新宿散歩も三回目。今回は四谷台地の尾根道や谷筋を彷徨い、新宿から西新宿へと向かう。四谷見附から四谷3丁目、四谷四丁目・四谷大木戸跡、そして新宿へと四谷台地の尾根道ルートは幾度となく歩いている。四谷の尾根道、現在の新宿通りは、往昔、潮踏の里(しおふみのさと)、あるいは潮干の里(しおほしのさと)、よつやの原(よつやのはら)などと呼ばれる、一面のすすき原であった。潮踏の里とか潮干の里と呼ばれたのは、一面に尾花(ススキ)が生え、秋になると朝霧がかかり風に尾花が波打つ様子はちょうど海原を思わせるものがあったが故の命名とも伝わる。
新宿通りを歩いている時には、往昔、一面のススキの原と呼ばれたように、平坦な台地、といった印象でしかないが、この尾根道を一旦南や北に外れると、そこは川が刻んだ谷筋・窪地やそこに下る坂など複雑に入りくんでいる。そもそも、四谷の名前の由来からして、四つの谷、すなわち、紅葉川の谷筋(四谷台地と市谷台地を開析した川筋。現在の靖国通)、鮫河谷筋(四谷三丁目あたりを源頭部とし、鮫河橋から赤坂溜池に注いだ桜川渓谷)、渋谷川の谷筋(四谷四丁目交差点あたりから南へ下る。外苑西通り)、蟹川の谷筋(大久保の由来でもある大窪を形成し神田川に注ぐ)または、蟹川支流の加二川谷筋(外苑東通り)から、との説もあるように、谷をその特徴とする地名でもある。
今回ルートは台地の尾根道を外れ、谷筋・窪地を辿りながら西に向かい四谷四丁目交差点を目指す。四谷四丁目交差点、その昔の四谷大木戸のあたりは、南は渋谷川の谷筋、北は紅葉川支流の谷筋と、南北から谷筋の迫る尾根道の馬の背といった地形であったようにも思う。この馬の背から先は内藤新宿の旧跡を辿り、最後は西新宿あたりへとルートを想い描く。本日は、結構複雑な地形のルートである。凸凹の複雑な地形の低地部分にはお寺様も点在する。鈴木理生さんの書いた『まぼろしの江戸百年;筑摩書房』には、幕府の都市政策により、寺社は低湿地域に配置し、人の集まること、そしてそのゴミの蓄積を利用し湿地を陸地化する施策を実施した、とか。今回は、地形と寺社との関係なども少々意識しながら散歩にでかけてみようと思う。
本日のルート;JR四谷駅>二葉亭四迷旧居跡>西念寺>観音坂>戒行坂>宗福寺>西応寺>須賀神社>妙行寺>東福院>愛染院>円通寺坂>日宗寺>鉄砲坂>オテルドミクニ>鮫谷橋>安鎮坂>林光寺>一行院>滝沢馬琴終焉の地>本性寺>於岩稲荷>田宮稲荷神社>長善寺>四谷大木戸>水道碑記>三遊亭円朝旧居跡>かめわり坂>正受院>成覚寺>大宗寺>追分>天龍寺>花園神社>常圓寺>JR新宿駅
JR四谷駅
JR四谷駅の駅は麹町・四谷の台地を穿ち、市谷の谷筋から赤坂・溜池の谷筋へと堀抜いた外濠の堤あたりに造られている。有り体に言えば、「谷底」といった場所である。実際、JR四谷駅の上を地下鉄が通っている。
明治22年(1889)、多摩地方と東京を結んだ甲武鉄道の開設を受け、明治27年には新宿から牛込が開通。四谷駅はこの開通に合わせて開業した。その後路線は、明治28年には牛込と飯田橋、明治37年には飯田橋からお茶の水、そして明治41年にはお茶の水から万世橋へとその路線を延ばすことになるが、その路線は新宿から南に迂回し、千駄ヶ谷、信濃町を経由し、四ツ谷見附の外濠へと台地をトンネルで抜く。四谷見附から先は外濠の内側沿いの堤を走り、市ヶ谷見附と牛込見附の下を通過して、飯田町方面へと進んだ。四谷の駅が台地上から見て、「谷底」にある、といった景観となっているのはこういった事情からである。
台地や谷など起伏ある複雑な地形を通るこの路線を計画したのは、日清戦争を控えた時代状況も大きく影響したのであろうか、大いに陸軍の意向があった、とされる。千駄ヶ谷と信濃町間は陸軍の青山練兵場があり、市谷見附から外濠を隔てた市谷台地には陸軍士官学校、水道橋のあたりは陸軍造兵工廠、その南にも陸軍の練兵場があった。軍需物資の輸送、部隊の機動的運用のためには鉄路が不可欠であり、四つのトンネル、16もの鉄橋敷設といった計画ルートの難工事も顧みず、軍事戦略優先で工事を成し遂げた、と。水道橋エリアは、江戸の頃から、舟運が盛んで、さらに鉄道が通ることで物資の大量輸送が可能となり、その軍事的重要性が増すことになる。事実、砲兵工廠は鉄道開通に合わせ、規模を拡大することになった、とか。ちなみに、青山練兵場は元の青山常盤介忠成屋敷跡、陸軍士官学校は尾張徳川家の下屋敷跡、砲兵工廠は水戸徳川家、水道橋の練兵場は徳川家の講武所跡地(日本大学法学部図書館のある水道橋内三崎町三丁目の地)である。
四谷外濠
四谷駅あたりの外濠は寛永13年(1636)の江戸城外濠普請により、赤坂溜池と市ヶ谷の開析谷を繋ぐように台地部を開削して作られた。お茶の水の駅前の神田川も、台地を切り開き通した水路であり、結構大変な普請であったと思っていたのだが、この四谷の台地を南北に穿つ工事も大変であったろうと思う。四谷駅のあたりは四谷台地の尾根道であり、江戸城の外濠の中では最も標高の高い箇所であったが、そこへの水源は四谷台地の尾根道上を通した玉川上水からの余水などを流し、水量を保ったと伝わる。
現在、四谷駅の南北の外濠は埋め立てられている。明治27年の四谷駅開業の頃、その土手を削った工事残土の一部が四谷外濠の埋め立てに使った、とのことだが、当時の記録には未だお濠には水は残っている。その後、明治32年(1899)、新宿・淀橋浄水場の完成により、淀橋から四谷に至る玉川上水路は不要となり、水路は閉じられ四谷外濠は養水源を失う。その後、大正12年(1923)、関東大震災が発生、昭和4年(1929)には関東大震災に伴う復興事業により、四谷外濠には大量の瓦礫が持ち込まれて埋め立てられ、空濠となる。また、昭和20年東京大空襲での瓦礫処理に濠は埋められ、現在は四谷見附の南の外濠(真田濠)は上智大学の運動グランド、北はRおよび東京地下鉄丸ノ内線・四ッ谷駅の敷地になっている。
(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)数値地図25000(数値地図),及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平22業使、第497号)」)
四谷見附
四谷見附門が築造されたのは四谷の外濠が完成した3年後の寛永16年(1639)。四谷台地の尾根道が西から進めば江戸城の出入り口に達する、江戸城の構えの中では、地形的に最も危うい場所であり、その地に見附を設け、その内側の麹町の台地には武家屋敷を配置し、西からの攻めに備えた。見附には枡形門を設け、また土橋も防衛上の理由から筋違いに架けられた。
明治5年(1872)に見附門は取り払われる。クランク状に筋違いの道筋も、明治36年(1903)には外濠沿い(御茶ノ水~赤坂見附)と甲州街道沿い(半蔵門~新宿)に路面電車が開通。 明治42年(1909)には赤坂離宮が完成し、これに相応しい橋として大正2年(1913)にバロック調の鋼製アーチ橋「四谷見附橋」が完成し、甲州街道と麹町の通りが直線で繋げられた。この四谷見附橋は東京では日本橋に次ぐ建設費を費やした、とのことである。
