2泊日の旧東海道鈴鹿峠越えの二日目。前泊の亀山宿から関宿、坂下宿を経て鈴鹿峠を越えて土山宿に向かう。全長おおよそ25キロ程度。世に名高い鈴鹿峠って、どんなものか、峠越えフリークとしては結構楽しみ。
今回の鈴鹿峠越えは、つい最近購入したSONY のGPS端末NAV-U37の初仕事でもある。国土地理院の2万五千分の一の地図をインストールできるのに魅力を感じ購入。カシミールで作成した旧東海道のトラック情報もNAV-U37にインストール。今まではGarminのGPS専用端末でトラックログの軌跡を残し、ウエイポイント(地点)登録はできるので、結構満足はしていたのだが、如何せん地図が20万分の一で、ほとんど役に立たない。今回はじめて、地図で現在地を確認しながらの散歩となる。
バッテリーがどの程度持つものやら、位置確認の精度がどの程度なのか、峠とは言うものの、国道一号線がすぐ横を走る、標高400m弱の山とも言えないような鈴鹿峠越えであれば、あれこれ使い勝手の実証実験も安心してできそうでもある。この峠越えでNAV-U37のパフォーマンスが実感できれば、何処か次の本格的峠越えも、少々安心して辿れそうでは、ある。なお、道中の資料は前日、駅前の亀山市観光協会で大量に入手。ルート沿いの各宿についての充実した資料が揃っており、誠にありがたい。今回の散歩メモはその資料や、いつだったか古本屋で手に入れた『考証 東海道五十三次;綿谷雪(秋田書店)』などを参考にさせて頂いて作成する。
本日のルート:国道1号>お城見庭園>亀山宿>武家屋敷跡>京口門跡>慈恩寺>野村一里塚>布気皇館太神宮>大岡寺(たいこうじ)畷>関の小萬の凭(もた)れ石>東追分・大鳥居>関神社>関の地蔵尊>市瀬集落>楢木・沓掛集落>鈴鹿馬子唄会館>国道1号・沓掛交差点>坂下宿>岩屋観音>片山神社>鈴鹿峠>鈴鹿峠路傍休憩地>新名神高速道路>蟹が坂・白川神社御旅所>蟹坂古戦場跡>田村川>田村神社>道の駅・あいの土山>土山宿
国道1号_7時58分;標高49m
出発の朝、早朝6時半起床。外は大雨。同僚二人と食堂で、本日はどうしよう、などと少々日和っていると、あと一人のメンバーが完全装備で下りてきた。その姿を見て、迷うことなく雨天決行と相成った。基本、晴れ男を自負する私と同僚ひとり、ではあるが、如何せん、この雨足では、雨合羽に、バックの中は沢遡上用の防水バックを二重に包み、ビジネスホテルを午前7時15分頃に出発する。
ホテル前の道路は地図には東海道、とある。通常、東海道として日本橋からスタートする国道1号は亀山付近では市街を離れた丘陵地帯を亀山バイパスとして走っており、ホテル前の東海道はバイパスができる以前は国道1号ではあったのだろうが、地図では県道28号となっている。県道28号は亀山と津を結ぶもの。ほどなく商工会議所交差点で南に折れ津方面へと向かい、その先に続く道は県道565号となっている。県道565号を少し進み、亀山駅前から竜川へと下り県道と交差する南崎交差点を右に折れ、亀山城のある台地、と言うか、鈴鹿川によって造られた河岸段丘の坂を上る。
お城見庭園_8時10分;標高67m
台地を上り切った辺りに池がある。池の側と呼ばれる亀山城の外掘の名残である。道の先には亀山城の多聞櫓が見えるはず、ではあるが、丁度工事中。多聞櫓でも見ることができるのであれば、城址へ、とも思ったのだが、シートで覆われそれも叶わず、しかも大雨。城址を辿るのは止めにする。
池の側の手前、道が左へと大きく曲がる角にお城見庭園。東海道亀山宿の石碑が建つ。お城見庭園に沿って大きく曲がる道を進むと旧東海道・亀山宿の家並みとなる。
亀山宿
