いつだったか相模の大山を訪れた。大山寺の不動明王にお参りし阿夫利神社のある山頂に。そのときは山頂から西、というか南の尾根道を下った。ヤビツ峠を経て蓑毛に下り大日堂を訪れたのだが、山頂からの下山道には東、というか北の尾根道を進むルートもある。この道を下ると同じく古い歴史をもつ日向薬師がある。
大山には三つの登山口がある。そして、そこにはそれぞれ古刹が佇む。伊勢原口の大山寺、蓑毛口の大日堂、日向口の日向薬師、がそれ。役の行者にまつわる共通の縁起をもつこれら三つの修験の大寺のうち、大山寺と大日堂には足を運んだ。残りは日向薬師。そのうちに日向薬師を歩きたいと思っていた。
先日のこと、古本屋で『関東周辺 街道・古道を歩く(山と渓谷社)』を見つけた。亀井千歩子さんが執筆者に名を連ねている。亀井さんは昨年信州・塩の道を歩いたときに参考にした『塩の道 千国街道(国書刊行会)』の著者でもある。誠にいい本であった。ならば、このガイドもいいものに違いない、と購入。パラパラ眺めていると、「白山巡礼峠道」のコースの案内があった。厚木の七沢温泉から白山への尾根道を辿り飯山観音までのコースである。このコースだけでも結構面白そうなのだが、スタート地点・七沢温泉の4キロ程度西に日向薬師がある。であれば、ということで、少々コースをアレンジし日向薬師もカバーすることに。飯山観音をスタートし、巡礼峠への尾根道を七沢へと進み、そのまま日向薬師まで一気に進む。おおよそ11キロといった尾根道・峠歩きを楽しむことにする。
大山には三つの登山口がある。そして、そこにはそれぞれ古刹が佇む。伊勢原口の大山寺、蓑毛口の大日堂、日向口の日向薬師、がそれ。役の行者にまつわる共通の縁起をもつこれら三つの修験の大寺のうち、大山寺と大日堂には足を運んだ。残りは日向薬師。そのうちに日向薬師を歩きたいと思っていた。
先日のこと、古本屋で『関東周辺 街道・古道を歩く(山と渓谷社)』を見つけた。亀井千歩子さんが執筆者に名を連ねている。亀井さんは昨年信州・塩の道を歩いたときに参考にした『塩の道 千国街道(国書刊行会)』の著者でもある。誠にいい本であった。ならば、このガイドもいいものに違いない、と購入。パラパラ眺めていると、「白山巡礼峠道」のコースの案内があった。厚木の七沢温泉から白山への尾根道を辿り飯山観音までのコースである。このコースだけでも結構面白そうなのだが、スタート地点・七沢温泉の4キロ程度西に日向薬師がある。であれば、ということで、少々コースをアレンジし日向薬師もカバーすることに。飯山観音をスタートし、巡礼峠への尾根道を七沢へと進み、そのまま日向薬師まで一気に進む。おおよそ11キロといった尾根道・峠歩きを楽しむことにする。
本日のルート;小田急本厚木駅>千頭橋際>飯山観音バス停・庫裏橋>金剛寺>龍蔵神社>飯山観音>白山神社>白山山頂展望台>御門橋分岐>むじな坂峠>物見峠>巡礼峠>七沢>薬師林道>日向薬師
小田急線・厚木駅
小田急線・厚木駅
飯山観音へのバスが出る小田急線本厚木駅に。小田急には厚木駅と本厚木駅がある。あれこれ経緯があるのだが、それはそれとして厚木駅は厚木市ではなくお隣の海老名市にある。本厚木は本家の厚木といった矜持の駅名であろう、か。
厚木やその東の海老名って、あまり馴染みがない。ちょっとチェック。古代、このあたりは相模国愛甲郡と呼ばれる。国府は海老名にあった、よう。国分寺は海老名にあった。古代の東海道も足柄峠から坂本駅(関本)、箕輪駅(伊勢原)をへて浜田駅(海老名)に走る。この地は古代相模の中心地であったのだろう。
平安末期には中央政府の威も薄れ、各地に荘園が成立する。この地も森の庄と呼ばれる荘園ができた。で、八幡太郎義家の子がこの地を領し毛利の庄と呼ばれるようになる。12世紀の初頭になると、武蔵系武士・横山党が相模のこの地に勢力を伸ばす。和戦両面での攻防の結果、毛利の庄の南にある愛甲の庄の愛甲氏、海老名北部の海老名氏、南部の秩父平氏系・渋谷氏をその勢力下に置いた。
鎌倉期に入ると相模・横山党の武将は頼朝傘下の御家人として活躍し、各地を領する。頼朝なき後、状況が大きく動く。北条と和田義盛の抗争が勃発。相模・横山党はこぞって和田方に与力。一敗地にまみれ、この地から横山党が一掃される。毛利の庄を領した毛利氏も和田方に与し勢力を失う。
主のいなくなった毛利の庄を受け継いだのが大江氏。頼朝股肱の臣でもあった大江広元より毛利の庄を受け継いだその子・大江季光は姓も毛利と改名。安芸の毛利の祖となったその季光も、後に北条と三浦泰村の抗争(宝治合戦)において、三浦方に与し敗れる。かくの如く、この厚木あたりは古代から鎌倉にかけ交通の要衝、鎌倉御家人の栄枯盛衰の地であったわけである。ちなみに、安芸国の毛利は、この抗争時越後にいて難を逃れた季光の四男経光の子孫。
時代は下って江戸の頃の厚木;昨日、たまたま古本屋でにつけた『大山道今昔;渡辺崋山の「游相日記」から;金子勤(かなしんブックス)』に厚木宿の昔を描いた記事があった;「全戸数当時330戸。矢倉沢往還・大山道・荻野野甲州道などが合流し、風光明媚、人馬往来の激しい、繁盛している町であった。(中略)。厚木の港町は繁盛し盛況であった。津久井、丹沢諸山からまき、炭を厚木の豪商が買い取り、帆船で平塚へ出して、そこからは海船で相模湾を通り江戸新川掘へ運び商いをした。また塩や干しいわしなどを房総諸州からこの地に運んで販売したり、山梨、長野の山中にまで販売する。厚木は水路の終点、港町であるとともに陸路の交わるところでもあった」、と。陸路の要衝というだけでなく、相模川、中津川、小鮎川が合流するこの地は水運・海運の要衝でもあった、ということ、か。
