2010年10月アーカイブ

鳩ノ巣渓谷散歩

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何年ぶりだろう、奥多摩の鳩ノ巣渓谷を歩くことにした。秋に会社の人たちとのハイキングに鳩ノ巣渓谷もその候補となったのだが、わずかに「数馬の切り通し」を除いて、それ以外の景観が全く以て思い浮かばない。渓谷に沿って岩場を歩き、それなりに景観を楽しんだとは思うのだが、それがハイキングデビューの皆さんにインパクトを与え、山ガール・山ボーイへのフックとなるほどのものか、今ひとつ自信がない。これはもう、もう一度歩いて判断するに莫若(しくはなし)、これが鳩ノ巣渓谷再訪の理由である。
それにしても、すっかり忘れてしまうものである。散歩の後はメモするのを基本とするのだが、鳩ノ巣渓谷はあまりにポピュラーなハイキングコースであり、「まあいいか」などとメモをしないでいた。やっぱりお散歩メモは必要である。砂時計の如く消え去る記憶に抗いながら、これからも「歩く・見る・書く」をお散歩の基本にすべし、と。



本日のコース;JR青梅線・古里駅(11時17分)>小丹波熊野神社>小丹波のイヌグズ>愛宕神社>古里附のイヌグス>寸庭橋(11時57分)>越沢>松の木尾根(12時27分)>鳩ノ巣・雲仙橋(12時38分)>玉川水神社>鳩ノ巣小橋(12時55分)>白丸ダム(13時12分)>数馬峡橋(13時30分)>数馬の切り通し(13時40分)>海沢(14時19分)>もえぎの湯(14時41分)>JR青梅線・奥多摩駅(15時26分)

青梅線
日曜日、成り行きで起き、ゆったりと朝を過ごし、井の頭線、中央線、青梅線と乗り継ぎ奥多摩へ向かう。青梅線は各駅停車。しかも途中での待ち時間が結構多い。ホリデー快速であれば中央線からの直通もあり、段取りもいいのだが、のんびりゆったり青梅を進む。
青梅線は立川から奥多摩駅を結ぶ。はじまりは青梅鉄道。明治27年(1894)、立川・青梅間が開通する。翌明治28年(1895)には青梅・日向和田間が貨物区間として開通。明治31年(1898)になって青梅・日向和田の旅客サービスもはじまった。日向和田・二俣尾間が開通したのは大正9年(1920)のことである。
昭和4年(1929)、青梅鉄道は青梅電気鉄道と名前が変わる。この年に二俣尾・御嶽間が開通した。昭和19年(1944)、青梅電気鉄道は御嶽・氷川(現在の奥多摩駅)間の開通を計画していた奥多摩電気鉄道とともに国有化となる。国有化となったこの年御嶽・氷川間も開通。これで立川・氷川間(奥多摩駅となったのは昭和46年;1971年)のこと)が繋がった。
青梅鉄道が造られたのは石灰の運搬がその目的。石灰を運んだ貨車の一番後ろに1両か2両の客車がつながれていた。「青梅線、石より人が安く見え」といった川柳もある(『青梅歴史物語;青梅市教育委員会』。いつだったか青梅の山稜を辛垣城へと辿ったとき、辛垣城跡が崩れていたのだが、それは石灰をとったため、などとの説明があった。それを挙げるまでもなく青梅は往古より石灰の産地である。江戸城のお城の白壁の原料として青梅の石灰を運ぶ道、それが青梅街道の始まりでもある。
青梅鉄道が早い時期に日向和田にのばしたのは、そこが石灰の積み出し場所であったから。実際、宮の平駅と日向和田駅の間に石灰採掘場跡が残るという。全山掘り尽くし山が消えた、とか。Google Mapの航空写真でチェックすると、山稜が南に張り出し青梅線が大きく湾曲するあたりの山中に緑が消えている箇所がある。御嶽から氷川へと路線を延ばしたのは、この地の石灰を掘り尽くし、更に奥多摩の産地からの積み出しが必要となったからである。こんなことをあれこれ考えながら最初の目的地である古里につく。

JR青梅線・古里駅
古里で下車。鳩ノ巣渓谷であれば鳩ノ巣駅が最寄りの駅ではあるが、渓流だけでは少々味気ないかと、途中に松の木尾根越えをコースに入れた、ため。それにしても、忘れている。古里の駅前には店などあるのか、などと心配していたのだが、民家も多く、駅前のすぐ南を国道411号線に出たところにはコンビニもあった。
古里って、なかなかいい地名。「こり」と読む。由来は御嶽参詣に水垢離(みずこり)したから、との説がある。御嶽山から大塚山を経て古里に下る御嶽裏参道があるわけで、それはそれなりに説得力をもつのだが、そもそも古里という村の名前ができたのは明治22年。近辺の村々が合併して古里村ができたとのことである。
ということで、なんとなくしっくりこない、などと思っていたのだが、たまたま読んでいた『奥多摩歴史ものがたり;安藤精一(百水社)』表2(表紙の裏)の古地図に「コリツキノ滝」があった。古地図には「調布玉川絵図;相沢伴主著・長谷川雪堤画」とのクレジットがある。相沢伴主が多摩川の水源を探索し、その上流から下流まで写生し、それを名所図会で有名な長谷川雪堤が浄書した。江戸の頃、文化6年(1809)製作されたものである。すでに名所として描かれているとすれば、水垢離説に軍配を上げる。ちなみに相沢伴主は聖蹟桜ヶ丘散歩のとき出会った。なんとなく、懐かしい。

小丹波熊野神社
駅を離れて小丹波熊野神社に向かう。駅から線路を隔てて北側にある。前回この神社を訪れて、その楼門に惹かれていた。入母屋造り・茅葺屋根の楼門というか「床下」を抜け神社境内に入る。楼門を見返すと、そこには舞台がある。江戸時代から戦前にかけて農村歌舞伎が上演されていた、という。こういった農村歌舞伎の舞台は奥多摩にはいくつもあったと伝わる。本殿は御嶽の熊野神社から分祀されたとのこと。本殿右手には塩かまど神社。安産の神様として女性の体に似せた自然石が祭られている。残念なことに、楼門は現在修築工事中であった。

小丹波のイヌグズ
小丹波熊野神社から西に200mほど進むと、線路の北の斜面に巨大な樹冠が見える。これが奥多摩町指定の天然記念物である「小丹波のイヌグス」。案内によれば;目通り幹囲4.55m、元の名主原島家の屋敷林となっています。正式名を「タブノキ」といい、暖地に自生する常緑喬木で、樹皮は染色原料となり、材は装飾器具の材料として用いられます。樹勢は極めて旺盛です(奥多摩町教育委員会)」、とある。
原島家は奥多摩の旧家。16の村の内6カ村の名主であった。原島家のことを知ったのは先日、日原から仙元峠を越えて秩父に抜けたとき。今をさる500年の昔、天正というから16世紀後半、戦乱の巷を逃れ原島氏の一族が武蔵国大里郡(埼玉県熊谷市原島村のあたり)より奥多摩・日原の地に移り住む。原島氏は武蔵七党、丹党の出。日原の由来は、新堀、新原といった、新しい開墾地といった説もあるが、原島氏の法号「丹原院」の音読みである「二ハラ」からとの説もある。以来、奥多摩の地に勢をのばしていったのだ。

愛宕神社
国道411号線を進む。夏休みは既に終わっているのだが、車の往来が激しい。道脇に山側へと伸びる参道と鳥居が見える。祠は山の中腹にある。急な、狭く誠に急な石段を上る。息があがる。やっとのこと到着。愛宕社と脇のお稲荷さんに。愛宕神社は火伏せの神様。修験道の道場でもある京都の愛宕神社からはじまり、修験者により全国に広まる。現在全国に1000ほどの愛宕社がある、と言う。お詣りを済まし、石段を戻る。足元が危うい。慎重に里に下り国道411号線に。

国道411号線
国道411号線は東京の八王子と山梨の塩山を結ぶ。東京都八王子から青梅の谷筋を辿り、奥多摩町を経由し武甲国境の柳沢峠を越えて山梨県甲府市に至る。自動車が通行できるようになったのはいつの頃だろう。推論してみる。
大正の末には奥多摩の氷川と鳩ノ巣の間に横たわる数馬の岩壁に隧道が抜けた。この頃には奥多摩の氷川までは自動車でいけたのかもしれない。奥多摩から西は中世以来の甲州街道、所謂古甲州道が通っていた。奥多摩から小菅をへて大菩薩峠を越え塩山に下る道である。明治になって道路改修を計画するも、大菩薩越えはあまりに困難であり、柳沢峠の開削が計られる。丹波山村民など民力を結集した成果、とか。道はできたが、道幅も狭くとても車が通れるようなものではなかったようである。車道が開通したのは昭和34年頃。昭和14年から始まった東京市主導の小河内ダム建設に際し、山梨県としての協力のバーターとして、丹波山村鴨沢から柳沢峠までの24キロの工事を東京市が行うことになった。これが難工事であったようで、結局着工以来20年をかけて完成したと言う。ということで、全線開通は昭和34年あたりであろう。

古里附のイヌグス
成り行きで国道に戻り西に進む。「ウオーキングトレール;寸庭橋方面」との案内がある。案内に従えば道は国道に沿って集落の中を道が進むが、ここは古里附のイヌグスを見るためそのまま直進。入谷川を越えたところ、国道の山側に小さな祠とともに「古里附のイヌグス」があった。青梅線と国道に挟まれ少々窮屈な感じ。こちらは東京都指定の天然記念物:奥多摩街道の北側、街道と国鉄青梅線路敷との間の地で春日祠の境内にある。敷地は街路より約2メートル高く、この崖に接して立つ樹の根元約1メートルは崖の法面に露出している。地上1メートルの幹囲は約6.5メートル、樹高約23メートル。幹は地上約1.5メートルのところで南北二本に分かれ、北の枝は、さらにその上約3メートルのところで二本に分岐し、樹勢は旺盛である。イヌグスの皮は黄八丈の樺色染色の原料となる。正式名は「タブノキ」。
暖地に自生する常緑喬木。花は秋に咲き、果実は翌年の七月ごろに至って熟す(東京都教育委員会)」。とはいうものの、一見するところでは、樹勢旺盛とは見えず。

清身橋
国道から離れ分岐の小径を寸庭橋へと下る。橋に向かう手前で左手から道が合流。先ほどの「ウオーキングトレール;寸庭橋方面」から続く道である。この道を左に折れ、道を少し戻り入谷川に向かう。川に架かる橋は「清見橋」。「古里附橋」とも、更に昔には垢離尽橋とも呼ばれたようだ。橋の北側に滝、というか堰があり、「清身滝」と呼ぶそうだ。下流には「古里附の滝」もあるようだが、どこかわからなかった。ともあれ、この「清身滝」あたりが古地図の「コリツキノ滝」。橋が「清見」、滝が「清身」とちょっと字が異なるが、どちらにしても「浄い>清い」であるには変わりがない。ここが古里の名前の由来となった滝であろう。





寸庭橋
清身橋を離れ寸庭橋に向かう。橋のたもとに駐車場。お手洗いも容易されている。「ウオーキングトレール」の案内によれば、このあたりを「おたぎ下」と呼ぶようだ。「御滝下」のことでありましょう。「河原には多くの家族。行く夏を惜しんでか水浴びをしている。上路アーチ式の寸庭(すんにわ)橋を渡る。「寸庭」って面白い名前。「ちょっとした小庭」といった意味が庭造りでの使い方ではあろうが、この川がそんな小洒落た由来があるとは思えない。実際、大塚山から流れ出す寸庭川という川があるわけで、はてさて、どんな由来があるのだろう。

越沢
橋を渡ると道は左手に曲がる。道なりに行くと多摩川南岸を丹三郎地区へと向かうようだ。丹三郎は上でメモした原島一族、原島丹三郎友連の由来の地名。この地を開き代々名主であった、とか。
遊歩道は右に折れ、多摩川に沿って上流へ進む。程なく美しい沢に当たる。これが寸庭川。さらに進むとまたまた気になる沢にあたる。これが越沢。「こいざわ」と読む。あまりにいい感じの沢筋でもあるので、ちょっと沢を上ってみる。よさげ、である。足元を沢登りスタイルとして遡行してみたくなった。後からわかったことではあるが、この沢の上流にはあことに越沢ガーデンキャンプ場とか越沢バットレスキャンプ場といったアウトドア施設もあるようだ。バットレス(buttress)は「垂直な岩壁」の意味。ロッククライミングの練習場として有名なところ。金比羅渓谷遊歩道などという美しい沢沿いの道もある、と言う。そのうちに言ってみよう。沢を戻り小橋を渡る。「ホタル橋」と呼ばれる。看板にはホタルの生息地とあった。きれいな沢のはずである。

松の木尾根
橋を渡ると山道となる。杉林の中を進む。山中に民家が一軒。このあたりは小名沢と呼ばれている。山道を上ること20分弱。松の木尾根に上がる。尾根の西に鳩ノ巣の街並みが見えてくる。尾根道を進むとほどなく分岐点。左手の山道を進むと、大楢山を経て御嶽山に続く。先ほどのキャンプ場も、この道を進み途中から沢に下るようだ。ますます、行きたくなってきた。今回のルートは、この分岐を右に坂を下ることになる。分岐点にある東屋で鳩ノ巣方面の展望を楽しみながら少し休憩。

鳩ノ巣
休憩を終え、坂を下る。ほどなく坂下地区の集落。言いえて妙なる地名である。多摩川にかかる雲仙橋を渡り多摩川北岸に。坂を上り道なりに進めば国道411号線や青梅線の鳩ノ巣駅に向かうが、本日のお散歩コースは坂の途中、民宿雲仙屋の脇を左に折れ、鳩ノ巣渓谷のほうに進む。実のところ、後になってわかったのだが、鳩ノ巣駅の東、山塊が多く競り出し多摩川や国道が大きく湾曲するあたり、急坂を10分程度上ったところに将門神社があった。青梅・奥多摩には数多くの将門伝説が残る。そういえば青梅だけでなく五日市・あきる野の平井川流域でも将門ゆかりの地にであった。将門が青梅や奥多摩に来たことはないわけで、青梅・秋川筋に勢をはった三田氏が将門の後裔と称したことがその一因であろう、か。青梅の金剛院にはその地名の由来となった、とも伝わる「将門誓いの梅」が残る。また、鳩ノ巣の南岸に城山と呼ばれる標高750mほどの山がそびえるが、その山名の由来は、将門の館があったとの伝説から。かくほど左様に将門伝説は数多い。

玉川水神社
渓谷に向かって坂を下ると、途中で双竜の滝の案内。右に折れてちょっと寄り道。国道下だろうが、岩盤から滝が落ちていた。坂道に戻り渓谷わきの
旅館一心亭に。前回来た時は川傍の休憩所で食事をとったのだが、今回は店は閉まっていた。一心亭前の小高い岩塊上に玉川水神社がある。大和国丹生川上神社の中社の祭神で水神の「みずはのめのかみ」を祀る。岩盤に鳩ノ巣の由来の案内。明暦の大火で焼け野原となった江戸の復興のため木材の切り出しがはじまる。奥多摩・青梅は秩父の名栗筋の西川材とともに、木材の一大供給地。水神社のあたりに切り出し・搬出のための木材番所ができたという。そこに祀った水神社につがいの鳩が止まり来る。そのまことに仲睦まじい姿ゆえに一同心なごみ、霊鳥として大切に扱った。地名も「鳩ノ巣のところ」ということから鳩ノ巣と呼ばれるようになった。

棚沢
しばし休憩の後、散歩に出かける。渓流に沿った岩場を進む。切り立った岩場も見える。まさしく「棚沢」である。実のところ鳩ノ巣は正式な地名ではない。正確にはこのあたりは棚沢と呼ばれる。棚沢とは、「谷間が棚のような垂直な断崖になっている沢。多くの場合沢は滝となる」といった意味(『奥多摩風土記(大館勇吉著;有峰書店新社刊)』)。地形を見るにつけ、まことにもって言いえて妙である。巨岩・奇岩の間に清流が流れる。川筋は狭い。この鳩ノ巣のあたりまでは谷幅が狭いため、切り出した木材は一本一本バラバラに多摩川に流した鳩ノ巣には「魚留滝(明治の末に崩壊)」があったこともあり、多摩川の筏流しの上限は古里附の「音が淵」が上限であった、とか。

白丸ダム
渓谷に沿ってアップダウンを繰り返し、次第に高度を上げていく。白丸ダムの堤防へと高度を上げダム脇に到着。ダムの堤防に降りると魚道の説明。多摩川を遡上する魚のためにダムの横に階段状の水の道がつくられている。ジグザグに続く魚の道は地下のトンネルを通りダム湖・白丸調整池に繋がる。
堤防の南側には取水口がある。水は地下を通り5キロほど下流の多摩川第三発電所に送られる。通常ダムから下流は干涸らびた河床が多い。しかし、ここは事情が異なる。鳩ノ巣渓谷の狭隘部を堰き止めるダム建設に際して鳩ノ巣渓谷の景観を守るために反対運動が起こったようだ。で、交渉の末、3月中旬から11月中旬までは渓谷の景観維持、つまりは豊かな水量確保のために放水がなされている、と。白丸ダム直下にある白丸発電所ではその放水を利用し発電を行っている。
この白丸ダムは東京都交通局の管轄という。通常ダムの管轄は水道局であり、東京電力といったものであろうが、どういった事情であろう。好奇心でチェック。昭和7年、当時の東京市水道局は水道需要に応えるため小河内ダム建設を計画。その計画を受け、東京市電気局は軌道事業(電車)だけでなく、市が必要とする電力の供給事業を計画。戦前のあれこれの経緯は省くとして、戦後になり都は発電事業を開始。所管は電気局が組織を変更し、新たにできた交通局が担当することになった。電気局は、戦時の電力事業の国家統制もあり、発電事業を廃止し軌道部門だけとなったため、交通局と改名した。発電した電気は東京電力に卸している、とか。はじめ交通局の管轄、と聞いたときは、てっきり地下鉄の電気確保のためか、などとお気楽に考えていたのだが、掘れば歴史が現れるものである。

数馬峡橋
エメラルド色のダム湖湖畔を進む。湖面に遊ぶカヌーが多い。どこから入り込むのやら、などと思っていたのだが、進むにつれて数カ所湖面へのアプローチ地点があった。湖畔にカヌーの置き場もあった。緑の小径を15分ほど歩き数馬峡橋に。渡りきったところに「楓渓・数馬峡の碑」と「河合玉堂歌碑」があった。
「楓渓・数馬峡の碑」には田山花袋が数馬峡を「多摩川の楓渓は、ことにすぐれている・・・・渓もよければ谷の形もよい 水の岩にふれて瀬をなしているのも面白い 道は楓渓と相対して秋は美観である」と描く。つい最近探し求めていた田山花袋の『東京の近郊 一日の行楽』を手に入れたばかりであり、なんたる奇縁。田山花袋のほか、河合玉堂、山田早苗が「楓渓・数馬峡の碑」に描く楓渓・数馬峡も、「楓渓・数馬峡の原風景は、白丸ダムの完成で半ば失われたが、 国道411の直上約20メートルの「数馬の切り通し」(江戸時代に硅岩の岩盤を切り開いた青梅街道)からの眺望は絶景である」というフレーズで結ばれていた。
「河合玉堂歌碑」には「山の上の はなれ小むらの 名を聞かむ やがてわが世を ここにへぬべく」と書く。日本画の巨匠である河合玉堂は奥多摩の自然を愛し、昭和19年(1944)から昭和32年(1957)まで御嶽で過ごした。現在御嶽橋の袂に玉堂美術館がある。
橋を渡って数馬の切り通しに向かうのだが、先ほどの鳩ノ巣と棚沢と同じく、この地も地籍は数馬ではなく白丸と言うようだ。白丸の由来は、多摩川南岸、白丸の対面に聳える城山(じょうやま)が転じたもの、との説がある。「じょうやま」も、もとは「しろやま」であったものが代官のお達しで読みを変えた、とか。しろやま(城山)>しろまる(城丸)>しろまる(白丸)、ということだろう。また、しろ=田畑または区画を示す「しろ=代」。「その畑地が球形に区切られている」から「しろまる」との説もある(『奥多摩風土記(大館勇吉著;有峰書店新社刊』)。いつものことながら、地名の由来って、諸説あり定まることなし。

数馬の切り通し
数馬の切り通しへと向かう。橋を渡り国道に向かい、手作り味噌のお店の脇から数馬の切り通しへの小径へ入る。民家の脇を通り昔歩いた切り通しへの道を進むが、どうも最近大幅な道路工事が行われている。古き良き古道へのアプローチは消えてしまった。国道からも直接上る道が造られている。切り通しにはこの車道から直接上るのが早そうだ。
車道を越えると昔ながらの小径に戻る。杉林の中を進み、沢を過ごすと切り通しに到着。前面の巨岩がきれいに穿ち抜かれている。18世紀初頭、江戸の元禄の頃、岩に火を焚き水で冷やし、脆くしたうえで石ミノやツルハシで切り抜いた。江戸のはじめまで、白丸と氷川との往来は急峻な山越えの道しかなかった。白岩の集落から根岩越えという尾根越えの道を進み、山上はるか上まで続く大岩塊・根岩を迂回し、ゴンザス尾根の鞍部、標高770mあたりで尾根を越え、逆落としの如く氷川集落の裏山へと下る道であった、よう。
で、この切り通しができることによって氷川との往来が少し容易になった。物流が盛んになった。どこで読んだか覚えてはいないが、切り通しのできる前後で氷川集落の家屋個数が200戸から300戸に増えた、とのうろ覚えの記憶がある。
切り通しの手前に「数馬の切り通し案内図」があった。切り通しを越える道は大正の頃まで四回にわたりルートが変更されている。今歩いてきたのが元禄期の道筋、その道の少し下、沢に沿って18世紀中頃の宝永の頃のルート、元禄の頃の道筋から途中で別れ沢を橋で越えて切り通しの先に続く19世紀中頃・嘉永の頃のルート。現在の国道411号線の川側を進み数馬隧道を通る大正の道。あれ?ということは、数馬の切り通しが使われたのは元禄から宝永の頃までの半世紀ということ?
切り通しを越えて先に進む。と、道は180度に近い角度で曲がる。しかも石段があり段差となっている。元禄の頃の切り通しの道跡とすれば誠に不自然。ひょっとすると先ほどの案内でみた嘉永の頃の橋を渡したルートとの繋ぎではなかろうか。であればぴったりと道筋が一致する。
先に進むと再び切り通し。その先は岩壁に沿って細路が続く。切り通しも大変だったと思うが、この岩壁を切り崩し、道を穿つのも大変だったと思う。ということは、数馬の切り通しって、イントロ部分の大岩塊の部分だけでなく、この断崖を穿った開鑿すべてを含んだ言葉なのであろう。
崖下に大正時代の道が見える。足元を抜ける数馬隧道の完成によって、奥多摩・氷川と青梅との車での往来が可能となったのではないだろう、か。大正期の道路の遙か下には多摩川の流れが見える。「楓渓・数馬峡の碑」にあった「数馬の切り通しからの眺望は絶景である」、とはこのことであろう。「楓渓・数馬峡の碑」にも名前のあった山田早苗の数馬の切り通しの描写を挙げておく; ゆく道の大厳の山をさながら切割りて、牛馬の通うばかりに道を造れる処、一町ばかりの程は石敷きたる廊(わたどの)の如くにて、入口に石の門の如く岩立ちたりし所あり(天保12年の山田早苗の『玉川訴源日記』より)。
ところで「数馬」の由来であるが、これまたはっきりしない。秋川筋に数馬の集落がある。これは中村数馬が開いたところ、とか。まさか、秋川筋から中村さんが青梅筋まで遠征したとも思えない。奥氷川神社の神官に河辺数馬藤原永義がいた。この人物が数馬の切り通しを開いたとの説もある(『奥多摩歴史物語;安藤精一(百水社)』)。由来としてはわかりやすい。そのほか、すまは「隅」、かは「かど、かき、かぎり」、の「か」であっり、かずまとは「障壁によって限られるところ」との説も紹介されている(『奥多摩風土記(大館勇吉著;有峰書店新社刊』)。例によって、定説は、ない。

氷川発電所
再び遊歩道に戻る。数馬峡橋を渡り直し、橋の南詰め脇から上流へ向かう。道脇にある森のカフェ・アースガーデンの横を抜けて先に進む。岩壁に沿った遊歩道を進むと隧道があり、そこを抜けるとあたりが開ける。道なりに進むと東京電力氷川発電所と水圧鉄管が見えてくる。平成19年に東電の100%子会社である東京発電に譲渡されているので、正確には東京発電氷川発電所と言うべきか。島嶼部を除いて唯一の水力発電所であった東京電力氷川発電所も水力発電専門の東京発電に移った。東京発電の発電所は先日箱根の深良用水散歩のとき出会った。関係ないけど、なんだかうれしい。
100m強の水圧鉄管が山から下っている。水は小河内ダム直下の多摩川第一発電所で使った余水。水じょく池にたまった水は大半が多摩川に放水されるが、一部が5.3キロの隧道水路を通り氷川発電所に送られてくる。Google MAPをみていると、水圧鉄管の伸びる山中に如何にも人工的な池が見える。これって氷川発電所の調整池だろうか。

海沢
氷川発電所を左にみながら海沢川にかかる小橋をわたる、上りきったところを右に折れ、多摩川にかかる海沢大橋を渡ると国道411号線に出る。左に折れ都道184号線にそって歩けば多摩川南岸を通り奥多摩・氷川に続く。
それにしても奥多摩の山中に「海沢」とは面妖な。チェックすると、往古この地には湖があったと伝わる。交差点を少し山に向かったところにある向雲寺とか海沢神社の西側一帯がそうであった、とか。いつの頃か決壊し現在の地形になったのだが、地名は残った。それが海沢の由来とのこと(『奥多摩風土記(大館勇吉著;有峰書店新社刊』)。

JR奥多摩駅
あとは都道184号線を進み、もえぎの湯への案内を目安に都道から別れ、橋を渡り一風呂浴び、JR奥多摩駅に向かい家路へと。本日はポピュラーなハイキングコース。特にメモすることなど、なにもないかとお思っていたのだが、あれこれ面白そうなところが現れてきた。越沢の渓流に沿っての沢上りに備えて、早速渓流シューズを探し、防水バックを整え始めた。越沢に限らず、御嶽の周辺はなかなか面白そうである。

石神井川散歩も第三回。今日は板橋から王子、隅田川との合流まで。石神井川からちょっと寄り道し、中山道板橋宿を中宿から下宿まで辿り、前々から気になっていた宇喜多秀家の眠る東光寺を訪ねる。その後、再び石神井川筋に戻り加賀前田家の下屋敷跡を辿り、滝野川とも呼ばれた石神井の渓谷を王子駅に進み、河川争奪の結果をちょっと実感し隅田川の合流点へと向かう。距離もそれほどない。結構余裕。のんびりと散歩を楽しむ。(yoyochichi 2010年10月10日 20:32 月曜日, 8月 15, 2005のブログを修正)



本日のルート;東武東上線・中板橋駅>氷川町・氷川神社>東光寺>谷端川跡>近藤勇の供養塔>金沢橋>弾道検査管>前田家下屋敷跡>埼京線交差>寿徳寺>音無もみじ緑地>金剛寺>音無橋>王子駅>隅田川合流点

東武東上線・中板橋駅
駅を北側に下り、下町の雰囲気を残す商店街や民家のなかを石神井川に向かう。北東に進んできた石神井川は東武東上線に交差したすぐ先で南東へと折れるが、そのあたりは環七と最も接近するあたり。いつだったか、板橋区を数回にわたって散歩したとき、この環七脇にある氷川神社から国道17号線の近く、智清寺、日曜寺辺りを歩いたことを思い出す。

氷川町・氷川神社
川に沿って中根橋を越え、国道17号線の近くに釣り堀公園。その先、国道17号線に沿って氷川神社。13世紀はじめ、この地域をおさめる豊島経泰が大宮の武蔵一宮である氷川神社を勧請し、石神井河畔の景勝のこの地に社を建てた。豊島氏が太田道灌に滅ぼされた後も地元人の信仰が篤く、江戸の頃は板橋宿の鎮守であった。1945年の空襲で社殿は全焼。現在の社殿はその後、再建されたものである。

