2009年9月アーカイブ

秋から冬にかけ、2回にわけ秩父の札所を歩いた。ともに1泊2日。会社の同僚が如何なる信仰心のなせる業か、秩父札所巡りを企画した。昨年秋、紅葉を求めひとりで長瀞を歩いたのだが、札所巡りなど思いもよらず、でもあったので、いいきっかけと話にのった。最初は9月中旬。秩父市街・横瀬町を中心とした17ケ所の観音霊場巡り。二度目は11月末。美しい紅葉の中、三峯山とその奥宮のある妙法ケ岳、そして札所1番と2番、さらに長瀞を巡った。札所巡りということ で、あまりにお寺の数が多く、いまひとつ散歩メモを逡巡してはいたのだが、記憶もすでにおぼろげになりはじめた。思い切って、三峰と19の札所の散歩のメモをはじめることにする。(土曜日, 12月 16, 2006のブログを修正)



観音霊場巡礼のあれこれ
いつものことではあるが、霊場を巡る前には、観音霊場といわれてもなあ、といった程度の認識。そして、これもいつものことではあるけれども、札所を巡るうちにあれこれ問題意識も出てきた。後付けの理論武装ではあるが、散歩を始める前に、観音霊場巡礼についてまとめておく。

観音霊場巡礼をはじめたのは徳道上人

観音霊場巡礼をはじめたのは大和・長谷寺を開基した徳道上人と言われる。上人が病に伏せたとき、夢の中に閻魔大王が現れる。曰く「世の人々を救うため、三十三箇所の観音霊場をつくり、その霊場巡礼をすすめるべし」と。起請文と三十三の宝印を授かる。黄泉がえった上人は三十三の霊場を設ける。が、その時点では人々の信仰を得るまでには至らず、期を熟するのを待つことに。宝印(納経朱印)は摂津(宝塚)の中山寺の石櫃に納められることになった。ちなみに宝印の意味合いだが、人というものはズルすること、なきにしもあらず、ということで、本当に三十三箇所を廻ったかどうかチェックするために用意されたもの。スタンプラリーの原型であろう、か。

観音霊場巡礼を再興したのは花山(かざん)法皇

今ひとつ盛り上がらなかった観音霊場巡礼を再興したのは花山(かざん)法皇。徳道上人が開いてから300年近い年月がたっていた。花山法皇は、御年わずか17歳で65代花山天皇となるも、在位2年で法皇に。愛する女御がなくなり、世の無常を悟り、仏門に入ったため、とか、藤原氏に皇位を追われたとか、退位の理由は諸説ある。比叡山や播磨の書写山、熊野・那智山にて修行。その後、河内石川寺の仏眼上人の案内で中山寺の宝印を掘り出し、播磨・書写山の性空上人を先達として、中山寺の弁光上人らをともなって三十三観音霊場を巡った。これが契機となり観音巡礼が再興されることになるわけだ。
この花山法皇、熊野散歩の時に登場して以来、しばしば顔を出す。鎌倉・岩船観音でも出会った。東国巡行の折、この寺を訪れ坂東三十三箇所観音の二番の霊場とした、と。花山法皇って、何ゆえ全国を飛び廻るのか、少々気になっていたのだが、観音信仰のエバンジェリストであるとすれば、当然のこととして大いに納得。鎌倉・岩船観音をはじめ坂東札所10ケ所に花山法皇ゆかりの縁起もある。が、もちろん実際に来たかどうかは別問題。事実、東国に下ったという記録はないようだ。坂東札所に有り難味を出す演出であろう。
それはともかく、花山法皇の再興により、霊場巡りは、貴族層に広まった熊野参詣と相まって盛んになる。さらに時代を下って鎌倉時代には武家、江戸時代には庶民層にまで広がっていった。ちなみに、播磨の国・書写山円教寺は西の比叡山と称される古刹。天台宗って熊野散歩でメモしたように、熊野信仰・観音信仰に大きな影響をもっている。中山寺は真言宗中山寺派大本山。聖徳太子創建と伝えられる、わが国最初の観音霊場。石川寺って、よくわからない。現在はもうないのだろうか?ともあれ、縁起の中には観音信仰に影響力のある人・寺を配置し、ありがたさをいかにもうまく演出してある。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)


観音霊場巡礼の最初の記録は1090年
縁起はともかく、記録に残る観音霊場巡礼の最初の記録は園城寺の僧・行尊の「観音霊場三十三所巡礼記」。寛治4年、というから1090年。一番に長谷寺からはじめ、三十三番・千手堂(三室戸寺)に。その後三井寺の覚忠が那智山・青岸渡寺からはじめた巡礼が今日まで至る巡礼の札番となった、とか。園城寺も三井寺も密教というか、熊野信仰というか、観音信仰に深く関係するお寺。熊野散歩のときメモしたとおり。で、「三十三ケ所」と世ばれていた霊場が「西国三十三ケ所」と呼ばれるようになったのは、後に坂東三十三霊場、秩父巡礼がはじまり、それと区別するため。

坂東三十三霊場

鎌倉時代にな り、平氏追討で西国に向かった関東の武士団は、京都の朝廷を中心とした観音霊場巡礼を眼にし、朝廷・貴族なにするものぞ、我等が生国にも観音霊場を、と坂東8ケ国に霊場をひらく。これが坂東三十三霊場。が、この巡礼道は鎌倉が基点であり、かつまた江戸が姿もなかった頃でもあり、その順路は江戸からの便宜はほとんど考慮されていなかった。ために江戸期にはあまり盛況ではなかった、ようだ。

秩父観音霊場の縁起

で、やっと秩父観音霊場についてのメモ:秩父巡礼がはじまったのは室町になってから。縁起によると、文暦元年(1234)に、十三権者が、秩父の魔を破って巡礼したのが秩父観音霊場巡礼の始まりという。十三権者とは閻魔大王・倶生神・花山法王・性空上人・春日開山医王上人・白河法王・長谷徳道上人・良忠僧都・通観法印・善光寺如来・妙見大菩薩・蔵王権現・熊野権現。「新編武蔵風土気稿」および「秩父郡札所の縁起」によれば、「秩父34ヶ所は、是れ文暦元年3月18日、冥土に播磨の書写開山性空上人を請じ奉り、法華経1万部を読誦し奉る。其の時倶生神筆取り、石札に書付け置給う。其の時、秩父鎮守妙見大菩薩導引し給い、熊野権現は山伏して秩父を七日にお順り初め給う。その御連れは、天照大神・倶生神・十王・花山法皇・書写の開山性空上人・良忠僧都・東観法師・春日の開山医王上人・白河法皇・長谷の開山徳道上人・善光寺如来以上13人の御連れなり・・・。時に文暦元年甲牛天3月18日石札定置順札道行13人」、と。
それぞれ微妙にメンバーはちがっているようなのだが、奈良時代に西国観音霊場巡りをはじめた長谷の徳道上人や、平安時代に霊場巡りを再興した花山法皇、熊野詣・観音信仰に縁の深い白河法皇、鎌倉にある大本山光明寺の開祖で、関東中心に多くの寺院を開いた良忠僧都といった実在の人物や、閻魔大王さま、閻魔さまの前で人々の善行・悪行を記録する倶生神、修験道と縁の深い蔵王権現といった「仏」さまなど、観音さまと縁の深いキャスティングをおこなっている。秩父観音霊場巡礼のありがたさを演出しようとしたのだろう。で、この 伝説は、500年以上も秩父の庶民の間に語り継がれた、とのことである。

はじまりは「秩父ローカル」
とはいうものの、縁起というか伝説は、所詮縁起であり伝説。実際のところは、修験者を中心にして秩父ローカルな観音巡礼をつくるべし、と誰かが思いいたったのであろう。鎌倉時代に入り、鎌倉街道を経由して西国や坂東の観音霊場の様子が修験者や武士などをとおして秩父に伝えられる。が、西国巡礼は言うにおよばず、坂東巡礼とて秩父の人々にとっては一大事。頃は戦乱の巷。とても安心して坂東の各地を巡礼できるはずもなく、せめてはと、秩父の中で修験者らが土地の人たちとささやかな観音堂を御参りしはじめ、それが三十三に固定されていった。実際、当時の順路も一番札所は定林寺という大宮郷というから現在の秩父市のど真ん中。大宮郷の人々を対象にしていたことがうかがえる。
秩父ローカルではじまった秩父観音霊場では少々「ありがたさ」に欠ける。で、その理論的裏づけとして持ち出されたのが、西国でよく知られ、霧島背振山での修行・六根清浄の聖としての奇瑞譚・和泉式部との結縁譚など数多くの伝承をもつ平安中期の高僧・性空上人。その伝承の中から上人の閻魔王宮での説法・法華経の読誦といった蘇生譚というのを選び出し、上にメモしたように「有り難味さ」を演出するベストメンバーを配置し、縁起をつくりあげていった、というのが本当のところ、ではなかろうか。
実際、この秩父霊場縁起に使われた性空蘇生譚とほぼ同じ話が兵庫県竜野市の円融寺に伝わる。それによると、性空が、法華経十万部読誦法会の導師として閻魔王宮に招かれ、布施として、閻魔王から衆生済度のために、紺紙金泥の法華経を与えられる、といった内容。細部に違いはあるが、秩父の縁起と同様のお話である。こういった元ネタをうまくアレンジして秩父縁起をつくりあげていったのだろ。我流の推論であり、真偽の程定かならず。

秩父札所巡りが盛んになるのは江戸期になってから

この秩父札所巡りが盛んになるのは江戸期になってから。江戸近郊から秩父に至る道中には関所がなく、また総延長90キロ、4泊5日の行程で比較的容易に廻ることが出来たのも大きな理由。江戸の商人の経済力も大いに秩父札所の支えとなった。秩父巡礼は江戸でもつ、とも言われたほど。そのためもあってからか、江戸からの往還の変更により、巡礼の札番号も変わっている。秩父札所も単に江戸からのお客さまを「待つ」だけでなく、江戸に打って出て、出開帳をおこなっている。「秩父へおいでませ」キャンペーンといったところだ。
秩父札所の宗派については、上でメモしたように江戸期までは修験者が中心だった。その後は禅宗寺院が札所を支配するようになった。宗派の内訳は曹洞宗20、臨済宗南禅寺派8、臨済宗建長寺派3、真言宗豊山派3で、禅宗の多さが目立つ。

秩父が33ではなく、34観音札所になったのは?

秩父が34観音になった時期については、諸説ある。16世紀後半には観音霊場巡礼が全国的になり、西国・坂東・秩父観音霊場をまとめて巡礼するようになってきた。で、平安時代に既に京都に広まっていた「百観音信仰」の影響もあり、全国まとめて「百観音」とするため、どこかが三十三から三十四とする必要がでてきた。霊場としては秩父霊場が歴史も浅かった、ということもあり、秩父がその役を受け持つことに。ために、15世紀はじめ大棚観音こと、現在の第2番札所真福寺を加え、三十四ヶ所と改められた、とか。もっとも、大棚観音が割り込んできたので、その打開策として「百観音」を敢えて提唱した、とか諸説あり真偽の程は不明。
「三十三」って観音信仰にとっては大きな意味がある数字。観音さまが、衆生の願いに応えるべく、三十三の姿に化身(三十三見応現)とされるから,である。その重要な三十三を三十四に変えるって、結構大変なことだったと思うのだが、それ以上に「百観音」のもつ意味のほうがおおきかったのであろうか。なんとなく釈然としないのだが、観音霊場巡礼のまとめを終える。散歩に出かえる前に結構手間取った。散歩メモは次回にまわすことにする。
観音霊場巡礼のなんたるか、についての「理論武装」に少々手間取った。秩父観音霊場散歩をはじめる。今回の散歩は秩父市街と横瀬町を中心とした札所を巡る。
西武池袋線の特急にのり、西武秩父駅に。熊谷方面から来た会社の同僚と駅前にて待ち合わせ、最寄りの札所からスタート。
初日は主に秩父市街の札所巡り。最初の札所は13番札所・慈眼寺。西武秩父駅から続くアーケードを歩き、秩父鉄道・御花畑方向に向かう



本日のルート;西武秩父駅>13番札所・慈眼寺>15番札所・少林寺>秩父神社>14番札所・今宮坊>今宮神社>16番札所・西光寺>23番札所・音楽寺>22番札所・太子堂>17番札所・定林寺>18番番札所・神門寺


。団子坂を下り秩父鉄道の踏み切りを越える。この団子坂は秩父夜祭のクライマックスを演出する坂である、と。笠鉾、屋台が急坂を登る、とか。お花畑駅から2分ほど歩く。秩父では「はけっと」とよばれる「はけの下」、つまりは崖の下に慈眼寺はある。崖の下といっても秩父市内の中心部。(日曜日, 12月 17,2006のブログの修正)

13番札所・慈眼寺
市街地をはしる通りにそった入口には、切妻つくりの薬王門。境内には正面に観音堂。左右に鐘楼、経堂と薬師堂。明治11年の秩父大火で焼失する前は、大きな寺域を誇った、という、本尊は行基作と伝えられる聖観音。秩父札所を開いた、十三権者の像が祀られている。十三権者とは先にメモしたように、閻魔大王・倶生神・花山法王・性空上人・春日開山医王上人・白河法王・長谷徳道上人・良忠僧都・通観法印・善光寺如来・妙見大菩薩・蔵王権現・熊野権現。
このお寺、眼病、厄除けにご利益ある、と。薬師堂にまつられる薬師瑠璃光如来が、目の神様、ゆえか。飴薬師とも呼ばれ、境内には「ぶっかき飴」と呼ばれる飴を売る店がある。眼の手術を直後に控えた我が身としては、「ぶっかき飴」もさることながら、お賽銭も少々はずむことに。境内には幕末から明治にかけ社会救済事業につくした「秩父の聖人」と称えられる井上如常のお墓がある。
ご詠歌;「御手にもつ蓮のははき残りなく 浮世のちりをはけの下でら」

15番札所・少林寺(福寿殿)

慈眼寺を離れ、秩父線に沿って少し北に。15番札所・少林寺(福寿殿)に向かう。秩父鉄道を越えると、白塗り白亜の本堂がみえる。このお寺も明治の秩父大火に見舞われ、防火の意味も込めて再建時、木造の外側をすべて白色の漆食塗りで仕上げたもの。少々洋風建築風ではあるが、入母屋つくり・瓦葺といった和風建築の伝統は踏まえたものになっている。この寺は、もともと母巣山蔵福寺といい秩父神社境内にあった。が、明治維新の神仏分離令で廃寺に。札所15番がなくなることを憂えた信者が、市内柳島にあった五葉山少林禅寺をこの地に移し両寺合わせて札所15番を継承することにした、と。
石段を上がった右手のお堂は鎌倉の建長寺の山にある半僧坊からの分霊。半僧坊大権現は、特に火災予防の御利益があると。鎌倉・建長寺散歩のときの半僧坊への急な石段がなつかしい。また、先日歩いた新座の平林寺でも半増坊大祭がある。また京都の金閣寺にも半増坊がある、とか。結構ありがたい権現さま、のよう。静岡にある方広寺開山の祖・無文禅師が留学先の明から帰国するとき、暴風雨に遭い難破しかけたとき、「無事帰国し、正法を伝えるべし」と船を救う。また、後に禅師が方広寺開山のとき、禅師に教えを乞い、山をまもり鎮守となった。で、その姿が半俗半僧であったために、半僧坊と呼ばれるようになった、と。無文禅師は禅の高僧。後醍醐天皇の皇子でもある、とか。
境内のお地蔵さんは「子育て地蔵」。また、境内には「秩父事件」で殉職した警察官のお墓と、両警部補に対し、内務大臣山縣有内務大臣が贈られた碑文がある。秩父事件とは、明治17年11月、生活に苦しむ農民約1万人が蜂起し、各地で戦斗が展開された騒乱事件。
ご詠歌;「みどり子のははその森の蔵福寺 ちちもろともにちかいもらすな

ちょっと脱線。鎌倉の建長寺で半増坊の話が出てきたとき、何ゆえ鎌倉の大寺院の話の中に、半僧坊が登場するのか、いまひとつしっくりしなかった。何ゆえ、という最大の理由は、浜松という、どちらかというと地方都市にあるお寺の神様を、何ゆえ建長寺に関連付けなければならないのか、よくわからなかった。で、このメモをまとめるに際し、半僧坊由来のもととなった人物が無文禅師であり、後醍醐天皇の皇子であったことがわかった。ということは、宗良親王とは兄弟、ということ。浜松というか、浜名湖の北、無文禅師が開山した方広寺のあるあたりは、宗良親王が南朝方の拠点のひとつとして、南朝勢力を回復するため積極的に活動したところ。宗良親王も天台座主をつとめたほどの人物。半僧坊をまつる、方広寺、って、宗教的にも政治的にも大きな力をもつ地域にある大寺院であったのだろう。半増坊への疑問もひょんなところで解決した。あれこれが繋がってくるのも散歩の楽しみのひとつ。

秩父神社
秩父の国の総社。武蔵国より先に開けた知知夫の里を2000年まもってきた。主祭神は八意思兼命(やごころおもいかねのみこと)、知知夫彦命、天之御中主神。もともとは武甲山を神奈備(かむなび;神の居ます山)として遥拝する聖地としておこったわけだが、知知夫国の国造に任じられた知知夫氏が祖神である主祭神・八意思兼命や知知夫彦命をあわせまつることになった。鎌倉時代に落雷により社殿焼失。再建時には、秩父平氏、つまりは武士団の信仰篤い星の信仰である妙見の信仰・妙見菩薩が習合し、明治の神仏分離令まで「妙見宮」として栄える。名称も本来の秩父神社というよりも、「秩父大宮妙見宮」が通り名となった。「秩父夜祭り」も妙見のまつりとし受け継がれたものである。

徳川時代には徳川家からの信仰も篤く、現在の社殿は家康により寄進されたもの。本殿左手には左甚五郎の作と伝えられる「つなぎの龍」がある。15番札所少林寺あたりの池に棲む龍があばれたとき、この場所に水たまりができた。が、龍をつなぎとめると、その後龍が現れることがなくなった、とか。東・西・南・北の鬼門を守護神「青龍」「百虎「朱雀」「玄武」にのっとり、表鬼門(東)を守る「青龍」であろう、と思ったのだが、南に「亀(玄武)」、北に「北辰の梟(朱雀)」となっており、西には虎ではなく「お猿」さん、とあり、どうも鬼門云々というわけでもなさそうだ。
で、このお猿さん、東照宮は「見ざる・言わざる・聞かざる」と、庚申信仰にのっとった様式であるのに対し、ここのお猿さんは「お元気三猿」。人間の元気の源を司る妙見信仰の影響もあるのだろうか。また、拝殿四面には虎の彫り物。武田信玄による焼き討ちのあと再建した家康が寅の年、寅の日生まれ、ということで虎のオンパレード。その中の子育ての虎は、左甚五郎の作。で、妙見宮も明治の神仏分離令で秩父神社に戻る。そのとき、妙見菩薩の「神様バージョン」が天之御中主神、ということで、この神様が主祭神として登場し現在に至る、って次第。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)


14番札所・今宮坊

少林寺を離れ、荒川方面に向かって北西に今宮坊に向かう。このお寺のあたり一帯は往古、近くにある今宮神社とともに「今宮坊」と呼ばれる聖護院直末の神仏習合の修験の地。聖護院とは修験道の中心寺院。白河上皇の熊野詣での先達をつとめた園城寺・増誉の開山。先達の功により、熊野三山検校、つまりは、熊野三山霊場のまとめ役となり役の行者創建といわれる常光寺を与えられた。それが聖護院のはじまり。つまりは、修験道者にとっては、ありがたいお寺さま、ということ。何年か前、家族で秋の京都に訪れた際、聖護院の宿坊に泊まった。最近はあまり名前を聞くことがなくなったが、弁護士中坊さんの経営する宿坊であった。
で、この今宮坊、701年役行者が、この境内の池に、仏法を守り水を司る神として八大龍王をまつった。ために、今宮神社は八大宮とも呼ばれている。 現在の札所14番観音堂は、もともとは今宮坊の境内にある一堂宇。巡礼者は八大宮をお参りしたのち参道を通って隣接の観音堂にお詣りするのが通例であった、とか。方形造りの観音堂。本尊は木彫漆箔置き・半跏趺坐像の聖観世音。本堂のすぐ前に、石の後生車。輪廻塔とも呼ばれる。後生の幸せを願い、回すことになる。境内には樹齢1000年を越える古木・龍神木。幹の周囲9mという大ケヤキ。竜神池、今宮弁天堂などがある。
ご詠歌;「昔よりたつとも知らぬ今宮に 詣る心は浄土なるらん」

16番札所・西光寺
今宮坊から北東に少し歩くと西光寺。山門をくぐると正面に本堂がある。堂々とした構え。本尊は千手観音像。堂の東側にはコの字形の回廊。四国八十八ヶ所霊場の本尊を模した木像が並んでいる。ここを廻れば四国お遍路道を歩いたと同じ功徳、と。もとは天明3年、というから、1783年の浅間山大噴火の犠牲者をとむらうためにつくられたもの。
回廊に囲まれた中庭には二つの小さな堂。金比羅堂と納札堂。金毘羅様は戦いの神でもあり、戦時中は出征兵士、最近は受験戦争に勝つべくおまいりするところ、とか。納札堂は、江戸時代には秩父札所の各寺に必ずあったもの。が、今ではこの寺に残るだけ。柱には無数の釘跡。札所を巡拝することを「札所を打つ」という。現在では納札は紙で各札所の納札箱に入れるわけだが、江戸時代の巡礼は、納札をお堂に打ち付けていた、から。
境内には大きな酒樽に草葺屋根をのせたお堂が。酒樽大黒様に。名刺を貼り付けると、お金が増える、とか。そうそう、四国八十八ヶ所をおさめた回廊にオビンズル様がいた。自分の体の悪いところと、オビンズル様(御賓頭盧)。のおなじ箇所をなでると、あら不思議、痛みを癒してくれる、とか。「撫で仏」といわれる所以。サンスクリット語(梵語)の「ピンドーラ」の音訳。東京都内散歩で何箇所かで出会った。最初に出会ったのはどこだったか忘れたが、足立区の関原不動・大聖寺の赤白青の着物・紐に結ばれたオビンズル様だけはなんとなく覚えている。
ご詠歌;「西光寺ちかいを人にたづぬれば ついのすみかは西とこそきけ」

西光寺の次は音楽寺。名前に惹かれる。また、観光ガイドで見た、峠に並ぶ地蔵尊の美しさにも惹かれた。が、場所が市街から少し離れている。荒川を隔てた長尾根丘陵の中腹にある。本日の計画からして往復徒歩は少々無理。ということで、行きはTAXI、帰りは歩きという段取りとする。荒川にかかる「秩父公園橋」を渡り、曲がりくねった道を上る。長尾根丘陵にある広大なレジャーパーク・「秩父ミューズパーク」への道でもあるので、きれいに整備されている。音楽寺に到着。

23番札所・音楽寺

名前の由来は、開山の聖が、山の松風を菩薩の音楽と感じたから、とか。この札所のご詠歌の中にある「峰の松風」ってそのこと、か。観音堂は三間四面、銅板葺きの方形造り。堂前に鐘楼がある。秩父事件のときは、秩父困民党の農民が、この鐘を打ち鳴らしながら市街地に攻め込んだ、と。鐘楼近くには「秩父困民党無名戦士の墓」がある。
観音堂の裏手の坂を登る。5~6分歩いた峠・小鹿坂峠に十三地蔵尊。なかなかいい風情。「小鹿坂」の名前の由来は、昔、慈覚大師がこの地で道に迷ったとき一頭の小鹿が現れて大師を案内した、から。秩父市街地や奥武蔵・武甲山など秩父連山が一望できる。
しばしば秩父事件が登場する。メモしておこう;開国以来、最大の輸出産品は生糸。生糸の生産地・秩父は生糸景気で大いに賑わっていた。が、その後のデフレ政策により、生糸の価格が大暴落。そのうえ、世界大恐慌の余波もあり秩父の生糸産業は大不況に見舞われた。その生糸生産農家を救うべく地元の有志がたちあがり、金利据え置きなどの救済策を郡役所に請願。その動きに自由民権運動が合流し「秩父紺民党」を組織。地元の侠客も幹部に加わるなどし、政府に請願を続ける。が、政府は無視。ために武装蜂起を決意。11月1日下吉田椋神社に農兵数千名集結。11月2日、小鹿峠を越えこの音楽寺に。
当初は警官隊を打ち破るなどして郡役所を占拠。が政府が鎮台軍や憲兵をもって鎮圧に乗り出し、結果秩父困民党軍は壊滅。蜂起からわずか9日間であった、と。ちなみに、秩父の自由党員は「自由党党首・板垣退助の命により立ち上がる」といったことを宣言しているが、当の退助は「あれは自由民権運動などではない」、と言った、とか。
ご詠歌;「音楽のみ声なりけり小鹿坂の しらべにかよう峰の松風」

小鹿坂峠から山道を麓に下る。今回はじめての山道。雑木林が心地よい。麓に降り、里の風景を楽しみながら童子堂に。

22番札所・太子堂(童子堂)
童子堂の名前の由来は、昔、子供の間に天然痘が大流行したとき、観音さまを勧請し祈祷したところ、疫病は治まる。以来子供の病気一切に霊験あらたか、ということで名づけられた。入口に茅葺の仁王門。茅葺の山門は秩父でもこのお堂だけ。童子堂と呼ばれる如く、仁王様、いかにも「子供向き」、というか子供がつくったのか、と一瞬間違うほど、まったくもっての、素朴な風情。「童子仁王」と呼ばれている、とか。境内といった仕切りもないようで、仁王門の先の、一見寺域と思われるところに畑があり、農作業をしておりました。
観音堂は方形瓦葺。昔、讃岐国の住人が旅僧の願う一食の布施を断わる。たちまちその人の息子が犬の姿に。この子を連れて西国、坂東、秩父巡礼をしてこのお堂に訪れると、息子は元の姿になったといった話が伝えられている、とか。
ご詠歌;「極楽をここで見つけてわろう堂 後の世までもたのもしきかな」

童子堂を離れ、荒川に沿って秩父公園橋に戻る。この橋はハープ橋と言われる。周りが音楽寺であり、ミューズ(音楽;musicの語源)公園、であるので、てっきり楽器のハープ、からもってきた名前かと思った。が実際は、ハープ形式という橋の種類。斜張橋といわれ、塔から斜めに張ったケーブルで直接橋桁を支える工法。ハープに似ているからこの通称があるのは間違いない。が、世界中にあるわけで、とくに音楽寺やミューズが近くあるから、命名されたわけではないだろう。橋からの秩父市街、秩父の山々の姿は美しい。長尾根丘陵から荒川に向かってゆっくり下り、そして荒川を越えると今度は秩父の山地に向かってゆったりとのぼっている秩父の地形がはっきり見える。地形のうねりフリークとしてはありがたいひと時であった。

17番札所・定林寺(林寺)

ハープ橋を越え、先ほど訪ねた西光寺を過ぎ、再び秩父市街地に入る。市民病院前を北に折れ、しばし進むと定林寺。お寺の名前は、林太郎定元という武家の名前に由来する。東国の武将・壬生良門が寺に雨宿り。接待にあたったお坊さん、実はその昔、この殿様に諫言し暇を出された林定元のこどもであった。で、前非を悔い改めた壬生良門が、林定元の菩提をとむらうためにこのお寺をたてた、と。
どこかで、壬生氏と秩父霊場を開いた性空上人のつながりを書いたコメントを見たことがあるような、ないような。壬生良門って、平将門の係累であるとか、ないとか。そうでもなければ、突然の壬生氏の登場は唐突、か。観音堂は宝形屋根。周りに回廊が囲む。境内には諏訪神社や蚕影神社。蚕影神社は戦前養蚕が盛んだった秩父地方ならではのもの。梵鐘は昭和63年ころ造られたものだが、日本百観音の本尊、そのご詠歌を刻んでい
る。
ご詠歌;「あらましを思い定めし林寺 かねききあへづゆめぞさめける」

定林寺は初期の巡礼札所1番。32番札所・法性寺に残る秩父札所について記された最古の古文書「長享二(一四八八)年秩父札所番付」にその記録が残る。この文書により、室町のこの頃には既に33の札所ができているのがわかる。ただ、札所の番号は20番を除いてみな異なっている。札所1番はこの定林寺(現在17番)、2番松林寺(現在15番)、3番は今宮坊(現在14番)、現在1番札所四萬部寺は当時24番となっている。先回のメモでものべたが、その理由は、設立当初の秩父札所は秩父ローカルなもの。秩父在住の修験者を中心に、現在の秩父市・当時の大宮郷の人々のために作られたもの。西国観音霊場巡礼や坂東観音霊場巡礼に、行けそうもない秩父の人々のためにできたからだろう。
その後札所番号が変わったのは、これも先回メモしたが、時代によって秩父往還の主要道が変化したことによる。室町時代の秩父への往還は名栗>山伏峠>芦ヶ久保>横瀬>大宮郷>皆野>鬼石といった南北路の往還か、飯能>正丸峠>芦ヶ久保>横瀬>大宮郷といった「吾野通り」。ただ、その当時は秩父観音霊場巡礼って、それほどポピュラーであったわけではなかった、のだろう。すくなくとも敢えて札所を変えなくてはならないほどの外部・内部要因がなかった、ということ。
現在の札番号となったのは江戸時代となってから。豊かになった江戸の人たちがどんどん秩父にやってくるようになった。信仰と行楽をかねた距離としては、1週間もあれば十分なこの秩父は手ごろな宗教・観光エリアであったのだろう。秩父札所の水源は江戸百万に市民であった、とも言われる。秩父にしっかりした檀家組織をもたない秩父観音霊場のお寺さまとしては、江戸からのお客様に頼ることになる。お客様第一主義としては、江戸からの往還に合わせて、その札番号を変えるのが、マーケティングとして意味有り、と考えたのであろう。
現在札番では栃谷の四萬部寺が1番となっている。理由は簡単。江戸時代は「熊谷通り」と「川越通り(小川>東秩父>粥新田峠)」を通るルートが秩父往還の主流。で、このふたつの往還の交差するところがこの栃谷であったから。江戸からはるばる来たお客様に、どうせのことなら、1番札所から始めるほうが、気分がすっきりする、と考えたのではなかろうか。栃谷からはじまり、2番真福寺を通り、山田>横瀬>大宮郷>寺尾>別所>久那>影森>荒川>小鹿野>吉田と巡る現在の札番となった理由はこういった、マーケティング戦略によるのではなかろう、か。我流類推のため、真偽の程定かならず。

18番番札所・神門寺

定林寺をはなれ、本日最後の札所・神門寺に向かう。「ごうとじ」と詠む。秩父鉄道を越え、彩甲斐街道・国道140号線近くにこのお寺はある。もとは今宮坊に属する一修験寺。神門の由来も、かつてこの地に神社があり、境内にはえる榊の枝が楼門のようであったから、と言われる。別の説もある。『秩父回覧記』には「神門」ではなく、「神戸」と記されている。神戸=カンベ、とは神社に諸税を収める神領域およびその民を意味する。神門寺の裏にある丘陵には9世紀から10世紀にかけて秩父神社の主祭神となる妙見大菩薩が最初にまつられたところ、とされる。で、現在の神門寺のあたりって、その妙見様の神域である可能性も高く。であれば、その神戸が神門に転化した、という。この説のほうがなんとなく納得感が高い。

観音堂は寛政(1789~1800)のころ焼失、現在の観音堂は天保時代(1830~1843)に再建された、と。堂は宝形銅葺き、名匠藤田若狭の作。正面の破風は秩父屋台・宮地屋台に似ている、と。藤田若狭はその屋台をつくった名匠の子孫であれば、むべなるかな。観音堂の寺額は幕末・秩父出身の彫刻家・森玄黄斉の作。印籠や仏像彫刻で有名。本尊は室町時代につくられた聖観音像。
このお寺には札所三十四ヶ寺の本尊を彫った版木がある。往古これを刷って信者に配ったと。「新編武蔵風土記稿」に、「別当神門寺。神門寺と称するは、寺号と云にはあらねど、神門にありし寺ゆへに、爾が唱来れり、本山修験、同郷の内今宮坊配下なり」と。現在は曹洞宗のお寺ではあるが、明治五年(1872)の修験道禁止まで今宮坊の修験寺として続いてきた。
ご詠歌;「ただたのめ六則ともに大慈をば 神門にたちてたすけたまえる」

本日の札所巡りはこれで終了。秩父鉄道・大野原駅に向かい、御花畑で下車。西武秩父駅に。お宿のある西武・横瀬駅に向かい本日のメモを終える。 

2日目は横瀬地区を中心とした札所巡り。横瀬町には5番から10番までの札所がある。秩父市街からは台地で隔てられ、横瀬川によって切り開かれた地域。ガイドブックには東丘陵などと紹介されている。横瀬川は秩父連山の武川岳や二子山といった800mから1000m級の山地にその源を発す。いくつもの支流の水を集めながら芦ヶ久保地区を西に流れ、横瀬地区では平坦部を北に進み、秩父線・黒谷駅近くで荒川本流に合流。全長19キロ程度の荒川の支流。(月曜日,12月 18, 2006のブログを修正)



本日のルート;9番札所・明智寺>8番札所・西善寺>7番札所・法長寺>6番札所・ト雲寺>5番札所・語歌堂>4番札所・金昌寺>3番札所・常泉寺>10番番札所・大慈寺>11番札所・常楽寺>西武秩父駅

西武秩父線・横瀬駅

さてさて、横瀬地区札所散歩は西武秩父線・横瀬駅からはじめる。武甲山が美しい。散歩のはじめに少々気になっていた武甲山についてメモする
武甲山;昨年はじめて秩父を訪れたとき、御花畑から見たこの山の印象は強烈であった。秩父といえば三峯山、という程度の智識はあったので、てっきり三峯山と思い込んでいた。で、この武甲山、山容がいかにも猛々しいのはさることながら、これまた、いかにも切り崩されたような白い山肌に強く惹かれた。後からわかったのだが、それって石灰を切り出したためにできたもの。明治になってセメントの原料として採掘が進められ、特に1940年以降の採掘はすさまじく、山容が変貌。北斜面の崩壊が著しく、少々の衝撃を受けたのはこの崩壊した斜面であったわけだ。標高も明治期に比べて30mほど低くなっている。山頂部が削り取られたから、という。
武甲山の名前の由来だが、日本武尊が東征のとき、甲を奉納したから、とか。しかし、これは江戸・元禄の頃に、なにが要因かしらないが、こういった伝承が伝わり、今に至る、というだけ。山の名前はあれこれ変わっている。武甲山資料館の資料によれば、最初は単に「嶽」とか「嶽山」と世ばれ、神奈備山(神のこもる山)として崇められてきた。はるか昔のことである。
次に、「知々夫ヶ嶽」とか「秩父ケ嶽」と呼ばれるようになる。秩父神社のメモで書いた、知知夫彦命が知知夫の国造に任命され、ご神体としてこの山をまつった頃のこと。その次の名前は「祖父ヶ嶽」。大宝律令が制定(701年)され、武蔵国初代の国司として赴任した人物/引田朝臣祖父の名前を冠した名前となった。平安時代には「武光山(たけみつ)」。山麓に武光庄という荘園があった、ため。武光とは荘園開発者であろうか、と。次は妙見山(ミョウケンヤマ)。これも秩父神社のところでメモしたが、1235年秩父神社は落雷炎上。再興に際し、秩父平氏の流れを汲む武士団が信仰した妙見大菩薩を習合し、名前も「秩父大宮妙見宮」と変わった。ためにお山の名前も「武光山」から「妙見山」に。で、最後が江戸になってからの武甲山、と。山の名前も、それがありがたい山であるがゆえに、信仰・政治的背景によって変わってきた、って次第。
はじめからの寄り道が、結構長くなった。散歩にでかける。最初の目的地・明智寺に向かう。横瀬の駅から線路にそって南方向に下り、のんびりとした田舎の風景を眺めながらすすむと目的の寺。

9番札所・明智寺
安産子育ての観音様として知られ、明智寺というより、「九番さま」との愛称で呼ばれる札所。縁起によれば、目のみえない母親の回復を祈り、日夜この観音堂におまいりする孝行息子の前に老僧が現れ、「無垢清浄光・慧日破諸闇」を唱えるべし、と。お堂にこもりこの二句を唱え続ける。と、明け方内陣より「明るい星の光」が親子を照らし、母の目が見えるようになった。ために、このお堂は「明星山」と。「明智」はこのお寺を開いた明智禅師から。なお、観音堂は平成になってつくりかえられたもの。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)

境内左手に小さな祠。女性の願いを納めたといわれる「文塚」と地蔵尊が祀(まつ)られている。文塚には「宝永元甲申年」の文字。1704年に建てられたもの。「ひだり十番」の文字も刻まれており、かつては道標を兼ねていたらしい。「文塚」って、女性の願いを埋めている、とはよく言われる。が実際は、それだけではないようだ。有名な文塚では「小野小町の文塚」がある。ここには深草少将をはじめとした千通にもなる恋文が埋められている、というし、平安期の三十六歌仙のひとり・能因法師の「文塚」には自作の和歌の草稿を埋めた、とか。
ご詠歌;「巡り来てその名を聞けば明智寺 心の月はくもらざるなん」

明智寺を離れ、南に進む。三菱マテリアル横瀬工場。いかにも石灰を切り出し、セメントをつくる、って雰囲気の工場。工場脇を進み西武秩父線を越え、線路に沿って続く道筋を進む。武甲山の麓といったところに西善寺。

8番札所・西善

秩父への巡礼道として飯能>旧正丸(秩父)峠を越える「吾野通り」を歩くと最初たどりつくのがこのお寺。この寺をはじめとして札所を巡った人も多かったのだろう。江戸時代、竹村立義が表した紀行文「秩父巡拝記」によれば、竹村は8番>9番>7番>10番と巡り、10番以降は札番の順に巡っている。江戸期は川越通りからの往還がメーンルートとメモした。とはいうものの、どの往還を選ぶかは人次第ではある。当たり前、か。
このお寺、古い正丸峠越え(665m)の苦労に報うだけの品のいい寺さま。境内に枝をひろげるモミジの巨木は、樹齢500年とも600年とも。紅葉の頃は、さぞ美しいことであろう。モミジの下に如意輪観音さまや六地蔵。如意輪観音は、「文字どおり」、意のままに願いが叶う仏さま。
お地蔵さんは「六道能化の地蔵尊」とも呼ばれる。六道とは「仏教で衆生が輪廻の間に、それぞれの業の結果として住む六つの境涯(広辞苑)」。地獄・餓鬼・畜生・阿修羅・人間・天の六つ。お地蔵さんとは、釈迦入滅後、弥勒が出現するまでの間現世にとどまり、衆生を救い、また、冥府の救済者。つまりは、この世で困っている人なら誰でも助けてくれる仏さま。ここまで活動範囲が広ければこの六道すべてに関係から、六道能化の地蔵尊と。六地蔵とはこの六つの世界をそれぞれ表しているのだろう、か。六地蔵は六道能化の本尊は恵信僧都の作と言われる、十一面観音。秘仏のため拝観叶わず。
ご詠歌;ただ頼めまことの時は西善寺 きたりむかえん弥陀の三尊

次の目的地・法長寺に向かう。少し秩父方面に戻ることになる。西善寺を離れ、北に下る道筋を進む、途中に「御嶽神社」。この里宮は武甲山頂に鎮座する御嶽神社の遥拝所。もっとも、石灰の採掘により削られ、山頂が30mほど低くなった、とメモした。山頂の御嶽神社も移された、って、こと。
地図を見ていると、御嶽神社の西のほうに白髭神社がある。これって、高麗王若光をまつるもの。吾野通りを下った高麗の里は霊亀2年(716年)、甲斐・駿河・相模・上総・下総・常陸・下野など七カ国の 高句麗人 (高句麗からの渡来人)、1799人を武蔵国に移し、 高麗郡(こまぐん)としたところ。高麗王若光をまつる高麗神社や聖天さまがある。
秩父は渡来人の里とも呼ばれる。吾野通りを通り、正丸峠から芦ヶ久保そして横瀬、大宮郷と帰化人たちも歩いてきたのだろう。秩父に絹織物の技術を伝えたもの、和紙の製造技術を伝えたもの、そして黒谷での和銅の採掘技術を伝えたもの渡来人。そういえば、この芦ヶ久保のあたりは706年に高麗羊太夫が芦ヶ久保村楮久保で、和紙の製造をはじめたというし、近くの根古屋って、絹織物の産地として有名。白鬚神社があって当然、か。西武秩父線を越え、生川交差点で国道299号線を秩父方面に。横瀬橋交差点近くに法長寺がある。

7番札所・法長寺(牛伏堂)

山門に菊水の紋。「不許葷酒入山門」葷とはニンニク、ラッキョ、ネギ、ニラといった野菜。その強い臭いが他人に不快感を与えるため。酒はいわずもがな。お寺の中では葷酒はだめ、ということ。本堂は間口10間の堂々とした構え。秩父ではもっとも大きい構えを誇る。本尊は十一面観音。江戸期の作。本堂の前に牛の石像。寺伝によれば、ある牛飼いが餌の草を刈っていると、一頭の牛が現れる。が、その牛、その場から動こうとせず、やむなくその地で一夜をあかす。と、夢に僧が現れ、「我は観音の化身なり。この地に草堂を結べば、この世の罪贖を取り除いてくれん」と。夜があけ、草の中からでてきた十一面観音をまつった、とか。「牛伏堂」と呼ばれる所以である。この牛伏堂は当時、横瀬の牛伏地区にあったらしいが、江戸時代にその堂が失われこの法長寺に札所が移された、と。本堂の虹梁の文様は平賀源内図と伝えられる
ご詠歌;「六道をかねて巡りて拝むべし 又後世(のちのよ)を聞くも牛伏」

横瀬橋を東に丘陵に向かう。畠にそって道を登る。境内に登る坂の途中に小さな祠。「お願い地蔵」がまつられている。竹林を背景にしたお堂の風情はなかなかいい。「日本百番霊場秩父補陀所第六番荻野堂」、と書かれた石標が入口に。正面に武甲山が美しい。

6番札所・ト雲寺;(ぼくうんじ;荻野堂)

このお寺、もとは別の場所にあった荻野堂が江戸時代にこの地にあったト雲寺に移されたもの。ト雲寺の名前の由来は、開山の嶋田与左衛門の法号が「ト雲源心庵主」である、から。本堂は、間口6間、奥行4 間。寺宝に、清涼寺形式の釈迦像、荻野堂縁起絵巻そして山姥歯等がある。荻野堂縁起絵巻が有名。
が、山姥の歯とは、少々面妖。縁起によれば、行基菩薩がこの地を訪れる。武甲山に山姥が棲み、里人を食う、という話を聞く。で、武甲山頂の蔵王権現にこもり山姥退治の祈願。この神力呪力によって山姥も降参。遠国へ立ち去るべし、と。山姥は悔い改め、再び里人を食わ誓いの証として前歯1枚、奥歯2枚を折り、献じて何処ともなく去ったという。もっとも、棄て台詞ではないだろうが、立ち去るとき「松藤絶えろ」と叫んだため、武甲山には松と藤が育たなくなった、とか。 本尊の聖観音は行基菩薩の作、と。蔵王権現にまつられていたもの、とか。
こんな話もある。とある禅師が庵を結んでの修業三昧。と、どこからともなく、「初秋に風吹き結ぶ 荻野堂 やどかりの世の 夢ぞさめける」という御詠歌、が。荻野堂の名前の由来がこれ。
ご詠歌;「初秋に風吹き結ぶ荻の堂 宿かりの世に夢ぞ覚めけり」

ついでのことであるので「清涼寺形式の釈迦像」について。清涼寺のことをはじめて知ったのは、江戸の出開帳の記録を見ていたとき。成田山などとともに出開帳ベストテンに入っている。で、清涼寺についてチェックした次第。京都嵯峨野にあり、通称、嵯峨釈迦堂と呼ばれる。ここに伝わる国宝の釈迦像は請来されて以来、藤原摂関家以下朝野の尊祟をあつめた。ために、模刻が盛んにおこなわれ、これを「清涼寺形式の釈迦像」、と。つい最近、紅葉の嵯峨野を歩いたのだが、この嵯峨釈迦堂、拝観料を惜しみ、かつまた夕暮れ、雨模様という状況もありパス。残念。

ついでのことなので、もうひとつ寄り道。蔵王権現について;武甲山に蔵王権現がまつられていた、とメモした。観音霊場の起こりのときも、性空上人さまと13権者のひとりとして巡礼に従った、と。で、蔵王権現って、宮城というか山形というか、その蔵王のお山での信仰から、かと思い込んでいた。チェックしてみた。と、この神というか仏というか、ともあれ「仮の姿で現れた神仏」は日本固有のもの。インドに起源をもたない日本独自のほとけさま。役小角が吉野・金峯山で修行中に感得したという修験の神であり、釈迦・観音・弥勒の三尊の合体したもの、とか。で、蔵王山のことだが、これは古くから山岳信仰の対象ではあったが、平安の頃、空海の両部神道を奉じる修験者が修行の山とし、吉野の蔵王堂より蔵王権現を勧請し、お山の名前を「蔵王」とした、と。想像と順番が逆であった。

ト雲寺をはなれ、丘陵地帯をゆっくりくだり平地に下りる。県道11号線と横瀬川が交差する語歌橋に。県道11号線って、熊谷から小川町をへて秩父にいたる埼玉で一番長い地方道。約48キロある。11号線から少し南というか、東にはいったところに語歌堂がある。

5番札所・語歌堂(長興寺)

素朴な雰囲気の仁王様が睨む仁王門をくぐると、観音堂。その昔、この堂を建てたのは本間孫八という分限者。和歌の道に親しむ風流人。ある日一人の僧が訪ね来る。歌道の話に大いに盛り上がり、二人は夜を徹して論じ合う。翌朝孫八が目を覚ました時、旅の僧の姿はすでになく、のちにこの僧は聖徳太子の化身であった ことがわかった。夜を徹し「語」り合い、和「歌」を呼んだ。これが語歌堂の名前の由来。もっとも、旅の人と和歌の道を論じあい、聖徳太子の話に及んだとき、突如消え去る。で、これこそ救世観音の化身と悟った、といった話もある。何ゆえ、聖徳太子であり、救世観音であることがわかったのか、少々疑問?
納経所は近くの長興寺にある。このお堂、秩父事件の中心人物である秩父困民党総理・田中栄助が捕縛・調書に登場する:「五番ノ観音ノ岩窟ニテ夜ヲ明ク時ニ 十一月十二日ナリ」、と。とはいうものの、岩窟など見当たらない、のどかな平地にあるのだが??
語歌堂の本尊は准胝(じゅんでい)観世音菩薩。「菩薩の母」、「仏母(ぶつも)」といわれ。母性を象徴し、子授けの観音菩薩。この観音様を本尊とするのはほかに西国霊場11番・上醍醐寺だけである。

ついでに観音さまについて。観音様のバリエーションは基本となる聖観音のほか、十一面観音、千手観音、馬頭観音、如意輪観音、准胝観音をもって六観音と称す。これが真言系。天台系では准胝観音の代わりに不空羂索観音を加えて六観音とする。
ご詠歌;「父母の恵みも深き語歌の堂 大慈大悲の誓たのもし」

札所5番から10番までは横瀬町。11号線を北に進むと秩父市に入る。県道から少し丘陵地に入ると金昌寺。

4番札所・金昌寺(新木寺)

二階造りの仁王門。秩父には、村子然とした素朴な仁王さまが多いなか、このお寺の仁王さまは、いかにも仁王然とした力強い形相。口を大きく開いた呵形の金剛、ぐっと口を結んだ吽形の力士である。左右の柱に大草鞋。仁王は健脚の神ゆえの奉納か。金昌寺は石仏の寺として有名。1300余体の羅漢、観音、地蔵、不動、十三仏が寺域に広がる。奥の院には大きな岩。清水が流れ出ていた。
この千体仏、1624年住職古仙登嶽和尚が、寺院興隆のため石造千体仏建立を発願。江戸を中心とする各地を巡り寄進をつのり、7年の歳月をかけて成就。石仏寄進者のほとんどが江戸に集中。全体の7割,武州を合わせると9割。地元秩父の寄進者はわずか5%。秩父札所巡礼という流れに咲いた花であり、水元が枯れればすぐ萎える。その水源は江戸百万市民である、と上でメモした。
このお寺の石仏寄進者の半数以上が江戸の商人。豊かになった江戸の商人は信仰と行楽を兼ね、この地を訪れた。関所通行の煩わしさもなく、鉱泉もある、といえば願ったり叶ったりであった、ことであろう。また、秩父を支配していた忍藩の代官所も巡礼者を保護し、寛延3年1月から3月の3ヶ月には4万から5万の巡礼者があったとか。
ちなみに秩父と江戸の関係でいえば、巡礼を「待つ」ばかりでなく、秩父札所の「出開帳」が江戸でおこなわれている。明和元年、護国寺で開かれた「秩父札所惣出開帳」は、「前代未聞」の賑わい。将軍家治の代参、諸大名、大奥女中、旗本などの参詣があり、秩父札所の名声を高めた、とか。で、この興行の成功に味をしめ、その後も幾度か出開帳をおこなった、よう。境内にオビンズルさま。別名「酒飲地蔵」さま。散歩をはじめて、十六羅漢のひとり、このお地蔵さんに幾度出会ったことか。
ついでのことであるので忍藩。埼玉県行田市に本丸をもつ。開幕のころは家康の四男・信吉。その後、島原の乱の鎮圧の功により川越藩に移る前の知恵伊豆こと松平信綱や、阿部忠秋など「老中の藩」として軍事的・政治的に幕府の重要拠点藩でありました。
ご詠歌;「あらたかに詣りて拝む観音堂 二世安楽と誰も祈らん」

いかにも立派な、また、「秩父は江戸でもつ」ということを実感した金昌寺を離れ、県道11号線に下り、北に恒持神社あたりまで進む。秩父夜祭で冬を向かえた秩父路に春の訪れを告げる山田の春祭りで有名な恒持神社。古く江戸時代から続く。2台の屋台と1台の笠鉾が、勇壮な「秩父屋台囃子」とともに曳行される、とか。春にはお祭りに来てみたい、などと思いながら県道を西に折れ、横瀬川にかかる山田橋を渡って左折。少し歩く。丘陵地帯が前方に広がる。この台地の先は秩父市街。常泉寺はこの小高い山地の麓にある。

3番札所・常泉寺

本堂の石段を上がったところに観音堂。丘の中腹、林の中、といった雰囲気。もとの堂宇は、弘化年間(1844年頃)に焼失したため、1870年秩父神社の境内にあった薬師堂を移築した。本尊は室町時代の作と伝えられる聖観音の木彫像。この堂の向拝と本陣を結ぶ虹梁にある龍のカゴ彫り。江戸時代の彫刻の高い技術を表している。寺伝によれば、ここの住職が重い病に伏せていたとき夢に現れた観音様からお告げ。「境内の水を服用せよ」、と。あら不思議、病気がすぐに治ったと。この長命水が本堂前にある。また本堂の回廊には「子持ち石」。抱けば、子宝を授かる、と。ご詠歌の岩本寺とは、この寺の山号。
ご詠歌;「補陀落は岩本寺と拝むべし 峰の松風ひびく滝つ瀬」

常泉寺を離れ、丘陵地の麓に沿ってのんびり進む。南に戻る。秩父市から再び横瀬町に。語歌橋を越え、県道11号を一筋入ったところに大慈寺。

10番札所・大慈寺
延命地蔵に迎えられ、急な石段を上ると楼門形仁王門。形のいい仁王が構えている。本尊は、恵心僧都の作と言われる聖観音。お賓頭盧さま、も。オビンズル様とは
、十六羅漢中第一の位にあったが、その神通力をもてあそび、酒癖も悪く釈迦のお叱りを受けて涅槃を許されず、釈迦の入滅後も衆生を救いつづけたという白髪・長眉の仏神だったとか。山門からの眺めよし恵心僧都って、あの恵心僧都・源信のこと?天台宗の高僧。極楽浄土の思想をまとめた『往生要集』の著者として知られるが、仏さんを彫ったりもするものだろうか。少々疑問。
ご詠歌;「ひたすらに頼みをかけよ大慈寺 六(むつ)の巷の苦にかはるべし」

県道11号線を進み国道299号線に合流。丘陵地の切れ目なのか、工事によって切り通されたのか、定かには知らねども、秩父市街に向かってちょっとした峠道を進む。秩父側にでたところに常楽寺。今回最後の札所。


11番札所・常楽寺


この寺は秩父市と横瀬町のまたがる山の中腹にある。秩父の市街地や武甲山や長尾根丘陵、両神山まで一望できる。昔は堂々とした伽藍を誇った。が、明治11年の秩父の大火で焼失。その後、明治30年に建てられたのが現在の観音堂。上で秩父札所の江戸での出開帳のことをメモした。常楽寺も享保3年(1718年)、江戸湯島天神で観音堂修復のための出開帳をおこなった、と。本尊は十一面観音。その他、行基作といわれ釈迦如来像も。大正9年、秩父を訪れた若山牧水が、「秩父町出はづれ来れば機をりの 歌声つづく古りし 家並に」と詠んだのは、この常楽寺前の坂道でのこと。
本堂に、元三大師と普賢菩薩。元三大師って、慈恵(じえ)大師良源のこと。天台宗。比叡山中興の祖と言われる実在の人物。命日が正月三日のため元三大師、と。中世以来独特の信仰をあつめ「厄除け大師」として有名。佐野厄除け大師は、弘法大師ではなくこの元三大師をまつっている。普賢菩薩は辰巳の守り本尊。本堂に向かって右手に、新しい六地蔵。座像一本つくりの釈迦如来がある。
ご詠歌;「つみとがも消えよと祈る坂氷朝日はささで夕日かがやく」

1泊2日の秩父札所巡りを終える。17の札所を巡った。信仰心には縁遠く、B級路線まっしぐらの我が身も、辿るとともに、なんとなくの、修行者なる心持も。今回は秩父市と横瀬町が中心。秩父札所の所在地をみると、秩父市22カ所、横瀬町6カ所、荒川村、小鹿野町各2カ所、吉田町、皆野町各1カ所に広がる。次回はどこからはじめようか。
9月の第一回秩父行きに引き続き11月の末、会社の同僚と男ふたりで再び秩父に向かう。紅葉の頃である。1泊2日。初日は三峯神社。二日目は成り行きで札所を巡り、長瀞で紅葉見物。そして宝登山神社で締めくくるって段取り。先回の秩父神社と合わせ、三峯神社・宝登山神社を巡れば秩父三社におまいりしたことにもなる、と同僚の言。時空散歩というか、時=歴史、空=地理には大いに興味はあるものの、神や仏にそれほど思い入れのない我が身ではあるが、秩父といえば三峯でしょう、ということで少々のワクワク感は否めず。(火曜日, 12月 19, 2006のブログを修正)



本日のルート;西武秩父>三峯山>三峯神社>妙法ケ岳・三峯神社奥宮>西武秩父

朝8時半の池袋発の西武特急に乗り、西武秩父に。通常は秩父鉄道で三峯口まで行き、バスで大輪まで。で、ケーブルで登山、ということではあるが、現在は運行停止中。来春まで続く、とか。ということでもあり、西武秩父から三峯神社行きの西武直通バスにのり、神社を目指す。140号線・彩甲斐街道を進む。影森>浦山口>武州中川>武州日野>白久>そして三峯口と、秩父鉄道の駅と付かず離れず道は進む。

バスはさらに進み、大輪>大滝村を越えると秩父湖。二瀬ダムにより荒川を堰きとめてできた人造湖。ちなみに140号線ってどこに続くのか辿ってみると、秩父湖の先から南西に下り、全長6625mの雁坂トンネルを越え、山梨の西沢渓谷、そしてその先は塩山市。恵林寺のあたりに続いていた。秩父往還・甲州道とほぼおなじコースであろう。ついでのことながら、この恵林寺、織田信忠軍による武田方の武将の引渡し要求を拒否。焼き討ちにあった。その際の快川和尚が燃え盛る山門の上で「安禅必ずしも山水を須いず、心頭を滅却すれば火も自ら涼し」と偈を発したことは、あまりに有名。

三峯神社は秩父湖からは10キロ程度。曲がりくねった道をどんどん上る。秩父湖の標高は600m。三峯神社は1060mであるので、400mほど一気に駆け上がる感じ。11月後半の紅葉の見ごろ、でもある。昨年は紅葉を求めて、鎌倉や高尾など歩き廻ったが、結局見事な「赤」の紅葉は秩父・長瀞でしかお目にかかれなかった。今回の秩父への旅も長瀞の紅葉を、などと思っていたのだが、思いがけなく、この秩父湖のあたりで美しい紅葉を見ることができ、大いに満足。大滝村営駐車場でバスを下りる。石段を上がり三峯神社に向かう。

三峯神社
最初に本殿に。イザナギノ尊、イザナミノ尊をまつる、と。春日造りのこの本殿はおよそ340年前に建てられたもの。神社の歴史は古く、いまから1900年ほど前、日本武尊が景行天皇の命により東征のおり、この地に赴き、その美しき景観を愛で、美しき国産みの神様であるイザナギノ尊、イザナミノ尊の二神をまつった、とか。三峯の名前は神社東方にそびえる雲取山(2017m)、白岩山(1921m)、妙法嶽(1329m)の三つの峯が美しく連なることから名付けられた。寺伝によれば、景行天皇が日本武尊の足跡を偲び東国を巡行されたとき、上総国(千葉)で、この三峯が美しく連なることを聞き、「三峯山」、そして社を「三峯宮」と名付けた。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)

神話の時代は所詮、神話。時代を下り「歴史時代」の三峯神社をチェックする。天平時代。国々に厄病が蔓延したとき、聖武天皇は勅使として葛城連好久公をこの宮に遣わし「大明神」号をさずける。平安時代になると、修験道の開祖・役小角がこの地で修行し、山伏の修験道場となる。伊豆からこの地を往来した、と。役小角って、いろんなところに現れる。実際この地に来たのかどうか知らないけれど、それはそれとして、黒須紀一朗さんが書いた『役小角』、『外伝 役小角』は真に面白かった。
天平17年(745)には、国司の奏上により月桂僧都が山主に。更に淳和天皇の時には、勅命により弘法大師が十一面観音の像を刻む。三峯宮の脇に本堂を建て、天下泰平・国家安穏を祈って宮の本地堂とした。こうしてこの三峯宮は次第に佛教色を増し、神仏習合の社となってゆく。
三峯山の信仰が広まった鎌倉期には、鎌倉武士の華・畠山重忠もこの宮を篤く祟敬した、と。
東国武士を中心に篤い信仰をうけて大いに賑わった三峯宮も、その後に不遇の時代を迎える。正平7年(1352)新田義興・義宗等が、足利氏を討つべく挙兵。戦い敗れて三峯山に身を潜めたわけだが、そのことが足利氏の怒りにふれて、社領を奪われる。こういった状態が140年も続く。再興されるのは後柏原天皇の文亀二年(1503)になってから。修験者月観道満は27年という長い年月をかけて全国を行脚し、資金を募り社殿・堂宇の再建を果たした、という。天文2年(1533)には山主が京に上り聖護院の宮に伺候。「大権現」の称号を授かり、坊門第一の霊山となる。以来、天台修験の関東総本山となり観音院高雲寺と称する。札所巡りで、今宮坊が聖護院の系列である、ということと、ここでつながった感じ。
江戸時代には享保5年(1720)日光法印が各地に三峯信仰(厄除け)を広め、今日の繁栄の基礎を築く。「お犬様」と呼ばれる御眷属(ごけんぞく)信仰が遠い地方まで広まったのもこの時代。三峯神社の神の使い・眷属は狼。狼・山犬は不思議な力を持つと信じられ「大口真神(おおくちのまかみ)」とも呼ばれ、山里では猪鹿除け、町や村では火ぶせ(火難)よけ・盗賊よけの霊験あらたかと信仰も篤く、この「お犬さま」の霊験を信じる多くの人が講をつくり、このお山に登ってきた、と。以来隆盛を極め信者も全国に広まり、三峯講を組織し三峯山の名は全国に知られる。その後明治の神佛分離により寺院を廃して、三峯神社と号し現在に至る。
社殿前には青銅の鳥居。塩原太助の名前もある、とか。塩原太助も散歩をはじめ各地でお目にかかった。亀戸天神、江東区の塩原橋、そして足立だったか、太助のお墓。いろんなところで足跡に触れる。祖霊社、国常立神社、摂末社へと境内を進む。境内より少し下ったところに仁王門。随身門と称す。200年前に作られた、と。表参道からここを通るのが古来の正参道。表参道とは、ケーブルなどができるまで、麓の大輪から神社までおよそ2時間半ほどかけてのぼってきた道。随身門から見て少し小高い場所にある遥拝殿の脇にその道が続いている。で、遥拝殿。展望が美しい。ここは三峯神社奥宮を遥拝するところ。近くには日本武尊の銅像のほか、「朝にゃ朝霧、夕にゃ狭霧(さぎり)秩父三峰霧の中」と詠う野口雨情の歌碑がある。で、本日のメーンイベント、奥宮・妙法嶽への散歩を始めることにする。

妙法ケ岳・三峯神社奥宮
杉並木の中、舗装された道が続く。南斜面に60戸ほどの集落。江戸時代までは神領村として、年貢を神社に納めていた。古風な神領民家は最近まで使われていた三峯の民家を移築、復元したもの。先に進むと「一の鳥居」。ここで舗装は終わりになる。20分程度歩いただろうか。本当のところを言うと、奥宮、とはいうものの、おだやかな舗装道の参道を歩いていくものだと、勝手に思っていた。それが、とんでもなかったのは後の祭り。「一の鳥居」をくぐってから、しばらくは雲取山への縦走路を歩くことになる。参道ではなく、これって登山。
15分程度歩くと「二の鳥居」。ここが妙法ケ岳への分岐点。雲取山への縦走路を離
れ、杉並木の中、きつい登りを進む。登りが一段落したところにベンチがあり休憩できる。これから先がもっと厳しい登り、となる。片側が急斜面のところもあり、高所恐怖症の我が身には少々厳しい。30分程度の苦行のあと、「三の鳥居」に到着。東屋もある。鳥居をくぐり尾根筋を進み、アップダウンを繰り返しながら進む。岩場も出始める。やがて小さい木の鳥居。鳥居があるたびに、奥宮か、などと甘い期待を裏切られながら進む。険しさの増す岩場が続く。山頂までは3つの岩峯越えとなる。急な階段もあり、傷めた膝には少々厳しい。
階段を下り、少し歩くと今度は急な登り階段。険しい登り。階段の上場は岩場であり、鎖にすがって登る。「三の鳥居」から20分程度。登りきったところが山頂。標高1392m。三峯神社奥宮が鎮座する。奥宮の創建は寛保元年(1741年)。小さな社ではあるが、風格がある。両脇には「お犬さま」が控える。山頂からは両神山(1723m)など奥秩父の山々、西上州の稜線が一望のもと。

三峰山博物館
少々休憩し、下山開始。下りは膝にきつい。艱難辛苦の末、三峯神社になんとかたどり着く。本来であれは、遥拝所脇から大輪に下る「表参道」を歩きたかったのだが、なにせ膝が限界。午後1時半の後は3時半まで無いバスを待つ。待ち時間を利用し、秩父宮記念「三峰山博物館」に。三峯講社の登拝・参籠に関する資料、三峯神社が修験の山として栄えていた別当・観音院時代の宝蔵・資料が展示されている。もちろん、秩父宮家ゆかりの品が展示されているのはいうまでもない。また、世界で7例・8例目のニホンオオカミの毛皮も展示されている。

三峯講についての資料に惹かれる。山里では猪鹿除け、町や村では火ぶせ(火難)よけ・盗賊よけの霊験あらたか、という三峰の御眷属・「お犬さま」の霊験を信じる多くの人が講をつくり、このお山に登ってきた、と上でメモした。この記念館にはその道筋がパネル展示されていた。江戸からの道は、「熊谷通り」、「川越通り」、そして「吾野通り」。これら江戸からの道は観音巡礼でメモした。そのほか三峯詣でには上州、甲州、信州からの道がある。上州からの三峯詣・「上州道」は出牛峠>吉田・小鹿野>贄川>秩父大宮からの道筋にあたり、52丁の表坂(表参道)を三峯に上る。「甲州道」と呼ばれる甲斐からの道筋は秩父湖のメモのところで辿った道筋。三富村の関所>雁坂峠かみ>武州>栃本の関所>麻生>お山に、となる。「信州道」は信州の梓山>十文字峠(長野県南佐久郡川上村と埼玉県秩父市の境、奥秩父にある峠)>白泰山の峠>栃本の関所>麻生>お山に。
三峯信仰は17世紀後期から18世紀中期にかけて秩父地方で基盤をつくり、甲斐や信濃の山国からまず広がっていった、とか。まずは、作物を荒らす猪鹿に悩まされていた山間の住人の間に「オオカミ」さまの力にすがろうという信仰が広まった、ということだろう。農作物に被害を与えるイノシシやシカをオオカミが食べるという関係から、農民にとっての益獣としてのオオカミへの信仰がひろまった、ということだ。
山村・農村に基盤をおいた三峯信仰も、次第に「都市化」の様相を示してゆく。都市化、という意味合いは、山里では重要であった「猪鹿除け」が消え去り、「火ぶせ(火難)よけ・盗賊よけ」が江戸をはじめとした都市で三峯信仰の中心となってくる、ということ。都市化への展開要因として木材生産に関わる生産・流通の進展が大きく影響する、との説もある(三木一彦先生)。江戸向けの木材伐採が盛んになった大滝村で三峯山が村全体の鎮守、木材生産に関する山の神としての機能が求められたことを契機にして、三峯信仰が浸透したと言う。秩父観音霊場の普及は秩父の絹織物の生産・流通と大いに関係ある、ともどこかで見たような気もする。信仰って、なんらかの政治・経済的背景があってはじめて大きく展開する、ってことは熊野散歩のメモで書いたとおり。

都市化された三峯信仰の例は散歩の折々に出会った。千住宿・氷川社末寺もそのひとつ。縁起には「宿内信心の講中火災盗難為消除、御眷属を奉拝」と、「猪鹿除け」は消えている。「白波は三峰山をよけて打ち」って川柳があるほど、だ。これって、歌舞伎の白波5人衆、泥棒5人組み、のことである。泥棒は三峯山(お札)を避ける、って意味。江戸時代後半以降、三峯講が盛んとなり、各地で講が組織される。組からは毎年2人ほどが代表となり参拝し、お札をもらってくることになるわけだが、講の加入者に渡される札は火防・盗賊除け・諸災除けの3枚、であり農作業に関わる願意は見られない。

信仰の都市化の傾向は江戸だけではない。島崎藤村が小諸市を舞台に描いた『千曲川スケッチ』の中で、村落部に張られたお札は「盗賊除け」と。時代・世相・生産基盤の変化に応じ、願意も変化していったのであろう。それに応じて、霊験もきっちりと変化していった、ということだろう。マーケティング戦略であろう、か。マーケティングの話のついでに、お札の話。社寺で宝物でもあれば、江戸で出開帳でもすれば大きな利益もでようものを、三峯にはこれといった宝物もない。ということで、講をつくり、あれこれとご利益のあるお札を配布し普及していった、とか。

現在の三峯講は代参・団参あわせて4000余社、崇敬社は20
万人以上といわれている。そういえば亀戸・香取社にも三峯神社があった。世田谷のどこだったか、にもあった。講といえば富士講が有名だが、富士講、白山講、そして三峯講も、現在、どの程度の規模でどのようにおこなわれているのだろう。そのうちに調べてみたい。
あれこれしているうちにバスの時間。西武秩父についた頃には日も暮れた。宿に向かい、本日の予定終了。温泉というか鉱泉で痛む膝を癒し明日に備える。
宿でのんびりしながら、翌日の予定をどうしたものかと、少々真面目に話し合う。当初の予定では、最初に長瀞に向かい、それから西武秩父へ成行きで戻り旅、などと考えていた。地図を見る。宿は語歌橋の近く。5番札所・語歌堂も直ぐ近い。ということは千体仏の4番札所金昌寺もその先に。ということは、先回の札所散歩のとき、時間切れで行けなかった1番、2番札所は、そのもう少々先にある。宿から西武秩父まで歩くのであれば、とっとと、1,2番札所に進むべし。 で、黒谷の和同開珎の露天掘り跡を経て長瀞へというコースに、急遽というか、計画しておけば当たり前というか、の段取りですんなり決定。(水曜日, 12月 20, 2006のブログを修正)



本日のルート;語歌橋>5番札所・語歌堂・長興寺>4番札所・金昌寺>2番札所・真福寺>1番札所・四萬部寺瑞岩寺>和同開珎>秩父鉄道・黒谷駅>上長瀞駅>長瀞>宝登山神社>西武秩父

朝、宿を出立。交通量の多い県道・11号を避け、一筋東に入った道を歩く。5番札所語歌堂前を通り、先回パスした5番札所の納所・長興寺にちょっと立ち寄り、先に進む。織姫神社。昔、このあたりに織物工場があり、織物にちなんだものではあろう。が、秩父夜祭、って秩父神社の織姫さまと武甲山の龍神さまの年に一度の逢瀬のとき。こちらのコンテキストで考えるほうが、なんとなく落ち着きがいい。
織姫神社のところを東に入り、4番札所・金昌寺の門前をかすめ、先に進む。山の端をしばらく歩き二番札所の納経所・光明寺に立ち寄り、2番札所真福寺に向かう。大棚地区の山道を進み、九十九折れ・急勾配の峠道を越えると木立に囲まれた真福寺に着く。4番札所・金昌寺から、50分程度の歩き。途中の峠あたりか らの武甲山など、山々が美しい。

2番札所・真福寺
観音堂は、屋根・向拝や彫刻も美しく、風格ある趣き。本尊の聖観音立像は一木造りで室町時代の作。長享の頃というから15世紀の末、水害に遭い札所からはずされていたようだが、信者からの復活要望も強く34番目の札所として再登場。現在の場所に移ったのは江戸時代初期のこと。当時はもっと大きな規模であったようだが、万延元年(1860)火災により焼失した、と。本堂の左手に注連縄を張った社というか小祠。春日神社、諏訪神社などがまつられている。ちなみの、長享頃って、どんな時代だったか、ということだが、室町幕府、将軍・足利義尚の子治世。加賀の一向一揆の門徒が、守護・富樫氏を攻め自刃においやった、といった時代である。
ご詠歌;「巡りきて願いをかけし大棚の誓いもふかき谷川の水」

真福寺を離れ山道を下る。結構急勾配。この道を上るのは大変であろう、と思いながら歩いていると、サイクリング自転車に乗った御仁が急勾配をものともせず上がり来る。脱帽。坂道を30分程度下ると四萬部寺に。

1番札所・四萬部寺
山門をくぐり中へ入ると、正面奥に観音堂。元禄の頃の建築。紅葉が素晴らしい。いい雰囲気。寺伝によれば、昔、性空上人が弟子の幻通に、「秩父の里へ仏恩を施して人々を教化すべし」と。幻通はこの地で四萬部の佛典を読誦して経塚を建てた。四萬部寺の名前はこれに由来する。本尊の釈迦如来像が明治の末に、行方不明になったことがある。その後、70年をへて都内で発見され、現在この寺に収まっている、と。本堂の右手に施食殿の額のかかったお堂。お施食とは、父母、水子等があの世で受けている苦しみを救うための法会。毎年、8月24日に、この堂で行われる四万部の施餓鬼は、関東三大施餓鬼のひとつと。大いに賑わう。ちなみにあとふたつは「さいたま市浦和の玉蔵院の施餓鬼」、「葛飾・永福寺のどじょう施餓鬼」。

四萬部寺が札所一番になったいきさつは、上でメモしたように、江戸からのお客様対策。繰り返しになるが、江戸からの巡礼道としてもっともよく使われていた「川越通り(川越から小川、東秩父を経て粥新田峠(かゆにたとうげ)>三沢>曽根坂峠>秩父大宮)」にしても、熊谷方面からの「熊谷通り(中仙道>熊谷>寄居>釜伏峠>皆野>秩父大宮)」にしても、秩父へのゲートウエイとしては、結局はこの四萬部寺がベストロケーション。粥新田峠から皆野町三沢地区に下ると、四萬部寺までは県道82号(長瀞・玉淀自然公園線)の一本道。釜伏峠から下って来ても三沢地区で同じ県道に出る。ということは、川越通り、熊谷通りのどちらを歩いても、この寺が一番近い秩父札所ということ。
ご詠歌;「有難や一巻ならぬ法(のり)の花 数は四萬部の寺のいにしえ」


瑞岩寺
四萬部寺を離れ次の目的地・黒谷の和同開珎露天掘跡に向かう。野道を20分程度進み、国道140号線の手前あたりに瑞岩寺。秩父十三仏霊場のひとつ。裏山は岩肌の露な魅力的な風情。ツツジの名所とか。ツツジの季節に来てみたい。この岩山、戦国時代大田道潅と戦った長尾景春の居城跡と伝えられる。
長尾景春って結構面白い。室町から戦国時代初期にかけ、関東を戦乱・混乱に巻き込んだ立役者。ことの発端は、関東管領・山内上杉憲実の家宰・長尾景信の跡継ぎ騒動。景信は景春の父。景春はてっきり自分に家宰の跡目が廻ってくる、と思っていた。が、管領・上杉憲法は跡目を景信の弟・忠景に継がせた。怒り狂った景春は寄居の鉢形城に立てこもり上杉家に戦いを挑む。これが「長尾景春の乱」のはじまり。一時は上杉軍を破り、上杉・管領家は上野に退却。ここで扇谷上杉家の家宰・大田道潅の登場。道潅は景春に復帰を呼びかけるが不調。で、合い争い、結局景春は破れ再び鉢形城に籠城。上杉軍が鉢形城を包囲。景春は上杉と争う古河公方・足利成氏に支援要請。なぜ古河公方か。簡単に言えば、といっても、簡単には説明できないのだが、関東管領・上杉氏と犬猿の仲であった、ということ。もとは鎌倉において鎌倉公方であったのだが、公方の補佐役・管領上杉家と争い、結局は鎌倉から追い出され、古河に本拠地を構える。古河公方と呼ばれる所以。で、鎌倉の公方(堀越公方)・上杉管領家と関東を二分した争いが続く。
本題に戻る。成氏動く、との報に接し、上杉軍は包囲を解き足利軍に備える。結局、上杉と足利は停戦成立。取り残された景春に対し、大田道潅は鉢形城を攻め景春を秩父へと追放した。瑞岩寺の景春の居城跡、って、このとき拠点としたところだろう、か。 その後のこと:道潅死後は再び秩父から出兵し、群馬・渋川市にある白井城を拠点に上杉家と戦い続け、最後は小田原・北条早雲と同盟を結ぶことになるが、あくまでも上杉家と戦い続けた。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)


