2009年11月アーカイブ

いつだったか相模の大山を訪れた。大山寺の不動明王にお参りし阿夫利神社のある山頂に。そのときは山頂から西、というか南の尾根道を下った。ヤビツ峠を経て蓑毛に下り大日堂を訪れたのだが、山頂からの下山道には東、というか北の尾根道を進むルートもある。この道を下ると同じく古い歴史をもつ日向薬師がある。
大山には三つの登山口がある。そして、そこにはそれぞれ古刹が佇む。伊勢原口の大山寺、蓑毛口の大日堂、日向口の日向薬師、がそれ。役の行者にまつわる共通の縁起をもつこれら三つの修験の大寺のうち、大山寺と大日堂には足を運んだ。残りは日向薬師。そのうちに日向薬師を歩きたいと思っていた。
先日のこと、古本屋で『関東周辺 街道・古道を歩く(山と渓谷社)』を見つけた。亀井千歩子さんが執筆者に名を連ねている。亀井さんは昨年信州・塩の道を歩いたときに参考にした『塩の道 千国街道(国書刊行会)』の著者でもある。誠にいい本であった。ならば、このガイドもいいものに違いない、と購入。パラパラ眺めていると、「白山巡礼峠道」のコースの案内があった。厚木の七沢温泉から白山への尾根道を辿り飯山観音までのコースである。このコースだけでも結構面白そうなのだが、スタート地点・七沢温泉の4キロ程度西に日向薬師がある。であれば、ということで、少々コースをアレンジし日向薬師もカバーすることに。飯山観音をスタートし、巡礼峠への尾根道を七沢へと進み、そのまま日向薬師まで一気に進む。おおよそ11キロといった尾根道・峠歩きを楽しむことにする。




本日のルート;小田急本厚木駅>千頭橋際>飯山観音バス停・庫裏橋>金剛寺>龍蔵神社>飯山観音>白山神社>白山山頂展望台>御門橋分岐>むじな坂峠>物見峠>巡礼峠>七沢>薬師林道>日向薬師


小田急線・厚木駅
飯山観音へのバスが出る小田急線本厚木駅に。小田急には厚木駅と本厚木駅がある。あれこれ経緯があるのだが、それはそれとして厚木駅は厚木市ではなくお隣の海老名市にある。本厚木は本家の厚木といった矜持の駅名であろう、か。
厚木やその東の海老名って、あまり馴染みがない。ちょっとチェック。古代、このあたりは相模国愛甲郡と呼ばれる。国府は海老名にあった、よう。国分寺は海老名にあった。古代の東海道も足柄峠から坂本駅(関本)、箕輪駅(伊勢原)をへて浜田駅(海老名)に走る。この地は古代相模の中心地であったのだろう。
平安末期には中央政府の威も薄れ、各地に荘園が成立する。この地も森の庄と呼ばれる荘園ができた。で、八幡太郎義家の子がこの地を領し毛利の庄と呼ばれるようになる。12世紀の初頭になると、武蔵系武士・横山党が相模のこの地に勢力を伸ばす。和戦両面での攻防の結果、毛利の庄の南にある愛甲の庄の愛甲氏、海老名北部の海老名氏、南部の秩父平氏系・渋谷氏をその勢力下に置いた。
鎌倉期に入ると相模・横山党の武将は頼朝傘下の御家人として活躍し、各地を領する。頼朝なき後、状況が大きく動く。北条と和田義盛の抗争が勃発。相模・横山党はこぞって和田方に与力。一敗地にまみれ、この地から横山党が一掃される。毛利の庄を領した毛利氏も和田方に与し勢力を失う。
主のいなくなった毛利の庄を受け継いだのが大江氏。頼朝股肱の臣でもあった大江広元より毛利の庄を受け継いだその子・大江季光は姓も毛利と改名。安芸の毛利の祖となったその季光も、後に北条と三浦泰村の抗争(宝治合戦)において、三浦方に与し敗れる。かくの如く、この厚木あたりは古代から鎌倉にかけ交通の要衝、鎌倉御家人の栄枯盛衰の地であったわけである。ちなみに、安芸国の毛利は、この抗争時越後にいて難を逃れた季光の四男経光の子孫。
時代は下って江戸の頃の厚木;昨日、たまたま古本屋でにつけた『大山道今昔;渡辺崋山の「游相日記」から;金子勤(かなしんブックス)』に厚木宿の昔を描いた記事があった;「全戸数当時330戸。矢倉沢往還・大山道・荻野野甲州道などが合流し、風光明媚、人馬往来の激しい、繁盛している町であった。(中略)。厚木の港町は繁盛し盛況であった。津久井、丹沢諸山からまき、炭を厚木の豪商が買い取り、帆船で平塚へ出して、そこからは海船で相模湾を通り江戸新川掘へ運び商いをした。また塩や干しいわしなどを房総諸州からこの地に運んで販売したり、山梨、長野の山中にまで販売する。厚木は水路の終点、港町であるとともに陸路の交わるところでもあった」、と。陸路の要衝というだけでなく、相模川、中津川、小鮎川が合流するこの地は水運・海運の要衝でもあった、ということ、か。
厚木と言えば、津久井とか清川村にある幕府の直轄林(御留山)から相模川水系に流した「木々を集めた」ところであり、ために「あつぎ」と呼ばれた。これが厚木の地名の由来。今回の散歩のメモをはじめるまで、厚木については、この程度のことしか知らなかった。ちょっと深堀すると当然のことながらあれこれ出てくる。宮本常一さんの「歩く・見る・聞く」ではないけれど、「歩く・見る・書く」とのお散歩メモのルーティン化を改めて確認。ともあれ、散歩に出かける。

千頭橋際
飯山観音行きのバス停を探す。三増合戦の地、三増峠や志田峠へと向かう愛川町の三増や半原行きのバス乗り場は、駅から少し離れたバスセンターであった。今回の飯山観音行きのバス乗り場は、駅北口にあった。バスに乗り、林、千頭橋際を経て飯山観音前に向かう。林は文字通り、林が多かったから。『風土記稿』に「古松林多かりし土地なれば村名とする」とある。千頭(せんず)って、面白い名前。由来は定かではないが、ともあれ、「数多い」って意味だろう。近くに小鮎川も流れており、その川筋が千路に乱れていた故なのか、近くに数多くの湧水がある故なのか、はてさて。
バス路線は千頭橋際交差点で県道63号線と交差する。交差点南の県道63号線の道筋は秦野の矢名へと続いていた昔の小田原街道・矢名街道の道筋だろう、か。一方、交差点から北に進む道筋は、交差点の少し先で伊勢原の糟谷から愛甲、恩名と上ってきた糟谷道と合わさり、国道412号線荻野新宿交差点に進む。この糟谷道は大山参詣道のひとつ。荻野新宿交差点から先は、三田小学校脇を通り中津川を渡り依知の長坂へと進んでいた、ようだ。坂東札所の巡礼道もこの交差点の北を東西に進んでおいる。往古、このあたりは交通の要衝ではあったのだろう。

飯山観音前バス停・庫裏橋
バスは小鮎川に沿って進む。小鮎って、鮎がたくさん採れたから、とも。相模川も鮎で有名であり鮎川とも呼ばれたわけだから、それなりの納得感もあるが、小鮎>小合、との説もある。小さな川が合わさった、との意。これまた捨てがたい。地名は昔の姿を伝えるのでメモに少々こだわるのだが、それにしても地名由来の定説ってほとんど、ない。音が先にあり、それに「文字知り」が文字表記。その文字に「物識り」が蘊蓄を加えるわけであろうから、諸説乱れて定まることなし、となるのだろう、か。
飯山観音前バス停で下車。小鮎川に赤く塗られた庫裏橋が架かる。幕末の報道写真家、フェリックス・ベアトが宮ケ瀬への途中、庫裏橋を撮った写真がある。藁だか萱だかで葺いた屋根の民家。橋の袂に所在なさげに座る人。その横で箒をもつ人。掃き清められ清潔な風景が切り取られている。素敵な写真である。

金剛寺
橋を渡り飯山観音に進む。道の左に金剛寺。なんとなく気になり、ちょっと立ち寄り。古き山門、その左に同じく古き大師堂。野趣豊か、というか、少々手入れ少なしの、なりゆきの、まま。最近再建されたような本堂と、いまひとつアンバランス。それはともあれ、このお寺は往古、七堂伽藍が甍を並べたであろう古刹。開山は大同2年と言うから、807年。行基による、と。
文書にはじめて登場するのは養和2年(1182年)。『吾妻鏡』にこの寺のことが記されている。金剛寺の僧から将軍に対する訴状。地域役人の横暴を非難している。そこに「謂われある山寺」、と。鎌倉・室町期の仏教教学研究の中心寺院であった、とも。
この寺には国指定重要文化財の木造阿弥陀如来坐像が伝わる。平安期の作風を残す11世紀頃の作と。また、この寺には木造地蔵菩薩坐像が伝わる。県指定文化財。身代わり地蔵とも、黒地蔵とも呼ばれる。もともとは庫裏橋のあたりの堂宇に、白地蔵と黒地蔵の二体があったとのことだが、白地蔵は不明。胎内に残る朱文によれば1299年の作と。身代わり地蔵の由来は、賊に襲われた堂守りの刀傷を文字通り肩代わりした、ため。頭部に刀傷が残る、とか。境内には頼朝挙兵の時の頼朝側近安達藤九郎盛長の墓も。

龍蔵神社
道に戻る。ゆるやかな坂道に沿って温泉宿がいくつか続く。飯山温泉と呼ばれる。1979年に最初の掘削が行われた、比較的新しい温泉である。先に進むと龍蔵神社。もとは井山神社龍蔵大権現と呼ばれる。神亀2年(725)、行基菩薩により勧請された、と。治承4年(1180年)、頼朝の願により相模六十一社となり、江戸期は家康により社領二国の朱印が与えられる。
井山神社の「井山」はこのあたりの地名・飯山の表記バリエーション、から。平安時代の承平元年(931)に源順が編纂した『倭名類聚抄』には、印山郷(いんやま)と。後に「いやま」と呼ばれ、嘉禄3年(1227)には「相模国飯山」と記されている。鎌倉期には「鋳山」と表記される。このあたりは鋳物師で有名であったため。「井山」と表されたのは元正17年(1589)の頃、と言われる。龍蔵は大乗経典のこと。竜宮にあったとの故事による。

それはそうと「井山神社」って表記だが、「++神社」という表記は明治以降のもの。座間にある龍蔵神社が往古、龍蔵大権現と呼ばれていたようなので、この地も「井山龍蔵大権現」といったものではなかったのだろう、か。勝手な解釈。根拠なし。ちなみに、「権現」って。仏が神という仮の姿で現れた(権現)とする神仏習合の呼び名。『新編相模風土記』によれば、ご神体は石一願、本地仏は阿弥陀如来・薬師如来・十一面観音が祀られていた、とのことである。

飯山観音
坂道から離れ脇にある石段を上る。仁王門には阿吽の金剛力士像。お像を遮る金網がないのは、いい。さらに石段を上る。厚木市の天然記念物のイヌマキの木。石段を上り切ったところに本堂がある。開山は神亀2年(725年)。行基による、と。
本尊は行基作と伝えられる十一面観音菩薩。大同2年(807年)には弘法密教の道場となる。 銅鐘は室町中期、飯山の鋳物師・清原(物部)国光の作。物部姓鋳物師は河内国にいた鋳物師集団。建長4年(1252年)、鎌倉大仏鋳造のため鎌倉に下る。その後毛利庄に定住し多くの梵鐘をつくる。金剛寺もそうだったし、鎌倉の建長寺や円覚寺も飯山の鋳物師集団の作、という。飯山の地名の由来が、鋳山から、と言われる所以である。
飯山観音こと飯上山長谷寺は坂東三十三観音巡礼の札所六番。坂東三十三観音巡礼は鎌倉の杉本寺を一番札所とし、東京・埼玉・群馬・栃木・茨城をへて千葉県館山の那古寺まで、その全行程は1300キロに及ぶ。坂東三十三観音巡礼は鎌倉幕府の成立とともに始まった。発願は頼朝、三代将軍実朝の時に地域武将の推挙する寺をもとに三十三の寺が定められた、とも。