板橋宿
川筋に戻り進むと「板橋」に。石神井川に架かる木製の風情の「板橋」は旧中山道板橋宿の往来である。橋の北、皇女和宮ゆかりの縁切り榎などがある一帯は板橋宿上宿。橋から南に中宿、下宿へと、国道17号線との交差を越えて板橋宿が続いた。板橋宿は1.7キロほどの街並みに、人口2500名弱、旅籠、料理屋、駕籠屋など573の民家が軒を連ねた。
ここからは川筋を少し離れ、板橋宿下宿、中山道が川越街道と分岐する平尾の追分にある宇喜多秀家ゆかりの東光寺にちょっと寄り道。中宿商店街を南に進む。ここは板橋散歩で一度歩いたところ。スーパ脇の民家の前に本陣跡があったよな、遍照寺の境内には板橋宿の馬繋ぎの場所があったよな、板橋区の観光センターは結構充実していたな、そういえばその近くには宿に30ほどもあった妓楼の中でも最大の新藤楼跡もあったよな、などとあれこれ思い出しながら先に進み、旧中山道が国道17号線に当たる手前にある東光寺につく。

東光寺
宇喜多秀家のお墓がある。津本陽氏さんの『宇喜多秀家:備前物語』を読み、素敵な人物であるよなあ、と印象深い戦国武将。関が原で西軍・豊臣側の副将。戦いに敗れ、八丈島に島流し。明治になって恩赦で板橋に。
配流中から加賀前田藩が援助をしており、加賀前田家とゆかりの深いこの板橋の地に。ここ一帯は江戸時代前田藩の下屋敷があったところ。加賀という町名や加賀小学校、金沢小学校までもある。で、なぜ前田藩が「戦犯」の援助?そうだ、中村彰彦さんの『豪姫夢幻』。宇喜多秀家の愛妻豪姫って、前田が実家だった。納得。境内には平尾一里塚にあった石造りの地蔵菩薩座像が残る。
東光寺から石神井川に向かって坂が下る。国道17号線・中山道が通る台地の尾根道から石神井川の谷に向かってくだる。窪みの向こうに見える高まりは十条台の台地であろう。台地を穿って石神井川が流れる。

谷端川跡
ここまできたので、国道17号線を越え、旧中山道を板橋駅前にある近藤勇の供養塔に向かうことにした。商店街を道なりに進みJR板橋駅西口に。予想に反して小振りな駅。近藤勇のお墓は東口。地下通路はないので、駅から少し南に下り線路下をくぐる通路を探す。ほどなく駅のホーム下を抜け東口に向かう道路があった。あれ?なんとなく見覚えがある道筋。これって谷端川跡。豊島区要町の粟島神社の弁天池を水源とし、板橋を経て小石川へと下る。いつだったか水源から下流の後楽園まで歩いたことを思い出す。

近藤勇の供養塔
それはともあれ、谷端川跡を進み東口に出る。南に下る川筋跡と別れ、北に向かい駅前の近藤勇の供養塔に向かう。駅の真ん前にある供養塔は、オープンな雰囲気で、お墓というか記念碑といった風情。
慶応4年(1868)、平尾一里塚付近、というから板橋駅付近で官軍により斬首された近藤勇の首級は京都に移送され、胴体はここに埋葬された。ここには近藤勇だけでなく副長の土方歳三、そしてこの供養塔造立の発起人でもある永倉新八が供養されている。
供養塔を離れ、ゆるやかな坂を上り旧中山道の通る尾根道に戻る。平尾の追分から駅に辿った道の続きであり、駅の南に廻らず、踏切を渡ってそのまま進めばここにでる。平音の一里塚もこのあたりであろう。その名残は何も、ない。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」


金沢橋
旧中山道の尾根道から石神井川筋へと戻る。民家の軒先といった小径を、成り行きで進み国道17号線に出る。次のポイントは石神井川沿いの前田家下屋敷跡なのだが、なにせ成り行きで板橋駅前の近藤勇の供養塔まで来てしまったため、原点復帰地点・板橋への回帰は結構遠い。旧中山道の板橋あたりはあれこれと折に触れて歩いているので、板橋よりは心持ち東の前田家下屋敷まで戻ることにした。
台地上を走る国道17号線から北西へと成り行きで坂を下る。住宅街を進むと金沢橋南詰めに出た。渓谷の様相を呈する石神井川をもう少々東へと戻る。記憶によれば、帝京大学病院あたりから石神井川は「渓谷」となり、桜が誠に美しかったとの覚えがあったため、そこまで戻ることに。

弾道検査管の標的跡
石神井川の南岸を東に戻ると、脇に小高い丘。何気なく寄り道をすると丘は区立加賀公園となっていた。その丘の上に弾道検査管の標的跡が残る。煉瓦積みといった壁は弾道標的の跡。公園西隣にある財団法人・野口研究所の敷地に残る弾道検査管から発射された兵器弾道の標的である。
金沢橋とか加賀公園といった地名からもわかるように、江戸の頃はこの辺り一帯、石神井川を挟んだ現在の加賀1,2丁目や板橋3,4丁目には加賀前田家の広大な下屋敷があった。
明治になり下屋敷跡を陸軍が接収しここに黒色火薬の火薬製造所を設けた。そして終戦に至るまで、この地では7000名もの職員が陸軍が使用する火薬、機関砲。大砲を製造していた。
この地に火薬・兵器工場ができた理由は、第一に広大な前田藩下屋敷の跡地があった。また、兵器・火薬製造機械の動力として石神井川の水力を活用できた。さらには、鉄道運輸が開始される前では、石神井川の水運を利用して都内および後楽園跡地にあった陸軍造兵工廠とのアクセスを確保できた、といったところだろう。区立加賀公園の少し西にある東板橋体育館脇の加賀西公園には火薬製造に使用された圧磨機圧輪記念碑が残る。

前田家下屋敷跡
弾道検査管の標的跡を先に進むと前田家下屋敷跡の案内があった。延宝7年(1679)、幕府から6万坪(約19万8000?)を拝領し平尾の別邸としたのがはじまり。その後、他の下屋敷を返上して天和3年(1683)には合計21万8千坪(約72万1000?)を拝領し、ここを「平尾の下邸」と称した。
そもそも、大名屋敷が上・中・下屋敷と別れたのは明暦3年(1657)に起きた明暦の大火がきっかけ。江戸城の天守閣を含め江戸の町を焼き尽くし、3万名とも10万名とも言われる焼死者を出した未曾有の大火を教訓に、江戸の都市政策を大きく見直し、大名屋敷も上・中・下とわけ、災害・緊急時のリスク管理を計った。上屋敷には藩主やその家族が住み。政治・経済・外交活動の本拠地 とする。中屋敷は隠居した藩主や 嗣子などの住まい。そして下屋敷は別荘、火災時の避難場所として使われた。この前田家下屋敷は前田家の別荘として使われ、鷹狩りや園遊会も催された、また、中山道板橋宿に隣接していることから、参勤交代の休息や送迎の場、装束替えの場にもつかわれたようである。加賀公園のこの小高い丘は人工的に築かれた築山であった。

埼京線交差
加賀公園から野口研究所脇を通り石神井川筋へ戻る。川に沿って更に東に、渓谷の雰囲気を楽しみながら加賀橋、御成橋へと進み帝京大学病院あたりで折り返す。そこからは石神井川北岸の遊歩道を逆に「渓谷」を金沢橋へと戻る。埼京線を越えて「渓谷」は続く。昭和30年ころ、河川工事を行い自然な流れ・蛇行は消え去り渓谷の趣はなくなった、とよく言われているが、現在でも立派な渓谷の赴きを残す。世田谷の等々力渓谷もそうだが、そもそも何でこんな深みがでるのだろうか?よくは理解してはいないのだが、どうも川筋を変えた・川筋が変わったことに関係あるか、とも。
これからは全くの想像。石神井川はもともと、王子あたりから南に不忍池方面に流れていた。現在の流れは王子から隅田川に向かって進む。もともとは、南へとゆったり流れていた川筋が王子で急激に「落ちる」。地形図をみても、王子の駅の西・東で10メートルの落差がある。急激に落ちる=急流。川も蛇行しており、浸食には好都合、ということも相まって「渓谷」に、といったところか。
川筋が自然に変わったのか、人為的に変えられたのか不明のようだが(飛鳥山博物館の資料によれば「自然」のなせるわざ、とのとこ)、この流路の変化により、それまでゆったりと蛇行を繰り返しながら流れていた石神井川が、「滝の」あるような渓谷に変わってしまった。埼京線を越えたあたりで石神井川は滝野川とも呼ばれる。しかし、鈴木理生さんの本によれば、「滝野川」って名前も昔からあったわけではないようだ。もとは穏やかだった流れが、川筋の変化による、急激な侵食作用の結果、滝のような川と変貌していったのだろう。

寿徳寺
先に進み観音橋に。この辺りに来ると街並みが近くなる。北詰に大きな観音様。谷津大観音。2005年に歩いたときは無かったのだが、2008年の冬に寿徳寺により建立された。観音さまの横を抜け、谷津観音の坂を寿徳寺へと向かう。坂名の由来は寿徳寺に祀られる本尊・谷津観音より。谷津の子育て観音とも聖観音とも称される。蓮華座に坐り、両手で乳児を膝の上に抱えている姿で、 指を阿弥陀如来と同じ弥陀の定印に結ぶ木造の観音さまは、現在は秘仏となっている。
壽徳寺は 江戸時代から城北地域の江戸西国三十三番観音札所の第十二番目の巡礼地。西国三十三観音巡礼札所の第十二番、近江国(滋賀県)の名刹岩間寺の霊験と同じ功徳を持つものとして多くの信仰を得た。境内にある銀杏は、この樹の皮をはいで本尊に供え、祈願した後に煎じて飲むと母乳が良く出ると信じられた。この寺の子育て観音信仰は 昭和の初期にも続いていたようで、 河東碧梧桐(かわひがしへきごとう)は「秋立つや子安詣の花の束」といった俳句を詠んでいる。
寺の本堂は鉄筋つくりだろうか。古き趣はない。本堂脇に小振りな仁王さまが佇む。お詣りを済ませ、寺入口の案内をみやると石版に近藤勇の姿がある。脇の石碑には「新撰組隊長近藤勇菩提寺」と。どういうこと?よくよく読むと、板橋駅前の近藤勇供養塔はこの寿徳寺の境外墓地であった。なんとなく立ち寄ったお寺様と供養塔がつながった。成り行き任せの散歩の妙。

音無もみじ緑地
滝野川橋を越えると南岸の遊歩道を進むと「音無もみじ緑地」。石神井川の水が敷地内に取り込まれ、水辺まで降りることが出来る。 河川改修の前には川筋はこの緑地の引き込み部分の方向に蛇行して流れていたのだろう。公園内にある「松橋弁財天窟跡」の説明によると、 ここは「江戸名所図会」に描かれた景勝の地。特に紅葉の名所として知られ、 崖下の岩屋の中に弘法大師の作とされる岩谷弁財天が祀られ、 横に松橋が架かり、付近の崖からは滝が流れていたとのこと。滝は昭和初期まであった、よう。岩屋は昭和50年(1975)頃の、護岸工事が行われるまで残っていた、と。
広重も佐野喜東都名所「王子瀧の川」を描く。朱の鳥居の「岩谷弁才天」。その岩谷のある小高い崖の上にあるのが松崎弁財天社。音無川の河原には床几を出して、水辺で酒を酌み交わす人、水浴を楽しむ人、親子連れや旅人風の人物など、無粋な私にも「その日」の情景が思い浮かぶ。

金剛寺
音無もみじ緑地のすぐ横に金剛寺。由緒書に、源頼朝がこの地に布陣したとのこと。鈴木理生さんの「幻の江戸百年」に興味深い記述があった。以下、まとめると、「伊豆の石橋山の合戦で破れた頼朝は、安房(千葉房総)の国に逃げる。しかし、房総上陸後、関東一円から頼朝のもとに軍勢があつまり、3万余騎の大軍団に。
鎌倉進軍。が、その行く手を阻んだのが、江戸重長。江戸の名前の由来ともなった、この人物、江戸湊の支配者。江戸城本丸あたりに居城をもっていた。秩父平家の流れ。ようするに、反頼朝軍の武将であった。
頼朝は江戸重長との武力戦を避ける。市川で2週間ほど足止め。江戸氏の氏族である、豊島清光、葛西清重など、我に利あらずと必死の調停。結局江戸重永は頼朝に降伏の形をとり、妥協成立。市川から、船で川を渡り王子付近から武蔵野台地に「取りつき」武蔵府中に進軍した」、と。「取りつき」というのがいかにも、低地・湿地帯から台地というか陸地に上陸したって思いが出ている。台地を一歩離れれば一大湿地帯だったのであろう。頼朝は滝野川の松橋に陣をとったといわれる。 松橋とは、当時の金剛寺の寺城を中心とする地名。頼朝は崖下の洞窟に祀られていた弁財天に祈願し 、金剛寺の寺城に弁天堂を建立し、所領の田地を寄進したと伝えられる。この弁財天が「江戸名所図会」に描かれた岩谷弁財天であり、松崎弁財天社であろう。

音無橋
金剛寺は紅葉寺とも呼ばれていた。深山幽谷の趣をもったこの地は紅葉の名所として知られていたのだろう。その名残を名前に残す金剛寺の近くに紅葉橋を越え、少し先に進むと「音無さくら緑地」。ここも河川改修工事以前の旧流路を残して造られた緑地となっている。緑地内には吊り橋なども造られている。緑地から300m程進むと音無橋に。音無橋のところで、石神井川は音無親水公園の右岸脇の水路に進み暗渠となって飛鳥山。王子駅の下へと流れ込む。
音無親水公園は昔の石神井川の流路、風情を残して公園にしたものだろう。案内をメモする;音無川のこのあたりは、 古くから名所。 江戸時代の天保7年に完成した「江戸名所図会」や、 嘉永5年の近吾堂板江戸切絵図、 また、 安藤広重による錦絵など多くの資料に弁天の滝、不動の滝、石堰から落ちる王子の大滝などが見られ、広く親しまれていたことがわかる。「江戸名所花暦」 「游歴雑記」などには、 一歩ごとにながめがかわり、投網や釣りもできれば泳ぐこともでき、 夕焼けがひときわ見事で川の水でたてた茶はおいしいと書かれる。 江戸幕府による地誌、「新編武蔵風土記稿」には、このあたりの高台からの眺めについて、飛鳥山が手にとるように見え、 眼の下には音無川が勢いよく流れ、石堰にあたる水の音が響き、 谷間の樹木は見事で、 実にすぐれているとある。こうした恵まれた自然条件をいまに再生し、後世に伝えることを願って、昭和63年、北区は、この音無親水公園を整備した。「 たきらせの 絶えぬ流れの末遠く すむ水きよし 夕日さす影」、と。ちなみに、音無の由来は紀伊熊野の音無川から。音無川のすぐ脇に王子神社があるが、その社は鎌倉後期、豊島氏が紀伊の国の熊野権現を勧請し社を建てた。

JR王子駅から隅田川合流点に
王子駅下をくぐった暗渠は駅の東口で開渠となり首都高速環状線の下を窮屈そうに進む。明治通りと交差し、さらに高速道路に沿って、溝田橋、豊石橋と進み墨田川に合流する。合流地点は立ち入り禁止。少々呆気ないながらも、これで石神井川散歩を終える。



先回の迂回路、迷い路,EveryWhere状況の再現を怖れつつ、気持ちも少々晴れやかならず、石神井公園に向かった。結論から言えば、予想に反し、予想外の展開で、本日の散歩ルート、 石神井公園から板橋・滝野川までは快適な散歩道。遊歩道、川筋に沿った車道との共同道と遊歩道一本やりというわけではないが、川に沿って迷うこともなく、行き止まりに「怒る」こともなく、楽しく歩けた。(yoyochichi 2010年10月10日 20:30 日曜日, 8月 14, 2005のブログを修正)



本日のルート:西武新宿線上石神井駅>三宝寺>道場寺>氷川神社>石神井城址>三宝池・石神井池>禅定院>笹目通り>清戸道交差>豊島園>広徳寺>高稲荷神社>早宮史跡公園>氷川神社>光伝寺>城北中央公園>御嶽神社>田柄川跡>茂呂遺跡>安養寺>東新町氷川神社>環七>川越街道>旧川越街道・下頭橋

西武新宿線上石神井駅
井の頭線。中央線、正確には吉祥寺から総武線で西荻窪。駅前からバスに乗り、西武新宿線上石神井駅に。北口大通りを北に進み早大学院前バス停に。先回日没ギブアップでバスに乗ったところ。坂を下り、石神井川を井草通りまで進み左折。旧早稲田通りを越え、三宝寺池に向かう。

三宝寺
まずは、三宝寺。由緒ある真言宗の寺。品格のある風情。開山は南北朝時代の応永元年(1394)。もとは少し先にある禅定院のところにあったようだが、豊島氏を破った太田道灌の命により、この地に移った。小田原北条家や江戸の徳川家により庇護を受け、末寺数十という大寺となった。
表参道の「守護史不入」(しゅごしふにゅう)の碑は、 守護の徴税史も山門内には入れない、ということ。寺格のほどを誇る。山門は「御成門」と呼ばれる。三代将軍家光が御園猪山で猪狩りのとき、この寺を休憩所としたことが名前の由来。山門東側の長屋門(ながやもん)は、勝海舟の屋敷門を移したものとのことである。ちなみに三宝、って「仏・法・僧」。悟りを開いた人である「仏」、仏の教えである「法」、法を学ぶ仏弟子「僧」ということ。

道場寺
落ち着いた、いい雰囲気の禅寺(曹洞宗)。豊島山との山号が示すようにこの寺院は石神井一帯を支配した豊島一族が建立したもの。文中年間(1372)、当時の石神井城主豊島景村の養子輝時(北条高時の孫)が建て、豊島氏代々の菩提寺としたと伝えられる。境内には文明九年(1477)太田道灌に滅ぼされた
豊島氏最後の城主奉経や一族の墓と伝えられる石塔三基がある。伽藍は昭和11年から60年に渡って再建され、各時代の様式を再現している。室町様式の「山門」に入ると、左手に鎌倉様式の「三重塔」、右手には安土桃山様式の「鐘楼」、そして正面の「本堂」は奈良・唐招提寺の「金堂」を模した天平様式、「客殿」は京都・桂離宮を模した江戸時代、といった案配である、とか。

氷川神社
寺を出て、すぐ北にある氷川神社。平安時代末期から室町時代中期まで,この地域、というか、現在の文京区,台東区,豊島区,北区,荒川区,板橋区,練馬区などやその周辺地域、つまりは、石神井川流域に勢力を持っていた豊島氏が祀ったもの。周りは鬱蒼とした森。神社脇の踏み分け道をはいると石神井城址があった。

石神井城址
石神井城址。鎌倉末期、豊島泰経の居城跡。空堀と土塁が残っているとのこと。保護フェンス越しに丘を眺める。で、この豊島泰経、1477年に太田道潅との戦いに敗れ、平塚城に落ちその後。。。平塚城?上中里の平塚神社の平塚城?あの浅見光彦様がお団子を食べるためよく行く、平塚団子亭のある、あの平塚神社?表紙が違っただけで新刊と思う自分も悪いのだが、出版社の「新刊」という宣伝に惑わされ、実際の作品総数の5割り増しの200冊ほど「買わされた」あの名探偵浅見さまの平塚神社?急に豊島泰経、大田道潅が身近になった。
先日の妙正寺川散歩の折も、江古田・沼袋の戦いで太田道潅・豊島泰経の名前が出てきたのだが、古川公方だの、扇谷上杉、山内上杉など、ややこしくてちょっと躊躇していたこの二人、なぜ互いに戦ったのかについて、まとめてみることにする。

結論としては、豊島泰経は古河公方、大田道潅は鎌倉公方・関東管領方として互いに会い争う立場にあったということ。鎌倉公方とは室町幕府の関東10カ国の最高責任者といったもの。古河公方も、もともとは鎌倉公方。鎌倉公方であった足利成氏が、その最高補佐役である関東管領の上杉氏と諍いを起こし、席を同じゅうせず、と古河(茨城県古河市)に居を構えて反目することになる。その本拠地故に古河公方と呼ばれるようになる。
大田道潅は関東管領の一族扇谷上杉氏の重臣。豊島泰経も関東管領山内上杉氏の重臣。同じ管領側が敵味方に分かれたのは?山内上杉家の重臣、長尾景春が跡目相続の恨みで主家に反旗を翻し、鎌倉公方から古河公方に移ったことがきっかけ。豊島泰経は長尾景春に与力した、つまりは、古河公方側についたため、鎌倉公方側の大田道潅と戦うことになった、ってこと。
戦いのプロセス;1477年、道灌軍豊島氏の属城である平塚城を攻める為に江戸城を出る。が、泰経はその隙に江戸城を奪うべく石神井城より出陣。が、しかし道灌軍は転じて石神井城方面に侵出。江古田・沼袋付近で両軍は激突(江古田原・沼袋の戦い)。豊島軍は敗れ、この石神井城に逃げ込むが落城。豊島泰経は,落城後,平塚城(北区平塚神社)に敗走。その翌年の1月25日に道灌に攻められ小机城(横浜市)に逃げた、と伝えられる。
後日談。大田道潅は主家扇谷上杉家に疑念をもたれ謀殺される。その後、後北条(ごほうじょう)氏、上杉氏、足利氏、長尾氏、太田氏による戦乱の中、扇谷上杉家は力を失い滅亡。一方山内上杉は越後に逃れ、管領職を重臣・執事の長尾氏に。長尾景虎こと、上杉謙信が関東管領として関東を窺うことになる。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)

三宝池・石神井池
さてと、歩きはじめなくては。石神井城址から三宝寺池に。江戸のお散歩の達人・村尾嘉陵が《江戸近郊道しるべ》の『石神井の道くさ』に、氷川の社から三宝池への「道くさ」を描く:「(略)畑の細道を行ば、氷川の社あり。鳥居の脇を猶西へ行ば、道の左林のうちに小社あり、天満天神を崇め奉る。そこより少し行ば、北にくだる小坂あり。くだれば、向ひに弁才天の社あり。社をめぐりて皆池(三宝池)なり。蘆荻(ろてき)生じけり、雁鴨あまた下居て、かなたこなた水の面をゆきかへる、いくらといふ数をしるばからず、池の大さ七八十間ばかり、四面は東の一方のみ明て、余はみな高からぬ山なり」、と。
三宝池に着く。葦かなにかはわからないが、湿地一面の芦原って、こういった風情かと想像。水源は、もとは武蔵野台地からの湧水であった。ために、水温も季節によって大きな変化が無く、氷河期からの植物が生息する池として昭和10年には国の特別天然記念物に指定された沼沢植物群落を有する池となったが、湧水が涸渇してきた昨今、状況は変わってきているのだろう、か。池には厳島神社が祀られる。石神井川の水源ともなった三宝池を守る水神様というところだろう。森というか林を抜け、石神井池に。以前一度ここにきたことはあるのだが、石神井公園の東側の石神井池は三宝池とは大きく印象を替え、都会風の洒落た公園、といったもの。もとは三宝池の水をひいた田圃であったところを堰止めて昭和8年に池にした。都心や宅地化された周辺住民のための観光・行楽の地とするためとのことであろう。
ところで石神井川だが、wikipediaによれば、最近まで石神井川の本流はこの三宝池から流れ出す川であり、小金井からの流れは大川、さらに上流では「悪水」などと呼ばれていたようだ。都市化ともに三宝池からの湧水が減るにつれ、大川が石神井本流とされるようになった、とか。石神井川とは石神井村を貫流するが故の名前ではあるが、源流点が石神井ではないわけで、なんとなく名前に違和感があったのだが、もとはこの地からの流れが石神井川、ということであれば、なんとなく納得できる。

禅定院
石神井池を離れ石神井川へと向かう。途中に禅定院。火災による古書類消滅のため開基時期は不詳。境内で南北朝期の板碑がみつかっているので、おおよそその頃にはお寺が開かれていた、と推測されている。本堂前の寛文十三年(1673)と刻まれた織部灯籠(区登録文化財)はその像容から別名キリシタン灯籠と言われる。茶人古田織部が創案したとされる織部灯籠は、竿にマリア像に似た石彫りがあり、また、織部が切支丹であったと伝わるためである。
「橋を北へわたりこせば、石神井村、この辺一人の往来を見ず、もの問べきよすがもなし。路の行あたる所に寺あり、禅定寺(禅定院)といふ、その前を西へ山にそふて、田のふちを行ば民家一戸あり、其先に又寺あり、道常寺(道場寺)といふ、その西にとなれるが三宝寺なり(村尾嘉陵《江戸近郊道しるべ》の『石神井の道くさ』)」。禅定院から三宝院への描写である。

笹目通り
石神井公園を離れ、南田中団地の中を進む。両岸に宗歩道があり、川幅も広くなる。笹目通り、西武新宿線練馬高野台駅付近を交差。笹目通りの名前は開通当時、戸田市の笹目を通っていたから。川は北に振れる。谷原一丁目で目白通りに接近。少しの間目白通りに沿って流れる。笹目通りを少し北に、西武新宿線を越えて左に入ると長命寺がある。いつだったか自転車で和光の白子の宿に向かうとき偶然出会ったのだが、その構えに少々驚いた。後北条一族の開基。江戸の頃は御朱印寺でもあり、東の高野山と称される大寺であった。南大門の四天王様もなかなか、いい。たまたま迷い込んだところに、突然現れた古刹だけに記憶に残る。

清戸道交差
環八練馬中央陸橋付近で目白通りと環八通りのクロス部分を越える。ここにもガスタンク。東伏見付近に続き二つ目。どうということはないのだが、なんとなくおもしろい。環八を越えると遊歩道はなくなり一般の道が川に沿って進む。バルコニー風のデザインの道楽橋での清戸道、旧目白通りと交差。清戸道は文京区関口から大雑把に言って目白通りの道筋を清瀬の清戸に進む道。清戸にあった尾張藩の鷹場への道とも、近郊の野菜を江戸に運ぶ道とも。もっとも、野菜を江戸に運んだ帰り道、「有機肥料」を持ち帰る姿故に呼ばれた「汚穢(おわい)街道」のほうが通りやすいか、とも。神路橋のあたりで貫井川が合流する。石神井公園の南、下石神井付近から石神井川の南をほぼ平行に暗渠となって進む。一部は貫井川緑道ともなっているようだ。石井橋から先で石神井川は豊島園に入ってゆく。

豊島園
現在豊島園となっている一帯は昔の練馬城址。石神井川を自然の堀割に、川の北側の急崖の台地の上に城が築かれていたようだ。この城は豊島一族の支城。太田道灌との戦いにおいては、豊島方の拠点の石神井城とともに道灌方の江戸城と川越城の連携を阻止すべく奮戦するも、江古田の戦いにおいて豊島勢は道灌方に敗れる。練馬城もこのときに落城したようだ。遊園地となった今、遺構は残らない。ただ、遊園地の名前である豊島にその名残が残る。豊島区でもないのに、どうして豊島園、の所以はこういうことである。
川は豊島園内を流れているため、園に沿って迂回。川の南側、その昔は矢野山と呼ばれる雑木林であったそうだ。西武豊島線・豊島園の駅前あたりまで上り、ふたたび石神井川筋へと下っていく。
豊島園の東に中之橋。橋の脇には大江戸線のトンネル内の漏水を放流しているとの案内。水質保全のためではあろう。水源には何も水がなかった石神井の流れが徐々に豊かになっていくのは、それほど単純なことではないようだ。

広徳寺
道に沿って進むと川の右手に練馬総合運動場。中学校の陸上競技大会などを見やりながら、先に進むと川の右手に豊かな緑が見える。地図をチェックすると広徳寺とある。いかなる由緒のお寺さまかは知らないままに広徳寺に向かう。
広大な敷地とは思えども、「拝観お断り」のメッセージがあり境内には入れない。どこかに入り口はないかと彷徨うが、入口は見あたらず。総門脇の桂徳院にてかるくお参りをすます、のみ。案内によれば、臨済宗大徳寺派の大寺。もとは台東区の上野にあったものが、関東大震災の後、この地に移った。この時期は塔頭の桂徳院などと墓地だけであったようだが、戦後になって本寺もこの地に移ってきた。寺域二万坪と言う。浅草の浅草寺がおよそ三万坪、芝の増上寺が一万六千坪というから、現在の東京でもベストスリーに入る広大な寺域である。
寺の興りは元亀・天正(1570-92)の頃。岩槻城主北条氏房が義父である太田三楽齋の菩提を弔うため小田原に建てたことにはじまる。寺は秀吉の小田原征伐の時に炎上・焼失。江戸時代になり徳川家康により復興され神田、さらには下谷に移され、多くの諸大名・旗本の帰依を受ける。境内の墓地には柳生、前田(大聖寺)、小堀(備中松山藩、近江小室藩初代藩主。小堀政治一は小堀遠州の名で作庭家))、織田、立花、小笠原、秋月、細川(谷田部)、市橋、関、松浦、真田(松代)、桑山、滝川、松平(会津)などの大名が眠る、という。
あれ? 下谷? 広徳寺?ひょっとして「びっくり下谷の広徳寺?」。然りであった。太田南畝がつくった「おそれ入谷の鬼子母神、どうで有馬の水天宮、志やれの内のお祖師さま」を庶民がアレンジし「恐れ入谷の鬼子母神、びっくり下谷の広徳寺、どうで有馬の水天宮、志やれの内のお祖師様、うそを築地の御門跡」となり巷間流布したフレーズにある、あの広徳寺であった。こんなところで出会うとは、まことに「びっくり練馬の広徳寺」ではあった。
ちょっと気になることがある。何故家康が広徳寺を再興したのだろうか。以下は単なる推論というか、妄想であるが、最初に思い浮かぶのは、北条の領地を引き継いだ家康の北条旧領民や旧北条家臣団の融和策。もう少し深読みすれば、もともとは太田三楽齋という北条の関東支配以前からの旧勢力太田氏の菩提寺であったわけで、その寺を庇護することにより旧北条家臣の勢力を牽制した。実際新領地に移った徳川家は北条旧家臣団の蜂起を怖れてはいただろう。まだ深読みすると、広徳寺は小田原早雲寺の末寺のひとつ。その小田原早雲寺は臨済宗大徳寺派の関東の拠点。十数カ所の末寺を擁していたわけで、拠点を抑えば末寺を通しての可能となる。早雲寺も北条滅亡し焼失したわけで、臨済宗大徳寺派を再構築する際に、末寺の中から北条家ゆかりでもあるが、同時に北条家臣団への牽制ともなりうる広徳寺を選び出し、江戸で臨済宗大徳寺派のネットワークを組み上げていった、ということだろう。妄想はそろそろやめて散歩に戻る。

