋は古くから通っていたようだが、江戸初期、春日の局が伊勢参詣の後、多賀大社にお参りするため正式に街道として整備された、とか。
「御代参道」の道筋は土山宿と中山道愛知川宿を結ぶ脇往還であり、東海道脇街道とも北国越安土道とも呼ばれていたようだ。土山宿で東海道を離れた道筋は北に笹尾峠を越え、日野、八日市をへて中山道にあたり、多賀に至る。「伊勢へ七度 熊野へ三度 お多賀さんへは月参り」、「お伊勢参らばお多賀へおいやれ お伊勢お多賀の子でござる」 などと謡われているように、朝廷だけでなく庶民の信仰も篤いお社であった。

石碑の近くには古い道標が2つ建っていて、ひとつが「たかのよつぎかんおんみち」、もうひとつには「右 北国たが街道 ひの八まんみち」、とある。「たかのよつぎかんおんみち」とは「高埜世継観音道」。八日市市の東隣の永源寺町高野にある古刹・永源寺の本尊世継観音への道。たが街道は上でメモしたとおり。「八まんみち」とは多賀街道の途中にある近江八幡のことであろう。

松尾(の)川・野洲川_午前8時32分
国道から北に分かれる道を進むも川への道はなく、大きく円を描き再び国道に戻る。国道を進むと白川橋が架あるが、往昔の東海道は白川橋の手前より北に迂回し、外の白川とも、松尾(の)川とも、野洲川とも呼ばれた川筋に架かる松尾橋を渡り、前出の松尾坂を下って現在の国道道筋である東海道に戻ったようである。先ほど歩いた道筋の先に往昔は道が川に向かってあり、橋が架かっていたのだろう。
橋は10月から2月までは木か土の橋、3月から9月までは渡し舟か徒歩で渡った、とのこと。現在は往昔の道筋は残って折らず、逆に白川橋の手前で国道より南に分岐する道筋があったので、そちらを辿る。

垂水斎王頓宮跡_午前8時55分
先に進み橋にモダンなデザインの歌声橋を渡り、国道に沿った街道を進む。歩を進めながらも、国道の北にある垂水斎宮頓所が気になり、先を急ぐ同僚諸氏に、「斎宮頓所に寄ってみませんか?」と、小声で囁く。斎宮頓所?などと訝りながらも、諸氏共に提案を諾とし、県道24号との交差点を右に折れ、国道1号・前野交差点に進み、少し道を戻り、道脇の案内に従い斎宮頓所へと向かう。
斎宮頓所は畑の向こう、こんもりと茂る林の中。アプローチの道筋を少々間違ったらしく、茶畑というか、軽いブッシュを超えて林の中に入る。木の鳥居の傍に「史蹟 垂水頓宮址」と書かれた大きな石柱。そこに滋賀県教育委員会の案内をメモする。
「史跡 垂水斎王頓宮跡 ;ここ垂水の頓宮建立跡地は、平安時代の初期から鎌倉時代の中期頃まで、約三百八十年間、三十一人の斎王が伊勢参行の途上に宿泊された頓宮が建立された所である。
斎王とは、天皇が即位される度毎に、天皇のご名大として、皇祖である天照大神の御神霊のみ杖代をつとめられる皇女・女王の方で、平安時代に新しく伊勢参道がつくられると、この道を斎王群行の形でご通行されることとなった。
京都から伊勢の斎宮まで、当時は五泊六日もかかり、その間、近江の国では勢多・甲賀・垂水の三ヶ所、伊勢の国では鈴鹿・一志の二ヵ所で、それぞれ一泊されて斎宮までいかれたのである。その宿泊された仮の宮を頓宮といい、現在明確に検証されている頓宮跡地は、五ヶ所のうち、ただこの垂水頓宮だけである」と。

林の木々に覆われた境内には、ささやかな社があり、その傍に「斎王垂水頓宮址」の大きな石碑が並んでいる。社の近くの案内板に醍醐天皇の第四皇子重明親王の長女斎王徽子女御の詠んだ「 世にふれば 又も越えけり 鈴鹿山 昔の今に なるにやあるらむ」との和歌が書かれていた。
徽子女御は僅か九歳で斎王として伊勢に下向の途中、この行宮に宿泊。また、日を経て斎王に卜定された娘(村上天皇の第四皇女規子内親王)に母として、再び斎王群行に付き添い、再びこの頓宮に宿泊したときに詠ったものである。

斎王(斎宮)として占いで選ばれた未婚の皇女は京の紫野にある斎院で1年間精進の日々を送り、その後加茂神社に参詣し、京の西嵯峨有栖川にある野々宮で2年間の精進をおこない、この3年の心身精進の日々を終えて、桂川で身を清め伊勢に向かった、とのこと。なお、加茂神社の斎院に仕える宮を斎王、伊勢神宮に仕える宮を斎宮と称し区別することもある、とか。

土山町前野
地図を見るに、頓宮の東を川筋から国道脇のガソリンスタンドあたりへと続く道がある。往昔、松尾橋を越え北に迂回していた昔の東海道の道筋なのだろうか、などと想いを巡らしながら頓宮を後にして国道へと戻る。
茶畑の中を国道に戻ると、国道向かいの角に「伊勢大路線(別名須波道))と刻まれた石碑。鈴鹿峠のところでメモしたように、平安の頃、鈴鹿峠を越えて伊勢に抜ける道を阿須波道と詠んだ。阿須波とは、「足場(足庭)」の意であり、須波の神とは「足踏み立つる所を守る神」ということから、旅立ちを守る神、と言う。阿須波道とは、旅の安全を祈念した名前でもあろう。

国道から旧東海道の道筋まで戻り、西に進む。格子や板が赤茶色に塗られた民家が見られる。紅殻格子の民家は趣があり、なかなか、いい。紅殻はインドのベンガルで算出する酸化鉄を主成分とした赤色の顔料、と聞く。ベンガル>べんがら>紅殻と転化したのではあろう。防腐剤としての効果や、魔除けの役割も果たしたとか、しない、とか。

土山町前野は、もと甲賀郡前野村。明治22年(1889)、今から進む道すがらの集落である大野村、今宿村、徳原村、頓宮村、市場村と合併し大野村に。昭和30年(1955)、近隣の村とともに土山町に合併。さらに、平成16年(2004)、水口町など近隣の町が合併し甲賀市となった。

滝樹神社
少し進むと道の南に鬱蒼とした森がある。道標によると滝樹神社が鎮座するようである。先ほどは斎王頓宮へと寄り道をお願いしたばかりでもあり、今回は同僚諸氏への寄り道提案を躊躇しパス。メモする段になっても、名前が気になりチェックする。

この社、元は、伊勢の滝原宮より滝原大明神を勧請し、瀧大明神と称した、と。神社の由緒によれば、滝原宮に祀られる二神は水門の神とされる。このあたりは、田村川と松の尾川の落ち合うところで、古来より水害が多いため祀られた。その後、この鬱蒼とした森をつくる杉の神木が有り難き故、瀧大明神に「樹」を加え瀧樹大明神とした、と室町の記録にあるようだ。