そもそも、観音巡礼は大和長谷寺の徳道上人が発願。花山法皇が性空上人を先達として観音巡礼を発展させる。で、近畿に広がる三十三ケ所の観音霊場をネットワークしたものが西国三十三ケ所観音札所。近江三井寺の覚忠上人が制定した、と言う。
坂東にも観音札所巡礼を、と考えたのは関東の武将達。都に往来し、西国札所の盛り上がりを目にした、おらが鎌倉にも札所を、といったノリでその機運が盛り上がってきたのだろう。発願は頼朝とメモした。鎌倉幕府が開かれた建久3年(1192年)、頼朝は後白河法皇の追悼法要を開催する。求めに応じて集まった坂東各地の僧侶100の内、21の寺院がその後坂東三十三観音札所となっている。こういった事実も相まって観音信仰篤き頼朝に花を持たせた、というのが頼朝発願、ということ、かも。

千頭橋のところでもメモしたが、観音巡礼と言えば、六番札所であるここ飯山観音から八番札所である座間の星谷寺へと続く巡礼道があった、と言う。飯山観音を下り、小鮎川に沿ってゴルフ場の南側を東へと進み、荻野新宿点前で糟谷大山道と交差。及川地区を進み清水小学校脇の妻田薬師裏を通り、中津川を渡り依知の台地をへて座間に至る。
それにしても札所七番は?札所をチェックすると札所五番は小田原・飯泉観音。六番はここ飯山観音。七番は平塚の金目観音。八番は座間の星谷寺。札所の順番通りでは小田原>厚木>平塚>座間、となり、小田原から厚木に上り、一度平塚に下り、また厚木から座間へとなる。いかにも段取りが悪い。江戸時代の、十返舍一九の『金草鞋』にも「西国巡礼は第一より順に巡はれども、坂東はいろいろ入組み、順に巡はることなり難し」とある。ということで、西国巡礼とは異なり、坂東札所巡礼は順に頓着しない巡礼であった、よう。六番から八番といった巡礼道も、これで納得。

白山神社
飯山観音を離れ白山巡礼峠道に向かう。小高い尾根道や峠を越えて七沢に続く3キロほどのコース。最高点の白山で283m、200m前後の尾根道を3キロ程度歩くことになる。峠道への登山口は観音堂脇から続く。コースは男道と女道のふたつある。尾根筋を直登する男道を上ること15分で稜線に上る。上り切ったところに休憩用のテーブルがあったのだが、先客がいる。邪魔をしないようにと、尾根道を左に進むと、ほどなく白山神社に。
現在では小さな祠といった社ではあるが、歴史は古い。享和年間、というから19世紀初頭、龍蔵院別隆光は山頂で修行中にこの地に秋葉権現と蔵王権現を勧請すべし、との夢を見る。で、近郷の人々の協力を得て勧請したのがこの社のはじまり、と。江戸時代にこのあたりで平安時代の鏡や古瓶も発掘されている。これを龍蔵神社の宝物として現在も神社に保管している、と。
社の前に直径1mほどの池。いかなる干ばつにも水が枯れたことがない、と言う。縁起によれば、往古行基がこの池を見て、霊水の湧き出る霊地と定め、加賀国の白山妙理大権現を勧請した、とする。干ばつの時には付近の農民が集まり、この池の水を干した、と言う。この池は付近の山に住む白龍の水飲み場であり、この池の水が無くなると仕方なく白龍が雨を降らすため、との伝説からである。なかなかに面白いストーリー。

白山山頂展望台

白山神社を離れて巡礼峠へと向かう。道案内がない。神社の廻りに道を探す。神社の先北端に尾根を下る道がある。案内がないので、少々不安ではあるが、とりあえず急な尾根道を下る。その後いくつかアップダウンを繰り返し先に進むが結局行き止まり。小鮎川に北に突き出した尾根筋であり、巡礼峠とは真逆の方向。白山神社まで引き返す。
白山神社まで戻り、休憩テーブルのところに巡礼峠への道案内。ハイカーに遠慮したため見落とした、よう。少し先に進むと白山山頂展望台があった。眼下に相模の国、大山・丹沢の山塊を眺め少々休憩。

御門橋分岐
展望台からは南西方向へ尾根道を下る。ほどなく北側の御門集落から上る道と合流。御門橋まで800m、白山まで400mの標識がある。御門の由来は文字通り「御門」から。『清川村地名抄』によれば、治承の頃、毛利の庄を治めた毛利太郎景行が御所垣戸の館から鎌倉への往還のとき、この六ツ名坂を利用しそこに門(御門)を設けたから、と言う。

狢坂(むじなさか)峠
分岐点から先が「関東ふれあいの道」となる。少し上り返すと「むじな坂峠」。狢坂峠とも書かれているが、由来はどうも獣の狢でないようだ。六っの地名(白山橋・長坂・花立峠・月待場・京塚・細入江)>「むつな」が「ムジナ」に転化した、とか。現在では峠道は残っていないようだが、その昔は厚木と北の清川村を結ぶ重要な往還であったのだろう。

物見峠
尾根道を進むと物見峠。峠とはいうものの、通常の峠で見るような鞍部という雰囲気はない。先日奥多摩から秩父に歩いた時の仙元峠のような、峰頭(山の突起)系>ドッケ系峠なのだろう。東側の眺望はなかなか、いい。物見にはいい場所ではある。とはいうものの、この物見峠って地名は昔の記録には登場しないようで、結構最近命名されたもの、かも。白山から1キロ。巡礼峠まで1.7キロ地点である。

巡礼峠
物見峠を越えると急な坂を下となる。昔は鎖場であったようだが、現在ははちゃんとした階段に整備されている。急坂を下りきった後は、クヌギやコナラの林の中、小刻みなアップダウンを繰り返す尾根道となる。ところどころに見晴らしのいい場所もあり、ベンチなども整備されている。竹塀やヒノキの植林帯を抜け、里山の雰囲気のある雑木林といった尾根道をくだり巡礼峠に。
巡礼峠にはお地蔵さまが佇む。昔此の峠で惨殺された巡礼の老人とその娘の霊をなぐさめるため地元の人が建てた、とか。巡礼峠って、「巡礼」といった言葉の響きから、もう少々昼なお暗き、ってイメージではあったのだが、以外と明るい。周囲が公園として整備されているからだろう、か。もっとも、巡礼峠の由来には、小田原北条の間者が巡礼姿に身を隠し、峠の東にある七沢城を偵察した、って話があるわけで、そうとなれば、結構さばさばした物語であり、それらしき峠の風情である。
巡礼峠の名前の由来は、坂東三十三観音巡礼の五番札所である飯泉観音(小田原の勝福寺)から六番札所の飯山観音へ向かう道筋であった、ため。西側の七沢からこの峠を越え東の上古沢へと抜ける道があった。恩曽川の最上流部である上古沢の野竹沢集落に抜ける、と言う。
とはいうものの、何故小田原からわざわざこの山裾の地・七沢まで来るのだろうかと少々気になった。チェックすると札所五番から六番へのコースはいくつかバリエーションがある、よう。五番札所から大山>日向薬師>六番飯山観音。このコースであれば七沢を通るのは道理。が、五番から下曽我>六本松>井ノ口>遠藤原>南矢名>神戸>西富岡>七沢ってコースもある。このコースがよくわからない。中世には七沢にお城があったと、言う。それなりに開けた宿があったのだろう、か。近くに小野の小町の生誕地との伝説のある小野がある。古き社の小野神社の御参りをかねて七沢まで上ったのだろう、か。はたまた、七沢の地にある七沢温泉って、江戸末期には湯治場として賑わっていたとのことでもあるので、それが七沢まで北上した理由だろう、か。はてさて。

巡礼峠から七沢へと下る。峠から幾筋も道があり、どれがどれだかはっきりしない。とりあえず成り行きで道を下る。途中、ほとんど道を下り終えたあたりに柵があり、通行止め。道をそれで柵を越えようとしたが先に進めない。再び柵まで戻りじっくり見ると、内側からチェーンを外せるようになっていた。鹿除けの柵であった。

七沢
七沢の集落に出る。里をのんびり成り行きで進み、日向林道のある七沢温泉方面に進む。玉川を渡り、県道64号線を越え、里を進む。道の左手の丘にある病院は昔の七沢城の跡。病院の敷地を見てもなあ、ということで遠くから眺めやり、で済ますことに。この城は伊勢原の糟谷館に居を構えた扇谷上杉家の戦闘拠点。糟谷館って、山内上杉家の讒言に惑わされ扇谷上杉の家宰であった太田道灌を惨殺した館。道灌なき後、扇谷上杉と山内上杉は骨肉の争いを繰り返す。七沢城はその戦場にもなっている。で、互いの消耗戦の間隙をぬって台頭した小田原北条。扇谷上杉も駆逐され、七沢城は小田原北条の支城となった、と。七沢の地名の由来は村内に七つの沢があった、とのことから。

薬師林道
七沢温泉の道筋を先に進む。林道とはいうものの、車道であり道に迷うことはなさそう。ときどき車も走る。途中展望台の案内もあるのだが、展望は得られず。木々が覆い緑のトンネルのようになっているところもある。野生のサルにも出会う。日向山への案内もある。日向山は標高404m。山を越えて広沢寺温泉へのハイキングコースもあるようだ。広沢寺には、七沢城主であった上杉定正がねむる、と言う。隠れ湯っぽい名前ではあるが、温泉自体は昭和初期になって開湯した、と。先に進み案内に従い駐車場のところから林道を離れ日向薬師に。

日向薬師
日向山霊山寺。寺歴は古い。霊亀2年(716年)、行基による開基との縁起がある。行基が熊野を旅していた時、薬師如来のお告げを受け、この地に霊山寺を建てた、と。「行基+熊野+薬師如来+(白髭明神)」の組み合わせの縁起は数多くあるようで、縁起は縁起とするとして、実際の開基は10世紀頃ではないかと。古いお寺さまである。本尊は薬師三尊。鉈彫りと呼ばれる、像の表面にノミ目を残す技法で彫られている。この本尊も含め仏像、単層茅葺きの本堂、鐘堂など数多くの国指定の重要文化財をもつ。
このお薬師さん、柴折薬師(高知県大豊市)、米山薬師(新潟県上越市)とともに日本三大薬師のひとつ。また、津久井の峰の薬師、高尾の薬王院、中野の新井薬師とともに武相四代薬師とも呼ばれる。薬師如来信仰って現世利益がキーワード。相模の国司大江公資の妻で歌人でもある相模の歌がある。「さして来し日向の山を頼む身は目も明らかに見えざらめやは」。眼病を患い薬師堂に籠り祈願した折に詠ったもの。11世紀初頭のこと。このころには日向薬師既に霊場として評価されていたようだ。『吾妻鏡』には建久3年(1192年)、北条政子の安産祈願の寺院として日向薬師の名前が挙げられている。建久4年(1193年)には娘・大姫の病平癒祈願のために頼朝が参詣した記録がある。日向薬師は中世以来、薬師如来の霊場として信仰を集めた。日向薬師の由来は、立地上東に日光を遮るものがなく「日向」であった、から。
多くの堂宇を誇った日向薬師ではあるが、廃仏毀釈の嵐に抗せず、多くの堂宇が失われ現在では本堂、鐘堂、仁王門などが残る、のみ。本堂でお参りをすませ頼朝参詣の折り旅装束を白小装束に着替えた「衣装場(いしょうば)」を通り日向薬師バス停に。20分ほど伊勢原駅で到着し、一路家路へと。

前から、なんとなく気になっていた日向薬師もやっとカバーした。山麓・山中にある薬師や不動と言うだけで、それだけでなんとなく有難く、気になるものである。津久井湖を臨む山麓にある峰の薬師に上ったのも、その流れではある。それはそれとして、日向薬師を訪ね終え、三つの大山参詣口にある三つの古刹をカバーした。伊勢原口の大山寺の不動明王、秦野・蓑毛口の大日堂の地蔵さま、そしてこの日向薬師のお薬師さま。この三つの古刹には共通の縁起がある、とイントロでメモした。役の行者にまつわる伝説である。
大山の東、愛川の八菅山にある八菅神社は古くから修験の地として知られていた。八菅山と大山を結ぶ回峰行の始点ともなっていた。その昔、役の行者が八菅山にて山岳修行。その折り、薬師・地蔵・不動の像を彫る。で、その像を投げたところ、薬師は日向に、地蔵が蓑毛に、不動が大山に落ちた、と言う。それがどうした、とは思うのだが、その縁起の地を実際に訪れ、あたりの風景を想い描けるだけで、なんとなく心嬉しい。

