2011年4月アーカイブ

いつだったか新宿三栄町にある新宿歴史博物館を訪れたことがある。あれこれ展示資料をながめ、『新宿名所めぐり』や『新宿区史跡めぐり地図』といったお散歩の参考になる資料を買い求めた。準備万端、さて出発、というところだが、何となくその気になれなかった。知らない処を歩いてみたい、というのが散歩の基本としている我が身には、新宿区はあまりにも身近過ぎて、見慣れた景色を改めて歩くのには少々抵抗があったのだろう。今回新宿区を数回に分けて歩き始めたきっかけは、時にない。地図を眺め、なんとなく、といったところが、その始まりではある。散歩のルーティングもスタート地点だけを決め、あとはすべて成り行きとする。初回は神楽坂あたりから牛込台地を辿り昔の早稲田田圃へ、二回目は市ヶ谷から大久保へ、三回目は四谷見附から新宿へ、最後は落合の目白台の崖地あたりを彷徨うべし、と大雑把に決める。基本は成り行き。何に出合うか、お楽しみ、といった例によってお気楽なお散歩スタイルで散歩に出かける。



本日のルート;JR飯田橋駅>庚嶺坂>築土神社>逢坂>逢坂_最高裁長官公邸>牛込氏館跡_出版会館>牛込氏館跡_光照寺>光照寺先_地蔵坂>善国寺>神楽坂>若宮八幡>神楽小路>軽子坂>築土八幡>赤城神社>赤城坂>田中寺>大友の松跡>伝中寺>北野神社>渡辺坂>宗柏寺>済清寺>早大通り>元赤城神社>宗参寺>漱石公園>宝祥寺>感通寺>来迎寺>夏目坂>清源寺>来迎寺>夏目坂>誓清寺>天祖神社>穴八幡>放生寺>穴八幡前の金川跡>龍泉寺>宝泉寺>都電荒川線_早稲田駅>水稲荷>甘泉園>天祖神社>高田の七面堂>面影橋>新目白通り_明治通り交差点_河川が合流>神田川と妙正寺が合流>おとめ山公園>東山藤稲荷>氷川神社>七曲坂>妙正寺川の暗渠>神田川>JR高田馬場駅



牛込見附跡
神楽坂への最寄り駅JR飯田橋駅西口を出る。改札から外濠を神楽坂へ下る牛込橋の南詰めに大きな石垣。牛込見附跡である。江戸城外郭門のひとつであるこの牛込見附は、外敵の侵入を発見し防ぐもの。ふたつの門を直角に配置した「枡形門」となっていた、と。牛込見附が完成したのは江戸城の外濠が完成した寛永16年(1636年)。阿波徳島蜂須賀忠英公(松平阿波守)によって建設された。江戸の頃の牛込見附は田安門を起点とする「上州道」の出口でもあり、周辺に楓が植えられていたので「楓の御門」とも呼ばれる。石垣脇に隅櫓を持つ往昔の牛込見附の写真があったが、この櫓を含め大半の石垣も明治35年(1902)に撤去された。

牛込橋
外濠に架かる牛込橋を渡る。牛込見附と同じくこの橋も、阿波の蜂須賀公によって建設された。外濠は江戸城を取り巻く防御ライン。徳川幕府が政権を確固とした後、全国の諸侯に命じた天下普請とも称される大工事により、東西5キロ、南北4キロにも及ぶ江戸城の防御ライン・総構えが完成した。三代将軍家光の時代、寛永17年(1640 )の頃と言われる。この辺りの外濠を牛込濠と呼ぶ。市ヶ谷から牛込への濠の開削は自然の小川や沼地・湿地帯を利用し建設された。麹町台地と牛込台地の間の谷地、現在の靖国通りには往昔紅葉川の流れがあった、と言う。新宿区富久町付近を水源に、四谷四丁目・愛住町・河田町・荒木町・本塩町などから支流を集めつつ靖国通りに沿って流れ、市ヶ谷駅から飯田橋(へと進み神田川に注いでいたのだろう。四谷濠、市谷濠、牛込濠、飯田濠には西から東へと水位に段差があり、牛込橋の写真の下には「滝」らしき流れも見える、それって川の傾斜の名残ではあろう、か。

通常見附の御門の外には、社寺地が移され、その周囲に小規模な旗本地や大縄地(下級武士の屋敷地)が配されて御門の警護にあたった。通常、移される社寺地は谷筋や低湿地が多いとされる。寺社の訪れる人々や供え物故の「ごみ」を以てして、湿地の陸地化を図ったとする(『江戸の百年;鈴木理生』)。しかし、この牛込の社寺は台地上も多いように思える。寺社をも江戸の防御壁のひとつとしていたのであろう、か。牛込台地と外濠、その幅は大筒の弾道距離以上とのことであり、そして比高差20mとされる市ヶ谷台地側の土塁をもって、江戸のお城を護ろうとしたのであろう。

神楽河岸跡
牛込橋を渡ると外堀通・神楽坂下交差点。外濠は神楽坂下交差点から飯田橋にかけて大半が埋め立てられているが、江戸の頃は神楽河岸のあったところ。神田川が外濠と合流し、水道橋を越え、仙台伊達藩が開削したお茶の水の切り通しを抜けて大川(墨田川)に繋がる。江戸の町が大きく発展し、経済活動が盛んになるにつれ、当時の大量運送手段である舟運が盛んになり、大川と結ばれたこの神楽河岸には多くの舟が集まり、物流の拠点となっていったのだろう。
夏目漱石の『硝子戸の中』に、漱石の一族が浅草猿楽町の芝居見物にいくに際し、神楽河岸から屋根つきの船にのり、神田川(当時は江戸川)を柳橋に出て隅田川(大川)をさかのぼった、とある。永井荷風も、『日和下駄』に、「市中の生活に興味を持つものには物揚場の光景も亦しばし杖を留めるに足りる。夏の炎天神田の鎌倉河岸、牛込揚場の河岸などを通れば、荷車の馬は馬方と共につかれて、河添の大きな柳の木の下に居眠りをしている」、と舟からの光景を描く。。牛込門対岸の神楽坂界隈の賑わいは、こういった舟運の拠点であったことがその大きな要因ではあろう。 


庚嶺坂
神楽坂下交差点から神楽坂へと、とは想えども、神楽坂は結構訪ねてはいるので、それも今ひとつ芸がない。地図を見ると外濠を少し市ヶ谷方面に進んだところに、庚嶺坂とか堀兼の井といった地名がある。どんなところか、寄り道をすることに。東京理科大を越えた先に台地に上る道があり庚嶺坂とある。どんどん上っていけば若宮八幡前を通って毘沙門天毘沙門天(善国寺)まで続き、そこで神楽坂にぶつかる。名前の由来は、江戸初期この坂あたりに多くの梅の木があったため、二代将軍秀忠が中国の梅の名所の名をとったとの説など、あれこれ。坂の名前も「行人坂」「唯念坂」「ゆう玄坂」「幽霊坂」「若宮坂」など、これもあれこれ。 

 
築土神社
少し先に進み東京日仏学院への小径を左に折れると船河原町に。そこに筑土神社の小さな祠が佇む。九段にも筑土神社があるし、飯田橋の近くにも筑土八幡がある。どういうことか、チェックする。
船河原町はもともと江戸城内の平河村付近(現 ・千代田区大手町周辺)にあった。1589年江戸城拡張の際、氏神の津久戸明神社と共に江戸城牛込門内(現・千代田区飯田橋駅西口付近へ移転。さらに1616年、津久戸明神社が筑土八幡町に移転し筑土八幡神社の隣に鎮座した。
船河原町も船河原橋(現・千代田区飯田橋駅東口付近;飯田橋交差点の神田側に架かる橋の名前は船河原橋と呼ばれるのは、その名残だろう、か。)に代地を与えられた。が、しかし、住民はさらに西の地へ移転することを希望し、結局、現在地に代地を得て移り住み、明治5年に近隣の武家地を編入して現在の「市谷船河原町」が成立した。九段に築土神社があるのは、戦後、津久戸明神社が築土神社として千代田区九段に移転した、ため。船河原町は現在地に留まったことから、ここに飛地社を建て、築土神社の氏子であることを示したものが、この地の筑土神社の小祠である。

船河原町築土神社は平将門公を祀る摂社、と伝わる。天慶3年(940)、藤原秀郷に討たれ、京都に晒されていた将門の首を密かに持ち出して、その首を平河村にあった観音堂に移し、津久戸明神と称した。この津久戸明神社が明治になり筑土神社となった。将門の首を入れて運んだ桶が、戦前まで築土神社に秘蔵されていた、とも。
この神社には江戸の頃、「堀兼(ほりがね)の井戸」と呼ばれる井戸があった、と伝わる。東京都新宿区教育委員会の案内によれば;堀兼の井とは、 「ほりかねる」からきており、 掘っても、掘ってもなかなか水が出ないため、 皆が苦労してやっと掘った井戸という意味。  堀兼の井戸の名は、ほかの土地にもあるが、市谷船河原町の堀兼の井には次のような伝説がある。
昔、 妻に先立たれた男が息子と二人で暮らしていた。 男が後妻を迎えるも、後妻は息子をひどくいじめた。 この男もまた、後妻と共に息子をいじめるようになり、庭先に井戸を掘らせた。 息子は朝から晩まで素手で井戸を掘ったが水は出ず、 とうとう精根つきて死んでしまった、と。何を伝えたい話なのだろう??