地安寺_午前9時12分
街道を進むと右側にお寺さま。門前に茶の木と案内がある。案内によると、「林丘寺宮御植栽の茶 ;御水尾法皇(1596年〜1680年)の御影、御位牌安置所建立の宝永年間(1704年〜1710年)に林丘寺光子(普明院)が植栽されたという。
当時、鐘楼門の参道両側は、広き宮ゆかりの茶畑で地安禅寺が管理し、この茶畑で収穫された茶は毎年、正月、五月、十月に鈴渓茶、仁泉茶の銘にて京都音羽御所と、林丘寺宮へ献納されていた。この、宮ゆかりの茶畑は、昭和初期まで栽培されていたが、今は一樹を記念として残すのみとなった。しかし、林丘寺宮への茶の奉献は今も続けられている」、とある。

此の案内を見て、土山茶のはじまりは、この地から、かとも思ったのだが、どうも、そうではなく、南北朝の中頃、先の常明寺の高僧が、京の大徳寺より種をもたらしたのが、土山茶のはじまり、とのことであった。
因みに、光子内親王は父の後水尾院、養母の東福院の寵愛を受け、書画に優れた才能を残した、と。四代将軍家綱との縁談話もあったが、結局は生涯独身で過ごし、後水尾院崩御の二年後には剃髪し、47歳で仏門に入った。

土山町頓宮
道を進むと土山町頓宮の表示。もとの頓宮村ではあろう。頓宮御殿跡といった案内もあった。地名の由来は垂水頓宮から。垂井は垂水より。古来、この辺りを垂水と称した。
地図を見るに、国道の北に東光寺というお寺さまがある。往昔、この東光寺のあたりには頓宮氏の居城があった、とか。甲賀の二十一家とも、五十四家のひとつとも称される頓宮氏だが、出自は不詳。鎌倉期にこのあたりの在地から発生した勢力、とも。南北朝では南朝方に加わり、一時北朝方の攻勢により伊勢に逃れるも、室町にはこの地に地頭として復帰し、山中氏とともの土山を支配した、とのことである。

土山町市場の一里塚
土山町市場に入る。もとの甲賀郡市場村。街道左側に一里塚跡の石柱があった。民家の前に石柱と案内があるだけで、往昔の名残はなにも、ない。一里塚の少し先に藁屋根の民家がある。ここも壁は紅殻で塗られていた。その先には橋の向こうに、ちょっとした松並木が見えてきた。

大日川堀割橋_午前9時32分
松並木がはじまる手前に川があり、そこに大日橋が架かる。橋の手前には「大日川堀割」と刻んだ石柱がある。橋を渡り、松並木に近づくと、「反野畷」の石柱と「大日川堀割橋」の案内。
案内板によると、「大日川(堀切川)堀割 ;往古頓宮山より流れ出る水は谷川を下り、平坦部に達すると自然に流れ広がり、このため一度大雨になると市場村、大野村方面の水害は甚だしかった。大野村は水害を防ぐ手段として、江戸時代の初期より市場村との境に堤を築き、このため、間にはさまった市場村は、洪水時甚大な被害を受けることになった。
元禄十二年(1699年)、市場村は排水路を堀割りし、野洲川に流すことを計画し、領主堀田豊前守に願い出て許可を受け、頓宮村境より、延長504間、川幅4間の排水路工事に着工し、川敷地の提供から市場村民の総賦役により、元禄十六年(1703)に完成した(土山町教育委員会)」とある。

近くに石柱。「従是東淀領」とあった。「ここより東は淀領」ということを示す領界石。淀藩は、廃藩となった伏見藩に替わり、1626年(寛永3年)、山城の国・淀の地に遠州掛川から入封した松平定信の領地。この地は淀藩の飛び地であったのだろう。

花枝神社の鳥居
しばしの松並木の間から野洲川や、その対岸に小高い水口丘陵、そしてそのはるかかなたに信楽の山系が見えてくる。どの山塊が信楽方面か定かではないが、山並みを眺めながら、島津主従の落ち延びた姿を想う。
先に進むと花枝神社の鳥居。地図を見るに、本殿は国道の北。「はなえ」という名前に惹かれるも、少し距離があるのでパス。メモをしながら、「はなえ」の由来が気になりチェックすると、この地に近江坂本の日枝大社八王子社を勧請したとき、坂本の紅染寺の銘木を社傍に移植し花木堂としたことによる、と。紅染寺は伝教大師最澄の父・三津首百枝公の住居跡とも伝わる

土山町大野
松並木が切れた道を先に進むと土山町大野。もとの大野村である。お茶の産地を詠う漢詩の碑などを見やりながら、茶畑の広がる道筋を進む。野洲川沿いに広がる茶畑で生産するお茶は、滋賀県でも有数の生産量を誇る、とか。江戸の頃は東海道を往来する旅人の評判にもなり、明治には海外への輸出も盛んであったようである。
歩を進め、「明治天皇聖蹟」の大きな石碑や「旅籠 小幡屋」の石柱を眺め更に進む。造り酒屋であったのだろうか、大きな酒樽のモニュメントを見やりながら進むと国道1号に合流する。

国道1号・大野西交差点_午前9時59分
歩道橋が架かる国道を横断すると、旧東海道は国道1号の北を国道に沿って進む。歩道橋の辺りを、少し北に寄り道すれば杉の巨木で名高い若王寺があったようだが、訪れることもなく、これも後の祭りである。

農家と民家の混在した旧徳原村の集落を歩く。麦畑であろうか、田園風景を眺めながら歩を進めると、国道との合流の手前に、今宿と刻まれた石碑と常夜燈が建てられ、旧今宿村の名を留める。結構長かった土山町も此の辺りで終了し、この先は水口町となる。

水口町今郷・今在家一里塚_午前10時37分
横断歩道を渡ると甲賀市水口町。バイパスとして進む国道1号を離れ、旧国道1号である県道549号を少し進むと、すぐに県道から分岐する道がある。旧東海道であるこの分岐道に入り、緩やかな坂から信楽の山地、そして水口丘陵の眺めを楽しむ。
400mほど歩くと「今在家一里塚」に。それらしき姿に復元されている。裏手に浄土寺というお寺さまがあった。今在家は昔の今在家村から。現在は水口町今郷となっている。

県道549号・新岩上橋北交差点_午前10時51分
一里塚で少し休憩し、先に進む。旧東海道はほどなく県道549に合流するが、すぐに県道から離れ集落を進む。古い家並みを眺めながら先に進むと県道125号と交差。その先に続く道筋はあったのだが、我々は浄土寺の先で県道に下り、県道549号・新岩上橋北交差点に。県道脇に、「重要文化財八坂神社本殿」と刻まれた石柱があった。橋の廻りにはそれらしき社が見つからなかったため、パスしたのだが、「重要文化財」といったキーワードが気になっていたので、チェックする。

八坂神社は、野洲川を渡った水口町嵯峨のゴルフ場の手前、距離にして1キロ程度のところにある。江戸の頃は牛頭天王社とも儀峨大宮とも称され、境内にある小祠「川枯神社」を延喜式内社「川枯社」と比定する説もある古き社であった。川枯って、結構気になる名前であり、チェックすると、この辺りに蟠踞した物部氏の流れをくむ大水口宿禰命の祖母、淡海川枯姫(あはみのかはかれひめ)に関係する、との説がある。