高稲荷神社
川筋に戻ると、ほどなく公園に。公園南に小高い台地に稲荷の社・高稲荷神社。「高稲荷は石神井川に臨んだ台地上にあるが、その下は、むかしは大きな沼。そこには、主の大蛇がすんでいた。練馬村のとある若者が、その沼の主である大蛇に見込まれ、沼の中に引きいれられてしまった。それは篠氏の一族だともいうが、その霊をなぐさめるために祀ったのが、高稲荷」いった伝説が伝わる。文政5年(1822)の頃より地元の農民の信仰を集めていた、と。高稲荷公園も護岸工事などがないはるか昔には沼地であったのだろう。
この高稲荷神社付近からは旧石器・縄文・弥生時代の遺構遺物が発掘されている。特に東北地方産と考えられる材質(硬質頁岩)の旧石器時代の石器は、石神井流域によく見られる黒曜石やチャートの石器とは異なる特徴をもち、注目されている、とか。いまひとつ有り難みはよくわからないが、それはそれとして、さて次はどこ、と地図をチェック。石神井川の北岸台地の上に早宮史跡公園がある。名前が如何にも有り難そう。一休みの後、台地を上る。

早宮史跡公園
住宅街を上り、右往左往、そして下る。また上る。住宅に囲まれた台地上の公園を見つけるのに少々苦労。見つかればどうということはないのは、いつものことではあったが、誠につつましやかな公園についた。この公園敷地辺りで弥生時代の住居跡や土器、縄文時代の鍬などが確認され、遺構は再び埋め戻されている。
この公園あたりも含め、この地域は旧石器時代から平安時代までの複合遺跡である「東早淵遺跡」と呼ばれる。この遺跡からは旧石器時代の石器製作跡や調理用礫、縄文時代初期の土杭、弥生時代後期の住居跡や方形周溝墓、土器、また平安時代の住居跡や土器が発見されている。この石神井川北岸台地の東早淵遺跡、そして川向こうの高稲荷の遺跡など、石神井川の両岸の台地の上では往古より人の営みがあったわけである。事実、石神井川や白子川流域には130余の縄文・弥生、そして古墳時代の遺跡が残る。ちなみに、有り難そうであった、早宮の由来は早淵と宮が谷戸の合成語というだけであった。早淵は石神井川の早き淵、宮が谷戸は近くの氷川の宮との関連ではあろう。

氷川神社
台地を下り氷川神社へと向かう。長禄元年(1457)、渋川義鏡が古河公方・足利成氏との合戦への途上に下練馬で石神井川を渡河。淀みに泉を見いだし、武運を祈ったのがはじまりと言う。もとは、「お浜井戸」(桜台6-32)に鎮座していたとのことだが、1477年(文明9年)の江古田原の戦いの際に焼失。江戸時代の延享年間(1744年 - 1748年)に現在地に移転・再建された、とのことである。4年に1度の例大祭にはお里帰りと呼ばれる神幸行列を組んで神社から発祥の地まで練り歩く。
渋川義鏡は享徳の乱(古河公方・足利成氏と関東管領上杉家の争い)に際し、室町幕府より派遣され、堀越公方・足利政知とともに古河公方・足利成氏と戦う。これから先はよくわからないのだが、結局は和を結び古河公方の傘下に入る、とも。その後は武蔵に進出した小田原北条の支配下に入り、16世紀の前半、扇谷上杉家の上杉朝興に攻められ居城の蕨の城は落城した、とのことである。いまひとつ全体像がよくわからないのだが、古河公方と結んだのであれば太田道灌(扇谷上杉家の家宰)と敵対するだろうし、道灌と敵対すれば、敵の敵は味方ということで豊島一族とは誼(よしみ)を通じるわけで、石神井川一帯を支配する豊島一族の支配下に、こういった伝説が残るのもあり、ということだろう。

光伝寺
参道脇に古い趣の民家と商家があった。なかなか、いい。成り行きで都道441号の光伝寺交差点に戻り、差光伝寺に向かう。参道を通り山門をくぐり境内に。本堂、閻魔堂、鐘楼、十一面菩薩道などが残る。開山は16世紀の中頃、か。橋柱石が境内に保存されているとのことだが、これは光伝寺の和尚が私財を投じ、石神井川にかけた「弥右衛門橋(現在の正久保橋)」の名残り。地元民の徳を集めた和尚様であった、と伝わる。

城北中央公園
光伝寺から成り行きで石神井川に戻る。開進橋の先に城北中央公園。練馬区と板橋区に跨る26ヘクタールにも及ぶ広い敷地をもつ。戦時中は空襲被害の拡大を防ぐ防空緑地であったものが、戦後公園となった。一時期立教学園の運動場もあったようで、その建設の時期に石器時代から平安時代に至る複合遺跡がみつかった。地名をとって栗原遺跡と名付けられた遺跡には、現在奈良時代はじめの竪穴式住居が復元されている。雑木林の中を成り行きで進むと御嶽神社が現れた。

御嶽神社
教育委員会の案内によれば、創建年代は不詳。旧上板橋村栗原(現・桜川の一部)・七軒屋(現上板橋)の氏神。この栗原の地は、康生二(1456)年、太田道灌が千代田村(現・皇居)に江戸城を築く際、同村宝田村の住民を移動させたところとされ、この時村内に祀ってあった稲荷(現・宝田稲荷)もこの地に遷座させたという伝承もあり、往古より開けた土地柄であった、と。この社はその頃、信州の御嶽山(一説には甲州)を勧請したと伝えられる。境内にある嘉永七(1854)年銘の狼型狛犬は、山岳信仰を伝えるもので、同型のものとしては都内でも有数の古さを誇っている。毎年三月八日に行われる昆謝祭には、強飯式の面影を残す大盛飯の膳、大根で作った鶴亀(逢来山)を神前に供える風習が残されている、と。
誠に、狛犬は狼型。御嶽信仰において狼は神狗、「大口の真神」との尊称をもち、御山の神の眷属、神の使いとして神聖視されていた。御嶽山には平安時代修験道の霊山として蔵王権現が祀られ、江戸の頃には数多くの御嶽講が組織され、御師のガイドより御山への登拝が行われたが、その御師が檀家廻りのとき、配った神札が、「御神狗」であった。

田柄川跡
御嶽神社から石神井川に戻る。社前の道に緑道がある。櫻川緑道とあったが、これは場所からみて田柄川の川筋ではなかろうか。先日、別の機会にこの公園北にある金乗院に出かけたとき田柄川跡の暗渠に出会い、思わず少し北に辿ったことがあるのだが、源流点が練馬の光が丘辺りとわかり、遡行は別の機会と言い聞かせた川筋であった。

茂呂遺跡
石神井川に戻ると川の南側にいかにも、何かありそうな小高い叢がある。思わず進むと台地はフェンスで囲われ、案内に茂呂遺跡とあった。旧石器時代の遺跡であり、黒曜石のナイフ形石器やその剥片石器が出土した。石神井川の両岸の台地上で日当たりが良く、水の便がいいこの地は往古の人々にとっての快適な地であったのだろう。

安養院
再び石神井川に向かって成り行きですすむ。川筋から少し北に安養院。安養院とか多聞寺といった名前のお寺様は結構外れが少ない。とりあえず寄り道。
本堂、鐘撞堂、大師堂、庫裏など美しいお寺様。銅鐘は江戸時代の作で国の重要美術品とか。寺伝によれば、鎌倉中期正嘉元年(1257)に、最明寺北条時頼が諸国行脚のみぎり、持仏「摩利支天」を此地に安置し一宇を建立して創建されたと伝えられる。1257といえば、五代執権であった時頼が病のため執権職を義兄である北条長時に譲り出家し、最明寺入道と称した年の1年後。執権職を強化するためには辣腕をふるう一方で、見識にすぐれ善政を敷いた名君と評される。ために、能の『鉢の木』の「廻国伝説に時頼の民情視察の諸国行脚が語られている。安養寺の寺伝はそのみぎり、と符号するのだが、実際は出家したとはいえ、幼い嫡子時宗の次期執権職を安泰とするため幕府の実権はしっかり握っており、且つまた、病気のためむなしくなったのが、寺伝縁起の数年後の1263年というから、諸国行脚をしている余裕はなかった、かと。いつものように縁起は縁起としておこう。

東新町氷川神社
安養院から東へ道なりに進むとほどなく氷川神社。東新町の豊か鎮守の森の中にある。一の明神鳥居から二の木製の台輪鳥居へと長い参道を歩く。その先は石段となっており、上りきると三の朱塗り両部鳥居がある。鬱蒼とした木々が茂る境内の入り口には嘉永3年(1850)生まれの子連れ江戸流れ狛犬。子連れの狛犬ってあまり見たことがないので、なんとなく、いい。本殿は嘉永3年(1850)に改築されたもの。現在は)鉄筋コンクリート建ての覆殿に納められている。

環七
氷川神社から石神井川へ戻ると、ほどなく環七と交差。先に進むと耕整橋。耕整橋から緑道が南に向かうが、これは「エンガ堀」と呼ばれた用水跡。昔は一面に広がる田圃の用水路ではあったのだろうが、都市化が進むとともにその機能を失い暗渠化され、現在緑道の地下には下水道向原幹線が通っている。耕整橋の名前は、耕地の整理に際して出来た橋であったのだろう。また、「エンガ」は、エガ堀とも呼ばれ、「江川」と表示することもあるようだが、「エンガ」の由来は不明。埼玉県には「排水堀で川へ落ちる部分」との方言があるそうだ。このあたりの意味が近そう。いつだったか、この耕整橋から南へ、大谷口の給水塔へと歩いたことがあるが、それはそれとして、先に進むと、ほどなく川越街道。

川越街道
現在の川越街道・国道254号線は起点である豊島区・池袋六ッ又交差点からはじまり、埼玉県川越市に終わる。ちなみに、起点から先、日本橋に向かう国道254号線は春日通りと呼ばれる。川越街道のはじまりは、戦国の頃、古河公方に対する防御ラインとして川越に城を築き、江戸城との間を古道をつなぎ合わせて道としたもの。江戸時代に入り、川越藩主。松平信綱により、中山道の脇往還として整備された。中山道を板橋宿・平井の追分(現在の板橋3丁目三叉路)で別れ、上板橋宿、下練馬宿、白子宿、膝折宿、大和田宿、大井宿と進み川越に至る。

旧川越街道・下頭橋
先に進むと東武東上線との交差の手前に下頭橋。このあたりは昔の川越街道の道筋であろう。橋の袂に祠があり、ちょっと立ち寄る。橋と祠の由緒の案内によれば、この辺りは旧川越街道の上板橋宿跡。宿橋である下頭橋は近隣住民の協力により石橋に架け替えることにより、それまで頻発していた水難事故が跡を絶った、と。
橋の名の由来については、例によって諸説ある。旅僧が地面に突き刺した榎の杖がやがて芽を吹いて大木に成長したという逆榎がこの地にあった、というのがそのひとつ。二つ目は、川越城主が江戸に出府の際、江戸屋敷の家臣がここまで来て頭を下げて出迎えたから、というもの。三つ目は、橋のたもとで旅人から喜捨を受けていた六蔵の金をもとに石橋が架け替えられたからというもの。橋脇の六蔵祠はこの六蔵の徳を讃えて建てられたもの。本日の散歩はここまで。東武東上線・中板橋駅に向かい、家路へと。


先日、東横線沿線散歩のとき、祐天寺の古本屋で買った『幻の江戸百年(鈴木理生:ちくまライブラリー)』に以下の記述があった。;「石神井川は、小金井市北端のゴルフ場付近を源流として、田無市を経て富士見池―(練馬区関町)―三宝寺池(同区石神井公園)―石神井池(同区石神井5丁目)から板橋区南部を流れ、北区滝野川に入ってからは台地の川のあり方としては例外的な渓谷状の河川となり、JR王子駅の下を流れて隅田川に注ぐ全長25.21キロの河川である。いまは滝野川の部分を中心に大改修が行われ、つい30年前まであった緑深い渓谷上の河流の面影は全く姿を消した。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」


それはともかく、滝野川―王子間、特に飛鳥山付近の地形を調べると、本来の石神井川は飛鳥山西麓から、昭和三十年代初めまで残っていた谷田川という河流の線を千駄木―根津―不忍池へと流れ、不忍池から池之端―湯島―須田町―神田(お玉が池)―日本橋堀留に至る河流として、江戸前島東岸の海に注いでいた」
前々から気になる川ではあった。滝野川あたりの地形、渓谷云々、といったコンテキストでよく現れる川である。が、それよりも、滝野川と石神井がどうも繋がらなかった。神田川の時もメモしたが、川は北から南に流れるものとの刷り込みが強かった。多摩川しかり、荒川しかり、である。西の石神井から東の滝野川へ?どこからどこへ流れているのか?今(2010年)となってみれば、武蔵野台地は西から東へと緩やかに傾斜する台地であるし、途方もない年月で開析された谷筋は概ね東西に、しかもこれも大雑把に言えば、東にむかって少し上向きに開かれているわけで、武蔵野台地を流れる川が西から東に流れてもいっこうに不思議ではないのだが、散歩をはじめた2005年の頃は、川の流路が不思議に思えていたのである。また、武蔵野台地の西と東の端を下る多摩川と荒川が北から南に下るもの、まことにもって理にかなってもいた。;
石神井川の流路は武蔵野台地を西から東に横切っている。神田川、善福寺川、そして妙正寺川も同様の流れ、である。しかも、これらの河川の源流点というか湧水点も大雑把に言えばほぼ同じ地帯。「海抜50メートルの南北線上には谷頭が沢山あって、これより東に向かう谷の源となっている」と『東京の自然史(貝塚爽平)』にも記述がある。湧水フリークとしては神田川、善福寺川、そして妙正川の源流点は辿った。残すは石神井川。これが気になる川の所以である。
石神井川を歩こう、とはいうものの、石神井川を源流点から河口まで辿ろうと、地図を見て結構迷った。Webで調べて躊躇した。どうみたところで、源流点近くのあたりの流路には遊歩道などあまり整備されているとは見えないし、あれこれ道に迷うだろうし、同じ道を引き返すことも多そうだし、それは段取り優先、一筆書きを信条とする私にとって、結構鬱陶しいことであるし、はてさて、どうしようか、とは思い迷った。が、結局、出かける事にした。始まりは、案の定というか、予想通りというか、予想以上というか、いやはやのスタートとなった。(yoyochichi (20010年10月10日 20:27:土曜日, 8月 13, 2005のブログを修正)



本日のルート:中央線武蔵小金井駅>嘉悦女子大>小金井公園>多摩自転車道>向台運動場>田無駅前>青梅街道>東伏見稲荷>早稲田大学東伏見運動場>下野谷遺跡公園>武蔵関公園>新青梅街道

中央線武蔵小金井
中央線武蔵小金井下車。バスに乗り、小金井街道を北に進む。都立小金井公園手前、五日市街道との交差点に小金井橋。これって先日の玉川上水散歩のとき歩いたところ。結構近いところを歩いていた、などと何ヶ月か前のエピソードを思い起こしながら、はたまた、エピソードって人の人たる所以であり、ほかの動物には「過去の経験」を思い出す能力はない、といった先日読んだ茂木健一郎さん(だったと思うのだが)の本のコメントを「思い出」しながら嘉悦女子大前(2010年秋現在嘉悦大学に)で下車。

嘉悦女子大(2010年秋に嘉悦大学)近くに源流点

バスを降り、小金井公園の裏手というか前述の「小金井市北端のゴルフ場」と嘉悦女子大の間にある源流点近くの開渠地点に向かう。早速迷う。行き止まりの道に阻まれ、元の道に引き返し、再度トライ、そしてまたエラー。先が思いやられる。
小金井公園道路を見つけ、南に下りなんとか辿りつく。ほとんど大学構内といったところ。先に開渠部が続いているのが見えるが、関係者立ち入り禁止といわれている以上、これ以上進めない。川筋に水は無い。(2010年秋修正;地図を見ていると、嘉悦大を抜けてその先まで流路跡が見える。流路跡は西に向かい新小金井街道脇にある鈴木小学校の手前で切れている。このあたりが源流点のようだ)

小金井公園の裏手を進む
さて、石神井川の川筋ツアー本格スタート。嘉悦大学あたりから暗渠が続くが、小金井公園の裏手というか北端あたりで開渠となる。「石神井川上流端」との案内があった。開渠は公園北端に沿って流れる。水は無い。小金井公園も表というか南側の整地された、いかにも公園といったところは子どもが小さい頃、何度か訪れたことはあった。が、裏はいかにも自然のまま。いい感じの森、というか林を歩く。

多摩自転車道の土手
公園を離れるあたりで川と道が泣き別れ。踏み分け道を左手の流れを意識しながら道に出る。川に戻るがまた、泣き別れ。川は畑の中から、そして、土手の下をくぐっていく。土手、というか堤は、一体何?地形としてはいかにも不自然。畑を迂回し土手に向かう。
多摩自転車道というサインがある。この道路、狭山境緑道とも呼ばれ、武蔵野市の境浄水場から狭山湖までの10キロ強の自転車・歩行者専用道。道路の下には狭山湖(山口貯水池)、多摩湖(村山貯水池)からの水を運ぶ水道管が埋められている。先日歩いた多摩湖・狭山湖のあたりに外周の多摩自転車道というのが、あったが、その自転車道路はここまで続いていたわけだ。堤のようになっていたのは、このあたりの土地が低いため土手が築かれた。「馬の背」などと呼ばれている。

向台運動場
堤から降り、上向台をほとんど民家の軒をかすめるように進む。川に沿ってつかず離れず、一瞬川に沿って道が現れても、すぐに行き止り、行き返りを繰り返しながら、向台運動場のあたりに。川がこの運動場の北端に沿って流れており、行き止まりを怖れながらも場内に。ちびっこサッカー観戦の皆様の間を縫って、川筋を。かろうじて場外への道。再び住宅街を、川に沿って、といっても川沿いに遊歩道があるわけではないので、あそこを流れておるな、などと確認しながら歩く。それにしてもこのあたりは行き止まりが多い。

田無駅前
田無養護学校(田無特別支援学校)を越え、北におおきく振れる川筋を田無駅前近くまで。田無駅前に続く武蔵境通りを越え、文化大橋からは左手に西武新宿線を見ながら進み青梅街道に交差。
田無のあたりは、高低のうねりを感じるおもしろい地形ではある。が、遊歩道は無いし、迷いながらの散歩。水はなかったのに、ちょっと水かさが増えているので、なにかと戻ってみると、濁った水、生活用水か(2010年には生活排水が減っていた。白い泡が見えなくなっているだけで、結構嬉しい)。開渠部分も等間隔に打ち込まれたH鋼に両岸を結ぶ梁をとおした無粋なもの。この梁、いつでも表を覆えるように、、などと思ったのだが、実際は増水したときに左右のH鋼が倒れるのを防ぐ「つっかえ棒」といったもののようだ。
田無の歴史は古い。永禄2年(1559年)の小田原北条家の文書に田無の地名が見える。江戸の頃は青梅街道、所沢街道が交わる宿場町として栄えた。また、それが為に、現在の中央線、当時の甲武鉄道敷設に際しては、既存の宿場の権益を守るべく鉄道敷設に反対し、西武線が開設されるまで交通の要衝の地位を失った、とか。戦前は中島飛行機の軍需工場、大日本時計(シチズン)、石川島播磨などがつくられた。戦後は東京のベッドタウンとして都市化が進んだ。その急激な都市化のためだろうか、あまりに市街地に隘路が多い。地形が入り組み、昔ながらの宿場町で、大きな工場があればそれにともなう町工場も多々あるわけで、しかも急激に市街化が進む。計画的な都市政策の実施には不向きな環境が「充実」しており、ために隘路も多いということだろうか。もっとも石神井の川筋を辿るについての隘路の不便さ、ということであり、日常生活には何の不便もないのか、とも。なお、田無市は2001年、保谷と合併し、現在は西東京市となっている。

青梅街道
西武柳沢駅前交差点で青梅街道と交差。車で走っているときよく見る球形のガスタンクの近くに出る。青梅街道は江戸の頃、青梅の石灰を江戸の町に運ぶために造られた道。明暦の大火で壊滅した江戸の町の再建に、青梅の石灰が白壁つくりの漆喰に欠かせなかった、と。所沢街道は田無駅の北、北原1丁目で青梅街道と別れ、東村山を抜け所沢に至る。青梅街道に田無の宿ができ、人の往来とともに、そこを起点に近郊への生活道路がひらけるわけで、所沢街道もそのひとつ。田無宿から府中街道、志木街道と交差し所沢村へ抜ける。近在の人が田無、所沢、府中・志木街道に沿った久米川村や引又宿(志木)へと往来する街道であったのだろう。

東伏見稲荷神社
石神井川は青梅街道を越えても依然、川に沿っての道はない。水も流れる、というほどのものは、ない。川筋を東伏見稲荷神社に。小高い丘に社はある。京都の伏見稲荷から昭和になって奉還されたもの、とか。本殿の裏は薄暗い森。いくつかのちいさな社と赤い鳥居と狐。この少々の不気味さを醸し出すのはお狐様の故?そもそもお稲荷さんとは?それとなぜ狐?お稲荷さんは五穀豊穣を祝う神様。稲荷=いなり=稲生り、ということだ。で、狐。本来五穀をつかさどるお「稲荷」の神、倉稲魂神(ウカノミタマノカミ)、その別名、タウメミケツが専女三狐(たうめみけつ)神から来た説、穀物を食べる野ネズミを狐が食べてくれるので、狐を穀物の守り神と考え、そこから結び付いた、という説いくつかあるようだ。
実際は上の二つを足して二で割る、というところか。もともと民間には「田の神およびその使女(ツカワシメ)を狐とする」信仰があった。で、お稲荷さんを全国に普及キャンペーンをするにあたって、五穀豊穣、といえば狐、それがキャンペーンアイテムとしては皆さんに分かりやすい、ということで採用。ついでに神さんも狐に関わりありそうな別名をつければもっと説得力があるか、といったマーケティング戦略の結果か?真偽のほど不明だが、私としては結構納得。

早稲田大学東伏見運動場
お稲荷さんを離れ、川筋に戻る。早稲田大学運動場の南端を通るあたりから水が増えてくる。澱んでいるといった感じはしなくなる。どこかで、この早稲田大学東伏見運動場に湧水点があるという記事を見たことがあるが、そのことも水が増えている因であろう、か。運動場脇の川筋に水草が茂っているところがあったが、そのあたりも湧水点なのだろうか。川沿いの道も整備されて歩きやすくなってきた。



下野谷遺跡公園
運動場に沿って進むと、川筋の右手台地に下野谷遺跡公園。台地に上ると案内があり、石器時代から近代に至るまでの遺跡、とか。縄文の頃はこの台地に大きな関東屈指の環状集落があった、とか。また、近代では中島飛行機製作所関連施設跡まで盛り土し埋められている。西武鉄道(当時の武蔵の鉄道)が通り、石神井川とか白子川とか、千川上水など、水利に恵まれていたのがこういった軍需工場が造られた理由だろう。ために、米軍の空襲を被ることになった。田無宿に昔の宿場の面影が乏しいのは戦禍のため、か。

武蔵関公園
川筋は早稲田大学の敷地へと。右手前方には結構高い丘。川は敷地内へ。川筋と泣き別れ。道に迷いながらも大学敷地横に広がる武蔵関公園、富士見が池に到着(2010年には運動場の南端に遊歩道が整備されていた)。
このあたりも石神井川の水源のひとつであったのだろう。現在は水量を確保するため、早稲田東伏見運動場の湧水も導水している、とか。公園から石神井川への水路が二箇所設けられていた。公園を散歩しながら北に上り、西武新宿線に沿って、武蔵関駅に。それにしても、東伏見稲荷から早稲田大学の敷地一帯、結構ダイナミックな地形のうねり。地形図で細かくチェックしてみたい。
武蔵関駅は、東京23区内で最も西にある駅。武蔵関の由来は、室町時代に関所があったという説、また、武蔵関公園内の富士見池付近に堰(せき)があったからとか、あれこれ。

新青梅街道
武蔵関の駅前を越え、上石神井に入り都営上石神井アパートあたりまで来ると川筋も広くなってくる。川に沿った遊歩道があり、やっと川沿いの遊歩道をゆったり歩けるか、などと思ったのだが、新青梅街道に交差する手前で一旦切れた。
新青梅街道から先の石神井川を眺める。比高差は数メートルといったところ。このあたりの地形のうねりも魅力的。石神井「台」とは、文字通りの地形である。石神井公園ももう指呼の間ではあるが、日没中止。お楽しみは次回へ。ともあれ、本日は予想通りの艱難辛苦。何度行き止まりに遭遇したものやら。次はいい散歩道が整備されていることを祈りつつ一路家路へと。


文京区散歩の三回目。西端の関口台地と小石川台地、そしてその台地を分ける音羽の谷を歩く。音羽の谷を形づくった川は弦巻川と水窪川。ともに池袋駅周辺の池や湿地を水源として護国寺・雑司ヶ谷の台地を西と東に別れて下り、音羽の谷で合流する。「御府内備考」には「幅九尺・・・・・水上は巣鴨村雑司ヶ谷村之内田場際より流出夫より當町(東青柳町)え入音羽町裏通り江戸川え流出申候・・・・流末に而は鼠ヶ谷下水と唱候よしに御座候」、とあるが、この鼠ヶ谷下水は水窪川だけでなく弦巻川をも含めての呼び名であり、特に最下流の人工水路を指していたようだ。

小日向の台地から音羽の谷に下る坂に鼠坂という名前の坂がある。鼠でなければとても上れないような急な坂であったが、この坂は別名水見坂とも呼ばれていたい。音羽の谷を流れる川筋がよく見えたからだろう。鼠ヶ谷下水はこの鼠坂に由来するのだろうか。それにしても音羽に鼠とはこれ如何に。それはともあれ、本日の散歩は、まずは雑司ヶ谷の西を下る弦巻川からはじめ、音羽の谷を下り関口台地に進む。その後は小石川台地をぐるりと廻って水窪川筋に戻り、護国寺の台地の東側を池袋駅近くの水源跡にもどろう、というもの。文京区散歩とは言うものの、始まりと締めが豊島区ではあるが、それはそれとして、ちょっと長い散歩に出かける。



本日のルート;JR池袋駅>丸池の碑(元池袋史跡公園)> 明治通り>弦巻通り(大鳥神社参道)> 法明寺>鬼子母神>大鳥神社>都電荒川線>首都高速5号線>護国寺西交差点>大町桂月旧居跡>目白通り>胸突き坂>水神社>関口芭蕉庵>新江戸川公園>神田川>江戸川交差点>今宮神社>服部坂>小日向神社>新渡戸稲造旧居跡>切支丹屋敷跡>蛙坂>深光寺>林泉寺>地下鉄丸ノ内線茗荷谷駅 >小石川植物園>千川跡>簸川神社>不忍通り_猫又橋跡>不忍通り_春日通り交差>護国寺>東青柳下水跡>吹上稲荷神社>坂下通り>都電荒川通り交差>東青柳下水跡源流点>JR池袋駅

