2011年8月アーカイブ

玉川上水散歩のメモの第一回は、青梅線・羽村の駅から玉川の上水取水口までの事跡についてのあれこれで終わってしまった。玉川上水散歩の第二回は、玉川上水をはじめて歩いた、羽村の取水口から立川の西武拝島線・立川駅までをメモする。



本日のルート;青梅線・羽村駅>五ノ神社・まいまいずの井戸>新奥多摩街道>「馬の水飲み場跡」>禅林寺>都水道局羽村取水所・羽村堰>玉川水神社>陣屋跡>羽村堰第一水門>羽村堰第ニ水門>羽村橋>羽山市郷土博物館>羽村堰第三水門>羽村導水ポンプ所>羽村大橋>堂橋>新堀橋>加美上水橋>宮本橋>福生分水口>宿橋>新橋>清厳院橋>熊野橋>かやと橋>牛浜橋>熊川分水口>青梅橋>福生橋>山王橋>五丁橋>みずくらいど公園>武蔵野橋>日光橋>平和橋>拝島分水口>殿ヶ谷分水口跡>こはけ橋>ふたみ橋>拝島上水橋>西武拝島線・立川駅

羽村堰第一水門
水神社や陣屋跡を訪れた後、奥多摩道路を少し戻り、羽村堰第一水門の少し下手に架かる人道橋を渡り羽村堰下に。堰下周辺は羽村公園となっており、投渡堰の手前に昭和33年(1953)建立の玉川兄弟の銅像が建つ。多摩川対岸に拡がる草花丘陵や、河川敷、固定堰、投渡堰など、取水部の風景をしばし眺め、羽村堰第一水門部へと。
1911年(明治44)にコンクリーの水門となった第一水門は、多摩川の水を玉川上水に取り入れるための水門。大水の時などはこの第一水門を閉めて土砂などの流入を防ぐ。この水門で取水された上水は、現在、羽村堰から小平監視所までの間のおおよそ12kmが上水路として利用されている。小平監視所から下流には玉川上水を流すことなく、その水は導水管で東村山浄水場に送られているが、その直接の要因は昭和40年、新宿・淀橋浄水場の廃止により、下流に水を流す必要がなくなった、ため。小平監視所より下流は長らく空堀の状態であったが、昭和59年、都の清流復活事業により、昭島にある多摩川上流処理場で高度処理された下水を、小平より下流へ流し、現在清流れを保っている。

羽村堰第ニ水門
第一水門から少し下流に第ニ水門。第一水門で取り入れた水を一定の水量にし、玉川上水に流すための水門。余水は、脇の小吐水門から多摩川に戻す。あたりは堰下公園となっている。

羽村橋
羽村堰第二水門下手に羽村橋。奥多摩道路・羽村堰交差点脇に大樹がある。東京都指定天然記念物「羽村橋のケヤキ」と呼ばれる。案内によると;「目通り幹囲約5.5メートル、高さ約23.5メートル。島田家敷地南側の奥多摩街道に面する崖際に立っており、崖の高さ約2メートル。根元の北側は崖上に、南側は崖下に扇状にはびこり、幹は直立して崖下から約4メートルのところで南西に一枝を出し、その上約1メートルのあたりから大枝に分かれ、下部の小枝は垂れて樹姿全体は鞠状をなして壮観である。なお崖下に湧水があり、樹勢はおう盛であり、都内におけるケヤキとして有数のものである」、とある。
崖下のささやかな湧水の写真を撮り、坂を少し上り島田家の屋敷を見やる。先ほど訪れた、禅林寺の開基は島田九郎右衛門と伝わる。また、所沢の三富新田を歩いたときに、島田家の旧家が残っていた。府中の森の郷土館にも島田家の旧家が保存されている。島田家って、武蔵野の台地を開いた旧家であろう、か。

羽山市郷土博物館
羽村橋の辺りには堰下公園。公園から多摩川を渡る橋がある。羽村堰下橋と呼ばれるこの橋は、人と自転車だけが通れる人道橋。橋を渡って対岸の羽山市郷土博物館に向かう。昭和60年(1985)開館のこの施設には、常設展示の他、多摩川や玉川上水、中里介山に冠する資料が展示されている。多摩川によって形成された河岸段丘など、地形フリークには興味深い展示内容でもある。屋外には旧田中家の長屋門、旧下田家の民家が移築されている。旧下田家は19世紀中頃の農家の面影を今に伝える。

羽村堰第三水門
再び羽村堰下を渡り、玉川上水へと戻る。少し下ると羽村堰第三水門が見えてくる。この水門は玉川上水、と言うか、多摩川の水を村山貯水池(通称、多摩湖)・山口貯水池(通称、狭山湖)に送水・分水するための水門である。地図を見ると羽村堰第三水門から多摩湖(村山貯水池)を結ぶ一本の直線が描かれている。この地下には羽村線導水路が貯水池へと続く。地上は羽村堰第三水門から横田基地までは「神明緑道」。横田基地で一度道は分断され、その東から再び、「野山北公園自転車道路」となって多摩湖へと続く。この道は、村山貯水池(通称、多摩湖)・山口貯水池(通称、狭山湖)を建設する際に敷設した、羽村山口軽便鉄道の路線跡でもある。どこかで見た軽便鉄道の写真では、トラックでレール上の貨車を引いていた。

村山貯水池・山口貯水池への羽村線導水路
大正5年(1916)、拡大する東京の水需要に応えるべく、狭山丘陵の浸食谷を堰止め、村山上貯水池の工事が着工。大正13年(1923)に完成した。また、その下手にも、昭和2年(1927)、村山下貯水池が完成。さらに、昭和2年(1927)には狭山丘陵の柳瀬川の浸食谷を利用し、山口貯水池(狭山湖)の工事が始まる。関東大震災後の東京の復興と人口増加による水需要の増大に、村山貯水池だけでは十分にまかなえなかったため、である。工事は7年の歳月をかけ昭和9年(1934)に完成した。
羽村堰第三水門からの導水路は、狭山丘陵から流れ出す自然河川だけでは十分ではないため、多摩川の水を導き水量を確保するのがその目的である。当初、山口貯水池の水を村山上貯水池に通し、村山上貯水池の水とともに、村山下貯水池に導き、下貯水池から境浄水場村山境線(隧道、暗渠で境浄水場に至る導水線・現在は多摩湖自転車道となっている)で境浄水場に流した。境浄水場からは自然流下により和田堀浄水場に送水。そこから淀橋浄水場に水を送った、と。
狭山丘陵は多摩川の扇状地にぽつんと残る丘陵地である。狭山って、「小池が、流れる上流の水をため、丘陵が取りまくところ」の意。古代には狭い谷あいの水を溜め、農業用水や上水へと活用したこの狭山丘陵ではあるが、その狭い谷あいに多摩川の水を導き水源とし、都下に上水を供給している、ということである。

昭和40年には現在の西新宿副都心にあった淀橋浄水場が無くなり、その機能が昭和35年(1960)通水の東村山浄水場に吸収された。それにともない、導水路網も少し変わる。狭山湖(山口貯水池)に貯められた水は、ふたつの取水塔をとおして浄水場と多摩湖に送られる。第一取水塔からは村山・境線という送水管で東村山浄水場と境浄水場(武蔵境)に送られ、第二取水塔で取られた原水は多摩湖に供給される。また、多摩湖(村山貯水池)からは第一村山線と第二村山線をとおして東村山浄水場と境浄水場に送られ、バックアップ用として東村山浄水場経由で朝霞浄水場と三園浄水場(板橋区)にも送水されることもある、と言う。また、東村山浄水場は朝霞浄水場と原水連絡官が結ばれ、多摩川だけでなく、利根川の水も使用するといった、ダイナミックな上水路導水網となっている。

羽村導水ポンプ所
水門より少し下流に羽村導水ポンプ所。ここから多摩川の水は小作浄水場(昭和51年)に送られる。また、小作には小作取水堰(昭和47年着工。55年通水)があり、小作浄水場に水を供給するとともに、地下の導水管により山口貯水池に送水されている。

羽村大橋
羽村導水ポンプ所を過ぎると羽村大橋。奥多摩道路羽村大橋詰め交差点から、玉川上水と多摩川を跨ぎ秋川を結ぶ。

堂橋

羽村大橋をくぐり、緑道を7分ほど進むと堂橋。『上水記』では川崎橋と呼ばれた。由来はこの辺りの地名から。堂橋となったのは、橋に下る坂があり、その坂の途中に「川崎の一本堂」とも呼ばれる薬師堂があった、ため。「一本堂」の由来はケヤキの大木から。多摩川が氾濫したとき、一本のケヤキの大木にしがみつき、命拾いした十六名の人たちが、その感謝のために、この一本のケヤキを使ってお堂を建立した、とか。このお堂も、近くあった宗禅寺も、玉川上水の工事のため移転。現在新奥多摩街道沿いにある宗禅寺内に薬師堂が残る。
往昔、堂坂を下ったところには多摩川を渡る渡し場があった、とか。大正末期までは船頭が活躍した。また、この坂は関東大震災の頃、多摩川の砂利、砂を羽村の停車場まで運ぶ馬車が往来した、とのことである。