二葉亭四迷旧居跡
四谷見附交差点を渡り、新宿通りの南側を進み、一筋目を南に折れ、四谷中校庭の西側、民家の脇に「二葉亭四迷旧居跡」の案内。尾張藩士の子として、市谷本村町の・尾張徳川家上屋敷(現在の防衛省)で生まれ、松江などをへて父の実家水野家があったこの地に移る。東京外国語大学に入学するまで、この家で過ごした。
二葉亭四迷と言えば、文学者になることを父に告げたところ、「くたばってしまえ」と言われたことから本名長谷川辰之助のペンネームを「二葉亭四迷」にした、とか、『浮雲』や『平凡』に代表される「言文一致の文体」の確率を推進した文学者として知られる。
ところで、「言文一致」ってわかったようで、はっきりしない。Wikipediaによれば、「日常に用いられる話し言葉に近い口語体を用いて文章を書くこと、もしくはその結果、口語体で書かれた文章のことを指す」、と。マイペディアによれば「思想・感情を自由的確に表現するため,書き言葉の文体を話し言葉に近づけようとする主張,およびその文体」、とある。ますますわからなくなった。あれこれチェックする。
言文一致運動が起きる背景には、明治維新という大きな変革の時代があったことが大前提の、ように思う。西洋列強の進んだ思想・科学を取り入れるに際し、国民教育が必要。新しい思想・科学を学び、また、それをあまねく人々に伝えるためには当時の日本語の抱える問題、書き言葉と話し言葉の乖離・溝を改め、文章を読んでも、通常話している言葉と違和感のないようにしよう、としたのであろう。従来、書き言葉では、漢文中心で「今般御即位大礼被為済、先例之通被為改年号候、就而ハ之迄吉凶ノ象徴ニ随ヒ(明治初期の新聞記事)」、などと書いていたものを、「このたび、即位の大礼も終わったので、先例のように年号を改めるこことになった」などと書くようにしましょう、そのほうが、国民の皆に理解しやすいでしょう、ということであろうか。我流の例文であり、少々いい加減ではありますので、ご容赦を。
自分の目で見聞きし、心に思うさまざまなことを、自在に駆使される言葉によって明らかにする、単におしゃべりだけでなく、思想や科学技術を人に伝え、また相手も理解する、そのためには、漢語でも市井の人が十分理解できる漢語は使う、新しい思想・科学の概念を現す翻訳語(自由とか哲学といった言葉。漢字が多い)も使う、ひらがなもつかう、カタカナも使う。明治という新しい時代を迎え、欧米の知識を吸収した日本人が自分の思想信条を延べ、そしてそれがあまねく市井の人々に伝わる、それが実現できる「文体」を模索したのが明治の言文一致運動のように思う。
二葉亭四迷が言うように、「言語と文章とを一致せしめんと欲せば、作るところの文章を朗読し、聞く者をして直ちに了解べからせしむべし。聞く者をして直ちに了解せしめんと欲すれば平生説話の言語をもちいざるべからず。平生説話の言語をもちいて言語を作ればすなわち言文一致なり」、といった日本語の文体確立を目指したのだろう。文学にあまりに興味のない自分であり、言文一致などという現在の我々にとって、あまりに当たり前であり、そのため逆に、どういうことか、ちょっと疑問を抱き、メモをした。言文一致運動って、文学運動というより、国民教育運動のような気がしてきた。
このことで思い起こすのは、フランス革命時における法と言語の問題である。娘の民法のアサインメントに、横から眺め読みした『言語と法;続フランス革命と近代法の成立(金山直樹)』に、革命時に制定されたフランス民法典を十全たらしめるには、当時のフランス国内での多様な言語を「フランス語」として統一する、国語(フランス語)教育が必要不可欠とされた、と。いくら明快で平易な法典をつくっても、その法典を読みこなせるフランス国民が圧倒的に少なかった、とのことでもある。社会が大きく変化するときは、誰でも読み書きできる言語・文体をつくることと、それを可能とする公教育を目指す社会運動が必要ということだろう、か。娘のお手伝いも、たまには役に立つ。
西念寺
二葉亭四迷旧居跡のあるマンション前を離れ、民家の間の小径を成り行きで西に進み西念寺に。忍者服部半蔵の墓所と思っていたのだが、服部半蔵って代々の名前であり、初代は伊賀の忍者とのことではあったが、この寺にまつわる二代目服部半蔵・正成は徳川家康の家臣として仕え、徳川十六将のひとりとしてその武勇で知られていた武人。この西念寺には家康拝領の槍が残るが、それは三方原の合戦における半蔵・正成の武勇を愛でたものである。
半蔵・正成が後の世にまで知られるようになった事件が、本能寺の変における家康危機脱出への正成の活躍。伊賀出自の半蔵は伊賀の山越えの脱出路を案内し、無事三河に導いた。その功もあり、家康が江戸入府の後は与力三十騎、伊賀同心200名を配下に置き、江戸西門警備を命ぜられ、その門は「半蔵門」として現在に残る。
西念寺は麹町・清水谷の半蔵・正成の隠居庵がはじまり。家康正妻の築山殿の武田家内応事件に連座し、信長の命により自刃した家康嫡子・岡崎信康をとむらう半蔵・正成の姿に家康が寺の建立を命じた、とも。武田家内応事件は信康の非凡さを怖れた信長の謀略との説もあるが、信康自刃の切腹・介錯を命ぜられた半蔵正成は悩み苦しみ、終生信康の供養を続けた、と言う。寺には半蔵正康の隣に信康も眠る。
寺は半蔵の生前中には建立を果たせなかったが、没後完成。半蔵の法名をとり西念寺と名付けられた。現在の地に移ったのは寛永11年(1934)江戸城総構えの最終仕上げでもある外濠完成を待って、外濠の外側に移った。
観音坂
西念寺を離れ、近くにあるという鯛焼きで名高い「たいやき わかば(新宿区若葉1-10 小沢ビル)」に成り行きで進み、家族へのお土産を確保。西念寺脇を谷へと下る観音坂に向かう。西念寺と蓮乗院、真成院の間を南に下るこの坂の由来は、真成院の潮踏観音に因む。潮踏観音は、江戸時代以前に四谷周辺が潮踏の里と呼ばれていたことに因む。上で、一面のススキの原が風に波打ち、海原のように見えたため潮踏の里と呼ばれたとメモしたが、潮の干満につれ台石が湿ったり乾いたりするので汐干観音とも呼ばれた、との説もある。往昔、このあたりまで海が迫っていた、ということだろう。西念寺坂、潮踏坂、潮干坂とも称される。
桜川跡
谷筋に下り、如何にも川筋跡といったうねりを残す道筋を南に少し下る。若葉二丁目商店街と呼ばれるこの道筋は往昔の桜川の川筋跡。尾根筋に近い円通寺の下を谷頭部とし、日宗寺の湧水地を源流点に、通称鮫河谷を流れる桜川と、信濃町駅南の「千日谷」からの水路を合わせ、この道筋を鮫河橋跡へと進み、現在の赤坂御用地、かつての紀州徳川家の中屋敷へと進む。そこでは屋敷内の谷戸からの水をも合わせ赤坂見附に下り、紀尾井町の清水谷からの水流も合わせ、赤坂の溜池に注いだ、と言う。溜池の先は、江戸の頃は虎ノ門あたりで日比谷の入り江へと続いた、とのことである。