厚木と言えば、津久井とか清川村にある幕府の直轄林(御留山)から相模川水系に流した「木々を集めた」ところであり、ために「あつぎ」と呼ばれた。これが厚木の地名の由来。今回の散歩のメモをはじめるまで、厚木については、この程度のことしか知らなかった。ちょっと深堀すると当然のことながらあれこれ出てくる。宮本常一さんの「歩く・見る・聞く」ではないけれど、「歩く・見る・書く」とのお散歩メモのルーティン化を改めて確認。ともあれ、散歩に出かける。
千頭橋際
飯山観音行きのバス停を探す。三増合戦の地、三増峠や志田峠へと向かう愛川町の三増や半原行きのバス乗り場は、駅から少し離れたバスセンターであった。今回の飯山観音行きのバス乗り場は、駅北口にあった。バスに乗り、林、千頭橋際を経て飯山観音前に向かう。林は文字通り、林が多かったから。『風土記稿』に「古松林多かりし土地なれば村名とする」とある。千頭(せんず)って、面白い名前。由来は定かではないが、ともあれ、「数多い」って意味だろう。近くに小鮎川も流れており、その川筋が千路に乱れていた故なのか、近くに数多くの湧水がある故なのか、はてさて。
バス路線は千頭橋際交差点で県道63号線と交差する。交差点南の県道63号線の道筋は秦野の矢名へと続いていた昔の小田原街道・矢名街道の道筋だろう、か。一方、交差点から北に進む道筋は、交差点の少し先で伊勢原の糟谷から愛甲、恩名と上ってきた糟谷道と合わさり、国道412号線荻野新宿交差点に進む。この糟谷道は大山参詣道のひとつ。荻野新宿交差点から先は、三田小学校脇を通り中津川を渡り依知の長坂へと進んでいた、ようだ。坂東札所の巡礼道もこの交差点の北を東西に進んでおいる。往古、このあたりは交通の要衝ではあったのだろう。
飯山観音前バス停・庫裏橋
バスは小鮎川に沿って進む。小鮎って、鮎がたくさん採れたから、とも。相模川も鮎で有名であり鮎川とも呼ばれたわけだから、それなりの納得感もあるが、小鮎>小合、との説もある。小さな川が合わさった、との意。これまた捨てがたい。地名は昔の姿を伝えるのでメモに少々こだわるのだが、それにしても地名由来の定説ってほとんど、ない。音が先にあり、それに「文字知り」が文字表記。その文字に「物識り」が蘊蓄を加えるわけであろうから、諸説乱れて定まることなし、となるのだろう、か。
飯山観音前バス停で下車。小鮎川に赤く塗られた庫裏橋が架かる。幕末の報道写真家、フェリックス・ベアトが宮ケ瀬への途中、庫裏橋を撮った写真がある。藁だか萱だかで葺いた屋根の民家。橋の袂に所在なさげに座る人。その横で箒をもつ人。掃き清められ清潔な風景が切り取られている。素敵な写真である。
金剛寺
橋を渡り飯山観音に進む。道の左に金剛寺。なんとなく気になり、ちょっと立ち寄り。古き山門、その左に同じく古き大師堂。野趣豊か、というか、少々手入れ少なしの、なりゆきの、まま。最近再建されたような本堂と、いまひとつアンバランス。それはともあれ、このお寺は往古、七堂伽藍が甍を並べたであろう古刹。開山は大同2年と言うから、807年。行基による、と。
文書にはじめて登場するのは養和2年(1182年)。『吾妻鏡』にこの寺のことが記されている。金剛寺の僧から将軍に対する訴状。地域役人の横暴を非難している。そこに「謂われある山寺」、と。鎌倉・室町期の仏教教学研究の中心寺院であった、とも。
この寺には国指定重要文化財の木造阿弥陀如来坐像が伝わる。平安期の作風を残す11世紀頃の作と。また、この寺には木造地蔵菩薩坐像が伝わる。県指定文化財。身代わり地蔵とも、黒地蔵とも呼ばれる。もともとは庫裏橋のあたりの堂宇に、白地蔵と黒地蔵の二体があったとのことだが、白地蔵は不明。胎内に残る朱文によれば1299年の作と。身代わり地蔵の由来は、賊に襲われた堂守りの刀傷を文字通り肩代わりした、ため。頭部に刀傷が残る、とか。境内には頼朝挙兵の時の頼朝側近安達藤九郎盛長の墓も。
龍蔵神社
道に戻る。ゆるやかな坂道に沿って温泉宿がいくつか続く。飯山温泉と呼ばれる。1979年に最初の掘削が行われた、比較的新しい温泉である。先に進むと龍蔵神社。もとは井山神社龍蔵大権現と呼ばれる。神亀2年(725)、行基菩薩により勧請された、と。治承4年(1180年)、頼朝の願により相模六十一社となり、江戸期は家康により社領二国の朱印が与えられる。
井山神社の「井山」はこのあたりの地名・飯山の表記バリエーション、から。平安時代の承平元年(931)に源順が編纂した『倭名類聚抄』には、印山郷(いんやま)と。後に「いやま」と呼ばれ、嘉禄3年(1227)には「相模国飯山」と記されている。鎌倉期には「鋳山」と表記される。このあたりは鋳物師で有名であったため。「井山」と表されたのは元正17年(1589)の頃、と言われる。龍蔵は大乗経典のこと。竜宮にあったとの故事による。
それはそうと「井山神社」って表記だが、「++神社」という表記は明治以降のもの。座間にある龍蔵神社が往古、龍蔵大権現と呼ばれていたようなので、この地も「井山龍蔵大権現」といったものではなかったのだろう、か。勝手な解釈。根拠なし。ちなみに、「権現」って。仏が神という仮の姿で現れた(権現)とする神仏習合の呼び名。『新編相模風土記』によれば、ご神体は石一願、本地仏は阿弥陀如来・薬師如来・十一面観音が祀られていた、とのことである。
飯山観音
坂道から離れ脇にある石段を上る。仁王門には阿吽の金剛力士像。お像を遮る金網がないのは、いい。さらに石段を上る。厚木市の天然記念物のイヌマキの木。石段を上り切ったところに本堂がある。開山は神亀2年(725年)。行基による、と。