新堀橋

堂橋のあたりまで来ると、上水路と奥多摩街道の比高差が開いてくる。崖面を眺めながら河岸段丘を進む玉川上水も、このあたりから桜並木は次第に雑木林へと変わる。水神様を祀った小さな祠もある。ほどなく、道はふたつに分岐。左の道を進むと、ほどなく新堀橋に。新堀橋あたりでは奥多摩街道と上水の比高差は、ほどんどなくなる。橋の袂に金比羅様が佇む。新堀橋の名前の由来は、新しく上水堀を開削したことによる。旧水路は現在の水路より多摩川堤に近いところをながれていたのだが、開削後、多摩川の氾濫によって上水の土手が決壊することが多く、元文四年(1740)、代官上坂安佐衛門、新田世話役川崎平右衛門によって付け替え工事がおこなわれた。旧水路と現水路の間には小高い山があり、その北を通すことにより上水土手の決壊を防ごうとしたのだろう。
旧水路は先ほどふたつに分岐した道を左にそのまま進み、613mほどまっすぐ進み、加美上水橋の先で現水路と合流する、といった流路であった。周辺は福生加美上水公園となっており、旧路跡の一部は史跡指定地となっている。加美上水橋近くには、「福生市指定史跡 玉川上水旧堀跡」の碑が建っており、旧堀らしき遺稿も残る。

ちなみに、代官上坂安佐衛門、新田世話役川崎平右衛門は、散歩をはじめて知り得た、誠に魅力的な人達。特に川崎平右衛門は、玉川上水開削だけでなく、武蔵野新田の開発の地で、しばしば出合う。その威徳を称え、供養塔も各所に建っていた。

加美上水橋
福生加美上水公園を越え加美上水橋に。この橋は、もとは鉄橋。多摩御陵、村山・山口貯水池へ玉川の砂利運搬のために福生駅から多摩川の羽村境までの1.8キロ、砂利運搬専用線が敷かれていた。鉄路は昭和36年に廃止され、当面は無名橋であったが、後に地名より加美上水橋と、名付けられた。



宮本橋
加美上水橋を越え、妙源寺あたりからは、雑木林も切れ、上水南側には民家が建ち並ぶ。先に進むと宮本橋に。元は中世に創建の宝蔵院の門前に架けられていたので宝蔵院橋と呼ばれていたが、明治になって住職が神官となり、宮本と名乗ったため橋名も「宮本橋」となった、とか。廃仏毀釈の時代の流れに抗し得なかったのだろう、か。
宮本橋の南に、板塀に囲まれた白壁の屋敷が見える。なんとなく気になって板塀に沿って進むと煉瓦の煙突があったり、蔵があったりと、如何にも、いい。下戸の小生にはとんと縁はないのだが、清酒『嘉泉』とか『玉川上水』などで知られる田村酒造とあった。

福生分水口

宮本橋の少し下流、小橋が架かり、石垣の中程の鉤型に切れ込んだあたりに田村分水口がある。水は田村酒造のオーナー、田村家へ流れ込む。田村家は江戸の初期の頃から福生村の開拓に貢献した代々の名主。元禄年間と言うから、17世紀の末の頃、分水が認められた、とか。玉川上水の分水は三十五ほどあった、と言うが、個人分水は、明治になって砂川村の砂川源五右衛門さん以外に、あまり聞いたことがない。特例中の特例では、あろう。
邸内に引き込まれた分水は、もともとは灌漑用水とか生活用水として使われた。田村家が酒造りをはじめるのは、そのずっと後のこと。水車を廻し精米製粉をおこなったり、酒造場の洗い場の水として使われたりしたようだ。邸内を離れた分水は明治以降、その下流の福生村北田園、南田園の田畑を潤した。現在は福生永田のあたりで暗渠となるが、多摩川中央公園で再び開渠となり、整備された園内をゆっくりと流れ、JR五日市線の鉄橋の手前で多摩川に合流する。
ちなみに、このあたりには多摩川から取水した田用水があったが、昭和22年の台風による決壊にともない、水源を玉川上水に変更したため、田村上水(宅地化により昭和44年取水停止)と合流することになった。田村分水と田用水を合わせ、福生分水とも呼ばれる。

江戸の頃、もとは上水としてはじまった玉川上水であるが、その後、流路の灌漑用水としても機能するようになる。将軍吉宗の亨保の改革の頃、盛んに行われた新田開発のサポートの為もあり、分水口は三十五カ所ほどあった、と上にメモした。その分水口も、昭和となり、市街地化が進むとともに、昭和37年には十六カ所。昭和40年に、淀橋浄水場が廃止されるときには更に減少し、現在残る分水口は、この福生分水を含め、熊川分水、拝島分水、立川分水、砂川分水、小平分水の六カ所となっている(『玉川上水・橋と碑と;蓑田たかし(クリオ)』)。

宿橋

宮本橋を越えると、緑道といった風情は無くなり、奥多摩街道を進むことになる。田村分水の少し下流に宿橋がある。「宿」とは名主屋敷を中心とした村の中心地のことを意味する。名主・田村家の近く、福生の渡しを越えて、「八王子道」、「青梅道」へと続く道筋に架かる橋ではあったのだろう。

新橋
奥多摩街道をさらに進み、新橋に。その昔、福生から五日市へ向かう都道59号は曲がり道、くねくね、といった難路であった、とか。そのため、福生駅前から一直線に道を通し、五日市に向かう工事が行われ、多摩川には永田橋、玉川上水には、この新橋が架けられた。昭和36年の頃、と言う。都道95号線は現在都道165号となっている。



清厳院橋
新橋から先は、奥多摩街道は玉川上水から少し離れる。右手に上水の流れを意識しながら進み、清厳院橋に。奥多摩街道は清厳院橋で玉川上水の南に移る。清厳院橋は橋の南にある清岩院が、その名の由来。応永年中(1394から1427年)の開創と伝えられる古刹。五日市広徳寺の末、とか。五日市の広徳寺を訪ねたことがある。誠に趣きのある、素敵なお寺さまであった。
それはともあれ、この清岩院、小田原北条氏よりの寄進を受け、また、徳川幕府からも「寺領十石の御朱印(年十石を課税された土地の寄付)」といった庇護を受けている。境内には湧水が涌き、湧水フリークとしては、しばしの休憩を楽しむ。
この清厳院橋は牛浜橋、日光橋とともに、昔より往来の多い橋であった。橋の維持管理のコストは「村持」であるため、橋の架け替えの度に、利用者に資金強力をお願いする記録が残る。橋の維持管理は結構大変たったようである。設置の権限は普請方役所にあるも、維持管理は各持ち場の負担。熊川村には橋普請のため、無年貢地である「橋木山」を用意していたほどである。

熊野橋

清厳院橋からは玉川上水に沿って小径が続く。先に進むと熊野橋に。この橋から多摩川を渡り、あきるのに続く県道7号は平井川を越えて青梅線・東秋留駅近くの二宮神社へと向かう。いつだったか、二宮神社を訪ねたことがある。崖下の湧水が思い起こされる。
熊野橋は承応2(西暦1653)年、玉川上水の開削に際し、村の農道として架けられた。往昔、付近に熊野権現があったのだろう。現在は歩道橋が跨ぎ、往昔の面影はないが、歩道橋から眺める多摩川対岸の山稜の景観はなかなか、いい。

かやと橋
熊野橋を越え、都道29号を進む。右手の小高い堤のため玉川上水は眼に入らない。県道と上水の間には駐車場があったり、ガソリンスタンドがあったりと、緑道といった風情でもない。ほどなく、「かやと橋」に。橋の名前の由来は福生市志茂の字である、萱戸、から。橋は新しく、昭和49年に上水の南に市立七小が開校され、上水北の学区となった志茂・牛浜地区の児童の通学用として設けられた。 


牛浜橋

道の両側に民家が連なる奥多摩街道を進むと牛浜交差点。名前の由来は地名の字牛浜、から。この地は江戸から砂川方面を経て、牛浜の渡しを渡り、対岸の二宮から五日市、檜原へと続く往還であった。この道筋は五日市街道の一部を成すが、元和年間、というから17世紀の前半、甲州裏街道の警備のため檜原に檜原御番所が設けられたため、檜原御番所通り、とも呼ばれた。ために人馬の往来も多く、もとの木橋では維持・修理が大変、ということで、明治10年には石造アーチ橋に掛け替えた。愛称、眼鏡橋と呼ばれたこの橋も昭和52年には現在の橋に架け替えられた。

熊川分水口
牛浜橋から先も、上水に沿って道はない。実際に眼にしたわけではないのだが、牛浜橋から200m下ったあたりに、熊川分水の取水堰がある、と言う。地図でチェックすると、スギ薬局福生店の裏手あたりに、ささやかな堰が見て取れる。この堰のあたりに分水口があるのだろう。その対岸には熊牛稲荷公園があるようだ。
この地で取水された水は、熊川神社の脇を抜け、石川酒造へと向かい、その先は福生南公園の崖から多摩川へと流れ落ちる。熊川村は多摩川の崖線上10mのところに開けた集落。多摩川からの取水は困難であり、熊川村の名主である石川家が中心となり、集落の上水と灌漑用水確保のため、そして、石川家の家業でもある酒造りの水車動力源として、玉川上水からの分水を望んだ。明治5年の運動開始から、完成まで17年の歳月をかけて完成し、昭和30年代に上水道が普及し始めるまでの間、熊川分水は熊川村民の生活を支えた。ちなみに石川家は先ほどメモした田村家の親戚筋とのことである。

