2011年6月アーカイブ

もう数年前のことになるかとも思うのだが、会社の同僚と関ヶ原合戦跡を歩いたことがある。きっかけは何だったのか、定かに覚えてはいないのだが、合戦に登場する笹尾山とか松尾山とか南宮山とかの地形を、文字面だけでなく、実際に歩いてみよう、といった、その場の成り行きではあった、かと。ルートを想うに、どうせのことなら、関ヶ原合戦の前哨戦、というか、ことによったら主戦場となったかもしれない西軍の大垣城、東軍の赤坂の家康陣跡地もカバーし、それぞれの位置関係・距離感などを実感しよう、また、どうせのことなら、攻城戦を嫌った家康が主戦場を大垣城から離すために流した、とも伝わる、「東軍は大垣を攻めず、直接三成の居城・佐和山城を抜き、大阪城に向かう」、といった噂のキーワード、三成の居城・佐和山城もカバーしようということになった。佐和山城址がどこにあるのかも知らなかったのだが、チェックすると佐和山城址って、彦根にあった。彦根城は数回訪れたことがあるのだが、その「はじまり」が佐和山城であったことなど、全く知らなかった。

日程は1泊2泊。初日は彦根まで新幹線を利用し、そこからはレンタカーで動く。最初に佐和山城址を訪れ、次いで関ヶ原に戻り、主戦場となった関ヶ原の平地を、主として西軍陣地址を中心に歩き、宿泊は大垣とする。
2日目は大垣城あたりを彷徨い、東軍が大垣城攻防戦の陣とした中山道・赤坂宿、進軍路の垂井宿に進み、その後、西軍の毛利軍が陣を敷いた南宮山、小早川軍が陣を敷いた松尾山に上る。そして、時間次第で島津軍が東軍を中央突破して退却戦をおこなった、南宮山の西、現在では名神高速が走る牧田川にそった牧田路を下る、といったルーティングを想った。
散歩は数年前のこと。所用や私用で関ヶ原を新幹線で通過する度に、そのうちに、そのうちにメモをしなければ、気になりながらも、そのままにしておいた散歩のメモである。当時の写真を頼りに、薄れゆく記憶に抗いながら、メモをはじめる。

 本日のルート;佐和山城址>醒ヶ井宿>国道365号・北国脇往還>「決戦地」跡>笹尾山・石田三成陣跡>島津義弘陣跡>関ヶ原合戦開戦地碑>小西行長陣跡>宇喜多秀家陣跡>大谷吉継陣跡>平塚為広の碑

佐和山城址
JR米原駅で新幹線を下車。駅前でレンタカーを借りて彦根に向かう。県道329号線を走り、彦根城に。彦根城の雰囲気だけを少し感じ、市内を抜けて東海道線を越えて国道8号線に進む。佐和山城址は彦根市内の東、鈴鹿山系から独立した丘、というか山陵にある。佐和山のある独立山稜と鈴鹿山系の間には中山道、現在の国道8号が通る。
佐和山城址へのアプローチは、鈴鹿山系が琵琶湖に向かって大きく張り出した先端部近くを穿つ国道8号線のトンネル手前、国道左側の斜面にある東山ハイキングコースからスタートする。スタート地点付近はブッシュが茂り、それほど整地されてはいなかった。山頂へのアプローチは井伊家の菩提寺潭龍寺からのコースもあるよう、だ。
10分ほど緩やかな山道を進むと太鼓丸の案内。さらに数分で千貫井戸があった。お金・千貫にも代え難い貴重な井戸ではあったのだろう。このあたりからは彦根市街が見渡せた。山頂には上り始めて30分程度だった、かと。山頂の手前には本丸の石垣の跡が数個残っていたが、関ヶ原の敗戦後の佐和山城攻防戦で完膚無きまで打ち壊され、また、戦後の彦根城普請に持ち去られた佐和山城の、いまに残る僅かな名残ではあった。
山頂は標高232.5m。かなり広く、佐和山城本丸跡の碑がある。石田三成が天正18年にこの佐和山の城主となり五層の天守閣を構えた、とのこと。木立に遮られあまり見通しはよくなかったが、往昔、天守からは湖東地域や、佐和山の東の隘路を進み関ヶ原方面に向かう中山道と、木之本峠方面に向かう北陸街道の分岐を見通せる交通の要衝の地であったのだろう。
とはいいながら、実のところ、この城址が「三成に過ぎたるもの二つあり、島の左近と佐和山の城」と、言わしめたほどの、規模感が感じられなかった。それは天守へのアプローチの問題も大きかったのか、とも思う。後からわかったことなのだが、佐和山城の大手門・大手道は佐和山の山稜の東、中山道の通る鳥居本のほうであった。大手門方面からのアプローチであれば、佐和山山頂を本丸とし、西尾根に西の丸、東尾根に太鼓丸、千畳敷、法華丸、山頂から北側に流れる尾根道には二の丸、三の丸を配した、鶴翼の構えを呈するお城の広がり感が感じられたのかもしれない。もっとも、「過ぎたるもの」としての佐和山城は、その「結構」でなく、難攻不落の堅城のことを指すのかもしれない。浅井方の支城であった頃、当時の佐和山城主・磯野員昌が織田方と戦い、8ヶ月も持ち堪えた、という。もっとも、この堅城も慶長5年(1600)の関ケ原合戦で三成が敗れると、3日後に落城した。
ところで、地形図を見ながら、何故に中山道は独立丘陵・佐和山の西の湖側を通らず、東の隘路を進むのであろう、と少々思い悩んだ。現在は平地ではあるが、往昔、湖側は湿地帯でもあり、往来まま成らず、であったのだろう、などと想像しながらチェックする。結果は予想どおり、佐和山の独立丘陵の北側には入江内湖、西側に松原内湖といった、琵琶湖の「内湖」が拡がっており、中山道が独立丘陵の東を通らざるを得なかった、ということである。佐和山の城はこの内湖をとおして琵琶湖と結び、水運のための湊と繋がっていた、と言う。松原内湖にはクランク型の通路が佐和山の山麓から続き、琵琶湖の近くには幅5.4m、長さ540mの百件橋と呼ばれる橋もあった、とか。「三成に過ぎたるもの二つあり、島の左近と百間の橋」とも呼ばれたように、まさに、佐和山の地は水陸交通の要衝であった。これも過ぎたるもの、としての佐和山城の価値かもしれない。

現在彦根の町は佐和山の西、湖側に開けている。関ヶ原合戦の後、佐和山の城主となった井伊氏は佐和山を棄て、現在の彦根城の地に城を築いた。松原内湖に注いでいた芹川の流れを変え、直接琵琶湖に流す河川付け替え工事をおこない、湿地を埋め、城下町を築いていった。いくつかの大名を動員した、一種の天下普請であった、と言う。城下を巡る三重の濠は松原内湖を通じて琵琶湖と繋がっており、湖に囲まれた水城であった、とか。ちなみに、入江内湖、松原内湖は戦前まで残り、戦時中の食糧難の時期に埋め立てられた、とのことである。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)数値地図25000(数値地図),及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平22業使、第497号)」)


醒ヶ井宿
佐和山城址を離れて関ヶ原に向かう。現在の中山道は米原まで北に進み、そこで北に向かう国道8号と分かれ、国道21号となって北の伊吹山系と南の鈴鹿・養老山系を分かつ地溝を東へと向かう。昔の中山道はこのルートとは異なり、佐和山東の隘路を進み、鳥居本宿の先を右に折れ、摺針峠を越え、馬場宿から醒ヶ井宿へと北東に進む。現在の名神高速道路がその道筋に近い。鳥居本宿は京から数えて7番目、江戸から63番目の中山道の宿。多賀大社の鳥居がこの地にあったことが名前の由来、とか。ともあれ、中山道を進むと醒ヶ井宿に。如何にも「水」に関係するといった名前に惹かれ、迷うことなく立ち寄ることに。
旧道に沿った地蔵川の水は、豊富な湧水に潤され誠に美しい。地名の由来ともなった、「醒ヶ井」の湧水地は、日本武尊の伝説に登場する。『古事記』や『日本書紀』によれば、東征の帰途、伊吹山の荒ぶる神を退治にでかけた日本武尊は、苦戦し発熱、正気を失うほどになった、とか。やっとのことで山を下り、この湧水の水で体を冷やすと、あら不思議。熱も下がり気力回復と相成った、と伝わる。江戸の頃の儒学者で朝鮮・中国との外交に尽力した雨森芳州は、「水清き 人の心を さめが井や 底のさざれも 玉と見るまで」と読む。水が美しく、川底の小石までが玉のように見えた、といった意味だろう。西行も「水上は 清き流れの醒井に 浮世の垢をすすぎてやみん」とも詠う。誠に美しい流れに、湧水フリークとしては、しばし彷徨いたい、とは想えども、今回は関ヶ原がメーン。名残を残し先に進む。