和銅露天掘跡
瑞岩寺から30分程度の歩きで秩父鉄道黒谷駅。駅を越え、再び山地に向かう。30分程度登り、ちょっと沢に下ると「和銅露天掘跡」。秩父市と皆野町にまたがる蓑山(587m)につくられた「美の山公園」の麓。蓑山って、秩父唯一の独立 峰、ってことをどこかで見たような気がする。ともあれ、ここは秩父古生層と第三紀層の大きな断層崖が形成された地。この露頭壁に走る自然銅の鉱脈を、露天掘りによって採掘したのであろう。この地で採掘された「にぎあかがね」・自然銅は精錬銅に対して熟銅とも言われる極めて純度の高いものであった、とか。慶雲5年(708年)、秩父から自然銅が元明天皇に献上される。天皇大いに喜び、詔を発布し年号を「和銅」と改元した。で、その銅をもとに日本での最初の流通貨幣「和同開珎」がつくられた。銅は秩父の広い範囲から産出されたが、和銅にちなむ名前が多いこの黒谷をもって昭和61年「和同開珎の碑」が建てられた。
秩父の歴史は古い。縄文遺跡は市内に五十ヶ所、弥生式文化も数ヶ所から出土している。「チチブ」という名が現れたのは旧事記、国造本紀の中で「崇神(すじん)天皇の時代、知知父国造(ちちぶくにのみやつこ)が任命された」がはじめて。この「知知父」が「秩父」に改まったのは元明天皇の和銅六年、国、郡等の名を二字の好字に定めたことによる。で、古い歴史をもつこの秩父が歴史上有名になったのは、なんといってもこの黒谷の和銅を天皇に献上したときであろう。なにせ、改元したほどであるわけだから。大赦もするわ、臣下や百官を昇進させたり、老いた人にはモミを配ったり、徳の有る人を表彰したり、武蔵国にはその年の庸(よう)、秩父郡は庸・調(ちょう)等の租税を免除した、というし、いやはや、国を挙げての一大行事であったのだろう。
和銅露天掘跡に登る道すがら、「聖神社」という趣のある社があった。時間がなくなり、気になりながらもパスしたのだが、この神社って採掘された自然銅を御神体にした神社。神社創建の式典には天皇からの勅旨が派遣され、その際「銅のムカデ」が授けられ、神社の宝物となっている、とか。「ムカデ」の意味合いは、渡来人との関連で考えるのがわかりやすい。渡来人の王・若光王をまつる「白髭神社」の神のつかいはムカデ。フイゴ祭りには藁でつくったムカデをまつる風習もあるし、ムカデの油漬けは火傷の薬としても効果ある。精錬・鍛冶・金工といった、一連の作業に関係するムカデの霊力をまつる行為は渡来人の間でおこなわれていた祭祀のひとつ。和銅の採掘には金上金上无(こんじょうむ)等、渡来人のもつ技術なくしては不可能であり、渡来人の信仰の対象であった「ムカデ」を天皇が記念に贈ったのであろう。この神社をパスしたのは少々残念。散歩の鉄則として、「とりあえず行く」の精神を再確認。

「和同開珎の碑」を離れ、秩父鉄道・黒谷に向かう。次の目的地は長瀞であるのだが、膝のガタもさることながら、時間が少々タイト。電車を利用し、上長瀞駅に。昨年紅葉の季節の見た、上長瀞駅近くの県立自然博物館付近の紅葉の美しさを再び、と思った次第。紅葉の中を長瀞駅までのんびり歩き、これも昨年食べた「田舎饅頭」の味を再び、と。なんとなく子供の頃、なくなった祖母がつくってくれた「饅頭」の味を思い出す。お土産に、「田舎饅頭」を買い求め、最後の目的地・宝登山神社に向かう。

宝登山(ほどさん)神社

秩父鉄道・長瀞駅から一直線に参道が。白大鳥居が目に付く。結構歩いた。山麓に宝登山(ほどさん)神社。秩父神社、三峯神社とともに秩父三社のひとつ。ここにも日本武尊が登場する。寺伝によれば、三峯とおなじく景行天皇の御世、その皇子である日本武尊がこの山に登る。突然の山火事。一面火の海。いずことのなく現れた「お犬さま」が奮闘し鎮火。危機一髪の難を逃れる。お犬さまは日本武尊を山頂に案内し、再び何処とも無く立ち去る。「お犬さまは、神のお使い」と感謝。この山を「火止山(ほどやま)」と命。山頂からの美しい眺めに神の山にふさわしい、と「神日本磐余彦尊(かみやまといわれひこのみこと;神武天皇のこと)」「大山祇神(おおやまづみじんしゃ;山の御神霊)」「火産霊神(ほむすびのかみ;火の御神霊)」の三柱をまつる。その後、火止山は霊場として続き、弘仁年中に宝珠が光り輝き山上に飛翔する神変。ために「宝登山」と称し、仏教、特に修験場として栄える。山麓には玉泉寺(真言宗)も開基され、神仏習合の宮として明治の神仏分離令まで続く。日本武尊伝説にちなみ防火、災難消除の神として信仰厚い神社となっている。

この神社の御眷属は三峰神社と同じく「お犬さま」、というか狼。御眷属、というか、神様のボディガードと言うか、神様の使いもバリエーション豊富。伊勢神宮はニワトリ。天岩戸の長鳴鳥より。お稲荷様は狐。「稲成=いなり」より、稲の成長を蝕む害虫を食べてくれるのがキツネ、だから。八幡様はハト。船の舳先にとまった金鳩より。春日大社はシカ。鹿島神宮から神鹿にのって遷座したから。北野天満宮はウシ。菅原道真の牛車?熊野はカラス。神武東征の際三本足の大烏が先導した、から。日枝神社はサル。比叡に生息するサルから。松尾大社はカメ。近くにある亀尾山から。といった按配。それぞれに御眷属としての「登用」に意味はあるわけだが、その決定要因はさまざま。いかにも面白い。

石神井川散歩の東伏見稲荷のところでメモしたのだが、それぞれの神社が祭祀圏を広げるに際し、キャンペーンガールならぬマスコットをつくりあげ、市井の民にわかりやすい形を組み上げたうえで勢力拡大・販路拡大を図ったのであろう。巧みなマーケティング戦略ではありましょう。

予定では、ケーブルに乗り、奥宮へと考えていた。が、残念ながら、時間切れ。ケーブルもほぼ最終便といったところで、宝登山への登りはあきらめる。後から、宝登山から眺める武甲山の美しい姿などをおさめた写真を見るにつけ、あと一歩、先に進んでいたら、などとの思いもあり。が、今回は、時間が時間だけに景色もほとんど見えなかったはず、と思い込み、次回のお楽しみとする。
2回にわけて歩いた秩父札所。まだ半分ほど残っている。はじめた以上は全部クリアを、ということで、年明け、厳冬の秩父を歩こうと、同僚諸氏と話す。それより、個人的には、川越通りにそって、峠越えにて秩父へと歩いてみたい。春には決行、と。
何も考えず、ひたすらに歩きたい、と思うときがある。そういった時は、川筋を歩くことにしている。川の流路にそって、川の流れのガイドに従って歩くことができるからである。
今回もそういう気分。それではと、前々から機会を伺っていた「野火止用水」を歩くことにした。いつだったか玉川上水を歩いたとき、西武拝島線・玉川上水駅あたりから野火止用水が分岐していた、との、かすかな記憶。地図で確認すると、玉川上水駅あたりから新座市の古刹・平林寺あたりまで川筋・緑道が続いている。野火止用水だろう。玉川上水駅から平林寺まで、およそ20キロ。ひたすらに歩こう、と思う。

野火止用水のメモ;武蔵野のうちでも野火止台地は高燥な土地で水利には恵まれていなかった。川越藩主・老中松平伊豆守信綱は川越に入府以来、領内の水田を灌漑する一方、原野のままであった台地開発に着手。承応2年(1653年)、野火止台地に農家55戸を入植させて開拓にあたらせた。しかし、関東ローム層の乾燥した台地は飲料水さえ得られなく開拓農民は困窮の極みとなっていた。
承応3年(1654年)、松平伊豆守信綱は玉川上水の完成に尽力。その功労としての加禄行賞を辞退し、かわりに、玉川上水の水を一升桝口の水量で、つまりは、玉川上水の3割の分水許可を得ることにした。これが野火止用水となる。
松平信綱は家臣・安松金右衛門に命じ、金3000両を与え、承応4年・明暦元年(1655年)2月10日に開削を開始。約40日後の3月20日頃には完成したと、いう。とはいうものの、野火止用水は玉川上水のように西から東に勾配を取って一直線に切り落としたものではなく、武蔵野を斜めに走ることになる。ために起伏が多く、深度も一定せず、浅いところは「水喰土」の名に残るように、流水が皆吸い取られ、野火止に水が達するまで3年間も要した、とも言われている。
野火止用水は当初、小平市小川町で分水され、東大和・東村山・東久留米・清瀬、埼玉県の新座市を経て志木市の新河岸川までの25キロを開削。のちに「いろは48の樋」をかけて志木市宗岡の水田をも潤した、と。寛文3年(1663年)、岩槻の平林寺を野火止に移すと、ここにも平林寺掘と呼ばれる用水掘を通した。
野火止用水の幹線水路は本流を含めて4流。末端は樹枝状に分かれている。支流は通称、「菅沢・北野堀」、「平林寺堀」「陣屋堀」と呼ばれている。用水敷はおおむね四間(7.2m)、水路敷2間を中にしてその両側に1間の土あげ敷をもっていた。
水路は高いところを選んで堀りつながれ、屋敷内に引水したり、畑地への灌漑および沿線の乾燥化防止に大きな役割を果たした。実際、この用水が開通した明暦の頃はこの野火止用水沿いには55戸の農民が居住していたが、明治初期には1500戸がこの用水を飲料水にしていた、と。野火止用水は、野火止新田開発に貢献した伊豆守の功を称え、伊豆殿堀とも呼ばれる。
野火止用水は昭和37・8年頃までは付近の人たちの生活水として利用されていたが、急激な都市化の影響により、水は次第に汚濁。昭和49年から東京都と埼玉県新座市で復元・清流復活事業に着手し本流と平林寺堀の一部を復元した。(日曜日, 11月19, 2006のブログを修正)




本日のルート;J
R立川駅>多摩モノレール・玉川上水駅>水道局監視所>(東大和市)>西武拝島線にそって・松ノ木通り>村山街道・青梅橋>(開渠)>栄町1丁目・多摩変電所>野火止緑地・野火止橋>東野火止橋>ほのぼん橋>土橋>元仲宿通り>(緑道)>野火止通り>(開渠)中宿商店街>西武国分寺線交差>九道の辻公園>八坂>西武多摩湖線>多摩湖自転車道>西武新宿線交差>新青梅街道交差>稲荷公園・稲荷神社>万年橋>所沢街道・青葉町交差点>新小金井街道合流>小金井街道・松山3丁目>水道道路>西武池袋線>新堀>御成橋通り合流>西堀公園>新座市総合運動公園>関越道>平林寺


玉川上水駅

さて、歩き始める。自宅を出て、JR立川駅に。多摩モノレールに乗り換え、玉川上水駅に向う。モノレールはほぼ「芋窪街道」に沿って北上する。今風に考えれば少々「格好よくない」この街道の名前の由来は、芋窪村(現在の東大和市の一部)に通じる道であったから。その「芋窪」も、もともとは「井の窪」と呼ばれていた、とか。
玉川上水駅に到着。ここはまだ立川市。とはいっても立川市、東大和市、武蔵村山市とのほとんど境目。立川市の地名の由来は、東西に「横」に広がる多摩丘陵地帯・多摩の横山から見て、多摩川が「縦」方向に流れる、立川・日野近辺が「立の河」と呼ばれていたから。この「立の河」が「立川」となった、とか。また、地方豪族・立河氏が居城を構えていたから、とか例によって説はいろいろ。

水道局・小平監視所

駅の南に玉川上水かかる清願院橋。少し東に進むと、水道局・小平監視所。現在は、ここが玉川上水の終端施設、といってよい。ここで塵芥を取り除き、沈殿槽を通った水はここから東村山浄水場に送られる。つまりは、ここから下流には多摩川からの水は流れていない。玉川上水、また野火止用水は昭島の水再生センターからパイプで送られてきた高度処理下水が流れている。「清流復活事業」といった環境整備のために作られた流れとなるわけだ。
事情はこういうこと;昭和48年、玉川上水とつながっていた新宿・淀橋上水場の閉鎖にともない、玉川上水の水を下流に流す必要がなくなった。が、後に上水跡・用水跡の清流復活運動がおこったため、その水源を求めることになる。玉川上水の水を流せばいいではないか、とはいうものの、その水は村山浄水場に送られ都民の上水となっているわけで、それを使うことは既にできない。で、代わりに昭島の水再生センターからの水を使うことになった、ということ。
ところで、何故、「小平」監視所?地図をチェックすると、ここは小平市。西武拝島線と玉川上水に囲まれる舌状地域が小平市の西端となっている。小平の地名の由来は、昔のこのあたりの地名であった「小川村」の「小」と、平な地形の「平」を合わせて「小平」と。

西武拝島線・東大和市駅

監視所を過ぎると、西武拝島線に沿って緑道が続く。松ノ木通りと呼ばれている、ようだ。このあたりは「野火止用水歴史環境保全地域」となっており、保存樹林が続く。緑道は西武拝島線・東大和市駅まで続く。
東大和市駅は村山街道と青梅街道が合流する青梅橋交差点近くにある。駅名の割には市の南端。昔は青梅橋駅と呼ばれていた、と。青梅橋の案内によれば、「300年の歴史を持つ青梅橋も、昭和35年村山浄水場の開設にともない、玉川上水からの水の取り入れが、この橋のすぐ下流まで野火止用水跡を利用した暗渠となったため取り壊された。この橋から丸山台(というから南街3丁目)あたりまで、4キロにわたって道の中央に一列に植えられた千本桜があったが、今はない」と。
東大和の地名の由来は、少々面白い。村制が施行されるとき、それまであれこれ争っていた六つの村が、大同団結、「大いに和するべし」というとこで、「大和村」となる。また、市制施行時に、神奈川県の大和市と区別するため、「東」大和、とした、とか。同じような例として、愛媛の松山市と区別した埼玉の東松山市、九州の久留米市と区別した東久留米市、などがある、とか。郵便番号が無かった時代を思えば、少々納得。

駅前を過ぎ、西武拝島線の高架下をとおり先に進む。ここから府中街道・八坂交差点までは東大和市と小平市の境を用水が続く。住宅街を走る緑道を少し進むと、親水公園に。川筋には「ホタルを育てています」といった箇所も作られていた。
先に進み、栄1丁目の多摩変電所を越えるあたりで親水公園が終わり、自然の川筋が現れる。雑木林の入口あたりに「野火止用水 清流の復活」と刻まれた石標が。都市化が進み生活用水で汚れた川を、東京都と埼玉県で復元・清流復活事業を行い昭和59年に完成した。玉川上水の清流復活に先立つこと2年、ということだ。
清流の元の水は上でメモしたように昭島市の多摩川上流水再生センター(昭島市宮沢町3丁目)で高度処理された下水処理水である。ちなみにこの再生センターで処理された、この地域一帯の下水は多摩川に放水される。また、多摩川に流される処理水をさらに砂濾過処理、オゾン処理をおこない、野火止用水とともに玉川上水、千川上水の清流復活事業に供している。昭島市の地名の由来は、「昭」和村+拝「島」村=昭島、と。

野火止緑地

しばらく雑木林が続く。いい雰囲気。野火止緑地と呼ばれている。けやき通りと交差。野火止橋。先に進むと東野火止橋。雑木林はここで一旦途切れる。住宅街に隣接した川筋を少し進む。用水の両側は木に覆われている。「ほのぼの橋」に。用水の北側はこのあたりで東大和市が終わり、東村山市になる。東村山 市と小平市の境の用水をしばらく歩く。「こなら橋」あたりから再び雑木林が現れる。土橋を越えたあたりから雑木林が終わり、両側に団地が現れる。川筋の廻りも広い舗装道路となる。少し進むと左手に明治学院東村山中・高校。グラウンドのあたりで一度暗渠となるが、学院正面の橋あたりで、再び水路が現れる。このあたりの川筋に沿った住宅には、その家専用の橋が架かっている。いつか、六郷用水の上流部分・丸子川を歩いたときも、おなじようなMy Bridgeをもつ瀟洒な住宅街を見た。いい雰囲気でありました。
東村山の地名の由来は、武蔵野台地の西端は昔、村山郷と呼ばれていた、狭山丘陵の群れあう山々=群山>村山になった、とか。村山郷の東のほうに位置するので、東村山、と。西に武蔵村山市があるから、その東って、ことかもしれない。ついでに武蔵村山は山形県の村山市と区別するために「武蔵」をつけた、とか。

九道の辻公園
西武国分寺線を越えると、九道の辻公園(小平市小川東町2-3-4)。往古、このあたりには鎌倉街道(上道)、江戸街道、大山街道、奥州街道、引股道、 宮寺道、秩父道、清戸道、御窪道の九本の道が交差しており、九道の辻と呼ばれていた。
元弘3年(1333年)、後醍醐天皇の倒幕の命に呼応し、上州・新田庄で挙兵。武蔵野の原野を下ってきた新田義貞は、この辻にさしかかったとき、さて鎌倉に進むには、どちらに進めばいいものやら、と大いに戸惑った、とか。で、今後道に迷うことのないように、鎌倉街道沿いに桜を植えた。その名を「迷いの桜」と呼ばれたが、今はない。

多摩湖自転車道

公園が終わるあたりで府中街道と交差。八坂交差点。地名の由来は、交差点の北、府中街道に面したところに八坂神社があるから、だろう。府中街道を渡り西武多摩湖線の高架下を越えると多摩湖自転車道にあたる。この自転車道の地下には多摩湖~東村山浄水場~境浄水場~和田給水所を結ぶ水道管が通っている。小平市の境は、この西部多摩湖線に沿って南東に下る。つまりは、ここからしばらくは東村山市内を歩くことになる。

西武新宿線・久米川駅

多摩湖自転車道を越えたあたりから用水は一時暗渠となり、自転車歩行者専用の道筋となる。西武新宿線・久米川駅近くを越えると新青梅街道と交差。再び用水が姿を現わす。少し進むと稲荷公園・稲荷神社。江戸時代の大岱村の鎮守として京都伏見稲荷を分祀したもの。その先に恩田の「野火止の水車苑」。天保2年(1782年)から昭和26年まで、小麦等の穀物を製粉し、商品価値を高め江戸・東京に送られていた、と。
さらに少し進むと万年橋。万年橋のケヤキがある。ケヤキが用水を橋のように跨いでいる。用水を開削するとき、元からあったケヤキの大木の根元を掘り進んだからから、とか、用水ができたときに植えたケヤキが、橋づたいに根を延ばしたとか、説はいろいろ。

新所沢街道
万年橋を越え、しばらく進むと、車道と隣接して用水は進む。野火止通りと呼ばれている、ようだ。すぐに新所沢街道がT字に合流。ここからは南は東久留米市。東村山市と東久留米市の境を進む。しばらく進むと雑木林。野火止用水歴史環境保全地区となっている。雑木林が切れるあたり、青葉町1丁目交差点で所沢街道と交差する。
東久留米の地名の由来は、久留米村、から。久留米村は地域を流れる「久留米川」から。現在は「黒目川」と呼ばれているが、江戸時代は「久留目川」・「来目川」・「来梅川」と呼ばれていた。「東」久留米としたのは、前述の九州の久留米市と区別する、ため。

新小金井街道

野火止通りを進む。用水南にあるアパート(久留米下里住宅)が切れるあたりが東村山市の西端。清瀬市となる。清瀬市の地名の由来は、清戸村+柳「瀬」川=清瀬、と。しばらく歩くと用水脇に浅間神社(清瀬市竹丘)。富士塚が築かれており、ちょっと「お山」に登る。
浅間神社を越えると「新小金井街道」が野火止通りに合流。さらに歩を進めると小金井街道と交差。松山3丁目交差点。交差点を越えると、新座市。用水跡を南端に舌状に新座市が清瀬市と東久留米市に食い込んでいる。どういった事情かは分からないが、市境は用水を境に複雑に入り組んでいる。
新座市の地名の由来は歴史的名称から。758年、新羅からの渡来人がこのあたりに住み新羅郡が置かれる。その後、新倉郡、新座(にいくら)郡となった、その名称から。

野火止史跡公園

新座市に入った頃から川筋は「野火止通り」から「水道道路」と。西武池袋線を交差し、新堀交差点を越え、新座ゴルフ倶楽部を左手に見ながら先にすすむと、御成橋通りが南からT字に合流。さらに進むと富士見街道が北からT字に合流する西堀公園交差点に。
交差点を越えると野火止用水は水道道路とわかれ北に上る。このあたりは「野火止史跡公園」。用水も本流と平林寺堀と二手に分かれる。どちらを歩くか少々迷ったが、本流を進むことに。平林寺堀を進むと、用水は雑木林の中、細流となって続くようだ。

関越道と交差

遠くに雑木林を見ながら、のんびりとした田園地帯を進む。雑木林に入るころから、用水に沿って「本多緑道」がはじまる。桜並木が有名なようだ。雑木林と桜並木の道筋を進む。新座市総合運動公園を左手に見ながら進むと、関越道と交差。用水も関越道の上を懸樋でわたる。
関越道を越えると産業道路。野火止用水は産業道路を左手に見ながら緑道を進む。次第に深い緑。もうここは平林寺の寺域だろう。道なりに平林寺大門通りに向かい、やっと目的地・平林寺に到着。

平林寺

平林寺到着は午後5時。お寺は既に閉門。平林寺は次回のお楽しみとする。玉川上水をメモするとき、杉本苑子さんの『玉川兄弟;文春文庫』を詠んだ。絶版のためあきらめかけていたのだが、偶然入った古本屋で見つけた。その中で、取水口をどこにするか、技術的・政治的思惑が錯綜するストーリーが面白かった。

玉川上水の取水口は現在、羽村にある。が、当初日野・青柳村、次に福生、と通水失敗を重ね、三度目の正直で羽村になった、と。その間、というかはじめから松平伊豆守の家臣・安松金右衛門は玉川兄弟に羽村にすべし、とのアドバイスを繰り返した。羽村から取水しなければ玉川上水も通水しないし、羽村からでなければ野火止用水への導水など夢のまた夢、という事情もあったから、とか。結果的にはごり押しすることもなく、羽村に決まり、玉川上水も、野火止用水も完成したわけだが、その知恵伊豆の夢の跡を秋の一日、すっかり楽しんだ。
中野散歩をはじめる。どこから歩き始めたらいいものやら、いまひとつポイントが思い浮かばない。で、例によって、あれこれお散歩のフックを得るために中野区の歴史民俗資料館に。場所は新青梅街道沿いの江古田4丁目。電車の駅からは、どこからも微妙に外れている。なんとなく最寄りの駅、ということで西武新宿線・沼袋駅に向かう。



本 日のルート;西武新宿線・沼袋駅>氷川神社>禅定院>実相院>密蔵院>明治寺>貞源寺>正法寺>歴史民俗資料館>お経塚>氷川神社>下徳殿橋>江古田川(開渠)>豊玉中1丁目>豊中通り>北江古田公園>東福寺>江古田層発見の地>新青梅街道・妙正寺川合流>江古田古戦場の碑>北野神社>中野通り>哲学堂>野方配水塔>蓮花寺>光徳院>東光寺>新井薬師前>新井薬師>新井五差路>(中野通り)>早稲田通り・新井>JR中野駅>中野五差路>青梅街道・椙山公園交差点>十貫坂上>中野通りを離れる>杉並能楽堂>和田1丁目>和田2丁目交差点>駒の坂橋・善福寺川弥生町6丁目>方南町


西武新宿線・沼袋駅

西武新宿線、って明治28年開通の川越鉄道(国分寺と川越を結ぶ)、それと昭和2年開通の(旧)西武鉄道(東村山と高田馬場を結ぶ)が後年合わさったもの。当時、それほど乗客も多くないわけで、肥料や野菜を運ぶ「農業鉄道」の色彩が強かった、とか。駅名・沼袋の地名は妙正寺川によってつくられた低湿地・沼沢の地形による。文明9年(1477年)の太田道潅と豊島氏との戦いに「沼袋」の名が登場していると言うから、早くから開けては、いたのであろう。台地上は畑や果樹類栽培、川沿いの湿地は水田開墾地、といったところか。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)


氷川神社

駅を降り、線路沿いを少し東に戻り氷川神社に。沼袋の鎮守さま。創建は正平年間(1346-1370年)とも寛正年間(1460-1466年)とも。大田道潅が豊島氏との合戦のとき、戦勝を祈願して杉を植える。いまではその「枯根」が残るのみ。
氷川神社は出雲の簸川、から。往古、武蔵の地に移ってきた出雲族の心のよりどころであったのか。関東ローカルな神様。東京、埼玉だけで290弱を数える。関東ローカル、とはいうものの、昔の荒川の流れである元荒川の東側にはほとんどない。そこにあるのは香取神社。川を境に祭司圏がはっきり分かれている。ちな みに、両祭祀圏の間に、久伊豆神社群。岩槻とか越谷で結構立派な久伊豆神社を見かけたが、いまひとつ、そのはじまりなど、はっきりしない、とか。

禅定院
神社を離れ、台地を下る。少し駅方向に戻り、禅定院に。鎌倉幕府滅亡の際、この地に落ちのびた北条氏家臣・伊藤氏が運慶作の薬師如来をまつり、一族の菩提をとむらうため開いた、とか。「伊藤寺」とも。境内には樹齢600年とも伝えられるイチョウの古木がある。

実相院
お寺から続く道筋を駅に向かう。いかにも昔の参道、といった雰囲気。駅前に戻り、北に上る道に向かう。少し歩くと実相院。開山不詳。伝承によれば、新田一族の矢島氏が足利氏との合戦で破れ、この地に定住しこの寺を開いた、と。ために矢島寺とも呼ばれた。

明治寺
少し北に進み東に折れると明治寺。鉄筋の少々近代的なる建物。通常のお寺の雰囲気とは少々異なる。このお寺、明治天皇の病気快癒を祈念し観音様をまつったこ とにはじまる。開基は榮照法尼(えいしょうほうに)とおっしゃる尼様。観音信仰を支えに修行をおこない出家。篤志家の浄財もあつめ、百体の観音像を奉納。 百観音と呼ばれる。実際は180体、ということだが、境内、というか公園と一体になった敷地に西国三十三観音。関東坂東の三十三観音。そして秩父三十四観音がある。
観音巡礼の由来は、養老二年(718)大和長谷寺の徳道上人が生死の境をさまよい、地獄で苦しむ亡者の姿を見る。閻魔(えんま)大王がその夢の中に現れ、「衆生(しゅじょう)を救うべく、三十三ヶ所の観音札所を開設し、写経を納めて礼拝(らいはい)した人々には信心の証(あかし)として朱印(しゅいん)を授けるように」と告げて、三十三個の宝印を与えた、と。これが西国三十三ヶ所巡礼の始まり。
鎌倉幕府がはじまると、西国、つまりは京の朝廷に負けじ、と関東一円をカバーする坂東三十三所観音巡礼がはじまる。また、遅れて秩父三十三所観音巡礼も。時は戦乱の巷。関東一円を廻るなど、危険きわまりない、ということで秩父に霊場が生まれたとか。
西国・坂東・秩父それぞれ三十三の札所を合わせて九十九観音。それが百観音となったのは、折しも広まってきた百観音信仰。『今昔物語』にも登場するように、百観音は平安期にはじまっていたようだが、その百観音に合わせるべく、どこか融通つけろ、ということに。で、新参者の秩父がその札所を34とすることによって、その要請に応えた、とか。もっとも、秩父での札所割り込み運動が激しく、34カ所となってしまったので、後付けで百観音とした、って説もあり、真偽のほど不明。

寺町
明治寺の前に密蔵院、横に久成寺、少し北に歩いたところに貞源寺、正法寺。台地上には寺町がつくられている。お寺が集中したのは明治時代の「東京市区改正条例」と「関東大震災」で都心部から郊外へ移転させられた、ため。中野区の場合、明治時代からあった24寺に加えて、当時の東京市内から25寺が上高田・沼袋・江古田地区に移転。ちなみに杉並区では、高円寺南・梅里1~2丁目に24寺。世田谷区の北烏山4~5丁目には26寺が移転している。

中野区立歴史民俗資料館
新青梅街道に出る。新青梅街道って、昭和40年頃、交通量の増えた青梅街道のバイパスとして計画された。新宿区を基点に、西多摩郡瑞穂町まで青梅街道の北側を走る。中野区立歴史民俗資料館に。江古田村名主3家のひとつ、喜兵衛組の名主であった山崎家から敷地の寄付を受け開設。
江古田村って、現在の江古田、松ヶ丘、丸山、沼袋の一帯をカバーしていた。代官支配地と48人の同心の領地が入り組み、ややこしいので、江戸の中期には3組に分けられ、組ごとに名主以下の村役人がおかれていた。3つの名主は、庄左衛門組と孫右衛門家と前述の山崎家・喜兵衛組。山崎家は醤油醸造業を営んでいた、とか。

民俗資料館で『常設展示目録』『中野史跡ガイド』なかの史跡マップなどを買い求める。はてさて、どこから、どこへとルートを調べる。民俗資料館の北に、江古田川が大きく迂回している。舌状台地に沿って流れているのだろう。その先、妙正寺川との合流点あたりには、「沼袋古戦場跡」、その先には哲学堂などがある。なんとなく、江古田川から妙正寺川に沿って歩くのが面白そう、ということで、とりあえず、江古田川に向かう。

氷川神社

民俗資料館を離れ江古田2丁目を北に進む。氷川神社。旧江古田村の鎮守。社伝によれば、寛正元年(1460年)創建。当初、牛頭天王(ごずてんのう)と。太田道潅が戦勝を祈願との話も。
牛頭天王といえば、京都祇園の八坂神社。牛頭天王は元、インドの神様。祇園精舎の守り神でもあり、祇園天神とも呼ばれた。ために、祇園さん、と。八坂神社となったのは明治の神仏分離の後の話。
牛頭天王は八坂神社だけでなく、氷川神社と名前を変えた例も多いという。ここもその一例、か。牛頭天王はインドの神様と言ったが、朝鮮半島慶尚道楽浪郡に牛頭山という山がある。そこの神様の名前はスサノオの命。ために、牛頭天王=スサノオ、ということになり、改名のとき、その候補としてスサノオの命を主神とする氷川神社としたのだろう、か。単なる空想。真偽のほど定かならず。
ちなみに、牛頭天王の名前を変えることになったのは、天王=天皇、ということで、不敬にあたると自粛したとか、しない、とか。ついでに、朝鮮半島の牛頭山のスサノオ様。これって、ひょっとして、日本で勝手につくった神話ではないのだろう、か。朝鮮に元からスサノオ神がいたとは思えないにだけど。そのうち調べてみよう。

氷川神社前の道を西に進み江古田合同住宅前を進む。ここは元、国立中野病院があったところ。この高台には昔、「江古寺」と呼ばれる寺があった、と伝えられている。

江古田川

台地を下ると下徳殿橋交差点。江古田川はここから上流は暗渠となっている。源流点は豊玉南3丁目・学田公園にあった池、とか。江古田川は、江戸中期に水が枯れたため千川上水から2箇所の分水も受けていた。開渠となった江古田川を台地下に沿って歩こう、と。が、台地沿って道はなし。結局豊玉中1丁目を成り行きで北に進み豊玉通りに。
豊玉通りを東に進むと川と台地が接近してくる。台地先端部のところで橋を渡り、「江古田の森公園」に。このあたりには縄文時代の低湿地遺跡北江古田遺跡があった。台地下の公園を進む。公園内の運動場は如何にも調整池、といったつくり。妙正寺川との合流点あたりで頻発する洪水対策として、ここに調整池がつくられたようだ。

東福寺

江古田川に沿って台地下の公園の中をぶらぶら進み、江古田川が東に流れを変えるあたりで川筋から離れ、少々南に進むと東福寺。徳川将軍御膳所跡。創建は鎌倉。弘法大師作の不動明王が本尊、とか。もとは江古田川東岸の大橋付近にあった、とのとこだが、元禄のころ、この地にうつる。古文書に「御林跡地 江古田新田東福寺」、と。江戸時代の初頭に、林や茅野を大規模に開墾し、このあたりが開発されていったのだろう。お寺の裏手には歌手・三波春夫さんの邸宅があった、とか。現在はマンションが建っていた。ちなみに東福寺のお隣には、先ほど訪れた氷川神社。台地下を逆回りにぐるっと一周した、というところ。
ところで、江古田。ここにくるまで、練馬区の西武池袋線の江古田しか知らなかった。中野区の歴史民俗館が江古田にある、ということで、思わず西武池袋線の江古田に行こうと、したほど。で、練馬の江古田って新田開発の地であって、本家本元はこの中野の江古田、のようだ。現在は江原町を挟んで中野と練馬に江古田がある。とはいうものの、江原町も元は江古田村と呼ばれていたわけで、このあたり一帯が江古田村であった、ということだろう。本家本元のこの地の江古田は、練馬の江古田を「向こう江古田」と呼んでいた、という。ちなみに、江古田の地名の由来。「えごの木」から、との説などもあるが、結論はその由来は不明。

江古田植物化石層発見の地
東福寺を出て江古田川方向に向かう。東橋に。「江古田植物化石層発見の地」の案内(江古田1-43);江古田川と妙正寺川流域に広がる最終氷河期(今から16000年から11000年前・先土器時代)の日本の気象と環境研究のスタート地点となった。橋の工事の際にみつかり、直良信博士が発見した世界的に有名な土層。カラマツなどの針葉樹が多く含まれることから、現在より10度ほど気温が低かったのでは、と言われている。

「江古田原・沼袋古戦場」跡

少し歩くと新青梅街道にあたる。そこは妙正寺川との合流点。東福寺のところでメモした「大橋」って、このあたりにかかっていたのだろう、と思う。この合流点は「江古田原・沼袋古戦場」跡。文明9年(1477年)、太田道潅と豊島泰経が激戦をおこなった地。
時は室町末期。足利将軍家にすでに力なく、豪族が割拠しはじめた頃。この地一帯を支配していたのは平安末期から続く名家・豊島泰経。本拠地は石神井公園南の台地に築いた石神井城。そのほか、平塚(北区西ヶ原;あの「浅見光彦さま」行きつけの団子屋のある平塚神社)にも城を構える。文明8年(1476年)長尾景春が関東管領上杉氏に反旗を翻す。これが長尾景春の乱。豊島氏も長尾氏に呼応。扇谷上杉の家宰大田道潅がこもる江戸城と扇谷上杉家の居城・川越城の分断を図る。新参者の上杉―道潅ラインが目障りだったのだろうか。
豊島氏の動きに対し道潅は4月13日、豊島泰明のこもる平塚城を攻略。豊島泰経は石神井城・練馬城から援軍派遣。翌14日、江古田原・沼袋原で太田軍と戦闘。泰明は戦死、豊島軍は大敗。これが「江古田原・沼袋合戦」。泰経は石神井城に敗走し立て籠もる。が、道灌の攻撃に耐え切れず泰経は4月18日、石神井城の取り壊しを条件に和議交渉。しかしながら、泰経は開城することなく、逆に石神井 城の守りを固めようとした。ために、4月28日、道灌の力攻めに遭い落城。泰経と残党は平塚城に敗走。その後は横浜方面に逃げたとか、三宝寺池に馬もろとも飛び込んで華麗な最後を遂げたとか、あれこれ。

北野神社
散歩に戻る。妙正寺川を渡り、台地に登る。台地上をブラブラと進み北野神社を目指す。結局、神社は台地下にあった。少々こじんまり、としたお宮さま。片山村の鎮守。もとは天満宮、と。片山村とは、現在の松ヶ丘1丁目を中心と した一帯。上高田村、上沼袋村、新井村にも領地をもつ領主の支配地。東西500、南北400m、16軒の民家があった、とか。後ろが崖で片側だけ傾斜をなす地形であったのだろう。

哲学堂
台地を離れ再び妙正寺川に戻る。中野通りにかかる下田橋に。川の北に哲学堂。哲学館(現東洋大 学)創立者・井上円了が学校移転用地として購入。が、学校の移転中止となり、明治39年から大正8年まで、精神修養公園として整地。公園内には哲学堂77場と称する建物が点在する。
代表的な建物;哲理門(妖怪門とも。入口にある。天狗と妖怪の彫刻。世界は不可思議なものが根底にある、ということ、か)、宇宙館(哲学は宇宙の真理を探究するもの、ということ、か)、時空岡(じくうこう)、四聖堂(釈迦、孔子、カント、ソクラテスの四聖人をまつる)、六賢臺(聖徳太子・菅原道真(日本)・荘子・朱子(中国)・龍樹・迦毘羅仙(印度)の六人を東洋的「六賢」として祀る)、三學亭(平田篤胤(神道)・林羅山(儒道)・釈凝然(仏道)の三者を祀る)、などなど。
ちなみにこのあたり、和田山と呼ばれ、和田義盛の館跡と伝えられる。川に沿った台地上でもあり、立地的に は納得感はあるのだが、中野・杉並にいくつか伝えられる和田義盛にまつわる「伝説」のひとつ、だろう。

野方配水塔
のんびりと公園内を歩き、哲学堂公園北の運動場脇を進む。新青梅街道を北に少し進むと野方配水塔。ここに来るまで、この給水塔が哲学堂と思い込んでいた。
中島鋭治博士の設計。新宿淀橋浄水場の設計を手がけた近代水道の父、とも呼ばれる人物。関東大震災以降、急激に増えたこの地の人口のため従来の井戸水だけではまかなえなくなったため、多摩川の喜多見で分水し、豊多摩・北豊島両郡が組合をつくり、この配水塔をつくった。この配水塔は村山浄水場ができる昭和41年までその役目を果たす。
解体計画もあったが、2000トンを貯水する災害用給水槽として現在も利用されている、と。当初、荒川まで通じる計画であったこの「荒(川)玉(川)水道計画」も、板橋の大谷給水塔で止まっている。また、大谷給水塔も先日訪れたときには、立て替え工事中であった。

蓮華寺

給水塔のすぐ横に蓮華寺。哲学堂をつくった井上円了の墓所がある。「略縁起」によれば、新しいお寺の建設が規制されていたとき、名主深野孫右衛門が寺社奉行であった大岡越前守に、とくに許されて、神奈川の星川村に名前だけ残っていた蓮花寺を継いだ形でこの寺をたてた、と。

東光寺

蓮華寺を離れ再び新青梅街道を渡り哲学堂公園に。台地下を流れる妙正寺川に沿った遊歩道を進む。ここにも川に沿って調整池がある。このあたり、川筋が大きくうねり蛇行しているわけで、ということは、傾斜が穏やかなわけで、つまりは水が溜まりやすい、つまりは洪水になりやすい、ということでの対策なのではあろう。
先に進み四村橋を渡る。川の南の台地にのぼると東光寺。上高田村の菩提寺。北側はかつて、遠藤山と呼ばれていた。



光徳院
横に光徳院。江戸御府内88ケ所巡礼58番。江戸御府内88箇所巡礼、って250年からの歴史がある割には、あまり知られていない。四国88ケ所を廻るのは少々時間に余裕がないが、御府内であれば、いいかも。とはいうものの、江戸のお寺って、あれこれ移転を繰り返しているので、江戸中期に決められた札所の順に御まいりするのは難儀であろう、。
境内に五重塔。御府内でここだけではないか、と。もっとも、少々可愛い五重塔ではあります。ちなみに東京近郊で思いがけず出合った五重塔としては、川崎市麻生区の香林寺が記憶に残る。高田の地名の由来は、高畑が転化した、とか。



新井薬師
お寺の近くに三井文庫。ちょっとおじゃまするが、展示館は開いていなかった。上高田5丁目の町並みの軒先といったところを進み西部新宿線新井薬師前駅に。商店街を南西に下ると新井薬師。
天正年間(1573-1591年)に僧行基によって開山。ということは、このころには村ができていた、ということか。
江戸期のこの村の人口は200名程度。戸数50軒と、どこかに書いていた。本尊は薬師如来。古来より、子育て、眼の治癒にご利益ある、とか。で、この本尊の薬師如来は、もとは新田一族の守り神であった、と。が、新田義貞の子・義興のとき、屋敷の焼失とともに消え去っていたものが、あら不思議、この地で真言の行をおこなっていたお坊さんが梅の根元で光るものあり、と。それが消え去っていた薬師如来であった、とか。先ほどの実相院も新田家と関係ある。 このお寺の縁起にも新田家が登場。
何故この地に新田氏が登場? ということだが、この地域は南北朝時代に南朝側(新田義貞)についた窪寺氏の本拠地があった、から。南朝についた窪寺氏は没落。新井薬師の梅照院は窪寺氏のお墓がある。ちなみに先に訪れた実相院の矢島氏は新田一族であった、かと。

ひょうたん池

新井薬師前の隣に北野神社。天正(1573~1591年)年間には、既に新井の里の鎮守であった、と。新井の由来は、室町幕府六代将軍足利義教の頃、関東管領・足利持氏が幕府軍に敗れる。敗残の士が現在の平和の森公園あたりに横穴を掘って生活、この地を開拓。地名を尋ねられたとき丁度新しく井戸を掘っていたときでもあったので、新井、と。神社の北に「ひょうたん池」。昔は湧水地であった、とか

中野駅

いよいよ日が暮れてきた。中野通りをどんどん進む。早稲田通りを越え中野駅に。ここから電車に乗る予定、ではあったのだが、ここまできたのなら家まで歩こう、と思い直す。ひたすら進むのみ。
中野五差路を進み、青梅街道・椙山公園交差点を越え十貫坂上に。地名の由来は中野長者が十貫文をいれた壷を埋めたとか、銭十貫でこのあたりの土地を買った、とか。中野長者は次回の散歩でメモいたしましょう。

中野通りを離れ、杉並能楽堂前から和田1丁目、和田2丁目交差点を越え、駒の坂橋・善福寺川弥生町6丁目から方南町に到着。商店街で家族の歓心を買うべくサーティワン・アイスクリームをお土産に買い求め、自宅に戻る。

本日の散歩は上高田地区の寺町を巡り、宝仙寺そして成願寺へと、というのがおおまかなルート。上高田地区の寺町は、江戸3大美人笠森お仙が眠る正見寺があるのが気になっていた、から。宝仙寺は杉並散歩のときから気になっていた古刹。成願寺は中野長者・鈴木九郎ゆかりの寺、ということでこれも少々気になっていた。今日はなんとなく「気になる」寺巡りの1日というところ、か。



本 日のルート;西武新宿線鷺宮駅>八幡神社>福蔵院>天神山の森>笠付きの庚申堂>つげのき地蔵>北原神社>西武新宿線鷺宮駅>(電車)>西武新宿線新井薬師駅前>氷川神社>高田中通り>功運寺>宝泉寺>境妙寺>金剛寺>願正寺>神足寺>早稲田通り>正見寺>青源寺>源通寺>高徳寺>龍興寺>松源寺>宗清寺>保善院>天徳院>中野6丁目>JR中央線>大久保通り・紅葉山公園下>中野1丁目>追分>鍋屋横丁>慈眼寺>明徳稲荷神社>宝仙寺>白玉稲荷神社>山手通り>氷川神社>塔山>桃園川緑道>神田川>淀橋>相生橋>長者橋>成願寺>象小屋の跡>お祖師様まいりの道>新橋通り>福寿院>地下鉄丸の内線・中野新橋駅


JR高田馬場駅

JR山の手線で高田馬場駅に。西武新宿線に乗換える。で、切符を買う際、なんとなく「鷺宮」って名前が気になった。鎮守の森に鷺が飛び交っていた、というのが地名の由来であるし、ということは、湿地帯であったのだろうし、妙正寺川が鷺宮あたりで大きく迂回している、ってことは、そのあたりって舌状台地がせり出しているのだろうし、ということで、「地形のうねり」を足で感じることを散歩の最大の楽しみとする我が身としては、少々予定を変更し鷺宮まで足を延ばすことにした。

鷺宮地区

西武新宿線・鷺宮駅下車
西 武新宿線・鷺宮駅下車。鷺宮とか、上鷺宮とか、白鷺とか、美しい地名が目に付く。大雑把にいって、15世紀の頃には、このあたりに既に村落がつくられていた、と。北のほうは杉並散歩でメモした今川家の支配地、妙正寺から南は幕府の直轄地であった、と。とはいうものの、直轄地の中に今川家の飛び地があったりと、江古田地区と同じように、領地が入り組んでいたとのこと。

八幡神社
八幡神社に向かって台地をのぼる。このお宮様、康平7年(1064年)の勧請。鷺宮一帯の鎮守さま。当初は、鷺大明神、と。正保2年(1645年)今川氏がこの地を支配するときに、八幡神社と名を改める。江戸幕府からは朱印7石を頂戴。区内唯一の御朱印神社、とか。

福蔵院
神 社のお隣に福蔵院。美しいお寺さま。紅葉の季節に再度おまいりするのも、いいかも。境内には十三仏。不動明王(初7日)、釈迦如来(27日)、文珠菩薩(37日)、普賢菩薩(47日)、地蔵菩薩(57日)、弥勒菩薩(67日)、薬師如来(77日)、観世音菩薩(100日)、勢至菩薩(1周忌)、阿弥陀如来(3回忌)、阿しゅく如来(7回忌)、大日如来(13回忌)、虚空蔵菩薩(33回忌)、と13体すべてそろっている。冥界で生前の審判を受ける近親者の救済を願っておまいりしたのだろう。白鷺の地名の由来は、このお寺様から。山号を白鷺山と呼ぶ。ためにこのあたりを「白鷺」と。鷺宮の地名の由来とは関係 なし。


台地上を成り行きで歩く。鬱蒼とした屋敷森をもつ旧家などを眺めながら、中杉通りを越え、台地の西端・天神山の森に。野方丘陵が妙正寺川の浸食をうけてつくられた崖地に公園が。見晴らしはよくない。早々に台地を下り、鷺宮駅に戻る。

新青梅街道
駅前から中杉通りを北に進む。新青梅街道に。少し西に進み新青梅街道の一筋南を通る旧道を歩き、再び新青梅街道にあたる。道の北側に「つげの木地蔵」。現在はつげの木もなく、お地蔵さまも盗難にあい、昭和29年につくられたもの、とか。

北原神社

北に進む。北原神社に。なんとなく名前に惹かれたから。何とか見つける。いやはや、こじんまりしたお宮さま。祠、と言うべけんや。道標を兼ねた庚申塔が:「右ぬくい道 左やわら道」と書いている、そうな。


上高田地区

鷺宮駅に戻る。後の時間のこともあり電車に乗ることに。当初の散歩プランであった上高田地区の寺町を訪れるべく西武新宿線・新井薬師前駅に。

氷川神社
駅を降り線路に沿って東に進む。上高田4丁目に氷川神社。上高田の鎮守さま。大田道潅手植えの松があるとか。もともとはこじんまりとしたお宮様。現在の規模になったのは、大正11年に氏子から土地の寄進を受けてから、と。

桜ケ池不動尊
お宮を離れ、桜が池通りに。道脇に「桜ケ池不動尊」(上高田4丁目―32-2)。池とちょっとした滝。現在はポンプアップではあるが、昔は池の大きさも現在の3倍くらいであり、清水こんこんと湧き出ていた、と。往古、「雑木林の中清水湧く所野佛在り」と記載されたところではあるが、今はすっかり開け、その趣少なし。

「垣根の垣根の曲がり角
上高田4丁目から少し駅方面へと台地をのぼり、上高田3丁目に。3丁目―26-17に鈴木家の 屋敷。江戸時代の上高田の名主さま。鈴木家の「垣根」は、あの「たきび」の歌のモデル、とか。上高田4丁目に住んでいた巽聖歌(本名;野村七蔵)が、このお屋敷のあたりを散歩しているときに詩情を湧かせた、と:
1 垣根の 垣根の 曲がり角
  焚き火だ 焚き火だ 落ち葉焚き
  あたろうか あたろうよ
  北風ピープー 吹いている
2 山茶花 山茶花 咲いた道
  焚き火だ 焚き火だ 落ち葉焚き
  あたろうか あたろうよ
  しもやけおててが もう痒い

上高田の寺町
上高田本通を下り寺町に。明治末期から大正にかけ、東京市の都市計画などによりこの地に集められた。浅草からの移転は区画整理。四谷・牛込からの移転は博覧会会場や明治神宮の敷地確保のため、とか。トラックとてない当時、大八車に墓石を乗せて移転するわけで、大変であっただろう。上高田4丁目に6寺、早稲田通り沿いの上高田1丁目にある10のお寺は大名や政治家、学者、芸術家など高名な人物が眠っている。寺の移転で思い出したが、墓石は移したが、骨もちゃんと運んでいったのだろうか。鈴木理生さんの本:『東京の町は骨だらけ』だったと思うが、墓石は移すが、あまり「骨」は大切にせず、結構そのままにしていた、といった記事が妙に記憶に残っているのだが。。。

功運寺には吉良上野介

上高田4丁目の台地上に功運寺。吉良家の墓所。さすがに立派なお寺さま。境内も広い。赤穂浪士に討ち取られた吉良上野介など吉良家四代のお墓がある。そのほか今川長徳(義元の子)、水野十郎左衛門、歌川豊国、林芙美子のお墓もある。水野十郎左衛門って、旗本奴・大小神祇組を組織し町奴と対立。1657年(明暦3年)幡随院長兵衛を殺害。1664年(寛文4年)幕府によりに切腹を命じられ、家名も断絶した。

宝泉寺には板倉重昌

直ぐ隣に宝泉寺。「島原の乱」鎮圧軍の総指揮官・板倉重昌の墓がある。父は京都所司代・板倉勝重。三河以来の家康近習ではあり、能吏でもあったが、いかんせん、大大名といったわけでもなく、派遣軍の細川・鍋島藩といった大藩の部隊など、重昌をあなどり命令聞くわけもなし。で、状況打開をはかった幕府は大物・「知恵伊豆」こと松平伊豆守信綱の派遣を決定。重昌は武士の面目なし、と死を覚悟した突撃をおこない討ち死。この攻撃での幕府側の死者4,000人。一方の一揆がわはわずか100人だった、とか。

境妙寺に塙保己一
宝 泉寺の南というか東の道を進むと境妙寺。ちょっと奥に金剛寺。どちらもこじんまりしたお寺さん。境妙寺は塙保己一の菩提寺とのこと。江戸時代の国学者。『群書類従』の編纂者。が、新宿の愛染院にお墓がある、ということだし、よくわからない。それよりなにより、このメモをする際、塙保己一、って盲目であった、とはじめて知った。七歳で失明。15歳で埼玉の保木野村(本庄市)より江戸に出る。按摩・音曲の修行をおこなうが、どうもうまくいかない。が、塙保己一の学才に気づいた弟子入り先の検校から学問させてもらうことに。誰かに音読してもらったものを暗記し学識を高め『群書類従』の編纂をするまでに。『群書類従』って江戸の初期までに刊行された史書や文学作品をおさめている。

金剛寺には内田百閒

金剛寺は内田百閒(うちだひゃっけん)のお墓が。夏目漱石に私淑。が、実家の老舗の酒屋の没落、そして借金地獄。「百鬼園先生言行録」や『百鬼園随筆』の「百鬼園」って「借金」のもじり。戦災でバラック生活。そのときにものしたのが黒澤明作品ともなった「まあだだよ」。百閒といえば「阿房列車」三部作だが、これって、特急に乗るためだけに大阪まで行ったときの話。なんとなく魅力的な人物。

願正寺に新見正興

すぐ東に願正寺。新見豊前守正興の墓。江戸末期の旗本。安政6年(1859年)外国奉行に。万延元年(1860年)日米通商条約批准のためアメリカ船・ポータハン号に乗り込み、咸臨丸とともにアメリカにわたり条約批准の大命を果たした。その奥に神足寺。伊豆の武将・伊東氏の開基。もとは織田信長の旗下にあり、一向一揆勢力と戦っていた。が、本願寺・教如上人の矢文を偶然目にし、織田方の非を悟り、一揆軍に参軍。後に僧となった、とか。

正見寺には江戸三大美人・笠森お仙
台地上の寺町巡りを終え、高田中通りを下り早稲田通り・清原寺交差点に。交差点の東に正見寺。江戸三大美人・笠森お仙のお墓。先日の谷中散歩のとき、三崎坂の途中にあった「大円寺」にお仙の碑があった。鍵屋という茶屋の看板娘であったが、ある日突然失踪。鍵屋は大打撃、ってまことしやかな話しもある。が、実際は笠森稲荷の祭主、倉地政之助と祝言をあげたって、こと、らしい。倉地政之助さん、幕府の隠密・お庭番とかで、桜田御用屋敷に住んでおり、外部との付き合いは「制限」していた、との、それらしき説もあり。ともあれ、お仙は幸せな人生を送った、と。

笠森稲荷は谷中・感応寺門前にあったよう。ちなみに、江戸明和の三大美人って、お仙のほかは浅草観音裏の「柳屋のお藤」、二十間茶屋の蔦屋のおよし。お仙は鈴木晴信の浮世絵に描かれたり、歌舞伎や人情本に取り上げられたり、はては手ぬぐいとか人形までもつくられた、とか。アイドルであったのでありましょう。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)



青原寺に朱楽菅公
交差点から早稲田通りに沿って西にお寺が続く。青原寺。寛政年間(1789-1800年)の狂歌師・朱楽菅公(あけらかんこう)。「あっけらかん」からきていることは言うまでもない。幕臣。本名は山崎景貫。。「いつ見てもさてお若いと口々にほめそやされる年ぞくやしき」。
お散歩の折々に登場する人物として、蜀山人というか太田南畝、というか四方赤良がいる。ちょうど、蜀山人を描いた。『蜀山残雨;野口武彦(新潮社)』、『橋の上の霜;平岩弓枝(新潮社)』など読んでいるのだが、その中に朱楽菅公も登場しており、なんとなく身近な感あり。ちなみに狂歌師には結構面白い名前が多い。宿屋飯盛(やどやのめしもり、酒上不埒(さけのうへのふらち)、土師掻安(はじのかきやす、多田人成(ただのひとなり)、といったもの。

源通寺には河竹黙阿弥
横に源通寺。河竹黙阿弥の墓。歌舞伎「白波5人男」、「鼠小僧次郎吉」などの義賊を主人公にした生世話(きぜわ)狂言の作者として有名。幕末から明治にかけて活躍。七五の名セリフで有名。三人吉三での「月も朧(おぼろ)に白魚(しらうお)の篝(かがり)も霞む春の空、つめてえ風もほろ酔いに心持よくうかうかと、浮かれ烏(がらす)のたゞ一羽塒(ねぐら)へ帰(けえ)る川端で、棹(さお)の雫(しずく)か濡手(ぬれて)で泡、思いがけなく手に入る百両」。
また、白波五人男・弁天小僧の「知らざあ言って聞かせやしょう  浜の真砂と五右衛門が歌に残せし盗人の、種は尽きねえ七里ヶ浜、その白浪の夜働き、以前を言やあ江ノ島で、年季勤めの稚児が淵、百味講で散らす蒔き銭をあてに小皿の一文字、百が二百と賽銭の,くすね銭せえ段々に、悪事はのぼる上の宮、岩本院で講中の、枕捜しも度重なり、お手長講と札付きに、とうとう島を追い出され、それから若衆の美人局、ここやかしこの寺島で、小耳に聞いた爺さんの、似ぬ声色でこゆすりたかり名せえゆかりの弁天小僧菊之助たぁ俺がこと だぁ!」などは、なんとなく、どこかで聞いたことが、ある。

高徳寺は新井白石

高徳寺には新井白石の墓。江戸中期、将軍家宣、家継に仕えた朱子学者。貿易の制限、通貨の改良、国内産業の振興といった、いわゆる正徳の治世、として名高い。

龍興寺には橘染子
龍興寺には柳沢吉保ゆかりの、というか側室橘染子が眠る。嫡男の生母。また後世江戸期における禅の研究テーマとなった『参禅録』を残している。

松源寺は「さる寺」とも
少し途切れて松源寺。江戸の触頭4カ寺のひとつ。さる寺。触頭とは、幕府からの通達を配下の寺院に伝へたり、本山や配下の寺からの幕府への訴願、諸届を上申する役のお寺さん。さる寺、とは、お猿にまつわる話が伝わっているから。かいつまんでメモする;いたずらお猿にこりごりした小坊主、こらしめようと。それを助けた和尚さんが、船の転覆という危難に際し、お猿に教えられてあやうく助かった、という猿の恩返しの話がつたわっている、から。

宗清寺に水野忠徳

宗 清寺には幕末の外交官水野忠徳の墓。旗本であったが、浦賀奉行から長崎奉行に。嘉永七年には日米和親条約締結に尽力。その後勘定奉行、安政五年にははじめての外国奉行に就任。翌年勃発したロシア海軍士官兵殺傷事件の責任を取り西の丸留守居役となる。が、実質的に外国奉行として腕を振るった。戊辰戦争の混乱の中、慶應四年に五十四歳で病死した。たつ寺、とも、なが寺、とも。

保善寺は信玄ゆかりの寺

保善寺。武田信玄の従兄弟が開く。このお寺様が牛込寺町にあったとき、同地の酒井邸を訪れた時、この寺に立ち寄った将軍家光から賜った猛犬が獅子のようでもあったため、獅子寺とも。

天徳院に梶川怱兵衛

隣に、天徳院。江戸城・松の廊下で浅野匠頭を抱きとめた梶川怱兵衛の墓。天徳院で寺町は切れる。

北野神社
早稲田通りを南に入り、中野6丁目をぶらぶら。桃園二小のあたりから西に進み、南北に下る大日橋通りに出る。少し西に北野神社。もとは打越天神と呼ばれていた、と。打越の由来は、このあたりは少し南に流れる桃園川に対する小高い台地となっており、北に向かうには、その台地を「打ち越えて」いく必要があったから、とか(「なかのの地名とその伝承;中野区教育委員会」より)。神社はこじんまりとしたもの。境内に三体の石仏。新井薬師参詣者の安全祈願をかねた道標の役割も。

道灌とりで
大日橋通りに戻り、JR中央線を交差、紅葉山公園脇をくだり、大久保通りに。東に折れ、少し進むと「谷戸運動公園」」。運動公園の北にあるマンションのあたりに土塁があったようで、堀江氏の屋敷跡、と言われる。
案内板をメモ:堀江氏は小田原後北条氏の中野五郷の小代官。豊臣秀吉の命を受けた中野の土豪。戦国末期の城山は小城塞を兼ねた土豪屋敷であった、よう。湧き水のある中野川の谷戸をおさえ、野方丘陵の東南を占める城山は平忠常、あるいは豊島氏と戦った太田道灌の陣地「道灌とりで」とも言われている、と。

桃園川緑道

横を下り、大久保通りを越えると桃園川緑道。桃園川は現在は完全に暗渠となっている。もとは、杉並区天沼の天沼弁天社内の弁天池を水源とし、東に進み杉並区立けやき公園のあたりで中央線を越え、そこからはほぼ大久保通りに沿って東に進み中野区と新宿区の境にある末広橋あたりで神田川に合流する。
いつだったか源流点を求め、歩いたことがある。弁天池はその地が西武グループの総帥であった堤氏の「杉並御殿」となったとき埋め立てられた、よう。また、当時、その「御殿」も工事中であった。時が時だけに、取り壊されていたの、かも(後日その地を歩いたとき、もうすっかり公園となって、いた。確か弁天公園だった、かと)。


鍋屋横丁

青梅街道・鍋屋横丁交差点に。鍋屋横丁って、杉並堀の内の妙法寺への参詣道。妙法寺横町とも呼ばれていたようだが、青梅街道からこの妙法寺横町への入口に「鍋屋」という茶屋があった。なにせ厄除けで有名な妙法寺・お祖師さまへの参道。おおいに賑わい、また、その鍋屋の屋敷内に立派な梅林があり、あれもこれもあいまって、妙法寺横町が、いつの間にか、「鍋屋横丁」になった、とか。

追分

鍋屋横丁交差点のちょっと西に「追分」。石神井道(井草、石神井、所沢方面)への分岐点。中野通りに向かって、ゆったりとしたカーブで道が分岐している。青梅街道を少し東に慈眼寺。桃園川慈眼堂橋脇からここに移転。東に進み、中野警察署西交差点あたりから北に入る。宝仙寺方面に、

明徳稲荷
中央2丁目を成行きで進むと明徳稲荷(中央2-52-1)。江戸時代、中野村の名主をつとめた堀江家の屋敷の鬼門よけ。堀江家の敷地は21,000平方メートル。このあたりから青梅街道まであった、とか。堀江氏の先祖は、天正4(1576)年戦国大名後北条氏領中野郷を治める小代官。秀吉の時代には秀吉に属 した中野の土豪、であった。城山のところでメモしたとおり。

山政醤油醸造所跡
明徳稲荷から宝仙寺に向かう途中の公園の中に赤レンガ。なにかと、ちょいと足を止める。「山政醤油醸造所跡」の案内。明治5年創業の醤油醸造所跡。この赤レンガ、セメントのない時代、石灰、つのまた(海草)、砂を混ぜてつくったもの。また、この醤油醸造の生産量は中野の80%。敷地も広く、青梅街道を越え、桃園小学校あたりまで続く広大な敷地であった、とか。

宝仙寺
宝仙寺に到着。杉並散歩のときメモしたように室町期に阿佐ヶ谷から移る。創建は平安後期の寛治年間,源義家によって創建されたという。奥州・後三年の役を平定して 凱旋帰京の途中で,陣中に護持していた不動明王像を安置するためにこの寺を建立した、と。
お寺をつくるとき、地主稲荷の神が出現して義家に「この珠は希世之珍 宝中之仙である 是を以て鎮となさば 即ち武運長久 法燈永く明かならん」と告げ白狐となっていづこともなく去った、とか。で、これが「宝仙寺」の由来。とはいうものの、杉並に覇を唱えた、阿佐ヶ谷殿がその力の証として阿佐ヶ谷の地にお寺をつくったのだが、その勢の衰えとともに、この地に移った、というのがほんとうのところか。その後、この地において寺勢拡大し大寺となった。
護持院住職の隆光(五代将軍綱吉に畜生憐れみの令を出させた僧)や桂昌院(綱吉生母)との関係も深く,護国寺を開山するに当たり宝仙寺属の子院を寄付したことが記録に残っているほど。仁王門を入ると、明治になっての中野町役場跡。その後東京市中野区の庁舎として昭和初期まで利用された。墓地には堀江家歴代の墓がある。

塔山
宝仙寺を離れ塔山(とうのやま)に向かう。途中山手通りに沿って白玉稲荷神社。中野下宿の鎮守さま。名前に惹かれて足を止める。こじんまりしたお稲荷さま。山手通りの東に塔山。区立十中敷地内。戦前まで江戸名所図会に描かれた三重塔があった。で、このあたりを江戸初期から「塔の山」と。むかしはこのあたりも宝仙寺の境内であった、ということ。三重塔は中野長者・鈴木九郎が寄進した、とか。

氷川神社

少し北に進み、大久保通りを北に入ったところにある。中野村の鎮守さま・氷川神社をおまいりして再び南に少し下り、桃園川緑道に戻り、歩を東にすすめ末広橋から神田川に。

淀橋
神 田川に沿って南に下り、青梅街道・淀橋に。この橋、「姿見ずの橋」とか「面影橋」などと呼ばれていた。「姿見ずの橋」の名前は、熊野からこの地に移り住み中野長者と呼ばれるほどになった鈴木九郎に由来する。
財宝を隠し場所に運んだ下僕を、そのありかを隠すためこの橋で殺したため、その姿が見えなくなったから、との説あり。また、父親の悪行のゆえ婚礼の直前に呪われて蛇となり、それを悲しみ長者のひとり娘が投身自殺。ためにその姿が見えなかったことに由来する、とか諸説あり。こういった伝説もあり、後世、婚礼の時、花嫁はこの橋を避けて嫁入りした、と。

淀橋、となった由来も諸説あり。鷹場に向かう途中、「姿見ずの橋」を通った徳川家光だか、徳川吉宗が橋の名前の由来が不吉であると、淀川に似ていたことから淀橋と改名した。川の流れが淀んでいたので淀橋と家光が名づけた。豊島郡と多摩郡の境界にあり、両郡の余戸をここに移してきた村なので、ここに架かる橋を「余戸橋」、さらには淀橋となった。 柏木、中野、角筈、本郷の4つの村の境にあるため「四戸橋」となり、これが淀橋に変化した。といった按配。淀橋には昔水車があった。淀橋の水車と呼ばれるが、ペリー来航をきっかけに火薬製造のために活用。が、嘉永7年(1854年)大爆発をおこした、とか。

成願寺
神田川に沿って、相生橋、長者橋と進み山手通りと交差。すこし北にのぼり成願寺に。今まで何度か登場した中野長者こと、鈴木九郎の屋敷跡。上の「姿見ずの橋」でメモした財宝にまつわる悪行の因縁で失った、ひとり娘のことを深く反省し、仏門に入り、供養のために自宅を寺としたのがはじまり。九州肥前・鍋島家累代の墓もある。
鈴木九郎は応永年間、というから14世紀末から15世紀はじめに、熊野よりこの地に来る。もとは、馬喰であった、とか。この地は多摩と江戸湊、そして浅草湊への交通の要衝。荷駄を扱う問屋場押さえ勢力をのばす。もちろん、熊野衆であるわけだから、水運を抑えていたわけで、陸運・水運を支配することにより「長者さま」となったのであろう。神田川沿いにある和泉熊野、尾崎熊野、善福寺川沿いの堀の内熊野神社を見るにつけ、熊野衆の勢力を大いに感じる次第。ちなみに西新宿にある十二社熊野神と社は鈴木九郎が勧請し、建てたもの。

象小屋の跡
成願寺を離れ一筋北の道に。朝日が丘児童館の公園のところに「象小屋の跡」の案内。享保13年(1728年)、安南国(べトナム)から吉宗に献上された象だが
、餌代なども大変ということで、「浜屋敷」において象の面倒をみていた中野村の農民源助にさげわたされた。
源助は象を見世物として金儲けをたくらむ。が、暖房費をけちったり、当初幕府からもらっていた餌代も、金儲けしているのであれば、ということで打ち切られ、3年もたたないうちに死んでしまったと。それにしても、長崎に到着した象は2ヶ月かけて江戸まで歩いてきた、と。街道は大騒ぎ。京都では天皇や法皇も見物にきた、とか。

お祖師様まいりの道を中野新橋駅に
象小屋跡から道なりに北に進む。本町2丁目43あたりで「お祖師様まいりの道」に当たる。杉並・妙法寺に通じる道筋である。お祖師様まいりの道を西に進み、新橋通りに。南に下り、丸の内線・中野新橋駅。昭和初頭、このあたりは花柳界で賑わった、とか。ともあれ、地下鉄にのり、自宅に向かう。

青山とか赤坂とかは結構土地勘がある。仕事で夜、大手町とか丸の内で遅くなっても、渋谷まで歩いたりもする。慶応大学から六本木経由で渋谷まで歩いたことも何度もある。が、唯一、よくわからないのは昔の東海道沿い、高輪・白金といったあたり。
わからない、という意味合いは、どちらに進めばどこに行けそう、といった大雑把な土地勘がない、ということ。で、今回の港区散歩は、武蔵野台地の東端、台地と谷筋が複雑に入り組んだ武蔵野台地の末端部を歩くことにする。
散歩前に、カシミール3Dで地形図をつくった。複雑な、そして起伏に富んだ地形。東西に流れる古川が台地を刻んでできたものであろう。台地から湧き出た水が刻んだものであろう。地形のうねりは結構楽しめそう。が、いまひとつランドマーク、というかアンカー・ポイントが絞れない。例によって郷土館に行き資料を入手することから始める。(水曜日, 9月 06, 2006のブログを修正)



本日のルート;JR田町駅>港区郷土資料館>桜田通り>春日神社>イタリア大使館>綱坂>綱町三井倶楽部>首都高速2号・目黒線>四の橋>白金商店街>三光坂下>日吉坂上>桑原坂>白金台3丁目>NTT関東病院>上大崎1丁目>首都高2号・目黒線>上大崎3丁目>目黒駅>行人坂>五百羅漢>比翼塚>目黒通り・金毘羅坂>矢戸前川緑道>油面地蔵通り>祐天寺>東急・祐天寺駅

JR田町駅
Jr田町駅で下車。田町というのは、駅の三田口(西口)一帯の、昔の呼び名。江戸時代に「田」畑が「町」屋になったため、この名がつけられた、と。現在は田町という地名はこのあたりにはない。明治にはすでに頭に芝をつけ、芝田町とよばれていた、よう。ちなみに駅の東口・芝浦口は、昔は海。1913年から埋め立てがはじまり現在の姿になった、という。

港区立港郷土資料館
国道15号線・第一京浜を渡り郷土資料館に向かう。港区立港郷土資料館は芝5丁目。慶応大学 のすぐ近く。仕事で慶応大学に行くとき通る。慶応仲通商店街の一筋南、三田図書館の中にある。『文化財のしおり』を買い求める。ほかに無料で『港区文化財めぐり』といった資料も入手。常設展示自体はそれほど大きくない。件(くだん)の『常設展示目録』といったものは見あたらなかった。
資料をもとにルートを探す。いまひとつ絞り込めない。はてさてどうしたものだと思案しながら、『港区文化財めぐり』を眺める。と、白金台3丁目に「三田用水路跡」。川跡巡りフリークとしては、なんとなく惹かれる。白金台まで進めば、目黒はすぐそこ。ということで、三田から成行きで白金台に向かい、その後は目黒に出て、先日時間切れでお目にかかれなかった羅漢寺の五百羅漢さまに会いに行こう、というルーティング。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)


春日神社・イタリア大使館
桜田通りを北に進む。慶応大学の北に春日神社。三田の総鎮守。天徳2年(958)武蔵国国司藤原正房が、屋敷神として奈良の春日神社を勧請したのが始まり、と。神社を離れ、慶応大学の外縁に沿ってゆるやかな坂道を進むとイタリア大使館。邸内に「大石主税(ちから)以下切腹跡」がある、と。当時は伊予松山藩・松平隠岐守の中屋敷。忠臣蔵の大石内蔵助の実子・主税以下10名が預けられ、切腹したところ。地図を見ると、邸内に池。切腹の場所を掘り返し池とし、その土で池の背後に築山をつくった、と言われるが、その池であろう。明治維新には松下正義公爵家。イタリア大使館になったのは昭和5年から。


綱町三井倶楽部

イタリア大使館の北縁を進むとT字路。突き当たりの鬱蒼とした森は「綱町三井倶楽部」。旧町名・三田綱町は明治以降、東京の高級住宅地の代名詞。三井倶楽部は明治の「お雇い建築家」・ジョサイヤ・コンドル設計。三井財閥の迎賓館として大正2年に竣工。現在は会員制倶楽部のようで、中に入ること叶わず。


綱坂
三井倶楽部の東側に沿って南に下る。「綱坂」と呼ばれる坂道。名の由来は、大江山の酒呑童子退治や羅生門の鬼退治で有名な、平安時代の武将「渡辺綱」が付近に生まれたという伝説によるもの。綱は武蔵守であった父親がなくなるまではこの地に住んでいた。が、その後、難波・攝津に移り摂津渡辺党として活躍。坂田金時などとともに、源頼光の四天王のひとり、となる。
で、三井倶楽部の北縁を東に下る坂道も渡辺綱にまつわる由来をもつ。「綱の手引き坂」がそれ。姥坂とも、馬場坂とも「小山坂」とも。小山坂の由来は、この坂道が旧三田小山町であった、ため。忘れていたが、三田「綱町」の名前の由来も、渡辺綱からきているのだろう。学生時代、平凡社選書で『酒呑童子』を呼んだことがある。これを機会に、もう一度読み返してみようか、と。

古川
三井倶楽部の南を西に進む。慶應グランドの南を進むと首都高速2号・目黒線。その下に古川が流れる。古川は、上流部は渋谷川。渋谷川水系上流部、渋谷以北は以前歩いた。甲骨川とか宇田川とか、代々木上原近辺の散歩の情景が思い出される。童謡・「春の小川」の情景は今となっては望むべくもない。

渋谷川が古川と呼ばれるのは「一の橋」より下流。後には、もう少し上流部、天現寺より下流が古川と呼ばれるようになる。「一の橋」から下流は新掘川とも呼ばれる。明暦の大火の後、江戸の都市整備に伴い、1675年、河口の金杉橋あたりから「一の橋」まで掘を開削。川幅を広げ、通船を可能にする改修工事がおこなわれた。新たに掘られた川、ということで「新掘川」、と。もともとの古川は現在の新堀川というか古川の西側を流れていた、と。

三の橋
古川を渡ると桜田通り。「三の橋」の交差点。麻布十番のところにある「一の橋」、その南の「二の橋」、そして古川橋で西に折れた先の「四の橋」、「五の橋」と続く一連の橋名。
橋の名前は古川の付け替え工事に関係する。掘の掘削は、はじめ、河口から「一の橋」とか「二の橋」あたりまで工事が行われた。で、最初に架けられた橋である から、「一の橋」。その後、元禄11年(1698年)、綱吉の別荘・白金御殿が現在の「四の橋」あたりに作られることになる。そのため、「四の橋」あたりまでの河川改修・拡張工事がおこなわれ、それにともない順次橋が架けられたのであろう。
ちなみに「麻布十番」って、白金御殿をつくる時の工区の名称。十番工区が「一の橋」北辺りであったのが、名前の由来とも。また、後に芝西応寺町の馬場がこの地に移つり、「十番の馬場」と呼ばれたようで、ために、麻布「十番」、と呼ばれるようになった、との説もある。が、時系列で考えれば、十番工区が由来というのが妥当だろう。

四の橋・薬園坂
古川橋を西に折れる。新古川橋を過ぎ「四の橋」に。「四の橋」の北に「薬園坂」。健康フリークの家康であった、から、というわけでもないだろうが、幕府には江戸の南北に薬草園があった。北は牛込に。南はこの地に。後にこの薬草園は白金御殿となるのだが、この坂の名前にその名を残す。
「四の橋」は別名「薬園橋」とも呼ばれた。ちなみにこの薬草園、薬草だけでなく花畑もつくられる。二代将軍秀忠が花好きであった、ため。小石川植物園に花畑が多いのも、そのため、だろう。北の薬園は天和元年(1681年)、その地に護国寺が建てられることになり廃園。この地の南薬草園も貞享元年(1684年)、白金御殿の 拡張のために廃止されることに。
で、薬草園はどうなったかというと、館林藩の下屋敷を拡張し、その敷地の一部を使い薬園をつくることになった。その下屋敷というのが小石川の地。現在の小石川植物園のあるところ。館林藩の下屋敷、ってのは、五代将軍綱吉が幼少の時を過ごしたところ。ために、小石川御殿と呼ばれる。また、敷地内に白山神社があったので、白山御殿とも呼ばれた、と。