お城見庭園から東に向かう亀山宿は、この宿場の西の端に近い。亀山宿は台地、と言うか、段丘面をずっと東に向かった栄町交差点あたり。亀山ローソクで有名な(株)カメヤマのあたりからはじまる。亀山宿は東海道46番目の宿。天保14年(1843)の記録には家数567、人口1549、本陣1,脇本陣1,旅籠21とある。旅籠が21軒と少々寂しいのは、城下町の宿では、武家はあれこれ大名同士の「挨拶」が面倒であるので亀山宿を敬遠する、また、庶民は伊勢参詣の道筋から外れていた、といったことが、その一因であろう、か。
その亀山宿・旧東海道はそこから亀山本町郵便局のところにある本町広場交差点をへて、東台町から渋倉町へと進む。道がT字路にあたる第三銀行亀山支店のある交差点は江戸口御門があったところ。亀山城下町の東の入口である。往昔、この地は水堀と土居で囲われ、その中に番屋があり、出入りを見張っていた、とのこと。
道を進み、東町に入り、脇本陣や本陣を過ぎると江ヶ室交番前交差点に。ここは、かつて大手門があった。大手門からは亀山城が正面に見えたようである。その亀山城も明治6年に取り壊されることになる。
旧東海道亀山宿は江ヶ室交差点から南へと遍照寺や誓昌院前を湾曲しながら台地端を進み、お城見庭園への道筋に続く。本来であれば、亀山宿の東の端から歩いては、とも思うのだが、亀山まで歩いてきた同僚はすでに、このお城見庭園のところまで辿ってきており、巻き戻しも申し訳なく、且つ、この雨故、ということで、このお城見庭園を本日の旧東海道亀山宿のスタート地点とする。
因みに、亀山の由来であるが、地名の由来の定石通り、これも諸説ある。古代、百済の僧が来日し、石亀三匹を、京の山城(嵐山)、丹波、そしてこの伊勢の地に放ち、その地を亀山と呼んだ、との説。神山が転化して亀山となった、との説などが代表的なものである。
武家屋敷跡_8時14分;標高70m
西丸町の旧東海道を少し見やり、そのひとつ北の筋にある武家屋敷跡に向かう。この屋敷は、延享元年(1744)より11代に渡り亀山藩の藩主であった石川家の家老屋敷跡。長屋門が美しい。武家屋敷跡の道筋を先に進むと道は旧東海道に合流する。
近世の亀山城は、天正18年(1580)、岡本氏によって築城される。その後、寛永13年(166)、藩主本多氏によって大改修された、とか。城主は岡本、関、松平、三宅、本多、石川、板倉、松平、板倉と頻繁に代わり、上にメモしたように延享元年(1744)より明治まで石川家が代々の城主として亀山を治めた。
京口門跡_8時23分;標高62m
道を進むと道脇に梅厳寺。西国三十三カ所の石塔に惹かれしばし佇む。如何にも由緒ありげなお寺様。チェックすると、藩主石川家の菩提寺のひとつであった。で、この梅厳寺のあたりが亀山宿の西の入口である京口門のあったところ。歌川広重の描く東海道五十三次の浮世絵である『雪晴(保永堂藩、浮世絵東海道53次の最初のシリーズ)』は、この京口御門を描いたものである。そこには雪の京口御門前の坂を上る大名行列が描かれる。現在は、梅厳寺の先には橋が架かるが、江戸の頃は台地、というか河岸段丘を隔てる竜川の川筋から、この京口御門に向かって急坂を上っていたのであろう。『雪晴』には、川を隔てた野村の集落もかすかに見えている。
「亀山に過ぎたるもののふたつあり 伊勢屋ソテツに京口御門」と言われ、門や櫓を構えた壮麗な京口御門は今はないが、旅籠「伊勢屋」の庭にあったソテツは、現在亀山市の文化会館の玄関前に移植されている。樹齢500年以上、株周り5m、14本の幹に分かれた姿を今に伝える、とか。
慈恩寺_8時30分;標高68m
