2010年3月アーカイブ

日野は丘陵、台地、低地からなる地形をその特徴とする。市の北端を多摩川、中央部を浅川が流れ、この二つの河川に挟まれた一帯は、数段の河岸段丘からなる日野台地とその最下面の沖積低地が広がり、浅川の南には起伏に富んだ多摩丘陵・七生丘陵が連なる。
日野の低地は先回の散歩で彷徨った。多摩丘陵・七生丘陵も既に歩いた。残るは日野の台地部分を辿ること。「日野っ原」とも呼ばれる日野台地は数段の河岸段丘からなる。日野段丘面、多摩平段丘平面、豊田段丘面、石田段丘面などがそれ。悠久の昔、多摩川が運んだ礫による洲(日野段丘面)ができ、次いで浅川の流れにより多摩平段丘面がつくられ、さらには流路定まらぬ多摩川・浅川の流れにより豊田段丘面、石田段丘面などが出来上がっていたのだろう。
いつだったか甲州街道を車で走ったとき、JR日野駅あたりで低地から坂を上り台地に進み、しばらく台地を走り大和田あたりで再び台地を下り八王子に入ったことがある。道すがらの日野台とか、多摩平とか、豊田、そして石田といった地名がその段丘面の名残であろう、か。

日野台地散歩はJR豊田駅からはじめる。多摩平段丘面を下り、浅川北岸の河岸段丘崖を辿った後、一旦多摩平段丘面上る。その後、台地突端部をJR日野駅あたりへと下り、そこからは多摩川西岸の河岸段丘に沿ってJR八高線・小宮へと進もう、と。崖線に沿った湧水、台地上の西党・日奉氏の館址など時空(歴史+地形)散歩が楽しそうである。



本日のルート;JR豊田駅>清水谷公園>黒川>梵天山古道>日野台地・日野段丘面>JR日野駅>薬王寺>日野宮神社>日野用水>成就院>七ッ塚古墳>神明社>JR八高線・小宮駅

JR豊田駅
豊田駅で下車。駅の近く、崖線に沿って黒川湧水が流れる。先日、日野本陣跡にある観光協会を訪ねたとき、黒川湧水の案内を手に入れ、機会があれば歩いてみたいと思っていたところである。駅は崖面にあり南口は崖下、北口は崖上に出る。南口は豊田段丘面、北口は多摩平段丘面ではなかろう、か。豊田の名前の由来は、文字通り「豊かな地」、から。日野の低地は縦横に巡らされた用水路により実収3000石余あり、多摩の米蔵とも呼ばれる穀倉地帯であった。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)

清水谷公園
駅を離れ、成り行きで崖線へと進み坂を下る。雑木林と池があり、標識に清水谷公園とある。坂道からは谷戸奥の池の上流端には進めない。いかにも湧水池といった雰囲気もあり、谷戸奥に進もうと坂道を戻り、ぐるっと迂回するも、道は池から離れるばかりで、結局谷戸奥に進むことはできなかった。
崖上の道を進み多摩平第六公園脇を道なりに坂道を下る。道の左に黒川防災公園、右には山王下公園。山王下公園にはその昔、日枝神社があったとのことだが、現在では若宮神社に合祀されている。この若宮神社って、JR中央線の東、東豊田陸橋の近くにある若宮神社のことだろう、か。

山王と日枝について;日枝神社は、日吉山王権現が明治の神仏分離令によって改名したもの。「**神社」って呼び方はすべて明治になってからであり、それ以前は「日吉山王権現の社(やしろ)」のように呼ばれていた(『東京の街は骨だらけ』鈴木理生:筑摩文庫)。その日吉山王権現という名称であるが、これって、神+仏+神仏習合の合作といった命名法。日吉は、もともと比叡山(日枝山)にあった山岳信仰の神々のこと。日枝(日吉)の神々がいた、ということ。次いで、伝教大師・最澄が比叡山に天台宗を開いき、法華護持の神祇として山王祠をつくる。山王祠は最澄が留学修行した中国天台山・山王祠を模したもの。ここで、日吉の神々と山王(仏)が合体。権現は仏が神という仮(権)の姿で現れている、という意味。つまりは、仏さまが日吉の神々という仮の姿で現れ、衆生済度するということ。

黒川
黒川防災公園の広場に沿って進む。この公園は下水処理場跡、とか。ぐるっと一周すると四阿(あづまや)が見える。その四阿は湧水池・あずまや池で囲まれる。豊富な水量である。日野台地で涵養された地下水が崖線下から湧き出ているのだろう。横には山葵(わさび)田があった。 黒川はこのあずまや池からはじまる。その昔は多摩平段丘面が湧水によって刻まれた自然の河川であったのだろうが、現在は人工的に整備された小川となり崖線下を進む。崖線一帯に雑木林が広がり、林の中から幾多の湧水が黒川に注がれる。雑木林の中を進む。このあたり一帯の雑木林は黒川清流公園と呼ばれる。1975年には多摩平第六公園、清水谷公園を合わせた六万㎡もある緑地帯は東豊田緑地保全地域に指定され、自然保護が進められている。
「おお池」を過ぎJR中央線が緑地を切り開く手前に「ひょうたん池」がある。清水谷公園からおおよそ1.7キロ程度だろう。黒川の流れはこのひょうたん池の先で中央線に遮られ、排水溝へと吸い込まれてゆくが、地図を見ると中央線の少し東まで暗渠が続き、その先の神明第10緑地脇、日野市役所から下って来るあたりで再び地上に現れている。
ところで「黒川」の由来であるが、はっきりしない。はっきりしないが、『新編武蔵風土記』の豊田村のところに「村内スベテ平地ニシテ。土性ハ黒野土ナリ。田少ク畑多シ。民戸ハ七十五軒。處々ニ散住ス」、といった記述がある。この地ではないが、黒川の由来として「川の水が澄んで川底が黒く見えた、ため」といった記事もある。真偽のほどは定かではないが、黒土の中を流れる澄んだ川、といったところが黒川の由来だろう、か。