国道365号・北国脇往還
鈴鹿山系と伊吹山系を僅かに分ける地溝帯を進む中山道・国道21号を、柏原宿、今須宿をへて関ヶ原に。関ヶ原西町交差点で国道365号に乗り換え、関ヶ原の町を北西に進む。国道365号はこの関ヶ原町から木之本町までは往昔の北国脇往還。中山道・関ヶ原宿と北国街道・木之本宿を結び、北陸と東海・東国を結ぶ最短路であり、多くの人々が往来した。

「決戦地」跡
最初の目的地は石田三成陣跡。関ヶ原西町交差から国道365号を1キロ強進んだ笹尾山のあたりにある。国道を少し進むと、道から少し北に入ったところに「関ヶ原歴史民俗資料館」。実のところ、この資料館を訪れた記憶が全く、ない。記念館の写真は残っていないが、手元に「天下分け目の関ヶ原ウォーキング ザ・ウォーマップ」といった資料が残ってはいるので、多分訪れたのでは、あろう。また、車を何処に駐車したのかも覚えていない。が、写真の中に、笹尾山の麓の田畑の中にある「決戦地」跡の写真が残っていたので、多分、このあたりのどこかに車を駐車して歩きはじめたのだろう。決戦地は石田勢と東軍の激戦が繰り広げられた場所である。笹尾山・石田三成陣跡は「決戦地」から20分弱歩いたところにあった。

笹尾山・石田三成陣跡
決戦地もそうだが、笹尾山・石田三成陣跡も幟が立ち並び、竹矢来とか逆茂木が復元され、いかにもそれっぽい。遊歩道を上り山頂、といっても標高198m。北国脇往還の標高が165mあたりではあるので、小高い丘、といったところではあるが、そこが、三成が陣を敷いたところ。北国脇往還を扼し、関ヶ原が一望のもとに見下ろせる如何にも戦闘指揮所にふさわしい場所である。本陣には三成の旗、「大吉大万大一」の白旗が翻っていたのだろう。

三成がこの笹尾山に陣を敷いたのが慶長5年(1600)、9月15日午前1時頃。9月14日午後7時頃、大垣城に詰めていた西軍は関ヶ原を目指し、石田軍を最初に、第二に島津、第三は小西、第四に大谷・脇坂・朽木・小川・赤座、第五・殿軍を宇喜多の順に出発した。順路は大垣の西から杭瀬川を渡り野口村へ迂回。南宮山に隣接する栗原山の麓に至り、そこから山入りし南宮山の西、牧田川が開いた牧田路を北に上り、関ヶ原に向かった。大きく迂回した理由は、大垣の北、4キロほどのところにある赤坂に布陣した徳川家康の、軍勢に進軍を秘するためであった、と言う。
大垣城から関ヶ原に移動した理由は、人それぞれ、いろんな意見があって、よくわからない。もともとは、主戦場は美濃平野での一大会戦といった思惑であり、三成は8月10日にはその拠点として大垣城に入城、諸将を大垣に集める。伊勢路を転戦していた宇喜多秀家の軍は9月3日に大垣に入城している。
その一方東軍は、8月14日には福島正則の居城 清洲城に入城。8月23日には西軍・織田秀信の岐阜城を落とす。織田信長の直系、幼名三法師君、として秀吉から格別の扱いを受けていた織田方の居城を、福島政則をはじめとした豊臣恩顧の大名が格別の思いもなく攻略したのは、西軍にとっては予想外の展開となった。その後、9月3日には東軍は赤坂の岡山に砦を築く。ここに至って、東軍の戦略は、家康の到着を待って赤坂を本陣に、岐阜城、清洲城の軍勢が共に大垣城に攻め入る、と考えられた。
状況が動いたのは9月13日、家康が岐阜入城、9月14日には赤坂に陣を敷いた。予想外の進軍の早さであった。ここまでの経緯は、ほぼ定着しているが、その後の戦略シナリオは人それぞれ。三成が関ヶ原に動いたのは、大垣攻城戦を避けるため、「直接中山道を進み佐和山城を攻め落とし、大阪城に進む」といった家康の謀略に三成が乗っかった、とか、堂々たる会戦をすべく三成が関ヶ原を決戦の地に選び家康を待ち受けたとか、あれこれ。ともあれ、15日の午前1時頃、雨の中を着陣。総勢六千。本陣の下、逆茂木の前面には第一段として島左近と蒲生郷舎。第二段は舞兵庫など、一騎当千の将が二千を率い、第四段構えで東軍に備えた。

島津義弘陣跡
石田軍の陣跡を離れ、順次西軍の陣跡を辿る。陣跡の並びは、北国脇往還から中山道にかけて、大垣城を出た順に北から南に陣を敷く。先軍石田に続き大垣城を出た島津義弘の陣跡を目指す。国道365号・北国脇往還に戻り、小池北交差点手前あたりから成り行きで国道を離れ南に入る。目安は神明神社の社叢。神社の裏手あたりに島津義弘陣跡があった。石田軍の陣跡からおおよそ30分弱といったところであった。現在は神明社の鎮守の森が繁るが、当時は灌木まばらな草地。社の西を流れる梨の木川に向かって緩やかな上りとなる傾斜地に、川を背に文字通り、背水の縦深陣を敷いた、と伝わる。






大垣城を出て、この小池村に着陣したのは午前3時頃であった、と。軍勢は一千弱。義弘と本国島津の当主・島津義久との確執などもあり、本国からの正式な援兵は無く、ひたすら義弘を慕い本国からはせ参じた者、その数数百、とも。薩摩ん本強漢(ぼっけもん)の「島津の走り」と呼ばれた。
西軍に属する島津は当初、東軍に加わる予定であった、と言う。伏見城に籠城する徳川方・鳥居元忠の援軍に馳せ参じるも、鳥居元忠より、家康よりの援軍要請の報無き故、として拒絶され、西軍に与することとなる。が、しかし、慶長の役などで明・朝鮮の大軍を寡兵で撃破、大勝するといった、根っからの武人と、これまた根っからの官僚である三成との戦略・戦術の乖離は大きく、特にこの関ヶ原の合戦においては、島津の軍勢は、西軍でも東軍でもなく、寄せ来る軍勢は退けるも、ひたすら「静観」を続けた。関ヶ原の合戦における島津の「活躍」は、西軍が敗れた後の、東軍の真っ直中、家康本陣をかすめた、と言う中央突破の脱出・撤兵戦のみ、であろう。

関ヶ原合戦開戦地碑
島津の陣跡を離れ、右手に左右に田園の地を眺めながら進む。右手には梨の木川を隔て、天満山が見える。道なりに10分ほど歩き、梨の木川を渡ったあたりに「関ヶ原合戦開戦地碑」。実際は、もう少し離れたところではあった、とか。開戦は家康の四男である松平忠吉とその後見人である井伊直政と西軍宇喜多軍の明石掃部全登との交戦ではじまった。
娘が忠吉の正室となった井伊直政が、忠吉の初陣に一番槍の誉れをと、軍法で決まった先陣・福島正則の陣中を威力偵察の名目で霧の中を突き進み、気がつくと宇喜多軍の真っ直中。急ぎ馬首を返す一団を見付けた宇喜多の一隊に直政が銃を打ちかけ、宇喜多勢も応射。その銃声を聞き、抜け駆けに怒り狂った福島正則が全軍に戦闘開始を命じ、ここに関ヶ原合戦が開始された。時刻は9月15日午前8時頃のことである。徳川家康が9月15日午前2時に赤坂を出立し、東軍の諸将が関ヶ原に布陣完了したのが午前7時頃、というから、布陣後、僅か1時間後のことである。

