2011年9月アーカイブ

千川上水との分岐点でもある境橋から武蔵野市・三鷹市を下る。国木田独歩が描く『武蔵野』ゆかりの故、その事跡が数多い。「武蔵野の俤(おもかげ)は今わずかに入間郡に残れり」ではじまる独歩の『武蔵野』であるが、同時に、「郊外の林地田圃に突入する処の、市街ともつかず宿駅ともつかず、一種の生活と自然とを\配合して一種の光景を呈している場処を描写することが、頗る詩興を呼び起こすも妙ではないか」、と描く。武蔵野市・三鷹市のあたりって、そのようなところだったのだろう。か。それはともあれ、上水に沿って緑道を下り、上水の開渠が消える杉並の浅間橋まで辿ることにする。


 
本日のルート;JR武蔵境駅>境橋>境水衛所跡>千川上水分岐>うど橋>独歩橋>桜橋>品川用水分水口>松美橋>みどり橋跡>大橋>欅(けやき)橋>三鷹駅>三鷹橋>太宰治の記念碑>むらさき橋>万助橋>ほたる橋>幸橋>新橋>松影端>井の頭橋>若草端>宮下橋>東橋・長兵衛橋>牟礼橋>久我山水衛所跡>兵庫橋>岩崎橋>浅間橋 JR武蔵境駅

 

JR武蔵境駅

先回散歩の終点、境橋に向かう。最寄りの駅はJR武蔵境駅。JR中央線の前身は甲武鉄道。既にメモしたように、玉川上水通船事業が2年で廃止となり、それに変わる「大量輸送」の手段として、玉川上水の堤の上を、馬車を走らす、とか、青梅街道にそって馬車鉄道走らす、といった計画もあったが、時は既に鉄道輸送の時代となっており、明治22年、新宿から立川を結ぶ甲武鉄道が開かれることになった。路線は青梅街道に沿って、といった案もあったようだが、機関車の煙による煙害を嫌う青梅街道筋の人々からの反対もあり、現在の新宿から立川まで、原野の中を一直線で進む路線となった。当初の駅は新宿・中野・境・国分寺・立川の5つの駅のみであった。
武蔵境って、武蔵と何処かの境が地名の由来かとも思っていたのだが、実際は境新田、から。出雲松江藩の屋敷奉行の境本氏が御用屋敷のあった場所を幕府より貰い受け新田を開発、その名を境新田開発とした。駅の南には境本公園も残る。工事中のため右往左往しながらも駅北口に下り、商店街を抜け成り行きで北に向かう。武蔵境通りと地図にあるが、商店街を抜けた辺りから70mほどを「独歩通り」と呼ぶ。この辺りは、国木田独歩が好んで散策したゆかりの地故の命名だろう。

境橋
仙川を越え、武蔵野第二小学校交差点を左に折れ、都道123号線・武蔵高校前交差点を北に進むと、都道7号杉並あきるの線に当たる。都道7号線は通称、「五日市街道」と呼ばれる。家康の江戸入府の後、秋川筋の五日市(現在、あきるの市)や檜原から木材や隅などを江戸に運ぶため整備された。都道123号線が五日市街道にあたるところに玉川上水に架かる境橋がある。千川上水は、境橋で玉川上水から分かれ、五日市街道に沿って北東へ向かう。
現在、羽村で取水された水は小平監視所まで流れ、そこからは東村山浄水場に送られる、と既にメモした。小平監視所から下流は1965年(昭和40年)の新宿・淀橋上水場の廃止とともに送水を停止し、しばらくは「空堀」状態ではあったが、1986年(昭和61年)、東京都の清流復活事業により再び水流が復活した。水流は復活した、とはいうものの、それは多摩川の水ではなく昭島の多摩川上流水再処理センターで高度処理された下水ではある。ここ境橋のあたりまで流れる水は、この清流復活事業として供給される水、ということだ。

境水衛所跡
橋のたもとに「史跡 玉川上水の碑」。そのすぐ下流には、境水衛所跡。明治32年(1899)、淀橋浄水場の竣工に先立ち、1894(明治27年)に浄水場管理のため、他の7衛所とともに設置。分水口の監理、塵芥の除去など、江戸の水番人が担当していた仕事を受け継いだ。昭和40年(1965)、淀橋浄水場の閉鎖にともない、小平監視所ヵら下流の水衛所は閉鎖・統合され、現在、境水衛所跡には、かつての塵芥除去に使われていた鉄柵が残る。

千川上水分岐

その鉄柵の手前、上水左岸には、1966(昭和41年)、上流の曙橋のところににあった千川上水の分水口がこの構内に移る。江戸の頃は曙橋の少し上流。明治4年には橋の下流に分水口が設けられた、とか。1980(昭和55年)にはその分水口も廃止され、現在は、その分水口跡が残る、のみ。
現在千川上水は境橋の上流200mほどのところで玉川上水から分水されている、とのこと。現在でも清流復活事業により玉川上水に流される水量の20%、おおよそ1万トン(1日)程度の水が分水される、と言う。1万トン、ってどの程度か想像もできないが、イラクでの自衛隊の給水のニュースで、1日70から80トンの水でほぼ2万人分とあった。ということは、おおざっぱに言えば200万人から250万人分の水量、ということだろう、か。

千川上水
千川上水は江戸六上水のひとつである。元禄9年(1696)徳川綱吉の時代、道奉行伊奈平八郎掛かりで開発が行われ、土木家河村瑞軒の設計のもと、多摩郡仙川村の徳兵衛、太兵衛が開削にあたった。

そもそもの目的は江戸の小石川御殿、湯島聖堂、上野東叡山、浅草寺に水を引くこと。お武家さま中心の計画ではある。そしてその余水を神田上水以東の小石川、本郷、湯島、外神田、下谷、浅草までの武家、寺社、そして町屋に飲料水として渡した。江戸の町の3分の1にあたる地域を潤した、という。その後、18世紀になると流域の村々の懇願を受け、灌漑用水として井草、中村、中新井、長崎、滝野川、巣鴨村等7個所の分水を設け、20ほどの村々の田畑を潤した。
享保7年(1722)には儒学者室鳩巣の提言を以てして、玉川上水、神田上水だけを残し、 千川上水をはじめ、青山上水、三田上水、本所上水(亀有上水)の4上水を廃止した。江戸の大火の原因が上水・用水開削による地下水脈の乱れによるとの理由からである。以後、一時的に上水として復活することもあったが、主として、村々の潅漑用水として使われた。
明治以降は、水車による精米・精麦、製粉が行われるようになったほか、紡績所や製紙会社、印刷局などの工業用水としても利用された。また、1880年(明治13年)には、岩崎弥太郎が設立した「千川水道会社」により飲料水としても使われた。その後、東京市の改良水道の普及で1908年(明治41年)、千川水道会社は解散。1970年(昭和45年)には東京都水道局板橋浄水場が上水からの取水を止め、1971年(昭和46年)には大蔵省印刷局抄紙部への給水も止み、千川上水はその長い歴史を終えた。
千川上水の歴史は大まかに以上の通りである。が、千川上水に関する興味・関心は歴史よりその地形にある。千川上水は標高64mの境橋から、標高28mの巣鴨まで30キロ弱を尾根筋に沿って武蔵野台地を下る。玉川上水・境橋の分水口から、石神井川水系と神田川水系(善福寺川・妙正寺川)の分水界でもある尾根筋を東に向かって進む水路は、東長崎の手前で北東にほぼ直角に曲がる。その先は谷端川や妙正寺川の谷筋となるので、谷に落ちないように、尾根に沿って曲がるのであろう。地形図を見ると、まさしくその通り、その後流路は尾根筋から外れないよう板橋に向かって進んでいる。一度でも下に落ちれば、自然流路としては上に戻れないわけであるから、精緻な測量技術を持って尾根から外れないように流路を決めていったのだろう。

うど橋
上水右岸の橋詰めに、碑文;「...今から180年位前より、この土地の人々は...落葉の温熱で軟化独活(なんかうど)を栽培して生活していた。近年栽培法がいろいろと改良されて早期に大量出荷され、 全国に東京独活特産地として有名になった。このたび由緒ある玉川上水への橋をかけるにあたって、特産地の名をとどめるため独活橋と命名されたものである」、と。このあたりは東京独活(うど)の特産地であった。昭和40年代には生産量3000トン。全国生産の四割を占めた、と言う。
うど橋の命名は、橋近くの独活農家・高橋米太郎(よねたろう)さんの発案。関東ローム層の柔らかい地質を利用し、地下の室(穴蔵)を使った栽培法を試行錯誤の末完成させ、独活栽培の発展に貢献した、とのことである。
独活の大木って諺がある。地下の若芽は食用となるが、大きくなると食用にもならず、といって、2mもあっても柔らかく、建材にもならない、ということが諺の由来。

独歩橋
橋を少し南に下ったところに、境山野(さんや;山野は字名)緑地がある。コナラやクヌギといった武蔵野本来の雑木林は、市内からほとんど姿を消し、今では境山野緑地が数少ない保存林となっている。
平成17年開園のこの公演の南半分は「独歩の森」とも呼ばれる。独歩の日記『欺かざるの記』には、「遂に櫻橋に至る。橋畔に茶屋あり。老婆老翁二人すむ。之に休息して後、境停車場の道に向かひぬ。橋を渡り数十歩。家あり、右に折るる路あり。此の路は林を貫いて通じる也。直ちに吾等此の路に入る。林を貫いて、相擁して歩む。恋の夢路!余が心に哀歓みちぬ」とある。その後に独歩と結婚することになる佐々木信子と共に歩いた「記憶して忘するる能はざる日々」の舞台ではあろう。

桜橋
通りを北に進むと境浄水場手前に玉川上水・桜橋があるが、その橋の袂に国木田独歩文学碑がある。「今より3年前のことであった。自分は或友と市中の寓居を出て三崎町の停車場から境まで乗り、其処で下りて北へ真直に四五丁ゆくと櫻橋という小さな橋がある」、と、国木田独歩の『武蔵野』の一節が刻まれている。
「・・・小さな橋がある、それを渡ると一軒の掛茶屋がある、この茶屋の婆さんが自分に向て「今時分、何しに来ただア」と問うた事があった。 自分は友と顔を見合わせて笑て、「散歩に来たのよ、ただ遊びに来たのだ」と答えると、婆さんも笑って、それもばかにした様な笑いかたで、「桜は春咲くこと知らねえだね」と言った。・・・  茶屋を出て、自分等は、そろそろ小金井の堤を、水上の方へとのぼり初めた。ああその日の散歩がどんなに楽しかったろう。・・・』」(新潮文庫 『武蔵野』P 21ー22 原文の通り)。誠に、いい。
ところで、桜橋を通る武蔵境通り、って、中央線の前身・甲武鉄道に境停車場(現在の武蔵境駅)を設ける交換条件として、武蔵境から田無を結ぶ新道を開くことを求められた。明治34年には、境停車場と田無を結ぶ乗合馬車も走ったようである。