本尊は行基作と伝えられる十一面観音菩薩。大同2年(807年)には弘法密教の道場となる。 銅鐘は室町中期、飯山の鋳物師・清原(物部)国光の作。物部姓鋳物師は河内国にいた鋳物師集団。建長4年(1252年)、鎌倉大仏鋳造のため鎌倉に下る。その後毛利庄に定住し多くの梵鐘をつくる。金剛寺もそうだったし、鎌倉の建長寺や円覚寺も飯山の鋳物師集団の作、という。飯山の地名の由来が、鋳山から、と言われる所以である。
飯山観音こと飯上山長谷寺は坂東三十三観音巡礼の札所六番。坂東三十三観音巡礼は鎌倉の杉本寺を一番札所とし、東京・埼玉・群馬・栃木・茨城をへて千葉県館山の那古寺まで、その全行程は1300キロに及ぶ。坂東三十三観音巡礼は鎌倉幕府の成立とともに始まった。発願は頼朝、三代将軍実朝の時に地域武将の推挙する寺をもとに三十三の寺が定められた、とも。
そもそも、観音巡礼は大和長谷寺の徳道上人が発願。花山法皇が性空上人を先達として観音巡礼を発展させる。で、近畿に広がる三十三ケ所の観音霊場をネットワークしたものが西国三十三ケ所観音札所。近江三井寺の覚忠上人が制定した、と言う。
坂東にも観音札所巡礼を、と考えたのは関東の武将達。都に往来し、西国札所の盛り上がりを目にした、おらが鎌倉にも札所を、といったノリでその機運が盛り上がってきたのだろう。発願は頼朝とメモした。鎌倉幕府が開かれた建久3年(1192年)、頼朝は後白河法皇の追悼法要を開催する。求めに応じて集まった坂東各地の僧侶100の内、21の寺院がその後坂東三十三観音札所となっている。こういった事実も相まって観音信仰篤き頼朝に花を持たせた、というのが頼朝発願、ということ、かも。
千頭橋のところでもメモしたが、観音巡礼と言えば、六番札所であるここ飯山観音から八番札所である座間の星谷寺へと続く巡礼道があった、と言う。飯山観音を下り、小鮎川に沿ってゴルフ場の南側を東へと進み、荻野新宿点前で糟谷大山道と交差。及川地区を進み清水小学校脇の妻田薬師裏を通り、中津川を渡り依知の台地をへて座間に至る。
それにしても札所七番は?札所をチェックすると札所五番は小田原・飯泉観音。六番はここ飯山観音。七番は平塚の金目観音。八番は座間の星谷寺。札所の順番通りでは小田原>厚木>平塚>座間、となり、小田原から厚木に上り、一度平塚に下り、また厚木から座間へとなる。いかにも段取りが悪い。江戸時代の、十返舍一九の『金草鞋』にも「西国巡礼は第一より順に巡はれども、坂東はいろいろ入組み、順に巡はることなり難し」とある。ということで、西国巡礼とは異なり、坂東札所巡礼は順に頓着しない巡礼であった、よう。六番から八番といった巡礼道も、これで納得。
白山神社
飯山観音を離れ白山巡礼峠道に向かう。小高い尾根道や峠を越えて七沢に続く3キロほどのコース。最高点の白山で283m、200m前後の尾根道を3キロ程度歩くことになる。峠道への登山口は観音堂脇から続く。コースは男道と女道のふたつある。尾根筋を直登する男道を上ること15分で稜線に上る。上り切ったところに休憩用のテーブルがあったのだが、先客がいる。邪魔をしないようにと、尾根道を左に進むと、ほどなく白山神社に。
現在では小さな祠といった社ではあるが、歴史は古い。享和年間、というから19世紀初頭、龍蔵院別隆光は山頂で修行中にこの地に秋葉権現と蔵王権現を勧請すべし、との夢を見る。で、近郷の人々の協力を得て勧請したのがこの社のはじまり、と。江戸時代にこのあたりで平安時代の鏡や古瓶も発掘されている。これを龍蔵神社の宝物として現在も神社に保管している、と。
社の前に直径1mほどの池。いかなる干ばつにも水が枯れたことがない、と言う。縁起によれば、往古行基がこの池を見て、霊水の湧き出る霊地と定め、加賀国の白山妙理大権現を勧請した、とする。干ばつの時には付近の農民が集まり、この池の水を干した、と言う。この池は付近の山に住む白龍の水飲み場であり、この池の水が無くなると仕方なく白龍が雨を降らすため、との伝説からである。なかなかに面白いストーリー。
白山山頂展望台
白山神社を離れて巡礼峠へと向かう。道案内がない。神社の廻りに道を探す。神社の先北端に尾根を下る道がある。案内がないので、少々不安ではあるが、とりあえず急な尾根道を下る。その後いくつかアップダウンを繰り返し先に進むが結局行き止まり。小鮎川に北に突き出した尾根筋であり、巡礼峠とは真逆の方向。白山神社まで引き返す。
白山神社まで戻り、休憩テーブルのところに巡礼峠への道案内。ハイカーに遠慮したため見落とした、よう。少し先に進むと白山山頂展望台があった。眼下に相模の国、大山・丹沢の山塊を眺め少々休憩。
御門橋分岐
展望台からは南西方向へ尾根道を下る。ほどなく北側の御門集落から上る道と合流。御門橋まで800m、白山まで400mの標識がある。御門の由来は文字通り「御門」から。『清川村地名抄』によれば、治承の頃、毛利の庄を治めた毛利太郎景行が御所垣戸の館から鎌倉への往還のとき、この六ツ名坂を利用しそこに門(御門)を設けたから、と言う。
狢坂(むじなさか)峠
分岐点から先が「関東ふれあいの道」となる。少し上り返すと「むじな坂峠」。狢坂峠とも書かれているが、由来はどうも獣の狢でないようだ。六っの地名(白山橋・長坂・花立峠・月待場・京塚・細入江)>「むつな」が「ムジナ」に転化した、とか。現在では峠道は残っていないようだが、その昔は厚木と北の清川村を結ぶ重要な往還であったのだろう。
物見峠
尾根道を進むと物見峠。峠とはいうものの、通常の峠で見るような鞍部という雰囲気はない。先日奥多摩から秩父に歩いた時の仙元峠のような、峰頭(山の突起)系>ドッケ系峠なのだろう。東側の眺望はなかなか、いい。物見にはいい場所ではある。とはいうものの、この物見峠って地名は昔の記録には登場しないようで、結構最近命名されたもの、かも。白山から1キロ。巡礼峠まで1.7キロ地点である。