小西行長陣跡
開戦地碑から2分程度歩いたところに小西行長陣跡。『関ヶ原御陣御手配留』に「小池村西南天満山ニハ小西摂津守行長東ニ向フテ備フ」とある。小西行長は天満山の北峰に二段の構えで布陣した。『関原合戦図志』には「此山小ナリト雖モ其腹背嶮急ニシテ其頂ニ平坦ノ地ナク只東ノ山腰ニノミ陣営ヲ設ケ軍隊ヲ置クベキノ余地アリ」とある。山頂には布陣できるスペースはなく、山麓の中腹に布陣した。戦力は四千。行長麾下の部隊は文禄・慶長の役で疲弊し、また、肥後を二分して統治する隣国の宿敵加藤清正への抑えのため強力部隊は国許に残していたようで、兵の大半は、三成がつけた援兵、寄せ集めの部隊であった、とか。
関ヶ原の合戦では小西勢は弱兵と評される。宇喜多勢強し、とみた井伊直政三千六百が、松平忠吉勢三千を先導し、小西勢に鉾を転じる。石田勢強し、とみた田中吉政の兵も小西に向かう。小西は陣から攻め出ることもなく、守りに徹した。文禄の役では加藤清正とともに先陣をつとめるなど、吏僚とは言えど、武功をも立てている。戦乱を集結し、和平を実現するため、秀吉を「騙して」までも和平交渉を纏め上げようという腹も据わっている。寄せ集めの部隊では、どうしようもない、といったビジネスマン故の合理的判断であったのだろう、か。小西行長の出身は堺の豪商の出である。

宇喜多秀家陣跡
田園地帯を離れ、天満山南峰の森に入り10分弱歩くと、森の中に天満神社。宇喜多秀家の陣跡である。着陣は15日午前5時頃、と言う。軍勢は一万七千。五段にわけ、陣を敷く。前線は、先ほど歩いた「関ヶ原合戦開戦の碑」あたりまで出張っていたのであろう。前線に揃う8千名の軍勢は名将明石掃部全登の指揮下に置かれた。抜け駆けの功名をと、福島正則の陣を突き進んだ松平忠吉が、霧の中から現れた、宇喜多秀家の太鼓丸の旗幟を目にしたときは、どのような思いをしたものであろう、か。
宇喜多秀家は魅力的な人物である。秀吉に寵愛され、文禄の役では大将として、慶長の役では軍監として朝鮮に出兵し活躍。帰国後豊臣家の五大老のひとりとなり、豊家への恩顧から関ヶ原の役では副大将として参戦。そのとき歳はわずか29歳。関ヶ原の敗戦後、あれこれの経緯を経て、結局八丈島に流刑。その地で83歳の生涯を終えた。板橋を散歩した時に、東光寺に秀家のお墓にお参りしたことがある。板橋には加賀前田家の下屋敷のあったところ。秀家の正室であり、仲睦まじく暮らしていた加賀・前田家の息女・豪姫が菩提をとむらったのであろう。
八丈島を歩いた時には、南原海岸に秀家と豪姫の石像が仲良く並んで海を眺めていた。豪姫とは関ヶ原からの逃亡の途中、大阪の備前屋敷で数日間を共に過ごした、と言う。それが永久の別れとはなったわけではあるが、八丈への配流の後も、豪姫の実家の前田家は幕府の許しのもと、秀家への食料などの援助を続け、それは豪姫がなくなった後、明治になって宇喜多一族が放免されるまで続いた。

大谷吉継陣跡
秀家の本陣のあった天満神社を離れ、森をすすむと藤古川ダムに。コンクリートの急な段を下り、堰堤の高さ16m、幅78mほどの堰堤を渡る。このダムは関ヶ原の人々の上水道となっている。北はおだやかなダム湖の湖面が拡がるが、ダムの下流は渓谷の様相を呈する。堰堤を渡り、丸太横組みの木の階段を上りきると結構広い道にでる。

車も走れる道を南に下り、道案内に随って道を右に折れ大谷吉継の陣跡に向かう。山道を15分ほど進むと大谷吉継の墓。お参りをすませ、更なる山道を少し南に進む。山道は狭く、少々のアップダウンを繰り返し進むと、山中に大谷吉継の陣跡があった。
陣跡のすぐ崖下には若宮八幡の社が見える。また、中山道を通る車の音もよく聞こえたように記憶している。まさに、中山道を扼する要衝の地。その昔には山中城と呼ばれる要害の地であった、とか。
着陣は9月3日。宮上の丘陵上には空堀が縦横に連なっており、地形をうまく生かした陣の構築跡が見られる、との案内があった。が、素人目には、よくわからない。大谷勢の布陣については、地元の案内によれば、藤古川(関)の藤川の右岸に位置する川岸上の藤川台には、大谷吉継(吉隆)、戸田重政、平塚為広等が布陣し、となっている。どこかで手に入れた陸分参謀本部の「関原本戦図」を見ると、大谷吉継本陣の前面左に戸田重政・木下頼次勢、右の中山道の南に平塚為広・大谷吉治勢が布陣、とあった。
軍勢は千五百とも、二千とも言われる。もっとも、大谷吉継六百、大谷隊寄騎の戸田重政、平塚為広勢千五百、大谷吉治・木下頼継(吉継の甥)三千五百、との記述もあり、総勢ははっきりしない。
それよりなりより、もっともはっきりしないのは地元の案内にあった「親友三成の懇請を受けた吉継は死に装束でここ宮上に出陣。松尾山に面し、東山道を見下ろせるこの辺りは、古来山中城と呼ばれるくらいの要害の地。9月3日の到着後、山中村郷士の地案内と村の衆の支援で、浮田隊ら友軍の陣作りも進め、15日未明の三成等主力の着陣をまった」とのコメント。
前半はどうということはないのだが、後半の「9月3に着陣し、15日未明の三成主力の着陣を待った」のくだり。9月3日は三成が大垣城に入城し、東西軍の決戦は美濃の平野で、との方針に傾き始めた頃。その方針と異なり、吉継が、9月3日にはすでに、中山道を扼する関ヶ原のこの地に陣をかまえたのは、どういうことであろう。西軍としては決戦の地は、関ヶ原とすでに決定されていたのだろうか、そうではなく、単に吉継が決戦の地は関ヶ原になる、と予見していたのであろう、か。はたまた、決戦の地は大垣城周辺であるとしても、西からの兵站補給路を確保するため、吉継がこの地に陣を構えたのであろうか。それとも、大谷勢の南に聳える松尾山に、小早川秀秋の軍勢が陣を敷くって噂が(実際の着陣は9月14日)、9月のはじめにはわかっており、それの備えた陣構えであったのだろうか。あれこれ妄想は拡がるも、確たるエビデンスもなく、なんとなくはっきりしない。
大谷吉継も魅力ある武将。秀吉の馬廻衆からはじめ、頭角を現し、賤ヶ岳の戦いや奇襲攻めで武功をたて、天正13年(1585年)7月、従五位下、刑部少輔に叙任される。大谷行部と称される所以、である。天正14年(1586年)の九州征伐では、石田三成と共に兵站奉行として出兵。天正17年(1589年)、越前国・敦賀城五万石の城主となる。文禄・慶長の役では船奉行・軍監として朝鮮へ出兵している。関ヶ原の合戦に際しては、吉継は当初、東軍方として出兵。佐和山に立ち寄る。家康とも懇意であった吉継が、三成と家康の和解を図ろうとした、とか。が、逆に、三成より挙兵の話を聞き、無謀なり、と挙兵をやめるように説得したが、結局は三成に与力することに。このエピソードも諸説あり、本当のところはよくわからない。ともあれ、西軍に与することを決めた吉継は敦賀城に引き返し、東軍北国勢の勇、加賀・前田軍に対し、調略・情報戦を駆使し、大軍・前田の関ヶ原参戦を阻止した。吉継は当時の業病であったハンセン病に冒されており、輿に乗っての指揮であった。と言う。