品川用水分水口
桜橋から少し下った武蔵野市立第六小学校のあたりに、品川用水の分水口があった。品川用水とは、旱魃に悩まされていた品川領2宿7カ村が、幕府に願い出て寛文9年(1669年)に完成した農業用水路。もとは、他の用水と同じく、大大名のお屋敷への導水がはじまり。品川用水は寛文3年(1663)、戸越にあった細川家の抱え屋敷の庭園への水の供給のため、玉川上水から仙川への養水を新川宿で分水した戸越用水をつくるも、寛文6年(1666)に廃止された。ぞの戸越用水を整備し直したのが、品川用水である。
境村(現在の三鷹市境3丁 目)、桜橋を少し下った第六小学校のあたりで玉川城址からで分水され、三鷹市、世田谷区、目黒区を通り、小山台1丁目で品川区に入る。用水は小山台2丁目(地蔵の辻)で二股に別れ、左手は百反坂方面に下り、桐ヶ谷、居木橋へ。右手は戸越から大井村までの田畑の灌漑に供していた。玉川上水から分水され用水の中では最長の水路であり、推量も第二位といった大きなものであり、流路にある多くの河川の養水としても使われたようである。
大正から昭和には急激に都市化が進み、排水路と変わり、昭和20年代後半あたりから、道路や下水道となっていった。品川用水は立会川散歩のとき、下流部から学芸大学、さらに、その少し北にある野沢水車跡あたりまで辿ったことがある。開渠はなにもなく、いかにも川筋跡といった道路を彷徨った。その時、玉川上水の分水口から下流部までの水路をチェックした。いかにも、川筋跡らしき道路を下る流路であった。

松美橋
昭和54年に架けられた橋。立派な赤松があったのが、橋名の由来、とか。橋の北には都水道局境浄水場が拡がる。境浄水場は近代水道事業を進めるべく、村山・山口貯水池の建設と平行しえ大正7年から建設がはじまり、大正13年に完成した。羽村第三水門から村山・山口貯水池に送られた水を地下の導水管で境浄水場に導水し、沈殿・濾過・殺菌処理をおこない、和田堀給水所を通して千代田・渋谷・世田谷、港区、目黒区の一部に給配水する。都の水道局全施設能力の5%、1日に31万5千立方メートルの水を供給している、とか。
ところで、境浄水場から渋谷を結ぶ井の頭通は、もとは境浄水場と和田堀給水所の間に水道管を敷設するための用地を道路に転用したもの。当時は水道道路と呼ばれていたが、後に、荻窪に私邸のあった近衛文麿氏が、官邸への往来に使った水道道路を井の頭街道と命名し、更に東京都によって井の頭通りと改められた。

みどり橋跡
松見橋を下ると上水南に緑道が南に続く。この緑道は、本村公園と呼ばれ、もとは境浄水場建設のとき、武蔵境駅から砂利を運搬するために造られた1.8キロの専用軌道跡。浄水場完成後は濾過砂運搬に使用されていた、と言う。砂利は現在の西武多摩川線を遣い、是政から武蔵境に運ばれていた、とか。上水にはみどり橋と呼ばれる軌道橋が架かっていたとのことだが、昭和46年軌道が廃止された後、人道橋となるも、現在はその橋も、ない。
ところで、本村公園の東に、掘合遊歩道が三鷹駅あたりから続く。この道も本村公園の緑道と同じく、軌道跡を整備したもの。戦前、現在の武蔵野中央公園あたりにあった中島飛行機武蔵工場などの軍需工場への引き込み専用線であり、戦後は工場跡のグランドへの専用線となっていた。グランドではプロ野球も行われたようである。なおまた、中島飛行機武蔵工場(現在のNTT武蔵野研究開発センター)から先、田無の中島金属エンジン工場(現在の住友重工田無製造所)にも簡易軌道があったようである。用水とか軌道という言葉に惹かれる我が身としては、このあたりの軌道跡を、近々、まとめて歩いてみようと思う。

大橋
上水記に「保谷橋」と記される古き橋。深大寺街道とも、大師道とも呼ばれる古道筋であり、もとは江戸の頃に架けられた。深大寺街道とは、小田原北条氏と相対する、関東管領上杉氏が整備した軍道。上杉氏の居城である川越城と、出城として築いた調布の深大寺城を結ぶ線を防御ラインとし、小田原北条に相対した。先日清瀬を歩いたとき、柳瀬川を見下ろす崖上に、川越城と深大寺城の中継地として築かれた滝の城があった。また、西武柳沢駅の少し西に六角地蔵尊があり、その脇道が深大寺街道と案内されていた。
この道は大師道とも呼ばれる。深大寺には関東で最も古い白鳳仏が佇むが、その仏像は元三大師堂に納められている。元三大師とは天台の僧良源(慈恵大師)、より。寛和元年小正月3日になくなったため、元三大師と称された。深大寺の白鳳仏もさることがら、この元三大師への信仰が深く、故に深大寺への道を大師道とも呼ばれていた。
深大寺道の大雑把なルートを清瀬の滝の城からトレースすると、滝の城を下り、柳瀬側を渡り、南下。志木街道を越え、米軍通信基地の東を下り、野火止用水を越え、黒目川に架かる神宝橋を渡り、更に南下。西武線のひばりが丘駅の西を越えて榎ノ木通を南下、西武柳沢駅西の六角地蔵尊脇を下り、武蔵野大学の東側を進み、玉川上水に架かる大橋を渡り、武蔵境通を南下。野崎八幡先で東八道路を越え南東にくだって深大寺へと至る。この道もそのうちに辿って見たい。

欅(けやき)橋
上水に沿って進むと、けやき橋西交差点。ここで上水は一時暗渠に潜る。暗渠はほどなく開渠おなり先に進むと欅(けやき)橋。元々は安政年間、と言うから19世紀の中頃、欅丸太を渡した、ささやかな橋であったようだが、その道筋を中央線を潜る立体交差の工事をおこない、橋も大きく様変わり。橋の前後が暗渠となり、「玉川上水公園」などが整備されているため、橋という感じはしない。橋の南詰めには「石造庚申供養塔」が残る。

三鷹駅
再び開渠となった緑道を進むと三鷹駅。ここでまたまた暗渠となり味三鷹駅下を潜る。中興線の駅のホーム下をのぞき込むと、水路が斜めに横切っているのが見える。



三鷹駅は昭和5年開業。みどり橋のところでメモしたように、戦後、ほんの1年程度、現在の武蔵野中興公園(戦前の中島飛行機武蔵工場)にあったグリーンパーク球場へと向かう武蔵野球場線という路線があった。現在は、玉川上水までは掘合(ほりあわい)遊歩道、その北はグリーンパーク遊歩道となっている。この路線は戦前中島飛行機武蔵工場への引き込み線を利用したものだろう、と思っていたのだが、中島飛行機への引き込み線は、境浄水場建設時の引き込み線とおなじく、始点は武蔵境駅であったようだ。


「独歩詩碑」
駅の北口交番裏には「独歩詩碑」。武者小路実篤の書による「山林に自由存す」と『武蔵野』の一節を抜き出した刻文がある。「山林に自由存す」の意味するところは定かではないが、『郊外の風景:樋口忠彦(教育出版)』によれば、古来、旅といえば歌枕の地、名所旧跡を辿ることであった。独歩は景物という枠から自由になるとともに、名所からも自由になっている。名所を巡る行楽は、道に迷うことを苦にしない、あてのないぶらぶら歩き、すなわち散歩に変わる、とある。
「武蔵野に散歩する人は、道に迷うことを苦にしてはならない。どの路でも足の向くほうへ行けば必ず其処に見るべく、感ずべき獲物がある。武蔵野の美はただその縦横に通ずる数千条の路を当てもなく歩くことに由って始めて獲られる。春、夏、秋、冬、朝、昼,夕、夜、月にも、雪にも、風にも、霧にも、霜にも、雨にも、時雨にも、ただこの路をぶらぶら歩いて思いつき次第に右し左すれば随所に吾等を満足さするものがある」
「同じ路を引きかえして帰るは愚である。迷った処が今の武 蔵野に過ぎない。まさかに行暮れて困ることもあるまい。帰りもやはり凡そその方角をきめて、別な路を当てもなく歩くが妙。そうすると思わず落日の美観をうる事がある。日は富士の背に落ちんとして未だ全く落ちず、富士の中腹に群がる雲は黄金色に染まって、見るがうちに様々の形に変ずる。連山の頂は白銀の鎖のような雪が次第に遠く北に走て、終は暗澹たる雲のうちに没し てしまう」。(国木田独歩『武蔵野』)。 こんな散歩を今後も続けたい。

三鷹橋
三鷹駅を横切った水路は三鷹橋より開渠となって下る。この橋は昭和36年架設されたもの。上水の北が武蔵野市、南が見三鷹市。三鷹の地名の由来は、明治22年、江戸の頃の十ヵ村が合併してひとつの村となった時、その十ヶ村が三領(府中領・世田谷領・野方領)にまたがる鷹場であった、との説がある。
鷹場広大なもので、徳川将軍家の鷹場は江戸から20キロ以内、さらにそれを囲むように徳川御三家(紀伊・尾張・水戸)や、田安・一橋家の鷹場があった。徳川将軍家の多摩郡における鷹場は34ヵ村に及ぶ;本郷村、阿佐ヶ谷村、上沼袋村、新井村、上井草村、下井草村、和田村、上荻窪村、下荻窪村、天沼村、田端村、成宗村、上鷺宮村、下鷺宮村、大宮前新田、松庵村、中高井戸村、久ヶ山村、和泉村、上高田村、片山村、高円寺村、馬橋村、江古田村、吉祥寺村、上連雀村、下連雀村、関前村、西荻村、境村、無礼村、中野村といったものである。三鷹から先、清瀬に至る地は尾張徳川家の鷹場。その雰囲気を求めて清瀬を彷徨ったことが思い出される。

太宰治の記念碑
三鷹駅から井の頭公園前の萬助橋までの上水にそった800mほどの道を「風の道」と呼ぶ。市民公募で命名された。むらさき橋の手前に、ポケットスペースがあり、そこに太宰治の記念碑と『乞食学生』の一節、そして玉川上水脇に佇む太宰の写真が石に組み込まれていた。「玉鹿石(ぎょっかせき)」も飾られているが、銘板には青森県北津軽郡金木町産とあった。故郷津軽の石である。太宰入水の地は、ここから少しむらさき橋に下ったあたり、とも言われる。現在の水量と異なり、昭和23年6月13日頃の水量は、「人喰らい川」と呼ばれるほどの急流であった、とのことである。

むらさき橋
武蔵野市と三鷹市を結ぶ橋。昭和29年、武蔵野市と三鷹市の合併の話があり、両市折半で架設した橋(合併は結局無かった)。橋名は公募。古今集「紫の一もとゆえに武蔵野の 草はみながらあはれとぞ見る」のもある、茜、藍と並ぶ武蔵野三染草の一つであるムラサキ(紫)が橋名に採用された。「鴨川の水でもできぬ色があり」と詠われたように、江戸紫は江戸の自慢のひとつであったことは、上流茜橋のところでメモした、とおり。紫橋を少しくだったところに。山本有三記念館。

万助橋
道を進むと、上水の北には井の頭自然文化園。こどもが幼い頃は、ここの動物園に足繁く通ったものである。先に進み、都道114号・吉祥寺通りに万助橋が架かる。安政年間、と言うから、19世紀中頃、下連雀の渡辺万助が架けたのが、橋名の由来。もとは、スギの大樹をふたつ割りにして架けたものであり、嫁入りの際は縁起が悪い、ということで、この橋を渡るのを避けた、とのことである。また、入水した太宰が発見されたのが、この橋の柵門あたりであった、とか(『玉川上水をあるく;武蔵野市教育委員会』)。
連雀新田のはじまりは、明暦3年(1657)の大火により類火した神田連雀町が御用地として召し上げられ、替わりにこの地が与えられ、住民が移り住んだ。連雀とは物を背負う背負子(しょういこ)のことであり、江戸の行商人は連雀を担いで行商を行った。そのころからもわかるように、神田連雀町に住んでいた人々は商人が多く、百姓仕事に不慣れで、この地の開墾に難儀したとのことである。

ほたる橋
先に進み、上水北側の深い雑木林、南の井の頭恩賜公園競技場を見やりながら歩くとほたる橋。橋からの景観はなかなか、いい。橋のすぐ下流に堰が見えるが、それは牟礼分水口。牟礼分水は玉川上水から分かれた後、公園を南下、明星学園の南で流路を東に向け、法政大学中学高等学校の南を更に東に進み、高山小学校の北で、再び流路を変え南に向かう。その後は、高山小学校の東で流路を変え、三鷹台団地の中を南東に弧をを描いて進み、往昔の「牟礼田圃」を潤していた。三鷹台団地が牟礼田圃跡である。

