2011年10月アーカイブ

今回が玉川上水散歩の最終回。上水が甲州街道を横切る代田橋から、新宿の四谷大木戸まで辿る。先回の、浅間橋跡から杉並区和泉の和泉水圧調整所までは、比較的真っ直ぐな水路跡の暗渠であったが、今回は窪地を避けた大曲りあり、一部開渠あり、整備された公園・緑地あり、尾根道に切り込む谷筋を避けた迂回路あり、少々の変化のあるルートとなる。
なお、今回も先回と同様、散歩メモのうち、橋の記録は『玉川上水・橋と碑と;蓑田たかし(クリオ)』の中になる「橋の移り変わり」を参考にした。『上水記』とは寛政3年(1791)に幕府の普請奉行が編纂した高川上水に架かる橋の記録としては最も古い資料である。橋の記録で明治3年(1870)とあるのは、玉川上水通船計画時に作成された『玉川上水掘筋渡橋取り調』記載のデータである。また、明治39年(1906)の記録とは、東京市水道局まとめた『玉川上水路実測平面図』による。


本日のルート;代田橋>ゆずり橋>大原橋>稲荷橋>南どんどん橋>第三号橋>笹塚橋>上水第二緑道>延寿橋>北沢橋>四条橋>五条橋>六条橋>常磐橋>相生橋>代々幡橋>山下橋>美寿々橋>二字橋>西代々木橋>新台橋>新代々幡橋>改正橋>伊藤橋>三字橋>千駄ヶ谷橋>天神橋>葵橋>JR新宿駅>天竜寺橋>新宿御苑>四谷大木戸

代田橋
甲州街道と井の頭通りが交差する松原交差点を左に折れ、和泉水圧調整所に沿って甲州街道を東に進む。明大前の井の頭線跨線橋で見た二条の水道管のひとつは、旧玉川上水路に沿って埋設されているのであろうから,和泉水圧調整所敷地南の地下を、往昔、代田橋があったあたりに向かって続いているのだろう。甲州街道脇にある東放学園あたりで甲州街道に出ている、とも。
代田橋は旧水路が甲州街道を越えるところに架かっていた。『上水記』にも記載される古き橋は昭和12年(1937)、甲州街道の改修・拡張にともない姿を消した。『新編武蔵風土記稿』には、「わずかにしてさせる橋にはあらざれど、甲州海道の内にて旅人ここを目当てとして往来すれば、その名も世に聞こえし橋なり」、とある。代田橋の袂には水番所があったとのことである。玉川上水がこの地でクランク状に南に折れるのは、甲州街道を東に進んだところにある「荻窪」と呼ばれる北に開けた浅い谷戸を避けるためであろう。

ゆずり橋
陸橋を渡り甲州街道の南側を少し東に進むと、ビルの立ち並ぶ一画に、緑豊かな場所が現れる。玉川上水は、ここで幅2mほどの開渠として姿を現す。甲州街道から京王線・代田橋駅脇の線路を潜るまで、距離としては150m程度ではあるが、ちょっとした渓谷の風情を漂わせる。橋を潜った先には赤煉瓦のアーチ橋。ここは和田堀給水所からの配水管が渡る「玉川上水第一号橋」と呼ばれる橋であったが、老朽化に伴い掛け替えるに際し、橋名を公募。「譲り合いの精神」から「ゆずり橋」となった、とか(『玉川上水・橋と碑と;蓑田たかし(クリオ)』)。

ところで、代田の地名の由来は、伝説の巨人・ダイダラポッチから、との説がある。ダイダラポッチの伝説は日本各地にあり、その足跡は水の涸れることのない肥沃な窪地となる、ということだが、この地では守山小学校付近の窪地、とも伝わる。 柳田國男もその著書『ダイダラ坊の足跡』(1927年(昭和2年)の中で、ダイタの橋から東南へ五六町、その頃はまだ畠中であつた道路の左手に接して、長さ約百間もあるかと思ふ右片足の跡が一つ、爪先あがりに土深く踏みつけてある、と言つてもよいやうな窪地があった。内側は竹と杉若木の混植で、水が流れると見えて中央が薬研になつて居り、踵のところまで下るとわづかな平地に、小さな堂が建つてその傍に湧き水の池があつた。即ちもう人は忘れたかも知れないが、村の名のダイタは確かにこの足跡に基いたものである』、とも書いている。
ダイダラポッチは、話としては面白いのだが、他になにかヒントはないものかと、あれこれチェックすると、安曇野では代掻き(しろかき;田植の前に水田に水を入れて土塊を砕く作業。)が終わり、早苗を植えるまえの田圃のことを代田と呼ぶようだ。自分としては、何の根拠もないのだが。こちらのほうに与したい、とも思う。代田にはその他にも、少し高めの台地にある田圃のことを指す、とも言われる。代田村は江戸初期の開村。北条氏の重臣吉良氏の家臣、清水・秋元・斉田・斉田・柳下・山田・大場の七人(代田七人衆)が帰農して開墾したのが始まりとのことである。

向岸地蔵尊
ゆずり橋を越えると、環七までの間、玉川上水緑道、というか、ちょっとした公園が環七まで続く。公園の中に向岸地蔵尊が祀られる。地蔵尊の傍らの由来書によると、今から200年ほど昔、荏原郡北の里(現在の世田谷区大原)に生まれつき身体が曲がっている向岸という人がおり、自身の境涯を悲しんでいた。そこに、ある夜、とある高僧がお地蔵様となって現れ、今後、世のため日夜念仏を唱えれば救われる、と。お地蔵様の教えに従い念仏三昧の生活をはじめた向岸さんと、それを聞き知った人々が集まるようになり大きな講中となった。地蔵尊は、生前の徳を偲んで講中の人が建立したものである。現在でも、お線香が途切れることのないような雰囲気であった。

大原橋
先に進むと環七に交差。環七には地下道を潜る。配管などが露出する素朴な地下道である。渡り切ったところに大原橋跡が残る。環七は昭和初期に計画され、昭和39年(1964)、東京オリンピックを契機に整備が進展するも、最終的に貫通したのは昭和60年(1985)。計画から完成までにおおよそ60年弱かかった。大原橋がいつ架橋したか不明ではあるが、環七の工事の年代からすれば、昭和の頃のものではあろう。
甲州街道と環七の交差点は大原交差点と呼ばれる。元は代田村。明治22年(1889)、世田谷村大字代田の字東大原・西大原・荻久保となり、昭和7年(1932)、字東大原・西大原・荻久保が世田谷区大原町となる。その後昭和39年(1964)、松原町や羽根木の一部を加え、大原となった。地名の由来は、だだっぴろい原っぱ、といったところ。現在の交通の往来激しき姿から往昔を想像するのは、難しい。

稲荷橋

環七を渡ると上水路跡に公園が続く。世田谷区玉川上水緑道と呼ばれている。家族連れが楽しむ公園を進むと稲荷橋にあたる。昭和2年(1927)竣工。近くにお稲荷様の小祠がある、とのことである。近くを彷徨ったが、稲荷の祠は見付けることはできなかった。
稲荷橋から先は、開渠となる。川面まで結構深い。笹塚に近づくにつれて、川面が近くなる、ということは、台地を掘り下げる高さを調整し、上水が自然流下する勾配をつくっているのであろう。開渠の両側はフェンスで囲われ、木々が生い茂り、情緒少なき都市の中に野趣豊かな一画を形作っている。