梵天山古道
中央線を越えるため国道20号線バイパスに上る。日野跨線橋で中央線を越え神明2交差点で再びバイパスを離れ脇道へ。道脇に「梵天山古道」の案内があった。梵天山って、神明第10緑地の昔の名前、とか。案内によると、「梵天山古道;往時の鎌倉道。八王子のさらに西からこの地をへて鎌倉に進んだ。昭和の初め頃までは稲城往還と呼ばれ、七生から日野台地へ、また稲城や多摩から八王子へ往来する人や荷馬車で賑わっていた。このあたりだけが往時の面影を残している。「ぼんせん坂」とも呼ばれる」、と。『新編武蔵風土記』にも「東西凡八丁。南北モマタ同ジ。土性黒野土ニシテ。水陸ノ田相半セリ。村内ニ一條ノ往還アリ。橘郡稲毛領ノ方ヨリ。郡中八王子宿ヘノ道ナリ」とある。

日野台地・日野段丘面
神明第10緑地をのんびりと進み、神明1丁目交差点あたりで再びバイパスを越え、崖線に沿って台地に向かう。これからは少しの間、日野台地を歩くことになる。
日野台地は明治・大正にかけ、「日野っ原」と呼ばれる雑木が一面に茂る台地であった、とか。明治22年、甲武鉄道が立川と八王子を結んだ頃も集落はほとんどなかったようだ。最大の理由は水が確保できないから、だろう。大正10年には、この「日野っ原」で陸軍大演習が行われたわけで、ことほど左様に人の住まない一帯であったのだろう。
一面に桑畑の広がる日野台地の様子が変わってきたのは昭和11年頃から。豊富な地下水をもとに工場誘致を行い日野五社と呼ばれる、六桜社(コニカミノルタ)、吉田時計店(オリエント時計)、東京自動車工業(日野自動車)、神鋼電機(現在都立日野台高校と市立大坂上中学校となっている)などがこの地に進出した、と。

JR日野駅
日野台地を進み、実践女子短大前交差点を越え神明4丁目交差点を過ぎると「市立新撰組のふるさと歴史館」。残念ながら休館日。先に進み神明3交差点で北に折れ、中央高速をくぐり台地を下りる。さらに進み都道256号線・市役所入口交差点を左に折れJR日野駅に。ここからは再び、崖線につかず離れず多摩川低地を進むことになる。

薬王寺
日野駅前の日野駅北交差点を北に進む。ほどなく水路に。日野用水上堰だろう。水量豊富な流れである。その先、道路右側に薬王寺。昭和50年代の頃までは少々朽ちた感があったと思うのだが、境内は再建され洒落たお寺さまに様変わりしていた。
寺の開基年代は不詳だが、開山は慶長11年(1606年)との記録がある。高幡山金剛寺・高幡不動の末寺、と言うか、高幡不動の住職の隠居寺、とも。江戸時代には御朱印九石五斗の寺として幕府よりの保護を受け、寺の西北にある日野宮権現の別当寺として明治の神仏分離のときまで続いた。
朱印寺とは税の免除された土地を幕府より与えられたお寺さま。将軍の名に朱印を用いたことでこの名がついた。一石は人ひとりが1年間に食べるお米の量。米俵2.5表、150キロ程度。10斗で一石であるから、九石五斗とは9.5人の人が1年間に食べるお米の量で、およそ24俵といったもの。もっとも現代人が1年間に食べる量は65キロ程度というから、22人分となる。

この薬王寺のあたりは、江戸時代に甲州街道が開かれる前の日野の中心地であったところ、と言う。薬王寺の南に日野本郷と呼ばれる村があったとの記録が残るし、日野宮神社周辺の栄町遺跡、薬王寺付近の四ッ谷前遺跡などで遺跡が発掘されており、薬王寺周辺は奈良平安時代から中世にかけて、この辺り一帯の中心地であったのだろう。実際、このお寺さまが再建される前、寺の敷地には小田原北条家臣・竹間加賀入道の館跡の土塁が残っていたとのことである。

日野宮神社
薬王寺の西北に日野宮神社。武蔵七党のひとつ、西党の祖・日奉宗頼の子孫が祖先を祀って日野宮権現を建てたと伝わる。日奉氏は太陽祭祀を司る日奉部に起源を持つ氏族。6世紀の後半、大和朝廷はこの日奉部を全国に配置した。農作物のための順天を願ってのことであろう。日奉部の氏族は、この武蔵国では国衙のある府中西方日野(土淵)に土着し、祭祀集団として存在していたと伝わる。
西党の祖・日奉宗頼は、もとは都にあって藤原氏の一族であった、とか。それが中央の政争に敗れたとか、国司の任を得て下向したとか、あれこれと説があり定かではないが、ともあれこの武蔵国に赴き牧の別当となる。任を終えても都に戻らず、この日野の地に土着していた日奉部の氏族と縁を結び、父系・藤原氏+母系・日奉氏という一族が成立した、と。
日奉氏はこの地域を拠点とし、牧の管理で勢力を広げ、国衙(府中)の西、多摩の西南である「多西郡」を中心に勢力を伸ばした。ために多西ないし西を称するようになったというのが西党の由来である。もっとも、日奉(日祀)の音読みである「ニシ」から、との説もある。

日野用水
日野宮神社を離れ、道なりに多摩川の堤に向かう。途中に用水路。日野用水下堰であろう。日野市内には全長170キロにも及ぶ用水路網が広がる、とメモした。幹線用水だけでも多摩川と浅川の間の低地に8つ、浅川とその支流である程久保川の間に6つの用水路が流れ、多摩の米蔵とも呼ばれた穀倉地帯を支えていた。日野用水もそのひとつであり、最も古い歴史を持つ用水と言われる。
現在日野用水は八王子の北平町の平堰で取水され、日野市の北部を進む。途中で下堰堀と上堰堀に別れ、甲州街道に沿った日野市の中心部を挟むように舌状の沖積地を下り多摩川に注ぐ。取入口を含めて現在の姿になったのは戦後のことではあるが、日野用水の歴史は古く奈良時代まで遡る、とも。室町後期、永禄10年(1567)には、大規模改修工事を行った、との記録が残る。「永禄十年北条陸奥守様より隼人殿罪人をもらゐ、此村之用水を掘せ、茶屋・小屋をひつらゐ百姓之用水を取、東光寺之のみ水二成、大小之百姓末々迄難有可奉存候、当主計殿松を植候を拙者共聞申候(上佐藤家 「挨拶目録」より)」とある。美濃からやってきた上佐藤家の先祖・佐藤隼人が、滝山城主であり後に八王子城主となる北条氏照の力を借りて、罪人を使用しての工事であったようだ。ちなみに上佐藤家とは日野宿で大名が宿泊する本陣が置かれた名主の家柄。ついでに下佐藤家とは脇本陣が置かれた名主の家。もっとも幕末には下佐藤家が本陣となった、とか。