丸池
池袋駅を北口に下り、駅前を西へ弦巻川のあった丸池へと向かう。ホテルメトロポリタンの東脇に元池袋史跡公園というささやかなスペースがある。ここが弦巻川の水源であった丸池の跡。池袋という地名の由来ともなったところでもある。「袋」は低湿地の地勢を表すことが多いという。低湿地に湧水の湧き出る池があったのだろう。その面影は、今はない。もっとも、東京芸術劇場の地下では現在でも大量の地下水が湧き出ているようで、多くのポンプで排水しているとの話を聞いたこともある。目には見えないところで未だに自然の力が保たれている、ということか。 300坪もあったと伝わる丸池を水源とし、弦巻川はここから南西に下り明治通りに進む。池袋警察所から明治通りへと向かう道を進み、JR線、西武池袋線のガード下を通り明治通り手前に進む。道端に案内地図。如何にも水路跡といった道筋などないものか、とチェック。と、JR線と西武新宿線の間に緩やかに曲がる道筋があり、その道筋らしき続きが明治通りを渡り、その先を東へとこれも緩やかに蛇行する。しかも、その道筋は「弦巻通り」とある。これって弦巻川の川筋の、はず。偶然に川筋が見つかる。これは幸先がいい。

明治通り
道を少し戻り、JR線と西武池袋線の間の最低部で信号を渡り、先に進む。道なりに進み、西武池袋線下を潜り、小料理屋など昭和の雰囲気を残す街並みを進み明治通りに。道の反対側には時に訪れる古書店・往来座。ちょっと立ち寄り数冊購入。

弦巻通り
少し先に進み弦巻通りに入る。大鳥神社参道とある。先の都電荒川線との交差するあたりに大鳥神社があるが、そこへの参道ということ、か。ビッグネームの「鬼子母神」を差し置いての「大鳥神社参道」ということは、大鳥神社ってよっぽどの由緒があるのか、はたまた地元とのつながりがめっぽう強いのか、ちょっと気になる。

法明寺
緩やかにうねる道筋を進む。と、道の北側になんとなく雰囲気のあるお寺さま。桜並木の参道を進むと法明寺とあった。開基810年という古刹。元は威光寺と呼ばれる真言宗の寺であったが、14世紀の初め日蓮宗に改め法明寺となった。江戸の頃には徳川将軍家光より御朱印を受けるなど、代々将軍家の庇護を受ける。有名な雑司ヶ谷の鬼子母神はこの寺の飛地境内にある。境内には豊島一族や小幡景憲の墓がある。豊島氏は鎌倉から室町にかけ石神井城を拠点に、このあたり一帯に覇を唱えた一族。江古田の戦いで太田道灌の軍勢に敗れ勢は衰えるも、生き延びた一族は徳川氏に仕え八丈島の代官となった。ここに眠る豊島氏はその八丈島代官であった豊島忠次の一族である。
小幡景憲は江戸時代の軍学者。徳川氏に仕えるも、大阪の陣では豊臣方に与したとされるが、その実、徳川に内通していた、と言われる。事実、戦後1500石で徳川氏に仕えている。武田の遺臣でもあった小幡景憲は甲州軍学の集大成である『甲陽軍艦鑑』をまとめた。

鬼子母神
鬱蒼たる社叢の中に鬼子母神が佇む。室町の頃、永禄4年(1561)目白台(護国寺西交差点近く、清土鬼子母神のあるところ)で鬼子母神像が見つかり、東陽坊の堂宇に納められる。東陽坊はその後大行寺となり、さらに法名寺に合併したというが、それはそれとして、人々の信仰篤く、「稲荷の森」と呼ばれたこの地に鬼子母神堂を建てた。天正6年(1578)の頃、という。古来、この地には武芳稲荷が祀られ、ために「稲荷の森」と呼ばれた、と。
鬼子母神信仰がさらに盛んとなったのは江戸の頃、加賀前田藩前田利常公の息女により本堂が寄進されてから。門前にお茶屋や料亭が建ち並び大いに賑わったとのことである。前田家との関わりは、鬼子母神が納められた大行院が加賀藩前田利家公のゆかりの寺院であったため。子授け、安産、子育ての神ということもあり、鬼子母神への篤き信仰が従前よりあったのだろう。鬼子母神はインドの仏法守護の毘沙門さまの武将の奥さま。1000人もの子どもがおり可愛がっていたのだが、他人の子供は別物。当たるを幸いに「食べ」ていた。それを改心させようとお釈迦様が、鬼子母神の子供を隠す。鬼子母神は半狂乱。頃合いをみてお釈迦様が、「千人のうちの一子を失うもかくの如し。いわんや人の一子を食らうとき、その父母の嘆きやいかん」と言った、とか。以来改心し子授け、安産、子育ての神となった、と言う。
境内を歩く。権現造りの本堂は古き趣。前田家息女の寄進のものが現在まで残っているのだろうか。本堂に向かって右手に鬼子母神像。本堂の像は柔和な表情とのことだが、こちらは結構厳しい表情。仏法護持の職務故、か。左手に法(のり)不動堂。どちらかと言えば密教系の不動堂があるのは、法明寺がもとは真言系の寺院であった名残だろう。本堂を少し離れたところに武芳稲荷。この地のもともとの地主神。脇に大きな公孫樹(いちょう)がそびえる。樹齢700年以上、とか。
境内にある駄菓子屋・川口屋は江戸の頃からの店。すすきの穂を束ねたみみずくの人形「すすきみみずく」は鬼子母神の名物。江戸の頃、夢のお告げで生まれた、と。団子屋には「おせんだんご」。簡潔なる名通信文「おせん 泣かすな 馬肥やせ」とは関係なく、1000人の子供がいた鬼子母神にちなんで、多くの子宝に恵まれることを願う。本堂裏手には妙見堂。北斗七星を神格化した妙見さまは、もともとは空海の真言宗からはじまったものだが、日蓮との結びつきも強い。伊勢において日蓮の前に妙見菩薩が現れ仏教の未来を託された、とか。そのような縁起もあり法華教の布教者は全国の妙見宮の復興に尽くしたと。そういえば大阪の能勢の妙見さん、江戸の本所や柳島、池上本門寺の妙見堂など日蓮関連の寺院に妙見さんが目につく。ちなみに鬼子母神の「鬼」の表記だが、第一画目の点がないものもある。鬼の角を外した姿と示すものであろう、とか。

大鳥神社
境内を離れ再び弦巻川跡をたどる。東京音楽大学の間を抜け、道は如何にも川筋であったがごとくゆるやかにうねりながら進む。道が都電荒川線と交差する手前に大鳥神社。明治通りの入り口よりこの道筋は大鳥神社参道とあったわけで、いかほど大振りなる社かと思ったのだが、まことに普通の神社であった。
この神社、もともとは鬼子母神の境内にあった、という。江戸の頃、松江藩主の嫡子が高田村の下屋敷にて疱瘡を患い療養。ために、疱瘡除けの神として名高い出雲の鷺明神(大社町鷺浦)を鬼子母神の境内に勧請したとされる。「我 これより鬼子母神の神籬(ひもろぎ)の内に鎮座し衆人を衛護せん 若し広前の石を拾い取りて護符とせば決して悪瘡に悩まされることなかるらん」とは鷺明神の言。なぜ鬼子母神の地かはわからない。この地に移ったのは明治になってから。神仏分離で鬼子母神の境内を離れ、少々流浪の時期を経て篤志家の支えでこの地に移った。
大鳥神社と言えば酉の市。ご多分に漏れずこの社も江戸の頃から酉の市が開かれた。江戸末期の記録に『今年より雑司が谷鬼子母神境内鷺明神へ十一月酉の祭とて詣づること始まる是より年々賑わえり(武江年表)』、とある。あれ?あれ?鷺(さぎ)?鷲(わし)じゃないの?酉の市って、足立・花畑の大鷲神社にしても、埼玉・久喜の鷲宮神社にしても、浅草の鷲(おおとり)神社にしても「鷲(わし)」のはず。「鷺(さぎ)」も鳥には違いはないのだが、何がどうなっているのだろう。鷺(さぎ)大明神は素戔嗚尊の妻女であり、その実体は十羅刹女といった神も仏も皆同じ、というか、ぐちゃぐちゃな話もあるが、『新編武蔵風土記稿』では鷺明神社の祭神を瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)としている。祭神もあまりひっかからない。酉の市で名高い浅草の鷲大明神は妙見大菩薩とも呼ばれていたようだ。鬼子母神にも妙見堂がある。こういったことが関係したのだろうか。よくわからない。

雑司ヶ谷台地
都電荒川線を越える。進むにつれ道の左手に台地の高みが感じられる。道を離れちょっと台地へと寄り道をする。成り行きで進むと宝城寺とか水仙寺。宝城寺の門前には「祈雨日蓮大菩薩」の石柱がある。その横、少し坂を上る途中の水仙寺こと御嶽山清立院青竜寺は改築されたのだろうか、新しい建物となっていた。疱瘡快癒祈願の「疱守薬王菩薩」や雨乞いの松がある、とか。「江戸名所図会」の御嶽坂には崖上に瀧清寺、御嶽堂や講雨松。崖下あたりに堂宇、これはたぶん宝城寺、そしてその脇を流れる弦巻川が描かれている。川の周囲はひたすらに畑地が続くのみである。
水仙寺前を台地に上る。雑司ヶ谷台地と呼ばれ、武蔵野台地の末端が浸食されてできたもの。台地上の雑司ヶ谷霊園は明治になってできたもの。それ以前は将軍鷹狩りのための御部屋、そして農家が点在していたとのことである。台地上から弦巻川に開析された谷地を想う。地形図を見ると法明寺から清立院を結んだあたりが崖線。関口台地との間の窪みが弦巻川の谷筋である。しばし崖線に沿って進み、成り行きで弦巻川、というか弦巻通りに戻る。

不忍通り・清戸坂
下町の雰囲気を残す道筋を歩き首都高速5号池袋線の走る都道435号線に出る。高速道路の向こうには豊島岡の台地の高みがある。道を南に下り不忍通り・護国寺西交差点に。どこで見たのか忘れたのだが、交差点近くに大町桂月の旧居跡がある、と。桂月の紀行文のファンとしては、これは一度訪れるべし、と。旧居は文京区目白台3丁目。不忍通りが目白通りに合流する清戸坂を南へと渡り目白台に。この坂が清戸坂と呼ばれるのは、清戸道に上る道であった、から。目白台2丁目で目白通り(清戸道)に合流する。
清戸道は清瀬の清戸に向かう道。始点は江戸川橋のあたり。そこから椿山荘脇を通り西に進み目白、練馬と、おおざっぱに言って目白通りの道筋を進み清瀬に向かう。清瀬での将軍の鷹狩りの道とか、近郊の野菜を江戸に運ぶ道とか、あれこれ。とまれ一度辿ってみたい古道である。清戸?清土?鬼子母神像がみつかったという「清土」鬼子母神は「清戸」坂の脇、目白台2-14-8にある。清瀬の清戸も由来では「清い土」からとのことである。清土は清戸道の元の由来を残した名前か、鬼子母神像を掘りだした清い土からのものか、はてさて。

大町桂月旧居跡
道を渡り大町桂月さんの旧居跡を探す。あちらこちらとさまよいながら、住宅街の中に旧居跡の案内を見つける。奥は空き地となっていた。明治の末にこの地に住んでいた、という。詩人・随筆家・評論家として知られる、というが、散歩フリークとしては紀行文しか知らない。誠に、いい。終世酒と旅を愛し、大雪山系にはその名からとった桂月岳が残る。与謝野晶子の「君死にたもうことなかれ」に対して、「皇室中心主義の眼を以て、晶子の詩を検すれば、乱臣なり賊子なり、国家の刑罰を加ふべき罪人なりと絶叫せざるを得ざるものなり」などと非難し戦後は少々評価をさげてはいたようだ。が、紀行文は誠に、いい。田山花袋の紀行文に『東京の近郊 一日の行楽』がある。これも、いい。同じく桂月に明治40年に書かれた「東京の近郊」がある。これもまた、いい。「一日に千里の道を行くよりも 十日に千里行くぞ楽しき」は桂月の言。

胸突坂
ここからは弦巻川の川筋を離れ関口台地の崖線へと進むことに。目白台の台地を成り行きで進み目白台3丁目交差点あたりに出る。目白通りを少し東に戻り、関口台の崖線へと右に折れる。一度訪れた胸突坂を下るため。
道の右手には和敬塾。首都圏の男子大学生の学生寮といったもの。旧細川侯爵邸跡でもあり、細川家の発意かとも思っていたのだが、前川製作所創業者一族が創始者であった。前途有為なる学生を支援したもの、か。先に進むと永青文庫。熊本藩主細川家が収集した日本・東洋の美術品が並ぶ。和敬塾やこの永青文庫、そしてその下に広がる新江戸川公園を含め、この辺り一帯は熊本藩細川家の屋敷跡である。あまりに重厚というか静かな佇まいであり、門外漢が気楽に足を踏み入れるという雰囲気ではない。先に進む。永青文庫の名前は建仁寺塔頭である「永」源院と細川藤高の居城・「青」龍寺から。
右手に新江戸川公園の緑を見やりながら急坂を下る。胸突坂。「むなつきさか」と読む。急坂故の名前だろう。案内には、「坂がけわしく、自分の胸を突くようにしなければ上れないことから、急な坂には江戸の人がよくつけた名前である」、と。とはいうものの、「自分の胸を突くようにしなければ上れない」ってどういうこと?胸突の意味がよくわからない。「胸を突かれたように息ができない」といった定義もあり、このほうがわかりやすいのだが。はてさて。坂を通したのは元禄10年(1697)のことである。

水神社
足元をとられないように胸突坂をゆっくり下る。コンクリートで固められてはいるのだが、雨上がりでのスリップが少々怖い。下る途中に水神様。神田上水の工事の安全を祈り祀られた。大きな銀杏の木も茂り、こぶりながら祠もあり趣もそれなりに、ある。
神田上水は江戸のはじめの頃、江戸の人々、というか、中心はお武家様用であり余水を町屋の人が、といったところではあろうが、とまれ、江戸の人々に飲料用の水を供給するため設けられた人工の水路。元々あった平井川の川筋を改修し、豊かな井の頭の湧水と結んだ、とか。
神田上水を守る水神様はこの付近に二カ所ある。この関口と目白台。目白台の水神様には行ったことはないのだが、目白通りの関口フランスパンのあたりという。どちら関口水神社であり,少々わかりにくいのだが、もう一カ所のほうにはまだ湧水がわいているとも聞いた。そのうち行ってみたい。

芭蕉庵
胸突坂を隔てて水神社の向かいに関口芭蕉庵。「ご自由に」とは言われても,少々足を踏み入れにくいしっかりした構えの門を入り、野趣豊かな園内を歩く。ひょうたん池の周囲を一回りし、さみだれ塚とか芭蕉堂を辿る。
さみだれ塚は芭蕉の句である「さみだれに隠れぬものや瀬田の橋」の短冊を埋めて墓としたもの。芭蕉庵の前面に広がる早稲田田圃を琵琶湖にみたて詠んだもの。「庵の前には上水の流横たわり、南に早稲田の耕地を望み、西に芙蓉の白峯を顧みる。東は堰口にして水音冷々として禅心を澄ましめ、後は目白の台聳(そび)えたり。月の夕、雪の朝の風光もまた備われり」は江戸図会に描かれる芭蕉庵あたりの景観である。芭蕉堂は芭蕉の33回忌を記念して弟子が建てたもの。
芭蕉庵には今までに数回訪れたことがある。神田上水を井の頭の水源から下り、この地を訪ねた。また、関口台地からの湧水が芭蕉庵中にわき出ると、湧水を見るためだけにこの地を訪ねたこともある。この庵の案内を見て、芭蕉が神田上水の改修工事に参画していたことは記憶に残ってはいたのだが、俳人の芭蕉と利水技術者との関連がよくわからない。いい機会なのでチェックする。
文京区教育委員会の案内によれば、「芭蕉は延宝5年から8年(1677から1680)まで神田上水の改修に参加し、龍穏庵という庵に住む」と言う。松尾甚七郎と称する伊賀・藤堂藩の侍であった、とする説もあるが、この頃にはすでに藤堂家を致仕している。俳諧で身をたてんと江戸に下り、藤堂家時代に身につけた水利技術で身過ぎ世過ぎを過ごしていたのだろう。本拠地は日本橋。俳句仲間の魚問屋の貸家に住み、ときどきこの地に出向き後に龍穏庵とよばれるようになる「庵」で寝泊まりしていたようだ。ちなみに、俳号「芭蕉」を使い俳句で一本立ちしたのは、この改修事業の2年後のことである。

新江戸川公園
神田川を少し西に戻り返し新江戸川公園に向かう。江戸の頃熊本藩細川家の下屋敷であったが、現在は文京区が管理している。目白台の崖線を活用し、傾斜面を活かし、台地からの湧水を池に取り入れた回遊式泉水庭園として景観学の書籍などでしばしば取り上げられている名園。「明暦の大火後どの大名も中屋敷、下屋敷をもつようになると、山の手の条件のよい場所は次々と大名屋敷によって占められていった。それらは武蔵野丘陵の豊かな自然をとりこみ庭園を配した私邸あるいは別邸としての役割をもった(中略)。多くの場合、大名屋敷は高台の尾根道に面して立地する。そこでは敷地内の斜面となるところに、高低差による湧水を生かして池をつくり、回遊式の庭園を設けることができるのである。しかも、できるかぎり尾根道の南側に立地し、敷地内の北寄りに位置する高台平坦部に建物を置いて、その南の斜面に庭園をつくろうとする傾向が読みとれる(『東京の空間人類学:陣内秀秀信(ちくま学術文庫)』)、と。
園内の遊歩道も尾根道風であり誠に、いい。元は3000坪程度であったようだが、次第に拡張し最終的には38000坪といった広大な敷地となった。数年前に訪れたときは入場料が必要だったように思うのだが、今回(2010年8月)は無料で入場できた。

椿山荘
神田川を江戸川橋交差点へと折り返す。芭蕉庵前をかすめ先に進むと左手崖面には椿山荘。江戸の頃、上総・久留里藩黒田家の下屋敷であったものを明治になって元勲山形有朋が購入し、「椿山荘」と名付けた。『江戸砂子』に「椿は椿山、牛込関口の近所、水神あり。此の山の前後、一向に椿なり。此所を向ふ椿山といふ・・・』ともあるように、この地は南北朝の頃から椿山と称される椿の名所であった、よう。桜の季節の花見の宴や結婚式などの折り、その庭園は歩いているので今回はパス。

関口大洗堰跡
左手に崖面を意識しながら江戸川公園に沿って進むと関口大洗堰跡に。この地に大きな堰があり井の頭から引かれた神田上水の水を保つとともに、江戸湾からの海水を防いだ。今でこそ東京湾の渚はこの地からはるか彼方ではあるが、江戸開闢の頃は現在の日比谷あたりは一面の入り江であったわけで、この関口のあたりまで海水が押し寄せるのはそれほど不自然ではない。関口の名前の由来も堰があったことから。
神田上水はこの地で二手に分かれ、ひとつは上水として後楽園にあった水戸藩江戸屋敷に引かれ、その後水道橋で懸樋にて神田川を渡り、石樋・木樋をもって神田や日本橋へと水を導いた。もうひとつは神田川の流れとなり、お茶の水の切り通しを抜けて大川に注いだ。公園には堰跡を残す。

音羽谷
江戸川橋交差点に。護国寺から江戸川橋に下る道筋は音羽谷と呼ばれ、関口台地と向かいの小石川・小日向台地を分ける。江戸の頃は紙漉が盛んであったと言う。その昔、この音羽の谷筋には関口台地に沿って弦巻川が、小石川・小日向台地に沿って水窪川(東青柳下水とも)が流れていた。今はともに暗渠となりその名残はないが、その昔は清流がながれていたのだろう。「みずまやの 牛の腹ゆく ほたるかな」とは蛍の名所であった弦巻川を詠んだ句である。音羽谷の出口で合わさったふたつの流れは伏樋で神田上水を潜り江戸川橋の下で神田川に注いだ。現在水窪川は坂下幹線と呼ばれる雨水幹線として音羽通りの下を通り神田川に注いでいる。ちなみに、音羽の由来は奥女中の拝領地であったから。

今宮神社
次は小日向台地と小石川台地を辿ることに。小日向台地は小石川台地南端部の支尾根といったものだろうか。茗荷谷のあたり、地下鉄丸の内線の操車場あたり地形の窪みによって分けかれているのだろう。江戸川橋交差点を越え小日向の台地に向かう。
道路脇の地図を見ると、目白坂下交差点近くに今宮神社がある。別名「玉の輿神社」とも称されるように、今宮神社は将軍綱吉の生母・桂昌院とのゆかりの社。八百屋の娘から将軍生母にまで上り詰めた桂昌院が篤い信仰を寄せたが故の呼び名である。それはそれとして、護国寺も桂昌院の発願によるもの。なんらかの関係があるのか、と思い訪れることに。
こぶりな社は護国寺建立の時に京都の今宮神社を分祀したものであり、この地には明治の神仏分離令にともない移り来たとのことであった。桂昌院と大いに関係があった。境内には明治時代、製紙業者が和紙に掛けて招聘した「天日鷲の命」の社がある。鷲>わし>和紙、といった連想ゲームだろう、か。

服部坂
今宮神社を離れ、さてどこから台地に取り付こうかと思案する。道脇の地図を眺めると、小日向神社とか新渡戸稲造旧居とか切支丹屋敷跡といった案内。フックが掛かる。まずは小日向神社に。台地下に沿った道を進む。神田川から2筋ほど入ったこの道路道は昔の神田上水の水路筋。このあたりは開渠で水戸藩の江戸屋敷に向かう。この道は上水通りとも呼ばれていたようだが、上水が廃止された後に水路を石で覆ったため現在では巻石通りと呼ばれる。
大日坂下交差点を越え区立五中前を左に折れ坂を上る。服部坂とある。名前の由来はかつて坂の上に服部権太夫の屋敷があったから。永井荷風は「金剛寺坂 荒木坂 服部坂 大日坂 等はみな 斉しく 小石川より牛込赤城番町辺を見渡すによい。・・・」と書く。今は高い建物が多く、それほどの見晴らしはないのだが、少し前の昔にはよき眺めであったのだろう。それぞれの坂は巻石通りを上る坂である。先ほど通り過ごした大日坂は往時坂の上に大日堂があった、から。

小日向神社
坂を上ると小日向神社がある。ここは服部権太夫の屋敷跡。古き社とのことで訪れたのだが、これといった趣は、なし。小日向神社は氷川神社と八幡神社というふたつの古き社が合祀して明治2年にできたもの。氷川神社は天慶3年(940)、当時の常陸国の平貞盛が現在の水道2丁目の日輪寺の上の連華山に建立した。八幡神社は昔の名を「田中八幡」といい、現在の音羽1丁目に鎮座していた。どこかの古地図で見たのだが、今宮神社のところに田中八幡があったが、そこが古地だろう、か。
ところで小日向だが、日向って、てっきり「日当たりのいい南面地」」と思い込んでいたのだが、実際は人の名前。文禄の頃の文献に、このあたりを領地とする鶴高日向という人いた、とある。で、家が絶えた後このあたりを「古日向」と称していたのが、いつの頃か「小日向」となった、とか。

新渡戸稲造旧居跡
台地上の道を成り行きで進む。誠に偶然に新渡戸稲造旧居跡の案内に行き当たった(文京区小日向2-1-30)。農政学者・教育者。内村鑑三とともに札幌農学校に学び、キリスト教の洗礼を受ける。その後東京帝国大学に学び、アメリカ、ドイツに留学し帰国後は自由主義的、人格主義の教育者として活躍。国際連盟設立に際してはその事務局次長に就任。『武士道』の著者としても知られる。




切支丹屋敷跡
民家の脇に切支丹屋敷跡の石碑。この地は宗門改役井上政重の下屋敷跡(文京区小日向1-24-8)。案内をメモ;江戸幕府はキリスト教を禁止し、井上筑後守政重を初代の宗門改役に任じ、キリスト教徒を厳しく取り締まった。この付近は宗門改役を勤めていた井上政重の下屋敷であったが、正保3年(1646年)屋敷内に牢屋を建て、転びバテレンを収容し宗門改めの情報集めに用いた。主な入牢者にイタリアの宣教師ヨセフ・キアラ、シドッチがいた。享保9年(1724年)火災により焼失し、以後再建されぬまま寛政4年(1792年)に廃止された、と。
島原の乱の後、筑前に漂着したイタリア人宣教師を収容したのが切支丹屋敷の始まり、とか。宣教師の転向を強要するのが最大の目的であった、とも。神父フェレイラ、そして神父を転向させようとする井上政重を描いた小説に『沈黙』がある。また、新井白石の『西洋紀聞』は収容された宣教師のヨハン・シドッチを尋問しまとめたもの。

切支丹坂
切支丹屋敷の辺りまで来ると小日向台地の左側の崖線もすぐそこ。谷間には丸ノ内線のヤードがある。この谷間が小石川の台地から小日向の台地をわけているのだろう。碑の前を進み左折すると坂があり、丸の内線のガードへと続く。その坂は切支丹坂と呼ばれる。
志賀直哉の小説『自転車』に切支丹坂の描写がある;恐ろしかったのは小石川の切支丹坂で、昔、切支丹屋敷が近くにあって、この名があるといふ事は後に知ったが、急ではあるが、それ程長くなく、登るのは兎に角、降りるのはそんなに六ケ(むつか)しくない筈なのが、道幅が一間半程しかなく、しかも両側の屋敷の大木が鬱蒼と繁り、昼でも薄暗い坂で、それに一番困るのは降り切つた所が二間もない丁字路で、車に少し勢がつくと前の人家に飛び込む心配のある事だつた。私は或る日、坂の上の牧野といふ家にテニスをしに行つた帰途、一人でその坂を降りてみた。ブレーキがないから、上体を前に、足を真直ぐ後に延ばし、ペダルが全然動かぬやうにして置いて、上から下まで、ズルズル滑り降りたのである。ひよどり越を自転車でするやうなもので、中心を余程うまくとつてゐないと車を倒して了ふ。坂の登り口と降り口には立札があつて、車の通行を禁じてあつた。然し私は遂に成功し、自転車で切支丹坂を降りたのは恐らく自分だけだらうといふ満足を感じた(『自転車』)。子供の頃自転車に熱中し、あちらこちらと走り回った、とか。坂の雰囲気を少し味わい、切支丹屋敷跡へと折り返し、茗荷谷駅方面へと向かう。

蛙坂
道なりに進むと茗荷谷へと下る坂に。道脇の案内によると「蛙坂」とある。メモ;「蛙坂は七間屋敷より清水谷へ下る坂なり、或は復坂ともかけり、そのゆへ詳にせず」(改撰江戸志)。『御府内備考』には、坂の東の方はひどい湿地帯で蛙が池に集まり、また向かいの馬場六之助様御抱屋敷内に古池があって、ここにも蛙がいた。むかし、この坂で左右の蛙の合戦があったので、里俗に蛙坂とよぶようになったと伝えている。なお、七間屋敷とは、切支丹屋敷を守る武士たちの組屋敷のことであり、この坂道は切支丹坂に通じている、と。

茗荷坂
坂を下りきったところに深光寺。滝沢馬琴の墓がある。『南総里見八犬伝』で知られる。深光寺と拓殖大学の間を上る坂は「茗荷坂」。案内をメモ;「茗荷坂は、茗荷谷より小日向の台へのぼる坂なり云々。」と改撰江戸志にはある。これによると拓殖大学正門前から南西に上る坂をさすことになるが、今日では地下鉄茗荷谷駅方面へ上る坂をもいっている。(中略)茗荷谷の地名については御府内備考に「・・・・・・むかし、この所へ多く茗荷を作りしゆえの名なり云々。」、と。

林泉寺
茗荷坂の途中に林泉寺。しばられ地蔵をおまいりに伺う。階段を上り本堂脇に石仏があり、縄で巻かれていた。いつだったか葛飾東水元の南蔵院の、しばられ地蔵にお参りしたことがある。本家本元はそちらか、ともおもったのだが、こちらのお地蔵様も『江戸砂子』に「小日向茗荷谷林泉寺の縛られ地蔵に願かけの時、地蔵を縛り、叶うとほどくと言われ、地蔵縁日には大変な賑わいであった」と書かれている。結構昔から人々の信仰を集めていたのだろう。
説明書きにあった「しばられ地蔵」の名前の由来をメモ;昔、呉服屋の手代が地蔵様の前で休み、居眠り。その間に反物を盗まれる。奉行は石地蔵が怪しいとして縄をかけ、奉行所に運ぶ。物見高い見物人もそれについて奉行所内へ。許しもなく奉行所内に入った者たちに対し奉行は、罰として三日以内に反物を持ってくるように、と。で、集まった反物の中に盗品を発見、犯人も逮捕したという話が「大岡政談」にある、とか。この話の元になったのは葛飾区東水元の南蔵院だが、縛られ地蔵はこのころより有名になった、と。この話はわかったようで、よくわからない、がそれはそれとして寺を離れ坂を上り茗荷谷駅に。台地上にある茗荷谷駅では、いまひとつよくわからなかった茗荷谷の「谷」たる所以がわかった小日向台の散歩であった。