ついでのことながら、江戸の頃まで牛頭天王が明治になって八坂神社となった例は散歩の折々に、よく出合う。神仏習合において、スサノオ=祇園精舎の守護神である牛頭天王、とみなされ、スサノオを祀る神社はその昔、(牛頭)天王さまと呼ばれたことが多い。
その牛頭天王が八坂神社となったのは明治の神仏分離令以降。本家本元・京都の「天王さま」・「祇園さん」が八坂神社に改名したため、全国3,000とも言われる末社が右へ倣え、ということになったのだろう。
八坂という名前にしたのは、京都の「天王さま」・「祇園さん」のある地が、八坂の郷、といわれていたから。ちなみに、明治に八坂と名前を変えた最大の理由は、「(牛頭)天王」という音・読みが「天皇」と同一視され、少々の 不敬にあたる、といった自主規制の結果、とも言われている。
で、なにゆえ「天王さま」・「祇園さん」と呼ばれていたか、ということだが、この八坂の郷に移り住んだ新羅からの渡来人・八坂の造(みやつこ)が信仰していたのが仏教の守護神でもある「牛頭天王」であったから。また、この「牛頭天王さま」 は祇園精舎のガードマンでもあったので、「祇園さん」とも呼ばれるようになった。

岩神社_午前11時15分
県道549号を少し進み、岩上橋を越えると旧東海道は県道より分岐する。分岐してほどなく岩神社、岩上不動尊参道の石碑があった。参道らしき石段は紅葉も未だ残り、いい雰囲気でもあり、ちょっと寄り道。
参道脇にあった案内によれば、「岩神のいわれ ;かってこの地は野洲川に面して巨岩・奇岩が多く、景勝の地として知られていました。寛政九年(1797)に刊行された「伊勢参宮名所図会」には、この地のことが絵入りで紹介され、名所であったことがわかります。それによると、やしろは無く岩を祭るとあり、村人は子供が生まれるとこの岩の前に抱いて立ち、旅人に頼んでその子の名を決めてもらう習慣のあったことを記しています」、とあった。

参道を上りささやかな祠にお参りし、景勝故か展望台らしき場所があり、そこからの眺めをしばし楽しむ。というものの、野洲川に突き出た岩山は樹木で覆われ巨岩・奇岩は見えなかった。

古城山(こじょうさん)・大岡山城跡
道の南に永福寺を見やり、先に進む。次の角を右に折れたところに八幡神社があり、馬頭観音を本尊とする観音堂は水口宿の旅籠などから奉納された多くの絵馬が残る、と言う。ここも訪れることもなく、後の祭りではある。
更に進むと道は左右、二又に分かれる。右の「旧東海道」の矢印に従い歩を進めると「東海道の松並木」の石碑があった。案内によると、「東海道の松並木 :江戸時代、東海道の両側には松並木が整備され、近隣農村がその管理を行いました。並木は風や日差しをよけ、旅人の疲れを癒したのです。
街道の清潔なことと、手入れの行き届いた松並木は、東海道を通行した外国人も賞賛した記録があるほどでしたが、先の大戦を境にして、その多くが失われました。水口宿に程近いこのあたりからは、松並木の合間から古城山が望まれ、絵のような景色であったと思われます」、とある。

松並木の説明はさることながら、案内にあるように、眼前に陣笠のような姿の古城山こと岡山城跡が見えてくる。古城山は水口宿の北東に接する標高283mの独立山。大岡山とも呼ばれていた。
この山に天正1年(1585年)、秀吉の命で、中村一氏が水口城を築城、その後五奉行の長束正家が城主となった。しかし関ヶ原の戦い(1600年)に長束正家が西軍についたため自刃、城も攻め落とされ廃城となる。誠に短い城の歴史ではあるが、城下町として整備され、その後の水口の発展の礎を築いた、と。

今回の散歩の楽しみのひとつが、島津主従の撤退戦での集結地である、西軍・長束正家の居城のある水口を見ることであった。実際に歩いてみて、伊賀・甲賀、西近江・東近江、そして伊勢への往還がこの地でクロスすること。また、この地は、水口の名の通り、鈴鹿・甲賀の山系にその源を発する野洲川、伊賀の山系からの杣川の合流する舟運の湊口=水口でもある。
水運・陸運の交通の要衝であるこの地は、撤退戦の途中で四散した島津主従が終結する場としては誠に都合のいい場所ではあったのだろう。島津主従が。この岡山を目指して撤退戦を繰り広げた姿に想いをはせる。

東見付け_午前11時41分
田圃と民家の借景ともなっている古城山・大岡山を眺めながら国道307号・秋葉北交差点を越え、ささやかな川を渡ると、水口宿の東端である東見付けに到着する。見付けには冠木門が建ち、そこには「東海道水口宿」と書いてあった。冠木門の後ろには大岡山が聳え、なかなかいい雰囲気である。
案内をメモ;「東見付(江戸口)跡 :見付とは近世城郭の門など、外と接し警備を行った場所をさす。この地が水口宿の東端すなわち「江戸口」となったのは、野洲川の川原に沿って通じていた東海道が、山手に付け替えられ宿の東部諸町が整備された慶長10年(1(1605)以降のことである。



特に天和2年(1682)の水口藩成立以降は、水口はその城下ともなり、町の東西の入口は警備の施設も整えられた模様である。享保年間(1716~36)作成の「水口宿色絵図」によると、桝形土居がめぐらされ、木戸や番所が置かれている。「伊勢参宮名所図会」(寛政九年刊)に描かれた町並みは、この辺りの風景を描いたものと考えられる。なお、西見付(京口)は宿の西端、林口五十鈴神社の南側にあった」、と。

地図を見るに、東見付けのすぐ近くに秋葉神社がある。江戸の頃、三度の大火に遭った水口宿は、明和7年(1770)、この火除けの神を遠州秋葉山よりこの地に勧請したのだろう。

水口町元町・水口宿本陣跡
街道は見付けでクランク状に曲がり、南へと向かう。城下町によく見られる防御のための鉤型の道筋跡ではあろう。水口町秋葉を超え元町交差点で国道307を渡り、水口町元町に入る。
道の両側には古い家並みが続く。先を進むと道の左に竹垣で囲まれた一角がある。そこが水口宿の本陣跡。中に入っていくと明治天皇聖蹟碑もあった。本陣跡碑の案内によると、「本陣は鵜飼伝左衛門氏が代々本陣職を勤めたこと、明治二年に明治天皇が宿泊されたのを最後にその歴史を閉じ、撤去された」といったことが書かれていた。

高札場跡_午前11時47分
本陣跡のすぐ先で道は左右に分かれる。そこに高札場跡。幕府の法度・掟書きなどを書記した板書きである高札場は、正徳元年(1711)に設けられた。明治に撤去されるが、近年まで「札の辻」とも呼ばれていた。
東海道筋は左の道。先を進むと更に道は二筋に分かれる。東海道は右側。結局、三つの平行する道筋の真ん中が旧東海道筋である。この三つの道筋は、先に進み1カ所で合流し、紡錘型の街並みを形成する。水口が「三筋の町」と呼ばれる所以である。三筋の町の成立は、大岡山の南に城下町が造られたときの町屋筋の名残であろうか、と思う。




