2011年12月アーカイブ

2泊日の旧東海道鈴鹿峠越えの二日目。前泊の亀山宿から関宿、坂下宿を経て鈴鹿峠を越えて土山宿に向かう。全長おおよそ25キロ程度。世に名高い鈴鹿峠って、どんなものか、峠越えフリークとしては結構楽しみ。
今回の鈴鹿峠越えは、つい最近購入したSONY のGPS端末NAV-U37の初仕事でもある。国土地理院の2万五千分の一の地図をインストールできるのに魅力を感じ購入。カシミールで作成した旧東海道のトラック情報もNAV-U37にインストール。今まではGarminのGPS専用端末でトラックログの軌跡を残し、ウエイポイント(地点)登録はできるので、結構満足はしていたのだが、如何せん地図が20万分の一で、ほとんど役に立たない。今回はじめて、地図で現在地を確認しながらの散歩となる。
バッテリーがどの程度持つものやら、位置確認の精度がどの程度なのか、峠とは言うものの、国道一号線がすぐ横を走る、標高400m弱の山とも言えないような鈴鹿峠越えであれば、あれこれ使い勝手の実証実験も安心してできそうでもある。この峠越えでNAV-U37のパフォーマンスが実感できれば、何処か次の本格的峠越えも、少々安心して辿れそうでは、ある。なお、道中の資料は前日、駅前の亀山市観光協会で大量に入手。ルート沿いの各宿についての充実した資料が揃っており、誠にありがたい。今回の散歩メモはその資料や、いつだったか古本屋で手に入れた『考証 東海道五十三次;綿谷雪(秋田書店)』などを参考にさせて頂いて作成する。


本日のルート:国道1号>お城見庭園>亀山宿>武家屋敷跡>京口門跡>慈恩寺>野村一里塚>布気皇館太神宮>大岡寺(たいこうじ)畷>関の小萬の凭(もた)れ石>東追分・大鳥居>関神社>関の地蔵尊>市瀬集落>楢木・沓掛集落>鈴鹿馬子唄会館>国道1号・沓掛交差点>坂下宿>岩屋観音>片山神社>鈴鹿峠>鈴鹿峠路傍休憩地>新名神高速道路>蟹が坂・白川神社御旅所>蟹坂古戦場跡>田村川>田村神社>道の駅・あいの土山>土山宿

国道1号_7時58分;標高49m
出発の朝、早朝6時半起床。外は大雨。同僚二人と食堂で、本日はどうしよう、などと少々日和っていると、あと一人のメンバーが完全装備で下りてきた。その姿を見て、迷うことなく雨天決行と相成った。基本、晴れ男を自負する私と同僚ひとり、ではあるが、如何せん、この雨足では、雨合羽に、バックの中は沢遡上用の防水バックを二重に包み、ビジネスホテルを午前7時15分頃に出発する。
ホテル前の道路は地図には東海道、とある。通常、東海道として日本橋からスタートする国道1号は亀山付近では市街を離れた丘陵地帯を亀山バイパスとして走っており、ホテル前の東海道はバイパスができる以前は国道1号ではあったのだろうが、地図では県道28号となっている。県道28号は亀山と津を結ぶもの。ほどなく商工会議所交差点で南に折れ津方面へと向かい、その先に続く道は県道565号となっている。県道565号を少し進み、亀山駅前から竜川へと下り県道と交差する南崎交差点を右に折れ、亀山城のある台地、と言うか、鈴鹿川によって造られた河岸段丘の坂を上る。

お城見庭園_8時10分;標高67m
台地を上り切った辺りに池がある。池の側と呼ばれる亀山城の外掘の名残である。道の先には亀山城の多聞櫓が見えるはず、ではあるが、丁度工事中。多聞櫓でも見ることができるのであれば、城址へ、とも思ったのだが、シートで覆われそれも叶わず、しかも大雨。城址を辿るのは止めにする。
池の側の手前、道が左へと大きく曲がる角にお城見庭園。東海道亀山宿の石碑が建つ。お城見庭園に沿って大きく曲がる道を進むと旧東海道・亀山宿の家並みとなる。




亀山宿
お城見庭園から東に向かう亀山宿は、この宿場の西の端に近い。亀山宿は台地、と言うか、段丘面をずっと東に向かった栄町交差点あたり。亀山ローソクで有名な(株)カメヤマのあたりからはじまる。亀山宿は東海道46番目の宿。天保14年(1843)の記録には家数567、人口1549、本陣1,脇本陣1,旅籠21とある。旅籠が21軒と少々寂しいのは、城下町の宿では、武家はあれこれ大名同士の「挨拶」が面倒であるので亀山宿を敬遠する、また、庶民は伊勢参詣の道筋から外れていた、といったことが、その一因であろう、か。
その亀山宿・旧東海道はそこから亀山本町郵便局のところにある本町広場交差点をへて、東台町から渋倉町へと進む。道がT字路にあたる第三銀行亀山支店のある交差点は江戸口御門があったところ。亀山城下町の東の入口である。往昔、この地は水堀と土居で囲われ、その中に番屋があり、出入りを見張っていた、とのこと。
道を進み、東町に入り、脇本陣や本陣を過ぎると江ヶ室交番前交差点に。ここは、かつて大手門があった。大手門からは亀山城が正面に見えたようである。その亀山城も明治6年に取り壊されることになる。
旧東海道亀山宿は江ヶ室交差点から南へと遍照寺や誓昌院前を湾曲しながら台地端を進み、お城見庭園への道筋に続く。本来であれば、亀山宿の東の端から歩いては、とも思うのだが、亀山まで歩いてきた同僚はすでに、このお城見庭園のところまで辿ってきており、巻き戻しも申し訳なく、且つ、この雨故、ということで、このお城見庭園を本日の旧東海道亀山宿のスタート地点とする。
因みに、亀山の由来であるが、地名の由来の定石通り、これも諸説ある。古代、百済の僧が来日し、石亀三匹を、京の山城(嵐山)、丹波、そしてこの伊勢の地に放ち、その地を亀山と呼んだ、との説。神山が転化して亀山となった、との説などが代表的なものである。

武家屋敷跡_8時14分;標高70m
西丸町の旧東海道を少し見やり、そのひとつ北の筋にある武家屋敷跡に向かう。この屋敷は、延享元年(1744)より11代に渡り亀山藩の藩主であった石川家の家老屋敷跡。長屋門が美しい。武家屋敷跡の道筋を先に進むと道は旧東海道に合流する。
近世の亀山城は、天正18年(1580)、岡本氏によって築城される。その後、寛永13年(166)、藩主本多氏によって大改修された、とか。城主は岡本、関、松平、三宅、本多、石川、板倉、松平、板倉と頻繁に代わり、上にメモしたように延享元年(1744)より明治まで石川家が代々の城主として亀山を治めた。

京口門跡_8時23分;標高62m
道を進むと道脇に梅厳寺。西国三十三カ所の石塔に惹かれしばし佇む。如何にも由緒ありげなお寺様。チェックすると、藩主石川家の菩提寺のひとつであった。で、この梅厳寺のあたりが亀山宿の西の入口である京口門のあったところ。歌川広重の描く東海道五十三次の浮世絵である『雪晴(保永堂藩、浮世絵東海道53次の最初のシリーズ)』は、この京口御門を描いたものである。そこには雪の京口御門前の坂を上る大名行列が描かれる。現在は、梅厳寺の先には橋が架かるが、江戸の頃は台地、というか河岸段丘を隔てる竜川の川筋から、この京口御門に向かって急坂を上っていたのであろう。『雪晴』には、川を隔てた野村の集落もかすかに見えている。
「亀山に過ぎたるもののふたつあり 伊勢屋ソテツに京口御門」と言われ、門や櫓を構えた壮麗な京口御門は今はないが、旅籠「伊勢屋」の庭にあったソテツは、現在亀山市の文化会館の玄関前に移植されている。樹齢500年以上、株周り5m、14本の幹に分かれた姿を今に伝える、とか。
慈恩寺_8時30分;標高68m
道を進むと結構新しい構えのお寺さまがあった。名は慈恩寺、とある。あれこれ散歩を重ね、幾多のお寺様を訪ねたのだが、慈恩寺とか多門院といった名前のお寺様の「(当たり」外れ」率は低い。訪ねてみたいとも思ったのだが、雨故先を急ぎたい思いが勝り、そのままやり過ごした。メモする段になり、このお寺さまは神亀5年(728)、聖武天皇の勅願で、行基開創とも伝えられる古刹であったことがわかった。往昔は七堂伽藍の大寺であったようだが、度重なる兵火で焼失した。本尊の阿弥陀如来は重要文化財とのこと。もとより、拝顔できるわけでもないとは思うのだが、雨故の余裕のなさのため、逡巡は少々あったのだが、今となっては後の祭りと相成った。新たに改築されたのは台風被害のためであった、よう。

野村一里塚_8時36分;標高66m
道を進むに、左は忍山(おしやま)神社、真っ直ぐ進めば野村の一里塚・布気神社といった道案内。延喜式内社である古き社、忍山神社にも結構名前に惹かれていたのだが、雨故の急ぎ旅ということで、これもパスして先を急ぎ野村の一里塚に。一里塚は野村集落の西端近くにあった。
街道の目印にと、一里ごとに造られた一里塚は、この野村で江戸の日本橋から105里。江戸の頃、大久保長安の指揮のもと実施された五街道の整備に際し設けられた。一里塚は街道の両側に塚が築かれ、そこに榎などが植えられていたのだが、ここ野村の一里塚は北側のみ残り、榎ではなく椋の大木が茂っている。