東京大学付属植物園
さてと、散歩もそろそろ最終段階。池袋から護国寺の東を流れ音羽の谷に注いでいた水窪川(東青柳下水)に向かう。茗荷谷駅から台地上の春日通りを進み不忍通りの交差点へともおもったのだが、どうせのことなら小石川台地を一度下り、白山台地との境をつくる谷端川の川筋を辿ろうと。少々迂回することになるが、ここまで来たら、どうということも、なし。
茗荷谷駅から昔の東京教育大学、現在の筑波大学跡地である教育の森公園脇の坂を下り東京大学付属植物園の北西端に。植物園に沿って進む道が昔の谷端川の川筋である。(ここから谷端川を北に上り猫又橋跡までは以前歩いた谷端川散歩の記事をコピー&ペースト)。
東京大学の付属施設であるこの植物園の歴史は古い。貞享元年というから、1684年、徳川綱吉の白山御殿の跡地に、幕府がつくった薬草園・御薬園が、そのはじまりである。三代将軍家光のときに麻布と大塚につくられた薬草園をこの地に移したわけだ。園内には八代将軍吉宗のときにつくられた、小石川養生所の井戸なども残る。養生所は山本周五郎の小説『あかひげ診療譚』でおなじみのものである。台地上や崖線をゆったりと歩く。巨木、古木のなかで最も印象的であったのがメタセコイヤ。垂直に天に伸びる姿はなかなか、いい。
谷端川はこのあたりで千川と呼ばれる。その所以は、この川筋は源流点で千川用水の水を取り入れていたから。別の説もある。千川用水開削の目的がもともと、小石川白山御殿・本郷湯島聖堂・上野寛永寺や浅草寺などの御成御殿への給水のため、ということ。神田・玉川上水からの給水が地形上不可能なため、新たな上水道を開削したわけだ。 要町から先の千川上水というか用水の流路をチェックしておく。要町3丁目から北東に東武東上線・大山駅付近まで登る>その先、都営三田線・板橋区役所駅前が北端のよう>その後は、駅前通・旧中山道に沿って南東に下る>明治通りとの交差するあたりで王子への分水>さらに旧中山道を下り巣鴨駅前・巣鴨三丁目で白山通・中山道通りに>白山通りを進み白山前道から白山御殿に給水、といった段取りでこの小石川植物園あたりまで進んできている。
この用水、将軍様だけでなく、駒込の柳沢吉保の六義園といった幕府関係者への給水、また本郷地区の住民も上水の恩恵に浴した。その後白山御殿閉鎖にともない、いくつかの紆余曲折はあったものの上水の給水はなくなり、水田灌漑用の用水として機能した、と。

簸川神社
小石川植物園の脇、台地の上に簸川神社。第五代孝昭天皇の時代というから、5世紀の創建と伝えられる古社。この神社、もともとの社号は氷川神社。簸川となったには大正時代になってから。天皇自体は伝説の天皇かもしれないが、その当時から簸川=氷川=出雲族の神様をまつる部族がこのあたりに住んでいたのだろうか。氷川神社のメモ:氷川は出雲の簸川(ひかわ)に通じる。武蔵の国を開拓した出雲系一族が出雲神社を勧請して氷川神社をつくる。武蔵一ノ宮は埼玉・大宮の氷川神社。武蔵の国に広く分布し、埼玉に162社、東京にも59社ある、とは以前メモしたとおり。もとは小石川植物園の地にあったが、その地に館林候・徳川綱吉の白山御殿が造営される。ために、おなじところにあった白山神社とともに元禄12年(1699年)、この地に移った。八幡太郎義家奥州下行の折、参籠した、といったおなじみの話も伝わっている。
簸川神社坂下一帯は明治末期まで「氷川田圃(たんぼ)」と呼ばれる水田が広がっていた、とか。神社階段下に「千川改修記念碑」。白山台地と小石川台地に挟まれた谷地を流れる川筋は水はけが悪く、昭和9年には暗渠となる。「千川通り」のはじまり。千石の地名は、千川の「千」と小石川の「川」の合作。

猫又橋
民家の間を続く谷端川跡を進み不忍通りに。横切ると、歩道脇に「猫又橋の親柱の袖石」の碑。「この坂下にもと千川(小石川とも)が流れていた。むかし、木の根っ子の股で橋をかけていたので根子股橋と呼ばれた」との説明文。谷端川はこのあたりでは千川とか小石川と呼ばれるようになる。交差点の上は猫又坂。不忍通りが千川の谷地に下る長い坂。千川にかかっていた猫又橋が名前の由来。猫又とは、根子股とは別に、妖怪の一種であったという説もある。このあたりに、狸もどきの妖怪がいたとか、いないとか。

本伝寺
不忍通りを東に、千石3丁目交差点を越えゆるやかな再び小石川台地に上る。春日通りとの交差点の手前に立派なお寺様。本伝寺。何気なく入った境内に波切不動があった。池波正太郎の『鬼平犯科帳』に波切不動堂が描かれている。『鬼平犯科帳;逃げた妻』;大塚の波切不動堂は、はじめ伊勢の国の或る村に安置されてあったのを、かの日蓮上人が伊勢路を旅するうち、霖雨のため水量を増した河を渡りかねているとき、老爺に姿を変えた不動明王が河の水を切って上人を渡河せしめたという。この不動明王の本尊を東国へ運び、大塚の地に移したのも日蓮上人だそうな。 「農民、その塚上、松の木の下に一宇の草堂を営建して、これを安置したてまつる」と、物の本にある。 いまは、東京都文京区大塚仲町の内だが、当時は江戸の郊外のおもむきがあり、それでいて、新義真言宗豊山派の大本山.護国寺が近いだけに、町なみもととのい、種々の店屋も軒を連ねている、と。
昔はこの本伝寺の場所ではなかったようだが、本伝寺にしても波切不動堂にしても『江戸名所図会』にも描かれている。本伝寺は大きな境内に不忍通りとおぼしき道を人が往来している。波切不動は狭い境内ながら、多くの人が往来する。物売り、駕籠、馬子、主人と奉公人とおぼしき連れなどなど。道は春日通りであろう。

富士見坂
台地上で春日通りと交差し、今度は小石川の台地を下り東青柳下水の水路跡に向かう。この坂は富士見坂。昔はここから富士が眺められたのだろう。道脇の案内によれば、この坂上の標高は28.9m。区内の幹線道路では最高点とか。昔は、狭くて急な坂道であったようだが、大正13年(1924)10月に、旧大塚仲町(現・大塚三丁目交差点)から護国寺前まで電車が開通した時、整備されて坂はゆるやかになり、道幅も広くなった、と。また、この坂は、多くの文人に愛され、歌や随筆にとりあげられている。「とりかごをてにとりさげてもわがとりかひにゆくおほつかなかまち(会津八一)」「この道を行きつつ見やる谷越えて蒼くもけぶる護国寺の屋根(窪田空穂)」。富士が詠われていないようだが、既に富士の眺望は過去のものとなっていたのだろう、か。

護国寺
護国寺の東側、いかにも水路跡といった通りを確認し、ついでのことでもあるので、護国寺へ足をのばす。お寺の門というより、武家屋敷の門構えといった惣門を入り境内に。五万石以上の大名家の格式をもつ門構えとか。五代将軍綱吉が生母である桂昌院のために建てた寺院であれば当然、か。大名屋敷表門で現存するものは、いずれも江戸時代後期のものであるのに対して、 この門は、中期元禄年間のもので、特に重要な文化財である、と案内にあった。
境内を本堂の観音堂へと向かう。不老門に通じる石段の右手には富士塚。『江戸名所図会』にそれらしき姿があったので気にしていたのだが、疲れのためか富士塚に行くのを忘れてしまった。本堂の観音堂は国の重要文化財。お参りをすませ、八脚門・切妻造りの堂々とした仁王門をくぐり不忍通りに。

水窪川・東青柳下水跡
不忍通りを戻り直し水窪川・東青柳下水の流路跡とおぼしき地点に戻る。根拠はないのだが、北から不忍通りへと合流し、通りの南を先に続く細路がいかにも水路跡といった雰囲気であった、から。結果的にはオンコースであった。不忍通りを渡った水窪川・東青柳下水跡は大塚2丁目・旧東青柳町を小日向の台地の下を進み、弦巻川の流れと合わさり江戸川橋で神田川に合流する。水窪川跡を源流へと向かう。源流点はサンシャイン60の近くということはわかってはいるのだが、流路はそれほどきちんと残っているとも思えないので、とりあえす成り行き、ということで先に進む。
皇室の御陵である豊島が岡御陵東側の石垣に沿って進む。豊島が岡御陵は護国寺と一帯になった台地となっており、その崖下を進む。民家の軒先といった流路を進むと、吹上稲荷神社がある。吹上>吹上御所>皇室>豊島が岡御陵、といった連想ゲームで、なんらかありがたい社かと、ちょっと寄り道。

吹上稲荷神社
社の裏手は鬱蒼とした赴き。豊島が岡御陵の社叢に連なる緑だろう。元和8年(1622)、徳川秀忠が下野国日光山より稲荷大神を勧請し、江戸城中紅葉山吹上御殿につくられた。もとは「東稲荷宮」と呼ばれた、と。後に水戸家の分家・松平大学頭家に、そして宝暦元年(1751)に大塚村民の鎮守神として現在の小石川4丁目に移遷。この頃に吹上御殿に鎮座していたことから名前も「吹上稲荷神社」と改めた。その後、護国寺月光殿から大塚上町、そして大塚仲町へと移遷し、明治45年に現在地に移った。

水窪川源流点
川筋跡に戻り先に進むと坂下通りに。根拠はないのだけれど、川筋跡とおぼしき道が坂下通りを越え、湾曲して進む。たぶんそれが川筋跡だろうと先に進む。道脇には大谷石の石垣で段差をつけた家があり、なんとなく川筋の雰囲気がある。道なりにぐるりと迂回し、再び坂下通りに。この先は流路らしき道は残っていない。崖下から離れないように先に進む。だけ、道すがらポンプ井戸などが残る。小さな商店街をかすめ先に進むと都電荒川線に当たる。成り行きで造幣局東京支局の石垣下に。幣局東京支局は戦犯を収容した巣鴨プリズンのあったところ。石垣下をかすめ、都電荒川線東池袋四丁目駅あたりに進む。近くに川筋跡らしき道が残る。
この先は川筋跡の痕跡はなにもないが、源流点とされる東池袋1丁目23の美久仁小路に向け高速5号線をくぐり、豊島岡女子学園脇を通り源流点に到着。池袋の繁華街、コンビニの脇に美久仁小路があった。
かつてはこのあたりから都電荒川線の池袋4丁目駅あたりまでは一面の湿地であったようだが、一帯の丘陵地であった「根津山」を切り崩し埋め立てられた、とか。弦巻川にしても、この水窪川にしても池袋付近にあった池や湿地を源流として護国寺の東西を下っていたわけである。今は昔、ということ、か。これにて少々長かった本日の散歩を終える。ちょっと疲れた。

本郷台地の東端をかすめ、台地上の街道を白山台地、そして駒込に文京区散歩の第二回。本郷台地の南端あたりの湯島聖堂からはじめ、正確には文京区ではないけれど神田明神をちょっとかすめ、湯島天神、白山神社、そして駒込の富士塚を本日のポイントと大雑把に想い描く。ポイント間のルートは成り行きで進むことにする。富士塚だけは今回がはじめて。江戸の頃には駒込の富士塚とその名を知られていたようだ。そういえば、神田明神と将門、湯島天神の「湯島」、白山神社の祭神菊理姫など、よくよく考えればその何たるかについては、ほとんど何も知らない。歩く・見る・書く、をとおして、あれこれが見えてくれば、との想を描き散歩に出かける。



本日のコース;JRお茶の水駅>湯島聖堂>神田明神>蔵前通り>妻恋神社>三組坂上>霊雲寺>湯島天神>麟祥院>切通し>講安寺>旧岩崎邸庭園>境稲荷神社>竹下夢二美術館>立原道造記念館>言問通り>弥生土器発祥の地>言問通り_本郷通り交差>追分>追分の一里塚跡>旧中山道>大円寺>白山上交差点>心光寺>円乗寺>白山下交差点>白山神社>本郷通り>吉祥寺>目赤不動(南谷寺)>天祖神社>駒込名主屋敷>駒込富士神社>上富士前交差点(本郷通り_不忍通り交差点)>六義園>千石一丁目交差点(不忍通り_白山通り交差点>白山通り>浄土寺>本念寺>地下鉄三田線・白山駅

湯島聖堂
JRお茶の水駅聖橋改札に出る。神田川に架かる聖橋を渡り、古の昔、伊達仙台藩が切り開いた神田川の水路を見やる。橋を渡りきったところに湯島聖堂への入口。孔子の銅像を眺めながら門をくぐり大成殿へと向かう。なんとなく、中国の寺院の雰囲気。孔子をおまつりする廟であるので、当然、か。
この湯島聖堂、元は忍岡(上野公園)にあった朱子学派儒学者・林羅山の別邸内に建てられた孔子廟と家塾がはじまり。儒学に重きをおく幕府は、1690年(元禄3年)、将軍綱吉の頃、廟をこの地に移し「大成殿」を建て幕府の「聖堂」とした。その後、1797年(寛政9年)には林家の家塾も幕府官立の学問所となり、昌平校とも昌平坂学問所とも呼ばれるようになる。昌平とは孔子の生まれた村の名前である。聖堂東側の昌平坂をのぼり本郷通りに。次の目的地は本郷通りを隔てた神田明神。

神田明神
鳥居をくぐり境内に向かう。参道左手にある天野屋さんでは甘酒を買ったことがある。創業以来、地下の土室(むろ)で糀をつくりそれをもとに甘酒や味噌をつくる。江戸の頃、18世紀のはじめに湯島には百件以上の糀屋があったようだ。江戸末期には味噌屋も八十軒ほどあった、とか。関東ローム層、いわゆる赤土は室をつくりやすかったのだろう。が、現在は天野屋さん1軒だけだ、とか。
随神門をくぐり境内に入る。神田明神といえば明神下の(銭形)平次でしょう、ということで、崖端に向かう。崖下を眺める場所を探すが今ひとつ、これといった場所が見つからない。江戸の頃は観月の宴も開かれたところも周囲は様変わり。結局男坂上から明神下を見下ろす。
男坂は神田の町火消「い」「よ」「は」「萬」の四組が石坂を献納。天保の頃である。脇にあった大銀杏は安房や上総から江戸に来る漁船の目印になった、と言う。江戸の頃、渚は現在の小名木川のライン、江東区の清洲橋通りに沿って東西に進む川筋あたりであったというから、それはよく見えたことだろう。ちなみに今日読んでいた『今朝の春;高田郁(ハルキ文庫)』に「仰ぎ見れば神田明神の大銀杏が見える」といった描写があった。なんとなく散歩にも小説にもリアリティを感じる。
明神さまには、一之宮には大己貴命(おおなむちのみこと)、二之宮には小彦名命(すくなひこなのみこと)、三之宮には平将門が祀られる。大己貴命や小彦名命はさておくとして、神田明神といえば平将門でしょう、とは思えども、よくよく考えると、いかなる経緯で神田明神と将門が結びついたのか、はっきりしない。そもそも神田明神に限らず江戸には将門由来の神社が多い。先日歩いた神楽坂に築土明神があったが、この神社など将門の首塚などもあり、結びつきは結構強い。将門といえば築土明神でしょう、と言いたいぐらい。地元民が将門の威徳を偲び、かつ怖れたが故に神田明神にお祀りした、との話があるが、あまりに唐突でよくわからない。あれこれと素人なりの推論・妄想をしてみることに。

社伝によれば、神田明神は天平2年(730)頃、武蔵国豊島郡芝崎村に入植した出雲系の氏族が、大己貴命を祖神として祀ったのに始まる、という。一之宮に祀られている大己貴命、というか大国主命・大黒様は出雲の神様であるので話は合う。もっとも、房総半島から移ってきた忌部族(海部族)が守護神である安房神社に祀られていた海神様を祀ったのが神田明神のはじまりとの説もあり、どちらにしても遙か昔のことで、よくわからない。わからないが、当時一面の入り江が広がる海辺の集落・柴崎に誰かが、なんらかの祖先神をまつったのが、そのはじまりだろう。
時代は下って10世紀前半に平将門の乱。争乱の経緯は省くとして、結局将門は武運つたなく討ち取られ首級は京の都に晒される。伝説によれば、首は天空を跳び柴崎の地、現在の大手町の三井物産の近くに飛来したとのことだが、そんなこともあるわけもなく、実際のところは、将門ゆかりの人々が密かに持ち帰ったのだろう。その首級をまつった祠・観音堂が津久戸明神=築土明神のはじまり、という。この段階では将門との関係は築土明神に大いに分があり、そもそも神田明神は姿も形も、ない。
更に時代は下った14世紀のはじめ、時宗の真教上人が柴崎の地を訪れる。当時、この地は疫病が流行しており、それは将門の祟りであると、朽ち果てていた祠を修復し供養する。と、あら不思議疫病が退散。上人を徳とした村人は近くの寺・日輪寺に留まるよう懇願。上人は天台の寺であった日輪寺に留まり、寺を時宗に改め念仏の道場とした。また、上人は近くにあった祠(安房神社との説も)を修復し、そこに将門の霊を合祀しその社を神田明神と名付ける。同時に日輪寺も神田山日輪寺と改名し、両社とも将門の霊を祀る所となった。ここで神田明神と将門が結びついた。神田の由来は、将門の胴塚をまつる茨城県岩井の地を神田山(かどやま)と呼ぶようだが、それに関係あるのだろうか。
更に更に時代が下って江戸の頃。江戸城の築城に際し津久戸神社は神楽坂に、日輪寺は浅草の柴崎、神田明神は現在の神田駿河台に移る。以降、神田明神は江戸城の鬼門の守護神として徳川家の庇護を受け大いにそのプレゼンスを高める。氏子は江戸の下町の半分以上を占めたと言う。現在で言えば、日本橋、秋葉原、大手丸の内、旧神田市場、築地魚市場などなど108町会をカバーしている、とか。境内に駕籠職人の籠祖神社、漁師の水神社などなどの摂社が祀られる所以である。
それはともあれ、神田明神の祭りが天下祭りとも呼ばれるようになる。御輿、というか当時は山車のようだが、神田祭りの山車が江戸城内に入ることも許されたようだ。神田祭りが天下祭りと呼ばれる所以である。こういった神田明神のプレゼンスが大きくなったが故に、ほかの社を差し置いて、将門=神田明神、ということになったのだろう、か。素人の妄想。真偽のほどは定かならず。ちなみに祭りの山車が神輿に変わったのは、市電だか都電だかの架線に引っ掛かるため、といった話を聞いたことがある。
ついでのことながら、二之宮の「小彦名命」誕生は明治期の将門の位置づけと大いに関係がある。徳川幕府が倒れ天皇の御代となった明治には、天皇に反逆した逆賊将門を祀るのは少々具合が悪かろうと、大己貴命との国造りのパートナー小彦名命を祭神とした、との説がある。大己貴命が鎮座するのに、どうして助っ人が必要だったのだろう?大己貴命と大己貴命のペアが必要だったのだろうか?また、小彦名命を茨城の大洗神社から分祠したとのことだが、大洗神社と神田明神はどういう関係だったのだろう。将門の本拠地が茨城であったことに何か関係があるのだろうか。はてさて。

遠藤家旧店舗・住宅主屋
次の目的地である妻恋神社へと成り行きで明神様に沿って進むと、明神様脇に誠に美しい木造の日本家屋がある。案内によると戦前の商家・木材問屋「遠藤家旧店舗・住宅主屋」。もとは江戸開闢期からの町屋である古町・鎌倉河岸に店があった、とか。建物は関東大震災後の昭和2年に建築されたもの。外壁は「江戸黒」とよばれる黒漆喰で伝統的な店蔵を再現している。一時府中に移築して保存していたものが、この地に移された。本当に美しい。
遠藤さんは神田明神の氏子総代をもつとめていた。将門塚の保存につとめ、かつ将門研究家でもあった、とか。佐伯泰英さんの『鎌倉河岸捕物控え』ではじめて知ったのだが、江戸開闢期からの古町町人にはいろいろと特権が与えられていたよう。

清水坂
遠藤家旧店舗・住宅主屋がある宮元公園を抜け蔵前橋通りに下り、清水坂下交差点から清水坂を上る。坂の名前の由来は明治・大正の頃の精機会社の名前から。江戸の頃、この地には霊山寺と言う寺があった。
寺は明暦3年(1657年)の明暦の大火後、浅草へ移ったが、その敷地は妻恋坂から神田神明神にいたる広大なものであった よう。その広大な敷地は明治になり「清水」という精機会社の所有となる。で、その広い敷地が邪魔となり湯島神社と神田明神の往来が不便なったため、敷地を提供し坂道を整備した。これが清水坂となった所以である。

妻恋神社
清水坂をちょっと上り、右に折れる。日本独特のホテルの前にささやかな社。社殿もコンクリート造りと少々赴きが乏しい。日本武尊ゆかりの社伝をもち、江戸の頃は王子稲荷神社とならんで稲荷社を勧請する際の惣社、総元締めであった社の雰囲気は、今はない。
日本武尊が東征の折、東京湾を渡り房総に向かう時、突然の大暴風雨。海神の怒りを鎮めるべく、妃の弟橘姫が海に身を投じる。妃を慕う日本武尊を思い、妃と尊を祀ったのが妻恋神社の始まり、とか。 「吾嬬者耶(あづまはや)」 (ああ、わが妻よ、恋しい)と言ったエピソードは散歩のいたるところで出会うので、縁起は縁起とするだけであるが、この神社の「縁起」物として名高いのは七福神を乗せた宝船の版画。「夢枕」と呼ばれ、正月2日の夜、枕の下に敷いて寝ると縁起のいい初夢が見られるとして売り出され、大いに人気を博したとのことである。
境内を離れる。日本独特のホテルには少々違和感があるも、この湯島天神の西側は明治維新後に栄えた花街・三業地。昭和のはじめには芸子置屋59軒、芸者100人以上、待合が31軒もあった、という。教育の街・文京区にこの類(たぐい)のホテルは如何に、との議論も多いが、歴史を踏まえてのホテルであろうから、「衣食足って」の後の「礼節」の話には、少々違和感あり。

霊雲寺
妻恋神社を離れ、三組坂上交差点に。家康亡き後、お付きの中間・小人・駕籠方の「三組の者」にこの地が与えられた。三組坂から湯島天神に向かう途中に大きな甍が見える。霊雲寺にちょっと寄り道。堂々たる堂宇は戦後再建されたコンクリートつくりのようだが、往時の威勢を少し感じる。チェックすると、江戸の頃柳沢吉保の帰依を受け、ために時の将軍である綱吉からこの地を得て寺を開いた。幕府から朱印状を受け元禄の頃は関八州の真言律宗の総本山であった、とか。
霊雲寺が知られるのはその結縁灌頂。出家に際してその守り本尊を決める儀式。目隠しをして曼荼羅の上に華を投げ、その落ちたところの仏と結縁する。ここで結縁した衆生の数は4万人近くいた、という。本堂の脇に灌頂堂が残る。江戸の名所図会にもこのお堂が描かれていた。

湯島天神
春日通り・湯島天神入り口を少し折り返し湯島天神に。境内に梅の木が並ぶ。紅梅、白梅併せ梅の名所となっている、と。湯島天神といえば、「♪湯島通れば想い出す お蔦 主税の 心意気♪」というフレーズを思い出す。「湯島の白梅」の歌詞の一部である。泉鏡花原作の『婦系図』、正確には原作をもとにした芝居でのお蔦と主税の別れの舞台がこの湯島天神となっている。『切れるの別れるのッて、そんな事は、芸者の時に云うものよ。......私にゃ死ねと云って下さい。』というあの有名なフレーズである。お蔦は後の鏡花夫人がモデル、「俺を捨てるか、婦を捨てるか」と主人公(鏡花がモデル)迫る先生は鏡花の師匠である尾崎紅葉とのことである。
梅園の脇に奇縁氷人石がある。落とし物や探し人の時は石柱の右側の「たつぬるかた」に、拾ったり見つけた人は左側には「をしふるかた」に紙に書いて貼っていた、という。氷人とは仲人の意味、とか。

湯島天神は菅原道真を祀る社として知られる。社伝によれば、雄略天皇2年(458)勅命による創建と伝えられ、天之手力雄命(あめのたじからおのみこと)を祀ったのがはじまりとか。天之手力雄命って、岩屋に隠れたアマテラスを引き戻し、世に明るさを取り戻した神様。縁起は縁起としておくとして、世が下り14世紀の前半、いかなる契機か定かではないが、菅原道真の威徳を偲ぶ郷民が京都の北野天満宮から天神様を勧請した、と。15世紀後半には太田道灌に、また徳川の御代も朱印地を受けるなど篤い庇護を受けた、とのことである。

菅原道真を祀る社を天神さまとか天満宮とか言う。どういう関係なのだろう。ちょっとチェック。天神さまとは、国津神に対する「天津神」であり、どれといって特定の神様を指すということではないようだ。天満宮は天満大自在天神を祀る社。天満大自在天神とは、怨霊として畏れられた、その魂を鎮めるために道真与えられた神号である。もともとは天神と道真は別物であったようだが、天満大自在「天神」として祀られた道真と天神が次第に同一視されるようになり、天神=道真=天満、というようになったのだろう。火雷天神を祀っていた北野の社が天満大自在天神=菅原道真を祀るようになり北野天満宮となったのはその証。
湯島天神は学問の神とはいいながら、婦系図の舞台など妙に艶めかしい。妻恋神社のところでメモしたように、花柳界が周りにあったのが大いにその遠因であろう。また、この神社は江戸の頃、富クジ発行の社としても知られる。聖俗併せ持つ社であろう、か。
それはそれとして、湯島の地名の由来。件(くだん)の如くあれこれ説がある。が、どれもしっくりこない。崖下一面は湿地であり、本郷台地の端にあるこの地が「島」のように見えた、と。それはそれでいい。が、「湯=温泉」が出たから、との説は如何にも不自然。「斎の島」からとの説もある。台地の突端にあり、昔はここに神を祀りその斎場があった、とする。「斎(いつき)の島」が、「ゆつきのしま」>「ゆしま」と転化したとする。台地の突端の斎場といった論は、よさげな気もするのだが、よくわからない。
湯島ではない表記もある。菅江真澄の「北国紀行」には由井(ゆい)島と示されている。武州豊嶋郡江戸油嶋郷と表記されているケースもある。はじめに「音」があり、それに「漢字」を被せるわけだから、表記をそのまま鵜呑みにすることはできないが、由井には「湿地」の意味がある。湿地帯に浮かぶ島、といったイメージは如何にも、いい。真偽の程は定かではないが、自分としては結構気に入っている。

麟祥院
春日通りの坂を少し上り麟祥院に向かう。坂は湯島の切通し坂と呼ばれていた。昔の奥州街道であった崖下の道を切り開き本郷台地と御徒町方面を結んだ。現在は湯島天神の逆方向にはマンションが建ち、地形がはっきりしないが、明治末期の写真を見ると崖上が緑地となっており、それなりに切り通しの雰囲気が感じられる。江戸の頃は急坂であったようだが、明治37年には上野広小路と本郷の間に電車が走るようになったため、緩やかな坂にした、という。
麟祥院は三代将軍徳川家光の乳母である春日局の菩提寺。寺の名前は春日局の法号から。境内は品のいい雰囲気。明治になって、この地には東洋大学の前身でもある哲学館が創立された。創立者である井上円了さんは中野散歩のとき、哲学堂で出会った。

講安寺
麟祥院を離れ、坂を少し下り「切通し公園」に向かう。切通しの名残でもないものか、と辿ったのだがありふれた公園でしかなかった。道なりに進み、お屋敷の塀をぐるりと一回り。趣のある坂に出る。案内に「無縁坂」と。その昔、この坂上にあった無縁寺によるとか、周囲武家屋敷が多いが故に、武家に縁がある>武縁>無縁、など例によって地名の由来はあれこれ。さだまさしの歌・「無縁坂」の舞台でもある、とか。
坂の途中に講安寺。土蔵造りの本堂が面白い。外壁が漆喰で塗り固められ防火対策を施している。住職の遺言として「類火は格別、寺内門前共に自火の用心専一に致す可き事」とある。