白金商店街
「四の橋」から古川を渡り南に折れる。白金商店街を進む。白金といえば「白ガネーゼ」といった按配で、セレブなイメージが強い。が、この商店街は1910年発足の、下町風情一杯の町並み。 昔は麻布十番など目じゃなかった、ようではあるが、「街の賑わいOR NOT」のターニングポイントがどこにあるのか、あったのか、少々気になる。品川宿と品川駅周辺、赤羽駅周辺と岩淵宿や、北千住駅周辺と大鳥神社のある花畠のコントラスト。小岩と新小岩も確かそれっぽい話があったよう。昔は鉄道をとるか、とらないかが大きなファクターであったようだが、さて昨今はなにがおおきなファクターとなっているのであろう、か。

三光坂下交差点
先を進む。商店街を出ると車道に。恵比寿から白金1丁目の交差点に進む道筋。「三光坂下」交差点。坂にのぼる途中、専心寺にあった三葉の松が仏具・三鈷(さんこ)に似ていた、というのが名前の由来。ともあれ、このあたりお寺が多い。これは慶應義塾の右側、というか桜田通りの沿ってつくられている「三田寺町」の続き。南の高輪や、西の白金、つまり、この専心寺あたりまで続いている。
このあたりのお寺はほとんどが明暦の大火の後、この地に移った、と。それ以前は八丁掘りにあった、とか。城下町において寺町は町外れに集められ、城の防御拠点とされることが普通。ということは、この白金の地も八丁堀も江戸期においては、郊外であった、ということ、か。

日吉坂上
西光寺、専心寺の間を南西に上る三光坂を進む。聖心女子学園のなどもある閑静なお屋敷町。道なりに進み目黒通りに。少し西に坂をのぼると日吉坂上。目黒通りから桜田通りに下る日吉坂の「上」にあたる。日吉坂の由来は能役者・日吉喜兵衛が付近に住んでいたとか、例によってあれこれ。日吉坂のあたりは八芳園とか都ホテルが。

桑原坂
日吉坂上から南東、明治学院方面には桑原坂が下る。「くわばらざか 今里村の地名のひとつである。その起源について、 特別の説は残っていない」、と。交差点から坂に下るあたりに「古地老稲荷神社」。鳥居の横の説明をメモ;昔「江戸の名物は火事」といわれたほどで火伏せの稲荷信仰がさかんでありました。中でも古地老稲荷は「あが縁日の存続する限りこの地に出火をみせじ」との強い神託により、文政十三年、日吉坂上に鎮座。縁日には不可思議にも雨のおしるしがある。土民その霊験をかしこみ、火伏の稲荷、人丸様、火止る様とも呼び、お祀りする。関東大震災にも 第二次世界大戦空襲にも、火災を免れた」、と。        

瑞聖寺
目黒通りを少し西に進むと「瑞聖寺」。黄檗宗の名刹。「一山の役寺」という高い寺格をもっていた。山門も趣があるが、大雄宝殿がいかにも、いい。大雄宝殿って本堂といったものだろうか。とにかく豪壮な構え。思いもかけず、いい建物に出会った。こういった出会いが、行き当たりばったりの散歩の楽しみ。

三田用水跡
寺を離れ、白金台3丁目12にある「三田用水跡」を目指す。外苑西通りが目黒通りにT字に交わる交差点・白金台で目黒通りを離れ住宅地に折れる。成行きで進み、マンション・ハイクレスト白金台の敷地縁に「三田用水路跡」の案内。メモ;「三田上水は寛文4年(1664年)、玉川上水を下北沢で分水。中村八郎衛門・磯野助六によって開かれた。白金台、高輪、三田、芝地区に給水。享保7年(1772年)に廃止。が、翌々年から農業用水・三田用水として1宿13カ村に供給。当時の水道は自然の高低差で流れていたため、この付近では堤上に水路を残して通す工夫をした」、と。確かに堤を盛り上げ、その上に水路を通している。水路跡、いかにも堤っぽい。また、その水路跡に家が建てられている。
三田用水の水路をラフにメモ;笹塚あたりで玉川上水から分水>中野通りを下り井の頭通り・大山交差点>小田急・東北沢駅>三角橋交差点を東に>東大教養学部の裏手を進み山手通りと交差>松涛2丁目で旧山手通り>代官山・槍ケ崎交差点>その後は南東に一直線>目黒通りと交差する手前・三田2丁目あたりで少々湾曲>山手線にそって下り>目黒通りで東に折れ>白金台で南に折れ>高輪台交差点あたりで国道1号線・桜田通りと交差>高輪3丁目交差点あたりで二つに分岐>ひとつは南に下り、新高輪プリンスホテルをこえたあたりで東に折れ>品川駅前に降りる。もう一方は尾根道を北東に進み井皿子交差点を経由し三田3丁目に下り>慶応大学近く・春日神社あたりから東に進む。また、もうすこし北 に進み東に折れる水路もある、といったところ。

畠山記念館

先に進む。畠山記念館。もと薩摩藩主・島津重豪の別荘。明治維新後は寺島伯邸。その後、荏原製作所の創始者・畠山一清が私邸として購入。茶道具を中心に、書画、陶磁、漆芸、能装束など、日本、中国、朝鮮の古美術品を展示公開。収蔵品は、国宝6件、重要文化財32件を含む約1300件。とはいうものの、常設展示というよりも、企画単位での展示のスタイルのよう。訪れたときは 「明の磁器(?)と能装束」の展示であった。
島津重豪は薩摩藩8代藩主。斉彬はひ孫。斉彬とともにシーボルトと会見するなど「蘭癖」大名の筆頭。将軍家斉に娘を娶わせるなど、江戸後期の政界に大きな影響力をもち、高輪下馬将軍などと呼ばれる。寺島伯爵とは寺島宗則。元薩摩藩士。参議、外務卿、元老院議員、枢密院顧問などを歴任。地図にはこの敷地内に「般若苑」がある、とのとこだが、敷地は更地になっていた。

NTT東日本関東病院

成行きで畠山記念館西側の坂を下る。あれ?どこかで見た景色。NTT東日本関東病院。先日通院したところ。9月には入院し白内障のちょっとした手術をする予定の病院。まったくの偶然。こんなこともあるのか、と。

池田山

病院を東から南にぐるりと回り、次いで、西から北へと再び台地にのぼる。NTT病院の周囲がどうなっているのか、といった好奇心だけ。結構な高級住宅街が続く。このあたりは池田山と呼ばれていたよう。目黒川から見上げるとこの台地、ちょっとした山のように見えたのだろう。池田山と呼ばれた所以は、この地に岡山池田藩の下屋敷があった、から。大崎村でもあったので、「大崎屋敷」とも呼ばれる。


ねむの木の庭
東五反田5-19-5には「ねむの木の庭」。美智子妃殿下の実家・正田邸のあったところ。建物の取り壊しを巡ってあれこれニュースが流れていたのだが、今はねむの木をはじめいろいろな花々が植えられた公園となっている。

五百羅漢寺

道なりに西に。首都高2号目黒線を渡る。インドネシア大使館とかタイ大使館のあたりを進み、JR山手線に沿って続く台地端に。崖下にJR山手線。目黒駅に向かい、最後の目的地五百羅漢寺に向かう。行人坂を下り、太鼓橋を渡り、山手通りを越え五百羅漢寺に。先回は時間切れで閉まっていたので再度の訪問。再びメモする。
五百羅漢寺は元禄8年(1695年)、本所に建立。五代将軍・綱吉、八代将軍吉宗の庇護を得て本所五つ目(江東区大島)に「本所のらかんさん」として親しまれる。羅漢様を彫ったのは松雲元慶禅師。もと仏師。耶馬溪の羅漢様に触発され、一念発起、仏の道に仕え、江戸の町を托鉢。集めた浄財をもとに10年の歳月をかけて羅漢様を彫り続けた、と。
さすがに迫力がある。数にも圧倒される。表情にも惹かれる。この地に移ったのは明治41年。やっとのとこで雨露を凌ぐ程度であったものを、昭和54年再建計画が立てられ、56年に現在の近代的建物に収容されるに至った。

目黒不動・比翼塚
五百羅漢寺を離れ、お隣の目黒不動の門前にある「比翼塚」にちょっと立ち寄る。白井権八(本名;平井権八)と吉原の遊女・小紫の悲恋を哀れみ建てられた塚。 この比翼塚って、各地に多い。お七・吉三の比翼塚、お夏・清十郎の比翼塚、などなど。比翼の鳥って、中国の想像上の鳥。雌雄がそれぞれ一目一翼、常に一対となって飛ぶ。ということから、比翼って、男女の契りが深いことの喩えにつかう、と。知らなかったなあ。



油面(あぶらめん)地蔵通り商店街
目黒不動の西、台地の坂をのぼる。不動公園横を通り、目黒通り・金毘羅坂に。明治までこのあたりに金毘羅社があったから。あとは目黒3丁目、中目黒4丁目、祐天寺を経由し東急・東横線・祐天寺駅に。お目当ての古本屋は残念ながら閉まっていた。ともあれ、本日の予定はこれで終了。
祐天寺に向かう途中に「油面(あぶらめん)地蔵通り商店街」があった。面白い名前。ちょいと惹かれた。調べてみた;江戸時代にはこのあたり一帯では菜種
の栽培が盛んにおこなわれ、その菜種油は芝の増上寺や祐天寺の燈明に使われていた。この菜種油を奉納するかわりに祖税が免除されていたため、このあたりは「油免」と呼ばれていた。それが後に「油面」と変わった、と。地名の由来は実におもしろい。

港区散歩2回目は、よく耳にするのだが、未だに訪れていないお寺を巡ることにする。東禅寺、泉岳寺、善福寺、そして芝増上寺がそれ。(金曜日, 9月 08, 2006のブログを修正)



本日のルート:JR品川駅>高輪プリンス>高輪公園>東禅寺>桂坂>引き返し>高輪警察署前交差点>伊皿子交差点>伊皿子坂>泉岳寺>伊皿子交差点に引き返 し>魚藍坂>魚藍坂下>国道1号線・桜田通り>立行寺>白金商店街>四の橋>楽園坂>仙台坂上>仙台坂>善福寺>麻布十番>新一の橋>赤羽橋>芝公園>芝丸山古墳>東照宮>芝・増上寺>JR浜松町駅

R品川駅
東禅寺の最寄の駅JR品川駅に。品川駅は明治5年、横浜の桜木町駅とともに開場した日本最初の駅。品川区でメモしたように、この品川駅は港区にある。で、港区の名前の由来であるが、この地域が東京港を抱えているので、「東港区」という案があった。とはいうもの、「東京都東港区」では、早口言葉のトレーニング でもあるまいし、ということで「東」を除き、「港区」と。結構、いい加減。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)


高輪公園
Jr品川駅・高輪口に出る。第一京浜・国道15号線を渡る。メリディアン・パシフィックホテル横の「さくら坂」をのぼる。道なりに進むと高輪プリンス・ホテル。エントランス付近に台地を下る階段。下ると「高輪公園」。案内板をメモ;
「この公園の付近は、三方を丘で囲まれた静かな窪地で、江戸入口の(高輪)大木戸から南方に当たり、国道東側まで海があって、景色のよいところであった。今から約300年前の寛永13年(1636年)に近くにある東禅寺が赤坂から移った。この禅寺を中心に多くの寺が建ち、その周辺には井伊家、本多家などの下屋敷があった。幕末には東禅寺は最初の英国公使館となった。付近の一部は江戸時代を通じ、荏原郡高輪村、と呼ばれた。高輪の名は、「高いところにある真っ直ぐな道」という意味の「高縄手道」が略されたもと、とか、岬を意味する「高鼻」がなまったもの、とも言われる。この地は酒井家のものであった」と。こういった、思いがけない案内に当たるのが、散歩の楽しみである。

東禅寺
公園のすく隣に東禅寺。東禅寺は、イギリスの初代公使であるオールコックと次代公使のパークスにより公使館として使用されていた。水戸藩士、信濃松本藩士などの攘夷派浪士の襲撃もあった、とか。襲撃の当日、福地源一郎(のちの桜痴)も外国方として詰めており、警備を担当していた幕府の別手組の隊士が襲撃浪士の「生首」を持ち来たり、「一番首の高名を記録してくれ」と。源一郎、驚きのあまり「狼狽」。「少々恥ずかしかった」と後に記している。



桂坂
東禅寺のある窪地から台地に戻る。北に進み、民家の軒下といった雰囲気の小道を通り、急な階段を上る。東に下る坂道になっている。名前は「桂坂」。この道筋は目黒通りの日吉坂上交差点から下る桑原坂>桜田通り・明治学院交差点>高輪警察前を経由して、最終的に桂坂として台地を下るルートであった。坂道にある標識:「むかし蔦葛(つたかずら・桂は当て字)がはびこっていた。また、かつらをかぶった僧が品川からの帰途急死したからともいう」、と。

高輪台の戦い
昔、このあたり一帯で合戦があった。1524年、小田原・北条氏と江戸城を居城とする扇谷上杉が覇権を求めて争った「高輪台の戦い」である。上杉軍は初戦で敗戦。川越に落ちる。勝利を得た北条氏綱は江戸城を手中におさめ、そこに遠山氏を置いた。その末裔が名奉行・遠山左衛門尉景元。あの遠山の金さん、である。

二本榎通り ・承教寺

坂をのぼり高輪警察署前交差点に。レトロな雰囲気の高輪消防署・二本榎出張所が目に付く。台地上を通る「二本榎通り」を少し進むと承教寺。英一蝶のお墓がある。江戸の人気画家。といってもその人生は波乱万丈。伊勢・亀山藩の医師の家に生まれる。両親が突如江戸に。その理由は不明。狩野派に弟子入り。17歳のとき破門。理由は不明。その後、多賀朝湖の名で絵を書く。また、俳諧でも名を高め、宝井其角(きかく)や芭蕉と親交を結ぶ。江戸の有名人に。が、二度の入牢。その理由は不明。二度目はついに遠島の刑。三宅島に島流し。将軍綱吉がなくなり、大赦。江戸帰還が許される。時に58歳。帰還の船で一匹の蝶。「一蝶」と。英は母親の姓「花房」から。最後の15年を江戸で暮らし、この地に眠る。
この承教寺、お寺には珍しい芝生の庭。変な顔の狛犬がいる。頭と体の大きさが、いかにもアンバランス。髭面のオヤジ顔。二本榎の説明文があった。メモする;その昔、江戸の時代、日本橋からきて品川宿の手前、右側の小高い丘陵地帯を「高縄手」と呼んでいましたが、そこにある寺に大木の榎が二本あって、旅人のよき目印になっていた。誰言うと無くその榎を「二本榎」と呼ぶようになった。それがそのまま、「二本榎」という地名となって続き、榎が枯れてからも地名だけが残った」、と。ちなみに、現在は二本榎という地名はなく、わずかに「二本榎通り」と、先ほどの高輪消防署・二本榎出張所などにその名を残す、のみ。

伊皿子交差点
二本榎通りを進み「伊皿子交差点」に。北西に下れば「魚藍坂」。南東に下れば「伊皿子坂」。目的地の泉岳寺は「伊皿子坂」下。坂の名の由来は、明国人「伊皿子 (いんべいす)」が住んでいたとか、大仏(おさらぎ)のなまりとも、更には、いいさらふ〔意味不明〕の変化とも、例によっていろいろ。

泉岳寺
伊皿子坂を下り、泉岳寺に。忠臣蔵で名高い寺ではある。寺格は結構高い。知らなかった。慶長16年(1612年)、徳川家康が門庵宗関を招き、今川義元の菩提をとむらうために開山。門庵宗関は今川義元の孫。もともとは外桜田、現在のホテルオークラのあたりにあった、とか。寛永18年(1641年)の寛永の大 火により焼失。その後、この地に移る。浅野家との因縁は、家光の命により、毛利・浅野・朽木・丹羽・水谷の五大名がこのお寺を復興することになって以来。往時は、学僧200名を有する、学寮として有名であった、と。四十七士のお墓におまいり。地形は台地の下の窪地、といった様。台地上には「二本榎通り」が走る。

討ち入り後、この泉岳寺までのルートをメモしておく。吉良邸を出たのが午前6時。泉岳寺に着いたのが午前10時頃、とされる。両国駅近くの吉良邸>回向院>万年橋>永代橋>霊岸島>稲荷橋>築地・鉄砲洲(浅野家上屋敷)>汐留橋>日比谷>金杉橋>将監橋>田町駅あたりの東海道(だろうか)道筋を泉岳寺へ。
回向院では入山を拒否された、とか。血まみれ、さんばら頭の姿をみて、坊さんは肝をつぶしたのだろうか。で、もともとは、両国橋東詰めで、追っ手を待って、切り合い、といった段取りではあったようだが、その気配もない。ということで、泉岳寺へと。それも、両国橋コースでは武家地が多く、なにが起きるかもわからない、ということで、町屋の多い永代橋コースを取った、と言われている。

魚藍坂
泉岳寺を離れ、伊皿子交差点に戻る。交差点から今度は魚藍坂を北西に台地を下る。魚藍坂の名前は、坂の中腹に魚藍観音を安置したお寺・魚藍寺があることから名付けられた。魚籃って、魚を入れる竹篭。魚籃観音って、その魚籃を持ち、魚を売り歩く美しい乙女姿の観音様。仏の功徳を町々に伝えたのであろうか。国道一号線・魚籃坂下交叉点に。




立行寺
魚籃坂下交叉点を少し西に。白金1丁目交差点。交差点から三光坂下への道筋にある立行寺(りゅうぎょうじ)に向かう。大久保彦左衛門が建てたお寺。もともとは麻布六本木にあったものが火災で焼失したため、寛文8年(1668年)この地に移る。彦左衛門のお墓の隣に一心太助も眠る。とはいっても太助さんは、講談に登場の人物。腕に「一心白道;ただこの道を一筋に、わき目をふらず目的に向かって行くこと。」の刺青があった、とか。お寺の前の道に。三光坂に続くこの道筋は彦左衛門の名前をとって、「大久保通り」と呼ばれていた。

重秀寺
すぐ裏手の台地上に重秀寺(ちょうしゅう)。坂道は結構きつい。開基は旗本・上田主水重秀(うえだもんどしげひで)。旗本のプライベート・MY菩提寺、ってほかにあるのだろうか。なんとなく惹かれる。

氷川神社
重秀寺の隣に氷川神社。これも台地の上に鎮座する。立派な構え。港区内には氷川神社は3社。赤坂、麻布、そしてここ白金。白金の氷川神社は区内でもっとも古い神社。7世紀後半につくられた白金総鎮守。氷川神社を少し西に進むと、先回散歩した三光坂下。なんとなくこのあたりの位置関係がわかってきた。「襷」がつながった。



麻布善福寺
三光寺坂下からは、次の目的地・麻布善福寺に向かって一直線に北に進む。道筋は、先回歩いた白金商店街を進み「四の橋」に出る。四の橋からは薬園坂をのぼる。周りにはお寺が多い。のぼりきったところが仙台坂上。坂の南、現在韓国大使館のあるあたり一帯に、仙台藩・松平陸奥守の下屋敷があったから。
善福寺。開基は天長元年(824年)。弘法大師が真言宗を武蔵一円に広めるために建てた、という。その規模高野山にならい、新高野と呼ばれ、関東屈指の霊場であった。都内では浅草・浅草寺に次ぐ古い歴史をもつ。
鎌倉時代になると、越後での流罪を許されて京に帰る途中の親鸞聖人が、この寺を訪れる。その謦咳に接した善福寺の了介上人は、全山あげて浄土真宗に改宗。以来、浄土真宗の寺として歴史を刻む。一向一揆や、大阪・石山本願寺など、浄土真宗と織田信長との争いには、援軍を送ったりもしている。秀吉は関東平定に際しても、寺領保護を約している。江戸になっても徳川家の庇護篤く、特に三代将軍家光は本堂を寄進したほど。寺領も広く、港区・虎ノ門という地名も、当時の善福寺の山門、とか。また、杉並の善福寺池は当時の奥の院跡、と言われている。広大な寺域を誇っていたのであろう。

このお寺は幕末の1859年には、初代アメリカ公使館。安政の仮条約以降明治まで、ハリス以下の公使館員を迎えることになる。福沢諭吉もこの寺に出入りしていた、とか。その故か、諭吉の墓はここにある。越路吹雪のお墓も、ここにある。
境内、というか総門内に「柳の井戸」。現在でも清水が湧き出ている。弘法大師が鹿島大明神に祈願して柳の下に錫丈(しゃくじょう)を突き立てると、清水が湧き出した。ために、鹿島神社の七つの井戸のうち一つは空井戸になった、とか。また、とある上人さまが柳の小枝で地面を払ったら清水が湧き出した、とも伝えられている。関東大震災や東京大空襲のとき、多くの人たちの渇きを癒した湧水、としても知られている。

元神明神社

寺を離れ、「二の橋」で古川を越え、そのまま東へ進む。オーストラリア大使館を越えたあたりで北に。先に進むと小高い台地に「元神明神社」。古いような、新しいような、なんとも言われぬ雰囲気に惹かれて石段をのぼる。思いがけない、「あれこれ」に出会うことになる。創建は平安時代の寛弘2年(1005年)。渡辺綱の産土神。
そういえばこの近くに「綱坂」などもあった。江戸になり、飯倉神明(芝大神宮)に移す、との徳川家の命に対して、ご神体を隠し留め、以来「元神明宮」として、多くの人々の信仰を受ける。

水天宮

またこのお宮さんには、水天宮が祀られている。この水天宮は隣接する有馬藩邸の屋敷神として、九州・久留米水天宮から分祀されたもの。明治元年有馬邸が青山に移るに際し、このお宮さんに分霊。その後青山の有馬邸は日本橋蛎殻町の現水天宮に移ったわけだ。『江戸切絵図』をチェックすると、中の橋から赤羽橋にかけて確かに、有馬中務大輔の屋敷が描かれている。
水天宮といえば、ほんの数日前、九州・福岡での学会に出席。少々の空き時間を見つけ、久留米まで足を延ばし、本家門元の「水天宮」、有馬侯の「篠山(ささやま)城」を見てきたばかり。奇しくも、というか、絶妙の「襷」のかかり方。
水天宮にはじめて出会ったのは、もちろん、子供の無事なる誕生を願ってのときではある。散歩で最初に出会ったのは確か狭山丘陵。トトロの森にあった久米水天宮。このとき、由来などチェックして、本家が九州の久留米にあることがわかった。久留米は親父が召集され、陸軍幹部候補生学校の生徒として青春の一時期を過ごしたところでもある。水天宮と親父の若かりし頃の地を求め、久留米に飛び出した、次第。それから数日もしないうちに、全くの偶然で「水天宮」&「有馬侯」と出会った。奇しくも、というより、予定調和、といった「襷」のかかり方であった。

中の橋・芝公園
元神明宮を離れ、「中の橋」交差点に。東に進み桜田通り・赤羽橋交差点を越えると芝公園。赤羽は、北区の赤羽とおなじく「赤埴」から。土器などをつくる良質の赤粘土がとれたのだろう。たしか、近くの麻生台2丁目には、「土器坂(かわらけざか)」といった、そのものずばりの地名もあった、よう。

芝・丸山古墳
芝公園の中に「芝・丸山古墳」がある。適当に公園に入る。結構な台地。こんなところに古墳があるとは、思ってもみなかった。それよりも、この公園の中に台地があるなど、想像もできなかった。古墳の麓に「丸山貝塚」の碑;「芝公園の丸山と呼ばれる丘陵東南斜面に貝層が残存。正式な学術調査はおこなわれていない。縄文時代後期のものと推測されている」。



台地をのぼる。「円山随身稲荷大明神」。このあたり一帯が古墳跡。案内板;「全長106m前後。後円部径64m。前方部前端幅約40m。くびれ幅約22m。都内最大級の前方後円墳。江戸時代以降、原型は相当損じられている。前方部が低く狭い形態や占地状態などから5世紀時代の築造考えられる。付近の低地の水田地帯に生産基盤をもち、南北の交通路を押さえていた、南武蔵有数の族長の墓だったと考えられる。坪井正五郎が発掘・調査した」と。
散歩をはじめるまであまり知らなかったのだが、東京にも結構古墳がある。多摩川台古墳群、亀甲山古墳、宝莱山古墳。上野公園・擂鉢山古墳。足立区・毛長川流域。北区・王子、葛飾の中川・江戸川流域などなど、散歩の時に出会った古墳も多い。今ひとつ、この時代のことに興味・関心が少々薄いのではあるが、そのうちに、あれこれ調べてみよう。

芝・東照宮

公園内を通り、芝・東照宮に。明治に神仏分離で増上寺から別れるまでは、安国殿と呼ばれる。家康公の法名「一品大相国安国院殿徳蓮社崇誉道大居士」に由来する。ご神体である家康の等身大の彫刻は家康が60歳のとき、自らつくらせた、とか。






芝・増上寺
お隣に芝・増上寺。もとは江戸貝塚(千代田区紀尾井町;平河町から麹町にかけて)に真言宗の寺院としてつくられる。当時は光明寺と呼ばれていた。明徳4年(1393年)浄土宗に改宗。以降、戦国から室町にかけて浄土宗の東国のかなめとして機能した。
江戸にはいり、徳川家康の庇護を受け、徳川家の菩提寺となり、慶長3年(1598年)には、現在の芝の地に移転。関東18壇林のひとつとして多くの学僧が学んでいた、とか。寺内には二代秀忠公、六代家宣公、七代家継公、九代家重公、十二代家慶公、十四代家茂公の、六人の将軍の墓所がもうけられている。この大伽藍も戦災で焼失。正面入口の山門とふたつの霊廟の入口にあった総門がかろうじて難を逃れた。現在の本堂は昭和49年再建されたものである。本日の散歩はこれで終了。芝大門からJR浜松町駅に進み、一路家路に。 

港区を2回に渡り歩いた。が、いまひとつ土地勘がしっくりしない。であれば、台地を刻んで流れる渋谷川・古川にそって北から歩いてみよう、と考えた。開析された谷筋と尾根道のアップダウンを辿れば、なんとなく全体の姿がわかる、かと。(日曜日, 9月 10, 2006のブログを修正)



本日のルート:JR 渋谷駅>明治通り・渋谷警察署>金王八幡宮>金王神社前>八幡坂>明治通り・氷川橋>氷川神社>国学院大学前>白根記念渋谷郷土博物館・文学館>南郭坂・広尾高校前>羽澤ガーデン>チェコ大使館>祥雲寺>外苑西通り・広尾橋>天現寺>光林寺>五の橋>三光坂>池田山公園>JR五反田駅

渋谷駅
渋谷川が開渠となるのは渋谷駅前。六本木通りと明治通りが交差するあたり。京王井の頭線・渋谷駅で下車。渋谷警察署を目安に進む。東急・東横線のガードを超えたあたりに、コンクリートで固められた渋谷川。少々窮屈そう、ではある。渋谷川はこの先、恵比寿駅近くの渋谷橋あたりまで明治通りに沿って下る。が、ビルに囲まれた開渠路。散歩には少々味気ない。で、川筋を意識しながらも、東に盛り上がる台地に向かうことに。

金王八幡社
渋谷警察から明治通りを少し進み、台地に登る。台地を登りきったところに「金王八幡社」。創建は11世紀末に遡る。平家の祖・平高望の子孫・平武綱がつくった、と。源義家に従い戦った後三年の役で武名をあげた武綱は、この渋谷一帯を領地とする。で、この地に八幡宮をまつったのが「金王八幡宮」のはじまり。その後、武綱の孫・河崎重家の代に天皇より「渋谷」姓を賜る。当時は「渋谷八幡宮」と呼ばれていた。
「渋谷」の名前を賜った由来が一風変わっている。河崎重家が御所警護の際、取り押さえた賊の名前が「渋谷何某」。その功を称えた掘河院が「以降、渋谷と名乗るべし」といった、とか。倒した敵の名前を名乗るのは名誉なことであった、そうな。
何ゆえ「金王」、ということだが、あれこれ説がある。渋谷重家の子どもの名前・金王丸に由来する、との説もある。子供を求める重家が、八幡様にお祈り。「金剛夜叉明王」が妻女の体に宿る夢。正夢となり、無事男子を授かる。「金」剛夜叉明「王」の初めと終わりの字を取って「金王」と。少々,出来すぎている感もあり。 

(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)


ついでに重家のその後;源義朝に従った保元の乱で殊勲大。その後、平治の乱では、義朝討ち死の報を義朝の妻女・常盤御前に伝え、重家はこの渋谷の地で出家。義朝の菩提をとむらう重家に転機が訪れたのは、頼朝が奥州の義経征伐の折り、重家に従軍を求めた時。頼朝の強い要望に断わりきれず参戦するも、常盤御前の子である義経を討つことはできず、戦いにおいて落命した、と。
この金王八幡社付近は渋谷城があったところ。小田原北条氏の武蔵進出の際の合戦で焼け落ちた。渋谷警察の裏にあたりには、古くは堀之内という地名があった、とか。この城址は台地の西端。眼前には水量豊かな渋谷川水系の川が行く筋も流れており、その水を引いた堀があったのだろう。

氷川神社
神社を離れ金王神社前交差点に進む。この道筋は青山学院の西側を下り、六本木通り・渋谷2丁目交差点を越えてくる。台地から渋谷川に向かっては金王神社前あたりから「八幡坂」となって下る。八幡坂を下り終えると明治通り・並木橋交差点。明治通りにそって次の交差点、渋谷川に氷川橋のかかる東交番前を台地方向に折れ、坂を登る。坂の途中で南に折れ、道なりに進むと「氷川神社」参道入口。
結構広い境内。4000坪程度あるようだ。鬱蒼とした緑の中に鎮座する。境内には相撲場。江戸郊外三大相撲のひとつ、金王相撲が開催されていた、とか。渋谷最古の神社とも言われる。何度かメモしたように、氷川神社は全国で261社。そのうち埼玉に162社。東京に68社といったふうに関東ローカルなお宮さま。本社は武蔵一ノ宮である大宮の氷川神社。出雲族の武蔵氏が武蔵国造となってこの地に移ってきたとき、氷川信仰が武蔵の地に普及した。「氷川」の名は出雲の「簸川;現在の斐伊川)」に由来する。もとは、荒川を簸川に見立て、畏敬の念をもって信仰していたのであろう。
氷川神社が祀られた村々はその成立が比較的古く、多くは関東ローム層の丘陵地帯に位置している。森林を開墾し谷の湿地を水田とした人たちが生活のより所として、氷川神社を建てたのであろう。氷川神社の祭祀圏は荒川西岸。香取神社の祭祀圏は荒川東岸ときっちりと分かれている。散歩を通してこのルールをはずしていたのは、北区・赤羽あたりに香取神社があった1件のみ。

白根記念渋谷区郷土博物館・文学館

氷川神社の北に國學院大學。國學院大學前交差点を進み常陸宮邸方向に進むと白根記念渋谷区郷土博物館・文学館。館内を一廻りし、『渋谷文化財マップ』『散策マップ』などを入手。一服しながら天現寺まで、つまりは港区までのルートを探す。郷土館から日赤通りに向かい、台地上の道を進み祥雲寺を経由して広尾、そして天現寺に至るコースがよさそう。





南郭坂
郷土館を離れ、國學院前交差点に戻る。そこからは南に折れ、広尾高校方面に進む。しばらく進むと広尾高校前交差点。台地を渋谷川方向に下りる坂は「南郭坂」。江戸中期の儒学者・服部南郭の別邸があったところ。16歳で和歌と絵画をもって柳沢吉保に仕える。荻生徂徠の高弟のひとり。経学の太宰春台に対し詩文の南郭と並び称された。古文辞学と詩を学ぶ。で、34歳で在野に下りこの地に「隠居」、とか。
古文辞学って、明の時代に流行った「文は秦漢、詩は盛唐」をよし、とする懐古主義の文学運動、とか。なんのことかよくわからんが、いまのところは、いまひとつ問題意識なし、をもって,よし、とする。とりあえず、高校時代に李白とか杜甫といった盛唐の詩歌を、わけもわからず覚えたのは、江戸期の古文辞学派が『唐詩選』を「有り難き物」とした賜物であろうか。勝手な解釈であり、正誤のほど定かならず。

いもり川
広尾高校前を東に折れ、広尾高校裏交差点を越え、坂を下る。あれ、このあたり、見覚えがある。羽澤ガーデン。元満州鉄道総裁の邸宅を使ったレストラン。結構利用した。が、どうも営業を終了したようだ。羽澤ガーデンあたりは谷地。昔は「いもり川」が流れていたよう。昔の地図には、「いもり橋」「小橋」「どんどん橋」といった名前がある。地図で見る限りでは、六本木通り・常陸宮邸あたりから、東4丁目の交差点(常陸宮邸前の五叉路)をとおり広尾2丁目、3丁目の低地を進み広尾2丁目で渋谷川に合流。合流点は渋谷川の恵比寿橋と新橋の間といったところ。

日赤通り

いもり川の谷筋から、ふたたび坂をのぼる。坂をのぼりきったところが日赤通り。日赤医療センターや聖心女子大の裏手を一直線に南に下る尾根道・台地道。このあたりは、堀田備中守(佐倉藩・千葉県)の下屋敷があったところ。
『江戸名所図会』などには、この広尾の原は一面のススキ。江戸時代の広尾は、麻布の西に広がる行楽地。将軍の鷹狩りや市民の土筆つみ・月見の里でもあった。広尾の原には「土筆が原」の別名もあった、とか。
下屋敷って、大名の別邸であったり、上屋敷への供給する菜園をもっていたり、海岸付近では荷揚げ場であったりと、その機能はいろいろ。上・中・下屋敷は江戸城からの距離をもってタグ付けされていた。お城から最も近いのが上屋敷、遠いのが下屋敷、である。

祥雲寺

日赤通り・ チェコ大使館前を通り、しばらく進むと道は祥雲寺に阻まれ東西に分かれる。道なりに坂を西に下り、明治通り・広尾1丁目交差点、渋谷川にかかる新橋のあたりに出る。明治通りを東に少し進み祥雲寺に。
祥雲寺は黒田長政の嫡子・忠之が赤坂溜池の黒田家上屋敷内に建立した龍谷山興雲寺がもと。寛文6年(1666年)には麻布台に移り,瑞泉山祥雲寺と改める。 寛文8年(1668年)には江戸の大火により現在の地に移る。もともとは、黒田長政がなくなったとき、長政が深く帰依していた京都大徳寺の龍岳和尚を開山としたわけでもあり、境内には黒田家累代の墓とともに、墓標形として建てられた大きい長政の墓がある。
祥雲寺には、岡本玄冶の墓もある。岡本玄冶のことは中央区日本橋人形町を散歩したときにちょっとメモした。春日八郎の『お富さん』の歌に「粋な黒塀、。。。、えっさほう、玄治店(げんやだな)」がある。子供のころに覚えた歌をいまだに覚えている。その玄治店って、岡本玄冶が家主の長屋のこと。人形町の拝領屋敷を長屋にしていたのだろう。この玄冶さん、将軍秀忠・家光の侍医。千石取り、というから殿様並。家光が疱瘡を患ったとき、ものの見事に治療し評価を高めた。もっとも、玄治を今にその名を残す存在としらしめたのは、お富さんであり、切られ与三郎の登場する歌舞伎の舞台「与話情浮名横櫛」であることはいうまでもない。

広尾橋・笄川

寺を離れ、外苑西通りに出る。広尾橋交差点。広尾橋は、その昔、ここを流れていた「笄川(こうがいがわ)」にかかっていた橋。笄川は舌状台地となっている青山墓地の両脇の谷筋が源流点。途中、いく筋もの流れをあわせながら南下して天現寺橋で渋谷川に合流。渋谷川水系では宇田川に次ぐ規模の支流ではあった。1937年に大部分が暗渠に。部分的に各地に残っていた開渠も東京オリンピック前後までには完全に暗渠化されている。

天現寺橋交差点​・天現寺

少し南に進むと天現寺橋交差点。交差点脇に天現寺。臨済宗大徳寺派。天現寺橋は元々、笄川(こうがいがわ)に架かっていた橋の名前。現在の渋谷川に天現寺橋が架かっているが、元々は別の名前の橋だった、とか。
渋谷川の対岸に慶応幼稚舎ができて通学用に架け替えられた「慶応橋」と、その隣に市電用の橋梁が架けられたわけだが、二つの橋を合体した形で架け替えられるとき、天現寺橋の名が復活した、と。この橋を境に上流を渋谷川、下流を古川に分けられる。

光林寺

天現寺橋から渋谷川改め、古川を東に進む。すぐ光林寺に着く。オランダ人ヒュースケンの墓がある。安政3年(1856年)、ハリスとともに下田着。日米修好通商条約締結交渉に活躍し。渡航先のアメリカで、ドイツ語、フランス語等もできる語学力をかわれて日本に赴任。陽気闊達な性格であり、江戸滞留の外国人間で名を知られる。が、プロシア使節と日本側の通訳として通っていた「赤羽接遇所」からアメリカ公使館のあった麻布善福寺への帰途、「中の橋」のたもとで攘夷派の薩摩藩士の刃に倒れる。乗馬が好きで江戸城のあたりを闊歩していたのが、攘夷志士の気に障った、とも。1861年1月15日、28歳の若さであった。
善福寺ではなくこの光林寺に埋葬された理由は、善福寺は土葬を禁じていたため。この寺は土葬が可能であったわけだ。台地下の窪地に寺はあるが、台地も寺域となっており、境内はすこぶる広い。

池田山公園
光林寺からは東五反田の池田山公園を目指す。五の橋を渡り、白金3丁目を進み、三光坂下で大久保通りを越え、三光坂を登り、目黒通りに出る。このあたりはこれで3回目。結構土地勘ができてきた。目黒通りからは目白台3丁目の「三田用水跡」あたりを再び通り、上大崎1丁目の宅地を過ぎると、「池田山公園」にあたる。NTT東日本関東病院のすぐ裏手であった。

池田山公園は岡山藩池田家下屋敷跡。池田山公園自体は7,000平方メートルであるが、下屋敷自体は往時3.8万平方メートル。NTT東日本関東病院の敷地も下屋敷の一部であった。公園は窪地にあり、回遊式庭園となっている。三田上水を引き込んでいた、と。
ちなみに昔の大名屋敷で現在公園になっているところをメモする;戸越公園(熊本藩細川家)、白金の国立自然教育園(高松藩松平家)、小石川後楽園(水戸藩徳川家)、東京大学(金沢藩前田家)、芝離宮(小田原藩大久保家)、赤坂御所(紀州徳川家)、明治神宮(彦根藩井伊家)、戸山公園(尾張藩徳川家)、新宿御苑(高遠藩内藤家)、青山墓地(郡上藩青山家)など。
公園を離れ、公園に沿って上大崎1丁目と東五反田5丁目の境の坂道をのぼり、南に台地上を進む。「ねむの木の庭」前を通り、台地を下りJ
R五反田駅に到着。本日の予定終了。


先日、駒沢陸上競技場に出かけた。娘の競技会のビデオ撮影のご下命を受けたため。で、競技終了後、ちょっと目黒を散歩する。いつもの行き当たりばったりの散歩とは異なり今回は準備万端、である。
競技会のビデオ班ご下命はたまにある。ために、以前競技会に来たとき、空き時間を利用して目黒区の郷土資料館を訪れていた。五本木の目黒区守屋教育会館内にある郷土資料館で『目黒区文化財地図』『みどりの散歩道 コースガイド』など資料を既に入手していたわけだ。
競技会が終わったのが午後の4時。夏場でもあり、6時過ぎまで歩けるだろう、とコースを探す。さてどこに向かうか、あれこれ地図を眺める。五百羅漢寺が目に留まる。なんとなく前から気になっていたお寺。江東区散歩のとき、出会っていた。このお寺、どういった経緯か忘れたのだが、目黒不動の近くに移っている。それともうひとつ、碑文谷八幡。この神社も前々から気になっていた。

(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)


ということで、ルートは駒沢陸上競技場から碑文谷八幡、その後は羅漢寺川緑道 に沿って「林試の森」などを経由し、五百羅漢寺まで歩くことに。『目黒区文化財地図』を眺めると、途中に結構由緒ありげなお寺とか神社もある。果たして日没までにどこまで、とは思いながらも陸上競技場を後にした。(月曜日, 8月 21, 2006のブログを修正)




本日のルート;
①碑文谷・羅漢寺川ルート;駒沢競技場>(八雲)>呑川駒沢支流緑道>東光寺>金蔵院>八雲氷川神社>常円寺>北野神社>環七・柿の木坂>(碑文谷)>すずめのお宿>碑文谷八幡>高木神社>円融寺>正泉寺>法界塚馬頭観音・鬼子母神堂>稲荷大明神>清水池公園>羅漢寺川緑道>都立林試の森公園>成就院(たこ薬師)>瀧泉寺(目黒不動尊)>五百羅漢寺>山手通り>目黒川>太鼓橋>行人坂>JR目黒駅

②郷土資料室散歩ルート;駒沢競技場>駒沢通り>柿の木坂>八雲1丁目>目黒中央図書館>呑川柿の木坂支流緑道>柿の木坂上・環七通り>駒沢陸橋>駒沢通り>学芸大駅北>東急東横線交差>十日森稲荷>祐天寺>古本屋>駒沢競技場


駒沢通り
駒沢通りを東に。東京医療センター前交差点を越える。東京医療センターって、昔の「国立小児病院」。仕事で伺ったなあ、など昔を思う。交差点を越えると、駒沢通りを離れ南に下る。

衾(ふすま)町公園
八雲5丁目。落ち着いた住宅街。立派な邸宅が並ぶ。衾(ふすま)町公園。江戸時代はこのあたり、現在の環七通りの西南あたり一帯は衾(ふすま)村、と呼ばれていた。衾の地名の由来は、村の地形が衾=寝るときにかけた衣、に似ていたから、とか、このあたりは官牧(政府の牧場)や私牧が多く、その餌である衾=小麦をひいたときに残る皮、の産地であった、とか、例によっていろいろ。




呑川駒沢支流緑道
さらに下る。緑道に当たる。「呑川駒沢支流緑道」。川筋跡を地図でチェック。北に上った緑道は、駒沢公園の中を進み「東京医療センター」の北端に沿って北東方向に上っている。源流点は国道246号線の「真中交差点」の南にあった池、あたり、とか。
一方、南方向への「流れ」は、八雲学園の東を通り八雲2丁目で「呑川緑道」に合流する。これって呑川の本流跡。




呑川
昨年だったか、呑川を河口部近くの蒲田駅から歩いた。「池上通り」と交差>池上本門寺脇を進み>第二京浜を越え>東海道新幹線を越え>中原街道を越え>大岡山の東京工業大学脇に。ここで開渠は終わり暗渠となる。
先回は、そこから北に、東工大構内を分断する緑道を少々歩いた。が、川筋がここまで、つまりは八雲あたりまで続いているとは知らなかった。東工大から先の流路をチェック;大岡山>東横線・都立大駅西>「目黒通り」を越え西に向きを変え>八雲学園の南を西に>深沢1丁目あたりから北西に>「駒沢通り」を越え>深沢3丁目で国道246号と交差>その後桜新町。そのあたりまで水路跡が見える。世田谷区新町の旧厚木街道下からの湧き水が源流とのこと。
「新編武蔵風土記稿巻之三十九荏原郡之一」より呑川のメモ;「水源は郡中世田谷領深澤村より出て、わつかなる流なれと、衾、石川、雪ヶ谷の三村を歴、道々橋村に至て千束溜井の餘水合して一流となり、池上堤方に至る、この村内にて市倉村の方へ分流あり、すへて水源の近き處より此邊に至まて、深澤流といへり、是より下蒲田の方に至て呑川と唱ふ、下蒲田村にて六郷用水の枝流合し、又一流となり、御園、女塚、新宿、北蒲田、下袋の村々を経て、北大森村にて海に入」、と。

金蔵院・氷川神社

散歩に戻る。八雲学園の東に金蔵院と氷川神社。金蔵院は氷川神社の別当寺。十一面観音や不動明王で知られる。氷川神社は衾村の鎮守様。癪(しゃく;腹痛)封じの霊験あらたか、とか。境内に枯れたアカガシの巨木の株。癪封じのご神木。皮をはぎ煎じ薬として使う人が引きもきらず。ために、枯れてしまった、と。また、おなじく「くずれ地蔵」が境内に。患部と同じ部分をなでると病が癒える。ということで、あまりに多くの人に触られ、お地蔵様が崩れてしまった、とも。
八雲の地名の由来は、この神社の祭神であるスサノオノミコト、から。八岐大蛇(やまたのおろち)を退治したときに詠んだ「八雲立つ 出雲八重垣妻ごみに 八重垣作る その八重垣を」から。

東光寺・常円寺
氷川神社の東に東光寺と常円寺。東光寺は貞治4年(1365年)、世田谷城主・吉良治家が夭逝した子息の菩提をとむらうため建立。吉良治家は奥州探題・吉良満家の子。上州から世田谷郷に移り覇をとなえる。豪徳寺の近くにあった世田谷城址がその主城址。貞治4年にはこのあたり衾・碑文谷も所領に加えた。このお寺、出城の役割ももっていたようだ。
隣に常円寺。本堂前の大イチョウは区内有数の巨木として知られる。常円寺の東は坂道。天神坂と呼ばれている。

北野神社
坂の東に北野神社、つまりは、天神様=菅原道真公がまつられているから。坂の上は都立大学の跡地。先日の散歩のとき、坂の上の八雲中央図書館に訪れた。あのときの道筋の先は、こうなっていたんだ、と、つながった「襷」がつくる風景を思い描く。

呑川柿ノ木坂支流緑道

北野神社を東に進む。再び緑道。「呑川柿ノ木坂支流緑道」。駒沢通りまで北にのぼり、そこからは北西に進み「東京医療センター」の北にある東根公園の北あたりまで水路跡が見て取れる。そのあたりで「呑川駒沢支流緑道」と合流。源流点は国道246合線の上馬交差点南、世田谷・目黒区境あたりの、よう。
ちなみに、呑川には、もうひとつ支流がある。九品仏川がそれ。九品仏で名高い浄真寺を取り巻く湿地の水が集まって、世田谷との区境を東流し、大井町線緑が丘駅南側で呑川に注いでいる。ここは昨年散歩済み。

先 回の散歩のとき八雲中央図書館を訪れたとメモした。中央図書館に行けば郷土資料があろうか、と思った次第。が、そこにはなく、東横線・祐天寺近くの五本木に郷土資料館がある、という。で、中央図書館から東に進み、「呑川柿ノ木坂支流緑道」を駒沢通りまで上る。環七・駒沢陸橋を越え、駒沢通りを東に進む。東横線と交差したあたりで駒沢通りをそれて北に折れ、五本木の目黒区守屋教育会館内にある郷土歴史資料室を訪れた。

目黒通り・柿の木坂
が、今回は、北に上ることなく、すぐ南を走る「目黒通り」に進む。環七との交差手前は「柿の木坂」。東横線と目黒通りが交差するあたりから結構な坂となる。名前の由来は、坂に大きな柿の木があった、から、というのが妥当なところか。例によってあれこれ説がある。この環七・柿の木坂陸橋あたりは複雑な地形。カシミール3Dで作成した地形図を見ると、環七は尾根道を進んでいる。呑川のふたつの支流は明らかに谷地を進んでいる。

すずめのお宿緑地公園

環 七・柿の木坂陸橋を越える。環七から東に目黒通りは台地を下る。ダイエー碑文谷店の手前を南に下り「すずめのお宿緑地公園」を目指す。目黒は昔、筍(タケノコ)の産地で有名。ということは竹林が多くあった、ということ。この緑地公園も今に残る数少ない竹林のひとつ。所有者の角田セイさんが国に寄贈。後に区の緑地公園となる。
昭和の初期まで、この竹林には数千羽のすずめが生息していたのが、名前の由来。竹林の一隅には古民家。衾村の旧家・栗山家の母屋を移転したもの。江戸時代半ばの姿が復元されている。




碑文谷八幡
緑地公園の隣に「碑文谷八幡」さま。碑文谷の鎮守さま。創建は鎌倉とも室町とも。境内に「碑文石」。碑文、つまりは、大日如来とか勢至菩薩、観音菩薩を表す梵字(サンスクリット文字)が刻まれた石がある。これが碑文谷という地名の由来、とも。鎌倉か戦国時代の板碑の一種と言われている。
碑文谷って、なかなか渋い地名。地名の由来が表すように、目黒区内での古い歴史をもつ地域。江戸時代は目黒六カ村、つまりは、上目黒村・中目黒村・下目黒村・三田村・碑文谷村・衾村のひとつ。隣の衾村と合併した明治には碑衾村と呼ばれていた。
郷土資料室でもらった資料の昭和7年の碑文谷八幡あたりの写真を見ると、一面の畑地、そして民家が点在する。農村地帯であったこのあたりは、大正12年の関東大震災で家を失った人がこの地に移りすみ、また大正12年の目蒲線の開通、昭和2年の東横線の開通などにより、次第に宅地となった。とはいうものの、昭和7年の写真を見る限りでは、まだまだ牧歌的風景が広がっている。




立会川緑道
碑文谷八幡の参道を東に。境内を出たところに緑道が。「立会川緑道」。緑道を進む前に、少し寄り道。ちょっと南に高木神社。小さな社。江戸時代には「第六天」と。高木神社となったのは明治になってから。立会川緑道に戻る。
この立会川も前々から気になっていた川。もちろん、今は川跡、ではある。源流は碑文谷公園の碑文谷池と清水公園の清水池。この湧水を集めた池からの細流が、碑文谷八幡あたりから区を東に進み、目蒲線・西小山駅付近に。そこから「立会道路」が中原街道と交差するところまで南東に下る。これって、いかにも川跡って感じ。
昭和大学病院あたりで中原街道を交差した川筋は東急大井町線・荏原駅あたりを越えて東に進む。第二京浜を越え、横須賀線・西大井駅に。そこから北東にのぼり大井町駅に。東海道線を越えた川筋は線路に沿って南にくだる。しばらく進むと、開渠になっている、ように地図では見える。近いうちに一度歩いてみよう。

円融寺

散歩に戻る。立会川緑道を東に少し進むと少し北に円融寺。まことに立派なお寺さん。平安初期というから9世紀の中頃、天台宗の高僧・慈覚大師がこの地にお寺を建てる。当時は法服寺と呼ばれた。その後13世紀の後半に日源上人によって日蓮宗に改宗。法華寺となる。
世田谷城主吉良氏の庇護も受け大寺院に。が、日蓮宗以外の人からの供物を受けない、施しもしない、といった「不受不施」の教義のため、徳川幕府と対立。弾圧を受け元禄11年(1698年)に取り潰しにあう。再び天台宗の寺となり、名前も円融寺、と。境内には室町初期の建立といわれる釈迦堂が。品がいい。国の重要文化財。大いに納得。久しぶりに美しい建物を見た。また、山門の黒仁王さまも、江戸時代、「碑文谷の黒仁王」として多くの参詣者を集めた、と。

正泉寺
円融寺を離れ、少し東に。正泉寺。浄土宗のお寺さん。戦国時代に千葉に建てられたのがこのお寺のはじまり。その後、移転を繰り返し、明治になり港区の三田からこの地に移る。式亭三馬や羽倉簡堂のお墓が。式亭三馬は江戸の戯作者。「浮世風呂」で名高い。羽倉簡堂は江戸後期の儒学者。天保の改革を推進した水野忠邦に重用される。

法界塚と鬼子母神堂
正泉寺を出て、東に進む。少し大きな通りを北に進む。不規則な5差路。そのうちひとつは弧を描いて進む。交差点の少し北、平和通商店街の端に法界塚と鬼子母神堂。昔は樹木生い茂る一帯だったのだろうが、今は、道路脇に少々寂しげに佇む。法界塚は経塚なのか古墳跡なのか定かならず。少し戻り、弧を描く道を北に進む。いかにも川筋といった雰囲気。先に清水池公園がある。ということは、この道は立会川の支流・清水池からの川筋ではなかろうか、と。

清水池公園
清水池公園。1699平方メートルの池。区内唯一の釣堀がある公園ということで、多くの釣り人で賑わっている。目黒区では、目黒台と呼ばれる平坦な台地を浅く刻む支谷の谷頭部(谷の先端)には湧水点が多い。清水池もそのひとつ。立会川の源流でもあり、今から進む羅漢寺川の源流でもある。

品川用水
道を東に。目黒通りから武蔵小山駅方面に向かう補助26号線にあたる。このあたりには「品川用水」も交差している。品川用水は、武蔵野市で玉川上水を分流し、品川領戸越あたりまで流れている。そのうち流路をチェックして歩いてみよう。全長7里半というから、結構大変そうではある。

羅漢寺川緑道
補助26号線を越えたあたりから「羅漢寺川緑道」がはじまる。羅漢寺川は先ほどメモしたように、清水池からはじまり目黒川に合流する目黒川水系の支流のひとつ。羅漢寺川の下る道筋は人ひとり歩けるか、どうかといった細路。

林試の森

少し進むと道の南に「林試の森」。目黒と品川にまたがる都立公園。もとは国の林業試験場。時間があれば公園内を歩きたいのだが、如何せん時間切れ。日暮れが近い。

目黒不動商店街
緑道を進む。道の北には昔、「目黒競馬場」があった、とか。緑道が「林試の森」から離れるあたり、南は「石古坂」、北には「三折坂」。南に進み石古坂の手前を東に進む。目黒不動商店街。




蛸薬師
少し進んだところに成就院。通称「蛸薬師」。慈覚大師の創建。本尊は薬師如来。蓮華座の三匹の蛸が支えている。ために、「蛸薬師」と。何故ゆえに蛸?慈覚大師が中国から帰朝の途中、嵐を鎮めるべく薬師を海中に。が、その薬師が蛸に連れられて漂着した、とか。境内には二代将軍・秀忠の側室・お静の方に由来する「お静地蔵」が。お静の方はあの名君保科正之の母。信州高遠藩3万石の藩主からはじまり、会津23万石の藩主までに。わが子の栄達を祈ったお静の方が大願成就のお礼に奉納したのが「お静地蔵」。保科正之を主人公にした中村彰彦さんの『名君の碑』、また読み返してみようか、な。

五百羅漢寺

さてこの先は。目黒不動は先回の散歩で訪れた。で、今回の目的地である五百羅漢寺に。成就院前の道を北に。目黒不動の東端といったところに五百羅漢寺。予想に大きく反して近代的ビル、といった有様。もっともすでに開館時間は過ぎており、外から眺めるのみ。
このお寺、もとは本所五つ目、というから、現在の江東区大島3丁目にあったもの。江戸・元禄時代、松雲禅師が開山。もとは仏師。出家後、大分耶馬溪の五百羅漢に触発され羅漢像の制作に没頭。10年の歳月をかけ530余体の羅漢像を作り上げる。幕府の庇護もあり、本所に寺が創建。が、明治に入って寺は荒廃。明治41年この地に移る。こんど、開いている時間に、訪れるべし。

海福寺

五百羅漢寺の隣に海福寺。開山は隠元禅師。「インゲン豆」にその名を留める。もとは、深川に。が、明治43年水禍に遭い、この地に移る。山門が面白い。四脚の門。境内に永代橋の大惨事の供養等。文化4年(1807年)、深川・富岡八幡の祭礼に押し寄せた群衆の重みに耐えかね、永代橋が落ちる。多くの人が亡くなった、と、どこかでメモしたように思う。
インゲン豆は将軍・家綱の招きで来日した宇治・万福寺の開祖、隠元禅師が日本にもたらす。インゲン豆はもともとは中南米が原産地。インディオが食べていたものだが、大航海時代にトウモロコシやカボチャなどとおなじく欧州に伝わり、その後アジアにも広まった、もの。

蟠竜寺(ばんりゅうじ)

東に進み山手通り。少し北に進むと通りから少々奥まったところに蟠竜寺(ばんりゅうじ)。山手七福神のひとつ・「岩屋の弁財天」がまつられている。また、境内には「おしろい地蔵」が。江戸の頃、お地蔵さんの顔におしろいを塗り、残りを自分の顔につけると美人になると評判をとる。現在は戦火に見舞われ少々崩れてまってはいる。


JR目黒駅
今回の最大の目的であった五百羅漢は時間切れで見ることはできなかった。次回ということにして、山手通りを進み、目黒通りを渡り、太鼓橋、行人坂、と、先回の散歩と同じ道を戻り、JR目黒駅に。一路帰路につく。
今になってきになることが出てきた。羅漢寺川という川。五百羅漢寺がこの地に移ってきたのは明治。ということは、それ以前はどんな名前の川だったのだろう。五百羅漢寺がこの地に移る前に。それっぽい名前の川があるとも思えない。そのうちに調べておこう。
参考資料;『みどりの散歩道 コースガイド』


目黒散歩を終え、品川に移る。とはいいながら、品川については、「品川宿」以外、これと言ったランドマークが思い浮かばない。ということで例によって、郷土歴史館に行き、あれこれ資料を求めることからはじめる。(木曜日, 8月 24, 2006のブログを修正)



本日のルート;JR大井町駅>作守稲荷神社>西光寺>光福寺>品川歴史館>来迎院>太井の水神>鹿島神社>大森貝塚碑>JR東海道線>「南大井」>京急>大 経寺>鈴ケ森遺跡>旧東海道>天祖諏訪神社・厳島神社>浜川砲台跡>土佐藩下屋敷跡>鮫洲八幡神社>海あん寺>海雲寺>品川寺>天妙国寺>荏原神社>品川宿本陣跡>京急・北品川駅>品川神社>ゼームス坂>JR大井町駅

JR大井町下車
Jr大井町下車。大井6丁目にある郷土歴史館に。正確には品川区品川歴史館。線路に沿って南に進む。大井西銀座を通り、JR大井陸橋西詰の大井三又交差点に。

作守稲荷

道路脇にある道案内をチェック。歴史館への道筋に作守稲荷、西光寺、光福寺などが。大井4丁目には作守稲荷。もともと薩摩藩抱屋敷内にあった屋敷神。慶応年間(1865-1868年)、この抱屋敷跡を島津家から譲り受けた太井村の平林九兵衛が、稲荷社のあたりを開墾。作物を守る、ってことから「作守」となったのだろう、か。西光寺は鎌倉時代の創建と伝えられる。

光福寺
大井6丁目には光福寺。創建は奈良時代末期。境内の大イチョウが名高い。明治までは江戸湾の漁師の目印にもなっていた、とか。後でわかったのだが、境内に横穴式の井戸。このお寺を開いた上人さまの産湯の井戸、との伝えあり。その井戸の名前が「大井」。地名・大井の由来、とか。
とはいうものの、平安時代後期の12世紀の前半には、大井氏とその一族の品河氏が現在の品川区域を支配し、源平の争乱を経て鎌倉幕府の御家人となった、という記録もあるわけで、「大井」の由来も諸説あり。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)


品川歴史館
品川歴史館。『品川歴史館常設展示ガイド』『しながわ史跡めぐり』『品川用水』『品川区史跡めぐりマップ』などの資料を買い求める。資料をもとに本日のルートを検討。目黒散歩で出会った立会川、品川用水跡巡りのルートはほぼ「掴んだ」。あれこれ考えたが、結局は、「品川といえば品川宿でしょう」、ということで、歴史館から品川宿方面への散歩に決定。

来迎院
品川宿って、JR品川駅あたりか、と勝手に思っていたのだが、実際は京浜急行・北品川駅から青物横丁あたり。歴史館を離れ散歩にスタート。
歴史館のすぐ横に台地を下る坂。坂の途中に来迎院(大井6丁目)。平安中期の創建。将軍の御鷹場であった大井・大森での鷹狩の折り、将軍家光がこの寺を休息所とした、と。

大井の水神
坂を下る。JRの線路を越えてすぐのところに「大井の水神」。水が威勢良く「湧き出て」いる。が、現在はポンプでの汲みあげ。江戸時代には、ここに地下水が自然に湧き出ていた。地元の人たちは湧水を「水神」としてまつり、九頭龍権現社として祠をたてる。社の傍に柳があったことから「柳の清水」とも。
品川の地は目黒川、立会川の流域以外は丘陵地。水利に恵まれてはいない。で、この大井の水神のように、台地の切れる崖地から湧き出る湧水を大切に思い、「水神」さまとして祀ったわけだ。ここ以外には西大井3丁目の「大井・原の水神池」などがある。

鹿島神社

下った坂を再び上る。台地上、というか、先ほど訪れた来迎院の東に鹿島神社。西暦969年、南品川の常行寺の僧が鹿島神宮を勧請したのがはじまり。なぜ品川の地に鹿島か、ということだが、この品川湊って、中世には全日本的規模の海上交通の要衝であったわけで、紀伊半島や東海地方から太平洋を渡ってくる航路と、旧利根川・常陸川水系を通って銚子沖から東北地方に通じる航路を結ぶ重要な湊であった。
鹿島神宮って、茨城県鹿嶋市にある。鹿島神宮の祭祀圏、というか鹿島神宮を崇める人たちが、この品川湊で活発に活動していたのであろう。
境内に品川用水を記念する「恵澤潤洽の碑(けいたくじゅんごう)」。品川用水は、玉川上水からの分水の一つ。正確には玉川上水の分水である仙川用水から分けて作られた。目黒から品川にかけては台地が多く、水田はごく僅かであった。が、この用水によって水田開発が進む。当初82石あまりだったものが開通後121石に増えた、とか。その用水も、明治以降の都市化による水田の廃止にともない役割を終えていった。この碑は品川用水が人々の生活に貢献したことを讃 えるためにつくられた。

大森貝塚碑
鹿島神社を離れ台地上の道を大森方面に進む。大田区との境に「大森遺跡庭園」。入口を進み、JR線路のすぐ脇に「大森貝塚碑」。明治10年、米国人エドワード・モース博士によって発見された貝塚跡。東京大学の教授として、貝類の研究目的で来日し、横浜に上陸。翌々日、東京に向かう汽車の窓から線路脇の切通しに露出する貝殻を見かける。貝塚と見抜き、発掘調査。日本で最初の学術的発掘調査。日本考古学発祥の地でもある。

鈴ケ森刑場跡
公園の北の道を東に進む。JRをくぐり南大井の町を東に一直線に歩く。京浜急行を越えると「鈴ケ森刑場跡」。先日訪れた「小塚原刑場」とならぶ江戸期の処刑場跡。刑場跡のすぐ西を旧東海道が通る。東海道に面したこの刑場は間口80m弱。奥行き17m弱といったところ。予想よりこじんまりしている。
最初に処刑されたのは由井正雪の乱の丸橋忠弥とも言われる。慶安4年(1651年)に開設。明治4年(1871年)に廃止されるまでに、白井権八、天一坊、八百屋お七などがここで露と消えている。
白井権八って、目黒散歩のとき、目黒不動の門前の「比翼塚」で出会った。白井権八は芝居・浄瑠璃での名前。本名は平井権八。鳥取藩士。父の同僚を殺害し江戸に逐電。吉原の遊女・小紫と馴染みになり、金に困って人を殺める。舞台は隅田散歩で歩いた「日本堤」。逃亡、改心、そして自首、そして刑死。吉原を抜け出した小紫は、墓前で後追い心中。ふたりを哀れんで建てられたのが「比翼塚」。天一坊は将軍吉宗公の御落胤をかたる。
八百屋お七。火事で避難したお寺の小姓・吉三郎をみそめたお七は、火事が起これば恋しい吉さんに会える、との思いから放火・刑死。ちなみに、鈴ケ原の名前の由来は、大井村の隣、大田区の不入斗(いりやまず)村にあった鈴森(すすがもり)八幡宮(現在は、盤井神社)から。この神社に鈴石があり、「鈴石のある社の森」ということから。

旧東海道

旧東海道を北に進む。実のところ、旧東海道がここにあるとは思ってもみなかった。品川宿の散歩、と思っていたのだが、奇しくも品川宿と旧東海道を合わせて歩けることとなった。

浜川神社
少し進む。浜川神社。もとは修験者・了善がまつった「疫神大明神」。この了善、天保年間(1830-1844年)、将軍家斉の病気平癒を祈願し,効あり。と いうことで、大奥に信を得た。が、悪名高い、と言われている、南町奉行・鳥居忠耀に嫌われ、将軍呪詛の濡れ衣を着せられ三宅島に遠島処分。忠耀失脚後、許されるも了善は既に無く、その孫が再建。明治になって「浜川神社」となる。

立会川と交差
南大井1丁目を進む。立会川と交差。ここが立会川のほぼ河口。源流点からここまでの流路は掴んだ。次の機会にこの川筋を歩く、べし。川の手前に「天祖諏訪神社」。境内には「厳島神社」も。「天 祖」神社はもと、「神明社」。伊勢神宮を勧請。「諏訪」神社は信州諏訪大社を勧請。昔は、立会川を挟んで、あったらしいが、昭和40年、天祖神社のあった現在の地に合祀された。

泪橋
旧東海道に浜川橋がかかる。この橋、別名「泪橋」。ここから少し西にある「鈴ケ森刑場」に送られる家族を、この橋で泪ながらに見送った、というのがその名の由来。

土佐高知藩山内家下屋敷・抱屋敷跡

立会川を越え、東大井2丁目を歩く。このあたりは土佐高知藩山内家下屋敷・抱屋敷跡。抱屋敷って幕府からの拝領地ではなく私有地。この抱屋敷は揚場、って言うから、倉庫といったところか。15代藩主・山内豊信(容堂)候が安政の大獄に連座し隠居・謹慎したのはこの下屋敷。また、抱屋敷にはペリー来航に臨み、 嘉永6年(1853年)砲台がつくられる。浜川砲台がそれ。江戸で剣の修行中の龍馬もペリー来航に対する土佐藩下屋敷警護のため、この地に集められた、とか。

鮫洲八幡神社
東大井1丁目に進む。京急・鮫洲駅近くに「鮫洲八幡神社」。かつての「御林猟師町」の鎮守さま。この「猟師」って表記、昔は「漁師」の意味で使われていた、とは深川あたりの散歩のときにメモした。御林ってことは、幕府のもつ雑木林を切り開いて作られた土地、ということ。隣の品川浦とともに、江戸城に鮮魚を納める「御菜肴(おさいさかな)八ケ浦」として発展した。
鮫洲の「鮫」って、熊野三党、つまりは鈴木・榎本・宇井氏の紋章。「鮫の牙」をデザインしている。品川湊には鈴木道胤や榎本道琳といった熊野出身の有力者・有徳人が活躍している。鮫洲の名前も、熊野とのつながりでできたものだろう、と思う。

海雲寺

南品川3丁目に進む。京急・青物横丁の近くに海雲寺。鎌倉時代中ごろの創建。「品川の荒神様」と呼ばれる。境内の雰囲気は少々寂しい。境内に「平蔵地蔵」。武士の落とした財布を届けた貧しき平蔵。仲間に詰問され、撲殺。それを聞き及んだ、その武士が菩提をとむらうべくつくったお地蔵さん。いまひとつ、言わんとするところがよくわからない。青物横丁とは、江戸時代、この地に青物(野菜・山菜)の市がたった、から。

海晏寺(かいあん)
京浜急行の西、第一京浜・国道15号線の向こうに海晏寺(かいあん)。鎌倉時代の建長3年(1251年)、執権・北条時頼が鎌倉・建長寺の蘭渓道隆を迎え開 山。岩倉具視が眠る。とはいうものの、横断歩道は近くになく、国道を隔てて眺めるのみ。あとでわかったのだが、一般参拝はできなかったよう。

品川寺

品川寺。読みは「ほんせんじ」。平安時代の開創。本尊水月観音像は、この地を訪れた弘法大師が領主・品河氏に与えたもの、とか、太田道潅の持仏であったとか、いろいろ。
境内にちょっと大きなお地蔵様。江戸六地蔵のひとつ。江戸の入口・六箇所につくられたもので、この地のほかには浅草、新宿、巣鴨、深川に2箇所あった、という。
ところで、品河氏って、この地に12世紀に登場した在地領主・大井実直(さねよし)の一族。実直の子実春は大井郷を相続、弟の清実(きよざね)は品川郷を相続し品河氏と名乗る。ともに源氏の御家人として平氏と戦い、その軍功により大井氏は伊勢・薩摩、品河氏は伊勢・近江・和泉・陸奥・紀伊にも所領を得る。大井氏は14世紀には北条氏によりこの地の支配権を失う。また、品河氏も15世紀の初めには鎌倉公方より所領を没収され、両氏の支配は幕を閉じる。

天妙国寺
「ジュネーブ平和通」を越える。仙台坂からの通りが第一京浜、京浜急行を越え東に進むこの道筋を過ぎると、旧街道の西に「天妙国寺」。鎌倉時代に日蓮の直弟子・ 天目上人が開山。15世紀の半ばには、品川湊の有徳人・鈴木道胤親子が17年の歳月をかけ七堂伽藍を建設。戦国時代の北条氏の庇護も受ける。合戦に際しても、この寺での「乱暴狼藉を禁ずる」高札を出していたほど。家康も江戸入府の折に、この寺に宿泊。翌年には10石の寺領を受けた。広大な寺域を誇るお寺様、であった。
ジュネーブ平和通、って、ジュネーブ市と姉妹町にでもなっているのだろう。また、仙台坂って、このあたりに仙台藩・伊達家の下屋敷があった、から。

長徳寺

先に進むと長徳寺。室町中期の創建。本堂左に閻魔堂。「南品川のおえんまさま」として信仰を集める。常行寺は平安時代の創建。長保年間(999-1004 年)には武蔵・相模で末寺500を数える大寺、であった、とか。先ほどメモしたように、鹿島神社を勧請したのがこのお寺の上人さまであった、よう。
心海寺、本覚寺海徳寺と道筋に寺院が続く。江戸時代後期には品川宿に25ものお寺があった。そのうち江戸以前からのお寺が23。中世からこのあたりが湊として開けていたことがわかる。
目黒川を渡り荏原神社
目黒川を渡る。荏原神社。南品川宿の鎮守さま。「南の天王様」と呼ばれる。創建は和銅2年というから西暦709年。平安時代・康平5年(1062年)、源頼義、義家親子が奥州安倍氏追討の折、府中の大国魂神社とこの神社に参詣、品川の海で身を清めたとか。大国魂神社で5月のお祭りに品川沖の海上で潮を汲むのは、この故事によるのだろう。住所は北品川だが、これは目黒川の改修工事により、神社の南を流れるようになった、ため。昔は目黒川を境に、北品川・南品川と地名が分けられていた。

品川本陣跡
街道から少し東に入り、山手通りの脇に「品川本陣跡」。北品川宿の本陣。本陣とはもともとは、戦場での司令部といったものだが、参勤交代の制度が整うにつれ、宿場での大名の定宿のことを指すようになる。もとは北と南に本陣があった。が、南品川宿の本陣は早くにすたれ、この北品川宿のみ、となった。明治維新には京都から江戸に向かった明治天皇の宿舎・行在所としても使われた。




寄木神社山手通りを隔てて南に寄木神社。江戸期には寄木明神社と呼ばれていた。日本武尊(やまとたける)をまつる。海上を上総に渡る日本武尊。海が大荒れ。妃弟橘姫命が海神の怒りを鎮めるべく海に身を投げ、難を逃れる。このときの船の一部、一説には姫の衣類が品川沖に流れ着く。漁師が拾って祀ったのがはじまり、とか。日本武尊、弟橘姫命の話も散歩のときによく現れる。「あずま(吾妻)はや」のあの歌とともに。

一心寺
先に進む。一心寺。安政 2年(1855)、大老・井伊直弼の「品川宿にて鎮護日本・開国条約を願え」との啓示を受け、町民の手によって建立された。法禅寺。南北朝時代、法然上人が奥州にいる弟子に、自ら彫った仏像を陰陽師を使いに奥州に。が、この地でその像が動かなくなる。
で、草庵を建てて安置した、とか。いやはやお寺が多い、こと


土蔵相模跡

京浜急行・北品川駅近くに土蔵相模跡。歩行新宿(かちしんじゅく)にあった食売旅籠屋(めしうりはたご)。外壁が土蔵のような海鼠(なまこ)壁であったため土蔵相模、と。幕末には品川御殿山のイギリス公使館建設に反対する、攘夷論者の高杉晋作・久坂玄瑞らがこの宿 で密談し、公使館焼き討ちを実行した。1977年取り壊し。歩行新宿って現在の北品川1丁目のあたりを指す。

問答河岸跡
すぐ先に問答河岸跡。北品川にあった荷揚げ場。3代将軍家光が東光寺を訪れたとき、沢庵和尚が出迎え、問答をしたことからこの名が。『徳川実記』;将軍曰く「海近うしても東(遠)海寺とはいかに」。沢庵応えて曰く「なお大君にして将(小)軍と称し奉るがごとし」、と。東海寺は三代将軍家光が沢庵和尚のために建てた寺。創建時は上野寛永寺、芝増上寺に次ぐ名刹であったが、現在
はいくつかの堂宇を残すのみ。山手通りが第一京浜と合流するあたり、目黒川沿いにある。

八ツ山橋
八ツ山橋。八ツ山は、北品川の北端。武蔵野台地の突端。昔はこのあたりには海に突き出た岬が八つあった、から。八ツ山橋はふたつ、ある。北側の橋は京浜急行と旧東海道がとおる八ツ山橋。南側が第一京浜の通る新八ツ山橋。八ツ山橋は日本で最初の鉄道陸橋。もちろん何度か架け替えられている。ここで品川宿が終わる。

品川宿
品川宿のことをまとめておく。品川宿って、宿場の中心は京浜急行・北品川駅から青物横丁駅あたりまで。目黒川を境に北品川宿と南品川宿に別れていた。が、宿場の北に、高輪寄りに無許可の茶屋が軒を連ねるようになったため、この新町をまとめて歩行(かち)新宿とし、本来の北・南品川宿を「本宿」と呼ぶようになった。
町並みは高輪町境から大井村境までほぼ2キロ。天保14年(1843年)にはおよそ7000人が住んでいた。商人では食売旅籠屋がもっとも多く92軒、水茶屋64軒、古着屋・古道具屋がおなじく64軒、荒物屋59軒、煮売屋44軒、質屋40軒、酒屋32軒、。。。と続く。職人は大工が46人、左官14人、髪結い12人、桶屋10人。。。、と。なんとなく往時の風景が目に浮かぶよう。

品川神社
あ とは大井町駅に引き返す。第一京浜を南
に下る。品川神社。北品川宿と歩行新宿の鎮守。鎌倉時代、源頼朝が安房の洲崎大明神を勧請。徳川幕府からの庇護も篤く、南品川・荏原神社(貴布禰神社:きふね)とあわせて5石の朱印を受けている。結構なつくりの神社。小高い台地に立ち品川宿、というか往時の品川湊を見守っていたのであろうか。安房の洲崎神社って千葉県館山にある古社。石橋山の合戦に破れ安房に逃れた頼朝が勝利を祈願し参詣した神社。頼朝の妻政子の安産祈願も。そこからのつながりなの、だろうか。また、太田道潅も、安房の洲崎神社の分霊を勧請し神田明神を建てた、って説もある。真偽の程定かならねども、 由緒ある神社であった、ような。