ついでのことながら、日向薬師の縁起で「行基+薬師如来+熊野」とともに白髭明神が登場した。白髭明神って高麗王・若光のこと。行基がこの地で薬師三尊を彫るに際し、よき良材を求めた。それに応えたのが高麗王・若光。香木を与え、日向薬師の開山に協力した、と。行基も渡来系帰化人。帰化人同士のコラボレーション縁起だろう、か。
関東各地には若光をまつった白髭神社がある。どこということではなく、どこを歩いても折に触れて白髭神社に出会う。伝説によれば、渡来人である高麗王・若光は東国開発の命を受け、大磯に上陸した、と言う。平塚と大磯の間、海に臨む地に高麗山がある。こんもりとしたその山容を渡海・上陸の目印としたのだろう。山裾には高来神社(こうらい)があった。
若光は大磯・平塚から相模川を遡り、この日向の地を経て、埼玉・高麗の地に移った、とか。日向薬師の参道に白髭神社がある。薬師の守護神として若光・白髭明神をまつるとともに、熊野権現を勧請し社を建てたもの。日向薬師で白髭明神・若光が出てくるとは思わなかった。熊野と薬師と行基の三大話の縁起は全国にある。どれも民衆受けするキーワードである。白髭明神とのコラボレーションは民衆受けする縁起の定石に、この地ならではの「有難さ」を組み合わせたもの、なのだろう、か。なんとなく、楽しいお話である。
いつだったか、高尾から秩父へと鎌倉街道・山の道を辿ったことがある。秋川丘陵の駒繋峠を越え網代にくだり、秋川を渡り秋留台地に取りつく。次いで、JR五日市線・武蔵増戸駅傍を北進し平井本宿に進み、平井川筋・西平井交差点へと下った。
鎌倉街道・山の道はそこから更に北進し羽村草花丘陵の二ツ塚峠、馬引沢峠を越えて青梅筋へと進むのだが、草花丘陵の南を平井川に沿って鎌倉街道の支道が東西に走っていた、とのこと。チェックすると、その道筋に古刹や古き社が続く。
西平井交差点から少し西にいったところにある新井薬師は鎌倉期のもの。その横の山麓にある白山神社も結構な規模。また、この交差点から少し東にある東光院の妙見宮。秩父平氏の祖平良文が中興の祖とされるこの妙見様には畠山重忠にまつわる話も残る。
東光院より少し東の尾崎観音様は頼朝ゆかりの寺とも言う。平井川と秋川に挟まれた秋留台地には鎌倉の頃、武蔵七党のひとつ、西党に属する小川、二宮、小宮、平山氏といった御家人が居を構えた。今は静かな里ではあるが、鎌倉の頃は交通の要衝として多くの人馬が平井川沿いの道筋を往来したのであろう。
平井川が多摩川に注ぐ秋留台地の端に二宮神社がある。武蔵総社六所宮の第二神座といった由緒ある社である。この社、往古小川大明神と呼ばれていた。古代にあった四つの勅使牧のひとつ、小川牧のあった一帯でもある。古代にもこのあたり一帯は開けていたようだ。もっと歴史を遡ると、平井川沿いにはいくつもの縄文遺跡や古墳が残る。北に羽村草花丘陵を控え、南に平井川を隔てて秋留台を望むこの地は、古くから人の住みやすい環境であったのだろう。 川筋を下ってみたい、とは思いながらも、さすがに秩父への道は遠い。ということで、その時は先を急いだ。その平井川を歩くことに。



本日のルート;武蔵五日市駅>藤太橋跡>幸神神社>平井川>都道184号線>新井薬師堂 >白山神社>玉の内川・鎌倉街道山の道跡>日の出町役場>春日神社>東光院・妙見堂>尾崎観


武蔵五日市駅
武蔵五日市駅で下車。駅前の都道31号線・秋川街道を北に進む。秋川の支流・三内川(さんない)を越え、JRのガードをくぐり先に進む。北西に上る坂は小机坂。名前の由来は地元の旧家から。江戸後期山林業で財をなした、とか。三内(サンナイ)は山内(サンナイ)、から。文字通り、山の中、といったことだろう。坂の右手は三内地区。老人ホームが目立つ。

藤太橋跡
坂をのぼり大久野中学校のあたり、秋川街道を少し入ったところに藤太橋跡の案内。昔、ここには「藤太橋」という石橋があった、と。名前の由来は藤原秀郷こと俵藤太より。天慶の乱の頃、藤原秀郷(俵藤太秀郷)や菅口六郎左衛門に追われた平将門が、この地より少し北にある要害・勝峰山に陣を築く。秀郷は、幸の神の原、菅口は西方500mの「菅口」に布陣。直ぐ先に幸神交差点がある。幸の原ってこのあたりだろう。
案内によれば、勝峯山の中腹には「池の跡」や「早馬場」と言う馬場跡、鈴ケ御前が好んだ「鈴石」といった将門ゆかりの地が残る、とか。青梅・秋川筋に数多く残る将門伝説のひとつだろう。実際、将門が青梅に来たことはないようだ。青梅に覇を唱えた三田氏が将門の子孫と称したこともあり、政治的配慮であれこれといった将門伝説ができたのだろう。また、合戦譚も将門と藤太ではなく、小田原北条と三田一揆の戦いが形を変えて伝わった、とも言われる。
ちなみに、俵藤太って、「ムカデ退治」の伝説がこどもの頃から刷り込まれている。龍神の求めに応じムカデを退治。そのお礼にと、米の尽きる事の無い俵を貰ったのが、「俵」の由来。ムカデ退治の話は秀郷の領地である下野にあり、それが下敷きとなって『今昔物語』や『御伽草子』に登場したのだろう。とはいうものの、俵藤太のムカデ退治の話を知っている人など、まわりには皆無ではあった。

幸神神社
幸神交差点から秋川街道を離れ、宝鏡寺にちょっとおまいりし幸神神社に向かう。この神社は南北朝初期、建武3年と云うから1335年の創建。京都御所近くの出雲路幸神(さいのかみ)を勧請したと伝えられる。 神社の旧参道をすこし進むと、傾斜面に国指定天然記念物のシダレアカシデ。 幹回り2m、樹高5.8m、樹齢は700年以上と言われる。堂々たる枝ぶり、とは云うものの、見事に見過ごし斜面を上り、まったく別の木を、さもありがたそうに眺めやる。シダレアカシアに気づいたのはその帰り、といった情けなさ、ではあった。
幸神って、なんとなく気になる名前。猿田彦を祀る、と言う。猿田彦って天孫降臨の際、道案内をつとめた神さま。道祖神にまつられることが多い。ということは、幸神=さいのかみ、って、塞の神、集落の岐(さえ)にあって邪気悪霊の侵入を防ぐ(塞) 神さまが転化したものだろうと想像。チェックすると、京の出雲路幸神も、もとは加茂川畔に祀られていた道祖神であった、とか。ビンゴ!! 塞の神 とか道祖神とか、ちょっとややこしい。信州の塩の道を辿り大網峠を越え、里にくだったところに大塞の一本杉があった。そこでメモした「塞の神」と道祖神をまとめておく;
「塞の神」は道祖神と呼ばれる。道祖神って、日本固有の神様であっ た「塞の神」を中国の道教の視点から解釈したもの。道祖神=お地蔵様、ってことにもなっているが、これって、「塞の神」というか「道祖神(道教)」を仏教的視点から解釈したもの。「塞の神」・「道祖神」の役割って、仏教の地蔵菩薩と同じでしょ、ってことだろう。神仏習合のなせる業。
お地蔵様と言えば、「賽の河原」で苦しむこどもを護ってくれるのがお地蔵さま。昔、なくなったこどもは村はずれ、「塞の神」が佇むあたりにまつられた。大人と一緒にまつられては、生まれ変わりが遅くなる、という言い伝えのため(『道の文化』)。「塞の神」として佇むお地蔵様の姿を見て、村はずれにまつられたわが子を護ってほしいとの願いから、こういった民間信仰ができたの、かも。
ついでのことながら、道祖神として庚申塔がまつられることもある。これは、「塞の神」>幸の神(さいのかみ)>音読みで「こうしん」>「庚申」という流れ。音に物識り・文字知りが漢字をあてた結果、「塞の神」=「庚申さま」、と同一視されていったのだろう。

平井川
幸神神社を離れ平井川を渡り都道184号線に向かう。平井川は日の出山山頂(標高902.3m)直下の不動入りを源流部とし、いくつもの沢からの支流を集めて南東に流下。日の出町落合で葉山草花丘陵の裾に出た後、支流を合わせながら草花丘陵南岸裾に沿って東流し多摩川に合流する。
いつだったか、御岳山から日の出山を経てつるつる温泉へと歩いたことがある。急坂を下りて里に出たところにあったのが、今になって思えば平井川の上流部であった。ぶらぶらと平井川の上流部を五日市に向かって歩いた道筋に肝要の里があった。「かんよう」の里、って面妖(めんよう)な、と思いチェック。「かんにゅう」と読むようだ。御岳権現の入り口があったので「神入」からきた、とか、四方を山で囲まれたところに「貫入」した集落であるという地形から、とかあれこれ(『奥多摩風土記;大館勇吉(有峰書店新社)』)。
将門伝説の残る勝峯山のあたりに岩井という地名もあった。将門の政庁があった茨城の岩井と同じ。故に将門伝説に少々の信憑性が、とはいうものの読みは「がんせい」、とか。有難さも中位、なり。

都道184号線
幸神神社を離れ、平井川を渡り道なりに北に向かい都道184号線に出る。この一般都道は、あきるの市の瀬戸岡から奥多摩町の氷川を結ぶと書いてある。そんな山の中を道が通るものかとチェックする。
道は日の出町を先に進み勝峯山脇の岩井の里を越え、つるつる温泉手前に進む。そこで左に折れて日の出山へと向かうが、道はその先で通行止め。日の出山近くから、奥多摩町の海澤までは、現在不通となっている。本来であれば御岳山を経由して青梅側に抜けることになっていた、よう。
御岳山から日の出山を経てつるつる温泉まで歩いたときのこと。御岳から日の出山に向かう尾根道に鳥居があり、関東ふれあいの道となっていた。その尾根道は御岳への参道とのことであったが、この鳥居から御岳の集落までの尾根道は都道184号線とのこと。また、御岳の集落の中には都道184号線の最高地点(標高850m)がある。「氷川道」とも「鳩ノ巣路」とも書いてあった、よう。一度どんな道か御岳から先を辿ってみたいものである。
都道184号線がどういう経緯で都道が計画されたのが、そしてどういう理由で不通なのかその理由は分からない。が、日の出山を越え二俣尾方面に続く尾根道に、結構立派な道がつるつる温泉から登ってきていた。青梅筋へと続いていたようなので、車道はそれでよし、としたのかも。勝手な推測で根拠なし。

新井薬師堂
都道184号線を少しつるつる温泉方面に。ほどなく道を北に折れ新井薬師堂に向かう。山裾に佇むつつましやかな堂宇。堂内には日光、月光菩薩を従えた薬師如来像がある、と言う。もともとは裏の山にあったものを元禄6年、というから1693年にこの堂を建てて祀った、と。 薬師如来像は平安から鎌倉にかけての作。都の仏師がつくったとされる。当時、このあたりには中央に関わりをもち、仏師を招く経済力をもつ武士階級があったのでは、と案内に言う。
この近くに新井屋敷とか平山屋敷跡がある。どちらも小田原北条方の武将であるが、特に平山氏は武蔵七党のひとつ西党の流れ。檜原城に居を構え秋川筋に覇をとなえ、頼朝の命を受け五日市に大悲願寺を建立したりもしている。また、中世には大久野七騎(和田、羽生、清水、小山、田中、野口、浜中)とった武士集団がいたともされる。こういった武将がスポンサーだったのだろう、か。ちなみに。この薬師さま、目の病にご利益がある、と。
ついでのことながら、大久野と言えば日の出町になる前の村の名前。大久野村と平井村が一緒になって日の出町に。大久野は「奥野」とか「大奥野」という地名から。日の出は言うまでもなく、日の出山から。