逢坂
筑土神社を離れ、坂を上る。逢坂、とある。案内によれば、奈良時代、武蔵守となりこの地を訪れた小野美作吾が、麗しき娘と恋仲となる。任期を終えた小野美作吾は都に戻るも没する。夢枕でそのことを知った娘は悲しみのあまり後を追った、と。夢で逢った故の逢坂という地名ではあろう。逢坂は「大坂」とも「美男坂」とも呼ばれる。美男坂は、植物の「サネカズラ」が「ビナンカズラ」ともよばれるためだろう、か。娘の名前が「さねかずら」であったため、ではあろうが、ちょっと無理があろう、か。

幕府徒組屋敷跡
坂を上るに、たいそう立派なお屋敷がある。お屋敷の角を曲がり神楽坂方面に向かうと警備の警察官が立哨。どなたのお屋敷と訪ねると最高裁判所長官の公邸、とのことであった。坂を上りながら町名を見るに、このあたりは昔からの町名が残っている。逢坂から長官公邸脇を進むだけでも、道の一筋毎に町名が変わる。払方町、南町、中町、北町。この辺りはもともと、天竜寺の境内地であったようだが、天竜寺が新宿四丁目に移った跡地が幕府徒組屋敷となり、北側を北御徒町、中央部を仲御徒町、南側を南御徒町と称した。明治5年(1872)に「御徒」を略し、「牛込」を冠したが、 明治44年に「牛込」も略し現在の町名となった、とか。また、払方も、天竜寺の境内後地が払方御納戸同心の拝領地となった、ため。

大田南畝
中町の隅に大田南畝生誕の地の案内がある。父親が徒組、将軍外出の際の徒歩で沿道警備を担った役人であったのだろう、か。大田南畝は誠に魅力的な人物である。18世紀末、天明期を代表するこの文人・狂歌師そして能吏には散歩の折々で出合うことも多い。文京区散歩の時は白山通り脇の本念寺には大田南畝が眠る。上野公園には蜀山人の碑;一めんの花は碁盤の上野山 黒門前にかかるしら雲 。向島百花園の扁額、赤札仁王さまで名高い北区・田端の東覚寺には蜀山人の狂歌碑;「むらすずめ さはくち声も ももこえも つるの林の 鶴の一声」。新宿・十二社の熊野神社には太田南畝の水鉢があった(2010年9月に訪れた時、水鉢は消えていた)。神田駿河台には蜀山人終焉の地の案内;南畝辞世の句、「生き過ぎて 七十五年食ひつぶし 限りしられぬ 天地の恩」。入谷の鬼子母神には「恐れ入谷の鬼子母神、どうで有馬の水天宮、志やれの内のお祖師様」が残る。文京区散歩では牛天神で貧乏神を描く南畝にも出会った。

(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)数値地図25000(数値地図),及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平22業使、第497号)」)


都内だけでなく多摩でも出会う。国立の谷保天神は南畝によって「野暮天」のキャッチフレーズをつけられところ:「神ならば出雲の国に行くべきに目白で開帳やぼの天神」。目白で出開帳を行い、お賽銭を集めたことを皮肉った。日野の安養寺は南畝の『調布日記』に「大きさ牛をかくすといひけん木々の銀杏2本並びたてり、かのちちというものあまたありて目を驚かす」と記されている。
『調布日記』は南畝が玉川通勘定奉行方として多摩川地方の水害調査に訪れた時の地誌録。その折りのこと、日野の本陣では当主手作りの蕎麦を食し「ことし日野の本郷に来りてはじめ蕎麦の妙をしれり......しなのなる粉を引抜の玉川の手づくり手打よく素麪の滝のいと長く、李白が髪の三千丈もこれにはすぎじと覚ゆ」という蕎麦賞味の所感を書いている。ついでのことながら、本邦初のグルメ本『頭てん天口有(あたまてん てんにくちあり)」』を著したのも南畝と言う。
太田南畝は18世紀末、天明期を代表する文人・狂歌師。若くして四方赤良(日本橋で有名な味噌「四方の赤、から)のペンネームで活躍。有名な「世の中に蚊ほどうるさきものはなしぶんぶといひて夜もねられず」も四方赤良の句、とも言われるが、寛政の改革での戯作者の弾圧を見るにつけ、逼塞が得策と狂歌から離れる。その後、幕府の人材登用試験に主席で合格。とはいうものの竹橋の倉庫での文書整理。「五月雨の日もたけ橋の反故しらべ 今日もふる帳あすもふる帳」と詠んでいる。
19世紀の頭には大阪銅座に赴任。銅にちなんだペンネーム「蜀山人」を使うのはこれ以降。その後長崎奉行所に赴任。はじめてのコーヒーのテースティングを記す;紅毛船にてカウヒイといふものを飲む。豆を黒く炒りて粉にし、白糖を和したるものなり、焦げくさくして味ふるに堪ず。上記多摩川巡視は60歳の頃と言う。
誠に多彩な人物。現在もっとも興味のある人物でもある。狂歌師、能吏、『調布日記』や『玉川砂利』、『向丘閑話』、。『改元紀行』等の十九冊にも及ぶ紀行文。それと水練の技を引き継ぐ家柄として、将軍家治の御前での水泳披露など、誠におもしろい。メモをはじめると終わりそうにないので、ちょっと狂歌をならべ、クロージングとする;
「雑巾も 当て字で書けば 蔵と金あちら拭く拭く(福々)こちらふくふく」。
「一刻を千金づつにつもりなば六万両の春のあけぼの」
「いまさらに何をかをしまん神武より二千年来くれてゆくとし」
「世の中に絶えて女のなかりせばをとこの心のどけからまし」
「今までは 人のことだと 思ふたに 俺が死ぬとは こいつはたまらん」
「世の中は金と女がかたきなりどふぞかたきにめぐりあひたい」 
なお、太田南畝を描いた小説には平岩弓枝さんの『橋の上の霜』がある。愛憎に悩む南畝の姿が描かれる。

牛込氏館跡
台地を進み、地下鉄・牛込神楽坂駅へ下る坂の手前で右に折れ、少し進むと日本出版クラブ会館。玄関脇に牛込城址や天文屋敷跡の説明があった。案内にあった『新暦調御用所(天文屋敷)跡;新宿区袋町六番地 この土地の歴史の変遷』を引用する;「当地は天正十八年徳川家康が江戸城に入府する迄、上野国大胡領主牛込氏の進出とともに、三代にわたる居館城郭の一部であったと推定される。牛込氏の帰順によって城は廃城となり、取り壊されてしまった。正保二年居館跡(道路をへだてた隣接地)に神田にあった光照寺が移転してきた。その後、歌舞伎・講談で有名な町奴頭幡随院長兵衛が、この地で旗本奴党首の水野十郎左衛門に殺されたとの話も伝わるが定説はない。
享保十六年四月、目白山より牛込・麹町・虎の門まで焼きつくした大火により、この地一帯は火除地として召し上げられ、さら地となった。明和二年当時使われていた宝暦暦の不備を正すため、天文方の佐左木文次郎が司り、この火除地の一部に幕府は初めて新暦調御用所(天文屋敷)を設け、明和六年に修正終了したが、天明二年近くの光照寺の大樹が観測に不都合を生じ、浅草鳥越に移転した。佐佐木は功により、のちに幕府書物奉行となり、天明七年八十五歳で没す。墓は南麻布光林寺。以後天明年中は火除地にもどされ、寛政から慶応までの間、二~三軒の武家屋敷として住み続けられた。弘化年中には、御本丸御奥医師の山崎宗運の屋敷もあった。この時代の袋町の町名は、今に至るまで変わる事はなかった。近世に入ってからこの地に庭園を構えた高級料亭一平荘が開業し、神楽坂街をひかえ繁栄していたという。昭和二十年の大空襲により神楽坂一帯はすべて焼失し焼跡地となった。 「
戦後は都所有地として高校グラウンドがあったが、昭和三十年日本出版クラブ用地となり、会館建設工事を進めるうち、地下三十尺で大きな横穴を発見、牛込城の遺跡・江戸城との関連などが話題となり。工事が一時中断した。昭和三十二年会館完成現在に至っている。2007年1月 平木基治記(文芸春秋)」(この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)

道を隔てた光照寺の境内入口にも案内;「光照寺一帯は、戦国時代にこの地域の領主であった牛込氏の居城のあった所である。堀や城門、城館など城内の構造については記録がなく、詳細は不明であるが、住居を主体とした館であったと推定される。
牛込氏は、赤城山の麓・上野国(群馬県)勢多郡大胡(おおご)の領主大胡氏を祖とする。天文年間(1532~55)に、当主大胡重行が南関東に移り、北条氏の家臣となった。天文24年(1555)重行の子の勝行は、姓を牛込氏と改め、赤坂・桜田・日比谷付近も含め領有したが、天正18年(1590)北条滅亡後は徳川家に従い、牛込城は取り壊された。現在の光照寺は正保2年(1645)に、神田から移転したものである。
光照寺境内には新宿区登録文化財「諸国旅人供養碑」や「便々館湖鯉鮒(べんべんかんこりう)の墓などがある(東京都教育委員会の案内文より)」。「諸国旅人供養碑」とは神田松永町旅籠屋紀伊国屋利八が、その旅籠に滞在中に亡くなった旅人を弔ったもの。便々館湖鯉鮒(べんべんかんこりう)は狂歌師。大久保の円常寺にある石碑には、大田南畝の筆による便々館湖鯉鮒の歌・「三度たく米さへこはし柔かし おもふままにはならぬ世の中」が刻まれている。また、境内には出羽国(秋田・山形地方)松山藩主酒井家の歴代藩主一族のお墓もある、とのことである。

牛込城は牛込台地の上に位置し、北は大久保通りへ下る崖地、東は寺の境内あたりであり、舌状台地の東北端、南は最高裁長官公邸南の崖地、西は北町・中町・下町のあたり、前面は紅葉川の流れる谷地や低湿地。北条氏の居城・江戸城のある麹町台地と、深い谷を隔てた牛込台地に構えたこの牛込城は標高27m、往昔、江戸湊への出船入り船が見える高台であり、江戸城を守る出城のひとつであったのだろう。

地蔵坂
光照寺から神楽坂の善国寺に向かう。神楽坂へと下る坂は地蔵坂と呼ぶ。名前の由来は光照寺に「子安地蔵」があった、ため、とか、境内の狸が地蔵に化けて、夜な夜な坂を通る人を誑かしたため、とか説はあれこれ。この地蔵坂は「藁坂」とも呼ばれる。江戸の頃、神楽河岸で荷揚げされた荷は、荷馬車で各方面に運ばれるわけだが、蹄鉄(ていてつ)のなかった時代には馬のひづめは、藁で保護していたわけで、坂の途中に藁を扱う店があり、一帯を藁店横町と呼んでいたのが藁坂の地名の由来。南畝は「子どもらよ笑わば笑へ藁店のここはどうしよう光照寺」と詠んでいる。坂で転んだ姿を子供に笑われたことを詠んだのだろう。