青梅橋

奥多摩街道を更に進み、福生第三中学校手前を左に折れ、玉川上水に架かる青梅橋に。所謂、江戸から青梅に向かう青梅街道(成木街道)、と言うよりも、立川や拝島、羽村から青梅方面へと向かう街道、といった通称ではあろう。もとは、農作業に使う作場橋といったささやかなものであったが、昭和36年、現在の橋となった。 福生橋から山王橋に青梅橋からは、少し北に進み新奥多摩街道に入る。先に進むと、ほどなく福生橋。幅15mほどではあるが、それでも玉川上水に架かる橋としては最大のもの、と言う。福生橋の北詰で新奥多摩街道を離れ、民家の間を成り行きですすむと上水脇にでる。先に進み山王橋に。往昔、付近の山王権現の石塔があった、とか。




五丁山

山王橋から北東に向かい青梅線の踏切を渡り、右に折れ、青梅線に沿って成り行きで進み、五丁橋に。五町歩の耕地があったから、とか、五丁山と呼ばれる山林があったから、など、橋名の由来は諸説ある。








みずくらいど公園
五丁橋を渡り、青梅線の手前を左に折れ、先に進むと「みずくらいど公園」。現在の玉川上水は公園北を通るが、小山を隔てた公園南には玉川上水の旧跡が残る。開削当時の上水の姿が残っており、堀跡に入ると、その規模感に少々圧倒される。「みずくらいど」は、水喰土。水が地中に吸い込まれる、といった言い伝えが残る地であった。この地まで掘り進んだ上水ではあるが、言い伝えそのままに、水を通すことができなかったため、現在の流路に変更した。旧路は、この公園南側の立川崖線に沿って南に延び、武蔵野公園付近で北に方向を変え、西武拝島駅前の玉川上水・平和橋の付近までおおよそ1キロほど残っていたようだが、現在、上水旧跡はこの公園内に残る、のみ。
羽村から堀り進んだ玉川上水は、この地の水喰土に阻まれ流路を変えた。実のところ、流路変更はこれがはじめてではない。そもそもが、取水口も地形・地質に阻まれて二度変更している。最初の取水口は、現在の日野橋下に取水堰を設け、青柳崖線に沿って谷保田圃を抜け、府中まで掘り進めたが、大断層に阻まれ、水を地中に吸い込まれ断念した。二度目の取水口は熊川から。これも途中大岩盤に阻まれ断念した、とか。羽村口を取水口としたのはその後のことである。羽村口からの取水については川越藩士である、安松金右衛門の助言を受けた、ともある。幕閣における玉川上水計画の中心となった川越藩主・松平伊豆守信綱としては、川越藩の領地でもある野火止の地に水を送るには、取水口は羽村くらいの標高から水を通す必要があった。羽村口から取水できれば、途中から分水で野火止に水を供給できるため、安松金右衛門に命じ、羽村からの詳細な水路図も作成していた、とも言われる。ともあれ、羽村から掘り進んだ水路も、この水喰土で流路を北に変更し、先に水を流すことができた。

武蔵野橋
その流路に沿って先に進む。左手に上水、右手に小山。時に小山に上り、南の旧路を眺めたりしながら八高線をくぐり、玉川上水緑地日光橋公園の雑木林を楽しみながら進むと国道16号・東京環状と交差。玉川上水、八高・青梅・五日市線を跨ぐ跨線橋となっている。昭和40年のこの跨線橋の開設により、信号待ちの渋滞は大いに改善された、とのこと。

日光橋
東京環状を越え、先に進むと日光橋。その昔、日光橋との間に昭和38年(1963)まで、熊川水衛所があった、とのことである。分水口の開閉、塵芥の排除などの業務をおこなった水衛所も、昭和40年、新宿の淀橋浄水場が閉鎖され、その機能を東村山浄水場に統合・移転するに先立ち、砂川水衛所、小川水衛所とともに小平監視所に統合された。日光橋は、日光街道に架けられたのが名前の由来。当初、江戸防衛の西の拠点に揃った、八王子の千人同心も、天下泰平の世となり、その役割も様変わりし、家康の眠る日光東照宮警備をその職務としたため、八王子と日光を往復した、とのことである。明治24年には煉瓦積みアーチ橋となったが、昭和25年に現在の橋に架け替えられた。




平和橋

日光橋を越えるとほどなく平和橋。橋の手前の線路は横田基地への貨物引き込み線。平和橋は、地元篤志家による命名、とか。平和橋の南は拝島駅がある。拝島って、ずっと拝島市、と思っていた。拝島大師といった知られたお寺さまの名前が「刷り込まれて」いたのだろう、か。それはともあれ、拝島村と昭和町が合併し、昭島市となった。拝島の名前の由来も、拝島大師に関係がある、とか。多摩川の中州「島」に大日如来観音が流れ着き、これをお堂に安置して、「拝む」ようになった、とのことである。

拝島分水口
この橋の南詰め東側に分水口がある。分水の開通は元文5年(1740)年、あるいは更に早いという説もある。分水はここから南方へ流れ、拝島宿に引かれ、生活・農業用水として利用されていた。当時の拝島村は日光街道(現奥多摩街道)の宿場として、八王子や甲州と江戸や日光を往来する人々で賑わっていた。拝島宿の中央を奥多摩街道に沿って東に流れた拝島分水は、田中村で多摩川より取水した九ケ村用水(17世紀後半頃には既に完成;通称「立川堀」)合流し、宮沢・中神・築地・福島・郷地・柴崎の村々を灌漑し、柴崎村で再び多摩川に注いでいたようである。
高橋源一郎の著書「武蔵野歴史地理」には、「ここ拝島は、市場としては誠に典型的の場で、南、八王子の方より来れば、下宿の入口にて道路は画然一屈曲し、これより西北中宿を経て上宿となり、上宿の出口で又一屈曲している。用水路が道路の中央を流れていた」と分水の様子が描かれている。
拝島分水口からの水路は一部付け替えられているが現在も流れているようだ。水路は、JR拝島駅の南側から松原・小荷田地区を通り、そのまま奥多摩街道に沿って拝島大師表門前を通過し、多摩川から引かれた昭和用水に合流している。ちなみに、昭和用水は、取水量の減ってきた九ヶ村用水取水口の替わりに昭和8年(1933)年に設けた堰。九ケ村用水取水樋門跡や昭和用水取水口から水路跡を辿った記憶が、メモをしながらよみがえってきた。そういえば、これら用水散歩のメモは未だ書いていない。再度歩き直し、メモをまとめてみようかと思う。

殿ヶ谷分水口跡
拝島分水口から、ほんの少し下流の対岸に殿ヶ谷分水口跡がある。玉川上水に小さな堰がある。このあたりが、分水口のあったところだろう。殿ヶ谷分水は「享保の改革(将軍吉宗)」による新田開発の奨励により、享保5年(1720年)に開削され、現在の立川市西砂地区・昭島市の美堀地区(宮沢・中里・殿ヶ谷新田)の生活・農業用水に利用された。現在は、宅地化が進み、用水路は埋め立てられ、その一部は「殿ヶ谷緑道」として残る、のみ。

こはけ橋
西武拝島線の手前に「こはけ橋」。地名の字小欠(こはけ)、から。こはけ橋の少し手前に拝島原水補給口がある、と言う。玉川上水は水質保護のため、上水の両側が金網で保護されており、補給口はみることができなかった。この原水補給口には、多摩川昭和用水堰で取水した水を、拝島第四小学校前の原水補給ポンプ場からおよそ2キロ、ここまで送られてくる。昭和16年頃、東京への上水供給が不足するおそれがあったためつくられ、現在も機能しているとの、こと。

ふたみ橋
西武拝島線を越えるとき、玉川上水緑道の左岸が通れなくなる。右岸の西武拝島線の踏切を越えると人道橋である「ふたみ橋」に出る。これからが武蔵野台地の稜線部を辿る散歩のはじまりのように思える。西武拝島線って、小川駅から玉川上水駅までは元は、日立航空機立川工場への専用鉄道であり、小川駅から荻山駅間も同様に陸軍施設への引き込み線など、いろんな歴史をもった路線を集めて1968年、玉川上水駅と拝島駅が結ばれ、西武拝島線ができあがった、とか。

拝島上水橋
こはけ橋から拝島上水駅までの間、400mほどは玉川上水北側には、鬱蒼とした樹木が生い茂り、誠にもって、美しい景観が続く。拝島上水橋を越えると、上水南側には昭和の森ゴルフコースが拡がる。ゴルフコースを見やりながら、美堀橋を越えると、上水は一旦、暗渠となる。この暗渠は昔、このあたりに陸軍の飛行場があった時に、整備された、とか。「玉川上水は美堀橋を越えたすぐ先で300m程の暗渠に入ります。これは戦時中、上水の南側にあった飛行場の滑走路を延長するため、上水に蓋をした名残と言われています。ここは西武立川駅からすぐの所で、当時の飛行場だった場所は現在はゴルフ場になっています。」との案内があった。日も暮れてきた。地図を見ると、すぐ北に西武拝島線・立川駅があった。玉川上水散歩、第一回はここで終了。一路、家路へと。