白山神社
白山神社に向かう。鳥居をくぐり参道の石段をのぼる。途中から山道に。結構な山道。大きな木立の中を進むと白山神社。標高340mの山中にあった。 縁起によれば、この白山神社は平安初期に泰澄によって創建された、と。
泰澄って、白山信仰の開祖。越の大徳とも呼ばれた高僧である。実際、この地を訪れたかどうかは別にして、武蔵の各地にその縁起が残る。秩父の観音霊場24番札所の法泉寺にも泰澄に関わる縁起があった。「養老元年(717)、泰澄大師が白山の絶頂に至ると白山妙理権現が出現。武蔵国秩父に赴いて仏法を弘通すべし、と。ために、大師は当地に訪れ、観音像を安置。妙理 権現を祀って奥の院とした」と、言う。高徳の人は、その人気故、日本各地へと忙しい。
白山神社の裏手からは梅が谷峠へと続く尾根道がある、と言う。梅ヶ谷峠は二つ塚峠や馬引沢峠とともに、鎌倉街道・山の道の別ルートである。そのうちに歩いてみたい。

玉の内川・鎌倉街道山の道跡
神社から里へと下る。東に下る簡易舗装の道を進み31号線・秋川街道に。道なりに都道184号線に進み、萱窪あたりから白山神社の山を眺めやり、平井川に架かる下諏訪橋へ。橋を渡り、北大久野川との合流点、文字通りふたつの川が落ち合う、落合地区に。落合橋を渡り再び平井川の北に。先の玉の内川筋を目指す。
玉の内川は先日歩いた鎌倉街道・山の道の道筋である。道の途中に三嶋神社。御神体の鏡は室町時代のものと伝えられるが、度重なる火災のため創建の年代は不明。明治15年にこの地に大火があった、とか。 道なりに東に進むと玉の内川に。見慣れた風景。この川筋を北に進み二ツ塚峠から馬引沢峠を経て青梅・吉野の里に下ったことを思い出す。道なりに進み西平井橋付近で都道184号線に戻る。

日の出町役場

 道脇にえらく豪華な建物。日の出町役場。財政豊かな自治体なのだろう。鎌倉街道山の道を辿った時も、二ツ塚峠や馬引沢峠から見る南の日の出町方面は廃棄物処分場しか見えなかった。ごみ処理場の設置といったケースでは近隣の自治体は当然のこととして「迷惑料」を負担することになるのだろう。また最近ではイオンモールも当地に出店している。税収に貢献するだろう。日の出町では75歳以上の高齢者医療費の窓口負担を無料にするとか、都内で最も早く給付金交付の作業が進む、といったニュースがテレビで放映されている。近隣の自治体の合併が進む中、「西多摩郡日の出町」で居続ける理由も豊かな町である故、ということだろうか。勝手な妄想。根拠なし。

春日神社
先に進み鹿の湯橋の手前の塩沢で都道184号線を離れ、山裾を東に進む。千石橋あたりまで進むと、都道の喧噪を離れ落ち着いた田舎道の雰囲気。細路を進むとほどなく春日神社。この神社、もとは千石大明神と呼ばれ『武蔵風土記稿』によれば、日奉氏、大向氏ゆかりの社とされる。が、この社も明治15年の大火で記録が消失し、歴史を伝えるものは残っていない、と(『奥多摩風土記;大館勇吉(有峰書店新社)』)。
日奉氏って武蔵七党のひとつ西党の祖。10世紀初め、京より武蔵守として武蔵の国府(府中)に下向。任を終えても京に戻らず土着。その地は日野郷であった、とか。近隣の由井の牧、小川の牧も支配する。西党と呼ばれたのは武蔵国府の西を拠点とした、ため。西党には先に述べた平山、小川、由井、二宮、小宮氏の他に、川口、中野、田村、立川氏、小河などが知られる。大向氏って、不詳。




東光院・妙見堂
道を進む。民家脇に湧水池らしきものがあった。背後を丘陵で護られ、湧水源の確保された河岸段丘は古代の住環境としては理想的であったのだろう、か。
先に進み東光院に。丘陵山頂に妙見様が祀られる、と言う。この寺の歴史は古い。天武天皇13年、というから西暦685年まで遡る。武蔵国の開発の命を受けた百済の豪族が、大和斑鳩の法輪寺の妙見菩薩をこの地に祀ったことにはじまる。
往時、妙見様は山上に祀られていたと言う。山裾に寺ができたのは平安前期。妙見様への信仰の篤い平良文が居館を奉納し妙見宮の接待寺として建てた、とか。 平良文って、平高望(桓武天皇の孫・高望王)の子。坂東八平氏の祖。妙見信仰で最初に思い浮かぶのは、秩父神社であり千葉氏ではあるが、秩父神社は平良文の子が秩父牧の別当となり「秩父」氏と称し妙見菩薩を祀ったことがはじまり。千葉氏は坂東八平氏のひとつ。良文を祖とし、妙見菩薩は千葉家代々の守護神であった。ことほど左様に平良文は妙見さまへの信仰篤く、とはいうものの、この地とのゆかりはあまりない。東光院の縁起もこのあたりに伝わる将門伝説の変形、か?良文は将門一門で唯一の理解者であった、、と言う。

東光院は室町以降には無住となり荒れ果てたとのことだが、江戸の初期に改修し曹洞宗の寺院となる。幕末には山頂の妙見宮は山裾に移る。で、ここでも件の明治15年の大
火。春日神社と同じく、大久野焼きと呼ばれる平井川北辺の大火により全焼。昭和62年、韓国の資材と職人の手によって再建された。
   
境内本堂裏から山頂の妙見宮に上る。九十九折れの道をのぼったところに妙見さま。あきる野が一望のもと。平井川、その先の秋留台地、そしてそのまた先の秋川丘陵の広がり。素敵な眺めである。妙見宮は異国情緒の祠となっている。妙見信仰はもともと中国ではじまったものだが、それが朝鮮半島の百済に移り当地の星信仰と結びついたもの。それが、百済渡来人とともにこの地にもたらされたわけで、異国情緒、と言うか、元々、異国そのもの、と言ったものである。
東光院が鎌倉街道の支道に沿ってある、というわけでもないだろうが、この妙見さまには畠山重忠にまつわる話が残る。北条の謀略により二俣川にて討ち死にした重忠は、その道の途中、この平井の地で突然の光の洗礼。それは、二俣川行きを留めようとする平井の妙見様のサインであった、とか。鎌倉武士の鑑とされた畠山重忠は秩父平氏の総領家。妙見信仰篤き故の逸話ではあろう。

尾崎観音
妙見さんから圏央道をくぐり1.3キロ程度東に進むと尾崎観音。光雲山・宝蔵寺。 参道の正面にある観音堂が「尾崎観音」。堂内には源頼朝の側室・丹後局の守り本尊であった如意輪観音が祀られている。安産や子授けの観音様として古くから信仰を集めてきたとのこと。如意輪観音さまが胎内仏であったことも関係あるのだろう、か。堂宇に奉納されている絵馬は安産を願うものだろう。
丹後局は頼朝死後、剃髪しこの地の近くの庵で菩提を弔う。 その場所を観音山、観音畑と言い、後に現在の地に移されたそう。 薩摩藩祖・島津忠久は丹後局と頼朝の子とされる。鎌倉で頼朝の眠っている近くに島津忠久氏も眠っていた。ちなみに、島津忠久の妻は畠山重忠の娘、とか。
それにしても、何故の「尾崎」だろう。あきる野市になる前の秋川市の住所を調べてみると、このあたりの字に尾崎って地名があった。地名が先か、尾崎観音が先か、どちらが先かはわからない。はてさて。
日が暮れてきた。当初の予定では平井川の南に渡り瀬戸岡古墳を訪ね、東に下り多摩川にほど近い
、草花の慈勝寺を巡り、二の宮神社で締めようと思っていたのだが、時間切れ。本日の散歩はこれでお終い。平井川下流部散歩は次回へのお楽しみとし、平井川を渡り成り行きで五日市線・秋川駅に戻り、一路家路へと。
日光街道・千住宿散歩の2回目は北千住の千住本宿のあったあたりからはじめ、宿場を越えて昔の幕府天領・淵江領の村々を北に進み東京都足立区と埼玉の境を流れる毛長川に進もうと。途中関屋の里へと大きく寄り道をしたり、奥州古道の道筋をかすめたりと、ゆったりした散歩を楽しんだ。


本日のルート;北千住駅>森鴎外旧居橘井堂森医院跡>勝専寺>本陣跡>千住本氷川神社>伝馬屋敷跡>水戸街道分岐>甲良屋敷跡>西光院・牛田薬師>安養院>下妻道分岐>大川町氷川神社>千住新橋・荒川放水路>川田橋交差点>石不動>赤不動>梅田神明社>梅田掘>佐竹稲荷>環七交差>国土安穏寺>陣屋跡>鷲神社>増田橋跡>保木間氷川神社>十三仏堂>大曲>水神社>毛長川

北千住駅
北千住駅を西に下りる。駅前の商店や家屋が密集する一角に金蔵寺。三ノ輪の浄閑寺と同じく千住宿の遊女が眠る。千住宿はここ千住本宿と南千住近辺の小塚原・中村町といった千住新宿(下宿)を含め戸数350、住民数1700名弱。そのうち遊女(食売女)は50から70軒の食売旅籠に150人ほどいたと、言う。なんだか、なあ。

森鴎外旧居橘井堂森医院跡
日光街道へと道なりに進む。と、都税事務所脇に案内。見ると、「森鴎外旧居橘井堂森医院跡」。偶然出会った。鴎外旧居とはいうものの、正確には鴎外の父の家。維新後、津和野より上京し向島の小梅村をへて、この地に居を構えた。東大医学部を卒業し、軍医官となった鴎外が、ドイツ留学するまでここから陸軍病院に通ったところ。鴎外の家って、本郷団子坂の観潮楼が知られるが、それはドイツから帰国後のことである。

勝専寺
旧日光街道跡に戻り、少し東に進み勝専寺に。赤い三門ゆえに、「赤門寺」とも。この寺の千手観音が、千住の名前の由来、とか。13世紀とも14世紀とも定かではないが、ともあれ隅田川から拾い上げられたもの。浅草・浅草寺の観音縁起もそうだが、観音さま、って、川から拾い上げられるのが、有難いパターンであったのだろう、か。
境内にある閻魔堂の「おえんま様」は、その昔、藪入りで休みをもらった小僧さんで賑わった、と。閻魔って梵語で「静息」の意味。地獄さえ安息する、ということから、藪入休日と結びついた信仰だった、と(『足立の史話』)

本陣跡
再び旧街道筋に戻り北に進む。駅前の賑やかな商店街である。北に進み、北千住駅から西に、先回の散歩で訪れた千住龍田町交差点へと進む道筋を越えたあたりに本陣跡がある、と言う。ちょっと辺りを見渡すが、それっぽい案内は見つからず。
本陣って、なんとなく有難そうではあるが、身入りは良くなかった、と。そもそもが、御大名の参勤交代は、食料什器、寝具から風呂おけ、漬物樽に至るまで、すべて持参。本陣は宿賃をもらうだけ。その宿賃も安く、中には無料で宿を供することもあり、準備の割には身入りが少なかった、と言う(『足立の史話』)。

千住本氷川神社
千住3丁目へと。街道筋を少し東に入ったところに氷川神社。千住本氷川神社。この神社、
元々は北千住の東、墨堤通りを東に進み京成牛田駅、関屋駅あたり、牛田薬師で知られる西光院の近くにあった、よう。で、江戸時代に牛田氷川神社あたりの地域がこの千住3丁目に移転。ために、この地に分社。荒川神社と呼ばれた、と。その後、荒川放水路建設のため
牛田にあった氷川神社がこの地に移り合祀された。境内の古い社がそれ。新しい社殿は昭和45年に建てられたもの。