善国寺
毘沙門天で知られる善国寺の開基は古く、文禄4年(1595)。家康と親交のあった池上本門寺の貫首が、家康の江戸入府に際し、持仏の毘沙門天をもって天下泰平を祈祷。それを徳とした家康は日本橋馬喰町に寺地を寄進し、鎮護山善国寺と名付け自らが開基となった。徳川将軍家だけでなく、徳川御三家のひとつ、水戸光圀公も法華・毘沙門天への信仰が深く、寛文10年(1670)に善国寺が焼失すると、麹町に再建し、田安・一橋家の祈願所ともなる。
この地に移ったのは寛政4年(1792)。享保、寛政年間の大火により神楽坂の現在地に移転。仏法護持の四天王随一の守護神であり、別名多聞天と称される如く、願いを「多く聞いて」くださり、七福神のひとりでもある毘沙門天への信仰は時代とともに盛んになり、将軍家、旗本、大名へと広がり、江戸末期、特に文化・文政時代には庶民の尊崇の的ともなり、江戸の三毘沙門の随一として、「神楽坂毘沙門」の名を高める。当初は殆ど武家屋敷だけであった神楽坂界隈も、この善國寺の移転に伴い、徐々に町屋も増えていった、とか。
東京で縁日の露店が出るようになったのも善国寺が発祥とされる。当時の縁日の賑わいは相当なもので、人出のために車馬の往来が困難をきたした、とも。甲武鉄道の牛込駅ができた明治にはさらに賑やかな一帯となり、大正の頃には毘沙門天の縁日と相まって「山の手銀座」と呼ばれるほどであった、と。

神楽坂
善国寺のお参りを済ませ人混みの中、神楽坂を下る。江戸時代の切り絵図などを見るに、当時は段坂であった。また、坂の両側は武家屋敷や寺地が目立つ。神楽坂の地名の由来は、坂の途中に高田八幡(穴八幡)の御旅所があり、神楽が聞こえていた、とか、津久戸明神が田安よりこの地に移ったときに神楽を演奏したことによる、とか、若宮八幡からの神楽が聞こえた、とか、市ヶ谷八幡の神輿が祭礼の時、牛込見附のあたりで神楽を演奏したから、とか、例によってあれこれ説があり、はっきりしない。

若宮八幡
坂を下り、なりゆきで右に折れ若宮八幡に寄り道。源頼朝が奥州の藤原氏と義経討伐の折この地で下馬し祈願したとされ、奥州平定後、この地に鎌倉の若宮八幡宮(鶴岡八幡宮の若宮社)の御神体を勧請した、と伝わる。文明年間(1469~87)には、太田道灌によって再興されるなど、かつては周辺の高台すべてを境内とする、といった構えであったようだが、現在は少々つつましやかな境内に鉄筋コンクリートの社殿が佇む。



軽子坂
若宮八幡を離れ、庚嶺坂を見下ろしながら、成り行きで東京理科大の裏手を進み、神楽坂に戻る。人通りの多い通りを外れ坂の東の路地に入る。神楽小路とあり小さな飲食店が続く。先に進むと南北に通る道にでる。軽子坂とある。神楽河岸で荷揚げされた米などの荷を、軽籠(かるこ;縄で編んだもっこ)を背負って運搬する人夫達(軽籠持>軽子)がこの地に多く住み往き交っていたのが、坂名の由来。
外濠の神楽河岸の北には揚場町(あげばちょう)と言う名の町がある。江戸時代以前から大沼に面し牛込城の荷上場として古くからあったとのことであるが、江戸の頃になると、大川(隅田川)から神田川をさかのぼってくる荷船の荷を軽子が荷揚げし、坂を上っていったのであろう。ちなみに、この軽子坂の道筋は鎌倉時代に武蔵国府中と下総国国府台の両国府をむすぶ道として整備されたもの、とも伝わる。

寺内公園・行元寺跡
軽子坂を進み路地があれば成り行きで寄り道し、神楽坂中通りとか、かくれんぼ横町とか、芸者新道とか、本多横町とか、兵庫横町とか、神楽坂の路地を彷徨い、北に進むと「寺内公園」の一角に出合う。公園脇の案内によれば、この地に行元寺があった。1907年(明治40年)の土地区画整理で品川区西五反田へ移転し、その後は寺内(じない)と呼ばれるようになったとのことだが、行元寺は鎌倉時代の末には既に開基されており、本尊の「千手観音像」は、太田道灌、牛込氏はじめ多くの人々の信仰も篤く、往昔、広大な寺域を誇っていた、と言う。そしてその境内は町屋や遊興の場として賑わってくる。この行元寺の境内が神楽坂花柳界の発祥の地、とのことであった。

筑土八幡宮
大久保通りを少し飯田橋方面へと戻り筑土八幡町交差に。交差点脇の石段を上り筑土八幡神社に。江戸の頃は筑土八幡宮と呼ばれた古社である。社伝によれば、嵯峨天皇の時代(809年8 - 823年)に、この地の古老の夢に現われた八幡神のお告げにより祀ったのがその起源。その後、九世紀の中頃、慈覚大師が東国を訪れた際に祠を立て、伝教大師の作と言われた阿弥陀如来像をそこに安置したという。文明年間(1469年1- 年)には、当地を支配していた上杉朝興によって社殿が建てられ、この地の鎮守とした。上杉朝興の屋敷付近にあったという説もある。

慈覚大師
慈覚大師って、目黒不動や高幡不動、それに浅草の浅草寺など。散歩の折々に現れる。第三代天台座主であり、最澄が開いた天台宗を大成させた高僧である。45歳の時、最後の遣唐使として唐に渡る。三度目のトライであった、とか。9年半におよぶ唐での苦闘を記録した『入唐求法巡礼記』で知られる。
円仁さんが開いたというお寺は関東だけで200強、東北には300以上ある、と言う。江戸時代の初期、幕府が各お寺さんに、その開基をレポートしろ、と言った、とか。円仁の人気と権威にあやかりたいと、我も我もと「わが寺の開基は、円仁さまで...」ということで、こういった途方もない数の開基縁起とはなったのだろう。
それはそれとしてもう少し円仁さんのこと。日本で初めての「大師」号を受けたお坊さん、と言う。とはいうものの、円仁さんって最澄こと伝教大師のお弟子さん。弟子が師匠を差し置いて?また、「大師」と言えば弘法大師とも云われる空海を差し置いて?チェックする。大師号って、入定(なくなって)してから朝廷より与えられるもの。円仁の入定年は864年。大師号を受けたのが866年。最澄の入定年は862年。大師号を受けたのが866年。と言うことは、円仁は最澄とともに大師号を受けた、ということ、か。一方、空海の入定年は835年。大師号を受けたのが921年。大師と言えば、の空海が大師号を受けるのに、結構時間がかかっているのが意外ではある。どういったポリテックスが働いた結果なのだろう。

上杉朝興は扇谷上杉の当主。江戸城との関連で言えば、太田道灌(扇谷上杉の家宰)の築いた江戸城を小田原北条との覇権争いにおいて、髙輪の台地で行われた高縄原の合戦で敗れ、河越城に落ち延びた。その後も北条との抗争を繰り返すも、江戸城奪回はならず、河越城でなくなった。
筑土八幡宮には元和2年(616年)以来、300年近く津久戸明神社が並び建っていた。江戸城田安門江戸城付近にあった田安明神がこの地に移転し、津久戸明神社と称したわけである。
社は1945年に第二次世界大戦にによって戦災で全焼。津久戸明神社の方は千代田区九段北千代田区1945年にによって戦災で全焼。津久戸明神社の方はに移転し現在に至る。このことは既に船河原町の筑土神社のところでメモした。

平将門
津久戸明神、現在の筑土神社は平将門を祀る。将門と言えば神田明神でしょう、とのことではあるが、歴史的経緯を見れば、将門と言えば津久戸明神・筑土神社が本家でしょう、とも思える。
10世紀前半に平将門の乱。争乱の経緯は省くとして、結局将門は武運つたなく討ち取られ首級は京の都に晒される。伝説によれば、首は天空を跳び柴崎の地、現在の大手町の三井物産の近くに飛来したとのことだが、そんなこともあるわけもなく、実際のところは、将門ゆかりの人々が密かに持ち帰ったのだろう。その首級をまつった祠・観音堂が津久戸明神=築土明神のはじまり、という。この段階では将門との関係は津久戸明神=築土明神に大いに分があり、そもそも神田明神は姿も形も、ない。
更に時代は下った14世紀のはじめ、時宗の真教上人が柴崎の地を訪れる。当時、この地は疫病が流行しており、それは将門の祟りであると、朽ち果てていた祠を修復し供養する。と、あら不思議疫病が退散。上人を徳とした村人は近くの寺・日輪寺に留まるよう懇願。上人は天台の寺であった日輪寺に留まり、寺を時宗に改め念仏の道場とした。また、上人は近くにあった祠(安房神社との説も)を修復し、そこに将門の霊を合祀しその社を神田明神と名付ける。同時に日輪寺も神田山日輪寺と改名し、両社とも将門の霊を祀る所となった。ここで神田明神と将門が結びついた。神田の由来は、将門の胴塚をまつる茨城県岩井の地を神田山(かどやま)と呼ぶようだが、それに関係あるのだろうか。
更に更に時代が下って江戸の頃。江戸城の築城に際し津久戸神社は神楽坂に、日輪寺は浅草の柴崎、神田明神は現在の神田駿河台に移る。神田明神は江戸城の鬼門の守護神として徳川家の庇護を受け大いにそのプレゼンスを高める。氏子は江戸の下町の半分以上を占めたと言う。現在で言えば、日本橋、秋葉原、大手丸の内、旧神田市場、築地魚市場などなど108町会をカバーしている、とか。現在将門と言えば神田明神とされるのは、かくの如きパワーポリテックスの勝利、か。単なる妄想。根拠なし。

田村虎蔵旧居跡
境内を進み、神社裏手より坂を下り大久保通に戻る。坂の途中に「田村虎蔵旧居跡」の案内。明治の作曲家。「きんたろう」「だいこくさま」「大江山」「青葉の笛」「一寸法師」「はなさかじじい」「うらしまたろう」などの唱歌を作る。筑土八幡の境内には「田村虎蔵の顕彰碑」があったようだが、見逃した。

赤城神社
三代将軍家光の頃、世子家綱の御殿があったことに由来する御殿坂を下り終え、大久保通に戻り、早稲田通りとの交差する神楽坂上交差点に。交差点を右に折れ早稲田通り、というか神楽坂の続きを進み赤城神社に。
この神社には何度も訪れている。1300年(正安2年)、牛込城を拠点にした大胡氏が故郷である赤城の赤城大明神を分祠したのがその始まりとするこの社は、つい最近までは、それなりに、神社、といった趣の社ではあったのだが、今回訪れたときは全くの様変わり。本殿、神楽殿を含め境内全体が、現代風の建築デザインによる「お宮さま+マンション+地域センター」といった複合施設になっていた。お宮様と三井不動産の共同事業であるとのことである。