幡ヶ谷分水口
稲荷橋のところに幡ヶ谷分水口がある。この地より北上し、甲州街道に沿って西に向かい、代田村大原から自然の谷筋(荻窪)に流れ込み、三郡橋を潜り、甲州街道を越える。その先は、笹塚田圃の西端に達し、神田川支流笹塚川(和泉川)と合わさり、笹塚川(和泉川)の養水として機能した。水路は玉川上水と逆に向かうこところもあったため、逆川とも呼ばれたようである。三郡橋は甲州街道を横切るあたりが、かつての南豊島郡、東多摩郡、荏原郡の境であったため、このように呼ばれた、と。
ついでのことだが、幡ヶ谷分水については、分水の水量を増やすため、村民はあれこれ知恵を働かせたようである。明治31年(1898)、淀橋浄水場への新水路建設に伴い、移転が必要となった弁天社を幡ヶ谷分水口のすぐ傍に移し、弁天社と言えば湧水でしょう、ということで、池を掘り、こっそりと玉川上水から水路を繋いだ。農業の生命線でもあった分水も、現在ではその役割を終え、昭和初期には分水が廃止。弁天社も幡ヶ谷の鎮守である渋谷区本町の氷川神社に移された、とか。

笹塚・第二号橋・南どんどん橋
開渠となった上水路に沿って先に進む。笹塚駅手前の二号橋までのおおよそ100m程度で開渠は終わり、暗渠となる。京王線下を南北に抜ける笹塚駅前の通路脇に、撤去された橋の親柱が残り、「南どんどん橋」とある。水路は笹塚駅前で大きく南に向かって流路を変える。ために、水が堤にあたり「どんどん」と音が響いていたのであろう。南どんどん橋は笹塚駅の高架改修で撤去された。
笹塚の地名の由来は、甲州街道など、江戸の五街道に築かれた一里塚跡とも言われる。が、大正5(1916)年刊行の『豊多摩郡誌』には、甲州街道の両側にあった塚が、すでに見られないと記してある。

牛窪
水路は笹塚駅前で大きくUターンし、南に向かって流路を変える。世田谷区の旧大原村と旧北沢村の境にある荻窪といった窪地、水田地帯があり、これを避けるため笹塚地区内に迂回してきた上水路は、この地で再び、幡ヶ谷牛窪の低地帯を避けるためUターンすることになる。現在、中野通りと甲州街道が交差する交差点南詰めに牛窪地蔵が祀られる。笹塚の辺りの甲州街道を走れば一目瞭然ではあるが、この辺りは窪地となっており、往昔、牛が窪と呼ばれていた。この地は雨乞い場でもあり、また、牛裂の刑を執行する刑場跡でもあった。牛窪地蔵が祀られたのは宝永・正徳年間の疫病を避けるため。地蔵尊の祠、といっても現在は結構モダンな造りとなっているが、その脇には道供養塔、庚申塔が祀られる。

第三号橋
笹塚駅前で大きく南に向かって流路を変えた水路は、旧北沢村に向け、南に下る。駅のすぐ先の通に橋が架かる。この第三号橋から上水は再び開渠となって進む。稲荷橋から第二橋までの開渠に比べて、比較的オープンな雰囲気。周囲を囲む鉄のフェンスもない。200mほどの開渠も笹塚橋に至り、再び暗渠に潜ることになる。

笹塚橋
笹塚橋を越えると渋谷区から世田谷区に入る。笹塚橋の脇、三角になったコーナーが三田用水の分水口、と言う。最も、笹塚橋が記録に表れるのは明治39年(1906)であり、当然のことながら三田用水は、それよりもっと古く江戸の頃、寛文四年(1664)であるので、正確には三田用水の分水口付近に笹塚橋が架けられた、ということだろう。

三田上水
玉川上水から分水された三田上水は、当初、三田、白金、北品川まで飲料水として給水され、その距離は10キロにも及んだ。亨保七年(1722)には、神田上水と玉川上水を除いた、青山・三田・千川上水が廃止されることになるが、それは、八代将軍吉宗の御用学者である室鳩巣が、当時頻発した江戸の火災の主因が、上水網による地脈の変化であるとの妄言を建白し、採用されたためである。その後、上水は沿岸の人々の要請により、農業用灌漑用水として復活。三田用水も亨保10年(1725)、1宿13ヵ村に農業用水として復活した。明治以降は、海軍火薬庫(現在の防衛省技術研究所)や恵比須ビールで利用されるも、昭和49年(1974)に、分水口は閉じられた。
三田用水の水路跡は残っていないが、小田急線・東北沢駅を越えた、東大駒場手前の三叉路は三角橋と呼ばれる。これは三田水路の名残の地名である。いつだったか三田上水の下流部を彷徨ったことがある。窪地を避けるために迂回したり、導堤を築くなど、工事は結構大変であったろう、と感じた。以下、簡単に流路をメモする;分水口>北沢五丁目商店街の通りの裏を南に下る>三角橋交差点(北沢川溝ヶ谷支流や宇田川水系の富ヶ谷支流の分水界のあたり)>東大駒場キャンパスの塀に沿って下る>山手通り>井の頭線の上を通過>松涛2丁目で旧山手通り>西郷山公園脇>鑓ヶ崎交差点を懸樋で渡る>別所坂を上り切ったあたり>茶屋坂隧道跡(平成15年に水路橋は撤去される)>起伏の激しい港区白金を迂回、導堤で進む(白金台3丁目12に堤跡;三田用水路跡の案内)>桜田通り脇の雉子神社(東京都品川区東五反田1丁目2)>高輪3丁目交差点あたりで二つに分岐>ひとつは南に下り、新高輪プリンスホテルをこえたあたりで東に折れ>品川駅前に降りる。もう一方は尾根道を北東に進み井皿子交差点を経由し三田3丁目に下り>慶応大学近く・春日神社あたりから東に進む。また、もうすこし北 に進み東に折れる水路もある、といったところ。

北沢橋

笹塚橋を越え、整地された遊歩道(玉川上水第二緑道)を進む。流路は中野通り五条橋交差点の先に弧を描いて中野通りに合流する。中野通を渡ったバス停の脇に北沢橋の親柱が残る。中野通り改修の際、実際架かっていた場所からは移された、とか。『上水記』には摂津守橋、明治3年の記録には角神橋。明治39年(1906)には北沢橋とある。北沢八幡への寄進状に下北沢領主として慶安三年(1650)当時の領主として斉藤摂津守という名が残る。この人物と関係があるのだろう、か。笹塚橋から北沢橋の間に、昭和になって延寿橋という橋があったようだが、その場所は、はっきりしない。
荻窪の低地を避け、笹塚へと迂回し、その笹塚からは牛窪の低地を避けて、この地まで進んだ上水路は、今度はここで再び大きくU字型に弧を描き、ここからは渋谷川水系の分水界を幡ヶ谷、初台、そして代々木へと進む事になる。

散策路旧玉川上水ルート
北沢橋から新宿南口の旧葵橋にかけては暗渠ではあるが、公園・緑道として整備されており、快適な散歩が楽しめる。『玉川上水・橋と碑と;蓑田たかし(クリオ)』によれば、明治31年(1898)、和泉水圧調整所から淀橋浄水場への新水路建設にともない、上水の機能を無くし排水路と化していた玉川上水旧水路を、上流部の整備、すなわち、杉並の浅間橋から和泉水圧調整所までの暗渠化をきっかけに、下流部の整備要望の声も高まり、昭和46年(1791)、都水道局と区との間で公園・緑道化が進められることになった。

四条橋、五条橋、六条橋・常盤橋
緑道を進むと四条橋、五条橋、六条橋と続く。遺構はなく、モニュメントとしての橋として残る。明治の記録には残っていないので、昭和に入ってからの橋ではあろう、か。常盤橋は明治39年(1906)の記録に残る。水路は北東に弧を描いて進む。水路の右、というか南は坂になっており、尾根道の稜線部・馬の背を走っていることが実感できる。
常盤橋の南、代々木大山公園、国際協力機構、製品評価技術基盤機構などが集まるあたりが渋谷川水系宇田川の源流点と言われる。狼谷などと言う、如何にもといった谷筋もある。幡ヶ谷、初台、富ヶ谷一帯に複雑に広がる開析谷から流れ出る水はすべて代々木八幡駅前に集まり、ひとつになって渋谷駅近くで渋谷川と合流。後は渋谷川として南に下っていた。