幸橋
幸橋の辺りで井の頭恩賜公園と離れる。井の頭公園を離れる前に、簡単に井の頭公園近辺のメモ;井の頭公園は東の池の部分と、西の台地部分に大きく分かれる。池は往昔、湧水が豊富で七つの湧水点があったため、七井の池とも呼ばれた。玉川上水以前に江戸の人々の口を潤した神田上水は、この井の頭の湧水を源流とし、自然河川を整備し直し、関口の大洗の堰まで水を送った。
東の台地上には御殿山遺跡が残る。縄文時代の住居跡や旧石器時代の石器が発見されている。井の頭公園のあたりの標高50mから55mあたり、と言うのは、武蔵野台地の湧水ポイントである。石器時代、縄文時代の人々は、崖下の豊かな水を飲み水として生活していたのであろう。ちなみに、井の頭の神田川に限らず、妙正寺川、善福寺川、石神井川といった武蔵野の水系の源流点はおおよそ標高50から55メートルといったあたりにある。

新橋

万助橋より新しいから新橋、と言われるが、万助橋は安政年間というから、19世紀の末ではあろうが、明治の頃の記録に新橋の記述がない。これでは万助橋との年代比較ができそうもない、と思うのだが。よくわからない。また、この橋は、一節には入水した太宰が流れついたところ、とも言われる。上に万助橋で見つかったとメモしたが、それは万助橋交番からふたりが発見の連絡が入ったことと混同しているのでは、とも。ともあれ、発見された6月19日は太宰の誕生日。現在、太宰は下連雀にある禅林寺で敬愛する森鴎外とともに、眠る。

松影橋
雑木林の中、松影橋あたりを進む。上水は深く、武蔵野台地の稜線部を素掘りで開削された当時が偲ばれる。上水の南は、もとは東京女子大学牟礼キャンパス(短期大学部・現代文化部。現在は法政大学中学高等学校となっている。

井の頭橋・若草橋

上水記では「稲荷橋」。明治の頃までは稲荷橋と呼ばれていたが、井の頭弁天参道が上水を渡るため、現在では「井の頭橋」と呼ばれている。人道橋の若草橋を見やりながら先に進む。竹林などもなかなか、いい。

宮下橋
牟礼の神明神社が南の丘の上にある。その宮の下、というのが名前の由来。明治初年には記載がないが、明治39年の記録には記載されているので、架橋は明治の前半だろう、か。橋名の由来ともなった、牟礼の神明神社の丘は、古くは高番山とも呼ばれ、そこには牟礼城があった、と言う。この城は小田原北条勢の出城。関東管領の本拠である川越城から清瀬の滝の城、そして深大寺城を防御ラインとする関東管領上杉に対峙すべく、小田原北条勢の北条綱種が築いた。神明宮は綱種が芝の神明宮を勧請したもの。

東橋・長兵衛橋
宮下橋を先に進むと、上水は東橋のあたりで流路を東に変える。明治39年には記載されているので、結構古い橋ではある。その先、上水が人見街道と交差する手前に長兵衛橋。牟礼の長兵衛さんが自費で架けた作場橋、とのことである。





牟礼橋
人見街道に牟礼橋が架かる。「上水記」では「久我山橋」と呼ばれていた。また、久我山村では「牟礼橋」、牟礼村では「東橋」、とも。「東橋」は牟礼村の東の端にあった、から。現在の橋の上手に煉瓦造りの旧橋が残るが、その石柱には「どんどん橋」と刻まれていた、と記憶する。水流多く、水が橋の下で、どんどん鳴り響いた音を表したものであろう、か。橋の南詰、上水右岸に「石橋建立供養之碑」が残る。
人見街道は府中と杉並の大宮八幡社を結ぶ。「大宮街道」とも呼ばれる。昔は、府中街道(旧鎌倉街道)の旧久我山村(杉並区)と旧牟礼村(三鷹)を結ぶ、交通の要衝でもあった。人見街道は、小金井の人見村、とか、その地域の有力者・人見氏に由来するとか、あれこれ。人見街道を渡れば、杉並区に入る。
牟礼は三鷹市の中で最も古い地名。1559年(永禄2年)に編纂された『小田原衆所領役帳』には「無連」 とある。「牟礼」の語源は、古代朝鮮の言葉で「山」を意味する、との説もある。山と言われても、それらしきものは見当たらないのだが、牟礼神明社のある高番山が、それとも、言う。ちなみに、久我山の「くが」は「陸」のこと。窪とは反対の地形で、川などの近くで盛り上がった山のようなところを指すようである。




久我山水衛所跡

牟礼橋を渡り、次の兵庫橋の手前に、久我山水衛所跡。かつて玉川上水に8カ所(熊川、砂川、小川、境、久我山、和田堀、代々木(余水吐際)、四谷大木戸)あったという水衛所の一つで、水路のゴミを除去する格子が残されている。太宰入水に際しては、この久我山水衛所まで捜索した。境水衛所の次が久我山水衛所跡であるので、少なくともここより下流に流れることはなない。結局、この水衛所で履き物が見つかり、ほどなく新橋付近で発見されたのは、上でメモしたとおり、である。




兵庫橋
橋の少し手前に「水難者慰霊碑」。現在は穏やかな水流ではあるが、「現役」の頃は日量30万トンの急流。一度落ちたら、深い壁面を這い上がる術もなく、水難が多発した。高井戸署の記録によれば、昭和28年に13件。34年に12件。昭和33年から5年間で、玉川上水でなくなった人は自殺者も含め90名に上った、と(『玉川上水・橋と碑と;蓑田たかし(クリオ)』)兵庫橋は「上水記」記載の古き橋。名前の由来は大熊兵庫、から。小田原北条の家臣であったが、この地に土着した。





岩崎橋
松葉通りと交差するところに岩崎橋。明治39年の記録では「樋口橋」とある。橋の下流に烏山分水と北沢分水の取水口があったのが、名前の由来ではあろう。小作庄太郎が丸太橋を架けたのが橋としてのはじまりで、「庄ちゃん橋」と呼ばれていた、とも言われるが、いつの頃のことか定かではない。現在の岩崎橋となったのは1943年、この地に岩崎通信機が本社・工場を移してからのことである。


烏山分水
岩崎橋の南に柵で囲まれた庭園がある。昭和22年のGoo地図を見ると「岩通ガーデン」と呼ばれるこの庭園を南東に延びる水路らしきものが見える。これが烏山分水。岩崎橋の南にある烏山の高源院の湧水を源流点とする烏山川へ養水し、水量を確保し、地域の灌漑用水として利用した。

北沢分水
さらに、少し下流に分水口の遺構らしき樋口がある。これは北沢川の分水口。北沢川の源流点は京王線・上北沢駅南の松沢病院のあたりではあるが、この川も烏山川同様、水量確保のため、玉川上水より分水し、その養水とした。北沢川への養水のための分水口は三度、その分水口の場所を変えている。最初の分水口は17世紀の中頃、上北沢村あたりから分水した。二度目は18世紀の後半、上高井戸村、甲州街道中ノ橋交差点あたりから分水された。そして、岩崎橋下流の分水口は明治4年に設けられたものである。

浅間橋
先に進み浅間橋のところで上水は開渠が終わり、暗渠となる。「上水記」に記される古き橋。往昔、近くに富士浅間神社があった、からの命名だろうが、現在、近くに浅間神社は見あたらない。なお、往時の橋は、現在の暗渠口より東200mの、富士見ヶ丘小学校のあたりで、あったよう。
境橋から辿った本日の散歩も、暗渠化になるこの地で終了。次回は、大半が暗渠となっている玉川上水の流路跡を新宿の四谷大木戸まで下り、上水散歩の最終回としようと思う。

今回は玉川上水駅からはじめ、玉川上水と千川用水の分岐点あたりまで進む。このルートは幾度となく歩いている。散歩のルートが何処も想い浮かばない時、夏の暑い日の散歩で木陰が欲しいとき、雨の日の散歩で雨水が直接当たるのを避けたいとき、などなど。木立に蔽われた誠に気持ちのいいルートである。
ルートの途中には野火止用水や小川用水、田無用水、鈴木用水への分水口があった。野火止用水は、このルート散歩をきっかけに、平林寺を越え、志木まで辿った。また、陣屋橋など、新田開発の功労者である代官・川崎平左衛門のファンとしては、その橋の名前だけでも、結構、惹かれるところも多い。ともあれ、木立の中を上水に沿って下ってゆく。

本日のルート;玉川上水駅>小平監視所>野火止用水分岐点>上水小橋>西中島橋>新堀用水>小川橋>小川用水>東小川橋>くぬぎ橋>寺橋>いこい橋>栄光橋>水車橋・新小川橋>鷹の橋>西武国分寺線>東鷹の橋>九右衛門橋>玉川上水立抗>鎌倉橋>小松橋>小川水衛所跡名勝境界石>商大橋>一位橋>西武多摩湖線>八左右衛門橋>山家橋>喜平橋>小平小桜橋>田無用水>鈴木用水>茜屋橋>貫井橋>小金井橋>陣屋橋>新小金井橋>関野橋>梶野橋>新橋>曙橋>くぬぎ橋・もみじ橋>境橋

玉川上水駅
JR立川駅より多摩モノレールにのり、玉川上水駅下車。駅前に架かる橋は清願院橋。現在は駅前広場と橋が一体化し、南からのぼる芋窪街道は地下を潜り立体交差となっているが、その昔、芋窪街道が線路を渡る踏切の南に端があったようだ。いまひとつ、お洒落ではない「芋窪」は、元は「井の窪」、とか。狭山丘陵の南、芋窪の地には、奈良橋川とか空堀川が流れており、なんとなく納得。清願院橋の名前の由来は不明。近くに、それらしきお寺さまも見あたらない(駅近くに佼成霊園はある)。
玉川上水駅を少し東に進んだ上水の北に東大和南公園がある。その公園の一角に旧日立航空機立川変電所跡が残る。この地の軍需工場は三度の空襲を受けたが、この変電所跡には、すさまじい機銃掃射の痕跡が残る、という。写真でみるだけでも、将に、蜂の巣状態といった有様である。一度訪れてみたい。

小平監視所
西武拝島線に沿って先に進む。道は少し上りとなっており、清願院橋あたりでは3mほどであったと思うが、小平監視所に近づくにつれ上水面までは次第に深くなる。羽村の堰で取水され河岸段丘を進んできた玉川上水が、国分寺崖線を上りきり、武蔵野台地の稜線部・馬の背に取り付いた感を強く感じる。
水道局・小平監視所。現在は、ここが玉川上水の終端施設。羽村の取水堰から取り入れられた多摩川の水は、ここで塵芥を取り除き、沈殿槽を通り、導水管で東村山浄水場に送られる。つまりは、ここから下流には多摩川からの水は流れていない。小平監視所から下流の玉川上水、また野火止用水は昭島の水再生センターからパイプで送られてきた高度処理下水が流れている。「清流復活事業」といった環境整備のために作られた流れとなるわけだ。
事情はこういうこと;昭和48年(1973)、玉川上水とつながっていた新宿・淀橋上水場が閉鎖、また、昭和46年には千川用水が廃止、昭和49年には三田用水も停止されたため、玉川上水の水を下流に流す必要がなくなった。実際は維持用に小平監視所から境浄水所に日量2000トン送水されていたようだが、その程度の水量では流路途中で吸収され、実際は空堀状態となっていた。
が、その後、昭和59年(1984)、東京都のマイタウン構想が発表され、玉川・千川上水の清流復活事業計画がはじまる。復活区間は、小平監視所から久我山浅間橋までの18キロ。玉川上水の水は、既に、村山浄水場に送られ都民の上水となっているため、水源は昭島の都多摩川上流水再生センターの処理水に求め、日量23,200トン(玉川上水に1,320トン,千川1,000トン放流することになった)の水を流すことにした。昭和61年9月着工。長期の空堀状態のため、当初1週間程度の予定が、7月15日試験開始、通水は8月27日となった。
ところで、何故、「小平」監視所?地図をチェックすると、ここは小平市。西武拝島線と玉川上水に囲まれる舌状地域が小平市の西端となっている。小平の地名の由来は、昔のこのあたりの地名であった「小川村」の「小」と、平な地形の「平」を合わせて「小平」と。