布気皇館太神宮(ふけこうたつだいじんぐう)_8時48分;標高71m
野村一里塚を越えると布気町となる。道は河岸段丘上を進み、低地は水田となっている。また、河岸段丘も高段、中段となっており、旧東海道の道筋は中段の段丘面を進むように思う。先に進むと道脇に布気皇館太神宮がある。旧東海道は、この神社の裏手、北側を通るみちであったようだが、分岐で道を見落としたようで神社の南側を進んだ。布気皇館太神宮って、名前からして如何にも有り難そうでもあるの。縁起をチェックすると、先ほど気になりながらパスした忍山神社と因縁があれこれ登場してきた。
布気皇館太神宮は、もともとは、忍山神社のあるところにあった、とか。往昔、その地は布気林と呼ばれた。「ふけ」とは「悪所=低湿地」を意味する。ふけた=深田、腰まで埋まるような湿田、と言うことである。「ふけ」は、この布気のほか、福家、更、などと表記されるところもある。ともあれ、この鈴鹿川の低湿地をつかい、水田を開墾した古代の人々の祖先神として祀られたのではあろう。野村の舌状台地には縄文時代の遺跡も残り、古くから人々が棲み着いていたようであり、それらの人々が弥生時代になって崖下の低地に下り、布気林の辺りを開墾していったと考えられている。
で、元々の忍山神社であるが、それは野村集落の東北隅にある愛宕山と呼ばれる海抜90mほどの丘陵地にあった、とのこと。此の山は京より愛宕神社が勧請される以前は、押田山とも呼ばれ、そこに押田山>忍山宮が祀られていた。忍山宿禰と呼ばれる有力な豪族もいたようで、それ故の延喜式内社でもあったのだろう。先ほどパスした、慈恩寺もこの忍山神社の神宮寺でもあったようである。
往昔、その威を誇った忍山神社であるが、戦乱の巷、社殿が灰燼に帰し、現在の忍山神社のところにあった布気神社に仮宮を営み、一時、布気宮と忍山宮が同居することになる。そして、その後、どういう経緯か、この布気林の宮を忍山宮とし、本家本元の布気宮が「消えて」しまった、と。で、これまた、いかなる経緯か定かではないが、庇を貸して母屋を取られた布気の宮は、現在の皇館の森に遷座し、布気皇館太神宮となった。皇館とは、古代、大和朝廷の神を伊勢山田の外宮に祀る途中の行宮(仮宮)跡のことである。
因みに、忍山宮の祀られた押山のことを、神を祀る山=神山、ということで、亀山の由来とする説もある。雨故にパスしたお宮様のあれこれをチェックすると、今回雨故にパスした寺社が関係した縁起が登場してきた。気になった処は、訪問すべし、との成り行きまかせのお散歩の基本を改めて心に留める。

能古茶屋
江戸の頃、布気皇館太神宮の前には、能古(のんこ)茶屋と呼ばれる立場茶屋があった、とか。名前は、亭主である禅坊主とも俳人とも称される能古、から。店先から西北に広がる錫杖ケ嶽、明星嶽、羽黒山といった鈴鹿山系南部眺めが格別であった、との記録も残る。江戸参府の途上のシーボルトも、この茶店から眺めた山系を日記に残している。地形図を見るに、この辺りは鈴鹿山系より流れ出た鈴鹿川水系によって開かれた扇状地といったところ。前面、はるか彼方に聳える山系は、どれがどの山だか定かではないが、ともあれ魅力的ではあった。

旧東海道と合流_8時50分;標高77m
布気皇館太神宮手前で見逃した旧東海道と清福寺の辺りで合流。その合流点から旧東海道の観音坂を少し戻ったところに昼寝観音と呼ばれる堂宇があったのだが、これも見逃した。昼寝をしていたばっかりに三十三観音霊場入りを逃したとの観音堂。そういえば、秩父の札所を歩いていた時も、おなじような理由で霊場入りを逃した、寝入り観音さまがあった(秩父市荒川日野の如意輪観音)。寝ていたためとも、お顔が寝ているように穏やかであった、とも伝わるので、こちらの観音さまも昼寝をしているようなお顔をしているのかもしれない。これまた後の祭りのひとつ、ではある。

大岡寺(たいこうじ)畷_9時4分;標高64m
旧東海道に同流したあたりから、周囲に車の走る音が低く重く響き始める。この辺りは、北は国道1号亀山バイパス、そしてその亀山バイパスと東名阪、名阪国道とのインターチェンジへのルート、南は県道565号が接近する辺り。車の音が響く所以である。県道565号・布気交差点手前の陸橋で関西線を越え、鈴鹿川沿いの道を進む。亀山バイパスから別れた東名阪、名阪国道の高架下をくぐり、鈴鹿山系の姿を楽しみながら鈴鹿川に沿って、のんびり進む。
この堤のあたりを大岡寺畷と呼ぶ。畷=縄手とは、一直線の道のこと。江戸の頃は一里に及ぶ長い縄手であり、里謡に「わしが思いは大岡寺 ほかに木(気)はない、松(待つ)ばかり」とあるように、2キロほどの松並木があったようだが、現在はその松は枯れ、桜並木となっている。
この長い一本道は、季節風の吹きすさぶ難所でもあったようで、芭蕉は「から風の 大岡寺縄手 ふき通し 連れもちからも みな座頭なり(桃青ひさご集)」と詠む。旅の仲間も、力と頼む荷物持ちも、みんな座頭=盲人、とはどういうことかと訝しく思ったのだが、あまりの風の強さにすべからく旅人が眼をつぶる有様を描いたものではなかろう、か。

関の小萬の凭(もた)れ石_9時28分;標高79m
道は小野川に沿って鈴鹿川から分かれ、関西線を越え、国道1号に出る。国道に沿って、少し進むと、右に分かれる道がある。その緩やかな坂を登り切ったところに関宿の案内があった。その案内脇に「関の小萬の凭(もた)れ松」がある。
松は最近植え替えられたようにも思うのだが、江戸の中期、親子二代にわたって母の遺志を継ぎ、仇討ちを果たした娘・小萬ゆかりの松、とか。九州・久留米で夫を討たれ、仇討ちの旅に出たその妻が、仇が亀山藩に仕官したとの噂を聞き、この地まで上りきて、関宿山田屋で娘小萬を生む。母のなくなったあとも、小萬は亀山へ武術の修行に通い、本懐を遂げた、とのこと。鈴鹿馬子唄に、「関の小萬が亀山通い 月に雪駄が二十五足」と唄われる。この松は、その孝女小萬が若者の戯れを避けるため、姿を隠すために凭れた松、と言う。

東追分・大鳥居_9時36分;標高86m
道を先に500mほど進むと東追分。関宿の東の入口にあたる。そこに建つ大鳥居は伊勢神宮遙拝のためのもの。東海道を旅し、お伊勢さんに参拝できない旅人がこの地より、伊勢神宮にお参りした。鳥居は20年に一度の伊勢神宮の遷宮の際、内宮の鳥居が移される、とか。鳥居脇には常夜灯が残る。

伊勢別街道
この東追分は東海道と伊勢別街道の分岐点。伊勢別街道は、「いせみち」、「参宮道」、「山田道」とも呼ばれ、京や大和から伊勢参宮の旅人で賑わった、とか。道筋は、伊勢別街道は、この追分から津市の椋本(むくもと)、一身田(いっしんでん)を経て、伊勢街道と合流する、およそ四里二六町の街道です。大和に都があった頃には、大和から伊賀を通り伊勢に抜ける幹線道でもあった。

関宿
追分を過ぎると、関宿の街並みに入る。街並みは宿場の趣を今に伝える。江戸から明治にかけて建てられた古い町屋が200軒、2キロ弱に渡って続く。これほど歴史を感じる街並みが残っているとは思っていなかったので、少々の驚きではあった。
この東海道47番目の宿は、天保14年(1843)の記録によると、家数632、人口1942、本陣2,脇本陣2、旅籠屋42あったとされる(「絵でたどる亀山の旅;亀山市教育委員会」)。
鈴鹿関
関は大和から伊賀の山塊を越え、鈴鹿川に沿って続く大和からの道筋、また、京から近江を経て鈴鹿の山塊を越えて下る京・近江からの道筋を扼する、古代からの交通の要衝。古代三関(東山道道の不破、東海道の鈴鹿、北陸道の愛発)のひとつ「鈴鹿の関」が置かれていたところ、とか。関の名前は、この鈴鹿関に由来する。鈴鹿関が歴史に登場するのは壬申の乱のとき。大友皇子と戦った大海人(あま)皇子の軍勢が関ヶ原にある不破関と、この地の鈴鹿関を閉じ、大友皇子の美濃・尾張との連絡を遮断した。
ご馳走場
宿内の木崎の街並みを過ぎ、中町に入る。道の右手にご馳走場。大名一行を関役人が送迎する場。次の亀山宿が城下町であり、藩同士の儀礼も大変であり、ために、この関を宿とする大名が多かった、とのこと。
その対面には開雲楼と松鶴楼。元は芸妓の置屋。この置屋と関係あるのかどうか不詳ではあるが、「関は千軒女郎屋が五軒 女郎屋なくては関立たぬ」とも唄われる。幕末には飯盛宿は五十軒もあった、と言う。ついでのことながら、宿に「欠かせない」サービスを担う雲助は、百五十人から二百人ほといた、とのことである(『考証 東海道五十三次;綿谷雪(秋田書店)』より)。雲助とは駕籠かきや旅人の荷運びを担う人足のことである。
関神社_9時53分;標高91m
ご馳走場から北に社が見える。雨脚も弱くなり、ちょっと寄り道。明治の頃は、熊野皇大神宮、江戸では熊野山所大権現と称された。関氏の祖が熊野から勧請した。関氏とは伊勢国鈴鹿郡に威を示した豪族。出自は不詳であるが、鎌倉期より幾多の変遷を経るも、関が原の合戦後、亀山城主ともなっている。
山車倉
神社への道の途中に背の高い倉。山車(だし)を収める倉である。「関の山」という諺がある。「精一杯、もうこれ以上できない」といった意味であるが、この語源は関の山車(山車)から。山車が如何にも豪華であり、もうこれ以上立派なものはつくれない、との説や、山車が街並みの街道を一杯に塞ぎ、これ以上通る余地がない、との説などあれこれ。ともあれ、精一杯の限度、と言う意味。