ゼームス坂
目黒川を渡り第一京浜を西に折れゼームス坂に。坂の名前はJ.M.ゼームス氏に由来。 幕末にジャー
ディン・マディソン商会の社員として来日。明治には海軍省に入り測量調査や航海術の指導をおこなった人物。ジャーディン・マディソン商会って、幕末によく顔を出す。イギリスの専門商社。

高村智恵子記念詩碑
坂の途中に高村智恵子記念詩碑。『智恵子抄』の高村光太郎の妻・
智恵子の入院した病院があった。ゆったりとした坂をのぼり、駅前商店街を歩きJR大井駅に。本日の予定終了。次回は立会川、そして品川用水を巡ろう、と思う。

目黒区を歩いていたとき、立会川の川跡、そして品川用水跡に出会った。立会川って、前々から気になっていたのだが、川筋がよくわからなかった。品川のこのあたりの地形についての説明には、「目黒川と立会川の」といった風にペアで書かれることが多い。立会川の源流を目黒で「掴んだ」。
また、先回の散歩で河口付近、京浜急行「立会川」駅に出会った。源流点と河口が分かったわけなので、途中の流路は、とチェック。JR大井町駅から東急目黒線・西小山駅あた りまで「立会道路」が続いている。これが、流路であろう、ということで、今回は「立会川」散歩に向かう。ついでのこと、というわけでもないけれど、目黒区散歩のとき、「林試の森」のあたりで出会った「品川用水跡」も辿る。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)





本日のルート;

①立会川:京急立会川>天祖諏訪神社>旧東海道>土佐藩抱屋敷跡・浜川砲台跡>立会川>立会道路>島津藩抱屋敷>JR大井町駅>立会道路>「二葉町・大井町」>西大井広場公園>JR横須賀線・西大井駅>「二葉町・西大井町」>第二京浜・国道1号線>中延>東急大井町線・荏原町>「旗の台町」>東急池上線・旗の台付近>中原街道>「旗の台・荏原町」>東急目黒線・西小山駅>目黒区・原町>立会川緑道

②品川用水;補助26号線・小山台2丁目>お猿橋庚申堂>東急目黒線・武蔵小山駅>小山2丁目・朝日地蔵堂>「荏原町」>中原街道・平塚橋交差点>「平塚町」>第二京浜・国道1号線>「戸越町」>戸越公園手前を南>東急大井町線。戸越公園駅>「豊町」>JR横須賀線>「二葉町」>東急大井町線・下神明駅>「しながわ中央公園」>西品川1丁目>JR横須賀線>西品川2丁目・3丁目>百反坂>JR大崎駅

京急・立会川駅
京急・立会川駅で下車。駅前には少々昭和初期の雰囲気をかもし出す商店街。駅前の地図で周辺を確認。立会川は駅のすぐ南を流れる。商店街を少し東に進むと旧東海道。先回歩いたところ。旧東海道にかかる浜川橋に再び向かう。別名「泪橋」からあたりを眺め、商店街に戻り北に進む。ちょうど夏祭り。お神輿が進む。 立会川のすぐ南にある「天祖諏訪神社」の祭礼、とか。
商店街を進む。商店街、というよりも、なんといいましょうか、下町の路地裏、といった雰囲気ではある。いい感じ。で、「坂本龍馬」の幟が商店街にひらめいている。このあたりは、というか、さきほどの旧東海道のあたりなのだが、先回メモしたように昔は土佐高知藩山内家下屋敷・抱屋敷跡。抱屋敷にはペリー来航に臨み、嘉永6年(1853年)砲台がつくられる。浜川砲台がそれ。で、龍馬、嘉永6年のこの頃は江戸で剣の修行中。ペリー来航に対する土佐藩下屋敷警護のために、土佐藩士はこの地に集められる。龍馬もそのひとり。龍馬の志士としての活躍は、この地からはじまった、ということか。

立会川・立会道路
第一京浜(国道15号線)を越え、これもつつましやかな商店街を進む。商店街が切れるあたりで、少し脇に折れ、「立会道路」に。川筋に「立会川導水」の案内。JR東京駅の総武線のあたりの地下水をここまで運び、河川の汚れを防ぐ、と。散歩をしていると、川のところどころでこういった導水計画に出会う。呑川の上大岡あたりには高田馬場近くの落合の下水処理場から「高度処理水」が送られてききていたし、同じく呑川の下流部には馬込あたりの地下鉄工事の際の地下水が送られてきている。川、って、そんなもんだったっけ。

月見橋で暗渠に
河口部から開渠だった立会川は、この導水が流れ出す「月見橋」あたりで暗渠となる。石畳っぽい雰囲気でつくられた散歩道・「立会道路」をJRの線路に沿って進む。
旧薩摩鹿児島藩島津家抱屋敷跡の案内。東大井6丁目から東海道線を越えた大井4丁目をカバーする広大な敷地。安政3年(1856年)、島津斉彬の父である、島津斉興(なりおき)がこの抱屋敷で隠居生活を送っていた、と。

見晴らし通り

一筋東に「見晴らし通り」。名前に惹かれてちょっと寄り道。建物が多く、見晴らすことはできなかった。が、通りの両端には南に「ヘルマン坂」、北に「仙台坂」といった坂の名前が見える。ゆるやかな台地ではあったのであろう。カシミールでチェックすると、台地部分は標高15m程度。台地下とは5mから10m程度の標高差があるよう。

JRとの交差・大井陸橋
Jrとの交差・大井陸橋に。川筋跡は大井駅の南端まで続く。道を進み川筋がJRと交差するところで線路に沿って北に進む。JR大井町駅の通路を越え、駅の西側出る。周りを
見渡すと北西方向に緑が。そのあたりが「立会道路」の続きであろう、とあたりをつけて進む。中央に緑道。左右に車道が通る。看板に「立会道路」と表示。先に進む。

JR横須賀線・西大井駅
大井と二葉地区の境を進む。西大井広場公園を越えるとJR横須賀線・西大井駅。駅を越え、二葉と西大井の境を進む。緑道はなくなり、普通の道路。今年最高の猛暑の中、日蔭が恋しい。

中延
第二京浜・国道1号線を越える。中延に入ると、ふたたび緑道、っぽくなる。近くに「源氏前小学校」とか「源氏前図書館」。このあたりは源氏にゆかりのところ、か?中延の横に「旗の台」もあるし、例によって「源の何某」がこのあたりで戦勝を祈願し、旗を立てた、って故事などあるのだろうな、と想像。

旗岡八幡神社

緑道を進み、東急大井町線・荏原町駅を「くぐり」進む。「旗岡八幡神社」。13
世紀、この地の領主・荏原左衛門義宗が、曽祖父と言われる源頼信から受け継いだ八幡様をまつったのがはじまり。旗岡とか旗の台の地名も、この源頼信が下総の平忠常の乱を平定に赴く際、このあたりの台地に陣を張り源氏の白旗を立てて戦勝を祈願した、から、と。想像通り。源氏前って名前はこの八幡様の前といったところか。tなみに、中延の由
来。荏原郷の中心に広がる(延びる)といった意味、かも。中原街道とか池上道が延びているところでもあるし、結構納得。

東急池上線・旗の台駅を越え中原街道と交差
大井町の駅 から弧を描くように西に進んだ「立会道路」は、この荏原町駅を越えたあたりから今度は北西に弧を描くように進む。東急池上線・旗の台駅を越えるとすぐに中原街道と交差。昭和大学病院横の緑道・立会道路を進む。荏原5丁目、小山5丁目を越え、東急目黒線・西小山を過ぎるとそこは目黒区・原町1丁目。立会道路もこのあたりで終了。その先は立会川緑道となる。

ここから少し進むと、碑文谷八幡から続く東に続く目黒区の立会川緑道と交差。これで「襷」がつながった。
立会川の名前だが、戦国時代に上杉と小田原・北条が、この川を挟んで合戦をした、「太刀合った」から、とか、この近辺に野菜の市が立ったから、とかこれも例によっていろいろ。
河口の立会川駅からほぼ6キロ弱といった立会川巡りは終える。2時間程度で歩き終えた。日暮れまでにはまだ十分時間もある。予定通り林試の森近くの品川用水の品川ルートを歩こう、と思う。



より大きな地図で 立会川と品川用水 を表示 (品川用水跡)

品川区・小山台2丁目
碑文谷八幡から東に進む立会川緑道が、南に流れを変えところ、丁度向原小学校のところから、真北に進む。補助26号線と交差。清水池から東に進む道路が補助26号と交差するあたりでもある。このあたりは品川区・小山台2丁目。品川区が目黒区に三角形に刺さっている、感じ。品川用水の品川区での始点でもある。
品川用水のメモ;旱魃に悩まされていた品川領2宿7カ村が、幕府に願い出て寛文9年(1669年)に完成した農業用水路。水源は玉川上水。境村(現在の三鷹市境3丁目)で分水され、三鷹市、世田谷区、目黒区を通り、小山台1丁目で品川区に入る。用水は小山台2丁目(地蔵の辻)で二股に別れ、左手は百反坂方面に下り、桐ヶ谷、居木橋へ。右手は戸越から大井村までの田畑の灌漑に供していた。大正から昭和には急激に都市化が進み、排水路と変わり現在では道路や下水道となっている。

小山台小学校近くにお猿橋庚申堂

品川区と目黒区の境を進む。これって品川用水の水路跡、だろう。品川区小山台小 学校を少し進んだところに「お猿橋庚申堂」。延宝2年(1674年)につくられたもの。案内によれば、品川用水に沿って北上する碑文谷道のほとり、お猿橋付近に立てられていた、とか。元の位置より少し目黒方面に移されている。

朝日地蔵堂

商店街を進み、東急目黒線・武蔵小山駅付近で線路を渡る。少し進むと朝日地蔵堂。スーパーマーケットの脇に、それでもきちんと手入れよく、立っている。江戸時代初期、戸越村の念仏講によって造立。「朝日」の名前の由来は、世田谷区奥沢の九品仏・浄真寺の上人が、修行のため毎日夜明け前に寺を出て、芝の増上寺まで通っていたのだが、このあたりで夜が明け、朝日がのぼったので、と。地蔵の辻とも呼ばれる。
辻の橋で用水は分岐
用水はこの辻の橋でおおきく二つに分かれる。ひとつは、上にメモしたように、ここから東に進み中原街道と交差、百反通りを下り、JRが目黒川と交差するあたり・「寄木橋」方面に進む。もう一方は南に進路を変え、ほぼ一直線に補助26号と中原街道との交差点に向かう。今回は南へのルートを歩く。

戸越屋敷
中原街道へ交差の途中に「旧讃岐丸亀藩・京極家抱屋敷跡。「戸越屋敷」とも呼ばれ、ここから上屋敷に野菜や薪を供給していた、と。ために、地元とのつながりも強く、明治維新後も屋敷内にあった「稲荷神社」は大切にまつられ、現在も「京極稲荷神社」として残っている。

中原街道と交差

中原街道と交差。中原街道は江戸城と中原御殿を結ぶ道。中原御殿は平塚中原(現在の平塚市御殿)に。中原街道の始点は、もとは桜田御門。江戸城の拡張にともなり、虎御門、のちの虎ノ門が始点となる。虎ノ門とか桜田御門って、丸亀藩・京極家の上屋敷のあったあたり。虎ノ門交差点のところにある「金毘羅神宮」は京極家の屋敷神、のはず。丸亀藩・京極家抱屋敷>中原街道>丸亀藩・京極家・上屋敷、と思いがけない「襷」がつながった。

平塚橋
中原街道との交差点は平塚橋と呼ばれる。品川用水と旧中原街道の交差するところにかけられていた橋の名前。平塚の地名は、新羅三郎・源義光の墓と伝えられる「平たい塚」があった、から。平安時代中期、奥州での清原氏の内紛・後三年の役の平定の帰り、新羅三郎・がこの地に野営した、と。平塚橋から南東に下る。戸越地区。戸越の由来は、「江戸を越えてくる」といった説も。

戸越公園

第二京浜を越え、戸越公園につきあたる。戸越公園は旧熊本藩細川家抱屋敷跡。品川用水ももともとはこの抱屋敷の庭園に人工の滝をつくるために、といった説もある。先日あるいた本郷の千川用水も小石川御殿に上水を供給するために掘られたわけだし、あながち間違いでもない、かも。ちょっと公園も歩いてみたいのだが、少々時間もなくなってきた。気力も失せかけてきた。で川筋跡に沿って公園手前を南に下る。

東急大井町線・戸越公園駅

東急大井町線・戸越公園駅近くを越える。川筋は半円を描くようにカーブする。川筋跡はよくわからない。が、豊町3丁目、四間通りを越え南東に下り、豊町4丁目あたりで反転し北東に上り、JR横須賀線と東急大井町線が交差する下神明駅辺りまでのぼっている、よう。
下神明って、結構ありがたい名前。近くに下神明天祖神社。これが名前の由来か、と思った。が現実は少々複雑。もとはこのあたり、上蛇窪(村)、下蛇窪(村)と呼ばれていた。が、新参者が「蛇も窪も暗い、じゃん」といったことで、ちかくにあった上神明天祖神社、下神明天祖神社の名前を取り、上神明町、下神明町に。蛇窪駅も戸越公園駅と。しかし、またまたの町域変更。北を豊町、南を二葉町、と。豊と二葉も、なんとなく「めでたそう」ということでつけられた、歴史もなにも無視した町名。で、下神明駅名が今に残るって按配。

JR東日本東京総合車両センター

川筋はここから「しながわ中央公園」のあたりを越え、西品川1丁目、三ツ通り木、妙光寺あたりまで北東にのぼり、広町2丁目のJR東日本東京総合車両センターの敷地内に進んでいる。その後は広町1丁目にから北に進み、三獄橋あたりで目黒川に合流する。
JR東日本東京総合車両センターの敷地手前で今回の散歩は終了。JR大崎駅に向かう。途中、台地を下る坂道に。百反坂。昔は階段状のなっており、「百段」、後に坂となり「百反」と。この百反坂は地蔵の辻で分岐したもうひとつの流路筋。百反通りから居木橋への流れをイメージしながら、駅に向かい本日の予定終了。

品川の地には東急が入り乱れて走っている

ちょっと気になったことがある。この品川の地には東急が入り乱れて走っている。池上線(五反田_蒲田)、大井町線(大井町_二子玉川)、目蒲線(目黒_蒲田)。 どうしてこの地帯に電車路線が込み合っているのか理由はよくわからない。想像ではあるが、池上本門寺とか御岳神社、目黒不動を結ぶことは当時のドル箱路線であったのだろう、か。それともうひとつの理由は、もともとが、別の会社であり、お客の多い地域を結ぶ競争を繰り返していた電鉄会社が、後にひとつになった、ということ、か。
池上線は、もとは池上電気鉄道。昭和9年に、のちに東急となる目黒蒲田電鉄に吸収されたわけだし、これって、当たらずといえ でも遠からず、って印象。池上電気鉄道は当初、大森から池上を経由、御岳山、洗足池、荏原を経て、目黒不動をかすめ省線の目黒駅に至るルートを想定していた。が、資金不足か何なのか、もたもたしているうちに目黒への路線は目黒蒲田電鉄に先を越された。大森への路線も用地買収が思うにまかせず、結局現在の路線となった、とか。
当初の計画では大井町線からはじめる計画を、目黒という交通の要衝を押さえるべく、目黒から蒲田への路線を展開した目黒蒲田電鉄って、後の東急。五島慶太の指揮のもと、戦前には京急、京王、小田急も吸収し「大東急」となった。時間ができたら、東急の歴史など調べるのも面白そう。

JR目黒駅って品川区にある

それからちょっと気がついたこと。JR目黒駅って品川区にある。この前の散歩にメモしたが、JR品川駅は港区にある。目黒駅のケースは目黒区の、というより、目黒不動への最寄り駅といった意味。元々は目黒川沿いに建設する予定が変更になった、ため品川区域に。目黒駅あたり、上大崎地区に不自然に延びる品川区域って、どういった事情でできたのが、ちょっと調べてみたい感じ。
JR品川駅が品川区にあるのは、品川宿の人々がSLの煤を嫌がった、ため。小 岩だったか新小岩だったかも、同じような事情で鉄路から離れた。足立区の花畑あたりも列車の騒音を嫌い、路線は竹ノ塚に。とはいうものの、鉄路による繁栄から残されたおかげでで、現在の旧東海道・品川宿があるわけで、足立の花畑地区の自然があるわけで、どちらがよかったかは、その時代によって評価の分かれるところ。衣食足っての現在は、竹ノ塚の喧騒より花畑の静けさは有り難いと思うのは、言うまでも無い。

都下稲城市と川崎市多摩区の境あたりを歩く。過日多摩丘陵の横山の道散歩のとき、途中の車窓から眺めたこのあたり、多摩川を渡ると迫り来る丘陵地帯が結構気になっていた。いつか歩こう、と思っていた。が、なんとなくきっかけがつかめない。と、思っていたところ、ふとしたきかっけである本を見つけた。仕事で一ツ橋大学に出かけたときに、国立・学園通りにある古本屋に立ち寄り『多摩丘陵の古城址;田中祥彦(有峰書店新社)』を手に入れた。稲田堤のあたりに小沢城址がある、とのこと。いいきっかけができた。行かずばなるまい、ということで京王稲田堤に降り立った。



本日のルート;京王稲田堤>府中街道>JR稲田堤駅入口を右折>(三沢川・国士舘大学裏あたりが源流点>黒川>鶴川街道に沿って稲城・稲城からは鶴川街道から離れて)>天宿橋>多摩自然遊歩道・小沢城址緑地の入口を確認>旧三沢川>指月橋>大谷橋>薬師堂>菅北浦緑地>法泉寺>子ノ神社>福昌寺>玉林寺>小沢城址緑地の入口>浅間山・小沢城址(高射砲探照灯・物見・浅間神社・鷹狩・)>寿福寺>フルーツパーク>菅仙谷3丁目>NTV生田スタジオ>多摩美ふれあいの森>多摩美公園>細山6丁目・細山5丁目>西生田小前交差点で右折>細山神明社>香林寺・五重塔>細山郷土資料館>千代ヶ丘2丁目・1丁目を経てもみじケ岡公園東側>万福寺>十二神社>新百合ヶ丘駅

京王稲田堤

駅前で案内地図チェック。駅前を走る府中街道を少し南に下り、三沢川の南にある薬師堂のあたりから始まり丘陵地帯を越え、小田急のよみうりランド駅に抜ける遊歩道がある。案内図には「小沢城址」のマークはない。が、途中寿福寺を通る。小沢城址は寿福寺の近く。遊歩道にそってあるけば小沢城址に行けるだろう。ということで、この案内図に沿って歩くことにした。

京王稲田堤駅は京王線の中では数少ない、川崎市に位置する駅。駅のある川崎市多摩区あたりの歴史は古い。奈良時代、大伴家持らの手によって編纂された 『万葉集』にも「多摩川」の名で登場するいくつかの歌がある。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)


稲田堤の由来
稲田堤の名前の稲田の由来:多摩川は暴れ川。洪水・氾濫により上流から土や砂を運び堆積されて肥沃な土地が生まれた。で、「稲毛米」という高品質な米が生産された。これが「稲田」の由来。また暴れ川の治水工事のゆえに堤防ができ。「稲田」+「堤」=稲田堤、ってわけ。稲田堤は昔、桜並木で有名であったようだ。が、いまはその面影はない。

三沢川
府中街道に沿って菅、菅稲田堤地区を少し下る。菅小学校を超えたあたりで三沢川と交差。鎌倉・室町の頃多摩川は多摩丘陵の山裾を流れていた。が、川筋が次第に北に移り、天正年間の大洪水により現在の流路に。で、このあたりにスゲが群生していたのが「菅」の由来。

三沢川筋を遡り丘陵地帯に向かう。地図で確認すると、三沢川は多摩横山の道散歩の時に目にした国士舘大学近くの黒川が源流点のよう。鶴川街道に沿って黒川駅、若葉台駅を経て京王稲城駅近くまで北東に走り、稲城からは東に向って稲田堤の近くで多摩川に合流する。

旧三沢川
ともあれ、川筋を丘陵方向に向かって西に歩く。川が丘陵に近づくところに「小沢城址緑地」の案内図。ラッキー。いつも上り口を探すのに苦労するのだが、今回はついている。上り口を確認し、気分も軽やかに薬師堂に向う。

指月橋
丘陵に沿った別の川筋・旧三沢川に沿って歩く。指月橋。義経・弁慶主従が頼朝の勘気を蒙り、奥州・藤原氏を頼って落ち行くとき、この地で月を眺めた、とか。

薬師堂

小沢城址とは別の丘陵・菅小谷緑地を越え、またもうひとつ東の丘陵の麓に薬師堂。稲毛三郎重成建立。毎年9月12日、魔除神事の獅子舞が行われる。東に更にもうひとつの丘陵。法泉寺、福昌寺、玉林寺がある。

子ノ神社
おまいりをすませ、東隣にある子ノ神社(ねのじんじゃ)に。名前に惹かれる。由来書は読んだが要点わからず;「菅村地主明神は大己貴神であるが、創立の年代不明。本地は十二面観音。薬師第一夜叉大将を習合し子ノ神と。保元の乱の白川殿夜討ちの折、鎮西八郎為朝が、左馬頭義朝に向けて放った矢を義朝のこどもが受け継ぎ参籠の折、地主明神に納め以降根之神と。新田義貞鎌倉攻めのとき社殿焼失。北条氏康により再興」、といった由来書。
根之(ねの)神社は南 関東から東海地方にかけて集中的に分布するローカルな神様。18人も子どもがいたという、子だくさんの神様である大己貴神=子ノ神と、神代の根之国の神様である根之神の関連などよくわからない。今度ちゃんとしらべておこう。ちなみに白川院は先日の京都散歩のとき、岡崎で偶然出会った。

小沢城址緑地への上り口

再び旧三沢川を西に、小沢城址緑地への上り口に戻る。丘陵に上る。尾根道が続く。案内板が。高射砲探照灯基地がこの地下あった、と。ここで首都圏場爆撃に来襲のB29を探照灯で捉え、登戸近くの枡形城のある丘陵地の高射砲が射撃した。
「物見台」の案内。江戸から秩父連峰まで関八州が見渡せたとか。「鷹の巣」の案内。家光公が鷹狩のみぎり、稲城の大丸、というからJR南武線・南多摩駅あたりからはじめ、夜はこの地の寿福寺とか、庄屋の屋敷に泊まる。で、鷹匠が泊まる屋敷を鷹の巣と。
「浅間神社」の案内。尾根道に一握りといった小さな石のお宮さま。これが浅間神社。富士山の守り神。富士山への民間信仰・富士講にでかける多摩の人々がこの尾根道を越えて菅村、そして調布、甲州街道を経て富士山に。道中の無事を祈ってつくられたものであろう。結構続く尾根道を歩き、城址に。

小沢城址

小沢城の案内が。「この地域は、江戸時代末から「城山」と言い伝えられ、新編武蔵風土記にも小沢小太郎の居城と記録されています。この小沢小太郎は、源頼朝の重臣として活躍した稲毛三郎重成の子でこの地域を支配していた人です。ここは、丘陵地形が天然の要害となり、鎌倉道や多摩川の広い低地や河原がそばにあったことから、
鎌倉時代から戦国時代にかけてたびたび合戦の舞台となりました。城の形跡として、空堀、物見台、馬場などと思われる物があり当時を偲ばせますが、現在は小沢城址緑地保全地区に指定され、自然の豊かな散策路としても貴重な存在です」、と。「馬場址」の案内。鎌倉から戦国時代に至る380年の間、この地は鎌倉幕府の北の防衛線。この馬場で武士たちが武術を磨いた。その間6,7回の合戦。
最も激しい戦いは新田義貞と北条高時の分倍河原合戦。鎌倉時代末、1333年。新田軍は分倍河原。高時軍は関戸に布陣。新田軍の勝利。怒涛の新田軍は関戸もこの小沢城も陥落。一気呵成に鎌倉を陥落させた。

南北朝には、足利尊氏と足利直義の対立から起きた観応の乱の舞台となる。1351年、小沢城にこもる足利直義の軍勢と尊氏軍との間で合戦がおこなわれる。戦国時代には、後北条、つまりは北条早雲の「北条」氏と上杉氏との勢力争いのフロントライン。

1530年には武蔵最大の支配力をもつ上杉朝興に対し、後北条氏の軍勢は小沢城に陣を張り、これを撃破。北条氏康の初陣の合戦でもある。世に言う小沢原合戦がこれ。

小沢小太郎重政

丘陵地形が天然の要害を形づくっているこの地は、鎌倉道が通る戦略的要衝(ようしょう)の地。多摩川の広い低地や河原をひかえていたため、鎌倉時代から戦国時代にかけてたびたび合戦の舞台になったわけだ。ちなみに案内板にあった小沢小太郎重政は、鎌倉幕府が源氏3代で滅びたあと、北条一族の時代になって悲劇的な最期を遂げる。

小沢小太郎重政の最後は、鎌倉武士の鑑とされた畠山重忠の謀殺と大いに関係する。直裁に言えば、畠山重忠謀殺に加担したのが、この小沢小太郎重政。武蔵を歩けば折にふれ、畠山重忠由来の地に出会う。そんな「有名人」重忠の騙し討ちから自滅までの小沢小太郎重政の軌跡を時系列にまとめる;
1.稲毛三郎重成は執権・北条時政の娘婿に
2.時政とその後妻・牧の方は稲毛三郎重成に「あなたの従兄の畠山次郎重忠・重保父子が謀反」と、いう謀略を仕組む。
3.畠山重忠は、源頼朝の旗揚げから忠臣・重臣。その重忠の従弟である稲毛三郎重成は、北条時政と牧の方の謀略に加担。畠山父子を殺す手引きし、父子を鎌倉へ呼び出す。
4.鎌倉は「謀反人を討つべし」との声、騒然。自分たちがトラップにかけられていることなど露思わず、畠山重保は郎従3人とともに由井ヶ浜へ。
5.北条時政の命を受けた三浦義村軍に取り囲まれ、重保は奮戦むなしく惨殺。二俣川では重忠が謀殺された。
6.翌日には稲毛三郎重成・重政父子も誅殺される。畠山一族に代わって稲毛一族が強大になることを恐れた北条時政は、「畠山父子を謀殺したのは稲毛の策略」と、二重のトラップをかけていたわけだ。

寿福寺雑木林の城址で少々休憩の後、丘陵を下る。臨済宗の仙石山寿福寺。このあたりは菅仙石と呼ばれる。山あり、谷あり、仙人の住む谷戸、である。寺伝によれば、とある仙人が子の地で修行。ために、「仙石」と呼ばれた、とも。
寿福寺の歴史は古く、『江戸名所図会』によれば、古墳文化時代の「 推古天皇6(598)年に聖徳太子が建立」とも書かれている。指月橋にも登場したが、このお寺にも義経と弁慶主従の伝説が。鎌倉から奥州平泉に逃れる途中、ここに隠れ住み、その間に「大般若経」を写した経文がある、とか。また、義経と弁慶の鐙二具と袈裟も残されている、とか。本堂裏の五財弁尊天池の近くには「弁慶のかくれ穴」、千石の入り口には「弁慶渡らずの橋」という土橋、その近くには、「弁慶の足跡石」もある、とか。

西南にゆったりと下る丘陵地、そこに広がる景観は美しい。 しばし休憩し、再び歩きはじめる。歓声が聞こえる。読売ランドからの響きだろう。しばらく進むとフルーツパーク。温室栽培の果物が。イチゴ狩りがあるのかどうか知らないが、宅地化が進んだこのあたりは桃や梨で有名、と聞いたことがある。たしか、「多摩川梨」だった、と
思う。とはいうものの、男ひとりでフルーツ園もなんだかな、ということで先に進む。

多摩自然遊歩道

菅仙石3丁目の交差点近くに菅高校。ちょっとした登りの坂をNTV生田スタジオ、読売日本交響楽団の練習場に沿って登る。
上りきったあたりに「多摩自然遊歩道」。小田急・読売ランド駅方向に下っている。「市民健康の森」を右手に眺めながら雑木林を歩く。と、後ろから追い抜かれたご夫人に声をかけかられる。散歩好きの感じ。稲田堤から読売ランド駅まで歩いてきた、と。話の中で少し戻れば、丘陵地帯を新百合ヶ丘に進む道がある、という。
どこかで読んだのだが、新百合丘の近くの丘陵地に万福寺あたりに鎌倉古道が残っている、と。行かずばなるまい。とは思いながらも、結構分かりにくそうではある。が、このまま進み読売ランドの駅から百合丘、新百合ヶ丘に津久井道を進むのもなんだかなあ。ということで、「市民健康の森」あたりまで引き返すことに。

五重塔が見える

「市民健康の森」に入り込み、雑木林を進む。「多摩美ふれあいの森」の裾に沿って少し歩くと住 宅地。多摩美2丁目。ちょっと離れた西の別尾根筋に五重塔が見える。多摩の地に五重塔があるなど、思ってもみなかった。行かずばなるまい。一体どのあたりかは定かではない。成り行きで進むしかない。
細山神明社
もう少し丘陵地の裾を進む。細山6丁目で交通量の多い道筋にでる。この道は読売ランドの丘陵地を越え、京王読売ランド駅の西から南武線・矢野口駅近くで鶴川街道に連なる道。読売ランドとは逆方向に進み、なんとなく西生田小学校交差点で右折。少し進むと細山神明社。とりあえず道の脇にある鳥居をくぐり石段を登る。

社殿は丘の上の鳥居をくぐり別の石段を下りたところにある??普通は坂を登ったり、石段を登ったところに社殿があるはず?これって一体なんだ?由来書にその理由が書いてあった。
神社を創建時、社殿は東向きだった。が、一夜にして西向きに。村の人々は不思議に思いながらも再び東向きに戻す。が、夜が明けるとまた西向きに。そんなことが3度も続いたある夜、名主の夢枕に神様が立ち曰く、「神明社は細山村の東端。東向きでは村の鎮護ができない。氏子をまもるため西に向けよ。西の伊勢の方向へ向けよ、大門が逆になっても良い」というお告げ。それ以後、社殿は西向きになり、大門はいわゆる「逆さ大門」となった。ちなみに、「逆さ大門」は関東に3社ある、とか。

五重塔は香林寺

道を進む。が、五重塔が見えなくなった。はてさて。細山2丁目の細山
派出所交差点あたりに偶然、五重塔への案内が。ラッキー。車道筋からはなれ、小高い丘をの ぼる。香林寺。里山の斜面に諸堂が並ぶ。三門、本堂、鐘堂、そして岡の最上部に五重塔。ここからの眺め、里山の姿は本当に美しい。こんな景観が楽しめるなど考えてもみていなかった。偶然散歩の途中に五重塔が目に入り、それを目指して歩いてきた、といったいくつかの偶然の恩寵。里山百景として絶対お勧め。
ちなみに、この五重塔は1987年創建。結構新しいのだが、外装は木造、内部は鉄筋コンクリート、といった意匠のため落ち着いた雰囲気を出していた。いやはや、この眺めはいい!

細山郷土資料館

香林寺を出る。すぐ前に細山郷土資料館。江戸時代だったかどうか忘れてしまったが、この細山から金程といったあたりの立体地形図があった。細山と呼ばれたように、細い丘陵が幾筋も広がっていた。

千代ヶ丘

道に戻り、一路新百合丘を目指す。千代ヶ丘の交差点まで直進。このあたりが丘陵地の南端か。あとは下るだけ。千代ヶ丘1丁目の住宅地を下り、もみじケ丘公園東側交差点に。南に新百合丘に至る道。人も車も急に増える。

道を進む。道脇の標識でこのあたりが万福寺である、と。宅地開発の真っ最中。いくつかの不動産会社が共同して開発しているよう。自然の丘などありゃしない。削り取られ、整地された分譲開発地。これでは鎌倉古道跡など望むべくもなし。

新百合ヶ丘駅

丘の南端に十二神社。このあたりだけが昔のまま、か。神社への石段を登る。宅地開発の恩恵か、石段もなにも、新調されている。分譲地のアクセントとしてはいいかも、といった印象。早々に引き上げる。で、目的の万福寺を探す。が、それっぽいお寺などありゃしない。どうも万福寺って、お寺の名前ではなく地名で あった。ということで少々収まりが悪いながらも、本日の予定は終了。新百合ヶ丘駅から家路に急ぐ。

帰宅し調べたところによると、江戸時代江戸時代に林述斎を総裁に間宮士信ら四十数人が編纂した『新編武蔵風土記稿』にすでに「古、万福寺と云寺院ありしゆへかゝる名もあるにや、今は土地にも其伝へなし、またまさしく寺跡と覚ゆる地も見えず」と記されていた。

2009年の3月に再び小沢城址から香林寺へと歩いた。香林寺からの眺めを楽しんでいると、南の高台に神社らしき構えが見える。このあたりで最も高い場所のように思える。さぞや眺めもいいだろう、と歩を進める。高石神社であった。まことにいい眺めであった。

青梅の丘陵地を歩いた。先日買った本『多摩丘陵の古城址;(田中祥彦;有峰書店新社)』にも記載のあった二俣尾の辛垣城跡、中世の奥多摩渓谷を支配した三田一族の終焉の地を歩こうと思った。



JR青梅線・青梅駅
Jr青梅線・青梅駅で下車。駅前に青梅観光案内所。近辺の地図を手にいれる。青梅丘陵ハイキングコースを経て、その先の辛垣城までの山道の案内が載っている。ガイドに従い、線路脇を少し東に戻る。
すぐにT字路。左折し青梅線を跨ぐ陸橋を越え道なりに進む。永山公園通りに。テニスコートを左に眺めながら坂道を上る。おおきくS字に蛇行する急勾配の坂。上りきり尾根道に。十字路の右手は青梅鉄道公園。道標に従い左に折れると青梅丘陵ハイキングコース。

青梅丘陵ハイキングコース
ハイキングコースはすこぶる気持ちいい。左手に青梅の市街が広がる。木の名前でも知っておれば、あれこれ情景描写もできるのだろうが、なにせ、スギ・ヒノキではない、と自信なく言える程度の我が身が少々情けない。

金比羅社
少し進むと「風の子太陽の子広場」への分岐。かまわず直進。ちょっとした上り。上りきったあたりに金比羅社。さらに進み、さらに坂を登ると第一休憩所。このあたりで簡易舗装は切れる。

叢雨橋
少し歩き第二休憩所。休憩所近くに大きな石の塔と石仏が。石仏からは多くの手が出ている。千手観音菩薩だ。道なりに進むと叢雨橋(むらさめばし)。橋の下は川という感じではなく、峠道といった雰囲気。とはいっても誰も歩いている感じはしない。
橋の下は丁度、小曽木街道の青梅坂トンネルの上あたり。昔はこの小曽木街道を通り、丘陵北側の成木地区で算出する石灰や、山々で伐採された木材を江戸に運んでいたのだろう。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)


第四休憩所
先に進む。尾根下の森下町とか裏宿への分岐が。かまわず進む。麻利支天尊梅園神社経由裏宿町への分岐。麻利支天は武士の護り本尊。
再び急な坂。南側斜面が開ける。送電線の鉄塔を越え第四休憩所に。ここからの青梅市街の眺めは美しい。しばし眺めを楽しみ再び歩を進める。

矢倉台の休憩所
ゆるやかな上り坂。樹林の中を進むと宮の平駅・日向和田駅方面への分岐。かまわず進むと急な坂。本日の散歩道で最大の勾配。上りきったところが矢倉台の休憩所。第四休憩所よりさらに美しい眺め。

由来書によれば、ここは物見櫓のあったところ。物見櫓(矢倉台)の由来書;青梅市、かつての杣保(そまほ)に拠点を置いた豪族三田氏は代々、市内東青梅の勝沼城に居住していたが、北条氏照の八王子滝山入場による、多摩地方の情勢の変化を受け、永禄年間(1556年から1569年)の初め頃、二俣尾の辛垣山に城を築いたと言われる。物見櫓(矢倉台)はこの辛垣城(西城)から南東役3キロメートルに位置し、戦略上重要な物見の場所であった」という。

三方山の頂上
矢倉台を下り樹林の中を進む。道標。「左 日向和田 右辛垣城」。ここからはアップダウンの激しい山道となる。「辛垣城 左へ2.7km」と。左折して西へむかう尾根道に。樹林を越えると送電線の鉄塔。さらに尾根道そして上り。結構きつい。ピークに上り切る。北側が開ける。眺めは圧倒的に素晴らしい。三方山の頂上だろう。標高454m。

名郷峠

ピークを越え尾根道を進む。右手斜面が伐採されている。足元は少々怖いが、眺めは素晴らしい。「辛垣城跡700m 電電山1.2km」の道標。アップダウンの尾根道が続く。いやはやきつい。

「二俣尾方面」の道標のある分岐点からは急激な下り。下りきったところが名郷峠。標高400m。道標によれば「辛垣城200m 電電山700m 二俣尾1.6km 成木1.2km」。城跡まであと一息。それと、ここから二俣尾に下りられる。それがなによりうれしい。いま降りてきたあの坂を、また上りたいなどとは金輪際思わない。
名郷峠は二俣尾から成木地区に抜ける峠道の交差点。往時の交通の要衝。長尾峠の別名もある。この峠道を「おかね道路」と呼んだとも。

辛垣城跡

峠を越え尾根道を進む。道の左手にある山に登る分岐が。「辛垣城跡登り口」と手書き文字。すごい坂道。勘弁してほしい、って感じ。膝というか足の蝶番(ちょうつがい)がギクシャク。
狭小な曲輪跡を越え大岩を切り取った急な坂を登りきる。削平地が。200坪程度か。周囲は急斜面。城址と言われれば、そういうもんか、といった状況。少なくともここに篭城できる、といった城構えではない。山の砦でといえば正確であろうか。

辛垣城の由緒書が。辛垣城跡;「この辛垣山(標高450メートル)の山頂には、青梅地方の中世の豪族三田氏がたて籠もった天嶮の要害である辛垣城があり、市内東青梅6丁目(旧師岡)の勝沼城に対して西城と呼ばれる。
永禄6年(1563年)、八王子の滝山城主北条氏照の軍勢に攻められ落城、城主三田綱秀は岩槻城(埼玉県岩槻市)に落ち延びたが、同年10月その地で自害し、三田一族は滅亡した。
城跡にあたる山頂の平坦部は大正末期までおこなわれた石灰岩の採掘により崩れ、往時の遺構ははっきりしない」、と。

三田氏
平将門の後裔とする三田氏、奥多摩・青梅地方の50数カ村、つまり日向・日蔭の河岸段丘とその周辺、つまりは多摩川の谷奥=三田谷と呼ばれ杣の保を支配し文化を伝えた三田一族は小田原・北条氏と奥多摩の谷筋で激戦を繰り返す。上杉の勇将・岩槻の太田正資と連携しながら奮戦。しかし、五日市、戸倉、檜原での戦いに破れ、二俣尾の辛垣城での決戦で敗れた。「カラカイノ南ノ山ノ玉手箱アケテクヤシキ我身ナリケリ」。落城の時、三田綱秀が詠んだと言われる歌。二俣尾の谷合家に日記に伝わる。辛垣城の南にあるなにか、多分砦かなにかだろう、そこでなにか予想外の展開が起こり、結果的に勝敗を決するなにかが起きた、のだろう。一説によれば、辛垣城の南尾根にある砦・桝形城がその舞台とか。

ともあれ、この激しい武蔵野合戦は谷底の合戦、段丘上の合戦と呼ばれる。付近には軍畑、首塚などの激しい合戦にまつわる地名がのこる。とはいうものの、当時の合戦は殲滅戦ではない。主郭の家屋が炎上した時点で勝敗が決し、主将の降伏か自刃で終了し、それ以上の殺戮はなかったわけだから、常のこととして少々の誇張もある、かも。

二俣尾駅
しばし休憩し再び急坂を名郷峠まで戻り、二俣尾へのルートを下りる。二俣尾は交通の要衝。西は青梅街道または甲州裏街道とも呼ばれ大菩薩へ通じる道。北は名栗を経て秩父大宮へいく古道がここでわかれるので二俣尾という名前がついた。現在は北の飯能へと県道193号線が走っているが、この道は往時の鎌倉街道山ノ道、 通称秩父道。いつだったか、高尾から秩父に向かって歩いた道。昔は軍事、経済の往還として賑わったことだろう。勿論、信仰の道としても北の秩父盆地から御岳権現社への参拝道もここを通ったのだろう。で、二俣尾駅に戻り本日の散歩の予定終了。

青梅の由来

そうそう、青梅の由来。昔平将門が杖代わりにしていた梅の木をこの地に植える。が、実が赤くなることなく、青いままであるので青梅となったとか。それからまた、青梅の梅の名所を吉野郷と。何故。吉野って、桜の名所。実のとこと、この郷、桜の郷にしようとした、とか。それがうまくいかず、梅の郷とはなったが、吉野の名前だけが残った。桜の話はどこかで聞きかじった話。吉野の解釈は自分なりの田舎解釈。真偽の程は定かならず。

ちなみに日向道(ひなた)と日蔭道。お世話になっている先生に日向先生がいる。気になって調べてみた。あたりまえの解釈は「陽の当たる道と陽が当たらない道」。なかには神奈川日向薬師
のように、日向薬師までの「日向道は、もともと修験者が通る道で、それ以外の参拝者は、日陰道を通ったそうです」と。先生の名前の由来はどちらからであろうか。

青梅・二俣尾の辛垣城跡への散歩のあと、勝沼城を歩いてみたくなった。なんといっても青梅市周辺、昔の呼び名で言えば「杣保(とまのほ)」に覇をとなえた三田一族の居城の地。戦に破れ追い詰められた辛垣城だけでは少々寂しすぎる。三田一族の本拠地を歩きたかった。青梅観光センターで手に入れた地図をチェック。勝沼城の近く、塩船観音のあたりから岩蔵温泉まで続く霞丘陵ハイキングコースの案内がある。

霞丘陵といえば、加治丘陵・金子丘陵の東京側の呼び名。この丘陵は以前から至極気になっていた。金子十郎を筆頭とする金子一族の本拠となった丘陵地も歩けるし、青梅というか東京と、飯能というか埼玉を遮る丘陵地帯ってどんなものか歩ける。ということで、勝沼城から霞丘陵ハイキングコース・岩蔵温泉までを本日の散歩コースとしてルーティングした。



本日のルート;JR東青梅>光明寺>妙光院>勝沼城>宗泉寺>塩船観音寺>霞丘陵ハイキングコース>笹仁田峠>岩蔵温泉・七国峠ハイキングコース>飯能・落合方面>阿須交差点・駿河台大学>加治橋・入間川>218号線>西武飯能駅

JR東青梅駅

最寄りの駅はJR東青梅駅。北口で下り、成り行きで北に向う。道の途中で酒饅頭を買う。秩父で買った酒饅頭というか田舎饅頭が、こどもの頃食べた柴餅に似ており、其の味を今一度、といった思い。ともあれ、お饅頭屋さんで光明寺への道を確認。

師岡神社
城前橋を渡り少し光明寺に。勝沼城跡への登り口を探す。目印はない。お寺左手に石段。師岡神社。師岡神社 の師岡って、三田氏滅亡後、勝沼城に入った北条方武将・師岡山城守将景からきたのだろう。境内にはシイの巨木が。神社に登ったが、行き止まり。
石段を下り、神社脇を登る小道に入る。結構丘に登る。が、どうも様子が違う。金網で入れない保護林の方面がどうも城跡といった雰囲気。尾根道からは入れ込めるかと思ったのだが、金網が延々と続く。あきらめて登り口まで戻る。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)

妙光院
道に沿って東に向う。少し進むと、妙光院。このお寺の裏山であれかし、と進む。赤い帽子と前掛けの6体のお地蔵さん。「おん かかかび さんまえい そわか」ってご真言を3回お唱して、お参りいたしましょう、ってガイド。「おん かかかび さんまえい そわか」「おん かかかび さんまえい そわか」「おん かかかび さんまえい そわか」。

勝沼城跡

境内右手に裏山への道筋。登り口に勝沼城跡歴史環境保全地域の案内。ゆったりとした道を上る。丘の上は比較的平坦面が広い。辛垣城跡の狭隘な砦を見た後だけに立派な造作・遺構と思える。なんとなく石神井城跡といった雰囲気。それより広いかも。

城跡から青梅市街を見渡す。三田氏は往時、この青梅、秩父、そして入間にかけての一帯を支配していた。ちょっと目にはそれほどの要害の地とも思えないが、昔は多摩川を外堀とし、あたりは低湿地で囲まれた要害の地であったのだろう。

三田氏
三田氏についてまとめておく;鎌倉末期、青梅一帯、「杣保(とまのほ)」に覇を唱えた一族。勝沼城はその居城。室町期、三田氏は関東管領・山内上杉氏の陣営に。一時期、北条早雲からはじまる小田原北条氏、つまりは後北条の臣下となる。が、上杉謙信の関東攻めに呼応して、後北条を離れ謙信とともに小田原城攻めに参陣。謙信が越後に戻った後、ほとんどの武蔵の豪族は後北条氏に帰陣。しかし、三田氏は謙信陣営に留まる。ために、滝山城の北条氏照の攻撃を受け、この1563年、勝沼城を放棄。辛垣城に逃れ抵抗するも翌年落城。三田綱秀は太田資政をたより岩槻城に落ちのびる。が、そこで自刃し三田氏は滅びる。

吹上げしょうぶ園
城跡を下り、東青梅6東交差点を左折。城山通りと言うのだろうか、ともあれ山裾を進む道。「吹上げしょうぶ園」前を進む。美しい里山の景観。この景色を楽し めただけでも十分。少し進むと宗泉寺。立派な鐘楼が印象的。境内のカヤの大木も雄大。車道脇、歩道もない道を進む。「塩船観音寺 この先700m」の案内。左折しこの道、観音通りを進む。途中、ゆるやかな峠道。また美しい里山の景観が拡がる。

塩船観音寺

道なりに進むと塩船観音寺に。美しい。茅葺屋根の落ち着いた雰囲気の堂宇。キンキラキンのお寺を想像していたので、望外のよろこび。重要文化財の仁王門、本堂も渋い味わいを出している。
塩船観音寺は真言宗醍醐派の別格本山。大化年間、若狭の八百比丘尼が千手観音をおまつりしたことに始まる。天平年間、僧行基が、周囲の地形が船の形に似ていることから、塩船と名づけた、とか。

ともあれ、平安末期には加治丘陵、というかその名も金子丘陵と呼ばれるこの丘陵に覇を唱え高麗・入間・多摩に勢力をふるった金子一族が深く帰依。金子十郎家忠源平合戦出陣のみぎり、戦勝を祈願して山門、仏像を奉献。また、鎌倉末期には三田氏の帰依を受け堂宇・仏像の修復が行われている。
ちなみに、八百比丘尼は「やおびくに」。決して800人の尼さんが来たわけではない。また、なんで「塩」の船なのかよくわからない。が、法華経に説く千手観音の広大な慈悲によって、人々を苦海から救って、彼岸に渡す弘誓(ぐぜい)の船、ということで、ありがたいもの、なくてはならないもの=塩が頭についたのか、と自己流解釈でとりあえず納得。

尾根道に
霞丘陵ハイキングコースに進む。境内から続く尾根道を上ればコースに続くとのこと。本堂左手の道を進むと鐘楼が。鐘楼脇に7社権現。脇を抜け尾根道に。
尾根道からの眺めは壮観。まるで円形劇場、というかコロセアムといった景観が広がる。基底部の舞台部分には堂宇、そして境内。舞台を囲む周囲の丘は全山つつじ。開花時期は4月頃で今はなにもない。が、花見時期には10万人もの人がつつじ見物に集まる、という。さぞ見事だろう。あまりあれこれに感激しない性格ではあるが、ここのつつじは結構すごいだろう、と少々心躍る。

霞丘陵ハイキングコース

尾根道をあがりきると霞丘陵ハイキングコースへの案内。素晴らしい散歩道。洗練された景観。左手はゴルフ場ということもあり、広がり観が心地よい。尾根道を進む。車止め。直進し植林帯に。要所要所に「七国峠、岩蔵温泉」という案内があり迷うことはない。

熊笹の茂る横木の階段を下り、ブッシュを進むと金網。右方向に「七国峠、岩蔵温泉」。舗装道路を進む。再び車止め。間を抜け進む。大学のキャンパスといった道が続く。立正佼成会の敷地内だった。しばし進むと再び車止め。間をすり抜け、正面の茶畑を回りこむように坂道をおりると笹仁田峠に。ここまでの散歩道は明るい高原地といった雰囲気であった。

笹仁田峠の交差点
車の往来の激しい笹仁田峠の交差点を渡り、七国峠に向う。再び森に入るとあたりの雰囲気は一変。スギ、ヒノキの森となる。少々の登り。しばらく歩き七国峠に。笹仁田峠から10数分といったところか。

七国峠

峠とはいうものの、ちょっとした広場になっている。七国峠と言うからには、相模・駿河・甲斐・武蔵・上野・下野・常陸の七つの国が見渡せるはず、と期待していたのだが展望などなにも無し。それにしても七国峠って、いろんなところで出会ったよな。狭山丘陵の七国山、多摩丘陵・町田市野津田の七国山などなど。散歩の日々をあらためて想い起こす。

岩蔵温泉か、金子丘陵か

七国峠を過ぎ少しあるくと、左「岩蔵温泉」、右「飯能 落合」の道標。 予定通り「岩蔵温泉」に進もうか、それとも、と結構迷った。迷った理由はただひとつ。加治丘陵というか金子丘陵に歩を進めたかっただけ。金子一族の本拠地でもあった金子丘陵ってどんなところだろう、と気にはなっていた。で、結局は金子丘陵に。

ちょっと前、飯能からの帰り道、丘陵の北の元加治、仏子あたりを車で走った。また駿河台大学脇の峠道を走り、金子丘陵を越え金子十郎の墓のある木蓮寺・瑞泉院に訪れたことがある。
金子一族のまとめ;金子氏は武蔵七党の名族村山党からわかれこの金子の地で金子氏を興す。平氏とのつながり深い金子氏は保元の乱では後白河帝に味方し祟徳院・藤原頼長・源為義・為朝と戦う。平治の乱では戦に破れ金子の地に戻る。その後、頼朝挙兵に際しては、陣に加わり一の谷では義経を助け功をたてる。
頼朝上洛の折は、重臣として随員に加わり都大路を堂々の行進。金子十郎の後も一族は、和田義盛の乱には鎌倉北条に味方し幕府の難を救った。戦国時代が終わるころ、八王子城の武将に金子家重の名。北条と結び秀吉と戦い力尽きた、とのこと。ともあれ、当初の予定を変え金子丘陵に歩を進める。

金子丘陵

気持ちのよい散歩道。品のいい森。一面の落ち葉の上を歩く。ところどころで分岐。道標などなにもない。感で進む。北東に向っているような気がする。狭山丘陵もそうだが、このあたりの丘陵地帯は本当に気持ちいい。どんどん進む。と、すごい下り坂。坂と言うよりも壁、といったほうが正確。下りでよかった。なんとかかんとか降りる。右手に沢道。川筋にそって下る。あれだけの急な坂を下りたのだから、てっきり里についた、と思っていたが、どうもそうではないらしい。ゆったりとした道を歩く。

で、突然迷彩服にマシンガンの一団に包囲される。結構ビビル。マジ緊張。で、よくみればモデルガン。コンバットゲームの一団であった。こんな山の中でマシンガンに囲まれたら、いやはや、ゲームでよかった。

飯能に

で、歩をすすめる。やっと民家が見えてきた。さらに進むとお寺。長沢寺。これって前車で峠越えした駿河台大学の脇の阿須の交差点。ともあれ、里に下り、後は一路飯能まで歩き本日の予定終了。

塩船観音、霞丘陵ハイキングコースすべて満足。又、予想外の展開で金子一族の拠点となった丘陵地帯を歩けたのが本日最大の喜びでありました。また今回行けなかった岩蔵温泉には、後日会社の同僚と訪れた。七国峠から、左「岩蔵温泉」の道標に迷う事無く従ったことは、言うまでもない。

3月1日の多摩丘陵散歩:稲田堤から新百合ヶ丘に続く2回目は川崎・宮前区に。きっかけは会社の常勤監査役殿との話であった。地震になったときに、自宅までどの程度かかるのかわからない、と。であれば、私が歩いてあげましょう、ということになった。宮前区・鷺沼が監査役殿のご自宅。川崎に足を踏み入れるのははじめて。で、どのルートから歩こうか、と迷った。なんとなく名前が気になっていた登戸が頭に浮かんだ。
 
本日のルート;登戸>西宿河原>府中街道・ニケ領用水>長尾橋>神木本町・等覚院>神木で東名高速と交差>平瀬川>神木橋>東名高速に沿って神木本町4丁目>平6丁目>尻手黒川道・土橋交差点>鷺沼>矢上川>宮前平>宮崎台>宮崎団地前>246号・梶ヶ谷交差点>市民プラザ通り・梶ヶ谷駅入口>梶ヶ谷駅>高津区役所交差点>南武線交差溝口>栄橋>溝口神社・溝口駅入口>ニケ領用水>府中街道・高津交差>大山道>光明寺>二子新地駅

小田急線登戸

登戸で下車。登戸の「戸」は場所といった意味。多摩川の低湿地から多摩丘陵に登る場所であったのだろう。
昔は江戸から津久井に通じる、津久井往還の要衝の地。津久井の絹や黒川の炭、禅寺丸柿を運ぶ商人で賑わったはず。当然多摩川の渡しもあったのだろう。果たして今は、という興味もあり登戸から散歩をはじめることにした。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)



ニケ領用水・新川
南の方、丘陵を目安に成り行きで進む。登戸、宿河原地区をなんとなく南に進む。車の往来の激しい道筋に。府中街道だ。
道筋に沿って水路が。ニケ領用水・新川。この流れは菅稲田堤にある布田橋、新布田橋近くの稲田取水場から取り入れられた流れ。六郷用水散歩のときメモした、川崎のニケ領、武蔵国橘樹(たちばな)郡と幕府直轄地の稲毛郡の二カ国に通した灌漑用水・ニケ領用水がこれ。ちなみに登戸近く、宿河原から取り入れられたニケ領用水の別水路も近くを流れている。龍安寺近く、本村橋で府中街道とニケ領用水は別れる。

向ケ丘遊園
川筋に沿って歩く。向ケ丘遊園が丘の上に。とはいうものの、どうも開園している雰囲気がしない。向ケ丘ボーリング場も閉まっている。昭和2年、小田急の開通とともに営業を開始したこの遊園も、2003年の2月に75年の歴史を閉じたとのこと。こどもが小さいときに連れ歩いた。仮面ライダーショーでこどもが逃げ廻った記憶が懐かしい。

低地から丘陵に
向ケ丘遊園を少し進み長尾交差点で右折。丘陵への登りとなる。結構な傾斜。多摩川の低地との境をなす多摩丘陵の東端といった雰囲気。が、如何せん、車の通りの多い峠道。排気ガスを浴びながら進む。峠を越え住宅街に。五所塚地区。起伏に富んだ多摩丘陵の台地斜面が削られ住宅地となっている。

長尾神社
左折し長尾神社に。長尾神社と通りをへだてた公園には、五つの円形塚が残されている。『新編武蔵風土記稿』では、「墳墓五ヶ塚」と言われている。が、川崎市教育委員会は「村境や尾根筋に築かれた信仰塚のようなもので、一種の民俗信仰上の記念物」と。五所塚地区はその塚にちなんだ名前。
また「長尾」の地名は、多摩丘陵の長く連なる尾根に沿った地形から生まれたといわれる。尾根の南の方を「神木長尾」、北の方が「河内長尾」「谷長尾」。長尾神社は、河内長尾の鎮守だった五所塚権現社が、明治時代の神木長尾の鎮守だった赤城社を合祀し今にいたる。

等覚院
長尾神社を離れ進む。南東方向に品のいい丘陵が見える。緑の丘を目安に進む。神木本町。いかにもありがたそうな地名。そしてこれまた品のいいお寺さん。等覚院、である。神木(しぼく)の由来は、往時日本武尊が東征のみぎり、渇きを覚えた、としよう。鶴の舞い降りるのを見、水辺あれかし、と。水で渇きを癒し、英気回復。神水というか霊水とあがめ、その地に木を植える。で、代々その木を神木と。後に智証大師円珍、その神木をもって不動明王をつくる。この不動明王は等覚院本堂脇の岩穴に置かれている。これが神木の地名の由来。

神木山等覚院(神木不動)は天台宗のお寺。不動明王が本尊。広い境内はつつじの名所。別名、つつじのお不動さんとも。また、すぐ横を走る東名高速などの都市化の進行から自然環境を保全するため、お寺の裏山は緑保全の森となっている。

平地区
等覚院を離れ車の往来の多い通りに沿って進む。平地区。「平」の地名の由来は、領主・葛原(かつらはら)親皇の後裔である「葛山平」(かつらやまたいら)の名によるとか、この地にある室町時代開山のお寺・泰平山東平寺の山号でもある、「天下泰平」を願って名づけられた、とか、平瀬川が流れる地形からきたとか、これも例によっていろいろ。

東名高速と交差

東名高速と交差。東名を越えたところで平瀬川と交差。地図でチェックすると王禅寺、東百合丘あたりが源流点のよう。神木本町交差点を右折。東名高速との交差手前で高速に沿って、高速道路の南を西に向う道に入る。

手黒川道路・土橋交差点

向丘中学脇、平小学校脇をとおり土橋地区を進む。尻手黒川道・土橋交差点に。土橋(つちはし)の地名の由来は、源頼朝がこの地を通ったとき、谷合から流れ出る谷戸川に橋を架けることを命じた。樹木を切り、土を盛り土橋をつくる。これが地名の由来。で、この谷戸川とは矢上川のこと。この川沿いの湿地・湿田が現在の市道尻手黒川道路。

矢上川

矢上川の源流は宮前区水沢1丁目あたり。菅生緑地の湧水を集め清水谷、犬蔵をへて土橋に。矢上の意味は、谷の上=やがみ、小高い丘=弥上=やがみ、とかいろいろ。
土橋は明治・大正はタケノコの名産地。「竹の里」と。昭和に入るとこの地は陸軍の軍用地として接収。軍用道路、北の台地上には高射砲陣地と探照灯基地が設けられる。戦後は宅地開発と高速道路による都市化の波。農地と山林原野の地が大きく変わる。

鷺沼
土橋交差点は東名高速の川崎インターから出たすぐのところ。会社の同僚を車で送って何回かきたことがある。交差点から道なりに坂道をのぼり、鷺沼プール入口交差点をこえ、本日のターゲットポイント鷺沼に到着。

鷺沼駅の西は地下トンネル。トンネルの上に住宅街が乗っかっている。結構奇妙な光景であった。鷺沼は、東急が開発した街。それ以前は、農地と山林からなる丘陵地。丘陵に挟まれて低湿地帯が長く伸びており、鷺沼谷と呼ばれていた。246号線から鷺沼小学校を経て、日本精工のグランドあたりまで延びる谷筋がそれにあたる。

鷺沼配水池
鷺沼を離れ東京地下鉄鷺沼電車区と水道配水所の間の坂道を下る。川崎市水道局の鷺沼配水池は高津・宮前区の一部と中原・幸区の水道水を確保するためにつくられたもの。給水人口は38万人。市内最大の規模の配水池。川崎市の水源は、多摩川・相模川・酒匂川の3つの水系からなるが、鷺沼配水池は、相模川水系。取水口から長い導水トンネルを通り、多摩区三田にある長沢浄水場に運ばれ、そこで処理された水を集めている。

宮前平
東急田園都市線に沿って宮前平の駅に進む。「宮前平」の駅名は、明治時代に五つの村(野川・梶ヶ谷・馬絹・土橋・有馬)が合併して生まれた「宮前村(みやざき)」の地名から。女躰権現社(現在の馬絹神社)のあたりから梶ヶ谷にかけて宮前という小字名があったとか。宮前駅付近は、江戸時代は湿田が広がっていた、とか。矢上川沿いに広がった湿田は、いまの尻手黒川道路沿いに細長い谷間に広がり、「谷戸田」とも呼ばれていた。

宮崎台
矢上川を越え宮前平駅前を越え、宮崎台に。宮崎は、もとは宮前(みやざき)。が、昭和10年に川崎市と合併するとき、ほかに宮前小学校とかいった名前もあり、ややこしい、ということで宮前>宮崎、となった、とか。

この地は昭和15年には陸軍の軍用地として接収され、大塚三ツ叉を中心に馬絹・上作延・下作延から向ヶ丘・菅生地域にまたがった広大な演習場・溝口演習場となる。連隊本部は宮崎の丘の上。現在の宮崎中学校に。兵舎や弾薬庫などがに配置されていた。

部隊編成は、歩兵五個中隊と機関銃二個中隊、八センチ連隊砲と速射砲一個中隊、そして土橋には高射砲隊。これら東部六二部隊の任務は、召集兵のトレーニング。三ヵ月程度の訓練もあと、実線配備に送り出す。この軍用地も昭和26年には返還され、このときに「宮崎」という大字名がつけられた。

梶ヶ谷
宮崎台団地前交差点を越え、ゆったりとした坂道を登り、梶ヶ谷交差点で246号と交差。市民プラザ通りを進み、最初の交差点を左折し梶ヶ谷駅方面に入る。

梶ヶ谷は鍛冶ケ谷と読み替えるべし。北に矢上川が流れるこの地は南に「金山」と呼ばれる台地がある。馬絹との境にある梶ヶ谷金山公園(R武蔵野南線の貨物ターミナルの少し南)の脇には、「稲荷坂」の地名、そして坂の途中の稲荷社がある。
稲荷社は、鉄鍛冶や鋳物師の神様。また、南野川に下れば別所と呼ばれ区域もある。別所は虜囚となった蝦夷人びとを移住させたところ。上作延・平・長尾にも「別所」の地名が残っている。蝦夷虜囚は、産鉄の技術者集団。「梶ヶ谷」=「鍛冶ヶ谷」の所以である。
梶ヶ谷地域一帯は、産鉄と深い関係がある地名が多い。金山、稲荷、別所のほか、有馬には赤い鉱泉の「有馬療養温泉」がある、とか。鷺沼には、「金糞谷」の地名が残っている、とか。金糞は「鉄滓(てっさい)」のこと。

JR武蔵野南線の貨物ターミナル
「梶ヶ谷」にJR武蔵野南線の貨物ターミナルがある。これって謎の鉄路?稲城近くからトンネルに入り、10キロ以上も地中を走る。いつこんなものが掘られていたのだろう。なんとなく好奇心が湧き上がる。チェックすると、最初に計画されたのは戦前の1927年のこと。その後、戦時中の中断をへて、1964年から工事が始められた、とか。貨物線とはいいながら、ホリデー快速鎌倉号といった列車が、土休日に大宮から鎌倉まで走っているとか、いない、とか。一度、10キロのトンネルを体験したいものである。

溝口
梶ヶ谷駅から溝の口に向う。溝の口の街並みが丘の下に広がる。結構な標高差。坂道をくだり246号線にそって歩を進め、高津区役所交差点に。右折し田園都市線手前の交差点に。溝口のど真ん中。数年前まで、正月に年始・新年会のためで会社の元の先輩の家にお邪魔していた。そのころは、この溝口の駅前は毎年大きく変わっており、毎年道に迷っていた。最近は都市開発も一段落したようで、迷うことはない。

いまはビルが林立するこの溝口。溝のような幅の狭い小さな川が流れ、その溝の入り口にあたるところから「溝口」の地名は生まれた、と。
大山街道の宿場町だった溝口は、多摩川の流れの中から生まれた。『新編武蔵風土記稿』によれば、「白波、岡の下を洗い渺々(びょうびょう)たる流れ」だった多摩川は、その後、川幅も狭まって砂地が生まれる。そこに人家が増え宿場が開ける。僅か百軒程度しかなかった溝口の宿も、いまは川崎市の副都心。JR南武線と東急田園都市線の溝の口駅を利用する一日の乗降客は30万人近い、とか。
ちなみにJR南部線のはじまりは大正初期。多摩川砂利鉄道から出発。路線は南武鉄道と改称。昭和十九年(1944)の春に国有鉄道に買い取られ、国鉄の民営化でJR南武線となっている。

宗隆寺
田園都市線手前の交差点を左折。南武線と交差し栄橋交差点を越える。左手に「興林山宗隆寺」。日蓮宗のお寺である。山門を入ると、本堂の手前左に俳人・松尾芭蕉の句碑がある。 「世を旅に代(とも)かく小田の行き戻り」。

境内の墓地には、この地ゆかりの陶芸家・浜田庄司の墓石もある。溝口駅入口交差点手前左手に溝口神社。どんなものかちょっと覗いてみる。おまいりをすませ歩を進める。

ニケ領用水・新川

少し歩くときれいに整備された水路が。遊歩道になっている。ニケ領用水・新川。水路をチェックすると南に下り、幸区の下平間、横須賀線の新川崎にあたりまで水路が見て取れた。その先は多摩川まで遊歩道っぽい道筋になっている。いつか歩いてみようと思う(後日、稲田堤の取水口から武蔵小杉までニケ領用水を歩き終えた)。

府中街道・高津交差点

高津交差点で府中街道を越える。交差点を越えると町並みが急に落ち着いたものになる。ここは大山道。「溝口村は橘樹郡の北二子村の西に隣れり、江戸日本橋より五里の行程なり、相模国矢倉沢道中の宿場にて、此道村係る所十二町程、其間に上中下の三宿に分ちて道の左右に軒を並べたり、総ての戸数は九十四軒に及べり....村内総て平にしてただ、西の方のみ丘林あり水田多くして陸田少し、土性は真土に砂交じれり」と。
「矢倉沢道中」とは、大山詣りで知られる矢倉沢往還、すなわち「大山街道」のこと。「二子の渡し」、「蔵造りの店」、「溝口・二子宿の問屋跡」「庚申塔と大山道標」など昔の大山街道の名残を残している。

二子新地駅
道脇にある光明寺におまいりし、歩をすすめ二子新地駅で田園都市線に乗り本日の散歩はおしまい。本日のルートは多摩丘陵に連なる下末吉台地にある宮前区の南半分。地形は、小さな谷が入り込み、起伏に富む、地形散歩にとっては魅力的な1日であった。

先日、稲田堤で降り、小沢城址のある丘陵地を歩いた。が、車窓から小沢城址があるこの丘陵より北にも、東西に広がる丘陵がある。京王多摩センターとか南大沢、唐木田などに行く途中、丘陵に囲まれた低地を若葉台まで進む。そんなときにも車窓から眺め、北に広がる丘陵が結構気になっていた。
丘陵の「向こう」はどうなっているのだろう、と。『多摩丘陵の古城址;田中祥彦(有峰書店新社)』を見ていると、多摩川にかかる是政橋の近くに大丸城址がある。是政 の渡しのあった交通の要衝の地。とりあえず、この大丸城址からはじめましょう、ということで、最寄の駅JR南武線・南多摩駅に。京王稲田堤で降り、商店街をJR南武線稲田堤まで歩く。




本日のルート;南武線・南多摩>医王院>大丸公園>普門庵>円照寺>止乃豆乃神社>城山公園>城山交差点>稲城五中入口>百村(もむら)>鶴川街道>武蔵野貨物線>京王稲城駅>尾根越え・迷い道>京王稲城駅

JR南武線・稲田堤駅

JR南武線・稲田堤駅。南武線を利用したのはこれで2回目。最初はもう30年以上も前になるだろうか。印象としては、あまり美しくない客車、どこかの路線からのお下がりといった印象であった。
南武=南武蔵=川崎を主舞台とするこの路線、はじまりは多摩川砂利の運搬、その後は青梅や五日市の石灰を京浜工業地帯に。日本鋼管とか浅野セメントに運んで いた、とか。そういえば秩父駅で見た武甲山など、石灰の採掘のため山肌が強烈に削り取られている。また、先日歩いた青梅の辛垣城址も大正時代まで石灰の採掘が続いていたとのこと。

ともあれ、南武線、なんとなく野暮ったい、と思っていたのは砂利とか石灰の運搬、といったところにあったのだろうか。が、今回乗って車体も新しい。川崎と立川を結ぶ、あたりまえのコミューター列車と様変わりしていた。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図

南多摩駅
矢野口駅、稲城長沼駅と進む。矢野口って合戦、矢合わせの名残の地名だろうか。電車はどんどん丘陵から離れてゆく。が、南多摩駅に近づくにつれ、電車は再び丘陵に接近。一安心。南多摩駅で下車。いやはやローカルな雰囲気一杯の駅。ともあれ、本日の散歩を開始する。

例によって駅前の案内板で大丸城址と付近の見所を確認。大丸城址は案内にはない。城山公園の表示。それが城址だろう。駅付近に医王院とか普門院とか円照寺といったお寺。そして円照寺の近くに大麻止乃豆乃天神社(おおまとのつのてんじんしゃ)。なんとなくありがたそうな名前。

大麻止乃豆乃天神社
駅を離れ、川崎街道に出る。右手に進み医王院。左手に戻り小高い丘にある普門院、円照寺をちらり拝見しお寺左手にある石段をのぼる。大麻止乃豆乃天神社(おおまとのつのてんじんしゃ)に。ひっそりと、かつ、こじんまりした神社。延喜式内社と言われている。が、青梅の武蔵御獄神社も延喜式の大麻止乃豆乃天神社である、と。どちらもエビデンスに乏しい。武蔵府中の大国魂神社も武蔵の六所宮を集めて総社となる以前は、大麻止乃豆乃天神が祀られていたわけで、どうしたところで大麻止乃豆乃天って、神結構由緒ある神社ではあったのだろう。

祭神は櫛真知命(くしまちのみこと)。火難・盗難よけの神。江戸時代には「丸宮社」と呼ばれていた。地名の大丸(オオマル)も大麻止(オオマト)の訛りではないかとも言われている。ちなみに、川の中洲のことを間島(まと)、とも。間島への船着場を「大間島の津」=おおまとのつ、と言う人もいる。川の中州の船着場がそれほどありがたいともおもえない。ともあれそのうちにこのお宮さんの由来など調べておこう。

力任せに丘陵に取り付く
お宮を後に城山向う。川崎街道に戻り、南多摩駅交差点を左折し峠道に進む。直ぐに右手に丘陵へ登る道。城山への道には少々早いかとも思ったが、丘に登る。これが大失敗。道なき道を進むはめになる。すぐに休憩所。

なんとなく道がある。先に進む。金網が続いている。金網に沿って踏み分け道。何とか進める。どうしたところで、オンコースではなさそう。進む。左下にいかにもオンコースの舗装した道が見える。が、ここまで来た以上、進むしかない。ということでなんとか広場に到着。
後からわかったのだが、この金網の向こうはどうも米軍多摩サービス補助施設らしい。米軍で、働く人のレクレーション施設です。野球場、ゴルフ場、アーチェリー、などなどがあるようだ。?昔は陸軍の弾薬庫だったわけだし、不法侵入しなくてよかった、よかった。


大丸城址
広場から尾根に向って登る木の階段。結構きつい。尾根に上ると快適な散歩コース。が、どこにも大丸城址の案内はない。何回かおこなわれた発掘調査によれば、山頂部には主郭とかちょっとした建物跡、その周りには空堀と土塁といった曲輪程度。要は見張り台程度の山城があったよう。

城山交差点
道なりに下ると向陽台の城山交差点に出た。城山交差点あたりの景色、なんとなく見覚えがある。会社の同僚を車で送ったのはたしか、このあたり、などと思い起こしながら、向陽台2丁目の稲城5中入口交差点に。東に向って道路が作られている。

稲城駅
百村(もむら)に入り、松の台通りを鶴川街道に下る。結構な坂道。魅力的な地形のうねり。鶴川街道に下り、武蔵野貨物線の高架下を通り、三沢川を過ぎ稲城駅に到着。
稲城駅からは、よみうりゴルフクラブのひろがる丘陵を横断することに。道があるのかないのか、そもそもゴルフ場を突っ切ることができるのか、すべて不明。とりあえず、当たって砕けるだけ。折りしも雨。雨あしも次第に激しくなる。傘を差し、城址橋から山裾に続く大通りを進む。

行き止まりにパン屋。脇から少し進むが結局行き止まり。戻る。山裾を少し西に。山に入る道を探す。武蔵野貨物線・生田トンネルの入口近くから山に入る道。ちゃんと整備されている。これなら、と進む。

道に迷い右往左往

成り行きに進む。西に進んでいるよう。畑地に。さらに進む。行き止まり。戻る。東に進み、南に下る。西と南に進む道の分岐。はてさてどちらか、と迷う。南に。後から分かったのだが、西に進めば尾根道に通じていた。が、南に進む。
東に折れ、北に進みそれから大きく時計方向逆回り。里に下りる。着いた。丘陵を越えた! あれ、どこかで見たことがある景色。結局廻りまわってもとのパン屋の近くに戻ってきた。ガックシ。本日、これ以上歩く気力なし。雨も更に激しくなる。中止。次回再チャレンジとする。

稲城の地名の由来

稲城の地名の由来は不明。稲毛一族の本拠の地であるので、「稲毛」であれば問題もないのだが、どこかの記録に、どういった理由か分からないが「稲毛」を不可 とし「稲城」とした、と。稲をつかって小沢城とか大丸城を護ったことに由来する、などと言われる。が、真偽の程不明。ともあれこの地名は明治22年につくられた。東長沼、矢の口、大丸、百村、坂浜、平尾の6つの村があつまり稲城村となった、という。
壊滅的に気力を失った稲城丘陵越えの敗者復活戦。どこからはじめるか、少々迷った。先回挫折の稲城駅から、とも思ったが、稲田堤から小沢城址を歩いたとき、うっかり行き忘れた穴沢天神が気になっていた。で、結局は京王読売ランド駅で下車。リベンジ散歩を始める。



本日のルート;京王読売ランド駅>穴澤八幡>威光寺>弁天洞窟>読売ゴルフ倶楽部>日本山妙法寺>稲城駅>鶴川街道>(坂浜)>駒沢学園入口>高勝寺通り>高勝寺>東京よみうりカントリークラブ>平尾浄水場>平尾・坂浜境界尾根道>京王若葉台駅

京王読売ランド駅

結構素朴な駅。遊園地への入口というからにはもう少々はなやかな雰囲気とは思った。が、ローカル色一杯の駅である。周辺の町並みは平屋が多い。駅前の案内で天神さんをチェック。京王線に沿って東に戻る。
道なりに進んでいると神社への登り口。坂道をのんびり進む。あとでわかったのだが、登り口はいくつかある。三沢川沿いの鳥居から石段を登るのがメーンエントランス、かも。ともあれ神社に。