赤城坂
境内からしばし神田川方面の低地を見やり、境内横手にある崖地の急な石段を下る。坂道は赤城坂とある。「新撰東京名所図会」によれば「...峻悪にして車通るべからず...」とある。現在でも結構きつい坂である。舗装のされていない往昔は難路であったのだろう。赤城下町の民家と町工場が混在する一帯を進む。東五軒町に出版取次の大手・東販もあり、版元も多いのか小さな製本業者、印刷業者が多いように思える。


渡辺坂
道を成り行きで進み、田中寺(でんちゅうじ)さんとか、傳久寺といったこざっぱりとしたお寺様にお参りをしながら中里町と山吹町の間の通を進み少し大きな通に出る。神楽坂からの道・早稲田通りの牛込天神交差点より江戸川橋へと下る通りである。江戸川通りと呼ばれる通りに、「渡辺坂」との案内があった。江戸の頃、坂の東側に旗本渡邊源蔵の屋敷があった、ため。源蔵は五百石取りの御書院番の渡邊家は幕末までこの地にあった、とか。ちなみに、早稲田通り・牛込天神町交差点の三叉路の坂は地蔵坂と呼ばれる。『砂子の残月』に「地蔵坂 酒井修理太夫下屋敷脇 天神町へ下る坂也」とはあるが、坂名の由来については不明である。近くに、地蔵尊でもあったの、か。

北野神社
江戸川通の西に北野神社がある。交差点に牛込天神町とあるくらいなので、なんらかの因縁があるものかと通を渡り境内に。ビルと住宅に周囲をかこまれた、こじんまりとした佇まい。近年立て直したのか、新しい感じもする。牛込天神と地名を関するような大層な構えではないのだが、あたりに北野、といった天神さまに関係のあるような社もないようであり、地域の人々より天神町の天神様と崇敬されてきた、とも伝わるので、多分牛込天神とはこの社なのだろう、か。
早稲田大学の西に水稲荷がある。その境内に末社の北野神社がある。往昔は高田天満宮と呼ばれ、この地の近く榎町の済松寺の近くにあった、と言う。また、その天神様は済松寺近くにあった戦国大名である大友義統(よしずみ)の屋敷に、太宰府天満宮を祀り、その地を天神町とした、との説もある。はてさて、牛込弁天様はどこにいたのだろう。

宗柏寺
北野神社を牛込天神町交差点まで戻り、西に折れて宗柏寺に。このお寺様は寛永8年(1631年)日蓮宗の大僧都・日意上人が、父である尾形宗柏の菩提を弔うべく開いたもの。宗柏の母は本阿弥光悦の姉。日蓮宗に深く帰依した本阿弥家の影響もあったのか、宗柏も熱心な日蓮宗徒であった。ちなみに、尾形光琳、陶芸家の尾形乾山は尾形宗柏の孫である。宗柏は京の呉服商・雁金屋の三代当主。元和六年(1620)、二代将軍秀忠の女和子が後水尾天皇の女御(のち皇后、東福門院)となると、雁金屋(屋形家)は天皇家御用達の呉服商として出入りするようになり益々栄えた、と。秀忠の妻は浅野長政の三女・お江。尾形家はもともと浅井家との繋がりがあり、お江が売り込みのバックアップをしたとか、しいない、とか。
宗柏寺に安置される釈迦尊像は、もとは比叡山延暦寺にあったものと伝わる。元亀二年(1571)、織田信長によって比叡山延暦寺の諸堂宇が焼き尽くされたおり、一人の学僧によって難を免がれ、密かに尾形家に安置されていた。その像を後水尾天皇が御宸翰(ごしんかん)に「釈迦牟尼仏」の号を賜った、と。これも東福門院(和子)とのつながりゆえ、か。
宗柏寺は一橋家の祈願所ともなり、また江戸庶民の信仰も篤く、元禄年中(1688~1703)に入ると、物見遊山をかね、当寺に安置される釈迦尊像や鬼子母神、浄行菩薩へ参詣に訪れる人びとがあとを絶たなかった、とのこと。境内を歩くとお百度参りの方が見受けられた。これは江戸の文化・文政の頃から盛んにおこなわれ、「お百度」を踏む善男善女が絶えることがなかった、と。明治三十一年(1898)に刊行された『新撰東京名所図会』によると『── 日々繁昌せる霊場にして、大刹ならざるも結構観るに足れり ── 右に銅製の灯明塔次に石の地蔵あり、之を束子にて洗ふ者多し、左に百度石ありて、来りて百度を踏み御符を請ふ者、時として絶ゆることなし ──』、とある。

済松寺
宗柏寺を離れ通りの北にある済松寺に向かう。将軍家光がその侍女・おなあさん(出家して祖心尼と称する)のために建てた寺、という。江戸名所図会を見るに広大な構えである。どんなものか期待をしながら門前につくも、門は閉じられている。一般公開はしていないようであった。
おなあさんの生涯は波瀾万丈である。伊勢国・岩手城主 牧村利貞の娘として生まれるも、父は朝鮮の役で戦死。父の友である前田利家に引き取られ、成長。後に小松城主・前田家に嫁ぐも離縁。その理由は不明。失意のおなあさんは妙心寺にて禅に出合う。その後、縁あって会津藩・蒲生家の重臣である町野幸和に嫁ぐも、藩主の急逝により蒲生家は取り潰し。浪人として江戸に移った一家は叔母でもある春日の局の薦めもあり、江戸城の大奥へ。大奥を取り仕切る春日の局の名補佐役として、禅の心をもって大奥の人々の心の拠り所となるとともに、将軍家光にも禅の心の影響を与え、全幅の信頼を得るに至った、と。何故将軍が侍女のために寺を建てたのか、との疑問に対しては、かくの如き経緯があったようだ。
寺領は三百四十五石で、この地域では榎町、天神町、中里町、高田町、馬場下町、早稲田町、原町他を含む広大なもの。江戸の名所図会を見るに、境内には七堂伽藍が整備され堂々とした構えである。その、広大な寺と土地を管理するために濟松寺代官が設けられたほど、と言う。明治の廃仏毀釈や大戦での空襲で堂宇は破壊・焼失し、現在の諸堂はその後立て直されたもの。

由比正雪旧居跡
名刹を離れ、榎町から東榎町の境を進む。このあたり、濟松寺門前から東榎町、天神町にかけての一帯には、その昔由比正雪の屋敷があった、とか。五千坪の敷地に門弟五千人を抱えていた、と。それにしても門弟五千人とは、途方もない数である。正雪が謀るも未遂に終わった「慶安の乱」、未曾有の幕府転覆を謀るこの事件の探索の過程で、紀伊大納言花押の文書が見つかり、事件への加担の疑義が出たという。真偽のほどは定かではないが、こういった大名の後ろ盾もあっての正雪一派の隆盛であったのだろう。

加二川と蟹川
都立山吹高校脇を通り都道319号・外苑東通りに。往昔、この道筋に沿って加二川が流れていた。源頭部は市谷薬王寺町・市谷仲之町交差点あたり、と言う。カシミール3Dでつくった地形図を見るに、牛込台地を刻み、その湧水を集めて下る。
川と言えば、この都立山吹高校あたりで加二川に合わさる川があった。蟹川(金川、とも)と呼ばれるその川の源頭部は新宿歌舞伎町あたりにあった池。そこから、新宿文化センター通り、職安通り下、戸山ハイツ、馬場下町、穴八幡宮、早稲田鶴巻町と進み都立山吹高あたりで加二川と合わさり、神田川に注いだ、と言う。こちらは加二川と違って台地での比高差があまりなく、淀橋台地と豊島台地の裂け目を流れる水路、とか。
現在は多くの家並みの続くふたつの川の合流する一帯は往昔、氾濫原としての低湿地や池が拡がっていたようである。稲田や茗荷畑の拡がる一帯は西に穴八幡の丘、北は関口の台地が見渡せる一面の田畑であったが、明治15年開校の東京専門学校が明治35年に早稲田大学と改称されるにおよび、山吹町から大学への道ができ、次第に水田、茗荷畑も消えゆき現在の繁華な街並みへと変化していった、とのことである。

元赤城神社
外苑東通りを渡り元赤城神社に。誠につつましやかな祠である。この地が元々の赤城大明神を大胡氏が分霊を勧請したところ、と言う。神社脇にあった案内によれば、その昔は、この辺りに多くの牧場があり、それが牛込の地名の由来、とあった。この説明はちょっと大雑把。チェックすると、大宝元年(701)、大宝律令で厩牧令(きゅうもくれい)が出され、全国に国営の牛馬を育てる牧場(官牧)と、皇室に馬を供給するための牧場(勅旨牧)が設置された。東京には「檜前の馬牧(ひのくまのうままき)」「浮嶋の牛牧」「神埼の牛牧」が置かれたと記録にあり、「檜前の馬牧」は浅草、「浮嶋の牛牧」は本所に、そしえ「神崎の牛牧」はこの牛込におかれたとされる。これで納得。

宗参寺
元赤城神社を離れ外苑東通りに往昔の加二川の面影を思いながら南に進み、早稲田通り・弁天町交差点に。西に折れ、通を少し入ったところに宗参寺があった。このお寺さまには牛込城主であった牛込氏歴代の武士が眠る。また、江戸時代の儒学者・兵学者である山鹿素行も眠る。会津に生まれた素行は江戸で儒学・兵学を学ぶも当時の官学である朱子学を批判し、赤穂へと流される。内匠頭の祖父長直が、素行に深く傾倒していたことが、蟄居を命じられた素行を赤穂藩が受け入れた主因、とか。赤穂浪士の討ち入りの時の、山鹿流の陣太鼓は世に知られるが、素行が赤穂で門人を広く集め教えを講じたことはあまりないようだ。本当に陣太鼓が鳴ったの、かなあ?