関まちなみ資料館
先に進み、街並みに合わせた町屋風のデザインの百五銀行を見やり、関まちなみ資料館へ。伝統的な町屋を公開したこの資料館で一休み。亀山出立の頃は激しかった雨も、大分小降りになってきた。雨具を重装備から少々軽くし、再び散歩に出る。
関宿旅籠玉屋歴史資料館
街並みの北側に脇本陣をつとめたこともある旅籠・鶴屋、川北本陣跡、南側に百六里庭、伊藤本陣跡などを眺めながら進む。伊藤本陣跡の斜め対面には関宿旅籠玉屋歴史資料館。「関に泊まるなら鶴屋か玉屋 まだも泊まるなら会津屋か」と俗謡に唄われる。


会津屋
関宿旅籠玉屋歴史資料館の隣は高札場跡。現在は郵便局となっているが、街並みに調和した昔風のデザインの建物になっている。先に進むと旅籠・会津屋。俗謡に歌われる関を代表するこの旅籠は、もとは山田屋と呼ばれ、先にメモした小萬が育ったところ、とか。
停車場道跡
会津屋の南にある関の地蔵院に向かうに、角に停車場道の石碑。地蔵堂東を、関西本線関駅へ、揺るやかなカーブで進む道があるが、これが、明治23年、四日市と草津を結ぶ関西鉄道が開通した時に整備された道。
四日市と草津を如何なるルートで結ぶのか気になりチェックする。関西鉄道の歴史を見るに、明治22年(1889)草津・三雲間開通(現在の草津線)。明治23年(1890)三雲・柘植間開通(現在の草津線)。同じく明治23年、四日・柘植間開通(関西本線)、とある。甲賀山系の隘路を南北に抜け、伊賀から鈴鹿山系の隘路を四日市へと結んでいる。予想では草津から近江路を進み、美濃から四日市かと思ったのだが、予想は大きく外れてしまった。この鉄道会社の目的が、官営鉄道である東海道線から外れた三重・滋賀県の旧東海道沿いを進み、東海道線と連絡することであったようである。

関の地蔵尊_10時18分;標高97m
このお寺さまは、天平13年(741)、僧行基の開創。日本最古の地蔵とされる木像が残る。関の地蔵尊と呼ばれる所以である。境内の本堂、鐘楼、愛染堂の堂宇が重要文化財に指定されている。享徳元年(1452)、この本堂の大修理を終え、地蔵菩薩の開眼供養を大徳寺の一休禅師が行った。その際、身につけていた衣装をお地蔵様の首に巻いて供養した。これが、お地蔵様の涎掛けの始まり、とも。
その一休さんの開眼供養についての逸話が残る。曰く、開眼供養を終えると、「釈迦はすぎ、弥勒(ミロク)はいまだ出でぬ間の、かかるうき世に目あかしの地蔵」と詠み、お地蔵様に向かって小便をして立ち去った、とか、下帯を外して地蔵の首にかけるように手渡した、などといったものである。もとより、そんなことはあるはずもないだろう。洒脱なる一休さん故に、このような話ができあがったのかとも思う。地蔵院の境内には一休禅師の石像が残る、とか。
「関の地蔵さんに振り袖着せて、奈良の大仏さんを婿にとる」と謳われたお地蔵様。ふくよかなお顔もさることながら、古き由来をもつお地蔵様の、奈良の大仏何するものぞ、との矜持故の話ではあろう。
愛染明王は夫婦和合・良縁、と商売の神様。女性と商人の信仰を集めた。厨子は秀吉の寄進、とか。境内には藤原定家の歌碑が残る。「えぞすぎぬ これや鈴鹿の関ならん ふりすてがたき 花のかげかな」と詠む。往昔蝦夷人の杖の根付いたと伝わる「蝦夷桜」は既に枯れ果てたようである。

西追分_10時29分;標高101m
関の地蔵尊を越えると宿内の西部、新所地区に入る。歩きながら、街並み保存には住民の負担が大変ではないかと思う、とともに、処によって街並みに少々そぐわない家屋を建てるには、あれこれ近所周りに気苦労が多いのでは、などとの想いを巡らす。実際、改築に際しては結構な補助金も出ているようではある。大和・伊賀街道
先に進むと西追分。東海道と大和・伊賀街道の分岐点。大和街道は加太や上柘植、佐那具を通り、上野城下を抜けて、島ヶ原へ至り、大和地方へと続く。三重県から奈良へと続き、木津川の水運につながり淀川を経て京都・大坂へ続く古代よりの幹線であった。伊賀街道は上野で大和街道と分かれ、長野峠を越えて津と結ぶ。元々は京・大和と伊勢神宮を結ぶ参道であったが、慶長13年(1608)に藤堂高虎が伊勢・伊賀二国の大名として移封され、津を本城に、伊賀上野を支城したため、拠点間を結ぶ津藩内の重要な官道として整備された。あれこれ書いているうちに少々長くなってしまった。旅は続くが、メモはここで一応終了とし、関宿から土山までは次回に廻す。


初冬の週末、2泊3日の予定で旧東海道の鈴鹿峠を越えることにした。メンバーは会社の同僚2名との計3名。同僚のひとりが旧東海道を歩いており、鈴鹿峠を越える時には盗賊除け、雲助除けに同行します、といったのが今年の春。年末になって鈴鹿峠が近づいた、との案内があり、散歩仲間の独りを誘い、峠越えを同道することになった。初日は三重の亀山宿を出て鈴鹿峠を越え土山宿に宿泊。距離は25キロほどになるだろう、か。二日目は土山宿から水口へと、15キロ程度を歩き、その日のうちに帰京する、といった段取り。初日のスケジュールが少々タイトであるので、亀山に前泊することにした。今回の鈴鹿峠越えは、世に名高い鈴鹿峠を越えるのも楽しみではあるが、もうひとつの楽しみはルートにある水口宿。先日、これも会社の同僚と関ヶ原合戦の地を訪ねた折り、西軍敗戦の後、東軍を中央突破する撤退戦を行い、伊勢街道や伊賀の山越えなどで四散した島津家主従が事前に中継地として集合場所と決めていたのが水口の宿であった。島津主従は、水口から信楽、甲賀の山を越え泉州堺を経て鹿児島へと向かった、とされる。水口がどういう場所か、そこから眺める甲賀の山並みが如何なるものか、旧東海道の宿場や鈴鹿峠の姿とともに、大いなる楽しみとして旅に出かけることにした。



本日のルート;関西本線・桑名駅>海蔵寺>春日神社>旧東海道桑名宿>桑名城址>七里の渡し跡>蟠龍櫓>関西本線・桑名駅

前日の桑名宿
集合予定地の亀山に向かう。東京から新幹線に乗り名古屋で下車。関西線に乗り換え、亀山直行も少々味気ない。途中に何処か見どころはと路線駅をチェックすると桑名の名前がある。桑名は東海道中の熱田神宮門前・「宮の渡し」から伊勢湾を渡る「七里の渡し」があるところ。また、先日、関ヶ原の合戦のメモをするときに、桑名を東軍に奪われ、伊勢街道からの兵站ルートを失ったことが、石田三成の率いる西軍が大垣を撤退した一因との記事も目にした。それに、桑名といえば、幕末の戊辰戦争において、会津の松平容保(かたもり)の弟でもあり、幕軍として会津、函館と転戦した松平定敬は桑名藩主であった。それに、幕末から明治にかけて闘将として名高い、立見鑑三郎は桑名藩士である。といったあれこれを思いだし、思わず、桑名に途中下車することにした。

関西線・桑名駅
駅を下りて、駅前の地図を参考に、成り行きで城址、そして「七里の渡し」へと向かう。城址は駅前の大通りを東に真っ直ぐ進んだところにある。そして、七里の渡しはそのすぐ隣り。通に沿って進むに、町の印象はフラット。いつだったか、会津の町を歩いたときの印象と近い。木曽三川と呼ばれる木曽川、長良川、揖斐川の三河川が集まり伊勢湾に注ぐ河口に位置するのが、その要因の一端ではあろう、か。