道筋には曳山の収納庫がある。案内板によると、「曳山蔵 ;水口の曳山は享保二十年(1735)に九基の曳山が巡行し、その後一町ごとに曳山が建造されるようになり、その数三十基余りに達したといわれている。当地の曳山は「二層露天式人形屋台」という構造をもち、複雑な木組み、精巧な彫刻、華やかな幕を飾り付けて巡行し、巡行後は組上がったまま、各町内に建てられている「山蔵」に収納されている」、と。収納庫のことは「山蔵」と呼ぶようである。

問屋場跡
道を進み、水口町京町に入った角に「問屋場跡」の案内。「問屋場跡 :問屋場は、宿駅本来の業務である人馬の継ぎ立てを差配したところで、宿駅の中核的施設として、公用貨客を次の宿まで運ぶ伝馬と、人足を用意しました。水口宿では、江戸中期以来ここ大池町南側にその場所が定まり、宿内の有力者が宿役人となり、運営にあたりました」とあった。

からくり時計
道なりに進むと「曳山のからくり時計」。さらに進み、三筋の道が合流するところにも「からくり時計」のモニュメントがあった。からくりの下部には銅板に広重の「東海道五十三次之内 水口」の図。傍らは水口宿の案内があった。
案内によると、「宿場町の水口 :天下を握った家康は、慶長6年(1601)東海道を整備し、五十三の宿駅を置いて公用輸送を確立、この時水口も宿駅となりました。宿場は、町数27、家数718と発展、俳聖芭蕉も逗留し 「命二つのなかに生たる桜かな」 の句を残しています。
庶民の旅が盛んとなった江戸後期には40余の旅籠と本陣・脇本陣があって客引きで賑わいました。宿場名物には干瓢・葛細工・煙管・泥鰌汁等があり、夏の風物詩「かんぴょう干し風景」は歌川広重の浮世絵によって広く世間に知られました」、と。
水口とからくり時計って、なんらかの深い因縁でもあるのかとおもったのだが、特段の関係はないようである。

江鉄道と交差_午前12時6分

三筋の合流地点のすぐ先に石橋が残る。ささやかな水路に架った橋で、水口石橋と呼ばれる。石橋を渡ると近江鉄道の踏切があり、すぐ近くに近江鉄道水口石橋駅がある。踏切を越え、山蔵を見ながら先に進むと宿場観光客の休憩所を兼ねた水口中部コミュニティセンターがある。山車の展示もしている、とのことだが当日はお休みであり、見学はできなかった。

旧東海道の道筋
コミュニティセンターで少し休んだ後、我々は道を真っ直ぐ進み、一路お城へと向かったのだが、東海道はこの先、城下町ならではのクランク状の道筋となる。
ルートは、少し進み水口町城東、湖東信用金庫の辺りで北に折れ、突き当たりを左折、水口町城内で左折、更に水口石とも力石とも呼ばれる石と百間長屋跡の間を右折し水口町東林口の五十鈴神社へと向かう、といったもの。
水口町城東の左折点は往昔の水口城天王口。コの字形にお城を迂回するといった道筋ではあろう。水口石は歌川国芳の描く錦絵「大力の大井子」より。水争いで、大力女が使った大石に由来する、とか。

水口城址_午前12時44分
水堀に囲まれた水口城址に。紅葉の美しい橋を渡る。ここはもとの本丸の一部であった出丸跡。本丸跡は現在、水口高等学校のグランドになっている。城址に入ると二層の模擬櫓があり、現在は資料館となっていた。ここは、もとは平屋の建物があったところで、実際に櫓があったわけではないようである。
資料館に入り、休憩をとりながら水口城の歴史をビデオや資料でちょっと勉強。それによると、関ヶ原合戦後、大岡山にあった西軍・長束氏の居城は廃城となり、徳川氏の直轄地となったこの地は、東海道の宿場として整備される。
その後、三代将軍家光の時、京都への上洛に際し、その宿館として城郭の普請がはじまった。作事奉行は庭園造りで名高い小堀遠州がその任にあたる。工事は幕府の直轄普請で3年の年月と延べ10万名の人員を必要とした。完成した本丸は京の二条城風の数寄を凝らした御殿であった、とか。
家光上洛の後は将軍宿館として使われることもなく、城番の管理する番城となっていたが、天和2年(1682)、加藤氏が石見の国から2万石で入城し、水口藩が誕生。その後、一時、鳥居氏が入城したが、これも一代限りで、加藤氏が2万5千石で再入府し、その後明治維新まで加藤氏の治世が続いた、と。この間、家光公の泊まった本丸御殿は、畏れ多しと、一度として使われたことはなく、城主は二の丸に建てた御殿、藩庁を使用していた、とのことである。

近江鉄道水口城南駅
水口宿では行基開基と伝わる大岡寺や、水口を拓いた大水口宿禰命を祀る水口神社など足を運びたい所もあるのだが、本日中に帰京の段取りでもあり、そうそうゆっくり見て廻る気持ちの余裕もない。ということで、城址を離れ、南へと坂を下り近江鉄道水口城南駅へと向かい、貴生川駅で草津線に乗り換え、草津で東海道線を京都まで戻り、新幹線で一路東京へと向かい、2泊3日の鈴鹿峠越えを終了する。

それから、今回初めて実地に使ったSONY のGPS専用端末NAV-U37のパフォーマンスではあるが、GPSの位置確認の精度は満足すべきレベルであった。また、NAV-U37でとった軌跡ログデータのカシミール3Dのプロットも問題なくできた。それと、事前にカシミール3Dで作成したルートをNAV-U37にインストールするもの、国土地理院の2万5千分の一の地図をインストールするのも、問題なくできた。途中登録した地点(マーク)はnav-u 本体とパソコンとのデータの交換・編集などをするnav-uツールをダウンロートし、マークをPCにインポート。データはXMLファイルで保存されているので、フリーソフトnvConverterを使い、XMLをGPSに変換しカシミール3Dに取り込むことができた。ちょっと残念なのはバッテリーの持ち時間は、地図の切り替えや、あれこれの機能を使うと5時間強といったところ。1日歩く場合など、予備のバッテリーが必要となる。1日の山行の場合など、今後は、軌跡ログやポイントの登録は今まで通りGarminのGPS専用端末を遣い、地図での現在位置の確認といった使い方をするのが現実的ではないかと思う。


旧東海道鈴鹿峠越え;その弐のⅡ;亀山宿から鈴鹿峠を越えて土山宿へ(関宿から土山宿) 2泊日の旧東海道鈴鹿峠越えの二日目。関宿を離れたところから土山宿までのメモをはじめる。予想外に伝統的建造物が保存されていた関宿に少々驚き、メモも長くなってしまった。ここから先は坂下宿をへて、鈴鹿峠を越えることになる。地形図を見るに、峠の直前では急な坂を上るが、その後はゆったりとした下り道。難路・険路と呼ばれた鈴鹿峠って、どういったものか楽しみである。