野火止用水分岐点
小平監視所を少し先に進むと、木々に蔽われた緑道の入口に。ここが玉川上水と野火止用水の分岐点。左に進めば野火止用水。右が玉川上水の緑道である。いつだったか、野火止用水を下流まで辿ったことがあるが、この分岐点から西武拝島線東大和駅あたりまでは暗渠の緑道となっていた。小平監視所は玉川上水から野火止用水の分岐点とはなっているようだが、実際は小平監視所から暗渠区間は埋め立てられ、昭島の水再生センターからパイプで送られてきた高度処理水は、東大和駅前あたりから放流されているようである。

野火止用水
武蔵野のうちでも野火止台地は高燥な土地で水利には恵まれていなかった。川越藩主・老中松平伊豆守信綱は川越に領地を拝領して以来、領内の水田を灌漑する一方、原野のままであった台地開発に着手。承応2年(1653年)、野火止台地に農家55戸を入植させて開拓にあたらせた。しかし、関東ローム層の乾燥した台地は飲料水さえ得られなく、開拓農民は困窮の極みとなっていた。承応3年(1654年)、松平伊豆守信綱は玉川上水の完成に尽力。その功労としての加禄行賞を辞退し、かわりに、玉川上水の水を一升桝口の水量で、つまりは、玉川上水の3割の分水許可を得ることにした。これが野火止用水となる。
松平信綱は家臣・安松金右衛門に命じ、金3000両を与え、承応4年・明暦元年(1655年)2月10日に開削を開始。約40日後の3月20日頃には完成したと、いう。とはいうものの、野火止用水は玉川上水のように西から東に勾配を取って一直線に切り落としたものではなく、武蔵野を斜めに走ることになる。ために起伏が多く、深度も一定せず、浅いところは「水喰土」の名に残るように、流水が皆、吸い取られ、野火止に水が達するまで3年間も要した、とも言われている。
野火止用水は当初、小平市小川町で分水され、東大和・東村山・東久留米・清瀬、埼玉県の新座市を経て志木市の新河岸川までの25キロを開削。のちに「いろは48の樋」をかけて志木市宗岡の水田をも潤した、と。寛文3年(1663年)、岩槻の平林寺を野火止に移すと、ここにも平林寺掘と呼ばれる用水掘を通した。
野火止用水の幹線水路は本流を含めて4流。末端は樹枝状に分かれている。支流は通称、「菅沢・北野堀」、「平林寺堀」「陣屋堀」と呼ばれている。用水敷はおおむね四間(7.2m)、水路敷2間を中にしてその両側に1間の土あげ敷をもっていた。
水路は高いところを選んで堀りつながれ、屋敷内に引水したり、畑地への灌漑および沿線の乾燥化防止に大きな役割を果たした。実際、この用水が開通した明暦の頃はこの野火止用水沿いには55戸の農民が居住していたが、明治初期には1500戸がこの用水を飲料水にしていた、と。野火止用水は、野火止新田開発に貢献した伊豆守の功を称え、伊豆殿堀とも呼ばれる。
野火止用水は昭和37年、38年頃までは付近の人たちの生活水として利用されていたが、急激な都市化の影響により、水は次第に汚濁。昭和59年(1984)から東京都と埼玉県新座市で復元・清流復活事業に着手し本流と平林寺堀の一部を復元した。(日曜日, 11月19, 2006のブログを修正)

上水小橋
野火止用水の分岐点を右に入り、玉川上水に進む。ほどなく開渠となる。緑の木立に囲まれた上水の流れを見る開渠。ここは上水で唯一、水際まで下りることができる。下りきったこころに上水小橋。開削当時の素掘りの赤土の壁面、その規模感を感じることができる。掘りは深く、清願院橋あたりに川底にあった砂利はないのは、ローム層の素掘りの面影を今に残しているのだろう、か。
上水小橋のあたりの自然岩の間から水が放流されているが、この水は昭島の水再生センターから送られてきた高度処理水。近くに「玉川上水清流の復活碑」がある。

西中島橋
緑道を進む。上水の北は中島町。南は砂川八番から九番あたり。江戸の頃の、砂川村の東端であり、亨保年間、八代将軍吉宗の新田開発奨励策によって、更に東へと開発された往昔の砂川新田も、現在では畑地の間に宅地が増えてきている。

新堀用水
雑木林の中を進むと、上水北側に水路が現れる。この水路は新堀用水と呼ばれる。明治3年(1870)、上水通船が行われることになったとき、上水北側にあった七つの分水口(小川、大沼だ、野中、鈴木、田無、関、千川)を整備し、上水に沿って開削したもの。どこかで写真で見たことがあるが、取水口は玉川上水から野火止用水が分岐する、すぐそばに造られた。その場所は、現在は小平監視所となっており、痕跡は既に、ない。
開削は一部、胎内掘り、とも、「たぬき掘り」とも呼ばれる地下トンネルが掘られている。開渠にするにはコストがかかるため、ではあろう。小川橋の近くに、轍柵で囲まれた大穴が四つある。新堀用水開削時の胎内掘りの工事跡、とか。なお、胎内掘りは、現在、一部を除いて埋められているということであるので、小平監視所あたりから、地下の導水管で開渠部辺りまで送水されているのだろう。
ちなみに、上水通船に関連して、上水北側の分水口を新堀用水として整理統合したように、上水南側も、砂川用水を延長し、11の分水口を付け替えた。

小川橋
胎内掘りより流れ出した水路を左に、上水を右に進むと小川橋。昭和29年3月架設。別名小川上ノ橋。立川街道、山口通り(青梅街道)が交差する。このあたりが砂川村、砂川新田の東の境。橋名の由来は、小川村に架かる、から。
小川橋、と言えば、江戸の頃、玉川上水より分水され、「原江戸道」とも呼ばれた青梅街道に沿った地を開発するために開削された小川用水の分水口のあったところである。砂川用水は五日市街道に沿って砂川新田が開発されたのに対し、小川用水は青梅街道に沿って小川新田が開発されていった。

小川用水
明暦2年(1656)、岸村(武蔵村山)の小川九郎兵衛が玉川上水の分水を得て小川新田を開く許可を得た。地域は大雑把に言って、野火止用水より東の、青梅街道沿いの地である、16世紀の中頃には五日市街道に沿った砂川新田の開発ははじまっていたのだが、武蔵野台地のほぼ中央部にあるこの地は、往昔、「逃げ水の里」と呼ばれるような、川もなく水の乏しい荒漠たる原野であり、開発は手つかずの状態であった。
当時、江戸の街つくりのために、漆喰の材料となる青梅の石灰への需要が高まっており、青梅街道では人馬の往来が盛んになってきていた。が、田無と箱根ヶ崎の間、20キロは水の乏しい全くの荒野であり、馬継ぎの宿を必要としていた。このような社会情勢もあり、小川九郎兵衛は田無と箱根ヶ崎の中間点、鎌倉街道と交差する青梅街道に馬継場を設け、青梅街道に沿った地を開発する、といった申請を行い、分水が許可された。
分水口は東小川橋近くにあった、と言う。が、明治の新堀用水開削時、新堀用水の分水口と統合された。流路は、開削当時は、東小川橋から、小平第十二小学校通りを北上し、青梅街道に上ったが、現在の流路は小川橋から立川通にそって、北東に進み、青梅街道に当たると、街道の南北を二流に分かれて流れ、JR新小平駅前あたりまで進み、少し東で一流にまとまり、北に向かい、途中、クランク状に西武新宿線・小平駅を越え、小平霊園方面へと向かう。

小川村・武蔵野新田
小川村:明暦の頃開かれた新田は、砂川新田のケースと同じく、後に小川村と呼ばれることになるが、その範囲は、東は西武多摩湖線、北は西武新宿線の荻山・八坂駅、西は八坂から南西に西武拝島線の東大和に向けて線を引いた線に囲まれた一帯である。現在の小川西町、小川東町、栄町、中島町、小川町、津田町といった辺りではあろう。

この用水をもとに、亨保年間(18世紀前半)、八代将軍吉宗の新田開発奨励時、小川新田(明暦の小川新田とは別)・大沼田新田・野中新田・鈴木新田・廻り田新田などが開発される。各新田はあまり馴染みがないので、大雑把な場所だけでもチェックしておく。

小川新田:享保9年(1724)。小川村の東。北は青梅街道、南は玉川上水。東端は大雑把に言って、都道248号線、といった範囲。現在の仲町、喜平町、学園東町、学園西町と上水本町の一部、上水新町

大沼田新田:享保9年(1724)。武蔵野新田の中央北部。小川新田の北、西は荻山、北は新青梅街道あたり、だろうか。東は小金井街道の手前で囲まれた一帯。現在の大沼町・美園町あたり。

野中新田:享保9年(1724)。武蔵野新田の北東端。小金井街道の東西一帯に拡がる。西は青梅街道、北は大沼田新田、南は小川新田を境とする。東は小金井街道の東を細長く延びている。鈴木新田の飛び地の東、玉川上水の南に開かれた辺り、また、国分寺の鳳林のある、並木町あたりが飛び地となっている。野中新田は広く、かつ分散した新田であったため、亨保17年(1732)、北野中、通野中、南野中の三組に分割され、それぞれ、名主の名前をとり、「野中新田善左衛門組」。「野中新田与右衛門組」、「野中新田六左衛門」となった。
現在の花小金井が「野中新田善左衛門組」。天神町・上水南町(以上、小平市)が野中新田与右衛門組」、そして国分寺市の並木町あたりが「野中新田六左衛門組」、かと思う。

鈴木新田:享保9年(1724)。武蔵野新田の南東端。この新田も小金井街道の東西に拡がる。西は小川新田、北はたかの街道(一部青梅街道まで)、南は玉川上水に接する。一部、玉川上水の南も、府中街道から西武多摩湖線の囲まれたあたり、は鈴木新田の飛び地となっている。現在の鈴木町・御幸町・上水本町

廻り田新田:享保9年(1724)。野中新田より買い求めた地。現在の回田町。

いつだったか、砂川分水を辿ったとき、立川と国分寺市の境、妙法寺、鳳林寺の少し西で五日市街道を挟んで南北に分かれ平行に進む水路があり、それは、もともとは、小川新田地先の玉川上水樋口から分かれた野中新田分水の流れであった、とのこと、さらに、その水路が国分寺市並木町辺りで合わさり、一流となり、鈴木新田分水に接続されている、ということではあった。その時は、通常の野中新田とはあまりに距離が離れており、いまひとつ、納得はできていなかったのだが、今回、そこが野中新田の飛び地・野中新田六右衛門新田、であり、鈴木新田の飛び地であることがわかり、なんとなく納得ができた。新堀用水と同様、明治3年の上水通船計画にともなう分水大改正により、玉川上水南の分水はすべて砂川分水に統合され、野中新田分水も、その先の鈴木分水も砂川用水として整備されていった。