漱石公園
宗参寺脇のゆるやかな坂をのぼり早稲田南町に漱石公園。この地は明治40(1907)年から大正5(1916)年に、漱石が亡くなるまで過ごした「漱石山房」があったところ。この地で『三四郎』『それから』『こころ』といった代表作を執筆した。現在は、「新宿区立漱石公園」と整備されている。



夏目坂
道草庵という資料館で少々時間を過ごし、喜久井町の坂を下り、地下鉄早稲田駅前交差点へと下る。坂の途中、この坂を夏目坂と呼ぶが、道脇に「夏目漱石誕生の地」の祈念碑がある。漱石は慶応3年(1867年)1月5日、この地、現在の喜久井町1番地で誕生。誕生の地から若松町の方へと上る坂を「夏目坂」と命名したのは、漱石の父・直克。このことは、漱石自身が随筆「硝子戸の中」に書いている:「父はまだその上に自宅の前から南へ行く時に是非共登らなければならない長い坂に、自分の姓の夏目という名をつけた。不幸にしてこれは喜久井町ほど有名にならずに、ただの坂として残っている。しかしこの間、或人が来て、地図でこの辺の名前を調べたら、夏目坂というのがあったと云って話したから、ことによると父の付けた名が今でも役に立っているのかも知れない。『硝子戸の中』」。喜久井町は、井桁菊の夏目家の紋章にちなんだもの。江戸幕府が開かれる前から牛込の郷土として土着していた夏目氏は、元禄期以降、馬場下の名主を世襲していたため、町名を当家にゆかりのあるものとできたのだろう、か。

誓閑寺
喜久井坂を下りながら地図を見るに、喜久井町の周囲には多くのお寺さまが建つ。すべてを辿りたい、とは思えども、余り時間もない。せめてはと、喜久井坂の途中にある誓閑寺に立ち寄る。
このお寺さまは元々、深川にあったものが、明暦の大火の後、この地に移った、と。明暦の大火の後、防火対策を含めた江戸の都市計画によって寺を江戸の郊外に移したと言う。付近の多くのお寺さまも、同様の経緯によってこのあたりに移ったものであろう、か。「・・・カンカンと鳴る誓閑寺の鐘の音は、いつでも私の心に悲しくて冷たいある物をたたき込むように小さい私の気分を寒くした・・・」、と漱石の『硝子戸の中』にも描かれている。「江戸名所図会」にはお寺の境内を小川が流れていた、と言う。蟹川の流れであろう、か。


穴八幡
坂を下りきり、地下鉄早稲田駅前交差点にから早稲田通りを少し西に進み馬場下町交差点に。馬場下町とは、寛永13年にできた高田馬場の東側八幡坂の下にあった、ため。この馬場下町交差点に面した小高い丘に穴八幡が建つ。
交番横の流鏑馬像の脇の石段を上ると朱色の随神門。平成10年に再建された。社殿も平成10年、江戸権現造りにのっとり再建された。現在でも境内はゆったりしているが、江戸名所図会を見るに、誠に結構な構えである。康平五年(1062)、奥州の乱を鎮圧した源義家(八幡太郎)が、凱旋の折に、京都の岩清水神八幡宮を分霊・勧請したのがこの社のはじまりとされ、慶安二年(1649年)に徳川三代将軍家光の命により社殿も諸堂も完成した後は、江戸城の北を守る将軍家の祈願所となり、江戸屈指の大社となった。「子育て、子供の虫封じ」とか「厄除け」の神様としか知らなかったのだが、その虫封じにしたところで、我々庶民だけでなく、維新後も親王、内親王、皇族も祈祷に訪ねる、とか。、由緒ある社であった。

ちなみに、江戸名所図会には「高田八幡」とある。このあたりの地名が高田であるので、当然ではあるが、それが「穴八幡」となったのは、寛永十八年(1641)、この社に隣接する放生寺僧が、草庵を建てるべく、山すそを切り開いたところ、横穴が見つかり、そこに阿弥陀如来像が立っていた、と。この話が広まり、いつしか「穴八幡」と呼ばれるようになった。とか。
穴八幡の境内に隣り合わせる放生寺は、明治の神仏分離までは穴八幡の別当寺。穴八幡って、「一陽来復」のお守りで有名だが、この放生寺は「一陽来福」のお守り。文字は少々異なれど、江戸の頃から続くお守りである。

宝泉寺
馬場下町交差点の角にある法輪寺にお参りし、早稲田大学の大隈講堂方面へと進む。途中、道を右手に入ったところに宝泉寺。早稲田大学九号館をその裏手に従えている、といった風情。「江戸名所図会」の水稲荷(高田稲荷)の図を見ると、画の右下に宝泉寺が描かれている。現在水稲荷神社は早稲田大学との土地交換により、キャンパスの西手に移っているが、往昔、早稲田大学の敷地は水稲荷の境内であった、ということであり、宝泉寺はその別当寺。宝泉寺は早稲田大学キャンパス一帯に広大な寺域を誇っていたようである。ちなみに宝泉寺の隣は井伊掃部頭の下屋敷(現在の早稲田大学の敷地)である。宝泉寺の歴史は古い。承平年間(931~938)、平将門を倒した俵藤太こと藤原秀郷が京に上る途中、この地に立ち寄り開基した、と。その後、南北朝期に荒廃するも、文亀元年(1501)に、関東管領の上杉良朝が水稲荷神社を再興した際に、富塚古墳の台地下に寺を建て宝泉寺と名付けた。その後、戦国の乱で再度荒廃するも、天文19年(1550)には牛込氏によって再興された。

天祖神社
早稲田の雰囲気を感じるべく戸塚町を彷徨う。戸塚は富塚に由来する。地図を見ると戸塚町の少し東に天祖神社が。天和2年(1682)、榎町からこの早稲田田圃に移った。江戸名所図会には「茗荷畠神明宮」とある。この一帯が茗荷畑や稲田であったのが実感できる命名ではある。

水稲荷神社
早稲田大学のキャンパスを成り行きで進み、大学図書館の西に移った水稲荷神社に向かう。表参道は今風のつくり。境内を進むと「堀部安兵衛助太刀の場所の碑」が目に付いた。元禄七年(1694)、安兵衛(当時は中山姓)は高田馬場に駆けつけ、叔父の菅野六郎左衛門(田舎の新居浜市に近い伊予西条藩士)の果し合いに助太刀。この決闘で助太刀をした安兵衛の活躍が江戸中で評判になり、浅野藩士堀部家の婿養子に懇請され堀部屋安兵衛となる。その後元禄15年、赤穂浪士として吉良邸に討ち入った話は世に知られるとおり。この碑は明治43年(1910)、旧高田馬場、現在の茶屋町通りの一隅に建立されたものが、昭和四十六年に現在の水稲荷神社の現在の場所に移された。
先に進むと社殿がある。先にメモしたように、早稲田大学9号館裏のあたりの小高い丘にあった水稲荷神社は、昭和38年(1963)7月25日、早稲田大学との土地交換により、西早稲田三丁目の甘泉園内の現在の場所に移転したもの。

この社が水稲荷と呼ばれるに至る経緯は、元禄15年(1702)に境内の大椋から水が湧き、その水が眼病に効能あり、ということで、江戸市中で大評判となった、ため。この霊水にも太田道灌ゆかりの話が登場する。道灌が散策の折り、冨塚古墳のそば(以前、水稲荷神社があった場所。現在の早大9号館の裏手。)に榎を植えた、とか。「道灌つかみさしの榎」と呼ばれるこの榎を神木として関東管領の上杉良朝が稲荷の社を再興。そして、この神木からわき出した霊水が眼病に効果があり、水稲荷と呼ばれるようになった、と言う。

水稲荷の境内には富塚古墳や高田富士など、旧地から移されたものが残る。富塚古墳は既にメモしたが、「高田富士」は、安永九年(1780)、植木屋の青山藤四郎が富士講の人たちとともに、富士山から岩や土を運び、冨塚古墳の上に盛土して造ったもの。江戸市中で、最大、最古の富士塚であった。江戸時代中期以降、江戸で富士信仰がさかんになり、各地で富士講が組織され、富士塚という富士を模した山が造られた。残念ながら普段は高田富士には上れない。7月下旬の高田富士祭りのときの、お山開きとだけ、とのことである。
境内にはいくつかの末社がまつられる。浅間神社は富士塚の麓に鎮座していたもの。現在も高田富士の入口にある。三島神社は現在の水稲荷のある敷地である甘泉園所有者・旧清水家所有の守護神。源頼朝が治承四年(1180)、鎌倉への進軍の途中、高田馬場跡から甘泉園一帯に立ち寄ったとされ、その時に、この地に三島神社を創建したと、伝えられる。三島神社はその後静岡の三島市に移されたが、その跡地に石の祠が建てられ、その後この地に移された。


甘泉園
水稲荷から成り行きで坂をくだる。思いがけなく池と庭園があり、少々心躍る。水と緑に囲まれた回遊式庭園は、もとは徳川御三卿の清水家の下屋敷。敷地は水稲荷神社境内と甘泉園住宅を含む広大なもの。明治30年頃には相馬侯爵邸となり、昭和13年には、早稲田大学がこの土地を譲り受ける。昭和36年には、大学構内にあった水稲荷神社と土地交換が行われ、昭和38年に水稲荷神社が甘泉園内に移転したのは前述の通り。甘泉園の名前は、庭園の中央からの湧き水が、お茶に適していたことに由来する。甘泉園のあたりはその昔、三島山と呼ばれていた。その三島山の西に泉があり、山吹の井と呼ばれた。その一帯を山吹の里とも呼ばれ、道灌と言えば、との山吹の逸話が残る。突然の雨に蓑笠を所望した道灌に対し、里の娘が詠んだ「七重八重花は咲けども山吹の実のひとつだに無きぞ悲しき」という歌。「実のひとつだに無きぞ」を「蓑ひとつ無い」に懸けたことをわからなかった道灌は、その後和歌の道に励んだ、という話である。この逸話、鎌倉や越生など、散歩の折々に登場する。人気者・道灌故のエピソードではあろう。



面影橋
三島参道をとおり面影橋に向かう。神田川にかかる橋でも、最も名高い橋のひとつである。「江戸名所図会」には「俤(おもかげ)の橋」と記されている。歌川広重も『名所江戸百景』に「俤の橋」を描いており、のどかな風景に江戸の昔を思いやる。また、このあたりは流れ蛍でも知られ、広重も蛍狩りの絵を描いているようである。
面影橋の名の由来には、諸説ある。在原業平が我が姿を水面に映した逸話ゆえ、とか、於戸姫(おとひめ)が我が身の悲劇を嘆き、この川に身を映し詠んだ和歌:変わりぬる姿見よやと行く水にうつす鏡の影に恨(うらめ)し」、そしてなき夫を偲び入水の際に詠んだ「かぎりあれば月も今宵はいでにけりきよう見し人の今は亡き世に」、といった夫の面影を偲ぶ於戸姫の心情を憐れんで、面影橋と名付けた、とか、あれこれ。