道を進むと結構新しい構えのお寺さまがあった。名は慈恩寺、とある。あれこれ散歩を重ね、幾多のお寺様を訪ねたのだが、慈恩寺とか多門院といった名前のお寺様の「(当たり」外れ」率は低い。訪ねてみたいとも思ったのだが、雨故先を急ぎたい思いが勝り、そのままやり過ごした。メモする段になり、このお寺さまは神亀5年(728)、聖武天皇の勅願で、行基開創とも伝えられる古刹であったことがわかった。往昔は七堂伽藍の大寺であったようだが、度重なる兵火で焼失した。本尊の阿弥陀如来は重要文化財とのこと。もとより、拝顔できるわけでもないとは思うのだが、雨故の余裕のなさのため、逡巡は少々あったのだが、今となっては後の祭りと相成った。新たに改築されたのは台風被害のためであった、よう。
野村一里塚_8時36分;標高66m
道を進むに、左は忍山(おしやま)神社、真っ直ぐ進めば野村の一里塚・布気神社といった道案内。延喜式内社である古き社、忍山神社にも結構名前に惹かれていたのだが、雨故の急ぎ旅ということで、これもパスして先を急ぎ野村の一里塚に。一里塚は野村集落の西端近くにあった。
街道の目印にと、一里ごとに造られた一里塚は、この野村で江戸の日本橋から105里。江戸の頃、大久保長安の指揮のもと実施された五街道の整備に際し設けられた。一里塚は街道の両側に塚が築かれ、そこに榎などが植えられていたのだが、ここ野村の一里塚は北側のみ残り、榎ではなく椋の大木が茂っている。
布気皇館太神宮(ふけこうたつだいじんぐう)_8時48分;標高71m
野村一里塚を越えると布気町となる。道は河岸段丘上を進み、低地は水田となっている。また、河岸段丘も高段、中段となっており、旧東海道の道筋は中段の段丘面を進むように思う。先に進むと道脇に布気皇館太神宮がある。旧東海道は、この神社の裏手、北側を通るみちであったようだが、分岐で道を見落としたようで神社の南側を進んだ。布気皇館太神宮って、名前からして如何にも有り難そうでもあるの。縁起をチェックすると、先ほど気になりながらパスした忍山神社と因縁があれこれ登場してきた。
布気皇館太神宮は、もともとは、忍山神社のあるところにあった、とか。往昔、その地は布気林と呼ばれた。「ふけ」とは「悪所=低湿地」を意味する。ふけた=深田、腰まで埋まるような湿田、と言うことである。「ふけ」は、この布気のほか、福家、更、などと表記されるところもある。ともあれ、この鈴鹿川の低湿地をつかい、水田を開墾した古代の人々の祖先神として祀られたのではあろう。野村の舌状台地には縄文時代の遺跡も残り、古くから人々が棲み着いていたようであり、それらの人々が弥生時代になって崖下の低地に下り、布気林の辺りを開墾していったと考えられている。
で、元々の忍山神社であるが、それは野村集落の東北隅にある愛宕山と呼ばれる海抜90mほどの丘陵地にあった、とのこと。此の山は京より愛宕神社が勧請される以前は、押田山とも呼ばれ、そこに押田山>忍山宮が祀られていた。忍山宿禰と呼ばれる有力な豪族もいたようで、それ故の延喜式内社でもあったのだろう。先ほどパスした、慈恩寺もこの忍山神社の神宮寺でもあったようである。
往昔、その威を誇った忍山神社であるが、戦乱の巷、社殿が灰燼に帰し、現在の忍山神社のところにあった布気神社に仮宮を営み、一時、布気宮と忍山宮が同居することになる。そして、その後、どういう経緯か、この布気林の宮を忍山宮とし、本家本元の布気宮が「消えて」しまった、と。で、これまた、いかなる経緯か定かではないが、庇を貸して母屋を取られた布気の宮は、現在の皇館の森に遷座し、布気皇館太神宮となった。皇館とは、古代、大和朝廷の神を伊勢山田の外宮に祀る途中の行宮(仮宮)跡のことである。
因みに、忍山宮の祀られた押山のことを、神を祀る山=神山、ということで、亀山の由来とする説もある。雨故にパスしたお宮様のあれこれをチェックすると、今回雨故にパスした寺社が関係した縁起が登場してきた。気になった処は、訪問すべし、との成り行きまかせのお散歩の基本を改めて心に留める。