相生橋
北沢橋以降の橋は、既にモニュメント・造形物になっているが、この相生橋は現役時代そのままの風情を残す。親柱には大正十三年十一月竣工の文字が刻まれている。相生橋の南にあるJICA(国際協力機構)と製品評価技術基盤機構の間に見える池が渋谷川の支流・宇田川の源流点と言われる。谷が入り込んだ複雑な地形となっている。渋谷川水系の川筋を彷徨った頃が懐かしい。




代々幡橋・山下橋・美寿々橋
代々幡橋は『上水記』には延寿橋と記された古き橋。明治3年(1870)の記録では延寿橋とあるが、明治39年(1906)の記録では代々幡橋となっている。代々幡は代々木と幡ヶ谷の合成語。明治22年(1889)、合併して代々幡村、後に代々幡町となった。植え込みの中に元々の支柱が埋められていた。山下橋は水車風のモニュメント。これも植え込みに支柱が残っている。その先に美寿々橋。山下橋も美寿々橋も明治の頃の記録にはない。



二字橋
幡ヶ谷駅前から南に延びる幡ヶ谷商店街の道筋に架かる橋が二字橋。明治39年(1906)の記録に残る。二字橋の由来は不明だが、もう少々下流にある三字橋は、地名の三つの字(新町・初台・山谷)に架かる橋ということだから、二字もふたつの字名に架かる橋、とも思える。
幡ヶ谷の地名の由来であるが、その説のひとつに、八幡太郎義家が永保2年(1082年)、「後三年の役(1083~1087)」に出征途中、源氏の白旗を洗ったという「旗洗池伝説」がある。旗を翻した池>幡ヶ谷、となった、とか。その池は小笠原窪付近(幡代小学校を越えた甲州街道の北)にある池で、神田川に注ぐ自然湧水の池であったようだ。その池は昭和38年(1963)に埋め立てられ、今は、ない。また、その時の白旗は渋谷の金王八幡宮に社宝として祀られている、と言う。

西代々木橋・新台橋・新代々幡橋
『上水記』に勘右衛門橋とある古き橋。明治3年(1870)の記録では勘右衛門橋とあるが、明治39年(1906)には西代々木橋とある。珍しい木彫り形式の橋のモニュメントが残る。新台橋を越えると新代々幡橋。山手通り・初台坂下交差点から北西に上り、甲州街道・本町1丁目交差点に架かる。玉川上水が甲州街道と平行する地に架けられた橋ではあるが、現在は記念碑も遺構も残らない。新代々幡橋交差点は明治の記録には残っていない。
新代々幡橋から山手通り・坂下橋交差点へと下る坂の途中、少し東に入ったあたりに渋谷川の支流・初台川の源流点があった。現在では水源もなにも見あたらないが、往昔、代々木九十九谷と呼ばれた谷頭を想像しながら、甲州街道に沿った馬の背を進む。

代右衛門橋・幡代橋
甲州街道に沿って上水跡を進む。初台駅あたりの上水路は、南から切りあがる宇田川水系の谷筋を避け、甲州街道に再接近している。ほどなく代右衛門橋。『上水記』にある古き橋。明治3年(1870)の記録には代々木橋、明治39年(1906)には再びを代右衛門橋となる。現在では大門橋とも呼ばれる代右衛門橋を越え、幡代橋に。この橋は幡代小学校へ渡る橋であった、よう。幡代小学校は明治15年(1882)、代々幡村ができる前、幡ヶ谷村と代々木村が協力して開校したもの。村の名前は代々幡としたが、学校名は幡代と旧村名を逆転してバランスをとった、ということだろう、か。
上でメモしたように、この幡代小学校の甲州街道を隔てた北側には小笠原窪と呼ばれる窪地もあった、よう。小笠原窪の由来は、この地に備前唐津藩小笠原家の屋敷があった、から。

改正橋
幡代橋を越えると、上水路は甲州街道から弧を描くように甲州街道から少し離れる。先に進むと京王新線・初台駅前の通りに架かる改正橋に。明治39年(1906)の記録に登場する橋。名前の由来は通りの名前である改正通り、から。改正通りの名前の由来は不明。京王新線・初台駅も、京王電鉄の前身である京王電気軌道の路面電車として開業した大正3年(1914)には、改正橋駅と呼ばれていたようである。初台駅となったのは大正8年(1919)、当時に地名である渋谷区代々木初台に因んで改称された。

初台
ちなみに、初台の地名の由来には諸説ある。一説が、徳川幕府2代将軍秀忠の乳母が「初台の局」と呼ばれ、この地に二百石の知行地を賜ったことに由来する、とするもの。また、太田道灌が築いた一の砦(狼煙台)に由来するとの説もある。幡代(はたしろ)、から「はただい」と読みが変わり、文字も目出度さを込めて「初台」とした、とする説もある。地名の由来はどれも、諸説あり、定まることなし、といったものではあるが、自分としては、なんとなく地形に関係したものではないかと妄想する。
幡ヶ谷にしても幡代にしても、「はた」は端、台地が浸食された崖端を意味するのではないかと思うのだが、これといって根拠があるわけではない。武蔵野台地の末端の一部で幡ヶ谷台地は、渋谷区の北部を東西に延び、北は神田川の谷に面し、南斜面は渋谷川水系の宇田川や初台川に侵蝕され、千駄ヶ谷・代々木・西渋谷の台地に連なっている。また、代々木台地に並んで南に突き出している支丘が初台台地(標高約39m)であり、この台岬(台地の先端)には代々木八幡神社が鎮座する。このように、複雑に切り込まれた谷頭を見るにつけ、幡ヶ谷とか初台の名前に由来は地形からではなかろうか、と思うだけではある。

伊藤小橋・伊藤橋
初台駅前を離れ、先にすすむとほどなく伊藤小橋。明治39年(1906)の記録には、ない。緑道を山手通りに向かって進む。山手通りに架かっていた伊藤橋へと向かう道すがら、道脇の排気口から音が聞こえる。地下を走る京王線の走る音であろう。

京王線軌道敷
現在は新宿から笹塚まで地下を走る京王線であるが、大正2年(1913)4月、京王電気軌道として笹塚から調布間に開業後、大正4年(1915)、新宿追分から笹塚間が開業(大正2年10月代々幡・笹塚間開業、大正3年3月幡代小学校・代々幡間開業、同年6月代々木・幡代小学校開業、同年11月新町・代々木間開業)した。郊外が先になったのは、すでに市街地となっていた新宿近辺の用地買収の困難さ故、と言う。



それはともあれ、開業時の京王電気軌道は、専用軌道をもつ路面電車といったものであり、始発の新宿追分(新宿3丁目交差点:伊勢丹は路面電車の車庫であった)>省線新宿駅前(現在の新宿南口)>葵橋(西新宿1丁目)>新町(西新宿2丁目)>天神橋>西参道(神宮裏)>改正橋(初台)と走った。幡ヶ谷駅から新宿まではもとは、甲州街道を走る軌道であったようではあるが、昭和11年(1936)年には、幡ヶ谷より新町までは玉川上水を暗渠とした上に専用軌道を敷設した、と言う。起点も昭和2年(1927)には新宿4丁目に京王ビルを建設し、四谷新宿駅として追分駅から移った。
戦後も新宿駅と文化服装学園前までは甲州街道上に軌道が敷設されていたが、交通障害や甲州街道自体の拡張のため京王線軌道敷をつくることになり、昭和36年(1961)に工事開始、昭和38年(1963)、地下を走ることになる。路線は昭和20年(1945)に現在の京王線新宿駅に移っていた始点から南下し、甲州街道を渡り切ると大きくカーブし、玉川上水跡の地下を笹塚まで走っている。新宿から笹塚間が複々線化され、京王新線が開通したのは昭和53年(1978)のこと。こちらの路線は、甲州街道下を走っている、とのことである。

