2009年12月アーカイブ

先日高幡不動から平山城址へと歩いたとき、平山城址公園のところで七生丘陵散策路に出会った。百草園のあたりから七生丘陵を辿り平山城址へと続くハイキングコース、である。百草園あたりを未だ歩いたことは、ない。百草園のある丘陵には幻の寺・真慈悲寺があった、とも伝えられる。百草八幡さまも結構古い社のよう。丘陵の自然だけでなく歴史的事跡も楽しめそう。ということで七生丘陵散歩の第二回は七生丘陵散策路を辿ることに、する。 散歩は聖蹟桜ヶ丘の小野神社からはじめる。百草の地に真慈悲寺が建てられたのは聖蹟桜ヶ丘と少々関係がある、とか。平安時代、武蔵一宮・小野神社のある聖蹟桜ヶ丘の一之宮地域から見て、西の方角に美しい夕日が沈むところ、そこが百草の丘陵。ために、その地を西方浄土の霊地として見立て、真慈悲寺を建立した、と言う。コースは聖蹟桜ヶ丘の小野神社から百草園に進み、七生丘陵を辿って高幡不動へと進むことにする。



本日のルート;京王線・聖蹟桜ヶ丘>「一ノ宮の渡し」の碑>小野神社>七生丘陵>百草園>真慈悲寺>百草八幡>草観音堂>ちょうまんぴら緑地>百草団地>高幡台団地>日野市郷土資料館>中の台公園>かくれ穴公園>高幡城址


京王線・聖蹟桜ヶ丘
自宅を離れ京王線で聖蹟桜ヶ丘駅へ。大正14年(1925)の開業時には関戸駅と呼ばれていた。このあたりの地名が関戸である、から。駅名が変わったのは昭和12年(1937)。関戸の北、桜の名所である「桜ヶ丘公園」と明治天皇が足跡を残した地を意味する「聖跡」をコンバインしたわけである。
明治14年、八王子で兎狩りを楽しんだ明治天皇は、ことのほかこれを喜び、もう一日遊びたいと、急遽、この地に宿泊。翌日雪の連光寺(関戸の北)の丘陵での兎狩り、多摩川の清流での鮎漁などを楽しんだ。天皇は翌年再度行幸されただけ(4度行幸があった、とも)のようだが、皇族方はあれこれこの地に訪れた、とも。
聖蹟桜ヶ丘、と言うか関戸は往古、交通の要衝。大化の改新で府中に国府が設
置されると、府中を結ぶ官道がこの関戸を通ることになる。平安時代には関戸に関所・「霞ヶ関」がおかれた。鎌倉期には、鎌倉街道がこの地を貫く。府中分倍(河原)から関戸、乞田、貝取をへて鶴川(小野路川村=町田市)に通じていた。
鎌倉防衛の戦略要衝であったこの関戸の地で幾多の合戦が繰り広げられる。建武の中興の時、分倍河原おいて、新田義貞との合戦に敗れた北条氏は総崩れ。関戸の地を敗走する。新田方の追討戦がこの地で繰り広げられる。関戸合戦と言う。太平記などで、合戦の模様が伝えられる。
戦国時代に入ると関戸宿は 小田原北条氏のもと発達。市が開かれ、商業も活発になり農民から商人になるものも現れる。が、江戸になると衰退する。鎌倉街道といった南北の道がそれほど 重要なルートとはならなくなった。甲州街道といった、東西の道がメーンルートになったわけである。

「一ノ宮の渡し」の碑
駅を離れ宮下通りを西に進む。道脇に「一ノ宮の渡し」の碑。この一ノ宮の地と府中の四谷を結んでいた。昭和12年、関戸橋の開通まで使われていた、とか。ちなみに、鎌倉街道の渡しとして、府中の中河原を結んでいた「関戸の渡し」は関戸橋の少し下流。一ノ宮の渡しとおなじく、関戸橋が開通する昭和12年まで存続していた。

小野神社
ほどなく宮下通りを離れ、神南せせらぎ通りに入る。石畳の参道の傍らに用水が流れる。この用水は一宮関戸連合用水だろう。程久保川から取水されている。いい感じのプロムナードを進むと小野神社に。小野神社を訪れたのはこれで2度目。うっすらとした記憶の中の小野神社は、もっと大きい社のはず、であった。が、あれあれ、少々慎ましやかな構え。「その昔、武蔵国の一宮であった」、という、この小野神社の枕詞にイメージが引っ張られていたのだろう、か。
いつだったか埼玉県の大宮にある氷川神社を訪れたことがある。この社も武蔵国一宮、として知られる。武蔵国一宮がふたつ?チェックする。どうも古代は小野神社が武蔵国一宮。大宮の氷川神社は室町期以降武蔵国の一宮と称された、と。これって、どういうポリテックスが要因なのだろう。あれこれ推論してみる。
昔秩父に小野利春という人がいた。近江にはじまる小野篁の流れと言われる。その利春は宇多院の私領である秩父牧(馬の飼育場)の管理者として実績を上げ、同じく宇多院の御給分の国であった武蔵国に人事異動。ついには国司にまで出世する。と、この日野の地には小野牧を領する小野一族がすでに住んでいた。近江の小野一族の直系ではなかったようで、祀る神様も天神さま、というか雷神さまであった、とか。
国司になった小野利春は、領内を治めるのはまずは神様から、ということで先住の小野一族がまつっていた社を武蔵国一宮とする。そのとき祭神は土着の雷神(火雷天神)さまに変えて秩父で祀っていた神様を輸入。小野神社の祭神が秩父国造の先祖とされる「天下春命」となっているのはこのため、である。古代、小野神社が武蔵一宮となったのは、秩父よりこの地の国司となった小野利春に負うところ多い、かと。