能古茶屋
江戸の頃、布気皇館太神宮の前には、能古(のんこ)茶屋と呼ばれる立場茶屋があった、とか。名前は、亭主である禅坊主とも俳人とも称される能古、から。店先から西北に広がる錫杖ケ嶽、明星嶽、羽黒山といった鈴鹿山系南部眺めが格別であった、との記録も残る。江戸参府の途上のシーボルトも、この茶店から眺めた山系を日記に残している。地形図を見るに、この辺りは鈴鹿山系より流れ出た鈴鹿川水系によって開かれた扇状地といったところ。前面、はるか彼方に聳える山系は、どれがどの山だか定かではないが、ともあれ魅力的ではあった。
旧東海道と合流_8時50分;標高77m
布気皇館太神宮手前で見逃した旧東海道と清福寺の辺りで合流。その合流点から旧東海道の観音坂を少し戻ったところに昼寝観音と呼ばれる堂宇があったのだが、これも見逃した。昼寝をしていたばっかりに三十三観音霊場入りを逃したとの観音堂。そういえば、秩父の札所を歩いていた時も、おなじような理由で霊場入りを逃した、寝入り観音さまがあった(秩父市荒川日野の如意輪観音)。寝ていたためとも、お顔が寝ているように穏やかであった、とも伝わるので、こちらの観音さまも昼寝をしているようなお顔をしているのかもしれない。これまた後の祭りのひとつ、ではある。
大岡寺(たいこうじ)畷_9時4分;標高64m
旧東海道に同流したあたりから、周囲に車の走る音が低く重く響き始める。この辺りは、北は国道1号亀山バイパス、そしてその亀山バイパスと東名阪、名阪国道とのインターチェンジへのルート、南は県道565号が接近する辺り。車の音が響く所以である。県道565号・布気交差点手前の陸橋で関西線を越え、鈴鹿川沿いの道を進む。亀山バイパスから別れた東名阪、名阪国道の高架下をくぐり、鈴鹿山系の姿を楽しみながら鈴鹿川に沿って、のんびり進む。
この堤のあたりを大岡寺畷と呼ぶ。畷=縄手とは、一直線の道のこと。江戸の頃は一里に及ぶ長い縄手であり、里謡に「わしが思いは大岡寺 ほかに木(気)はない、松(待つ)ばかり」とあるように、2キロほどの松並木があったようだが、現在はその松は枯れ、桜並木となっている。
この長い一本道は、季節風の吹きすさぶ難所でもあったようで、芭蕉は「から風の 大岡寺縄手 ふき通し 連れもちからも みな座頭なり(桃青ひさご集)」と詠む。旅の仲間も、力と頼む荷物持ちも、みんな座頭=盲人、とはどういうことかと訝しく思ったのだが、あまりの風の強さにすべからく旅人が眼をつぶる有様を描いたものではなかろう、か。
関の小萬の凭(もた)れ石_9時28分;標高79m
道は小野川に沿って鈴鹿川から分かれ、関西線を越え、国道1号に出る。国道に沿って、少し進むと、右に分かれる道がある。その緩やかな坂を登り切ったところに関宿の案内があった。その案内脇に「関の小萬の凭(もた)れ松」がある。
松は最近植え替えられたようにも思うのだが、江戸の中期、親子二代にわたって母の遺志を継ぎ、仇討ちを果たした娘・小萬ゆかりの松、とか。九州・久留米で夫を討たれ、仇討ちの旅に出たその妻が、仇が亀山藩に仕官したとの噂を聞き、この地まで上りきて、関宿山田屋で娘小萬を生む。母のなくなったあとも、小萬は亀山へ武術の修行に通い、本懐を遂げた、とのこと。鈴鹿馬子唄に、「関の小萬が亀山通い 月に雪駄が二十五足」と唄われる。この松は、その孝女小萬が若者の戯れを避けるため、姿を隠すために凭れた松、と言う。
東追分・大鳥居_9時36分;標高86m
道を先に500mほど進むと東追分。関宿の東の入口にあたる。そこに建つ大鳥居は伊勢神宮遙拝のためのもの。東海道を旅し、お伊勢さんに参拝できない旅人がこの地より、伊勢神宮にお参りした。鳥居は20年に一度の伊勢神宮の遷宮の際、内宮の鳥居が移される、とか。鳥居脇には常夜灯が残る。