成就院
多摩川の堤に上り、多摩川の流れを眺めながらしばしの休憩の後、日野用水下堰に沿って先に進む。進むにつれて南の河岸段丘が近づいてくる。低地との比高差は20m弱といったところ。用水路を離れ、低地との比高差数メートルといった坂を上ると成就院に。
先ほど辿った日野用水は東光寺用水とも呼ばれる。近くには東光寺団地とか東光寺小学校といった名前が残る。このような地名にのみ名残を残す東光寺とは、この成就院の南にある台地に館を構えた、西党・日奉氏が建てた寺。館の鬼門に薬師堂と共に建てられた、とか。成就院は東光寺の一子院であったが、鎌倉期に日奉氏の凋落にともない東光寺ともども廃寺となる。その後、成就院は16世紀末に再建され、昭和46年には都市計画によって薬師堂を成就院の境内に移築し現在に至る。薬師堂は安産薬師として知られる。




七ッ塚古墳
成就院を離れ日奉氏の館があった伝わる台地へと向かう。道の途中に日野用水上堰にあたる。水路に沿った水車堀公園などを見やりながら台地へと取り付く。坂道をショートカットして段丘崖を直登といった案配。緑豊かな一帯は東光寺緑地と呼ばれ緑地保護地域となっている。
館跡の痕跡を求めて台地上を崖線に沿って彷徨う。これといった痕跡なし。成り行きで進み栄町5丁目交差点から上って来る坂道、たぶんこの坂道って「東光寺大坂」と呼ばれた坂道なのだろうが、その坂道が台地に上りきったあたりを西に進むと広場に出る。地図らしきものをチェックに向かうと「七ッ塚古墳群」の案内。シートで覆われ如何にも発掘作業中といった状況ではあったが、この古墳群は8世紀頃のもの。横穴式石室からは埴輪とか勾玉が発掘されている、と。古くから開けたこのあたりに日奉氏の館があったとの説もある。

神明社
七ッ塚古墳から谷地川方向へむかう。緩やかな坂の途中には埴輪公園などといった公園もあり、いかにも古代より開けた一帯といった感がある。先に進むと崖にあたり、下には谷地川が流れる。崖上から小宮の街並みを眺めながら崖線に沿って台地北端に向かう。北に多摩川を臨み武蔵野が一望のもと。西には谷地川を隔て加住丘陵の遥かかなたには秩父・奥多摩の山容が連なる。誠に見晴らしのいい台地である。日奉氏の館跡の特定はできなかったのだが、このあたりであったのだろう、ということで矛を収める。
崖線間際からの多摩川を眺めようと崖端に進むと社があった。崖面を少し下ると神明社とある。日奉氏の子孫が伊勢神宮を勧請したとの説もある。神明社の祭神って、天照=日神、であろうから太陽祭祀を司る日奉氏が勧請したとするのは、それなりに納得感が高い。




JR八高線・小宮駅
社にお参りし、崖線を南に戻り谷地川に下りる。谷地川は秋川南岸の秋川丘陵・川口丘陵からの水を集め、上戸吹から北の加住丘陵、南の犬目・矢野丘陵に挟まれた低地を、滝山街道に沿って下る。日野に入ると日野台地の北側をかすめる様に東流し、JR中央線の鉄橋付近で多摩川に注ぐ。谷地とは湿地の意味。内陸部の山間や丘陵地等の沼などの湿
地が多いところを谷地と呼ぶことが多い。現在は護岸工事がなされ湿地の名残はこれといって見ることもできないが、ともあれ谷地川を渡りJR八高線・小宮駅に向かい、本日の散歩を終える。
先日、百草園から高幡不動や平山城址など多摩丘陵を辿った。丘陵からは浅川・多摩川によって発達した沖積低地、その先に河岸段丘と台地などが見える。丘陵、台地、平地、これが日野の地形の特長、とか。丘陵散歩は終わった、次は沖積低地をさまよい、さらには日野台地を歩こう、と。今回は低地編。高幡不動からはじめ、浅川・多摩川沿いの沖積低地を歩こうと思う。 




本日のルート;京王線・高幡不動駅>若宮愛宕神社>向島用水親水路>石田寺>八幡大神社>安養寺>万願寺の一里塚>源平島>万願寺の渡し>都道256号線>日野本陣跡>問屋場・高札場跡>普門寺>大昌寺>八坂神社>宝泉寺

京王線・高幡不動駅
北口に下り浅川へと向かう。駅のすぐ北に水路がある。場所から言えば、高幡用水だろう。浅川と程久保川を繋いでいる。浅川の南には、この高幡用水のほか、西から平山
用水、南平用水、向島用水、落川用水、そして一宮用水と並ぶ。大雑把に言えば、それぞれの用水は浅川から取水し浅川に流す、浅川から取水し程久保川に流す、程久保川から取水し浅川に流すといった水路網となっている。ついでのことながら、浅川の北には多摩川から取水し多摩川へ流す用水、それと湧水を水源として浅川に流す水路網が残っているようだ。ことほど左様に、日野には全長180キロとも言われる用水網がある。

若宮愛宕神社
水路を越えるとすぐ若宮愛宕神社。いかにもあっさりとしたお宮さま。創建の年代は不詳だが、縁起が残る。若い旅の僧が高幡不動金剛寺を訪れ、不動明王に脇士がいないのは残念と二童子を彫りあげる。別れを告げる僧を見送りに集まる村人の前で、その旅僧は忽然と姿を消す。村人は旅僧を神仏の化身と崇め、その地に祠を祀り別旅(わかたび)明神と名付ける。その祠が若宮神社の前身であり、その後、高幡不動裏の丘陵地にあった愛宕神社を合祀し現在の若宮愛宕神社となった。

向島用水親水路
若宮愛宕神社を北に、潤徳小学校脇を過ぎると再び水路。向島用水と呼ばれ、浅川から取水し程久保川に流す。高度成長期には、コンクリート護岸の排水路・ゴミ捨て場と化していた水路であるが、現在では土で固めた護岸に戻され向島用水親水路として美しく整備されている。潤徳小学校には水路を引き入れつくったビオトープがある、とか。ビオトープはドイツ語。もとはギリシャ語のビオ(「命」)+トポス(「場所」)から。生物が棲みやすい環境に変えた場所、と言ったところか。