東小川橋
緑道を進むと東小川橋。開削当時は、このあたりに小川用水の分水口があったようだ。上水の南は立川の砂川十番を越え、国分寺あたりではあろう。

くぬぎ橋
次の橋はくぬぎ橋。クヌギは、ナラ武蔵野の雑木林を代表する樹木、と言うことだが、タンポポと菜の花の違いも、つい最近までよくわからなかった情感乏しき団塊男には、いまひとつ、どれがどれだかはっきり、せず。また、くぬぎ橋のところに「コゲラ」の説明:コゲラは小さなキツツキです。都会にコゲラが増えたと言われています。玉川上水のように連続した緑地は、一度に遠くまで飛べないコゲラにとって大切な移動の通路となっています、とある。が、コゲラのくき声が、どれだか、わからない為体(ていたらく)の我が身である。



寺橋
先に進むと、上水の北に東京朝鮮学園。その北には武蔵野美大がある。橋の名前の由来は、小川九郎兵衛開基の小川寺の南方に架かる、から。昭和4年8月架設。てっきり、橋の南西にある、野中新田開発の発願者でもある、大堅和尚が建てた鳳林寺に由来する、と思い込んでいたのだが、完全に推論間違いであった。
ちなみに、野中新田、当初はこの大堅和尚の生家である、上保谷の「矢沢」家の名をとり、矢沢新田とする計画であったそうだが、資金不足で冥加金を治めることができず、江戸の商人野中屋善左衛門に援助を求め、新田も「野中新田」となった、とか。また、鳳林寺は元、大堅和尚開基の小平にある円成院よりの引き寺である。

いこい橋・栄光橋
上水北に流れる新堀用水の北側、北に白梅学園、東に創価高校に挟まれた三角地に「上水公園」やテニスコート。橋は、公園への往来の便のため設けられたのだろう、か。昭和50年に架設されたこの橋の名前は、市民の公募による。この橋の南、五日市街道に沿った妙法禅寺には、「川崎・伊奈両代官感謝塔」がある。栄光橋は、創価学園専用の橋。同学園のモットーでもあるのだろう。

水車橋・新小川橋
昭和50年、新小川橋に平行して架けられた人道橋。明治39年に、名主の小川家から譲り受け、精米店が昭和25年頃まで使っていた製粉精米用の水車があった、ようだ。店の名前をとり、小島水車と呼ばれたこの水車は、新堀用水から分水し、その北側の水車小屋へと水を引いた、とか。そのすぐ隣に新小川橋が架かる。







鷹の橋
西武国分寺線の手前に鷹の橋。すぐ北に鷹の台駅がある。橋は玉川上水と新堀用水を跨ぐ。西武国分寺線、と言うか、西武鉄道って、現在の「西武鉄道」になるまでの経緯は、なかなか複雑。所沢散歩のとき所沢駅への西武池袋線の不自然なアプローチが気になりチェックすると、以下のような西武鉄道誕生の歴史が現れてきた。

西武国分寺線
西武国分寺線の前進は川越鉄道と呼ばれ、明治22年(1889)に新宿と八王子間に開通した甲武鉄道の支線として国分寺から、当時の物流の拠点であった川越へと結ばれた。川越鉄道は大正9年(1920年)、武蔵水電に吸収され、その後西武軌道と合併。大正11年(1922年)には西武鉄道(旧)という社名になり、昭和2年(1927年)には村山線(東村山~高田馬場)を開通していた。
とはいうものの、これが現在の西武鉄道では、ない。1932年(昭和7年)に武蔵野鉄道が、1945(昭和20)年には西武鉄道(旧)が、1928(昭和3)年、国分寺~萩山を開通させた多摩湖鉄道の親会社である箱根土地(現コクド)に吸収合併され、西武農業鉄道となり、その1年後、名称も西武鉄道となった。これが現在の「西武鉄道」である。
別会社が吸収合併された矛盾が端的に表れているのが、所沢駅。先日の所沢散歩でメモしたように、西武池袋線の所沢駅へのアプローチは、如何にも不自然なカーブであるし、それよりなにより、同じホームで西武新宿線の新宿方面行と、西武池袋線池袋方面行が真逆の方向にホームを出て行く。「ノイズ」をチェックすると、「ノイズ」を起こした要因が、ちょっと見えてくる。

東鷹の橋
北の小平市中央公園は、元の、大日本蚕糸会蚕糸科学研究所の跡地。昭和52年に開園した。研究所は新宿百人町に移る。養蚕・蚕糸業は明治初期から、戦前まで輸出の花形であり、生糸・絹織物・絹製品といった養蚕・蚕糸関連製品だけで35,000トン、全輸出の半分を占めた、と言う。全盛期の昭和4年には国内農家600万戸のうち、およそ4割に相当する220万戸で養蚕が行われていたが、平成20年には養蚕農家はおよそ1000戸、繭生産で380トン(生糸2トン;平成18年)となっている(財団法人世界平和研究所より)。時代変われば、とは言うものの、変われば変わるものである。

九右衛門橋
府中街道と交差する地点に九右衛門橋が架かる。橋の名前は、このあたりの名主・九右衛門さん、より。この橋の下流50m辺りの南岸が、少々抉られたようになっているが、そこは「久保河岸」跡。玉川上水が明治になって2年間だけ許された舟運の荷の集荷場であった。この久保河岸跡が最も原型に近い姿を留めている、ということであるが、法面もだれており、河岸のイメージは伝わらない。
橋の北には津田塾大学。その前身である女子英学塾がこの地に移ったのは昭和6年のこと。女子英学塾は、明治33年(1900年)、津田梅子により、当時の、東京府東京市麹町区(千代田区)に開校した。

玉川上水立抗
上水北側に少々無粋な建物。扉に「玉川上水立抗 列車通過中扉の開閉注意」とある。一見、倉庫のようではあるが、この建物は直下を走るJR武蔵野線のトンネルの作業口。また、武蔵野線トンネル内から汲み上げた水を建物の裏側からパイプを通して新堀用水へ流している。

鎌倉橋
先に進むと鎌倉橋。昭和52年3月に架設されたもの。この橋筋が鎌倉街道、と言うわけではなく、この辺りを鎌倉街道上ノ道が通っていたため、架設時にその名前を使ったもの。鎌倉街道の中でも、この辺りを通るのは鎌倉街道上ノ道ではあろう。この近辺のルートは、西国分寺、それから鎌倉武士の鑑である畠山重忠と遊女・夙妻太夫 (あさづまたゆう)の恋物で知られる恋ヶ窪をへて、この鎌倉橋辺りを経て久米川、所沢、入間川へと進み、苦林から大蔵へと向かう。久米川や所沢散歩で、折りにふれて登場した鎌倉街道、苦林の近くの毛呂山歴史民俗資料館あたりの鎌倉街道、笛吹峠から木曽義仲ゆかりの大蔵への鎌倉街道など、断片的にではあるが辿った鎌倉古道の風景が想い起こされる。高尾から秩父まで四つの峠を越えて辿った鎌倉街道山ノ道も懐かしい。とはいうものの、「鎌倉街道」といった街道をつくったわけではなく、昔からあった道筋を整備し、鎌倉へと結んだ道は、すべからず、鎌倉街道ではあった、よう。

小松橋
鎌倉橋からほどないところに架かる人道橋。かつて上水の北側には赤松の林がひろがっていたようで、松ヶ丘と呼ばれていた、と。橋の名前に由来は、この地名故のことだろう。

小川水衛所跡
小松橋から少し下流に小川水衛所跡が残る。江戸時代の水番所の代わりに、羽村~大木戸間に設けられた八カ所(熊川、砂川、小川、境、久我山、和田堀、代々木(余水吐際)、四谷大木戸)の水衛所のひとつ。水衛は水路の下流から上流に向かって、各水衛所間の受け持ち区域を毎月10回以上巡視。また上水路の各分水口樋口の鍵は、水衛が保管していた、とのことである。昭和38年、小平監視所の開設にともない、水衛所は廃止されたが、ゴミを除去する鉄柵は残っている。

名勝境界石
水衛所跡地に「名勝境界石」。国の名勝に指定された小金井桜堤の西端。東端は境橋あたりまでの6キロ。境橋付近の両岸にも「境界石」が残る、とのこと。小金井桜は、元文2年(1737)、武蔵野新田開発の推進役である代官川崎平右衛門が幕命により、大和吉野山や常陸桜川から山桜の苗木を1000本取り寄せ、この小金井橋を中心に東西6キロにわたって植樹をおこなった。五日市街道を往来する人たちの評判にもなり、18世紀末から、19世紀初頭にかけて次第に江戸の名所ともなり、葛飾北斎や歌川広重によって、小金井堤の桜が描かれてもいる。
元々は松並木であった、堤を桜としたのは、桜の上水への解毒作用を期待したとも、花見客の往来による堤の強化など、諸説あるも、不詳である。玉川上水の堤は、この名勝指定地域に限らず、桜の名所が多い。そして、その種類は、江戸末期から明治にかけ、江戸の染井村の植木職人によって育てられた「ソメイヨシノ;染井吉野」が多くなってきている。山桜とソメイヨシノは、全く異なる種の桜であり、都の方針としては、「桜の景観は将来的にも維持する。ソメイヨシノを中心とする現状の桜は保全し、活力が低下(寿命50年)したものは、将来的には玉川上水の桜の特徴でもある、山桜に変えていく」といった方針であるようだ。
山桜がどれほど、ありがたいものか良くわからない。文芸評論家の小林秀雄の講演の原稿に、山桜の有り難さの下りを述べた箇所がある。引用する:敷島の大和心を人問わば朝日に匂う山桜花(本居宣長の歌)
宣長は非常に山桜が好きな人だった。遺言に、自分の墓には山桜を植えてくれと書いたそうだ。山桜でも一流のやつを。
山桜を知らない人にはこの宣長の歌のあじわいがわからない、と小林秀雄は言う。
山桜は花と葉が一緒に出る。しかし今の人はソメイヨシノばかり見ているから桜は花が先に出ると思っている。ソメイヨシノは明治に出来た桜で、日本の桜の80%を占めている。
なぜソメイヨシノが流行ったかというと、植木屋が育てやすかったからだ。苗がすぐそろい栽培しやすいのだ。そしてその流行を後援したのが文部省。文部省と植木屋が結託して小学校にソメイヨシノを植えた。小学校の先生は俗悪な花を咲かせるソメイヨシノを桜だと教える。だから今の人はソメイヨシノが桜だと思っているので、宣長の歌がわからないのだ。
「朝日に匂う」の「匂う」という言葉のもともとの意味は色が染まるということ。照り輝くという意味にもなる。香りの意味にもなる。
「朝日に匂う」は、朝日がさしたとき、山桜がいかにも匂うということで、この歌がわかるには、「匂う」という言葉を知らなくてはならないし、山桜のあじわいがわからなくてはならないのだ」とのころ。それでも情感乏しき我が身には、有り難みは。実感できてはいない。

玉川上水と五日市街道が接近
小川水衛所跡のフェンス南側あたりで、玉川上水と五日市街道が接近し、平行に進む。五日市街道が上水に当たるあたりに「上鈴木不動尊」。鈴木新田の飛び地に佇む。赤いトタン屋根のお不動さまの境内には庚申塔(寛政13年)や馬頭観世音(安政4年)、石橋供養塔(寛政3年)などがある。不動前の道は旧五日市街道ではあるが、は250メートルほど西で直角に折れて五日市街道と合流。その折れ曲がる地点は『まがりとう』と呼ばれている。

商大橋
小川水衛所から50~60m程進むと商大橋。名前の由来は、上水の北側に一橋大学の前身である東京商科大学予科、から。箱根土地会社(西武、というか、国土開発というか、とりあえず西武グループの前身)による小平学園都市構想への誘致により、津田塾大学に次いで、この地に移る。昭和8年のことである。
昭和12年架設の旧橋は、平成2年に拡張の上、掛け替えられた。商大橋の近くには、一橋大学だけでなく、独立行政法人大学評価学位授与機構もある。