旧岩崎邸庭園
坂を下り、長い塀に沿って南進み旧岩崎邸庭園に。もとは越後高田藩・榊原氏の江戸屋敷跡。明治になり三菱財閥・岩崎家の屋敷となった。現在残る建物は三菱財閥三代目当主である岩崎久弥の館。洋館と撞球室の設計は英国人ジョサイヤ・コンドル。建物は重要文化財となっている。旧古川庭園の洋館や綱町三井クラブ、三菱一号館など散歩の折々にコンドルの作品に出会う。明治期のお雇い外国人として来日し、日本の近代建築の基礎をつくった人である。戦後はGHQに接収され、その後最高裁判所の司法研修所として使われていたが、現在は都立の庭園として公開されている。

境稲荷神社
東大構内東端に沿って道なりに進む。やたら朱のあざやかな小ぶりの社がある。境稲荷神社。創建時は不明。文明年間、15世紀の中頃に室町幕府の足利義尚が再建したとの伝承がある。社の名前は、この地が忍ヶ丘(上野台地)と向ヶ丘(本郷台地)の境であることによる。この社はかつての茅町(現在の池之端1,2丁目の一部)の鎮守であった、と。茅町とはいかにも茅の原というか、湿地のイメージ。昔は一帯が低湿地であったのだろう。
社の北脇には弁慶鏡ヶ井戸。義経主従が奥州に向かう途中、弁慶がこの井戸をみつけ喉を潤した、とか。江戸の頃には名水として知られ、戦中には被災者の渇きを癒したと。

言問通り
東大構内に沿って言問通りに向かう。道の途中に立原道造記念館とか弥生美術館・竹下夢二美術館がある。時空にはフックがかかるが情感にあまりに乏しい我が身としては、立ち寄るのも少々敷居が高い。素通りし言問通りに。根津に向かって少し下ると道の左手、東大農学部側に「弥生式土器発祥の地」の案内。東大農学と工学部の境(ゆかりの碑、のあるところ)、根津小学校裏の崖、東大工学部内弥生二丁目遺跡など諸説ある弥生式土器発祥の地の案内がある。いずれにしても往古一面の海を臨む本郷台地の端。そこに弥生の民が住んでいたのだろう。

弥生式土器発祥の地
更に少し根津方面に下ると、道の反対側、東大工学部側に「弥生式土器発掘ゆかりの地」の碑があった。ここも弥生土器発祥の候補地のひとつ。明治17年、東京大学の先生たちが根津の谷に面した貝塚から赤焼きの壺を発見。それがどうも従来の縄文式土器とは異なる、ということで土地の名をとり弥生式土器と名付けられた。
弥生の地名は水戸斉昭公の歌碑の詞書から。江戸の頃、このあたりは水戸藩の中屋敷。明治となり町名を決めるに際し、水戸藩の廃園にあった歌碑の詞書き、「やよひ(夜余秘)十日さきみだるるさくらがもとにしてかくは書きつくるにこそ;名にしおふ春に向ふが岡なれば、世に類なき華の影かな」の中から「やよひ(夜余秘)>弥生」を取り出し、向ヶ岡弥生町とした。

本郷追分
言問通りの弥生坂を上り返し本郷通りとの本郷弥生交差点に向かう。弥生坂は先ほど歩いてきた弥生美術館方面からの道との交差点あたりまでのよう。坂下に幕府鉄砲組の射撃場があったため、鉄砲坂とも呼ばれている。更に上り本郷弥生交差点を右に折れるとほどなく道はふたつに分かれる。そこが本郷追分と呼ばれた中山道と岩槻街道・日光御成道の分岐点。
街道が別れる角に一里塚の案内が残る。日本橋を出た中山道はこの地で1里となる。一里塚の案内がある家屋は高崎屋とあった。江戸の頃、追分には酒・醤油を商う高崎屋と青果を商う八百屋太郎兵衛という大店があったとのことである。この高崎屋はその後裔だろうか。上方からのブランド品:下り物に対抗するため、「下らない物=江戸近辺の地回り品」である定評ある野田や銚子の味噌や醤油に「江戸一」といったブランドで現金大安売りをおこない身代を築いたと言う。八百屋太郎兵衛は八百屋お七の実家、とか。

大円寺
17号線・中山道を白山に向かって進む。白山上交差点の少し手前に大圓寺。なにげなく寄り道。「ほうろく地蔵」がある。「八百屋お七」にちなむ地蔵尊であった。天和の大火(1682年)の際、避難した寺(円乗寺)で見初めた寺小姓に恋慕。火事が起これば再び会えるかと、実家に付け火。小火(ぼや)で終わったものの、付け火は大罪。火あぶりの刑を受けたお七を供養するため建立されたお地蔵さま。お七の罪業を救うため、熱した焙烙(素焼きの土鍋)を頭に被り、自ら灼熱の苦しみを受ける、その後このお地蔵さまは頭痛・眼病・耳や鼻といった首から上の病に霊験あると人々の信仰を得た。
お七が避難した円乗寺はすぐ近く。お七のお墓もあると言う。後ほど訪れる。ちなみに目黒の散歩で訪れた大圓寺は、お七の恋い焦がれた吉三が仏門に入り修行した寺。寺の名前が同じであるのは単なる偶然、か。
また、この寺には高島秋帆が眠る。高島平散歩の折り、松月院で出会った。徳丸が原(現在の高島平)で幕閣を集めて砲術の訓練をおこなったことで知られる。鳥井耀蔵に貶められ一時幽閉されるも、ペリー来航などの国難に直面し放免され海防指導に努める。高島平の名はこの人物の名前から。

旧白山通り
白山上交差点から旧白山通りを下る。この坂は薬師坂とも浄雲寺坂とも白山坂とも呼ばれる。薬師坂は坂の途中にある妙清寺の薬師堂から。浄雲寺坂はこれも坂の途中にある心光寺の寺号である浄雲院より。白山坂は坂を少し奥まったところにある白山神社から。白山神社は後ほど訪れることにして、坂を下り白山下交差点を左に折れ円乗寺に向かう。

円乗寺
路地といった雰囲気の円乗寺の入口に、お七の地蔵尊。今ひとつ寺域といった赴きに乏しい「小径」を進むと本堂横に三基の墓があった。住職や住民や、そして演じたお七が当たり狂言となった寛政年間の歌舞伎役者の岩井半四郎が建てたもの。お七の事件は世間の耳目を集めたのか、事件の3年後、貞享3年(1686)には井原西鶴によってお七が取り上げられた。お七が有名になったのもこの歌舞伎・浄瑠璃故のことではあろう。とはいうものの、そのブームもいつまで続いたのか、太田南畝が『一話一言』を書いた天明5年(1785)の頃には墓は荒れ果てていたようだ。「石碑は折れ、無縁の墓のため修繕もできない」とある。再びお七が有名になったのは、その少し後、上で目もしたように岩井半四郎の演じたお七が大人気となり、石塔を建ててからである。虚実入り乱れた八百屋お七の話は、恋い焦がれた寺小姓も吉三、とか吉三郎だとか、庄之助、とか佐兵衛とかあれこれ。

東大下水の支流・北指ヶ谷跡
白山坂下交差点に戻り、坂を少し上り戻し、なりゆきで左に折れて白山神社に向かう。白山神社への道は一度窪み、再び上りとなる。窪んだあたりは昔の東大下水の支流のひとつ、六義園から下る通称・北指ヶ谷の流路ではなかろうか。六義園からの水路は東洋大学前交差点で旧白山通りを越え、蓮久寺や妙清寺脇を下り、白山坂下で駒込方面から下る東大下水の本流・西指ヶ谷で合流する。

白山神社
複雑なうねりの地形を眺めながら白山神社境内に。開基は古く10世紀の中頃、加賀一宮白山神社を本郷1丁目の地に勧請。時代は下って江戸の頃、二代将軍秀忠の命により巣鴨原(現在の小石川植物園)に移すも、その地を館林藩主松平徳松(後の5代将軍綱吉)の屋敷造営のため、17世紀の中頃この地に移った。この縁もあり社は綱吉とその生母・桂昌院の篤い帰依を受けた。この神社の祭神として菊理媛(くくりひめ)がいる。イザナギが変わり果てた妻のイザナミに少々恐れをなし諍いを起こしたときに仲直りをさせた神さまとか。ために、縁結びの神、最近では、はやりのパワースポットとして菊理媛におまいりする人がいるとか、いないとか。それにしても、菊理媛って、古事記には登場しないし、日本書紀にもほんの一言だけ登場する神さま。「(イザナミから一緒に帰れないとの伝言を伝える、黄泉の国の番人の台詞に続いて)その時菊理媛も語った。イザナギはそれを聞いてほめ、別れて立ち去った」、と登場するのみ。何を語ったのかも書かれていない。死者の言葉を取り次ぐ、あの世とこの世の橋渡し=仲介をする、といったことから縁結びとなったのだろうか。よくわからない。
境内には富士浅間社・稲荷社・三峰社・天満天神社・山王社・住吉社といった摂社が祀られる。富士神社には小高い富士塚が残る。富士参詣に行けない人の模擬富士登山・信仰のために塚が立つ。八幡神社は10世紀中頃、奥州征伐に向かう八幡太郎義家がこの地に御旗を掲げ京の石清水八幡を勧請。戦勝を祈念した。ということは、このあたりに奥州への古道が通っていた、ということ、か。

吉祥寺
次の目的地は吉祥寺。東大下水の支流・北指ヶ谷跡かな、と思う道筋を辿り旧白山通り・東洋大学交差点付近に上る。その後は成り行きで北に向かい本郷通り・吉祥寺前交差点に。
本郷通りに面して風格のある山門が残る。参道に入ると脇にお七・吉三の比翼塚とか二宮尊徳の墓碑などもある。榎本武揚や鳥井耀蔵もこの地で眠る。先に進むと如何にも広い境内というか駐車場。30年ほども前にこの寺を訪れたときのうっすらとした記憶では、もっと構えの小さいお寺さま、といったものであったので、少々戸惑う。境内というか駐車場脇にこれまた風格のあるお堂がある。このお堂は教蔵。檀林寺の図書館といったところ、か。それにしても広い。その昔、曹洞宗の檀林(学問所)として学僧1000名を越え、七堂伽藍を誇ったお寺ではあるが、戦災で灰燼に帰した、という。このアンバランスなほどのスペースは、そのうちに往時の堂宇の再建を考えてのことであろう、か。檀林は現在の駒沢大学の前身である。
寺の歴史は古く室町の太田道灌の頃に遡る。道灌が築城の江戸城内に開山。その後江戸時代になり、水道橋津金に移る。水道橋も当時は吉祥寺橋と呼ばれていた。この地に移ったのは明暦の大火の後。寺院を江戸の町中から周辺に移した。火の気が多い寺院は火災もとになることが多かったのだろう。ちなみに中央線の吉祥寺は、明暦の大火で罹災した水道橋脇の吉祥寺門前の住民が移り住んだことからその名が付けられた。

目赤不動
吉祥寺前交差点を少し本郷方面に戻り、道脇にある目赤不動・南谷寺に向かう。お堂は本堂脇、二間四方といった、つつましやかなもの。もとは不忍通りと本郷通りを結ぶ動坂あたりにあり、赤目不動と呼ばれていたようだが、三代将軍家光が駒込に鷹狩りの折り、府内目白・目黒不動の因縁をもって目赤不動とすべし、ということで目赤不動となった、と。江戸名所図会には「目赤不動 駒込浅香町にあり。伊州〔伊賀国〕赤目山の住職万行(まんぎょう)和尚(満行、?~一六四一)、回国のとき供奉せし不動の尊像しばしば霊験あるによつて、その威霊を恐れ、別にいまの像を彫刻してかの像を腹籠(はらごも)りとす。 すなはち赤目不動と号し、このところに一宇を建立せり、始め千駄木に草庵をむすびて安置ありしを、寛永(1624-44)の頃大樹(将軍家光)御放鷹(ごほうよう)のみぎり、いまのところに地を賜ふ。千駄木に動坂の号あるは、不動坂の略語にて、草堂のありし旧地なり。後年、つひに目黒、目白に対して目赤と改むるとぞ」とあり、家光によりこの土地を賜ったのは記録に残るも、目赤となったのは後の世、とも読めるが、それはそれとして府内五色不動のうちのひとつ、目赤不動が誕生した。
日本各地に五色不動が残るが、江戸の御府内の五色不動も知られる。目黒(目黒区下目黒の滝泉寺)・目白不動(江戸の頃は文京区関口の新長谷寺。現在は豊島区高田の金乗院)は江戸の前から存在していたようだが、江戸の頃のこの目赤不動が生まれ、明治以降に目青不動(世田谷太子堂)、目黄不動(江戸川区平井の最勝寺と台東区三ノ輪の永久寺の2つ)が登場して現在に至る。

動坂
駒込の富士神社に向かう。近くに先ほどメモした動坂がある。このあたり、現在の駒込病院のあたりは鷹場のあったところという。動坂下から天祖神社にかけては御鷹匠屋敷や御鷹部屋などもあった。目赤不動での家光の鷹狩り云々の所以である。現在その名残があるとも思えないが、とりあえずちょっと寄り道。道すがら駒込名主屋敷跡。慶長年間というから17世紀の初頭、この地を差配した名主の屋敷。趣のある門が残る。現在もお住まいのよう。
成り行きで天祖神社に進み、道坂上あたりをかすめ、このあたりに鷹場があったのだろう、とか、目赤不動のもともとの赤目不動の祠があったのだろう、などと往古を想い富士神社へととって返す。

駒込富士神社
駒込の富士塚として知られる。散歩の折々に富士塚が現れる。所沢・佐山湖脇の荒畑富士、葛飾・飯塚の富士塚、川口・木曽呂の富士塚などが記憶に残る。通常、塚と社殿が分かれていることが多いのだが、この神社は塚の上にのみ社殿がある。社殿部分は平らになっており、富士塚でよく見るお椀を伏せた、といった形状ではない。長さも40mほどもありそうで結構大きい。古墳跡とも言われるが、定かではない。元は本郷にあったとのことだが、その地が加賀藩の江戸屋敷となったため、この地に移った、とか。
富士塚は富士信仰のため富士山に見立てた造った塚。冨士講を組織し富士への参拝を本旨とするも、すべての人が富士に行けるわけもなく、その代わりとして各地の富士塚をお参りする。食行身禄などにより江戸で広まり、「江戸八百八講 講中八万人」と言われるほどになった。食行身禄の生涯は新田次郎さんの『富士に死す』に詳しい。

六義園
本郷通りを進み不忍通りとの交差点・上富士前交差点を少し先に進み六義園に。六義園は五代将軍綱吉の側用人・柳沢吉保の下屋敷として造った庭園。平坦なところに土を盛り、水は千川用水から導水し7年の歳月をかけて造り上げた。
柳沢家は甲府、大和郡山と領地は移るも、六義園は柳沢家の下屋敷として幕末まで続く。維新後は三菱財閥を興した岩崎弥太郎が入手。現在の赤煉瓦はそのときのもの。関東大震災や戦災に被害を受けることもなく現在に至る。
なお、六義園の六義とは紀貫之が『古今和歌集』の序文に書いた「六義」(むくさ)という和歌の六つの基調を表す語に由来するとか。「六義」の原典は『詩経』にある漢詩の分類法。3とおりの体裁「風」「雅」「頌」という三通りの体裁と、「賦」「比」「興」からなる三通りの表現法から構成される。紀貫之はこれを借用して和歌の六体の基調を表した、と。「風」は各地の民謡、「雅」は貴族・朝廷の公事・宴席の音曲の歌詞、「頌」は朝廷の祭祀の廟歌の歌詞、「賦」は心情の吐露、「比」はアナロジー、「興」は詩情を引き出す自然を歌うさま、といったもの、とか。

本念寺
長かった散歩も次が本日最後の目的地である本念寺。蜀山人こと太田南畝が眠る。通りを進み千石1丁目交差点で左に折れ白山通りに入る。千石駅前交差点で旧白山通りと別れ白山通りを下る。この道筋は東大下水の本流・西指ヶ谷の流路ではあったのだろう。緩やかな坂道の途中、京華高等学校の通りを隔てたあたりを右に折れ、台地を上る。ほどなく本念寺に。
ささやかなお寺さま。ここに大田南畝が眠る。18世紀末、天明期を代表するこの文人・狂歌師そして能吏には散歩の折々に出会う。上野公園の蜀山人の碑;一めんの花は碁盤の上野山 黒門前にかかるしら雲 。向島百花園の扁額、赤札仁王さまで名高い北区・田端の東覚寺には蜀山人の狂歌碑;「むらすずめ さはくち声も ももこえも つるの林の 鶴の一声」。新宿・十二社の熊野神社には太田南畝の水鉢があった(2010年9月に訪れた時は水鉢は消えていた)。神田駿河台には蜀山人終焉の地の案内;南畝辞世の句、「生き過ぎて 七十五年食ひつぶし 限りしられぬ 天地の恩」。入谷の鬼子母神には「恐れ入谷の鬼子母神、どうで有馬の水天宮、志やれの内のお祖師様」が残る。文京区散歩では牛天神で貧乏神を描く南畝にも出会った。

都内だけでなく多摩でも出会う。国立の谷保天神は南畝によって「野暮天」のキャッチフレーズをつけられところ:「神ならば出雲の国に行くべきに目白で開帳やぼの天神」。目白で出開帳を行いお賽銭を集めたことを皮肉った。日野の安養寺は南畝の『調布日記』に「大きさ牛をかくすといひけん木々の銀杏2本並びたてり、かのちちというものあまたありて目を驚かす」と記されている。『調布日記』は南畝が玉川通勘定奉行方として多摩川地方の水害調査に訪れた時の地誌録。その折りのこと、日野の本陣では当主手作りの蕎麦を食し「ことし日野の本郷に来りてはじめ蕎麦の妙をしれり......しなのなる粉を引抜の玉川の手づくり手打よく素麪の滝のいと長く、李白が髪の三千丈もこれにはすぎじと覚ゆ」という蕎麦賞味の所感を書いている。ついでのことながら、本邦初のグルメ本『頭てん天口有(あたまてん てんにくちあり)」』を著したのも南畝と言う。
太田南畝は18世紀末、天明期を代表する文人・狂歌師。若くして四方赤良(日本橋で有名な味噌「四方の赤、から)のペンネームで活躍。有名な「世の中に蚊ほどうるさきものはなしぶんぶといひて夜もねられず」も四方赤良の句、とも言われるが、寛政の改革での戯作者の弾圧をみるにつけ、逼塞が得策と狂歌から離れる。その後、幕府の人材登用試験に主席で合格。とはいうものの竹橋の倉庫での文書整理。「五月雨の日もたけ橋の反故しらべ 今日もふる帳あすもふる帳」と詠んでいる。
19世紀の頭には大阪銅座に赴任。銅にちなんだペンネーム「蜀山人」を使うのはこれ以降。その後長崎奉行所に赴任。はじめてのコーヒーのテースティングを記す;紅毛船にてカウヒイといふものを飲む。豆を黒く炒りて粉にし、白糖を和したるものなり、焦げくさくして味ふるに堪ず。上記多摩川巡視は60歳の頃と言う。
誠に多彩な人物。現在もっとも興味のある人物でもある。狂歌師、能吏、『調布日記』や『玉川砂利』、『向丘閑話』、。『改元紀行』等の十九冊にも及ぶ紀行文。それと水練の技を引き継ぐ家柄として、将軍家治の御前での水泳披露など、誠におもしろい。メモをはじめると終わりそうにないので、ちょっと狂歌をならべ、クロージングとする;
「雑巾も 当て字で書けば 蔵と金あちら拭く拭く(福々)こちらふくふく」。
「一刻を千金づつにつもりなば六万両の春のあけぼの」
「いまさらに何をかをしまん神武より二千年来くれてゆくとし」
「世の中に絶えて女のなかりせばをとこの心のどけからまし」
「今までは 人のことだと 思ふたに 俺が死ぬとは こいつはたまらん」
「世の中は金と女がかたきなりどふぞかたきにめぐりあひたい」
なお、太田南畝を描いた小説には平岩弓枝さんの『橋の上の霜』がある。愛憎に悩む南畝の姿が描かれる。
本念寺の向かいにある浄土寺には松平忠直卿の墓がある、とのこと。それにしては少々趣に乏しい、ということで、軽くお参りし、成り行きで地下鉄三田線・白山駅に向かい、本日の散歩を終える。


文京区を歩くことにした。実際のところ、文京区は散歩の折々に幾たびと無く「掠め通って」はいる。豊島区の染井霊園にその源を発する谷田川(下流部では藍染川とも呼ばれる)、現在では川筋などなく道路を辿るだけなのだが、ともあれ本郷台地東側の川筋跡を根津谷に下ったことがある。同じく豊島区要町あたりの粟島神社・弁天池に源を発する谷端川(小石川とも千川とも呼ばれる)を下り、これもまた、今では川の面影など何処にもないのだが、その川筋跡を辿り白山台地と小石川台地の間の谷筋を後楽園まで下ったこともある。また、日暮の里・日暮里から上野台地に上り、一度根津の谷に下った後再び本郷台地に上り、またまた千川の谷に下りさらには小石川の台地を経て神田川に下ったこともある。こうしてみると、どれも武蔵野台地の東端にある文京区の、台地とその台地を刻んだ川筋を辿ったわけで、時空散歩の「空=地形」を楽しんだ、ということであろう。

今回の文京区散歩と銘打つも、いまひとつルートが思い浮かばない。根津神社にしても、後楽園にしても、伝通院や白山神社にしても折に触れて訪ねており、一筆書きを信条とする我が身としては、その地を再び訪ねる強い動機に今ひとつ欠ける。思案の末、というほどのこともないにだが、とりあえず郷土歴史館に行き、なんらかの「きっかけ」を得るに莫如(しくはなし)、ということで、まずは文京区ふるさと歴史館に。



本日のコース;JR総武線水道橋駅>神田上水掛樋跡>金毘羅宮>忠弥坂>昌清寺>本郷給水所公苑>壱岐坂通り>三河稲荷神社>春日通り>文京ふるさと歴史館>炭団坂>坪内逍遥旧居跡>菊坂>樋口一葉旧居跡>宮沢賢治旧居跡>本妙寺跡>長泉寺>本郷菊谷ホテル跡>菊坂通り>本郷通り>本郷三丁目交差点(春日通り_本郷通り交差点)>かねやす>桜木神社>法真寺(樋口一葉ゆかりの地)>石川啄木ゆかりの地>菊坂下交差点>白山通り・西方交差点>樋口一葉ゆかりの地>善光寺>沢蔵司稲荷>伝通院>春日通り>安藤坂>諏訪神社>神田川_白鳥橋>大曲>JR飯田橋駅

神田上水の掛樋跡
「文京区ふるさと歴史館」は文京区本郷4丁目にある。最寄りのJR野駅・水道橋で下車。水道橋と言えば、その名前の由来ともなった神田上水の掛樋(懸樋)跡が駅のすぐ近くにある。神田川に沿って外堀通りを少し上ると道脇に神田上水掛樋跡の碑。
掛樋のあたりの神田川の谷は深い。この谷は、人工的に開削されたもの。元々の川筋は飯田橋あたりから南に下っていたのだが、それでは江戸城が水害に晒される、ということでお茶の水の台地を切り開き現在の水路を開いた。水路用に切り開いたものではなく、江戸城の北方防備のため本郷台地を切り崩して造った外堀を活用した、との説もあるが、それはともかく、仙台の伊達藩が6年の歳月をかけて切り開いた。その故にこの谷は仙台堀とも伊達堀とも呼ばれる。掘り起こされた土は低湿地であった神田・日本橋一帯の埋め立てに使われた、と。
掛樋の通る神田上水は、江戸の人々、といってもお武家様中心ではあろうが、その飲み水を確保するため、遠く現在の吉祥寺にある井の頭の水を江戸の町まで引いたもの。もともとあった平川の自然水路を整備し直し、流路を井の頭までのばし、現在の神田川の流路がつくられた。神田上水は江戸川橋近くの関口大洗堰で神田川から分水される。神田川から分かれた上水の水路は現在の後楽園、当時の水戸徳川家の上屋敷に入り、その余水はさらに進みこの地で掛樋を渡る。掛樋を越えた上水は、神田や日本橋の武家屋敷を潤し、そしてその余水が町屋に流された、とのことである。

文京区ふるさと歴史館に向かうべく、外堀通りを下り白山通りの交差点に。交差点脇にある都立工芸高校前に住所案内。歴史館への道すがら、なにか見どころはないものかとチェック。金比羅宮とか昌清寺とか三河稲荷とか、いくつかの神社仏閣がある。どうせのことならと、成り行きで辿ることにする。

金比羅宮
白山通りを一筋入ったあたり、宝生能楽堂の北に金比羅宮。このあたり元は高松松平家下屋敷。金比羅山さんと言えば四国の讃岐。虎ノ門の金比羅宮は讃岐丸亀藩の邸内祠と言うし、ここの金比羅さんも高松藩の邸内祠かと思ったのだが、事はそれほど簡単ではなかった。もとは江戸の町人がつくった邸内社。あれこれ経緯はあるものの明治23年に深川に移り「深川のこんぴらさん」などと呼ばれ人々の信仰を得ていた、と。その社も戦災で焼失。昭和39年に高松松平家より下屋敷跡のこの地の寄進を受け、社を建てた。その際に江戸の頃、松平家下屋敷の邸内社であった金比羅様も合祀された、とのことである。
金比羅さんは、ヒンズー教のクンビーラ神から。ガンジス川に棲むワニが神格化されたものであり、その「水」との関連故に竜神・水神として信仰され、海難とか雨乞いの守護神として信仰されるようになったのだろう。お宮はこじんまりしているのだが、狛犬がちょっとユニーク。阿吽それぞれが、授乳であるような、子供を宿しているような姿をしていた。

忠弥坂
昌清寺に向かう。桜蔭学園の東、坂を上ったところにある。桜蔭学園は東京高等女子師範学校(現在のお茶の水女子大)の同窓会が母体とのこと。お茶の水の聖橋脇にある湯島聖堂、と言うか昌平坂学問所は、現在は小じんまりとした佇まいではあるが、往時は広大な敷地をもっていた。その敷地は現在の東京医科歯科大とか順天堂医院あたりを含めたものであり、明治に入り、敷地跡に東京女子高等師範学校が建てられた、という。桜蔭学園創立の所以を納得。
桜蔭学園脇の急坂を上る。坂の途中に案内。チェックすると「忠弥坂」とある。文京区教育委員会の案内によれば、坂の上に丸橋忠弥の槍の道場があり、また慶安事件に連座し逮捕された場所にも近いということで名付けられた。慶安事件とは、忠弥が由井正雪とともに幕府転覆を企てた一大事件のことである。

昌清寺
桜蔭学園のすぐ東に昌清寺。小じんまりとしたお寺さま。文京区教育委員会の案内によれば、開基は駿河大納言忠長卿(家光の弟)の乳母。二代将軍秀忠と母のお江は兄の家光より忠長を愛で、次期将軍を忠長に譲ろうとした。が、家光の乳母である春日局は「長序の順を違うべからず」と家康に直訴し、結局三代将軍は家光と決まる。忠長は駿府城主となるも、心穏やか成らず、さらに大阪城主も求めた。ために家光の怒りに触れ領地は没収、高崎城に幽閉され自害に追い込まれる。28歳であった。
忠長死後、忠長夫人のお昌の方は剃髪し松考院となる。乳母のお清も剃髪し、お昌の方より一字をもらい、昌清尼と称する。松考院は忠長の菩提をとむらうにあたり、公儀に配慮し自分にかわり、乳母であるお清・昌清尼に菩提を弔わせた、と。乳母が開基の所以にもドラマがある。

本郷給水所公苑
次はどこ、と考える。すぐ東に本郷給水所公苑があり、そこには神田上水の石樋が残されている。散歩を始めた頃、一時期、用水歩きに「萌えた(燃えた?)」ことがある。玉川上水を羽村から4回に分けて新宿大木戸まで下ったり、神田上水を井の頭から隅田川合流点まで下ったり、三田用水や品川用水、六郷用水跡を辿ったことがある。そんなこともあってか、この公苑脇にある東京都水道歴史館には幾度となく足を運んだ。そのときに公苑の石樋は見てはいるのだが、その記録もおぼろげになってきており、ついでのことなので、ちょっと寄り道。
公苑の隅に石樋が残る。結構大きい。内径は1.5mほどもある。石樋は今で言う大規模幹線水道管。石樋からは少し小さい枝線水道管・木樋を通して地中を進み、枡で分岐し、また、枡から水が汲み上げられた。江戸の昔の井戸は、自然井戸ではなく地中を通る「水道管」の水を汲み上げていた、と言うことだ。葦や芦の生い茂る低湿地、遠浅の入り江を埋め立てた江戸の町では、自然井戸で汲み上げた水は、塩気が強く、とてものこと飲めたものではなかったようだ。