石田寺
浅川に出る。少し堤を進み「ふれあい橋」を渡り浅川北岸に。浅川に沿って東に進む。多摩都市モノレールが走る新井橋を越え、日野高校の手前を北に抜け石田寺に。このお寺様には新撰組の土方歳三のお墓がある。お墓があるといっても、ここに眠るというわけではなく、このお寺は土方一族の墓所であり、墓碑といったもの。明治100年を記念して土方家が建立した土方歳三顕彰碑が榧(カヤ)の大木の木陰にあった。
石田寺の東隣に浅川水再生センターがある。土方歳三の実家は、この下水処理場の北のはずれにあったと言うが、度重なる多摩川の氾濫のため屋敷は500m程西に移った。それはそれとして、多摩川と浅川の合流点の三角州にあった土方歳三の実家の家業は散薬つくり。浅川の土手に茂る「牛革草」という野草をもとに打ち身薬をつくった。新撰組も打ち身治療の常備薬として使った、とも伝わる。熱燗と一緒に服用といったなんともユニークな薬であったようだが、昭和23年に成立した新薬事法では認可されず製造は終わった、とか。

石田寺を離れ土方歳三の実家に向かう。なるほど、道すがらの家には「土方」姓が多い。成り行きで進み土方歳三の実家に。古本屋で買った書籍(昭和49年刊)には藁葺きの古民家といった写真が掲載されていたのだが、平成の今では美しく建て替えられていた。




八幡大神社
多摩都市モノレールの万願寺駅を経て国道20号線・日野バイパスに沿って西に進む。万願寺は寺跡も寺歴もなにもわかっていない。文政11年(1828年)に著された『新編武蔵風土記』にも「万願寺ノ名ハ古キモノニモイマタ所見ナシ」とあり、当時から既に万願寺の所在が不明であったようだ。
バイパスの一筋北に八幡大神社がある。一帯は万願寺中央公園の東端といった処。鬱蒼とした鎮守の杜と言うよりは、至極あっさりとした広がりをもつ境内。昭和24年、境内神木を伐採し拝殿を新築したとの記録が残るが、そのこととも関係あるのだろうか。
創建の年代は不詳ではあるが、14世紀の前半、武蔵七党の西党・田村駄二郎が男山八幡を勧請した、と。境内の南、道路に面して宝篋印塔と六基の庚申塔が並ぶ。宝篋印塔など多摩地方にはそれほど多く残るわけではないのだが、四本のパイプでガードされただけであり、少々寂しそう。宝篋印塔は墓塔・供養塔などに使われる仏塔の一種である。




安養寺
八幡大神社の横の道を進むと安養寺に。西党・田村氏の館跡と伝わる。西党は日奉(日祀)氏とも称する。日奉(日祀;ひまつり)は音読みすれば「にし」ともなる。西(日奉)宗頼をその祖とし、日野・八王子の周辺地域に形成された地方武士団。武蔵守として武蔵国府に下向した宗頼は、任期満ちても都に戻らず日野市東光寺あたりに土着。鎌倉期に多摩川・浅川・秋川流域の氏族を広げる。由井氏、平山氏、川口氏、立川氏、そしてこの田村氏である。延喜式に挙げられた勅使牧のひとつである石田牧はこのあたりとする説もある。
この地は田村氏の後裔・田村安栖の在所でもある。田村安栖は、小田原合戦で敗れた北条氏政・氏照の切腹の場として小田原の屋敷を当てる。京都三条戻り橋に晒されたふたりの首級を、秀吉に懇願し引き取り荼毘に付し、小田原と八王子に埋葬した。






万願寺の一里塚
安養寺を離れ、万願寺の一里塚に向かう。万願寺中央公園の北端に水路。上田用水だろう。道なりに北に進み多摩都市モノレールが中央高速に交差する少し手前に万願寺の一里塚。 案内文によると、「江戸時代初期の甲州街道は、現在の国立市青柳あたりから多摩川を渡り、市内源平島に通じ、万願寺を経て日野宿に入った。この一里塚は日本橋から9里目のもので、慶長年間甲州街道が開かれた折につくられたものと伝えられる。径7~8m、高さ3m、塚上には榎が植えられていた」、と。
一里塚は江戸五街道整備のとき、旅人の行路の目安として一里毎に小塚を造り榎の木を植えた。万願寺の一里塚は大久保長安の監督のもと築かれた、との記録がある。通常道の両側にあるのだけれど、この一里塚は南側の一基のみ残る。その塚は一昔前まで塚は雑木に覆われていたようだが、平成15年頃から雑木は取り払われ公園風に整備されている。北にあった塚は昭和43年に取り壊され住宅地となっている。



源平島
一里塚から少し南に戻り多摩都市モノレールの道筋から離れ、都道503号へと折れる。北に進むとほどなく水路。日野用水上堰だろう。先に進むと中央高速手前に公園がある。何気なく見ると「源平島西公園」とある。少し東には「源平島東公園」もある。ということは、このあたりが先程の一里塚にあった「源平島」であったのだろう、か。





万願寺の渡し
中央高速をくぐり高速道路に沿って道なりに進むと多摩川にあたる。土手に「万願寺の渡し」の案内。取り立てて何があるわけではない。多摩川を眺める、のみ。万願寺の渡しは、対岸の国立市青柳とこの地を結ぶ。当初の甲州道中の道筋は六社宮(現大国魂神社)がある府中宿で鎌倉道から分かれ、多摩川沿いの低地を分倍河原、本宿、四谷に進み、「石田の渡し」で多摩川を渡り、石田村から「万願寺の一里塚」を経て日野宿に進んだ。しかし、この道筋は多摩川の氾濫などで不安定でもあり、多摩川の低地を避け崖線を進み、国立市の青柳からこの「万願寺の渡し」で多摩川を渡る道筋に変更された。
この「万願寺の渡し」ルートも17世紀後半になると、少し上流にある「日野の渡し」に変更される。それ以降公道は「日野の渡し」となり、「万願寺の渡し」は地元の人たちのための生活道となった、とか。将棋に「王手は日野の万願寺」というセリフがある。江戸防衛の戦略拠点としての日野・多摩川の重要性を示す言葉でもある。