朝亮院
都電荒川線の面影橋停留所から新目白通りを南へ渡り、ゆるやかな坂をのぼると右手に赤い門構えのお寺様。その門故に、「赤門さん」とも賞された朝亮院である。このお寺さまは、「高田七面堂」として知られる。身延山久遠寺の末のこの寺には身延山七面山の七面明神が祀られる。七面山での修行のお上人さまが、現在の戸山公園あたりに七面堂を建てたのがはじまり。江戸に疱瘡がはやった明暦の頃には、将軍家の祈祷所ともなった、と。その後、もとの寺域が尾張徳川家の下屋敷となったため現在地に移った。境内には七面堂、その両脇に石造りの金剛力士像が屹立する。宝永二年(1705)に作られたものとのことである。


おとめ山公園
朝亮院を離れ、次はどこへ?と想いやる。本日はもう十分に歩いたとは思えども、まだ日暮れには少し時間もある。地図を眺めおとめ山へと辿ることにした。一度訪れたことはあるのだが、目白台地から神田川を望む南面傾斜の崖線にある湧水を再び見たいと思ったわけである。
新目白通りを進み、明治通りを越え、JRの高架下をくぐり、後は成り行き、というか勝手知ったる崖面の坂を上る。楢、椎、椚などの落葉樹が生い茂り、その中心に湧水池。回遊式庭園と呼ぶのだろう。池脇の湧水点からのかすかな流れに結構感激する。公園は道を隔てた西と東に別れ、東の湧水池からの水は西の公園にある弁天池へと導かれている。
おとめ山の名前の由来は「御留」、から。江戸の頃はこのあたりは将軍家の狩猟地であり、立ち入り禁止故の「御留」であった。明治には御留山の東を近衛家、西を相馬家が所有。相馬家が林泉園と称し庭園とした、と。戦後は荒れ果てたままであったようだが、地元の人々の努力により公園として整備された。先日この池を訪れたとき、子供がゴムボートを湧水池に浮かべ大いに楽しんでいた光景が、法的にどうかは知らねども、いかにも可愛かった。


東山藤稲荷神社
おとめ山公園のすぐ東に東山藤稲荷神社という社がある。現在は誠につつましやかな境内ではあるが、往昔、おとめ山の多くを有し結構なる社であった、とのこと。清和源氏の祖六孫王・源経基が、延長5年、東国源氏の氏神として祀った、ということであるから、それも当然であろう、か。
この源経基、平将門ファンにとっては好ましからざる人物として伝わる。将門を反逆者として誣告したのも経基、その後、あれこれの経緯もあり将門が兵を起こすと征伐軍の副将として乱の平定に赴く。が、乱は既に平定されており、活躍する場はなかったようである。それはともあれ将門は朝廷への逆賊として長き間不遇の時代を送った訳であり、それ故にも、逆賊平定の貢献者でもある経基の建てたこの社が栄えたのであろう。藤稲神社とも、富士稲荷神社とも呼ばれたようだが、東山の由来は不明。

ちなみに、江戸のお散歩の達人、村尾嘉陵の『江戸近郊道しるべ』に『藤稲荷に詣でし道くさ(文政7年(1824)9月12日)』がある;「落合村の七まがり(地名)に、虫聞に行けば、老をたすけてともになど、もとの同僚畑秀充のいひしも、いつしか十あまり五とせばかりのむかしとは成けり。げに、とし波の流れてはやきためしをおもへば、かたときのいとまをも、あだにすぐすべしやは、わかきとき、日を惜しめるは勤にあり、老いての今はたのしみもて、こゝろをやしなひ、終わりをよくせんとなるべしや」、と。

七曲がりとは、東山藤稲荷神社の西、新目白通りのそばにある氷川神社から北の崖線を上る坂。村尾嘉陵はその後、「薬王院(瑠璃山 医王寺)」へと向かっている。本日は、このおとめ山あたりで終了、とはおもっていたのだが、嘉陵フリークの我が身としては同じ道筋を辿ろうと、思い切る。


下落合氷川神社
七曲坂のきっかけを求め、氷川神社に。この下落合氷川神社は、第5代孝昭天皇の御代の創建と伝えられ、といっても考昭天皇って紀元前のことであるし、それはないにしても、江戸時代には下落合村の鎮守ともなっているので、古き社ではあろう。江戸期には豊島区高田の高田氷川神社を男体の宮、当社を女体の宮として、夫婦一対神として信仰されていた、と。高田の氷川神社が素戔嗚尊を主神、こちらの落合の氷川神社はその妻の奇稲田姫命となっている。


七曲がり坂
七曲がり坂は、現在緩やかなカーブとなっており、七曲がりの趣きはない。「豊多摩郡誌」によると、七曲坂は馬場下通、御禁止山の麓にあり、大字とあった。治37年に開鑿(かいさく)して交通に便せり。落合ではもっとも古い坂道のひとつである。周辺には相馬坂、九七坂、西坂、霞坂、市郎兵衛坂、見晴坂、六天坂など少々惹かれる名前の坂道が多い。そのうちに歩いてみたいものである。

薬王院
さて、村尾嘉陵は先に進み、「ひろ前をくだりに猶ゆけば、みちのかたへに寺あり。石しきなみて、見入いとよし。薬王院といふ」と記す。
薬王院は真言宗豊山派瑠璃山東長谷寺と称し、奈良・長谷寺の末寺で、開山は鎌倉時代、相模国(神奈川県)大山寺を中興した願行上人。 本堂は昭和40年に、奈良・長谷寺と京都・清水寺の見所を取り入れて建立されたものという。
寺域は下落合崖線に位置して傾斜地にあり、墓地は最も高いところにある。境内ではもともと薬用として栽培されたといわれる鎌倉・長谷寺の牡丹の株100株を拝領し数多く、現在では1000株にまで増えその美しさから別名「牡丹寺」とも呼ばれる。しだれ桜も見事、とか。



神楽坂から牛込台地を辿り早稲田田圃の低地へと、地形の凸凹を感じてみようなどと始めた散歩も、終わってみれば目白台地の下落合あたりまで進んでいた。普段何気なく見過ごす風景にも、それぞれの物語があるものと、改めて実感。落合で「落ち合う」、神田川と妙正寺川の合流点あたりを彷徨い、高田馬場駅に向かい、一路家路へと。

先日清瀬を彷徨ったとき、滝の城跡に出合った。柳瀬川の段丘崖上に縄張りをしたこの城は柳瀬川を前面に配し、天然の要害であった、とする。それはそれで納得できるが、柳瀬川と逆側は台地が広がり、それほど険阻な地形とは思えない。北の台地方面から攻め込めば、それほど侵攻が困難とは思えなかった。唯一北方からの進出を阻む可能性があるとすれば、所沢の台地を開く東川(あずまかわ)の、その谷筋が険しく、北からの進出を阻んでいたのであろうか、などと妄想したわけだが、どうせのことならその東川の開析の程度などを実際に目で見ようと思った。




東川を見るに、狭山湖北部、所沢三ヶ島を源流部とし、所沢台地を西から東へと貫流し、関越道路・所沢インター付近で柳瀬川に合流する。散歩のルートを想うに、今回は東川により所沢台地がどのように削られているのかを見る、ということが主眼でもあり、源流点溯行はカットし、スタート地点は東川が所沢台地に接近する西所沢とした。ルートは例の如く、成り行き。東川に沿って下り、あちこち彷徨い、最終地点の柳瀬川との合流点へと進むことにした。所沢は折に触れて歩いている。先日も狭山丘陵から柳瀬川に沿って所沢西部を辿った。また、所沢の北部、三富新田に武蔵野新田の名残を求め、堀兼井戸に歌枕の趣を求めたこともある。しかしながら、今回辿る所沢の市街地は歴史も地形も全くの不案内である。往昔、所沢は鎌倉街道や江戸道が交差する交通の要衝でもあった。宿場、というか荷継ぎ場の集落であった名残もあるだろう。散歩につれて、何が飛び出してくるのか、セレンディピティ(予期せざる喜び)を楽しみに散歩に出かけることにした。

本日のルート;西武池袋線・西所沢>東川>弘法祠堂>国道463号>東川地下河川流入立坑>新光寺>所沢神明社>峰の坂>実蔵院>江戸道・小金井街道>明治天皇行在所>有楽町>薬王寺>曽根の坂>西武線・所沢駅>所沢陸橋>牛沼市民の森>長栄寺>柳瀬民俗資料館>城地区>滝の城>JR武蔵野線新座駅
西武池袋線・西所沢
電車を乗り継ぎ西所沢に。西武球場前へと向かう西武狭山線が分岐する。この西所沢駅は設立当初、小手指駅と呼ばれていた。この辺りはその昔、小手指村の東端であったことによる。その後、小手指村が所沢と合併し、現在の小手指駅ができるにおよび、西所沢と駅名を変えた。この駅は映画『失楽園』のロケや缶コーヒー「WANDA」のCM撮影に使われている、とのことである。通常使用しないホームがあるのが撮影に便利というのが、その理由とか。

東川
駅を降り、民家の密集する小径を進む。道は緩やかな坂となり東川へと下る。川は民家の間を縫う小さな都市型河川といった風情。玉石積みのような護岸やコンクリートの護岸など川の風情は時として変わるも、水質は予想より美しい。東川の名前の由来はよくわからない。東へと向かう故、というのは如何にもストレートに過ぎる、だろうか。それはともあれ、この東川は所沢の地名の由来ともなっているとの説がある。東川沿いに野老(ところ)=山芋が群生していたとか、東川が大きく湾曲し、着物の「懐;ふところ」のような形をしており、ふところ>ところ、となった、とか、東川の湾曲の形が、如何にも蛇が「とぐろ」を巻いているようであったため、その「とぐろ>ところ、となったとか、あれこれ。ともあれ、東川と所沢の地名にはそれなりの関係姓があるようだ。