では、なぜ室町期以降、大宮の氷川神社が武蔵一宮となったか、ということだが、それはよくわからない。が、小野神社が力を失った理由は推測できる。そのひとつの理由は最大の庇護者であった小野氏の一党が力を失ったためであろう。小野利春以降、目立って活躍した小野氏は登場しない。
武蔵七党のひとつ横山氏が勢力を拡大していれば状況も変わったかも知れない。横山氏は近江小野氏の末裔と唱えた。小野神社の祭神に天押帯日子命・天足彦国押人命(あまたらしひこくにおしひとのみこと)があるが、この神様は、近江の小野一族の本拠地で祀られている神様。近江小野氏とのつながりをしっかりとするために、その横山氏によって輸入されたのか、とも思う。ともあれ小野氏の末裔としてこの地に勢を唱えた横山党も和田義盛の乱に連座し一族は壊滅的打撃を受ける。小野神社を祀る小野氏一党、庇護者がいなくなったわけだから、その神社が存在感を失ったのは道理、ということだろう。

ちなみに、多摩川を隔てた京王線中河原の少し北、中央高速の手前に小野神社がある。多摩川の氾濫のため遷座を繰り返し小野神社がふたつできた、とか、どちらかが本社でどちらかが分祠である、との説もある。武蔵国一宮にかかわりあり、との社であれば、それなりのもの、と想像していたのだが、それはそれはつつましやかな社となっていた。
ついでのことながら、土着の小野一族が祀っていた火雷天神はどこに行ったのか、ということだが、近くの谷保に谷保天神様、北野に天神様がある。菅原道真が太宰府に流されたとき、この地に流された道真の三男・道武が祀
ったのがはじまり。小野神社の火雷天神様はこれらの天神様に合祀されたのだろう、か、とも。

七生丘陵
一ノ宮地区を進む。美しき夕陽の落ちる西方浄土の地・百草の丘陵を、と眺めやるが、伸びをしても建物が多く見晴らし効かない。百草の丘陵遠望はあきらめ、道なりに進み都道20号線・野猿街道に一ノ宮交差点を渡り都道41号線・川崎街道に。
川崎街道を百草園へと向かう。左手に迫る丘陵がいかにも気になる。どこかで丘陵への道はないものかと山側を気にしながら先に進む。と、ほどなくそれらしき脇道。丘陵へと上る道筋があり、成り行きで進むと尾根の切り通しに出る。

道はその先にも続いている。丘陵を百草園まで進めるかどうか少々の不安もあったのだが、とりあえず先にすすむ。と、周囲が開ける。なかなかに美しい里山の風景。ログハウスがあったり、牛舎に牛が寝そべっていたりと、誠に、ゆったりとした美しい景観。昔の多摩丘陵って、こういった景観が広がっていたのだろう、か。東へと開ける先には桜ケ丘の丘陵が見える。低くなっているところは大栗川によって開かれた低地だろう。桜ケ丘と七生丘陵を区切っている。思いがけない美しい景色であった。ちなみに大栗川って、真慈悲寺の大庫裡に由来するとの説、も。

先に進むと道は左に折れる。が、七生丘陵散策路は直進。里から雑木林の中に入っていく。散歩のときはよくわからなかったのだが、途中百草園駅から大宮神社脇を上る道に合流するようだ。大宮神社脇あたりが七生丘陵散策路東コースのスタート地点、とか。鬱蒼とした雑木林をしばし進むと人声が。雑木林が開け百草園通りに出る。松蓮坂の急坂を登りきったところなのだろう。皆さん、結構息のあがっている。

百草園
道の筋向かいに小さな木戸がある。百草園の入り口。幾ばくかの木戸賃を払い園内に。梅園として知られるとのことではあるが、紅葉も終わりの初冬ゆえ、少々寂しき趣き、のみ。明治の頃、若山牧水が百草の丘に訪れ詠んだ歌がある、「われ歌をうたへり けふも故わかぬかなしみどもに打追われつつ」。牧水がどの季節に百草を訪ねたのが定かではないが、貧窮に苦しみ、恋愛に悩み、失意落胆から抜け出すすべも見つからない焦燥の心を読んだものであろうから、この冬枯れの季節が望ましい。

真慈悲寺
往古、この地には幻の寺・真慈悲寺があった、とされる。聖蹟桜ヶ丘のところでメモしたように、平安の頃、西方浄土の地と見立てられたこの地に真慈悲寺が建てられた、と。『吾妻鏡』に真慈悲寺の記録が二カ所ある。最初の記事は文治2年(1186)。「祈祷所の霊場なのに、荘園の寄進もなく荒れ果てている」、と。建久3年(1192)には、頼朝が鎌倉で行った後白河法皇の法要に真慈悲寺から僧侶三名送った、とある。後白川法皇の法要って、先日の飯山観音・金剛寺のメモで登場した武相の僧侶百名が集まった四十九日の法要である。この頃には真慈悲寺は幕府の御願寺として再興され武蔵有数の大寺院となっていたようである。
真慈悲寺が廃寺となった時期は不明。現在発掘作業が行われているので、そのうちに明らかになるのだろうが、現段階では建武2年(1335)、鎌倉大仏や高幡の不動堂を倒した台風により倒壊したのではないか、と言われている。その後真慈悲寺が再興された、という記録は、ない。
その後、いつの頃か定かではないが、真慈悲寺の跡に松連寺が建てられる。江戸の頃、とも。その松連寺も一時廃れ亨保2年(1717)、小田原藩主大久保公の室により、再建され、 文化文政(1804から1817年)の頃には庭園として整備され、多くの文人墨客が招かれた。園内に松尾芭蕉の句碑もあったが,芭蕉もそのひとりだろう、か。
江戸から明治にかけて江戸の人々に親しまれた松連寺も、明治6年(1873)の廃仏毀釈で廃寺となる。その後明治18年には遣水の生糸商人青木某が売りに出た寺を買い取り、庭園を一般に公開。「百草園」という名称もこの時に名付けられた、とか。この百草園も大正の大不況で維持できなくなり荒れるに任せる状態に。現在の百草園は昭和34年、京王帝都電鉄が買収し整備し、往時を偲ばせる趣の庭園としたものである、と。