都道256号線
土手でしばしの憩いの後、日野宿に向かう。多摩都市モノレールの道筋まで戻り、成り行きながらも、江戸初期の甲州道中をイメージしながら進む。大雑把に言って甲州道中は万願寺の一里塚からほぼ一直線に都道256号線の日野警察前に進む。道筋にはお寺もあっただろうと、万福寺脇まで進むも、なんらかの名残も見あたらず。中央高速をくぐり再び日野用水上堰を越え、江戸道の道筋であろう通りを日野警察前交差点に進む。新奥多摩街道とのT字路を越え川崎街道入口T字路へ。T字路の西に日野本陣跡がある。

日野本陣跡
本陣跡に入る。奥まで進むと日野観光案内所があり地図や案内パンフレットなどが揃っている。七生丘陵を歩いた時、日野市郷土資料館を訪ねたことがあるのだが、そこではお散歩関連資料が手に入らなかっただけに、誠に有り難かった。
本陣跡は幕末当時の名主屋敷を今に残す造り、という。入り口には明治天皇ご休憩の記念碑があった。幕末の当主は佐藤彦五郎。天然理心流の剣技に優れ、同門の近藤勇とも親交があった。また、土方歳三の姉と縁を結ぶなど、後の新撰組との結びつきも強く、鳥羽伏見で敗れた後、ふたたび兵を挙げ甲陽鎮撫隊として甲州に向かう
新撰組を援助。自らも義勇軍・春日隊を率いて進軍するも、甲陽鎮撫隊は既に勝沼の戦いにおいて官軍に敗れ去った後。彦五郎は出兵を咎められ一時身を隠すも、有志の懇願により後に公職に復帰。初代の南多摩郡長となる。
明治天皇がこの地に訪れたのは明治14年2月。八王子御殿峠での兎狩りを楽しみ、あまりの愉快さ故に、予定を変更し、翌日も雪の蓮光寺の丘(聖蹟桜ヶ丘近く)での兎狩りを思し召す。その道すがら、休憩のために立ち寄ったのがこの屋敷であった。お酒の好きな明治天皇のため地酒でもてなした、と。
おもてなし、と言えば、太田直次郎こと蜀山人・太田南畝との交流が面白い。幕府のお役人太田直次郎は玉川通普請掛勘定方として、玉川(多摩川)巡検のためしばしば当
地を訪れ、佐藤家に止宿。当時の佐藤家当主であった彦右衛門が、取り寄せた信州のそばを手打ちでもてなした。太田直次郎はその味に感激し表したのが、世に伝わる「そばの文」である。 蕎麦の文:それ蕎麦はもと麦の類にはあらねど食料にあつる故に麦と名つくる事加古川ならぬ本草綱目にみえたり、されど手打のめでたきは天河屋が手なみをみせし事忠臣蔵に詳なり、もろこしにては一名を鳥麦といひ、そばきりを河濡麺といふ事は河濡津の名物なりと方便の説をつたふ、(中略)ことし日野の本郷に来りてはじめて蕎麦の妙をしれり、しなのなる粉を引抜の玉川の手づ
くり手打よく素麺の滝のいと長く、李白か髪の三千丈もこれにはすぎじと覚ゆ、これなん小山田の関取ならねど日野の日の下開山といふべし そばのこのから天竺はいざしらず  これ日のもとの日野の本郷 」 

問屋場・高札場跡
本陣跡から道を隔てて日野図書館がある。ここはもと日野宿の問屋場・高札場のあったところ。問屋場は宿の公用業務管理センターと言ったもの。公用の旅人のため人馬を取り継ぐ業務と、同じく公用の書類や品物を次の宿に届ける飛脚業務を行った。高札場は公用文を掲げておくところ。

普門寺
日野図書館脇を北に入る。ほどなく普門寺に。創建は室町初期。元は日野本宿(日野駅の東方)に牛頭天王社ともにあり、牛頭天王の本地仏である薬師如来を祀る神仏習合の寺であった。室町末期には普門寺、牛頭天王(現在の八坂神社)はともに現在の地に移るも、明治の神仏分離の時まで牛頭天王の別当寺として続いた。
普門寺に観音堂がある。元は下河原西明寺の閻魔堂であったものを明治にこの地に移した。旧本堂でもあったこの観音堂は小ぶりではあるが誠に流麗。散歩で多くにお堂を訪ねたが、その中でも印象に残るお堂である。現在は誠につつましやかな境内ではあるが、明治の初期は850坪もあった、と言う。その境内では、本陣の名主・佐藤彦五郎が代官・江川太郎左衛門の下知のもと組織した日野農兵隊が洋式軍事調練に励んだ。





大昌寺
都道256号線に戻り、西へと進み成り行きで南へ下ると日野用水下堰にあたる。用水を越えると大昌寺に。江戸開幕期、八王子の名刹・大善寺(関東十八壇林のひとつ;壇林とは僧侶の教育機関)の高僧の隠居所として開かれた。開設間もない日野宿に人々の懇請に応じてのことであろう。この寺は名主・佐藤家の菩提寺。ゆったりとした品のあるお寺さまである。