戒行寺坂
桜川の川筋跡を離れ、台地に上る。坂の名前は戒行寺。戒行寺の南を東に下る坂である。別名油揚坂とも呼ばれたが、坂の途中に豆腐屋があり、その油揚が評判であったから。とか。戒行寺には長谷川平蔵が眠る。池波正太郎の『鬼平犯科帳』の主人公、火付盗賊改方長官である。元は麹町8丁目に唱題修行の戒行庵としてあったものが、寛永11年にこの地に移る。
宗福寺
戒行寺の斜め向かいには宗福寺。もとは清水谷にあったものが、寛永11年、この地に移る。寺には江戸後期の刀鍛冶として知られる源清麿が眠る。新々刀(江戸時代後期の刀)の刀工の第一人者として、その刀の切れ味故に、「四谷正宗」と呼ばれた。
西応寺
宗福寺のお隣に西応寺。幕末随一の剣豪として知られる榊原鍵吉が眠る。幕府講武所教授として幕臣の武芸指導のつとめるとともに、将軍家茂の信任を得、上洛を共にする。上野での彰義隊に加わることはなかったが、上野寛永寺の輪王寺宮(後の北白川宮)の護衛にあたる。維新後は将軍家達に随って駿府に移るなど、終生幕臣としての立場を貫いた。
また、この寺には藤田貞資が眠る、と言う。「精要算法」で有名、「今の算数に用の用あり,無用の用あり,無用の無用あり・・・」という言葉が知られている、とのことだが、なんのことか凡たる我が身にはちんぷんかんぷん。チェックする。
藤田貞資は江戸中期の和算家。『精要算法』は数学の教科書、といったもの。用の用とは日常生活に役立つ数学,無用の用とは日常生活には役に立たないが基礎となる数学,無用の無用は問題のための問題、といった「技」を競う数学、といったところ。『精要算法』は数学の教科書として広く使われ、多くの門下生を抱えた。で、この門下生の特色は算額の奉納。難解な数学の問題の解決を誇った算額を神社に掲げた、とのことである。和算といえば関孝和であり、書は『塵劫記』を知っていた程度。当たり前であるが、世の中には知らないことが、如何にも多く、ある。
散歩の折々に神社で算額にしばしば出合う。都内・都下ではあきるの市の二宮神社、八王子・片倉城址の住吉神社、稲城の穴沢神社、足立区花畑の大鷲神社、渋谷の金王八幡などでの算学を思い出す。今までは、単なる「算額」であったものが、藤田貞資を知ることにより、ちょっと身近なものとなった、よう。
須賀町
それにしても、この須賀町には寺院が多い。成り行きで歩いているので、後の祭り、と感じるような名刹もあるかとも思うが、出合ったお寺さまに入っただけでも、上でメモしたような、あれこれが登場してきた。これら多くのお寺さまは、江戸城の総構えが完成し、麹町、清水谷あたりにあったお寺さまが、この四谷に移されたものではあろう。台地上のお寺は戦時の防御ラインともなるし、鈴木理生さんが『幻の江戸百年』で延べているように、お寺に集まる人、行事より生じるゴミ芥は湿地埋め立ての重要資源であった、と言う。実際に台地の上や谷地に点在するお寺さま、その墓地を見るにつけ、リアリティをもって大いに納得。
須賀町の名前の由来は須賀神社、から、と言う。といっても、そもそもの「神社」という名称は明治以降のことであるわけで、明治の前の名称をチェックすると、明治5年、忍原横町・南伊賀町飛地・旗本屋敷・妙行寺・宝蔵院・谷田院をあわせて、明治5年に四谷須賀町となった。また正覚寺・顕性寺・本性寺・報恩寺・松巌寺・永心寺・西応寺・竜泉寺・栄林寺・文殊院・戒行寺・勝興寺・清岩寺・戒行寺門前と女夫坂(みょうぶだに)東の武家地をあわせて四谷南寺町とした。四谷寺町の南の寺町の意である。同44年には両町ともに四谷の冠称を外し、昭和18年には両町が合併して現行の「須賀町」となった。
須賀神社
須賀町のお寺様の間を辿り、江戸時代の首切り役人・山田朝右衛門が眠る勝興寺脇の小径を台地の崖端に向かうと須賀神社。もとは現在の赤坂、一ツ木村の鎮守であった稲荷の社。寛永11年の江戸城外濠普請のため、この地に移った。その後寛永14年、島原の乱の兵站伝馬御用に功績のあった日本橋大伝馬町の大名主・馬込勘由がその功故に四谷の一帯を拝領。その際、寛永20年、神田明神より須佐之男命を勧請、稲荷の社と合祀し、稲荷天王合社と称した。天王の名称は牛頭天王、より。神仏習合により牛頭天王は須佐之男命の本地とされていた。
須賀神社と呼ばれるようになったのは明治の神仏分離令の後。天王>天皇との同音故、不敬にあたるかとの怖れより改名した、と言う。牛頭天王は須賀神社とか八坂神社と改名したケースが多かったように思う。須賀神社は須佐之男命を祀る日本最古の社、出雲の須賀にあった須賀宮、から。須佐之男命が八岐大蛇を退治して、「わが心清々(すがすが)し」と言ったことが、須賀の由来、とも。八坂神社は須佐之男命を祀る祇園信仰の本拠が京の八坂の地にあった、ため。 社には三十六歌仙繪が社宝として残るとか。
境内を歩くと天白稲荷神社が祀られていた。あまりなじみのない社。チェックする。江戸の頃の記録には、「伊勢国の諸社に天白大明神というもの多し。何神なるかを知るべからず。恐らくは修験宗に天獏あり。是なるべし」、とある。早い話が、よくわからない、ということ。よくわからないが、天白、天伯、天獏、天縛、天魄などの字を当てることが多く、伊勢の御神(おし)がお札を配り、神楽を舞って各地に広めたとのこと。東日本で水の神、農耕神として祀られることが多いようだ。そう言えば、名古屋に天白区ってある。由来は地域を流れる天白川であり、その天白川は河口付近の天白神に由来する、とのこと。徳川家の家臣が江戸へ移るに際し、地元の天白様を勧請したのだろう、か。単なる妄想。根拠なし。
妙行寺
石段を下り、台地から桜川の谷筋に再び戻る。女坂を下りきったところに妙行寺の墓地が拡がる。本堂と庫裡が残るだけで、十代将軍家治の御代、この寺を深く信仰する伊藤氏の娘が将軍側室として大奥に入り、その縁で将軍に信頼の篤い者に許される赤門を持った往昔の姿は、今は、ない。本堂もなんとなく武家風なのは、こういった事情もあるのだろう、か。
赤門もさることながら、このお寺さまは「三銭学校」の教場として知られる。明治の頃、桜川の谷筋に密集する貧しい人々に教育を施すべく、四谷区内の50余りのお寺さまが共同で運営した。妙行寺もそのひとつ。三銭学校の名前の由来は、授業料が三銭であった、から。
東福院坂
妙行寺から桜川筋に出る。今度は谷筋を北に、新宿通が通る尾根道側に上る。坂に名前があり、東福院坂、と。坂を上ると途中に東福院があった。東福院には左手を失ったお地蔵様が佇む。その昔、このあたりに豆腐屋があった。そこに毎晩豆腐を買いに来るお坊様。不思議なことに、その日から売上銭の中に「シキミの葉」が混じるようになる。豆腐屋の親父は、そのお坊さんの悪戯だろうと懲らしめることに。で、少々の論理の飛躍ではあるとおもうのだが、次に来たときにお坊様の左手を包丁で切り落とす。とはいいながら、少々怖くなり、翌日血の跡をたどってゆくと、東福院のお地蔵様の左手が失われていた、と。豆腐屋のおやじはその後行いを悔い改め、お地蔵様を敬い、豆腐造りに精進し、名高い豆腐屋になった、とか。