三河稲荷神社
次の目的地は新壱岐坂を越えた先にある三河稲荷神社。三河は徳川の出身地でもあり、なんらかの謂われを期待して進む。これまた小振りのお稲荷さん。謂われは予想通り、三河国稲荷山隣松寺の稲荷社にはじまる。往古、家康が三河の一向一揆に立ち向かうべく隣松寺に陣を張り稲荷社に戦勝を祈願。勝利を得る。江戸入府に際し、稲荷社を吹上の地(現在の吹上御所のあたりだろう、か)に勧請。その後、御弓組がこの地に大縄地を拝領したとき、その鎮守として昌清寺に祀られる。
江戸城の鬼門防備の役割を担った御弓組も鬼門防備の任が上野寛永寺に移ったため、この地を離れ目白台に。跡地は町屋となり、三河稲荷も町屋の鎮守となる。明治になり神仏分離で昌清寺と別れるも、先ほど訪れた本郷給水所が造られる際にこの地に移った。成り行きで訪ねたお寺や公苑が、ぴったりと繋がった。成り行き任せの散歩の妙。ちなみに御弓組は文字通りの弓を操る戦闘部隊。大縄地とは職務を同じくする者に対して土地を一括して与えること。

壱岐坂
お稲荷さんを離れ、ふるさと歴史館に向かう。成り行きで進むと東洋学園脇に壱岐坂の案内。標識には、「壱岐坂は、御弓町へのぼる坂なり。 彦坂壱岐守屋敷ありしゆへの名なりといふ。 按に元和年中(1615~1623) の本郷の図を見るに、此坂の右の方に小笠原壱岐守下屋敷ありて吉祥寺に隣れり。 おそらくは此小笠原よりおこりし名なるべし。御弓町については 「慶長・元和の頃御弓同心組屋敷となる。」、と。
ということは、彦坂壱岐守屋敷と笠原壱岐守下屋敷があったということ、か。彦坂壱岐守は若年寄、大目付、大阪町奉行などを歴任した人物。「死んでも人の惜まぬ物は鼠とらぬ猫と井上河内守。吝い物は金借り浪人と彦坂壱岐守。人に嫌われる物は食いつき犬と仙石丹波守。風向き次第に飛ぶ物は糸の切れた凧と坪内能登守。人をはめる物落し穴と稲生次郎左衛門」などと「吝い」人物として揶揄されている。小笠原壱岐守は九州佐賀県唐津で当時六万石の大名。吉祥寺は現在本駒込に移っているが、当時は水道橋の都立工芸高校あたりにあった。水道橋も吉祥寺橋と呼ばれていた。

大クスノキ
壱岐坂を越えて春日通りへと成り行きで進むと大きなクスノキがあった。樹齢600年とも。これは御弓組の旗本であった甲斐庄喜右衛門の敷地内にあったもの。楠木正成の流れという4000石の旗本は明治に楠氏と改名した、と言う。このような楠が保存されているのが、誠にありがたい。

文京区ふるさと歴史館
春日通りを越えて、やっと本日のスタート地と目したところに着く。館内をぐるり。文京区教育委員会編の『文京のあゆみ』などを買い求めるが、なにより有り難かったのが、受付の方に頂いた「本郷付近の史跡地図」。史跡もさることながら、多くの名のある坂が記されている。三多摩を含め都内には502の坂があり、その内に文京区には115の坂がある、とのこと(『文京のあゆみ』より)。武蔵野台地東端に位置し、河川の開削や湧水による浸食により台地に谷が刻まれ、結果、本郷台地・白山台地・小石川台地・小日向台地・関口台地とその台地を分ける谷との間に数多くの坂道がつくられたのだろう。
少し休憩した後は、この地図を頼りに彷徨うことにする。手始めに歴史館のすぐ北にある炭団坂に向かう。

炭団坂
坂と言っても現在は石段となっている。教育委員会の案内によれば、本郷台地から菊坂の谷へと下る急な坂。名前の由来は、炭団などを商売にする者が多かったとか、切り立った急な坂で転び落ちた者がいた、ということからつけられた。台地の北側の斜面を下る坂のためにじめじめしており、今のように階段や手すりがないころは、特に雨上がりの時など転び落ち泥だらけで炭団のように真っ黒になった、ということ、か。
坂の右側の崖の上に坪内逍遥の旧居跡。明治17年(1884)から20年(1887)まで住んでいた。東大生時代に、家庭教師した親から感謝されプレゼントされた、とか。剛毅なものである。現在はオフィスビルとなっているが、この地で『小説神髄』や『当世書生気質』を著した。その後逍遥は歴史館近くに移ったとのこと。そういえば、歴史館脇にいかにも明治時代の趣を残す美しい屋敷があった。逍遥の屋敷跡ではないとは思うが、記憶に残る建物であった。それはともあれ、逍遥が移った屋敷跡は伊予の松山の元藩主・久松氏の育英事業である「常磐会」の宿舎となり、正岡子規もそこから大学予備門に通った、と。

菊坂
炭団坂を下り、下町の雰囲気を色濃く残す民家の間を抜け菊坂に下る。菊坂は本郷三丁目交差点付近から北西に下り言問通り通じるゆるやかな坂道。かつてはこのあたり一帯で菊の栽培が盛んであったのが、名前の由来。この界隈は多くの文人が居を構えたところ。震災や大戦の災禍から免れたこともあり、昭和の面影を今に伝えている。
菊坂の谷筋は東大下水(ひがしおおげすい)の支流の流路。東大構内(加賀藩上屋敷)の懐徳館の庭園にある池から流れ出し、本郷通りを横切り菊坂の谷を下っていた。永井荷風は「本郷なる本妙寺坂下の溝川」と描いている。この「溝川」は同じく東大農学部(水戸藩中屋敷跡)を水源に西片と本郷の境を下ってきたもうひとつの支流と合わさり、巣鴨駅あたりより白山通りの谷を下ってきた東大下水本流に合流する。東大下水本流はさらに下って小石川(千川・谷端川)に合わさる。
菊坂の一筋東に一段低い小径があるが、これが東大下水の支流跡であろう、か。ちなみに、「下水」とはいっても、現在我々が使う下水とは少しニュアンスが異なる。低地を流れる水路といった意味が近いだろう、か。湧水からの美しい水が流れていたとも伝わる。

文人ゆかりの地
荷風の描く「溝川」に沿って民家の軒先を辿っていると、炭団坂より少し北に宮沢賢治の旧居跡があった。現在はマンションとなっている。「溝川」を少し南に下る。民家の路地を左に折れると樋口一葉の旧居跡がある。あるといっても、昔ながらの民家とコンクリートつくりの民家の間、狭い路地に井戸が残っており、それが目安となっている。数年前ここに来たときは、案内もあったようなのだが、今回は見当たらなかった。訪れる人が多く、取り外したのかとも思う。迷惑にならないよう、早々に退却。

鐙坂
井戸の先に石段があり、その石段を跨ぐ、これまた年期の入った木造建築がある。先に進めるような、進めないような。人が住んでいるような、いないような。意を決して、石段を登る。人の気配がする。お邪魔にならないよう、静かに軒先をかすめ先に進むと鐙坂(あぶみ坂)に出た。坂の形が鐙に似ているとか、鐙をつくる職人がいたとか、由来はあれこれ。坂を少し上り、言語学者である金田一家の屋敷跡の案内あたりで引き返し菊坂に戻る。
今なお井戸の残る民家の軒下を進み菊坂の道筋に。胸突坂の手前に蔵造りの建物がある。伊勢屋と呼ばれるこの質屋は一葉ゆかりの地。金策のため通ったとの案内があった。

本妙寺跡
胸突坂を上る。上りきったあたりに趣のある建物。旅館鳳明館とある。明治の下宿屋をリユースした、とか。登録有形文化財に指定されている建物を見やりながら本郷通り方面に向かって進み、法真寺の手前で右に折れ本妙寺跡に。
本妙寺は振袖火事として知られる明暦の大火の火元とされている。町屋や大名屋敷だけでなく江戸城の天守閣も含め江戸の市街を焼き尽く。なくなった人が3万とも10万とも伝わる。
幕府はこの大火を契機に、江戸の都市改造計画をつくる。大名屋敷や武家屋敷、寺社を江戸の周辺部に移すことになる。大名屋敷に上屋敷だけでなく、中屋敷・下屋敷がつくられたのはこのことがきっかけ、と言う。戦備防衛上、千住大橋しか認めていなかった大川・隅田川に両国橋も掛けられた。火災の避難路を確保するためもあろう。これを契機に大川東岸に深川などの町屋が開かれることになる。
振袖火事と呼ばれる所以は、供養のために燃やした振袖が本妙寺の本堂に引火し、大火のトリガーとなったから、と。もっとも、火元も本妙寺ではなく老中阿部家との説もある。老中の屋敷が火元では如何にも具合が悪かろう、ということで本妙寺が火元身代わりの役を担った、といった説もある。振袖が出火の原因とするお話はいつ頃、だれがつくったのだろう、か。八百屋お七にしても、この振袖を着ていたお嬢さんにしても、寺小姓に恋い焦がれた故の出火・大火事ってプロットは結構近い。ちなみに、本妙寺は先日谷田川(藍染川)の源流へと染井霊園を訪ねたときに偶然出会った。染井の地には明治の末に移ってきた、と。名奉行・遠山金四郎や剣豪千葉周作が眠る。

赤心館跡
本妙寺跡の坂は菊坂に下る。少し逆に戻り、道を折れて菊坂ホテル跡に向かう。多くの文人が止宿した宿も今はなく、碑が残るだけ。菊坂ホテル跡を離れ、長泉寺を抜けて菊坂に下る途中に赤心館跡の案内。石川啄木が金田一京助を頼って上京し下宿した宿。作品は売れず苦しい生活であった、とか。有名な「たはむれに母を背負ひて そのあまり輕きに泣きて 三歩あゆまず」はこの時代に作品。

見返り坂・見送り坂
菊坂に下り、坂を本郷通りへと上る。ゆるやかな坂を上り切った本郷通りのあたりは。往古、見返り坂・見送り坂と呼ばれていた。本郷通りは本郷三丁目から菊坂にかけて微かに下り、菊坂から赤門にむかって微かに上る。この境目に橋があったと、言う。東大下水の支流に架かる橋であったのだろう。
道脇にある案内によれば「むかし太田道灌の領地の境目なりしといひ伝ふ。その頃、追放の者など、此処より放せしと。いずれのころにかありし、此辺にて大きなる石を掘出せり、是なんか別れの橋なりしといひ伝へり。太田道灌の頃罪人など湖の此所よりおひはなせしかば、ここよりおのがままに別るるの橋といへる儀なりや。」、と。江戸を追放される科人がこの橋を渡り見返り、そして親子が見送ったのであろう。

桜木神社
本郷交差点の脇を少し入ったところに本郷薬師。江戸に奇病(マラリア)が流行ったとき、このお薬師さまに祈願して病気が治まった。以来ここの縁日は神楽坂にある善国寺の毘沙門様とともに大いに賑わったようである。その傍に桜木神社。太田道灌が江戸築城に際し、京都の北野天神を勧請し、江戸城内にまつる。将軍秀忠の時、湯島の高台・桜の馬場に移し近隣の産土神として桜木神社と名付けられた、と。その後、綱吉が湯島聖堂をつくるに際し、この地に移る。名前の由来は桜の馬場からとの説と、ご神体が桜で彫られているとの説がある。

かねやす
本郷三丁目の交差点脇に「かねやす」の看板をつけたビルがある。「本郷も かねやすまでは 江戸の内」と呼ばれる「かねやす」の現在である。兼康祐悦という口中医師(今で言う歯医者)、がはじめた乳香散(にゅうこうさん)という歯磨粉を売るお店があった。
「本郷も かねやすまでは 江戸の内」とは、「かねやす」のあたりが江戸の町の境であった、ということだろうが、実際のところ、町奉行の支配は巣鴨辺りまでカバーしていたようで、この辺りが江戸の境と言うわけでもないようだ。世に言われる解釈は、「かねやす」を境にした街並みのコントラストによる、と。大岡越前守が防火のため、江戸の町屋は土蔵造りや瓦屋根を奨励したことにより、土蔵造り・瓦葺きの江戸の街並みと、その先にある中山道沿いの茅葺の家並みの境目が「かねやす」あたりであった、よう。現在の「かねやす」は洋品店となっている。

一葉桜木の宿
「かねやす」を離れ、本通りを東大・赤門方向へ進む。赤門の対面あたりに法真寺。ここも樋口一葉ゆかりの地。この法真寺の東隣に一葉が4歳から9歳まで過ごした、通称「一葉桜木の宿」があった、とか。現在は駐車場となっているあたりだろう。一葉がこの地に住んでいたころは、親の事業も順調であったようであり、恵まれた家庭で過ごしていた、と。『ゆく雲』の中で「腰衣の観音さま、濡れ仏にておはします御肩のあたり、膝のあたり、はらはらと花散りこぼれて、前に供へし樒の枝につもれるもをかしく」と描いているのが当時の法真寺。境内には今も腰衣観世音菩薩像が御座(おわ)します。なお、桜木の宿の由来は「詞がきの歌より」にある、「かりに桜木のやどといはばや、忘れがたき昔の家には いと大きなる その木ありき」から、だろうか。

啄木ゆかりの地・蓋平館別荘
法真寺を離れ、本郷台地を下り、次は小石川台地へと向かうことにする。東大正門あたりから成り行きで本郷通りを右に折れ先に進むと、道の途中に石川啄木ゆかりの宿の案内。蓋平館別荘とのこと。貧窮に喘ぐ啄木を助ける金田一京助の配慮で、赤心館よりここに移った、と。日誌には、「金田一君が来て、今日中に他の下宿へ引越さないかといふ予は、唯、死んだら貴君を守りますと笑談らしく言って、複雑な笑方をした。それが予の唯一の心の表し方であつたのだ!午後九時少し過ぎて、森川町一番地新坂三五九、蓋平館別荘(高木)といふ高等下宿に移つた。家は新らしい三階建、石の門柱をくぐると玄関までは担かな石甃だ。家の造りの立派なことは、東京中の下宿で一番だといふ。三階の北向の部屋に、二人で先づ寝ることにした。成程室は立派なもの。窓を明けると、星の空、遮るものもなく広い。下の谷の様な町からは湧く様な虫の声。肌が寒い程の秋風が天から直ちに入つてくる」とある。

言問通り
蓋平館前の新坂を下り言問通りに出る。本郷通の東大農学部前の交差点から下るこの道筋は東大下水(ひがしおおげすい)の支流の流路でもあったのだろう。言問通りには天空に架かる、というのは少々大げさではあるが、通りを跨ぐ橋・清水橋がある。樋口一葉の日記には「空橋」と描かれている。「空橋のした過る程、若き男の、書生などにやあらん、打むれて、をばしば(らんかん)に依りかかりて()」などとある。農学部あたりを水源とする東大下水の支流が、往時谷底であったこの言問通りを流れていたのだろう。

石坂
言問通りを下り、白山通りの手前にある石坂にちょっと立ち寄り。坂の途中にあった案内によれば、石坂の上の台地一帯、旧中山道まで備後福山藩十一万石阿部家の中屋敷と幕府の御徒組・御先手組の屋敷があった。明治から昭和初期にかけて阿部家自らが宅地開発をし、東大も近いという環境もあり、坪井正五郎、佐藤達次郎、木下杢太郎、夏目漱石、佐々木信綱、和辻哲郎といった多くの学者が住む瀟洒な住宅街となった、とか。戦災からも免れ、明治の趣を伝える街並みが残る、とのことであるが、少々時間がタイトになってきた。坂を上りきったあたりで引き返す。ちなみに、地名の由来はその昔、中山道を挟んで両側に町ができ。街道の東側を東片町、こちら右側を西片と名付けられた、とのことである。

白山通り
言問通りに戻り、白山通りへ。交差点を少し北に行った道脇、洋服のチェーン店の店先に樋口一葉終焉の地があった。この白山通りは東大下水の本流の流路。巣鴨駅付近を水源に、いくつかの支流を合わせ本郷台地と白山台地の間を下り、最後は小石川台地と白山台地の間を下ってきた小石川(千川・谷端川)と合流する、というか、していた、と。今は車が走る通りに川筋の面影を見るのは少々難しい。

小石川・千川筋
白山通りを渡る。通りの一筋西にも大きな通りがある。都道426号線のこの道は小石川(千川・谷端川)の川筋跡。小石川は豊島区要町あたりの粟島神社・弁天池を水源に、池袋の台地を、ぐるりと迂回し板橋そして大塚を経て小石川台地と白山台地の間を南東に下る。台地から平地に出た小石川・千川の川筋は流路を変え、白山通りと平行に下り、最後は白山通りを下ってきた東大下水の流路と合わさり神田川に注ぐ。
いつだったかこの小石川・千川の流路を源流点から辿り、この地の「こんにゃく閻魔」まで歩いたことがある。今回はこんにゃく閻魔をパスし、直接小石川台地に進む。ちなみに千川と呼ばれる所以は、東大下水が千川用水の水により養水されていたことによる。

澤蔵司稲荷
小石川2丁目と3丁目の間にある善光寺坂を上る。坂の途中に善光寺。元は伝通院の塔頭であったものが、明治になり善光寺と名前を変え、信州の善光寺の分院となった。善光寺の上隣に澤蔵司(たくぞうす)稲荷。縁起によれば、十八檀林(全寮制仏教学専門学校、といったもの)として多くの学僧が学ぶ伝通院に澤蔵司と名乗る修行僧が現れる。この学僧、非常に優秀で浄土教の奥義を3年で習得し、ある日「我は太田道灌公が江戸城に勧請した稲荷大明神である。浄土教を学び得たお礼に、今後とも伝通院を守っていこうと思う。ついては我のために祠を建て、稲荷台明神を祀るべし」とのメッセージ残し暁の空に隠れたという。坂道の脇に椋の大木が残るが、これには澤蔵司の魂が宿ると伝えられる。椋の樹のあたりを少し入ったところには幸田露伴が住んでいた。
澤蔵司稲荷のある慈眼院の境内には、松尾芭蕉翁の句碑が建立されている。「一(ひと)しぐれ 礫(つぶて)や降りて 小石川」。礫とは小石のこと。小石(礫)が多い川であったために小石川と呼ばれた。

伝通院
坂を上りきったあたりに伝通院。数年前訪れたときは本堂の改築をしていたように思うのだが、今は美しくできあがっていた。もとは小石川の極楽水に浄土宗第七祖了誉聖冏上人が開いた無量山寿経寺と呼ばれる小さな寺であったが、家康公の生母である於大の方の追善のため菩提寺と定められ、徳川将軍家の庇護のもと大伽藍が整えられた。傳通院殿は於大の方の法名。また、この寺は、関東十八檀林のひとつとして、浄土宗の教学の根本道場と定められ、境内に多くの坊舎(修学僧の宿舎)を有し修行僧が 浄土教の勉学に励んでいた、と。澤蔵司縁起の所以である。境内には千姫も眠る。二代将軍徳川秀忠の娘として7歳の時に豊臣秀頼(11歳)に嫁し、大阪城に入る。大阪夏の陣で豊臣氏が滅亡後播州姫路城主本多忠刻に再嫁。波乱万丈の生涯を過ごした姫君として多くの映画や小説になっている。

安藤坂
伝通院を離れ、春日通りを越え神田川の川筋へと坂を下る。坂の名前は安藤坂。元は結構急な坂道であったようだが、明治に路面電車を通す際に傾斜を緩やかにした。名前の由来は坂の西側に安藤飛騨守(紀州藩支藩・田部藩主)の上屋敷があったから。幕末の長州征伐の時、石州口総督軍の先鋒隊長に紀伊藩兵を率いた安藤飛騨守という人物がいる。長州軍に大敗したようではあるが、安藤坂の安藤飛騨守って、この先鋒隊長と同じであろう、か。
古くは坂の下は入江、江戸の頃も未だ白鳥池と呼ばれる一大湿地であったと言われる。そのため漁をする人が坂の上に網を干し、また御鷹組屋敷の鳥網を干していたので、「網坂」とも呼ばれたようだ。
坂の途中には中島歌子の案内;「塾主中島歌子(弘化元年~明治36年・1844~1903)は、幼名とせといい、日本橋に生まれた。水戸藩士の夫林忠左衛門が天狗党に加わって獄死したため、実家の旅人宿池田家にもどり、桂園派の和歌を加藤千浪に学び、実家の隣に歌塾萩の舎を開いた。御歌所寄人伊藤祐命(すけのぶ)、小出粲(つぶら)の援助で、おもに上、中流層の婦人を教え、門弟1,000余人といわれた。歌集『萩のしづく』(2卷・明治41年刊)などがある。明治36年、歌子の死去と共に萩の舎は廃絶した。樋口一葉(明治5年~明治29年・1872~96)は、父の知人の紹介で萩の舎に入門した。一時(明治23年・18歳)内弟子として、ここに寄宿したこともある。 佐佐木信綱は、姉弟子の田辺竜子(三宅花圃)、伊東夏子と一葉の3人を萩の舎の三才媛と称した。一葉はここで歌作と歌を作るため必要な古典の読解に励んだ。姉弟子の田辺竜子の『藪の鶯』の刊行に刺激されて、近世・近代の小説を読み、半井桃水に師事して、処女作『闇桜』を発表(明治25年)して、小説家の道に進んだ。近くの北野神社(牛天神・春日1-5-2)境内に中島歌子の歌碑がある(文京区教育委員会)。

牛天神
坂を下り牛天神に。牛天神下を流れる神田上水を描いた「江戸名所図会」を見たことがあり、どんなところか一度訪れたいと思っていた。石段を上り崖上に鎮座する天神さまにお参り。牛天神の由来は、その昔源頼朝が奥州征伐の折り、入江に船を漕ぎ寄せこの地で休憩。その時、牛に乗った菅原道真が夢に現れ、「ふたつ願いが叶う」とのお告げがあり、夢から覚めると牛に似た石があった、とか。頼家が誕生したとか、平家鎮定といった願いも叶い、そのお礼にと牛によく似た岩を御神体とし、太宰府天満宮より天神様を勧請した。この由緒のためか、ご神体の岩を撫でると願いが叶うといわれる。
牛天神の縁起はよく聞く話ではあるので、今ひとつインパクトに欠けるのだが、結構フックがかかったのが境内にある太田・高木神社の縁起。現在は芸能の神・天鈿女命(あめのうずめのみこと)と武の神・猿田彦命(さるたひこのみこと)のご夫婦をお祀りしているとのことだが、もともと祭られていたのは貧乏神と言われる黒闇天女。容貌(ようぼう)醜悪で、人に災難を与えるというこの女神、吉祥天の妹で、弁財天の姉。密教では閻魔王(えんまおう)の妃とされる。この貧乏神がある出来事がきっかけで福の神に転じることになる。
話はこういうことだ;小石川に住む貧乏旗本の夢の中にこの貧乏神が現れ、「住み心地がいいので長い間やっかいになったが、このたびよそに移ることにした。ついては、赤飯と油揚げを備えて私を祀れば福徳を授ける」、と。そのお告げを忘れず励行した旗本は、たちまち運が向き、お金持ちになった、とか。以来太田神社は貧乏神を追い出して福の神を呼ぶ神様として信仰を集めた。縁起自体はわかったようでわからないのだが、貧乏神がいた、ということが新鮮な驚きである。八百万の神さまの守備範囲は如何にも、広い。「江戸川をこえ、りうけうばしをわたり、すは町を北に泉松山にのぼり、牛天神のみまへにぬかづく。かたへに一つの石のほこらあり。苔むして戸ぼそなし。白駒がいふ、これ貧ぐう(窮)をまつる、よく人を禍福す。むかし小日向のほとりにすめる人、家の内の貧を逐ふとて、窮鬼のかたちをつくりて、此ところにまつれるなり」と太田南畝こと蜀山人が描いている(『ひぐらしのにき』)。

白鳥橋
安藤坂に戻り、神田川に架かる白鳥橋に。上にもメモしたが、往古東京湾はこのあたりまで入り込んでいた。その名残でもあろうか、江戸の頃も白鳥池と呼ばれる低湿地が一面に広がっていた、と。江戸になっても、このあたりまで汐が上ってきていたようで、関口の大洗に堰を設けたのは、井の頭から引いてきた神田川の真水に汐が交じらないようにとする配慮。白鳥池が完全に埋め立てられたのは明暦の大火の後と伝えられる。白鳥橋のあたりを大曲と呼ぶのは、神田川が大きく曲がっているため。白鳥橋から神田川に沿ってJR飯田橋まで下り、本日の散歩を終える。

三国峠を越えようと思った。上越国境の脊梁部をなす谷川連峰の西部、標高1244mのところにある。この峠には古の昔より、越後と上州を結ぶ峠道が通っていた。峠の名前をとって三国街道と呼ばれる。三国街道は高崎宿で中山道とわかれ、永井の宿から三国峠を越え、湯沢・長岡・出雲崎を経て佐渡に渡る。
古来幾多の人がこの峠を往来した。戦国期の上杉謙信の関東出兵、江戸期の佐渡金山奉行や大名の参勤交代。幕末の戊辰戦争では、その前哨戦とも言われる三国戦争の舞台ともなっている。上越往還の幹線ルートであったこの三国街道・三国峠越えも、昭和6年の上越線の開通、昭和34年の国道17号線の開通により古の役割は既に終えた。今は三国路自然歩道としてハイカーが辿る、のみ。
三国峠・三国峠越えのことを知ったのは、古本屋で見つけた『関東周辺 街道・古道を歩く(山と渓谷社)』の記事。亀井千歩子さんが文を書いている。亀井さんは昨年、信州の塩の道(千国街道・大網峠越え)をしたとき参考にした『塩の道・千国街道物語;亀井千歩子(国書刊行会)』の著者である。誠にいい本であった。で、亀井さんの紹介する街道であれば、行くに莫若(しくはなし)、ということに。
莫若、とは思ってはいたのだが、荻原朔太郎ではないけれど「行きたしと思えども、三国峠はあまりに遠い」。また、交通の便も誠によろしくない。登山口までの最寄りのバスの便を調べたのだが、あまり便数もないようで、しかも途中の猿ヶ京温泉まで。その先はタクシーを利用しなければならない。ということで、1年ほど延び延びになってはいたのだが、猛暑の続くこの夏、締め括りとして上越国境越えもよろしかろうと、ひとり三国峠・三国峠越えに。



本日のルート;猿ヶ京温泉>三国峠新潟側登山口>三国峠・御坂三社神社>三国山>三国峠・御坂三社神社>旧三国街道・三国路自然歩道>宝岩>くぐつが谷>駒返し>長岡藩士の墓>晶子清水>三坂茶屋跡>休憩所・吉田善吉の墓>大般若塚>永井宿>永井宿郷土館>町野九吉の墓>猿沢の下り>吹路(ふくろ)>猿ヶ京温泉

猿ヶ京温泉
日曜日、午前6時前杉並の自宅を出発。お散歩は極力電車であり、バスをというのを基本とはしているのだが、今回は交通の便も悪く、また日帰りということもあり、車を使うことにした。自宅から猿ヶ京温泉まで160キロほど。関越道を進み、月夜野ICで高速を下り、国道17号線を15キロほど進み猿ヶ京温泉に到着。月夜野は平安時代の三十六歌仙のひとり、源順(したごう)がこの地で月を愛で「よき月よのかな」と言ったのが、その由来、とか。これって、先日足柄の山北を歩いた時に出会った、都夫良野の由来をリマインドする。酒匂川を臨む景観が南朝方の都であった吉野に似ており、御醍醐天皇が言われた「おお! 都よ。それ吉野よ!」を「都(みやこ)夫(そ)れ吉野(よしの)」と表記した、とのこと。共に少々出来過ぎ、とは思うのだが、はてさて。
猿ヶ京温泉に入り、タクシー会社を探す。国道脇に新治タクシー(0278-66-0631)。到着は8時半前。事務所の女性に登山口までの配車を依頼。始業前だとは思うのだけれど親切に応対していただき、かつまた会社の駐車場に車を停めさせていただいた。感謝。8時半前に到着した車に乗り登山口に。三国トンネルを抜けたところにある。おおよそ12キロ程度だろう、か。タクシー代は4500円であった。

三国峠登山口;標高1065m_時刻8時40分
トンネルを抜け、新潟側出口のすぐ脇に駐車場。既に数台の車が停まっていた。GarminのGPS専用端末をONにし、タクシーの運転者さんの「脅し」というか、アドバイスに従いクマよけの鈴を取り出し山道に入る。
山道はよく整備されている。さすが、上越国境の往来、五街道に次ぐ主要街道であるよ、なあ、などど、ひとり悦にいっていたのだが、この峠への登り道は昔の三国街道ではなく、昭和34年の三国トンネルの工事の後にできたもの。実際の旧三国街道は三国峠から三国トンネル上をトラバースして国道の東側の山中を1キロほど下り浅貝集落のほうに続いていた、と(現在は登山口から500mほど登ったところで、トンネル工事の時の土砂で埋まり道は途絶えている、とのことである)。
沢に沿って上る。峠との中間点あたりに三国権現御神水があったようだが、残念ながら見逃した。道を横切るささやかな沢を越えてきたのだが、そのどれかひとつあたりではあったのだろう。