八坂神社
大昌寺を離れ、用水に沿って西に進むと八坂神社。通称「天王さま」。木々は切り払われ、社は結構現代的な建築様式でつくられている。歴史は古い。普門寺のところでメモしたように、創建は室町初期。牛頭天王と呼ばれた。縁起によれば、近くの土淵の地で洪水の後、淵に光り輝く牛頭天王の神像を見つけ、その像を祀ったのが社の起源、と。祭神は素戔嗚尊。
牛頭天王が八坂神社となったのは明治の神仏分離令以降。本家本元・京都の「天王さま」・「祇園さん」が八坂神社に改名したため、全国3,000とも言われる末社が右へ倣え、ということになったのだろう。八坂という名前にしたのは、京都の「天王さま」・「祇園さん」のある地が、八坂の郷、といわれていたから。ちなみに、明治に八坂と名前を変えた最大の理由は、「(牛頭)天王」という音・読みが「天皇」と同一視され、少々の 不敬にあたる、といった自主規制の結果、とも言われている。
で、なにゆえ「天王さま」・「祇園さん」と呼ばれていたか、ということだが、この八坂の郷に移り住んだ新羅からの渡来人・八坂の造(みやつこ)が信仰していたのが仏教の守護神でもある「牛頭天王」であったから。また、この「牛頭天王さま」 は祇園精舎のガードマンでもあったので、「祇園さん」とも呼ばれるようになった。
上に、御祭神は素戔嗚尊とイナダヒメノミコトと書いた。これは神仏習合の結果、牛頭天王=素戔嗚尊、と同一視していた、ため。牛頭天王の父母は、道教の神であるトウオウフ(東王父) と セイオウボ(西王母)とも見なされたため、牛頭天王はのちには道教において冥界を司る最高神・タイザンフクン(泰山府君)とも同体視される。また、さらにタイザンオウ(泰山王)(えんま) とも同体視されるに至った。泰山府君の本地仏は地蔵菩薩ではあるが、泰山王・閻魔様の本地仏は薬師如来であり、素戔嗚尊の本地仏も薬師如来。ということで、牛頭天王=素戔嗚尊、という神仏習合関係が出来上がったのだろう。閻魔様=冥界=黄泉の国といえは素戔嗚尊、といったアナロジーもあったのだろう、か。
また、素戔嗚尊は、新羅の曽尸茂利(ソシモリ)という地に居たとする所伝も『日本書紀』に記されている。「ソシモリ」は「ソシマリ」「ソモリ」ともいう韓国語。牛頭または牛首を意味する。素戔嗚尊と新羅との繋がりを意味するのか、素戔嗚尊と牛頭天王とのつながりを強めるためのものなのかよくわからない。が、 素戔嗚尊と牛頭天王はどうあろうと同一視しておこうと、ということなのであろう。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)

宝泉寺
六脚ひのき造りの山門をくぐり境内に。本堂は平成13年に新築落成。境内もきれいに整備されている。この寺には新撰組六番組隊長・副長助勤の井上源三郎が眠る。日野宿名主・佐藤彦五郎に天然理心流を紹介したのは源三郎の兄・松五郎と言われる。客殿の南には、裏山を借景にした庭園がある。
日野の低地散歩はこれでお終い。JR 日野駅に戻り、家路へと。次回は河岸段丘と台地を歩く。 日野は飛火野(烽火;のろし)から興ったとの説がある、奈良時代の和同3年、飛火野を嘉字に改めるべしとの勅宣によって「日野」となった、と。また、西党の祖である日奉宗頼が日野宮権現を勧請したのが由来との説もある。日野中納言次朝ゆかりの者がこの地に来住したことに関連づける説もある。またまた、日当たりのいい土地といった地形からの命名、との説も。誠にもって地名の由来は諸説ありて、定まることなし。 
八王子散歩もこれで五回目。よくもまあ、とは思えども、それでも取りこぼしの処がある。それも、八王子と言えば、といった処。もっとも八王子を歩きはじめる前には預かり知らなかったところもあるが、それはそれとして、山田の広園寺、小門の大久保長安の屋敷跡、元横山の八幡八雲神社、恩方の由比氏館跡などがそれである。事前準備なし、成り行き任せの散歩が基本ではあるので、結構「後の祭り」ってことが多いのだが、それにしても一度訪れないことには八王子散歩としては少々収まりが良くない。ということで、「八王子ほぼ締めくくり散歩」に出かけることに。



本日のルート;京王山田駅>広園寺>郷土資料館>天神社>念仏院・時の鐘>法蓮寺>本立寺>観音寺>八幡八雲神社>金剛院>産千代稲荷神社>追分町>日吉町(バス)>宝生寺団地入口>宝生寺>日枝神社>諏訪神社>京王八王子駅

京王線・山田駅
散歩のスタートは山田の広園寺から。最寄りの駅である京王線・山田駅に向かう。駅を下り都道506号線を北に向かうと、道は緩やかに山田川の谷筋へと下りてゆく。川の北には散田の小高い丘陵。川筋は細長く東西に延びる谷戸となっている。山田川はこの谷戸奥を上流端とし、東へと下り多摩川へと合流する。
散田って、読みは「さんだ」だとは思うのだが、通常、散田(さんでん)って、平安期の荒廃した田、とか、近世において逃散などにより耕作する農民のいなくなった田地との意味、そしてその他に、荘園領主の直属の田地といった意味ある。往古、天皇直轄地である屯倉であった多摩一帯は、平安期には舟木田庄と呼ばれる藤原氏の庄園となる。鎌倉期には頼朝によりその地は関白・九条家に寄進。さらに九条家は係累の一条家にも譲り、両家が相伝してきたが、鎌倉以降になって両家はこの地を京都の東福寺に寄進した、と言う。この地の散田って、これら庄園に関わる地名であろう、か。単なる妄想。根拠なし。


広園寺
月見橋を渡り、広園寺交差点を西に折れ広園寺に。風格のあるお寺さま。臨済宗南禅寺派。杉木立の境内には総門、山門、仏殿が並び、その脇には鐘楼が建つ。往古14万坪以上の境内に開山堂、仏殿、方丈、総門、山門、鐘楼など幾多の堂宇が結構をきわめた頃には、比ぶべくもないのだが、それでもの「結構」ではある。
寺の開基は南北朝末期というから14世紀末。片倉城主長井大膳大夫満道広とも、大江備中守師親とも。長井氏は大江広元の次男時広が頼朝の奥州征伐に従い、出羽国長井庄を領し、ために長井氏を名乗ったことからはじまる。つまるところ、どちらにしても大江広元の後裔である。
大江広元って、鎌倉開幕期の重臣。平安末期より、この地域一帯に覇を唱えた武蔵七党・横山党に代わり、この地を領した。きっかけは和田義盛の乱。横山党は和田方に与力し北条氏との抗争に敗れる。横山党の領地は、北条勝利に大きく貢献した大江広元に与えられた。
この古刹は天正の小田原征伐の別働隊である上杉景勝、前田利家軍による八王子城合戦の折、堂宇悉く灰燼に帰した。現在の建物は慶長年間、浅野行長により再興された。寺域には大江氏の館址も残る、とか。

富士森公園
道を広園寺交差点まで戻り、都道506号線を北に向かう。山田川の川筋を見下ろしながら丘陵の坂道を上る。上りきったあたりに富士森公園。今風ではない、土っぽい、なんとなく素朴な感じの公園。開園が明治29年と言うことで、それなりの風雪のなせるワザか、とも。
公園内の浅間神社にお参り。裏手に富士塚がある。富士山に行くことができない人が、代わりに参拝したもの。散歩の折々に富士塚に出会うが、葛飾区南水元の富士神社、狭山丘陵・荒幡の富士塚、川口・木曽呂の富士塚などが記憶に残る。
公園から八王子の街並みを眺める。地名が台町というだけあって、結構なる高み。市街地との比高差は30m強、といったところ。坂を下り都道506号線を上野町に進む。市民会館交差点を左に折れると郷土資料館。