一位橋
商大橋下流200mにイチイの並木。橋名の由来は、この北海道や長野に自生の常緑針葉樹、から。とはいうものの、どれがイチイだが、わかるはずも、なし。もっとも、近年、ほとんど枯れてしまった、とも。先に進むと上水は、西武多摩湖線と交差する。手前に架かるのが小平桜橋。

西武多摩湖線
西国分寺駅から西武遊園地までのわずか9.2キロの路線であるが、この路線が西武ホールディング発祥の路線。元は、堤康次郎の箱根土地(後にコクド。現在はプリンスホテル)が小平学園都市構想の交通を確保すべく設立したもの。昭和3年、国分寺から荻山間を開通。その後、村山貯水池あたり(現在の西武遊園地駅)まで路線を延ばし、旧・西武鉄道(現在の西武新宿線)や武蔵野鉄道(現在の西武池袋線)を吸収合併し、現在の西武鉄道となったのは、すでにメモした通り、である。

八左右衛門橋
玉川上水の北は、西武多摩湖線の少し西から江戸の頃の小川新田である。八左右衛門橋は、小川新田の名主であった滝沢八左右衛門が架けた橋。明治初年に玉川上水通船が行われたときの小川船持五軒のひとりでもある(小川村組頭10隻、野中新田船持総代2隻、廻り田新田名主3隻、鈴木新田船持総代2隻)。有力者であったようで、小川新田は八左右衛門組とも呼ばれていたようである。

山家橋
小川新田のことを八左右衛門組とも呼ばれたが、また、小川新田山家組とも呼ばれたようである。滝沢八左右衛門さん達が住む、警察学校の敷地辺りを山家集落とも呼ばれていた、とのことである。東京・新宿の若松町にあった陸軍経理学校が昭和17年(1941年)、小平市(当時の小平村)に移ったとき、「小川新田山家(おがわしんでんさんや=いまの同市喜平町)の、ほとんどが陸軍経理学校の用地に買収された」、と言った記述もあるので、結構最近まで使われていた地名のようである。

喜平橋
喜平橋で五日市街道は玉川上水の右岸から左岸に位置を変える。江戸の頃は、留(とめ)橋と呼ばれていた。喜平橋の名前は、野中新田の掘野中(喜平町の辺り)の組頭であった喜平さんの家の傍にあった、ため。現在の喜平橋は昭和46年の建設。明治の頃は、石積のアーチの橋であった、とか。





小平小桜橋
喜平橋を越え、上水北側の小平第三小学校前に小平小桜橋。新堀用水からの田無用水分水口は、このあたりにあった、とか。とはいうものの、肝心の新堀用水は西武多摩湖線の手前、小平桜橋のあたりで暗渠となっているので、現在の正確な分水口は不明ではある。ともあれ、田無用水はこのあたりで新堀用水から分かれていたようである。

田無用水
小平桜橋あたりで、新堀用水(現在は暗渠)から別れた田無用水は、小平第三小学校裏から鈴木小学校の北に向かって進む道・氷川通りを進む。地名を見ると回田町とある。これって、その昔、享保9年(1724)、野中新田より買い求めた廻り田新田であろう。それはともあれ、氷川通りを進むと都道248号にあたる。地図を見ると、その先に、県道132号の鈴木町交差点に向かって北東に進む水路が見て取れる。その先は、鈴木交差点から県道132号・鈴木街道を北東に向かい、田無の橋場交差点へと進む。
田無宿を潤した用水は青梅街道の南北二流に分かれ、田無宿(田無駅)の東で青梅街道を越え、石神井川に余水を注いだ。また、田無用水は、田無市内で田柄用水に分水し、練馬の光が丘付近からはじまる田柄川と繋がれ、これまた、最終的には石神井川へと注ぐ。明治の頃、石神井川下流にあった富国強兵のための工場群に水を供給するための水路網整備なのであろう、か。

鈴木用水
田無用水から分岐し、田無用水の流路である氷川通りの北、県道132号線に沿って北東へと向い、県道248号・鈴木町一丁目交差点あたりで鈴木街道を挟んで、南北二流に分かれ、東へ進む。南流は鈴木街道・鈴木交差点の手前で田無用水とクロスし、鈴木用水は田無用水の下を潜り、さらに東進。花小金井1丁目と2丁目の間の道を東に進み、石神井川へと注ぐ。一方、北流は小平第八小学校あたりで水は涸れ、花小金井を南流と平行して進み、花小金井南町で大門橋緑道を経て北に向かい、小平市を離れると完全に暗渠となって消えてしまう。

茜屋橋
小平市から小金井市に移る。新小金井街道と玉川上水、そして玉川上水に沿って進む五日市街道と交差するところに茜屋橋。このあたりが、小金井市と小平市の市境。付近にかかっている現在の橋は、昭和54年(1979)に架設されたもの。元は、明治初年、橋の南側で藍玉の集荷をおこなっていた島田家が、対岸の五日市街道に渡るためにつくったもの。丸太3本の橋であった、とか。
名前の由来は、島田家の屋号である「あかね屋」、から。島田家は付近で栽培された茜(あかね)の元締めでもあった。茜は、紫、紅花とともに、武蔵野の三大染草のひとつ。この橋は明治初年に、橋の南側で藍玉の集荷、また、茜(あかね)の買い入れを家業としていた島田家が、対岸の五日市街道へ渡るために玉川上水に3本の材木をかけたのがはじまり。島田家の屋号が『あかね屋』であったことが、橋の名前の由来。
茜はムラサキ(紫)と藍に並ぶ武蔵野三染草の一つで、付近に自生もしていたようだ。「鴨川の水でもできぬ色があり」と詠われたように、江戸紫は江戸の自慢のひつとで、あった、よう。島田家は享保年間の武蔵野新田開発が奨励された頃、五日市の檜原村より野中新田(上水南町)島田家は享保年間の武蔵野新田開発促進で、桧原村から堀野中新田(野中新田善左衛門組の一部。現在の小平市上水南町)に移住した出百姓である。

貫井橋
鈴木新田開発の鈴木利左衛門が貫井村の本家から通うためにつくったもの。『上水記』にも記載の古き橋。鈴木利左衛門は貫井村草分けのひとり。熊野出身。小田原北条滅亡後、この地に土着し小平の新田を開発。ためにもとは、鈴木橋とも呼ばれた。
現在はケヤキを中心とした落葉樹が茂り、枝葉が水路を覆い、水面はあまり見下ろせないが、昭和30年頃までは水路の下草もきれいに刈り取られ、現在とは全く趣の異なる景観であった、とか。

小金井橋
小金井街道、玉川上水、そして玉川上水に沿って進む五日市街道と交差するところに小金井橋。橋は『上水記』(寛政3年・1791年、幕府の普請奉行により作成)にも記載される古い橋である。橋の名前の由来は、近くに武蔵七井のひとつ、とはいうものの、武蔵七井がどれとどれかって、わからないのだが、ともあれ、武蔵七井のひとつである名水黄金井(こがねい)、より。小金井市の名前の由来でもある。
小金井橋左岸北詰に『名勝小金井桜』の碑。桜の名所として名が広まるにつれ、人馬の往来により橋の損傷も激しく、安政3年(1256)、元の木橋から石橋に掛け替えられた。さすがの桜の名勝も、明治の中頃には木々の衰えが目立ち、大正13年(1924)には保護の意味もかねて、国の名勝指定となった。戦後は、米軍の立川・横田基地への兵站輸送の便のため、五日市街道の拡張により、往昔の堤は削られ、また、昭和40年の淀橋浄水場への上水停止もあり、水路や桜並木の荒廃がはじまり、ケヤキなどの雑木林が茂り、桜や雑木の混在した景観を呈している。橋の上流に明治天皇の行幸松の碑。明治16年のことである。

陣屋橋
陣屋橋の北に陣屋(関野町2-6)があったのが、橋名の由来。陣屋橋の説明板によれば、「江戸時代前期の承応3年(1654)、江戸の水道である玉川上水が完成した後、武蔵野の原野の開発が急速に進み、享保年間(18世紀前半)ころに、82か村の新田村が誕生しました。この新田開発には、玉川上水からの分水が大きな役割を果たしました。この時、上水北側の関野新田に南武蔵野の開発を推進した幕府の陣屋(役宅)が置かれ、「武蔵野新田世話役」に登用された川崎平右衛門定孝の手代(下役)高木三郎兵衛が常駐していました。
この陣屋から南に真っ直ぐ小金井村方面に通じる道が「陣屋道」、玉川上水に架かる橋が「陣屋橋」です。今の橋は、昭和48年に新設されたものですが、元の陣屋橋は、ここから数十メートル下流にありました。
また、玉川上水両岸の小金井桜は、新田開発が行われた元文2年(1737)頃、幕府の明によって川崎平右衛門等が植えたものです」、とある。
陣屋は東・北・西の三方を土塁、南を用水堀で囲まれた構え。高木三郎兵衛は、川崎平右衛門と同じ押立村の出身。平右衛門により取り立てられ、この陣屋を任されたのをはじめとして、岐阜、石見銀山と、代官となった平右衛門の有能な補佐役として一生涯をともにした。今日、川崎平右衛門を研究するときに欠かせない『高翁家録』も三郎兵衛の手になるものである。

川崎平右衛門
川崎平右衛門は、もとは府中押立村の名主。農民を保護し、農営指導するその力量を評価され、享保年間、大岡越前とともに武蔵野の新田開発、というか立て直しに尽力した。
武蔵野の新田開発は享保年間以前、明暦の頃より始まった。武蔵野に82の開拓村ができた、と言う。とはいうものの、入植した1320余戸のうち生活できたのはわずかに35戸しかなかった、と言う。こういった村の状況を更に悪くしたのが元文3年(1738年)の大飢饉。村は壊滅的状況になった。
その窮状を立て直すべく大岡越前守に抜擢されたのが川崎平右衛門。時の代官上坂安左衛門(この人物も何となく魅力的)の助力のもと、農民救済に成果を示し、名字帯刀を許され、1743年(寛保3年)、大岡越前守の支配下関東三万石の支配勘定格の代官になった。また、不手際・職務怠慢ということで水元役を解かれた玉川兄弟に代わり、玉川上水の維持管理にも深く携わる。桜の名所とし有名な小金井堤の桜を植えたのも川崎平右衛門である。後には美濃や石見銀山にも代官として派遣され仁政を行った(『代官川崎平右衛門の事績;渡辺紀彦(自費出版)』、より)。誠に魅力的な人物である。

名代官と称された川崎平右衛門であるが、中野散歩の時、新田開発とは全く関係のないコンテキストで現れたことがある。中野長者・鈴木九郎ゆかりの寺、中野・成願寺を訪れたとき、そのすぐ脇の朝日が丘公園(中野区本町2-32)に象小屋跡の案内があった。亨保の頃、タイより象が長崎に到着。街道を歩き、京都で天皇の天覧を拝した後、江戸に下り将軍・幕閣にお目見え。その後13年ほどは幕府が飼育するも、維持費が大変、ということで払い下げ。希望者の中から選ばれたのが川崎平右衛門。縁故者の百姓源助が象を見せ物とし、大いに賑わった、とか。また川崎平右衛門は象の糞尿にて丸薬をつくり、疱瘡の妙薬として売り出した。幕府の宣伝もあり、大いに商売は繁盛し、観覧料や丸薬の売り上げで上がった利益で府中・大国魂神社の随神門の造営妃費として寄進された、と(『代官川崎平右衛門の事績;渡辺紀彦(自費出版)』より)。