海蔵寺
国道一号線を越えて進むと、道脇に「島津」の旗印の翻るお寺さまがある。水口宿ならぬ此の地に、なにごとであろうか、と境内に。案内には、「海蔵寺(薩摩義士墓所);薩摩義士とは、当地力に度々水害をもたらした木曽・揖斐・長良三大河川の治水工事による薩摩藩85名の犠性者を言います。この工事は、宝暦3年江戸幕府より薩摩藩に命じられ、工事奉行平田靱負他藩士約950名と予算30万両で始められ約一年半の工期で完成したが、この間85名の犠牲者と、多大な工事費用を費やしました。これにより長年荒れ狂った大河川も制御されたのです。
 当寺には、工事終了後大幅な予算超過と多数の藩士を失った責任を負い切腹した奉行平田靱負の墓碑を中心に24義士の墓があります。
義士によって築かれた油島(岐阜県海津市)の堤防には数千本の松が植えられ、現在も千本松原と呼ばれて偉大な功績跡を残しています」、とあった。
島津藩による「宝暦の治水事業」、幕府に命じられ、流路定まらぬ木曽、長良、揖斐川の治水事業のことは知っていたのだが、そのゆかりの地が桑名にあるとは思っていなかった。思いがけない事跡の出現に、行き当たりばったりの散歩故の、偶然がもたらしてくれた喜びを感じる。
川といえば、現在では護岸工事などで、川筋が定まっている、というのが普通である。しかしながら、それは明治以降の河川改修、護岸工事の結果ではあり、昔は、洪水のたびに流路が変わり、幾十もの支流が入り乱れていたことであろう。島津藩が普請を行った頃の絵地図を見るに、木曽川、長良川、揖斐川が合流する伊勢湾の河口あたりは、川筋が入り乱れ、その入り乱れた流路の中に「輪中」が点在する、もう、なにがなんだかわからないような流路の乱れ様である。
濃尾平野は西に向かって緩やかに傾斜しており、それも河口近くになるほどその傾向が強いようである。木曽三川といっても、その流域は木曽川が圧倒的に広く、長良川や揖斐川の5倍弱もある。その木曽川が最も東にあり、長良川、揖斐川と西に向かって並ぶわけで、地勢からして洪水のたびに木曽川から長良川へ、長良川から揖斐川へと流路が造られ、乱れに乱れた流路をつくることになったのだろう。薩摩義士の案内にもあった、千本松原も木曽川と長良川が合わさった流れを金廻輪中と長島輪中の間に堤をつくり、揖斐川への流入を防ぐようにしている。
で、宝暦の治水の結果であるが、それによって洪水が減ることにはならなかったようである。輪中を結んだ堤防が川床への土砂の堆積を促したため、と言う。結果的には首尾良く、という訳にはならなかった、木曽三川の治水工事であるが、大雑把に言って、洪水被害は美濃側に大きく、尾張側は少なかったようである。それは、慶長13年(1608)から14年(1609)にかけて築かれた「御囲堤」にその要因がある。「御囲堤」は愛知県犬山氏から弥富氏に至る木曽川左岸に、およそ50キロ弱に渡って築かれた。徳川氏が尾張に城を築いたため、木曽左岸への洪水を防ぐための工事である。ちなみに、木曽川の右側の美濃の堤防は尾張側よりおよそ1m低くしなければならかかった、と言う。美濃を犠牲にして尾張を守る施策と言えよう。

春日神社
海蔵寺を離れ、城址方面へと進む。道の右側に春日神社。お城にほど近い立地でもあり、なんらか有り難き神社ではあろうか、と立ち寄ることに。案内によると、正式名称は桑名宗社。桑名神社と中臣神社の両社を祀り、古来より桑名の総鎮守でもあった、とか。桑名神社は平安時代の、延喜式神名帳に名が残る古き社。桑名を開いた豪族桑名首(おびと)の祖神を祀る。桑名の西の丘陵にある高塚山古墳(全長50mの前方後円墳)は桑名・四日市地方最大の古墳。桑名首の威を誇る。
中臣神社も、同じく延喜式に名前の残る延喜式内社。縁起によれば、8世紀中頃、常陸国鹿島社より建御雷神が此の地を訪れたところに元の社を建てた。祭神天日別命は神武天皇御創業の時の功臣で伊勢国造の遠祖として仰がれている神様。正応二年(1289年)に桑名神社の境内に遷し、永仁四年(1296年)に奈良春日大社から春日四柱神を勧請合祀し、以来「春日神社」と。鹿島社は藤原(中臣)鎌足が誕生したとも伝えられる藤原氏の氏神。春日神社は藤原不比等が鹿島社の分霊を奈良に迎えて造立したものであるので、縁起の流れとしては自然ではある。ちなみに、「神社」って名称は明治以降の名称であり、春日の社などと呼ばれていたのではあろう。
春日神社は中世以降も、織田信長、徳川家康や、また、江戸の頃、この桑名の城主となった本多家、の庇護を受け繁栄。その象徴が「青銅の大鳥居」。本殿でお参りし、立派な構えの楼門(平成7年再建)をくぐり参道を町屋へと進むと青銅の大鳥居がある。「勢州桑名に過ぎたる者は銅の鳥居に二朱女郎」と呼ばれた日本随一の青銅鳥居とのこと。寛文7年(1667)、桑名鋳物によって造られ、桑名城主 松平定重が寄進したものである。

旧東海道桑名宿
青銅の大鳥居をくぐると江戸町に出る。左に折れると七里の渡し跡。船着き場から南にのびる道筋が往昔の東海道とのこと、であるので、大鳥居の一筋東のこの江戸町の道筋が東海道であろう。街並みに、往昔の名残は少ない。江戸期の二度に渡る大火、太平洋戦争、伊勢湾台風などの被害により歴史的建造物の多くが失われた、と。
船着き場から続く、かつての桑名宿には本陣2軒、脇本陣4軒、旅籠屋120軒。家数2,544軒、人口8,848人(男4,390人、女4,458人)、といった大規模な宿場町。東海道では旅籠屋数で宮宿に次ぐ2番目の規模を誇ったと、WIKIPEDIAにある。ちなみに、ふたつあった本陣のひとつ、丹羽本陣は江戸町の北の川口町、その裏手の東船場町にはもうひとつの本陣、大塚本陣があった。丹羽本陣は現在の料亭「船津屋」となっているようで、地図をチェックすると七里の渡し跡のすぐ近くにあった。また、そのお隣にある料亭「山月」は脇本陣跡、とのことである。川口町には問屋場もあった、とか。宿の中心地は船着き場近くにあったようである。
桑名宿、というか桑名の城下町と言えば、「桑名宿の七ッ屋七曲がり」で知られる。城下町の多くは、敵襲の防御のため、道をクランク状にすることが多いが、この桑名の宿は、その傾向が甚だしかった、ということだろう。「桑名宿の七ッ屋七曲がり」を示す何か資料はないかとチェックすると、『考証 東海道五十三次;綿谷雪(秋田書店)』に、以下のような記述があった。「川口町、江戸町、方町、右折して京町、京町御門をくぐって左折して吉津屋町、鍛治町に出て、その町南の短距離において右折、さらに左折、更に左折する曲(かね)の手状の通称"七ッ屋"を過ぎ、七ッ屋御門をくぐり、俗称"七ッ屋の橋"をわたって同所の番所前より右折して新町、伝馬町に至り、七曲番所前にて左折、釘貫御門をくぐって右折、七曲橋をわたって右折、東鍋屋町、西鍋屋町、東矢田町、西矢田町に達し、福江町にて左折、すなわち旧時の宿外の出る。(中略)屈折の甚だしいところから俗称となった七ッ屋および七曲がりの二箇所は、桑名の往還筋にて特に著名な見付番所で「伊勢参宮道で、お伊勢さまに尻を向けるのは、七ッ屋と七曲がりの二箇所だけ」、と(『考証 東海道五十三次;綿谷雪(秋田書店)』より)。桑名は旧地名がそのまま残っているので、現在の地名を元に地図を辿るに、如何にもの「七曲がり」ではあった。

桑名城址
旧東海道筋を越え城址へ向かうとお濠が現れる。少々崩れたような、如何にも年月を経た石積みも残る。幕末の動乱期、桑名藩主は幕軍に与し、立見鑑三郎など一部の桑名藩士とともに会津、函館と転戦した。藩主不在の桑名藩は新政府に恭順の意を示し、開城したといえども、新政府軍に焼き払われ、石垣までも撤去されたと言われる桑名では珍しい、江戸の遺構ではあろう。濠の石垣に残る石段は往昔の船運の名残を伝える。
橋を渡り城址へと。現在は「九華(きゅうか)公園」となっている。城の名残は、なにも、ない。「九華」は江戸の頃、「くわな」と読ませた。くはな>くわな、との転化であろう、か。二方に海が拡がる桑名城は別名、扇城とも呼ばれた。中国に「九華扇」という扇があり、「くわなのおうぎ」城と、「九華扇」をかけたもの、と言う。
城より海を眺める。とはいうものの、前面は揖斐川、その向こうの長良側と木曽川に囲まれた埋め立て地の堤防が下流まで続き、広き海原に拡がるイメージとはほど遠く、往昔、このお城を目安に宮から渡ってきた絵模様は描き難い。海蔵寺でメモした古地図をもとに、木曽三流の河口を扼した往昔の桑名の城を想うに、戦国期には土豪が盤踞し、桑名には土豪の構える城が三つあった、と。そのうちの伊藤氏の館のあったのが現在の桑名城の辺り、と言う。その後、織田信長がこの地を征し、滝川一益を置く。秀吉の時代には一柳、氏家氏などが頻繁に入れ替わった。伊勢街道、東海道と水陸の要衝であった桑名が東軍に落ち兵站・補給の確保が困難となったことが、石田三成の大垣での東軍との会戦を回避し、関ヶ原に引き下がった、という記事も、古地図を眺め、この地にたって、少しリアリティが出たようである。
関ヶ原の合戦の後には家康の股肱の臣・本多忠勝が桑名に入城する。その後、松平家が藩主となり、幕末動乱の松平定敬へと続く。松平定敬の幕末の奮闘は既にメモしたとおりであるが、桑名藩でこの藩主以外に気になる人物に立見鑑三郎がいる。戊辰戦争の北越戦線では雷神隊長として官軍を翻弄・敗走させる。その後会津から、出羽へと転戦し、幕軍として最後まで抵抗した庄内藩が降服するにおよび、明治政府軍に降伏。明治期には一時謹慎するも請われて陸軍に入り。西南戦争、日清戦争、日露戦争で活躍。特に日露戦争の黒溝台の大会戦では、数倍のロシア軍を破り武功を上げ、これら多大なる功績により旧幕軍出身者でありながら、陸軍大将にまで昇進する。中村彰彦さんの『闘将伝・立見鑑三郎』に詳しい。