本日のルート:国道1号>お城見庭園>亀山宿>武家屋敷跡>京口門跡>慈恩寺>野村一里塚>布気皇館太神宮>大岡寺(たいこうじ)畷>関の小萬の凭(もた)れ石>東追分・大鳥居>関神社>関の地蔵尊>市瀬集落>楢木・沓掛集落>鈴鹿馬子唄会館>国道1号・沓掛交差点>坂下宿>岩屋観音>片山神社>鈴鹿峠>鈴鹿峠路傍休憩地>新名神高速道路>蟹が坂・白川神社御旅所>蟹坂古戦場跡>田村川>田村神社>道の駅・あいの土山>土山宿

市瀬集落_10時45分;標高101m
関宿の西追分を過ぎると国道1号にあたる。新所町交差点で国道26号と分かれ、先に進み市瀬交差点を越えるとオークワ流通センターがある。この駐車場内に「転び石」があるとのことだが、見逃した。その昔、山の上にあったものが、転がり落ちたとか、鈴鹿峠から転がり落ちたとか、鈴鹿川に落ちた物が、あら不思議、いつのまにかこの地に戻ったとか、あれこれ。これまた後の祭りである。
先に進み、鈴鹿川の手前に狭い道を入る。道は左に曲がり小さな橋を渡り、市瀬集落に入る。江戸の頃は立場でもあった市瀬集落はS字の形になっており、集落の真ん中を国道が分断する。国道を渡り、集落を先に進むと自然石を重ねた常夜灯が建つ。その置くには西願寺。浄土宗本願寺派のお寺さま(三重県亀山市関町市瀬589)。

筆捨山_11時4分;標高145m
東海道は、車が一台通れる程度の細い道で、両側には、古い家が建つ。 この道は永く続かず、すぐに国道と合流してしまう。 これからしばらくの間は、国道を歩くことになる。 人家はほとんどなくなり、緩い登り坂になり、いよいよ山越えの道になっていく。先に進み、国道がS字に曲がる辺りになると、正面に三角の形をした山が見える。道脇にある案内によると、標高289m、正式名は岩根山。筆捨山の由来は、室町時代の絵師、狩野法眼元信が、山の風景を描こうとしたところ、雲や靄がたちこめ、風景画めまぐるしく変わったため、ついに描くことができず、筆を捨てたという伝説から。東海道の名勝として知られ、対岸の筆捨集落にあった茶やからその景観を楽しんだ、とのこと。歌川広重も浮世絵にその姿を描くが、「筆捨山眺望」に描かれる筆捨山は奇岩怪石が強調されている。今では木々に覆われ、その奇岩を見ることはできないが、この岩根山の東に続く羽黒山も奇岩で知られる山であり、さきほどの転石も、その名残りではなかろう、か。

楢木・沓掛集落へ_11時20分:標高174m
先に進み、鈴鹿川に架かる弁天橋を渡ると、旧東海道は国道から分かれ楢木・沓掛の集落に入る。これまた見落としたのだが、国道から分岐する少し手前の国道脇に、一里塚が残る。市瀬一里塚とも、沓掛一里塚とも、弁天一里塚、とも。日本橋から107番目の一里塚である。
この分岐から楢木・沓掛集落、そして坂下宿へは、国道の騒音から離れ、静かな里道をゆったりと進む。楢木の集落は十軒ほどだろうか。集落を抜けると、鈴鹿峠4.4キロの案内。峠が近づいたことを実感する。先に進み、点在する数件の民家を見やりながら進むと沓掛集落に入る。沓掛集落は江戸の頃、立場茶屋もあったところ。古い家並みの中を進む。沓掛という地名は各地に残るが、大体が、山道で潰れた沓(草履)を新品に取り替え、道沿いの木に古い草履を掛けたことに由来する。

鈴鹿馬子唄会館_11時32分;標高177m
沓掛の集落を過ぎると民家は再び少なくなり、家並みも新築・今風の家も多く見かける。民家の如き坂下簡易郵便局を越えしばらく進むと、道は三叉路となり、右側の狭い坂を上る。道の端には東海道五十三次の宿場町が書かれた木柱が並ぶ。坂を上り切ったあたり、右手には小学校跡を活用した研修センター・鈴鹿峠自然の家、左手に鈴鹿馬子唄会館。鈴鹿馬子唄会館でお昼を兼ねて一休み。
鈴鹿馬子唄会館は鈴鹿峠や鈴鹿馬子唄についての歴史や文化についての展示がなされている。
鈴鹿馬子唄;「坂は照る照る 鈴鹿は曇る あいの土山 雨が降る 馬がもの言うた 鈴鹿の坂で お参宮上﨟(おさん女郎)なら 乗しょと言うた
坂の下では 大竹小竹 宿がとりたや 小竹屋に
手綱片手の 浮雲ぐらし 馬の鼻唄 通り雨
与作思えば 照る日も曇る 関の小万の 涙雨
関の小万が 亀山通い 月に雪駄が 二十五足
関の小万の 米かす音は 一里聞こえて 二里ひびく
馬は戻(い)んだに お主は見えぬ 関の小万が とめたやら
昔恋しい 鈴鹿を越えりゃ 関の小万の 声がする
お伊勢七度 おたがわ八度 関の地蔵は 月参り」。
馬子唄とは馬喰たちの「夜曳き唄」。街道を往来する駄賃付けの馬子が唄ったもの。鈴鹿の馬子唄は日本での馬子唄の南限、とか。それはそれでいいのだが、この詞に小万が何度も登場する。関宿でメモしたように、さすがは、仇討ち孝女の小萬、とは思えども、少々艶めかしいくだりもあり、なんとなくしっくりしない。それに、与作って誰?
チェックすると、仇討ちの孝女・小萬とは別の「小萬」が登場してきた。孝女の小萬が生まれる100年程前、近松門左衛門が著した狂言をもとにつくられた狂言の中で、関の遊女・小萬とその情夫で、馬子である与作が登場する。元は家老の子として生まれた武家が不義密通故に、馬子に落ちぶれ、その子供である三吉が不義密通の相手であり、実の母との再開・涙の分かれの場面で三吉が、鈴鹿馬子唄を唄う、といった場面がある。「馬は戻(い)んだに お主は見えぬ 関の小万が とめたやら」の下りは、如何にも遊女の客引きの様子としか思えない。現在残る鈴鹿馬子唄には、どうも、この二人の小萬がまぜこぜで入っているように思える。素人の単なる妄想ではある。逆に、実際に孝女・小萬って、いたのだろうか、などと思えてきた。

国道1号・沓掛交差点
鈴鹿馬子唄会館のすぐ横を走る国道1号は沓掛交差点で上下線が別々に分かれる。現在の上り線は1924年の開通。このときは上下往復2車線であったが、高度成長期の交通量増大に伴い、1978年に下り線が開通したときに、上下別々のものとなった。