伝馬屋敷跡
北に進み千住4丁目に入る。このあたりまで来ると商店街も途切れ、ちょっと静かな屋並みとなる。と、いかにも昔風の家屋。家の前に案内板。横山屋敷、と。昔の伝馬屋敷跡。伝馬とは、幕府の公用の往来に供する人馬のこと。伝馬屋敷は、その宿役である、伝馬役、歩行役(人足役)を担った家のこと。一定の税を免除されるかわりに、その宿役を行った、と言う。この横山家は地紙問屋であった、とか。

水戸街道分岐
横山家の筋向いに人だかり。「かどやの槍かけだんご」とある。つつましやかなお店ではある。街道からちょっと東に入り、長円寺とその隣の氷川神社におまいりし、街道に戻る。十字路脇に石碑。「水戸海道」とある。日光街道はこのまま先に進むが、水戸街道はここで日光街道と分かれ東に折れる。交差点を東に進む細路が、それ。葛飾の新宿、松戸、小金をへて国道6号線筋を水戸に向かう。
荒川放水路を前にし、水戸街道分岐点で少々迷う。このまま日光街道を先に進むか、水戸街道を折れ北千住駅の東側の風景を眺めるか。とくに、先ほど千住本氷側神社で「出会った」、牛田の西光院が気になった。そこには石出帯刀の墓がある、と言う。伝馬町牢屋敷の長官。また、牛田の地は関屋の里。京成関屋駅、東武牛田駅がそのあたりだと。西光院も駅の近くにある。江戸の散歩の達人、村尾嘉陵も西光院・牛田薬師を訪ねている。それは行かずば、と言うことで、少々大回りとはなるが、関屋の里と石出帯刀ゆかりの地を巡るにことにする。

甲良屋敷跡
水戸街道跡の細路を東に向かう。ほどなく地下鉄千代田線、そして東武伊勢崎線のガードをくぐり、北千住駅の東側に。道なりに牛田・関屋の駅へと南に下る。足立学園の東を進む。と、南に巨大な空き地。JTの跡地。東京電機大学のキャンパスができるよう。北千住西口の東京芸大、東口の電機大と、北千住は大きく動いている。
電機大学キャンパス予定地の東に千寿常東小学校。このあたりに甲良屋敷があった、とか。甲良氏とは江戸城や日光東照宮の造営をおこなった江戸幕府の作事方大棟梁。その別荘がこの地にあった。一万坪といった大規模なお屋敷。現在は殺風景な工事現場のシールドが続くが、往古、風光明美なところであったのだろう。

西光院・牛田薬師
道なりに進み東武伊勢崎線の牛田駅、そしてすぐ隣の京成線関屋の駅に。周辺は北千寿住駅周辺の再開発とは別世界の「昭和」の雰囲気が色濃く残る。ちょっと前までの千住地区って、こういう街並みであった、かと。
東武線と京成線の間の道を進み、京成線のガードをくぐり、都道314号線を越え東武伊勢崎線堀切駅方面に。住宅の密集する一角に西光院・牛田薬師があった。
お江戸の散歩の達人、村尾嘉陵の『江戸近郊道しるべ』に「牛田薬師・関屋天神手向けの尾花」という記事がある。この牛田薬師や、今は千住仲町に移った関屋天神を訪ねている。風光明媚な地に遊んだのだろう。
悠々自適の隠居のお坊さん・十方庵がたっぷりの余暇を生かし江戸近郊を散策し表した『遊暦雑記』には、牛田を愛でる記事がある。「此の双方の堤(掃部堤、隅田堤)の眺望風色言わん方なく、なかんづく遥かに南面すれば綾瀬川のうねりて、右に関屋の里を見渡す勝景、天然にして論なし(『足立の史話』)」、と。想えども、描けども、その景観は現れず。 
西光院は山号・千葉山。本尊薬師は千葉介常胤の守護仏、と。千葉介常胤、って上総権介広常とともに源頼朝の武蔵侵攻の立役者。頼朝は常胤を「師父」と称した、ほど。由緒あるお寺さまである。
で、石出帯刀。常胤の流れ、と言う。小伝馬町牢屋敷の牢屋奉行。明暦の大火のおり、牢屋を開け放ち、猛火から収監者を救った。囚人の戻りを信じてのこと、と言う。牢屋奉行と言うので、結構強面の人を想像していたのだが、国学者としても有名で、晩年はこの地で著作に没頭した、と(『足立の史話』)。

養院
荒川を目前に、なんとなく気になった牛田・関屋の地もカバーし、早足で水戸街道分岐点まで戻る。分岐点を北に進む前に、分岐点の少し西にある安養院に。根拠はないのだが、板橋にしろ、鎌倉にしろいままで訪ねた安養院って、雰囲気いいお寺様であった。で、このお寺は鎌倉時代、北条時頼によって創建。千住で最古のお寺様。元はこの地の西、元宿(千住元町)にあり長福寺と呼ばれていたが、この地に移り安養院となった。

下妻道分岐
分岐点に戻り、街道跡を北に。ほどなく道は二つに分かれる。接骨で名高い名倉の総本家の少し手前である。分岐点を直進する道は昔の下妻道。北に進み、五反野の駅から流山を経て水戸徳川家ゆかりの地・下妻に続く。
日光街道は左に折れる道。西北に大きくカーブし千住新橋をクロスし、荒川に架かる千住新橋の少し上流、川田排水機場あたりに続く。現在、荒川が流れているが、この川は人工放水路。明治からはじまり昭和5年に完成したわけで、日光街道の往還賑やかなりし頃は、その姿、影もなし。

大川町氷川神社
道を進み荒川堤防手前に。川を渡る前に少し西、堤防脇にある氷川神社に。ここは、いつだったか、竹の塚から奥州古道に沿って下ったときに訪れたことがある。西新井橋を渡り、軒先をかすめるがごとく、って有様の千住元町を通り、元宿神社におまいりし大川町のこの氷川神社を訪ねた。
もとは現在地より北にあったものが、荒川放水路工事のため大正4年(1915年)現在地に移された。境内の浅間社も同じあたりから移されたもの。ちなみに、元宿の元宿神社も同じく荒川放水路工事のために移された。土手下で、なんとなく窮屈な感じがする。
浅間社脇には富士塚も残る。富士信仰の名残り。富士山は古来神の宿る霊山として信仰の対象となっていた。富士山参詣による民間の信仰組織がつくられていたのだが、それが富士講。とは言うものの、誰もが富士に行ける訳でもない。で、近場に富士山をつくり、それをお参りする。それが富士塚である。
散歩の折々で富士塚に出会う。葛飾(南水元)の富士神社にある「飯塚の富士塚」や、埼玉・川口にある木曾呂の富士塚、狭山の荒幡富士塚など、結構規模が大きかった。富士講は江戸時代に急に拡大した。「江戸は広くて八百八町 江戸は多くて八百八講」とか、「江戸にゃ 旗本八万騎 江戸にゃ 講中八万人」と。
境内に「紙漉歌碑」。足立区は江戸時代から紙漉業が盛ん。地漉紙を幕府に献上した喜びの記念碑。浅草紙というか再生紙は江戸に近く、原材料の紙くずの仕入れも簡単、地下水も豊富なこの足立の特産だった。

千住新橋・荒川放水路
大川町氷川神社を離れ、千住新橋に戻り荒川を渡る。この荒川は人工の川である。昔、荒川の本流は隅田川へと下る。が、隅田川は川幅がせまく、堤防も低かったので大雨や台風の洪水を防ぐ ことができなかった。江戸の頃、上流で荒川の流路を西に移し、入間川の川筋に流すようにしたためである。ために、暴れ川・荒川の水が入間川をへて下流の隅田川へと押し寄せる。
これを避けるため、明治44 年から昭和5年にかけて、河口までの約22km、人工の川(放水路)を作る。大雨のとき、あふれそうになった水をこの放水路(現在の荒川)に流すことにした、わけだ( 上で、現在の隅田川の名前を荒川と言うべきか、入間川というべきか、ということで、「隅田川(荒川・入間川)」といった表記にしたのは、こういった事情である)。

放水路建設のきっかけは明治43年の大洪水。埼玉県名栗で1,212mmの総雨量を記録。荒川のほとんどの堤防があふれ、破堤数十箇所。利根川、中川、荒川の低地、東京の下町は水没した。流出・全壊家屋1,679戸。浸水家屋27万戸、といったもの。
荒川放水路の川幅は500m。こんな大規模な工事を、明治にどのようにして建設したのか、気になり調べたことがある。その時のメモ;第一フェーズ)人力で、川岸の部分を平 らにする。 掘った土を堤防となる場所へ盛る。第二フェーズ)平らになった川岸に線路を敷き、蒸気掘削機を動かして、水路を掘る。掘った土はトロッコで運ばれて、堤防 を作る。第三フェーズ)水を引き込み、浚渫船で、更に深く掘る。掘った土は、土運船やポンプを使い、沿岸の低地や沼地に運び埋め立てする。浚渫船がポイン トのような気がした。
荒川放水路工事でもっとも印象に残ったのは青山士(あきら)さん。荒川放水路工事に多大の貢献をした技術者。明治36年、単身でパナマに移 り、日本人でただひとり、パナマ運河建設工事に参加した人物。はじめは単なる測量員からスタート。次第に力を認められ後年、ガツンダムおよび閘門の測量調 査、閘門設計に従事するまでに。明治45年、帰国後荒川放水路建設工事に従事。旧岩淵水門の設計もおこなう。氏の設計したこの水門は関東大震災にも耐えた 堅牢なものであった。
業績もさることながら、公益のために無私の心で奉仕する、といった思想が潔い。無協会主義の内村鑑三氏に強い影響を受けたと される。荒川放水路の記念碑にも、「此ノ工事ノ完成ニアタリ 多大ナル犠牲ト労役トヲ払ヒタル 我等ノ仲間ヲ記憶セン為ニ 神武天皇紀元二千五百八十年 荒川改修工事ニ従ヘル者ニ依テ」と、自分の名前は載せていない。2冊ほど伝記が出版されているよう。晩年の生活はそれほど豊 かではなかった、と。ちなみに、日露戦争において学徒兵として最初に戦死した市川紀元二はお兄さん、とか。

川田橋交差点
千住新橋北詰を左に折れ、堤防上を進む。右手下に川田橋排水場を見ながら、善立寺あたりで堤防を降りる。川田橋交差点。川もなにもない。昔の千住掘本流が流れていた名残り、かと。見沼代用水を水源とする千住掘はここから大川町の氷川神社のあたりに下り、中居掘となる。そこからは元の区役所前を流れ牛田で隅田川に落ちていた。旧日光街道は川田橋から千住掘にそって北に進む。

梅田
荒川を渡れば千住から梅田となる。昔は淵江領梅田村。現在は荒川の堤防が聳え、家屋が軒を連ねる住宅街ではあるが、昔は野趣豊かな一帯であった。「のどかさや 千住曲がれば野が見える」とは正岡子規の句。新編武蔵野風土記稿には「当村(梅田村)は往古は海に沿えたる地。後寄洲となりて開けし故、淵江村と唱えり」と。湿地や深田が目立つ一帯であった、と(『足立の史話』)。

石不動
湿地中の縄手(田圃の中の一本道)といった街道を想いながら先に進む。縄手とはいいながら、街道は5間と定められていたようだし、そうであれば幅9m。結構広い。ともあれ、街道を北に。ほどなく道脇に小祠。石不動。まことにつつましやかなお堂。耳の病に効能あった、とか。お堂の扉にかかる竹筒は、願が成就したときにお礼にお酒を入れてここに奉納した、と。