三国峠;標高1244m_時刻9時13分
歩きはじめて40分弱、距離にして1.3キロ程度だろうか三国峠についた。標高1244m。鳥居の先に御坂三社神社がある。神社は避難小屋を兼ねていた。神社には上野赤城(かみつけあかぎ)明神、信濃諏訪(しなのすわ)明神、越後弥彦(えちごやひこ)明神と三国の一宮が祀られている。「神社」は明治になり神仏分離令がはじまってからの用語ではあろうから、元々は「三国大明神」とでも呼ばれていたのだろう、か。
御坂三社神社は三国権現とも呼ばれていた。権現は神仏習合(混淆)に基づく神号であり、「仏が衆生救済のために、神という仮(権)の姿で現れる」というもの。「明神」と言う、神道用語ではなく仏教的色彩の強い「権現」をつかうようになったのは、仏に深く帰依し毘沙門天の化身とも称した上杉謙信によるとのことである。永禄3年(1560)、謙信は上杉憲政を奉じて関東に出兵。その際、「御坂三社大明神」に戦勝を祈願し、社名を仏名の「大権現」に変えさせたといわれている。三国峠はこの「三国権現」に由来する。
ところで御坂三社神社の御坂であるが、「みさか」を冠した峠は多い。太宰治の「富士には月見草がよく似合う」で知られる甲斐・駿河国境には御坂峠がある。昨年、信越国境・塩の道を辿ったときは、地蔵峠ルートには三坂峠があった。御坂、三坂、神坂、見坂、美坂、深坂などと表記は様々であるが、もとは「神(かみ)の坂=みさか」とされ、古代において祭司が執り行われたところ、と言う。「峠」は「たむけ=手向け」とも言うし、道中の安全を祈って手向け=神に供えて、いたのだろう。
古来、幾多の人がこの峠を往来した。平安時代には坂上田村麻呂が蝦夷征伐の折り、この峠を越後へと越えたと伝わる。伝承ではなく文献に現れるのは室町時代、文明18年と言うから西暦1486年のこと。道興准后の『廻国雑記』に峠越への記録が残る。密教聖護院派・山伏の門跡として、その組織固めのためでもあろうか、越後からこの峠を越えた。武蔵に入った道興准后は太田道灌との風雅な交流などを重ね、その事跡の地には散歩の折々に出会う。
戦国時代には上杉謙信が登場。この峠を越えること十数回、とも。天文21年(1552)には坂戸城の長尾政景に命じて峠を整備した、と。謙信亡き後、その跡目相続をめぐって勃発した御館の乱では、北条出身の上杉影虎を援護すべく小田原・北条の軍勢がこの峠を越えた。上杉と織田方の争いの時は、織田方の滝川一益との間で三国合戦の舞台ともなった。
江戸の頃には長岡をはじめ村上、与板、黒川、三日市、高田、三根山等の藩主が参勤交代にこの峠を越えた。佐渡金山奉行の往来もあっただろう。良寛さんも出雲崎へと道を急いだだろう。幕末には奥羽列藩同盟と官軍の間で戊辰戦争の前哨戦ともなる戦いの舞台ともなった。名前を挙げれば切りがない。上越往還の幹線として幾多の人がこの峠を越えた。
こうしてにぎわった峠道も明治になると状況は大きく変わる。明治18年の高崎・横川の開通に続き、明治37年には長野から直江津、新潟まで信越線が全線開通する。人や物の流れが大きく変わる。更に昭和6年上越線が開通。昭和34年には国道17号線の三国トンネルが開通。現在三国峠を越えるのは、誰に頼まれたわけでもないのに大汗をかきながら山道を進む、私の如き酔狂な人だけとなっている。
ついでのことながら、上越国境の峠道には、この三国峠のほかに清水峠という名の知れた峠があり、謙信はその峠を利用したとも言う。群馬の水上から谷川岳方面へ分岐し、一の倉沢のあたりから谷川岳の東の脊梁部を抜け新潟県の六日市へと続く。三国峠越えより1日行程が短く、軍事作戦には適していたのだろうか。実際、清水峠から下る尾根道には謙信尾根とも呼ばれる尾根が残る。上にメモした御館の乱のとき、北条勢が越えたのは清水峠とも言われる。江戸の頃は三国峠が主流となり、清水峠は通行禁止となったこともあるようだ。明治にはいると国道として整備されることになった。が、開通直後より積雪による道路崩壊が激しく、結局この国道は廃道、所謂「点線国道」となっている。群馬側にはルートが残るが、新潟側は一部藪こぎをしないことには歩けないようだ。行きたしと思えども、あまりに厳しそう。

三国山;標高1626m_時刻9時55分
ベンチに座り、ちょっと休憩。鳥居越しに三国山が見える。すぐにも上れそう。予定にはなかったのだが、休憩をとった後に三国山に上ってみることにした。道標が無く、神社の周りを探すと南脇の草木の間にそれらしき道筋があった。先に進むと木の階段が整備されている。笹の中を続く木製の階段を上る。階段が延々と続く。通常の山道とリズムが違うのか、それとも炎天下、日を遮るものはなにもない故のことなのか、少々きつい。
上るにつれ、南が開けてくる。国道17号線が眼下に見える。谷間の家並みは法師温泉だろうか。先に進む。気まぐれに三国山へ、などと思ったことを少々後悔しながら、青息吐息。誠にきつい。しばらく進むとお花畑に。時期がよければニッコウキスゲなどが美しいとのことだが、真夏のことでもあり、なにが咲くわけでもない。下を眺めると上ってきた階段が連なる。先に御坂三社神社の鳥居も見える。

そろそろ頂上か、と思ったところは単なるガレ場。ガレ場には少々バランスの悪い、微妙に傾斜した木製の階段が続く。天国への階段とメモする人もいる。北に苗場リゾートが見えてきた。苗場や、「みつまた・かぐら」など、若い頃はスキーに通ったところではある。三国街道はその谷間を通る。谷間を流れる浅貝川、その川が合流する清津川も、三国街道に沿って越後湯沢へと向かい魚津川に合流するのだろう、と思ったのだが、どうも違うようだ、地図をチェックすると清津川は北へと進み、越後田沢で信濃川に合流していた。越後湯沢あたりで平地に顔を出すことなく、山間を延々と流れていくわけだ。
疲れもピークに達する頃、やっと三国山山頂に。標高1626m。9時55分。峠から40分弱かかった。鐘があるも、撞く気力もなし。南は猿ヶ京温泉のほうまで見渡せるが北は草木に遮られ、見通しも効かない。草木はあるものの、木陰もなくゆったり休める雰囲気もない。早々に山頂を撤退する。頂上近くに谷川連峰の平標山へと続くルートがあり、そちらにちょっと廻れば北の山稜が一望とのことであったが、その余裕もなく、今となっては跡の祭りである。ともあれ、跳ぶがごとく、峠まで下った。戯れに、山登りはせず、ということだろう。時刻;10時32分。30分程度で下りてきた。

三国路自然歩道
峠を離れ三国街道、というか三国路自然歩道に入る。峠から尾根筋は少し離れている。尾根に上るのは少々難儀だなあ、などと思っていたのだが、一向に尾根に上る気配がない。どうも山腹を巻いて進むようだ。10時36分。三国トンネル群馬側へ下る分岐点に(標高1274m)。
歩くにつれて所々で沢が道を横切る。山腹を進む以上避けられないことであるが、昔は雨の跡など修復に難儀したことだろう。谷川が広く開けたところで道を横切る沢もあった。沢の水量も多く、鋭く谷間に落ち込んでいる。そこが三国峠で最大の難所と呼ばれた「くぐつが谷」であったのかもしれない。案内があるわけでもないので、推測する、のみ。傀儡とは「操り人」。人を思うままに操る。谷間の妖怪のなせる技とされた。雪崩などで遭難した人が呼びよせたの、か。

長岡藩士の墓;標高1245m_時刻10時47分。
道は上り下りと蛇行をくりかえしながら小さな沢をいくつか渡る。道標が整備されており心強い。道を進むと道脇に石仏。あたりは「駒返し」と呼ばれたようだ。群馬側の永井宿から上ってきた馬が凍結した道で進めず引き返した処とか、上杉謙信が形勢不利と引き返した処とか、由来はあれこれ。現在は緩やかな道筋であり、馬が難儀するような坂道とは思えないが、このあたりにヒノキ峠という難所があった、ということだし、昔はそれなりの急坂ではあったのだろう。
駒返しのすぐ先に長岡藩士を供養する碑が建っていた。長岡藩士の供養、と言うから、てっきり戊辰戦争などでの犠牲者をとむらうものかと思っていたのだが、案に相違して、江戸からの罪人を佐渡に護送中、雪崩に巻き込まれた長岡藩士8名を供養するものであった。元文5年(1740)2月5日、ヒノキ峠近くで雪崩に会い遭難した、と言う。ひょっとして先ほどの道端の石仏は長岡藩士を供養するものであったかもしれない。
しかしながら、ふと考えた。たかが、と言えば不遜ではあろうが、それでも、たかが雪崩の遭難ごときで何故にこれほどまでの供養が必要なのだろう。チェックすると、遭難者捜索に3000名もの村人が動員されている。越後側・浅貝本陣の綿貫家に文書が残る。「旧記控 ご本陣 綿貫作右衛門(元文五年)△二月五日 てうすか谷ニ而雪なてニ而、長岡御家中九人 十日町組蔵又(倉股)者弐人 荷添人足吹路村七之助子ト都合拾弐人 死申候・・・江戸表へ相又五郎助 猿ヶ京彦之丞 飛脚遣シ 新兵衛様(代官池田新兵衛)ならびに民部様(牧野忠周)御屋鋪へ注進仕り候」。遭難の場所はヒノキ峠ではなく、てうすか谷、とある。それはともあれ、藩をあげての大騒動であったようだ。
ちなみに、この雪崩では罪人は難を逃れた、と。ために永井宿では「罪人が助かったのは、お裁きに誤りがあった」と言った噂が流れた、とも伝わる。

法師温泉分岐点;標高1265m。時刻10時51分。
「三国峠1.8km 永井宿6.0km 法師温泉4.0km 国道17号1.3km」の標識のあたりに休憩所。お手洗いも用意されている。ここからは国道17号に出て法師温泉へと下る分岐がある。
分岐を越えゆるやかな上りを進むと沢から落ちるささやかな滝水が道を横切る。猿ヶ京温泉のタクシー会社で頂戴した案内(「三国峠;新治村観光協会発行)には、このあたりに「晶子清水」がある、と言う。昭和6年、与謝野晶子が三国峠へと進んだときに喉を潤した沢水。弘法大師由来の清水って聞いたことがあるが、歌人由来の清水、とは。里から駕籠に揺られた旅のようではあったので、地元にそれなりのインパクトを与えていた、っていうことだろうか。とはいうものの、標識があるわけでもないので、どの沢水が晶子清水かは、よくわからない。

三坂の茶屋跡;標高1262m_時刻午前11時
山側が平らに開けたあたりに案内板。「三坂の茶屋跡」とある。先にメモしたように、三坂も御坂も同じ。坂上田村麻呂の子孫と言われる田村越後守が営んでいた茶屋跡とのころ。この田村越後守は三国権現の神主でもあり、毎日、三国峠の三国権現までお賽銭の回収に歩いた、と。
案内に"三国街道の或る一日"として、「文久三年二月十五日 長岡藩主奥方一行 御人四人 次女中四人 陸尺三十一人 雇方同勢三百人 馬子八十九人など 総計五百七十八人」との記録があった。お供の如何に多いこと、よ。

大般若塚;標高1241m_時刻午前11時37分
「三国峠2.5km 大般若塚1.0km」、そして「三国峠3.0km 大般若塚0.5km」などといった標識を見やりながら歩き大般若塚に到着した。山側の少し開けたところに大般若塚が建つ。さきほど「くぐつが谷」でメモしたように、この山地で遭難し妖怪となった霊を鎮めるために建立した、と言う。塚の対面には屋根のついた休憩所もあり、ここで本日の朝・昼兼用の食事のため10分休憩。大般若塚は三国峠から4キロ弱。永井宿までの中間地点にある。この地は永井宿に下る道、猿ヶ京温泉へと別の尾根筋(治部歩道)を進む道、そして法師温泉へと下る道が交差する山中の三叉路。交通の要衝地でもあるわけで、戊辰戦争ではこの地を舞台に三国戦争と呼ばれる戦端が開かれた。休憩所近くにあった「戊辰戦役戦史」の案内などを参考に大般若塚の戦況をメモする;
大般若塚の戦い
慶応4年4月、会津軍は、西軍の越後進入を阻止すべくこの大般若塚に陣を敷いた。越後小出島の郡奉行町野源之助(主水)を総大将、弟の町野久吉を副大将として藩兵16名、それに郷土兵らを加えた総勢120余名の兵力であった。
一方三国峠に進撃を開始した官軍は東山道総督巡察副使豊永貫一郎、原保太郎の率いる高崎、佐野、吉井の諸藩兵600余名。須川宿に陣を構え、高崎藩兵200名は永井の裏山伝いに、吉井佐野の藩兵180名は法師から、本隊は三国街道を進み大般若塚を目指し進軍。4月24日未明、会津軍を三方から挟撃。不意をつかれた会津軍は、官軍の圧倒的多数に抗しきれず越後小出島まで退いた。
会津軍隊長の弟である町野久吉(17才)少年は、兄の制止を振り切り、蒲生家伝来家重代の名槍をふるい官軍本隊に単身切り込み、阿修羅の如く奮戦。武運つたなく満身に銃弾を身に受け戦死した。久吉は当時17歳。会津の日新館において文武両道を学び質実剛健、特に槍の達人であった、と言う。
久吉の最後の状況は綱淵謙錠『戊辰落日(文春文庫)』に詳しい。また、久吉の兄である町野主水は、「最後の会津武士」と称された希代の人物。戊辰の戦役で図らずも生き長らえた後は、新政府に対して会津の名誉回復・復興につとめた。その姿は中村彰彦氏の小説『その名は町野主水(角川文庫)』に詳しい。
法師温泉への下り坂入口には戊辰戦争で犠牲になった官軍兵士、というか人足であった吉田善吉の墓があった。官軍に徴用されて参戦したのだろう。「戊辰戦役戦史」には吉田善吉を含めて3名の官軍方戦死者の名前が書かれている。どうして吉田善吉だけが葬られているのだろう。他の2名、高崎藩の深井八弥、堀田藩の伊島吉蔵は本国で手厚くほうむられているのだろうか。ついでのことながら、大般若塚での死傷者はこの3名のほか、負傷者3名と言う。死傷者率は極めて低い。殲滅戦とはほど遠い。これが戦いの実情でもあろう、か。

国道17号線に下りる;標高828m。時刻12時44分
大般若塚を離れ、一路永井宿に下る。おおよそ4キロ弱。ひたすらの下りだろう。堀割り、いかにも昔の街道といった趣の坂を下る。「大般若塚2.0km 永井宿1.8km」の標識あたりまで下ると、谷間が右手に見えてくる。
タクシー会社でもらった『三国峠』のパンフレットには、三国山の風を法師谷に返す「風反り茶屋跡」、永井方面の見晴らしがいい「遠見」、荷運びの駄賃の値上げを言い出す「金堀り坂」などといった案内はあるのだが、標識もなく、あれあれ、と言うまもなく山道を下り、国道17号線に出てしまった。
「風反り」は、戊辰戦争のとき、会津方が物見に出張ってきたところ。「金堀り」は、客の懐から金を掘り出す、といったニュアンス、から。その「金堀り坂」は、九十九折の急坂が目安とのことでもあったが、九十九折が連続しており特定などできなかった。また、道はずっと木立に覆われており、見通しのいいところ・遠見があるとは思えなかった。ともあれ、4キロ弱、420mほどの比高差を1時間弱で下りてきた。

永井宿;標高780m_時刻12時51分。
国道17号線を少し下り、すぐ国道を離れ永井宿へ入る。坂道の両側にしっかりとした造りの民家が続く。現在の町並みは万延元年(1860)の火災以降に再建された、とのこと。当然、それ以降、建て替えが進んでいるとは思うが、昔の宿場の雰囲気を今に伝える。
永井の集落は寛治年間(1089~92年)に奥州阿倍家の家臣、長井左門が開いた村と伝わる。戦国時代に入り、上杉謙信が関東侵攻の為、三国峠を開削するとともに次第に重要性を帯びるようになった、とか。
江戸時代に入り三国街道が開削されると宿場が設置され、元禄2年(1689)に米問屋場に指定されるとともに集落は飛躍的に発展した。越後米の取引をここで一手に取り扱った、ということだ。また、三国峠を控えた宿場町だったため、参勤交代の大名、佐渡奉行、新潟奉行といった公用のためだけでなく、多くの人がこの地で宿泊や休息をとった。
坂道を下る。本陣を務めた豪商笛木家住宅は昭和に入り解体され跡地が小公園となっている。与謝野晶子の歌碑をはめ込んだ本陣の石碑が建立されているとのことだが、どこだかよくわからなかった。さらに少し下ると永井郷土資料館。展示資料もさることながら、管理人の女性にお茶やキュウリ、梅の接待を受け山道の疲れを癒した。誠に感謝。「山かげは日暮れはやきに学校のまだ終わらぬか本読む声す」とは若山牧水の句。この郷土館はもともと分校であった、と管理人の女性の言。30分休憩し13時21分出発。

町野九吉の墓;標高768m_時刻13時34分。
ゆったりと休み、再び歩きはじめる。当初は永井宿まで、などとも思っていたのだが、未だ時間も早く、疲れもそれほどでもない。予定を変更して旧三国街道を猿ヶ京温泉まで辿ることにした。郷土館のはす向かいに石碑があり、そこが旧三国街道への分岐。少し里を歩くが、ほどなく林の中に。コンクリートの道には苔がついており、少々滑る。足元に注意を払いながら坂を下り終えたところで沢をわたる。
ささやかな「かじか橋」を渡り坂を上ると国道17号。国道の向こうのトラックステーションを見やりながら、国道に沿った歩道橋を進み、少し巻いた峠に町野九吉の墓があった。上でメモしたように、大般若塚の戦いで、敵陣に切り込み憤死。久吉の首は永井宿の近くに晒される。それを哀れんだ村人が近くの山に葬った、とのこと。「昭和35年6月 町野武馬翁有縁の有志再建也」と。脇面に石井光次郎書とあるが、石井氏は衆議院議長まで勤めた政治家。どういう関係か、と思っていたのだが、『その名は町野主水;中村彰彦(角川文庫)』の中に、町野主水の嫡男である町野武馬の元に佐賀県の陸軍軍人石井賢吉の娘トキ子が嫁いだ、とあった。石井光次郎氏も久留米市の出身である。詳しいことはわからないが、なんとなく話は合ってそう。

吹路
景色はこのあたりから急に里めいてくる。穏やかな里の景観の中、道は農道を進む。地域も永井から吹路に移る。吹路は「ふくろ」と読む。面白い読み方だ。由来をチェックすると、三国峠でメモした道興准后が現れた。道興の書いた紀行文『廻国雑記』に「ふくろうの里」の名前が出てくる;ふくろうといへる里にて。ねざめに思いつづけける。「この里のあるじがほにも名乗るなり深き梢のふくろふの声」、と。
フクロウが我が物顔に鳴く里であったのだろう。「上野郡村誌」にも「梟鳥村ト称ス、後転訛シテ吹路村」と記されている。とはいうものの、ふくろう村=梟鳥村が、「吹路」と転化したプロセスは不明である。江戸の頃は永井宿が三国越えの上州最後の集落であったが、それ以前、17世紀末に永井宿が整備される以前、上州の最終集落は「梟鳥村」であり、ために、上州の袋小路>「袋路」と推測される方もいる(見城さん)
車道をふたつほど交差しながら農道を進む。一つ目の大きな車道は法師温泉へ続く道。ふたつ目の所では道標を見落とし、車道を延々と歩き西川に当たる橋まで進んだ。橋も新しいようで地図には載っていないようだ。橋の袂で引き返し、元の交差箇所で道標を確認、オンコースへ戻る。20分ほどロスしてしまった。
諏訪神社のあたりまで来ると、それなりに民家も現れる。標高706m。時刻14時7分。民家に間の坂を上り一度国道17号線に。ほどなく国道を離れ、再び旧道に戻る。「猿ヶ京温泉2.0km。永井宿2.0 km」といった道標を越えるあたりで吹路の集落を抜け沢道に近づく。

猿沢;標高667m。時刻14時20分。
沢に下るあたりに案内がある。「猿沢の下り」とあり、若山牧水が法師温泉に一泊し、猿ヶ京に戻るときのことが描かれている;「旧三国街道猿沢の下り  十月廿三日 うす闇の残ってゐる午前五時、昨夜の草鞋のまだ湿ってゐるのを穿きしめてその渓間の湯の宿を立ち出でた。峰々の上に冴えてゐる空の光にも土地の高みが感ぜられて、自づと肌寒い。(中略)吹路の急坂にかかった時であった。十二三から廿歳までの間の若い女たちが、三人五人と組を作つて登って来るのに出合った。真先の一人だけが眼明で、あとはみな盲目である。そして、各自に大きな紺の風呂敷包を背負つてゐる。訊けばこれが有名な越後の瞽女(ごぜ)である相だ。収穫前の一寸した農閑期を狙って稼ぎに出て来て、雪の来る少し前に斯うして帰ってゆくのだといふ。「法師泊まりでせうから、これが昨夜だったら三味や唄が聞かれたのでしたがね。」とM君が笑った。それを聞きながら私はフッと或る事を思ひついたが、ひそかに苦笑して黙ってしまった。宿屋で聞かうよりこのまゝこの山路で呼びとめて彼等に唄はせて見たかった。(後略)。この紀行文は大正11年10月23日若山牧水が法師温泉に宿泊した後、猿ヶ京温泉で昼食し、沼田への帰路を綴った「みなかみ紀行」の一節である。昔の風情がそのまま残る旧三国街道猿沢の小径を散策してみて下さい」とあった。
牧水になった気分で山道を下る。なかなか厳しい坂道である。雨など降れば、さぞや難儀したことだろう。下り切ったところで小橋を渡る。標高596m。時刻14時26分。比高差70mといったところ。

耳だれ地蔵;標高623m。時刻14時29分。
坂を上ると、上りきったあたりにお地蔵さまが佇む。耳だれ地蔵とあった。案内をメモ;昔は農山村に特に子供に耳だれが多く痛いので悩まされたという。又耳鳴りのする人も多かった。この地蔵さんも江戸時代の中頃に出来たらしく耳だれで悩む子供や耳鳴りで困る大人はこの地蔵さんにすがるより他にないのでだんだんお参りする人が多くなった。「お願」をかける時には耳を治して下されば「お腕」の蓋の真ん中に穴をあけて紐で通し両端を結びこれをお地蔵さんの首に掛けてあげます。早く直して下さい」とお願いし治るとこのように用意して「おがんしょばたし」をしたと言われています。今でもお地蔵さんはすました顔でこのお椀を首に掛けています(新治村観光協会)」、と。
そういえば子供の頃、耳だれ、洟垂れ、目病みといった子供が多かったのだが、最近はとんと見かけない。栄養がよくなり、衛生がよくなった、ということだろうか。

「旧三国街道猿沢の上り」;標高633m、時刻14時32分。
耳だれ地蔵を越え、沢筋から抜けると再び里にでる。「永井宿2.7km」といった道標があるあたりで旧道は里道と合流。合流点に案内があり、そこには「旧三国街道猿沢の上り」とあった。同じく若山牧水の紀行文。こちらは法師温泉に向かうときの情景であった;「旧三国街道猿沢の上り10月22日。今日もよく晴れてゐた。嬬恋以来、實によく晴れて呉れるのだ。(中略)今日これから行かうとしてゐるのは、沼田から二里ほど上、月夜野橋といふ橋の近くで利根川に落ちて来てゐる赤谷川の源流の方に入って見度いためであった。その殆んどつめになった処に法師温泉はある筈である。(中略)吹路といふ急坂を登り切った頃から日は漸く暮れかけた。風の寒い山腹をひた急ぎに急いでゐると、をりをり路ばたの畑で稗や栗を刈ってゐる人を見た。この邊では斯ういふものしか出来ぬのださうである。従って百姓たちの常食も大概これに限られてゐるといふ。かすかな夕日を受けて咲いてゐる煙草の花も眼についた。 小走りに走って急いだのであったが、終に全く暮れてしまった。 山の中の一Iすぢ路を三人引っ添うて這ふ様にして辿った。そして、峰々の上のタ空に星が輝き、相迫った挟間の奥の闇の深い中に温泉宿の灯影を見出した時は、三人は思はず大きな声を上げたのであった。(後略)この紀行文は大正11年10月22日若山牧水が沼田市鳴瀧屋旅館に宿泊した後、猿ケ京を経、法師温泉までを綴った「みなかみ紀行」の一節である。 昔の風情がそのままに残る旧三国街道猿沢の小径を散策してみて下さい」、と。

いこいの湯;標高618m_時刻14時37分。
合流点を先に進むと民家が増えてくる。ほどなく道脇に「いこいの湯」。永井宿郷土館の管理人の女性に道すがらの共同温泉としてここを教えてもらっていた。時間は14時37分。時。300円を払い、少々熱い湯ではあったが、朝9時過ぎからの汗を流しさっぱりとする。誠に爽快である。一風呂浴びた後はビールならぬ、牛乳で一人乾杯。20分の休憩


民宿通り
しばしの休息の後、15時2分、気分もさわやかに最後の目的地・新治タクシーへと。道すがらいくつものお野仏、地蔵様が佇む。二十三夜講、庚申塚、いぼ地蔵、目病みを治してくれるお薬師さん。「願かけ」のことをこのあたりでは「おがんしょかけ」と呼んでいる。案内によれば、「医療の手だてを持たない当時の民衆は、一刻でも早く病の不安や痛みから逃れようと、猿ヶ京の村人たちがそんな思いを込めて心優しい地蔵や神々を三国街道の傍らにまつり、願かけを行いました。そして願いがかない、また病がなおると、お礼に神々の好物をお供えするのが習わしです。街道のあちこちにこのような野仏が多くみられ、このお地蔵様や神々を訪ねるコースが設定されています(中部北陸自然歩道 環境庁 群馬県 新治村)」、と。二十三夜講は月待ち信仰のひとつ。月待ち信仰の中ではもっともポピュラーなもの。二十三夜の月を共に拝み、悪霊退散を祈るもの。信仰とともに娯楽のひとつでもあったのだろう。

つるべ井戸、旧家と常夜塔、水車、石仏など、宿場の雰囲気を楽しみながら国道17号線に合流。そぐ傍の新治タクシーでお礼を延べ車に乗り込み、三国峠・三国街道散歩を終了し一路家路へと。標高612m。時刻15時19分。全行程6時半卿強といった一日であった。
ついでのことながら、新治タクシーで思い出したしたことだが、猿ヶ京のあたりで随所に新治村と言う地名が登場したが、現在新治村という地名はない。新治村は2005年、利根郡月夜野町、水上町と合併して「みなかみ町」となっている。漢字の水上ではなく「みなかみ」となっているのは、しばしば登場した若山牧水の『みなかみ紀行』から、と言う人もいる。『私は川の水上といふものに不思議な愛着を感ずる癖を持っている。一つの流れに沿って次第にそのつめまで登る。そして峠を越せば其処にまた一つの新しい水源があって小さな瀬を作りながら流れだしている。といふ風な処に出会ふと、胸の苦しくなる様な歓びを覚えるのが常であった』。真偽の程は定かではないが、プロットとしてはなかなか美しい。
猿ヶ京は上杉謙信が「申ヶ今日」と名づけたのが、その名の由来との説もある。温泉が猿ヶ京温泉と呼ばれるようになったのは昭和30年。それ以前は猿ヶ京村の笹の湯温であり、湯島温泉と呼ばれていたようだ。
牧水の『みなかみ紀行』での猿ヶ京の描写がある;読者よ、試みに参謀本部五万分の一の地図「四万」の部を開いて見給え。真黒に見えるまでに山の線の引き重ねられた中にただ一つ他の部落とは遠くかけ離れて温泉の符号の記入せられているのを、少なからぬ困難の末に発見するであろう。それが即ち法師温泉なのだ。更にまた読者よ、その少し手前、沼田の方角に近い処に視線を落して来るならば其処に「猿ヶ京村」という不思議な名の部落のあるのを見るであろう」。この大正11年には「法師温泉」とは呼ばれているが、猿ヶ京は猿ヶ京村と呼ばれている。もうひとつついでのことながら、猿ヶ京のあったもとの地名である「新治」の「はる」は「墾・耕」で「新墾」「新耕」の地、つまり新しく開拓開発されたところを指した古代の地名である。


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