巡礼峠
物見峠を越えると急な坂を下となる。昔は鎖場であったようだが、現在ははちゃんとした階段に整備されている。急坂を下りきった後は、クヌギやコナラの林の中、小刻みなアップダウンを繰り返す尾根道となる。ところどころに見晴らしのいい場所もあり、ベンチなども整備されている。竹塀やヒノキの植林帯を抜け、里山の雰囲気のある雑木林といった尾根道をくだり巡礼峠に。
巡礼峠にはお地蔵さまが佇む。昔此の峠で惨殺された巡礼の老人とその娘の霊をなぐさめるため地元の人が建てた、とか。巡礼峠って、「巡礼」といった言葉の響きから、もう少々昼なお暗き、ってイメージではあったのだが、以外と明るい。周囲が公園として整備されているからだろう、か。もっとも、巡礼峠の由来には、小田原北条の間者が巡礼姿に身を隠し、峠の東にある七沢城を偵察した、って話があるわけで、そうとなれば、結構さばさばした物語であり、それらしき峠の風情である。
巡礼峠の名前の由来は、坂東三十三観音巡礼の五番札所である飯泉観音(小田原の勝福寺)から六番札所の飯山観音へ向かう道筋であった、ため。西側の七沢からこの峠を越え東の上古沢へと抜ける道があった。恩曽川の最上流部である上古沢の野竹沢集落に抜ける、と言う。
とはいうものの、何故小田原からわざわざこの山裾の地・七沢まで来るのだろうかと少々気になった。チェックすると札所五番から六番へのコースはいくつかバリエーションがある、よう。五番札所から大山>日向薬師>六番飯山観音。このコースであれば七沢を通るのは道理。が、五番から下曽我>六本松>井ノ口>遠藤原>南矢名>神戸>西富岡>七沢ってコースもある。このコースがよくわからない。中世には七沢にお城があったと、言う。それなりに開けた宿があったのだろう、か。近くに小野の小町の生誕地との伝説のある小野がある。古き社の小野神社の御参りをかねて七沢まで上ったのだろう、か。はたまた、七沢の地にある七沢温泉って、江戸末期には湯治場として賑わっていたとのことでもあるので、それが七沢まで北上した理由だろう、か。はてさて。
巡礼峠から七沢へと下る。峠から幾筋も道があり、どれがどれだかはっきりしない。とりあえず成り行きで道を下る。途中、ほとんど道を下り終えたあたりに柵があり、通行止め。道をそれで柵を越えようとしたが先に進めない。再び柵まで戻りじっくり見ると、内側からチェーンを外せるようになっていた。鹿除けの柵であった。
七沢
七沢の集落に出る。里をのんびり成り行きで進み、日向林道のある七沢温泉方面に進む。玉川を渡り、県道64号線を越え、里を進む。道の左手の丘にある病院は昔の七沢城の跡。病院の敷地を見てもなあ、ということで遠くから眺めやり、で済ますことに。この城は伊勢原の糟谷館に居を構えた扇谷上杉家の戦闘拠点。糟谷館って、山内上杉家の讒言に惑わされ扇谷上杉の家宰であった太田道灌を惨殺した館。道灌なき後、扇谷上杉と山内上杉は骨肉の争いを繰り返す。七沢城はその戦場にもなっている。で、互いの消耗戦の間隙をぬって台頭した小田原北条。扇谷上杉も駆逐され、七沢城は小田原北条の支城となった、と。七沢の地名の由来は村内に七つの沢があった、とのことから。
薬師林道
七沢温泉の道筋を先に進む。林道とはいうものの、車道であり道に迷うことはなさそう。ときどき車も走る。途中展望台の案内もあるのだが、展望は得られず。木々が覆い緑のトンネルのようになっているところもある。野生のサルにも出会う。日向山への案内もある。日向山は標高404m。山を越えて広沢寺温泉へのハイキングコースもあるようだ。広沢寺には、七沢城主であった上杉定正がねむる、と言う。隠れ湯っぽい名前ではあるが、温泉自体は昭和初期になって開湯した、と。先に進み案内に従い駐車場のところから林道を離れ日向薬師に。
日向薬師
日向山霊山寺。寺歴は古い。霊亀2年(716年)、行基による開基との縁起がある。行基が熊野を旅していた時、薬師如来のお告げを受け、この地に霊山寺を建てた、と。「行基+熊野+薬師如来+(白髭明神)」の組み合わせの縁起は数多くあるようで、縁起は縁起とするとして、実際の開基は10世紀頃ではないかと。古いお寺さまである。本尊は薬師三尊。鉈彫りと呼ばれる、像の表面にノミ目を残す技法で彫られている。この本尊も含め仏像、単層茅葺きの本堂、鐘堂など数多くの国指定の重要文化財をもつ。
このお薬師さん、柴折薬師(高知県大豊市)、米山薬師(新潟県上越市)とともに日本三大薬師のひとつ。また、津久井の峰の薬師、高尾の薬王院、中野の新井薬師とともに武相四代薬師とも呼ばれる。薬師如来信仰って現世利益がキーワード。相模の国司大江公資の妻で歌人でもある相模の歌がある。「さして来し日向の山を頼む身は目も明らかに見えざらめやは」。眼病を患い薬師堂に籠り祈願した折に詠ったもの。11世紀初頭のこと。このころには日向薬師既に霊場として評価されていたようだ。『吾妻鏡』には建久3年(1192年)、北条政子の安産祈願の寺院として日向薬師の名前が挙げられている。建久4年(1193年)には娘・大姫の病平癒祈願のために頼朝が参詣した記録がある。日向薬師は中世以来、薬師如来の霊場として信仰を集めた。日向薬師の由来は、立地上東に日光を遮るものがなく「日向」であった、から。
多くの堂宇を誇った日向薬師ではあるが、廃仏毀釈の嵐に抗せず、多くの堂宇が失われ現在では本堂、鐘堂、仁王門などが残る、のみ。本堂でお参りをすませ頼朝参詣の折り旅装束を白小装束に着替えた「衣装場(いしょうば)」を通り日向薬師バス停に。20分ほど伊勢原駅で到着し、一路家路へと。