七里の渡し跡
城址から北に、揖斐川堤防脇にある「七里の渡し跡」へと向かう。東海道の宮宿(熱田神宮のあたり)より海路28キロ。東海道唯一の船渡しである。当時の船は40人乗り、47人乗り、53人乗りがあったようで、海路4時間の船旅であったようである。船着場に建つ鳥居は伊勢神宮の一の鳥居。この渡しより伊勢路に入るため、天明年間(1781~1789)に建てられ、伊勢神宮の遷宮のたびごとに建て替えられている、とか。
船着き場付近は桑名宿の中心でもあり、上でメモしたように、船着き場の西側には舟番所、高札場、脇本陣の駿河屋、大塚本陣、南側には舟会所、問屋、丹羽本陣があった。 蟠龍櫓
七里の渡し跡の近く、揖斐川の堤防近くに櫓が建つ。歌川広重の浮世絵「東海道五十三次」にも描かれているように、かつては東海道を往来する旅人が目にした桑名のシンボルを復元したもの。「蟠龍」とは、天に昇る前のうずくまった状態の龍のことです。蟠龍とは水を司る聖獣。航海の安全を祈って命名されたものであろう。お城からの眺めと同様、海原は見えず、揖斐川と、その向こうを流れる長良川と木曽川に囲まれた埋め立て地が下流まで続き、はるかかなたに、その埋め立て地を横切る大きな橋が目に入る。現在では伊勢湾は、桑名の七里の渡しから5キロほど下流となっている。

河川改修の技師デ・レーケ
蟠龍櫓の後方に地図のついた案内板がある。七里の渡しの説明であろうか、などと思いながら何気なく寄って見ると、それは木曽三川の洪水治水工事の歴史を示す案内であった。ひとつは先ほどの海蔵寺で見た宝暦の治水事業の頃の地図、というか絵図。川筋というよりも、多数の輪中、と言うか島が大河(大海)の中に浮かんでいるようであり、木曽三川の区別などできそうもない「乱流」ぶりである。実際、濃尾平野には、長島、枇杷島などなど、「島」のついた地名が頻出する。外様大名の弱体化を図り、この工事普請を命じられた島津家の怒りは激しく、関ヶ原とともに倒幕運動の伏線のひとつであった、との説もある。
それはそれとして、もうひとつの案内を見え、少々驚く。そこには木曽三川分流工事に貢献した人物としてオランダ人技師、ヨハネス・デ・レーケの名があった。実は、このデ・レーケには旅の一週間前、足慣らしを兼ねて歩いた利根運河で出合っていた。海蔵寺での宝暦の治水ゆかりの事跡とともに、思いもかけぬ偶然の出会いに、成り行きまかせの旅故の、セレンディピティ(偶然をきっかけに得る幸運を掴み取る能力)を感じる。それはともあれ、木曽三川完全分流工事はデ・レーケの計画に基づき、明治20(1887)からはじまり、明治45年(1912)の完成まで25年の歳月をかけて実施された。デ・レーケの計画は、木曽三川の完全分離、蛇行した川筋の整理、堤防の強化などの設計だけにとどまらず、「治水は治山にあり」という理念の下、木曽川流域の山林の保護や水源地の砂防の重要性を説き、治山治水の思想をも日本に定着させた。案内によるとデ・レーケの三川完全分流工事はめざましい効果を上げ、旧海津郡などの1899年の10年前後を比較した資料によると、水害による死者は306人から10人に、全壊家屋または流失家屋は15,436軒から304軒に、堤防の決壊箇所は1821箇所から226箇所に被害は激減している。薩摩義士による宝暦治水、そしてこの改修工事を経て、木曽三川流域の人々は洪水の危険から大幅にリスク回避ができるようになった。現在、別々の川筋として流れる木曽三川の木曽川、長良川、揖斐川ではあるが、現在に至るまでは、長い治水事業の歴史があった、ということである。
一介の下等技師として来日したデ・レーケは、滞在30年、日本の河川改修に一生を捧(ささ)げ、明治36年(1903年)、60歳で日本を離れた。最終的には技師長として、退職金も現在の金額にして4億円というもの。日本の河川改修への貢献を多とした日本政府のデ・レーケへの評価の賜である。

桑名駅
あれこれ寄って見たいところもあるのだが、そろそろ日暮れも近い。揖斐川の堤より桑名駅まで戻り前泊地である亀山へと。気まぐれに寄った桑名のメモが思いのほか長くなってしまった。鈴鹿越えの亀山からのメモは次回から、とする。

そういえば、桑名と言えばの、「焼蛤」であるが、街の各所に焼蛤の店があった。看板に惹かれて拠ってはみたものの、「値段の良さ」に結局はパスしてしまった。焼蛤って、元々は松毬(まつかさ;まつぼっくり)の火で炙ったものであろうし、そもそも、今時、桑名近辺で蛤がとれるわけもなく、どうせのこと輸入品であろう、と己を納得させたわけだが、烏丸広光卿が時雨煮と名付けたように、旬の頃は晩秋から初秋に掛けての小雨が降る頃、というから、今がまさに旬の時期、かと。食に全く興味のない我が身ではあるが、話の種に暖簾をくぐってもよかったか、との想いも少々残る桑名散歩となった。


利根運河散歩

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利根運河のことを知ったのは、いつの頃だったろうか。小金の牧の一端でも感じてみようと、南柏の野馬除土手を見に出かけ、次は流山か野田を歩こうと思っていた頃だろう、とは思う。なにかフックになるところはないかと、地図を見やると、北の野田市、南の柏市・流山市のほぼ境、利根川から江戸川へと通じる水路が目にとまった。それが利根運河であった。全長8.5キロほど。明治23年(1890)、オランダ人技師であるムルデルやデ・レーケの指導のもと開削された日本初の西洋式運河。それまでは、銚子で荷揚げされた物資を東京に運ぶには、利根川を関宿まで遡り、そこから江戸川を下るといった案配で、3日かかったものが、この運河の開削によって1日で東京に届くようになった、とか。最盛期は1日に100艘もの船で賑わい、昭和15年に閉鎖になるまで100万艘の船が往来した、と言う。そのうちに運河を辿ろうと思ってはいたのだが、なんとなくきっかけがなく、そのままになっていた。「状況」が動いたのは先日、秋葉原で開かれた古本まつりで、『水の道 サシバの道 利根運河を考える;新保國弘(崙書房)』を手に入れたこと。運河の歴史や周囲を取り囲む谷戸の景観、中型のタカであるサシバの渡りの中継地といった自然環境のことを知り、これはもう、行くに如かず、とフックがかかった。運河の全長は8.5キロ程度、時間次第では谷津・谷戸や湧水などを探して寄り道しても20キロ程度だろう、と晩秋の週末、利根運河を辿ることにした。



本日のルート;秋葉原駅>つくばエクスプレス・柏たなか駅>医王寺>船戸天満宮>田中調整池周囲堤防>北部クリーンセンターに>運河水門>運河揚水機所>利根運河¥利根川口>運河水門>水堰橋>三ヶ尾の谷津>大青田湿地>国道16号・柏大橋>下三ヶ尾の谷津>ふれあい橋>東武野田線運河橋梁>運河橋・運河水辺公園>利根運河交流館>窪田味噌醤油・窪田酒造>利根運河大師>西深井湧水>におどり公園>運河大橋>今上(いまがみ)落し>利根運河・江戸川口深井城址>東武野田線・運河駅


つくばエクスプレス
利根運河への最寄り駅を探す。東武野田線に、その名もずばりの「運河駅」がある。が、如何せん、運河の「途中」。どうせのことなら、利根川口か江戸川口か、いずれにしても「川口」からはじめようと地図をみる。と、つくばエクスプレスが利根運河の利根川口近くを通り、「柏たかな」という駅が目についた。駅は利根川からも運河からも少々離れてはいるのだが、運河の周辺を辿り、運河の利根川口に向かうことにした。
つくばエクスプレスは秋葉原始発。まったくのはじめての路線である。地下をくぐったり、地表に出たりしながら足立区、八潮、そして三郷を超えて流山に入る。途中「流山おおたかの森」といった駅があった。気になってチェックすると、このあたりの森には「大鷹」の営巣が千葉県ではじめて確認された「市野谷の森」があり、その森が駅名の由来である、と。その森も保存されているとはいうものの、宅地開発のため、規模が縮小されている、と言う。

つくばエクスプレス・柏たなか駅
柏たなか駅で下車。それほど宅地も多くないのもかかわらず高架となっているのは、利根川の周囲堤(遊水地・調整池と堤内地を仕切るための堤防)を越すため、と言う。地形図を見るに、駅は台地と低地の境あたり、台地と谷津(戸)の間の斜面に建つ。ものごとには、それなりの理由がある、ということ、か。ところで、何故に「たなか駅」なのか。気になりチェックすると、その由来は江戸開幕期、豊臣方との大阪の陣での活躍を認められた本多正重が元和2年(1616)に下総と相馬の1万石を加増された時に遡る。その後本多氏は上州沼田城の2万石を経て、享保6年(1722)駿河国の田中城へ4万石として転封されるも、この地は田中藩の飛領地として代官所が置かれていた。そして、明治に至り、明治21年(1888)の町村制施行のとき、田中藩の善政を徳とし、村名を田中村、とした。駅名は、この田中村からのものだろう。