平塚為広の碑
大谷吉継の陣跡を離れ、来た道を戻り、藤古川ダムから出たところにあった車道を少し南に進むと平塚為広の碑。秀吉に仕え、文禄・慶長の役に渡海。秀吉の覚えもめでたく、有名な秀吉の醍醐の花見には護衛の役を果たしている。秀吉没後、美濃垂井に一万二千石の所領を与えられる。関ヶ原の合戦に際しては、佐和山の城で大谷吉継とともに三成の挙兵を諫めた。が、結局西軍として立ち、伏見城攻めに軍功をあげた後、吉継の北国口に転戦。前田方と戦い、8月下旬、吉継とともに美濃に南進、9月3日に関ヶ原の西南の山中村に着陣した。
吉継との交誼は深く、大谷吉継ぎの辞世の句「契りあらば 六の巷に まてしばし おくれ先立つ 事はありとも」は、平塚為広の辞世の句である、「名のために(君がため) 棄つる命は 惜しからじ 終にとまらぬ浮世と思へば」への返句となっている。ちなみに、戦前・戦後の女性運動の指導者平塚らいちょうはこの平塚為広の子孫、と言う。
ついでのことなので、戸田重政;織田信長の馬廻りであったらしい。本能寺の変の後は、信長の重臣であった丹羽長秀に仕える。戸田重政も長秀の下で1万石を領し越前足羽郡安居(あご)城主となる。長秀が没後、秀吉の直臣の大名となり、以後、九州征伐、小田原攻め、朝鮮の役に従軍し活躍。関ヶ原の合戦では重政は大谷吉継の麾下で平塚為広とともに参陣。文武に秀でた重政は諸将との交流も深く、その死は敵味方の区別なく惜しまれた、とか。

佐和山からはじまり、西軍の陣跡を伊吹山麓の北国街道脇往還を扼する石田三成の陣跡から、狭隘地溝を進む中山道を扼する大谷吉継の陣を辿った。合戦の推移は明日の散歩のルート、関ヶ原の前哨戦の地である、西軍の居城大垣城から、東軍の家康本陣のあった赤坂宿、西軍の毛利勢の籠もった南宮山、小早川勢の松尾山の散歩の折々でメモすることにして、最後に西軍布陣に対する東軍の陣立てを下にメモして、本日の散歩メモを終えることにする。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)数値地図25000(数値地図),及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平22業使、第497号)」)


東軍の陣立て
家康15日午前二時、赤坂発。桃配山着陣で夜が明ける。
東軍布陣完了は午前7時頃。
一番隊、先鋒福島隊6千、加藤嘉明三千、筒井定次二千八百五十、田中吉政三千が西軍・天満山の宇喜多秀家一万七千に対する。
別働隊;藤堂高虎二千四百九十、京極高知三千、がその左に陣し、西軍・松尾山の小早川秀秋一万五千に対する。
二番隊主力は細川忠興五千、稲葉貞通千四百、寺沢広高二千四百、一柳直盛千五十、戸川達安三百が、北国街道を扼した西軍・小西行長四千、島津義弘・豊久一千弱、笹尾山の石田三成六千に対する。
遊撃隊として黒田長政五千四百が二番隊と呼応して西軍・石田陣に対する突撃の機を伺う。
三番隊は徳川麾下の本多忠勝五百が桃配山の前面に布陣。背後には家康本隊三万。
四番隊は池田輝政四千五百六十が南宮山神社の前面に布陣。西軍・毛利に備える。
その西の中山道沿いに浅野幸長六千五百、山内一豊二千五十八、有馬豊氏九百が布陣。

東西のこの陣立てをもとに、北に伊吹山系、南を鈴鹿山脈に囲まれた東西約4キロ、南北約2キロの関ヶ原の地に、石田三成率いる西軍八万二千と、徳川家康率いる東軍七万四千、東西あわせて十六万の将兵が集結し、天下分け目の決戦が行われることになる。


新宿散歩も最終回。3回の散歩で歩き残した新宿区の西北部、落合あたりを彷徨い、妙正寺川によって削られた落合・目白台地(豊島台地)の崖地や坂道を楽しむ。そこからは、妙正寺川と神田川が「落ち合う」低地に下り、その先は淀橋台地に移り、これもいままでの散歩で行きそびれた昔の戸山ヶ原、現在の戸山公園あたりまで進むことにする。
スタート地点は何処に、と地図を眺める。哲学堂の東、落合台地の葛谷御霊神社に目がとまる。名前が如何にも、いい。また、淀橋台地と豊島台地を南北に区切る神田川の低地には月見岡神社。これも、その名前に惹かれる。ということで、今回の大雑把なコースはこのふたつのポイントを目安に、あとは成り行きで、戸山ヶ原へと、といった、いつものお気楽な基本スタイルで散歩に出かける。



本日のルート;葛谷御霊神社>自性院>中井出世不動尊>六の坂>中井御霊神社>八の坂>七の坂>五の坂>林芙美子記念館>四の坂>三の坂>中井駅>最勝寺>妙正寺川>月見岡八幡神社>落合処理場>小瀧橋>西戸山遺跡跡>戸山公園_大久保地区>戸山公園_箱根山地区

西武新宿線新井薬師駅
自宅を出て、電車を乗り継ぎ新井薬師駅で下車。駅を南に下ったところに新井薬師がある。本尊の薬師如来は子育て、眼病に御利益あり、と。薬師様には幾度となく訪れており、且つ、本日は北に進むためお参りはパスし、駅前の道を妙正寺にかかる四村橋に向かう。道の左右には、中野散歩(中野散歩1:沼袋・江古田・荒井地区)で歩いた寺社が地図上に点在する。緩やかな坂を下りきったところに妙正寺川に架かる四村橋。橋の西側北岸が昔の江古田村、南岸は片山村、橋の東側北岸が葛ヶ谷村、南岸が上高田村といった四つの村の境であることが、名前の由来。橋の北には妙正寺川が開析した豊島台地の崖面、哲学堂公園の緑が拡がる。南の段丘面は運動公園兼調整池。沼袋からこのあたりまで妙正寺が大きく湾曲しているが、それって、傾斜が緩く洪水時などに水が溜まり場所である、ということだろう。

葛谷御霊神社
妙正寺川を越え、左手に哲学道公園を眺めながら坂を上る。哲学館(現東洋大 学)創立者・井上円了が学校移転用地として購入。が、学校の移転中止となり、明治39年から大正8年まで、精神修養公園として整地。昭和50年には中野区の区立公園となる。公園内には哲学堂77場と称する建物が点在する。この地は往昔、源頼朝の重臣である和田義盛の城、というか、館が、あっった、とか。哲学堂も数回訪れており、今回はパス。葛谷御霊神社は、この哲学堂公園の東端を上る坂より一筋東に入ったところにある。
鳥居をくぐり、拝殿にお参り。境内には八幡社、稲荷社などの祠とともに、疣(いぼ)天神の社も鎮座していた。祭神は 仲哀天皇 神功皇后 応神天皇 武内宿弥。縁起に拠れば、寛治年間(1087-94)、源義家が鎮守府将軍として奥州征伐の折、遠征軍に随った山城国桂の里(山城国葛野郡)の一族が、戦に勝利し京への帰途、この地に留まり源氏の氏神である八幡宮および神功皇后、武内宿禰を祀り、御霊社と称した、と。八幡信仰って、よくわからないが、主神は応神天王。この社の祭神である、仲哀天皇 神功皇后は応神天王の父と母。武内宿弥は天皇を支えていた老臣、と。
八幡社がどうして御霊社となったのか?なんとなくすっきりしないので、あれこれ妄想。この地に留まった一族の旧地は山城国桂の里(山城国葛野郡)。桂の里(山城国葛野郡)って秦氏の勢力下。で、秦氏って、祇園社の大スポンサー。そして、祇園社って、御霊信仰の総本家。ということで、桂の里(山城国葛野郡)の一族の信仰の社として御霊社となった、と自分なりに納得しようとしたのだが、祭神がスサノオであれば問題ないのだが、上メモしたような祭神のラインアップであれば、いまひとつこの妄想はだめ、っぽい。
で、あれこれチェックすると、八幡信仰と御霊信仰は結構深い関係であった、と。八幡さまは八幡宮、八幡社、若宮社とも呼ばれるが、若宮信仰って御霊信仰と同義といったもの。平安時代の飢餓や疫病の蔓延とともに旧来の神社の中に庶民を救ってくれる神として登場したもので、多くは御霊信仰に基づく神であり、民衆やその後の御家人層の信仰を集めていた。鎌倉の鶴ヶ丘八幡も、実際は京の石清水八幡宮より、その「若宮」を勧請したもの。八幡社>若宮社>御霊社、といった流れで、八幡さまが葛谷御霊神社となったのであろう、と我流妄想をクロージングする。
この神社は備射祭が知られる。備射祭は、馬に乗らず矢を射る歩射(ぶしゃ)がなまって備射となった、とのこと。鳥居に掲げた的を射る、とのことである。境内の力石は、備射祭の当日、力自慢を競ったものである。境内にあった疣天神社は昔この地域の村に在ったものを神社に移転したとのこと。八幡社、田中稲荷社、浅間社、三峰社と合わせて五社として祀っている。