百草八幡
庭園を散策し、成り行きで百草八幡に。入り口まで戻らなくても直接神社に進む門があった。この神社の歴史は古い。康平5年(1062)、奥州征伐の途中、この地を訪れた源頼家・義家親子が、武運長久を祈って八幡大菩薩の木像を奉納したのがはじまり。その後。鎌倉期に鎌倉の鶴ヶ岡八幡を勧請し百草八幡となる。この神社には阿弥陀如来像が伝わる。頼朝が源氏の祈願寺となった真悲願寺に寄進したもの。神社に仏像とはこれ如何に、というのは、真慈悲寺や松連寺と一帯となった神仏混淆・習合の故。
ところで散歩の折々に源頼義・義家親子の話に出会う。はじめの頃は、またか、などと思っていたのだが、先日足立区を歩いた折、この思いを改めた。源頼義・義家親子の因縁の地を結ぶと、どうやら奥州古道の道筋が現れてきた。ものごとには、それなりの理由がある、ということだろう。

百草観音堂
本殿を下り鳥居下に。どちらに進むか少々考える。地図をチェックすると高幡不動から南に延びる多摩都市モノレールの程久保駅の近くに日野市郷土資料館がある。どの程度の施設かわからないのだが、とりあえずそこに向かうことに。
鳥居下を南北に走る百草園通り、この道は昔の鎌倉街道とも呼ばれているようだが、ともあれ道筋を進む。鳥居下から南は下り坂。マシイ坂と呼ばれる。名前の由来は桝井、から。往古、このあたりに湧水があり、その湧水源を桝井と呼んだ。マシイは桝井の訛ったもの。坂の途中に洋画家・小島善太郎氏の邸宅。青梅に美術館がある。
道なりに進む。前を進む如何にも散歩大好きといった趣の方が道脇に上る。後に続く。「武相九番百観音札所」とある。石段を上ると、こじんまりとした堂宇。百草観音堂があった。お堂は昭和59年に改修。その昔は藁屋根・土蔵造りのお堂であった、とか。本尊は聖観音像。もとは真慈悲寺にあったもの。寺がなくなった後、地元の人によって護られ倉沢の百草観音として親しまれてきた。武相観音めぐりは12年に一度、卯歳に開扉され盛大に札所巡りが行われる、とか。

ちょうまんぴら緑地
観音堂を先に進むと風景はのどかな里山の景観から一変して住宅街となる。南に下り、帝京大学サッカー場手前を右に折れ道なりに進む。名前に惹かれて「ちょうまんぴら緑地」に。案内をメモ;寒い北国をさけて渡ってくる「つぐみ」を土地の言葉で「ちょうまん」という。「ちょうまんぴら」は「ちょうまん」が棲みついた「たいら(平)」の意。つぐみは秋の終わりごろからこのあたりの雑木林に住みついて、冬を過ごした。昭和四十二年(一九六七年)頃までは、このあたりはつぐみの楽園といってよかった、と。

百草団地
道脇の緑地を見やり、少し北に折り返し日本信販住宅交差点をへて日本信販住宅入口交差点に。道はT字路にあたる。北に進めば川崎街道の三沢交差点。南に下れば帝京大学キャンパスから清鏡寺を経て野猿街道の大塚に出る。
日野市郷土資料館のある程久保への道は百草団地をU字に迂回する外周道路となっているが、ここはショートカットを試みる。団地内を横切り外周道路に。道は谷に向かって下りていく。谷筋の向こうに開ける三沢地区の景観はのどかで美しい。三沢という地名は湯沢、中沢、小沢といった三つの沢があったから。ちなみに、三沢には戦国時代、小田原北条の武士団が転住し三沢衆と称した、と。

高幡台団地
下りきったところが湯沢橋。百草台団地からの比高差は20mといったところ。橋を渡り、再び台地を少し上る。上りきったとことが高幡台団地のバス停あたり。道なりに坂を下る。下り切れば程久保川筋・程久保橋に出る。目的地の日野市郷土資料館は坂の途中から左に分かれる。坂道を跨ぐ陸橋を渡り、南西に進む。道は尾根筋といったもの。道の北は崖。とはいうものの、崖一面住宅がびっしり。程久保川の谷地を隔ててた向かいの丘陵も家並みで埋まっている。

日野市郷土資料館
高幡城址のある丘陵を見やりながら進む。ほどなく日野市郷土資料館。廃校になった学校の一部を施設としている、よう。民具、農具といった展示が教室に並べられている。未だ整理の過程といった案配である。郷土史に関する資料や書籍などは手に入らなかった。

中の台公園
郷土資料館を離れ、ゴールの高幡不動に向かう。先ほど左に折れてきた坂道の分岐まで戻るもの味気ない。結構な崖地、といっても住宅でびっしりの崖地ではあるが、どうせのことなら成り行きで住宅値の中の道を下ることに。
道なりに進むと中の台公園。案内をメモ;「下程久保から南に深く入り込んだ大きな谷戸を「がんぜき」と呼んだ。がんぜきの西隣に雑木林を切り開いた山畑があり、それを中の台と読んだ。西のくろどん(九朗どの)の台地、と東の八幡台の中間にあった、から。雑木林には狐が棲み、昭和20年代まで畑を荒らした、と。公園は中の台でも「がんぜき」寄りの山上尾根近くにあたる。三沢八幡社前および下程久保から湯沢をへて落合に通じる古道があった」、と。
がんぜき、って熊手の意味のあるのだが、何か関係があるのだろう、か。不明である。ちなみに程久保の地名の由来だが、程=保土+久保=窪から、との説がある。文字
からすれば、常に土地を保持しなければ耕地を保てない、といった窪地といったところ。地形を見れば大いに納得。