愛染院
東福院と坂を隔てた東側に愛染院。高松喜六と塙保己一が眠る。高松喜六は内藤新宿の生みの親。元は浅草の名主であった喜六は、元禄10年(1679)、内藤家下屋敷の一部(現在の新宿御苑北側)を宿場にする請願を幕府に提出。日本橋と次の宿である高井戸までは16キロと距離があるので、その中間に宿を開いた。元禄11年(1680)には許可がおり、4人の仲間とともに冥加金5600両を納め、問屋・本陣を開いた。高松家は代々内藤新宿の名主をつとめた。
また、この寺には国学者塙保己一が眠る。延享3年(1746)、現在の埼玉県本庄市の生まれ、姓は萩野、幼名は辰之助。七歳で失明するも、13歳のとき江戸に出て雨富検校須賀一の門下となり、その本姓塙をもらった。その優れた記憶力故に、雨富検校に認められ学問に精進し国学・漢学・和歌・医学などを学ぶ。
安永8年(1779年)、古書の散逸を危惧し、古代から江戸初期までの史書や文学作品を集める、『群書類従』のプロジェクトを開始。幕府や諸大名、寺社・公家の強力を得て、文政2年(1819)には、670冊からなる『群書類従』、を完成させた。文政4年(1821)には総検校となるも、亡くなったときには、現在のお金に換算すると1億円にも相当する借財を残した、と。作品完成のために私財を投じたのだろう、か。墓所は、最初近くの安楽寺に造られたが明治31年(1898)廃寺となり、愛染院に改葬された。ちなみに、南洋遙か南の小笠原諸島が日本の領土であるというエビデンスは塙保己一の集めた資料がもとになった、と言う。
日宗寺
東福院坂を下り桜川の谷筋に戻る。川筋を西へと桜川の源頭部方向へ向かう。もとより、水源があるわけも、ない。川筋跡の道を進み日宗寺に。こさっぱりとした構えの寺である。このあたりが水源であった、とか。その湧水池は、今は、ない。
日宗寺は元、麹町清水谷にあったものが、外濠普請のため寛永11年、この地に移った。日蓮上人ゆかりの房州小湊の誕生寺の末とも伝わり、上人にまつわる縁起も伝わる。夜明鬼子母神が、それ。日蓮上人が母を拝せんと旧里の小湊に戻る。母、感極まり頓死。上人大いに嘆き、また、法力を末代に示さんと、弟子日法に命じ、鬼子母神像を彫り祈ると、暁に母が蘇生。このゆえに、夜明鬼子母神と称された。鎌倉の住人鎌田某が霊夢により、この寺に納めた、と。この寺には江戸時代初期の歌人北村湖元、春水、季文等の一族も眠る、と。佐伯泰英さんの『酔いどれ小藤次』に登場する歌人北村おりょうと、故なくかぶる。
円通寺坂
日宗寺を先に進むと道は北に折れ、坂となる。坂名は円通寺坂。新宿通り(旧甲州街道)から四谷2丁目と3丁目の境界を南に下る坂の途中に円通寺がある。坂の東には祥山寺とか宝蔵寺。誠にお寺さまが多い。祥山寺は先ほど訪れた妙行寺とともに三銭学校に貢献したお寺さま。四谷笹寺(長善寺)の住職など数人が発起人となり、妙行寺に教場・共立友信学校を開き、祥山寺の住職が教師となって、鮫河の貧しい家庭の子供の教育に努めた。祥山寺には伊賀者を供養した忍者地蔵もある、と言う。
鉄砲坂
桜川の谷筋に沿った商店街を再び下る。途中で道を左に折れ、鉄砲坂へ。江戸の頃、このあたりに鉄砲組屋敷があり、鉄砲訓練所や鉄砲鍛冶があったのが名前の由来。坂を学習院初等科方向に上り、フレンチレストランで有名なオテルドミクニの辺りまで上り、再び鉄砲坂まで戻り、今度は南に進みJR中央線を跨ぐ橋へと向かう。いつだったか橋から見たJR中央線のトンネルの古風な雰囲気をあらためてじっくりと見てみよう、と。
旧御所トンネル
迎賓館の地下を信濃町方面から四ッ谷駅へと貫通するこのトンネルは「旧御所トンネル」と呼ばれ、明治期の旧甲武鉄道が造ったもので、現在も使われている。御所の下を通すことが許されたのは、日清戦争に備えた軍事優先の方針により、青山練兵場とのアクセスを優先したから、と。このトンネルの開通を待って明治27年、新宿から牛込間が開通した。明治の建造物らしく赤い煉瓦造りのトンネルから何が現れるかと佇んでいると総武線が走ってきた。
鮫河橋跡
橋の上から中央線や総武線、その南を走る高速道路をしばらく眺め、再び鉄砲坂へと戻る。途中、崖端に建つマンションの駐車場から桜川の谷筋、桜川によって開析され南北に分かれた四谷の台地の景観を楽しみ、鉄砲坂を下り桜川跡の道筋に戻る。
二葉南元保育園、二葉乳児園脇を進み、JRと高速道路のガードを越えると「南元町公園」。公園脇に小祠と「鮫河橋地名発祥の地」の説明があった;「みなみもと町公園一帯は、昔から低い土地で、ヨシなどの繁った沼池があり、周囲の台地から湧き出す水をたたえ、南東の方向へ流れ鮫河となり、赤坂の溜池に注いでいた。江戸時代になってからは水田となり、寛永年間に行われた江戸城の外濠工事で余った土で埋め立てられて、町になったと言われている。鮫河には橋が架かっていて、鮫河橋と呼ばれていた。鮫河橋は「江戸名所図会」にもとりあげられ、有名になったので、この付近一帯を鮫河橋と呼んだ時代があり、いまでもみなみもと町公園前の坂に「鮫河橋坂」という名前を残している」、と。
現四谷三丁目にある「鮫河谷」、日宗寺の湧水池辺りの源頭部から流れる桜川や、信濃町駅南側の「千日谷」からの流れがこのあたりで合わさり、沼地となっていたのであろう。古の昔には、この辺りまで江戸湾の入り江が迫っていたということでもあり、名前の由来に「鮫」がこのあたりの入り江まで現れたから、との説もある。
小祠はせきとめ神を祀る。桜川(鮫河)のゴミ芥を堰止める堰と沈殿地がこの地にあり、堰止め>咳止め、ということで、いつの頃からか沼池の周囲の木の枝に名前や年齢を書いた紙を紅白の水引で結び付けて「咳止め」のお願いをする風習が流行した。沈殿地はその後埋め立てられたが、その信仰は残り、昭和5年、小俣りんという近所の老女が埋め立て跡地に「大願成就 鮫ヶ橋(鮫河橋)せきとめ神」と彫った石碑を建てた。この碑は戦後取り除かれるが、その後鮫河橋門向かいの地に再建され、昭和46年現在地に移した、とのことである。
鮫河
江戸の時代小説を読んでいると、鮫河は悪所・岡場所として描かれている。現在の南元町から桜川の谷筋を北に向かう一帯である。天保の改革で岡場所が禁止されると、鮫河橋夜鷹として牛込桜の馬場、四谷堀端辺りまでを縄張りに出張った、と言う。
明治になってからの鮫河も貧しい人々が集まり、松原岩五郎がその著『最暗黒の東京』で描く、「山の手第一等の飢寒窟」となった。明治22年の頃、明治政府の農業政策の失政から疲弊した農村から職を求め東京に集まった農民が押し寄せ、狭い0.1平方キロメートルの谷間に1400戸、5000人もの人々が住み着いた。下谷万年町や芝新網町などとともに東京の三代スラム街のひとつ、とも称せられた。