伊勢別街道
この東追分は東海道と伊勢別街道の分岐点。伊勢別街道は、「いせみち」、「参宮道」、「山田道」とも呼ばれ、京や大和から伊勢参宮の旅人で賑わった、とか。道筋は、伊勢別街道は、この追分から津市の椋本(むくもと)、一身田(いっしんでん)を経て、伊勢街道と合流する、およそ四里二六町の街道です。大和に都があった頃には、大和から伊賀を通り伊勢に抜ける幹線道でもあった。
関宿
追分を過ぎると、関宿の街並みに入る。街並みは宿場の趣を今に伝える。江戸から明治にかけて建てられた古い町屋が200軒、2キロ弱に渡って続く。これほど歴史を感じる街並みが残っているとは思っていなかったので、少々の驚きではあった。
この東海道47番目の宿は、天保14年(1843)の記録によると、家数632、人口1942、本陣2,脇本陣2、旅籠屋42あったとされる(「絵でたどる亀山の旅;亀山市教育委員会」)。
鈴鹿関
関は大和から伊賀の山塊を越え、鈴鹿川に沿って続く大和からの道筋、また、京から近江を経て鈴鹿の山塊を越えて下る京・近江からの道筋を扼する、古代からの交通の要衝。古代三関(東山道道の不破、東海道の鈴鹿、北陸道の愛発)のひとつ「鈴鹿の関」が置かれていたところ、とか。関の名前は、この鈴鹿関に由来する。鈴鹿関が歴史に登場するのは壬申の乱のとき。大友皇子と戦った大海人(あま)皇子の軍勢が関ヶ原にある不破関と、この地の鈴鹿関を閉じ、大友皇子の美濃・尾張との連絡を遮断した。
ご馳走場
宿内の木崎の街並みを過ぎ、中町に入る。道の右手にご馳走場。大名一行を関役人が送迎する場。次の亀山宿が城下町であり、藩同士の儀礼も大変であり、ために、この関を宿とする大名が多かった、とのこと。
その対面には開雲楼と松鶴楼。元は芸妓の置屋。この置屋と関係あるのかどうか不詳ではあるが、「関は千軒女郎屋が五軒 女郎屋なくては関立たぬ」とも唄われる。幕末には飯盛宿は五十軒もあった、と言う。ついでのことながら、宿に「欠かせない」サービスを担う雲助は、百五十人から二百人ほといた、とのことである(『考証 東海道五十三次;綿谷雪(秋田書店)』より)。雲助とは駕籠かきや旅人の荷運びを担う人足のことである。
関神社_9時53分;標高91m
ご馳走場から北に社が見える。雨脚も弱くなり、ちょっと寄り道。明治の頃は、熊野皇大神宮、江戸では熊野山所大権現と称された。関氏の祖が熊野から勧請した。関氏とは伊勢国鈴鹿郡に威を示した豪族。出自は不詳であるが、鎌倉期より幾多の変遷を経るも、関が原の合戦後、亀山城主ともなっている。
山車倉
神社への道の途中に背の高い倉。山車(だし)を収める倉である。「関の山」という諺がある。「精一杯、もうこれ以上できない」といった意味であるが、この語源は関の山車(山車)から。山車が如何にも豪華であり、もうこれ以上立派なものはつくれない、との説や、山車が街並みの街道を一杯に塞ぎ、これ以上通る余地がない、との説などあれこれ。ともあれ、精一杯の限度、と言う意味。
関まちなみ資料館
先に進み、街並みに合わせた町屋風のデザインの百五銀行を見やり、関まちなみ資料館へ。伝統的な町屋を公開したこの資料館で一休み。亀山出立の頃は激しかった雨も、大分小降りになってきた。雨具を重装備から少々軽くし、再び散歩に出る。
関宿旅籠玉屋歴史資料館
街並みの北側に脇本陣をつとめたこともある旅籠・鶴屋、川北本陣跡、南側に百六里庭、伊藤本陣跡などを眺めながら進む。伊藤本陣跡の斜め対面には関宿旅籠玉屋歴史資料館。「関に泊まるなら鶴屋か玉屋 まだも泊まるなら会津屋か」と俗謡に唄われる。
会津屋