穴沢天神
境 内にはいかにも天満宮といった拝殿と神明造りの本殿。近辺にある洞窟というか横穴墓がその名の由来か、阿那臣(アナノオミ)之祖といわれる天押帯日子命(アメオシタラシヒコノミコト)をお祀りしているのがその名の由来か、定かには知らねども、天押帯日子命(アメオシタラシヒコノミコト)って小野臣の祖ともいうし、小野一族って小野田の小野神社に祀られているように多摩に覇を唱えてた、ともいうし、なんとなく阿那臣がアナザワ神社の由来では、とひとり解釈で大いに納得。

弁天社御神水
境内を離れる。弁天社御神水の案内。石段を下りる。ポリタンクに名水を入れる多くの人たち。どんなもんか飲んでみたいとは思ったのだが、順番待ちをするのもなんだかな、ということで、横の弁天様の洞窟にひょいと足を踏み入れ、そしてお宮を離れる。

弁天洞窟
弁天洞窟のある威光寺に向う。読売ランド駅の西より、丘陵を越える車道を登る。この道は、先日稲田堤から歩き、寿福寺、そして細山地区の香林寺に行く途中で交差した丘陵越えの道。
すこし上ると威光寺。お寺そのものは、さりたることもなし。弁天洞窟に。この洞窟、もとは横穴墓。明治に入って石仏を祀るために拡張したもの。

中にはいると、二匹大蛇の彫り物や、23体の石仏が祀ってある。十五童子の石仏は、もとは穴澤天神の弁天社に安置されていたものという。洞窟内は明かりな ど、なにもなし。拝観料300円を払って、蝋燭と蝋燭立てのセットを渡され明かりをとる。洞窟は全長65メートル・広さ660平方メートル。横浜市栄区の「田谷の洞窟」には規模で少々劣るものの、それでも関東屈指の胎内巡りの洞窟ではありましょう。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)


峠道を登る
威光寺を離れ、峠道を登る。途中、日向ぼっこのおじいさんに、「稲城に向う尾根道はありますか」と。峠近くまで登り、そこから日本山妙法寺に向かう脇道に入れば行けるとのこと。
車の往来の激しい峠道とは別に、バイパス、といっても直登ルートを歩き、お寺への案内を目印に脇に入る。

日本山妙法寺
道なりに進む。左手はゴルフ場・よみうりゴルフ倶楽部。フェンスに沿って進む。日本山妙法寺に。お寺さん、って感じがしない。いわゆる新興宗教っぽい雰囲気もあるのだが、そういった団体のもつ安っぽさは感じられない。とはいうものの、仏舎利塔にしても本堂にしても、日本風なのかインド風なのか、という感じ。 こんないい場所、こんな広い敷地をもてるなんて、一体全体どんなお寺さん、か。調べてみた。
藤井日達師がはじめた宗派。黄色いインド風の僧衣をまとい、団扇太鼓で「南無妙法蓮華経」と唱えながら歩いている人たちがこの宗派。藤井日達師といえば世界の平和運動に貢献された方として有名。

尾根を成り行きで西に向かう
本堂脇の雑木林に入る。すぐに行き止まり。もとのゴルフ場脇の道に戻り、先に歩を進める。しばらくはフェンスに沿って歩く。が、フェンスから離れてくる。はてさてどこに連れてゆかれるものやら。

道 なりに進む。畑地に。なんとなく先回歩いた畑地のような気もする。少々悪い予感。が、なんとか先に続く道。いくつか分岐もあった。右にも左にも折れることなく、イメージを頼りに西に向う。どうせなら尾根道を進みできる限り西に下り、少々オーバーではあるが尾根道縦走を試みる。

しばし歩く。と、谷戸を隔てて西に別の尾根が見える。なんとなく駒沢女子大・短大のある丘陵ではないか、と。もう一筋南に進んでおれば、とは思うも、後の祭り。道は次第に下りに。しばし進むと里山というか麓の畑地に。更に下る。広がり感のある眺めが心地よい。

百村地区

低地に線路。京王相模原線だろう、か。川筋が。三沢川だろう、か。右前方に高架。武蔵野貨物線にちがいない。ここは百村にちがいない。
先回向陽台から下ったほとんど同じあたりに下りてきた。百村地区。ひと尾根北ではあったけれど、ほぼ縦走、したと言えないこともない。

鶴川街道・駒沢学園入口交差点
少々満足し、京王線をくぐり鶴川街道にそって流れる三沢川脇の遊歩道に。坂浜地区に進む。東橋で鶴川街道と交差。車の往来の多い鶴川街道を登る。駒沢学園入口交差点に。車の排気ガスもうざったい。

高勝寺
眺めると、京王相模原線の東に、線路に沿っての上り道。高勝寺通り。少々きつい坂を登る。坂の途中に高勝寺。品のあるお寺さん。真言宗の古刹。カヤの大木が保存されている。ケヤキ一本つくりの聖観音像が有名。有名という所以はそれが平安時代の作であろう、ということ。平安時代にすでに仏像をつくり寺院をつくる勢力がこの地にいた、ということだ。

坂浜上水局交差点を黒川方面に

お寺を出て先に進む。長い峠道。進むと天神通りと合流。道筋に天満神社があるからだろう。道路左手はゴルフ場・東京よみうりCC。更に進み、坂浜上水局の交差点に。道なりに下れば平尾、金程をへて新百合丘。以前歩いた道と繋がる。はてさてどうしよう。先に進むか、右に曲がるか、左に曲がるか。
結局右に折れ、尾根道をひたすら黒川方面から若葉台へのルートを選ぶ。理由は、新百合ヶ丘で小田急に乗るより、若葉台で京王に乗るほうが家路への段取りがいい、と思った次第。

学園通り

右折し道を進む。学園通りと呼ばれている。稲城二中とか日大のグランドがあったり、若葉総合高校が道筋にあるから、だろう、か。稲城二中からブラスバンドの曲が流れる。青春であるなあ、と、心躍る。
日 大商学部稲城総合グランド脇に。見晴らしすこぶる良し。素敵な眺め。この坂浜地区は坂と丘陵のまち・稲城の中でも特に豊かに広がる景観が魅力的な地区。三沢川・鶴川街道を隔ててみえる、長峰地区の団地群、多摩カントリークラブの丘陵地の広がり感も心地よい。このあたり、鐙原(あぶみがはら)とか鐙野(あぶみの)の峰とも。

鐙原の峰
『古くより世に武蔵鐙と称するものあり、此処に遷されたる高麗人の造るところと云。【盛衰記】に、畠山 重忠小坪合戦の時、武蔵鐙を用ゆと云。。。(新編武蔵風土記稿・高麗郡総説)』、と。1180年、神奈川・逗子の小坪坂で行われた畠山重忠と三浦一族との合戦の時、重忠が乗った馬のあぶみに「武蔵鐙」が使われていたとする。坂浜で発見されている鍛冶工房址も9世紀前半のものではないか、と言われている。
坂浜村;「小沢郷諸岡庄府中領と唱う。橘樹、都筑両郡の界に接す。村名の文字はいま「坂」の字を書きてサガと唱う。正字に書くときは嵯峨浜なり。鄙野の方言にて坂をサガと唱うることあり。嵯峨と坂を誤れることにぞ。又、一説に、ここに古え武蔵鐙を作りしもの住せし地ありともいえり。武蔵鐙は高麗人が作りはじめしといえば、按ずるにその鐙師の先祖高麗人の名などよりはじまりて村名に伝えしにやと伝うれども、信用なりがたし」。

鐙野;村の小名なり。伝云 ここは往古鐙作りの住せし地なるゆえ、名に唱うと。さすれば、古えの名産なる武蔵鐙と称せしものならん。その鐙師の祖は高麗国より帰化せしものの子孫なり。又云武蔵鐙は五六鐙のことにて、その製軽くして軍用に便りよきゆえ用いられたる製作なり。いつの頃より始まれるということも詳かならねど、或説云光仁天皇宝亀十一年(七八○)勅して、諸国にて造れる年料の鉄甲胃はみな革を以て造り前例の如く上貢せよ。革の製は躬をつつみて軽便なり。箭にあたりて貫きがたし。その製作もなし易しと
のことを以て、諸国へ命じ給いし頃、鉄鐙もまた軽きを用いられし勘より高麗人の工夫を以て作り出せしものならんといえり」、と。高麗郡と密接な関係がある伝承でもあり、日高・高麗の地に高麗郡をつくる以前の高麗人が住んでいたのは、このあたりだったのだろうか。想像が拡がる。

京王若葉台駅
道なりに進めば若葉総合高校前を通り若葉台駅に至る。が、左に雑木林。あの林の向こうは黒川方面。以前歩いたときは日が暮れて真っ暗。歩道もなく車に惹かれそうになりながら越えた、あの黒川って、どんな
ところか見たくなった。
で、 雑木林方面に。畑地が。進む。行き止まり。少し戻る。なんとなく先に続く雰囲気の道筋。雑木林に入る。次第にブッシュ。どんどん進む。左手は畑地が広がる。イメージとしては、丘陵から黒川が眺められると思ったのだけれども少々期待はずれ。が、里山の景色はなかなかいい。ゆったりと道をくだる。京王線の高架下をくぐり、線路にそって西に。三沢川を越え、京王若葉台駅に到着。本日の予定終了。坂浜の里山は結構よかった。

東京の下町低地,広義での利根川の河口部=沖積地、の散歩には今ひとつ意欲が湧かなかった。理由はひとつだけ。地形のうねりが感じらづないから。ゼロメートル地帯というか、マイナス3メートルのところもある、という。凸凹のない地形散歩ってポイントが絞れない。とはいうものの、深川不動とか富岡八幡に行ったり、清澄公園とか深川江戸資料館に行ったり、吉良邸とか回向院、江戸東京博物館に行ったり、錦糸町で飲み会の後夜中に新宿まで歩いたりはしていた。が、今ひとつこれといった散歩ターゲットがみつからない。はてさて、と地図を眺めていた。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)





と、隅田川から荒川に繋がる川筋がある。小名木川という。名前が面白そう。一体どんな由来のある川筋なのだろう。調べてみた。江戸開幕の折、千葉・行徳の塩を江戸に運ぶため開かれた堀・運河である。江戸城の和田倉門から道三堀、日本橋川を経て隅田川、隅田川から荒川まで小名木川、荒川を越え新川(船堀川)から旧江戸川を経て行徳まで連なる塩の道。散歩のストーリーとしては美しい。ということで、道三堀・日本橋川から行徳までの川筋散歩に向うことにした。(火曜日, 2月 07, 2006のブログを修正)




本日のルート;JR水道橋駅>神田川と日本橋川の分岐点>三崎橋>新三崎橋>あいあい橋>新川橋>堀留橋>南堀留橋>俎橋>宝田橋>雉子橋>一ツ橋>錦橋>神田橋・日比谷通り交差>鎌倉橋>常盤橋>新常盤橋>一石橋>西河岸橋呉服橋>日本橋>江戸橋>鎧橋>茅場橋>豊海橋>隅田川>隅田川大橋西詰め>箱崎の東京シティエアーターミナル>半蔵門線・水天宮前

道三堀
道三堀。家康が城普請よりなにより、先ず最初に手がけたのはこの堀の開削工事。未だ天下人とはなっていない時期なので、天下に「お手伝い」の号令を出すこともできず、家康の家臣のみて工事を始めた。慣れぬ土木仕事に家康家臣は苦労した、とか。流路は和田倉門・辰ノ口、現在のパレスホテルのあたりから始まり大手町交差点を経て呉服橋門あたりまで。およそ1キロ程度の運河。後に日本橋川に合流することになる。
名前は、この運河の近くに徳川家の典医・曲直瀬道三邸があったから。とはいうものの現在は埋め立てられ跡形もない。であれば、日本橋川との合流点・呉服橋あたりからはじめるべし。とは思いながらも、どうせのことなら、日本橋川のスタート地点から歩を進めることにした。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)


神田川と日本橋川の分岐・三崎橋

日本橋川は中世の平川、もともとの神田川のルートにあたる。つまりは飯田橋・水道橋のあたりから日比谷入江に注ぐ川筋である。現在の神田川は1620年頃の第三次天下普請により、御茶ノ水の台地を切り崩し直接隅田川に流れ込む川筋となっている。理由は、江戸のお城への洪水を避けるため。
日本橋川と神田川の分岐点に歩を進める。JR総武線・水道橋で下車。少し飯田橋に戻ると神田川と日本橋川の分岐・三崎橋。ちょっと昔まで、このあたりにJRの貨物駅があったような気がするのだが、今は都市開発ですっかり様変わりである。

堀留橋

目白通りと水道橋西通りの間を流れる川筋に沿って歩く。三崎橋>新三崎橋>あいあい橋>新川橋>堀留橋で専大通りと交差。堀留とは、川を上流から埋め立て下流部分を水路として残したものを言う。江戸のお城や日本橋への洪水を避けるため、御茶ノ水の台地を切り崩した瀬変えにともない、三崎町から九段までを埋め立てた。で、この堀留が海浜部から内地に最も入り込んだ水路。この湊町を基点に九段の台地上の旗本屋敷へ生活物資を送り込んだわけだ。

雉子橋
南堀留橋>俎橋>宝田橋>共立女子大脇の雉子橋と進む。江戸時代、唐国からの使者の接待に雉子にまさるものなし、ということで雉子を集めた小屋をつくる。その小屋近くにあった橋であったので、雉子橋と。
毎日新聞社と丸紅の脇に一ツ橋。家康入府の折り、大きな丸太一本の橋があったので一ツ橋。後に知恵伊豆こと松平伊豆守の屋敷があったので、伊豆橋と呼ばれたこともある、という。平川門に通じている。平川門は「不浄の門」とも呼ばれ、江戸城内の罪人などの運び出すときに使われた、と。刃傷事件を起こした浅野内匠頭もこの門から城外に出たと、言う。また、通常は大奥の通用門であった、とか。

神田橋
錦橋から神田橋に。土井大炊守利勝の屋敷があったので大炊殿橋と呼ばれたことも。神田橋門は将軍菩提寺の上野寛永寺への参詣の道筋でもあり、警護はことのほか厳しかった、と。現在は日比谷通り。

鎌倉橋
外堀通りとの交差点・鎌倉橋に。家康入府の折、この河岸に建築資材である木材・石材が相模の国鎌倉から数多く運び込まれたのが名前の由来。佐伯泰英さんの『鎌倉河岸』は今は高速道路に覆われている。






常磐橋
JR京浜東北線を越えれば常盤橋。三代将軍家光の頃、大橋とも浅草口橋とも呼ばれていた。しかしその名前、よろしくない、とのことで町年寄・奈良屋市右衛門が改名案を考えるように命じられた。で、家に寄宿する浪人に相談。金葉集、太夫典侍の「色かへぬ松によそへて東路の常盤の橋にかかる藤波」、これって歌の心を松平にかけて、おめでたい名である、ということで橋の名に。
江戸城外郭の正面にあたり、常盤橋御門と呼ばれる重要な門があった。橋の傍にある公園には江戸城の威容を今に伝える4mの石塁が残っている。渋沢栄一の銅像も。

竜閑橋交差点
鎌倉橋から常盤橋に進む途中、JR京浜東北線の手前で道が二つに分かれる。その分岐点の名前が竜閑橋。JRを越えるところに今川橋という交差点もある。今は川筋とてないが、往古竜閑川が神田川へと流れていた名残だろう。

一石橋
新常盤橋を越え一石橋に。橋の南北に商人・後藤家が二軒。五斗(ごとう)+五斗=一石が名前の由来。洒落ている。西詰めに「迷い子の志るべ」。江戸時代の迷い子探しの伝言板。当時このあたり、人で賑わっていたのだろう。

西河岸橋
西河岸橋。川や海に面した町屋敷・町人の「荷揚げ」の地を河岸(かし)という。で、荷揚げだけに留まらず市が立つのは自然の成り行き。水路に沿って多くの河岸ができることになる。地名を冠したもの、扱う商品を冠したものなどさまざま。西河岸周辺だけでも魚河岸、裏河岸、米河岸、四日市河岸(木更津河岸)など。行き先の地名を冠した行徳河岸も。行徳からの船便の到着する場所であったのだろう。江戸には65もの河岸があった、とか。ちなみに同じ荷揚げ場所でも武家の場合は「物揚場」と呼ばれた。

鎧橋
呉服橋から日本橋へと進む。で、江戸橋を越え、鎧橋に。明治5年に架橋。兜町(かぶと)に鎧橋(よろい)って、出来過ぎ。米や油の取 引所、銀行や株式取引所でにぎわっていた、とのこと。当時の風景を谷崎潤一郎は「兜橋の欄干に顔を押し付けて水の流れを見ていると、この橋が動いているように見える。私は渋沢邸のお伽のような建物を飽かずに見入ったものである。。。」。対岸の小網町には土蔵の白壁が幾棟となく並んでいる、といったことが案内されていた。異国情緒の景観があったのだろう。ちなみに、橋ができるまでは「鎧の渡し」と呼ばれる渡船場があった。

亀島川分岐
日枝山王神社の御旅所などにお参りし、先に進む。茅場橋を越え、湊橋の手前に亀島川との分岐が。江戸橋付近には木更津漁師の拝領地があり、木更津・銚子方面への船便で賑わった。木更津河岸と呼ばれた所以か。

豊海橋
茅場橋から湊橋。茅場は茅を扱う商人が多く住んでいたから。そして隅田川の手前に豊海橋。橋のそばに高尾稲荷起縁の地の案内。「江戸時代この地は船手組持ち場であったが、宝永年間、下役の喜平次が見回り中に対岸になきがらが漂着しているのを見つけ、手厚く葬った。吉原の高尾太夫が仙台藩伊達綱宗候に太夫の目方だけ小判を積んで請出されたがなびかず。ために、隅田川三又の船中で吊し切りにされ河川を朱に染めたという。事実かどうかは定かではない。が、世人は高尾をまつり当時盛んだった稲荷信仰と結びつき、高尾稲荷社の起縁となった」と。

隅田川
で、隅田川に到着。川沿いを隅田川大橋まで登り、箱崎の東京シティエアーターミナルを越え、半蔵門線・水天宮前で地下鉄に乗り、本日の散歩終了。
今日、何年か振りに交換した携帯のナビおよび写真を使う。案内板など写し、ミニSDをPCに移し参考にしながらメモを取る。結構イケてる散歩になってきた。

先回は日本橋川を下り隅田川まで歩いた。今回は隅田川から荒川までを小名木川を歩く。小名木川は家康が行徳の塩田地帯でつくられる塩を江戸に運ぶためにつくった川筋・運河。葛西から船橋にかけての一帯は鎌倉時代から塩の生産地。北条氏に年貢として納めていたともいう。海浜地帯であることは塩をつくる必要条件としても、十分条件は燃料である薪の確保。利根川・江戸川水系の水路のネットワークにより燃料供給が安定していたことが、この地で塩田が発達した要因という。ともあれ、清洲橋の少し北で隅田川から分岐する小名木川に向う。(水曜日, 2月 08, 2006のブログを修正)



本日のルート;新小名木川水門>高橋>西深川橋>東深川橋>大富橋>新高橋>(扇橋)>新扇橋>小松橋>小名木川橋>小名木川クロバー橋>横十間川親水公園>進開橋>丸八橋>番所橋>旧中川>中川大橋>大島・小松川公園>小名木川排水機場>荒川>新船堀橋>中川>船堀橋>都営新宿線船堀橋

小名木川

小名木川は、隅田川から荒川、正確には荒川の手前の旧中川まで江東区を東西に横断する長さ5キロ弱の一級河川。家康の命により小名木四郎兵衛がこの運河を開削したのが名前の由来。もっとも、これも諸説あり、うなぎがよく採れたのでうなぎ川、それがなまったという説などいろいろ。
もともとは行徳(千葉県市川市)の塩を江戸に運ぶために開削された。が、後に、関西地方から江戸に塩がもたらされるようになってからも、東北や北関東からの生活物資を江戸に運ぶ重要河川としてその役割を担った。房総、浦賀といった太平洋の海の難所を避け、茨城あたりで内陸に入り、利根川・江戸川経由で小名木川、そして江戸に続く、いわゆる奥川廻し、この内陸水路をつかった水運ネットワークの一環として機能したのだろう。ともあれ、歩をすすめることにする。

万年橋
隅田川から分岐した小名木川にかかる最初の橋が万年橋。橋の北に「川船番所跡」の案内。深川番所・川船番所・深川口人改の御番所とも呼ばれる。海の関所といったところ。水路をとおって江戸に出入りする人や荷を監視するため隅田川口に設けられた。人の通行改めはそれほど厳しくはなかったが、川船に積まれた荷物、とくに米、酒、鮮魚、野菜、硫黄、塩などの監視は極めて厳しかった、とか。万年橋は元番所橋ともよばれる。
万年橋近辺には俳人・松尾芭蕉ゆかりの地がいくつかある。常盤1-3-12の芭蕉庵跡・芭蕉稲荷。1680年にこの地に庵を結び、1694年に51歳でなくなるまで、この地から全国への旅に出た、と。「こゝのとせ(九年)の春秋、市中に住み侘て、居を深川のほとりに移す。(しばの戸)」。「深川三またの辺に草庵を侘て、遠くは士峰の雪をのぞみ、ちかくは万里の船をうかぶ(寒夜の辞」」。北斎の富嶽三十六景「深川万年橋下」の光景か。新大橋通り方面に少し上ると、芭蕉記念館もある。逆に、清澄通りを少し南に下り、海辺橋の南詰めに採茶庵跡。庵と芭蕉の銅像があった。

新小名木川水門
万年橋から少し進む。新小名木川水門。隅田川からの逆流を防ぐための水門、とか。工業化・地下水汲み上げの影響による地盤地沈下により、小名木川筋のほうが水位が低い。仙台堀を歩いていたとき、木場公園のあたりで防水工事案内を目にした。大潮の干潮時の水位をゼロとすれば、満潮時は2.1m。堤防の高さは6.4m。今立っているあたりは2.5m。昭和34年の伊勢湾台風のときは潮位5.1mまでになったという。堤防がなければ完沈である。台風などの水害防止のためにも水門が機能しているのだろう。

高橋
清澄通りに架かる高橋に進む道筋の南、清澄3丁目には大鵬部屋・北の海部屋・尾車部屋などといった相撲部屋も見られる。高橋って、もともとは橋の中央が盛り上がる、というか「高く」なっていたためつけられた名前。水運華やかなりし川ではの、名前ではあろう。

新高橋
川筋に沿ってつかず離れず進む。西深川橋から東深川橋三つ目通りにかかる大富橋、そして新高橋。先ほどの高橋とこの新高橋、このペアに近いものが近くの川にもあった。日本橋川が隅田川に流れ込む手前に分岐している亀島川に架かる高橋と南高橋。それがどうした、と言えば、それだけのことではあるのだが。。。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)


大横川と交差
新高橋を越えると小名木川は大横川と交差する。川筋には道がないので、一度清洲橋通りまで戻り扇橋を渡り、新扇橋から小松橋へと進む。小松橋は鉄骨組みのトラス橋。

扇橋閘門(こうもん)
小松橋と新扇橋の間に水門が。扇橋閘門(こうもん)。江東区の東は西と比べて地盤が低いので、水害防止のため東側地区の水位を常に低くしておく対策を実施。水門で囲えばいいわけだろうが、通船の水路確保のために閘門を設けることになる。閘門とは、京都の琵琶湖疎水のインクラインと仕組みは同じ、か。水位差のある箇所をふたつの水門で囲う。片方の水門を開けて船を入れる。このときの水位は水を入れた側と同じ。次に水門を閉じポンプで水を注入する、あるいは排水して反対側の水位と合わす。水位が合うと、出る側の水門を開き船を通す、という段取りとなる。パナマ運河の小規模版といったもの。付近に製粉会社が目に付く。新扇橋のたもとに、日本発の蒸気機関をつかった製粉工場をつくった雨宮啓次郎さんの碑があった。

小名木川橋
小名木川橋。南の東陽町から北の錦糸町を経て押上に通じる四つ目通りに架かる。この橋というか、四つ目通りを境に、東西の街の相が少々異なる。西は昔ながらの下町、東は新開地といった雰囲気。民家の多い東と団地の多い西、生活道路中心の東と幹線道路が南北に走る西、と言った感じもする。
歴史的にみても江東区はこのあたりを境に西が深川区で東が城東区。もっと歴史を遡ると、江戸の時代深川まで、つまりは四つ目通りあたりまでが江戸の内、それより東は外縁部であった、とか。川筋の遊歩道も小名木川橋より西は途中で突然道がなくなる。が、これより東は整地された遊歩道が完備、といった按配であった。歩いてわかる街の姿、ではあります。

小名木川クロバー橋

川筋をすすみ小名木川クロバー橋に。横十間川との交差点。交差点をクロスしたX型の橋。南は横十間川親水公園となっている。少し下ってみたが、結構いい雰囲気の散歩道となっている。JRの貨物駅の脇を進み進開橋に。明治通りとの交差点。川の北側は大島地区。正倉院文書に葛飾郡大嶋郷と記されている。それがこの地の名前の由来かどうか、定かならず。

中川船番所
丸八通りにかかる丸八橋を越え少し進むと仙台堀川公園が分岐。仙台堀は南に下り、葛西橋通りあたりで西に向い、小名木川のひと筋南をほぼ平行に開削されている。
旧中川の手前に番所橋。隅田川口、万年橋北詰めにあった深川口船番所・深川口人改之御番所が1661年、この地に移転し中川船番所に。中川・小名木川・新川(船堀川)が交差するこの地におかれ、人や物資の取り締まりをおこなった。ただ、通船数が多くなるにつれ、通関手続きは形骸化し「「通ります通れ葛西のあふむ石」と川柳で揶揄されてはいたようだ。

荒川ロックゲート
川筋を一筋北にのぼり旧中川にかかる中川大橋を渡り、小高い大島・小松川公園を眺めながら小名木川排水機場に。荒川ロックゲートとも呼ばれている。扇橋閘門と同じ原理での水門。荒川と中川の水位差を調節している。荒川に沿って新大橋通りに。東に向かい荒川にかかる新船堀橋を歩く。中堤に首都高中央環状線が南北に走る。高架下をくぐると中堤を隔てたほうひとつの川・中川。船堀橋を渡り都営新宿線船堀橋に到着。本日の予定終了となる。


塩の道散歩の第三回は、荒川から旧江戸川に抜ける新川を進み、途中から古川に入る。もっとも、古川には、散歩の途中でほんの偶然に出会ったのだが、ともあれ、新川ができる前の古い川筋・古川に入り、行徳に至るルートを歩く。
新川・古川筋を船堀川とも呼ぶ。正確には、古川筋をすすみ、新川に合流し中川に注ぐもともとの川筋の名前が船堀川。古川・新川の合流点から東に真っ直ぐ旧江戸川に貫く新しい水路を新川。ために、それ以前の旧江戸川から新川との合流点までの、いわゆる取り残された川筋を古川、と読んでいる。(木曜日, 2月09, 2006のブログを修正)



本日のルート;新川排水機場>新川>宇喜田橋>新海橋>三角橋>新川橋>古川親水公園>環七通り>瑞穂大橋>今井水門>旧江戸川>新中川分岐>旧江戸川に戻る>常夜灯>笹屋のうどん跡>行徳駅

都営新宿線・船堀駅

都営新宿線・船堀駅下車。線路に沿って少し戻り、荒川堤に出る。どうせなら、新川が荒川より分岐する箇所からはじめるべし、といった心持。荒川と中川の中堤上を走る高速道路を眺めながら分岐点の新川排水機場に。新川は昔、というか荒川放水路・荒川が明治末期から昭和初期にかけて建設されるまでは、荒川の西を流れる旧中川に流れ込んでいた。荒川放水路の建設によって流れが分断された中川は現在荒川を挟んで泣き別れといった状態になっているわけだ。

新川
川筋に沿って進む。遊歩道が整備されている。快適な散歩道。川幅は最大で21m。ゆったりとしている。先回の仙台堀川親水公園にしても、南十間川親水公園にしても、予想以上に環境整備が進んでいる。水質も予想外に悪くない。旧江戸川の新川東水門で取り入れられた水を新川排水機場で排水することにより、水質を保つという。
快適な遊歩道を宇喜田橋、新海橋、三角橋と進む。川沿いの遊歩道・親水テラスの下は地下駐輪場となっている、とか。

古川
新川橋を越える。左手に古川親水公園の案内。新川?古川?その関連は?上でメモしたように、新川・古川の関連はそ後からわかったのだが、この時は、「古」というわけだから、古川とはもともとの水路であろう、と新川を離れ、古川筋を歩くことにした。
古川親水公園のどのあたりだったか定かではない。古川の案内があった。「古川は江戸川から中川に通じる昔の流路。天正18年(1590)家康江戸入府の後、行徳の塩を江戸に運ぶ重要な水路でしたが、寛永6年(1629年)、現在の三角付近から東へ新たな水路が掘られ、通運の役目はそちらにうつりました。これが今の新川で、北関東や東北からの物資を運ぶルートとして、明治時代には蒸気船が就航するなど、内陸水水運網の大動脈として賑わいました」、と。

その後生活廃水などによりの汚染が進み、川としての生命を失いかけていたが、1974年、1.2キロの親水公園として復活した。これもどこだったか定かではないが、親水公園の川筋のどこかに、公園化するまえの、お世辞にも美しいとは言えない古川の写真があった。
ちなみに「親水公園」という名称。いまでこそあちこちに散見する。が、その第一号がこの古川親水公園であった、とか。汚れた河川は蓋をしたり、埋めたりといった従来の都市河川政策と真逆のこの試み、水と緑に親しめる新しい公園にするこの計画は世界的にも大きく評価される。昭和57年にナイロビで開催された国連人間環境会議で紹介され、国内外の注目を浴びた。親水公園の第二号は同じく江戸川区にある小松川境川親水公園。

環七と交差
しばらく進むと環七との交差点。二之江神社。香取神社と八幡神社を合祀して昭和42年に二之江神社となった。境内は香取神社のもの。境内の欅(けやき)は樹齢500年以上。神社の斜め前に古川けやき公園。その横に妙勝寺。日蓮宗。中山法華経寺の末寺。区内でも古い寺院。「黒門寺」とか「ジョウジン」と呼ばれる。
寺伝によると、13世紀中旬、葛西沖に難船が漂着。童子を二之江村の漁師五郎が救う。童子は平家の末葉であるといわれ、後に僧となり古川べりに草庵を結ぶ。これが妙勝寺の始まり、と。直ぐ近くに蓮華寺。鉄筋のお寺。「虫除け不動」として信仰を集めた。






宇田川家長屋門
しばし進む。遊歩道が終わりとなる。なんだか大きな民家に沿って道なりに進む。戦国時代小田原北条の家臣であった宇田川家の屋敷。立派な長屋門が残る。江戸時代後期に再建されたもの、と言う。門の前には行徳道石造道標。先に進むと旧江戸川の堤防に。旧江戸川に合流する新中川にかかる瑞穂橋まで橋はない。





旧江戸川・熊野神社
北に進む。道脇に熊野神社。創建は18世紀初頭。この神社、「おくまんさま」と呼ばれる。神社前の江戸川は水流の関係で深い瀬となっており、その水流が堤防を壊すのを防ぐため多くの「だし杭(くい)」を打っていた。また、この近辺の水はきれいで、将軍家のお茶の水として使われていた。で、ここらあたりの水を「おくまんだしの水=熊野神社のだし杭いのあるところの水」と呼ばれたのが、その由来。
ここの水は野田醤油の製造に使われたり、本所・深川・大島あたりでもここの水を買って呑んでいた、と。境内に芭蕉の句碑;茶水くむおくまんだしや松の花。深川からこの水を求めて逍遥したときに詠ったものか。

新中川
瑞穂大橋に。左手に今井水門を眺めながら新中川を渡り、旧江戸川の堤に。今井児童公園に沿って歩き、今井橋を渡り旧江戸川南岸に。橋を渡りきったあたりで階段を下り、堤防に向う。

行徳河岸跡

こ れといって情緒のない堤防沿いの道を相之川、湊新田、湊、押切、伊勢宿、関ヶ島、本行徳へと進む。堤防脇に水神さま。まことにささやかなる祠。祠の横に行徳河岸の案内。別名、祭礼河岸とも。貨物専用の河岸であった、とか。





行徳・常夜灯
先に進み常夜灯の碑に到着。昔の航路標といったもの。案内によれば、「寛永9年(1632)江戸幕府は下総行徳河岸から日本橋小網町に至る渡船を許可し、その航路の独占権を得た本行徳村はここに新河岸を設置しました。現在残る常夜灯は、この航路安全祈願のために、江戸日本橋西河岸と蔵屋敷の講中が成田山に奉納したものです。高さ4.31m、石造り、文化9年 (1812)に建てられましたが、昭和45年、旧江戸川堤防拡張工事のため、位置が多少移動されました。この航路に就航した船は「行徳船」と呼ばれ、毎日明け六ツ(午前6時)から暮れ六ツ(午後6時)まで運航されていました。行徳特産の塩を江戸に運ぶのが目的でしたが、成田山への参詣路として文化・文政期(1804~1830)のころからは旅人の利用が多くなり、当初16艘だった「行徳船」も幕末期には62艘にも増え、江戸との往来の賑やかさがうかがえます」、と。
行徳船の数は1671年;51隻、1848年;62隻であった、とか。行徳から日本橋小網町まで3里8丁の長丁場。ために長渡船とも呼ばれた。日本橋川に行徳河岸があったが、それは行徳からの船便の荷揚げ場所だったのだろう。松尾芭蕉、十返舎一九、古林一茶、渡辺崋山といった文人・墨客も行徳船を利用した。

笹屋のうどん跡地

塩の道の散歩はこれで終了。あとは往時、行徳船の利用者で賑わったという笹屋のうどん跡地、といっても普通の民家の軒先に石碑があるだけだが、ともあれ行徳街道を少し戻り場所だけ確認。この笹屋、頼朝と深い関係がある。石橋山の合戦で破れた頼朝が安房に落ち延びる道すがら、この行徳に。当時のうどん屋の主人の接待を感謝し、後に頼朝の家紋「笹りんどう」の紋を与え、店の名前も「笹屋」となった、由。

営団東西線行徳駅

営団東西線行徳駅に。駅前の地図を見ると、本塩・塩焼・塩浜・塩場寺といった地名が残っている。西の赤穂、東の行徳というくらいかつては塩業が盛んな町であったわけだ。「塩は軍用第一の品、領内一番の宝である」、として戦略商品を産する行徳は徳川幕府の天領であった。
江戸の勝手口として繁栄した行徳は「行徳千軒、寺百軒」といわれるほどに発展。誠にお寺が多い。明治に入っても水運が盛んであった。蒸気外輪船が往復する。が、水運を有り難く思うあまり、鉄道敷設に反対。鉄道・総武線は行徳を外し、内陸部を走ることになる。
近代的交通ルートから取り残された行徳は「陸の孤島」と。それに輪をかけて、大正六年の大津波で、塩田が壊滅。広大な湿地と干潟がひろがり、雁や鴨、鷺、千鳥等が群れる鳥類生息地となる。一時さびれた行徳も埋立て事業がスタート。臨海工業地帯に。また昭和44年の地下鉄東西線が開通し、田園地域から一大住宅地帯となり、現在に至る。
行徳の地名の由来;葛飾誌略では、「行徳といふ地名は、其昔、徳長けたる山伏此処に住す。諸人信仰し行徳と云いしより、いつとなく郷名となれり」、と。土地の開発と、人々の教化に努め、徳が高く、行いが正しかったことから多くの人から「行徳さま」と崇め敬われた山伏がその名前の由来、と言われている。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)
今日1月8日は娘の誕生日。誕生日を記念して今年はじめての散歩メモ:正月2日、親戚一同が原宿に集まる。恒例の行事。子供たちにとっては、お年玉を一挙に手に入れるお楽しみの催しではあった。その子どもたちもひとりは大学生、そしてもうひとりは来年大学生。それはともかく、
例年、自宅のある杉並・和泉から原宿まで往復を歩くことにしている。
この原宿から和泉へのルート、お正月だけでなく頻繁に歩く。年末にも原宿で忘年会をしたときも、夜中に自宅まで歩いた。ルートはいろいろ。が、大きく分ければコースはふたつ。和泉から井の頭通りを歩き、代々木公園から原宿駅そして表参道へのコース。もうひとつは和泉から甲州街道を笹塚まで進み、そこから小田急・代々木上原駅、小田急代々木八幡駅を通り代々木公園、原宿駅、表参道に至るルート。途中いろいろと、そのときの気分に応じて、あれこれ分岐はする。が、このふたつが幹線。。
井の頭ルートは比較的単調な地形。唯一変化があるのは、代々木上原駅の南に広がる上原2丁目、3丁目あたりの台地と富ヶ谷の低地。地形のうねりを感じる。一方の笹塚から代々木八幡に抜けるルートは台地と谷が複雑に入り組む変化に富んだ地形。台地末端部の谷、これを開析谷と呼ぶようだが、武蔵野台地が河川によって開析された谷・開析谷が樹枝状に、至極複雑に分布する地形となっている。
台地と開析谷のコントラストは代々木八幡から先の地形がもっとはっきりする。谷筋の山手通りを越える。そこから初台台地の先端に位置する代々木八幡に登る。そして小田急線の走る谷筋に下る。更に代々木公園の台地に登る。台地と谷のコントラスト、地形のうねりをカラダで感じることができる。
で、いったいどういう凸凹になっているのか、カシミール3Dで地形図を作ってみた。いやはや、想像通り、というか想像以上の凹凸。地形図を見ながら、それぞれの谷筋を辿ってみたい、と思った。(日曜日, 1月 08, 2006のブログを修正(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)



渋谷川水系のまとめ
ふと考えた。よくよく考えた。谷筋って、川が流れているはず。とはいうものの、川などありゃしない。が、理屈の上では川が流れていたはず。ということで、西は笹塚から東は原宿、北は幡ヶ谷、南は渋谷にかけての武蔵野台地を開析した川筋・水系跡を探し・辿る散歩をはじめることにした。

カシミール3Dでつくった地形図を見る。東から西に;
1. 新宿御苑から千駄ヶ谷にかけての台地
2. 明治通りに沿った谷筋・開析谷
3. 明治神宮から代々木公園にかけての台地
4. 参宮橋から渋谷に走る谷筋・開析谷
5. 初台から代々木八幡神社にかけての台地・初台台地
6. 山手通りの谷筋・開析谷
7. 甲州街道の幡ヶ谷・初台の中間点から山手通りに斜めに走る谷筋・開析谷
8. 笹塚・幡ヶ谷から代々木上原駅にかけての台地・幡ヶ谷台地
9. 代々木上原から代々木八幡にかけての谷筋・開析谷
10. 代々木上原から駒場にかけての台地

台地と谷が複雑に入り組みながら広がっている。そしてこの谷筋を流れる川はすべて渋谷駅前に流れ込む。正確には流れ込んでいた。東から
1. 新宿御苑、明治神宮の東の谷筋を流れる渋谷川
2. 明治神宮の西の谷筋を流れる宇田川
3. その支流の河骨川、初台川、徳川山支流、富ヶ谷支流

これらすべての川が現在の渋谷駅前に流れ込み、渋谷川に一本化される。それまで暗渠であった川筋は渋谷駅の南、246号と明治通りが交差するあたりで開渠となり、明治通りに沿って南下する。渋谷川水系、渋谷川・宇田川・その他の支流巡りをはじめる。第一回は、渋谷川。源流点から合流点まで散歩しメモする。

渋谷川の源流点・新宿御苑内の湧水
渋谷川の源流点は新宿御苑内にある湧水池。御苑は信州高遠藩・内藤家の屋敷跡。馬術の名手内藤清成が家康候が鷹狩の折、家康より「馬にて一息に駆け抜けた地を屋敷として与える」ということで手に入れたという。

多武峯内藤神社
御苑そばに多武峯内藤神社。内藤清成が乗った馬が供養されている駿馬塚(しゅんめづか)がある。この神社は内藤家の屋敷神。内藤氏の先祖があのムカデ退治・平将門討伐の藤原秀郷とか。藤原氏の氏神多武峯神社を勧請したという。ちなみに新宿の大宗寺は、内藤氏の菩提寺。

新宿御苑
御苑内を歩く。千駄ヶ谷門近くに連なる池がある。これが水源なのだろう。池の端から御苑外に向う川筋があった。ここから始まる渋谷川の流れは、御苑角にある四谷大木戸・玉川上水からの分水、御苑内にある玉藻池からの流れも集め、新宿御苑に沿って下り、大京町の交差点付近からは外苑西通りに沿って流れる。

大京町交差点
御苑に沿っては開渠というか、川筋がはっきり認められる。もっとも水の流れはなにもない。また、大京町の交差点手前で開渠が暗渠になる地点が道路脇にある。

龍厳禅寺で外苑西通りを離れる
大京町から下る川筋は外苑西通りの観音橋交差点、仙寿院前交差点を越え、龍厳禅寺あたりで外苑西通りを離れ南西方向に斜めに流れる。観音橋って、いかにも川筋。仙寿院は徳川家康の側室お萬の方(紀伊徳川家祖徳川頼宣の生母)のゆかりのお寺。江戸名所図会をみると、広大な寺域。門前に小川と橋。渋谷川だろう。江戸切絵図にも、このお寺の前を流れる渋谷川が描かれている。ちなみに、池波正太郎の鬼平犯科帳に「近くの仙寿院という寺の門前を流れる小川に架けられた橋を渡ったのはおぼえているが。。。」といった描写があった。

玉川上水原宿村分水の川筋と合流

龍厳禅寺で外苑西通りを外れた川筋は神宮前3丁目から明治通りにつながる道筋と福祉センター入口手前で交差。このあたりで渋谷川は新宿御苑の西を流れる支流・玉川上水原宿村分水の川筋と合流する。この支流・原宿村分水は文化女子大の近くで玉川上水から分水された水。

明治通りに沿って南下
代々木小学校、小田急南新宿駅、代々木駅前、明治神宮・北参道を神宮の森に沿ってくだり、千駄ヶ谷3丁目西交差点あたりで明治通りに接近。通りに平行に合流点までくだる。少々の蛇行を繰り返しながら表参道との交差点に進むこの道筋は、いかにも「暗渠」道。川筋がはっきりわかる。道の両側には小洒落たお店が並ぶ。

表参道
表参道との交差手間で、支流がもうひとつ合流。明治神宮の湧水池から流れ出し、竹下通りの南を進み明治通りと交差しながらの川筋だ。表参道と交差。参宮橋という橋の名残が残る。とはいうものの、表参道そのものは大正9年にできたわけで、それ以前、先ほどの江戸切絵図によれば、江戸時代このあたりは百姓地・畑である。
ちなみに青山通りから表参道にかけての江戸の風景は、青山通りに沿っては百人町といって御家人の家が軒を連ね、表参道の入口あたりに善光寺。信州善光寺別院。本堂手前左には勝海舟撰文の高野長英顕彰碑。表参道のあたり一帯は松平安芸守、松平近江守、それと井上英之助の屋敷で占めている。

宮下公園あたりで明治通り

散歩に戻る。表参道を越えた川筋は再び小洒落たお店の賑わいを進み、宮下公園あたりで明治通りと合流。合流点手前の神宮前5丁目27に穏田神社。江戸切絵図では第六天社と。もとこのあたりを原宿、穏田と呼ばれていたわけでその名残。明治通りを交差した川筋は、宮下公園、東急インの裏手を流れ駅南の開渠地点へと続く。
ともあれ、渋谷川水系のひとつ、というか幹線・渋谷川。新宿御苑の西の谷、東の谷、つまりは両側の谷筋から水をあつめ、明治神宮というか代々木公園の台地の東側を渋谷に流れる川筋が渋谷川である。

水系近辺の忘備メモ;甲州街道と明治通りが交差する追分の地に天龍寺。家康の側室・西郷の局の実家・戸田家の菩提寺・法泉寺が前身。西郷の局は二代将軍秀忠の生母でもあり、10万石待遇の格式ある寺であった、とか。いかにも鉄筋の本堂はいただけないが、そばにある鐘楼は「時の鐘」として有名。江戸登城にここからでは少々時間がかかるにので、少しはやめて時刻をしらせていたとか。粋な計らい。東京近郊名所図会;『時の鐘、天竜寺の鐘楼にて、もとは昼夜鐘を撞きて時刻を報せり。此辺は所謂山の手にて登城の道遠ければ便宜を図り、時刻を少し早めて報ずることとせり。故に当時は、天竜寺の六つで出るとか、市谷の六つで出るとかいいあえり。新宿妓楼の遊客も払暁早起きして挟を分たざるを得ず。因て俗に之を追出し鐘と呼べり』、と。 


渋谷川水系を巡る散歩の2回目は宇田川散歩。川といっても水はない。一部整備されている遊歩道はあるが、あとは暗渠道とか暗渠道っぽい川筋跡のみ。谷筋の最も低い箇所をひたすら歩き、川筋をみつけだす、そんな散歩ではあった。(月曜日, 1月 09, 2006のブログを修正)



1:宇田川
宇田川は明治神宮・代々木公園の西側の谷筋を流れる。幡ヶ谷、初台、富ヶ谷一帯に複雑に広がる開析谷から流れ出る水はすべて代々木八幡駅前に集まり、ひとつになって渋谷駅近くで渋谷川と合流。後は渋谷川として南に下っていた。

宇田川の源流は西原2丁目
源流というか水源は、西原2丁目。代々木大山公園、国際協力機構、製品評価技術基盤機構などが集まるあたり。国際協力機構の敷地内に池がある。このあたりが水源なのだろうか。とにかくこの西原2丁目、3丁目の地形は複雑。狼谷とも呼ばれている。台地と谷が複雑に入り組む。何度かこのあたりを歩いたが、いまだに土地・方向勘がつかめない。凸凹があり、しかも道筋が地形に逆らわずカーブする。うっかりするとすぐ道に迷う。どちらに向っているのかさっぱりわからなくなる。そんな谷筋の水は代々木上原の駅近くまで下る。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)


代々木駅前で支流が合流
代々木上原駅近くでは、井の頭通り北の大山町からの支流、そして代々木上原駅の南・上原3丁目の谷筋からの支流も合流。小田急の線路に沿った谷筋を進む。元代々木町の交差点近くでは、西原1丁目からの谷 筋、通称徳川山支流の水も集め代々木八幡の駅近くまで進む。代々木上原駅前から続く商店街を一歩入った路地に、いかにも川筋跡といった痕跡が続いていた。

宇田川遊歩道
すべての川筋が集まる代々木八幡駅前。商店街を井の頭通りに向って少し歩く。宇田川の川筋は商店街から一筋東に入る。ここからは宇田川遊歩道として暗渠道が整備されている。

井の頭通りと交差
道なりに進み井の頭通りと交差。井の頭通りは代々木公園の台地手前で右ターン。台地に沿って渋谷に向う。宇田川遊歩道は井の頭通り平行して渋谷に向う。井の頭通りの西側を進む。宇田川町に入り、東急百貨店と東急ハンズの間の三角地点BEAMで井の頭通りと合流。

渋谷の繁華街に
ここから先は渋谷の繁華街で川筋ははっきり確認できない。が、成り行きから推測すれば、合流点から井の頭通りを道なりに進み、西武A館・西武B館の間を通り、井の頭通り入口で明治通りと交差、JRの高架下をくぐり、東急インの裏手あたりで渋谷川と合流する、のだろう。




2;宇田川支流・河骨川を辿る
宇田川本流に続き、支流を辿る。すべて、代々木八幡の駅近くで宇田川と合流する。春の小川で有名な河骨川から:河骨川。コウホネ、って少々無骨な名前。水生植物の名前だが、根が動物の骨に似ていることからこの名前がついた。で、この河骨が群生したのどかな小川が流れていたのだろう。






河骨川は「春の小川」のモデル
この川、小学唱歌「春の小川」のモデル。当時この川筋の参宮橋に住んでいた高野辰之氏、「朧月夜」「ふるさと」で知られる作詞者がこの川をモデルに作詞した。とはいうものの、高野さんの元歌は;
春の小川は さらさら流る 岸のすみれや れんげの花に 匂いめでたく 色うつくしく
咲けよ咲けよと ささやく如く
春の小川は さらさら流る 蝦やめだかや 小鮒の群に 今日も一日 ひなたに出でて
遊べ遊べと ささやく如く
春の小川は さらさら流る 歌の上手よ いとしき子ども 声をそろえて 小川の歌を
歌え歌えと ささやく如く
以下が我々が歌う「春の小川」;林柳波さんが文語を口語に直している;
春の小川は さらさら行くよ 岸のすみれや れんげん花に すがたやさしく 色うつくしく
咲いているねと ささやきながら
春の小川は、さらさら行くよ えびやめだかや こぶなのむれに 今日も一日 ひなたでおよぎ
遊べ遊べと ささやきながら

河骨川の源流は代々木4丁目
河骨川の源流というか水源は甲州街道・初台に近い代々木4丁目・刀剣博物館あたり。複雑な凸凹。大雑把に言えば北、西、東の台地に囲まれたすり鉢低地を川筋が通る。代々木4丁目39あたりからいかにも川筋っぽい道が現れる。
少し歩く。南に下る川筋と西方向・山手通り方面に進む川筋に分岐。西方向への道筋を辿る。山手通りで行き止まり。山手通りを越え初台あたりの玉川上水からの分水だろう、と思う。

小田急参宮橋近くで小田急と交差
南に下る川筋は代々木4丁目の民家の間を縫って進む。小田急参宮橋の少し南で小田急と交差。代々木の青少年センター前あたりで小田急の東側に出る。代々木公園沿いの道路に沿って進む。が、すぐ小田急線路に沿った細い道筋になる。

「春の小川」の記念碑
民家の軒先を進む。代々木小公園前、右折すれば代々木八幡に向う踏み切りの手前に「春の小川」の記念碑。今となっては川もなく、水もなく、人ひとり通れるかどうか、といった暗渠道。線路に沿って代々木八幡駅南に下り、道なりにすすむと駅前商店街・富ヶ谷1丁目7あたりで宇田川の川筋に合流する。

水系近辺の忘備メモ;

明治神宮
河骨川跡を歩いたのはお正月。小田急参宮橋から明治神宮に参拝した。明治神宮は私の結婚式をおこなったところ。少々奮発してお賽銭を。で、明治神宮は明治天皇と昭憲皇太后をおまつりした神社。

代々木公園

初詣をすませ、代々木公園に出る。明治神宮・代々木公園の台地は江戸時代、彦根藩井伊家の下屋敷をはじめとする大名や旗本の屋敷跡。明治になり陸軍の代々木練兵場、終戦後は駐留軍・占領米軍の宿舎のワシントンハイツ、東京オリンピックを機に返還され、オリンピックの選手村になる、といったように歴史の舞台になっている。




代々木公園はしばしば歩く。このお正月も原宿からの帰り、代々木公園を抜けるコースを歩いた。
途中石碑が。「日本航空発祥の地」。1910年(明治43)、この代々木練兵場において徳川大尉が日本初の飛行。アンリ・ファルマン式50馬力複葉機、高さ70m、距離3kmを4分間飛行、 の偉業を記念したもの。歴史の舞台、といえば代々木練兵場には陸軍刑務所があった。いまのNHKのあたりだが、2・26事件に関与した軍人が、軍法会議により銃殺に処せらたところでもある。

いつだったか、代々木八幡の丘から小田急、そして代々木の台地に広がるワシントンハイツの写真をみたことがある。のどかな風景。河骨川はこの風景の中を流れていたわけで、であるとすれば「春の小川」の雰囲気は納得。

渋谷川水系散歩の3回目は宇田川に流れ込む、というか流れ込んでいた支流を巡る。初台川、富ヶ谷支流そして神泉谷からの支流だ。(火曜日, 1月 10, 2006のブログを修正)



1:初台川の源流を辿る
初台川の源流点は初台2丁目14あたり。甲州街道・渋谷本町1丁目から山手通り・初台坂下交差点に抜ける急勾配の坂道からすこし奥まったところにある。すぐ上の尾根道には玉川上水が流れているので、分水か、とも思うが、どうもそうではないらしい。

初台坂下交差点で山手通りに
川筋は初台坂下交差点への道筋と平行に路地裏を下る。坂道も代々木中学あたりまで下ると、往時は一面の水田地帯。「初台たんぼ」と呼ばれ、代々木八幡まで続いていた、とか。
初台坂下に進むにしたがい川筋跡が大きくなる。初台坂下交差点近くには橋の跡が残る。初台坂下で山手通りを越える。山手通りの東、代々木八幡の台地の下を進み、代々木八幡前交差点あたりで再び山手通りの西に。半円を描きながら代々木八幡の駅前に進み宇田川本流と合流。初台川はここまで。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)


代々木八幡
お正月に初台川を歩いたとき、久しぶりに代々木八幡に初詣にでかけた。神社は代々木台地と並んで南に突き出た初台台地の先端・台岬にある。標高はおよそ 32m。境内には縄文時代の遺跡もある。縄文時代、海は台地の下まで入り込んでいた。明治神宮や代々木公園のある代々木台地にも古墳があるように、このあたりの台地上では人々が竪穴式住居をつくり生活していた、という。代々木八幡は代々木村の鎮守。この地に住む鎌倉二代将軍頼家ゆかりの荒井何某が、鎌倉八幡宮にまつわる夢を見た。で、1212年、鎌倉の鶴岡八幡宮を勧請したとのこと。作家・平岩弓枝さんはこの神社のひとりむすめ。『御宿かわせみ』はすべて読み終えた。善き人達の話はいかにも心地よい。

2;富ヶ谷支流の源流を辿る
富ヶ谷支流の水源は上原2丁目23辺り。井の頭通りの上原1丁目の交差点から斜め方向・南西に入る道筋を辿る。いかにも川筋といった道を進み、ゆるやかな台地に登りきったあたりが源流点。

結構複雑な地形の富ヶ谷
台地を歩いたことがある。結構複雑な地形。富ヶ谷、というくらいだから「谷」はあったのだろう、とは思ったが、これほど凸凹の激しい地形とは想像もしなかった。上原3丁目の谷から代々木上原駅あたりで宇田川本流に流れ込む支流とは、この上原の台地が分水嶺となる。
富ヶ谷は元々「留貝谷(とめがいや)」と呼ばれていた。谷地に大量の貝殻が堆積していたからだ。代々木八幡に縄文時代の竪穴式住居があった、とメモした。当時の人たちの残したものだろう。

三田用水からの分水も
富ヶ谷支流にはこの上原2丁目の谷筋からの流れとは別に、上原2丁目と富ヶ谷2町目の境目を南から進む水路がある。三田用水からの分水なのだろう。このふたつの川筋は上原2丁目7あたりで合流。上原1丁目交差点の少し山手通り寄り、富ヶ谷2丁目45あたりで井の頭通りを交差。北東に進み山手通りを越えて代々木八幡駅前の合流点に向う。ちなみに「代々木」の由来。村人が代々サイカチの木を植えていたから、とか。

3;神泉谷からの支流を探る

松濤公園

宇田川には神泉の谷、松濤からの支流も合流する。松濤公園は紀州徳川家の屋敷跡。明治にこの地で鍋島公爵が茶園を経営していた。池には三田用水神山口からの分水も流れ込んでいた。三田用水は世田谷区の北沢5丁目あたりで玉川上水から分水。目黒、渋谷の境の尾根筋を走り、代官山・目黒、白金・芝に進む用水路。

井の頭線神泉駅
神泉の谷からの水は井の頭線神泉駅方向の谷筋を下ってくる。円山町と松濤1丁目の境あたりで松濤公園からの川筋に合流。すべての水をあわせて宇田川に流れ込む、というか流れ込んでいた。
ちなみに、神泉の谷、松濤からの合流点より代々木八幡寄り、富ヶ谷1丁目と神山町の境を通り、宇田川に合流する支流もあるようだ。
神泉の谷や台地を歩いたことがある。井の頭線・神泉の駅は谷地を横切るようにつくられており、駅の半分は台地下のトンネルの中にある。渋谷で飲んだ後、駒場東大前に抜ける途中でこのあたりを辿ることも多い。
凸凹の地形はいつ歩いても楽しい。神泉の由来は、ありがたい水・霊泉から。江戸時代に刊行された『江戸砂子』:「此処に湧水あり、昔空鉢仙人此谷にて不老不死の薬を練りたる霊水なる故斬く名付しと言ふ」、と。江戸時代から明治20年ころまで、弘法湯という共同浴場として賑わった。で、浴場の2階に料亭がつくられ、料亭に出入りする芸者、芸者の置屋ができ、それが後の円山を中心とする盛り場のルーツ、とか。






渋谷水系の散歩は終了。水もない、水路跡もあるかないかわからない、そんな川筋跡をお正月歩き廻った。いくらでも快適な遊歩道もあるのに、何を酔狂な、と思うこともある。が、思いがけないこと、すばらしいことに出会うことも。

今回の散歩で初台川、徳川山支流跡を巡っていたとき、素晴らしい景観に出会った。甲州街道の本町1丁目から初台坂下に下る坂道の途中、初台2丁目交差点から西原1丁目の渋谷区スポーツセンター方面に向って進み、渋谷区の老人福祉施設・ケアセンタがあるあたり。せせらぎ公園という案内もあったが、ここから見る新宿副都心の光景は素晴らしい。まことにすばらしい。 




年の暮れに京都を歩いた。本年の散歩の書き納めとして京都散歩のメモをしてみようと思った。少々の危惧はあった。古都京都。時間・空間が幾重にも入り組んで、視点を定めないでメモをはじめると、あれやこれやとまとまりがなくなるのでは、といった思い。案の定というか予想通りというか、の散歩メモとなった。


本日のルート;蹴上>粟田口鳥居町・南禅寺前>琵琶湖疎水記念館・南禅寺草川町>スタンフォード日本センター>白川院>二条通り>京都市動物園>岡崎南御所町>岡崎公園>平安神宮>丸太町通り>岡崎神社>黒谷金戒光明寺>真如堂(真正極楽寺)>白川>白川通り>鹿ケ谷通り>鹿ケ谷泉屋博古館>有芳園>>疎水分流>大豊神社>哲学の道>熊野和王子神社>永観堂>東山中学・高校>野村美術館>南禅寺>仁王通り>三条通り>三条大橋>川原町三条>四条川原町>木屋町通り

岡崎

岡崎のスタンフォード日本センターに仕事があった。仕事といっても、ちょっと挨拶するだけ。地下鉄東西線の、「蹴上」で下車し南禅寺の近くのセンターまで歩く。「蹴上」は「けあげ」と読む。

蹴上

蹴上げって、このメモをまとめるまで完全に思い違いしていた。明治時代に完成した琵琶湖疎水には用水と発電と水運といったいくつかの機能がある。水運では、琵琶湖と鴨川を結んだわけだが、この岡崎付近は琵琶湖との勾配が急すぎるため、船を台車に乗せて、線路を移動させたという。その船を動かす梃子の姿を勝手にイメージして、それを「蹴上げ」と呼ぶのだろうと思っていた。
実のところ、蹴上げは船とか台車とかは関係ない。源義経にその由来があった。義経、当時の遮那王が奥州に下る際、この地で美濃の侍一行とすれ違う。武者の馬が泥水を蹴り上げ遮那王の衣服を汚す。激怒した遮那王は武者と従者の9人を斬り殺したという。義経というかタッキーとのイメージと違って少々オドロオドロシイ。が、これが蹴上という地名の由来伝説。
『山城名勝志』巻第13(『新修京都叢書』第14)に、次のように書かれている。○蹴上水{在粟田口神明山東南麓土人云関原與市重治被討所}異本義經記云安元三年初秋ノ比美濃國ノ住人關原與市重治ト云者在京シタリ私用ノ事有テ江州ニ赴タリ山階ノ辺邊ニテ御曹司ニ行逢重治ハ馬上ナリ折節雨ノ後ニテ蹄蹟ニ水ノ有シヲ蹴掛奉ル義經 其無禮ヲ尤テ及闘諍重治終ニ討レ家人ハ迯去ヌ、と。
思い違いをもうひとつ。船を台車に乗せて、線路を移動させ急勾配の水位差を吸収する方法をインクラインという。これも、インク=友禅染めから来ている愛称と勝手に思い込んでいた。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)


左手に都ホテルを眺めながら蹴上交差点を越え、粟田口鳥居町の蹴上発電所、国際交流会館を左に見ながら南禅寺前交差点に。右折すれば南禅寺。先を急ぐ。琵琶湖疎水記念館を越え、京都市動物園の裏手、岡崎法勝寺町にスタンフォード日本センター。

白川院

挨拶をすませ夜の食事会の段取りを終え、とっとと散歩に戻る。センターの直ぐ近くに白川院。現在は私学共済の旅館であり料亭だが、元々は白川大臣と呼ばれた藤原良房の別荘があった。で、藤原師実の時に白河天皇に献上。天皇はこの地に寺院をつくることに。それが法勝寺。

法勝寺
法勝寺は「国王の氏寺」と呼ばれ、代々の天皇家の尊崇を受ける。後にこの地には他にも次々と寺院が作られ、総称して六勝寺と呼ばれた、と。中でも法勝寺は六勝寺のうち最初にして最大のものであった。が、14世紀半ば南北朝の時代に火災で燃失しそのご再建されることはなかった、という。

ホテルに向う。平安神宮の北にある。歩く。白川院の前の二条通りを京都市動物園に沿って進み、京都市美術館手前の交差点を右折。岡崎通。岡崎南御所町を岡崎公園に沿って北に。平安神宮を左手に眺めながら丸太町通りまで進む。丸太町通り沿いのホテルにチェックイン。

荷物を降ろし、はてさてどこを歩こうか、と地図を見る。近くに金戒光明寺。このお寺、幕末の京都守護職会津容保候の本陣があったところ。結構京都に来ているけれど、未だ散歩する機会がなかった。それではと地図を眺めてルーティング。黒谷金戒光明寺>真如堂>白川通りから鹿ケ谷通り>哲学の道>熊野和王子神社>永観堂>南禅寺>そして夕刻の四条木屋町でのご接待の場所に、とのルートを設定した。

岡崎神社

黒谷金戒光明寺に向う。丸太町に面した岡崎神社の西隣あたりに黒谷金戒光明寺への参道がある。まずは岡崎神社におまいり。平安末期、京の都に疫病、天変地変。その原因は失意でなくなった人々の祟り。その御霊を鎮め、返す刀でその人々の力を頂くという御霊信仰をもとに祀られた神社。
岡崎神社は東光寺の鎮守社でもあった。東光寺って祇園・八坂神社の前身。八坂神社の祇園祭ももとは御霊信仰から生まれたお祭。両神社のつながりを納得。で、名前の岡崎、意味は「岡の先っぽ、先端」の意味。その岡にあたるのが吉田山であり黒谷栗原の岡。その南に広がる平安神宮、南禅寺あたりまでを岡崎と呼ぶ。岡崎神社は文字通り、岡の先端に位置してる、ってわけだ。

黒谷金戒光明寺
岡崎神社近くの参道を登る。黒谷南門に至る参道。表参道ではなく、直接、文殊塔下の墓地・黒谷墓地に出る。文殊塔への階段を上る。京都の町並みが眼下に広がる。標高は100m程度だが、東山の山並みを含めた京の都の眺めは素晴らしい。文殊塔には運慶 作の文殊菩薩像がある、とのことだが、この三重塔はがっちり閉じられており最近開けた雰囲気はなにもなかった。

会津小鉄
石段を下りる。途中、「会津藩士の墓」の墓標。山頂部分を歩く。道の途中にちょっとしたお堂・西雲院。中に入る。会津小鉄のお墓。会津小鉄、って昨今では暴力団・会津小鉄会で名前を聞くが、本来は幕末の侠客。本名上阪(こうさか) 仙吉。京都守護職・会津藩主松平容保の命により、家業の口入れ屋として、また、裏では新選組の密偵として活躍。会津藩が鳥羽伏見の戦いで敗れ、賊軍の汚名のもと路上に放置されていた戦死者の遺体を収容し供養し。官軍の迫害を恐れず,黒谷会津墓地を西雲院住職とともに守り続けたという。

会津藩殉難者墓地

西雲院を少し進むと「会津藩殉難者墓地」。文久2年(1862)から鳥羽伏見の戦いまでの、幕末の動乱で命を亡くした会津藩士352名が眠る。「会津藩殉難者墓地」の先には、真如堂・吉田山への道が続くが、本堂も何も見ていないので引き返す。

御影堂
石段を下り、本堂に向う。途中ちょっとした池そして橋。橋を渡り阿弥陀堂から本堂(御影堂)。御影堂には法然上人75歳の御影(坐像)が。この地は法然上人がはじめて草庵を営まれた地。これが浄土宗最初の寺院となった。ちなみに黒谷とは、法然上人が修行した比叡山西塔の庵室のあった場所。

鎧の松

本堂の脇には、熊谷直実の鎧をかけたという「鎧の松」が。一ノ谷の合戦で、平家の若武者、平敦盛を討ち取った直実。この世の無常を悟り、京に戻って、法然上人のもとで出家、敦盛の菩提を弔いながら余生を過ごしたという。そのほか、出家の折によろいを洗ったとされる「鎧池」や直実と敦盛の供養塔などもある、とのこと。

三門
本堂から三門に。本堂もそうだが、三門も堂々たる構え。三門を出て表参道に面する高麗門まで歩き、その思いをいよいよ強くする。お寺というより城砦といってもいいほど。堂々たる石垣、石段。会津候がここを本陣としたのもうなずける。徳川家康は京都に一旦事あるときに備え、知恩院とこの黒谷の寺を城構えとして造作した、とか。京都御所にも2キロ、東海道への出入り口、戦略的要衝の粟田口まで1.5キロ、4万坪の寺域、50以上の宿坊をもつこの黒谷の寺、というか城を本陣としたのは、実際目で見、歩いて全くもって実感。

真如堂

真如堂に向う。どこ でこのお寺の名前を覚えたのか定かではない。が、紅葉の名所ってことだけは覚えている。黒谷金戒光明寺の高麗門を出て、お寺に沿って進む。ゆるやかな登りを左前方に吉田山を眺めながら進む。天台宗のこのお寺、応仁の乱のときは東軍の本陣となったとか。ために堂宇ことごとく焼失。宝暦年間(1751~64)に建立と伝わる三重塔などを眺めながらブラブラ。

小林祝之助を記念する碑

紅葉の季節はハズしているので、なんともはやフォーカスなし。本堂裏手を歩いていると石碑があった。何気なく眺める。第一次世界大戦で義勇兵としてフランス空軍に所属し,空中戦で戦死した小林祝之助(おばやししゅくのすけ)を記念する碑。大正14年に建てられた、と。 
京都新聞の連載記事「岩石と語ろう」で紹介された記事;明治二十五年(一八九二)年,大豊神社(左京区鹿ケ谷宮ノ前町)宮司の長男として生まれ,錦林小,立命館中学,同大学と進んだ。大正二(一九一三)年,祝之助は伏見の深草練兵場で,初めて見た飛行機が着陸に失敗し,操縦士が死亡したのを目撃し,衝撃をうけた。これをきっかけに空を飛ぶことにあこがれ,飛行機の操縦を学ぶため,つてを頼って第一次大戦のさなかに渡仏,その後正式に仏航空兵となって空で独軍機と戦った、と。

真如堂から本堂の裏手を歩き、再び金戒光明寺の境内に。「会津藩殉難者墓地」、西雲院、文殊塔、そして再び京の町並みを眺め石段を降り、黒谷南門に。岡崎神社に下りる途中、神社裏手に沿って白川通りに抜ける小道があった。左折し坂道を下り丸太町通りと白川通りの交差点に。

鹿ケ谷地区

交差点を渡り鹿ケ谷地区に。鹿ケ谷といえば僧俊寛たちが平家打倒の陰謀を企てた鹿ケ谷の山荘のあるところ。その山荘って何処にあるのか調べてみた。地図で見る限りでは、ノートルダム女学院と霊厳寺の間を送り火で有名な大文字山のほうに入り込み円重寺、波切不動尊を過ぎ、その名も納得の、「談合谷」の中腹にあったという。本日は時間もなく、予定もないのでパスする。が、いやはや京都は奥深い。地理と歴史が幾重にも重なり、メモが次々と分岐する。鹿ケ谷云々はこの辺でやめておこう。

哲学の道

白川を超え、鹿ケ谷下宮ノ前町にある泉屋(せんおく)博古館、住友コレクションの名で知られる中国古代青銅器の名品を展示するユニークな美術館を過ぎ、住友家の別荘・鹿ケ谷別邸とよばれる有芳園の角を右折。少し進むと疎水、そしてここが哲学の道。
慈照寺(銀閣寺)付近から南禅寺あたりまで、琵琶湖疎水分流に沿って遊歩道がある。2キロ程度のこの道、哲学者・西田幾多郎がこの道を散策しながら思索にふけったことからこの名がついたと言われる。「人は人吾はわれなり とにかくに 吾行く道を吾は行くなり」のフレーズも有名。

大豊神社

哲学の道を歩く前にスタート地点近くの大豊神社に。この地域の地主神。境内にある大国主命を祀る末社・大国社には狛犬ならぬ、狛鼠が。おなじく境内にある日吉・愛宕社は狛犬ならぬ、狛猿と狛鳶があった。洒落か?ともあれ、先を急ぐ。

熊野和王子神社
哲学の道をちょっと進むと熊野和王子神社。東大路丸太町にある熊野神社、東大路七条にある新熊野(いまくまのと読む)神社の二社と共に、京都三熊野の一社。永暦元年(1160)、後白河法皇が紀州の熊野権現を永観堂禅林寺に迎え禅林寺新熊野社・若王寺と呼ばれたこともある。その後、明治初年の神仏分離によって仏を棄てて神を取った、のは熊野散歩でメモしたとおり。
ちなみに、この神社の御神木「椰(なぎ)」の葉で作られたお守りは、あらゆる悩みをナギ倒すとして人気商品、であるとか。

疎水分流は熊野和王子神社のあたりで消える。その先に松ヶ崎浄水場。ちなみに、疎水分流はここから北に流れ、北大路通りのあたりで高野川に合流している。高野川は出町柳で賀茂川と合流し、鴨川となる。

永観堂

熊野和王子神社を越えたあたりで道なりに右折。永観堂の塀に沿って下り、再び鹿ケ谷通に。通り沿いに永観堂。聖衆来迎山禅林寺と号する浄土宗西山派の総本山。紅葉で有名。もう少々早く来て折ればと少々残念。で、時間も遅くアポイントの時間も迫ってきたので、参拝はパス。

小川治兵衛

野村證券創設者の別荘を美術館とした野村美術館を右手に南禅寺を左手に眺めながら歩く。このあたりは京都有数の豪邸地区。スタンフォード日本センターの先生から、このあたりは別格地域。「野村美術館」、平安神宮の「神苑」の名園をつくった7代目小川治兵衛、通称「植治」の美の一端でもご堪能あれ、との言葉ではあったが、なにせ、その先生とのアポイントの時間が迫る。南禅寺前から琵琶湖疎水に沿って仁王通りを急ぎ足で歩き、東大路通りで左折し三条通りに。三条大橋を渡り、川原町三条から四条川原町。そして待ち合わせの木屋町通りに進み、本日の散歩は終了。

カシミールで地図を作る際、気がついた。手持ちの京都地区地図データは20万分の1のものしかない。これではどうしようもない、ということで西日本の5万分の1の地図データが収録されている『カシミール3D GPS応用編』を購入。通常関東地域は2万5000分の1の地図で作成しているので少々物足らない。そのうちに西日本の地図データもきちんと揃えなければ。

歴史小説などを読んでいると、八王子あたりで折に触れて登場する城跡がある。先日古本屋で買った『武蔵野 古寺と古城と泉(桜井正信;有峰書店)』にも登場する。八王子城跡と滝山城跡だ。片方はほとんど高尾、もう一方はほとんど拝島。結構離れている。直線距離でも8キロ弱ありそうだ。ちょっときついかな、などとは思いながらも、12月のはじめ、このふたつの城を歩いてみようと思った。案の定というか、予想通りというか、いやはや大変な1日となった。



本日のルート;京王高尾>(霊園前バス停)>真照寺>宗関寺>八王子城跡>高尾街道を北上>八王子四谷町で陣場街道と交差>楢原町で秋川街道交差>工学院大学>滝山街道>丹木町3丁目手前>滝山城跡>丹木町3丁目>加住市民センター前>(高月浄水場前ひとつ手前のバス停>東秋川橋・秋川橋>二宮本宿>多摩橋・多摩川>五日市街道>清岩院・清岩院橋>)福生駅

京王高尾駅
京王高尾駅に。先回京王高尾駅南口からJR高尾駅北口へと結構大廻りさせられた。で、今回はひょっとして、と改札口をチェック。南口から北口へと通り抜けできた。
駅前のバス停で八王子霊園方面行きバスに乗る。多摩御陵と多摩森林科学園の間を上り、城山大橋、新宮前橋、宮の前、中央高速を越え霊園前で下車。

八王子城跡

八王子城跡入口の案内を確認。真照寺、宗関寺といったお寺を眺めながら進む。しばし歩くと入口広場・管理事務所。案内図を確認。山頂に土塁を補強し設置した本丸、山を削り谷を埋め盛り土をした麓の居館など結構大きな縄張り。国の史跡として指定されている。麓の居館地区は平成2年に発掘・整備がなされている。

八王子城は、天正元年(1573~92年)、小田原・北条氏三代氏康の次男氏照が築城。天正18(1590)年6月23日、豊臣秀吉の小田原攻めの別働隊:前田利家(まえだとしいえ)、上杉景勝(うえすぎかげかつ)、真田昌幸ら1万5千の軍勢の予想外の来攻。城主氏照は精鋭を集めて小田原城に参陣中。残された徴集領民からなる城兵約千人の八王子城は一日で落城。埼玉・寄居の鉢形城攻防戦での「緩慢」なる攻城戦を秀吉に咎められ、面目を失った前田、上杉がこの時とばかり攻めかかった、とか。小田原攻めで唯一とも言われる大殺戮戦が行われた、とある。囚われた子女を小田原包囲陣に連れて行き、城内の士気を削いだ、とも。落城後の八王子城は、関東に入部した徳川家康により廃城され、城跡を徳川幕府の管轄地「御林山」として、立入を厳しく禁止されていた。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)


城山に
ともあれ、城跡を目指し本丸・金子丸方面への登山道を山頂に向う。450m程度の山。鳥居をくぐり山道に。しばらく歩くと新道と古道に分かれる。古道を上る。あまり整地されていない。ブッシュというか草茫々。結構きつい。息が切れる。

2合目あたりで新道と合流。少し緩やかに。10分ほど歩き9合目。ゆるやかな尾根道となる。素晴らしい展望の見晴台・松木曲輪跡。絶景。筑波から丹沢までが見渡せる、とか。

山頂に八王子神社
見晴台から数分で頂上。麓から30分程度で上れただろうか。休憩所が整備されている。結構古びた神社・八王子神社が。落城時、この地で切腹した城代・横地監物をまつっている、と。
頂上からの見晴らしはそれほどよくない。しばし休憩。
下りは新道を。麓近くに梅林が。結構古びた神社。神社脇から石仏巡りの案内。道なりに進むと居館地区に下りる。