三字橋
伊藤橋、と言っても、今は何の名残もないのだが、山手通りに架かっていた伊藤橋を想像しながら道を渡る。西参道に向かって進むと三字橋。「みあざ橋」と読む。明治39年(1906)の記録に残る。三字の由来は、新町・初台・山谷という「字」名に由来する。三字橋の南には河骨川の源流点が迫る。春の小川の舞台ともなった、河骨川の源流点を求め、水路跡を刀剣博物館あたりを彷徨った当時が懐かしい。

代々木橋
十二社通り・西参道を渡る代々木橋跡地。遺構はない。明治39年(1906)の記録に代々木橋として登場する。代々木の地名の由来については、『大日本名所図絵』に「代々木御料地なる旧井伊侯下屋敷に樅の老樹あり、幾年代を経しを知らず、すでに枯れて後継樹も喬木となり居れり、是れ当地に於いて最も有名なり、代々木の称は是より起これり」、とある。代々(だいだい)、この地に樅(もみ)の木があったことが、代々木の由来、とか。代々木村の代々木、として江戸の頃は有名であったようである。

正春寺橋・諦聴寺橋
代々木橋を越えると、『上水記』には正春橋が記される。正春寺は三代将軍家光の乳母である梅園局が、母である初台局の菩提寺としてこの地、当時の代々木村山谷(現在の渋谷区代々木3丁目)に正春寺を創建した、と。また、この寺には大逆事件で幸徳秋水等とともに処刑された菅野スガの記念碑が残る。正春寺橋の先には諦聴寺橋があった、とか。明治の記録にはない。

京王電鉄・天神橋変電所
いかにも京王線軌道敷といった遊歩道、と言うか公園を進む。時に地下から京王線の走る音が聞こえる。先に進むと公園、と言うか上水路跡の南に京王電鉄・天神橋変電所がある。この変電所は京王線新宿駅が現在の地に移った原因を生じたところ。第二次大戦末の昭和20年(1945)の大空襲により、当時の天神橋変電所が被災し、電圧が低下。当時の始発駅であった、新宿四丁目の四谷新宿駅からは国鉄を跨ぐ跨線橋を上れなくなり、陸軍工兵隊が大至急で跨線橋の西、現在の京王線新宿駅あたりに駅を設けた、とのことである。

天神橋跡
先に進むと文化女子大手前の道脇に天神橋跡の石碑。『上水記』に記される古き橋である。由来は、上水路跡を少し北に上った甲州街道脇に銀杏天神社、から。箒を逆にしたような箒銀杏と称される大銀杏の根本に天満宮のささやかな祠がある。
京王電気軌道の天神橋駅には大正11年(1922)貨物用のホームが設けられた、と言う。多摩川で採取した砂利をこの地まで運び、当時新宿追分まで通じていた東京市電と結び、都内へと砂利を運ぶ計画であった、よう。実際は市電と結ばれることは実現されず、この地でトラックに詰め替えるため貨物用のホームが必要とされた、とか。

勿来橋跡
美しく整備された文化女子大前の公園を進むと、文化学園の旧正門あたりに勿来橋跡の石碑が残る。「勿来(なこそ)の関」で知られる勿来は福島県いわき市にある。橋名の由来は、江戸の頃、この地に福島の三春藩主であった秋田安房守の下屋敷があった、ため。勿来橋の石碑の先には半円のモニュメント。新宿の線路下を抜ける玉川上水の導水路の形を再現したものである。結構大きい。

原宿村分水
『上水記』に、亨保9年(1724)、原宿村分水が開通とある。文化女子大のあたりを走る玉川上水から二カ所、キャンパスの東と西から弧を描くように南に下り、原宿村・隠田村・上渋谷村を潤した。代々木3-29あたりにあった湧水も合わせ、神宮前3-28、障害者福祉センターあたりで渋谷川に合流している。

千駄ヶ谷橋
文化女子大前のオープンなスペースから先に進み、少々こじんまりとした公園を抜けると葵通りに出る。その手前の南北に通る道筋と上水のクロスするあたりに千駄ヶ谷橋があったようだ。『上水記』にも記録の残る古き橋である。
千駄ヶ谷の由来に、此の辺り一帯は茅野原であり、日々千駄の茅を刈り取ったと『新編武蔵風土記稿』にある。駄、とは馬一頭が背にする荷駄のことである。これはこれで、由来としては、わかりやすいのだが、自分としては、根拠はないのだが、なんとなく地形に由来するように思える。せんだがや=せまい+た=ところ+たに>狭い谷を現した地名のように思える。実際、代々木九十九谷と呼ばれたほどの谷が入り組み、起伏激しい地形であるこの辺りであれば、この我が妄想も結構納得感がある。

葵橋
葵橋通りを進むと新宿南口・新宿1丁目交差点より代々木駅に抜ける道にあたる。T字の突き当たりの東京南新宿ビルの壁面に葵橋跡の銘板が残る。往昔、この地に葵橋が架けられていたが、ビル建設にともない撤去された。葵橋は『上水記』には戸田因幡守抱屋敷内橋、とある。この地は、宇都宮藩戸田家の屋敷があったためで、明治3年(1870)の記録にも「戸田邸中土橋」、とある。葵橋となったのは、明治に紀州徳川家が買い受け薬草栽培、紀州庭園と呼ばれた、ため。徳川家、故の葵橋ではあろう。

千駄ヶ谷分水
戸田因幡守抱屋敷内には千駄ヶ谷分水があった。この分水は南に少し下ると西に折れ、原宿村分水に合流している。JR病院前の谷筋を西に入り、代々木小学校のあたりが合流点のようである。水路は小学校前のクランク状の道を抜け、明治神宮北参道前でJRを越えて下ってゆく。

京王電気軌道・四谷新宿駅跡
JRを跨ぐ南新宿の橋を渡り、玉川上水散歩の最終地・四谷大木戸へと向かう。跨線橋を降りきった甲州街道と明治通りの交差する、新宿4丁目交差点脇に京王新宿追分ビル。伊勢丹前の追分駅から移った京王電気軌道・四谷新宿駅のあったところである。

龍寺から四谷大木戸
玉川上水は葵橋跡から線路下を潜り、天龍寺、新宿高校前を通り、新宿御苑の新宿門から四谷大木戸へと進む。『玉川上水・橋と碑と;蓑田たかし(クリオ)』によれば、寛政3年(1791)の『上水記』には天竜寺門前上石橋>天竜寺門前板橋>天竜寺門前石橋>内藤大和守下屋敷内橋>大木戸水番屋構之内橋などが記録に残る。明治3年(1870)の玉川上水通船計画時に作成された『玉川上水掘筋渡橋取り調』には、上石橋(旧・天竜寺門前上石橋)>天竜寺門前下石橋(旧・天竜寺門前石橋)>上地橋(旧・内藤大和守下屋敷内橋)>新宿取付石水橋(旧・大木戸水番屋構之内橋)が記録される。また、明治39年(1906)作成の『玉川上水路実測平面図』には、万年橋(旧・上石橋;明治3年)>中の橋(旧・天竜寺門前板橋;寛政3年)>天竜寺橋(天竜寺門前下石橋;明治3年)>新宿御苑通用門(上地橋;明治3年)>新宿御苑>憲兵屯所、といった記録が残る。
とはいうものの、現在では、跨線橋を渡った先は四谷大木戸まで関東大震災後の埋め立てによって暗渠となり、橋の確認をすることができない。上水路と橋を想像しながら、記録に残る寺や地名を辿り、四谷大木戸へと向かうことにする。

 