葛谷の名前は、往昔のこの辺りの地名である葛ヶ谷村、から。葛ヶ谷は、この地に棲み着いた一族の旧地である葛野(かどの)、から。葛野を「かつらがや」と読み、葛ヶ谷村となったのだろう。葛ヶ谷が文献に最初に登場するのは永禄年間(1558~70年)の「小田原所領役帳。高田内葛ヶ谷、とある。明治にはいり、豊多摩郡落合村大字葛ヶ谷、昭和7年(1932年)の淀橋区の成立に伴い、西落合となり、葛ヶ谷は地名から消え、現在も西落合となっている。

西落合
西落合の住宅地を東に進み、新青梅街道近くにある自性院を目指す。成り行きで歩いていると、西落合1丁目、道脇の会社敷地内に実物の電車が展示されている。社名を、見るとKATO、とあった。鉄道模型の専門会社である株式会社カトーとのこと。株式会社カトーと株式会社関水金属と併記されていた。もとは文京区関口水道町で鉄道模型の部品工場としてはじまった株式会社関水金属が生産会社。株式会社カトーはその販売会社となっている。関水金属の関水は関口水道町、カトーは創業者の名前、から。

自性院
赤い山門をくぐり境内に。真言宗豊山派のこのお寺さまは秘仏である「猫地蔵」を安置し、「ねこ寺」として知られる。文明9年(1477)、この寺の北にある新青梅街道を進み、哲学堂公園の先、江古田川が妙正寺川と合流する地で、太田道灌と、この地方の古くからの豪族・豊島氏との間で合戦が行われた。世に言う、江古田ヶ原の合戦である。合戦は道灌勝利に終わったが、合戦の折、道に迷った道灌の前に一匹の黒猫が現れ、自性院に導き危難を救った、と。秘仏である猫地蔵は、道灌がその恩を忘れず地蔵さまを造り、奉納したものである、と伝わる。
この寺には「猫面地蔵」とよばれる地蔵像も秘仏として祀られる。明和4年(1767)、貞女の誉れ高き婦人を、牛込神楽坂の寿司屋の弥平が、その誉れを後世に残し、冥福を祈るために蔵尊をつくり納めた、と。とはいうものの、貞女の誉れに、何故に一介の寿司屋の親父さんが地蔵をつくったのか、なんのことか、さっぱりわからない。あれこれチェックすると、『旅と伝説78号(1934)』に、牛込の人が、可愛がっていた猫に死なれて悲しんでいたところ、夢に地蔵尊が現れて、自性院という寺のお上人に頼んで法要を営み地蔵尊を建立せよ、と告げたとの話が載っている、と言う。この話と、この寺にとむらわれた貞女がミックスして、かくの如き物語ができたのだろう。自性院の秘仏は毎年2月の節分に公開される。

この寺のこれら二体の猫地蔵尊は江戸市中に大そう評判となり、ご利益をもたらす招き猫として多くに人々が参詣に訪れた、とか。由来からいえば、取り立てて招き猫のトーンはないのだが、自性院のあたりでは室町時代後期の頃、私年号と呼ばれるその地方の豪族や寺社が設ける私的年号があり、その年号が「福徳」といった、如何にも有り難そうな名前でもあり、猫地蔵尊を招き猫としてマーケティング戦略を実行していったのだろう。江戸の招き猫として名赤い世田谷豪徳寺にしても、浅草(現在は西巣鴨)の西方寺の招き猫も、事情は同じ。井伊直孝が猫のガイドで雷雨を避け雨宿りした豪徳寺で上人の有り難き法話に接し、豪徳寺を井伊家の菩提寺にしたのは事実のようではあるが、豪徳寺の招き猫が宣伝されはじめたのは、明治になって豪徳寺が井伊家の庇護を失ってから、とも言うし、西方寺の招き猫に至っては、もともとは遊女薄雲を蛇から守った猫の話で、招き猫との何も関係のない話である。それが、遊女の贔屓のお大尽がつくった猫像に似せた招き猫を、商売人が歳の市で売り始めて人気を呼び、招き猫の代表となってゆく。あれこれの由来の、あれこれは、誠に面白い。

中井出世不動尊
自性院から南へ西落合1丁目から中落合4丁目へと進む。と、住宅街の中に古き風情を残す「中井出世不動尊」の小さなお堂がある(東京都新宿区中落合4-18-16)。堂内には、不動明王像とその両脇に二眷族(矜羯羅童子・制咤迦童子)の三像を安置している、とか。案内によれば、「江戸時代の遊行僧円空(1632~95)の作で、不動明王(像高128cm)・矜羯羅童子(64cm)・制咤迦童子(67cm)の三体からなり、不動明王には火焔光背と台座、2童子には台座が付属している。江戸時代後期に、円空生誕の地に近い尾張一宮の真清田神社の東神宮寺より移された。明治時代までは中井御霊神社の別当不動院に安置されていた。彫法は円空の素木を生かした作風をよく示したもので、都内伝存の円空仏は、唯一の発見である」、と。円空仏は、都内では個人所有を除き、唯一のものとされる。拝観は日時に限られているようで、当日、お堂は閉じられていた。尾張の一宮である真清田神社から何故に中井の御霊神社に移ったのかは、不明。妄想をするにも、素材・手掛かりも見つからない。

中井御霊神社
中落合4丁目の住宅街を成り行きで進み、目白大学のキャンパスに沿って進み、キャンパスの南にある中井御霊神社に。台地端にある神社のあたりには古代の住居跡も残る、とか。創建時期は不明だが、往昔より、落合村の小字である中井の鎮守さまであった。祭神は葛谷御霊神社と同じく、仲哀天皇・応神天皇・仁徳天皇・武甕槌神の四柱である。この神社も備射祭で知られる。武蔵風土記に「五霊社はおびしや祭を行う。又六の日には安産の祈祷をなす」、とある。また、この神社に備射祭の分木が2本残る。的を描くコンパスといったものだろう。元和6年には、もう一本あった分岐を葛ヶ谷御霊神社に譲ったとの記録が残る。その他、江戸時代の備射祭を描いた備射祭絵馬や、同じく江戸の頃、農民が雨乞いの行事につかった「雨乞いのむしろ旗」が残る。「竜王神」と書かれ、雨乞いの行事は関東大震災の頃まで行われていた、とのことである。
ところで、中井御霊神社って、その昔はどのように呼ばれていたのだろう。「**神社」は明治以降の名称である。中井は、落合村の字名として、頭に付けられただけであろうし、とあれこれ、チェックする。
上にメモした武蔵風土記には「五霊社」、とある。分木の裏には「御五神之宮」と刻まれているようだ。五霊社は御霊社のことだろう。御五神之宮>五神宮、と呼ばれたとの記録も残る。御霊社とも、五神宮とも呼ばれたのだろう。いずれにしても、この御霊はスサノオ系の御霊信仰というよりも、八幡信仰=若宮信仰系の御霊信仰の流れなのだろう、と葛谷御霊神社のときの妄想に準じる。




バッケ(崖線)
中井御霊神社脇から、落合の台地を妙正寺川に向かって下る坂がある。この坂は「八の坂」と呼ばれるが、中井2丁目の崖面を西から東に向かって山手通りまで、「八の坂」から「一の坂」まで、順に名付けられた坂が下る。崖線のことを。この落合のあたりでは、「バッケ」と呼ぶ。国分寺崖線では「ハケ」、板橋区では崖下の道を「峡田(ハケタ)の道」、会津若松では坂下(バンゲ)と呼んでいた。基本は「ハケ」が転化していると思うが、そもそも「ハケ」の語源ははっきりしない。




林芙美子記念館
台地の崖線の「八の坂」を下り、次に「七の坂」を上り、と順にアップダウンを楽しむ。「四の坂」の途中には林芙美子記念館があった。林芙美子と言えば、『放浪記』であり、尾道で育った、とか、「花のいのちはみじかくて、苦しきことのみ多かりき.」といってフレーズを知っている程度であり、如何に記念館とは言え、京風・数寄屋つくりのお屋敷は、少々敷居が高い。中島敦という作家も、その作品である『山月記』も、つい最近、こどもとの話ではじめて知った、といった、文学と無縁のB級・散文路線の我が身は、入館を躊躇い、門外から眺めるだけにした。