前から、なんとなく気になっていた日向薬師もやっとカバーした。山麓・山中にある薬師や不動と言うだけで、それだけでなんとなく有難く、気になるものである。津久井湖を臨む山麓にある峰の薬師に上ったのも、その流れではある。それはそれとして、日向薬師を訪ね終え、三つの大山参詣口にある三つの古刹をカバーした。伊勢原口の大山寺の不動明王、秦野・蓑毛口の大日堂の地蔵さま、そしてこの日向薬師のお薬師さま。この三つの古刹には共通の縁起がある、とイントロでメモした。役の行者にまつわる伝説である。
厚木やその東の海老名って、あまり馴染みがない。ちょっとチェック。古代、このあたりは相模国愛甲郡と呼ばれる。国府は海老名にあった、よう。国分寺は海老名にあった。古代の東海道も足柄峠から坂本駅(関本)、箕輪駅(伊勢原)をへて浜田駅(海老名)に走る。この地は古代相模の中心地であったのだろう。
平安末期には中央政府の威も薄れ、各地に荘園が成立する。この地も森の庄と呼ばれる荘園ができた。で、八幡太郎義家の子がこの地を領し毛利の庄と呼ばれるようになる。12世紀の初頭になると、武蔵系武士・横山党が相模のこの地に勢力を伸ばす。和戦両面での攻防の結果、毛利の庄の南にある愛甲の庄の愛甲氏、海老名北部の海老名氏、南部の秩父平氏系・渋谷氏をその勢力下に置いた。
鎌倉期に入ると相模・横山党の武将は頼朝傘下の御家人として活躍し、各地を領する。頼朝なき後、状況が大きく動く。北条と和田義盛の抗争が勃発。相模・横山党はこぞって和田方に与力。一敗地にまみれ、この地から横山党が一掃される。毛利の庄を領した毛利氏も和田方に与し勢力を失う。
主のいなくなった毛利の庄を受け継いだのが大江氏。頼朝股肱の臣でもあった大江広元より毛利の庄を受け継いだその子・大江季光は姓も毛利と改名。安芸の毛利の祖となったその季光も、後に北条と三浦泰村の抗争(宝治合戦)において、三浦方に与し敗れる。かくの如く、この厚木あたりは古代から鎌倉にかけ交通の要衝、鎌倉御家人の栄枯盛衰の地であったわけである。ちなみに、安芸国の毛利は、この抗争時越後にいて難を逃れた季光の四男経光の子孫。
時代は下って江戸の頃の厚木;昨日、たまたま古本屋でにつけた『大山道今昔;渡辺崋山の「游相日記」から;金子勤(かなしんブックス)』に厚木宿の昔を描いた記事があった;「全戸数当時330戸。矢倉沢往還・大山道・荻野野甲州道などが合流し、風光明媚、人馬往来の激しい、繁盛している町であった。(中略)。厚木の港町は繁盛し盛況であった。津久井、丹沢諸山からまき、炭を厚木の豪商が買い取り、帆船で平塚へ出して、そこからは海船で相模湾を通り江戸新川掘へ運び商いをした。また塩や干しいわしなどを房総諸州からこの地に運んで販売したり、山梨、長野の山中にまで販売する。厚木は水路の終点、港町であるとともに陸路の交わるところでもあった」、と。陸路の要衝というだけでなく、相模川、中津川、小鮎川が合流するこの地は水運・海運の要衝でもあった、ということ、か。
厚木と言えば、津久井とか清川村にある幕府の直轄林(御留山)から相模川水系に流した「木々を集めた」ところであり、ために「あつぎ」と呼ばれた。これが厚木の地名の由来。今回の散歩のメモをはじめるまで、厚木については、この程度のことしか知らなかった。ちょっと深堀すると当然のことながらあれこれ出てくる。宮本常一さんの「歩く・見る・聞く」ではないけれど、「歩く・見る・書く」とのお散歩メモのルーティン化を改めて確認。ともあれ、散歩に出かける。
千頭橋際
飯山観音行きのバス停を探す。三増合戦の地、三増峠や志田峠へと向かう愛川町の三増や半原行きのバス乗り場は、駅から少し離れたバスセンターであった。今回の飯山観音行きのバス乗り場は、駅北口にあった。バスに乗り、林、千頭橋際を経て飯山観音前に向かう。林は文字通り、林が多かったから。『風土記稿』に「古松林多かりし土地なれば村名とする」とある。千頭(せんず)って、面白い名前。由来は定かではないが、ともあれ、「数多い」って意味だろう。近くに小鮎川も流れており、その川筋が千路に乱れていた故なのか、近くに数多くの湧水がある故なのか、はてさて。
バス路線は千頭橋際交差点で県道63号線と交差する。交差点南の県道63号線の道筋は秦野の矢名へと続いていた昔の小田原街道・矢名街道の道筋だろう、か。一方、交差点から北に進む道筋は、交差点の少し先で伊勢原の糟谷から愛甲、恩名と上ってきた糟谷道と合わさり、国道412号線荻野新宿交差点に進む。この糟谷道は大山参詣道のひとつ。荻野新宿交差点から先は、三田小学校脇を通り中津川を渡り依知の長坂へと進んでいた、ようだ。坂東札所の巡礼道もこの交差点の北を東西に進んでおいる。往古、このあたりは交通の要衝ではあったのだろう。
飯山観音前バス停・庫裏橋
バスは小鮎川に沿って進む。小鮎って、鮎がたくさん採れたから、とも。相模川も鮎で有名であり鮎川とも呼ばれたわけだから、それなりの納得感もあるが、小鮎>小合、との説もある。小さな川が合わさった、との意。これまた捨てがたい。地名は昔の姿を伝えるのでメモに少々こだわるのだが、それにしても地名由来の定説ってほとんど、ない。音が先にあり、それに「文字知り」が文字表記。その文字に「物識り」が蘊蓄を加えるわけであろうから、諸説乱れて定まることなし、となるのだろう、か。
飯山観音前バス停で下車。小鮎川に赤く塗られた庫裏橋が架かる。幕末の報道写真家、フェリックス・ベアトが宮ケ瀬への途中、庫裏橋を撮った写真がある。藁だか萱だかで葺いた屋根の民家。橋の袂に所在なさげに座る人。その横で箒をもつ人。掃き清められ清潔な風景が切り取られている。素敵な写真である。
金剛寺