天龍寺
もとは遠江国にあり法泉寺と称した。家康の側室である西郷局の父の菩提寺であり、家康の江戸入府にともない牛込納戸町・細工町あたりを寺域として拝領し、寺名も故郷の大河、天龍寺にちなんで改名した。
西郷の局が将軍秀忠の生母となるにおよび、上野の寛永寺が鬼門鎮護の寺となったように、江戸城の裏鬼門鎮護の寺として幕府の手厚い保護を受けた。天和3年(1683)に現在の地に移った。
境内の左手鐘楼にある「時の鐘」は、上野寛永寺、牛込市谷八幡の鐘とともに、江戸三名鐘のひとつと称せられた。この鐘は天竜寺を菩提寺とした茨城笠間城主・牧野備後守が明和4年(1767)に造らせたもの。東京近郊名所図会には「時の鐘、天龍寺の鐘楼にて、もとは昼夜鐘を撞きて時刻を報じせり。此辺は所謂山の手にて登城の道遠ければ便宜を図り、時刻を少し早めて報ずることとせり。故に当時は、天竜寺の六で出るとか、市谷の六で出るとかいいあえり。新宿妓楼の遊客も払暁早起きして袂を分たざるを得ず。因て俗に之を追出し鐘と呼べり」とある。遊客もこの鐘の音を合図に妓楼より「追い出された」のであろう。
牧野備後守が寄進したオランダ製のやぐら時計も知られる。四脚の上に時計が乗っている形がいかにも櫓といった姿であった。時の鐘を撞く合図として明治の中頃まで使用されていた、と言う。天竜寺には、かつて渋谷川の源流のひとつでもあった池があった(「新宿散歩その参:四谷台地の尾根道や谷筋を彷徨い、新宿から西新宿へ」よりコピー&ペースト)

新宿高校
天龍寺を離れ、御苑トンネル脇を進むと新宿高校。キャンパス内に旭橋の石柱と下水用の石樋が残る。解説によると、石樋は甲州街道と青梅街道の分岐する追分一帯の下水を御苑内の池に落とすため、玉川上水の上に架けられたもの、とか。旭橋の旭は、天龍寺門前一帯(現新宿4丁目)の町名とのことであった。

内藤大和守下屋敷
家康の江戸入府に際し、高藤藩内藤大和守に先遣隊として、四谷方面の警護の任に当たらせ、無事に家康江戸入城の任を果たしたその功により、大和守の部隊が布陣していた一帯を拝領した。東は四谷、西は代々木、南は千駄ヶ谷、北は大久保に至る広大な原野であった。その一部、現在の新宿御苑には内藤家の下屋敷があった。
四谷大木戸跡
新宿御苑に沿って進み、新宿通り・新宿1丁目交差点を右に折れ、四谷四丁目交差点に。江戸の頃、この地には四谷大木戸があった。甲州道中の江戸への出入り口として、元和2年(1616)に設けられた。江戸時代の地誌の一つ『御府内備考』に『江戸砂子に云、此地むかしは左右谷にて至て深林の一筋道なり、御入国の此往還糺されしといふ、七八十年迄は江戸より駄馬に付出す所の米穀送り状なければ通さすとなり、今も猶駄馬の荷鞍なきを通さず、江戸宿又は荷問屋等の手形を出して通る是遺風なり、又此所の番所内の持なれとも突棒さす股もじり等を飾り置江府に於て武家番所の外此一所に限る又住古関なりし証なりと古き土人の云伝へしよし』、と四谷大木戸が描かれる。
現在は四差路の車の往来の激しい大きな交差点であるが、往昔、この四谷四丁目交差点の北は紅葉川の谷筋、南は渋谷川の谷筋と、尾根道の馬の背といった一本道であった。この地に大木戸が設けられたのは、狭隘な尾根道故に、出入り管理が容易であったのだろう。「江戸名所図会」を見るに、道の両側に石垣が築かれ、内藤新宿側は石畳となっており、玉川上水の水番所も見える。一方、石垣の四谷側には屋根が見えるが、それは旅人や荷駄を調べる番屋の屋根であろう。番屋では突棒、刺股などの道具を置き門番が警護していた。高札も掲げられている。大木戸は世の安定、経済の発展による人馬の往還、また番屋費用の町内負担などの理由により寛政4年(1792)に廃止。石垣も明治9年(1876)に取り壊された。

 

水道碑記
羽村から下った玉川上水散歩の最終目的地、「江戸名所図会」に見える玉川上水水番所は現在、交差点を新宿側に渡った四谷区民ホール脇の道端に「水道碑記」との石碑で残る。江戸開幕にともなう上水確保のため、多摩川の羽村の取水堰から武蔵野の尾根道を開削し、43キロ以上を導水した。開削当時は、取水口から四谷大木戸の水番所までは開渠、ここからは地下の石樋をとおして江戸の町に流した。四谷大木戸から先の上水網については、また別の機会にメモするとし、七回に分けた玉川上水散歩を一応、これでお終いとする。

今回の散歩は浅間橋跡より和泉の和泉水圧調整所まで。羽村の取水堰よりおおむね開渠として流れていた玉川上水は、これより下流は終点の四谷大戸まで、一部を除いて暗渠となる。浅間橋跡から和泉水圧調整所までの、導水管が敷設された上水路跡の暗渠は、高速道路や緑道・公園となっている。今となっては少々味気ない高速道路脇の上水路跡も、郷土館などで手に入れた明治・大正・昭和の上水や橋の写真を参考に、往昔の玉川上水の面影を想い描きながら進むと、それなりに昔の風景が「見えて」くる。
高速道路脇の上水路跡を離れ、高井戸近辺の緑道・公園は、ほとんど我が地元。メモをしながら、地元のあれこれが見えてくる。宮本常一さんの「歩く・見る・聞く」ではないけれど、「歩く・見る・書く」といった、お散歩のポリシーを改めて想い起こすことになった。
なお、今回と次回の散歩メモのうち、橋の記録は『玉川上水・橋と碑と;蓑田たかし(クリオ)』の中になる「橋の移り変わり」を参考にした。『上水記』とは寛政3年(1791)に幕府の普請奉行が編纂した高川上水に架かる橋の記録としては最も古い資料である。橋の記録で明治3年(1870)とあるのは、玉川上水通船計画時に作成された『玉川上水掘筋渡橋取り調』記載のデータである。また、明治39年(1906)の記録とは、東京市水道局まとめた『玉川上水路実測平面図』による。

本日のルート;浅間橋>天神橋>中の橋>庚申橋>八幡橋>加藤橋>玉橋>玉川第三公園>下高井戸橋>明大橋>井の頭線>九右衛門橋>井の頭通り>和泉水圧調整所>和田堀給水所

浅間橋跡
羽村の取水堰より開渠が続いた玉川上水も、ここ浅間橋跡より下流は一部を除いて暗渠となる。浅間橋は『新編武蔵風土記稿』にある浅間神社から。浅間神社は現在、高井戸天神社の境内末社となっている。浅間橋から先の暗渠は、昭和41年(1966)に工事がはじまり、浅間橋から和田堀水衛所(和泉水圧調整所)まで4.9キロ、地下に2条の配水管が敷設された。その理由はふたつ、とも。そのひとつは浅間橋まで開渠できた上水路余水の排水路確保。そしてもうひとつは、東京の水不足を補うための利根川水系の水の供給ラインの確立ではなかろう、か。

明治31年(18989)、淀橋浄水場が新宿に建設されるにともない、従来の玉川上水の水路(旧水路)とは別に、和泉水圧調整所(旧和田堀水衛所)から新宿の淀橋浄水場に向かって一直線に進む新水路が開かれた。現在の都道431号角筈和泉線、通称、水道道路と呼ばれる道がその水路跡である。
昭和40年(1965)、淀橋浄水場を廃止し、その機能を東村山浄水場に統合・移転することになる。この施策にともない、羽村で取水された多摩川の水は小平監視所より、東村山浄水場に送られることになり、小平監視所より下流には玉川上水の水は一部維持水を除いて流れることがなくなった。配水管の一条は、この余水対策ではなかろう、か。これがひとつの理由。なお、昭和61年(1986)には、東京都の「玉川・千川上水清流復活事業」がはじまり、小平監視所下流、浅間橋跡までの18キロ、都多摩川上流処理場の処理水を日量23,200トン流している。それにともない、境浄水場からの維持用水は廃止されたが、浅間橋まで下った「復活清流」は浅間橋からの配水管を通り、現在、神田川の佃橋(環七交差)右岸下から排水されている、とのことである。また、清流事業復活に際し、事前に水を流したところ、水は四谷大木戸まで流れたとのこと。逆に言えば、清流復活事業によって、小平監視所から下流に流した水を、浅間橋からの暗渠内を堰止め神田川に流すことにより、江戸の頃より羽村から江戸の四谷大木戸まで続いていた玉川上水がはじめて「分断」された、ということだろう、か。