とは言いながら、何故にこの落合の地に移ったのか。ちょっと気になりチェック。北九州で貧しく、複雑な家庭環境のもとで過ごし、両親とともに木賃宿を転々とする生活を送り、13歳のとき尾道に落ち着き、女学校まで尾道出過ごす。女学校を終え、上京し、この頃から『放浪記』の原型となる日記を書き始めた、と。関東大震災のとき、一時尾道の戻るも、大正13年(1924年)、再び上京し作品を書くも、名を成すまでには、なっていない。奔放なる生活を繰り返し、作家・平林たい子の家に同居していた時期もあるようだが、1927年(昭和2年)には、杉並区妙法寺の北側に借家住まいをしていた。



落合に移ったのは1930年(昭和5年)。現在の記念館の場所ではなく、中井駅の南西数分の上落合字三輪(現在新宿区上落合3丁目)に移った。林芙美子の『落合町山川記』によれば、「妙法寺のように荒れ果てた感じではなく、木口のいい家で、近所が大変にぎやかであった。二階の障子を開けると、川添いに合歓の花が咲いていて川の水が遠くまで見えた」と描く。この落合の借家時代に『放浪記』が大いに評判を呼んだ。その印税で中国や欧州を旅し、1932年(昭和7年)には、下落合四丁目2133番地の洋風の借家(西洋館)に転居。「五の坂下」にあったようである。「私は吉屋(信子;注)さんの家に近い下落合に越した。落合はやっぱり離れがたいのか、前の家からは川一ツへだてた近さであった。誰かが植民地の領事館みたいだと云ったが、外から見ると、丘の上にあって随分背が高く見えた。庭が広くて庭の真中には水蜜桃のなる桃の木の大きいのが一本あった。井伏鱒二さんは、何もほめないでこの桃の木だけをほめて行った」と『落合山川記』に描く。
現在の記念館に移ったのは、1939年(昭和14)。「四ノ坂」の中腹に、島津家の所有地だった土地を買って家を建てたとのことである。「落合の町より外にそう落ちつける場所もなさそうだ。この住みよさは四年もいるのによるだろうが、町の中に川や丘や畑などの起伏が沢山あるせいかも知れない」と描く。『落合山川記』の冒頭に、「遠き古里の山川を思ひ出す心地するなり」とあるが、古里の雰囲気を残すこの地を気に入っていたのだろう。

落合文化村(目白文化村)
『わが住む界隈』で林芙美子が、「私は冗談に自分の町をムウドンの丘(注;パリの南西にあるロダンのアトリエがあったことでも有名な町)だと云っている。沢山、石の段々のある町で、どの家も庭があって、遠くから眺めると、昼間はムウドンであり、夜はハイデルベルヒのようだ。住めば都で、私もこの下落合には六、七年も腰を落ち着けているがなかなか住みいい処だ」、と描く林芙美子記念館のあるあたりは、落合文化村と呼ばれていた。大正11年(1922)頃より、箱根土地株式会社(現・株式会社コクド)によって下落合3~4丁目(現・中落合2~4丁目および中井の一部)に開発された新興住宅街である。東急電鉄(渋沢秀雄)が開発した田園調布がパリの街並みを模したのに対し、こちらはロスのビバリーヒルズを目指した、と。結果、当時としては「中流の上」の人々がこの地に移り、多くの学者、作家、画家が西洋風の外環の邸宅を建てた、とのことである。
文化村は大きく3区画に分かれ、山手通りと新目白通りのクロスする左上(中落合3丁目あたり)が第一文化村、左下の中井駅方面(中落合4丁目と中井)が第二文化村、右上の中落合4丁目方面が第三文化村と呼ばれた。林芙美子が住んでいたあたりは第二文化村の南端のあたり、だろう。第一文化村には画家の佐伯祐三邸、第二文化村には安部能成や石橋湛山、武者小路実篤宅があった、とか。もともと、落合第一小学校の辺りに自宅を持っていた会津八一は落合(目白)第一文化村の南端あたりに引っ越したところ、改正道路(現在の山手通り)の工事地区にあたり、立ち退きを余儀なくされ、第一文化村の中央部に移るも、戦災で焼失した。文化村に少々翻弄された感がある。

山手通り
林芙美子記念館の坂を下り、「三の坂」から「二の坂」、そして山手通りより脇に上る「一の坂」をアップダウン。どのあたりまでが落合・目白文化村の区画なのか定かではないが、林芙美子の住んだ第二文化村が開発されるとともに、文化村の周辺、落合川へと下る崖線斜面。中井駅から下落合の駅のあたりにも、文化村を意識した瀟洒な家屋が建てられていったようである。このあたりには小説家の尾崎翠、壺井栄、吉川英治、細野孝二郎、林房雄、平林彪吾など、詩人では壺井繁治、中野重治、松下文子、安藤一郎、柳瀬正夢、野川隆、川路柳虹など、劇作家では村山知義、俳人では松本義一、そのほか丘の上や下には評論家の神近市子や青柳優、歌人の半田良平、小説家の藤森成吉、宮本百合子、鹿地亘、武田麟太郎などが住んでいた。如何にも「文化村」ではある。どこに邸宅があったのか不明ではあるし、そもそもが、第三文化村の一部を残し、戦災で全焼しているわけであるから往昔の痕跡など探し求めることもなく、ひたすら崖線を彷徨う、のみ。

上落合
「一の坂」まで崖線を辿り、次の目的地である最勝寺に向かって山手通り脇を南に下る。落合の地目の由来ともなった、妙正寺川と神田川が落ち合うあたりは、もう少々東に進み、西武新宿線の下落合駅あたりではあるが、その合流点は幾度となく訪れているので、今回はパス。中井駅前で妙正寺川を渡り上落合地区に。「上落合から目白寄りの丘の上が、おかしいことに下落合と云って、文化住宅が沢山並んでいた。この下落合と上落合の間を、落合川が流れているのだが、(本当は妙正寺川と云うのかも知れぬ)、この川添いにはまるで並木のように合歓の木が多い。五月頃になると、呆んやりした薄紅の花が房々と咲いて、色々な小鳥が、堰の横の小さい島になった土の上に飛んで来る『落合町山川記』」、とあるように、丘の上が下落合で、崖下が上落合となっている。落合村が江戸の頃、上落合と下落合に分かれたとき、京にちょっとい近いほうを上としたため、このような命名となった、とか。

最勝寺
山手通脇に最勝寺がある。山手通りの拡張工事区域にかかったのか、お寺さま全体を整備し直した感がある。堂々とした本堂、大師堂、七福神の並ぶ溶岩窟などがある。創建年代は不明ではあるが、鎌倉期の名執権・北条時頼の開基とも伝わる。
江戸の頃は、中井御霊神社、下落合の東山藤稲荷神社の別当寺。明治初年には廃寺となった内藤新宿・花園神社の別当寺三光院の大師堂をこの寺に受け入れた。三光院が御府内八十八カ所霊場24番札所であったため、現在最勝寺がその札所を引き継いでいる。御府内八十八カ所霊場は港区髙輪の高野山東京別院を起点とする江戸の遍路巡礼の霊場である。18世紀の中頃に開創した、と伝わる。

妙正寺川
最勝寺から再び妙正寺川筋に戻る。川に沿って東に進む。どこかで1927年(昭和2)ごろの妙正寺川の写真を見たことがある。野中の小川といった風情である。当時は流域の保水能力も高く、現在のように路面舗装のため、逃げ場を失った水が川に集中し水害を多発する、といったことがなかったのか、そもそも、家屋が少なく水害があっても、それほど大騒動するほどのこともなかったのか、ともあれ、護岸工事が施され、河床が掘削され、調整池が至る所に整備された現在の妙正寺川とは似ても似つかないのんびりとした姿ではある。