橋を渡り飯山観音に進む。道の左に金剛寺。なんとなく気になり、ちょっと立ち寄り。古き山門、その左に同じく古き大師堂。野趣豊か、というか、少々手入れ少なしの、なりゆきの、まま。最近再建されたような本堂と、いまひとつアンバランス。それはともあれ、このお寺は往古、七堂伽藍が甍を並べたであろう古刹。開山は大同2年と言うから、807年。行基による、と。
文書にはじめて登場するのは養和2年(1182年)。『吾妻鏡』にこの寺のことが記されている。金剛寺の僧から将軍に対する訴状。地域役人の横暴を非難している。そこに「謂われある山寺」、と。鎌倉・室町期の仏教教学研究の中心寺院であった、とも。
この寺には国指定重要文化財の木造阿弥陀如来坐像が伝わる。平安期の作風を残す11世紀頃の作と。また、この寺には木造地蔵菩薩坐像が伝わる。県指定文化財。身代わり地蔵とも、黒地蔵とも呼ばれる。もともとは庫裏橋のあたりの堂宇に、白地蔵と黒地蔵の二体があったとのことだが、白地蔵は不明。胎内に残る朱文によれば1299年の作と。身代わり地蔵の由来は、賊に襲われた堂守りの刀傷を文字通り肩代わりした、ため。頭部に刀傷が残る、とか。境内には頼朝挙兵の時の頼朝側近安達藤九郎盛長の墓も。
龍蔵神社
道に戻る。ゆるやかな坂道に沿って温泉宿がいくつか続く。飯山温泉と呼ばれる。1979年に最初の掘削が行われた、比較的新しい温泉である。先に進むと龍蔵神社。もとは井山神社龍蔵大権現と呼ばれる。神亀2年(725)、行基菩薩により勧請された、と。治承4年(1180年)、頼朝の願により相模六十一社となり、江戸期は家康により社領二国の朱印が与えられる。
井山神社の「井山」はこのあたりの地名・飯山の表記バリエーション、から。平安時代の承平元年(931)に源順が編纂した『倭名類聚抄』には、印山郷(いんやま)と。後に「いやま」と呼ばれ、嘉禄3年(1227)には「相模国飯山」と記されている。鎌倉期には「鋳山」と表記される。このあたりは鋳物師で有名であったため。「井山」と表されたのは元正17年(1589)の頃、と言われる。龍蔵は大乗経典のこと。竜宮にあったとの故事による。
それはそうと「井山神社」って表記だが、「++神社」という表記は明治以降のもの。座間にある龍蔵神社が往古、龍蔵大権現と呼ばれていたようなので、この地も「井山龍蔵大権現」といったものではなかったのだろう、か。勝手な解釈。根拠なし。ちなみに、「権現」って。仏が神という仮の姿で現れた(権現)とする神仏習合の呼び名。『新編相模風土記』によれば、ご神体は石一願、本地仏は阿弥陀如来・薬師如来・十一面観音が祀られていた、とのことである。
飯山観音
坂道から離れ脇にある石段を上る。仁王門には阿吽の金剛力士像。お像を遮る金網がないのは、いい。さらに石段を上る。厚木市の天然記念物のイヌマキの木。石段を上り切ったところに本堂がある。開山は神亀2年(725年)。行基による、と。
本尊は行基作と伝えられる十一面観音菩薩。大同2年(807年)には弘法密教の道場となる。 銅鐘は室町中期、飯山の鋳物師・清原(物部)国光の作。物部姓鋳物師は河内国にいた鋳物師集団。建長4年(1252年)、鎌倉大仏鋳造のため鎌倉に下る。その後毛利庄に定住し多くの梵鐘をつくる。金剛寺もそうだったし、鎌倉の建長寺や円覚寺も飯山の鋳物師集団の作、という。飯山の地名の由来が、鋳山から、と言われる所以である。
飯山観音こと飯上山長谷寺は坂東三十三観音巡礼の札所六番。坂東三十三観音巡礼は鎌倉の杉本寺を一番札所とし、東京・埼玉・群馬・栃木・茨城をへて千葉県館山の那古寺まで、その全行程は1300キロに及ぶ。坂東三十三観音巡礼は鎌倉幕府の成立とともに始まった。発願は頼朝、三代将軍実朝の時に地域武将の推挙する寺をもとに三十三の寺が定められた、とも。
そもそも、観音巡礼は大和長谷寺の徳道上人が発願。花山法皇が性空上人を先達として観音巡礼を発展させる。で、近畿に広がる三十三ケ所の観音霊場をネットワークしたものが西国三十三ケ所観音札所。近江三井寺の覚忠上人が制定した、と言う。
坂東にも観音札所巡礼を、と考えたのは関東の武将達。都に往来し、西国札所の盛り上がりを目にした、おらが鎌倉にも札所を、といったノリでその機運が盛り上がってきたのだろう。発願は頼朝とメモした。鎌倉幕府が開かれた建久3年(1192年)、頼朝は後白河法皇の追悼法要を開催する。求めに応じて集まった坂東各地の僧侶100の内、21の寺院がその後坂東三十三観音札所となっている。こういった事実も相まって観音信仰篤き頼朝に花を持たせた、というのが頼朝発願、ということ、かも。
千頭橋のところでもメモしたが、観音巡礼と言えば、六番札所であるここ飯山観音から八番札所である座間の星谷寺へと続く巡礼道があった、と言う。飯山観音を下り、小鮎川に沿ってゴルフ場の南側を東へと進み、荻野新宿点前で糟谷大山道と交差。及川地区を進み清水小学校脇の妻田薬師裏を通り、中津川を渡り依知の台地をへて座間に至る。
それにしても札所七番は?札所をチェックすると札所五番は小田原・飯泉観音。六番はここ飯山観音。七番は平塚の金目観音。八番は座間の星谷寺。札所の順番通りでは小田原>厚木>平塚>座間、となり、小田原から厚木に上り、一度平塚に下り、また厚木から座間へとなる。いかにも段取りが悪い。江戸時代の、十返舍一九の『金草鞋』にも「西国巡礼は第一より順に巡はれども、坂東はいろいろ入組み、順に巡はることなり難し」とある。ということで、西国巡礼とは異なり、坂東札所巡礼は順に頓着しない巡礼であった、よう。六番から八番といった巡礼道も、これで納得。
白山神社