弘法祠堂
先に進み、国道463号に架かる弘法橋の手前に小さな祠。弘法祠堂とある。伝説によれば、弘法大師がこの地を訪れ、水を所望。優しき娘が遠方まで水を汲みに行き、大師に差し上げた。それを見た大師は、水の便の悪いこの地に功徳を施すべく杖で三カ所を指す。そこを掘るとあら不思議、水が湧き出で、絶えて枯れることがなかった、と。このお堂は大師を徳としてお祀りした、とのことである。その井戸跡のひとつ(弘法の三ッ井戸)は弘法橋の近くにあるようだ。ちなみに、大師と水にまつわる伝説は全国に数百、人に拠れば1600ほども逸話が残る、とか。 往昔、「嫁をやるなら所沢にやるな」と言われていたようだ。水に乏しい所沢の台地では、井戸も深く、20mから30m掘らなければ水脈に当たらず、その水くみ、そして運搬が重労働であり、可愛い娘を所沢で苦労させたくない、といったこと故の警句であろう。台地北部の三富地区では、風呂に入れず、カヤで体をこすって「風呂かわり」とする、といったこともあった、ようである。また、「所沢の火事は泥で消せ」とも言われた、とか。
所沢台地の地下水の本水は地表面から20mから30mのあたりではあったわけだが、東川や柳瀬川沿いの低地には地表面から5~10m程度掘り進めれば水が湧いて出るところが点在していたようである。宙水とか中水(ちゅうみず)と呼ばれるようであるが、この弘法大師の井戸もこういった宙水のことを指しているのだろう、か。それはともあれ、宙水を利用した井戸とともに集落を形成していった所沢の町も、人口が増えるにつれ宙水だけでは賄いきれなくなり、本水も利用するようになる。宙水か本水を利用したものか詳細は不明だが、所沢には明治初期に30弱、大正には150ほどの井戸があった、とのことである。ともあれ、昭和12年に所沢に水道ができるまでは、所沢では水の苦労が続いたのであろう。

国道463号
国道463号に架かる弘法橋に進む。国道463号は埼玉県越谷から埼玉南部を横断し、埼玉の入間に進む国道である。この国道を「行政道路」呼ぶ。なんのことだろうとチェックすると、日米安全保障条約に基づき締結された日米行政協定(1952年;昭和27年)と関係がある、と。埼玉に点在する米軍基地間の便宜のために建設されたものだろう。行政道路は行政協定に由来する名称、かと。

東川地下河川流入立坑
弘法橋を先に進むと、水門ゲートが見えてくる。民家の密集したこの地に調整池もないだろう、と思いチェックすると、東川の地下河川への流入口とのことであった。大雨が降ると東川の水量を地下のトンネルに流し氾濫を防ぐ。地下河川は本流の河道の下を2.5キロほど進み、所沢陸橋通り付近の加美橋のあたりまで続いている、と言う。民家密集地故の工法ではあろう。

新光寺
地下河川流入立坑を越えると、民家に挟まれ心持ち水路は狭くなる。鉄製の人道橋はなかなか風情がある。ふたつほど続く古い人道橋に思わずシャッターを切る。成り行きで先に進むみ新光寺に。
竜宮門風の山門をくぐり境内に。六角堂や本堂にお参り。現在はこじんまりした境内ではあるが、往昔は1700坪強の広さがあった、とか。歴史も古い。本尊の聖観音は行基菩薩の作と伝わる。縁起は縁起としておくとしても、1193年(建久4年)頼朝が那須への鷹狩りの途中この寺で休息し、土地を寄進したとか、1333年(元弘3年)、新田義貞が鎌倉攻めの折、この寺で戦勝を祈願し、祈願成就の御礼に土地を寄進した、といったエピソードが伝わる。
ちなみに、この新光寺は馬の観音様としても知られる。鎌倉街道の往還や、江戸道(所沢道)が交差する交通の要衝であるこの地は馬の継ぎ場でもあろうし、それ故に馬の健康や行路の安全を祈ったものではあろう。交通といえば、境内には航空殉難供養塔がある。昭和2年、飛行訓練中に所沢飛行場を目前に新光寺に墜落した練習機の乗員である畑大尉、伊藤中尉を供養するためのものである。

所沢神明社
新光寺を離れ、所沢神明社に向かう。小高い南向き斜面の上に立つ神社の社域は広い。境内から東川の低地、そしてその向こうの台地を眺め、川筋との比高差を感じる。家屋が密集した川筋の向こうの台地斜面にも家屋、高層マンションが建ち、それなりの凸凹感は見て取れる。比高差は7mから8m、といったところだろう、か。
所沢神明社は江戸の頃は所沢総鎮守として大いに栄えたとのことではある。が、文政9年(1826年)の火災ですべて焼失し、詳細は不詳である。現在の社殿は昭和9年に造営された。境内には巨大なケヤキが目をひく。特に県道6号よりに参道をくぐった左側にあるケヤキは誠に印象に残るご神木である。
この神社は「飛行機の神社」としても知られる。明治44年、日本初の飛行場が所沢に建設され、徳川好敏陸軍大尉の操縦する仏製・アンリファルマン機の初飛行の無事を祈願したことによる、と。境内には明治17年に建てられた、所沢の「(と)講」という富士講祈念碑もある。富士塚は築かれてなかったが、神社の小高い斜面それ自体を富士と見立てた、とも伝わる。

峰の坂
次ぎは何処へと地図を見る。神社の北に峰の坂という交差点が見て取れる。東川の低地から台地へ上った尾根道あたりではあろうと足を伸ばすことに。神社の西参道、これってもともとは表参道ではあったようだが、参道出口を北に折れ県道6号を進む。
緩やかな勾配の坂を上る。往昔、東川の谷筋から見上げると、峰のように急な斜面の坂であり、馬方や手車引き、牛車など「荷」を運ぶ人達にとって難所であった、とか。この道筋は所沢との商い高も大きい川越へと続く道筋でもあり、昭和初期(4年とか7年とかの記録がある)に道路改修工事を行い斜面を削り、現在のような緩やかな勾配になった。 ところで、所沢の地名が歴史上最初に現れるのは鎌倉時代の嘉元3年(1305年)。「小杉本淡路古文書」に「久米郷所澤」とある。先日、柳瀬川を歩いたとき長久寺脇から一直線に所沢の新光寺向かう道が鎌倉街道とメモしたが、鎌倉街道と東川の流れの交差するあたりに集落が形成されていったのであろう。

往昔、新光寺や所沢神明社のあるあたりを河原宿と呼ばれたようであるが、この河原町(現在の宮本町)や、東側の南の本宿(現在の金山町)が所沢の最初の集落とされる。弘法大師の三ッ井戸の伝説、頼朝や新田義貞の新光寺にまつわる伝説など、このあたりが古くからの集落であったことを示す伝説も多い。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)

伝説だけでなく、文書にも残る。文明18年(1486年)、聖護院門跡の道興准后(どうこうじゅんこう)が東国巡幸の途次、この地(野老澤;河原宿)を訪れ、観音院(新光寺だろう)の修験者と席を共にし、「野遊のさかなに山のいもそえて ほりもとめたる野老澤かな」と詠った記述が『廻国雑記』にある。道興准后さんには散歩の折々に出合う。山伏の総元締めとして組織強化のための東国巡幸ではあろうが、旅先での武蔵野の情景描写に往昔の武蔵野を想う。
江戸時代の「武蔵野話(斎藤鶴磯)」の中にも、新光寺が描かれる。「此寺(新光寺)の東南の道を本宿といふ。元野老澤村の民家は此所に在しと。今は江戸道の方へ皆居住する事になりぬ。」とある。江戸の頃は、鎌倉街道から江戸道へと往来の主流は移っていったのではあろうが、ともあれ、所沢の始まりの地は、この河原宿(宮本町)のあたりではあったようである。

実蔵院
峰の坂を再び下り、小金井街道・元町交差点まで戻る。交差点を少し南に下ったところに実蔵院。開基は正平7年(1351年)、新田義興による、とも伝わる。山号は「野老山」。寺の東に鎌倉街道が通る。実蔵院は元町地区であるが、鎌倉街道を隔てた西側は金山町となる。今回は見逃したが、実蔵院のすぐ近くに金山地区の地名の由来ともなった金山神社がある。1546年、川越夜戦で敗れた上杉方の武将がこの地に移り、奈良多武峰の談山神社より金山権現を勧請、明治の神仏分離により金山神社と改めた。
参道では所沢伝統の三八市が現在でも開かれている、と。市の成立した時期は定かではない。寛永16年(1639年)には市神さまの繁栄を祈る祭分が残るので、その頃には既に市が立っていたのであろう。三と八のつく日に開催される市では日用品だけでなく、所沢名産の所沢飛白(かすり)の商いが盛んに行われた。

江戸道・小金井街道
県道6号・小金井街道に沿って東に進む。銀座通りと呼ばれるこの道筋は、江戸の頃の江戸道筋である。所沢も、もとは鎌倉街道に沿った道筋が集落の中心ではあったが、江戸幕府が開かれると江戸へと向かう江戸道に沿って集落が立ち並ぶようになる。江戸城の建設が始まり、青梅の石灰をこの江戸道を使って江戸に運ぶことになったわけだ。道筋は銀座通りを進み、ファルマン交差点あたりの坂稲荷から所沢駅方面へと上り、北秋津から久留米、田無、中野、そして内藤新宿へと進む。また、1633年(寛永10年)には江戸城の御用炭が秩父から運ばれるようになり、所沢はその荷馬や人足の継ぎ場として賑わうようになり、所沢は交通の要衝として益々発展することになった。現在の銀座通りに沿った集落も上宿(現在の元町)仲宿(現在の元町と寿町)下宿(現在の御幸町)、裏宿(現在尾有楽町)と、西から東へと開かれていったようである。
江戸の末期には、江戸道に沿った集落では、穀商、肥料商、織物商、荒物、糸、油、薬種、鉄物、魚、瀬戸物、青物、煙草を扱う多くの商人が商いに励んだと言う。なかでも、多摩郡村山地方から所沢地方伝わったと言われる絣(かすり)木綿は前述の三八市を通じて取引され、明治期には所沢飛白として全国に知られるようになった、とのことである。

明治天皇行在所
江戸道、というか銀座通りを東に進む。この通りは往昔、蔵造りの商家も多かった、とのことではあるが、現在では道の両側に屹立する高層マンションが目に付く。道脇に明治天皇の御在所跡の案内。明治16年(1883年)、近衛兵の演習天覧のため飯能に行幸し、その際の行在所とされた地元有力者の家の跡、とのこと。現在はすこし寂しき趣となっていた。