郷土資料館
市民会館の前、お役所の建物、と言うか、学校のような建物の中にある。1967年(昭和42年)の開館であり、多摩地方で最も古い郷土資料館である。館内には中央高速の建設時に発掘した出土品などが展示をされている。川口兵庫助の発願により写経された「大般若経」もある。室町期に活躍した兵庫助には先日の川口川散歩のとき、鳥栖観音堂で出会った。
館内には八王子大空襲の展示も。1945年(昭和20年)の8月2日、180機の爆撃機により投下された焼夷弾は67万個に及んだ、と言う。事前の爆撃予告があったとはいえ、市街の80%近くが壊滅したという大規模爆撃であった。

八王子「時の鐘」
郷土資料館を離れ、都道506号線を少し北の金剛院交差点に。左手の金剛院は後回しとし、道の向こうにある天神社、そしてすぐ横にある念仏院・時の鐘を訪ねる。天満神社はいたってあっさりした祠。「時の鐘」は元禄12年(1699年)の鋳造。八日市宿名主である新野某の発願で、八王千人道頭や同心、それに八王子15宿や近郷の人の協力により寄進された。
八日市宿は横山宿、八幡宿とともに滝山城下にあった三宿のひとつ。北条氏が城を八王子城に移すに際し八王子城下に、さらに、江戸開幕期に三宿そろってこの地に移った。

法蓮寺
ここからはしばらく千人隊ゆかりの寺を訪ねる。八王子千人隊は八王子千人頭を筆頭に、10名の同心組頭に率いられた各百人の同心よりなる。設立時は江戸の西の防御のためのものであったが、太平の世になると日光東照宮の火防・警護をする日光勤番がその主任務となった。
最初に訪れたのは法蓮寺。天満神社の南の道を少し東に進んだところにある。八王子千人隊組頭である並木以寧が眠る。19世紀中頃・天保の飢饉の頃、医をもって病者を救い、貧者に救いの手を差しのべた。幕末の社会事業家として知られる。

本立寺
法蓮寺の隣に本立寺。千人頭・原氏の開基。境内に眠る原半左衛門胤敦は、寛政11年(1799年)蝦夷開拓願いを幕府に提出。翌年100名の千人同心子弟を率い蝦夷に渡るも、幕府の政策転換により、文化5年(1808年)、志半ばにして江戸に戻ることになる。『新編武蔵風土記稿』の「多摩郡」編纂者としても知られる。

観音寺
本立寺の少し南に観音寺。石段を上がったところにある山門は千人隊頭・中村左京の屋敷門を移築したもの。行基作とも伝えられ「峰の薬師」と称される秘仏をもつ、とも。
観音寺からは千人隊ゆかりの地から少し離れ、武蔵七党・横山党ゆかりの地である八幡八雲神社に向かう。東京環状16号線を北に、JR.中央線を越え国道20号線に。そこから北に二筋上がった少し東に八幡八雲神社がある。

八幡八雲神社
この神社は八幡神社と八雲神社とを合祀したもの。八幡神社は武蔵守・小野隆泰が都の石清水八幡を勧請したもの。その後、隆泰の長子である義孝が武蔵権守となり、この横山の地に館を構え横山氏と称した。武蔵七党の一つである横山党の始まりである。ために、この地が横山党根拠地の地とされる。
横山氏は鎌倉の御家人として活躍するも、建暦3年(1212年)の和田合戦で和田義盛に与し北条に敗れ、その勢を失った。境内にある横山神社は大江広元が義孝の霊を鎮めたもの。広園寺でメモしたように、広元は和田合戦において北条勝利に貢献し、横山氏の領地を有した。 八雲神社(天王さま)は、古来深沢山(八王子城山)に牛頭八王子権現として鎮座。北条氏照が彼の地に城を築くに際し、その名にちなみ八王子城と名付け城の氏神となした。地名・八王子の由来でもある。
天正18年(1590年)秀吉軍の猛攻を受け八王子城落城。ご神体は城兵により密かに川口村黒沢の地に隠す。時を経て慶長3年(1597年)、八王子神社に合祀された。八幡八雲神社は八王子の西の鎮守とされる多賀神社に対し、東の鎮守として人々の尊崇を受ける。

金剛院
国道20号線・甲州街道に戻り少し進み、八幡町交差点を南に折れ金剛院に向かう。ゆったりとした境内のお寺様。江戸の頃には表門、鐘楼、本堂、庫裡、観音堂などが並んだと言うが、昭和20年の八王子大空襲で焼失した。品のいい雰囲気。真言宗の別格本山という寺格のためだろう、か。別格本山がどういったものか定かではないのだが、いつだったか、つつじ見物に訪れた青梅の塩船観音も真言宗の別格本山であった。あの古刹と同じクオリティと思えば、有り難みが少々わかる。
創建は天正4年(1567年)。現在地より少し南にある不動堂がはじまり。明王院と呼ばれた。その後、寛永8年(1631年)、現在地に金剛院として開山。この地が大久保長安の陣屋内にあった大師堂にあたることから、その大師堂の法灯を継ぐ形で明王院が移ってきた、と伝わる。別格本山となったのは平成4年のことである。

大久保長安屋敷跡
江戸時代初期、金剛院から北にかけて旧小門宿、現在の小門町に大久保長安の屋敷があった。JR中央線を越えた少し西にある産千代(うぶちよ)稲荷神社に大久保長安の陣屋跡の碑が建てられている。南北と西に陣屋の土手、その外周に水堀、東に表門、北に裏門があったと伝わるが、産千代神社は西の土手辺りだろう。陣屋内の鬼門除けとして祀られた産千代神社は、大木が茂り稲荷森と呼ばれていた、とのことだが、現在は閑静な住宅街といった趣である。
大久保長安は元武田家の家臣。武田家滅亡後、その才を家康に見いだされトントン拍子に出世し関東総代官としてこの地に居を構えた。行政・司法・財政を差配し、関東の人々の仕置きをすべて任されたわけであり、公事訴訟のために陣屋を訪れる人々で門前市をなした、とか。『新編武蔵風土記』に「町なかに番屋を構え、籠獄をおき非違を戒めたり」とある。小門町の地名も、裏門あたりに公事訴訟の百姓宿を建て、それが御門宿>於門宿>小門宿、と転化していった、とか。西への備えに武田家遺臣をもって八王子千人隊を組織するなど、この陣屋は、江戸開幕期において司法・行政・財政の中心地であった。
関東総奉行の職に加え金山奉行として鉱山開発、貨幣鋳造なども兼務し、権勢並ぶものなき長安も終には家康の寵を失い、長安だけでなく係累すべてに罪を及ぼすといった「粛正」が行われた。