もうひとつは、東京の水不足への対策。昭和33年(1958)には玉川水系の渇水が激しく、城南地区15万世帯が、また、昭和39年(1964)には玉川水系に大渇水が起き、都心部60万世帯が水不足に見舞われている。ために、東村山浄水場には多摩川水系だけでなく、武蔵水路の開削や、原水連絡管をとおして利根川水系と結ばれることになり、東村山浄水場から利根川水系の水を和田堀給水所(世田谷)を経由し、都内に給水されることになった。経路は東村山浄水場から上井草給水場(上井草3-22)を経由し、道路下の埋設鋼管を南下し浅間橋付近で玉川上水路敷に下り、埋設された、あと一条の送水管を通し和泉水圧調整所(旧和田堀水衛所)に送られることになる。

首都高速4号新宿線
浅間橋から遊歩道を進むと首都高速4号新宿線にあたる。昭和39年(1964年)に開催予定の東京オリンピックに備え、首都高速の建設が進められる。中央高速は昭和37年(1962年)に着工。全線開通が昭和57年(1982年。20年の歳月をかけて完成した。このあたりの高井戸から永福までの2.5キロは昭和48年(1973)に完成。昭和38年のGoo地図には、現在の高速道路の道筋に、緑に囲われた水路らしき連なりが見て取れる。この水路も、上でメモしたように、暗渠となってしまう。また、web site 「毎日昭和」にあるphoto bankには、昭和49年(1974年)、サンデー毎日に掲載された「玉川上水(東京都) 玉川上水と緑地を分断して建設中の中央自動車道(高井戸インター付近)」の写真があった。かくして、上水は暗渠と化していった。

浴風会
高速道路に沿って進むと、北側に浴風会の施設。ぱっと見には、高級ケアハウスかと思ったのだが、はじまりは大正12年(1923)の関東大震災に罹災した老廃疾者や扶養者を失った人々の救護のため、御下賜金や一般義援金をもとに設立。現在は社会福祉法人浴風会として老人保健・福祉・医療の総合福祉施設となっている、と。建物は平成に成って建て直したものが多いが、本館は安田講堂の設計を手がけた内田祥三の手になるもの。都の歴世的建造物の指定を受けたこの建物は、その趣き故、テレビや映画の舞台として数多く使用されている。とか。

天神橋
先に進むと『上水記』の第六天橋跡。北にある第六天神社が名前の由来である。第六天神社とは、第六天の魔王を祭る社。第六天魔王と言えば、信長の信仰篤き社。こまかいことはさておき、その魔王のもつ破壊的部分が気に入り、常識や既存の価値観を破壊する己の姿をもって、第六天魔王と称した、と。中部・関東に多く、西日本にほとんどみかけないのは、その強力な法力を怖れた秀吉が廃社に追い込んだ、とか。それはともあれ、神仏混淆の続く江戸の頃までは第六天神社においては、仏教の「第六天魔王」が祭られていた。それが、明治の廃仏毀釈の際、仏教色の強い第六の天魔を避け、祭神を神道系の神々に書き換えたり、第六+天神、を分解し、本来関係のない、天神様を前面に出したりもした。橋名が天神橋となっているのは、その故であろう、か。前述『杉並の川と橋』に天神橋の写真がある。鬱蒼とした第六天、対岸の雑木林、豊かな上水に架かる木橋とおぼしき天神橋。穏やかな風景が美しい。

環八・中の橋

環八の「中の橋交差点」に進む。江戸の頃には「佃橋」が架かっていた、と『上水記』に記載されている。現在、中の橋と呼ばれるのは、高井戸村字中久保にあったため、明治39年(1906)の記録では「中之橋」となっている。

環八
現在交通の大動脈となっている環八であるが、この幹線道路は昭和2年(1927)の構想から全面開通まで、80年近くかかっている。戦前も、戦後も昭和40年(1965)代までは、それほど交通需要がなく、計画は遅々として進むことはなかった、。が、その状況が一変したのは、昭和40年(1965)の第三京浜の開通、昭和43年(1968)の東明高速開通、昭和46年(1971)の東京川越3道路(後の関越自動車道路)昭和51年(1976)の中央自動車道の開通などの東京から放射状に地方に向かう幹線道路の開始。が、幹線道路は完成したものの、その始点を結ぶ環状道路がなく、その始点を結ぶ環八の建設が急がれた。しかしながら、地価の高騰や過密化した宅地化のため用地取得が捗らず、全開通まで構想から80年、戦後の正式決定からも60年近くという、長期の期間を必要とした。最後まで残った、練馬区の井荻トンネルから目白通り、練馬の川越街道から板橋の環八高速下交差点までの区間が開通したのは平成18年(2006)5月28日、とか(「ウィキペディア」より)

高井戸堤碑
交差点から100mほど下ったところ、現在の上水保育園あたりに「高井戸堤碑」があった。昭和33年(1958)、地元の地元高井戸の福祉団体が未だ開渠であった高井戸堤に50本の桜の苗木を植えたときの記念碑である。終戦直後まで桜の名所であった、とか。上水保育園の正面に、と探したのだが、現在は工事忠なのか、構内に転がっていた(平成23年9月)。

庚申橋
上水保育園から少し東に進んだところに首都高速4号の走る都道14号を跨ぐ陸橋がある。陸橋には「こうしんばしりっきょう」とあった。明治39年(1906)の記録に残る庚申橋の跡であろう。橋の近くに延宝2年(1674))建立の庚申塔があったのが、その名の由来。江戸の『上水記』には「堂之下橋」とある。地名の字名にも、堂之上、堂之下がある。明治3年の記録には、「堂下橋」とある。が、現在、近くに庚申さまも、お堂も見あたらない。
『杉並の川と橋;杉並区郷土資料館』に庚申橋の写真が掲載されていた。昭和35年(1960)頃の写真には、開渠に架かる小橋と、土手近くまで達する豊かな上水の流れが見て取れる。この流れも数年後の昭和41年(1966)には暗渠となるわけである。

下高井戸分水
「こうしんばし陸橋」を超え、先に進むともうひとつ陸橋がある。この陸橋の少し下流から下高井戸分水が分かれていた、よう。分水は、北に流れ、永福通りそばにある都立中央ろう学校の西端あたりで神田川に注いでいた、とのこと。

高速4号と分岐・玉川第二公園

高速4号に沿って先に進むと、上北沢駅入口交差点で甲州街道と合流する。上水跡はその地で甲州街道・高速4号と分かれ、甲州街道の一筋北を緑道となって東進する。緑道はこの先の玉橋までが「玉川第二公園」として整備されている。

その起点、造成された植え込みの中に「玉川上水の変遷」碑。その碑文の中に「昭和41年、水不足の東京へ利根川から水を引く送水管を埋設するため、区内ではその姿を消しました」、とある。この説明がきっかけとなり、何故に、この地に利根川の水が、とチェックした結果が、上の浅間橋のメモで、浅間橋から和泉水圧調整所(旧和田堀水衛所)までの暗渠化・地下導水管埋設の理由に、東京の水不足のバックアップのため、利根川水系の水を東村山浄水場・上井草給水所経由で和泉給水所へ送られた、とした、とのメモである。この記念碑には記されていなが、あと一条、旧玉川上水の余水対策の配水管も埋設されている、のではなかろう、か。

ところで、この地、上北沢って、小田急線の下北沢とちょっと離れすぎている。その理由は如何なるものかとチェック;京王線上北沢駅の南西に松沢病院がある。北沢川を辿ったことがあるが、このあたりが北沢川の源流点。北沢川は、この地を源流点に日大桜ヶ丘高脇を南東に下り、小田急線手前で東進し、小田急線豪徳寺、梅ヶ丘駅に進み、梅ヶ丘で小田急線を越え、下北沢の南を東進し、三宿の先で烏山川と合流し、池尻大橋で目黒川となる。