医王寺
利根川口までの道筋で、どこか見所は、と駅前で地図を見る。由緒などはわからないが、途中の医王寺、そしてその近くに船戸天満宮が目にとまる。まずは医王寺へと向かう。
駅前は開発がはじまったばかりの印象。台地をならし、農地の間に宅地が開かれはじめている。道なりに進むと前方に常磐自動車道。台地の間を縫って走ってきたのか、自動車道に近づくにつれ、緩やかで自然な坂となる。自動車道を潜り、再び緩やかな坂を上り、船戸地区に入ると医王寺が見えてくる。
医王寺は、真言宗豊山派で開基は不詳であるが、本堂はこの船戸に田中藩の代官所が置かれた元和5年(1615年)の建立、と言う。本尊は薬師如来とのことだが、最近つくられたと思える千手観音(平和観音)さまが迎えてくれる。このお寺さまは、「船戸おびしゃ(びしゃ=奉仕)」で知られる。おびしゃ、とは通常、矢を射ることがおおいようだが、この地では矢を射ることはなく、酒の宴で「三助踊り」「三番叟」「おかめ踊り」を演じる、とある。最近は自治会館で行われるようになったようである。

船戸天満宮
医王寺を離れ、道なりに船戸の天満宮に。ほとんど北総台地の端、利根川の低地との境に建つ。社殿は最近建て替えられたばかりのよう。鳥居の近く、玉垣の後ろに5基の庚申塔が並ぶ。宝暦から文化年間、というから18世紀の中頃から19世紀初頭のものである。
境内には牛頭天王、清瀧神社、八幡宮、天照皇大神、金比羅大権現、浅間さまなどの石祠が祀られる。区画整理か、なにかの折りに、船戸村の各所に祀られていたものが、この地に集められたのではあろう。
神社の創建は元和元年(1616)と伝わる。この年は、上でメモしたように、本多正重が此の地を拝領した年である。本多正重は家康の重臣・本多正信の弟。家康の家臣であったが、一時期出奔し、滝川一益、前田利家、蒲生氏郷などに仕えるも、結局は徳川家に帰参。関ヶ原の合戦、大阪の陣で秀忠をよく支え、その功もあって、この相馬・下総の地を拝領した。船戸藩とも呼ばれたようである。
その後、本多氏は上州沼田城2万石、享保6年(1722には)駿河国の田中城(静岡県藤枝市)へ田中藩4万石として転封されるも、この下総の地は上知(返上)されることなく、田中藩船戸村として、本多氏は代々250年の長きにわたり、この地で善政を施した。明治の町村制施行時に田中村とした所以である。
飛領地の代官所(御役所)は、今回行きそびれたのだが、天満宮の少し南西にある三峯神社の近くにあった、とか。そこでは飛領地の北半分の村々を治めた、と言う。ちなみに、南半分を治める代官所は藤心にあった、とのことである。船戸の地名の由来は、船の着く場所=戸が、あったから。常陸・下総・武蔵を結ぶ渡船場があり、また、利根川を関宿に上る船運の休憩所としても賑わった、と伝わる。

田中調整地(池)
境内を彷徨い、台地端より低地を眺める。農地の広がる低地は田中調整地(池)と呼ばれる。1175ヘクタールにおよぶ広大な農地・調整地(池)である。境内にあった「船戸村開拓の碑」によると、「利根川沿いの舟渡から布施・我孫子へ至る広大な水田は、昔は洪水になると作物が流され、ために、流作場と呼ばれた。流作場は江戸の亨保10年(1725)、八代将軍吉宗の新田開発策の一環として実施され、田畑、また牛馬の飼料田の肥料用の秣の草刈り場として使われた。茨城側や鬼怒川口より上流には秣場がなかったため、紛争の因となる地でもあった。流作場は昭和23年に開拓がはじまり、昭和32年に完了。後には区画整理が行われ、現在のような立派な水田となった」、とある。この記念碑、江戸の頃、深さ1mもの沼地の広がる和田沼を中心とした利根川流域の湿地帯の開拓のことなのか、昭和になっての開拓の歴史を記念するものなの判然とはしないのだが、いずれにしても、沼地や低湿地を開拓するのは大変な苦労があったと、往昔の労苦を偲ぶ。

周囲堤を進み運河に向かう
天満宮より医王寺方面に一度戻り、台地を西に下ると、田中調整地(池)との境の堤に出る。こういった、調整池・遊水池と堤内地を仕切るための堤防を周囲堤と呼ぶようだ。右手に広がる、この広大な農地が調整池と呼ばれるのは、5年か10年に一度の利根川の大洪水のとき、水をこの農地に入れて、東葛地方を水害から護るため。その時は「湖」が出現する、とか。堤防を低くし、利根川の洪水を取り込む越流堤は、少しくだった布施の方にある、とのことである。また、洪水により冠水した農地は共済組合よりの補償金が制度化されている、と。ちなみに調整「地」は国土交通省の使用名であり、調整「池」は農林水産省の使用名とのこと。
左手前方に柏市の北部クリーンセンターの建物を見ながら堤上を辿り、利根運河に到着。運河水門なども水路上に見える。これからが本日の本番である。

囲繞堤(いじょうてい・いにょうてい・いぎょうてい)を利根川に
周囲堤が突き当たる堤防が右手の利根川方面に向かって延びる。成り行きで先に進むと、この堤防は運河の堤防ではなく利根川と調整池を隔てる囲繞堤であった。調整池との関連での堤防は、遊水地・調整池と堤内地を仕切るための堤防が周囲堤と呼ばれるのに対し、調整池・遊水地と河道を仕切るための堤防のことを(いじょうてい・いにょうてい・いぎょうてい)と呼ぶ。
河川と調整池を遮るものであるので、運河の水路とは関係なく、距離はどんどん離れてゆく。どこか適当なところで堤防を降りて運河へと向かいたいのだが、運河方面へのエスケープルートが、ない。結局常磐道近くまで囲繞堤を進み、かろうじて堤防を降り運河方面への細路を見つけ、運河へと引き返す。水がなかったからよかったものの、時期に寄ってはクリーンセンターあたりまで引き返すことになった、かも。

運河揚水機場
運河跡の水路を利根川口へと先に進むと、塵芥除去用の堰のような施設が運河を堰き止めている。あとからチェックすると運河揚水機場のようであった。現在も機能しているのかどうが定かではないが、この施設は利根川の水を運河に取り込む施設であったようである。
上でメモしたように、利根川と江戸川をショートカットで結び、船運大いに栄え、明治28年(1895)には東京から銚子までの144キロを18時間で結ばれるまでになった利根運河の舟運であるが、明治29年(1896)には日本鉄道土浦線が開通し、田端から土浦が2時間で結ばれるようになる。船運では1泊2日かかった距離である。更に明治30年(1897)には総武鉄道(後の総武本線)銚子と東京が4時間で結ばれるようになると、舟運は次第に衰え、鉄路が長距離大量輸送の主役となる。利根運河の最盛期は明治23年の開通から明治43年頃までの、おおよそ20年だけであった。
その後、昭和16年(1941)には台風の被害により運河の堰が決壊し運河の通行が不可能となり、それを契機に民間企業ではじまった運河会社が破綻し、国が買い上げ、洪水時の利根川の水を江戸川に分水する「川」と変わった。名称も「派川利根川」と呼ばれたようである。もっとも、この洪水分水計画も、洪水被害を恐れる江戸川サイドの反対により、分水計画は実行されることなく、利根川口も閉じられ、結局、利根運河は周辺の排水を流す水路となってしまった。こんな状況が変わったのは高度成長期の首都圏の水不足。利根川の水を江戸川に導水するサブ水路として、この利根運河=派川利根川を野田緊急暫定導水路として策定。昭和47年(1972)工事着工。昭和48年(1973)には通水再開。1975年(昭和50年)には、利根川口の堤防撤去し、500m程下流にあった利根川との接続点を現在の流路に移し、野田導水機場(運河水門)の設置が行われ、利根運河に再び水が流れるようになった。運河揚水機場は、この時期に利根川の水を取り込んでいたのではあろう。
水流の戻った利根運河=派川利根川を野田緊急暫定導水路、ではあるが、2000年(平成12年)4月には北千葉導水路が完成。利根川の水を木下(きおろし)の上流で取水し、手賀川・手賀沼の南端を進み、大堀川沿いに遡り、大堀川注水施設から坂川放水口へと南に下り、松戸の坂川放水路から江戸川に注ぐ。このメーン水路の通水により、サブ水路の利根運河=派川利根川を野田緊急暫定導水路はその役割を負える。現在は水質保全のため、年間の一定期間・一定時間のみ、利根川からの導水が行われている、とのことである。なんの変哲もない運河揚水機場から、あれこれ運河の歴史・変遷が見えてきた。