かくれ穴公園
さらに成り行きで坂をくだる。と、道脇に公園の案内文。「かくれ穴公園(程久保1-749-2)」:「三沢の八幡台と程久保のくろどん(九朗どの)台との中間にあり、下程久保の台と呼ばれた高台で農家が3軒あった。公園の西側畑の畦にあった赤土の横穴には、九朗判官が奥州に逃れるとき隠れたという伝説がある」、と。

高幡城址
なりゆきでどんどんくだる。線路に突き当たる。京王動物園線だろう。線路に沿って細路を辿り車道に。坂を下りきり程久保橋を渡る。このまま北に進み川崎街道に出れば高幡不動駅はすぐそば。が、前方にそびえる高幡城址のある丘陵がちょっと気になる。先日高幡城址を歩いたのだが、今ひとつ地形の全体像が「つかめ」ない。ということで、多摩都市モノレールの走る高架下を横切り、三沢4丁目を成り行きで丘陵に向かう。成り行きで進んだ割には、ドンぴしゃで丘陵に上る散策路に当たる。坂を上り、再度高幡城址の周囲を歩き地形の全体像をつかみ直し、尾根道を南平の住宅街に辿り、多摩丘陵自然公園の西縁を下り一路高幡不動駅に。本日の散歩はこれでお終いとする。
晩秋というか、初冬と言おうか、12月初旬のとある週末、会社の仲間と高幡不動に向かった。紅葉見物と洒落てみた。高幡不動は何度か訪れたことがある。地形フリークとしては裏に控える丘陵(七生丘陵の一部)が気になってはいたのだが、時間切れで、いつも寺域のみ。紅葉もさることながら、今回は高幡不動をスタート地点に、その裏に続く丘陵歩きを楽しむことにした。大まかなコースは高幡不動から丘陵に上り尾根道へ。尾根道の散策路・かたらいの路を辿り平山城址に向かう。その後はなりゆきで進み、最後の目標は野猿街道を南に下った永林寺へ、といったもの。紅葉と丘陵、古刹と中世の城址、といった結構変化に富んだお散歩を楽しむことにする。




本日のコース;京王線・高幡不動駅>高幡不動>高幡城址>かたらいの路>都道155号線>京王線。・平山城趾駅>季重神社>平山城址公園>南陽台交差点>野猿街道>永林寺

京王線・高幡不動駅
家を出て仲間と3名で高幡不動駅に。駅から高幡不動への参道は人で賑わっていた。紅葉見物なのだろう。境内手前には結構大きな道が走る。北野街道(都道173号線)かと思っていたのだが、その北野街道は八王子の北野町から始まり浅川に沿って進み、高幡不動の少し西にある高旛橋南交差点でお終い。高幡橋南交差点から東は川崎街道となっている。お不動さんの前の道は川崎街道、ということだ。JR日野駅の少し東、日野市本町で都道256号線から分かれた川崎街道こと都道41号線は、高幡橋を渡り高橋橋南交差点へと下る。交差点からは、ここ高幡不動駅前をかすめ、稲城市大丸へと続き都道41号線はそこで終わる。川崎街道はそこから都道9号線となり南にくだる。

高幡不動
仁王門をくぐり久しぶりの高幡不動へ。室町の作とも伝えられる仁王様を拝し境内へ。高幡不動って、こんなに大きな構えだったのかと改めてその寺域を見やる。真言宗智山派の別格本山。開基は大宝年間(701年)以前とも、奈良時代に行基菩薩によるもの、とも伝えられる。行基にまつわる縁起は縁起としておくとしても、成田山(千葉県)、大山(神奈川県)と共に関東三大不動のひとつ。関東屈指の古刹である。
不動堂は平安初期、清和天皇の勅願により慈覚大師円仁が山中にお堂を建てたのがはじまり。不動明王を安置し関東鎮護の霊場とした。慈覚大師円仁って、第三代天台座主。最澄が開いた天台宗を大成させた高僧である。45歳の時、最後の遣唐使として唐に渡る。三度目のトライであった、とか。9年半におよぶ唐での苦闘を記録した『入唐求法巡礼記』で知られる。
円仁さんが開いたというお寺は関東だけで200強ある、と言う。江戸時代の初期、幕府が各お寺さんに、その開基をレポートしろ、と言った、とか。円仁の人気と権威にあやかりたいと、我も我もと「わが寺の開基は、円仁さまで...」ということで、こういった途方もない数の開基縁起とはなったのだろう。高幡不動は、開基縁起の人気者である行基も円仁も登場する。はて、その真偽のほどは。
それはそれとしてもう少し円仁さんのこと。日本で初めての「大師」号を受けたお坊さん、と言う。とはいうものの、円仁さんって最澄こと伝教大師のお弟子さん。弟子が師匠を差し置いて?また、「大師」と言えば弘法大師とも云われる空海を差し置いて?チェックする。大師号って、入定(なくなって)してから朝廷より与えられるもの。円仁の入定年は864年。大師号を受けたのが866年。最澄の入定年は862年。大師号を受けたのが866年。と言うことは、円仁は最澄とともに大師号を受けた、ということ、か。一方、空海の入定年は835年。大師号を受けたのが921年。大師と言えば、の空海が大師号を受けるのに、結構時間がかかっているのが意外ではある。どういったポリテックスが働いた結果なのだろう。