いつの頃だったか、今となっては、はっきりしないのだが、玉川上水を羽村の取水口から四谷大木戸まで、歩いたことがある。散歩を初めて、それほどたっていなかったと思うので、2005年の頃だとも思う。羽村から四谷大木戸まではおおよそ43キロ。標高差92mということなので、平均千分の二、という緩やかな勾配の台地稜線部・馬の背を4回だったか、5回だったか、それもはっきりしないのだが、のんびり、ゆったり辿ったことがある。
きっかけは自宅の杉並区和泉から京王線明大前駅への通勤・通学路途中にある公園に、橋を模した欄干があり、ふと眼を止めたことに、ある。九右衛門橋とあった。川など、どこにもその痕跡は見あたらないのだが、そこは玉川上水の水路を埋めて整備した公園であった。
地図を見ると、環八辺りから新宿までは、代田橋・笹塚駅近辺の一部を除き、川筋は埋められ暗渠となっている。一方、その上流は多摩川の取水口まで開渠となっており、往昔、江戸の人々に潤いをもたらし、武蔵野の新田開発の水源ともなった流路が未だ残っていることを知り、その流路をとりあえず、取水口から辿ってみようと思ったわけである。
このときの「玉川上水一気通貫」の散歩に後も、折り触れ、玉川上水は歩いた。代田橋から新宿まで、玉川上水跡を整備した公園を歩いたのは、十回はくだらないだろう。逆方向、下高井戸から環八の西、開渠が暗渠にもぐる浅間橋跡まで、そして、浅間橋から井の頭までも、また、井の頭から三鷹まで、時には、玉川上水駅から三鷹まで下ったこともある。
野火止用水や千川用水跡を歩くため、玉川上水からの分水口を探しに出かけたこともある。狭山の箱根ヶ崎から下る残堀川を辿り、玉川上水とクロスしたこともある。ことほどさように、玉川上水は、あまりに「身近な」ものとなってしまい、頭の中では既にメモを書き終えたような気になっていた。
先日、近くの図書館に行き、『玉川上水・橋と碑と;蓑田たかし(クリオ)』と『玉川上水;アサヒタウンズ編(けやき出版)』を読み、長らく「熟成」させていた、メモをまとめてみようと思いはじめた。いつだったか古本屋で買った、『玉川上水物語;平井英次(教育報道社)』、『約束の奔流・小説玉川上水秘話;松浦節(新人物往来社)』、『玉川兄弟;杉本苑子(朝日新聞社)』、なども読み直した。幾度となく歩いた玉川上水ではあるが、時間軸は数年前のことであったり、つい最近のことであったりと、首尾一貫のメモからはほど遠い。失われつつある時を求めての玉川上水散歩のメモ、あるいはくっきり、あるいはぼんやり、とした風景を思い浮かべながらメモをはじめる。

本日のルート;青梅線・羽村駅>五ノ神社・まいまいずの井戸>新奥多摩街道>「馬の水飲み場跡」>禅林寺>都水道局羽村取水所・羽村堰>玉川水神社>陣屋跡>羽村堰第一水門>羽村堰第ニ水門>羽村橋>羽山市郷土博物館>羽村堰第三水門>羽村導水ポンプ所>羽村大橋>堂橋>新堀橋>加美上水橋>宮本橋>福生分水口>宿橋>新橋>清厳院橋>熊野橋>かやと橋>牛浜橋>熊川分水口>青梅橋>福生橋>山王橋>五丁橋>みずくらいど公園>武蔵野橋>日光橋>平和橋>拝島分水口>殿ヶ谷分水口跡>こはけ橋>ふたみ橋>拝島上水橋>西武拝島線・立川駅

青梅線・羽村駅
玉川上水の取水口の最寄り駅、青梅線・羽村駅に下りる。駅近くの観光案内で、辺りの見所を探す。取水口は駅の西ではあるのだが、駅のすぐ東に「五ノ神社」があり、そこに「まいまいずの井戸」がある、と言う。五ノ神社という名前にも惹かれるし、「まいまいずの井戸」も見てみよう、ということで、五ノ神社に。

五ノ神社・まいまいずの井戸
五ノ神社は創建、推古九年、と言うから西暦601年という古き社。『新編武蔵風土記稿』によると、熊野社と呼ばれていた、とか。この辺りの集落内に「熊野社」「第六天社」「神明社」「稲荷社」「子ノ神社」の神社が祀られており、ためにこの辺りの地名を五ノ神と呼ぶ。地域の鎮守さま、ということで五ノ神社、となったのであろう、か。熊野五社権現を祀っていたのが社名の由来、との説もある。
神社の名前の由来はともあれ、境内にある「まいまいずの井戸」に。すり鉢状の窪地となっており、螺旋状に通路が下る。すり鉢の底に井戸らしきものが見える。すり鉢の直径は16m、深さ4mもある、とか。何故に、井戸を掘るのに、これほどまでの大規模な造作が、とチェックする。井戸が掘られたのは鎌倉の頃。その頃は、井戸掘りの技術も発達しておらず、富士の火山灰からなるローム層、その下に砂礫層といった脆い地層からなる武蔵野台地では、筒状に井戸を掘り下げることが危険であったので、このような工法になった、とか。狭山にある「堀兼の井」を訪ねたことがある。歌枕にも登場する堀兼の「まいまいずの井」よりも、こちらのほうが、しっかり昔の形を残しているようだ。

新奥多摩街道
羽村駅に戻り、西口から渡り道なりに進む。新奥多摩街道を渡ると、道脇に「旧鎌倉街道」の案内:「北方3キロ、青梅市新町の六道の辻から羽村駅の西を通り、羽村東小学校の校庭を斜めに横切り、遠江坂を下り、多摩川を越え、あきる野市折立をへて滝山方面に向かう。入間市金子付近では竹付街道とも呼ばれ、玉川上水羽村堰へ蛇籠用の竹材を運搬した道であることを物語る」、とある。
旧鎌倉街道の多摩川の渡河点は現羽村大橋と永田橋中間付近。多摩川を渡ると、慈勝寺東側の多摩川崖下を東進、草花台から森の下、平井川を渡って、平沢、野辺、東郷、へと下る。
鎌倉街道と言えば、高尾から秋川、青梅を越えて秩父に進む鎌倉街道山ノ道を辿ったことがある。また、西国分寺から東村山、狭山、毛呂山、武蔵嵐山へと進む鎌倉街道上ッ道も、断片的ではあるが歩いたことがある。八王子の平井川を下ったときは、その道筋は鎌倉街道の支道といったものであった。この案内の旧鎌倉街道も山ノ道とか上ノ道といった鎌倉街道の「幹線」からは外れており、支道といったものであろう、か。とはいうものの、「鎌倉街道」といったものが実際にあった訳ではなく、昔よりあった道を整備し、鎌倉への往来を容易にした、といったもの、その総称が「鎌倉街道」と呼ぶようでは、ある。

ハケ村
新奥多摩街道を離れ、多摩川の段丘崖を開いた切り通し坂道を下る。段丘崖のことを「ハケ」と呼ぶ。羽村の地名に由来は「ハケ」村が「ハ」村に転化したとの説がある。武蔵野台地の西端であり、「ハシ」村からの転化との説もある。地名の由来は、例によって、諸説、定まることがない。

「馬の水飲み場跡」
「ハケ」の坂を下ると坂の右手の石垣に「馬の水飲み場跡」の案内。急坂を往来する馬の水飲み場跡であった。農産物の運搬だけでなく、明治27年青梅線が開通して以降は、多摩川の砂利を羽村の駅まで運んだ、と言う。

禅林寺
多摩川に向かって坂を下る。道の右手にお稲荷さま、左手にお寺さま。坂も寺坂と呼ばれるようだ。お稲荷様にお参りし、お寺様の境内に。禅林寺と呼ばれるこの寺には中里介山が眠る。中里介山と言えば、未完の大作『大菩薩峠』で知られる。その『大菩薩峠』で長い間、疑問だったことがあった。何故に、一介の素浪人が、こともあろうに、また、酔狂にも大菩薩峠といった高山に上り、旅人を殺めなければならないのか、理解できなかったのだが、中世の古甲州街道を辿って、その疑問は氷解した。大菩薩峠って、中世には武蔵と甲斐を結ぶ甲州道中であり、江戸にはいっても、高尾から大垂水峠を越え、上野原から小仏峠越えで甲州に進む甲州街道の裏街道として、当時の幹線道路であった、ということである。今で言えば国道1号線での事件といったものであった。

境内には天明の義挙を顕彰する「豊饒碑」が残る。天明2年(1782)の大飢饉、翌年の浅間山の大噴火などにより、農民が疲弊・困窮、全国で農民一揆が起きた。この多摩においても、農民の窮状を憂えた、羽村の指田、森、島田、嶋田ら名主・組頭といった九名が、穀類の買い占めを計る富商・農家の打ち壊しを計画。天明4年、箱根ヶ崎村の池尻(狭山池)に2万とも3万とも、と伝わる農民が集結。その規模において、武州世直し一揆といった、幕政を揺るがすほどのものとなった動きに対し、幕閣は強圧策で臨み、首謀者9名と十数か村の63名は捉えられ獄死した。先日、農民が集結した、と言う箱根ヶ崎の狭山池を歩いた。その時のメモで、幕末に官軍に反発する幕府の振武隊も箱根ヶ崎に留まった。今は静かな箱根ヶ崎ではあるが、往昔、青梅筋、狭山筋から青梅街道をへて江戸と結ぶ、交通の要衝であった、ということを、改めて実感した。