利根運河・利根川口
運河揚水機場を離れ、先に進み運河、と言うか、正確には緊急暫定導水路ではあるとおもうのだが、ともあれ、利根川口に。利根川の堤を辿ったのは、数年前、手賀沼から手賀川を遡り木下(きおろし)の堤に出たとき以来かとも思う。利根、というだけで、なんとなく、「はるばる来たぜ」の想いが強くなる。
利根川口に下りるが水は、ない。運河建設当時は江戸川から利根川へと水が流れていたようだが、台風の洪水などにより利根川と鬼怒川合流点の河床が上がり、現在では利根川口の方が水位が高くなったようである。そう考えると、先ほど歩いた囲繞堤に沿った川筋跡は、ひょっとして、往昔の利根運河の水路ではなかろうか、なとど思い始めた。上でメモしたように、野田緊急暫定導水路をつくる際に、500mほど下流にあった利根川口を現在の運河の水路に移した、とあるし、それよりなにより、現在の運河のように利根川に向かって「口」を開けて、如何にも取水する、といった現在の水路より、囲繞堤に沿って南へと利根川に向かう水路のほうが、利根川に注ぐには自然なように思える。単なる妄想。根拠なし。

野田導水機場(運河水門)
♪利根の 利根の川風よしきりの 声が冷たく身をせめる これが浮世か 見てはいけない西空見れば 江戸へ 江戸へひと刷毛(はけ)あかね雲♪。三波春男の『大利根無情』を小声で歌い、川口を離れて運河水門へと戻る。この水門も野田緊急暫定導水路計画の時に造られたものではあろう。
利根川口や江戸川口には船宿や茶屋など80軒を越える店が並んでいたようである。茶屋などが並んだところが、どのあたりか定かではないが、川口より少々奥まった処ではあろうから、この水門のある辺りではないだろう、か。川口には運河の料金所が設けられていた、と言う。この運河は利根運河会社という民間の会社によって始められたためである。
当時、この地の県議でもあった広瀬誠一郎氏が当時の茨城県令人見寧により政府の事業として計画を推進したが、人見寧が自由民権運動の加波山事件により職を辞することになる。後任の県令が運河建設に消極的態度であったこともあり、内務省が予算化を許さず、ために、浪人中の人見寧を社長、広瀬誠一郎を筆頭理事とした民間企業の事業として開始されることになった、とのことである。
広瀬誠一郎氏は「この人あって利根運河成る」と称される地元の篤志家。人見寧は京の生まれ。幕末に遊撃隊の隊士として各地を転戦。函館五稜郭の戦いで敗れ一時、逼塞するも、新政府の大久保利通に見いだされ明治政府に仕え、茨城県令となっていた。「利根運河の成就したるは一生涯の快事とす」、と書き残した人物である(『水の道 サシバの道 利根運河を考える;新保國弘(崙書房)』より)

水堰橋
水門を越えて利根運河を辿ることに。西に向かって一帯を眺めるに、運河両岸には谷戸・谷津の森が迫り、誠に美しい景観を示す。先に進むと水堰橋。この辺りが台風により決壊した、とのこと。
水堰橋を渡る県道7号・我孫子関宿線の橋北詰に煉瓦造りの樋管が残る、と言う。利根川の改修工事、第一期の頃、というから明治33年(1900)頃の遺構。樋門のあった堤防は、野田堤とも江川堤とも呼ばれ、かつての利根川右岸堤防か、あるいは控堤(洪水防止のため、重点箇所に設けられる堤防)であったとのこと。台風で水堰橋辺りが決壊した、というもの、なんとなく納得。と、あれこれメモしたが、この煉瓦造りの樋門を知ったのは、此の地を通り過ぎた後のこと。行き当たりばったりの散歩故の、後の祭りのひとつ、ではある。

三ヶ尾の谷津
運河の北側に二筋の森が広がり、その間の低地を江川が流れる。かつてはこの低地は三ヶ尾沼と呼ばれる湿地帯であったが、利根運河開削の残土で沼を埋め、昭和20年代は水田となっていた。平成2年頃にはその水田も耕作放棄され、一時宅地開発の計画もあったようだが、環境保全政策により宅地開発は中止となり、現在「原野」として残る。南北の幅がおよそ200から300m、東西の長さが1.6キロ程度の平坦地の真ん中を江川排水路が流れ、平地の両側には斜面林が広がる、典型的な谷津・谷戸の景観を呈している。
三ヶ尾の名前の由来は不詳である。通常、三ヶ尾とは、三つの尾根・稜線をもつ山、のということではあるので、丘陵地が浸食されて谷状の地形=谷戸・谷津が形成されるとき、丘陵地が三つの地形となった、ということだろうか。単なる妄想であり、根拠、なし。

大青田湿地
山高野歩道橋を渡り運河南岸に移る。運河の南側を船戸山高野と呼ぶ。「やまごうや」と読むようだ。高野は「荒野」から転じた、とか。利根川沿いの丘陵地であり、新田開発された江戸の頃より古い時代に開墾された地域ではあろう。
先に進むと、堤下がいかにも低湿地といった一帯が見えてくる。低地には湧水だろうか、水を集める用水路も見え、その水路は利根運河へと注いでいる。湿地の周囲は斜面林に囲まれ、谷津の景観を示す。このあたりは大青田の谷津と呼ばれるようである。「青田」とはこの地方の方言の「アワラ」に由来し、湿地の意味。アワラ=芦原、からの転化であろう、か。

国道16号・柏大橋
大青田湿地もさることながら、利根運河の逆サイド、運河の北にも、いかにも谷津の風情の景観が広がる。北岸に移るべく、運河堤を先に進み、柏大橋に。柏大橋を通るのは国道16号。八王子あたりでよく出合う国道であり、ちょっと気になりチェックする。
国道の始点は横浜市西区高島町交差点ではあるが、そこから相模原市、八王子市、昭島市を経て、川越市、さいたま市、春日部市、野田市、柏市、千葉市、木更津市に至る。その先は東京湾であるが、道は湾を隔てた横須賀市につながり、始点の横浜に戻る。変則的ではあるが、首都圏を巡る環状線となっている。ちなみに、これも後の祭りではあるが、柏大橋の北に香取駒形神社、南に妙見神社と円福寺がある。香取駒形神社の近くに、戦時中、撃墜されたB29が墜落した、と言う。これは、柏の地に陸軍の飛行場・飛行隊があったことも、その一因であろう、か。昭和13年(1938)陸軍柏飛行場が当時の田中村、十余二村あたりに建設がはじまり、立川から飛行第五戦隊が移転。昭和15年(1940)には柏飛行場の南、高田に第四航空教育隊が設置された。そこで短期飛行訓練を受けた隊員は、鹿屋や知覧の特攻隊の基地に移っていった、とのことである。
立川の航空隊は玉川上水散歩のとき、突然暗渠となり、何故かチェックしたとき、航空隊用の滑走路の延長を考えてのことであったようだが、その飛行隊が柏に移ったため、滑走路の延長はなくなり、それに備えた玉川上水の暗渠だけが残った。歩いていれば、いろんなところで、いろんなものが紐付いてくる。

下三ヶ尾の谷津
大青田湿地の対面に見えた谷津のあたりまで少し戻り、景観を楽しむ。三ヶ尾の谷津と同じく、低湿地に湧水を集めるためのような用水路が通り、両側を森が囲む。地図を見るに、東側の森には普門寺といった古刹も残るよう。これまた、後の祭りの為体(ていたらく)とはなった。
この辺りの谷津をどう呼ぶのかはっきりしない。普門寺が下三ヶ尾地区にあり、往昔、このあたりには下三ヶ尾湿地があった、とのことであるので、一応、下三ヶ尾の谷津、としておく。運河の南北に広がる谷津は如何にも、魅力的。今回は三ヶ尾沼や谷津等の自然の地勢を生かして蛇行する河道を掘り進んだ運河を東から西へとの急ぎ旅ではあるが、次回は、運河南の大青田湿地から、北の下三ヶ尾湿地へと南から北にぶらりぶらりと歩いてみたいと思う。

蛇行する運河堤を西へと進む
下三ヶ尾の谷津を後に、柏大橋に戻る。地図を見るに、運河北側の東京理科大の東側に池がある。これって下三ヶ尾沼の名残であろう、か。運河の南には大青田の森と谷津、その西には東深井古墳の森。この辺りも、再び訪れて彷徨ってみたい。
運河は緩やかに蛇行する。オランダ人技師であるムルデルが運河の計画を立てるに際し、沼や谷津等の自然の地勢を生かし、蛇行する川道を掘り進んだ、と上でメモした。開削当初の江戸川口と利根川口の水位は僅かに28センチ。9キロ弱を28センチの勾配で進む訳であるから、川道が蛇行するのは自然なことではあろう。
蛇行する運河の堤防が正面に見えるところがある。ぱっと見には、堤は段丘面のように数段に分かれている。これは、運河開削時、河底から1.45mのところに幅90cmの「犬走り」をつくり、水生植物で護岸を強化した。また、犬走りから3.3m上に幅1.8mの「曳船道」があった、と言う。岸の左右の「曳船道」は、江戸川口からと利根川口からの曳舟道は、どちらかに決められていた、とのことである。
ちなみに、運河開削当時の利根運河は、閘門はなく、開放運河であり、運河を通る最大の船の大きさを26.4m、幅8.2m、喫水1.06m。底敷幅は18.2m、水深は1.6m。堤防の高さは9.4m、堤防上部の「馬踏(土手上面)」の幅は5.5m。六カ所の狭窄部の底敷幅は10mであった、と言う。六カ所の狭窄部とは、水量を抑え、洪水被害を少なくするためであった、と言う(『水の道 サシバの道 利根運河を考える;新保國弘(崙書房)』)。