鎌倉、室町時代に入ると高幡不動は有力武将や鎌倉公方・関東管領・上杉氏等有力武将の信仰を得る。『鎌倉大草紙』には不動尊に篤き信仰心をもつ平山城址ゆかりの源氏武士・平山季重が頂に御堂を建立した、とある。このお不動さんは「汗かき不動」と呼ばれる。戦乱の度毎に不動明王が全身に汗を流されて不思議なできごとを起こしたため、と言う。『鎌倉大草紙』にはその由来らしき記述がある。「天下風水疫病等の諸災あらんとする時は、仏体汗を生じたもうなり」、と。不動ではないが、「汗かき観音」の由来話が、西国札所12番の岩間寺に残る。この寺の千手観音は、毎晩、厨子を抜け出して、苦しむ衆生を救済し、寺に戻られた時には汗びっしょりになられていた、とか。高旛のお不動さまも、衆生済度に汗を流した、と言うことだろう、か。
紅葉を眺め境内を歩く。不動堂を越え、露天の並ぶ参道を山門に向かい、境内の奥にある大日堂へ。お堂の前の紅葉が見事。先週、紅葉を求めて秩父の長瀞まで向かったのだが、高幡不動で十分であった、よう。道を五重塔へと戻る。途中にお鼻井戸。建武2年大嵐のため、山頂の御堂が倒れ、本尊の頭が落ちた所。そこに泉が湧き出た。発熱、腫れもの、眼疾に効能あり、と。ちなみにこの御堂は先にメモした平山季重が寄進したものと、伝えられる。
五重塔脇を抜け弁天池まで戻る。境内をぐるっと一周、というところ。途中に丘陵へと続く「かたらいの路」。丘陵歩きは後ほど、ということで先に進むと近藤勇・土方歳三のことを称えた「殉節両雄の碑」があった。土方歳三の実家は高幡不動の少し東、浅川に架かる新井橋を渡った先にある。篆額の筆者は元会津藩主松平容保、撰文は元仙台藩の儒者大槻磐渓、書は近藤・土方の良き理解者であった元幕府典医頭の松本良順。
松本良順はすこぶる魅力的な人物。安政4年、幕命により長崎遊学し、オランダ軍医ポンペの元で西洋医学を学ぶ。日本初の洋式病院である長崎養生所の開設などに尽力。江戸にて西洋医学所の頭取となる。幕医として近藤勇と親交。戊辰戦争時は、会津若松に入り、藩校・日新館に診療所を開設し、戦傷者の治療にあたる。 幕府方として働いたため投獄。のちに兵部省に出仕し、明治の元勲のひとり山県有朋の懇請により陸軍軍医部を設立。初代軍医総監。貴族院議員。男爵。

ぐるっと巡った高幡不動、正式には高幡山明王院金剛寺。名前の由来は、西党のひとつ高幡氏からだろう、か。鎌倉から戦国期にかけて、高幡高麗氏の一族が高幡不動あたりの浅川流域を支配していた、と。戦国時代の末、この地に北条家の家臣・高幡十右衛門の館があった、との記録もある。『武蔵名所図会』に「同村金剛寺より南よりの山の中腹に馬場跡などあり。八王子城主氏照の家臣に高幡十右衛門という人の居地なり。この人は八王子城に籠もりて、落城の砌に討死せり」と。
もう少し時代を遡ると、『鎌倉大草紙』に、享徳の乱のとき、足利成氏と分倍河原での合戦で敗れた上杉憲顕は「高幡寺」で自刃した、とある。その頃既に「高幡」という言葉は使われていたのだろう。実際境内には上杉憲顕をまつる祠もあったし、それはそれで理屈は通っているのだが、よくよく考えると、高幡不動って、戦国期よりもっと、すっと歴史が古い、はず。戦国期以前はどのように呼ばれていたのだろう、とチェック。元々は「元木の不動尊」と呼ばれていた、と。由来はよくわからない。オーソドックスに地名由来からなのか、それとも、「元の木」から幾つかの仏像を造った、といった縁起であろう、か。実際、大田区の安泰寺の本尊である元木不動には、慈覚大師が一木を以って三体の不動尊をつくった、といった縁起がある。

高幡城址
かたらいの路を丘陵へと進む。不動ケ岡とも愛宕山とも呼ばれている。少し上ったあたりで「山内八十八ケ所入り口」の案内。四国八十八ケ所霊場のうつし札所。裏山一帯に渡って広がっており、少々時間がかかりそう。今回はパス。成り行きで頂を目指す。標高130m、麓との比高差50mといったところ、である。
頂上近く、石垣が組まれた手前に高幡城址の案内。石段を上ると開けた場所となっている。案内には本丸址とあるが、南北に延びる尾根の一画といった程度。本丸址のその先、一段下ったところにも開けた場所があり、それは郭址とも伝えられるが、それとてもささやかなスペースである。お城と言うよりは物見の城砦といったもののように思える。
高幡城の詳しいことはほとんどわかっていない。鎌倉公方と関東管領上杉氏との抗争時、また関東管領である山内上杉と扇谷上杉の抗争時、この近辺で幾多の合戦が行われてはいるものの、高幡城の名は登場しない。上でメモした享徳の乱・分倍河原での合戦でも、上杉憲顕が「高幡寺」で自刃との記録が残るが、高幡城がそこに登場することはない。
高幡城が記録に登場するのは、小田原北条の頃になってから。上でメモした高幡十右衛門しかり。また、天正8年(1580年)の北条氏照印判状に、「高幡之郷平山大学助知行分」とある。平山氏が北条の家臣としてこの地を守っていたのだろう。小田原北条と言えば、その築城技術で知られるが、この高幡城に本格的縄張りが行われたことはなかった、よう。
交通の要衝、渡河地点を抑える城として高幡城は、北の滝山城への中継基地として北条の滅亡時までは存続したようだ。とはいうものの、武田信玄の滝山城攻め、秀吉の小田原攻めの時も、この城は素通りしている。どれほどのこともない、城砦ではあったのだろう。