赤不動
お堂の脇にある「八彦尊道」の道標を目印に左に折れ、八彦尊のある赤不動・明王院に向かう。道なりに西に向かって500mほどすすむと赤不動。境内に八彦尊の祠。子育てと咳病みに効能あり、と。赤不動の由来は、本尊であるお不動様のある不動堂が赤く塗られていた、から。で、このお不動さんは弘法大師の作とする。縁起は縁起、とはいうものの、回向院で出開帳(でがいちょう)が開けたくらいだから、まことに有難い仏様であったのだろう。幕府の御朱印寺でもあった。
この寺の歴史は古い。源頼朝の叔父である志田先生(せんじょう)義広が源家の祈願所として一宇を立てたことにはじまる。志田三郎義広はその後、木曽義仲に従い転戦、宇治川の合戦で敗れ伊賀に敗走、その地で果てる。
その後、義広の子孫がこの地に戻り、寺脇に天神様を勧請。紋所である「梅」ゆえに、梅田の姓に改めた。梅田の地名の由来、と言う。
ちなみに、赤不動が出開帳をおこなった回向院は墨田区両国にある。全国のお寺の秘仏を公開する出開帳(でがいちょう)の寺院として大いに賑わったお寺。幕末までの200年間に計160回の出開帳(でがいちょう)を実施。出開帳を主催する寺・「宿寺」として日本でナンバーワンの実績。あと、深川永代寺、浅草・浅草寺と宿寺ランキングが続く。ちなみに、江戸出開帳の中でも、圧倒的集客を誇ったお寺・秘仏は京都・嵯峨清涼寺の釈迦如来、善光寺の阿弥陀如来、身延山久遠寺の祖師像、成田山新勝寺の不動明王の四つと『観光都市江戸の誕生:安藤優一郎(新潮新書)』に書いていた。出開帳はビッグビジネスでもあった、とか。

梅田神明社
赤不動を離れ道なりに北に向かう。ほどなく東西に神明通り商店街の道が通る。この昔の王子道に沿って梅田神明神社。江戸時代、禊教の祖、井上正鉄(まさかね)が神明社の神職をしていた。天保の頃、と言うから19世紀のはじめのことである。「吐菩加美神道」という名前ではじまったこの神道は、一般庶民から幕閣の中にまで大きな影響を与える。その勢いに幕府は、倒幕運動のおそれあり、と。井上正鉄は三宅島に流罪、その地で病没した。

梅田掘
王子道を西に進み遍照院や稲荷神社におまいり。稲荷神社の先を北に折れる。この通りは昔の梅田掘の跡。梅田掘を西掘とも呼ぶるのは、梅田の西の端、関原との境を流れていた、から。道脇に立つマンションの敷地も、もとは池であった、とか。梅田の低湿地帯を思い描く。道の西は関原。先回、竹の塚から奥州古道を南に下ったときに訪れた関原の関原不動尊大聖寺は目と鼻の先。オビンズル様が懐かしい。

佐竹稲荷
道なりに先に進み、成り行きで右に折れ旧日光街道筋へ戻る。旧街道の少し手前に佐竹稲荷神社。構えはささやかではあるが、小さな鳥居の連なりは、それなりの趣が残る。この地は往時、一万坪にも及ぶと言われる秋田藩・佐竹氏梅田抱屋敷跡。抱屋敷とは上屋敷や下屋敷といった幕府から拝領された屋敷ではなく、秋田藩が私的に購入したもの。上屋敷って、上野の近く、元の三味線掘のところにあったわけで、場所も比較的近い。ここで野菜などをつくっていたのだろう、か。
もっとも、足立のこのあたりって、佐竹氏と縁のある地ではある。足立の北東、花畑の大鷲(おおとり)神社が、それ。つながりは平安の昔、佐竹公の遠祖と言われる新羅三郎の伝説まで遡る。後三年の役で戦う兄、八幡太郎義家を助けるために奥州に向かう途中、この社に立ち寄り戦勝祈願。凱旋の折には武具を献じた。これがきっかけとなり、その後、遠祖ゆかりの神社ということもあり、改築などを佐竹藩が行っている。神社の紋も佐竹氏と同じ「扇に日の丸」と言う。
この大鷲神社は浅草の「お酉さま」発祥の地。お殿様も屋形船に乗り綾瀬川を遡り、お酉さまに詣でた、と。「常はかじけたる貧村といへども、霜月の例祭の日は諸商人五七町の間畷側に居ならび天地もなく振ふ様は、市といへど左ながら町続のごとし、依て酉の市を転語して酉の町といひならはせしもしるべからず(『十方庵遊歴雑記』)」、といった雑踏の中、佐竹のお殿様も縁日を楽しんだのだろう。こういった縁もあり、この地に抱え屋敷をもったのだろう、か。空想では、ある。ちなみに、酉の市の賑わいの一因、というか主因は「賭博」公認にある、と。賭博が禁止されると、この地のお酉さまは急速に元気を失った、とか。

環七交差
旧日光街道筋に戻る。先に進むと東武伊勢崎線・梅島駅。このあたりの地名、梅島は梅田と島根に挟まれた地故に、「梅」田+「島」根>梅島、と。地名でよくある、足して弐で割る、といったもの。
先に進むと道脇に「大正新道記念碑」。千住で鴎外の書いた「大正道記念碑」もそうだが、道づくりの記念碑が目につく。大正の頃、低湿地に新道がつくられ、このあたりが開かれていったのだろう、か。記念碑から100mほどで環七にあたる。

国土安穏寺
環七を越えると島根に入る。島根の由来。古くは島畑村と。島畑とは水田の中に点在する畑のこと。また、文字通り、島、というか微高地の根っこ・水際、とも。先に進むと、「将軍家御成橋」の碑。日光街道はこのあたりでは、道の西側は千住掘、東側は竹の塚掘りが流れていたわけで、この橋は千住掘にかかる橋。左に折れると、葵の紋を許された御朱印寺・国土安穏寺への御成り道となる。
もとは妙覚寺。将軍の鷹狩り・日光参詣の御膳所。葵の御紋を授けられたきっ かけは、あの宇都宮の釣り天井事件。三代将軍・家光、日光参拝の折りこの寺に立ち寄る。住職の日芸上人より、「宇都宮に気をつけるべし」。で、家光、宇都 宮泊を取りやめる。公儀目付け役が宇都宮城チェック。将軍を押しつぶすべく仕掛けられた釣天井を発見。宇都宮城主は二代将軍秀忠の第三子国松(駿河大納言 忠長)の後見役・本多正純。家光を亡きもの にして国松を将軍にしようと陰謀をはかったといわれている。日芸上人によって九死に一生を得た家光は、妙覚寺に寺紋として葵の御紋を。寺号を「天下長久山 国土安穏寺」とした。ちなみに、釣り天井事件の真偽の程不明。本多正純を追い落とす逆陰謀、といった説も。
落ち着いたいい雰囲気のお寺様。これで2度目ではあるが、今回は本堂の建て替え工事の最中であった(2009年9月)。

陣屋
国土安穏寺を西に進む。T字路に。直ぐ南に立派な枝ぶりの松が門前にある御屋敷。もと名主の御屋敷。陣屋跡と言うことで、どこの旗本の陣屋かと、などと思ったのだが、どうも八幡太郎義家が陣を置いたところ、とか。
それにしても今回歩いた道筋には義家とその父・頼義親子ゆかりの地が多い。荒川区南千住1丁目の円通寺>南千住6丁目の若宮八幡>南千住8丁目の熊野神社>足立区千住宮元町の白旗八幡>島根の陣屋。そして、ここから北は先回、といっても数年前の散歩で出会った六月3丁目の炎天寺>竹の塚6丁目の竹塚神社>伊興の白旗塚と実相院>花畑の大鷲神社、などなど。その時は、なんと同じ類の伝説が現れるものよ、などとメモした覚えがあるが、よくよく考えれば、このゆかりの地を繋げば、これって奥州古道の道筋、かと。伝説も見方を変えれば、違った世界が見えてきた。

鷲神社
陣屋から北に進む。古の奥州古道跡を歩いていると、思い込む。成り行きで東に進み旧街道に戻る。島根鷲神社の看板。街道から少し西に寄り道。文保2年(1318年)武蔵国足立郡島根村の地に鎮守として創建され、大鷲神社と唱えたと伝えられる。島根村は現在の島根・梅島・中央本町・平野・一ツ家などの全部または一部を含む大村。村内に七祠が点在していたが、元禄の頃、 このうち八幡社誉田別命、明神社国常立命の二桂の神を合祀し三社明神の社として社名を鷲神社に定めたという。花畑の大鷲神社も立派だったが、鷲の宮町の鷲神社がいかにも鷲神社の本家本元といった風情があった。この鷲神社もそこから勧請されたものであろう、か。

六月
鷲神社を越えると昔の淵江郷島根村を越え淵江郷六月村に入る。六月村と言えは、日光街道の西に炎天寺や八幡さま、西光院、常楽寺、万福寺といった神社仏閣が連なる。奥州古道沿いに集落が開けていたのだろう。この寺町は以前歩いたことがあるので、今回はパス。日光街道を一路北に進む。昔は六月村の街道のどこかに一里塚があった、はず。「一里塚。日光海道の左右に対して築けり。塚上に榎を植置けり」と風土記にある一里塚も、今はその場所不明。

増田橋跡
南北に短い元の六月村を越えると次は元淵江郷竹の塚村。竹の塚3丁目交差点に。ここから西北に続く道は赤山街道。川口の赤山にある関東郡代・伊奈氏の陣屋・赤山陣屋に続く道。散歩の折々に出会う名代官の家系の陣屋跡を訪ねたのは数年前。緑に囲まれた赤山城址は落ち着いた、いい雰囲気であった。
竹の塚3丁目交差点は往古、増田橋のあったところ。赤山街道に沿って南側を千住掘、北側を竹の塚掘が流れていた。どちらも赤山の先から続く見沼代用水を水源とする用水である。千住掘はこの交差点で道なりに曲がり、日光街道の西側を下る。竹の塚掘は日光街道を横断し、一部はそのまま東に、残りは街道の東側を南に下る。街道を横断する竹の塚掘にかかっていたのが増田橋であった。五差路となっている竹の塚3丁目交差点には、その面影は、今は、ない。

江郷保木間村
北に進む。竹の塚駅一帯は以前の散歩で歩いた。竹の「塚」の地名の由来でもある、伊興の古墳跡も印象に残る。寺町、見沼代用水跡に造られた親水公園など思わぬ見どころも多く、再び廻ってみたいのだが、今回はパス。
北に進む。ほどなく旧竹の塚村を離れ淵江郷保木間村に入る。地名の保木間は、もともとは「堤や土地の地滑りを防ぐ柵」のこと。一面の湿地帯を開拓し集落をつくったときに、集落を護るこの柵のことを地名とした、のだろうか。「ほき」は「地崩れ」、「ま」は「場所」、と。

保木間氷川神社
竹の塚5丁目交差点を越えると淵江小学校。その手前に東に折れる細路。流山道とも成田道とも呼ばれる古道跡。東には花畑の大鷲神社や成田さん、西には西新井のお大師さんに続く信仰の道。少し歩くと氷川神社と宝積院。同じ境内といった風情。いかにも神仏習合といった名残を残す。点前の境内を進み氷川神社に。
保木間地区の鎮守さま。もと、この地は千葉氏の陣屋跡。妙見社が祀られていた。妙見菩薩は中世にこの地で活躍した千葉一族の守り神。千葉一族の氏神とされる千葉市の千葉神社は現在でも妙見菩薩と同一視されている。菩薩は仏教。だが、神仏習合の時代は神も仏も皆同じ、ってこと。
後に、天神様をまつる菅原神社、江戸の頃には近くの伊興・氷川神社に合祀。この地で氷川神社となったのは明治5年になってから。本殿の裏手に富士塚。鳥居には「榛名神社」。ということは、富士は富士でも榛名富士?お隣の宝積院は氷川神社の別当寺。山号は北斗山。妙見様は北斗七星のことであるので、神仏渾然一体を名前で示す。
氷川神社と宝積院の一帯は足尾鉱毒事件のゆかりの地。鉱毒被害を訴えるため東京へと向かう栃木・渡良瀬の農民3,000余名を田中正造が制止したのがこの地。境内を埋め尽くす農民に正造が自重を促す演説。この懇請を受け、農民は渡良瀬へと引き返した。
十三仏堂
旧街道に戻り北に。淵江小学校を越えてすぐ、道脇に十三仏堂。堂宇には十三仏信仰のよすがとなる十三の仏様が安置していたのであろう。現在は数体欠ける、とか。
十三仏信仰は、平安末期の十王信仰からはじまる。人は没後、閻魔大王など十王の裁きを受ける。で、その十王は同時に仏の化身であり(閻魔大王=地蔵菩薩なと)、生前にその十王・十仏を祀ることにより、その裁きを軽くしてもらおう、というのが十王信仰。
その後室町に三王・三仏が加わり十三仏信仰となった、とか。風土記には「行基の作れる虚空蔵の木像を案す」とあり。結構古い御堂なのだろう、か。