月見岡八幡神社
大正橋を渡り、上落合2丁目を成り行きで進み月見岡八幡神社へと向かう。名前に惹かれて訪れたわけだが、名前の由来は元の境内池に湧井があり、その水面に映える月光があまりに美しかった、ため。元は現在地より少し南東にあったが、その地が水道局落合水再生センターの用地となったため、現在地に遷座した。
創建年代は不明ではあるが、源義家が奥州征伐の時参詣し、戦勝を祈念して松を植えたと伝わる。旧上落合村の鎮守であり、祭神は応神天皇・神功皇后・仁徳天皇と、八幡さまのメーンの神様である応神天皇の女房・子供で構成される。八幡系の御霊社である葛谷御霊神社や中井御霊神社が応神天皇の女房と父親が祭神となっているのと、少々組み合わせが異なっている。
境内社として明治39年に北野神社、昭和2年には浅間神社と富士塚を合祀した。浅間神社は山手通りと早稲田通りの交差するあたりにあり、その富士塚は寛政2年(1790)、大塚古墳をもとに造られたために、「落合富士」と呼ばれていたようである。散歩を初めて、都内・都下に数多く残されている富士塚に出合い、江戸の頃の富士講の繁栄振りが偲ばれる。
境内には正保4年(1647)の宝篋印塔型の庚申塔、また、天明5年(1785)の銘をもつ鰐口、そして、旧社殿の格天井の板絵の一枚であった谷文晃の絵が残る。谷文晃は江戸中期の文人画家。上方文人画家に対し、江戸画家の中心として弟子の指導にあたる。門人には渡辺崋山、酒井抱一、蜀山人などがいる。

落合水再生センター
月見岡八幡のすぐ東に落合水再生センター。この施設では新宿区、世田谷区、渋谷区の全体、中野区の大部分とそして杉並区、豊島区、練馬区の一部の地域の下水処理を行っている。ここで高度処理された下水は再生水として新宿副都心のビル群のトイレ用水として再利用。また、東京の城南地区の三河川の清流復活事業の養水として渋谷川、目黒川、呑川に導水されている。西落合水再生センターからの導水をはじめて知ったのは呑川を河口から遡り、大岡山の東京工業大学のあたりで開渠が暗渠となるあたり。その地の案内に、落合水再生センターから水が送られる、とあった。はるばる落合から。と、結構驚いた。
その後、烏山川と北沢川を辿ったとき、このふたつの暗渠河川が、池尻あたりで合流し開渠となると、それまで痕跡もなかった水が突然流れはじめるが、それが落合水再生センターからの高度処理水であった。烏山川と北沢川が合わさって目黒川となり、246号との交差あたりから急に水量を増して流れていた。渋谷川も落合水再生センターからの水とは、はじめて知った。そういえば、渋谷川に合流する春の小川の部舞台となった甲骨川も、宇田川も初台川も、富ヶ谷川、原宿川もすべて暗渠で、水が流れる痕跡もなかったが、渋谷川となって渋谷の駅前で開渠となった時には、水が流れていたなあ、などと、今更納得。

神田川
落合水再生センターをぐるっと一周、神田川へと出る。吉祥寺の井の頭池を水源に杉並区の永福町あたりまでは南東に下り、そこからは北西に方向を変え、環七の東で善福寺川を合わせ、淀橋台地に沿って落合まで北流。落合で妙正寺川を合わせて江戸川橋に東流、そこからは飯田橋、水道橋、そしてお茶の水の切り通しを越えて隅田川に注ぐ。
江戸の頃は神田上水として、埋め立て地で真水の乏しい江戸の町を潤した。玉川上水のように新たに開削したというより、もともと流れていた自然河川を整備、繋ぎ直して流路を造った、とか。江戸川橋の近くの関口に大洗の堰跡が残るが、そこまでは開渠で、その先は石樋、木樋で江戸の町に送水した。関口の大洗堰は、満潮時に上ってくる海の水を堰止めるためのものでもあった。

小滝橋
神田川に沿って下り、早稲田通にかかる小滝橋に。その昔、橋の下に堰があり、そこがちょっとした滝のようであったのが名前の由来。江戸の頃は、橋の周囲に茶屋が並び、大いに賑わった、とか。
この橋は「姿見(すがたみ)の橋」と呼ばれる。神田川を少し上った淀橋が、別名「姿見ずの橋」と呼ばれているのと対をなす。名前の由来は中野長者と呼ばれた鈴木九郎にまつわる伝説による。応永年間と言うから、14世紀の末から15世紀の初頭にかけ、熊野よりこの地に来たりて、原野を開拓し艱難辛苦の末、中野長者と呼ばれるまでになったのが鈴木九郎。十二社の熊野神社を建立するほど蓄えた財産を、下男に隠し場所に運ばせては口封じのため人を殺めた。その数は10名を超えた、とか。橋を渡る姿は見たが、戻る姿が見えなかったのが「姿見ずの橋」と呼ばれた。淀橋と名を改めたのは将軍家光が、この不吉な名前を嫌い、この橋の近くの水車が、京の淀川にかかる水車と似ている、ということで淀橋とした。
「姿見の橋」は、親の因果が子に報い、というわけで、鈴木九郎の娘の小笹が婚礼の日に蛇と化身し、川に身を投げた。その姿が見つかったのが、この「姿見の橋」、だとか。ちなみに、神田川を少し下った面影橋を姿見橋とも呼ぶ。『嘉永・慶応 新江戸切絵図(人文社)』にも、面影橋とは書かず姿見橋とあった。面影橋は姿見橋と混同されることも多かったようだが、歌川広重の『名所江戸百景』の「高田姿見のはし、俤(おもかげ)の橋砂利場」には面影橋の北側に、小川にかかる姿見の橋が描かれているので、小滝橋が姿見の橋ではあった、ようだ。

西戸山遺跡
橋を渡り、小滝橋交差点に。小滝橋交差点は、北東へと高田馬場駅に向かう早稲田通り、南へと淀橋市場前交差点先でJR中央線とクロスし、その後はJR中央線に沿って新宿大ガード西方面へと下る小滝橋通り、そして橋から真っ直ぐに東ヘ進み、緩やかな坂となる三叉路となっている。
道を真っ直ぐ進み、坂の途中、西戸山社会教育会館の入口近くに、「縄文式文化の跡 西戸山遺跡」とある。昭和31年に、このあたりで横穴式住居跡が発見された。神田川に臨む台地の突端は古代の人々にとっては住みやすい場所であったのだろう。
そういえば、神田川の対岸の目白・落合の台地にもいくつもの古代遺跡が残る。先回の散歩で訪れた下落合の薬王院の近くでも8世紀頃の、横穴式古墳が発見されている。今回の散歩で歩いた目白学園のあたりには落合遺跡がある。台地の端にあるこの遺跡は縄文、弥生、古墳時代といった複合型住居跡が見つかっている。

都立戸山公園・大久保地区
道なりに東に進む。百人町4丁目と高田馬場4丁目の境を道は進む。小滝橋から大久保にかけての百人町は伊賀の鉄砲百人隊の組屋敷のあったところ。先回の散歩で訪れた「皆中(みなあたる)神社」は、百発百中を願う鉄砲組ならではの神社であったなあ、などと先回の散歩を想いながら、先に進みJRの線路をくぐると都立戸山公園に出る。
都立戸山公園の北西端に「戸山ヶ原射撃場跡」がある。現在の百人町3丁目・4丁目から山手通りを挟んで大久保3丁目のあたりまで、雑木林と草原の拡がる原野は、江戸の頃は鉄砲玉薬組同心の給地であったが、明治になると武家地は明治政府に没収される。この原野も明治7年に陸軍の用地となり「戸山ヶ原」と呼ばれるようになる(広義では戸山1丁目から3丁目までの元尾張藩下屋敷あたりをも含めて「戸山ヶ原」と呼ばれることも多いよう、だ)。戸山ヶ原には多くの陸軍の施設が造られたが、この射撃場もそのひとつ。明治15年(1882)、近衛連隊射撃場ができる。この敷地は射撃場や練兵場として陸軍が使用していたが、明治末から大正にかけて流れ弾や爆音などが問題となり、昭和3年には東洋一の鉄筋コンクリートの射撃場となった。7本の土管を並べたような300mもある施設は、「大男の国の蒲鉾」、とも呼ばれた、とか。射撃場の西側には余土を盛り上げた30mの「三角山」もあった。百人町3丁目、現在の社会保険中央病院付近には細菌戦、化学戦を研究する陸軍技術本部・陸軍化学研究所などもあり、そこに被弾などすれば大騒動、ということも「蒲鉾施設」の大きな理由ではあろう、か。