坂下宿_12時17分;標高211m
鈴鹿馬子唄会館を離れ、鈴鹿川の左側に国道1号を眺めながら、右岸の旧道を進む。河原谷橋(下乃橋)を過ぎると街道左手に松屋、左手茶畑の中に梅屋・大竹屋本陣跡の石碑が建つ。「坂の下では大竹小竹 宿がとりたや小竹屋で」と馬子唄に唄われ間口24mを誇った大竹屋も今は昔。また、「本陣は無理でも、せめても」と唄われた脇本陣の小竹屋は街道の右、畑の中にその跡が残る。
坂下宿は東海道48番目の宿。天保14年(1843)の記録では、家数153戸、人口564人、本陣、脇本陣1,旅籠48軒。大層な賑わいではあったのだろうが、これも、今は昔。宿の位置も、往昔、もっと峠よりの地にあったとのことであるが、慶安3年(1650)の大洪水で壊滅し、現在の地に下った。
道を進むと中乃橋の手前に法安寺。庫裡の玄関は本陣・松屋の建築の一部である。将軍家の御殿があり、将軍上洛の途上には休憩所としても使われたとも言われる金蔵院跡の石垣を越える、上乃橋の辺りまでくると家並みも途絶えてくる。

岩屋観音_12時31分;標高224m
道脇の。少々薄暗い森の中に岩屋観音。入口の門を開け、お堂にお参り。お堂の内側にある洞穴に三体の仏さまが祀られる、と。江戸の頃、法安寺の和尚が旅人の道中安全を願い、阿弥陀如来、十一面観音、延命地蔵を造立下、と言う。川原谷橋からこの岩屋観音までのおよそ1キロが坂下宿、とのことである。

古町
旧東海道は岩屋観音の先で国道1号の下り線に合流する。少し進むと東海道自然歩道の道標がある。自然歩道は、国道に平行して林の中を進むようであり、そのまま、国道脇を進む。500mほど進むと、東海道自然歩道も国道沿いの道に合流。その先、鈴鹿川に架かる橋の手前、片山神社の石柱の建つところで、旧東海道は国道を離れ山道へと向かう。橋の先で二手に分かれた鈴鹿川の支流を左手に、杉林の中を進むと道の左下に小さな祠。これが片山神社なのだろうかと、とりあえずチェック。どうも、そうではなさそうである。鈴鹿川が二手に分かれるあたりから、この祠のある辺りが、もとの坂下宿のあった古町であったようである。
『勢州鈴鹿孝子万吉伝』に、「伊勢国鈴鹿郡坂下駅古町と申は、駅より六七町西にて、鈴鹿山の麓、往来の街道なり。古へは此所に宿有しが、慶安三年の秋、洪水にて家屋損亡せし後、今の宿場に移され、こゝを古町といふなり。此所に、万吉といへる孝子あり(略)」とある。この記録にて、古町という地名のあったことははっきりしたが、逆に、この鈴鹿に孝行なる子女の多さが、ちょっと気になる。万吉であり、小萬(万)。ひょっとすれば孝女・小萬って、狂言の遊女・小萬が孝子万吉の話で孝女につくり帰られたのだろうか?
鈴鹿馬子唄会館のところで、孝女・小萬って、実在したのだろうか、などとメモした。再び気になりチェックすると、WEBページの「東海道の昔の話:関の小萬と鈴鹿馬子唄」というページがあり、そこに詳しい考証がなされていた。結論から言えば、1.鈴鹿馬子唄は近松の狂言や仇討ち以前にすでに唄われていた。2.馬子唄の小萬は遊女の小萬である。3.遊女小萬は近松の台本と関係ない。4.山田屋で生まれた子供に馬子唄から小萬という名はつけたが、仇討ちとは関係ない。3.「関の小万が 亀山通い 月に雪駄が 二十五足」という、仇討ちの剣術修行のために通った、というくだりも、これは遊女の小萬が亀山の恋人のもとに通ったもの。それは、仇討ち事件以前に「関の小萬は亀山通い,いろろふくむや冬ごもり」といった小唄がすでに唄われている、から。5.仇討ちは実際あった話で、小萬も実在の人物のようではあるが、馬子唄とはまったく関係がない、とのころ。なんとなく落ち着いた。

片山神社_12時46分;標高283m
細い上りの道をしばし進み石橋を渡ると片山神社の鳥居と石柱がある。鳥居近くには「鈴鹿流薙刀術発祥の地」と書かれた石碑も建つ。石垣など大層立派な構えである。延喜式内社であった古き社を眼にしようと石段を上り神社へと向かう。あちこち彷徨えども、社などは何もなし。近年、2002年放火のために焼失したとのことであった。
この片山神社は、鈴鹿大明神とも、鈴鹿御前とも、また鈴鹿権現とも称された。鈴鹿御前とは坂上田村麻呂を助けたとも、仇なした鬼神ともさまざま。それはともあれ、此の地には太田南畝も「改元紀行」で『左の方に権現の社、高き山の上にたてり、石坂あり、石坂の右にみそぎ殿あり、左に神楽堂あり...。奉るところ三座、中央に瀬織津媛命、左右に黄吹戸命、瀬羅津媛命、相殿は倭媛命ときく、摂社に大山祇命、稲荷愛宕などたたせ給へり』と描く社があった。
この社が片山神社と呼ばれたのは江戸の中期頃になってから、と言う。元は関宿の南、関町古厩字片山にあったとのこと。この道筋は、古代から奈良時代にかけての都から東国への幹線道路。柘植から加太へと加太越えと呼ばれる道筋であり、また、厩の地名の通り、古い時代より駅家が置かれ、二十頭の馬が置かれていた地である。その地に延喜式内に記録される社があっても、なんら不思議ではない。
一方、この鈴鹿峠であるが、古代より、大海人皇子の軍勢が峠を封鎖(壬申の乱)したり、といったことはあるにしても、峠を越える道が整備されたのは、京に都ができてからのことである。延喜式に記録される頃は、未開の山地ではあったわけで、峠=手向け、の名前のように神を祀る祠はあったにしても、ひとも通わぬ山中に延喜式内社はあるとは思えない。この峠に祀られた神の祠であり、峠神信仰をもとに祀られた鈴鹿大明神とも、鈴鹿御前とも、また鈴鹿権現と称された祠があった此の地に、江戸の頃、なんらかの事情で、延喜式内社である片山神社が移ってきたのではないだろう、か。単なる妄想。根拠なし。

鈴鹿峠道
片山神社の石垣手前からジグザグの山道となる。往昔、峠道は「鈴鹿山八丁二十七曲がり」と呼ばれたようであるが、その一端を垣間見る思い。先に進むと石畳。雨に濡れ、滑りやすくなっており、ちょっと注意が必要。石畳が残るが、とは言うものの、曲がりくねった山道は、大部分はコンクリートで補強されているようである。
石畳を過ぎると、ほどなく国道が頭上に被さる。コンクリートで固められた山肌についた階段を上り、国道脇の広場らしきところに出る。昔はバス停があった、とか。案内板の横に芭蕉の句碑。「ほっしん(発心)の 初にこゆる鈴鹿山」。この句は京の御所、北面武士・佐藤義清の身分を捨てて旅に出た、西行が鈴鹿峠で詠んだ「鈴鹿山 浮き世をよそに ふり捨てて いかになりゆく わが身なるらむ」を踏まえて詠んだものだろう、か。
看板脇の山道に入り雑木林の中を進む。途中復元された「馬の水飲み場」などを眺めながら、さらに石段を登ると鈴鹿峠にでる。