関宿旅籠玉屋歴史資料館の隣は高札場跡。現在は郵便局となっているが、街並みに調和した昔風のデザインの建物になっている。先に進むと旅籠・会津屋。俗謡に歌われる関を代表するこの旅籠は、もとは山田屋と呼ばれ、先にメモした小萬が育ったところ、とか。
停車場道跡
会津屋の南にある関の地蔵院に向かうに、角に停車場道の石碑。地蔵堂東を、関西本線関駅へ、揺るやかなカーブで進む道があるが、これが、明治23年、四日市と草津を結ぶ関西鉄道が開通した時に整備された道。
四日市と草津を如何なるルートで結ぶのか気になりチェックする。関西鉄道の歴史を見るに、明治22年(1889)草津・三雲間開通(現在の草津線)。明治23年(1890)三雲・柘植間開通(現在の草津線)。同じく明治23年、四日・柘植間開通(関西本線)、とある。甲賀山系の隘路を南北に抜け、伊賀から鈴鹿山系の隘路を四日市へと結んでいる。予想では草津から近江路を進み、美濃から四日市かと思ったのだが、予想は大きく外れてしまった。この鉄道会社の目的が、官営鉄道である東海道線から外れた三重・滋賀県の旧東海道沿いを進み、東海道線と連絡することであったようである。
関の地蔵尊_10時18分;標高97m
このお寺さまは、天平13年(741)、僧行基の開創。日本最古の地蔵とされる木像が残る。関の地蔵尊と呼ばれる所以である。境内の本堂、鐘楼、愛染堂の堂宇が重要文化財に指定されている。享徳元年(1452)、この本堂の大修理を終え、地蔵菩薩の開眼供養を大徳寺の一休禅師が行った。その際、身につけていた衣装をお地蔵様の首に巻いて供養した。これが、お地蔵様の涎掛けの始まり、とも。
その一休さんの開眼供養についての逸話が残る。曰く、開眼供養を終えると、「釈迦はすぎ、弥勒(ミロク)はいまだ出でぬ間の、かかるうき世に目あかしの地蔵」と詠み、お地蔵様に向かって小便をして立ち去った、とか、下帯を外して地蔵の首にかけるように手渡した、などといったものである。もとより、そんなことはあるはずもないだろう。洒脱なる一休さん故に、このような話ができあがったのかとも思う。地蔵院の境内には一休禅師の石像が残る、とか。
「関の地蔵さんに振り袖着せて、奈良の大仏さんを婿にとる」と謳われたお地蔵様。ふくよかなお顔もさることながら、古き由来をもつお地蔵様の、奈良の大仏何するものぞ、との矜持故の話ではあろう。
愛染明王は夫婦和合・良縁、と商売の神様。女性と商人の信仰を集めた。厨子は秀吉の寄進、とか。境内には藤原定家の歌碑が残る。「えぞすぎぬ これや鈴鹿の関ならん ふりすてがたき 花のかげかな」と詠む。往昔蝦夷人の杖の根付いたと伝わる「蝦夷桜」は既に枯れ果てたようである。
西追分_10時29分;標高101m
関の地蔵尊を越えると宿内の西部、新所地区に入る。歩きながら、街並み保存には住民の負担が大変ではないかと思う、とともに、処によって街並みに少々そぐわない家屋を建てるには、あれこれ近所周りに気苦労が多いのでは、などとの想いを巡らす。実際、改築に際しては結構な補助金も出ているようではある。大和・伊賀街道
先に進むと西追分。東海道と大和・伊賀街道の分岐点。大和街道は加太や上柘植、佐那具を通り、上野城下を抜けて、島ヶ原へ至り、大和地方へと続く。三重県から奈良へと続き、木津川の水運につながり淀川を経て京都・大坂へ続く古代よりの幹線であった。伊賀街道は上野で大和街道と分かれ、長野峠を越えて津と結ぶ。元々は京・大和と伊勢神宮を結ぶ参道であったが、慶長13年(1608)に藤堂高虎が伊勢・伊賀二国の大名として移封され、津を本城に、伊賀上野を支城したため、拠点間を結ぶ津藩内の重要な官道として整備された。あれこれ書いているうちに少々長くなってしまった。旅は続くが、メモはここで一応終了とし、関宿から土山までは次回に廻す。