都水道局羽村取水所・羽村堰
禅林寺を離れ、県道183号を道なりに進み、多摩川沿いを走る奥多摩街道に出る。多摩川の対岸には草花丘陵が連なる。道を少し上手に進むと玉川上水の取水口が見えた。羽村堰第一水門だろう。豊かな水が蓄えられている。
その左手に鉄製の水門といった形の堰、その先にはコンクリートの堰、さらにその先には河川敷が拡がる。鉄製の水門は「投渡堰」と呼ばれている。多摩川に4本の橋脚を据え付け、その前に杉丸太を組み、砂利によって水を堰止めている。そして、その杉の丸太上部を3本の「鉄の梁」で固定している。その「鉄の梁」を「投げ渡し」とよぶようだ。増水時には「鉄の梁」をウィンチで巻き上げ、水圧で杉丸太を倒し、砂利ごと水を下流に流すことによって水位を落とし、水門を守る。現在は「鉄の梁」ではあるが、昔は、その投げ渡しも木材であったことは、言うまでも、ない。
その先のコンクリートの堰を「固定堰」と呼ぶ。昔は、蛇籠とか牛枠・三角枠等と言った竹や木材と石を組み合わせて造った枠、というか、現在で言うところのテトラポットで堰を築いていた、と言う。牛枠は、胴体は蛇篭に詰められた砂利であり、頭が三本の木材を組み、斜めに付きだしている、といったその形状から名付けられたものであろう。

河川敷にも、蛇籠とか牛枠らしきものが点在する。多摩川はこの堰に少し上流、丸山付近で、ほぼ直角に曲がっているが、その水勢や水路を制御し、平時には効率よく見水を一直線に取水口に導き、増水時には護岸を守るために置かれているのだろう。
投渡堰と固定堰の境はスロープ状になっている。そこは、江戸の頃、奥多摩や青梅で切り出した木材を筏に組んで多摩川を下った、筏師たちのたの「筏通し場」の跡である、とか。
「きのう山さげ きょう青梅さげ あすは羽村のせき落とし」、と歌われた、多摩川の筏流し。奥多摩・青梅の山の材木を多摩川に流し(山さげ)、鳩ノ巣渓谷の岩場を超した沢井のあたりで材木を三枚に繋ぎ(青梅さげ)、羽村まで下る。羽村の堰ができるときは、筏師と工事関係者では一悶着あったことだろう。が、所詮、堰はお上の普請。筏師が敵うべくも無く、筏師は堰通過に細心の注意を払う、のみ。当初、堰の修理費は筏乗りの負担であった、とも。筏流しは羽村から六郷までおおよそ四日。日当も農作業の倍以上で、割りのいい仕事であった、よう。筏師の仕事は大正の頃まで続いたようである(『玉川上水・橋と碑と;蓑田たかし(クリオ)』)。

玉川水神社

奥多摩街道から羽村の水門と堰を眺め、さらにその少し上流にある玉川水神社と陣屋跡に進む。玉川水神社と陣屋跡は隣り合わせて並んでいた。玉川水神社は、承応3年(1654)、玉川上水の完成をもって、玉川庄右衛門・清右衛門兄弟が「水神社」を吉野の「丹生川上神社」より勧請した、と。「丹生川上神社」は白鳳時代、というから7世紀とか8世紀の創建と伝わる古社。「ミズハノメノカミ」「ミクマリノオオカミ」を祭神とする。もとは、「水神宮、などと呼ばれていたのだろうが、明治になって玉川水神社となった。水神社の境内には「筏乗子寄進灯籠」が残る。
玉川庄右衛門・清右衛門兄弟とは、玉川上水工事を請け負った兄弟。羽村在の加藤家の一族で、江戸で枡屋の屋号で割元、というから、土木工事への「人材派遣」を生業にしていた、とも、江戸柴口の商人とも諸説ある。上水完成の誉れ、として苗字帯刀を許され、「永代御役」をつとめ、年額二百石分の金子の給付をうけることになった。玉川の名を賜ったのは、その時以来である。玉川用水開削の計画は承応元年(1652)、川越藩主・松平伊豆守信綱等の幕閣により決定、町奉行神尾備守に多摩川を水源とする上水の開削の事業計画の立案を命じた。いくつかの業者の入札をおこない、工事請負代金六千両で玉川兄弟が落札。入札金額は九千両から四千五百両まで幅があり、その金額の妥当性については、水利事業のスペシャリストであり、上水計画の実施にあたっては上水奉行(道奉行)に就いた関東郡代・伊奈半左衛門の知見を重視した、とのことである。工事着工は承応2年(1653)4月、8ヶ月後の承応2年(1654)11月には、四谷大木戸まで、およそ43キロの上水路開削が完成した。江戸の町に水が流れたのは翌年、承応3年(1655)6月のことである。

家康が入府した頃の江戸は、低地は一面の汐入の地。日比谷の辺りまで入り江拡がっていた。その低湿地を埋め立て、武家屋敷や町屋の敷地をつくるも、問題は飲料水の確保。埋め立ててつくった江戸の町から掘り出す井戸水は塩気が多く、飲料水とはなり得ない。上水を確保すべく、赤坂に溜池を堀り、湧水を上水用としたり、小石川の水を上水としたり、井の頭の水を水源とする神田上水を整備するなどして江戸の町を潤すも、町の急速な発展には従来の上水網では追いつかず、多摩川からの水を江戸に導くことになった。これが玉川上水である。

陣屋跡
明和六年(1770)、玉川上水の管理を、それまでの民間の上水請負人を廃止し、幕府の直轄支配となってからの現地管理事務所、といったもの。「出役」と呼ばれる幕府の役人3名が三ヶ月交替で勤務。その下の、水番人や見廻り役を差配し、上水流量の増減による分水口開閉の立会、水路の巡視、塵芥の除去、四ッ谷大木戸水番人・御普請方役所への連絡、橋の監理などをおこなった。

羽村に2名、砂川村に1名(見廻り役)、代田村に1名、四ッ谷大木戸に1名、赤坂溜池に1名、計5カ所に六人の水番人を置き、砂川村以外には水番所が設けられていた、と(『玉川上水・橋と碑と;蓑田たかし(クリオ)』)。

幕府による上水管理・支配は幾度となくその支配替えをおこなっている。開削当初は玉川上水奉行・関東郡代である伊那半十朗忠治の支配下に玉川兄弟(玉川庄右衛門、清右衛門)が「上水役」としてその任にあった。江戸に5人の手代、羽村に二人、代田に一人、四ッ谷に一人の手代を置き、羽村大堰の管理、上水路の補修・維持管理を行い、水銀の徴収をおこなった。(『玉川上水・橋と碑と;蓑田たかし(クリオ)』)。
杉本苑子さんの『玉川兄弟』によれば、水の取水口の見込み違いなどで工事代金が増え、二千両を自己負担することになった庄右衛門・清右衛門兄弟に対し、関東郡代・伊那半十朗忠治が水銀の徴収の権利を与えるよう幕閣に訴えた、とある。また、別説では、当初、水銀の徴収といっても、単に集金業務だけであり、収入は幕府に入り、年額二百石の給付金では上水の維持管理・水銀の徴収のコストはまかないきれず、万治2年(1659)、二百石の給付金を返上する代わりとして、水銀の徴収による収入を認めてもらうよう玉川兄弟が幕府に訴え、それが認められた、ともある。どちらが正確か、門外漢にはわからないが、ともあれ、以降は水銀の徴収による収入で上水運営に関わるすべてのコストをカバーするようになる。
玉川上水奉行支配ではじまった玉川上水の運営体制であるが、寛文十年(1670)には、町年寄(奈良屋市右衛門、樽屋藤左衛門、喜多村彦兵衛)の支配下となる。町年寄って、江戸の町屋の自治支配体制の頂点であり、その町年寄は町奉行の支配下、と言うことであるから、結局は上水の支配役は町奉行の傘下となったと、言うことだろう。その頃までには四谷大木戸から江戸の町へと石樋や木樋で結んだ上水路整備も一段落し、上水の運営・支配は、上水工事担当役員から江戸の町の行政担当役員に担当替えした、ということ、かも。この町奉行支配も元禄六年(1693)には、道奉行支配となる。
元文四年(1739)には、玉川両家の上水管理業務は、その懈怠故に、職を免ぜられた、とある。その理由は定かでは、ない。定かではないが、単なる業務上の問題以上に、政治的な思惑が働いているように思える。そもそもが、水銀の徴収とは、使用・不使用にかかわらず、上水網がカバーする地域からは、有無を言わさず徴収するものであり、一種の税金のようなものである。その税金を一介の請負人に任せるのは幕府の官僚としては心穏やかならず、といったものであったろう。官僚は、機会を見てこの既得権益を取り戻そうと考えていたことと、思う。
その既得権益を取り返すきっかけには、武蔵野の新田開発への分水問題が大きく関係しているようにも思える。亨保7年(1722)、将軍吉宗の新田開発推進策を実行するため、武蔵野に多くの新田が開発され、そこに玉川上水からの分水を流した。従来、玉川家は、上水は水銀、灌漑用水は水料米として徴収していたが、武蔵野新田は水料を免除されていた、と言う。玉川家と武蔵野新田開発担当の幕府役人との間には、いろいろと軋轢が起きていた、と想像できる。こういった状況の中で、玉川家が起こした、なんらかの瑕疵を捉え、この時とばかり、罷免へと持ち込んだのであろう。支配役の担当替えが多かったのも、その一因とも思う。支配役が同じであれば、開削当時の状況も忖度し、開発の貢献者の子孫の水元役をすべて剥奪するといったこととは、違った状況になっていたか、とも思う。