南平・鹿島台団地
城址を離れ、次の目的地である平山城址へと向かう。道案内に「多摩動物園方面」のサイン。平山城址へと続く「かたらいの路」は多摩動物園の北端を通っている。方向としてはこれだろう、と先に進む。尾根道が先に続く。右手は高幡不動境内から続く谷戸が切り込んでいる。左手下には三沢地区の住宅街が見える。紅葉を楽しみながら緑深い尾根道を進むとほどなく住宅街に出る。
瀟洒な趣の住宅街を進む。南平・鹿島台団地だろう。ところどころに「かたらいの路」の案内がある。塀にペンキで、といった大胆なものもあった。このあたりは丘陵一面が宅地開発されている。丘陵の名残はまったく、ない。別の機会に、谷を隔てた程久保の丘陵から、この高幡の丘陵を眺めたとこがある。耕して天に至る、ならぬ、建て並べ天に至る、といった立錐の余地なき住宅街が広がっていた。

かたらいの路
住宅の向こうに緑の森が見える。多摩動物園の森であろう。多摩動物園の北端らしき緑を目安に道なりに進む。京王バス・鹿島台バス停の少し先、南平東地区センターの横に石段がある。かたらいの路は、ここから雑木林の中を進む山道に入る。路の左手は動物園。場所から見て、チンパンジー園のあたりだろう。動物園の外周フェンスに沿って路は続く。右へ左へアップダウンの道は続く。ほどなく森の中に円筒形のタンク。給水塔のように見える。タンクの周囲は少し開かれている。「みはらし公園」と呼ばれている。
公園の先は下り坂。くねった坂を下ると道は平たんになり、林が途切れる。眼下の眺めが素晴らしい。うねる流れは浅川だろう。日野や八王子が一望のもと。道はほどなく住宅街に下りる。新南平台団地の住宅街。少し右に戻ったところに水鳥救護研究センター、日本野鳥の会・鳥と緑の研究センターなどがある。
住宅街の道はおよそ100m程度で終わる。かたらいの路は崖路に沿って左に折れ、再び雑木林へと入ってゆく。右手に見える緑は南平丘陵公園。雑木林の中を進む。左手は多摩動物園のオランウータン園のあたり。ゴリラの檻などが裏から見える。道を進み、南平丘陵公園への分岐をやり過ごし、先に進む。フェンス越しに動物園内の通路と最接近。園内の家族連れとフェンスを隔てて平行に歩く、といった感じ。互いに気になる距離感ではある。
坂を少しくだる。高圧線の鉄塔を越えると動物園の裏門がある切り通しに出る。多摩動物園に隣接する七生公園南平地区を繋いでいる道、かも。ここまでくれば山中の散策路はほぼお終い。路は七生公園南平地区を通り里に下り、都道155号線の元の多摩テック入口付近に出る。かたらいの路はこのあたりが終点のようだ。

都道155号線
多摩テックの入口は少し東。子どもが小さいときはよく来たものである。が、2009年9月30日をもって48年の歴史に幕を閉じた。都道155号線を西に平山城址公園に向かう。道を進むと同行の士が「お昼は」とノタマウ。一旦歩き始めれば休むことなく、ひたすらに歩くだけが散歩の身上、とは思うのだが、なにせ貸し借りありの身過ぎ・世過ぎの身とすれば、致し方なし。「食」を求めて平山城址公園駅へと向かう。
都道155号線・町田平山八王子線は町田からはじまり、小山田の里を経て尾根道幹線に上り、京王堀之内脇を北に進む。大栗川を越え野猿街道の先で二手に分かれ、ひとつはバイパスとして直進し京王線・平山城址公園駅に進む。もうひと手は多摩テック入口交差点へと上り、交差点で西に向かい平山城址公園駅点前の奥山橋交差点でバイパスと合流する。道は北に上りJR豊田駅の西をかすめ、JR八高線・北八王子の東で国道20号線に合流する。
この都道は以前鶴見川源流の泉を歩いたときに出会った。その小山田の地では都道というよりも農道。車が交差するには難儀するような道であった。しかも、尾根道幹線あたりでは道はなくなっている。御嶽山の単なる尾根道・関東ふれあいの道が都道184号線といったことに比べればどうということはないのかもしれないが、それにしても途中に道がなく都道もあるもんだ、と少々の意外感が心に残る。

京王線・平山城址公園駅
住宅街を下り奥山橋交差点に。バイパスと合流した都道155号線を進み、北野街道・都道173号線を西に折れ平山城址公園駅交差点に。北に折れ駅前に。なにか食事処は、と探す。が、つつましやかなる駅前にはそれらしき賑わいは、ない。駅前のパン屋さんでパンを買い求め、さてどこかに座って食事でも、と思って北野街道に戻ると、あれあれ、少し先に蕎麦屋の幟。パンはおやつにと思い込み、即暖簾をくぐる。

平山季重
お蕎麦屋さんに行く途中、駅から北野街道に出る少し手前に「平山季重ふれあい館」があった。このあたりに源氏武者である平山季重の館があったとの説がある。季重は、武蔵七党のひとつ西党・日奉(ひまつり)氏の一族。源義朝に従い、平治の乱(1159)の折、圧倒的多勢の平重盛の軍勢に少人数で戦いを仕掛ける。義経のもとで戦った宇治川合戦では木曾義仲の軍勢に先陣を切って斬り込む。一の谷の合戦では逆落しに駆け降り平家を破る。頼朝・義経兄弟の対立後は頼朝に従い、奥州平泉の義経征伐に加わる。その後も幕府の元老として活躍。実朝将軍就任の儀式には鳴弦の儀の大役を務めている。
季重の後の平山氏はしばらく歴史の記録から消える。北条一門による鎌倉幕府草創期からの戦武者粛正の嵐を避けようとしたのだろう、か。時をへて平山氏が登場するのは小田原北条氏の家臣として。室町期滝山城主でもあった大石氏の配下であったようだが、大石氏が北条に下った後は、同じく北条の家臣となる。高幡城のメモで北条の家臣として平山氏が築いた物見城砦としたが、正確には大石氏の家臣であった、ということ、か。秋川筋の檜原城にて甲斐の武田に備えたのも平山の一党。平山氏の出自である西党・日奉氏は平山・小川・由井・川口氏といったその支族を多摩川・浅川・秋川の流域に広げていたわけであるから、檜原に拠点を持っても不思議ではない。
ちなみに日奉氏ってその祖が武蔵守として下向。任期を終えた後も都に帰ることなく、この地に留まり、小川の牧、由井の牧を支配し勢力をのばす。日奉氏が西党と呼ばれる所以は、日野とか八王子といった西党の支族の活躍した場所が、国府のあった国分寺の西であったため、とか、日奉を音読(「にし」)したものである、とか、あれこれ。お蕎麦休憩も終え、再び散歩に出かける。