有楽町
銀座通りの雰囲気を感じ、再び東川筋へと戻る。川に沿って周囲を彷徨う。町の風情は住宅街というよりは、飲食街といった印象。チェックすると、戦前、所沢は陸軍飛行学校を中心とした軍都であり、戦後は駐留軍の基地であり、基地の軍人のための歓楽街であった、とか。現在は有楽町(ゆうらくちょう)と呼ばれるが、その昔は裏町>浦町と呼ばれたよう。うら>有楽>ゆうらく、と転化していったのだろう、か。

薬王寺
成り行きで歩を進めると、堂々とした木造りの塀、そしてその向こうに白壁の蔵をもつお屋敷。安政3年(1856年)創業の老舗醤油製造元である深井醤油のお屋敷であり製造所である。落ち着いた屋敷構え、そして屋敷裏の台地斜面に立ち並ぶ屋敷林の眺めを楽しみながら道なりに東に進むと薬王寺に。
このお寺様は新田義宗終焉の地、とされる。小手指ヶ原の合戦で足利尊氏に敗れた新田義宗は、僧の姿に身を隠し再起を図る。が、その願い叶わず、持仏の薬師如来を本尊として遁世した、と伝わる。江戸の頃は、尾張徳川家の藩主鷹狩りの折の休憩所ともなった。幕末動乱期には、旧幕府脱走兵などからなる仁義隊が薬王寺に駐屯し、軍資金をあつめをおこなった、と。幕末に飯能戦争などをおこなった旧幕臣の振武軍は散歩の折々で出合うのだが、仁義隊ってはじめて聞く名前である。そのうちに調べてみようと思う。

曽根の坂
薬王寺を離れ、曽根の坂に向かう。東川の低地からゆるやかな坂をのぼり尾根筋に、往昔、石ころだらけの坂ではあったようで、「石ころだらけの痩せた土地」を「そね」と呼ぶことから坂の名前が付けられた、とのことである。尾根筋の国道463号を東に進めば所沢交通公園、戦前の陸軍航空学校の飛行場跡地ではあるが、いつだったか一度訪れたこともあるので、今回はパス。坂を再び下り、銀座通りファルマン交差点に。名前の由来は明治44年、所沢飛行場で試験飛行をおこなったフランス製アンリファルマン練習機、より。

西武線・所沢駅
ファルマン交差点から所沢駅へ向かう。東川の低地と所沢台地の比高差を実際に感じてみたい、ということもさるころながら、往路の西武線で見かけた、駅東口のビルで行われる埼玉古書フェアを覗く、ため。ファルマン交差点から所沢駅へと上る道は「プロペ通り」。飛行機のプロペラに由来するのは、言うまでもないだろう。
車道を離れ駅へと続く商店街を歩く。秩父や、たまに越谷あたりで手に入る田舎饅頭を売る店があり、誠に嬉しかった。祖母がよく作ってくれた故郷の味である。駅を東口に渡り、古書フェアの会場で郷土史関係の書籍を探し、しばしの時を過ごす。

西武鉄道
東口を離れ、成り行きで東へと進み所沢駅東口入口交差点を北に折れ所沢陸橋へと向かう。陸橋下には西武池袋線が台地崖線に沿って台地を大きく迂回し所沢駅へと向かう。昔の機関車は非力故、台地の傾斜を上るのを避けるのは、それなりに納得はできるのだが、それにしても、西武池袋線の所沢駅へのアプローチは少々不自然である。気になってチェックすると、西武鉄道成立の歴史ならではの興味深い話が現れた。
結論を先に言えば、所沢駅へのこの不自然なアプローチの原因は、現在は西武鉄道として同じ会社となっている西武新宿線、西武池袋線は、もともと別の会社であったことにある。西武新宿線と呼ばれる路線は、もともと川越鉄道と呼ばれ、甲武鉄道(新宿~八王子; 1889(明治22)年開通)の支線として国分寺から、当時の物流の集散地である川越へと結ばれた。1895(明治28)年のことである。所沢駅はそのとき作られた。
その後、 1915(大正4)年、現在の西武池袋線の前身である武蔵野鉄道が池袋から飯能へと開通。計画では飯能へと直線で進み、川越鉄道の所沢駅を通る予定ではなかったようであるが、なにせ鉄道は当時の輸送の根幹となるもの。貨物輸送の乗り入れをするにも、このふたつの線路を接続する必要があり、国の命令なのか要請なのか、ともあれ、後発の武蔵野鉄道は既に駅のあった川越鉄道の所沢駅に接続することになった。ために、台地崖線を進み駅の前後で大きく迂回して、「無理矢理」、川越鉄道の所沢駅に繋げた、とのことである。 不自然な急カーブはこれにて一件落着ではあるが、所沢駅で結ばれたふたつの鉄道会社が西武鉄道となるまでは、あれこれの軋轢があったようである。池袋へと繋がる武蔵野鉄道に対抗して、1927(昭和2)年、川越鉄道(1920年。武蔵水電に吸収され、その後西武軌道を合併。1922年には西武鉄道(旧)という社名になっていた)は、村山線(東村山~高田馬場)を開通。東京方面への乗客を確保せんとした。このとき所沢駅での両社のお客様の争奪戦は結構激しかったようである。
この両社も1928(昭和3)年、国分寺~萩山)を開通させた多摩湖鉄道の親会社である箱根土地(現コクド)により、1932年(昭和7年)に武蔵野鉄道が、1945(昭和20)年には西武鉄道(元の川越鉄道)が吸収合併され、西武農業鉄道となり、その1年後、名称は西武鉄道となり、現在の形となった。所沢の駅で同じホームでありながら、西武池袋線と西武新宿線の東京方面行きが逆向きであるのも、西武鉄道の歴史的経緯を踏まえてのことであろう、か。

所沢陸橋
西武線を跨ぐ陸橋から、弧を描き所沢駅へと向かう線路を眺める。その昔、弧の最高点のあたりに「所沢飛行場」という駅があった。台地上の陸軍所沢飛行場への最寄り駅であった、とか。武蔵野線がこの地に駅を作れば、川越鉄道は西武新宿線が東川を渡るところに「所沢飛行場前駅」をつくり、お客獲得合戦を繰り広げたとか。今は昔の物語である。

牛沼市民の森
陸橋を渡り小金井街道・所沢陸橋交差点を越え東川筋に。川に沿って桜並木が続く。西新井から松郷の弘法橋あたりまで3キロから4キロほど続く、とか。1964年の東京オリンピックの時、所沢で行われた射撃競技を記念しえ植えられたもの。
道なりに進む。川の北側、河岸段丘面が次第に拡がり、段丘崖の林など、風景が少し自然豊かな赴きとなる。神明社の名前に惹かれて鎮守の林へ向かうと神社の周囲は牛沼市民の森とあった。国道463号から東川の低地にかけてのなだらかな傾斜の雑木林にはクヌギ、コナラ、シラカシなどの混合林、そして、神明社には竹林が広がる。

長栄寺
神明社を離れ、再び川筋に戻ると、川の南に長栄寺。境内の閻魔堂に丈六(高さ八尺の座像を丈六仏という)の閻魔様が佇む。天命五年(一七八五)造立と伝わる、2m90cmの木造朱漆塗の大閻魔像は、木造のものとしては、関東随一といわれている。なかなか、いい。しばし見とれる。ちなみに、この長栄寺のあたり牛に似た沼があったのが、地名牛沼の由来、とか。

柳瀬民俗資料館
川に沿って東へと進む。段丘面が拡がり、川の周囲に広がりがでてくる。開析の度合いはそれほど深くない。ちょっと見た目には谷筋とは思えないような、台地にちょっと入った切れ目といった川筋である。松郷地区、新郷地区と川筋を進み亀ヶ谷地区に。川筋の少し北に柳瀬民俗資料館がある。川筋を離れ、御嶽神社の小さな祠をお参りし、すぐそばの資料館に。残念ながら休館となっていた。何故に亀ヶ谷に柳瀬資料館と言えば、往昔、このあたりは埼玉県入間郡柳瀬村であった、から。

城地区への上り
益々拡がる東川両岸の段丘面の景観を楽しみながら先に進み、柳瀬小学校手前で川の南に移り、先日訪れた滝の城へと向かう。柳瀬川側の段丘崖故に天然の要害とされるが、実際に歩いた印象では、台地上の北部は平坦であり、それほど攻略が困難とも思えなかった。東川の谷筋が嶮岨で進入が困難であったのだろうか、実際に歩いて確かめようと思ったこともこの散歩のきっかけでもあるので、東川から滝の城へと進んでみようと思ったわけである。
橋を渡り、滝の城への道案内に従い、雑木林のゆるやかな坂をのぼる。畑の中の小径を成り行きで進み、県道179号に。いかにも丘陵地といった赴きで進むに困難なことはなにも、ない。新編武蔵国風土記稿には、「不慮に北の方、大手の前より襲い来たりしかば、按に相違して暫時に落城せり」とあった。それはそうだろう、と実感した。

滝の城
県道179号から道案内に従い滝の城に。本丸がある社殿の裏手にある二の丸や三の丸の曲輪や土塁、堀、見晴台とおぼしき高みなどを眺める。
滝の城は室町から戦国時代にかけて、木曾義仲の後裔と称した大石氏の築城と伝わる。加住丘陵の滝山城を本城とした大石定重がこの地に築いた支城である、とも。大石氏は、関東管領上杉家の重臣として小田原北条に備えるも、定重の次の定久の頃、上杉管領勢は川越夜戦に完敗。主家上杉家も上野に逃れるにおよび、大石定久は小田原北条と和を結ぶ。北条氏康の次男氏照を女婿に迎え、滝山城を譲り自らは五日市の戸倉城に隠棲した。上杉管領家滅亡後も岩槻城を拠点に北条と抗う太田資正に対しては、最前線の境の城として重要な拠点となったようだが、その太田氏も北条に下るにおよび、滝の城は川越(河越)城、岩槻城、江戸城との継ぎの城として機能した。滝の城は北条家の関東北進策を進める拠点、清戸の番所として整備された。城に残る遺構はこの時代につくられたようである。

JR武蔵野線新座駅
城址を離れ、城地区の民家というか農家の間の小径を進み、県道179号に出る。関越道に架かる橋を越え、東川と再び出合い、道を離れ東川の堤を下り柳瀬川との合流点に。本日の散歩はこれでお終い。後は柳瀬川を渡り、武蔵野線に沿って東へ進み、途中「子は清水」の跡、親が呑めばお酒で、子供が飲めば清水であった、と言う泉、といっても現在は武蔵野線の工事のため水源の絶えた泉跡の案内を見やりながら武蔵野線新座駅へと進み、一路家路へと。


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