それはそれとして、それにしても、散歩でいくつかの用水を訪ねたのだが、民間主導で行われた用水工事は最終的には、その功績を「無」とする傾向が武家側に多いように見受けられる。工期4年、延べ80万の人夫を動員し箱根の外輪山を穿ち、深良へと芦ノ湖の水を通した、希有壮大なる「深良用水」の工事請負人である江戸の商人・友野某の工事後の消息は不明である。獄死した、との説もある。箱根と言えば、箱根湯本から小田原の荻窪へと岩山を穿ち、「荻窪用水」を完成させた川口廣蔵については、個人の記録はおろか、工事の記録そのものもほとんど残っていない。稀代の事跡を商人如きに、との武家・小田原藩の作為の所作であろう、か。

玉川兄弟の罷免の後、町奉行の支配下に神田上水の請負人でもあった鑓屋町名主長谷川伊左衛門、大据町名主小林茂兵衛が、神田・玉川上水の監理をおこなう。明和五年(1769)には町奉行所管から普請奉行支配下に代わるも、翌年、上水請負人が廃止され、幕府の直轄支配となる。玉川兄弟が上水役から罷免され、わずか30年ほどで、幕府官僚の思惑通りの上水支配となった。陣屋跡からだけでも、あれこれ空想・妄想が拡がってしまった。玉川上水散歩の第一回は、実際は拝島を越え、西武拝島線・立川駅当たりまで下ったのだが、イントロのメモが少々長くなった。上水を辿る散歩のメモは次回から、とする。

先回、何気に高松城水攻めの跡地を巡った。基本は、成り行き任せ、行き当たりばったりの散歩故、あそこも行けば良かった、行くべきであった、といった、「後の祭り」が常日頃から多いのだが、吉備散歩では、特にその思いを強くした。
きっかけは、秀吉の中国・毛利攻めに際しての、高松城水攻めの地を実際に見てみよう、といった程度ではあったのだが、その地は古代吉備王国の中心地。造山古墳だけば、成り行きで訪ね、全国第四位の規模を誇る前方後円墳に上り、3世紀から5世紀にかけて大和朝廷と拮抗する勢力を誇った吉備王国の一端に触れたのだが、その古代吉備王国の指導者であった、であろう、吉備津彦を祀る、吉備津彦神社も吉備津神社も、時間切れで行きそびれた。また、応神天皇が、吉備の兄媛(えひめ)恋しさの余り、大和から吉備に下り滞在したときの行宮跡、と言う、葦守八幡にもいけなかった。
ということで、今回、お盆の帰省を利用し、先回の吉備散歩の「取りこぼし」、「跡の祭り」フォローアップにでかけることに。お盆帰省、ということで、家族も一緒であり、この炎天下、さあ、歩きましょう、というわけにも行かず、今回は岡山でレンタカーを借りての旅。散歩のメモというより、家族旅行での旧跡メモといったもの、である。

本日のルート;清心町交差点>国道180号>備前三門>矢坂山を迂回し、平津橋・北向八幡宮>篠ヶ瀬川に沿って進む>幾筋もの川が合流>北西に進み、吉備津彦神社>国道180号に戻り、吉備津神社>造山古墳>庚申山の手前で足守川を渡り>国道429号を北上>足守>葦守八幡>国道429号を戻り、岡山自動車道を東総社駅>総社宮>国道180号を戻り国道429号>備中国分寺>作山古墳>県道270号>そう爪で南下>県道245号>山陽新幹線に沿って県道3242号>岡山駅

矢板山
岡山駅よりカーナビの案内に従い、吉備津彦神社へと向かう。駅前を進み、国道180号・清心町交差点を左折。清心町交差点を西へと進むと、吉備線・備前三門駅(みかど)へと。前面に見えるのは、矢坂山。標高131mの独立丘陵。吉備線は矢坂山の南に沿って進むが、国道180は左に曲がり、山の東麓から北麓へと半円を描くように迂回。北麓では笹ヶ瀬川に沿って西に進み、樽津のあたりで、山麓を離れ北西へと向かう。地図を見ると、樽津の西で笹ヶ瀬川や中川、辛川、西辛川といったいくつかの川筋が合流し、南へと下る。このあたりが先回の散歩でメモした、大安寺荘園のあったところであろう、か。
先回の散歩でメモ:大安山駅の北に矢坂山という標高131m程度の独立丘陵がある。往昔、八坂山の西側は入り江であり、「奈良の津」と呼ばれていた、とのことだが、この入り江の東側に50町歩に及ぶ大安寺の庄園があった。公地公民が律令制の基本、とはいいながら、寺社はその「公共性」故に、田畑の私有が認められていたため、9世紀から12世紀に渡る平安時代、奈良・京都の社寺、貴族たちは荘園になるべき土地を朝廷から貰い受け、開拓していった。この吉備の国には河川の扇状地や浅瀬の干潟など埋め立て・開墾に適した土地が点在している、これに目をつけた中央の大社寺は競って朝廷からこの土地を手に入れ開拓荘園を作っていった、と言う。この大安寺のあたりも、笹ヶ瀬川や中川、辛川、西辛川といった川筋が、八板山の西で合わさる。これら幾多の川によって形づくられた干潟を朝廷から貰い受け、大安寺が直接開拓し、荘園としたのであろう、か。

吉備の中山
国道180号を少し進むと、前面というか、進行方向左手に大きく拡がる独立丘陵が見える。この山稜は、吉備の中山と呼ばれ,古代、山中に巨大な天津磐座(神を祭る石)、磐境(神域を示す列石)を有し、山全体が神の山として崇敬されてきた、と。この山が、「神奈備山」である、ってことは、先回の散歩でわかったことではあるのだが、その気で見れば、B級路線、情感が圧倒的に足りない我が身にも、自ずと、有り難くも見えてくる。

吉備津彦について
道を進み、吉備津彦神社の案内を目安に左折し。吉備津彦神社に。吉備津彦を祀る神社をめぐる吉備津彦神社、そして吉備津神社巡りのはじまり、である。先回の散歩で、吉備津彦についてのメモをまとめた。リマインドのため、以下コピー&ペースト
吉備津彦について:『古事記』、『日本書記』によると、吉備津彦命は孝霊天皇と倭国香媛の子。五十狭芹彦命(ひこいさせりびこのみこと)、とも呼ばれた。孝霊天皇の時代に吉備国を平定。崇神天皇のときには四道将軍のひとりとして3、山陽道を制服するため派遣された、とある。しかしながら、少々の疑問が芽生える。吉備を征服した大和の王族を、どうして吉備の人々が一宮の主祭神として祀るのであろう、か。それも、大和朝廷によって分割された備前・備中・備後・美作の一宮に主祭神として祀られる。『吉備の古代史;門脇禎治(NHKブックス)』など、あれこれ本を読んでも、いまひとつ門外漢には難しすぎて、よくわからなかった。が、ある日、何気なく立ち寄った近くの地域センターの図書ライブラリーで借りた『吉備王国残照;高見茂(東京経済)』を読み、なんとなく納得できる説明があった。
『吉備王国残照;高見茂(東京経済)』によると、吉備津彦は吉備王国の指導者であった、とする。5世紀頃、吉備王国は吉井川・旭川・高梁川・芦田川の流域に拡がる豊かな農業生産地帯と、中国山地の砂鉄資源に恵まれ、瀬戸内の製塩、また内海交通の制海権を掌握し、大和朝廷に拮抗する力をもつ王国であった。その中心地、吉備津、すなわち、吉備の湊の首長が吉備津彦であった。
その吉備王国を征服すべく大和朝廷から派遣されたのが五十狭芹彦命(ひこいさせりびこのみこと)。吉備津彦を中心とする吉備王国は激しく抵抗するも、吉備津彦は殺害され、吉備国は大和に敗れた。吉備津彦は大和朝廷に抵抗した吉備の英雄の名前であった。五十狭芹彦命が吉備津彦と同一神となったロジックは、古代、征服者に自分の名前を与えるのが服属の証しであった、とのことから。そのことは、小碓命(おうすのみこと)と呼ばれていた日本武尊(やまとたける)が熊襲タケルを殺害した後、熊襲は服属の証しとして「タケル」を小碓命に与えたことにも顕れる、とする。かくして、『古事記』や『日本書紀』には、服属の証しとして与えられた吉備津彦の名が、大和天皇家の系譜に組み込まれ、吉備王国の征服者と記載された。一方、吉備の人々は征服者である大和朝廷に深い恨みを抱き、やがて吉備津彦は祟りの神となった。その怨霊を怖れた大和朝廷は、その怨霊を鎮めるべく吉備津彦を神として祀り、神社に高い位を与えた。吉備の人々は、吉備津彦を吉備王国の英雄として忘れることなく、吉備国が分割された後も、往昔の吉備王国の栄光の象徴として、それぞれの一宮の主祭神として祀られた。(『吉備王国残照;高見茂(東京経済)』)、とのことである。