この地に集まったのは食料の確保が容易であったから、と言う。市谷台の陸軍士官学校から出る残飯がそれ。大八車を牽いて行き、残飯を安い値段で引き取って、それを貧民に売る。米や菜を買う金のない貧民は、この残飯を糧にした、と。『貧民の群れがいかに残飯を喜びしよ、しかして、これを運搬する予がいかに彼らに歓迎されしよ。予は常にこの歓迎にむくゆべく、あらゆる手段をめぐらして庖厨(くりや=厨房のこと)を捜し、なるべく多くの残飯を運びて彼らに分配せんことを努めたりき。』、と松原岩五郎は描く。
「全町ことごとくこれ貧民窟。谷町を中心としておよそ卑湿の地、いたる所、軒低く、壁壊れ、数千の貧民、蠢々(しゅんしゅん)如としてひそかに雨露をしのぐのさま、哀れなり」。これは毎日新聞記者だった横山源之助が、『日本の下層社会』に描く明治36年(1903)の鮫河橋の姿である。横山源之助が呼んだこの辺り一帯の貧民窟は大正時代も続いたようだが、昭和18年(1943)に町名が鮭河橋から若葉に変わった頃には、その状態はなくなっていたのだろう。というより、どこか別の地に移ったというほうが正確かもしれない。
現在は往時の状態を残す街並みは見あたらないが、当時建てられた貧民救済施設は現在もその名前を残す。先ほど道脇にあった二葉南元保育園、二葉乳児園は、もともとは貧困故に親を失った孤児を受け入れるために建てられた施設であった。
赤坂御用地
鮫河橋跡の道路を隔てた一帯は赤坂御用地。現在迎賓館や東宮御所のあるこの敷地はかつての紀州徳川家の中屋敷。一帯は江戸の地形がそのまま残されている、と。敷地の西端を谷頭とし、東に開く谷戸があり、谷底と台地との比高差は15mほどもあると言う。谷戸やいくつかの支谷からの流れは桜川(鮫河)と敷地の中頃で合流し池をつくり、赤坂の溜池へと下る。どんな地形か見たいとは思えども、叶わぬことではあろう。
安鎮坂
鮫河橋跡から赤坂御用地前を外苑東通り・権田原交差点へと続く道を西に向かう。道は緩やかな坂となっており、安鎮坂とある。案内には、「あんちんざか 付近に安鎮(珍)大権現の小社があったので坂の名になった。武士の名からできた付近の地名によって権田原坂ともいう」、とある。
この坂は安珍坂とも、安鎮坂、権田坂、権田原坂、権太坂、権太原坂、信濃坂とも書く、昔、安藤左兵エの屋敷内に安鎮大権現の社があったのが名前の由来。別名の権田原坂は付近に屋敷のあった権田氏、あるいは権田原僧都の碑にちなむなど諸説ある。
林光寺
安鎮坂を上り、道路から脇に折れ、南元町の林光寺へと向かう。首都高速4号線の傍にある。但馬国生野銀山にあった清浄光寺がはじまり。慶長18年(1613)、松平忠輝の招きにより赤坂一つ木村に移り、寛永元年(1624)、林光寺と改めた。明暦元年(1655)には、寺地が御用地となり、この地に移った。
道を隔てた紀州徳川家とのつながりも深く、親鸞・蓮如・聖徳太子および七人の高僧を描いた四幅の画像は、寛延3年(1750)紀州七代藩主徳川宗将が奉納したものであり、寺宝となっている。
ところで、生野から江戸にこの寺を招いた徳川忠輝。家康の六男に生まれるも、生涯家康から疎まれた。母の出自の身分が低いとか、その容貌が怪異であったから、とかあれこれの理由があるも、家康の今際の際にも傍に侍るのを許されなかった、と。さわさりながら徳川将軍家に生まれたわけで、伊達政宗の長女五郎八姫と結婚そ、越後高田藩60万石の太守となるも、元和2年(1616 )には大阪夏の陣での不始末故に改易される。徳川家から「勘当」された、とも。その勘当が解けたのは昭和59年(1984)のこと。370年にも及ぶ勘当とは、ギネス記録にでもなるのだろう、か。
一行院
道なりに進み、外苑東通り手前から坂をJR信濃町駅へと上る。千日坂と呼ばれる。案内によれば、「この坂下の低地は、一行院千日寺に由来し千日谷と呼ばれていた。坂名はそれに因むものである。なお、 かつての千日坂は 明治三十九年(1906)の新道造成のため消滅し、 現在の千日坂は、それと前後して造られた、 いわば新千日坂である」、と。
坂の途中に一行院千日寺がある。現在、千日谷会堂とも呼ばれるこのお寺様の開基は永井右近大夫直勝。永井家の下僕であった故念が起立した庵を一寺として創建した。永井家はこの辺りを拝領地としており、永井家が信濃守を称していたのが、信濃町の由来。また、千日寺と呼ばれるのは、僧となった来誉故念が主家永井家の供養に千日毎におこなったのが、その由来、とか。
舎利塔前の案内には、鎌倉時代後期から室町時代後期までの板碑(死者を供養するための石造りの卒塔婆)が7基保存されている、と。開起当時は寺域も広く2、025坪。明治初年には境内租税地1、800坪。その後は、明治中頃、後の方に国鉄信濃町駅が出来て狭められ、昭和37年(1962)には高速道路の建設に伴い、現在は1、200坪程度となった、とか。
滝沢馬琴終焉の地
JR信濃町駅から少し南に外苑東通りを跨ぐ歩道橋がある。歩道橋を渡り終えたあたりに滝沢馬琴終焉の地との案内。あたりを彷徨ったが、それらしき案内は見付けられなかった。江戸の切り絵図などを見ると、永井信濃守の下屋敷の南東に御手先組、御鉄砲組などの組屋敷がある。馬琴がこの地に移ったのは、医師を目指した長男が病死したため、その孫の将来を考えて小禄ではあるが定収のある御家人株(鉄砲同心)を買い求めた、とあるので、御鉄砲組の組屋敷があるこのあたりではあろう。天保6年(1835)の頃のことである。
馬琴は松平信成家臣の五男として誕生。深川浄心前の松平信成邸内が生誕の地とのこと。仙台堀川近くの江東区老人センターの前には「滝沢馬琴誕生の地」の碑があった。若き頃より戯作者を目指し、山東京伝に師事。その後、飯田橋の履物商・伊勢屋に婿入りするも、商売に身を入れることはなく、『椿説弓張月』などの作品を著した。
代表作品である『南総里見八犬伝』を書き始めたのは、文化11年(1814)の頃から。信濃町のこの地に移った頃は『南総里見八犬伝』は未完。「屋敷は間口わづか六間に候へども奥行四十間有之、凡弐百四拾坪の地所にて、奥に六間に九間の大竹薮あり、空地も有之候間菜園にすべく存候」と馬琴が描く、有り体に言えば、荒壁茅葺のあばら家で『南総里見八犬伝』を書き続けた。過労と老齢のため、次第に視力を失い、しまいには失明し、息子の嫁である路の口述筆記で執筆を続け、実に28年の歳月をかけて作品は完成した。
いつだったか、馬琴とその息子の嫁である路のことを描いた文庫を読んだ。書名を思い出せないのだが、群ようこさんの『馬琴の嫁』だったのだろう、か。偏屈な馬琴につきあい『南総里見八犬伝』をつくりあげる姿を思い起こした。梓澤要さんの『ゆすらうめ』だった、かも。
本性寺
JR信濃町駅に戻り、外苑東通りから一筋入った小径を北に向かって田宮稲荷神社に向かう。途中には創価学会の建物が幾多ある。道なりに進むと東西に走る道筋に。東に向かえば、先ほど訪れた西応寺などをへて戒行寺坂に下る。