大曲
北に進む。西保木間3丁目交差点に。バス停に「大曲」、と。道は右にカーブする。現在はありふれた街並みが続くが、往古、旧街道を作る時はこのあたり一帯に湿地が広がり、大きく曲がるしか術はなかった、と(『足立の史話』)。実際、直ぐ北に毛長川の流れがあるわけで、毛長川流域の湿地が一帯に広がっていたのだろう。

水神社
往古、湿地帯であったろうところに建て並ぶ小学校、清掃工場、スポーツセンターなどを眺めながらカーブを大きく曲がり先に進む。ほどなく国道4号線バイパス。国道を越え都道・県道49号線に合流する手前に水神社。風土記稿に「今社傍に二畝許の沼あり、土人水神ガ池と云う。此辺の水殊に清冷にして、煎茶の売家あり、人これを水神カ茶屋と云」とある(『足立の史話』)。] 今となっては沼もないし、ましてや茶屋などあるわけもないのだが、この沼には水神伝説が残る。
昔、このあたりに小宮某という元北面の武士が住んでいた。ある日、釣りをしているとき、森より蛇が襲う。腕に自信の小宮某は蛇を切り殺す。が、毒臭に冒され日ならずしてなくなる。小宮某を祀るために榎が植えられ、蛇の霊を祀って水神社とした、と。もとより、この小宮榎、現在は跡かたも、なし(『足立の史話』)。

毛長川
水神社から元国道4号線である都道49号線を北に。直ぐ毛長川に。この川は東京都と埼玉県の境。川に架かる毛長橋を渡れば埼玉

県草加市。道も県道49号線となる。南千住からはじめた日光街道散歩も、これでお終い、とする。成り行きで北千住駅まで戻る。ありふれた街並みも『足立の史話』のおかげで少々の想像力とともに時空散歩が楽しめた2日でありました。
荒川区の南千住と足立区の北千住。散歩の折々に「顔を出す」地名である。浅草を歩き、仕上げにと吉原遊女の投げ込み寺である浄閑寺を訪ねたときなど、散歩の終点として南千住に辿り着いた。東京と埼玉の境を流れる毛長川周辺の伊興遺跡や、その昔お酉さまで賑わった鷲神社を訪ねる散歩のスタート地点として北千住を訪ねたこともある。散歩の始点、終点として北千住・南千住を「かすめた」ことは数限りない。
南千住から北千住にかけ江戸四宿のひとつである千住宿があったことも知ってはいた。が、なんとなくそこを歩いてみようといった気持ちはあまり起こらなかった。どうせのこと、なんということのない街並みが続くだけであろう、といった想いではあった。むしろ、日光街道の少し東、隅田川の自然堤防の上を走る奥州古道のほうが面白そう、ということで、足立区・竹の塚から南千住まで歩いたことがある。前九年・後三年の役の奥州征伐に進む八幡太郎義家のゆかりの地や武蔵千葉氏の居城のあった淵江城跡(中曽根神社)などそれなりに時空散歩が楽しめた。関原不動尊で見た「オビンズル様」も記憶に残る。

 ことほど左様に、どうもねえ、といった塩梅であった日光街道・千住宿を歩いてみようと思ったきっかけは、古書展示会で偶然手に入れた『足立の史話:勝山準四郎(東京都足立区役所)』。副題は「日光街道を訪ねて」とある。足立区内の日光街道周辺のガイドでもあるので、千住宿だけでなく、荒川を越えて竹の塚から埼玉県境までの日光街道のあれこれが紹介されている。この本があればありふれた商店街の風景の中にも、なんらかの「古きノイズ」を感じられるかとも思い、『足立の史話』を小脇に抱え、と言うか、リュックのサイドポケットに差しこんで散歩に出かけることにした。



本日のルート;南千住駅>回向院>小塚原刑場跡>鰻屋「尾花」>浄閑寺>三ノ輪>三ノ輪橋跡>百観音・円通寺>スサノオ神社>誓願寺>熊野神社>千住大橋>芭蕉・奥の細道出立の地>やっちゃ場跡>掃部堤跡(墨堤通り)>関屋天神>源長寺>大正記念道碑>お竹の渡し>熊谷堤跡>問屋場跡>北千住駅

日比谷線南千住駅
南千住駅で下車。北口駅前にわずかに昭和の風情が残るが、周辺は都市開発がどんどん進んでいる。駅も新しくなっていた。空き地と迷路のような下町の街並みが広がると言われた南千住も次第に様変わりしている。駅を離れ小塚原の回向院と刑場跡に向かう。

回向院
駅の直ぐ隣り、吉野通りと常磐線が交差する手前に回向院。鉄筋のお寺。イメージとは大いに異なる。このお寺は本所回向院の住職が行き倒れの人や刑死者の供養のために開いたお寺。安政の大獄で刑死した橋本左内、吉田松陰、頼三樹三郎ら多くの幕末の志士が眠る。毒婦・高橋お伝も。明和8年(1771年)、蘭学者杉田玄白・中川淳庵・前野良沢らが、小塚原の刑死者の解剖に立会ったところでもある。

小塚原刑場跡
小塚原刑場は線路のど真ん中。常磐線を越え、日比谷線のガードをくぐり、隅田川貨物線の線路を跨ぐ陸橋手前、右手にささやかな入口。そこが小塚原刑場跡(延命寺)。正面には大きな首切り地蔵。刑死者をとむらうため寛保1年(1741年)につくられた、と。ともあれ、刑場跡は常磐線と隅田川貨物線の線路群に囲まれた「三角州」に、かろうじて残っていた、という状態であった。 小塚原刑場跡は現在延命寺となっている。これは回向院の境内が常磐線建設で分断されたとき、分院独立した、と。
刑場は諸説あるが、大きくても間口100m程度、奥行き50m程度。刑場自体はそれほど広くない。とはいうものの、明治期に刑場が廃されるまでに埋葬された受刑者数はおよそ20万人にのぼるといわれる。刑場を含めた一帯は結構な広さがあったのだろう。現在では、線路に挟まれた、まことに「無機質」な一帯ではあるが、往時、周囲は荒涼とした風景が広がっていたのだろう。

昔の風景を想う。戦国期の南千住のあたりの地図を眺めてみると、浅草から橋場・石浜など、隅田川(当時は、荒川とも入間川とも)に沿って砂州・微高地がある。同様に、現在の千住大橋・素盞雄(スサノオ)神社近辺にも砂州が認められる。が、その内側、千住大橋から三ノ輪を結ぶ線より東は入り江状態。南千住駅の東一帯を「汐入地区」と呼ぶ所以である。その線より西は三河島のあたりまでは泥湿地帯となっている。源頼朝が浅草・石場から王子へと平家討伐軍を進めるに際し、小船数千を並べて浮橋とした、というのも大いにうなずける。江戸以前、南千住の一帯は、入間川・荒川(隅田川)沿いに堆積した砂州を除き、ほとんどが水の中・湿地帯であった、ということだ。刑場の周囲は「荒涼」といった乾いた風情、と言うよりも、低湿地・泥湿地帯と言ったほうがよさそう、だ。
この小塚原もそうだが、品川の鈴が森の刑場も、昔の刑場跡は線路や道路に挟まれた狭隘な場所として残る。これら刑場は日光街道や東海道といた主要街道脇にあったわけで、それって見せしめのためには人目の多いところがよかろう、といった考えもあったのだろうが、それが都市化が進むに際し、道路拡張などのためイの一番に潰されていったのだろう、か。もっとも、何十万もの受刑者が眠る地の再利用は、道路にするか、この小塚原のように操車場にするしか、術はないかもしれない。

鰻屋「尾花」
刑場跡を離れ、回向院脇の道を常磐線に沿って西に進む。先回このあたりを歩いたとき、とほうもない行列のつづく店があった。あまり食べ物に興味がないため、さてなんのお店であったのだろう、とは思いながらも先に進み日光街道に出た。あとで調べてみる
と、「尾花」という有名な鰻屋さんであった。今回はどうだろう、と前を通る。休日でお店は閉まっていた。いかにもお店を探している、っぽい一団が、お店の前で途方に暮れていた。

浄閑寺
日光街道に出る前に、ちょっと浄閑寺に。明治通りと日光街道の交差点を一筋北に。地下鉄入口の丁度裏手あたりにある。浄土宗のこのお寺さん、安政2年(1855年)の大地震でなくなった吉原の遊女が投げ込み同然に葬られたため「投込寺」と。川柳に「生まれては苦界 死しては浄閑寺」と呼ばれたように、吉原の遊女やその子供がまつられる。
このお寺に向かうのは、「投げ込み寺」へのおまいり、もさることがら、往古、このあたりを流れていた川筋に想いをはせる、ため。石神井川から分水された水路である「音無川」が王子から京浜東北線に沿って日暮里駅前に。そこからは台東区と荒川区の境、昔の根岸の里を経て三ノ輪に。水路はそこで二手に分かれ、ひとつは「思川」となり明治通りの道筋を進み、泪橋をへて隅田に注ぐ。もう一方は、山谷掘となる。いまはすべて暗渠ではある。

三ノ輪
浄閑寺を離れ三ノ輪交差点に。明治通り、元の山谷掘筋からの道筋、昭和通り、そして国際通りがこの地で合流し日光街道となり北に向かう。「三ノ輪」は「水の輪」から転化したもの。往時この地は、北の低湿地・泥湿地、東・南に広がる千束池に突き出た岬といった地形であった。

三ノ輪橋跡
交差点道脇に「三ノ輪橋跡」の碑を確認。昔、音無川に架かる橋。現在は暗渠となっている。先にメモしたように、王子から流れてきた音無川は、この先浄閑寺前でふた手わかれ、一筋は「思川」、あと一筋は「山谷堀」となり、ともに隅田川に流れこむ。

百観音・円通寺
三ノ輪橋跡より日光街道を北に、千住大橋に向かって進む。道の左手に百観音・円通寺。延暦10年(791年)、坂上田村麻呂の開創とか。また、源(八幡太郎)義家が奥州平
の際、討ち取った首を境内に埋めて塚を築く。これが小塚原の由来、とも。江戸時代、下谷の広徳寺、入谷の鬼子母神、簔輪の円通寺、この三つのお寺を下谷の三寺と呼ぶ。秩父・坂東・西国霊場の観音様を百体安置した観音堂があったため、「百観音」とも。
境内に上野寛永寺の黒門が。上野のお山でなくなった彰義隊の隊士をこのお寺の和尚さんが打ち首覚悟で供養した。官軍に拘束されるも、結局埋葬・供養を許される。京都散歩のとき、黒谷金戒光明寺に会津小鉄のお墓があった。鳥羽伏見の戦いでなくなった会津の侍を命がけで埋葬。坊さんと侠客と、少々キャラクターは異なるが、その話とダブって見える。

素盞雄(スサノオ)神社
少し先に、素盞雄(スサノオ)神社。「てんのうさま」とも。この神社、石神信仰に基づく縁起をもつ。延暦14年(795年)、石が光を放ち、その光の中から素盞雄命と事代主命・飛鳥大神(ことしろぬしのみこと)が現れて神託を告げる。その石を瑞光石と呼ぶ。光の中から出現した二神が祭神。
江戸名所図会には「飛鳥社小塚原天王宮」と書かれている。「てんのうさま」と呼ばれる所以である。素盞雄(スサノオ)神社は明治になって作られた名称だろう。そもそも「神社」って名称は明治になってから。「天王」さまでは、音読みで「天皇」と同じ。それでは少々不敬にあたるだろう。で、何かいい名称は?そうそう、朝鮮半島の牛頭山に素盞雄(スサノオ)が祀られており、スサノオのことを牛頭天王(ごずてんのう)とも呼ばれる。であれば、ということで、「天王宮」を「素盞雄(スサノオ)神社、としたのではないだろう、か。単なる空想。根拠なし。
瑞光石と言えば、散歩の折々、石を神として祀る神社も時々出会う。石神井神社、江東区亀戸の石井神社、葛飾立石の立石様、といったもの。石といえば、この素盞雄(スサノオ)神社の石は、千葉県鋸山近辺の「房州石」であり、この石材は古墳の石室に使われる。よって、素盞雄(スサノオ)神社って古墳跡では、とも言われている。隅田川の自然堤防上、周囲低湿地・泥湿地帯に囲まれた砂州に古墳がつくられていたのだろう。