新小金井橋
新小金井橋の北に真蔵院。川崎平右衛門供養塔がある。今までの散歩で出合っただけでも、国分寺の鳳林寺、観音寺に平右衛門を顕彰する碑があった。人々に敬愛された人物であったわけだ。
真蔵院は、延享2年(1745年)、関野新田の開拓者である関勘左衛門が、西多摩郡御岳山中の廃寺世尊寺の塔頭を引寺し菩提寺とした。現在は山門も本堂もコンクリートつくり。境内の古代ハス(大賀ハス)で知られる。
先に進み小金井公園入口の歩道橋下に「名称小金井桜碑」。上水堤の桜は桜見物で賑わい、明治22年(1889)、新宿・立川間に開業した甲武鉄道(後の中央線)も、その賑わいに抗しきれず、観桜の時期だけは、武蔵境駅と国分寺駅の間に仮の乗降場が設けられたほど。その駅が、小金井公園を南に下ったところにある武蔵小金井駅の前身である。
武蔵野公園の南に「浴恩館公園」がある。戦前の青年団運動の施設跡。昭和8年から12年まで作家である下村湖人が所長であった。『次郎物語』で知られる。「浴恩館公園」の近くを仙川が流れる。仙川を上流端から世田谷で野川に注ぐところまで辿ったことを思い出す。

関野橋
『上水記』にも記載される古き橋。亨保9年(1724)、下小金井村の名主・関勘右衛門が上水の北、現在の関野町一帯を開拓し、関野新田を開いた。橋の名前は、往昔、関野新田橋と呼ばれていたようであるが、後に関野橋となった。
関野橋から少し下った辺りの緑道に「桜樹接種碑」。天保15年(1844)、十三代将軍家定が世子の頃、観桜御成を名誉とした、当時の代官大熊善太郎の命により、上水の両岸の桜の補植を命じた。桜も歳を経て、だいぶ弱ってきていたのだろう。で、上水北岸の桜の補植を熱心におこなったのが、田無地区41ヵ村の惣名主・下田半兵衛。この碑はその半兵衛が建てたもの。表には「桜折るべからず 槐字道人」とある。 槐字道人とは下田半兵衛のこと。裏面には補植の経緯を記した、桜樹接種記が刻まれ、「老いたるには培ひ、朽たるには種継(中略)万々年もつぎつぎに植え継ぎて...」と、後生にも接種を求めている。
大田蜀山人の『調布日記』には、関野橋を描いた下りがある:酔心地にたち出て、猶関前新田のかたにあゆみゆけば、関野橋という橋あり。此所より左右をみるに花はさかりにして、雲のごとく、上水の流はねりぎぬを引たらんごとし」、とある。『調布日記』は蜀山人・大田南畝こと大田直次郎が幕府の役人(玉川通普請掛り勘定方)として、四ヶ月に渡り、多摩川の治水状況を見聞したときの記録。蜀山人・大田南畝って、狂歌師として知られるが、幕府の人材登用試験である学問吟味で、お目見得以下の身分での主席合格者、といった有能な役人でもあった。もっとも、それは、田沼意次の時代に狂歌師として活躍した自身を、一転、寛政の改革、質素倹約の時代に転換した時勢に合わせた自己を護る手段であった、とも。改革に対する政治批判の狂歌「世の中に蚊ほどうるさきものはなしぶんぶといひて夜もねられず」が蜀山人・大田南畝の作と目されるなど、状況は厳しいものがあったが、以降狂歌から離れ、幕府の役人として難局を切り抜けた。

梶野橋
『上水記』に記載の古い橋。亨保年間の武蔵野新田開発奨励時、上小金井村の名主である梶野藤左衛門により開墾された梶野新田に架けられた。梶野新田は現在の小金井市梶野町の一丁目から四丁目あたり。新田開発にともない亨保17年(1732)には梶野分水も認められた。分水は梶野新田だけでなく、染谷新田、南関野新田、境新田、井口新田五郎左衛門組、井口新田権三郎組、野崎新田、上仙川村を潤した。
梶野分水は明治3年(1870)の上水通船計画にともなう分水統合策により、上流の小金井分水、またその先の砂川分水とつながり、下流は深大寺村まで結ばれた。砂川用水が深大寺用水とも呼ばれる所以である。上水通船計画と言えば、梶野橋際に、境新田の船持ちの荷揚げ場があった、とのことである。

新橋
この橋も『上水記』に記される古き橋。現在はコンクリート擬木の造りであり、自転車は通れそうな人道橋である。現在、上水の南側は桜堤と呼ばれるが、江戸の頃は境新田と呼ばれていた。
梶野橋と同じく、この橋際に、境新田の船持ちの荷揚げ場があった。上流の小松橋あたりから続いた小金井桜も、この辺り、梶野橋・新橋辺りが東端。『玉花勝覧(文化元年;1804)』には、「新橋 この橋よりはじめて南岸桜なり」、「梶野橋 ここより両岸桜なり」、と。また、『江戸名所花暦;文政10年(1827)』には、「新橋、このはしより両岸に桜つらなる。梶野橋・関野橋より花に添て行」とある(『玉川上水をあるく;武蔵野市教育委員会』)。

曙橋
桜堤団地建設の資材運搬のため造られた橋。明治の頃には、この橋のあたりに千川用水の分水口があり、玉川上水と五日市街道の間を下る路があったようである。江戸の頃は曙橋の少し上流。明治4年には橋の下流に分水口が設けられた、とか。当初は胎内掘りであったようだが、明治16年の頃は開渠となり、先に進んでいた、とのこと。

くぬぎ橋・もみじ橋
ともに、自転車程度は通れるにしても人道橋。ともに、周辺にくぬぎや紅葉が多く茂っていたからの橋の名前ではあろう。ところで、クヌギやコナラといったドングリの木を中心とする武蔵野の雑木林であるが、これって自然林ではない。元は草の生い茂る、荒漠たる原野を開いた人々によって薪や炭に仕えそうな木々として植えられたもの。クヌギは、とくに炭としての利用価値が高かった。江戸の街が拡大するにつれ、生活燃料としての薪炭が大量に必要となり、元々の草原が雑木林と変わっていった。武蔵野といえば雑木林、と言われるほどの「存在」ではあるが、もとは、燃料確保のために植えられた木々ではあった。





境橋
さきに進み境橋。名前の由来は保谷との境、旧境村から、とか、江戸時代武蔵境には出雲松江城主松平公の屋敷があり、そこを管理していた境本氏が関東郡代に開墾を願い、長百姓となった、その「境本」から、とも言われる。
この境橋から千川用水が玉川上水から分かれ、五日市街道に沿って北東へと向かう。日も暮れてきた。本日の散歩はここで終了。次回、この境橋から三鷹・吉祥寺方面に下っていこうと思う。

西武拝島線・立川駅を下り、先回散歩の最終点である美堀橋の先にある暗渠部に向かう。今回は、出かけるのが遅くなり、この暗渠部から玉川上水駅あたりまで上水を辿ることにする。ルートの南は、先日国分寺散歩で偶然出合った、江戸の頃の砂川分水・砂川新田(後の砂川村)。五日市街道に沿って開拓された砂川村を想い描きながら、上水を辿ることにする。

本日のルート;西武拝島線・立川駅>美掘橋>松中橋>柴崎分水口>砂川分水口>一番橋>天王橋>稲荷橋>上水橋・すずかけ橋・上宿橋>新家橋>見影橋>巴河岸跡>大曲>金比羅橋・金比羅山>宮の橋>千手橋>玉川上水駅

美堀橋
美堀橋は昭和59年に架けられた。名前の由来は、辺りの地名である美堀町、から。また、美堀町は、上水の向こう側、ということで、「堀向=ほりむこう」とも呼ばれていた、と。暗渠は戦前、昭和14年(1939)、上水の南に長さ1200m、幅170mの滑走路が完成し、将来、延長される可能性を見越して、上水に鉄筋コンクリートの蓋をした、とのこと。立川にあった陸軍飛行第五連隊は、1938年には飛行第五戦隊と改編され、1939年に柏飛行場に移った。立川には実戦部隊はなくなり、立川陸軍航空廠や技術研究所、あとは軍用機を製造するといった研究・開発・製造の拠点となり、結局、滑走路が延長されることはなかったようである。




松中橋
松中橋を越えると5~6m下流に小さな堰がある。松中橋とこの堰の間にある二つの分水口への水位を上げるためのもの。二つの分水口とは柴崎分水と砂川分水。上流から柴崎分水と砂川分水の順に分水口がある。砂川分水は、散歩の折々出合ったこともあるのだが、柴崎分水ははじめて。八代将軍吉宗の新田開墾奨励策の一環として、当時の柴崎村芋窪新田、現在の立川駅の南西側の人々の上水や灌漑用水として利用されたのが柴崎分水である。

柴崎分水
松中橋の分水口を離れた流れは、南東に下る。地図を見ると、県道162号に向かって水路らしき流れが残る。県道から先は暗渠となっているが、流路はそのまま直進し、昭和記念公園西側の空き地に進み、そこを残堀川に沿って南下。途中で直角に曲がり、今度は残堀川の東を下る。昭和公園辺りを離れた分水はJR青梅線・残堀橋脚付近をくだり、奥多摩街道に。
奥多摩街道を東に進んだ分水は中央線を「掛け樋」で渡り、中世、立川地域に勢力を張った立川氏ゆかりの普済寺近くを進み、立川段丘を下る。その後は、中央モノレール柴崎体育館の南を越え、柴崎体育館駅の北側を抜け、根川に合流し、日野橋付近で多摩川に注ぐ。距離はおおよそ8キロ。奥多摩街道から普済寺までの流路は、西へ東へ、南へ北へと、結構複雑な流れとなっている。現在でも素堀りの流れなど、流路の半分くらいが開渠で残っているようだ。そのうち流路を辿ってみようと思う。

砂川分水
柴崎分水口のすぐ下流に砂川分水口。玉川上水から分かれた用水の中では、明暦元年(165)に開削された野火止用水に次いで古い用水である。明暦3年(1657)開削当時の分水口は、松中橋の300mほど下流にある天王橋のあたりに設けられ、その地で交差する五日市街道に沿って東へと流れ、砂川新田、後の砂川村の開発に供された
。 砂川新田の開発は、玉川分水・砂川分水の開削(明暦3年;1657)以前、寛永4年(1627)~明暦2年(1656)の頃よりはじまっていた。現在残堀川は天王橋の下流、上水橋・すずかけ橋のところを流れるが、当時は更に下流、立川断層に沿って、現在の見影橋に辺りを流れており、玉川上水ができる前は、この残堀川の水を利用し、新田開発が行われていた。その流れは、五日市街道の砂川三番・四番あたりに下っているので、開発は砂川三番・四番あたりからはじまった。名主・村野屋敷が砂川四番辺りにある。
明暦3年に砂川分水が通水されると、天王橋から五日市街道に沿って,砂川一番から八番へと新田開発がはじまる。明暦3年(1657)~元禄2年(1689)の事と言われる。現在も交差点に砂川三番、とか砂川七番といった名称が残る。この番号は年貢の徴収単位であったようで、一番から四番を「上郷」、五番から八番を「下郷」と呼び、それぞれ、「小名主」がその任にあたった。
この砂川一番から八番を通常、「砂川村」と呼ぶようだが、それは、亨保7年(1722)、八代将軍吉宗による新田開発奨励策を受け、砂川新田の一番から八番まで開発を終えていた砂川の人々が、その東、砂川九番、十番あたりに開発の手を延ばし、これら新しい新田を「砂川新田」、その東を「砂川前新田」などと呼ぶようになった。ために、それらの新田と区別できるように従来の新田を「砂川村」としたようである。砂川三番、四番を中心に村の母体ができて百年後のことであった。
砂川分水の流れを少し先まで辿ると、立川と国分寺市の境、先日散歩で訪れた妙法寺、鳳林寺の少し西で五日市街道を挟んで南北に分かれ平行に進む。もともとは、小川新田地先の玉川上水樋口から分かれた野中新田分水の流れであった(場所から言って、小平にある野中新田の飛び地だろう)。砂川分水開削当時は、砂川八番あたりまでしか通水しておらず、ために、玉川上水から直接分水していたようである。その流れは西武国分寺線を越えたあたり、国分寺市並木町辺りで合わさり、一流となり、鈴木新田分水(ここも小平にある鈴木新田の飛び地)に接続されている、と聞く。これらの分水は明治3年の分水大改正時、つまりは、上水通船事業の開始にともない、上水南側の分水は、すべからく砂川分水に統合されることになり、砂川分水以外の分水口は閉じられることになったため、「砂川分水」に繋げた、と聞く。