七生丘陵散策路
次の目的地は季重神社。丘陵の尾根にある。季重神社には以前訪れたことがある。そのときは駅の正面に見える平山丘陵中腹にある宗印寺におまいりし、寺の西脇から丘陵を上った。宗印寺は平山季重がねむる。もともとは、平山城址公園駅前の大福寺にあったようだが、大福寺が明治に廃寺になったときに宗印寺に移された、と。
ついでのことながら、宗印寺のはじまりは小田原北条の家臣・中山勘解由の嫡子の開基による。勘解由は秀吉による小田原北条攻めのとき落城した八王子城の家老。勘解由の奮戦・忠臣ぶりに感銘を受けた家康が、戦後その兄弟を探しだし側に置く。宗印寺はその後家光の馬術指南になった兄が開いた庵がもとになった、と。
宗印寺のあれこれはさておき、今回は別コースを通り季重神社へ進む。北野街道脇に公園への道案内。宗印寺経由がどちらかといえば平山緑地「直登ルート」といったものだが、こちらは平山緑地の丘陵を巻いて上る、といった案配。道案内には七生丘陵散策路とある。かたらいの路が消えて、少々唐突に七生丘陵散策路が現れた。チェック。高幡不動の裏や、この平山城址公園のある丘陵など、浅川の南に続く丘陵のことを七生丘陵と呼ぶ。その丘陵を東から西に歩くお散歩コースが七生丘陵散策路。コースは東と西に分かれており、東コースは百草公園のあたりから多摩動物公園あたりまでの5キロ。西コースは多摩動物公園から平山城址公園までの4キロ。次回のお散歩はこの七生丘陵散策路、とくに今回カバーできていない、百草公園からの七生丘陵散策路東コースを歩いてみたい、と思う。

季重神社
上りきったところは丘陵の景観から一転して住宅街となる。平山城址公園は住宅街の西端を南に向かって坂を上る。坂を登り切った少し東に崖を一直線に上る石段。京王研修センターとグランドの間を抜け、下から上ってきた車道を尾根に沿って西に進むと平山城址公園の入り口につく。白壁の塀があったりして城址っぽいのだが、ここにお城があったわけではない。物見程度の城砦があった、とか。平山「城址」公園としたのは京王電鉄。レジャー施設として公園を開発。どうせのことならと、物見城砦があったこの地を平山城址公園と命名。少々拡大解釈。ついでのことながら、駅名も昭和30年に平山駅から平山城址公園駅とした。
公園入り口から少し北へ進む。崖端近くに季重神社。古くは日奉明神社と呼ばれていた。日奉氏って平山氏など武蔵七党のひとつである西党の祖であるので、それはそれでいいのだが、ここに昔から神社があったわけではなさそう。ここは昔丸山と呼ばれ物見の城砦があったところ、と言う。ここに祠ができたのは昭和の頃。平山季重の館内にあった稲荷社をこの地に移した。もともと、この地にも石祠があったようで、そこに合祀し祠ができた。現在のようにこぎれいな祠となったのは平成17年、というから、それほど昔のことではない。季重神社って、いつ、だれが命名したのであろう、か。不明である。

平山城址公園
季重神社を離れる。西へと尾根道が続く。野猿の尾根道と呼ばれていた。以前、このあたりを歩いたときは野猿の尾根道を西に向かった。「行き止まり」のサインがあったのだが、なんとなく尾根道を進んでみたかった。気持ちのいい尾根道を進むと放火で焼けた民家跡のあたりで完全ブロック。その先は個人所有とのことで、厳しい立ち入り禁止サイン。さすがに歩を止めた。で、今回は尾根道を避けて尾根道の南東斜面に広がる平山城址公園を下る。比高差は30m程度。クヌギやコナラの雑木林の中を下ると湧水を集めた池など、も。道なりに進むと東京薬科大学のキャンパスに。キャンパス内の池の畔の紅葉が誠に美しい。守衛さんに挨拶し車道に出る。

南陽台交差点
東京薬科大学前交差点を西に向かう。この道は都道155線バイパスの東京薬科大学東交差点から分かれ西に向かう道。住宅街の広がる南陽台を進み南陽台交差点に。ここを北に進むと平山城址公園と長沼公園の丘陵を分ける切り通し。その先は長沼町・北野街道へ抜ける。当初の予定では、この道筋を辿り長沼公園の丘陵から尾根道を進み野猿峠に。そこから野猿街道を南東に下りて永林寺に行くつもりであった。が、如何せん時間がない。のんびりと慣れないお昼などとったためだろう、か。で、スケジュール変更。この交差点から直接永林寺に向かうことに。

野猿街道
道なりに南に下る。ほどなく野猿街道・都道160号線に。野猿(やえん)街道は八王子市の中心部と多摩市とを結ぶ道。八王子市側の起点は八王子市横山町。甲州街道・国道20号線から分かれJR中央線を越え、八王子駅南口を経て東へ進み北野に。北野から南東へと丘を登り、野猿峠を越えて下柚木に。そこで東進して多摩市一ノ宮で川崎街道に合流する。 現在では八王子市街と多摩ニュータウン方面を繋ぐルートとして交通量の多い道路だが、かつての野猿峠はかなり険しい山道であった、よう。
野猿峠の名前の由来だが、このあたりお猿でも多いのかとも思ったが、どうもそうではないようだ。「武蔵名勝図会」によれば、大石道俊(定久)がこの峠に甲を埋めて碑を建てた、とか。当時は「甲山峠」と呼ばれたようだが、その後、甲を申(さる)と書き間違え、「申山峠」と。それが、猿山峠となり、江戸の末期には何故だか知らねど、「猿丸峠」となった。で、結局、野猿峠となったのはいつの頃からなのかはっきりしない。国土地理院が正式に「野猿峠」と書くようになったのは、昭和28年から。当時、京王電鉄が峠付近をハイキングコースと整備し、「野猿峠」という名前を使い始めたともいわれるが、確証はない。