田宮稲荷神社へと道筋を逆に西に向かう。路に沿ってお寺さまが並ぶ。なんとなく本性寺にお参り。山門の雰囲気に惹かれたのかとも思う。この山門は戦災を逃れ、元禄当時の面影を伝える、と。境内には同じく戦災を逃れた毘沙門堂も残る。元は江戸城本丸にあったものが、五代将軍綱吉の側室、春麗院殿の発願により堂とともにこの寺に寄進された。この像は北を向いていることから「北向き毘沙門天」とも呼ばれる。北方の仙台藩伊達氏が謀反を起こさないよう、北方の守護神・毘沙門天を徳川家康が北向きに安置したという伝説が残されている。
於岩稲荷
本性寺前から北に向かう道筋を先に進む。と、道の右手に於岩稲荷の幟が見える。その少し先、道の左手には田宮稲荷神社がある。於岩稲荷は陽運寺の境内にあった。少々商売っ気の感じる境内をちょっと眺め、足早に田宮稲荷神社へ向かう。
田宮稲荷神社
案内によると、「都旧跡 田宮稲荷神社跡」、とある。「文化文政期に江戸文化は燗熟期に達し、いわゆる化政時代を出現させた。歌舞伎は民衆娯楽の中心になった。「東海道四谷怪談」の作者として有名な四代目鶴屋南北[金井三笑の門人で幼名源蔵、のち伊之助、文政十二年(1829年)十一月二七日歿]も化政時代の著名人である。「東海道四谷怪談」の主人公田宮伊左衛門(南北の芝居では民谷伊左衛門)の妻お岩を祭ったお岩稲荷神社の旧地である。
物語は文政十年(1827年)十月名主茂八郎が町の伝説を集録して、町奉行に提出した「文政町方書上」にある伝説を脚色したものである。明治五年ごろお岩神社を田宮稲荷と改称し、火災で一時移転したが、昭和二七年再びここに移転したものである(東京都教育委員会)」、との説明。
わかったようで、いまひとつはっきりしない。チェックする。江戸も初期の頃、この四谷左門町の武家屋敷に田宮伊右衛門とその妻であるお岩さんが仲むつまじく暮らしていた。お岩さんは貧しい家計を支えるため商家に奉公に出る。田宮家の屋敷社への信心も欠かさず健気に働き、田宮家は豊かになる。
その評判を聞きつけた近隣の人々はお岩さんの幸運にあやかるべく田宮家の屋敷社を「お岩稲荷」として信仰するようになった。この「お岩稲荷」があったのが、この田宮稲荷神社の地である。
時は過ぎ、お岩稲荷ができて200年もたった江戸の後期、歌舞伎作者の鶴屋南北が『東海道四谷怪談』を書く。南北はなくなって二百年たっても人気のある「お岩」さんを取りあげれば、人気歌舞伎がっできるだろうと考えた、とか。ともあれ、お岩さんを主人公に歌舞伎を仕立てる。が、いかにも善人で女性の美徳の鑑では面白くない、ということで事実とは関係なく、怪談話に仕立て上げた。
文政8年 (1825) 初演のその歌舞伎が大当たり。お岩は三代目尾上菊五郎、伊右衛門は七代目市川団十郎の「東海道四谷怪談」は江戸中の話題をさらい、それ以降、お岩の役は尾上家の「お家芸」になったほど。四谷塩町・忍町の名主・茂八郎に命じて町内の伝説をまとめ奉行に提出した「文政町方書上」の伝説がもとになっている、との説もあるが、「文政町方書上」の提出が文政10年(1827)であるので、時期があわないように思う。
明治5年にはお岩稲荷を田宮神社と改める。明治12年(1879)の四谷左門町の火事で社殿が焼失。また、「東海道四谷怪談」を手掛けては天下一品といわれた市川左団次から、「四谷まで毎度出かけていくのでは遠すぎる。是非とも新富座などの芝居小屋のそばに移転してほしい」という要望もあり、当時中央区新川にあった田宮家の屋敷内に移転した。それが現在の中央区新川にある田宮稲荷神社である。
その新川の社殿も昭和二十年(1945)の戦災で焼失。戦後、新川とともに四谷の現在地にも田宮稲荷神社が復活した。陽運寺の於岩稲荷は、戦災で社殿が焼失したときに、つくられたもので、田宮神社とは関係はない、とのことであった。
長善寺
新宿通り・四谷三丁目交差点を新宿方面へと向かう。道の南側、国際交流基金の手前を南に折れる小径を進むと笹寺こと長善寺がある。
笹寺の由来は三代将軍家光とか、二代将軍秀忠とか、ともあれ将軍さまが鷹狩りの途中、この寺で休息し、辺りに笹が繁るのを見て「以降、笹寺と呼ぶべし」と。本堂には赤い瑪瑙(めのう)で造られた「めのう観音様」がある。二代将軍秀忠の夫人・崇源院の念持仏であった、とか。
四谷大木戸
先に進み四谷四丁目交差点に。江戸の頃、この地には四谷大木戸があった。甲州道中の江戸への出入り口として、元和2年(1616)に設けられた。江戸時代の地誌の一つ『御府内備考』に『江戸砂子に云、此地むかしは左右谷にて至て深林の一筋道なり、御入国の此往還糺されしといふ、七八十年迄は江戸より駄馬に付出す所の米穀送り状なければ通さすとなり、今も猶駄馬の荷鞍なきを通さず、江戸宿又は荷問屋等の手形を出して通る是遺風なり、又此所の番所内の持なれとも突棒さす股もじり等を飾り置江府に於て武家番所の外此一所に限る又住古関なりし証なりと古き土人の云伝へしよし』と四谷大木戸が描かれる。
上でメモしたように、この四谷四丁目交差点の、北は紅葉川の谷筋、南は渋谷川の谷筋と、尾根道の馬の背といった一本道であり、出入り管理が容易であったのだろう。「江戸名所図会」を見るに、道の両側に石垣が築かれ、内藤新宿側は石畳となっており、玉川上水の水番所も見える。一方、石垣の四谷側には屋根が見えるが、それは旅人や荷駄を調べる番屋の屋根であろう。番屋では突棒、刺股などの道具を置き門番が警護していた。高札も掲げられている。大木戸は世の安定、経済の発展による人馬の往還、また番屋費用の町内負担などの理由により寛政4年(1792)に廃止。石垣も明治9年(1876)に取り壊された。
水道碑記
「江戸名所図会」に見える玉川上水水番所は現在、交差点を新宿側に渡った四谷区民ホール脇の道端に「水道碑記」との石碑で残る。江戸開幕にともなう上水確保のため、多摩川の羽村の取水堰から武蔵野の尾根道を開削し、40キロ以上を導水した。取水口から四谷大木戸の水番所までは開渠、ここからは地下の石樋をとおして江戸の町に流した。
玉川上水を取水口からこの四谷大戸までヶ4回に分けて歩いたのはいつの頃だっただろう。散歩をはじめたばかりの頃でもあるので、開幕期の江戸のことなどなにも知らず、入り江を埋め立てて造った江戸の町の飲み水の確保の歴史に、思いの外フックがかかり、文京区の東京都水道歴史館を訪ねたり、古本屋を廻り『約束の奔流;松浦節(新人物往来社)』や『玉川兄弟;杉本苑子(朝日新聞社)』、『玉川上水物語;平井英次(教育報道社)』といった本を手に入れ、玉川兄弟、それを助けた安松金右衛門、水を吸い込む「水喰土」など、すべてが目新しかった。そういえば、玉川上水散歩のメモは未だつくっていない。もう一度歩き直し、そのうちにメモしておこう。少々思い入れも強い玉川上水にまつわる碑のメモは、今回はパスし、先に進む。
三遊亭円朝旧居跡
新宿通を進み新宿1丁目交差点を右に折れ、区立花園公園の三遊亭円朝旧居跡を目指す。たまたま、森まゆみさんの『円朝ざんまい』を呼んでいるところだったので、なんとなく親近感を抱く。先般の新宿散歩で二葉亭四迷が言文一致の文体の参考にしたのが三遊亭円朝の噺ということでもあったので読み始めていたわけである。