誓願寺
神社の裏手に荒川ふるさと文化館。ちょっと立ち寄った後、千住大橋の袂の誓願寺に。奈良時代末期、恵心僧都源信の開基と伝えられる。源信といえば、『往生要集』(985年)。地獄・極楽を描き出し、ゆえに極楽浄土への往生をすすめる浄土教基礎を確立した人物。恵心は叡山で学んでいたときの道場名である。
境内には親の仇討ちをした子狸の「狸塚」。お寺の隣にあった魚屋の魚が無くなる。不審に思った近所の人たちがウォッチ。古狸の仕業。で、打ち殺す。その夜から、魚屋の魚が宙に浮く。祈祷師に見てもらうと、子狸が親の敵討をしていた、といった按配。隅田散歩での多門寺にも狸塚が、あった。狸塚って、結構多い。

熊野神社
誓願寺の近く、民家に囲まれたところに熊野神社。入口に門があり鍵がかかっているような、いないような、ということで中に入るのは遠慮し、外からちょいと眺める。創建は永承5年(1050年)。源義家の勧請によると伝えられる。千住大橋を隅田川にかけるにあたり、関東郡代・伊奈忠次が成就祈願。橋の完成にあたり、その残材で社殿の修理を行う。以後、大橋のかけかえ時に社殿修理をおこなうことが慣例となった。
神社のあたりは材木、雑穀などの問屋が立ち並ぶ川岸であった。奥州道中と交差して川越夜舟、高瀬舟がゆきかい、秩父・川越などからの物資の集散地としてにぎわった。秩父の材木は筏に組んで流され、千住大橋南詰めの山王社(日枝神社)前で組み替え、深川方面に運ばれた。ために、このあたりは材木屋が立ち並んでいた、とか。
川越夜舟は急行、鈍行取り混ぜての船運であるが、川越を午後4時に出発し、翌朝千住河岸に着く便が多いので、こう呼ばれたのだろう。新河岸川を川越からはじめ和光まで下ったことが懐かしい。

千住大橋
千住大橋に。荒川ふるさと文化館で購入した「常設展示目録」をもとに、メモする:文禄3年(1594年)、家康の命により、伊奈忠次が総指揮を執る。万治3年(1660年)に両国橋が架けられるまでは「大橋」と。奥州・日光方面への入口として交通・運輸上の要衝。橋を渡ると足立区。 千住大橋の南北に広がる千住宿は、江戸四宿のひとつ。日光道中の最初の宿駅。参勤交代や将軍の日光参詣など公用往来の重要な継立地。橋の南の小塚原町、中村町は「千住下宿」として諸役人の通行や荷物搬送のため人馬を提供。奥州方面への玄関口として街道筋がにぎわい、荒川を上下する川舟の航行が盛んになると、さまざまな職業の店が立ち並ぶ宿場町を形成」、と。
千住大橋建設のスポンサーは仙台伊達藩。参勤交代でこの街道を通ることになる64の諸侯のうちでも最大の大藩ゆえ、受益者負担といったことで幕府から下命があったのだろう。その見返りに、帰国の際にこの橋の上で火縄50発の空砲を撃つことが許されていた、とか。「立つときに雀大きな羽音させ(仙台藩の紋章は竹に雀)」といった川柳が残る(『足立の史話』)。

松尾芭蕉・奥の細道出立の地
橋を渡り足立区に。橋の北詰めの護岸に少々無粋なペイント。よくよく見ると松尾芭蕉・ 奥の細道旅立ちを記念する文言。「弥生も末の七日、千じゅという云所にて船をあがれば、前途三千里のおもひ胸にふさがりて、幻のちまたに泪をそそく。行春や鳥啼 魚の目に泪」。世に知られる出立の章である。元禄2年、と言うから1689年、芭蕉46歳の春のこと。

やっちゃ場跡
日光街道に戻る。このあたりは千住橋戸町。文字通り橋の戸口といった意味であろう。日光街道の東に中央卸売市場足立市場。橋戸町の北、河原町にあった青物市場(やっちゃ場)と大橋を少し上った尾竹橋の北にあった魚市場を統合しできたもの。
足立市場交差点で日光街道は国道4号線と離れる。このあたりは千住河原町。道の両側に往時の「やっちゃ場(青物市場)」の名残をとどめるいかにも問屋っぽい建屋が点在する。
やっちゃ場の歴史は古い。小田原北条氏の頃に遡る、とも。とはいってもそのころは朝市といった程度。本格的に市場っぽくなったのは、千住大橋ができ、人馬の往来が盛んになった江戸の中頃、とのことである。
『千寿住宿始末記 純情浪人 朽木三四郎;早見優(竹書房)』の中に、幕府から定市場として公認された見返りの冥加金(税)として、江戸城に青物・川魚をおさめる行列を描く場面があった。この行列を横切ることは無礼にあたる、といった「お行列」である。このお行列の上納品からもわかるように、やっちゃ場・青物市場、とは言うものの、扱うものは野菜だけでなく川魚、米穀も含まれていたようである。ちなみに、やっちゃ場の由来
は、掛け声から。せりの場で「やっちゃ やっちゃ」と叫んでいた、と言う。

掃部堤跡(墨堤通り)
京成線のガードをくぐり、先にすすむと「墨堤通り」に当たる。この通りは江戸の頃、「掃部堤」と呼ばれた隅田川、と言うか、昔の荒川・入間川の堤防があった。名前の由来は、この堤を築いた石出掃部介(かもんのすけ)、より。
石部掃部介は小田原北条の遺臣。江戸時代にこの地に移り、新田を開発。場所は、元の隅田川・荒川の堤であった熊谷堤(現在の区役所通りにあたる)と掃部堤に囲まれた一帯。掃部堤もその新田・掃部新田を水害から防ぐため築かれたものであろう。
往時は高さ4mもあったと言われる掃部堤であるが、現在は墨堤通り。堤の名残などなにもない、とは思いながらも、往古の堤上を歩こう、と。やっちゃ場のある河原町や橋戸町も文字通り堤外の「河原」にあったわけで、そう思えば、街並みも少々違った風景に見えるかも、といった思いであった。





関屋天神
日光街道と掃部堤の交差点・千住仲町交差点で右に進むか、左に進むか少し迷う。が、なんとなく関屋天神の名前に惹かれ右に折れる。少し進むと千住仲町公園。隣に氷川神社。石出掃部介が勧請したもの。関屋天神は氷川神社の境内にある。
関屋天神は、もともとは関屋の里に祀られていたものがこの地に移されたもの。関屋の里って、源頼朝の命を受け、江戸太郎重長が奥州防備のため関所を設けたところ。が、いまひとつ場所が特定されていない。とはいうものの関屋の里って、このあたりではあろう。ということで、切手にもなった、北斎の「富嶽三十六景 隅田川関屋の里」が描く土手の景色に昔を想う。

源長寺
関屋天神から掃部堤を引き返し、千住仲町交差点に戻る。そのまま直進し、掃部堤跡を西へと向かう。墨堤通りを進めば千住桜木町。そのあたりには「おばけ煙突」跡がある。東京電力の発電所の4本の煙突が、方向によってその見える本数が変わった、と言う。今となっては煙突もないのだが、なんとなく雰囲気を感じ、そこから熊谷堤跡を再び日光街道に戻るコースを思い描く。 ほどなく源長寺。石出掃部介が眠る。で、このお寺さま、石出掃部介が関東郡代・伊奈忠次の菩提をとむらうため建てたもの。源長は忠次の法号。そういえば、川口市赤山に伊奈氏の陣屋跡を訪ねたとき、そこにも源長寺という伊奈家の菩提寺があった。

大正記念道碑
掃部堤跡・墨堤通りを進む。千住宮元町交差点で国道4号線に交差。交差点脇の河原稲荷にちょっとお参りし、先に進む。土手の趣など何も、なし。ひたすらに車の往来が激しい、だけ。
先に進み、千住緑町3丁目交差点に。道脇に「大正記念道碑」。荒川脇・千住大川
町にある氷川神社からまっ直ぐに宮元町に下る道。元の西掃部掘を埋め立ててつくったもの。掘を埋め立ていくつもの道路をつくったろうに、何故この大正道のみがフィーチャーされるのか、ということだが、どうも、この碑文を書いたのが森鴎外であることにその因があるよう、だ。とはいえ、「父が千住に住んでいたので、馴染みがあり辞退もできず碑文を書いた」といったトーン、ではある。鴎外の父が居を構え、医院を開いていたところは北千住駅の近くらしい。後から寄ってみる。

お竹の渡し跡
千住龍田町交差点に。北千住駅からまっすぐ西に延び、北に走る墨堤通りと交差する地点。この道筋と墨堤通りの間を、斜めに下るのが熊谷堤跡の道筋である。はてさて、交差点で思い悩む。先に進むか、熊谷堤跡を戻るか。
結局、交差点を左に折れ、隅田川の堤防に出ることにした。隅田川の風景を見たかったこともさることながら、このあたりって、お竹の渡しがあったところ、と。尾竹橋の400程度下流にあった、ということだから場所としてはそれほど違いなないだろう、と。千寿桜小学校の脇を堤防に。隅田川が大きく湾曲する姿は、なかなか、いい。それなりに船泊まり、って雰囲気を勝手に思い込む。 上流を眺め、見えない「お化け煙突」を思い描く。大正15年に建設された煙突は83.5m。当時東京で最も高い建造物であった。これまたそれなりの感慨に浸り、再び千住龍田町交差点に戻る。ちなみに、お竹の渡しは、近くにあったお茶屋の看板娘の名前、から。尾竹橋も、お竹から、とも言われる。

熊谷堤跡
千住龍田交差点から南東に一直線に延びる道、これが熊谷堤跡。これがもともとの隅田川(荒川・入間川)の堤防である。天正2年、と言うから、1574年、北条氏政により築かれたもの、と言う。埼玉県の熊谷から墨田の吾妻橋あたりまで、自然堤防をつないで土手とした。完成に数年を要した、と。
熊谷堤跡の道は大師道とも呼ばれる。西新井の御大師さんへの道筋、と言うことであろう北斎の「関屋の里」の土手を想い描きながら国道4号線を越え、区役所通りを東に進む。途中、道を離れ立葵の紋を持ち、城北鎮護寺であった慈眼寺や不動院を訪ねた後、旧日光街道の道筋へと戻る。

問屋場跡
熊谷堤跡と旧日光街道の交差点あたりに、一里塚の跡とか高札場の跡がある、と言う。あたりをちょっと見渡したのだが、それっぽい案内も見当たらず交差点を北に。このあたりは千住宿の中心地といったところ。
交差点の直ぐ北に、ちょっとした公園。そこに問屋場の案内。千住宿の事務センターといったところ、か。千住宿が正式に宿場と定められたのは寛永2年、と言うから1625年。三代将軍家光の頃である。公用の往来の便宜を図るため、毎日人足50人と馬50疋を用意し、差配した。千住宿は参勤交代だけでなく、日光東照宮参詣のお世話もあるわけで、4月など参勤交代だけでなく家康の命日に向け日光東照宮に向かう将軍の直参・代参、御供の諸侯のお世話も重なり、結構大変であったろう。

北千住駅
はてさて日も暮れた。後は次回に廻し本日の散歩はこれでお終いとし、北千住駅に向かう。向かいながら、区役所通り、とは言うものの、それっぽい建物が見つからない。かわりに、東京芸術センターとか東京芸術大学千住キャンパスと言った建物が目に付く。区役所は1996年に千住から足立本町に移転したようで、その跡地に東京芸術センターが入った、と。芸大は千寿小学校跡地、とか。 

カテゴリ

月別 アーカイブ

スポンサードリンク