御嶽神社
野猿峠街道を下る。道脇に御嶽神社の案内。その方向を見やると、あたりは住宅街も切れ、谷戸の風情の残る落ち着いた里山が広がる。一帯は殿が谷戸と呼ばれている。畑の中の細路を上る。上りきったあたりに御嶽神社が佇む。社殿に向かって左手にスダジイ。樹齢400年。根元から幹が分かれ幹の大きさも3mほどある、という。下柚木御嶽神社のスダジイとして結構有名な、よう。スダジイって、ブナ科の常緑樹。シイの木の一種。
境内にいくつかの祠がまつられる。お稲荷さん、金比羅さん、そして猿丸さん。それぞれ宅地開発や農地開発のときに、この地に合祀されたもの、という。お稲荷さま、金比羅様はそれとして、猿丸さまはなんとなく気になる。野猿峠はその昔、猿丸山と呼ばれていたわけだから、そのこととなんらかの関係があるのだろう。

永林寺
御嶽神社から谷戸を隔てた先にこんもりとした緑が広がる。永林寺の森であろう。御嶽神社脇から畑に通じる石段があった。下りたのはいいが道はない。畑地の中を失礼し、成り行きで先に進む。道を下りきり、森の裾をぐるりと回りこみ永林寺の境内に。
寺の構えは立派。こんなに堂々としたお寺様があるとは思わなかった。寺の開基は上にメモした大石定久。大石定久って滝山城とか戸倉城とか高月城とか、散歩の折々に出会う。そう言えば、東久留米の浄牧院も大石氏ゆかりの寺であった。
所沢の久米に永源寺ってお寺がある。その寺はこの永林寺の本寺。大石氏中興の祖でもある大石信重のお墓もある。そのあたりが大石氏発祥の地との説もある。信州大石郷より出たため大石氏との説もある。木曾義仲の子孫とも称する。信重が木曽氏の出自で、この地の土豪である大石氏の女婿となった、との説からである。が、出自はいまひとつよくわからない。
ともあれ在地土豪としておこった大石氏は、室町・戦国期の争乱に関東管領上杉氏の家臣として武功をたて武蔵国の守護代をつとめるまでになる。多摩一帯が大石氏の領地となり、高月城とか滝山城などを築く。転機は川越夜戦。上杉管領方が小田原北条家により壊滅的打撃受けた後、大石氏は北条家に下る。北条氏照を女婿として滝山城に迎え入れ、定久は秋川渓谷入り口の戸倉城に隠居した、と。
で、この永林寺であるが、この寺の落慶した天文15年は、小田原北条氏が川越夜戦で上杉を打ち破り、関東全域をその支配に納めた年。この寺が立派なのは大石氏の力もさることながら、婿である氏照の援助が大きかったのだろう。落慶法要には僧千名参列したと言う。伽藍造営には氏照家人である横地監物と中山勘解由が奉行として差配した、と。そうであれば、この立派な構えも納得できる。
永林寺に大石定久がねむる。とはいうものの、定久の最後はどうもはっきりしていない。どうしても北条に屈するのを潔しとせず、背後であれこれ反北条勢力と連携。上杉謙信の小田原攻め呼応し、青梅一帯を支配する三田一揆をといった反乱勢力と結ぶ。が、その動きが露見してし、野猿峠で割腹したとか、柚木城に移されたとか、はたまた、この永林寺に押し込められたとか、諸説あり。
その由木城址。境内奥にある。ちょっとした広場に由木城址の石碑と、太田道灌そっくりのポーズをとる大石定久の像が立つ。由木城は武蔵七党のひとつ横山党に属する由木氏が築く。その後、大江広元の流れをくむ長井氏が拠る。14世紀後半、南北朝末期長井氏が片倉城に移った後、戦国期になり大石氏が館を構えた、と。城址とは言うものの、館址といったものだろう。丘陵地の谷谷間の低地には館が築かれることが多い。平山城址や高幡城址も谷戸らしき景観のところにあった。谷戸奥って湧水ポイントでもある。水を確保でき、農耕に適した谷戸は古代から中世にかけての生活の場。各谷戸に武士団が館を構えていたのだろう。

本日の散歩はこれでお終い。野猿街道に戻りバスに飛び乗り南大沢駅まで。後は一路家路へと。 歩き始めた頃、何故に高幡不動といった古刹が彼の地に建てられたのかちょっと気になった。つらつら考えるに、ちょっと離れたところに国府・国分寺がある。聖蹟桜ヶ丘のあたりには鎌倉街道が通っている。その側には武蔵一宮の小野神社もある。日野一帯は武蔵七党の一つ西党のおこった地でもある。現在から見れば東京都下ではあるが、当時の東京は芦原の湿地。このあたりが当時の武蔵の中心地であったわけ、だ。
高幡不動のお隣、七生丘陵の東端の百草園のあたりには、鎌倉幕府の祈願寺でもあった真慈悲寺があった、と言う。その地に真慈悲寺が建てられたのは小野神社のある一宮・桜ヶ丘から見て、美しい夕日の沈む地、西方浄土の地と見立てられたため、とか。高幡不動も古代の政治の中心地から見てはたして美しき夕日の沈む西方浄土の地であったのだろう、か。そのうちに多摩川端に座りその景観を確かめたいものである。 

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