鈴鹿峠_13時12分;標高378m
鈴鹿峠は平坦な杉林の中にあり、険阻なる峠のイメージとはほど遠い。江戸の頃には、茶屋が建ち並び、旅人で賑わっていた、と。茶屋跡の名残は見つけることはできなかった。
鈴鹿峠は標高378m。伊勢と近江の国境である。峠は鈴鹿山系の三子山と高畑山の間の鞍部であり、鈴鹿山系ではもっとも標高の低いと頃、と言う。片山神社から1キロ弱を160mほど上るわけで、あっという間に峠に着いたので、少々あっけなかったのだが、東海道本線や東海道新幹線、名神高速道路も当初この地を通る計画があったものの、難工事が予想されたため、このルートを断念したとのこと。現在は新名神の鈴鹿トンネルが開通しておる、ということは、技術変革の賜であろう、か。
峠は鈴鹿山系の最も低い鞍部、ということで、古くから鈴鹿峠越えの山道は開かれていたようである。壬申の乱では大海人皇子方の軍勢がこの地を封鎖した、と上でメモした。とは言うものの、峠越えの道は、所詮は嶮岨な山間の杣道ではあったのだろう。
その鈴鹿越えの道が整備されたのは、都が京に移った平安期から。仁和2年(886)、斎宮繁子内親王の伊勢への斎宮群行に際して、鈴鹿峠を越える新道(阿須波道)が整備されることになる。斎宮は天皇に代わり、伊勢神宮に奉仕する内親王や皇女のこと。天武より後醍醐天皇まで700年弱で64人の斎宮が伊勢に赴く途上、この鈴鹿を超えている。「世に経れば又も越えけり鈴鹿山 昔のいまになるにやあるらん」とか「音に聞く伊勢の鈴鹿の山川の早くより我れ恋ひ渡るかな」などなど、鈴鹿を題材にした斎宮の歌は多い。
斎宮を含め、多くの貴人が往来した峠であるが、鈴鹿峠と言えば、雲助、山賊がすぐに頭に浮かぶ。今回の同僚の鈴鹿越えに同行したもの、山賊除け、という「名目」でもあった。実際昔は盗賊の横行する峠として悪名高く、史書にも頻繁に盗賊話が登場する。都からの貴人を狙っての盗賊三昧であろう。こういった山賊話が伏線となり、坂上田村麻呂による鬼退治、女盗賊鈴鹿御前にまつわる伝説などが生まれたのではあろう。
京・近江から伊勢・東国への幹線道路であった鈴鹿峠越えの道筋も、明治になって関西鉄道の開通により、東海道の要衝の地位を失うことになる。因みに、鈴鹿峠に開かれた道を阿須波道と呼ばれた、と上でメモした。阿須波神とは、「足場(足庭)の意で、足踏み立つる所を守る神」ということから、旅立ちを守る神、と言う。阿須波道とは、旅の安全を祈念した名前でもあろう。

 

鈴鹿峠路傍休憩地・万人講常夜燈_13時24分;標高373m
鈴鹿峠の林を抜けると、一面の茶畑。お茶は土山茶と呼ばれ、葉は厚く二番煎じ、三番煎じでも出涸らしとはならない、とか。茶畑の中の道は勾配も緩く、伊勢側の急峻な崖とのコントラストが面白い。草津までの40キロ近くをゆったりと下ってゆくことになる。伊勢側では谷筋を蛇行してきた国道も、近江路へ入ると、一転直線ルートとなっている。地形図を見るに、緩やかな傾斜で上る近江側の地形が鈴鹿峠を境に、一転、垂直とも見えるような崖となる。これほどに急激に変化する地形、急峻な勾配を避けるにはトンネルを掘るか、崖を穿ち、また崖に沿った道路を造る技術力がなければ、道路や、特に鉄道などは到底、この峠を越えることはできないだろう。東海道や東名高速がこのルートを避けた理由が、急峻な伊勢側ではなく、むしろ、緩やかな勾配の近江側を見ることによって改めて、その困難さを実感した。
茶畑の中を進むと鈴鹿峠路傍休憩地。脇に誠に大きな常夜灯がある。ぱっと見には、つい最近つくられたモニュメントかともおもったのだが、実際は江戸の中頃に、四国の金比羅神宮の講中が建てた常夜燈として建てた。重さ38トン、高さ5.44mもある大きな石灯籠は、地元民三千人もの奉仕によって地元高畑山より運び出され出来たものと伝わる、元は東海道沿いに建ってたものが、国道トンネル工事にためげ現在の地に移された。

新名神高速道路_14時4分;標高288m
万人講常夜燈下は国道1号下り線のトンネル。国道に沿って旧東海道を下ると国道1号に合流。ここからしばらくは国道1号を歩くことになる。しばらく歩き、山中交差点あたりでは道脇に熊野神社の鳥居を見やりながら進む。先に進み、山中西交差点手前で国道左手に脇道。旧東海道はここから国道を離れ、脇道を進むことになる。分岐点には休憩所があり、鈴鹿馬子唄の石碑などがある。先に進み、集落を抜ける。あっさりとした地蔵堂など見やりながら進み、新名神高速道路の高架橋をくぐる。計画当初は第二名神と仮称されたこの高速道路は、名神高速・草津ジャンクションと東名阪亀山ジャンクション間が開通している。地図を見るに、確かに名神より、この鈴鹿峠を越えるルートのほうが直線距離では短い。名神高速や新幹線の建設に際し、鈴鹿峠越えのルートを計画したのがよくわかる。逆に、中止とした理由をきちんと知りたくなってきた。高架下を過ぎると、結構近代的な「一里塚」。周りは一里塚緑地として整備されている。鈴鹿馬子唄の石碑も建っている。旧東海道は一里塚緑地のすぐ先で再び国道1号に合流する。

甲賀市
国道を歩きながら、「甲賀市」の表示を見るに、読みは「こうか」、となっている。甲賀市は2004年、旧甲賀郡の水口町、江南町、甲賀町、土山町、信楽町が合併して誕生した。何故に「こうが」ではなく「こうか」としたのかチェックする。甲賀郡の読みは「こうか」であり、甲賀を「こうが」と濁音で詠むのは「甲賀忍者」といった、忍者関連の用語のみのようである。「こうか」は、元此の地を治めた百済系豪族である鹿深(かふか)に由来する伝統ある名前。故に市名決定に際して。「こうか」「こうが」の最終候補から「こうか」が選ばれた、とのことである。