この北沢川の流域は世田谷の北側にある沢ということで、江戸の頃は北沢と呼ばれ、上北沢村と下北沢村に分かれていた。上北沢村は明治22年(1889)、松原村、赤堤村と合わさり松沢村上北沢となり、その後、桜浄水地域を分け、現在に至る。一方、下北沢村は明治22年、世田谷区下北沢となり、昭和7年(1932)、世田谷区ができたときには北沢となった。現在でも駅名には下北沢が残るが、下北沢という地名は、ない。
それはともあれ、結論としては、元々は上北沢村と下北沢村であった地域に、後から松原とか赤堤といった地名が入ってきたので、下北沢(実際に地名はない)と上北沢が離れたように見える、ということであろう。

鎌倉街道・旭橋
玉川第二公園を先に進むと、ほどなく車道に当たる。甲州街道・鎌倉街道入口より浜田山方面へと進む古の鎌倉街道の道筋であろう。『武蔵名所図合会』には「上高井戸の界にあり。古えの鎌倉街道にて(中略)いまは農夫、樵者の往来道となりて、野径の如し」とある。往昔、鎌倉・室町の頃は東国御家人が鎌倉へと往来したのであろうが、江戸の頃には廃れ、「野径の如し」といった状態となっていたようである。街道に架かる橋は旭橋。その由来は不明。




八幡橋・昭和橋・加藤橋
玉川第二公園を進む。緑道は左右の側道より50㎝ほど高くなっている。それは、埋設された2条の配水管のひとつ、玉川上水の余水用水管は自然流下の方式をとっているため勾配を設ける必要があったのだろう。緑道はよく整備されている。
八幡橋は『上水記』にある中之橋。明治39年(1906)に八幡橋の記録が残る。下高井戸八幡への参道故の命名であろう。昭和橋は高井戸第三小学校に渡る橋。同校は下高井戸で最も古い学校。明治34年(1901)設立。もとは甲州街道沿い、覚蔵寺の東隣にあったとのことであるから、そもそもは寺子屋からのスタートであろう、か。昭和5年(1930)に橋名の記録が残る。昭和天皇即位の大典を記念しての橋名とも。加藤橋は向陽中学西側(昭和31年;1956年、には下高中とある)にあった、三代将軍家光の御馬預役二百俵取りの旗本加藤家(『杉並の川と橋』)に門前にかかっていた、から。と、一応メモしたが、残念ながらどの橋も遺構は見つけることができなかった。橋名および、その場所はweb site「毎日昭和」にある昭和の地図(人文社発行「1956年版東京都地図地名総覧の23区」)をもとにメモしたものである。

高井戸宿
加藤橋の南、甲州街道を少し南に入ったところに京王線・桜上水の駅がある。杉並区下高井戸と世田谷区桜上水に跨るこの駅のあたりが、往昔、甲州道中の2番目の宿場・高井戸宿の下宿・下高井戸の中心であった。高井戸宿は下宿と上宿に分かれ、上宿・上高井戸は京王線八幡山の先となる。慶長5年(1601)、徳川幕府により江戸と甲府を結んだ甲州道中に設けられた高井戸宿では、月の前半を下高井戸村、後半を上高井戸村が助郷を務め、伝馬25頭、人足25人が常置していた、とか。江戸を立った旅人の最初の宿場でもあったため、24軒の旅籠が軒を連ね結構な賑わいであったようだが、新宿に宿が開かれるに及び、次第に廃れていった、と言う。いつだったか、杉並区郷土資料館を訪れたとき、甲州道中高井戸宿あたりのジオラマが展示されていたが、街道に沿って建つ農家の厠はすべて甲州道中に面したところにあった。街道を往来する人々に、当時、肥料として貴重なリソースを「提供」してもらうための工夫であろう、か。
なおまた、高井戸の地名の由来であるが、16世紀の中頃、この地に住んだ御家人高井家の土地、ということで、「高井土」が高井戸へ、との説と、その高井家が開いた高井山本覚院にあった不動堂より、「高井堂」が高井戸に転化したなど、例によって諸説ある。なお、高井山本覚院は明治の廃仏毀釈の時、明治44年、宗源寺(下高井戸4-2)に移された。

玉橋
荒玉水道道路に架かる橋が玉橋。昭和2年(1927)の架橋。荒玉水道とは大正から昭和の中頃にかけて、多摩川の水を砧(世田谷区)で取水し、野方(中野区)と大谷口(板橋区)の給水塔に送水するのに使われた地下水道管のこと。荒=荒川、玉=多摩川、ということで、多摩川・砧からだけでなく、荒川からも水を引く計画があったようだ。が、結局荒川まで水道管は延びることはなく板橋の大谷口で計画中止となっている。なお、現在ではどちらの給水塔も本来の給水塔としての役割を終え、大谷口の給水塔は取り壊され、野方の給水塔は防火用水の「予備タンク」として使われている。
玉橋から北の荒玉水道道路を見るに、結構な勾配の坂となっている。坂を下りきったところには神田川が流れる。少々極端に言えば、崖上の尾根道を玉川上水が走っているように思える。なんとなく「危うい」気もするのだが、このルートが最適であったのだろう。

「玉川第三公園」・美宿橋・小菊橋
玉橋を超えると下高井戸橋までは「玉川第三公園」となる。美宿橋は『上水記』にある孫兵衛橋。美宿橋は大正5年(1916)の記録に残る。橋名の由来は、当時のこの地の小字である「蛇場美」と「下高井戸宿」の美+宿、から。
赤煉瓦のレトロな小菊橋は大正の末、小菊橋の少し東につくられた吉田園という娯楽庭園に渡るために架けられたもの。吉田園は小菊橋の龍泉寺近くにあり、池と花菖蒲の庭園、そして湧水を利用したプールなどを設けた娯楽庭園を吉田甚五郎がつくった。また、このあたりは淀橋上高井戸水爆布線上にあり湧水点が高く、数m掘ればすぐに湧水が出た、と言う(『杉並の川と橋』)。このあたりは下高井戸宿から崖下の神田川を見渡せる景勝の地であった、とのことである。
小菊橋のあたりから、上水第二公園にあったような盛土の緑道はなくなり、幅10 m ,深さ2mほどの「開渠」公園となる。二条の送水管は堀底下に埋設されているのであろう。

永泉寺橋
永泉橋は現在の下高井戸橋の少し西に架けられた橋。橋の北には亨保4年(1719)、建立の永泉寺があった。『杉並の川と橋』によれば、安永6年(1777 )、高山彦九郎が「丁酉春旅」に「細道大宮八幡の前に出づ、(中略)、龍光寺所に見ゆ、是れ泉みと云う所の永福寺を上りて永泉寺という小寺脇へ出づ、前へぬけて甲州道也」とある。現在住んでいるところに近く、馴染みの寺が記されているので転記した。

永泉寺には「玉川上水の玉石伝説」が伝わる。『玉川上水 橋と碑と;蓑田たかし(クリオ)』によると、二度の取水口選択の失敗などにより、下高井戸あたりまで掘り進んだところで資金難に陥った玉川兄弟が、資金繰りも万策尽き、下高井戸の工事現場で途方に暮れていると、工事現場に白く輝くところがある。何事かと掘ってみると10cmほどの玉石が出てきた。その玉石が怪我や眼病に霊験あらたかと、江戸市中の評判を呼び、工事への強力が相次ぎ、資金繰りもよくなり、工事が無事再開された。玉川兄弟は、これは日頃信仰の薬師如来のおかげであると、薬師堂を建て、玉石薬師と。
で、前述の如く、亨保4年(1719)、玉石薬師を護るため永泉寺を建てた。お供えの赤飯が、これまた万病に効くとのことで、赤飯を握って玉にしたものを干して丸薬とし、「玉石薬師の玉薬」として売り出した、とも。明治になるとお寺は廃れ、四谷塩町の永昌寺に合併。明治43年(1910)、永昌寺はこの地に移って現在に至る。