飯山観音を離れ白山巡礼峠道に向かう。小高い尾根道や峠を越えて七沢に続く3キロほどのコース。最高点の白山で283m、200m前後の尾根道を3キロ程度歩くことになる。峠道への登山口は観音堂脇から続く。コースは男道と女道のふたつある。尾根筋を直登する男道を上ること15分で稜線に上る。上り切ったところに休憩用のテーブルがあったのだが、先客がいる。邪魔をしないようにと、尾根道を左に進むと、ほどなく白山神社に。
現在では小さな祠といった社ではあるが、歴史は古い。享和年間、というから19世紀初頭、龍蔵院別隆光は山頂で修行中にこの地に秋葉権現と蔵王権現を勧請すべし、との夢を見る。で、近郷の人々の協力を得て勧請したのがこの社のはじまり、と。江戸時代にこのあたりで平安時代の鏡や古瓶も発掘されている。これを龍蔵神社の宝物として現在も神社に保管している、と。
社の前に直径1mほどの池。いかなる干ばつにも水が枯れたことがない、と言う。縁起によれば、往古行基がこの池を見て、霊水の湧き出る霊地と定め、加賀国の白山妙理大権現を勧請した、とする。干ばつの時には付近の農民が集まり、この池の水を干した、と言う。この池は付近の山に住む白龍の水飲み場であり、この池の水が無くなると仕方なく白龍が雨を降らすため、との伝説からである。なかなかに面白いストーリー。
白山山頂展望台
白山神社を離れて巡礼峠へと向かう。道案内がない。神社の廻りに道を探す。神社の先北端に尾根を下る道がある。案内がないので、少々不安ではあるが、とりあえず急な尾根道を下る。その後いくつかアップダウンを繰り返し先に進むが結局行き止まり。小鮎川に北に突き出した尾根筋であり、巡礼峠とは真逆の方向。白山神社まで引き返す。
白山神社まで戻り、休憩テーブルのところに巡礼峠への道案内。ハイカーに遠慮したため見落とした、よう。少し先に進むと白山山頂展望台があった。眼下に相模の国、大山・丹沢の山塊を眺め少々休憩。
御門橋分岐
展望台からは南西方向へ尾根道を下る。ほどなく北側の御門集落から上る道と合流。御門橋まで800m、白山まで400mの標識がある。御門の由来は文字通り「御門」から。『清川村地名抄』によれば、治承の頃、毛利の庄を治めた毛利太郎景行が御所垣戸の館から鎌倉への往還のとき、この六ツ名坂を利用しそこに門(御門)を設けたから、と言う。
狢坂(むじなさか)峠
分岐点から先が「関東ふれあいの道」となる。少し上り返すと「むじな坂峠」。狢坂峠とも書かれているが、由来はどうも獣の狢でないようだ。六っの地名(白山橋・長坂・花立峠・月待場・京塚・細入江)>「むつな」が「ムジナ」に転化した、とか。現在では峠道は残っていないようだが、その昔は厚木と北の清川村を結ぶ重要な往還であったのだろう。
物見峠
尾根道を進むと物見峠。峠とはいうものの、通常の峠で見るような鞍部という雰囲気はない。先日奥多摩から秩父に歩いた時の仙元峠のような、峰頭(山の突起)系>ドッケ系峠なのだろう。東側の眺望はなかなか、いい。物見にはいい場所ではある。とはいうものの、この物見峠って地名は昔の記録には登場しないようで、結構最近命名されたもの、かも。白山から1キロ。巡礼峠まで1.7キロ地点である。
巡礼峠
物見峠を越えると急な坂を下となる。昔は鎖場であったようだが、現在ははちゃんとした階段に整備されている。急坂を下りきった後は、クヌギやコナラの林の中、小刻みなアップダウンを繰り返す尾根道となる。ところどころに見晴らしのいい場所もあり、ベンチなども整備されている。竹塀やヒノキの植林帯を抜け、里山の雰囲気のある雑木林といった尾根道をくだり巡礼峠に。
巡礼峠にはお地蔵さまが佇む。昔此の峠で惨殺された巡礼の老人とその娘の霊をなぐさめるため地元の人が建てた、とか。巡礼峠って、「巡礼」といった言葉の響きから、もう少々昼なお暗き、ってイメージではあったのだが、以外と明るい。周囲が公園として整備されているからだろう、か。もっとも、巡礼峠の由来には、小田原北条の間者が巡礼姿に身を隠し、峠の東にある七沢城を偵察した、って話があるわけで、そうとなれば、結構さばさばした物語であり、それらしき峠の風情である。
巡礼峠の名前の由来は、坂東三十三観音巡礼の五番札所である飯泉観音(小田原の勝福寺)から六番札所の飯山観音へ向かう道筋であった、ため。西側の七沢からこの峠を越え東の上古沢へと抜ける道があった。恩曽川の最上流部である上古沢の野竹沢集落に抜ける、と言う。
とはいうものの、何故小田原からわざわざこの山裾の地・七沢まで来るのだろうかと少々気になった。チェックすると札所五番から六番へのコースはいくつかバリエーションがある、よう。五番札所から大山>日向薬師>六番飯山観音。このコースであれば七沢を通るのは道理。が、五番から下曽我>六本松>井ノ口>遠藤原>南矢名>神戸>西富岡>七沢ってコースもある。このコースがよくわからない。中世には七沢にお城があったと、言う。それなりに開けた宿があったのだろう、か。近くに小野の小町の生誕地との伝説のある小野がある。古き社の小野神社の御参りをかねて七沢まで上ったのだろう、か。はたまた、七沢の地にある七沢温泉って、江戸末期には湯治場として賑わっていたとのことでもあるので、それが七沢まで北上した理由だろう、か。はてさて。
巡礼峠から七沢へと下る。峠から幾筋も道があり、どれがどれだかはっきりしない。とりあえず成り行きで道を下る。途中、ほとんど道を下り終えたあたりに柵があり、通行止め。道をそれで柵を越えようとしたが先に進めない。再び柵まで戻りじっくり見ると、内側からチェーンを外せるようになっていた。鹿除けの柵であった。
七沢