公園脇の案内によると;「このあたりは、明治落語会を代表する落語家三遊亭円朝(1839~1900)が、明治21年から28年(1888~1895)まで住んでいたところである。円朝は本名を出淵次郎吉といい、江戸湯島の生まれ、7歳の時小円太の名で初高座をふみ、9歳で二代目円生の門下に入門した。
話術に長じ、人物の性格・環境を巧みに表現し、近代落語を大成した。また、創作にもすぐれ、自作自演に非凡な芸を発揮し、人情話を完成させた。代表作に「塩原太助」「怪談牡丹灯籠」「名人長二」などがある。
屋敷地は約1000平方メートルで、周囲を四つ目垣で囲み、、孟宗竹の藪、広い畑、桧、杉、柿の植え込み、回遊式庭園などがあり、母屋と廊下でつづいた離れは円通堂と呼ばれ、円朝の居宅になっていた。新宿在往時の円朝は、明治24年以降寄席から身を引き、もっぱら禅や茶道に心を寄せていたという(東京都新宿区教委区委員会)」、と。
円朝は喧噪を避け、当時は寂しい町であった、この地を選んだとのことである。散歩の折々に円朝ゆかりの地に出合うことも多い。墨田区の亀沢には「初代三遊亭円朝住居跡」があった。墨田区両国には円朝の作品「塩原太助一代記」の太助橋があった。越後からも三国峠を越えて猿ヶ京温泉のあたりは塩原多助の出身地でもあった。墨田区の木母寺内には「三遊塚」があった。板橋の赤塚には「怪談乳房榎」のモデルと呼ばれる榎、また豊島区高田の南蔵院も「怪談乳房榎」ゆかりの寺、と言う。足立区伊興の法受院は「怪談牡丹灯籠」ゆかりの寺とする。数え上げれば切りがない。人気者故のことではあろう。
かめわり坂
花園公園を北に進み靖国通りに。今は無き厚生年金会館前を東に向かってゆるやかに上る坂の名前、かめわり坂に惹かれたため。由来ははっきりしないが、一説によると、厚生年金会館前に、その昔弁慶橋があった、とか。弁慶とかめわりがどう関係するのかチェックすると、「かめわり」には「お産」を意味する言葉であり、義経と北の方の間に生まれた赤子を弁慶が取り上げた故、とのこと。少々無理がある、かなあ。
正受院
新宿一丁目北交差点の傍に正受院。境内に奪衣婆尊の案内があった。案内によると、「木造で像高70cm。片膝を立て、右手に衣を握った奪衣婆の坐像で、頭から肩にかけて頭巾状に綿を被っているため「綿のおばば」とも呼ばれる。本像は咳止めに霊験があるとして、幕末の嘉永2年(1849)頃大変はやり、江戸中から参詣人をあつめ、錦絵の題材にもなっている。当時、綿は咳止めのお札参りに奉納したと伝えられる。あまりの人気に寺社奉行が邪教ではないかと禁止をしたほどの賑わいであった、とか。
本像は小野篁の作であるとの伝承があり、また田安家所蔵のものを同家と縁のある正受院に奉納したとも伝えられる。像底のはめ込み板には「元禄14辛己年奉為当山第七世念蓮社順誉選廓代再興者也七月十日」と墨書されており、元禄年間から正受院に安置されていたことがわかる(新宿区教育委員会掲示より)」、とあった。
境内の鐘楼は「平和の鐘」として知られる。江戸の頃、宝永8年(1711)の鋳造された銅製の梵鐘であるが、太平洋戦争に際し、金属供出されたが、戦後アメリカのアイオワ州立大学内海軍特別訓練隊に残っており、昭和37年に返還された。
この寺は毎年2月8日に行われる、針供養でも知られる。脱衣婆像に咳どめを祈願した人が真綿を奉納したことから、裁縫の神様を祀るものとして始まったという。
成覚寺
文禄3年(1594)創建のこの寺は、江戸時代、内藤新宿の宿場の遊女の投げ込み寺として知られる。境内に「子供合埋碑」と呼ぶ遊女を弔う碑が残る。子供とは抱え主の子供、ということで飯盛女(遊女)のことである。案内には、「江戸時代に内藤新宿にいた飯盛女(めしもりおんな)(子供と呼ばれた)達を弔うため、万延元年(1860)11月に旅籠屋中で造立したもので、惣墓と呼ばれた共葬墓地の一角に建てられた墓じるしである。
飯盛女の抱えは実質上の人身売買であり抱えられる時の契約は年季奉公で、年季中に死ぬと哀れにも投げ込むようにして惣墓に葬られたという(新宿区教育委員会)」、と。
内藤新宿において、「飯盛女を抱える旅籠屋は、寛政11年(1799)には、上町(新宿3丁目あたり)には、20軒、中町(新宿2丁目)に16軒、下町(新宿1丁目)に16軒あり、中には大間口之旅籠屋追々建増仕るべく候(高松文書)」とあるように多くの飯盛女=実質的遊女がいたわけで、成覚寺に投げ込まれた飯盛女の数は三千余体もあった、と伝わる。
境内にある旭地蔵も内藤新宿での情死者を弔ったお地蔵さま、とか。もとは玉川上水脇にあったものを。この地に移した。入水心中といった情死者を弔う。また、この寺には、江戸後期の浮世絵師・狂歌師・黄表紙作者の恋川春町も眠る。
太宗寺
案内によれば、このお寺様は慶長年間初頭(1596)頃、僧太宗の開いた草庵を前身とし、のちの信州高藤藩の菩提寺として発展。かつての内藤新宿仲町に位置し、「内藤新宿の閻魔」、「しょうづかのばあさん」として江戸庶民に親しまれた閻魔像や奪衣婆像や、江戸の出入口に安置された「江戸六地蔵」のひとつである銅造地蔵菩薩など、当時の面影を残す、と。
境内を歩く。江戸時代、1668年当時、太宗寺の寺領は、7396坪もあった、と言う。いまよりはるかに大きな寺域であったのだろう。門を入ると右手に2.6mの銅造の地蔵堂が佇む。江戸六地蔵のひとつ。六地蔵の3番目として甲州道中沿いに建立された。六地蔵は深川の地蔵坊正元が発願し、江戸市中から多くの寄進を集めてつくった。太宗寺以外の六地蔵は、品川区南品川の品川寺、台東区東浅草の東禅寺、豊島区巣鴨の真性寺、江東区白河の霊厳寺、江東区富岡の永代寺にあったが、永代寺は現存していいない。
境内右手に閻魔堂。5メートル余り、木造の閻魔様は、江戸時代の文化11年とされるが大震災で壊れ、昭和8年に作り直された。しょうづかのばば、とは正塚婆のこと。脱衣婆、葬頭河婆とも呼ばれ、閻魔堂左手に安置されている。木造彩色2.4m。明治3年(1870)の作、と言う。脱衣婆は閻魔大王に仕え、三途の川を渡る亡者から衣服をはぎ取り、罪の軽重を計ったとされる。閻魔堂の脱衣婆も右手に亡者からはぎ取った衣が握られている。脱衣婆、つまりは正塚婆は、衣をはぎ取るところから、内藤新宿の妓楼の商売神として、「しょうづかのばば」として信仰された。
境内左手には不動堂。額の上に銀製の三日月をもつため、通称三日月不動と呼ばれる不動明王の立像が安置される。銅造で、像高は194cm。江戸時代の作、とのこと。寺伝によれば、高尾山薬王院に奉納するため甲州道中を運ぶ道筋、休息のため立ち寄った太宗寺境内で動かなくなったため、この地に不動堂を建立し安置したと伝えられる。