吉備津彦神社
以上のメモを思い描き、社殿に向かう。古色蒼然とした古き社を思い浮かべてはいたのだが、結構新しい。チェックすると。昭和5年(1930年)、失火により本殿と随神門以外の社殿・回廊を焼失。現在見られる社殿は昭和11年(1936年)に再建したもの、と。駐車場脇に「さざれ石」。さざれ石は、誠に細かい小石(細石)のこと。その細石の欠片の隙間を、炭酸カルシウムや水酸化鉄が埋めることにより、長い年月をかけ、巌(いわお)となる、と言うのが、国歌にある「さざれ石が巌となり、苔がむす」といったくだりの意味、とか。「さざれ石が巌となった」、ある程度大きい巌を見やり、随神門をくぐり境内に。左手に大きな石灯籠。安政の大石灯籠と呼ばれ、高さ11mで日本最大、とか。随神門に至る参道の左右には池が配置され、左右に亀島神社・鶴島神社が祀られている。先に進み、拝殿にお参り。境内から眺めると、拝殿・祭文殿・渡殿、そして、その沙先に本殿が縦に並ぶ。拝殿に「一品一宮」と書かれた額があった。「一品(いっぽん)」とは、皇族の功績に対して授けられる品位こと。一品とか二品といった勲位があるので、その第一位、ということだろう。朝廷直属の宮であったことを示す。吉備津彦神社が一品の神階を受けたのは承和7年(840年)の頃、と言う。
一方、「一宮」は平安から中世にかけて行われた社格の名称、と。特段に決まった定めはないようだが、諸国において、自ずと社格が決まり、その最上位が「一宮」と呼ばれた。ちなみに、武蔵には一宮がふたつ、あった。大宮の氷川神社と多摩・聖蹟桜ヶ丘の小野神社。その経緯についての空想・妄想は、七生丘陵散歩にメモしたが、大雑把に言えば、それなりの由緒があり、それなりの人が「一宮」と主張すれば、それが、「一宮」となった、ということであった、よう。一宮制については、未だ、よくわかっていないようである。
吉備津彦神社は大化の改新後、吉備の国が、8世紀頃、備前・備中・備後に分かれた後、備前国の一宮となる、と言われる。とはいうものの。大化の改新は7世紀の事であり、一宮制度は、はっきりはわかっていないにしても、大宝律令が制定され律令制が始まって以降であり、11世紀頃、早くとも10世紀は下らない、と言う。つまりは、吉備の国が分国化された後、それぞれの国にあった神社に、なんらかのポリティックスが働き、平安時代に最終的には吉備津彦神社が備前の一宮となった、ということだろう。
実際、明神大社の社格をもつ西大寺の安仁神社が備前の一宮になるはず、であった、とも言われる。しかしながら、天慶2年(939年)の天慶の乱において、藤原純友が反乱を起こした際に、安仁神社は純友に味方し、一方で吉備津彦神社の本宮にあたる吉備津神社は官軍(朝廷)に味方したため、その分祠社である吉備津彦神社が備前一宮となった、とされる。ちなみに、明神大社とは律令制において、明神祭の対象となる神々を祀る社。明神祭とは、国難に際し、その解決を祈願する国家的祭祀。明神大社とは高い社格を誇る社である、とウイキペディアにあった。
吉備津彦神社を「朝日の宮」とも呼ばれる。神社の案内によれば、社殿配置が太陽信仰の形を留める、とも言う。夏至に昇る太陽光は、正面鳥居から、幣殿の鏡へ差込む、とか。そして、その直線後方に、神体山山頂がある。山中に巨大な天津磐座(神を祭る石)、磐境(神域を示す列石)を有し、自然神信仰の場であった古代からの祭祀の地であったのだろう。その地に吉備が分国され備前の国が出来たときに、本宮である吉備津神社から分祀し吉備津彦神社を祀られていた、のだろうか。古代には、気比大神宮・大社吉備津宮と称されたようである。

戦国の争乱期には社殿焼失するも、江戸時代になると姫路藩主・岡山藩主である池田公の庇護を受け社殿が再建された。境内を散策。鯉喰神社、矢喰神社、坂樹神社、祓神社などがある。そのほか、温羅神社、楽御崎神社(桃太郎の猿にたとえられた人物、を祀る)、子安神社、天満宮などがたたずむ。鯉喰神社、矢喰神社、温羅神社などは、次に訪れる本社・吉備津神社にも登場するはず、であろうから、メモは後に譲る。



吉備津神社
吉備津彦神社を離れ、吉備の中山の北西麓に北面して鎮座する吉備津神社に向かう。到着した第一印象は、吉備津彦神社とはその趣きが異なり、樹木囲まれた古き社の風情が色濃く残る。参道を進み石段を上ると赤く塗られた「北随神門」がある。室町中期の建築といわれていて、国の重要文化財である。北随神門の先にも急な石段があり、その先には「割拝殿」。誠に趣のある建屋である。割拝殿、って、中央に通路があり、下足のままで進める拝殿とのことだが、斜面や階段の途中にある場合は、楼門の代用とされる場合が多く、拝殿の役割はもたない場合も多いと、言う。



割拝殿を通り抜け、拝殿でお参り。回廊に囲まれた境内に入り、神社の構えを眺めると、社殿が縦に、それぞれの特徴を示しながら並ぶ。縦長の拝殿、その後に妻がふたつ連なる本殿。入母屋屋根を2つ繋げた形をしていて、これを比翼入母屋造(ひよくいりもやづくり)と言う。これに縦拝殿を接合したこの建物全体の作りを吉備津造(きびつづくり)と呼ぶ、ようだ。もっとも、吉備津造の建物はこの神社だけしか、ない。俗な表現で表すとすれば、「合体ロボ」といった、なにか、インパクトを与える構えである。拝殿、本殿とも国宝に指定されている。



吉備津神社は吉備津彦を祀るのは、言うまでもない。が、同時に、この神社は鬼と称された温羅の怨霊を鎮める神社としても知られる。温羅にまつわる伝説とは以下のようなものである:はるか昔のこと、異国より、この吉備国に飛来し来たる者がいた。一説には百済の皇子とも伝えられるが、名を温羅(うら)といい、鬼の如く凶暴であり、足守の西の山に城(鬼の城、として現在も残る)を築き人々を苦しめていた。大和の朝廷は温羅を征伐すべく五十狭芹彦命を派遣。吉備の中山に布陣し、温羅と相対した。
五十狭芹彦命は矢を放ち、温羅は石を投げて矢を防ぐ。が、結局、矢が温羅の左目に突き刺さり、温羅は雉に姿を変えて逃げる。五十狭芹彦命は鷹となって追いかける。捕まりそうになった温羅は鯉に姿を変え、左目から流れ出した血で川となった血吸川に逃げ込むも、五十狭芹彦命は鵜となり、ついに、鯉となった温羅を捉える。降参した温羅は吉備冠者の名を五十狭芹彦命に捧げ、降服の証しとした、と。
イマジネーション豊かな物語ではあるが、温羅はもともと吉備国の指導者であった「吉備津彦」であったことは言うまでもないだろう。吉備の指導者を鬼・温羅、とみなし、大和より吉備の人々を苦しめる鬼退治に五十狭芹彦命が下る。見事、鬼を討ち果たし、吉備の指導者である吉備津彦の称号を得る、といった大和朝廷の吉備制圧の正当性を描く物語ではあろう。
ちなみに、五十狭芹彦命が射た矢と温羅が投げた岩が空衝突し、落ちた処には矢喰宮があり、その脇には血吸川が流れる。現在の岡山自動車道、総社インターのすぐ東に矢喰宮が祀られる。また、血吸川を鯉となって逃げる温羅を噛み上げたところには鯉喰神社が現存する。山陽自動車道、岡山ジャンクションの南の足守川の近くに祀られる。二つの吉備津彦を祀る神社を巡り感じたことは、なんとなく元々の吉備の指導者でり、朝廷によって鬼とされた温羅と称された、吉備津彦を祀るのが吉備津神社。それに対し、元は大和朝廷から派遣された五十狭芹彦命であり、吉備征服後に「吉備津彦」と称された人物を祀るのが備前の吉備津彦神社のように思える。なんの根拠もないのだが、「一品」の称号など、備前の吉備津彦神社のほうが朝廷との結びつきが強いように感じるから、である。

足守
次の目的地は足守の町と葦守八幡。緒方洪庵生誕の地もさることながら、パンフレットで見た武家屋敷の残る落ち着いた街並みの足守の町と、応神天皇の行宮跡という葦守八幡を訪ねることに。吉備津神社を離れ、国道190号を北に進む。最上稲荷の大鳥居を右手に眺め、備中高松駅を越え、国道が足守川とクロスする手前で右手に折れ、国道420号を北に向かう。道の左手の山塊にある、という温羅の「鬼の城」を想い描きながら足守の町に。
駐車場を探し、街中を進む。道の左右には落ち着いた街並みが続く。現在足守地区にあるおよそ三百戸のうち、