御主殿跡

城山川に沿って少し歩く。大手道、御主殿跡への橋。整備された古道(?)を進む。曳橋が。発掘によりこの地に橋のあったことがわかり、それを復元。石畳・石垣からなる虎口を通り氏照の住居・御主殿跡に。結構広い。建物は残っていない。虎口は「こぐち」と読む。城の出入り口のこと。虎口の由来は「武家名目抄」にある。「城郭陣営の尤(もっとも)要(かなめ)会(あい)なる処(ところ)を、猛虎の歯牙にたとへて虎口といふなり」、と。




後は一路、滝山城跡に、というわけだが、時間は3時近い。もう少々早く家をでれば、とはいうものの、詮無し。ひたすら急ぐ。八王子城跡入口まで戻り、中央高速をくぐり、城山大橋で左折。高尾街道に入る。

陣場街道と交差
元八王子3丁目、鍛冶屋敷を過ぎ、中央高速をくぐり、元八王子2丁目、元八王子1丁目、元八王子小と歩く。日が暮れてゆく。更に早足。大沢川を渡り元八王子中から八王子四谷町で陣場街道と交差。まっすぐ進む。

秋川街道と交差
四谷中入口、並木橋、松枝橋南を過ぎ、松枝橋で北淺川を渡る。松枝橋北を過ぎ、楢原町で秋川街道と交差。楢原町の交差点を越え、適当に右折し、なりゆきで北東に向って歩く。運良く川口川にかかる橋、というほどの橋があったとも思えないのだが、ともあれ川を越え、八王子犬目地区から工学院大学角の交差点に。ほとんど日が落ちた。どうなることやら。ともあれ急ぐ。

工学院大学の交差点を左折し谷野町に入る。結構な峠道。坂道の途中に派手な美術館・東京富士美術館。このあたりに創価大学がある。その系列か。午後6時頃か。完全に日が落ちる。さらに進む。もう滝山城には登れないだろう、と思いながら足は滝山城跡方面に。行くだけ行こう、といった心境。

滝山街道と交差
谷地川を渡る。東京純真女子大学前で滝山街道と交差。左折し進む。急に歩道が切れる。何気なく歩を止める。足元は川。危うく転落・大怪我するところであった。それにしても、ガードレールも何も無し。危険。まさに九死に一生、といった状況。

滝山城址下
さらに進む。丹木町3丁目のちょっと手前。何気なく右手を見る。滝山城址下、というか入口の道案内。とりあえずアプローチだけ確認し後日、また、と右折しちょっと山道に。

滝山城跡
漆黒の闇。ヘッドライトを取り出し状況確認。少し進む。結構怖い。引き返す。が、思い直し、少々ビびりながら再び山道に。やっぱり行こう。と、性根を据える。車1台がギリギリ登って行ける道を進む。途中標識を確認しながら進む。800m程歩いた。標高はそれほど高くない。160m程度か。
頂上である本丸、中の丸、だろうと思うのだが、開けた場所に到着。ライトの彼方に神社が浮かぶ。神社裏手から街の灯が。足元に注意しながら崖際に。なんとか眼下の夜景を見ようとおもった。が、木立が邪魔し見通しよくない。それでも一応拝島方面の夜景を確認。広場から抜ける道を捜すが見当たらず。これ以上進むのをあきらめ、来た道を再び下りる。いやはや、結構しびれる滝山城跡散歩でありました。


滝山城跡。この城の城下町が八王子の原点とも言われている。武蔵国の守護代大石氏(定重・定久)と小田原北条氏の一族(氏照)の居城。永正18年(1521年)、高月城から移転した関東管領山内上杉家の重臣大石定重が築城。川越夜戦により扇谷上杉を滅ぼした北条氏康は山内上杉の勢力を上野まで退ける。その際武蔵の国人領主も多くが北条に下る。滝山城主・大石定久もそのひとり。北条氏照を養子に迎え五日市の戸倉城に隠居。永禄(1558)元年頃、北条氏照が滝山城に入城。八王子城に移るまで居城とする。

城郭は多摩川と秋川の合流点にあり、戦国時代を代表する山城。川の流れにより浸食された加住丘陵に立地し、複雑な自然地形を巧みに縄張りした天然の要害。丘陵・谷地・崖端をたくみに利用し築城されている。特に北側は多摩川との高低差50~80mの断崖。北から侵入する敵に対しては鉄壁の備えとなっている。

城内は空堀と土塁によって区画された大小30ばかりの郭群が有機的に配置。現在では、本丸・二の丸・三の丸・千畳敷跡等が残されている。規模の大きさ、繩張の複雑さ、遺構の保存状態の良さなどからみて、戦国時代の城郭遺構としては日本有数の遺跡。

武蔵野の古城跡で滝山城ほど、戦の洗礼を受けた城も少ない。そのたびに大石一族は勝利を収め、落城の経験のない城でもある。
滝山城を巡る攻防戦;
天文5年(1536)、上杉・大石連合軍と北条氏康と戦う。甲斐の武田信玄の加勢を受け安泰。
天文21年(1552)、越後上杉の宇佐美定行が上杉憲政の支援で滝山城を攻撃。滝山軍は加住丘陵下の秋川・多摩川の河原で戦い勝利。
永禄12年(1569)、武田信玄・勝頼の侵攻。北から下ってきたこの本隊に呼応し、大月の岩殿城主・小山田信茂が小仏峠を越えて奇襲。高尾山下の背後から攻撃に対し北条氏照は淺川廿里(ととり)に陣を敷く。が、苦戦。二の丸まで攻め寄せられるほどの猛攻を受ける。氏照を中心に城方もよくこれに耐え、落城をまぬがれた。しかし、この戦闘の後、氏照は小仏方面からの武田勢に備えるべく、八王子城を築きその居を移すことになる。

加住丘陵を越える峠道
滝山城跡を下り、丹木町3丁目交差点に。バス停があり、八王子駅のバスも走っている。おとなしくここからバスに乗っておけばよかった。が、交差点の行き先表示に、「東秋川橋」。近くに多摩川が流れているのだろう。であれば、橋を渡れば直ぐに拝島ではないか、と思った。これが大きな勘違い。ちょっと地図を確認すればいいものを、夜目遠目、なにせ地図の小さい文字など、見えやしない。ということで加住丘陵を越える峠道を歩く。
峠道を下り切る。が、橋など見えやしない。対岸には車のヘッドライトが流れているのだが、如何せん橋がない。地図を確認。東秋川橋は、はるか北。あきらめて最寄りのバス停から最初に来たバスに乗り、結局福生駅に。
長い長い1日が終わった。しかしながら、滝山城跡、真っ暗でよく全体像がわかっていない。近々、近辺の高月城・戸倉城とまとめて滝山城を再び歩いてみよう、と思う。

屋久島散歩

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今年の連休、会社の仲間と屋久島に行った。砂時計の如く薄れ・消えゆく記憶に抗い、散歩の記録をメモしておく、と書いたことがある。最近はマジに「軽くヤバイ」。散歩の記録、キチキチとメモしなければ。
きっかけは何だったか覚えてはいない。ある日、「屋久島に行きません。縄文杉を見に行きませんか」、とのお誘い。田舎生まれの我が身としては、なにが悲しく て、またはなにが嬉しくて杉など見に行きたいのか、その心持ちは定かには分からない。しかも往復10時間も歩いて行く、という。が、その場の雰囲気で「ええよ」と言ってしまった。杉は別にしても、森を歩くのはいいものだろう、と言った程度の心持ち。結局4泊5日の旅と相成った。



屋久島空港
初日。羽田から鹿児島、鹿児島からはJAC日本エアーコミューターに乗り継ぎ屋久島に。空港で予約していたレンタカーを借りて民宿に急ぐ。森は深い。緑は豊か。山並みが聳える。九州最高峰の峰もあるという。山の姿としてはハワイの山々といった雰囲気。火山島ゆえか。

民宿・勝丸

のどかな道筋。民宿・勝丸に到着。どいうった手違いなのか、大部屋に全員一緒に、ということに。うら若き女性2名, 少々若い女性1名、少々若い男性2名、そして彼ら・彼女らの父親といった年恰好の私といった6人パーティである。

千尋の滝

ちょっと休憩。そのあと宮之浦港のあたりをブラブラと。鹿児島からのフェリー乗り場が。島一番の繁華街(?)、といったところ。観光物産センターで焼酎調達。後は夕方まで島内観光。レンタカーで島の反対側まで。千尋の滝、大川の滝などを見る。千尋の滝は花崗岩一枚岩の雄大な眺め。落差60m。大川の滝。落差80m。屋久島最大の滝。渇水期のようで、写真でみる雄大なる瀑布を堪能することはできなかった。途中、ところどころにあるガジュマルの樹を眺めながら民宿に戻る。
民宿は料理民宿といった風。海の幸・山の幸満載。これで6,000円程度の宿泊料で経営は大丈夫なのだろうか、と他人事ながら心配になる。豪華な料理であった。で、明日の登山のお弁当の予約だけをすませ宴会に。焼酎で酩酊するもの、島歌にあわせて踊り狂うもの、とっとと寝るもの、それぞれのスタイルで屋久島第一夜を。

縄文杉に

二日目。翌朝5時頃起床。時間が遅くなれば登山口までの道路が混むといったこともあり、弁当を受け取り登山口へ急ぐ。海岸線を安房まで。山方向に右折。山道に入っていく。

屋久杉ランド

尾 根に上りきったあたり、屋久杉ランドへの案内。「縄文杉まで10時間も歩くのはちょっと」、といった方にはここがいいかも。標高1,000m~1,300m。樹齢数千年の屋久杉を始め、苔・シダ類に覆われた原生林。安房川支流・荒川にそった森に30分コースから150分コースまで、いくつかの散策コースがつくられている。

荒川登山口


が、今回は縄文杉散歩。標高900m強の荒川分岐から屋久杉ランドとは逆方向に谷を下る。荒川ダムを過ぎ、午前6時頃荒川登山口に到着。標高600m程度。
すでに結構混雑していた。雨が降り始める。月に35日雨が降る、というこの地、致し方なし。トロッコ置き場の軒を借り、雨具を羽織り出発。標高差約700m、片道11km、往復時間は休憩を入れて10時間といった縄文杉日帰り散歩のスタートである。

小杉谷
トロッコ軌道のある道を歩きはじめる。すぐに軌道橋。出発し45分程度で小杉谷に。小杉谷学校跡など杉の伐採が盛んな頃の集落跡。杉伐採盛んなりし頃は500名ほどの住人が住んでいたとか。ちなみに「小杉」とは樹齢1000年以下の杉のこと。「屋久杉」と称するには1000年以上の樹齢がミニマムリクアイアメント。 (「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)

三代杉
小杉谷集落跡から30分弱で楠川歩道出会。楠川方面から登ってくる登山道との合流点。白谷雲水峡からのルートでもある。軌道のすぐ右わきに三代杉。伐採された杉の株に着生した杉が育っていく切株更新で三代目。そしてこの名前がついたとか。
初代の杉が2000年で倒れ、更新した2代目の杉が1000年に伐採、その後生長した杉が数百年たったものが、現在のこの杉であるという。

大株歩道入口
軌道左側に仁王杉。登山道より少し離れた所にある。大株歩道入口に。荒川登山口からほぼ8.4キロ。2時間半ほど歩いた平坦な道・軌道道もここでおしまい。これからが本格的な山道になる。

翁杉
しばらく進むと翁杉。幹周12m。屋久島第2の巨樹。幹は様々な寄生植物で覆い尽くされている。この付近より翁岳が望めることから、この名前がついたとか。ここから巨樹の森に踏み行っていくこととなる。

ウィルソン株

翁杉からしばらく行くとウィルソン株。大株歩道入口から30分程度。大きな切り株。幹径14メートル。1500年代末に秀吉の命による京都方向寺建立のために伐採された、とか。が、400年経った今でも、その株は朽ちていない。そしてそのことは屋久島の杉は何ゆえかくも大きくなるのか、ということと表裏一体。

一般に杉の樹齢は300年ほど。樹齢2000年、3000年にも成長するのは、月に35日雨が降る、つまりは海岸近くで年間4,000mm、山中では10,000mといった雨の恵み、それと、島の成り立ちそのものによることが大きい。
屋 久島は一枚の花崗岩からできているとも言われる。マグマが冷え固まってできた花崗岩の島の実感をつかむには、千尋の滝のあの巨大な一枚岩の花崗岩を見れば一目瞭然。屋久島の土台は花崗岩からなる。ということは、栄養分の補給が乏しい。つまりは、杉の育ちが悪い、というか遅くなる。で、年輪の幅が緻密になる。材は硬くなる。樹脂道に普通の杉の約6倍ともいわれる樹脂がたまる。樹脂には防腐・抗菌・防虫効果がある。そのため屋久杉は長い年月の間不朽せずに生き続けられる、ということだ。
ちなみに、「月に35日雨が降る」って林芙美子の『浮雲』の中で語られたフレーズ。ついでに、「花の命は短くて、苦しきことのみ多かりき」も林芙美子の有名なフレーズ。

ウイルソン株という名前は大正時代にこの株の存在を広めた植物学者の名による。ウィルソン一行は、この株で雨宿りをしたという。我々パーティもしばし雨宿り。株の中には祠が。そのすぐわきには清水が涌きでていた。

大王杉

ウィルソン株からしばらくは急な登り。ここからがもっとも厳しい登りだろう。大王杉が。昭和41年の縄文杉発見までは、屋久島を代表する杉。樹齢は3,000年近いとか。
大王杉を越え夫婦杉。斜めの枝で二本の杉がつながっている。いわゆる連理と呼ばれるもの。森が美しい。品がある。

縄文杉

夫婦杉からしばらく歩くと縄文杉の展望台。ウイルソン株から1時間半弱、大株歩道入口から2時間半程度で着いた。標高1,280m。樹齢7200歳とか世界遺産登録などで一躍有名になった。もっとも約6,300年前の喜界カルデラ生成時の火砕流により、屋久島は甚大な被害を被っており、それが事実とすれば、そのときに屋久島の杉は壊滅的打撃を受けたはず。それ以前の杉はありえないってこと。樹齢7,200年説は怪しくなってくる。
が、そんなことはどうでもいい。勇壮なる巨木である。私はそうでもないが、パーティのひとりなど、感激のあまり、目がウルウルしていた、よう。

近くで休憩。野生の鹿・ヤクシカが挨拶に来た。人懐こい。後は来た道を逆に一路民宿に。本当に10時間程度の縄文杉への散歩であった。


白谷雲水峡
3 日目。雨。白谷雲水峡を目指す。白谷雲水峡は宮之浦川の支流、白谷川の上流にある自然休養林。宮之浦からおよそ12キロ。標高620メートルのところまでレンタカーで山に登る。アップダウンを繰り返し、ひたすらの上り。雲海の上に、といった雰囲気。標高としては、照葉樹林からヤクスギ林への移行帯にあたる。渓流の美しさはひときわ、のはず。山登りより、沢筋を歩くのが趣味のわが身ではある。が、本日は雨。沢など水であふれ、進むこと叶わず。映画「ものの け姫」の森のイメージのモデルになったとかいう、この品のいい森を歩くのが楽しみであった。少々残念。いつかの機会に、ということにしよう。

フェリーで鹿児島に

最終日;天候悪い。飛行場に。が、天候不順のため、飛行機の発着できず。待ち人の中に俳優佐々木蔵之助が。女性たちの静かなる喜び、ひとしお。結局飛行機離着陸できず。宮之浦からの水中翼船・トッピーも一杯。

結局、宮之浦からフェリーで鹿児島に。水中翼船の倍4時間程度かかるが、仕方なし。鹿児島本港着。予定外の鹿児島の夜を楽しみ、翌日は鹿児島の街を楽しみツアー終了となる。


屋久島に来るまでは、小さい島であろうと思っていた。何時間か歩けば一周できるのではないか、などとも思っていた。結構大きな島である。周囲132キロほど。一周するには車で4時間程度走る必要があるだろう。
また、コバルトブルーの海に「聳え立つ」島である。洋上アルプスとも呼ばれる。実際、宮之浦岳は標高1,935m。九州最高峰の山である。それ以外にも1,000メートルを超える山が40あるという。山登りもよし、沢歩きもよし、森を歩くのもまたよし。今回で土地勘がわかった。次回は白谷雲水峡から楠川登山道、宮之浦岳といったコースを歩いてみたいと思う。

ちなみに、屋久島の「屋久」の語源、はっきりしない。「細長く伸びた半島」といった説もある。が、はっきりしない。そういえば東京の荒川区に屋久という地名が。「奥」といった意味らしいのだが、これもはっきりしない。
そうこうしているうちに、屋久島同行のひとりが調べてくれた。鎌田慧さんの『日本列島を往く(4)』。によれば;往時、屋久島を男島、種子島を女島と称(とな)え、其語源はアイヌ語のタンネ(細長い意-種子島)、ヤック(鹿の意-屋久島)にあると言う。はてさて。地名の語源にアイヌ語から、というのは少々食傷気味。問題意識として「屋久」の語源を温めておこう。


蛇崩川緑道を歩く

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休みの日と言うに、代官山でお仕事。どうせのことならと、先回の烏山川緑道のとき目にした蛇崩川緑道に沿って目黒川まで、そして代官山まで歩くことにした。
それにしても「蛇崩」って結構オドロオドロシイ名前。"大蛇が暴れ土地を崩した"、とか、"蛇行する川が大雨時に逆巻く激流となり、それが大暴れする蛇に見えたら"とか、"このあたりの土地がよく崩れたので砂崩川と呼ばれ、それがいつしか蛇崩川と呼ばれるようになった"などと、これも例によって諸説入り乱れ る。
「じゃくずれ」の意味は広辞苑によれば「蛇崩れ」と表記され、"崖などの崩れること。また、その崩れた所。山くずれ。" とある。であるとすれば、蛇とは全く関係なく、ただ単にたびたび崖崩れがあったから蛇崩と呼ばれるようになった、というのが自然ではなかろうか。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)

いずれにしろ、三宿病院近くの蛇崩交差点のあたりは昔、急斜面の崖があったのだろう。蛇崩川の水源は馬事公苑あたり、と。昔は溜池もあった、とか。地図でみると弦巻あたりまで水路跡っぽい筋が見える。が、緑道の最上流地点は上馬5丁目の小泉公園あたりのよう。その近く、世田谷1丁目に世田谷代官屋敷がある。 先回の世田谷散歩のおり、この井伊家の代官大場家の住まい跡に行くことができなかった。ついでのことなので本日の散歩は代官屋敷からスタートすることにした。(火曜日, 12月 20, 2005のブログを修正)



本日のルート:世田谷線上町>世田谷代官屋敷・郷土資料館>小泉公園>蛇崩川緑道>環七駒留陸橋>246号線と交差>三軒茶屋病院>三軒茶屋1丁目>明薬大 日大前>下馬4丁目・駒留中学校>駒繫神社>蛇崩下橋>蛇崩川緑道を離れ(蛇崩交差点>野沢通り>東山中学)>蛇崩川緑道に戻る>東急東横線と交差>目黒川と合流

世田谷線上町・代官屋敷
下高井戸から世田谷線に乗り世田谷線上町下車。世田谷通りを越え世田谷1丁目、ボロ市通りの代官屋敷に。彦根藩世田谷領の代官であった大場氏の屋敷。都指定史跡。世田谷村20ケ村を明治4年の廃藩置県のときまで治めた。
江戸の地で代官屋敷、というのも奇異な感じがするが、当時の世田谷は「江戸朱引き外」、つまりは江戸の外。大名領があってもおかしくはない。邸内にはお裁きの白州跡も。敷地内にある郷土資料館をざっとながめ、蛇崩川源流地点近くに進む。

蛇崩川緑道

世田谷駅前交差点からの道筋・世田谷中央病院の角を右折。弦巻1丁目交差点を左折し、弦巻小学校交差点を右折。駒沢公園通り。弦巻1丁目と上馬5丁目の境の道を南に下る。なんとなく南方向の地形が凹んでいる。川筋・緑道は最も低いあたりだろう、とあたりをつけ進む。
下りきったあたりに、いかにも川筋を埋めた様子の細い緑道。小泉公園は右折か左折かよくわからない。とりあえず左折。民家の間の狭い遊歩道をちょっと歩くと、少し大きな通りに。向天神橋方面に川筋を埋めたような歩道が車道に沿って続く。この通りは弦巻通り、であった。
地図をみれば、すこし先の弦巻中学のあたりに水路跡が見える。蛇崩川って、このあたりのいくつかの湧水を集めた川であったのだろう。このまま進むと馬事公園に行ってしまいそう。代官山の約束の時間もあり、引き返すことに。蛇崩川緑川がはじまる小泉公園のあたりに戻る。
地名、「弦巻」は「水流巻(つるまき)」。水流が渦巻くという意味。水源地・湧水地・湿地を表す。昔、馬事公苑のあたりに溜池があり、それが蛇崩川の水源となっていたわけで、弦巻もその当時の地形の名残の地名なのだろう。

環七から246号線に
弦巻通りに面した小泉公園を越え、環状七号線を駒留陸橋で交差。緑道は北東に進み、三軒茶屋二丁目あたりで南東に振れる。西太子堂から下る道・世田谷警察署横を進み246号線と交差。

駒繫神社
三軒茶屋病院、三軒茶屋1丁目、明薬大日大前、下馬4丁目・駒留中学校と進み駒繫神社に。祭神は大物主神。緑道沿いにかかっている朱の橋が目をひく。往古、このあたりは鎌倉と地方を結ぶ鎌倉街道が通っており、源義家が奥州に向かう途中、この神社で祈願参拝をしたとも。その後、源頼朝が奥州征伐のためこの地を訪れたとき、義家参拝にならい、頼朝が自分の馬を繋ぎ参拝をした、というのが神社名の由来。
駒繋神社のある下馬や上馬の地名の由来:頼朝参詣の折り、馬の足が沢にとられたとか、沢の深みにはまってなくなってしまったとか、いずれにしても、馬を曳いていけとの命。で、この地が馬引沢村と。そして馬引沢村が後に上・中・下に分かれ、江戸中期には「上馬引沢村」「野沢村」「下馬引沢村」に。その後、昭和7年(1932年)の世田谷区成立の際、「引沢」を省略して「下馬」「上馬」という地名になったという。
とはいうものの、馬引沢村の名は全国的各地にあるよう。足場の悪い湿地帯などで、乗馬して通れないところなどで見られる名前であり、頼朝の話も少々眉唾ではあるが、言い伝えは所詮言い伝え、ということで納得。

蛇崩交差点
先に進む。246号線三宿交差点から世田谷公園にそってくだる道筋と交差。緑道は北東に振れる。三宿病院入口の近く・蛇崩交差点近くで蛇崩下橋を渡る。三宿は「水宿」から。水の宿る地であった、から。幕末の頃まではこの近くに池もあった、という。烏山川・北沢川の合流点から目黒川大橋にかけて一帯は泥沼地であったわけで、このあたりには池尻、池ノ上といった地形の名残をとどめる地名も多い。




目黒川と合流
上目黒4丁目と上目黒5丁目の境を東西に進む。東急東横線と交差。遊歩道消える、水路に蓋をしたような自転車置き場を歩く。山手通りを越え、目黒川と合流・合流地点だけちょっと開渠となっていた。蛇崩川との散歩もこれでおしまい。

戦前は陸軍の施設
それにしても本日散歩したところはその昔、というか明治から終戦までほとんどが陸軍の施設となっている。もともと東京の都心からはじまった兵営は広い土地を求め郊外へと移動する。で、注目されたのはこの地域一帯。農地・雑木林が広がり、しかも都心に近く交通の便がいい。
ということで、まずは官有地であった駒場東大前近辺の駒場野を橋頭堡として、池尻・三宿・太子堂・下馬・三軒茶屋近辺に兵営・練兵場・陸軍病院といった軍事施設が展開されるようになる。
池尻・駒場に騎兵第一連隊と近衛輜重兵大隊。続いて三宿・太子堂・下馬・池尻の一帯に野砲第一聯隊・近衛野砲連隊・駒沢練兵場,野戦重砲兵第八連隊・衛戌病院。
駒沢練兵場の広がりは南北は国土地理院跡から現在の三宿病院、東西は東山中学校から池尻小学校までの広大なものであった。其の他、下馬に砲兵聯隊,桜丘に自動車学校,用賀に陸軍衛生材料廠などが設置された。 第二次大戦のころは軍関係の施設は15(部隊8,学校2,病院2,工場・材料廠3)にまで増加した、という。

軍用地は戦後は学校や公的機関の敷地となる

終戦後、旧軍施設跡地についてメモしておく。池尻・大橋地区の兵営跡地は筑波大学付属高校等の学校や住宅地。太子堂・下馬・三軒茶屋の野砲第一連隊の跡地には,昭和女子大学その他の学校・都営住宅。駒沢練兵場跡は公園や防衛庁技術研究所・自衛隊中央病院,学校。
池尻の糧秣廠跡には食糧学校。太子堂・三宿の陸軍衛戌病院は国立小児病院。桜丘の陸軍の自動車学校-機甲整備学校敷地跡は東京農業大学。
用賀の衛生材料廠の跡地は自衛隊衛生補給所・衛生試験所・馬事公苑になっている。つまりは、軍施設の跡地はおおむね学校、病院、公務員住宅、政府関係施設などとなっている。

蛇崩交差点再訪

後日談。駒沢練兵場の東端、現在の東山中学の前の急な坂道を歩いた。蛇崩交差点あたりに、本当に崖が崩れるような急峻な坂道があるのかどうか、地形を確認するために訪れた。で、これが結構な坂道。息が切れる。蛇崩の由来は充分に納得。
それはそれとして、崖下を流れる蛇崩川をイメージしながら野沢通りを山手通り方面に向って歩いていた。なにげに入り込んだところに東山中学が。で、件の坂道の途中に馬頭観音。由緒書によれば;この地にあった近衛歩兵連隊5000名と軍馬1300頭がこの坂道をつかって急坂登坂訓練。で、力尽きてなくなった軍馬2頭をねんごろに弔うべくこの観音さまをおまつりしたとか。

ちなみに「駒沢」の地名の由来。明治に上馬引沢村、下馬引沢村、野沢村、弦巻村、世田ヶ谷新町村、深沢村を統合し新しい村をつくる際に適当な村名が見つからず、6つの村の名の間をとって「馬」=「駒」+「沢」=駒沢村と。大正昭和と一時消滅。昭和42年(1967)になって上馬から2~3丁目、新町から3~4丁目、深沢から1・5丁目をもらい再び駒沢として復活した、という。



休日、代官山で仕事があった。仕事といっても、「ご苦労さん」、って顔を見せるだけ。であれば、ということで、駒場東大前から代官山まで歩き、顔見世の後は、再び代官山から目黒の国立自然教育園に。しばし紅葉見物の後は時間次第で目黒不動方面に足を伸ばすことにした。(月曜日, 12月 19,2005のブログを修正)



本日のルート;駒場東大前駅>淡島通り交差>池尻大橋・246号線>目黒川>中目黒駅>旧山手通り・鎗ケ崎交差点>目黒川に戻る>茶屋坂>恵比寿ガーデンプレース>白金・庭園美術館>行人坂>大円寺>太鼓橋>大鳥神社>目黒不動>目黒駅

井の頭線駒場東大前
井の頭線駒場東大前下車。駅前の古本屋で『江戸東京学事始め;小木新造;筑摩書房』購入。散歩を始めて、地理・地形の本を結構買うようになった。
駒場の歴史は江戸時代、この地、駒場野に薬草を栽培していた御用屋敷から始まる。八代将軍吉宗が鷹狩を行って以来将軍の鷹狩場に。ちなみに鷹は必ず獲れるように演出がされており、その役職は綱差(つなさし)として代々受け継がれた、とか。幕末に徳川幕府はフランス人の軍事教官の建白に基づき、この地を軍事演習場とする計画を出した。が、周辺農民の起こした駒場野一揆により、実現せず。明治維新を迎え、駒場農学校が現在の東大駒場キャンパスの地に開校。鷹狩場がそのまま学校の用地となっている。

淡島通り

駅から淡島通りへとゆったりとした坂を登る。淡島通りと交差。先日会社のスタッフが結婚式を挙げた駒場エミナース前に。横の道を南に。都立芸術高校、駒場東邦学園、第三機動隊官舎に沿って歩く。
このあたりは昔、近衛輜重兵大隊があったところ。その西・筑波大学付属中学・高校のあたりは騎兵第一連隊、またその北には陸軍の練兵場広がっていた。ちなみに、目黒区の駒場、大橋、東山、世田谷区の池尻、三宿、下馬といったあたりは陸軍の施設が数多くあった。これらの地域に学校、病院、団地、自衛隊施設が集中しているのは軍用地を転用しているわけだ。





国道246号線・目黒川
国道246号線に向って結構下る。下ったあたりが東邦大学大橋病院。このあたり10m以上の標高差があるだろうか。246号線を渡って目黒川に。烏山川と北沢川が三宿池尻あたりで合流したものが目黒川。都の清流事 業にのっとり、落合下水処理場で高度処理された水が流れ込む。






西郷山公園
川に沿った遊歩道を歩く。目黒橋で山手通りと交差。西郷山公園・菅刈公園下を進む。菅刈とは、往時このあたり、目黒区から世田谷区にかけて菅刈庄と呼ばれた荘園であったため。

駒沢通り
遊歩道に沿って西郷山下、千歳橋、宿山橋を越え、東横線と交差。往時、目切坂から宿山橋をとおり東西に伸びる旧鎌倉街道が続いていた、とか。日の出橋を過ぎ駒沢通りに。駒沢通りを恵比寿方面に少しのぼる。

鎗ケ崎(やりがさき)交差点

旧山手通りとの合流地点、鎗ケ崎(やりがさき)交差点手前で少々のお仕事。しばしの間歓談。再び散歩に出かける。時間は午後3時過ぎ。どこまで行けるだろうか。

目黒川・田楽橋

目黒川沿いの遊歩道に戻り田楽橋。昔の舟入場。海運物資の集積地だったのだろう。中里橋を左折。清掃工場と金属材料研究施設、防衛庁官舎の間を登る。




茶屋坂
茶屋坂、新茶屋坂。目黒区教育委員会の「茶屋坂と爺々が茶屋」の由来書;茶屋坂は江戸時代に, 江戸から目黒に入る道の一つ。大きな松の生えた芝原の中をくねくねと下るつづら折りの坂で 富士の眺めが良いところであった。
この坂上に百姓彦四郎が開いた茶屋があって, 3代将軍家光や8代将軍吉宗が鷹狩りに来た都度立ち寄って休んだ。家光は彦四郎の人柄を愛し,「爺,爺」と話しかけたので, 「爺々が茶屋」と呼ばれ広重の絵にも見えている。以来将軍が目黒筋へお成りのときは立ち寄って銀1枚を与えるのが例であったという。また10代将軍家治が立ち寄った時には団子と田楽を作って差し上げたりしている。こんなことからこの「爺々が茶屋」を舞台に「目黒のさんま」の話が生れたのではないだろうか、と。


国立科学博物館付属自然教育園
茶屋坂脇の紅葉が結構美しい。坂を登りきり、少々雑然とした民家のあたりを通り三田橋でJRを越える。恵比寿ガーデンプレースに。ウエスティンホテル東京と三越の間を通り、社会教育館交差点、恵比寿3丁目交差点に。右折し白金6丁目から外苑西通りを上り、松岡美術館を越えたあたりの信号を右折。国立科学博物館付属自然教育園に沿って法連寺、台北駐日経済文化代表処前を進み、目黒通りに。右折し国立科学博物館付属自然教育園の入口に。4時を過ぎており閉館。幸運にも隣の庭園美術館は午後6時までオープン。この美術館、昭和3年に建てられた旧朝香宮邸。紅葉結構美しい。ゆったりとうす暗がりの中散歩。思わぬプレゼント、って感じでありました。
(後日自然教育園を訪れたことがある。江戸期は高松藩下屋敷。明治期には陸海軍の火薬庫。大正期は白金御料地。湧水や極相林など、豊かな自然が残されていた)

行人坂

時刻は5時を過ぎている。あたりは真っ暗。とはいうものの、目黒近辺の「見所」は歩き終えておこう、ということで、行人坂に向う。目黒駅を越え、JRの線路を跨ぎ、すぐ左折。行人坂へ。坂を下る手前に富士見茶屋跡の由来書。富士山の眺めを楽しめる茶屋があった、とか。「江戸名所図会」にも、富士が見えるさま「佳景なり」と。行人坂に。坂の途中にある大円寺前を太鼓橋まで下る急坂。「江戸名所」に「行人坂とは白金台町より西の方目黒に下る坂をいう。寛永のころ、羽州(出羽)湯殿山の行者(行人)ここに大日如来堂を建てたる所なり、とある。
明和9年(1772年)、大円寺から出た火が折からの強風にあおられ、白金から神田、湯島、下谷、浅草まで江戸八百八町のうち六百二十八町を焼き尽くした。特に江戸城のやぐらも延焼したので、以降80年近く大円寺は再建を許されなかった、とか。この火事は振袖火事、芝・車町火事と並んで江戸三代火事のひとつ。行人坂火事と呼ばれている。
大円寺の石仏群はこの大火の供養のために、五十年という歳月をかけてつくられた。ちなみに、大円寺は八百屋お七の恋い焦がれた吉三郎が僧となって、処刑されたお七の菩提を弔った、と言われるお寺。吉三郎は行人坂を改修、さらには太鼓橋をかけた、とも。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)


太鼓橋

で、坂を下りきると目黒川にかかるのが、その太鼓橋。広重の江戸名所百景「目黒太鼓橋夕日の岡」。一面の雪景色。傘をさし橋を渡る人の影。江戸の昔に思いを馳せる。ちなみにこの橋、大正時代の豪雨で流されてしまった、とか。

権之助坂

太鼓橋を渡り右折。目黒通りを権之助坂から下りてくる目黒新橋方面に。権之助坂の由来は例によって諸説あり。総じて、菅沼権之助という名主の威徳を偲んで名づけたとか。

大鳥神社

目黒通りに。左折し山手通り大鳥陸橋・大鳥神社の交差点。渡りきったところに大鳥神社。目黒最古の神社。「日本武尊の御霊が当地に白鳥としてあらわれ給い、鳥明神として祀る。」とあり、大同元年(806年)社殿が造営された、との社伝あり。

目黒不動

真っ暗の中、もうひと頑張り。最後の目的地、目黒不動に向う。大鳥神社に沿って目黒通りのちょっとした坂を登りきったあたりを左折。住宅街に入る。角には目黒寄生虫館が。進む。森というか林にそって下ると滝泉寺・目黒不動。本尊は不動明王。往古より不動信仰の地として多くの人々の信仰を得る。
開山は808年天台座主慈覚大師円仁。不動明王の夢のお告げにより建立とのこと。徳川家光の信仰篤く、諸堂宇を再興し、山岳寺院配置の伽藍が完成。戦災により大半が焼失したが、戦後は仁王門、本堂などが再建され、現在にいたっている、と。
目黒区教育委員会の解説文には;境内は台地の突端にあり、水が湧き老樹が茂り、独鈷(とっこ)の滝や庭の池が美しく、庶民の信仰といこいの場所でした、と。 境内に独鈷の瀧(とっこのたき)。江戸名所図会では次のように描かれている;『当山の垢離場(こりば)なり。往古承和十四年〔八四七〕当寺開山慈覚大師入唐帰朝の後、関東へ下りたまひし頃、この地に至り独鈷杵(とっこしょ)をもてこの地を穿ち得たまふとぞ。つねに霊泉滑々として漲(みなぎ)り落つ。炎天旱魃(かんばつ)といへども涸るることなく、末は目黒一村の水田に引き用ゆるといへり、と。台地から湧き出る水は、何処で見ても神秘を感じる。本日の予定はこれで終了。山手通りから目黒通りの権之助坂を登り目黒駅に。 

秋、紅葉を見たいと思い立つ。小田急に乗り秦野を目指す。秦野弘法山の丘陵に一度行ってみたいと思っていた。途中、小田急で行き先を間違い江ノ島方面に。大和を過ぎ港南台のあたりで気がつき相模大野まで引き返す。小田急小田原線に乗り換え伊勢原を過ぎ秦野で下車。
秦野の歴史;秦野の名前の由来は「秦」氏からという説も。渡来人が住み着いていたのだろうか。藤原秀郷。俵の藤太、むかで退治、平将門を倒した武将、その子孫藤原経範がこの地を開墾し波多野氏を名乗る。これが波多野氏のスタート。前九年の役、保元の乱と活躍。勢力をのばす。これが平安時代まで。鎌倉時代、波多野氏は当初平氏に組する。負け戦。当主、自害・所領没収となるが、のちに許され、幕府の要職に。越前の地頭職になったとき、曹洞宗の開祖道元を招聘し永平寺を開くほどに。(水曜日, 11月 30, 2005)


本日のルート;小田急・秦野駅>弘法山公園入口>浅間山>権現山>弘法山>吾妻山>鶴巻温泉弘法の湯>小田急・鶴巻温泉駅

小田急線秦野駅

ともあれ散歩にでかけよう。途中車窓から目的の山というか丘陵地・浅間山は確認済み。駅からそれほど遠くない。駅前を北に。水無川にかかるまほろば大橋を渡り、右折。河岸を進む。車の往来激しい。平成橋、常盤橋を越え、新常盤橋を左折。川筋から離れる。

弘法山公園入口
川原町交差点を越え直ぐ、県道71号線脇に弘法山公園入口が。川筋に沿って道なりに歩くと浅間山への登り道となる。ここまで、駅から30分弱といったところ。上り道は結構厳しい。鎌倉の天園ハイキングコースを思い出す。20分ほどで広場に。ここが浅間山。秦野の町並み、箱根や丹沢の山のつらなりの眺めが楽しめる。
(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)

浅間山から権現山
浅間山の広場から権現山に。少し上り、すぐ下り、車道、というか山越えの道を横切り再び山道に入る。この上りも結構厳しい。が、ほどなく頂上。広場になっている。展望台からは富士山が見える、とか。相模湾の眺めはなかなかよかった。権現山からはよく整備された坂道、というか階段道を下りる。目的の紅葉、盛りにはほど遠い。ちらほら。桜並木の馬場道が続く。途中、秦野がタバコの里であったことを示す記念碑。
秦野とたばこの歴史(掲示案内文);「秦野は、江戸時代初期から、「秦野たばこ」の産地としてその名声を全国に及ほし、味の軽いことから吉原のおいらんに好まれるなど、高く評価されていました。
薩摩たばこは天候で作り、秦野たばこは技術で作る。
水府たばこは肥料で作り、野州たばこは丹精で作る。
と歌にも謳われたように、秦野たばこの特色は優れた耕作技術にありました。特に苗床は、秦野式改良苗床として、全国の産地に普及したほど優秀なものでした。 この苗床には弘法山をはじめ各地区の里山から落ち葉がかき集められ、堆肥として使用されました。秦野盆地を囲む山林はたばこの栽培に欠かすことのできない場所でした。明治時代には、秦野煙草試験場や葉煙草専売所が設置され、たばこの町秦野が発展しました。秦野たばこは水車きざみ機の開発により、大いに生産が拡大しました。また品質の高さから、御料用葉煙草も栽培されました。昭和に入って両切りたばこの需要が増えると、次第に秦野葉の栽培は減少していきました。秦野市が誕生してからは都市化が進み、昭和59年にはたばこ耕作そのものが終わりを告げました。秦野のたばこ栽培は300年以上の長い歴史を持ち、多くの篤農家や技術者を生み出し、その高い農業技術には今日に今なお継承され、秦野地方を埋め尽くしたたばこ畑はなくなっても、優秀な葉たばこを作った先人たちの心意気はこの土地にしっかりと息づいています」と。

弘法山

しばらく歩くと分岐。下ると、めんようの里。いまひとつわかりにくいが、弘法「山」に行くわけだから分岐点を上り方向に進む。わずかに上ると弘法山。弘法大師が修行したとの伝説のある山。山頂には大師の木造を安置した大師堂、井戸、鐘楼などが残る。

峠の切り通しは切通しは矢倉沢往還
次の目的地吾妻山。釈迦堂脇から山道に入る。みかん畑の脇を上りゆったりとした道筋を進み善波峠に。弘法山、吾妻山、大山の分岐点。峠のちょっと手前の階段っぽい崖道にくずれかけた常夜灯がある。これは「文政10年(1827)に旅人の峠越えの安全のために道標として立てられたもの」で「御夜燈」と尊称されている、と。
峠の切り通しには地蔵と馬頭観音。この切通しは矢倉沢往還の道筋。矢倉沢往還の道筋は江戸城の「赤坂御門」が起点。多摩川を二子で渡り、荏田・長津田、国分(相模国分寺跡)を経て相模川を厚木で渡り、大山阿夫利神社の登り口の伊勢原に。さらに西に善波峠を経て秦野、松田、大雄山最乗寺の登り口の関本、矢倉沢の関所に。その後足柄峠を越え、御殿場で南に行き、沼津で東海道と合流する。これが矢倉沢往還の全ルート。矢倉沢往還は古くから人や物が行き交う道。日本武尊の東征の道筋が、足柄峠を通って矢倉沢から厚木まで矢倉沢往還とほぼ同じであったよう。矢倉沢往還は公用の道、信仰の道、物 資流通の道と様々な機能を持つ。
公用の道;徳川家康の江戸入府の折り、箱根の関所の脇関所の一つとして矢倉沢に関所を設ける。関所の名前が街道名の由来。また、後年、人夫・馬を取り替える継立村が置かれ、東海道の脇往還・裏東海道の一つとなった。
信仰の道;江戸時代中期以降、大山信仰が盛んになる。各地から大山詣での道がひらけ、その道を大山道というようになったが、矢倉沢往還は江戸から直接につながっており、大山道の代表格。
物資流通の道:相模、駿河、伊豆、甲斐から物資を大消費地である江戸に運んだ道で、駿河の茶、綿、伊豆のわさび、椎茸、干し魚、炭、秦野のたばこなどが特に有名。

吾妻山へ
分岐を右に。というか、3箇所分岐となっており少々分かりにくい。すこし下る感じの道筋が吾妻山へのオンコース。長い道筋の割には道路標識がなく不安になりながら、ともあれ歩く。1時間近くもあるいたろうか、吾妻山の山頂に。ここからの眺めは結構いい。お勧め。日本武尊の由来書;「日本武尊は、東国征伐に三浦半島の走水から舟で房総に向う途中、静かだった海が急に荒れ出し難渋していました。そこで妻の弟橘比売は、「私が行って海神の御心をお慰めいたしましょう」と言われ、海に身を投じられました。ふしぎに海は静まり、無事房総に渡ることが出来ました。征伐後、帰る途中、相模湾・三浦半島が望めるところに立ち、今はなき弟橘比売を偲ばれ「あずま・はや(ああ、いとしい妻)」」と詠まれた場所がこの吾妻山だと伝えられています」と。

弦巻温泉駅

あとは緩やかな道をひたすら下る。30分もすれば東名高速に。下をくぐり、温泉旅館の看板などを眺めながらのんびりあるくと弦巻温泉弘法の湯。市営の日帰り温泉。一風呂浴びて、弦巻温泉駅から一路自宅に。紅葉見物とはいいながら、紅葉には少々早い秦野散歩ではあった。

いつだったか、佐江衆一さんの書いた一遍上人の本を読んだことがある。『わが屍は野に捨てよ-一遍遊行,(佐江 衆一,新潮社)』)という本。きっかけは、これもいつだったか埼玉の狭山丘陵を散歩しているとき時宗のお寺があったから。お寺に興味をもったわけではない。時宗=開祖一遍上人、ということ。
とはいうものの、一遍上人って、一体どういう人物かよくしらない。で、前々から気にはなっていた栗田勇さんの『一遍上人』を探した。が、なかなか見つからない。そうこうしているうちに、どこかを散歩しているとき、ふと立ち寄った古本屋で見つけたのが佐江さんの本。
読んでみた。一遍上人って伊予・愛媛の人。身近に感じた。読み終えた。その後、しばらくして書店で栗田勇さんの『一遍上人』も手に入れた。文庫版になっていた。読み終えた。なんとなく一遍さんとか時宗について、「つかんだ」。で今回の熊野。一遍上人が大きく登場してきた。時空散歩がつながった。(火曜日,11月 29, 2005のブログを修正)

蟻の熊野詣

蟻の熊野詣のメモ;上皇の御幸>浄土信仰>貴族の熊野詣で>鎌倉武士の熊野詣>熊野神社の全国普及>一遍上人の踊り念仏・時宗の隆盛>熊野比丘尼の全国遊歴>15世紀末に民衆の熊野詣ピーク=蟻の熊野詣、を迎えることになる。
院政期から中世には、熊野御師・先達制度の発達、熊野修験・熊野比丘尼などの活動によって、熊野三山信仰が諸国に流布し、幅広い人々の熊野詣が行われるようになった。また、遠隔地の山々や島、村落では、熊野三山を勧請し、そこで熊野信仰が行われることになる。ちなみに、全国に熊野神社は3800ほどあるという。熊野比丘尼とは熊野の神の霊験あらたかなることを宣伝し全国を遊歴する女性宗教家のことである。
上の蟻の熊野詣のメモで、一遍上人の踊り念仏・時宗の隆盛が民衆の熊野詣への大きな要因となったと書いた。もう少々詳しく、とは思ったのだが、いつになったら第一回のメモが終わるものやらと省略。 熊野散歩のメモは先回で一応終わりのつもりではあった。が、一遍上人と熊野の関わりを省くことがなんとなく収まりが悪い。で、もう少々付け加えることにする。

熊野詣のきっかけは上皇の熊野御幸。白河上皇9回。鳥羽上皇21回。後白河上皇34回。鎌倉時代に入って、御鳥羽上皇が28回。院政期、上皇の熊野御幸はほぼ年中行事と。このように熊野信仰にドライブがかかったのは、修験者(山伏)・園城寺派の修験僧の働きかけがあってのこと。
当 時、熊野は修験道の一大中心地。修験者が熊野詣の道案内人をつとめる。この道案内人を先達(せんだつ)と呼ぶ。先達は道案内だけでなく、道中の作法の指導も行った。先達に案内された熊野御幸、上皇には政治的・経済的理由があったろう。宗教的理由は言うまでもない。時代背景から考えても必然的。
平安後期、白川上皇の院政の開始(1086年)から鎌倉幕府に政権が移るまでの100年は天下大乱・末法を思わせる時代。貴族の支配体制が崩れ、上皇が絶大な権力を握る。武士が台頭。保元の乱(1156)、平治の乱(1159)など源平の争乱で京は戦場に。武士や僧兵、群盗が都大路を闊歩する。飢餓の死者は数知れず、貴族の館は乱暴狼藉の巷。貴族・支配階級が抱いた観音浄土への信仰はこのような時代背景からくる、すさまじい危機感・恐怖感ゆえのもの。
上皇・貴族が核となり一路、熊野詣へ。が、1221年、ひとつの事件が起きる。「承久の乱」。才能にあふれた後鳥羽院が武家から王権を取り戻すべく起こした企て。ちなみに後鳥羽院、熊野詣は28回。熊野の僧兵を味方に引き込む目的もあったとのではなかろうか、とも思える。熊野三山検校の勧めのより上皇が挙兵した可能性も高い。
上皇のもとには熊野の衆徒たちが多く馳せ参じる。鎌倉軍に瞬く間に制圧される。上皇方に参加した熊野権別当とその子・千王禅師(せんのうぜんじ)も討ち死。ともあれ、後鳥羽院敗れる。
鎌倉幕府によって院政は停止。敗れた後鳥羽上皇は、院政の経済的基盤である全国3000ケ所に及ぶ荘園を鎌倉幕府に没収され、隠岐(島根県)に配流。熊野御幸を宗教的・経済的・政治的行事として行ってきた院政政権はこの乱の敗北により崩壊。熊野御幸は終焉に。承久の乱後は、わずかに後嵯峨上皇が3回、亀山上皇が1回詣でているのみ。
また、承久の乱で上皇に組みした熊野は、鎌倉幕府から冷遇される。1282年熊野別当家断絶。熊野は衰退。上皇中心・熊野修験勢力中心の熊野詣での終焉。
が、しかし、南北朝から室町にかけて、新しい動きがでてくる。民衆中心の熊野詣で。それまでの熊野修験僧に代わり、時衆(じしゅう。のちに時宗)の念仏聖たちが熊野信仰をもりたてていくことになる。で、この核となるのが一遍上人、というか一遍上人が開いた時宗・踊念仏。
承久の乱から半世紀の後、熊野権現との出会い・さとり(熊野成道)を得た一遍上人が「時宗」を開く。時衆は鎌倉中期から室町時代にかけて日本全土に『念仏踊り』の熱狂の渦を巻き起こした。時衆の念仏聖たちは南北朝から室町時代にかけて熊野の勧進権を独占。説経『小栗判官』などを通して熊野の「ありがたさ」を 広く庶民に伝え、それまで皇族や貴族などのものであった熊野信仰を庶民にまで広めていった。熊野詣でのメモで、一遍上人の踊り念仏・時宗の隆盛と書いたのはこのこと。

一遍上人

がしかし、我々あまりに一遍上人のことを知らない。栗田勇さんが『一遍上人;旅の思索者』(栗田勇;新潮文庫)で書いている;一遍上人の名は、鎌倉初期をかざるほぼ同時代に輩出した、法然、親鸞、道元、日蓮とくらべると、ほとんど知られることが少ない。ましてや、鎌倉中期から室町にかけて、浄土真宗や真宗をはるかに凌ぐ、大教団としてとくに「念仏踊り」が、上は大名、武士から町人、百姓浮浪者にいたるまで、ほとんど、日本の全土を風靡していたことは全く忘れ去られている。
そのころ、日本の街の辻や村の集まりでは、盆・暮はもちろん、毎月、おつとめの日には、今日の六斎念仏踊りに似た、「念仏踊り」がもよおされ、人々は、狂喜したように南無阿弥陀仏を大声で合唱しながら、円陣をつくって、踊り狂っていたのである。」、と。
結構すごかったわけだ。こういったパワーが背景にあったとすれば、蟻の熊野詣を演出したのはこの教団である、といわれても納得。
で、一遍上人は言う;「わが法門は熊野権現夢想の口伝なり」、と。一遍上人の熊野成道(じょうどう;悟りを開くこと)、そのきっかけとなったのは中辺路のとある場所。伏拝王子の近くか、とも思うが定かではない。あまり宗教的イベントに興味はないのだが、一遍上人と熊野のかかわりのきっかけでもあるので、熊野成道(じょうどう)についてメモ:
一遍上人は人々に念仏札を与えながら熊野へと向かっていた。念仏勧請とはいうものの、一紙半銭の喜捨を受ける、一種の無銭旅行の方便といったもの。それほど宗教的高みを目指す「巡礼」でもなさそう。で、中辺路の山道で、品性卑しからぬ一人の僧に「一念の信を起こして南無阿弥陀仏と唱えて、この札をお受けなさい」と念仏札を。が、その僧、「念仏に信心がわかないから、お札はいらない」と拒否。一遍は慌て、かつ、不本意 ながらも「信心が起こらなくてもいいから」と強引に僧に念仏札を渡す。
一遍は悩み、煩悶。本宮で。夢うつつに一遍の前に白髪の山伏が。山伏が熊野権現であることを直観した。権現は告げる:「融通念仏をすすむる聖。いかにねんぶつをば、あしくすすめられるぞ。御坊の勧めによりて、一切衆生ははじめて往生すべきにあらず。阿弥陀仏の十劫正覚に(十劫の昔に悟りを開かれたそのときに)、一切衆生は南無阿弥陀仏と必定するところ也。信不信を選ばず、浄不浄をきらわず、その札をくばるべし」。
このときから真の一遍の念仏が始まり、一遍は時衆の開祖となる。一遍自ら「我が法門は熊野権現夢想の口伝なり」と語っており、そのため、この本宮での出来事のことを時衆では「熊野成道(成道とは宗教的な覚醒のこと)」という。
念仏聖と蟻の熊野詣の関係は以上で納得。で、蟻の熊の詣でについてもうひとりの立役者、熊野比丘尼についてももう少し整理しておく。

熊野比丘尼

熊野比丘尼とは熊野の神の霊験あらたかなることを宣伝し全国を遊歴する女性宗教家のことである、とメモした。そのはじまりを、熊野三山に仕える巫女に求める説もある。先達・御師の妻だ、という説もある。ただ、諸国をまわって熊野への参詣を勧誘したことにあると考えれば、それほど昔に遡ることはないだろう。交通路や宿泊施設が整備し、案内役としての先達の役割が少なくなり、それにかわるものとして登場してきた。とすれば、一般民衆の参詣が高揚する十五世紀広範化、それがやや衰える十六世紀に、熊野比丘尼の活躍の時代があると考えるのが自然、かも。
室町時代、絵巻を使って地獄・極楽の絵解きをしたり、歌念仏を唱えたりして熊野への寄付を勧め、女性を拒まない熊野への信仰によって女人救済を説いてまわった。また、熊野三山の発行する厄除けのお札「午王宝印」を全国に売ってまわった。熊野の午王宝印は熊野の神の使いである烏を図案化したデザイン。サッカーの全日本のお守りマークとして使われているので目に した人も多いだろう。さらに、室町時代から江戸時代にかけてお札の裏が起請文や誓詞を書くのに盛んに使われた。

高野澄さんの『熊野三山・七つの謎;祥伝社ノン・ポシェット』にこんな興味深い記述が;「熊野速玉神社(新宮大社)の近くに神倉神社がある。この神社が比丘尼の統括機関。もっとも、中世の神倉神社を運営したのは神倉聖とよばれるいくつかのお寺。なかでも妙心尼寺が中心となった。神倉山ののぼり口にある。熊野比丘尼が全国を勧請してまわり集める浄財はいったん妙心尼寺に献金され、妙心尼寺から熊野三山それぞれの大社に対して、社殿の維持や修理の費用として配分されてゆく。
妙心尼寺から比丘尼に対する反対給付としては、熊野比丘尼の名称を使うことが許され、年の暮から正月にかけての三山参籠が義務つけられ、新年になってそれぞれの持ち場に戻っていく比丘尼に対して、新しく印刷された熊野牛王が給付されるという仕組みであった。」。熊野比丘尼も経済システムにきっちりと組み込まれていたようだ。

中世、日本最大の霊場として栄えた熊野。が、やがてその熱狂振りも衰微する。熊野信仰を広めた熊野比丘尼も江戸時代になると歌比丘尼などと遊女になるケースも。お伊勢参りにその座を譲ることになる。また、江戸時代、熊野三山は紀州藩の宗教政策・神道化政策により、熊野山伏や念仏聖、熊野比丘尼たちの活動を抑えた。熊野信仰は衰退。明治になってさらに衰退。その最たる原因は、明治元年(1868年)の神仏分離令。本地垂迹思想により仏教と渾然一体となっていた熊野信仰にとって、国家による神道重視政策は大きなダメージ。これにより熊野を詣でる人は激減した。
なんとなく気になっていたことのメモは終了。本当のところ、小栗判官とか、熊野牛王とか、安珍と清姫とか、和泉式部伝説とか、花山院伝説とか、あれこれメモできなかったこともある。鎌倉で花山院の足跡に出会ったように、いつかどこかで「襷」がつながることを楽しみにして、熊野散歩を終えることにする。いやはや、長かった。
本日もコーディネーター女史の采配により、時間の割りに距離を稼ぐ、早い話がレンタカーやバスで標高の高い散歩開始ポイントに進み、ひたすらに下り道を歩く。で最終地点だけ、少々の険路を味わうって段取り。(月曜日, 11月 28, 2005のブログを修正)



3日目土曜;熊野瀬>牛馬童子口バス停>牛馬童子像>近露王子>バス>野中の清水バス停>継桜王子>比曽原王子>近露王子>バス>牛馬童子口バス停>高原熊野神社>車>>滝尻王子>熊野古道館>不寝王子>南部梅記念館>南方熊楠記念館>白浜温泉 銀翠

牛馬童子像
宿のある渡瀬温泉から車で「道の駅・熊野古道なかへち」に。そこに車を止め散歩のスタート。熊野本宮大社に向って歩く。はじまりは結構厳しい上り。森を進む。杉木立の中に古い宝筐印塔(花山院が法華経と法衣を埋納したと)と小さな牛馬に乗った旅装の童子の石像・牛馬童子像。花山法皇の熊野詣の旅姿であるとも言われている。箸折峠に静かに佇む。もっとも、この牛馬童子、「明治のころ俺がつくった」という人も現れたようで、由来の真偽のほど不確。
また、この花山法皇、いろんなところで顔を出す。那智の西国33観音巡礼伝説しかり、先日鎌倉を歩いていたときにも顔を出した。一体どういった法皇なのか一度調べてみたい。

近露の里
箸折峠からの道を結構下り近露の里に。花山法皇の一行、箸のかわりに傍らの、茅(かや)を折る。茎から赤い血のような、露のようなものが滴り落ちる。で、これは血か露か=近露、折って箸=箸折。日置川の流れと大塔山系の峰々を背景にした広々としたのどかな里。熊野山中にしては開けたところで、かなりの田地がひろがる。

近露王子
里の道を歩き日置川にかかる北野橋の隣に近露王子。最も早く現れた王子。鎌倉末期の熊野縁起には准五体王子と して名前がある。参詣者は神社脇の日置川で禊を。天仁二年(1109)、藤原宗忠の『中右記』には、「近津湯の川を渡って祓い、近津湯王子に奉弊す」とある。後鳥羽上皇はここでも和歌の会を。明治末期の神社合祀で廃社となり、近露王子の跡を示す石碑が残されている。
近露王子あたりの標高は290m程度。目的の小広王子の標高は550m程度。上り道は避けたい、ということで、近露からバスで小広王子近くまで進み、そこから近露王子に戻ってくる方針に。おおよそ7キロ、2時間強の歩きとなる。

小広王子

小広峠のバス停でおり、熊野古道の案内をたよりに山に向う。といっても完全舗装。結構上る。車道の小広峠の道端に小広王子。むかしはもっと高いところにあったとか。この王子は中世の記録にはない。道は狭いが以前は国道311号線として田辺から本宮までの唯一の道。

中ノ河王子

小広王子から30分程度で中ノ河王子に。高尾隧道口の少し東、車道からすこし上ったところに中川王子と刻んだ石碑。かっての熊野参詣道の道跡。ここは比較的早くできた王子。この王子から先に道があるような、ないような。案内がなければ道に迷う人が多いのではなかろうか。元に引き返す。

安倍清明の腰掛石

少し歩くと民家が。「安倍清明の腰掛石」が民家の庭先に。恐る恐るではあるが、腰かける。「平安時代の陰陽道(おんみょうどう)の大家安倍晴明が腰を下ろして休んでいるとき、上方の山が急に崩れそうになったが呪術(まじない)で崩壊を防いだと伝えられている。」と案内板に書いてあった。
何故陰陽師が?御幸は陰陽道の占いによって行動の指針を得ていた、ということだった。もっとも、安倍晴明の屋敷が那智にあったとも言うし、そもそも安倍清明と花山院は仲良しであった、とも言うし、安倍清明の伝説があるのはあたりまえか。

桜継王子
で、中ノ河王子から15分程度で桜継王子。野中地区の氏神でもある王子社。社殿もある。境内の斜面に一方向に枝の伸びた一方杉が。県指定の天然記念物。この王子社の名前の由来ともなった、継桜が社前にあり、それが秀衡桜と呼ばれ、この王子社の東にある。

野中の清水

王子の前の崖を少し下りると日本名水にも選ばれた「野中の清水」がある。傍らに、松尾芭蕉の門人、服部嵐雪(はっとりらんせつ)の句碑;「すみかねて道まで出るか山清水」
また、斎藤茂吉の歌碑も;「いにしえのすめらみかども中辺路を越えたまひたりのこる真清水」
昭和9年(1934)に土屋文明とともに熊野に来て、自動車で白浜に向かう途中に立ち寄って、この短歌を詠んだ、とのこと。

伝馬所跡や一里塚跡

少し歩くと「伝馬所跡」(てんましょあと)や「一里塚跡」の案内板や碑。「伝馬所」とは街道沿いに設けた役所で、公用の文書や荷物を中継するなどの役目をもち、馬や人足が常駐していた、とのこと。近露にも設置。が、この先本宮向きは約16km先の伏拝までない。野中は熊野街道の中でも要所だったわけだ。

比曽原王子
野中の一方杉から15分ほど歩くと、再び少し広い車道・旧国道311号線に合流。継桜から20分程度の行程で比曽原王子に。車道脇の山の斜面に。江戸中期にはすでに社殿はなかったようである。1739年の熊野めぐりにこんな記載が:「道の傍らに蒼石を以って比曽原と彫付けたり。所のものに尋ぬれども其の事実を知らず」、と。この頃にはもう誰も知らなかった、ってこと。

近露王子

比曽原王子から近露王子までほぼ50分。近露に近づくにつれ、少し熊野古道らしい道を緩やかに下っていく。が、またすぐに舗装路に。近露の里になって人家が多くなる。そのまま里道を下り、10分ほどで近露の中心地に。

高原熊野神社
近露王子からバスで道の駅まで戻り、再びくるまで先に進む。次ぎの目的地は高原熊野神社。山の上。幸運にも一発で目的地に着いた。駐車場から「下界」の眺めが美しい。高原熊野神社はこの高原地区の氏神。高原王子と呼ばれることもあった。1403年に若王子を熊野から勧請したと。社殿があり、春日造り。室町時代の様式を今に伝える。熊野街道の中では最も古い神社建造物である。

滝尻王子

高原熊野神社から滝尻王子に向う。中辺路ルートの開始地点。滝尻王子は熊野九十九王子のうち最も重要な王子のひとつ。五体王子であった。石船川が冨田川に合流する地点、滝尻橋のそばに位置する。
滝尻という地名の由来は、川の流れが激しく、石に触れ音高く滝のような様であるため。古道は背後の山・剣ノ山への上りとなる。熊野の聖域への入口。「初めて御山の内に入る」(藤原宗忠)、のコメント。参拝者は川で禊、社前で経供養や里神楽を。後鳥羽院の和歌会も。剣ノ山への上り開始。「滝尻につきたまい。。。、険しき岩場を攀じ登り(源平盛衰記)」、「おのが掌を立てたる如し、まことに身力尽きをはんぬ(中右紀)」などとある。またこの険阻な桟道、藤原定家などのびてしまい、12人の力者法師のかつぐ輿にのったとか。ともあれ結構険しいのぼり。

ネズ王子
山道を登りネズ王子まで。急な山道を400mほど登るとネズ(不寝)王子に。秀衡伝説の乳岩・胎内くぐりのちょっと上にある。
秀衡伝説とは;奥州平泉の藤原秀衡は強烈な熊野信者。妻が子宝に恵まれたお礼に妻共々熊野参詣。滝尻で、にわかに産気づき、出産。「道中足手まといになる赤子を岩屋に置き、疾く熊野へ詣でよ」との、熊野権現の夢告、あり。滝尻の裏山にある乳岩という岩屋に赤子を残して旅を続ける。野中まで進む。赤子のことが気になり、秀衡、桜の木の杖を地面に突きさし、「置いて来た赤子が死ぬのならばこの桜も枯れよう。熊野権現の御加護あり、赤子の命あるのならば、桜も枯れることはない」と祈り、参詣の旅を続ける。帰り道、野中まで来ると、桜の杖は見事に根づき、花を咲かせていた。滝尻に向かうと、赤子は乳岩で、岩から滴り落ちる乳を飲み、山の狼に守られて無事に育っていた。熊野権現へのお礼に秀衡は、滝尻の地に七堂伽藍を建立し、諸経や武具を堂中に納めた。黒漆小太刀は滝尻王子の宝として今に至る。また、秀衡が祈願し根づかせた桜は「秀衡桜」と呼ばれる、と。ネズ王子の名前は古い記録にはない。九十九王子に入ることもない。元禄になって「ネジ王子」の記録がある。ネズ王子から再び滝尻に戻り、中辺路散歩をおしまいとする。

先にも挙げた『梁塵秘抄』に、
「熊野へ参らむと思へども
徒歩(かち)より参れば道遠し 
すぐれて山きびし
馬にて参れば苦行ならず
空より参らむ 羽賜(た)べ 若王子」

という今様がある。辺境の山岳地帯にある熊野へ詣でることは都人にとってまさしく苦行の旅であって、苦しみながら詣でるからこそ、熊野の神様の御利益があるのだとされた。そのため、上皇であろうが女院であろうが貴族であろうが、馬や輿は用いず、徒歩で行くことが原則とされた(往路に関しては。復路に関しては馬などを利用することも可で、淀川と熊野川の往復は船を利用するのが一般的でした)、と。
とはいうものの、先ほどの定家のように輿に乗ったという記録もある。熊野の記事はあまりに宗教的意味づけが強すぎるようにも思える。

神坂次郎さんの『熊野まんだら街道』にこんな記事がある;本宮大社の傍らに玉置縫殿の墓。この人物は熊野三山貸付業を一手に引き受けた人物。この三山金貸付業というのは銀行のはしりみたいなもの。将軍吉宗の寄進した三千両、幕府や大名から集めた勧化金、預金、富くじの収益金元本十万両を基金に金貸し業を行い、。。。、莫大な利益がころがりこんだ」、と。

鈴木理生さんの『幻の江戸百年』(筑摩書房)にもこんな記事がある;
「熊野信仰およびその名の下の流通行為は、鎌倉幕府成立と同時に制度的定着をみて盛大になった。やがて、足利尊氏が建武式目を制定した建武三年(1336年)の、室町幕府の発足をひとつの契機として、熊野に代わり伊勢大神宮の御師・先達の伝道行為が主流をなすようになる。
これを単なる「神信心」の流行の変化とみるか、はたまた、"さいはて"を意味する「クマ」の国の湊を中心とした海運事情が、日本三津のひとつの伊勢安濃の津、つまり伊勢湾を中心とした海運網へ再編成されたことの象徴的変化とみるか。。。
いずれにせよ物流・流通を問わず、ここでは人と物と情報の移動は、政治的・軍事的中立性を建前とする寺社の名を借りなければ、一切の"動き"が不可能だった時代の特質があったことを再確認しておきたい」、と。
もっとフラットに、政治的・経済的視点から熊野を扱った記事を探し、さらなる時空浴を楽しみたい。

スタート早々に計画の見直し。最初の予定では車を熊野本宮大社の駐車場に置き、バスで発心門王子まで行く。そこから熊野本大社に向って戻ってくる、ということであった。が、道路工事のためバスは走らない、との情報。タクシーに乗り、ぎりぎり道路封鎖を免れる。(土曜日, 11月 26, 2005のブログを修正)

2日目旅程;くまのじ>熊野速玉大社>熊野本宮大社>発心門王子>水呑王子>伏拝王子>三軒茶屋跡>祓戸王子>熊野本宮大社>渡瀬温泉 熊野瀬

発信門王子

発信門王子から熊野本宮大社までほぼ7キロ。標高314mから89mまでほぼ下り道。里山もあり鬱蒼とした森もあり、距離の割に変化の富んだ道。おおよそ3時間弱の散歩。発心門王子は五体王子のひとつ。11世紀初頭の文献にこの地に大鳥居があったと。それが発心門。「菩提心を発す門」。門前でお祓いをし、王子に参る。発心門は本大社への入り口であった。明治の神社合祀後、王子神社遺址の碑が立つだけであったが、近年整備され社殿が建てられている。

水呑王子
発心門王子からは舗装された道路。里山の風景を楽しみながら30分程度歩くと水呑王子。小学校分校の一隅に石碑が。古い記録には内水飲という記録も。12世紀初頭の記録に、この王子が新王子と。設置時期は平安末期だったのだろう。

伏拝王子

水呑王子から伏拝王子までは30分程度。森に入る。植林された杉林。森に深みはない。古道の森を抜けると伏拝地区の里山風景。遠くに三里富士。趣のある山容。伏拝地区は「伝馬所」として栄えたところ。標識に従って丘に登ると伏拝王子。ここまで来ると森が開ける。本宮旧社地・大斎原が眼下に、とはいうものの、はるか・かなた。
「はるばると さかしき峯を 分けすぎて 音無川を 今日見つるかな(後鳥羽上皇)」
あまりの感激に、「感涙禁じがたし」と、本宮を伏し拝んだ、というのが、この王子の名前の由来と。我ら、ほとんど歩いてもおらず、感慨起こるわけもなし。
石造りの祠の横に和泉式部の供養塔と言われる卒塔婆が。この王子中世の記録にはない。とはいうものの、和泉式部の伝説って日本全国にある。あり過ぎ。以仁王とか小野小町とか、それから花山院もしかり。熊野比丘尼とか高野聖とか、全国を遊歴するエバンジェリストが大きな役割を果たしたのだろうが、ともあれ、そのうちに伝説が全国に広がるプロセスをまとめてみよう。

三軒茶屋

で、伏拝の里を抜け、鬱蒼とした森。途中三軒茶屋。高野山を起点とする小辺路との合流点というか、分岐点。三軒茶屋を少し歩くと見晴台へのバイパス。少し坂を登るが、整備された公園から大斎原が見下ろせる。見晴台を下り、石畳の坂を下る。

祓所王子

伏拝王子からほぼ50分、標高差も250mから90mまで下ると祓所王子。熊野本宮大社のすぐ裏手、杉やイチイガシの林の中に石造りの小さな祠がある。ここは旅のけがれを祓い清める潔斎所。名前の由来もそこにある。で、熊野本宮の駐車場に戻り、今夜の宿に。2日目の予定終了。

薩摩守忠度

今日気になったことがひとつある。熊野本宮のすぐ近く、宮井のあたりを走っていると「薩摩守忠度の生まれたところ」って標識。子供のころから無賃乗車するときに、「さつまのかみ」をする、って普通に使っていた。が、今回の同行者、それほど若くない男性と女性の誰もが「そんなん知らん」とノタマった。そもそも、ただ乗り=忠度、で正しいのか、また、なにがきっかけで、この表現が刷り込まれたのであろうか:
「忠度=ただ乗り」は狂言にあった;狂言の「薩摩守」の内容はこんな感じ。(『世界大百科事典』より)
「住吉の天王寺参詣を志す僧が,摂津の国神崎の渡し場の近くまで来る。茶屋で休息し,代金を払わずに出て行こうとし,亭主にとがめられる。が,真実無一文と 知って亭主は同情し,この先の神崎の渡し守は秀句(洒落)好きなので,船にただ乗りできる秀句を教えようといい,まず〈平家の公達〉と言って,その心はと問われたら〈薩摩守忠度(ただのり)〉と答えよと知恵を授ける。さて,船に乗り船賃を要求された僧は,教えられたとおり〈平家の公達〉といい,秀句らしいと気づいた渡し守が〈その心は〉と喜んで問うと,〈薩摩守〉までは答えたが,〈忠度〉を忘れて苦しまぎれに〈青海苔(あおのり)の引き干し〉と答えて叱責される」。
ただ乗り=忠度、という表現はあった。狂言で使われ、どういう経路か、ただ乗り=忠度、ってフレーズを覚えていたわけだ。で、忠度さんってどんな人?ついでに忠度さんの人となりを調べておく。
1.熊野・宮井生まれの女性が鳥羽上皇の御所で働き平忠盛の恋人に
「雲居より ただ漏りきたる月なれば おぼろげにては いわじとぞおもう」
宮中にて忠盛とのことを噂され、中途半端な応答はしません、と。ただ漏り=忠盛、にかけた粋な歌。
2.宮井に戻り忠度を産む
3.忠盛の出世とともに、忠度も出世;忠盛の嫡男・清盛の弟として。
4.この忠度に恋焦がれたのが「立田腹の女房(弁慶の祖母にあたる人)」の娘。
5.話は、河内源氏の五代当主為義に遡る。
6.河内源氏の流れは;初代頼信>二代頼義>三代八幡太郎義家=義家の孫>五代為義
八幡太郎義家の孫河内源氏五代の為義は検非違使・六条判官などを歴任。
7.為義の目標は子供66人つくること。日本全国66余州に我が子を配置といった壮大な目標。実際は46名。長男・義朝は熱田神宮の大宮司の婿と結婚するなど所定の目標は達した、か。
8.為義は熊野別当の娘・立田御前と縁を結び、息子と娘をもうける;新宮で生まれ新宮で育つ。この娘が立田腹の女房。ちなみに、新宮十郎も為義と立田御前の間の子;立田腹の女房の弟。
9.立田腹の女房;熊野別当湛快と縁を結ぶ。ふたりの間の子供が湛増、娘は乙姫(とする)。ちなみに湛快は清盛に京都進軍を勧めた人。
10.立田腹の女房は湛快が亡くなると、行範という熊野の神職と再婚。生まれた子供・行快も別当に。
11.乙姫;行快と結婚。兄弟が結婚!?。
12.しかし、乙姫は行快と別れ、京都へ。お目当ては平家の御曹司;薩摩守忠度であった。
13.忠度の最後;一の谷の合戦で華々しく討ち死に。これも、どこで覚えたのか分からないが、小学唱歌「青葉の笛」の2番に忠度最後の姿が歌われている。
1.一(いち)の谷の 軍(いくさ)破れ
  討(う)たれた平家(へいけ)の 公達(きんだち)あわれ
  暁(あかつき)寒き 須磨(すま)の嵐(あらし)に
  聞こえしはこれか 青葉(あおば)の笛 
2.更(ふ)くる夜半(よわ)に 門(かど)を敲(たた)き
  わが師に託(たく)せし 言(こと)の葉(は)あわれ
  今(いま)わの際(きわ)まで 持ちしえびらに
  のこれるは 「花や 今宵(こよい)」の歌

一番は同じく一の谷で戦死した平の敦盛の笛の故事。2番が忠度。
一の谷の合戦が近づいたある夜、陣を抜け出し京の歌の師・藤原の俊成に自作の歌を手渡す。
俊成に託された歌の中から「千載和歌集」に選ばれた歌;
「さざなみや 志賀の都は荒れにしを むかしながらの 山さくらかな」
また、討ち死にしたとき、えびらに結んだ辞世の句「旅宿の花」:
「行きくれて 木の下かげを宿とせば 花よ 今宵のあるじならまし」
ただ乗り=忠度、というのは結構失礼な、上質の人物であったよう。
本日の計画は補陀洛山寺>新宮>本宮>中辺路の最終部分をちょっと歩く、と言う段取り。(金曜日, 11月 25, 2005のブログを修正)