ふれあい橋
先に進むとアーチ型の橋が見える。東武野田線・運河駅と運河北にある東京理科大野田キャンパスを結ぶ。全長110m、幅4m。1996年に架けられた。アーチ橋には上部アーチと下部アーチの二つのタイプがあり、上部アーチとは、路面下の桁がアーチ型になっているもので、下部アーチは逆で、路面の上に弓状のアーチを架け、そのアーチ部材からケーブルで路面を吊る構造の橋である。また、そのケーブルが真っ直ぐなものがローゼ橋、斜めに張ってクロスしているものがニールローゼン橋と呼ばれるようだ。ふれあい橋はニールローゼン橋となっていた。

東武野田線運河橋梁
ふれあい橋のすぐ西に東武野田線の鉄橋が架かる。明治44年(1911)、千葉県営軽便鉄道として柏・野田間で開業。野田の醤油輸送を主たる目的とした。その後、鉄道は、北総鉄道、総武鉄道をへて、昭和18年(1943)東武鉄道と合併し現在に至る。

運河橋・運河水辺公園
東武野田線を越えると県道5号・流山街道に運河橋がかかる。運河橋の先は運河水辺公園となっており、川床には浮き桟橋なども架けられ、水面までくだることもでき、多くの家族連れが楽しんでいた。
堤には「ムルデルの顕彰碑」や「利根運河の碑」が建つ。ムルデルはオランダ人技師。明治12年(1879)に31歳で来日し、明治23年(1890年)帰国。その間、お雇い外国人技師として、日本各地の河川や港湾改修の指導にあたった。利根川、江戸川、鬼怒川の改修等にも従事しており、なかでも利根運河は日本でムルデルが手がけた最後の仕事であった、とか。
お雇い外国人として来日したときの月給は450円。当時の太政大臣三条実美の給料が850円、日本人土木局長の給料が250円であった、という。本国での丘給料の10倍から20倍という高級で招聘してでも、公共施設の整備を急いだ、ということであろう(『水の道 サシバの道 利根運河を考える;新保國弘(崙書房)』より)。利根運河の碑は明治41年(1908年)の建立。題字は山縣有朋による。

利根運河交流館
運河北岸を少し西に進むと国土交通省江戸川河川事務所運河出張所の1階に利根運河交流館。運営は地元のNPO法人が行っている、と。当日はイベントがあったとかで、その片付けに最中の慌ただしい仲お邪魔し恐縮。往昔の運河の写真など資料が展示されている。

そこで「利根運河絵図」を頂く。運河周辺の見処を含め、情報がまとまっている。この資料が前もって手に入っていたら、「後の祭り」は相当減ったことだろう。ともあれ、取りこぼしは再び辿ることにして、交流館を後にする。

窪田味噌醤油・窪田酒造
先に進むと、堤下に黒板壁の蔵が見える。創業明治5年(1872)、創業者の吉宗さんが利根運河開削に合わせ、この地に移った、と。千葉県最北部の野田。流山は醤油や酒、みりん、などで知られる。とは言いながら、今回に散歩では、この地ではじめてその「事実」に出合った。なんとなく、嬉しい。

利根運河大師
窪田酒造のすぐ東、これも堤の下に利根川運河大師。堤を下りると17体の弘法大師像が佇む。これは大正2年、地元世話人の呼びかけで弘法大師像と祠を運河の堤に建て、「新四国八十八ヶ所利根運河霊場」を成した。行楽を兼ねて多くに人が訪れたこの札所も昭和16年の大水害による水水害で水堰が決壊し、その改修工事に際し、堤防上の札所の立ち退きが行われ、その後、結果的には大師像が四散し、所在不明となった。その後、昭和61年に、柏・野田・流山の近隣三市の有志により大師像の捜索が行われ、市野谷の円東寺に移されていた17体の大師像を見つけ、大師堂を建て、この地に迎えた、とのことである。

西深井湧水
利根運河交流館で頂いた「利根運河絵図」を見るに、利根運河大師のすぐ先にある西深井歩道橋を南に渡ると、すぐ南に西深井湧水の案内がある。湧水フリークとしては、「MUST案件」として、湧水池へと向かう。
橋を渡り、北総台地と低地の境の斜面林の崖下を南に進むに、湧水からの流路らしき筋があり、そこを辿ると湧水池があった。西側の低地部分は流山工業団地となっており、道路脇の湧水池であり、今ひとつ趣きには欠けるのだが、それでも、「湧水」を見ることができるだけで、心嬉しい。

におどり公園
再び「利根運河絵図」を見るに、流山工業団地に沿って運河堤下を少し東に進んだところに「におどり公園」。鳰鳥(にほどり)って、この辺りに棲むカイツブリという鳥の古名前、とか。如何なる由来の公園かと訪ねることに。v公園には万葉集に掲載された東歌の碑があった。『鳰鳥(にほどり)の葛飾早稲(わせ)を饗(にへ)すとも その愛(かな)しきを外(と)に立てめやも』。解説によると、「万葉集が編纂された8世紀には流山をはじめ現在の江戸川沿いの野田から市川、埼玉の一部も含めた一帯は「葛飾」と呼ばれ、早稲米を産する米どころとして知られていた。右の歌は、「葛飾の里でとれた早稲米を神に捧げ、門を閉ざして神の恩恵に感謝し、豊年を祝う晩は男女とも清浄でなくてはならないのだけれど、もし、いとしいあの人が訪ねて来たら外になど立たせておけないだろう。」という意の恋する乙女心をうたった歌である。「におどり」とは葛飾にかかる枕詞でありカイツブリという鳥の古名である」、と。
古来の葛飾は、此の辺りの新川耕地などの流山や江戸川対岸の三郷市一帯。古来より水田地帯であった、ということもさることながら、如何にも情緒豊かな歌に、情感乏しき我が身も、少々心動く。

運河大橋
県道5号・松戸野田有料道路が運河を越える運河大橋を越え利根運河江戸川口に進む。運河の北は今上耕地、南は新川耕地の広大な水田地帯が拡がる。新川耕地はタゲリの田圃とも呼ばれる。冬鳥として飛来し、本州中部以西の田圃や河岸・池沼で越冬する。一部関東北部では繁殖するものもいる、とWikipediaにあった。運河堤から東を見やると、新川耕地の背後に5キロほど続く、北総台地の斜面林が美しい。

今上(いまがみ)落し
運河の堤から南北の耕地を見やる。北の今上耕地、南の新川耕地に幾状かの水路が見える。往昔、利根運河ができる前、この北の野田から南の流山の水田地帯を南北に流れる悪水路(水田で不要となった水)を流す水路があった。利根運河を造るに際し、この水路を運河の下を暗渠でくぐらせるようにした。水路を深く掘り下げた工事は724mにおよび工期1年という、利根運河工事のなかでも大きな位置を占める工事となった、と言う。
今上落しがどの水路か定かではない。運河大橋の近くに新野田南排水機場があるあたりの、運河を隔てた南側に水路が現れている。現在では暗渠を通ってきた水をポンプアップで組み上げているのだろう、か。確かめたわけではないので、この水路が今上落しなのかどうか、確証はもてない。この水路、野田から流山まで11キロ程度続くようで、流山で江戸川に注いでいるようである。そのうちに流山の江戸口から遡ってみよう、と思う。

利根運河・江戸川口
運河堤を先に進む。どこかで見かけた図を想い起こすに、今上落しから江戸川口までの間には、舟運の料金所や宿、料亭、茶屋、鍛冶屋、網屋などが軒を並べていた。往昔の賑わいを想いながら、現在では耕地が拡がる運河の南北を眺めながら利根運河の江戸川口に到着。利根川口から江戸川口まで8,5キロ程度、延べ220万人、1日平均2,000名から 3,000名が工事に従事した利根運河を歩き終える。

深井城址
利根運河散歩を終え、家路へと向かう。途中、「利根運河絵図」にあった深井城址に立ち寄る。それらしき森に入るも、標識などなにも、ない。なんとなく、此の辺りかと彷徨う、のみ。城は戦国期、小金井城を本拠としていた高城氏の支城。重臣の安蒜一族が籠もった、と言う。城は、小田原征伐の折、小金井城が開城したときに、同じく開城。その後小金井城とともに廃城となった。いつだったか、小金井城を辿ったことを思い出し、その城址を想う。

東武野田線・運河駅
城址を離れ、すぐ近くにある割烹旅館新川の前を通り、明治創業のこの割烹旅館に、利根運河が賑わった当時を想い東武野田線・運河駅に向かい、一路家路へと。

そういえば、今回の散歩のきっかけともなった、『水の道 サシバの道 利根運河を考える;新保國弘(崙書房)』にある、サシバのことに全く触れていなかった。『水の道 サシバの道 利根運河を考える;新保國弘(崙書房)』によれば、サシバとは中型の鷹。夏鳥として東南アジアや中国南部から3月下旬から4月上旬にかけて秋田以南の各地に渡来。日本の谷津田で繁殖し、毎年10月頃、愛知県の伊良湖岬、ついで鹿児島県佐多岬をへて、屋久島以南の南西諸島や東南アジアに渡って冬を過ごす。その渡りのルートが此の辺りでは、利根運河の江戸川口がその飛翔ルートであったようである。サシバの生育地の条件としては、谷津田があり、耕作水田があり、その水田が大きな斜面林に蔽われる、といったことで、このあたり千葉県北部はサシバだけでなく、おおたかの森で知られる大鷹、フクロウ、ハヤブサといった猛禽類の繁殖、生息地に適している環境のようである。いつだったか、手賀沼の辺りを散歩していたとき、山科鳥類研究所があり、何故この地に、と思っていたのだが、なんとなくその理由がわかったような気がする。


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