江戸時代の家屋の姿を今にとどめるものはおよそ百戸、と言われる。コミュニティセンタ-・足守プラザ近くの駐車場に車をとめ、町を歩くと乗典寺。緒方洪庵の位牌と両親が眠る、と言う。生誕の地は、町を離れ、足守川の東、国道429号が洪庵トンネルに入る手前に残る。先に進むと右手に古き商家。旧足守商家・藤田千年治邸が公開されていた。醤油製造を商いとしていた堂々とした商家の造りが今に残る。
町屋地区を北に進み、町屋地区から武家屋敷地区に。旧足守藩侍屋敷の格式高い武家書院造り屋敷はなかなか、いい。水路に囲まれた小高い敷地が陣屋跡。足守は関ヶ原の合戦の後、播磨城主であった木下家定をこの地に配置換えし、足守藩主とした。木下家定は秀吉の正室・北政所(ねね)の兄。関ヶ原の合戦時、終始徳川家に味方した北政所の功績故の処遇であろう、か。以降、足守は木下家の統治ものと、明治まで続いた。
足守藩には城はなく、陣屋を置いた。陣屋町つくりは四代藩主・木下利富公が本格的に着手。現在に残る、武家屋敷地区と町屋地区により、街並みが形成された。陣屋跡の水路に沿って進むと「近水園」。江戸中期につくられた木下家の庭園。小堀遠州流の池泉回遊式庭園は、なかなか美しい。
足守の歴史は古い。5世紀につくられた『日本書紀』には「葉田葦守宮」の記述がある。平安初期に編纂された『和名抄』には「安之毛利」、「葦守」の記述がある。平安末期には「足守庄」という庄園が開発されている。葦はイネ科の植物。湿地を好む。往古より、足守川流域は低湿地で葦が茂っていたのであろうし、葦が茂るということは稲作にも適した土地、ということでもある。実際吉備の地は福岡県の板付遺跡とともに、弥生時代前期、日本で最初に稲作が始まった地、とも言われる。葦の茂る湿地を開拓し、庄園としたのであろう。戦国時代には毛利家の支配下となり、宇喜多の支配を経て、江戸の足守藩へとなった。

葦守八幡宮
足守の町を離れて、葦守八幡宮に向かう。国道429号に戻り、ほどなく国道を離れ、小径を進むと葦守八幡宮駐車場の案内。車一台やっと通れるような急坂を上りきり駐車場に。境内には鐘楼があったり、社も、神社と言うより、なんとなくお寺の雰囲気を残す。どこかでメモしたが、八幡さまは、八幡大菩薩とも称えられるように、八幡信仰そのものが、神仏和合の結晶ともされる。とすれば、この、如何にもお寺様といった雰囲気は、あながち、間違いではないの、かも。
『日本書紀』には応神天皇の行宮として「葉田の葦守宮」との記述がある。足守町の少し南にある葦守八幡がその跡地とのこと。以下は先回の散歩メモのコピー&ペースト;「『日本書紀』には以下のような物語が描かれていた;応神天皇の妃、兄媛(えひめ)が故郷である吉備恋しさのあまり、「帰省」の許しを乞う。帰省を許したものの、兄媛に会いたいと応神天皇が吉備に下る。その行宮が葉田の葦守宮、である。応神天皇を迎えた兄媛(えひめ)の兄の御友別(みともわけ)は、一族をあげて歓待。それを徳、とした応神天皇は、御友別の支配する地域をその子らに分封し、その支配権を公に認めた、とある。この『日本書紀』に描かれる、天皇が妃を焦がれて吉備まで、といった話はあまりにナイーブであり、文言通りにはとれないが、このエピソードから読み取れる大和と吉備の関係を、我流でまとめてみる。吉備王国は3世紀から発展をはじめ5世紀頃には複数の首長を中心とした連合王国が成立。大和や出雲に匹敵する力をもつ王国となる。5世紀から6世紀はじめにかけて大和朝廷は吉備を支配下に置くべく謀略をはかり、7世紀にかけての分割支配体制により吉備国は崩壊をはじめ、8世紀には、備前・備中・備後・美作と完全に分割され、大和朝廷の支配下に入る。これが、時系列で見た吉備と大和の関係である。
で、上の応神のエピソードの解釈であるが、応神天皇は4世紀後半の天皇とされるので、可能性としては、拮抗した力関係もと姻戚関係を結んで吉備と大和が友好関係を保っている次期ともとれる。また、支配下に置くべく吉備に楔を打ち込むべく下向した、ともとれる。吉備王国は有力な首長による連合王国であった、とされる。親大和・反大和などさまざまな思惑の豪族の連合王国ではあろうが、その中で、応神天皇の后・兄媛(えひめ)の兄の御友別は、親大和朝廷系の豪族であったのかとも思う。御友別、といえば日本武尊の東征に吉備武彦命が従う、というくだりがある。吉備武彦命は『古事記』では御鉏友耳建日子(みすきともみみたけひこ)と呼ばれ、『日本書紀』の応神記に、吉備臣の祖先である「御友別」と同一人格か、祖先か、ともあれ、深い関係がある、とされる。その御鉏友耳建日子こと、吉備武彦命が日本武尊の東征に副官として従う、という神話の意味することは、吉備王国が大和朝廷によって侵略・平定された後、東国への軍事行動に吉備武彦命系列の吉備の豪族が参加・転戦した、ということであろう」、と。
先回の散歩で行きそびれた、吉備津彦ゆかりの神社、吉備津彦神社と吉備津神社、それと足守の街並みと葦守八幡をカバーした。お盆帰省でやっと予約の取れた岡山発の新幹線まで、2,3時間ほど余裕がある。ついでのことなので、総社市に廻り、総社宮と備中国分寺を訪ねることに。

備中・総社宮
国道429号を南に下り、吉備線・足守駅を越えたあたりで国道180号に乗り換え、西に向かい吉備線・東総社駅近くの総社宮に。現在の社は江戸時代に再建されたもの。100mにおよぶ長い回廊や社殿前の「三島式庭園」と呼ばれる景観はなかなか、いい。三島式庭園とは神池と中島で構成される古式の庭園とのことである。総社の成り立ちは行政官の「合理的」発想、から。もともと、律令政治の地方行政の長である国司は、赴任に際し、国中の神社参拝がその義務でもあった。地域の神々をお参りし、敬うことが行政の基本でもあった。が、平安末期には、国中の神社を参拝することが困難となる。お金もかかるし、治安も悪い、ということだろう、か。で、その代案として考えられたのが、国府の近くに国中の神々を一同に集めよう、合祀しよう、ということ。結果、この備中総社には備中の国中の三百四の神々が祀られた、とのことである。

備中国分寺跡
お参りを済ませ、国道180号を東に戻り、金井戸の手前で429号を南に下り、ナビの誘導のまま備中国分寺跡に。西からのアプローチの前方に五重塔の甍が現れる。誠に美しい。駐車場に車をとめ、国分寺へと。
国分寺は聖武天皇が天平13年(741)、鎮護国家を目的に全国に建てられた官寺。当時は東西160m、南北178m程、七堂伽藍の並ぶ大寺であった、とのことだが、現在の国分寺は江戸時代に再興されたもの。本堂と大師堂が残る。山門脇の境内には創建当時の礎石も残っていた。境内西にある五重塔は高さ34.32m。この五重塔はなんとなく、インパクトを感じる。その屋根の上層と下層がほぼ同じ大きさであることも、その一因であろう、か。弘化元年(1844)ごろに完成したこの塔は、江戸後期の様式を今に伝える。
備中国分寺の近くには備中国分尼寺とか、こうもり塚といった古墳も残るのだが、同行の家族に、更に数百メートル歩くべし、の一言を発する勇気は、既に、なし。あれが「こうもり塚」、あのあたりが国分尼寺跡、と数百メートルを隔てた地から眺め、国分寺跡を去る。

作山古墳
駐車場を離れ、ナビの誘導で県道270号を国道429号に向かう。国道429号との交差点でいくらたっても信号が変わらない。結局後ろの車がしびれを切らし、ボタンを押す。押しボタン交差点であった。それはともあれ、その交差点に「作山古墳」の案内がある。カーナビにも、交差点のすぐ西に「作山古墳」の案内がある。全く予想もしていなかったのだが、突然の作山古墳の登場。時間もあまりないのだが、とりあえず一周でもしてみようと、交差点を越えて直進し、田圃の間の小径を進む。作山古墳の手前に集落があり、誠に狭い集落内の小径を道なりに、おそるおそる進むと、古墳の西側にある駐車場に出た。
車を下り、ヒット&ランで古墳に走る。造山古墳と同じく、独立丘陵をもとに作り上げた、この前方後円墳の古墳は全長285m、後円部174m、高さ24m、前方部110m、同幅174m。全国九位の規模を誇る。ゆっくり楽しむ余裕はなかったが、とりあえず、古墳の一端に触れ、心嬉しく岡山駅に向かい、吉備散歩第一回の、「後の祭り」フォローアップの旅を終え、一路東京へ。

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