2日目;くまのじ>補陀洛山寺>熊野速玉大社>熊野本宮大社>発心門王子>水呑王子>伏拝王子>三軒茶屋跡>祓戸王子>熊野本宮大社>渡瀬温泉 熊野瀬

補陀洛山寺
宿を出て補陀洛山寺に向う。平安時代からおよそ千年に渡って、海の彼方に観音浄土・補陀落浄土を求め、死を賭して漕ぎ出す「補陀落渡海」信仰で知られた寺院である。釘付けされた船の中に座り補陀洛渡海に出発した渡海上人達をおまつりしている。補陀落=梵語・サンスクリット語でpotalaka、とは観音(観世音菩薩)が住む聖地のこと。
観音菩薩ってどんな神さま;調べてみた;観音菩薩は勢至菩薩とともに阿弥陀如来の脇侍。観音菩薩は慈悲をあらわす化身であり、勢至菩薩は知恵をあらわす化身とされる。
観音菩薩は33の姿に変身して衆生の苦悩を救済してくれる。京都の三十三間堂、西国三十三観音霊場の由来はここにあった、とはじめて分かった。
長い仏教の歴史の中で、観音の出現は結構画期的だった、とのこと。衆生済度を本願とする、というか衆生それぞれの魂の救済が観音さまの最大のミッションである。天下・国家の鎮護は他の菩薩にお任せし、「観音さま、助けてください」と念じれば観音様は現れ、魂の救済の手段を考えてくれる、っていうありがたい仏様である。
熊野三山が仏教の理論的裏打ちにより、本宮=阿弥陀仏=極楽浄土の中心にある仏であるので西方浄土。新宮=薬師如来=東方瑠璃浄土。そして那智=千手観音=観世音菩薩の住む補陀落浄土、というように熊野全体が広義の「浄土」とみなされたが、特にこの那智の地は昨日メモした樋口忠彦さんの『日本の景観(ちくま学術文庫)』の描写でわかるように、那智の大滝=本地仏は千手観音>那智権現の主神・牟須美神(ふすみのかみ)の本地仏も千手観音=西国三十三観音、第一札所前の観音様>補陀落山寺=観音浄土を求める補陀落渡海、といった山>滝>海が一体となった観音信仰のトータルセットとなっている。
ちなみに、この補陀落渡海、信仰上の渡海もあったが、水葬の変形であったものもある。また、この儀式自体が興行化され、イベント同行ツアーなどもあったとか、なかったとか、途中で死ぬのが怖くなって逃げ出そうとした渡海上人さまを興行主が撲殺したとか、しなかったとか、それが契機となりこの渡海が禁止されたとか。

新宮
補陀洛山寺を離れ新宮に。車で30分程度。新宮・「熊野速玉大社」を参拝。再び車で40分程度だったろうか、「熊野本宮大社」に向う。で、ふたつまとめて、というか那智も含めて三つまとめて熊野の神さまの整理をしておく;
熊野三山とは、紀伊山地の南東部、相互に20~40キロメートルの距離を隔てて位置する「熊野本宮大社」、「熊野速玉大社」、「熊野那智大社」の三社と「青岸渡寺」及び「補陀洛山寺」の二寺からなる。三山は「熊野参詣道中辺路」によって相互に結ばれている。熊野詣が盛んになる平安時代後期に本宮・新宮・那智が一体化し熊野三山と呼ばれるようになるが、以前は別々の神。三つの神社は、ともに自然崇拝に起源を持ち、それぞれが独自の神として生まれる。
先にもメモしたが、平安時代中期の延喜式に、本宮;熊野坐神社(います)、新宮;熊野早玉神社との記述がある。神社の格から言えば、9世紀半ば頃は本宮も新宮の同格。863年頃には新宮のほうが本宮より格が高かった。940年頃に同格に戻る、とある。ただ、この延喜式には那智の記述はない。神社ではなく、修験道の「権現」さんとしてうまれたのだろう、とは先に述べたとおり。
熊野三所権現が成立したのは11世紀末。熊野坐神社=本宮。速玉神=新宮、という名称が一般化し同時に那智も世に知られるようになる。そして、熊野三山が一体化し相互に祀りあう現象の象徴>熊野三所権現として信仰されるようになる。
もとより、仏教の影響・理論的教義付け>神仏習合の影響を受けて「熊野三所権現」として信仰されるようになったということは言うまでもない。また、「権現」なるがゆえに、仏が衆生を救済するための仮の姿を現したのが神だとする「本地垂迹説」により、主祭神がそれぞれ阿弥陀如来(本宮=家津御子神(けつみこ))、薬師如来(新宮=速玉神)、千手観音(那智=熊野牟須美神)とみなされた。熊野の神々が本地垂迹思想によって説明されるようになったわけだ。結果、熊野は阿弥陀の浄土の地として信仰を集め、これらを巡礼する「蟻の熊野詣」でにぎわうことになる。
ちなみに新宮は本宮に対するものではない。もと神倉山に鎮座していた神を現在の社地に遷したために「新宮」と呼ばれる、と言われる。神社の格が新宮のほうが本宮より高い時期があった、と上にメモした。何故?って疑問があったわけだが、この「新宮説」であれば明解。
熊野三山の社殿は他の神社建築に類例をみない独特の形式を持ち、全国各地に勧請された熊野神社における社殿の規範となっている。十二所権現(三所権現+五所王子+四所明神=十二)という構成で、三山それぞれの主神をともにまつる、って構成だ。先日散歩した鎌倉に十二所権現があった。また、新宿に十二社が熊野神社のすぐ近くにある。
熊野神社は全国で3800ほどあるとも言われる。1042の熊野神社の勧請時期を調査した資料によれば;奈良時代以前 112社(11%) / 平安時代248社(24%) / 鎌倉時代102社(10%) /南北朝時代45社(4%)/室町-戦国時代239社(23%) /江戸時代270社(26%) /明治以降26社(2%)、となっている。
室町から江戸にかけての勧請がほぼ五割。熊野信仰の発展に伴って、というか、熊野神社の全国展開と相まって、というか、互いの相乗効果というか、ともあれ熊野神社フランチャイズが全国に ひろまったわけだ。東京には47の熊野神社。神社以外にも王子、とか八王子とか、音無川(石神井川)とか、飛鳥山(熊野新宮の飛鳥社をこの地に勧請)といった地名が残る。
全国でもっとも多いのは千葉県。268の熊野の社がある。で、先日、まったく別の機会に読んだ『幻の江戸百年(鈴木理生;筑摩書房)』に熊野信仰の全国展開に関する非常に納得感のある記事があった。メモする;
1.熊野信仰は、全国的に海岸地帯に多くの末寺が分布するという形で普及した。
2.それは源平、南北、戦国時代まで、勇名を馳せた熊野衆と呼ばれる強力な水軍の存在と表裏一体。
3.普及の方式は;熊野側は御師・先達制度を形成し、各地の信者と結びつくとともに、熊野に中心をもつ修験道の山伏姿での海陸両面からの伝道活動。御師とは御祈祷師のこと。全国各地に檀那(信者)を作って教導。檀那が参拝の折には拝礼、祈願の仲立ちのほか、宿泊などの世話もする。先達とは参詣の道先案内人、といったところ。
4.御師は地方相互間のコミュニケーション伝達者であり、商業活動の要素を併せ持つ存在。市庭(>市場)の多くは、社寺境内に成立>市場>中世都市
5.熊野信仰に関する最も古い資料;九条兼実『玉葉』1164-12005年11月15日に現れている。つまり、源平争乱の時代>広範囲に移動できる時代。
6.熊野を中心に日本列島の沿岸は、非常に広範囲に熊野信仰の拠点がつくられ、それを中心に伝道と商行為が継続的に行われる社会的成熟が見られた。
つまりは熊野信仰の拡大=熊野神社の拡大は、単に宗教的活動だけではなく、経済行為・活動と不即不離の形でおこなわれた。また同時に大交通時代の始まりの時期でもあり、人・物の交流が活発になった時代背景も大きく影響している。

で、この熊野神社の全国展開に力を発揮したのが鈴木さん。熊野三党として鈴木氏、榎本氏、宇井氏の三氏があるが、もっとも商売上手だったのが鈴木さん、だったのではなかろうか。全国に熊野商法(神社&商行為&イベント請負=熊野詣の団体参拝)といったことで商圏を拡げ、全国の熊野神社関係の「有力者」に。
これは私の勝手な推測であるが、鈴木姓が多い理由も、この熊野神社の有力者と大いに関係あるのではないだろうか。つまりは、明治になって国民すべてが姓を使 うようになったとき、「地元有力者=鈴木」って刷り込みがあり、「おらは鈴木にする」ってことになったのではなかろうか。ちなみに新宿の十二社というか熊野神社は室町時代に鈴木九郎さんが故郷の紀州熊野三山から、十二所権現を移して、お祀りしたもの。中野長者とも呼ばれる。いろいろな説はあるけれど、熊野神社を核とした商売で財を成した、と思う。
また、熊野神社の神官として豊島・王子の地にすんだのも鈴木さん(鈴木権頭光景)。東京ではないけれど、有名どころとしては鉄砲を駆使し信長を苦しめた雑賀孫一も本名は鈴木である。
いやはや熊野の時空浴は結構大変だ。挫けず、旅を進める。

大門坂の案内板から「蟻と王子」の時空浴にはまり、初回のメモは終わった。2回目は大門坂を登るところからスタートする。(木曜日, 11月 24, 2005のブログを修正)

那智熊野大社

大門坂の途中に多富気王子。中辺路、最後の王子社。ただ、この王子の名は中世の記録にはない、とのこと。江戸時代に登場。「たふけ」は手向けの意味、とか。 苔むした石段を30分弱登る。那智山神社お寺前駐車場・バス停に。階段を上ると那智熊野大社;御祭神は熊野十三神。御主神は熊野夫須美大神。すぐ横に那智山青岸渡寺。本尊は如意輪観世音菩薩。西国三十三観音霊場第. 一番札所。
神と仏が隣り合うこの那智熊野は熊野三山(本宮・新宮・那智)中もっとも神仏習合時代の名残りを残している。現在は神と仏にはっきりわかれてはいる。が、かつての那智は神社と仏寺とに分離できるものではなかった。
那智熊野大社と呼ばれるようになったのは明治になってから。また、青岸渡寺と呼ばれるようになったのも、同じく明治。それまでの那智は、那智山熊野権現とか、那智権現と呼ばれて神と仏は渾然一体のものであり、熊野修験の一大本拠地であった。
神と仏に分かれたのは明治の神仏分離令によって。もともと神も仏も一体であった権現さまに、神か仏かのどちらか一方を選択するようにとの命。本宮も新宮も神を選び仏を捨て、寺院は取り壊された。この那智でも、神を選び、廃仏毀釈を行い、那智権現は明治4年(1871)に「熊野那智神社」と称し、仏教・修験道を排した神社となった。
本堂であった如意輪堂は、西国三十三所霊場の第一番札所でもあり、さすがに取り壊されることはなかった。が、仏像仏具類は補陀洛山寺などに移され空堂に。明治7年(1874)になって、熊野那智神社から独立。「青岸渡寺」と名付け、天台宗の一寺として再興された。

熊野那智神社は熊野三山のひとつである。熊野詣が盛んになる平安時代後期に本宮・新宮・那智が一体化し熊野三山と呼ばれるようになるが、それ以前は本宮・新宮・那智は別々の神であった。平安時代中期の延喜式によれば本宮は熊野坐神社(います)、新宮は熊野早玉神社と呼ばれていた、との記述。しかしながら那智の名前は出てこない。どうも、那智は本宮・新宮とは異なる形で生まれたようだ。
異なる、と言う意味は、もともと修験道の流れをくんでできたもの、ということ。那智神社ではなく、那智権現と呼ばれていた、と言うことからも、そうではないかと思う。
上に、那智大社の御主神は熊野牟須美神とメモした。この神さまも後付けの名前である。熊野牟須美神はそもそも、熊野本宮の神であった。奈良時代、本宮は熊野牟須美神と呼ばれていた、とある。
その本宮の御主神が熊野牟須美神から家津御子神(けつみこ)となり、那智が熊野牟須美神となるに至った理由は;
1.出雲に熊野大神;御主神は櫛御気野命(くしみけぬのみこと)。くし=美妙、みけ=食、ぬ=主;美妙なる食を司る神。家津御子神(けつみこ)はこの櫛御気野命(くしみけぬのみこと)が転化したもの。熊野本宮>熊野牟須美神から家津御子神(けつみこ)にシフト。
2.本宮でもともと使われていた牟須美神は忘れられる。9世紀半ば以降は熊野坐神と呼ばれる。
3.で、つかわれなくなった、牟須美神は平安時代後期になって那智が注目されるようになった頃、ちょうどいい名前がある、ということで、那智で使われるようになった。むすび;産霊の神;豊かな生殖力を象徴。
ちなみに権現さん、って;
「権現(ごんげん)」とは「かりにあらわれる」ことを意味し、仏教の仏さまが日本の神様としてすがたを変えて現れたもの。本地仏の釈迦如来(過去世)、千手観音(現在世)、弥勒菩薩(未来世)が権化されて、過去・現在・未来の三世にわたる衆生の救済を誓願して出現された。この様に仏が神の姿を権りて現れることが本来の意味のよう。奈良時代頃から流行。天台・真言宗のような密教系の宗派から広まり、さらに発展して、修験道ではより明確に本地垂迹の考えがまとめらた。

青岸渡寺
散歩に戻る。青岸渡寺、というか如意輪堂の本堂に。織田信長の軍勢によって焼き討ちされた後、天正18年(1590年)に豊臣秀吉が弟秀長に再建、と。本堂の右側から那智大滝や三重塔を遠望できる。本堂横を北側に下りると朱塗りの三重塔。三重塔の下の車道を少し歩くと鎌倉式石段。

那智大滝

石段を下ると飛瀧神社の境内入口。石段は約100m続く。那智大滝。その落差133m。滝口が三筋になっている。これが那智の滝の特徴。滝口の上に注連縄(しめなわ)。この滝は滝壺の近くにある「飛瀧神社」のご神体とされている。熊野は熊野十二所権現とも言われる。三所権現+五所王子+四所明神=熊野十二所権現、ということだが、那智はこの十二所権現に飛滝神社・滝宮の飛滝権現を加え熊野十三所権現とも。
那智権現はこの那智大滝を神とする自然崇拝からおこったと言われる。飛瀧(ひろう)神社には本殿も拝殿もなく、滝を直接拝む形になる。社殿がないことからもはっきりとこの大滝が御神体であることをわかる。かつての熊野の自然崇拝の有り様を今に伝えている。
滝をはなれ一路宿に。長いメモの一日が終了した。

那智の大滝をとりまく、那智熊野の景観について樋口忠彦さんが書いた本、『日本の景観(ちくま学術文庫)』を読んだことがある。那智の風土を景観の観点からまとめた箇所があった。メモを以下まとめておく;
1.那智熊野の景観を隠国型景観と呼ぶ
2.上代の土着計画としては、安住の地を求めて、水の音を慕って、川上へ遡った。上流遡行;精神の高揚感;日本の川は滝のよう>より遡行の感覚が明確になる。 この高揚感は遡った奥に別天地が開けるのでは、という期待感>水分神(みくまりのかみ;水の恵みを配ってくれる神)を中心とした安住の地であるとともに死者の霊が上昇し昇華していく聖なる場所。
3.柳田邦夫;曽ては我々はこの現世の終わりに、小闇く寂かなる谷の奥に送られて、そこであらゆる汚濁と別れ去り、高く昇つて行くものと考へられていたらしいのである。我々の祖霊は既に清まって、青雲たなびく嶺の上に休らひ、遠く国原を眺め見おろして居るよ うに、以前の人たちは想像して居た。それが氏神の祭りに先だって、まづ山宮の行事を営まうとした、最初の趣旨であったように私は思はれるのである。
4.山沿いの集落、そこを流れる川を上流に遡った小闇く寂かなる谷の奥の山宮、自分たちの集落のある国原を眺め見下ろすことのできる秀でた峰の霊山、これがセットになって、この世とあの世の共存する安住・定住の景観が成立。
5.谷はこの世からあの世に至る通路。谷の奥は現世とあの世の境目。こうった谷の奥の景観=隠国の景観;隠国=もとは、両側から山が迫っているこもった所、の意味。
6.那智湾に面する浜の宮から、そこに注ぎ込む那智川の深い谷を上流に約6キロほど遡った谷の尽きる所に那智滝があり、其の近くに青岸渡寺、那智大社がある。滝により、奥まった景観が形成。那智の滝の上流は妙法山。秀麗な山谷・滝・山の1セットで死霊が送られる隠国型の空間。妙法山;死者を送るときに用いられる「しきみ」が積み重なってできた山、とか、日本中の霊が集まってくる山、とも
7.五来重氏;熊野は「死者の国」:死者の霊魂が山ふかくかくれこもれるところはすべて「くまの」とよぶにふさわしい。出雲で神々の死を「八十くまでに隠りましぬ」と表現した「くまで」、「くまど」または「くまじ」は死者の霊魂の隠るところで、冥土の古語である。これは万葉にしばしば死者の隠るところとしてうたわれる「隠国」とおなじで熊野は「隠野」であったろう。
8.海、谷、滝、山のセット;古代日本の他界観。山の奥から天に昇る
①海岸の洞窟などに葬られて、そこから舟に乗って海の向こうの補陀落へ行く
②熊野にはこのふたつが並存
③隠国型景観=谷の景観:宗教的空間の性格が強い。
集落の周辺の奥まったところが死者を葬るところにふさわしい。其の場所の上方に秀麗な山が存在するなら、死者はそこから他界に昇ってゆく。あるいは、そこから祖霊として村人たちを見守るというイメージ。安息に満ちた生と死のイメージの基礎となり日本人の心に安らぎをあたえ続けてきた。
この本を読んだときには、こんなところで・こんなかたちで役に立つとは想像もしなかった。海、谷、滝、山のトータルコーディネーションによる那智=観音浄土のイメージ戦略、大いに納得。
会社の仲間に言われた。「熊野へ行きませんか」。とりたてて熊野に行きたいわけではないけれど、例によって「ええよ」、と言ってしまった。で秋の連休の中日に1日休暇をとり3泊4日の予定で熊野路に。結論から言えば、散歩はそれほどできなかった。コーディネーター女史が、悪路・険路は見事に避け、時間の割に距離を稼ぐという見事な采配。で、今回は散歩の記録というよりも、いきあたりばったりで出会った事象から好奇心のなすがまま、あれこれ調べ、自我流で強引なる結論づけを行いメモをまとめる、神坂次郎さん流に言うならば、『時空浴』と洒落てみたいと思う。が、相手は何せ世界遺産の熊野さま。どこまで時間・空間を越えた熊野シャワーを浴びることができるだろうか。(水曜日, 11月 23, 2005のブログを修正)

ともあれ、1日目;品川から新幹線、名古屋で紀勢本線・ワイドビュー南紀に乗り換え紀伊勝浦駅下車。結構遠い。朝8時頃東京を出て、午後2時前にやっと着いた。
1日目の予定;大門坂>熊野那智大社>青岸渡寺>那智の滝>紀伊勝浦駅>TAXI>国民年金健康保険センターくまのじ。

大門坂

駅前からバスに乗り、大門坂バス停で下車。熊野古道の案内。数軒の民家。少し進むと「振ヶ瀬橋」。この橋を渡ると大門坂が始まる。道の端に文化庁と那智熊野大社がつくった大門坂の案内。文化庁の案内板;「大門坂=平安時代(907年)宇多上皇の熊野御幸が「蟻の熊野詣」のはじまりであった。熊野御幸とは上皇の熊野詣のことで弘安4年(1281年)の亀山上皇まで374年にわたっておこなわれたという。難渋苦行のすえ、熊野九十九王子の最終地であるこの大門坂で名瀑・那智の滝を眺めて心のやすらぎを覚えた。古人のロマンがしのばれるところである」と。
那智熊野大社の案内板;熊野古道大門坂・那智山旧参堂の杉並木=那智山は都より山川80里・往復1ヶ月の日数をかけ踏み分けた参詣道が「熊野道」である。熊野九十九王子としても知られた往古の歴史を偲ぶ苔むした道でもあり、那智山の麓から熊野那智大社への旧参堂です。この石畳敷の石段は267段・その距離約600m余、両側の杉並木は、132本で他に老樹 が並び、入口の老杉は「夫婦杉」と呼び、幹周り8.5m余、樹高55m、樹齢約800年ほどとされている。途中には熊野九十九王子最終の多富気王子跡がある。この所に大門があったので「大門坂」とも呼ばれます、と。

この案内を読んでふたつチェックしたいことがあった。その一;蟻の熊野詣。そのニ;九十九王子。
その一;蟻の熊野詣
蟻の熊野詣って、文字からすると、蟻のように陸続と続く人の群れって印象だ。が、一体どの程度の人が歩いたのだろう。調べてみた:多くの民衆が熊野詣でに出かけるのは江戸時代中期以降。紀伊田辺の宿帳には6日間で4,776名の宿泊客があったという記録が残っている。この記録から熊野詣の参詣者数を推測し、1日約800名、年間で約24万人とする人もいる。
この数が多いのか少ないのか、よくわからない。幕末のお伊勢さんへのおかげ参りなどその数500万人とも言うし、誰がが、何処かでこう書いている;多くの庶民が熊野参りするのを「蟻の熊野詣」と言っているのではなく、平安から鎌倉時代に上皇達数百人が列を作って熊野詣するさまを「蟻の熊野詣」と表現したように思えてならない、と。私もどちらかといえばこちらに納得感がある。
何故に熊野詣でが盛んになったのか
で、何故に熊野詣でが盛んになったのか、気になった。あれこれ本を読み考えてみた;
1.熊野は奈良時代から山林修行の地として知られる。役の行者(えんのぎょうじゃ)を始まりとする修験者が修行の地としてこの地に入っていた。この傾向は平安時代になっても続く。

2.しかし、修験者だけの修行の地であれば、それだけのこと。世間に広まるきっかけ、それは法皇というか上皇がこの地に訪れる(=御幸)ようになってから。

3.何故上皇がこの地に御幸するようになったのか。信仰上の理由もあるだろう。が、政治的・経済的理由がなければものごとは動かないし、続くわけがない、と思う。
①信仰上の理由はあまり興味が湧かない。当たり前といえば当たり前だし、それより何より、「狸」、いや「鵺」の上皇がそれほどナイーブとも思えない。
②政治的理由;藤原一門(摂関家)への対抗策だろう。天皇を取り込み、天皇をも陵駕する藤原一門>天皇=伊勢の神・アマテラス>アンチ藤原一門としては熊野の選択が良策か。なにせ、熊野の神さまって、イザナギ・イザナミ、と言う人もいる。これってアマテラスの両親。伊勢の神を親として「包む」立場の熊野の神へのつながり強化。天皇+上皇=大朝廷>熊野へのシフト。このスキームなら藤原一門も文句は言えまい。
③経済的理由;荘園を認めるのは天皇・朝廷=藤原一門の特権。この特権を取り戻す手段としては、「荘園の本所(荘園領主)になる」と上皇(大朝廷)が宣言すること。天皇・藤原氏の名義の荘園を上皇に変更する>熊野の神も上皇の保護のもと荘園所有者となる>熊野は全国に100箇所以上の荘園をもつ>熊野別当・熊野三山検校=上皇の支配下>熊野の荘園が増えることは、結果的・間接的に大朝廷(天皇・上皇)の経済基盤を強化することに。

4.上皇にこの政治的・経済的スキームを提案したのは一体誰だ?;それは天台宗・寺門派の園城寺(三井寺)の僧。奈良時代、特に後期以降に世俗的な寺から離れ、熊野・大峰の山中で修行・修験道に励んでいた園城寺の修験僧が上皇に「熊野参詣」スキームを提案。熊野の神を名目に政治・経済的リターンを取る。上皇はハッピー。園城寺も熊野を統括する三山検校となりこれもハッピー。

5.このスキーム実現の結果、それまで独自に発達していた熊野の修験道が中央の寺社勢力に組み込まれた。当然、熊野信仰に仏教の色彩・影響が色濃くでることになる。神社には教義はないわけだから、熊野が寺社勢力に組み込まれることにより、宗教的「深み」ができる。本地垂迹説=神は仏が仮の姿であらわれたもの>熊野が阿弥陀の浄土に>で、浄土信仰が生まれる。

6.上皇の御幸>浄土信仰>貴族の熊野詣で>鎌倉武士の熊野詣>熊野神社の全国普及>一遍上人の踊り念仏・時宗の隆盛>熊野比丘尼の全国展開>15世紀末に民衆の熊野詣ピーク=蟻の熊野詣、を迎えることになる。院政期から中世には、熊野御師・先達制度の発達、熊野修験・熊野比丘尼などの活動によって、熊野三山信仰が諸国に流布し、幅広い人々の熊野詣が行われるようになった。また、遠隔地の山々や島、村落では、熊野三山を勧請し、そこで熊野信仰が行われることになる。ちなみに、全国に熊野神社は3800ほどあるという。熊野比丘尼とは熊野の神の霊験あらたかなることを宣伝し全国を遊歴する女性宗教家のことである。

最後に、「蟻の熊野詣」って表現はいつから使われ始めたのか;
『熊野古道(小野靖憲;岩波新書)』によれば、1439年、「雁の長空を飛ぶ、蟻の熊野詣りの如し」といった表現が。また、1603年イエズス会によって刊行された「日葡辞書(日本語・ポルトガル辞書)」に;Arino cumano mairi food tcuzzuitayo(蟻の熊野参りほと続いたよ)などと。少なくとも15世紀の中ごろまでには、蟻の熊野詣というフレーズが市民権を得ていた、ということ。
「蟻の熊野」はこの程度にして、第二の疑問のメモを。
九十九王子とは;
いろいろ本を読んだが上に挙げた『熊野古道(小野靖憲;岩波新書)』の説明が自分的には納得感高い。まとめると、
1.王子とは休憩するところ、とか熊野三山を遥拝するところ、と言う人もいる。が、そんな事実はない。
2.王子で行われる儀式としては幣を奉ること(奉幣)と般若心経を読む経供養。経供養をしたあとに里神楽、乱舞。和歌の会も王子社に奉納する法楽のひとつ。王子社での儀式は神仏混合の結構にぎやかなもの。
3.五体王子と言う王子がある;五体王子とは若宮・禅師宮・聖宮・児宮・子守宮>熊野の主神の御子神ないしは眷属神として三山に祀られている>ということは、熊野三山から勧請されたもの。
4.王子が熊野権現の分身として霊験あらたかに出現すると認識される=熊野権現の御子神である。
つまりは、王子とは、熊野権現の分身として出現する御子神である。参拝者を保護する熊野権現の御子神である。
5.王子は神仏の宿るところにはどこでも出現した。中世に存在した大峰修験道の100以上の「宿(しゅく)」の存在がその起源というか、出現のヒント:奇岩・奇窟・巨木・山頂・滝などが「宿」となっていた。つまりは、王子の発想は、大峰修験道の「宿」をヒントとし、先達をつとめる園城寺・聖護院系山伏によって参詣道にもちこまれた。
6.紀伊路・中辺路に集中し、しかも大量に王子がつくられた理由もこれにある。伊勢=天皇・藤原一門>伊勢路を避ける>紀伊路にシフト。12世紀の院政時代の最盛期の80にのぼる王子の大半は、上皇・女御の参詣の活発化にともなって園城寺・聖護院系山伏によって組織化。地元も王子設置を歓迎し数が増えたことは言うまでもない。

九十九は実数を表すものではない。多い、ということを示すもの。三十三間堂とか西国三十三箇所とか、観音信仰には「三十三」がありがたい数字のよう。また、「三」もありがたい数字か。熊野三山とか出羽三山とか、そもそも山伏の「山」って「三つ」の縦軸を横軸で結んで「一つ」にするにしている。三身即一、三部一体、三締一念といった意味付けも。ありがたい数字の掛け算、33 X 3=九十九、って結論は強引か?

紀伊路・中辺路とは、についてまとめておく;

「熊野へまいるには 紀路と 伊勢路と どれ近し どれ遠し
広大慈悲の道なれば 紀路も 伊勢路も 遠からず(『梁塵秘抄』)」

熊野詣での道は伊勢路と紀路がある。伊勢路は言わずもがな。紀路は都を立ち、紀州田辺から道を東にとり、山中を熊野本宮にいたる道筋を中辺路。海岸沿いに紀伊半島を廻る道筋を大辺路。小辺路は高野山から熊野本宮を南北に結ぶ道筋。あとひとつ大峯道。吉野から熊野本宮に至る、山越えの険しい峠道。現在も、「大峯奥駈け修行」が行なわれている修験道の道。

いやはや、蟻と王子のメモだけで結構大変なことになった。大門坂散歩のメモは次回にしょう。

参考にした本;『熊野中辺路 古道と王子社(熊野中辺路刊行会;くまの文庫)』、『熊野詣(五来重;講談社学術文庫)』『熊野三山・七つの謎(高野澄:詳祥伝社ノン・ポシェット)』、『時空浴(神坂次郎NHK出版)』、『熊野まんだら街道(神坂次郎;新潮文庫)』、『熊野古道(小野靖憲;岩波新書)』、『日本の景観(樋口忠彦:ちくま学術文庫)』、『幻の江戸百年(鈴木理生;筑摩書房)』
先日杉並・和泉から世田谷・三軒茶屋へと散歩したとき、思いがけなく出会ったこの道というか烏山川跡、実のところ結構前から気にはなっていた。北沢川跡も下北沢や梅が丘あたりを散歩するときに顔をだす。で、このふたつの川は246号線の近く、池尻で合流し目黒川となって南にくだる。
とある秋の日、前々から気になっていたこのふたつの川を源流から歩くことにした。大雑把なルートとしては、久我山>烏山寺町>烏山川源流・玉川上水分水口>芦花公園>烏山川緑道>池尻>目黒川、といったところ。(火曜日, 11月 01, 2005のブログを修正)



本日のルート;久我山>烏山寺町>烏山川源流・玉川上水分水口>芦花公園>烏山川緑道>池尻>目黒川>北沢川緑道との合流点から淡島通り>代沢>代田>小田急梅が丘>小田急豪徳寺>赤堤>京王下高井戸駅


井の頭線久我山

井の頭線久我山下車。駅の近く、神田川上水が東西に流れる。商店街を南に少し歩くと玉川上水・遊歩道と交差。このあたりが神田川・井の頭上水と玉川上水が最も接近しているあたりだろうか。「くが」とは「陸(くが=りく)」のこと。「くぼ(窪)」とは逆の意味。川などの近くで小高い地形のうねりを意味する、との説がある。久我山の起伏がふたつの上水路の分水嶺となっているのだろう。

玉川上水・岩崎橋

岩崎橋を渡る。左・岩通ガーデン、右・岩崎通信機。岩崎橋は岩崎通信機から来た名前だろう。少なくとも、橋が先にあったわけではない。なにせ、岩崎通信機は渋谷・代々木上原がスタートの地と聞いている。ともあれ、更に南に。久我山病院の手前、久我山1丁目を右折。久我山盲学校を越え、國學院大學付属幼稚園のあたり、歩道のない道路道を少々怖い思いしながら歩く。大きく曲がるカーブが終わるあたりで住宅街へと左折。烏山寺町通りへと。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)

烏山寺町
烏山寺町。1キロ程度の区間に26のお寺が集まる。関東大震災の後の区画整理により、下町にあったお寺さんがこの地に移ってきた。小京都、という人もいる。が、それは言い過ぎか。とはいいながら閑静な町並み。ここに移り住んだ住職各位が環境保全に努めたとか。

烏山川の源流のひとつである高源院の池
寺 町通りの北端に高源院。烏山寺町に来た理由は、高源院内にある池をチェックすること。烏山川の水源のひとつと言われている。もっとも、お寺が浅草から移ってくるまでは田畑の中の湧水池であったことは言うまでもない。シベリアから渡ってくる鴨がここで骨休み。ために鴨池とも。
烏山川水系にはこの湧水を水源とする流れ以外に、玉川上水からの分水(烏山用水)もあった、とか。ために湧水池からの川筋を古烏山川とも呼ばれていた。

寺町を巡る

次の目的は古烏山川筋のチェックと玉川上水からの分水口および烏山川用水の水路の確認。とはいうものの、ついでのことなので、寺町通りの左右に並ぶお寺を眺めながら進む。道左手に専光寺。喜多川歌麿の墓があった。妙寿寺は結構大きい。辛龍寺は江戸名所図会の挿絵画家・長谷川雪旦・その子雪堤の墓。称住院には俳人・宝井其角の墓。忠臣蔵で有名。

古烏山川筋をチェック
お寺巡りを終え、古烏山川筋のチェックに戻る。道端にある地図をみると、高源院の裏手あたりに、いかにも水路跡といった趣の道筋。寺町通りのひとつ東を通る松葉通りを少し北に戻る。
玄照寺の北にそれらしき細路。道は高源院裏手まで続いていた。民家の間を続く細路であり、お寺の塀で行き止まりになるあたりでは、道端で遊ぶ子どもたちに少々怪訝なん顔をされてしまった。
松葉通りまで戻る。水路は松葉通りを越え団地内に続き、団地中央あたりで南に折れ、中央道烏山トンネルの西端辺りに向かって下る。道筋は如何にも水路跡といった雰囲気が残っていた。

玉川上水からの分水口

古烏山川筋から離れ、次は、玉川上水からの分水口および烏山用水の水路チェックに向かう。玉川上水の分水口は岩崎橋の少し下流にある、と。玉川上水まで戻り、橋のあたりであれこれ分水口を探すが確認できず。分水口からの流れは岩通ガーデン内を南下し久我山病院あたりに出る。そこから、久我山病院前を走る下本宿通りを東に折れ、団地東端に沿って南下する。古烏山川と平行して団地内を下っている。

団地内に水路の痕跡
水路跡を求めて団地に戻る。あちこち歩く。一瞬、川筋が数m現れる。すぐ隠れる。どこへ?結局、川筋はこの数m以外見つけられなかった。すべて埋められているようだ。で、いかにも川筋を埋めたと思える道筋を下る。多分これが烏山川の道筋だろう、。金網で川筋跡を確保しているところもあれば、民家の軒先を走るところもある。川筋というか、道筋に沿って、甲州街道まで下る。

芦花公園駅

芦花公園の近くで甲州街道と交差。さらに進み、芦花公園駅の西端のあたりに如何にも水路跡といった痕跡。線路を迂回し水路の痕跡を探す。ちょっとした木立の中に痕跡発見。南方向から東に向って大きく曲がり世田谷文学館方面へと続いている。ここからはちょっぴり遊歩道といった雰囲気の道になる。(これは2005年のメモ。最近この辺りを歩いたときは、駅前が再開発され見違えるようなモダンな街並に変わってしまっていた)

世田谷文学館

世田谷文学館で休憩。いろんな発見もあった。が、もっとも印象的だったのは、世田谷の往時の写真。といっても昭和30年頃なのだが、世田谷の各地、ほんとうに武蔵「野」。世田谷の地に幾多の文人が武蔵野の自然を求めて移り住んだ、というフレーズも写真をみて納得。それにしても、この数十年の日本の変化って、結構すごかったわけだ。これも実感・納得。世田谷文学館のメモは別の機会にするとして、先を急ぐ。

環八
世田谷文学館前の遊歩道を東に。芦花中、芦花小、都営八幡山アパートを越え、環八に。陸橋を渡り川筋・道筋を探す。環八に沿って川筋が。暗渠でもなく、土で覆っているだけ。環八に沿って南に下り、芦花公園の交差点に。

芦花公園

前から気になっていた芦花公園にちょっと寄り道。芦花公園・芦花恒春園。徳富蘆花が愛子夫人と晩年を過ごした地。文豪トルストイに憧れ、ロシアの大地・自然につつまれた生活を送った徳富蘆花がロシアから帰国後すぐ、この地に住む。当時はこのあたり、雑木林と畑が一面に広がる地。芦花の『自然と人生』から:「余は斯(こ)の雑木林を愛す。木は楢(なら)、櫟(くぬぎ)、榛(はん)、櫨(はじ)など、猶(なお)多かるべし。大木稀にして、多くは切株より族生せる若木なり。下ばへは大抵奇麗(きれい)に払ひあり。稀に赤松黒松の挺然林(ていぜんりん)より秀でて翆蓋(すいがい)を碧空に翳(かざ)すあり。霜落ちて、大根ひく頃は、一林の黄葉錦してまた楓林(ふうりん)を羨まず。
 ・・・
春来たりて、淡褐、淡緑、淡紅、淡紫、嫩黄(どんこう)など和(やわら)かなる色の限りを尽くせる新芽をつくる時は、何ぞ独り桜花に狂せむや。
青葉の頃其林中に入りて見よ。葉々日を帯びて、緑玉、碧玉、頭上に蓋を綴れば、吾面も青く、もし仮睡(うたたね)せば夢又緑ならむ。・・・ 。」
武蔵野の豊かな自然が彷彿とする。昔は一体どういった詩趣をもつ地だったのだろう。とはいいながら、国木田独歩の『武蔵野』の冒頭;「武蔵野の俤(おもかげ)は今僅かに入間郡(こおり)に残れり」と。これって明治37年頃の文章。今は今で、昔は昔で、そのまた「昔」の風情を懐かしむってわけ。これ世の習い。

蘆花記念館

夫妻の住居跡から蘆花記念館を廻る。記念館に行くまでは、芦花って『不如帰』のイメージが強く、『思出の記』『自然と人生』は文学史の試験対策で覚えたくらい。が、清冽なる人物であった。大逆事件で死刑判決の出た、幸徳秋水の助命嘆願書を天皇宛に出し、一高生に向っての大演説。素敵な人物である。奥さんの家系には幕末の思想家・経世家の横井小楠も。勝海舟が西郷以外に「怖い人物」と称した人物。人物をもう少し知りたい、小説を読んでみたい、と思った。ちなみに『思出の記』の舞台は愛媛の今治だとか。身近に感じる。

船橋
芦花公園を離れ、烏山川緑道に戻る。明治大学八幡山グランドに沿って南東に。船橋7丁目、希望が丘公園前に。船橋の地名、往時このあたり湿地帯であり、船で橋を渡したとか、船橋さんが住んでいたとか、例によっていろいろ。古文書にこのあたり「船橋谷」と書かれている、とも。このあたり、ちょっとした「谷地」だったのではなかろうか。そういえば芦花公園の南端を粕谷から流れてくる川筋、烏山川の支流だろうが、この地で合流している。湿地帯であった、というのが船橋の地名の由来であろう、と自分ひとり納得。

烏山川緑道

希望が丘公園の東隣・希望が丘団地あたりから烏山川緑道は始まる。が、案内はない。ここから小田急線・経堂駅の手前で小田急線を越えるあたりまでは南東にほぼ一直線で下る
。団地内を横切り、希望が丘小学校の東、船橋交番前交差点の南を通り、荒川水道と交差。

経堂3丁目で小田急線と交差
船橋3丁目と5丁目の境を下り、経堂3丁目で小田急線と交差。経堂中村橋あたりで東に向きを変え、車道に沿って続く。

世田谷線・宮の坂駅

経堂大橋・農大通りを越え、宮坂1丁目、鴎友学園前。「万葉の小径」の表示。植物に万葉時代の名前とともに、万葉集の歌。が、すぐ終わる。歩いていると突然行き止まり。はてさて、と思ったら、世田谷線との交差。宮の坂駅。

環七と交差

迂回し、再び緑道に。豪徳寺の南、世田谷城址公園の南を通り、おおきく北にカーブ。先日歩いた国士舘大学・若林公園・松蔭神社裏を越え、環七若林踏み切りに。環七と交差した世田谷線とほぼ平行に太子堂から三軒茶屋方面に。
世田谷城跡は足利一門でもある吉良氏の築城と言われる。鎌倉公方の足利基氏によりこの地を拝領し居城とした。長尾景春の乱に際しては、太田道灌方に与し豊島氏と戦い、道灌の居城でもある江戸城を守った。後に北条氏の傘下となり、吉良氏の蒔田城(横浜市南区の東洋英和女学院の敷地となっている)への移動とともに、北条直轄の城となる。
松蔭神社は吉田松蔭を祀る。安政の大獄で刑死し小塚原の回向院に眠る松蔭を、高杉晋作などの門下生がこの地に移した。

目青不動

三軒茶屋の北・太子堂4丁目と5丁目の境を通り、茶沢通りを交差。茶沢通りの西では八幡神社、目青不動、東では太子堂のある円泉寺などにちょっと立ち寄り。ちなみに、茶沢=三軒「茶」屋+下北「沢」。
目青不動は江戸五色不動のひとつ。目黒不動は目黒区下目黒の瀧泉寺。目白不動は豊島区高田の金乗院(明治期は小石川の新長谷寺。第二次世界大戦で焼失し金乗院に移る)。目赤不動は文京区本駒込の南谷寺。目黄不動はいくつかある。江戸川区平井の最勝寺や台東区三ノ輪の永久寺など。五色不動の由来は定説なし、と。もともとは目黒・目白・目赤の3不動との説も。目黄不動がいくつかあるのも、後発組ゆえのあれこれ、か。

山川緑道と北沢川緑道の合流点

三宿1丁目と2丁目の境を進む。三宿池尻の交差点の北あたり、池尻3丁目・4丁目と三宿1丁目・2丁目のクロスポイントに烏山川緑道と北沢川緑道の合流点が。仲東合流点。
三宿は水の宿=水宿=みしゅく、水が集まったところ、というのが地名の由来とか。隣の池尻は池の水の落ち口というし、井の頭線には池の上という駅も。このあたりはふたつの川が合流し、大きな池というか湿地帯になっていたのだろうか。

246号線の南から目黒川が流れる


、烏山川と北沢川が合わさった川筋は、ここからは目黒川となる。左手は小高い丘。見晴らし公園とあった。駒場東邦学園も丘の上。合流点からしばらくは親水公園、というか水が流れる。西落合処理場からの高度処理水が引き込まれている。目黒川清流復活事業の一環。先日歩いた呑川と同じ。
崖に沿って246号線まで下り、横断歩道を南に渡り目黒川が開渠となる地点を確認。それにしても結構な水量。源流点からまったくの暗渠。姿を見せたらこの水量。すぐ近くで「補給」された落合処理場からの高度処理水なのだろうが、少々複雑な気持ち。そもそも「川」とはなどと一瞬頭を過ぎる。が、それまで。本日のメーンエベントは完了。

当初の予定ではここで終了の予定だった。が、先ほどの北沢川合流点、その先が気になった。水源は京王線・上北沢の近く。どちらかといえば家路への方角。どうせのことならと、北沢川緑道を水源に向かって歩くことにした。


合流点から北沢川緑道を遡る合流点に戻る。合流点から北沢川の源流点に向って歩きはじめる。遊歩道は中央に水が流れる。西落合処理場からの高度処理水が代沢4丁目のせせらぎ公園経由でひかれているとのこと。

淡島通りと交差
池尻2丁目と4丁目の境を北西に上り、淡島通りと交差。淡島通りは 代沢3丁目にある淡島神社 (森巌寺)に由来。

環七交差

淡島交差点で淡島通りを渡る。前にせせらぎ公園。代沢3丁目と4丁目の境を進み、茶沢通りを越え、代田1丁目と2丁目の境を通り、小田急・世田谷代田の南、宮前橋交差点のすぐ北で環七と交差。ここまでは、一部工事中の箇所を除き、水の流れる気持ちのいい遊歩道。が、環七を越えると事情が一変。水なき普通の遊歩道となる。代沢=代「田」+下北「沢」。代田は以前にもメモしたが、伝説の巨人「ダイダラボッチ」の足跡から。これが詰まって「ダイダ」となった、と。

梅が丘駅の東で小田急と交差

環七を渡る。遊歩道の入口は通行止め。横の駐車場から入る。北西に一直線、梅が丘駅の東を小田急と交差。

世田谷線・山下駅

羽根木公園手前で西に振れ、小田急に沿って豪徳寺駅の北へ。突然道が切れる。無理して進むと民家に入ってしまった。こんなに早く緑道が終わるはずはないのだが、日も暮れ地図も見えない。仕方なく豪徳寺駅に行き地図を見る。世田谷線・山下駅で遮断されただけ。世田谷線の西から緑道は続いていることを確認し、出発。

赤堤1丁目からユリの木緑道

経堂駅あたりまでは小田急線に沿って続く。赤堤1丁目のユリの木公園を越えたあたりから、ユリの木緑道となる。宮坂3丁目のあたりからは北に振れる。

緑道の終点に佐内弁財天
赤堤小学校の裏手を北西に登る。赤堤3丁目の交差点あたりで赤堤通りと交差。東経堂団地前の交差点の北を進み、団地内の道を進み、団地の端で緑道が終わる。道端につつましい弁天の祠。このあたりの名主・鈴木佐内の屋敷内にあったもの。ために佐内弁財天、と。

この先一時緑道は切れ、再び日大桜ヶ丘高校と緑丘中学の間、勝利八幡神社と競技場の間、都営上北沢アパートから都営第二上北沢アパートのほうに川筋っぽい道が続く。その先は都立松沢病院。構内には入れないが池もある。そのあたりが北沢川の水源なんだろうと、辺りを歩き、最寄の京王線の駅、下高井戸に戻り、本日の予定を終える。

メモに際し北沢川のあれこれをチェック。この川、水量がそれほど多いわけでなく、玉川上水から養水をおこない、この地域一帯の生活・灌 漑用水として使われる。ために、北沢用水(上北沢用水)とも呼ばれる。京王線の桜上水あたりにも分水口があったよう。地図をチェックすると桜上水駅あたりから、松沢中、松沢高、日大文理学部に向かって南東にすすむ、いかにも水路跡といった道がある。桜上水支流なのだろう。尾根道を進んできた玉川上水が、尾根を下り烏山川であれ北沢川であれ、水量の少ない自然の川を養水し地域に水を供給してきたことを実感した。
昭和女子大で学会がある。特段の仕事があるわけではない。が、会社の仲間が参加しているので、ちょっと顔だけだそう、ということで散歩にでかける。場所は世田谷区・三軒茶屋。自宅から7キロ程度だろう。大体のコースは、杉並・和泉>京王線明大前>京王井の頭線東松原>羽根木公園>小田急梅が丘>小田急豪徳寺>>松蔭神社>三軒茶屋>昭和女子大、といった段取り。(水曜日、10月 26、2005)



本日のルート;杉並・和泉>京王線明大前>京王井の頭線東松原>羽根木公園>小田急梅が丘>小田急豪徳寺>世田谷城址>世田谷線上町>烏山川緑道>国士舘大学>若林公園>松蔭神社>三軒茶屋>昭和女子大


京王井の頭線・明大前から東松原駅に進む
自宅を出て京王井の頭線・明大前に。京王線と井の頭線が交差。井の頭線に沿って南に。松原の町並みを成り行きに歩き、京王井の頭線・東松原駅に。松原の名前は世田谷城主・吉良氏の家臣・松原佐渡守がこの地を開いたことによる。

(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)


羽根木公園

駅のちょっと南に羽根木公園。前々から気にはなっていたのだが、今日はじめて訪れる。周囲よりちょっと小高い丘。六郎次という鍛冶屋が住んでいたことから「六郎次山」とか、東武・根津財閥が所有していたため「根津山」とも呼ばれていた、と。納得。

小田急線梅が丘駅
公園の南地区には梅林がある。公園のすぐ南に小田急線の梅が丘の駅。この駅名、梅が丘という地名から付けられたわけではない。駅設置の誘致活動の際、誘致活動に献身した地域の大地主・相原家の家紋が「梅鉢」だったから。「梅が丘」という駅名ができて、地名ができたわけだ。梅林の中に、大宰府からもたらされた、という紅梅・白梅のペアと菅原道真の有名な句「東風吹かばにおいおこせよ梅の花 あるじなしとて春を忘れじ」があったのはご愛嬌。

北沢川緑道

公 園を出て小田急・梅が丘の駅に。散歩に際しては駅には必ず寄る。地域の案内板を見、見所・道順などを確認するため。案内板に北沢川緑道の案内が。北沢川は京王線・上北沢駅の南・松沢病院あたりが源流点。実際は水量を確保するため玉川上水から分水され、蛇行を繰り返しながら西から東、というか北西から南東に流れ、三宿・池尻の境あたりで烏山川と合流、目黒川と名前を変えて池尻大橋のあたりから南に区下る。赤堤から池尻まで4.2キロの区間は緑道として整備されており、これが北沢川緑道。
ちなみに池尻って、池の水の落ち口付近という意味。往時、二つの川の合流点あたりは結構な湿地帯であったのだろう。赤堤もいかにも川筋の堤って感じがするし、実際羽根木公園の西・北沢警察署のあたりなど、北沢窪という低地で水路の乱流する湿地だったとのこと。そのそも「世田谷」って、「勢田郷の谷地」ってこと。世田谷区一体に、湿地のイメージのある地名が多いのもムベ成るかな。

小田急線豪徳寺駅

北沢川緑道散歩は別の機会にし、梅が丘駅からは小田急線の高架下を西に豪徳寺駅に。小田急豪徳寺駅あたりで交差する世田谷線にそって南に下る。世田谷線は2005年で開通80周年。下高井戸から三軒茶屋の5キロを結ぶ路面電車。
つつましやかな商店街を南に。時々寄ってみる古本屋がある。今回は3冊購入。『武蔵野から大東京へ(白石寶三・中央公論社;昭和8年刊)』、『風駆ける武蔵野:もうひとつの埼玉二千年史(大護八郎・歴史図書社)』、『わが屍は野に捨てよ:一遍遊行(佐江衆一;新潮社)』。2週間後に熊野古道を歩くので、一遍上人の本が見つかったのは本当にラッキー。ぶらり古本屋巡りも散歩の楽しみのひとつ。

豪徳寺

豪徳寺に。このお寺、大田道潅が活躍する時代だから、江戸時代よりずっと昔、この地を統べる世田谷城主吉良氏が伯母のために建てた弘徳院がはじまり。その後江戸時代に入り、彦根藩が世田谷領20カ村を領有するに至り彦根藩主、井伊家の菩提寺となる。「豪徳寺」は藩主井伊直孝の法号から。境内には井伊家代々の墓。安政の大獄を断行し、結果、桜田門外において水戸・薩摩の浪士に暗殺された大老井伊直弼の墓もある。
で、豪徳寺といえば招き猫。なにがきっかけで豪徳寺=招き猫、と刷り込まれたのか覚えていない。縁起をまとめてみると;昔このお寺は貧乏寺であった。和尚は乏しい食を割いて猫にあたえる。が、愚痴もでるようで、曰く「これほど面倒見ているのだから、たまには恩返ししてよ」。ある日、門前騒がしい。お武家が。曰く「鷹狩から戻る途中、白猫が手招きする。なにごとがと寺に入った」。和尚、中に招き入れ、法話など。にわかに雨、そして門前に落雷。武家曰く「我、彦根城主井伊直孝なり。落雷よりの命拾い、そして、ありがたき法談に感謝」。この寺、井伊家の菩提寺となり、一大伽藍の寺となる。これも幸運招来の猫のゆえ、と。

世田谷城址
豪徳寺を出て東に。前方に豊かな緑の小高い丘。これはなんだ?高さのある土塁、櫓台と深い空堀、それも二重の堀がしっかり残っている。これって石神井散歩のときに訪れた石神井城と同じつくり。入口に案内板。世田谷城址であった。
この城、南北朝期の中頃に、足利氏の同族である吉良氏が築城したと言われる。本家筋の三河吉良氏(吉良上野介の流れ)は「足利幕府に世継ぎがない場合は吉良氏より」といわれるほどの名門。上野国に下向した武蔵吉良氏も関東公方に仕え、関東管領上杉氏に次ぐ名門。
14世紀中盤に吉良治家が鎌倉公方・足利基氏よりこの地を拝領。世田谷城に居住する。 治家の子・成高は太田道灌と同盟し、長尾景春の乱に呼応し兵を挙げた豊嶋氏に対して道灌とともに戦い、江戸城を防衛。道灌から「吉良殿様」と呼ばれ、また「従四位下」という高い官位のゆえに、「世田谷御所」と通称された。
戦国時代は小田原北条氏に属し、世田谷城は北条氏直轄となる。吉良氏は蒔田(横浜市南区東洋英和女学院の敷地)に移り「蒔田氏」と称する。 小田原の役の後、世田谷城は廃城。吉良氏は秀吉により領地没収。が、江戸期には高家「蒔田氏」を名乗り旗本となった。

世田谷線上町駅
世田谷城址を出て、城山通りを下る。城山通りの由来は、この世田谷城から。南に下り、世田谷線上町駅に。途中に烏山川緑道の案内。気にはなったのだが、先を急ぐ、ということで駅前に。世田谷通り脇に地域の見どころ案内が。緑道、というか川筋に目が行く。蛇崩川緑道、そして、さっきの烏山川緑道の案内。
蛇崩川緑道のメモ;蛇崩川(じゃくずれがわ)は馬事公苑の近くを源流に持ち、弦巻から上馬に。上馬5丁目の小泉公園のあたりから緑道に。駒留陸橋で環七と交差。世田谷警察署近くで国道246号と交差。下馬を越え、世田谷公園の南、蛇崩交差点近くに。
あとは上目黒を越え、東急東横線と交差し、東横線にそって中目黒駅に続き、駅近くで目黒川に注ぎ込む。5~6kmの川。赤土を崩して蛇行していたため、この名がついたと言われている、と。
烏山川緑道のメモ;烏山川は井の頭線久我山の南、烏山寺町の高源寺あたりが源流。北烏山寺町通り中央高速と交差。南烏山3丁目で甲州街道と交差。芦花公園・世田谷文学館あたりを通り、船橋7丁目の希望丘公園から緑道となる。
経堂駅西で小田急と交差。蛇行し宮の坂から環七を若林駅北で交差。三宿池尻で北沢川緑道と合流、目黒川となる。世田谷区船橋7町目から三宿三丁目あたりまでの緑は道6.9キロ。どちらの川筋も結構面白そう。次回はこれらの道を歩いてみよう。

烏山川緑道
で、この烏山川緑道、結構迂回はするが、次の目的地の松蔭神社の近くに続いている。ということで、少し戻り、烏山川緑道に。暗渠の上の遊歩道。道との交差。昔の橋のあたりに必ず案内板。このくらいガイドがあればわたしのようなずぼらな散歩者には大助かり。
適当に進み、国士舘大学の裏を越えたあたりで若林公園右のサイン。松蔭神社はこの公園の隣。公園を抜けていくことに。異常なほどの家族連れ。??松蔭神社がお祭りであった。

松蔭神社
松蔭神社の隣に明治の元老桂太郎のお墓。門下生ではないが松蔭を慕っており、遺言で松蔭の近くに眠るべし、と。松蔭神社。安政の大獄に連座し伝馬町の獄中にて憤死した吉田松陰をまつる。時世の句;「身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも、留めおかまし大和魂」。千住小塚原に埋められた松蔭と頼喜三郎のなきがらを高杉晋作、伊藤俊介(のちの伊藤博文)が長州藩の抱え屋敷(藩が私的に持っていた屋敷のこと)のあったこの地に運び改葬。明治にはいり松蔭神社が建立され現在に至る。
神社内には松下村塾を模した家屋が。お祭りでもあり、時代装束を着た今風の若者がお客さんと写真を撮っていた。これも愛嬌でありました。それにしても安政の大獄を仕掛けた井伊直弼と、仕掛けられた吉田松陰が1キロも離れていない場所で眠るのは、歴史の皮肉か。

三軒茶屋
松蔭神社を出て商店街を南に。世田谷線松蔭神社前を越え、松蔭神社入口の交差点で世田谷通りを左折、一路三軒茶屋に向う。1.5キロの道のり。近くに北原白秋の旧宅があったようだ(若林3丁目15)。が、見逃す。とはいうものの、人生27回引越しを繰り返したということだから、散歩につれいろんなところで顔を現すかも。実際先日、砧の散歩で旧宅があったなあ、と。
若林の交差点で環七を越え、太子堂4丁目から三軒茶屋。江戸時代、このあたりは交通の要所。お宮参りや行楽の人々のための3軒の茶屋があったことからこの名がついたという。246号線を南側に渡り昭和女子大に到着。本日の予定終了。


今回のメモをするために地形図をつくって、いやはや世田谷って、世田の「谷」であることを実感。普通の地図ではこの地形の「うねり」はわからないだろう。地形図をもとにまとめておく;
世田谷の大半は、西は仙川あたりの「国分寺崖線」、北を「甲州街道の尾根筋」に挟まれた南東に向って扇形に広がっている。甲州街道=玉川上水の尾根筋は世田谷北部の烏山川水系・北沢川水系と杉並南部の善福寺川水系の分水嶺でもある。
世田谷の地は武蔵野台地の南の端であり、複雑に入り組む尾根筋が特徴的。武蔵野台地の地下を流れる地下水が、おおよそ標高30メートルから40メートルのあたりで伏流水となって地上に現れ、各河川の源流となり、台地を削り複雑な谷筋や沢筋をつくっている。
水にまつわる地名が多いのはすでにメモしたとおり。こういった地形上に江戸末期までの古道が走る。甲州街道、滝坂道、品川道、大山道、登戸道、厚木街道。これらの街道は東西方向に尾根道を走る。
この地域の沢から流れ出す川筋、烏山川、北沢川などが西から東に向かっているわけだから、アップダウンを避け、さらには増水時の交通遮断を避けるためには自然の理だろう。この川筋を源流点から地形のうねりにそって目黒川まで下ってみよう。近々に。

多摩丘陵散歩も4回目。先回尾根筋を詠み誤り「襷」をつなげることができなかった、唐木田から南大沢の尾根道をつなげようと家を出た。



本日のルート:京王線南大沢>尾根緑道>尾根幹線>大妻女子大前>小山田緑地>吊橋>小山田緑地・本園>日大三校前>図師町>別所の交差点>和光学園>真光寺から黒川に


京王線南大沢

京王線南大沢で下車。住宅街を南に下る。例によって成り行きで歩く。とりあえず尾根道に上ればいいか、ってことで前方の緑の高まりを目安に。南大沢中学校のあたり。ちょっと先に見える緑の木々の連なりが尾根道だろう。「右・小山内裏公園のサイン。直進。が、尾根前で行き止まり。

尾根緑道
尾根道の下、住宅街に沿って右へ。小山内裏公園の駐車場、そして尾根緑道。見覚えがある。以前の散歩「尾根緑道・戦車道」で通った遊歩道。地図を確認。唐木 田から南大沢方面への尾根道は多摩丘陵を東西に横切る幹線道路「尾根幹線」の道筋と同じと考えてもよさそう。「尾根幹線」は多摩霊園あたりで「尾根緑道」と交差する。ということで、「尾根緑道」を、「尾根幹線」との交差まで戻る。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)

先回の「尾根緑道」散歩とは逆方向。尾根道を南東方向に1.5キロほど歩く。左方向、相模原方面の眺めが開ける「展望台」のあたりで「尾根幹線」が「尾根緑道」に交差。トンネルとして尾根道をくぐっているよう。

尾根幹線
「尾根緑道」からの分岐点。左に折れ、大きく湾曲する道を下る。「尾根幹線」に入る。右方向は小山田の緑が「下」に見える。左方向も京王堀の内方面の街の姿が「下」に。確かに尾根道。

唐木田に向って歩く。道の右に小高い尾根筋が見える。が、工事・立ち入り禁止。以前、よこやまの道は唐木田あたりまで整備され、大妻女子大のあたりで道が途切れていた。案内によれば、それ以降も整備予定ということなので、そのための工事・立ち入り禁止、でなかろうか、そうあってほしい、ということにして納得。左前方、はるか遠くに別の尾根道が見える。先回、「南大沢へ」と読み間違って歩いた「からきだの道」・府中カントリークラブがある尾根であろう。

大妻女子大前

ゆっくりとした下り道を東京三菱銀行事務センターとか大和證券研修センターあたりまで。そこからはゆっくりとした上り。堀の内方面・府中カントリークラブへの尾根との分岐点に近づく。大妻女子大前に。先回歩いた「からきだの道」方向の小高い緑を確認。これで、とりあえず尾根道は繋がった。本日の大きな目標はこ れでクリア。次は、小山田緑地・本園へ。

小山田緑地
唐木田の「東京国際カントリークラブ」脇の「よこやまの道」の案内地点。この場所へはこれで3回目。勝手知ったる唐木田の地を道なりに小山田方面に下る。車の通る細い道。小山田緑地・大久保分園、善次ケ谷、そして山の端交差点に抜ける道。里山の風情美しい。

途中、先回「トンボ池」から善次ケ谷へ降りてきた交差地点に。道祖神を目安に左に折れ、「トンボ池」へと進む。当初、小山田緑地・本園に直行の予定ではあったが、先回見つけることのできなかった、小山田緑地・梅木窪分園の吊橋を「走破」せんと、思い直した次第。

「トンボ池」を越え、「東京国際カントリークラブ」脇の尾根道に上る。先回と同じく、尾根道をすこし北東方向に歩く。「アサザ池・吊橋」の案内に従い坂を下り る。「
右・管理所、左・アサザ池・吊橋」の案内を左折。アサザ池に。吊橋へのサインはどこにもない。先に進んだ。が、どうも北に向っているような感じがする。またまた引き返し、アサザ池に。「尾根道」の表示。といっても、どこに向うのかわからない。で結局、安全策をとり、「管理所」方面に下る。

吊橋
少し歩く。案内。「尾根道・吊橋は左」。吊橋へのラストチャンス、ということで尾根道に。アサザ池方面に尾根道を戻る。少し歩くと「吊橋 右」の案内。せっ かく尾根道にのぼったのだから、もう少し尾根道散歩を楽しもうと先に進む。尾根道の峠の手前に再び「吊橋 右」の案内。尾根道散歩も得心したので、右折し吊橋に。尾根と尾根をつなぐ橋だった。下は湿地なのだろうか。橋を渡り尾根道に。右が左か、どちらに行けばいいのか指示がない。右に行く。「吊橋右」のサイン。?今さっき吊橋を渡るために右折した場所。??要は、同じ尾根道、それもおおきく湾曲している尾根道をショートカットする橋であったわけだ。引き返す。尾根道を下り、小山田緑地・本園に。

小山田緑地・本園
本園入口に案内。石畳道とか小山田の道とか小山田の谷とか、見晴らし広場とか、球技場とか、結構規模の大きい緑地公園。とりあえず見晴らし広場に。前方に広がる尾根筋は「尾根緑道」だろう、と勝手に思い込む。うす曇ではあるが美しい。時間を確
認。午後4時前。戻りにはどのコースをとろうともいくつか峠越えが必要。ちょっと厳しい。ここから最寄りの駅は、はてさて??唐木田の駅に出るとしよう。

日大三校前

石畳の道を進み、小山田の谷の木橋を渡り、駐車場から道路道に出る。位置が分からない。とりあえず右に折れる。少々歩くと日大三校前の信号。唐木田方面とは逆に歩いている。で、唐木田駅へ、との計画は中止。再度、ルーティング。最短ルートで小野神社前>鎌倉街道・別所交差点>ショートカットで鶴川街道>小田急黒川>京王若葉台とする。とはいっても、いくつ山越えすることになるのか。。。

図師町

図師町を南に下る。左に見える山を越える山越え道があれば、といくつかチャレンジ。が、農家の軒先に。あきらめ、結道地区を越え、松下谷の交差点に。信号が ある交差点。山越えができるであろうと左折。図師・半沢道との案内。といっても、半沢がどこなのかわからない。峠道を進む。結構山が深い。山道に入っていったら、果たしてどうなったことやら。

別所の交差点
先に進む。なんとなく見たことのある景色。先回野津田公園を歩いたとき展望公園から降りてきた日本ろう話学校の交差点。右に行けば芝溝街道・並木交差点。
小野路へと動くため左折。野津田公園に沿って峠道を上る。結構長い。車の往来も激しい。野津田高校入口あたりで峠のピーク。後は万松寺谷地区を下る。思った より長い峠道。小野神社前に。右折し最初の信号を左折。鎌倉街道へのショートカットができそう。ここも結構な峠道。目的地まであといくつ峠を越えることやら。別所の交差点。鎌倉街道にやっと到着。
別所の交差点からはショートカットで小田急・黒川へと目論む。といっても詳しい地図があるわけでもなし、たよりは道と思しき、地図上の細い線の連なりのみ。とりあえず幹線から離れ、住宅街に。道なりに進む。次第に坂を登る。山に向う。どうも尾根道に連れて行かれているよう。

和光学園

日もとっぷり暮れてきた。もう足元は殆ど見えない。尾根道を進む。車が通っているので少々安心。街の灯を求める。が、周りは真っ暗。とりあえず下りたい。が、アップダウンが続くものの、尾根道が続く。やっとすこし大きい道路道に当たる。右に行くか、左に行くか、どちらも道は下っている。はてさて。で、右に、尾根道から下る。住宅街を歩く。一安心。学校が。和光学園と。

真光寺から黒川に

先にすすむと大きな道路道。予定していたところより結構南に出てしまった。地図を確認。道なりに進み真光寺地区を越え、真光寺十字路・真光寺中央で鶴川街道に合流。左折し一路小田急・黒川に。しかしこの鶴川街道の黒川への峠越え、過去最悪の散歩道であった。

結構長いつづら折れの峠道。周囲は真っ暗。歩道はなし。歩行者は逃げ場なし。何度か危ない目にあった。本当にひさしぶりに身の危険を感じた道路道・峠越え。小田急の高架が見え、道路わきに歩道が現れたときにはマジで安堵のため息。で、小田急を越え、京王線若葉台の駅に着き、長かった
本日の予定はこれで終了。結構きつかった。最後の峠道が。
それにしても本日は、如何にも、行き当たりばったりの散歩。成り行き任せも、ほどほどにしなければ。。。

後日談;この夜道での経験から、ライトを確保。ヘッドライトである。その後、ライトを使わなければならなかったのは、夜の滝山城跡への上り、くらい。夕暮れまでには丘とか山は下りるようにしている。

多摩丘陵散歩の3回目は、「多摩よこやまの道」。最初の散歩のときも、第二回の時も折に触れ、顔を現した尾根道。過去2回の散歩はどちらかといえば南北の歩き。今回は東西に続く尾根道を歩き、過去2回の縦糸に横糸を織り込もう、と思ったわけ。



本日のルート:京王永山>よこやまの道>黒川瓜生往還>丸山城跡>分倍河原合戦前夜の野営地>並列する古街道>古道五差路>現在の鎌倉街道>鎌倉古道に出会う>奥州古道と石仏群>唐木田>唐木田より西に進む>からきだの道>京王堀の内

京王永山
京王永山で下車。駅前の大規模ショッピングセンターを通り抜け南に歩く。永山北公園、永山南公園と進み公園内の「諏訪永山ふれあいの道」を東に。少々つつま しやかな団地内商店街の前をすすみ、「電車見橋」を渡り多摩東公園に。電車見橋の下には京王、小田急線が走る。結構大きな公園。公園内の陸上競技場に沿って歩き、北東の端に。

よこやまの道
尾根幹線道路を跨ぐ「弓の橋」を渡れば、眼前に小高い緑の連なり。階段を上れば「丘の上公園」。「よこやまの道」のスタート地点。

黒川瓜生往還
気 持ちのいい遊歩道。尾根幹線道路沿いに小高い尾根道を歩く。エコプラザ多摩のあたりに「よこやまの道の碑」。なんということのない石碑。道脇に案内板。 「黒川瓜生往還」との合流点。案内によれば、「黒川・瓜生往還とは:川崎市の黒川と多摩市永山の瓜生を結んでいた往還道。黒川の「黒川炭」や「禅師丸柿」を八王子方面や江戸に運ぶために使われていた」、と。

丸山城跡
黒川配水場の裏、というか表というか、小高い盛り上がりのあたりにまた、案内板。「丸山城跡」の説明。「古代東海道と丸山城;古代東海道は、今の東海道とは異なり、相模の国府と武蔵野国府間は多摩丘陵を通っていた。黒川配水場の高台は丸山城と呼ばれ、古代東海道の物見や狼煙台として使われていたよう」、と。ちなみに相模の国府は平塚にあったとされる。

分倍河原合戦前夜の野営地
「よこやまの碑」のすぐ近くに展望広場。いい眺め。富士山、丹沢、は言うに及ばず、天気がよければ秩父、淺川沿いの七生丘陵、狭山丘陵まで見渡せるとのこと。 都立永山高校あたりにまたまた案内板。これといって前調べのしない、ずぼらな散歩者にとっては非常にありがたい。「分倍河原合戦前夜の野営地」の案内; 「分倍河原の合戦全前夜、北条泰家率いる幕府軍は、このよこやまの道の尾根道で息をひそめて一夜を明かした」、と。最初の多摩丘陵散歩のとき、南大沢から分倍河原まで歩いた。行軍の道筋が想像できる。

並列する古街道
すぐまた「並列する古街道」の案内板;「地図のない時代、旅人は現在地や目的地の方向を知るため、尾根道をよく利用した。よこやまの道の尾根には数本の古道が並列する大規模な古道跡がある」、と。

何故、よりによって尾根道など歩くのか、って思いはあったのだが、実際歩いてみてわかったことは、展望というか、見通しのいいことの有り難さ。自分の進む方向が見通せることにより、気持ちが大変楽になる。これだけは、頭で考えているだけではわからない。歩いてはじめてわかること。
尾根道を歩くには、他にも理由がある。むしろ、こちらのほうが本筋のようであるが、昔は尾根道しか道を造れなかった、と言われる。尾根道が最も安定しているから、で
ある。尾 根下の川沿いの崖下など、雨が降るたびに道が崩壊する。どこかで読んだ事があるのだが、牛は怖がりで、「空間」を見た瞬間に足が止まる。川にかかる橋の隙間から下の「空間」など、とんでもないことであった、よう。峠を歩くのではなく、峠しか歩けなかった、というのが本当のところ、だろう。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)


古道五差路
更に進む。国士舘大学の裏手。「古道五差路」の案内;「古道が集まっている交差路。野津田、金井、本町田へと続く古道が。交通の要衝であった小野路の宿を避けて鎌倉に急ぐ古道の近道であった」、と。
古道五差路のあたりで遊歩道は一旦住宅街に入る。そのまま続く細い道があり、よっぽどその道を進もうと思ったのだが、安全策をとり道案内のとおりに大きく迂回しながら住宅街の坂を下る。

現在の鎌倉街道

景色が開ける。眼前の谷筋に大きな道路。現在の鎌倉街道である。道筋に鎌倉街道の案内;「大軍勢が通った現鎌倉街道;現在の鎌倉街道は4.5キロにもなる自然の谷。戦乱の時代には頼朝、新田義貞、上杉謙信などが通り過ぎた」、と。

鎌倉古道に出会う

住宅街、というほどでもないが、山道では決してない道を進み恵泉女学園の前に。ここで、ちょっと「よこやまの道」を離れ、第一回の散歩でアプローチが見つからず涙をのんだ鎌倉古道・鎌倉街道上の道に向う。恵泉女学園の裏手を塀に沿って歩く。「小野路へ」といった素朴な案内板。多分これだろう、ということで山道に入る。手付かずの山道を下る。気持ちがいい。
どんどん下り小野路の街道に。先回一本杉公園から下ってきた小野路のバス停と小野神社前の中間あたりに出た。とっとと「よこやまの道」に戻る。先回一本杉公園から下って来た坂道を戻る。案内板によれば、この道って「鎌倉裏街道」かも。鎌倉裏街道とは;「鎌倉街道のひとつに関所を避けた、通称鎌倉裏街道がある。土方、沖田が日野宿から小野路への出稽古に使った」とか。先般散歩の折の小島資料館の小島家、天然理心流の稽古場もあったとか。この屋敷に出向いてきたのだろう。

奥州古道と石仏群
一本杉公園のよこやまの道に戻る。少し歩くと、よこやまの道が切れる、というか、切り通しといった雰囲気の地形。大きな道路と交差。この道は小野路への道路道。
道路を横断し、住宅街を回り込むようにして再び「よこやまの道」に。「奥州古道と石仏群」の案内が;「奈良、京都へ続く奥州古道(国府街道)。近くに石仏群が」、と。この石仏群は宅地開発によって行き場の失った石仏を、心ある人々がこの地に集めまつったとのこと。

進む。多磨ニュータウン方面でなく、小山田方面、つまりは南への展望が開ける。思わず足を止める。絶景。展望台はない。深い森。豊かな緑。民家というか作業場の柵に寄り添いしばし、眺めを楽しむ。どんどん進む。唐木田に近づく。
尾根道からは離れ、通常の遊歩道になる。東京国際ゴルフ場の近く、KDDIの鉄塔の裏手に「古戦場伝説」の案内;「新田義貞の鎌倉攻めの古戦場のひとつ。犠牲者をとむらう塚の跡、戦にまつわる伝説などが残る」、と。

先回の唐木田から小山田への散歩の際に最初のランドマークでもあった総合福祉センター前に。「奥州廃道」の案内が;「よこやまの道には東北に向う、奥州廃道 (も
っとも古い奥州街道)が。頼朝の祖父頼義、義家の奥州征伐の伝説の残る神社(大国魂、百草八幡、荏柄八幡)はこの道筋にある」、と。

唐木田
先回はゴルフ場に沿って坂道を上ったが、今回は道案内に従い、ゴルフ場脇の山道に入る。ちょっとした公園を抜け山道に。先日の散歩の逆方向からのアプローチ。東京ガスのタンクの近くに、小山田緑地への分岐案内板。;「小山田氏;平安時代、よこやまの道のあたりは朝廷管理の馬の牧場。奥州古道をつかって都に馬を。小山田氏はこの牧場を経営する長官(別当)として秩父から赴任」、と。道を下り先回のスタート地点へ。

唐木田より西に進む

当初の計画では、この唐木田でお仕舞いにするつもりであった。が、この尾根道、どこまで続くのか、もう少し歩いてみようと思った。散歩の途中の展望公園で、この尾根道、西は神奈川県の津久井湖、城山町のあたりまで繋がっているとの案内があったし、それより
なにより、その展望公園から眺めた弓なりに北西に続く連なりがあまりに魅力的であった。そして、ひょっとすればこのよこやまの道を進めば、先回の尾根緑道・戦車道に繋がるのでは、との思いもあった。で、唐木 田より先に進むことに。

からきだの道
だいぶ日が暮れてきた。急がなければ。大妻女子大方面の緑の高まりが尾根ではなかろうか、と歩を進める。大妻女子大前の信号を渡り山というか丘に向って進む。公園が。公園の脇から上りの階段。「からきだの道」との案内。はてさて、どこまで続くのか。
いい散歩道。野趣あふれる山道。アップダウンが激しい。疲れた体には結構厳しい。本当に上り、下りの連続。距離の割に時間がかかる。森の中。薄暗くなる。気はあせる。こちらの思い関係なく、上り下りの連続。展望広場が。とりあえず上る。それほどの展望でもなく、続きの道もない。来た道を戻る。日暮れでなけれ ば結構いい散歩道、などと思いながら歩く。南大沢に近づいているのだろうか。とはいうものの、展望台の案内には多磨センターの案内。ベネッセのビルも遠くに見える。少々不安。進むしかない。


京王堀の内
で、住宅街に。先に電車の高架が見える。高架下に。線路はその先、トンネルに入る。住所表示が。中沢2丁目。あれ?どこだ!地図を確認。多摩センターと京王堀の内の間、府中カントリークラブの丘の手前だった。南大沢にはほど遠い。南大沢方面には、大妻女子大前を丘に向って横切ることなく、大きな道路に沿って進めばよかったようだ。が、あとの祭り。地図で確認したところ、「からきだの道」って、府中カントリークラブの丘の端をつないでいる道筋。ともあれ、京王堀の内に向かい松が谷トンネル上の急な坂道を上り、ゴルフ場を眺めながら坂をくだり、多摩ニュータウン通りをしばし歩き京王堀の内に。本日はこれで終了。今度は、今回襷を繋げなかった、唐木田から南大沢に向う尾根道を歩いてみたい。