本堂脇には切支丹灯籠が残る。昭和27年(1952)、太宗寺境内の内藤家墓地から出土。織部型灯籠の竿部だけではあったようだが、現在は上部笠部も合わし復元している。とはいうものの。切支丹灯籠と織部灯籠の違いがよくわからない。織部灯籠は安土・桃山時代から江戸初期の大名であり茶人である古田織部が好んだ形の灯籠で、基本は庭園の観賞用のものである。織部型灯籠の全体像が十字架、竿部の彫刻がマリア像に似ているとのことで、江戸時代のキリスト教弾圧の時代は、隠れキリスト教徒は織部灯籠をマリア観音と「仮託」し、信仰の対象としたのかとも思うが、内藤家がキリスト教徒にでもなければ、単に観賞用の石灯籠として使っていただけ、ということもありうるのでは、などと妄想する。
内藤新宿
愛染院での高松喜六のメモで書いたように、信州高藤藩内藤家屋敷の一部を幼稚として元禄12年(1699)、この地に宿場が開かれた。この辺りは、以前より内藤宿ともよばれていたので、正式な宿場名としては「内藤新宿」とした。亨保3年(1718)には、風紀上の理由もあり一旦廃止となるも、明和9年(1772)年には再会し、江戸四宿(品川、板橋、千住、新宿)のひとつとして栄えた。
内藤新宿は四谷大木戸の外、場末にあり宿場の遊郭、玉川上水の桜見物、太宗寺の閻魔さま、正受院の脱衣婆像といった流行神へのお参りなどで大いに賑わった、とか。
追分
太宗寺を離れ、成り行きで新宿3丁目交差点に。ここが昔の新宿追分。追分とは街道の分岐点であり、慶長9年(1604)に開いた甲州道中と慶長11年に青梅・成木と繋いだ青梅街道の分岐点となった。追分には一里塚や高札が立っていたとのことである。
天龍寺
もとは遠江国にあり法泉寺と称した。家康の側室である西郷局の父の菩提寺であり、家康の江戸入府にともない牛込納戸町・細工町あたりを寺域として拝領し、寺名も故郷の大河、天龍寺にちなんで改名した。
西郷の局が将軍秀忠の生母となるにおよび、上野の寛永寺が鬼門鎮護の寺となったように、江戸城の裏鬼門鎮護の寺として幕府の手厚い保護を受けた。天和3年(1683)に現在の地に移った。
境内の左手鐘楼にある「時の鐘」は、上野寛永寺、牛込市谷八幡の鐘とともに、江戸三名鐘のひとつと称せられた。この鐘は天竜寺を菩提寺とした茨城笠間城主・牧野備後守が明和4年(1767)に造らせたもの。東京近郊名所図会には「時の鐘、天龍寺の鐘楼にて、もとは昼夜鐘を撞きて時刻を報じせり。此辺は所謂山の手にて登城の道遠ければ便宜を図り、時刻を少し早めて報ずることとせり。故に当時は、天竜寺の六で出るとか、市谷の六で出るとかいいあえり。新宿妓楼の遊客も払暁早起きして袂を分たざるを得ず。因て俗に之を追出し鐘と呼べり」とある。遊客もこの鐘の音を合図に妓楼より「追い出された」のであろう。
牧野備後守が寄進したオランダ製のやぐら時計も知られる。四脚の上に時計が乗っている形がいかにも櫓といった姿であった。時の鐘を撞く合図として明治の中頃まで使用されていた、と言う。天竜寺には、かつて渋谷川の源流のひとつでもあった池があった。そのうち、流路を渋谷へとい辿ってみよう。
花園神社
天竜寺から再び靖国通り・新宿5丁目交差点に戻り、花園神社に。毎年家族・親類一同で花園神社の酉の市に参っており、花園神社と言えば、酉の市の本家、などと勝手に思い込んでいたのだが、散歩を重ねるにつれ、足立区花畑の鷲神社がその始まりであるように思えてきた。そして、その賑わいの理由も鷲神社の酉の市のときには当時禁止されていた賭博が許され、それを目当てに足立区の端まで多くの人が足を運んだ、と。が、賭博が禁止されると一転、「信仰」の足が鈍くなり、代わりに近場の浅草竜泉寺、大鷲神社で酉の市が賑わうことになる。賭博の代わりに吉原が登場しただけではある。信仰は「現世利益」と相まって賑わうものであろう、か、などとお酉さまについてあれこれ妄想を巡らせたことがある。
それはともあれ、花園神社は家康の江戸入府以前より祀られていた稲荷の祠がそのはじまり、のよう。場所は現在の伊勢丹の付近にあったものが、その地が寛政時代に旗本・朝倉筑後守の下屋敷とした拝領したため、代地として現在の地に移った。その地は徳川御三家・尾張徳川家の下屋敷の一部であり、美しい花が咲き乱れていた、とか。これを、花園神社の名前の由来とする。
とはいうものの、花園社と呼ばれ記録は享和3年(1803)が初見。それまでは稲荷神社とか、三光院稲荷、とか四谷追分稲荷と呼ばれていたようである。三光院稲荷と呼ばれたのは別当社が三光院であった、から。
明治の神仏分離令のとき、「村社稲荷神社」となる。書類提出時に「花園」を書き漏らしたとのこと。その後大正5年には「花園稲荷神社」と改名。さらに昭和40年には境内末社であった大鳥神社(尾張徳川家に祀られていたもの、と伝わる)を本社に合祀し「花園神社」とした。酉の市との関わりはこの頃からであろう、か。意外に最近のことであった。
常圓寺
そろそろ散歩を終えようと思うのだが、靖国通りに戻り、新宿大ガードをぐくり、新宿警察署前交差点の手前に道脇に大田直次郎こと蜀山人ゆかりの常圓寺がある。前を通ることも多いのだが、一度も境内にはいったことがないので、疲れた足をひきずり訪れることに。広い境内中庭、左奥の植込みの間に「便々館湖鯉鮒狂歌碑」がある。狂歌師である便々館湖鯉鮒(べんねんかんこりふ)の 「三度たく米さへこはし柔かし おもふままにはならぬ世の中」という狂歌を刻んであるが、これは大田南畝(1749-1823)の筆になるものである、と。便々館湖鯉鮒は牛込山吹町に住む茶人であり、狂歌師である大田南畝と交際していた。
大田南畝ゆかりの地はこのあたりにも多い。新宿十二社・熊野神社の手洗鉢(盥石)の銘文は南畝の手になるもの。「熊野三山 十二叢祠。。。」などと刻まれている。このため、往時の名所である「十二社」の由来は大田南畝による、とも言われる。成子坂を北に下り、十二社通りとの交差するあたりには江戸の頃、南畝との交誼をもつ土方作左右衛門の家があった。盥石の銘文も文政3年(1820)に、南畝が土方作左右衛門宅に立ち寄った際のものと、伝わる。成子坂付近には大田南畝の親友である平秩東作(へずつとうさく)の別邸もあった、とのことであるので、このあたりに訪れることも多かったのだろう。
常圓寺の本堂右側にしだれ桜がある。これはもと、小石川伝通院、広尾光林寺のものとならんで 「江戸三木」といわれ、また「江戸百本桜」の一とされたもの。現在に桜は「三代目として、昭和45年に植えられたもの。近くに天明期(1781-1789)の俳人冬暎の「うれしさや命をたねの初さくら」という句を刻んだ碑が残る、とか。寺には幕末に目付、長崎奉行、南町奉行、大目付などを歴任した筒井 政憲が眠る。
常泉寺
常泉寺常圓寺を離れ、お隣の常泉寺にある鬼子母神の祠にお参り。成子の子育て鬼子母神と呼ばれている。子育て、とはいうものの、既に大学生となった息子と娘の健やかな人生をお願いし、新宿駅へと向かい、本日の散歩を終える。それにしても、新宿散歩のメモは結構長くなる。歴史のある、というか記録の残る一帯は、今流行のAC広告機構の台詞ではないが、幾層もの知層が蓄積し、自己の好奇心を満たすには、結果的にメモが長くなってしまう。次回の散歩はあまり知層の多くない、自然の中を歩くことにしよう。