一番橋
上水南側を砂川分水の開渠に沿って進む。開渠はほどなく暗渠となるが、整備された緑道を進むと一番橋。橋名の由来はこの辺りが砂川一番の地内であることから。緑道の南に一番組公会堂などという、往昔の名残を残す建物が地図に見える。

天王橋

先に進むと天王橋。橋の南詰めに八雲神社があり、牛頭天王を祀るのが名前の由来。五日市街道がこの橋を渡るため、五日市橋とも呼ばれたようだ。現在、天王橋は二つあり、上流に架かるのが昭和6年に架けられた天王橋。下流の五日市街道に架かるのが新天王橋。昭和45年に架け替えられた。天王橋の交差点は、変形六差路となっており、北は村山、南は昭島、立川、東は拝島、西は国分寺方面へとつながる。昔も交通の要衝の地であったのだろう。
五日市街道は江戸の頃、伊奈道とも呼ばれ、秋川筋の檜原や五日市の木材や炭、織物などを江戸に運んだ。伊奈道と呼ばれた所以は、秋川筋の伊奈村は石工、石材で知られ、江戸築城には欠かせないこの地の職人を江戸に呼び寄せた、ため。

稲荷橋
天王橋から先は、上水の南側が歩けないため、北側を江戸の頃の分水口の痕跡など無いものかと、注意して進むが、見あたらず。先に進むとほどなく稲荷橋。橋の南詰めにささやかなる稲荷の祠が佇む。もとは二の橋と呼ばれたようだが、砂川一番組のお稲荷様が祀られていたため、稲荷橋と呼ばれるようになった。

上水橋・すずかけ橋・上宿橋
上水に沿った緑道を進むと残堀川と交差。歩行者専用の橋は「すずかけ橋」と呼ばれる。その橋と平行するように、上水は残堀川の下を潜り、その先で元の高さに復帰する。もともと残堀川は、狭山谷川、夕日台川といった狭山丘陵の水を集めて東南に下り砂川三番の御影橋付近に至り、曙町を経て矢川につながり、国立の青柳から谷保を抜けて府中用水に流れ込んでいたといわれる。江戸時代の承応3 (1654)年、玉川上水が開通した際、愛宕松付近(現在の伊奈平橋付近)で川筋を南に曲げ、現在の天王橋(五日市街道との交差部)付近で玉川上水につなぎ代えた。同時に掘割を通して狭山池の水を残堀川に繋ぎ、玉川上水の助水として利用した、とのことである。

明治に入ると残堀川の水が汚れてきたため、明治26(1893)年から明治41(1908)年にかけて、玉川上水の下に交差させ、立川の富士見町へ至る工事が施された。富士見町から立川段丘の崖を落ちた水は段丘沿いに流れる根川に合流していた、と。昭和に入ると、増大した残堀川の生活排水の流入を避けるため、昭和38(1963)年、水量が安定している玉川上水を下に通すことになった。現在の姿がこれである。残堀川をもっと深く掘ればいいか、とも思うのだが、それではローム層下の立川礫層・透水層に当たり、水が河床から吸い込まれる、ということだろう、か。実際、昭和公園あたりの残堀川はほとんど水がないが、これは幾度にも渡る改修工事の結果、河床が透水層に達してしまい、水が吸い込まれるか、伏流水となっているためである、とも。橋の名前を上に上水橋・すずかけ橋・上宿橋とメモしたが、どれも正確には残堀川に架かっている橋。上水の北側に上水橋、その下に人道橋のすずかけ橋、そして、その15mほど下流に上宿橋が架かっていた、ように思うのだが、ちょっと自信なし。そのうちに確認にいってみよう、か。
それはともあれ、散歩をすると、時に川がクロスする場所に出合う。川崎の二ヶ領用水を辿っていたときも、三沢川と交差し、用水が下を潜っていた。ここでも、上を通したり、下に付け替えたりと、あれこれの経緯があったようだ。クロスではないが、水位の違う川の往来を可能にするため、ふたつの川を繋ぐ水路に閘門を設け、水位を上げ下げして往来する、隅田川と小名木川を介して旧中川と、また、埼玉の見沼代用水と芝川を繋ぐ見沼通船堀の閘門などが記憶に残る。見沼通船掘は、規模はさておき、その手法はパナマ運河より2世紀も早く造られた、とか。水を辿るのは、いかにも楽しい。

新家橋
残堀川との交差を越えると、上水の南が開ける。五日市街道のケヤキの並木、それに鬱蒼とした屋敷林を見やる。こういった並木って、防風林の役割をしているのだろう、と思っていたのだが、どこかで、風に舞い上がる関東ローム層の防砂対策の役割をもしていると、読んだ記憶がある。先に進みほどなく新家橋に。名前の由来は新家(にいや)と言う農家、から。砂川三番組の地区でもあり、三の橋とも呼ばれた。

見影橋
次の橋は見影橋。橋の脇に案内によれば、見影橋は江戸の頃からあり、上流から四番目であったので、四の橋、とも。また、名主村野家(明治になって砂川家、と)の屋敷が近くにあったので「旦那橋」と呼ばれた、とも。玉川上水の水見回り役も兼ねていた村野家のために架けられた橋、とも言われる。
明治の頃には名主の名前にちなんだ「源五右衛門分水」もあった、とか。村野(砂川)家専用の分水である。玉川上水には三十五ほどの分水があったようだが、個人専用の分水は、福生の名主・田村家と、この源五右衛門分水くらい。名主の力のほどが偲ばれる。
上でメモしたように、往昔の残堀川は、この見影橋筋を流れていた。玉川上水が開削される前の砂川新田開発は、この残堀川の旧路の水をもとに、南に下った砂川三番、四番あたりよりはじまる。名主村野家(後の砂川家)の屋敷が砂川三番交差点の少し西にあるが、開発当初は狭山丘陵南麓の岸村からの通い。名主・村野家も岸村から、この地に移ったのは元禄17年(1704)。明暦3年(1657)に砂川分水が開通して、およそ50年後のことである。

巴河岸跡
見影橋から少し下ったあたりに、明治の頃、巴河岸があった。これは明治3年から5年まで、わずか2年の間おこなわれた上水を利用した舟運の荷の揚げ下ろしの場所。上水を利用した船運の計画は江戸の頃から幕府に許可を求めていたが許されず、明治維新の政府の混乱もあったのか、はたまた、砂川村名主・村野家と新政府の要人・三条実美公や江藤新平卿との誼、故のことなのか、砂川村名主・村野源五右衛門、福生村名主・田村半十郎、羽村村名主・島田源兵衛の3有力者連名での「玉川上水船筏通行願」が許された。
船運開始に先立ち、船運の支障となる低い橋の架け替え、舟運に必要な荷物集積所(河岸)、そして下った船を、再び上流へと曳き揚げるために上水の両岸に「曳き道」も整備された。船運が開始されると、最盛期には百隻もの船が往来した、と言う。船持ち人は青梅の名主から、玉川上水に沿って吉祥寺までの村々の名主や新田の惣代百姓。羽村名主十四隻、福生名主十八隻、砂川名主二十二隻と、代表となった3名主の持ち船が圧倒的に多い。福生名主・田村家の運ぶ酒樽も上水を下り、江戸に向かったことだろう。
一時活況を呈した玉川上水通船であるが、上水を汚すという理由により、二年後の明治5年5月、廃止となる。田畑牛馬売却をもって船運開業の資金とした者など、この沙汰に大いに困り、再開を懇請したり、上水に沿って新堀を平行して掘り、それを通船の水路とする、といった案を提出するなど、あれこれ策を講じるも、結局、上水通船事業再開は許可されることはなかった。明治16年には玉川上水に沿って羽村―新宿間に馬車鉄道を敷くといった計画もあったが、時既に鉄道輸送の時代が到来し、多摩と東京の貨客の大量輸送は明治22年(1889)、新宿と立川間に開業した甲武鉄道にその任を委ねられることになる。

大曲
見影橋を過ぎると、上水は南に向かって大きく曲がる。大曲と呼ばれていたようだ。この場所を斜めに立川断層が通っており、それを迂回しているとのことである。立川断層は上水の上流側が低く、下流側が高い坂となっているカシミール3Dで地形図を見ると、比高差はおよそ4~5mほどである。
この坂を越えるため、北側が高く南側が低くなっているこの地の地形に合わせ、北側の高い所を掘り進め、断層地帯に当たると、断層に沿って下り、下流側の坂の高い所に合わせ、若干の勾配を保ち(カシミール3Dでチェックすると102mから99mとなっていた)、流れを保っている。

金比羅橋・金比羅山
上水の南側に沿って坂を上る。竹林などの茂る道脇の景色を眺めながら遊歩道を進むと、金比羅山の案内。山頂に金比羅神社、富士浅間神社、中腹には秋葉神社が祀られている、と。住宅地の間の鳥居を目安に参道の石段を上り、「山頂」に。この山は、安政年間、砂川村の名主が中心となり、上水開削土を盛り上げて造ったとも伝わる。標高15mの小山である。
こんな小さな山、と言うか塚に、三つの神様が祀られる。それぞれの関係は、今ひとつよくわかっていないが、もともと、この山は富士塚として造られた、とも言う。それであれは、富士浅間神社はあって当然。また、秋葉神社って、江戸の頃、浅間社との連携を強め、富士信仰との融合を図ったとも言われる。それであれば富士浅間神社と共存することに違和感は、ない。が、それでなくても、秋葉神社って、火除け・水除けの神であるので、富士信仰と関係なくこの地に祀られたの、かも。また、金比羅様は近くにあった砂川家の船河岸・巴河岸での船運の安全を祈願して祀られたのだろう。とすれば、金比羅山と呼ばれたのは、明治に入ってから、ということだろう、か。
金比羅山を越え、金比羅橋に。所沢(村山)街道と玉川上水交差するところから、村山橋とも呼ばれる。また、五の橋、とも。この橋の手前には砂川水衛所があった、と言う。現在では熊川、小川の各水衛所とともに統合されて小平監視所となっている。

宮の橋
金比羅橋を越え宮の橋に。この橋を南に下ると青梅街道手前に、阿豆佐味神社がある。橋の由来は、この神社から、だろう。明治には、宮崎九郎さんの裏にあったため、九郎さん橋、と、呼ばれたとも。
阿豆佐味神社といえば、この聞き慣れない名前に惹かれ、国分寺から辿り、思いもよらず、武蔵野新田や用水、そして砂川新田、また、新田開発の名代官川崎半左衛門などに出合ったきっかけの神社。阿豆佐味神社の「本社」を求めて、狭山丘陵南麓の、昔の岸村を訪ね、その地より残掘川を下ったこともある。いろんな、「きっかけ」を与えてくれた神社であった。


千手橋
元は「七の橋」。昭和になって橋が架け替えられたとき、千手橋となった、とか。名前の由来は不詳。日暮れも近い、立川砂川浄水場とか国立音楽大学を見やり、一路玉川上水駅に進み、本日の散歩を終える。

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