七沢の集落に出る。里をのんびり成り行きで進み、日向林道のある七沢温泉方面に進む。玉川を渡り、県道64号線を越え、里を進む。道の左手の丘にある病院は昔の七沢城の跡。病院の敷地を見てもなあ、ということで遠くから眺めやり、で済ますことに。この城は伊勢原の糟谷館に居を構えた扇谷上杉家の戦闘拠点。糟谷館って、山内上杉家の讒言に惑わされ扇谷上杉の家宰であった太田道灌を惨殺した館。道灌なき後、扇谷上杉と山内上杉は骨肉の争いを繰り返す。七沢城はその戦場にもなっている。で、互いの消耗戦の間隙をぬって台頭した小田原北条。扇谷上杉も駆逐され、七沢城は小田原北条の支城となった、と。七沢の地名の由来は村内に七つの沢があった、とのことから。
薬師林道
七沢温泉の道筋を先に進む。林道とはいうものの、車道であり道に迷うことはなさそう。ときどき車も走る。途中展望台の案内もあるのだが、展望は得られず。木々が覆い緑のトンネルのようになっているところもある。野生のサルにも出会う。日向山への案内もある。日向山は標高404m。山を越えて広沢寺温泉へのハイキングコースもあるようだ。広沢寺には、七沢城主であった上杉定正がねむる、と言う。隠れ湯っぽい名前ではあるが、温泉自体は昭和初期になって開湯した、と。先に進み案内に従い駐車場のところから林道を離れ日向薬師に。
日向薬師
日向山霊山寺。寺歴は古い。霊亀2年(716年)、行基による開基との縁起がある。行基が熊野を旅していた時、薬師如来のお告げを受け、この地に霊山寺を建てた、と。「行基+熊野+薬師如来+(白髭明神)」の組み合わせの縁起は数多くあるようで、縁起は縁起とするとして、実際の開基は10世紀頃ではないかと。古いお寺さまである。本尊は薬師三尊。鉈彫りと呼ばれる、像の表面にノミ目を残す技法で彫られている。この本尊も含め仏像、単層茅葺きの本堂、鐘堂など数多くの国指定の重要文化財をもつ。
このお薬師さん、柴折薬師(高知県大豊市)、米山薬師(新潟県上越市)とともに日本三大薬師のひとつ。また、津久井の峰の薬師、高尾の薬王院、中野の新井薬師とともに武相四代薬師とも呼ばれる。薬師如来信仰って現世利益がキーワード。相模の国司大江公資の妻で歌人でもある相模の歌がある。「さして来し日向の山を頼む身は目も明らかに見えざらめやは」。眼病を患い薬師堂に籠り祈願した折に詠ったもの。11世紀初頭のこと。このころには日向薬師既に霊場として評価されていたようだ。『吾妻鏡』には建久3年(1192年)、北条政子の安産祈願の寺院として日向薬師の名前が挙げられている。建久4年(1193年)には娘・大姫の病平癒祈願のために頼朝が参詣した記録がある。日向薬師は中世以来、薬師如来の霊場として信仰を集めた。日向薬師の由来は、立地上東に日光を遮るものがなく「日向」であった、から。
多くの堂宇を誇った日向薬師ではあるが、廃仏毀釈の嵐に抗せず、多くの堂宇が失われ現在では本堂、鐘堂、仁王門などが残る、のみ。本堂でお参りをすませ頼朝参詣の折り旅装束を白小装束に着替えた「衣装場(いしょうば)」を通り日向薬師バス停に。20分ほど伊勢原駅で到着し、一路家路へと。
前から、なんとなく気になっていた日向薬師もやっとカバーした。山麓・山中にある薬師や不動と言うだけで、それだけでなんとなく有難く、気になるものである。津久井湖を臨む山麓にある峰の薬師に上ったのも、その流れではある。それはそれとして、日向薬師を訪ね終え、三つの大山参詣口にある三つの古刹をカバーした。伊勢原口の大山寺の不動明王、秦野・蓑毛口の大日堂の地蔵さま、そしてこの日向薬師のお薬師さま。この三つの古刹には共通の縁起がある、とイントロでメモした。役の行者にまつわる伝説である。
大山の東、愛川の八菅山にある八菅神社は古くから修験の地として知られていた。八菅山と大山を結ぶ回峰行の始点ともなっていた。その昔、役の行者が八菅山にて山岳修行。その折り、薬師・地蔵・不動の像を彫る。で、その像を投げたところ、薬師は日向に、地蔵が蓑毛に、不動が大山に落ちた、と言う。それがどうした、とは思うのだが、その縁起の地を実際に訪れ、あたりの風景を想い描けるだけで、なんとなく心嬉しい。
ついでのことながら、日向薬師の縁起で「行基+薬師如来+熊野」とともに白髭明神が登場した。白髭明神って高麗王・若光のこと。行基がこの地で薬師三尊を彫るに際し、よき良材を求めた。それに応えたのが高麗王・若光。香木を与え、日向薬師の開山に協力した、と。行基も渡来系帰化人。帰化人同士のコラボレーション縁起だろう、か。
関東各地には若光をまつった白髭神社がある。どこということではなく、どこを歩いても折に触れて白髭神社に出会う。伝説によれば、渡来人である高麗王・若光は東国開発の命を受け、大磯に上陸した、と言う。平塚と大磯の間、海に臨む地に高麗山がある。こんもりとしたその山容を渡海・上陸の目印としたのだろう。山裾には高来神社(こうらい)があった。
関東各地には若光をまつった白髭神社がある。どこということではなく、どこを歩いても折に触れて白髭神社に出会う。伝説によれば、渡来人である高麗王・若光は東国開発の命を受け、大磯に上陸した、と言う。平塚と大磯の間、海に臨む地に高麗山がある。こんもりとしたその山容を渡海・上陸の目印としたのだろう。山裾には高来神社(こうらい)があった。
若光は大磯・平塚から相模川を遡り、この日向の地を経て、埼玉・高麗の地に移った、とか。日向薬師の参道に白髭神社がある。薬師の守護神として若光・白髭明神をまつるとともに、熊野権現を勧請し社を建てたもの。日向薬師で白髭明神・若光が出てくるとは思わなかった。熊野と薬師と行基の三大話の縁起は全国にある。どれも民衆受けするキーワードである。白髭明神とのコラボレーションは民衆受けする縁起の定石に、この地ならではの「有難さ」を組み合わせたもの、なのだろう、か。なんとなく、楽しいお話である。