蟹が坂・白川神社御旅所_14時24分;標高288m
国道1号を進み、猪鼻交差点を越えると、緩やかな上りとなる。標高294mから314mといったところで、現在はそれほどの勾配ではないが、国道ができる前は結構な上りであり、猪鼻峠とも、蟹が坂峠とも呼ばれたようである。昭和49年(1974)年に初版発行の『考証 東海道五十三次;綿谷雪(秋田書店)』には、「町並み道路は、西へ上り坂となる。これを猪鼻坂と言う。(中略)とにかくがむしゃらに猪鼻坂の上方から急坂をよじのぼり、峠の上に達する。この山を半周するように上る。この坂から山の頂点までを猪鼻峠と呼ぶ。また、蟹ガ坂峠、とも」と描かれている。昭和49年には、未だ、こういった峠道が残っていたのだろう。
緩やかな上りを越え、蟹が坂交差点の手前で旧街道は国道から分岐する。この蟹が坂も現在では、ゆるやかな下りではあるが、前述『考証 東海道五十三次;綿谷雪(秋田書店)』には「峠から西北へ、蟹が坂の急坂難路を下る。密樹繁葉の間、湿潤の落葉・雑草を踏んで、旧道はあるいはくずれ、あるいは狭まり、消失したかに見えて又つづく。最低部に達すれば道幅二尺に過ぎず、左側、密林のむこうに、あるかなきかの砂川(俗に蟹ガ淵)が流れ、静凄のしじま暗き彼方の小丘に分け入れば、蟹塚一基がある」と描かれる。同書に掲載されている『伊勢参宮名所図会』の「蟹ガ坂」も、誠に山中の風情が色濃く残る。
分岐近くの緩やかな坂を下る途中、巨木の脇に二つの祠。白川社御旅所の石柱があるのだが、地図では江ノ島神社とある。チェックすると、大正9年。此の地にあった榎嶋神社の祭神を白川神社に合祀した、とのこと。それ以来、この地は白川神社の御旅所となったのだろう。
境内に残る祠の大きいほうは「田村社」、小さい方は「蟹社」と称される、と。田村社って、何となく坂上田村麻呂ではあろうと思うのだが、蟹社って何だろう。これまた、チェックする。蟹坂の由来に、「蟹坂に大きな蟹が出没して旅人を苦しめた。京の僧、恵心僧都が蟹討伐にやてきて、「往生要集」を唱えると、蟹の甲羅はばらばらに砕け散った。僧都は、蟹の供養をするための石塔を建てるように願い、また、蟹の甲羅を模した飴をつくり、厄除けとするようにと言い残された。これが蟹坂飴である」とある。元より、蟹が悪さをするわけもなく、もう少し調べると、「東海道名所図会」に、「むかしこの坂の嶮阻をたのんで山賊が出でて、旅人に暴逆せしよりこの名をよぶ。姦(かん)賊の横行より蟹(かに)坂というか。また蟹ヶ塔は、かの山賊を亡ぼし、こヽに埋むならん。名物とて丸き飴を売る家多し」とあった。
平安の頃より整備された鈴鹿道は、都から伊勢や東国への貴人の往来も多く、盗賊にとっては格好の稼ぎ場であった、と上でメモした。鈴鹿道(阿須波道)の整備された12年後の昌泰元年(898)には伊勢神宮への勅使一行が襲撃された、との記録も残る。それ以外にも、鈴鹿の盗賊の記録がたびたび史書に現れる、とのことである。謡曲『田村』に登場する坂上田村麻呂の鈴鹿峠の鬼退治、また、『太平記』には女盗賊立烏帽子との立ち会いが描かれる(改心し鈴鹿御前として田村麻呂に嫁いだ、とも)のは、こういった背景があって生まれたもの、かとも。ということで、白川神社御旅所の「田村社」は田村麻呂を祀り、「蟹社」には、姦、すなわち、田村麻呂に退治された盗賊・山賊を祀る社、ということであろう。因みに、御旅所とは、祭礼に於いて、神が巡行の途上で休憩・宿泊する場所のことである。

蟹坂古戦場跡_14時30分;標高269m
道なりに先に進み、工場に挟まれた道を通り抜けると、小さなトンネルがあり、そこをくぐり五十メートル程歩くと、小山の前の草地に「蟹坂古戦場跡」の案内。案内によると、「天文十一年(1542年)九月、伊勢の国司北畠具教は、甲賀に侵入しようとして、彼の武将神戸丹後守及び飯高三河守に命じ、鈴鹿の間道を越えて山中城を攻めさせた。当時の山中城主は、山中丹後守秀国であり、秀国は直ちに防戦体制を整え、北畠軍を敗走させた。こうして北畠軍はひとまず後退したが、直ちに軍勢を盛り返し、さらに北伊勢の軍勢を加えて再度侵入し、一挙に山中城を攻略しようとした。
このため秀国は、守護六角定頼の許へ援軍を乞い、六角氏は早速高島越中守高賢に命じて、軍勢五千を率いさせ、山中城に援軍を送った。一方、北畠軍も兵一万二千を率い、蟹坂周辺で秀国勢と合戦した。この戦いは、秀国勢が勝利を収め、北畠勢の甲賀への侵入を阻止することができた」とのこと。因みに山中城址の案内は鈴鹿峠から3キロ程度下った、国道1号山中西交差点手前、十楽寺先の国道脇にあったようだが、見逃した。山中氏は、元は橘と称したが、建久年間(1190~98)以降、鎌倉幕府の命をうけ鈴鹿山盗賊追捕使として、代々鈴鹿の関所を守り、山賊などの討伐もおこない、名も地名より山中とした。その後館を水口に移し、一族がこの支城を守っていたが、秀吉により城地を改易された、とか。

田村川_14時39分;標高249m
道なりに進むと工場がいくつか並ぶ処に出る。工場そばを通り抜けると田園風景が広がり前面に深い森が見える。田村神社の鎮守の森ではあろう。先に進むと木の橋があり、その手前には高札場跡の案内。田村川に架かる木製の海堂橋を渡る。歌川広重の『東海道五十三次・土山』は、雨の中この橋を渡り、森の中へと進む大名行列が描かれている。土山宿に向かっているのだろう。此の橋は、武家と一部の農民の他は有料であった、と高札にあった。川を越えるとそこは土山宿となる。

田村神社_14時44分;標高253m
橋を神社の境内に。誠に大きな境内である。祭神及鎮座由来によれば、「本神社は坂上大宿禰田村麻呂公倭姫命外数神を配祀し奉る。弘仁三年正月嵯峨天皇勅して坂上田村麻呂公由縁の地土山に鎮祭せられ勅願所に列せられる。実に本社の地は江勢の国境鈴鹿参道の咽頭を占め都より参宮の要衝に当る。古伝鈴鹿山中に悪鬼ありて旅人悩ます。勅して公を派して之討伐せしめられ其の害初めて止むと、されば数多の行旅の為め其の障害を除き一路平安を保たしめ給う公の遺徳を仰ぎてこゝに祀らる。誠に御神徳の深遠に亘るものというべきであります」とある。
弘仁元年、と言うから西暦810年、田村麻呂は、嵯峨天皇の勅を奉じて、当時旅人を苦しめていた鈴鹿の悪鬼を討伐し、その害を除いて、道中の平安が保たれるようになった。が、しかし、その後悪鬼のたたりか、農作物が不作となり、疫病が流行るなどしたため、弘仁3年(812)、嵯峨天皇の詔によって厄除けの大祭が行われた、と。主祭神は坂上田村麻呂とともに、嵯峨天皇も祀る。
境内を進み、拝殿でお参りを済ませ、拝殿横を進むと厄落としの太鼓橋。その先にある本殿にお参り。再び長い参道を進み、銅の鳥居をぐぐり国道1号へ。

道の駅・あいの土山_14時53分;標高251m
国道の向こう側に道の駅・あいの土山。ここで小休止し、国道脇を進む旧東海道を土山宿の街並みを眺めながら進み、国道1号・土山支局前交差点付近にある本日の宿に向かう。途中の土山宿のメモは次回に廻し、今回の散歩メモはこれで一応終えルことにする。


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