戸山ヶ原は起伏のある地形で、ナラ林、マツ、クヌギなどの雑木林、その他一面の草原で陸軍が使わないときは結構民間人が散策に訪れた。トンボ、セミ、バッタ、カブト虫を追っかける子ども達の遊び場でもあったようである。
戸川秋骨(1870~1939。詩人・英文学者)の「そのままの記」に霜の戸山ヶ原という一章がある; 戸山の原は東京の近郊に珍らしい広開した地である。(中略。)戸山の原は、原とは言えども多少の高低があり、立樹がたくさんある。大きくはないが喬木が立ち籠めて叢林をなしたところもある。そしてその地には少しも人工が加わっていない。全く自然のままである。もし当初の武蔵野の趣を知りたいと願うものはここにそれを求むべきであろう。高低のある広い地は一面に雑草をもって蔽われていて、春は摘み草に児女の自由に遊ぶに適し、秋は雅人のほしいままに散歩するに任す。四季のいつと言わず、絵画の学生がここそこにカンヴァスを携えて、この自然を写しているのが絶えぬ。まことに自然の一大公園である。(中略)。しかるにいかにして大久保のほとりに、かかるほとんど自然そのままの原野が残っているのであるか。不思議なことにはこれが俗中の俗なる陸軍の賜である。戸山の原は陸軍の用地である。その一部分は戸山学校の射的場で、一部分は練兵場として用いられている。しかしその大部分はほとんど不用の地であるかのごとく、市民もしくは村民の蹂躙するに任してある。騎馬の兵士が、大久保柏木の小路を隊をなして馳せ廻るのは、甚だ五月蠅い(うるさい)ものである。否五月蠅ではない癪にさわる」などと描く。
戸川秋骨は射撃場を戸山学校のもの、と書いているが、実際は近衛連隊が設置したものであり、戸山学校や砲学校の生徒たちも使用した、ということであろう。それはともあれ、軍の敷地とはいいながら、軍国主義が台頭する昭和のはじめの頃までは、結構、のんびりとしたものであったのだろう。明治15年(1882)に近衛連隊射撃場ができる前、明治12年から17年までは現在の西早稲田キャンパスのあたりには戸山学校競馬場があった。米大統領グランド将軍の歓迎行事が行われた、と。明治43年には、日野熊蔵大尉が自ら製作した日本最初の飛行機の飛行実験を射撃場で行っている。もっとも、わずか200㍍の滑走路でもあり、滑走には成功したが飛行しなかった。日本最初の飛行が出来たのは同年12月、代々木錬兵場で実施された。
また、大正13年には、ゴルファーが陸軍の用地に出没し、「戸山ヶ原ゴルフ倶楽部」などをつくり、兵士の訓練のないときを狙って練兵場に潜り込んでゴルフをはじめた、とか。はじめは黙認していた陸軍も、あまりに大ぴらに活動を始めるにおよび、ゴルフ禁止の処置をとった、とか。
昭和に入り陸軍の敷地として軍の施設の建ち並んだこの戸山ヶ原も、戦後には団地や早稲田大学理工学部などの教育機関、そしてこの戸山公園などに姿を変えた。

戸山公園・箱根山地区
戸山公園(大久保地区)の中を東に進む。新宿スポーツセンターを越え、早稲田大学理工学部の建物を右手に見ながら進み、明治通りに。通りの向こう側には学習院女子大や戸山高校の建物が見える。学習院女子大学や戸山高校は近衛騎兵連隊の兵舎跡とのこと。当初は学内に馬小屋も残っていた、と。
江戸の頃、北は早稲田通り、南は大久保通り、西は明治通り、東は早稲田大学戸山キャンパスに囲まれた一帯は尾尾張徳川家下屋敷であったが、明治には陸軍の用地となり戸山学校、陸軍幼年学校、陸軍第一病院、陸軍軍医学校(現在の国立感染症研究所)といった多くの陸軍の施設が建ち並んだ。
戸山高校の南を成り行きで進む。南に並ぶ高層住宅は戸山ハイツ。戦前は陸軍幼年学校、陸軍戸山学校であった跡地に、住宅難への対策として、戦後の1949年、団地のはしりともなった戸山ハイツが完成。1970年には鉄筋コンクリートの中層・高層住宅に建て替えられた。道なりに進み、都立戸山公園に進む。明治通りの戸山公園が大久保地区と呼ばれているが、こちらの戸山公園は箱根山地区と呼ばれる。大久保地区と箱根山地区とわかれるも、共に「戸山公園」と総称されるのは、広義の「戸山ヶ原」の名残であろう、か。
戸山公園に入ると、「戸山山荘跡・尾張藩主徳川家下屋敷跡」の案内。大久保通りと明治通りが交差するあたりから、早稲田通りの穴八幡に向かって斜め帯状に続く都立戸山公園の面積はおよそ18万平方キロ。これでも結構広いのだが、江戸の頃、この地にあった尾張徳川家下屋敷の「戸山荘」は広さ、およそ45万平方キロ。現在の公園の倍以上の規模であった、とか。公園の中に小高い築山が残る。箱根山である。坂道を上ると道脇に「箱根山の碑」と「陸軍戸山学校址」。
園内の案内によると、「この地区は、その昔源頼朝の武将和田左衛門尉義盛の領地で、和田村と外山村の両村に属していたことから「和田外山」と呼ばれていた。寛文八年(一六六八)に至り尾州徳川家(尾張藩)の下屋敷となり、その総面積は約十三万六千余坪(約四十四万八千八百余㎡)に及び、「戸山荘」と呼ばれるようになった。
この「戸山荘」は、寛文九年(一六六九)に工事を始め、天和(一六八一~一六八三)・貞享(一六八四~一六八七)の時代を経て元禄年間(一六八八~一七〇三)に完成した廻遊式築山泉水庭である。
庭園の南端には余慶堂と称する「御殿」を配し、敷地のほぼ中央に大泉水を掘り琥珀橋と呼ばれる木橋を私、ところどころに築山・渓谷・田畑などを設け、社祠堂塔・茶屋なども配した二十五の景勝地が作られていた。なかでも小田原宿の景色を模した「町並み」は、あたかも五十三次を思わせる、他に類のない景観を呈していたと伝えられている。
その後、一時荒廃したが、寛政年間(一七八九~一八〇〇)の初め第十一代将軍家斉の来遊を契機に復旧された。その眺めは、将軍をして「すべて天下の園池は、まさにこの荘を以って第一とすべし」と折り紙を付けしめたほどであった。安政年間(一八五四~一八五九)に入り再び災害にあい、その姿を失い復旧されることなく明治維新(一八六八)を迎えた。明治七年(一八七四)からは陸軍戸山学校用地となり、第二次大戦後は国有地となりその一郡が昭和二十九年から今日の公園となった。陸軍用地の頃から誰ともなく、この園地の築山(玉円峰)を「函根山」・「箱根山」と呼ぶようになり、この山だけが当時を偲ぶ唯一のものとなっている」、と。
戸山公園の中には旧軍の痕跡は、あまり残っていないが、箱根山の南にある日本基督教団戸山教会の施設の一部に旧陸軍の会議室跡が残っているようだ。石造りの如何にも頑丈な建造物は戸山学校の将校会議室跡とのことである。また、今回は見落としたが、園内には陸軍軍楽学校の野外音楽堂跡が残っている、と。戸山学校と音楽堂?チェックすると、戸山学校は日本陸軍の歩兵戦技(射撃、銃剣術、剣術)、体育、歩兵部隊の戦術、軍楽の教官育成をその目的としていた。その後、大正元年には戦術科、射撃科、教導大隊を陸軍歩兵学校として分離し、戸山学校は体操科(剣術)、軍楽生徒隊を統括した。音楽堂の所以である。

本日の散歩はこれでお終い。往昔の戸山ヶ原を、成り行きで新宿駅へと向かう。歩きながら、若山牧水が早稲田大学に入ったものの、ほとんど引きこもりのような生活であったものが、ある日、戸山ヶ原の広大な原野を見つけ、大いに気に入り、散策を楽しむようになった、といった記事(「東京の郊外を想ふ」)を想い起こす。散策は戸山ヶ原だけでなく、もう少し足をのばして目白や落合へと、雑木林の拡がる原野を楽しんだ、とのこと。
とは言うものの、田山花袋が『東京の近郊』で描く頃は、「昔歩いた戸山の原あたりも以前のやうな野趣を持つてゐなかつた。私の知つてゐる林はすつかり切り倒されてゐた。諏訪の森から目白台を見た景色はちよつと好い感じのするところであつたけれど、今では二階屋だの大きな家だのが建てられて、畠道をずつと横ぎつて行くことも出来なくなつていた」、と、原野も開かれていたようではある。本が出版されたのが大正5年の事であるので、その頃には、戸山ヶ原の原野も、少し様変わりし始めていたのだろう、などと想いを巡らせながら、新大久保の喧噪の街並みを抜けて新宿へと向かい、一路家路へと。

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