陣馬街道
次の目的地は恩方の由比館址。甲州街道を追分で分かれ陣馬街道・案下道を5キロ程進んだところにある。日暮れも近い。追分を越え歩き始めてはいたのだが、このままでは、日没時間切れとなってしまいそう。ということで、日吉町で折良く走ってきたバスに飛び乗った。バスに乗ると、急に強気になり、どうせのことなら、由比館址の少し先にある宝生寺にまで足を伸ばすことに。先日来の八王子散歩で、「宝生寺末寺」といった寺がいくつかあり、それならば結構なお寺様かと記憶に残っていた。
陣馬街道は追分から北西に一直線に進み、北浅川に当たる手前で直角に曲がる。突き出した山稜が北浅川に「沈む」突端が切り開かれ、切り通しとなっている。この切り通し脇に由比氏館址があるのだが、それは後ほど辿ることにして、先に進み宝生寺団地入口バス停で下車。

宝生寺
陣馬街道を離れ宝生団地方面への道を北に進む。陵北公園の野球場を右に眺めながら進み北浅川・陵北大橋に。西に並ぶ陣馬の山容を眺めながら橋を渡り脇道を宝生寺に。イメージとは異なり、古刹といった趣はない。百坪もある本堂や書院、庫裡、玄関、表大門、中門、鐘楼などの堂宇が八王子の大空襲で焼失。本堂・庫裏は昭和25年、鐘楼堂は昭和43年、書院が昭和45年、その他山門、毘沙門堂を新たにつくられた、とのこと。新しいお寺様といった雰囲気はこのため、か。
開山は室町期。元は境内仏堂・大畑観音堂の別当寺であったが、15世紀のはじめ寺生寺と改めた。戦国期は滝山城主・北条氏照の帰依を受け滝山城下に移り祈願所となる。江戸時代には、関東十一談林の一つとなり、御朱印十石を賜り、末寺38ヶ寺を有する武州多摩郡の名刹として隆盛した。高尾山薬王院とならぶ古刹であった。談林とは学問所院のこと。

寺を離れ先ほど通り過ぎた切り通しまで戻る。陵北大橋で西の空を見やる。日暮れも近く、ほんのり夕焼けが陣馬の山容を照らす。先日、陣馬街道の夕焼け小焼けの道を歩いたが、日中でもあり夕焼けはなし。中村雨紅が陣馬街道・案下道を実家へと戻る恩方の道すがら、童謡「夕焼け小焼け」の歌の詩情を養った景観の一端を味わい、少々幸せな気持ちになる。案下は僧侶として仏門に入るとき準備する篤志家の家のこと。恩方は「奥方」から。奥の方といった意味、か。どちらもいい響きの言葉である。

由比氏館址
陣馬街道に戻り、切り通しに戻る。直角に折り返す切り通しを抜けると日枝神社への石段。石段を上りお参り。南から北へと突出する舌状台地の突端部分にある。散歩の達人・岩本素白さんの描写ではないけれど、「神といえども、さぞや寂しかろう」、といった風情の祠が佇む。
平安期、このあたりには由比氏の館があった、との説がある。弐分方山とも呼ばれるこの雑木林の丘は御屋敷とも呼ばれていたのは、その名残であろうか。由比氏は武蔵七党のひとつ西党・日奉氏の後裔。この辺り一帯の由比の牧の別当として力を養った。
神社の横に丘陵を越える切り通しがある。由比氏の館の堀切とも言われる。現在の陣馬街道が通る以前の案下道(陣馬街道)ではあったのだろう。館跡の遺構は、この丘陵の尾根道を400mほど下ったところの不断院あたりまでいくつか残る、とか。平安期は由比の牧を見下ろし、戦国期には八王子城の防衛ラインとして陣馬街道を睥睨していたのだろう。

壱分方町・弐分方町
由比氏の館跡を訪ね、本日の予定は終了。日没までまだ少々時間がある。諏訪町にある諏訪神社まで足を伸ばすことにした。諏訪宿といったバス停が残る。「宿」であれば歴史のある地域であろうし、それよりなにより、由比の牧のあったこの辺りを歩くのもいいか、と思ったわけである。
陣馬街道を南東に進む。街道の北は上壱分方町。南は弐分方。この地名も由比牧と縁が深い。由比牧の別当としてこの地に居を構えた由比氏は、横山氏とともに和田合戦において和田義盛に与力。北条方に破れ、牧の管理者の任を追われることになる。その後子孫は由木村に転じ由木氏を起こし、川口氏もその後裔であるのだが、それはそれとして、この地で力を失った由比氏に代わり、由比牧は天野氏に領地となった。天野氏は武田家家臣。武田家滅亡後、遠州犬井の里より北条宇氏照を頼り、この地に来た。
14世紀はじめのころ、その天野氏に土地の相続争いが起きる。執権の命により土地を三分の二と三分の一に分けて兄弟が相続。「三分の二」の地域が弐分方、「三分の一」が壱分方。とか。地名に由比の牧の名残があるとは思わなかった。

諏訪神社
上弐分方交差点から陣馬街道を離れ、道なりに進むと諏訪神社に。古色蒼然と、といったイメージとは異なり、結構あっさりした神社。往古諏訪ノ森と呼ばれ鬱蒼とした森であったが、昭和41年の大暴風雨で樹木は根こそぎ倒壊、社殿も潰された。現在は鉄筋の社殿となっている。神社の周囲は現在では人家密集。往古、由比野との通称があった牧の名残を想像するのは難しい。 諏訪神社の鳥居をくぐり陣馬街道に戻る。諏訪宿バス停でしばしバスを待ち、八王子駅へと向かい本日の散歩を終える。 

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