永泉寺公園・下高井戸橋・託法寺橋
下高井戸橋は昭和6年(1931)、永福寺道に架けられた。北に進むと京王線永福町駅に出る。この橋は旧下高井戸村の一番下流にあったので、「下の橋」とも呼ばれた、と。この下高井戸橋から託法寺跡までを「永泉寺公園」と呼ぶ。
託法寺橋は大正11年(1922)、四谷から移転してきた託法寺に因んでの命名。大正12年、鉄筋コンクリート橋として架けられた。下高井戸橋の北に、東西に走る道がある。この道に沿って永昌寺や託法寺など7つのお寺さまが明治から大正、昭和にかけこの地に移り、寺町を形成している。
託法寺橋までは緑豊かであった上水路跡の公園も、託法寺橋を超えると公園も消え去り、甲州街道、そしてその上を走る高速道路脇に沿った少々味気ない道となる。

塩硝蔵地跡

永泉寺公園を過ぎ、道の北に築地本願寺和田堀廟所を見やり、先に進むと明治大学の敷地となる。道の北側には土盛が見られるが、そこには二条の送水管が埋設されているのだろう。土盛りの中を想いやりながらすすむと明治大学和泉校舎。その門近くに「塩硝蔵地跡」の案内。現在、明治大学と和田堀廟所となっている一帯は、江戸の頃、幕府の塩硝蔵(鉄砲弾薬の貯蔵庫)であった。当初は、多摩郡上石原宿(現調布市)にあったと伝えられ、宝暦年中(1750年代)に「和泉新田御塩硝蔵」としてこの地に設置された。幕末には新政府軍に接収され、その弾薬は上野の彰義隊や奥羽列藩同盟の平定に使われた、と。なお、この弾薬庫は兵部省を経て、陸軍省和泉新田火薬庫として再開され、大正末期に廃止されるまで、麻布の歩兵連隊が警備の任にあたった。塩硝蔵や陸軍の火薬庫があったときには御蔵御通行橋、とも黄引橋とも呼ばれる橋が架かっていた、と『杉並の川と橋』にある。ちなみに、黄色は黄燐等の火薬を表す色とのこと、のよう。

「玉川上水公園」・明大橋

明大和泉校舎の入口に明大橋の碑が残る。明大がこの地に予科校舎を建設した昭和9年に架けられた。明大前から上水は甲州街道を離れ、北東へと弧を描くように進む。現在は自転車置き場となっている。自転車置き場を進むと巨大なコンクリートボックスが現れ、そこから上下二条の導水管が現れる。その先は京王・井の頭線を跨ぐ橋となる。

京王井の頭線
二条の導水管が京王井の頭線の走る切り通しを渡る。おおよそ25mはあるだろう、か。どちらかひとつが利根川の原水連絡管を通し和泉水圧調整所に向かう送水管。あと一方は、旧来の玉川上水の流路を繋ぐ。玉川上水が浅間橋から下流が

暗渠となる前は、この切り通しの上を開渠の水路となって流れていたのであろう。
切り通しの橋の下を井の頭線が走る。京王井の頭線東松原から明大前までは谷筋を進んできた井の頭線であるが、明大前から永福町へと抜ける路線は、台地を切り開き神田川の谷に進んでいる。切り通しを跨ぐ跨線橋の下をよくよく見ると複線の線路の他、もうひとつ複線、複々線が通れるような橋の構造になっている。これは、京王井の頭線の誕生の元になった、第二山手線計画の遺構とのことである。




大正14年(1925)、山手線が環状運転を開始。東京から放射線状に延びる路線を結ぶこの路線が好評であったため、その山手線の外側を走る環状路線の計画が大正15年(1926)に持ち上がる。当初の計画では大井町から自由丘(東横線)、梅ヶ丘(小田急線)をへて明大前に進み、その後は、中野から江古田、下板橋、田端、北千住、曳舟、大島、南砂(都営新宿線)、東陽町(地下鉄東西線)を結ぶものであった。この第二山手線計画は難航したが、あれこれの経緯は省くとして、この計画の経営者でもあった人物が渋谷から吉祥寺への路線免許をもつ鉄道会社を合併し、現在の井の頭線を先行して開業した。その際、計画では明大前で第二山手線と交差するため、現在に残る複々線のスペースだけを確保した、ということである。

「玉川上水公園」・九右衛門橋

井の頭線の跨線橋を渡ると二条の導水管は再びコンクリートボックスに入り、地表から消える。その先は水路に沿って公園が続く。公園を進むと九右衛門橋。明大橋から九右衛門橋までを「玉川上水公園」と呼ぶ。『上水記』には九左衛門とあり、九右衛門橋と記されるのは明治3年(1870)以降である。九右衛門とは、和泉村の有力者ではあろう、か。

和泉水圧調整所
九右衛門橋を過ぎると井の頭通りにあたり、その先には和泉水圧調整所のふたつのタンクが見える。浅間橋から送られてきた二条の導水管のひとつ、利根川水系の原水連絡管経由の水がこのタンクに向かっているのだろう。なおまた、この給水タンクは、甲州街道の南にある和田堀給水所の第二号配水池と結ばれているようである。
それはともあれ、和泉水圧調整所はかつての玉川上水和田堀水衛所があったあたり。明治31年(1898)、新宿の淀橋浄水場建設にともない、旧来の玉川上水の水路とは別に、この和田掘水衛所から淀橋浄水場までの4.3キロの間、幅6mの新水路が一直線に開かれた。
新用水路は、当初、淀橋浄水場の掘削土で盛り土した8-10mの築堤上に水路が造られた。しかしながら、この水路は大正10,12年(1921、1923年)の地震で決壊したこともあり、昭和12年(1937)には、甲州街道拡張に合わせ、送水管敷設に変更。新水路跡は現在、都道角筈和泉線、通称水道道路という名称で甲州街道と平行して新宿に向かっている。
なお、淀橋浄水場が建設された最大の目的は、明治19年(1886)、東京とその近郊にコレラが大流行。ために、従来の堀割の玉川上水に変わる水道網建設が必要とされたためである。

「井の頭街道碑」
井の頭通りを渡り、和泉給水所に沿って甲州街道方面へ向かう。甲州街道の少し手前、和泉給水所脇に「井の頭街道碑」が建つ。井の頭街道は、もとは境浄水場から和田堀給水所に至る水道専用道路。二条の導水管が埋設されていた。道路として一般に開放されたのは昭和12年(1937)になってから。また、一般開放されても、無名の道筋であったが、荻窪の私邸から官邸に向かうために往来した近衛文麿が「井の頭街道」と命名した、と。その後、東京都により「井の頭通り」と改められた。

和田堀給水所
和泉給水所の南、京王線の踏切を越えたところに和田堀給水所がある。境浄水場から井の頭通り(水道道路)を通り、ここまで送られてきた水が、二つの配水池に貯められて、世田谷、渋谷方面に給水されている。
二つの配水池のうち、2号配水池は第一水道拡張事業(第一期工事)の一環として、大正13年(1924年)に完成。上でメモした、玉川上水新水路、淀橋浄水場の建設の後、急激に都市化が進み水の需要が拡大し、村山貯水池の建設、境浄水場の完成をもって、村山-境間、境-和田堀間の送水管敷設がこの第一期工事によって行われた。和泉水圧調整所はこちらの配水池と結ばれているのだろう。
もうひとつの、1号配水池のほうは、昭和9年(1934年)のもの。こちらは山口貯水池からの給水を確保する第二期工事の一環として建設された。境-和田堀間の二つ目の送水管設置を含むこの工事は、昭和12年(1937年)に完成した。
このあたりは我が地元。本日の散歩は少々短い、とは思いながらも、我が家への「帰心矢の如し」、ということで、散歩は終了。一路家路へと。  たて

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