一回目の多摩散歩のとき、鶴見川に出合った。帰宅し源流地点を探した。上小山田のあたりだ。里山の雰囲気が色濃く残りなかなか面白そう。行かずばなるまい、ということで、ふたたび多摩丘陵散歩に。



本日のルート;唐木田駅>多摩市総合福祉センター前>清掃工場>よこやまの道・尾根道>トンボ池>山田緑地(本園でなない)>アサザ池>小山田緑地・梅木窪分園>トンボ池>善治ケ谷>小ケ谷>山の端>大泉寺>山の端橋・鶴見川>鶴見川源流の泉>尾根道幹線>長池公園>南大沢駅

小田急・唐木田駅
小田急・唐木田駅下車。多摩センターから西にひと駅。結構落ち着いた町並み。唐木田の由来は唐からの渡来人が開いた田畑があったとか、崖崩れなどで枯れ木で田が埋まったとか、例によってこれもいろいろ。
駅前から小山田緑地へのアプローチ地点・東京国際ゴルフ場を目指す。といっても、駅前からゴルフ場の緑が見えている。そんな距離。
多磨清掃工場の裏手、ゴルフ場との間の道を上る。車の通りも多い。坂を登りきったところにちょっとした公園。丘の上に大妻女子大学・短大が見える。唐木田駅から大妻女子大学・短大に沿ってくる道もある。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)

小山田緑地
公園に案内板。「多摩よこやまの道」ガイド。案内板前を今来た方向に戻るように尾根道に入る。いい感じの山道。右手は美しい森。左手は開け、多摩の街並が見下ろせる。歩を進める。東京ガスのタンクを左手に見るあたり、小山田緑地・トンボ池への道案内。

奥州廃道
奥州廃道の案内。奥州廃道は、奥州街道最も古いとされる道筋。小山田の大泉寺から東京国際ゴルフ場の中をとおり、唐木田駅の近くを北上していた、とされる。 別名長坂道。昔、唐木田駅あたりにあった地名だが今はない。で、この分岐路、直進すれば「よこやまの道」。右折すれば小山田方面に。

小山田方面に
右折する。鬱蒼とした樹林。大久保分園への分岐。分園の意味もわからず、本道からそれて分園に。急な坂道。結構下りる。これを下りきってしまえば、戻り大変と途中で引き返し本道へ。歩く。左手はゴルフコース。進むにつれ尾根道とゴルフ場の境目がなくなる。トンボ池への案内。下りていく。ちなみに分園。小山田緑地本園に対するもの。

トンボ池
トンボ池へのアプローチ、いかにも里山の雰囲気。畑のあぜ道を進む。子供のころ、日曜には祖母のご下命により家族皆で畑作業にいった、その記憶が甦る。
トンボ池。湿地なのだろう。木の散歩道が整備されている。とはいえ、秋のこの時期にはあまり水はなかった。

トンボ池の横に「小山田緑地」の案内碑が。案内に従って進む。いい雰囲気。里山と畑。道は次第に上りに。結局尾根道に戻る。登りきったところに案内図。案内図のところの三叉路をトンボ池方面に下れば里に向う。が、地図にある尾根道を進み大泉寺に向うことにした。
ふ たたび尾根道というか、ゴルフ場の中を進む。ゴルフのカートとすれ違う。本園、管理所という案内に従って歩く。とはいうものの、この時点では先ほどの分園と同じく、本園も管理所もなんのことかわかっていなかった。本園というのは、このゴルフ場の南にある「小山田緑地」本園のことだった。また、管理所もこの「小山田緑地」本園内にある管理所のことだった。

アサザ池
ともあれ、なにもわからず進む。なりゆき。アップダウンが続く。尾根幹 線へ10分といった指示。が、これでは唐木田駅のほう、というか北に戻ってしまう。南に進みたいわけだ。更に進む。アサザ池、吊橋の案内。進む。アサザ池に。トンボ池同様の湿地。里山風景が心よい。アサザ池から先へと進む。吊橋は?見つからない。後からわかったのだが、吊橋はアサザ池から尾根に上り、尾根伝いに「小山田緑地」本園へ向かう途中にあった。

完全に道に迷う。行き止まり。無理矢理押し進む。道なき道を進む。崖を登る。尾根道に。だが、どこにいるのかわからない。梅木窪分園との表示。進む。またまた行き止まり。向かいに車道が見える。
雑草の中を登山杖で前を確認しながら、なんとか車道に戻る。自動車修理工場などもある。ゴルフ場内なのか外に出ているのかはっきりしない。とりあえず進む。 いまだどこにいるのかわからない。道なりに坂をのぼりはじめる。なんとなく元に戻っている感じ。歩き続ける。結局、トンボ池から上りきったあたり、案内板のあった三叉路に戻ってきた。

大泉寺
トンボ池に向って道を下る。民家・農家の前、畑にそった道を下る。里に下りた。善治ガ谷の町並の中を歩く。栗畑が多い。栗も結構実っていた。道祖神、地蔵が多い。155号線、山の端交差点に。左折。すこし歩いて大泉寺に。

小山田氏
このお寺は平安末期から戦国時代、南北朝にかけこの小山田の荘を統べていた小山田氏の居館跡。桓武平氏の流れをくむ秩父太郎有重が、この地の牧の管理者(別当)として赴任し小山田を名乗ったのが始まり。頼朝旗揚げの時、有重、京都の大番役。関東の小山田一族は平家として戦いに加わる。が、秩父氏の総領畠山氏のとりなしもあり源氏方として活躍する。次郎重義は小野路城、三郎重成は稲毛の桝形城で稲毛氏、四郎重朝は保土谷地方を領して榛谷氏、五郎行重は図師川島の砦を守る。子どもたちもそれぞれ武勇の誉れ高く、特に三男重成は鎌倉幕府の侍大将として名を成し、妻に頼朝夫人政子の妹を娶ったほど。将
軍の義理の弟になったわけだ。
重成の話をもう少々。以前鎌倉散歩のとき、頼朝が橋の完成を祝いに出向いた帰り道、馬から落ちてなくなった、とメモした。その橋というのが、重成がなくした妻の冥福をいのるために相模川にかけたもの。こんなところで、鎌倉散歩と繋がるとは。。。

小山田一族のその後を少々;頼朝の死とともに、小山田一族の勢いは次第に衰えてゆく。頼朝にも篤く信頼されていたこの小山田一族、頼朝亡き後の実権を握らんとする北条時政にとっては目の上のたんこぶ。北条時政の謀略により、従兄弟で武蔵武士の鑑と言われた畠山重忠の謀殺に荷担したとされ、さらに重成はその弟重朝とともに、畠山重忠の死の責任をとらされるかたちで、将軍実朝によって二股川で謀殺された、と。その後、小山田一族は関東や甲州に四散したとか。
大泉寺の開山堂は素朴でしかもどっしりとしたつくり。いい感じ。本堂は鉄筋つくり?少々情緒に欠ける。境内に向って一直線にのびる道、流鏑馬の馬場の名残か。そういえば小山田兄弟、馬術にすぐれていた、と案内に書いていた。

鶴見川源流の泉 
大泉寺を離れ鶴見川の源流点に向かう。長い参道を下り県道155線に出る。都道155号線は町田市図師、都道57号線図師大橋交差点から別れ、尾根幹線道路を抜けて京王堀之内駅、多摩テック、平山城址公園駅を経て国道20号線に合流する都道。道脇の鶴見川に沿って西に進む。

小山田小学校のあたりで川筋は消える。暗渠となっているのだろう。先に進み、小山田バス停のあるあたりで道が分岐。右に折れる155号線と別れ道なりに先に進む。里山の景色を楽しみながら先に進むと鶴見川源流の泉に。道脇にある。 
湧水の水量は多い。日量1,300トン自噴するという。鶴見川の源流はこの湧水と、周辺の谷戸から集められた「絞り水」によってつくられる。北には尾根道幹線の通る尾根。西には尾根道緑道。尾根道緑道は鶴見川と境川の分水界となっている。これらの尾根に囲まれ「鶴見川源流保水の森」が湧水であり、谷戸の水を養っているのだろう。
源流の泉のある70ヘクタールの田中谷、その下手に広がる中央の谷地形、森や多くの谷戸が織り成す里山の景観は、まことに、のんびり、ゆったり。源流の泉で湧き出る水をぼんやり眺め、少し休憩

長池公園
道を先に進む。尾根道幹線に上る。右に尾根道幹線を跨ぐ橋。橋を渡り長池公園に。とはいうものの、道は公園に沿って西に進む。すぐには公園に入れない。後からわかったのだが、そこは米軍の
施設。由木通信所。横田基地の管理下にある極超短波(UHF)の通信中継施設、と言う。 南大沢南交差点近くまで引っ張ってこられ、やっと公園の入り口に。
道なりに進むと、右下に池が見える。この池が公園の名前ともなった「長池」。別所川の水源ともなっている湧水池。この池には浄瑠璃姫の伝説が伝わる。

聖武天皇御世、と言うから、8世紀前半の頃。武州大磯で海に光るもの。漁師が拾い上げると薬師如来。通りかかったのが三河の岡崎四郎。薬師如来を持ち帰り、そのおかげもあり姫を授かる。その姫の名前が浄瑠璃姫。 姫は小山田太郎高家の側室となる。そのとき、守本尊として薬師如来を持参。
小山田太郎高家は北条により滅ぼされた小山田氏の末裔。先ほど訪れた大泉寺に居を構えたあの小山田氏である。高家は新田義貞に従い鎌倉攻めなどに参陣。が、足利尊氏との湊川の合戦で討ち死。義貞の身代わりとして討たれた、と。 
浄瑠璃姫は悲しみのあまり、侍女ともども、この長池に身を投げる。その後、数十年をへたある日、この池の畔を歩く和尚が池に光るものを見る。拾い上げると薬師如来。和尚は持ち帰り供養。多くの人々が参詣に訪れた、と。 長池より湿地に沿った散策路をくだると大きな池。築池、と。農業用の溜池。池の畔を成り行きで進み南大沢の駅に進み、本日の散歩を終える。

日曜、娘の学校の文化祭が。とりあえず顔を出し、そそくさと散歩に出かける。京王線沿線でもあるので、多摩へ。鎌倉街道、それもできるものなら古道を歩いてみようかと考えた。どこかで町田市の小野路から野津田にかけて鎌倉古道が残っていると見たことがある。ちょっと距離はあるものの、京王多摩センターから南に下ることにした。



本日のルート;京王多摩センター>多摩中央公園>一本杉公園>小野路>小島資料館>小野神社前>小野神社>野津田公園>日本ろう学校>日本ろう学校入口>芝溝街道・並木交差点>鶴見川>七国山>今井谷戸>藤の台団地>鶴川街道>玉川学園

京王多摩センター

京王多摩センター下車。ベネッセ東京本社のビルの脇を歩く。二日前に来たばかり。この近くに落合遊歩道があるようなのだが、如何せん案内がない。とりあえず南に。

一本杉公園
ベネッセのすぐ南に多摩中央公園が。このあたりに落合遊歩道があればいい、などと期待しながら公園内に。案内はない。道なりに進む。南西に向っている。この公園丘陵の尾根道。結構高い。谷は深い。だいぶ歩いて道が開ける。一本杉公園に渡る陸橋が。

多摩よこやまの道
一本杉公園内に道案内。多摩丘陵の尾根道を西、というか西南に進む「多摩よこやまの道」。多摩丘陵は武蔵の国府から眺めると横に長くつらなる山々。夕暮れの姿などは万葉の時代から「多摩の横山」「眉引き山」などと呼ばれていた、と。
「多摩よこやまの道」は最近になって独立行政法人都市再生機構によって整備されたもの。もちろん、この尾根道自体は古代よりずっと重要な交通路。東国と西国を結ぶ交通の要衝であったわけだ。鎌倉古道、奥州古道、奥州廃道、古代の東海道などの古街道がこの尾根道と並走したり、南北に交差したりしている。この「多摩のよこやまの道」もおもしろそう。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)



小野路へと
が、本日は西ではなく南の小野路へと下りたい。ということで、案内をじ
っくりチェックする。公園の南出口から小野路へと南に向う道がある。公園内を進む。一度谷地に下り、鉄パイプの階段を上る。丘は高いし、谷は深い。
道の途中に鎌倉街道の案内が。が、どちらに進めばいいのか良くわからない。案内碑の横に、公園からの出口があった。とりあえず先に進む。公園から出る。結構大きな通り。出口にも鎌倉街道の案内。そして「よこやまの道」の案内。鎌倉古道、小野路への道案内はない。
公園出口をうろうろしたが、結局先の公園内の案内碑まで戻ることにした。後日わかったのだが、この案内図、よこやまの道の要所要所にあるガイド。よこやまの道の散歩者が対象であり、よこやまの道の散歩を豊かにするものであり、それ以外のものではなかった。他の道への案内がないのも納得。

鎌倉裏街道?

一杉公園の裏口みたいな出口から外に。が、これも右に行くのか、左に行くのかわからない。右に行ったり、左に行ったり、うろうろ。何度か行き来する。結局は左に、坂を下ることにした。この道は鎌倉裏街道(日野往還・小野路道)、などと呼ばれている道筋(じゃないか、と思う:後日、鎌倉古道は一筋隣にあるのがわかった)。車が来る。古道といった雰囲気ではない。
竹やぶの脇を更に進む。結局麓まで下りてしまった。小野路のバス停留所。古道への思い、絶ちがたく坂道に戻り脇道を山に入る。が、結局それっぽい道は見つけることができなかった。あきらめて野津田あたりの古道に一縷の望みを託す。

小野路
小野路を道なりにすすむ。小野路の地名の由来は武蔵国府・府中の古来の名称・小野郷への道筋であることから。武蔵国府があった府中には小野箼の子孫が武蔵の国司として赴任していたわけだ。この小野路、かつては鎌倉と武蔵を結ぶ鎌倉街道の宿場町として発達した。また、この道筋は相模大山不動尊への参道道・大山道でもある。

小島資料館
途中立派なお屋敷。小島資料館。小島家はこの地の寄場名主。名主の総代といった立場。幕末期の当主は近藤勇と義兄弟の契りを結ぶ。ゆえに新撰組の資料が多数保管されている。幕末、天然理心流の稽古場を提供。土方、沖田、山南敬介などが出稽古に先の日野往還をとおり、この小野路のスポンサー宅に出向いていたのであろう。

小野神社
資料館をあとに進む。小野神社前。T字路の角に小野神社。案内板によれば、10世紀初頭小野篁(たかむら)の七代目の孫の小野孝泰が武蔵の国司として赴任した折り、この地に小野篁の霊を祀ったことがはじまり。小野篁は平安時代前期の人。学問の神様。菅原道真の先輩のようなもの。安中期の書家「小野道風」の祖父にあたる。ちなみに栃木県の足利学校の創始者も小野篁となっている。小野郷、府中の小野神社、小野路、このあたりには古代、小野一族が活躍していたのであろう。

ちなみに多摩市(聖跡桜ヶ丘)と府中市に小野神社がある。武蔵各地から大国魂神社・総社六所明神に勧請された六社のうちの一宮と言われる。府中の地に国府ができ、「府中」と呼ばれる以前は小野郷と呼ばれたことも頷ける。ちなみに武蔵六社とは、小野神社(府中市・多摩市) 小河神社(都下あきるの市) 氷川神社(埼玉県大宮市)秩父神社(埼玉県秩父市) 金佐奈神社(埼玉県児玉)杉山神社(神奈川県横浜市)。一宮であった小野神社が多摩市のものか、府中市のものか、はっきりしていない。

野津田へ
神社をあとに野津田へと。小野神社前の車の多い坂道を登る。途中から左手脇道に入れば古道がありそう。それっぽい道を進む。結構奥に入る。が、行き止まり。戻る。南方向に車の通る坂道。進む。野津田へと。元は「野蔦」。ツタが多く生い茂っていたのが地名の由来。フォークダンスの曲が聞こえる。野津田競技場。運動会でもやっているのだろう。尾根道を進み、これってオンコース、かとおもったのだが、結局急な下りで野津田公園に。またまたどこにいるのかわからなくなった。

野津田公園
掲示板を探す。出口が何箇所も。この公園結構大きい。とんでもなく大きい。道なりに歩き出口に。北出口。逆だ。引き返す。南出口方面に。よくわからない。大きすぎる。適当に進む。結構急な坂を登り展望台に。眺めはいい。一面の森。藤村ではないけれど、「小野路はみんな、森の中」といった雰囲気。多磨の尾根ひとつ越えると、別世界。自然が深い。依然、居場所がわからない。どうもこのあたり南というより西の出口に近いような気もする。ここは公園からのぼってきた展望台というか展望公園なのだが、横は住宅街。町田のほうから切り開かれた宅地となる。

芝溝街道に
公園横の道を進む。すごい下り坂。これを一度下りたら、また登るのは結構大変、などと怖れながらすすむ。日本ろう学校の運動場。地図を確認。OK、これなら野津田公園の南に行ける。坂を下りきると、日本ろう学校入口の横断歩道。オンコース。さらに下り芝溝街道・並木交差点に。結局、野津田公園あたりの鎌倉古道には今回もかすらなかっ た。芝溝街道は東京の芝と相模原の上溝を結ぶ道。

七国山

芝溝街道から先のルートは目の前にある七国山(なかくにやま)を越え、今井谷戸へと続く鎌倉古道がある、とか。最後のチャンス。古道を目指す。上溝街道を適当に右に折れ、鶴見川を渡り山に向う。
鶴見川の源流は町田市上小山田あたり。いつだったか、鶴見川の源流点を訪ねたことがある。滾々と湧き出る湧水が見事であった。ともあれ、山麓に沿って歩く。 が、案内なし。適当に歩く。山に向う道。といっても舗装している。古道のわけがない。七国山緑地といった案内。このあたりなのだろうが、結局頂上まで、里山を眺めながら上る。
頂上近くなり、七国山の町田側が見え始めると、これが結構開かれた山。頂上あたりには南の麓から続く住宅街が。結局、古道見つけることはできなかった。

今井谷戸の交差点
坂をおりる。今井谷戸の交差点。谷戸は里山に続く谷間のこと。通常は雑木林の尾根に挟まれて細長く延びているという地形。が、今井谷戸の交差点は車の通り激しく様変わりではある。
いつだったか、恩田川の源流点を求めて、この今井谷戸あたりまで遡ったことがある。源流点といったイメージとはほど遠い、交通量の多い交差点に、少々愕然としたものである。

玉川学園駅
日も暮れてきた。玉川学園へ急ぐ。今井谷戸の交差点を藤の台団地方向に曲がる。結構歩き鶴川街道に。あとは適当に鶴川街道と小田急線の間の丘陵、住宅街の丘を登り、
道なりに歩き、玉川学園駅に。
本日の予定終了。いやはや、午後1時から歩き、小田急玉川学園駅についたのは午後5時過ぎ。結構歩いた。が、目的の鎌倉古道は一切かすりもせず。3回もチャンスがあったのに、すべて見つけること叶わず。まあ、こういう日もあっていいか。とはいうものの、まったくの土地勘のなかったこのあたりも今回の彷徨でほぼ「掴んだ」。作戦建て直し、次回鎌倉古道、大山道、鶴見川散歩に備える。


東村山から小手指まで散歩:東村山から小手指まで歩くことにした。理由はふたつ。ひとつは古戦場跡を巡ること。久米川古戦場跡と小手指原古戦場跡の二箇所。 どちらも新田義貞と鎌倉幕府との合戦の地。先日の狭山湖散歩のときの将軍塚、また府中の分倍河原合戦跡碑のときにこの二つの合戦のことをメモした。が、実際に行ってもないので、どんなところか気になっていたわけだ。二つ目の理由は古代の武蔵道、中世の鎌倉街道をちょっと「さわる」こと。東村山から小手指まで歩くのだから、どうせなら昔の道筋をなぞってみたいと考えた。(2月 05, 2009年にブログを修正)



本日のルート;駅西口>諏訪神社>ふるさと歴史館>鎌倉古街道>正福寺>北山公園>東京白十字病院>八国山>将軍塚>久米川古戦場>徳蔵寺(板碑保存館)>府中街道・久米川辻>梅岩寺>西武新宿線と交差>勢揃橋北詰>ニ瀬橋・柳瀬川と北川が合流>長久寺>南陵中>にじゅうにん坂>永源寺>岩崎>瑞岩寺>仏蔵院>来迎禅寺>勝光禅寺>山口城址>中氷川神社>高橋交差点>椿峰ニュータウン西>北野天神前>463号線・小手指ケ原>誓詞橋>市立埋蔵文化調査センター>小手指ケ原古戦場>白旗塚>誓詞橋>緑といこいの遊歩道>所沢西高>小手指駅に

ふるさと郷土館
西武線で東村山下車。西口に下り、まずは「ふるさと郷土館」を目指す。ふたつの合戦跡地を、というだけで、いつものようにとりたてて事前の調べも無し。とりあえず郷土館で資料収集をしようと思う。
道なりに諏訪神社。さっぱりしたお宮。その先に郷土館。展示室は「道」を大きなテーマとしているよう。ディスプレーを見ながら古代武蔵道のルート、鎌倉街道のルートを大雑把に頭にいれる。古代の武蔵道、幅が12メートルもあったとか。八国山にむかって一直線に道筋があったとか。鎌倉街道はいくつも道筋があったとか、いろいろと参考になった。
また、久米川の地での合戦にしても、新田義貞だけでなく、いくつもの歴史に残る合戦があったよう。このあたり、現在でいえば東京のはずれではあるが、昔はこのあたりが幹線道路。現在の都心など湿地と葦原、そして武蔵野の台地も一面の萱原であり、武蔵野国府から上野の国府へ抜けるには、このあたりの道筋を通るのがメーンルート。交通の要衝であり、戦略的に重要な場所だったのだろう。確かに八国山を敵方に押さえられれば、結構鬱陶しいことになりそうな気がする。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)

ふるさと郷土館で徳蔵寺・正福寺コースとか鎌倉古街道・梅岩寺コースなどいくつかの散歩コース資料も入手。鎌倉古街道・梅岩寺コースに「鎌倉古街道の碑」の案内があった。場所は本町2丁目というから少し駅のほうに戻ることになる。が、行かずばなるまい、ということで、ちょっと駅方向へ戻る。

鎌倉古街道の碑
西武線を渡り駅東側に。鎌倉古街道の碑、見つけるのが結構大変であった。結局は駅前の府中街道を少し北、なんとなくここかな、と思ったところを左に斜めに入ると碑があった。といっても普通の民家の前に「鎌倉古街道の跡」って書いてある碑があるだけ。資料のメモ;鎌倉幕府は重要基盤である関東地方を統治するため、鎌倉を基点として四方の街道を整備した。東村山には、市を南北に貫いて、上野へ向う上ツ道という重要な道が通り、日蓮上人の佐渡流刑、新田義貞の鎌倉攻めなど歴史の重要な役割を果たした(郷土館の資料より)」。
さてここからどのコース、と少々悩む。郷土館でもらったいくつかのコースを眺めながら結局正福寺経由で久米川古戦場に向うことにした。

正福寺
西 武線を再度渡り、駅西側に。八国山を目印に進む。先日八国山・将軍塚に行っているのでルーティングは楽。道なりにすすみ正福寺に。東京都で唯一の重要文化財、というか国宝のある寺。地蔵堂がそれ。鎌倉円覚寺舎利殿とともに禅宗様建築のお堂。垣根は最近新しく作り直した模様。お堂の渋さとまだシンクロしていない。

久米川古戦場跡
寺を出て、北山公園経由久米川古戦場跡を目指す。地図によれば八国山の東麓あたり。道なりに進み北山公園に。普通の・今風の植物公園って雰囲気。とっとと離れる。山麓の東京白十字病院に。古戦場跡はすぐ近く。が、ここまできたのだから八国山に登ってみようと。病院脇の道を尾根まで。将軍塚まで歩き、そのまま道なりに下る。相変わらずいい感じの山。丘陵東麓に。が、どこに下りたのか、場所がわからなくなった。あれこれ動く。結構迷う。川筋を歩き、徳蔵寺のすぐ近くの橋の袂で古戦場への案内板を見つける。とりあえず古戦場跡に。なんということのない小さな公園の一画にあった。
郷土館でもらった資料のメモ;狭山丘陵東麓から前川・後川をはさみ鎌倉街道一帯に広がっている。新田義貞の鎌倉攻めや1335年(建武2)北条高時の遺子時行と足利尊氏の弟直義らの戦い(中先代の戦い)や1352年(正平7)の武蔵野合戦(南北朝時代、新田・足利最後の決戦)など幾多の戦場となった。古代、久米川の宿のあったこのあたりは交通の要衝。戦略的陣取り合戦がおこなわれたのであろう。

徳蔵寺
久米川古戦場をあとに、徳蔵寺に。板碑が有名。「いたび」「いたひ」「ばんび」などと読む。鎌倉中期空戦国時代に作られた供養碑。徳蔵寺の板碑には新田義貞の鎌倉攻めに際し討ち死にした義貞の家臣の名が刻まれている。国の重要文化財。

梅岩寺

道を進み府中街道・久米川辻に。左折し、府中街道を北に進み梅岩寺に。久米川合戦の際、八国山の将軍塚に本陣をおいた義貞に対して、幕府軍はここが本陣。樹 齢700年以上のケヤキ、樹齢600年以上のカヤが。都の天然記念物に指定されている。また四国88箇所巡りの地蔵群も。

勢揃橋北詰

おまいりを済ませ、小手指ケ原に向って歩きはじめる。西武新宿線と交差。ガードをくぐるとニ瀬橋。北川が柳瀬川本流に合流する。北川は柳瀬川の支流。ともに源流点は狭山湖西側の金堀沢のあたりだが、現在は狭山湖、多摩湖によって堰止められている。ということは、この水は、湖の余水ということだろう、か。
西武新宿線に沿って少し進む。なんとなく左折。少し進むと勢揃橋北詰。ここに新田義貞の軍勢が勢揃いしたとか、しないとか。

長久寺

道なりにすすみ長久寺。時宗の寺。時宗の寺は鎌倉街道沿いに結構多い。お寺の前に旧鎌倉街道の標識。とはいうものの、どちらに進めば鎌倉街道なのか検討つかず。お寺の脇を北に上る坂を進む。すぐ左折。結局ここを左折しないで直進すれば所沢市街の新光寺まで、途中西武線でさえぎられてはいるものの、一直線で街道がすすんでいるとのことだった。が、あとの祭り。
で、左折し南陵中方向に。見落としたのだが、この南陵中の前の交差点には東山道武蔵路につながる古代の道の遺構「東の上遺跡」があったよう。八国山を目指し一直線に進んできた12メートルの古代・武蔵道は八国山麓を迂回し、この地に繋がっていたのだろう。

永源寺
南陵中を越え、左折。少し大きな通り。じゅうにん坂の交差点に。西武線に沿って所沢高校方面に永源寺が。曹洞宗。徳川家江戸入府依頼、14代にわたり徳川家より寺領30石の寄進あり。武蔵国守護代大石信重の墓塔も。

瑞岩寺
道なりに北西に進み、西所沢方面からくる結構車の多い通りと岩崎交差点で合流。左折し県道55号線山口・狭山湖方面に。瑞岩寺。結構立派な門構え。「山口城主の菩提寺」。石段に座りしばし休憩。一息ついた後、再び県道55号線山口・狭山湖方面を西に進む。ほどなく西武線と交差。

仏蔵院
仏蔵院に。由緒あるお寺。もともとは狭山湖の湖底に沈んだ勝楽村にあったとか。朝鮮半島から渡来した王辰爾(おうじんに)一族によって建立された。王辰爾 は、百済の人王仁(わに)五世の孫とされる。王仁は、百済からの渡来人。『論語』『千字文』などをもたらした。平安末期の頃は、『国分寺・一宮にもまさり、仏神の加護も尊く』といわれるほど、武蔵では一番の寺格。源頼朝の庇護も得た。所沢市域のなかで、歴史も古く最も大きな寺院であったようだ。

勝光禅寺
少し先に勝光禅寺。北条時が宗開基。家康以来、徳川家の庇護を得る。禅宗様式の楼門がどっしりとして美しい。

山口城址
下山口の駅を越え山口城址に。先日このあたりを歩いていたとき見逃したが、ほんの道脇にあった。というか案内のみ。跡地はスーパーだったか、ホームセンターになっていた。
この城は平安末期、武蔵村山党の山口氏によって築かれた。南北朝の14世紀中頃、新田義宗に与力し、武蔵平一揆の河越氏とともに鎌倉公方足利氏満と戦うが、上杉憲顕に破れ落城。14世紀末にも、南朝方として足利氏満と再び戦うも敗北。その後、山口氏は上杉陣営に。城も狭山湖北麓に根小屋城を築き、この地を離れる。上杉氏が衰えた後は小田原北条氏の旗下に参じるも、小田原合戦で破れ、城も廃城となる。

中氷川神社
更に進み中氷川神社。これも先回の散歩のとき見落とした。立派なお宮さん。ほんとうにこのあたりは、その昔あなどれない地域であったのだろう。この神社、武蔵三氷川のひとつ。あとふたつは、大宮の武蔵一の宮・氷川神社と奥多摩の奥氷川神社。この三社はほぼ一直線上に並んでいると。
先日奥多摩を歩いた時、奥氷川神社を訪れた。なんとなくさっぱりとしたお宮さま。武蔵の国造である出雲臣伊佐知直(いさちのあたい)が、故郷出雲で祖神をまつる地と似ているとちうことで、この地に武蔵で最初の氷川神社を建てたというのが、その奥氷川神社であった、とか。その後、中氷川、大宮の氷川神社を建てていった、との説もあるが、諸説入り交 じり、定説なし。氷川は元、出雲の簸川から。ほとんどが武蔵の国にある、関東ローカルなお宮さま。

北野天神
車の往来の多い道を更に進む。高橋交差点に。右折。椿峰ニュータウン西あたりを経て北野天神前交差点に。北野天神は、景行天皇40年に日本武尊が東征の折に当地に立ち寄り、櫛玉饒速日命・八千矛命の二柱を祀り、物部天神・国渭地祗神と崇拝したことに始まるといわれている。のち欽明天皇の頃、先に日本武尊が納めた神剣に霊験があったことから天照大神を合祀して「小手指明神」とよんだ、と。そもそもなんで北野天満宮。学問の神さまがなんでこの地に。由緒書を呼んで納得。天神様・菅原道真の子孫が武蔵野守となったとき当地を訪れ、京都の北野天神を分祀。坂東第1の天満宮とした。以来、このあたりを北野と呼ぶようになった。
境内に 宗良親王の御在陣跡の碑。南朝の征夷大将軍であった宗良親王が、新田義貞の遺児である新田義宗とともに、小手指ケ原において足利尊氏軍と戦ったときの陣跡。戦いに利あらず、宗良し親王は信濃に落ちた、と言う。

小手指ケ原古戦場

北野天神脇の道を北に進み463号線と合流。小手指ケ原の交差点。左折し誓詞橋に。新田義貞が鎌倉攻めの折、配下の武家に忠誠を誓わせたところとされる。小手指ケ原古
戦場の碑を探す。ちょっと迷った。誓詞橋の交差点を少し斜め、北野神社方面に戻る感じの道がオン・コース。「緑といこいの遊歩道」沿いに碑文があった。

小手指が原合戦の整理;新田義貞と鎌倉軍が最初に会い争った合戦。元弘3年(1333)5月8日、新田荘・生品神社でわずか百数十騎で倒幕の旗揚げをした義貞は、その日のうちに越後新田一族二千騎、利根川を渡る頃には越後、甲斐、信濃の源氏もはせ参じ大軍団に。一方鎌倉方は金沢貞将が新田 軍の背後に、桜田貞国を大将とする軍勢は鎌倉街道上道を入間川に向う。で、5月11日両軍この地で激突。勝敗はつかず、新田軍は入間川へ、鎌倉方は久米川へ退却。
翌12日新田軍、鎌倉方の久米川の陣を攻める。鎌倉軍、分倍河原まで退却。15日、新田軍は府中に攻め込む。鎌倉軍に北条泰家の援軍。新田方は堀兼まで退く。新田軍、三浦氏などの援軍を迎え、軍勢を立て直し、翌日再び分倍河原を攻める鎌倉方、総崩れ。新田軍は鎌倉まで攻め上る。、22日には稲村ヶ崎より鎌倉に攻め入り北条高時を攻め滅ぼす。鎌倉時代は幕を閉じる。生品明神での旗挙げから僅か14日間の出来事であった。

このあたり、街道の要衝地。鎌倉街道上道の支道の一つ。東村山市から西武遊園地、所沢市山口、北野神社からここに至る。ここから北の入間市方面には鎌倉時代には村山党金子氏や丹党加治氏などの本拠地があり、人々の往還が盛んであったのであろう。近くに市立埋蔵文化調査センターが。古い時代からの遺跡も多い。

白幡塚

最後の目的地は白幡塚。小手指ケ原古戦場の碑から少し奥まった西の森の中にあった。森というか前方後円墳型の塚。塚の頂上には白旗塚碑や石祠の浅間神社が。小手指ケ原の合戦の折、新田義貞がこの塚上に源氏の白旗を掲げたと言う伝承から名付けられたものだそう。本日の予定はこれで終了。後は、緑といこいの遊歩道を歩き、所沢西高を経て小手指駅に。

いやはや結構長かった。思いのほか歴史のある地域であった。そういえば、狭山丘陵一帯は、平氏の流れを汲む、武蔵七党のひとつ、武蔵村山党の本拠地であった。実際に歩いて、キラ星の如く現れる由緒ある神社・仏閣を目にすると、リアリティがグンと増す。どんど ん、歩く、べし。 

新橋から新宿へ

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新橋で仲間と会う。20代半ばからの付き合い。もう30年近くもなるか。若かりし頃のやんちゃの話を懐かしむ、いい付き合い。で、お開きの後は予定通り散歩。10時過ぎ新橋を出る。



虎ノ門


西新橋から虎ノ門交差点。桜田通りを左折。虎ノ門3丁目を右折。ホテル・オークラ前の汐見坂にゆるやかなのぼり。汐見坂は文字通り、昔はここから海が見えたから。また松平大和守邸(幕末・川越藩)があったため「大和坂」とも呼ばれた。

霊南坂

アメリカ大使館前の交差点を左折し霊南坂に。霊南坂は日向の人嶺南和尚がここに庵をもったから。ちなみにホテル・オークラ本館の南の急坂を登り、本館とホテルオークラ別館・大倉集古館の間に出てくる坂は江戸見坂。江戸の町々がほとんど見渡せたから。六本木通りからアメリカ大使館前に抜ける道は榎坂。浅野幸長がつくった溜池の堤に榎が植えられていたから。

アメリカ大使館に沿って坂を登りきったあたり、ホテル・オークラの大倉集古館かどを右折。 六本木通り方面へと下っていく。このあたり、先ほどの仲間たちと一緒に働いた場所。いまはもうなくなっているが、ホテルオークラの前、住友会館の裏手にあった麻布ハイツアパートが仕事場。アパートとはいっても、結構立派な主として外国人専用高級マンションといった建物だった。当時としては画期的、見たこともない乾燥機付の大型洗濯機が、地下にずらっと揃っていた。昔のことがあれこれ思い出される。が、きりがないのでやめておく。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)

六本木通りへの坂道

で、六本木通りへの坂道、夜歩いているので周りは見えないが、多くのお寺があるはず。そして、通りに下りきる手前あたりは昔、といっても、30年くらい前の話しではあるが、それはもう谷地というか、窪地というか、中沢新一さんが『アースダイバー』(講談社刊)でコメントしているような、繁栄から取り残された・湿った印象の一帯だった。
が、今はすごい建物群に変容していた。これは一体何なんだ、と思った建物はサントリーホールであり、全日空ホテルであり、テレビ朝日、つまりはアーク森ビルであった。いつも六本木通りから入っていたので、裏からのアプローチでは全くわからなかった。昔、ほんとうにブッシュみたいな枝道を下りていったあの谷地がこんなに変容していたわけだ。いやはや畏れ入りました。都市の大変容に感慨新た。

桜坂の一筋山側を左折しスペイン坂に。桜坂は昔坂下に大きな桜があったから。スペイン坂は尾根道にあるスペイン大使館と六本木通りをむずぶ坂であるため。どちらもそのまま。わかりやすい。六本木通りへ。首都高速が3号線・渋谷・東名高速方面と環状線・飯倉片町方面に分岐・谷町ジャンクションするあたり。六本木2丁目の横断歩道を渡る。
あれ?そういえば谷町ってどうなったのか?地形もそのまま谷間の町だったし、たしか麻布谷町と呼ばれていたようだが?いつかの時点で麻布谷町という地名はなくなったわけだ。調べたわけではないけれど、アークヒルズといった大規模都市開発の華々しい地名に「谷」はそぐわないと思ったのだろうか。真偽の程不明。

檜坂・檜公園
六本木通りの一筋中、アメリカ大使館の宿舎に沿って歩き、塀が切れるあたりを道なりに右折。ゆるやかな坂をのぼりきったあたりで左折、すぐに右折と進み、六本木4丁目と赤坂6丁目の境を檜坂・檜公園方面に下りていく。このあたり元防衛庁の裏手。防衛庁の敷地も含めて昔は長州藩の下屋敷、歩兵第一連隊があったところ。3万坪の大藩邸、檜が多く茂り「檜屋敷」と呼ばれた藩邸も幕末長州征伐のおり幕府により打ち壊され今は池を残すのみ。

道なりに右折、左折を繰り返し赤坂通り・赤坂小前交差点あたりに出る。左折し道なりにすすめば乃木坂・、乃木神社ではあるが、新しいルートを、ということで直進。道なりに進む。メモをまとめるまで、どこをどう歩いていたのかさっぱりわからなかった。 地形は結構複雑。右左に地形のうねりを感じながら歩く。赤坂7丁目のカナダ大使館あたりに出るのかと思ってはいたのだが、結局は赤坂8丁目、外苑東通に出る。

青山1丁目

青山ツインタワー前まで進み、青山1丁目の交差点に。交差点を渡り、東宮御所に沿って権田原交差点に。権田原といえば、陸軍大学とか練兵隊といった言葉が思い浮かぶ。なぜかはわからない。昔読んだ本の一部が記憶の奥底に残っているのだろう。この明治神宮外苑一帯は陸軍の用地。兵営や練兵場があったが、明治天皇崩御後、明治神宮および外苑ができ、陸軍は世田谷に移った。また、権田原の由来は、徳川氏江戸入府のころこのあたりに権太隼人が住んでおり、権太原、権太坂という地名ができたため。

外苑東通をそのまま進み、高速外苑出口を越え、JR信濃町に。直進すれば四谷3丁目の交差点だが、慶応大学病院前に交差点を左折。JR・慶応大学病院に沿って歩く。四谷第六小学校あたりで大きく迂回、外苑西通り・大京町交差点に。あとは四谷大木戸跡を探すだけ。夜の闇の中見つけることができるだろうか。少々心配。大京町は右京町と大番町が合併したため。

四谷大木戸跡

外苑西通りを進む。四谷大木戸跡は外苑西通りに沿ったところにあるのか、一筋中にあるのか、あたりを気にしながら四谷大木戸、四谷4丁目と進む。見つからない。一筋中に入ってみる。見つからない。結局新宿通りにでてしまう。あきらめて歩き始めると新宿通りの隅、四谷区民センターの敷地になにやら石碑っぽいものが。四谷大木戸跡の碑だ。こんなところにあった。有難かった。後は新宿通りを新宿3丁目まで歩き、都営新宿線の新宿3丁目で地下鉄にのり、一路自宅に。本日の予定終了。

前々から気になっていた、玉川上水の最終地・四谷大木戸跡をチェックでき、新橋から2時間近い散歩も気持ちよくおえることができた。めでたし、めでだし。
襷リレーの最終区、調布から杉並・和泉に。調布から和泉まではふたつのルートで歩いた。
ひとつは調布から京王線に沿って、旧甲州街道・甲州街道を杉並・和泉まで歩くルート。これは会社の社員の家が国領にあり、ちょっとした御もてなしを受け、お開きとなり歩いて帰宅した時。
もうひとつは調布から深大寺、東八道路をへて久我山から杉並・和泉へのルート。これは娘の調布マラソンの応援に出向き、帰り道を歩くことにした時。もう半年もむかしのことなので、記憶ほとんど残ってはいない。が、ともあれ調布>甲州街道ルート。
 

調布>甲州街道ルート

国領

調布駅スタート。旧甲州街道を布田方面に。布田は麻布の材料となる麻生の材料が植えられた土地・田があったのだろう。国領駅に。日本橋から数えて4番目の宿場。駅前に異様な高層マンション。ランドマークにはなるだろうが、少々違和感。で、国領の由来。古代から中世にかけての国衙領、つまりは荘園に対する公領がこの地にあったからだろうか。そういえば近くに、飛田給とか、上給といった地名もある。

国領駅を過ぎると、旧甲州街道は甲州街道に合流。これからしばらくは車の排気ガスをたっぷり吸うことになる。調布警察署前を越えるとすぐに野川と交差。柴崎駅を越え、つつじケ丘交番前を右折。
京王つつじケ丘駅前に入る。駅前に書源という書店。どこにいっても金太郎飴みたいな書店が多いこのご時世、この本屋さんだけは品揃えに何かを感じる。とはいいながら、一時期いろんな店を探し回ったがなかなか見つからなかった『国銅(上・下)』(帚木蓬生著・新潮社刊)がこの店にあったという理由だけなのだが。見つけたときは結構うれしかった。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)


国分寺崖線
京王線にそって進む。入間川を越えたあたり、前方に壁。いわゆる国分寺崖線であるのだが、そのときは崖線といった言葉も知る由もなく、ひたすら、壁に圧倒される。どこから上ればいいか、壁の割れ目を探す。急な坂。上りきる。と、脇に実篤公園があった。実篤公園については先日の散歩でメモしておいた。

仙川駅を越え、足元に京王線を見ながら進む。結構丘が高い。丘を下り仙川に。川沿いの遊歩道を甲州街道まで戻り、再び旧甲州街道に。

給田地区。給田という以上、このあたり、幕府や荘園領主が御家人・荘官に給料のかわりに「田」をあたえていたのだろう。こうして律令制の基本となる、公地公民制が崩れていくのだろう。

ともあれ、京王線千歳烏山、芦花公園と進む。烏山はカラスの多く巣くう森があったからとか、黒い土からなっていたとか。千歳は歴史的由来なし。いくつかの村が合併するとき、御めでたい名前をつけただけ。芦花公園は明治の文豪徳富蘆花の住居「蘆花恒春園」が近くにあったから。「不如帰」とか「自然と人間」などで知られる。
そういえば、逗子の海岸端、田越川が逗子湾に注ぐ河口に蘆花記念公園があった。その地が「不如帰」を執筆したところだと。また、逗子海水浴場の鎌倉寄りのところに浪子不動がある。不如帰の舞台ともなったところであり、ヒロイン浪子の名前をとったお不動さんがつくられたのだろう。

環八手前で旧甲州街道は甲州街道と合流。環八を過ぎ、八幡山、上北沢、桜上水から下高井戸に。八幡山は八幡神社がある里山というか森、というか林があったから。「桜上水」は、近くの玉川上水の堤に桜並木があったことから。高井戸は、高いところに井戸があったから、とか、高いところにお堂=高いお堂=たかいど、となったとか、これも例によっていろいろ。下高井戸は日本橋から数えて2番目の宿場町。あとは、神田川沿いに遊歩道を歩き和泉の我が家まで歩き本日の予定終了。

甲州街道
で。甲州街道。徳川幕府が制定した5街道のひとつ。日本橋から甲府、ではなく信州・下諏訪までの53里の街道。このメモをまとめるまで、甲州=甲府まで、と思い込んでいた。江戸初期は参勤交代にこの街道を利用するのは、伊那の高遠藩、飯田長姫の飯田藩、諏訪の高島藩の3大名のみ。中仙道に比べて閑散としていたようだ。下高井戸宿あたりなど、昼なお暗きといった様相だったとか。が、将軍家御用のお茶を宇治から江戸まで運ぶ「お茶壺道中」がはじまった頃、5代将軍綱吉の頃からは少々賑わいをみせてくる。ちなみに徳川幕府制定の5街道とは、東海道、中仙道、甲州街 道、日光街道、奥州街道。


調布>深大寺>東八道路
調布から杉並・和泉への散歩道のあとひとつは、甲州街道を離れ深大寺>東八道路>中央高速道交差>環八>和泉へのルート。
調布から旧甲州街道を布田駅まで歩き、布田駅交差点を左折、甲州街道の下布田交差点を北に三鷹通りに。八雲台交差点を越え、野川と交差。佐須町の交差点を越え、中央高速の下をくぐれば深大寺湿地。
が、しかし、ここに湿地があることは、このメモをまとめることになってはじめてわかった。深大寺散歩をした当時、といっても半年前だが、その頃はただひたすら歩くだけ。地形のうねりも、湧水も、崖も、城址も頓着しなかった。
で、深大寺湿地を見落とし深大寺小学校前に。結構歴史のありそうな学校。実際、前身となる学校は明治6年、というから、「邑ニ不学ノ戸ナク 家ニ不学ノ人ナカラシメン」といった明治5年の学制令発布の翌年に建てられたという。深大寺の末寺、多門院を使ってはじめたとのこと。左に曲がれば深大寺の入口だったようなのだが、道案内がよくわからず坂を直進。青渭神社前に。

青渭神社
縁起;往古、この辺りに大きな青い沼。ために、青沼大明神とも呼ばれる。祭神は青渭神。出雲系・農耕・農作物の神。本殿の建築は、江戸時代初期のもの。ケヤキは、市天然記念物。 

深大寺
神社を出て、結構今風の公園脇を深大寺植物公園に向って奥に進む。適当なところで左折し深大寺へと。途中鬱蒼とした森というか林を進む。つまるところは、深大寺の裏手からアプローチとなったわけ。深大寺は天台宗の古刹。天平5年(733)、満功(まんくう)上人によって創建されたと伝えられる、関東では浅草寺についで古い寺。
深大寺周辺は国分寺崖線が通り、「ハケ」から湧く豊富な水が、せせらぎや滝をつくる。釈迦堂には白鳳仏。奥の木立の中に、秘仏をまつる水神深沙大王堂がある。

深沙大王堂といえば、深大寺縁起にこんな話しが;その昔、この地は郷長右近(さとおさうこん)によって治められていた。福満(ふくまん)という青年が現れる。右近の娘と恋に落ちる。右近は二人の仲を許さず、娘を池の島へ隠す。福満は深沙大王にお願いの儀。「大王様のお力で、島に渡らせてほしい。願い叶えば、里の鎮守としておまつりする」と。池から霊亀が現れる。福満は亀の背中に乗り島へ渡り娘を助け出す。右近も二人の仲を認め、結婚を許す。子は満功(まんくう)。父と深沙大王との約束を受け継ぎ、唐へ渡り、教義を究めてこの地に戻り、733年に深大寺をつくったと。福満といい満功といい、いかにも渡来系。古来、調布から狛江にかけて移り住んでいた渡来系氏族と武蔵野の地に住んでいた先住氏族の異文化交流を表しているのかも。

深大寺からは三鷹通りを離れ住宅街というか農家・畑の間を東に向う。中央高速手前、昇華学園交差点あたりで北に。原山交差点、中原3丁目の交差点、杏林大学病院入口を越え、仙川公園を過ぎれば仙川と交差。新川交番前交差点で東八通りに。

東八道路を天神前北浦、新川天神前、三鷹台団地入り口と進む。このあたりで道路が狭くなる。牟礼地区を進む。が、歩道はない。車に気を使いながら国学院久我山を過ぎ、NHK運動場の近くを進む。このあたり、玉川上水散歩で歩いた。ずっと続いた玉川上水の開渠が暗渠と消える地点。さらに進み中央高速にあたる。後は中央高速に沿って、高井戸出口、第六点神社を越え環八から一路和泉まで。

深大寺湿地、そしてそ深大寺城址
で今回見逃した深大寺湿地、そしてその中にある深大寺城址についてメモしておく。本当にこの時代は敵味方錯綜し、なにがなんだかわからなくなってしまう。はてさて、この深大寺城址をめぐる人物・イベントであるが;
1.作った人;扇谷上杉朝定。武州松山の難波田弾正広宗に命じ古い砦跡を急遽改修してつくった
2.目的;後北条氏、北条氏綱の侵攻に備える。後北条氏とは、伊勢新九郎長氏(後の北条早雲)を初代とする小田原北条氏五代。鎌倉時代の執権北条氏と区別して「後北条氏」と呼ぶ。
3.経緯;室町幕府の支配権が衰えると世は戦国時代へ。そんな16世紀前半、関東は管領上杉氏と北条早雲を祖とする新興勢力の後北条氏との覇権を争う場となっていた。北条氏綱が高縄原合戦(現在の高輪台)で勝利し江戸城を奪取。扇谷上杉氏の本拠・河越城攻撃を計画。それに備えるためつくったのが深大寺城。
4.カウンター:北条氏綱は牟礼・烏山に砦、深大寺城に対する付け城を築いて封鎖し、深大寺を力攻めすることなく、河越城へ進む。
5.武藏三ツ木原(西武新宿線・新狭山)で扇谷上杉軍と合戦。北条氏勝利。一気に上杉勢の本拠地である河越城まで一気に侵攻。
6.結果;上杉軍は総崩れ。河越城を捨てて松山城に退却。江戸城攻防から河越城攻防までは一方的に北条氏の勝利。その後の第一次国府台合戦、そして日本三大夜戦のひとつとも呼ばれる河越夜戦において北条氏決定的勝利。関東の覇者として君臨
7.深大寺城の位置づけ;戦略的意味がなくなり。廃城。
8.ついでに;高縄原の激戦(高輪台)。大永4年(1524年)、江戸城を守る扇谷上杉朝興(太田道灌を暗殺した扇谷上杉定正の2代あと)と、関東攻略を図る北条氏綱が高縄原(今の高輪台辺)で激突した。上杉軍、江戸城へ退却。太田道灌の孫、太田資高、資貞兄弟の内応で江戸城は陥落。そして夜になると闇にまぎれて川越へ落ちる朝興を板橋近辺まで追撃。勝った北条軍、一ッ木原(赤坂),勝鬨を。
ともあれ、この深大寺あたり、お寺とかそば以外に地形的にも面白い。日を改めて再度歩くべし。

分倍河原から調布まで:分倍河原の高安寺。京王線の社内・京王線沿線案内だったかと思うが、高安寺の案内を目にした。由緒深げなお寺。出かけてみようとなり、それが調布まで、調布から和泉まで、そして先回メモの多摩の南大沢から分倍河原まで、という襷リレーの発端となった。



高安寺
高安寺。分倍河原の駅を下りて旧甲州街道・片町2丁目の交差点を過ぎ境内に。由来は、足利尊氏が戦でなくなった将士をとむらうため全国66カ国2島に建てた寺・安国寺のひとつ。どっしりとして、素朴な山門が名高い。
この古刹のある地区・片町の由来は甲州街道の南側がこのお寺で占められたおり、道の北側にしか町屋がなかったため。この寺の往時の隆盛がしのばれる。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)


このお寺、歴史はずっと昔に遡る。天慶9年(西暦940年)俵藤太秀郷がここに館を構えたとか。俵藤太秀郷といえば、なんとなく記憶にあるのは「ムカデ退治」、そして「平将門討伐」ということ。境内には秀郷稲荷が。また、分倍河原の合戦の折、新田義貞がここを本陣とした。室町時代には鎌倉公方・足利氏の戦陣・本営として、また戦国時代には上杉氏や後北条氏の戦略上の要となっている。つまりは、武蔵野国の中心であった、ということか。

で、なぜ府中なのか、とは思うが、鎌倉というか藤沢の腰越で鎌倉入りを許されなかった義経が、頼朝宛に書状をしたためるときの硯に注いだ水といわれる弁慶硯の井戸が。なぞだ?、というか伝説ってそんなもんかも。
俵藤太秀郷についてちょっとメモ。秀郷は平将門の乱に際して押領使(おうりょうし;暴徒鎮圧の任にあたる。国司・郡司・地方の豪族が任じられることが多い)に任ぜられ、将門追討の勅命。一度は敗退。が、平貞盛らと協力し下総国(現・茨城県)にて将門を破り、乱を平定。この功積によって秀郷は従四位を賜わり、下野守に任ぜられた。

大国魂神社
旧甲州街道を進み、JR武蔵野線、府中街道を越え旧甲州街道沿いに大国魂神社。大国魂神社と呼ば れるようになったのは明治から。神社の東・宮町には古代、武蔵の国府があったところ。で、この神社、国司が武蔵の一宮から六宮までの六社をこの地にまつり、武蔵の総社としたのがはじまり。ために、六所宮・六社神社とも呼ばれていた。
本殿のうち中殿には大国魂大神・御霊大神・国内諸神、東殿には小野大神・小河大神・氷川大神、西殿には秩父大神・杉山大神・金佐奈大神がまつられる。現在の本殿は寛文7年(西暦1667年)徳川家綱がたてたもの。また 本殿の隣に東照宮が。いかにも徳川家の庇護篤かりしことが偲ばれる。

府中駅の東・都道133号線は、往古大国魂神社の参道。正面大鳥居から約500mに渡って欅(ケヤキ)並木が続く。 平安時代末に源頼義が前九年の役への出陣に際し、戦勝を祈願して奉納したのが始まり。江戸時代には徳川家康がその故事にならい、関が原の戦い・大坂の陣の折に奉納。 国の天然記念物に指定されている。この神社、毎年、5月5日に開催される「くらやみ祭り」で有名。で、前九年の役のメモ;平安時代中期、朝廷(源頼義・義家)と東北の豪族安倍氏の戦い。源氏方が清原氏の味方を得て平定。源氏が東国に覇を唱える礎となった。

宮前地区を越え、八幡宿の交差点。聖武天皇の時代に建てられた武蔵の国の八幡宮があるのだろう。地図にでていなかったのでスキップした。京王競馬場線と京王本線が接近。旧甲州街道が京王本線と交差。越えるとすぐ京王競馬場線の始点・東府中駅。

道なりに進み白糸台1丁目の交差点を越え、不動尊前交差点。北に向かえば多摩霊園。ちょっと手前に染屋不動尊。身の丈50センチ程の阿弥陀如来像が奉られてる。新田義貞の挙兵に馳せ参じたものが、この地に残したと。染屋の地名は布を染める染屋があった、とか。

車返団地入口
西武多摩川線と交差。少し歩くと車返団地入口交差点。昔同じ職場で働いていた人がここに住んでおり、一度車で送ってきたことがある。で、そのときの刷り込みで車=マイカー=新しい地名、と思っていた。調べてみると。由緒書きに「地名の起こりは、本願寺の縁起によると、源頼朝が奥州藤原氏との戦いの折、秀衡の持仏であった薬師如来を畠山重忠に命じて鎌倉へ移送中に当地で野営したところ、夢告によってこの地に草庵を結んで仏像を安置し、車はもとへ返したことに由来するといわれます。」と。

白糸台地区を越え飛田給駅入口交差点に。交差点のちょっと手前の道路脇に薬師堂と行人塚。江戸の頃、仙台藩の医師、松前何某が自ら彫った薬師如来像を残し、穴を掘って入定。村人が堂を建てて薬師如来を奉ったのが由来となっている。

飛田給
飛田給。味の素スタジアムには何度か。で、飛田給の地名の由来、例によっていくつか、飛田給とは悲田給(ヒデンキュウ)のこと。奈良時代、孤児・貧窮者を救済する悲田院の給地(所有地)がこのあたりにあった。で、その悲が後に飛に転化したのだという説。また、当時荘園を管理する荘官の名前、飛田氏が領主から この土地を与えられた、といった話も。どちらも在り得る話。

調布
上石原1丁目あたりで中央高速くぐると西調布駅。後は一気に調布駅まで。本日の予定は終了。

で、 高安寺・俵藤太秀郷のムカデ退治。大津・瀬田の唐橋を渡る田原藤太。橋に大蛇。怯むことなく通り渡る。その武勇を見た大蛇、女に変身し藤太のもとへ。仇敵 ムカデ退治を依頼する。藤太、ムカデを射抜き退治。藤太のもとへ贈り物が。いくら裁断してもなくならない巻絹、ほしいものが何でもでてくる鍋、そして、口をあければいつでも米が流れ出る俵。爾来、「俵」と。
それにしても、なんでムカデ退治の物語を覚えていたのだろう。子供のときの記憶に残っている。桃太郎、金太郎と同じ程度にポピュラーに、大江山の酒呑童子と同じ程度にクリアをもっているのだが、ムカデ退治の話しがそれほどこども向けの話とも思えないし、謎だ。

南大沢から分倍河原:娘の陸上競技大会の応援に出かけた。上柚木陸上競技場。京王線南大沢にある。参加種目をビデオでおさえ、とっとと散歩に出かける。分倍河原まで歩こうと決めた。理由は、先日、分倍河原から調布まで、さらに日をあらため調布から杉並・和泉まで歩いたことがあり、駅伝ではないけれど、とりあえず「襷」ではなく、「歩線」をつなごうと思ったわけである。



南大沢
上柚木陸上競技場を出て、南大沢の駅前に戻る。駅前はアウトレットショップが並び、いかにも多摩ニュータウン。駅前、というか駅の北に首都大学東京南大沢キャンパス。キャンパスに沿って歩き柳澤を経由し、坂を大栗川との交差まで下る。
大 田平橋を渡り右折、道なりに下柚木まで。大栗川は多摩川の支流。多摩の横山(多摩丘陵)の西端、絹の道で知られる鑓水付近が水源。南多摩の真っ只中を「野猿街道」につかず離れず東に流れ、聖蹟桜ケ丘付近で鎌倉街道を横切った後、乞田川と合流し関戸橋の3km下流で多摩川に注ぐ。

野猿街道
「野猿街道」。野猿という以上、このあたり、おサルでも多いのかと思った。が、そうでもないらしい。以前は「猿丸峠」や「猿山峠」という名であった。もっと古くは「甲山峠」。それが「申山峠」に転じ、「申」が「猿」となったものらしい。

下柚木で左折、というか「野猿街道」をちょっとかすめ下柚木中央小方面に。玉泉寺の近くを北に歩く。帝京大高校の正門前に。が、行き止まり。戻る。道なりに適当に歩き大栗川橋北に出る。堀の内地区のいかにも宅地開発用空き地を北に上る。自動車の通り激しく、あまり愉快ではない。多摩散歩などと洒落たつもりが、生活道路のど真ん中。

帝京大中高北の信号を越え、自動車併用トンネルをくぐり、排気ガスをたっぷり吸収。東京薬科大学の信号を越え、 またまたトンネル。堀の内第三トンネルをくぐり出口。平山台小入口の信号あたり、右は多摩テックの森。こどもが小さいときはよく来たものよ、などと感慨に浸りながら歩くと平山城址公園入り口。

平山城址公園
平山城址公園。その昔、源氏方の侍大将・闘将で知られる平山季重の砦があったと伝えられる場所。季重は、武蔵七党のひとつ西党日奉(ひまつり)氏の一族。源義朝に従い、平治の乱(1159)の折、圧倒的多勢の平重盛の軍勢に少人数で戦いを仕掛ける。義経のもとで戦った宇治川合戦では木曾義仲の軍勢に先陣を切って斬り込む。一の谷の合戦では逆落しに駆け降り平家を破る。頼朝・義経兄弟の対立後は頼朝に従い、奥州平泉の義経征伐に加わる。

北野街道
奥山橋下のロータリー(?)。ここを右に行けば多摩テックや多摩動物公園。が、直進し平山五丁目で北野街道と交差。右折し南平駅を越え、高幡不動に向かう。 北野街道は八王子の北野町から、淺川に沿ってつかず離れず日野市に至る。北野町は「北野天神」から。創建年代は不明。鎌倉時代にこのあたりを支配した武蔵七党のひとつ横山氏が京都北野天満宮を勧請したのが始まりという。祭神はもちろん菅原道真。

高幡不動
北野街道を進み、高幡橋南で川崎街道と交差。少し進み高幡不動に。高幡山明王院金剛寺。真言宗智山派の別格本山。成田山(千葉県)、大山(神奈川県)と共に関東三大不動のひとつ。不動堂、仁王門は国の重要文化財。奈良時代行基菩薩の開基とも伝えられる。不動堂は清和天皇の勅願により慈覚大師が関東鎮護の霊場として山中にお堂を建てたのが始まり。室町時代は、鎌倉公方・関東管領・上杉氏等有力武将の信仰を得る。

このお不動さん「汗かき不動」と呼ばれる。戦乱の度毎に不動明王が全身に汗を流されて不思議なできごとを起こしたため。境内に近藤勇・土方歳三のことを称えた「殉節両雄の碑」も。篆額の筆者は元会津藩主松平容保、撰文は元仙台藩の儒者大槻磐渓、書は近藤・土方の良き理解者であった元幕府典医頭の松本良順。
松本良順はすこぶる魅力的な人物。安政 4年、幕命により長崎遊学し、オランダ軍医ポンペの元で西洋医学を学ぶ。日本初の洋式病院である長崎養生所の開設などに尽力。江戸にて西洋医学所の頭取となる。幕医として近藤勇と親交。戊辰戦争時は、会津若松に入り、藩校・日新館に診療所を開設し、戦傷者の治療にあたる。 幕府方として働いたため投獄。のちに兵部省に出仕し、明治の元勲のひとり山県有朋の懇請により陸軍軍医部を設立。初代軍医総監。貴族院議員。男爵。

程久保川
高幡不動を出て、駅前のみやげ物屋をひやかしながら歩く。近くに程久保川が多摩川まで流れている。川筋を多摩川合流点まで下る。程久保川。日野市程久保に始まり多摩川へ注ぐ。総延長4kmほど。古い名前は「谷戸川」。谷戸とは 丘陵地の谷間での小川の源流域のこと。源流地帯の森や沼池などをひっくるめて"谷戸"という。湧水に端を発し、水の豊かな農村風景というか、里山の風景をつくりあげていたのだろうか。

中河原
多摩川との合流点から堤防上の遊歩道を少し下り、多摩川にかかる府中四谷橋に。橋を渡り、四谷地区の住宅街に右折。適当に道なりに歩き中河原駅に。中河原は、もと大道(大堂とも)と呼ばれていた。が、天文年間(1532-55)の多摩川の洪水により、石の河原になってしまった。で、集落が古多摩川(古玉川)と浅川との間の河原にあったため、それ以降は中河原と。古く、多摩川は中河原のはるか北側を流れており、中河原は多摩川の南側に位置していたと掲示にあった。

分倍河原古戦場碑
中河原の駅を越え、すこし歩き右折。分倍河原への国道18号を進み、中央高速の手前に分倍河原古戦場碑。元弘三年(1334)、新田義貞は執権北条高時を鎌倉に攻めるべく、上野国(現群馬県)から南下。所沢の小手指ケ原、久米川の戦いで幕府軍に連勝。大敗を喫した北条軍は鎌倉に使者を急派。北条高時の実弟北条泰家を大将とする援軍来陣し兵力倍増。
新田義貞、北条泰家率いる幕府軍と分倍河原にて戦端を開く。 新田軍、緒戦敗れる。新田軍は堀兼(埼玉県狭山市)に退き軍勢を立て直す。このとき、武蔵国分寺は新田軍により焼失。新田軍に、相模の豪族三浦義勝など援軍が。新田軍、分倍河原の北条軍を急襲。北条軍大敗。新田軍鎌倉侵攻。鎌倉幕府は滅亡。これが分倍河原の合戦。
分倍河原周辺にはこの合戦に関して「三千人塚」と呼ばれるものが残されている。これは分倍河原合戦で戦死した新田・北条両軍の戦死者を弔った後だと伝えられている。

分倍河原古戦場碑のところから、多摩川沿いの郷土の森公園まで遊歩道の案内。残念ながら日没近く。早々に分倍河原の駅に向かい本日の予定終了。

そういえば、この分倍河原って名前、どこから?この駅近くの地名は分梅町だし、分梅駐在所だし、分梅橋だし、分梅公園だし、分倍って地名も分倍河原って地名も見あたらない。 調べてみた。「分倍=ぶばい」という名前については、「新田義貞が梅を兜につけて進撃したという話に由来する分梅から」とか、「この地 が多摩川の氾濫により収穫が少ないことがしばしば。故に、口分田を倍に給した所であったため分倍(陪)や分配と呼ばれていた」などいろいろ。古くは「分倍(陪)や分配=ぶんばい」と呼ばれていたこともある。が、近世以降には「分梅」が用いられたと。
ともあれ、駅名の「分倍河原」は地名とはどうも関係なさそう。また、玉南電気鉄道(のちに京王線と合併)開業時は、当時の地名から「屋敷分駅」と呼ばれていた。が、いつから「分倍河原」となったかは資料に残っていないとか。ちなみに。屋敷分という地名は、国府のお役人で、その後、六所宮(現・大国魂神社)の神官の屋敷があったことに由来する。

本日結構きつかった。散歩道としてはそれほど快適ではなかった。多摩丘陵とはいいながら、丘陵散歩といった趣に少々欠ける。今回は散歩そのもの、というより、分倍河原まで歩く、そして「襷」をつないだ、ということでいいとしよう。

野川も歩いた。野川に注ぐ仙川も歩いた。そして道の途中、喜多見、狛江が気になっていた。野川に注ぐ入間川も、その名前が気になっていた。埼玉・高麗郷と入間川、狛江と入間川。なにか関連があるのだろうか。六郷用水で出会った次太夫、その記念公園・次太夫堀記念公園も気になっていた。で、今日は、これら気になっていた、そして取りこぼしていたところをまとめて面倒、ってルートを歩く。スタート時点の設定ルートは;仙川―入間川―次太夫堀記念公園―狛江の多摩川土手、そしてその後はケセラセラ、ということで京王線に乗る。



今回のルート;
仙川>実篤公園>入間川>明照院>糟嶺神社>中央研修センター>百万遍供養塔>喜多見不動尊>次太夫堀公園・民家園>宇奈根>観音寺>氷川神社>多摩川土手>多摩川土手・猪方地区>多摩川土手・小田急交差>多摩川土手・和泉地区>多摩川土手・水神前>多摩川土手・西河原公園>万葉碑>京王線国領駅

京王線仙川


仙川下車。駅前の案内図で入間川の流路チェック。京王 線をくぐったあたりから入間川が開渠となっている。線路に沿って調布方面に。道の途中、先日の散歩で偶然出会った実篤公園に寄る。子供のころから、水のあるところに住みたいと願っていた作家武者小路実篤氏が70歳から20年間住んだところ。崖線の特徴を生かした家のつくり。尾根道部分に入口。坂をくだり家屋、湧水池。規模の違いはあるにしろ、目白崖線にあった黒田家、細川家の大名屋敷のつくりと構想は同じ。

実篤公園を出て、道なりに歩き、入間川の開渠部に。H鋼で補強されたコンクリート敷きの河川。中央の溝に水がわずかに流れる。川沿いの散歩道はあったり、なかったり。ほとんど無かった。流路から離れないようにと、右に行ったり、左に行ったり。何回か行き止まりにも。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)

明照院
仙川駅から下りてくる114号線をこえ入間町アパートとかNTTアパートのあたりを歩く。突然目の前にすごい石組み。まるでお城のようなお寺。明照院(みょうしょういん)。16世紀中旬開基。天台宗。本堂、観音堂、えんま堂、地蔵尊、六地蔵、巡拝供養塔など。観音堂には調布七福神の一つ「弁財天」が。

糟嶺神社
お寺の隣の小高い岡に糟嶺神社(かすみねじんじゃ)。陵山といわれる小高い丘を、高い所の糟嶺神社、低所の明照院と二分している。糟嶺神社は農業の神・糟嶺大神をまつる。社殿は多摩地に残る4つの墳陵のうちの一つといわれる。高さ3.81m、周囲127mの墳陵となっている。

道なりに進み、野川と合流。谷戸橋をこえ、パークシティ成城前の整地された芝生公園でちょっと休憩。なんとなく左に「そびえる」崖線が気になりる。野川に沿って喜多見不動に直行する予定変更し住宅街を入間公園に。

左手の崖に向かう。そびえる崖。行けども、行けども金網でガード。大回りに周り、歩けども金網。後でわかったのだが、中央研修センター(NTT関連だと思うが)の巨大な敷地、というか森であった。

百万遍供養塔
丘の上で114号線に出る。中央研修センターに沿って坂を下りる途中に百万遍供養塔が。天明元年(1781)、当時の入間村 原の念仏講の人たちが、泉村泉龍寺(狛江市)の延命子安地蔵尊に詣でる人たちのために建てたもの。塔身に「是より泉むら 子安地蔵尊二十五丁 右 世田谷 目黒道 左り 江戸四ッ谷道」と。参詣者たちの道しるべとしての役割も。 往古、このあたりは七曲り道と呼ばれた。小道・藪道・坂道が多く、ひとけもなく道に迷いやすいところであったとのこと。参詣者たちはこの道標を見て安堵したに違いない。道路標識のありがたさは、身をもって知る昨今。ちなみに、このあたりの地名・入間って、渓谷の入り込んだ場所のこと。また、野川にかかる谷戸橋の谷戸とは 丘陵地の谷間で小川の源流域のこと。源流地帯の森や沼池などをひっくるめて"谷戸"という。

喜多見不動
坂道を下り、再び入間町アパート、NTTアパートの敷地内から明照寺・糟嶺神社前を抜け野川に。またまたパークシティ成城前をとおり、小田急線との交差まで。ちょっと手前で崖線・神明の森みつ池へと一筋内側の道に。
神明の森みつ池の湧水地を越え、小田急線との交差直前の坂道。あれ、これって前回上った道?で、喜多身不動はその坂道と小田急高架の間に挟まれてひっそり鎮座していた。入口にハケから勢いよく滝が落ちている。喜多見慶元寺の境外仏堂で、本尊は不動明王座像。創建は明治。喜多見の住人が成田山新勝寺から不動明王座像に入魂。堂宇と並んで、岩屋不動、玉姫稲荷、蚕所大神をまつった小祠も。

次太夫堀公園・民家園
おまいりを済ませ、小田急線の下をくぐり、次太夫堀公園・民家園に向かう。この公園には名主屋敷や民家が移築され、江戸時代後期から明治にかけての農村風景を再現している「次太夫堀」とは、稲毛・川崎領(神奈川県川崎市)の代官・小泉次太夫の指揮により開発された農業用水路。慶長二年(1597)から十五年をかけて完成。
「次太夫堀」は正式には「六郷用水」という。多摩川の和泉地区で水を取り入れ、世田谷領(狛江市の一部、世田谷区・大田区の一部)と六郷領(大田区)の間、約23kmを流れていた。世田谷領内を流れる六郷用水は、「次太夫堀」と呼ばれていた。が、現在の六郷用水(次太夫堀)は丸子川として一部残っているだけとなっている。その丸子川は先日、仙川散歩のとき偶然出会い、そのスタート地点の流路の素朴な赴き・野趣豊かなせせらぎに結構感激した。

宇奈根
次太夫堀公園・民家園から先のコースは11号線・大田調布線を下り、東名高速を越えたあたりの宇奈根を歩き、そのあとは狛江に戻るといった段取り。宇奈根に行く理由は特に無く、単に地名の「うなね」という響きに魅せられただけ。

宇奈根に、なにかランドマークを、ということで、東名高速近くの観音寺と氷川神社。観音寺は天台宗の古刹。永正年間(1504~1521)川越喜多院・実海僧上の創立。氷川神社は宇奈根・喜多見・大蔵の三ヶ村に祭られた氷川三所明神の一社。「建速素戔嗚尊を祭り、宝永年間観音寺の別当として再建。天明の末年、橘千蔭が氷川神社におまいりし、[うしことのうなねつきぬきさきくあれとうしはく神にぬさ奉る]と歌をよむ。

江戸のころにはこの宇奈根地区、多摩川に注ぐ細流に蛍が棲み、初夏の蛍狩に多くの文人が訪れた、とのこと。橘千蔭もそのひとりだったのだろう。で、その宇奈根の由来だが、これがはっきりしない。古代稲作では、溝渠(こうきょ:水田用の水路)を「ウナニ」と呼び、これが訛って「宇奈根」となったとする説。 うなね(項根) 首の付け根。後頸部。くびねっこ。宇奈根の地名も、この地域の形状が多摩川に突き出した首ねっこに似ていたためという説など諸説ある。さてどちらだろう。


神社を出て多摩川堤へ。堤防はすぐ近く。途中、宇奈根の歴史を書いた案内が公園に。昔は蚕の畑が多かった。暴れ川故、川筋が今とは結構違っていた、といったことが書いてあった。
当初の予定では、多摩川堤からすぐに戻り、街中の道を狛江の氷川神社、慶元寺、須賀神社といった段取りで、と考えていた。が、堤上の散歩道が非常に心地よい。
夕刻。夕日に向かって歩く。川向こうの多摩の丘陵地帯の夕景など、逆光の効果もあり、往古・大古の昔もかくやあるらん、といった趣。去りがたく、結局狛江市内の神社巡りはやめ、多摩川堤の散歩道を小田急・和泉多摩川駅まで歩くことに。

岸辺のアルバム

小田急との交差近く、猪方地区。ここはあの「岸辺のアルバム」の舞台のはず。山田太一さんの作品だったと思う。昭和49年 (1974)9月1日、狛江市猪方の多摩川堤防が決壊、家屋19軒が流出した大洪水を伏線においた名作ドラマ。ジャニスイアンの主題歌とともに結構記憶に残る。

六郷用水の取水地に水神さま

小田急と交差。右手に和泉多摩川駅。まだまだ歩き足りない、というか夕景が魅力的。地図をチェック。狛江市中和泉、西河原公園のところに水神前が。次太夫堀公園・民家園で六郷用水の取水地点は和泉村、と書いていた。この水神は六郷用水の取水地と関係あるにちがいない、と仮説設定。
堤防に沿った散歩道を歩き、取水塔のあるところへ。たぶん和泉の取水地点であろうと右端の公園をチェック。西河原公園。向かいにこじんまりした神社、というか鳥居とあとは、なんだかなあ、といったさっぱりしたもの。
由来書:水神社由緒「此の地は寛平元年(889年)九月二十日に六所宮(明治元年伊豆美神社と改称)が鎮座されたところです。その後天文十九年(1550年)多摩川の洪水により社地流出し、伊豆美神社は現在の地に遷座しました。  この宮跡に慶長二年(1597年)水神社を創建しその後小泉次大夫により六郷用水がつくられその偉業を讃え用水守護の神として合祀されたと伝えられる。 明治二十二年(1889年)水神社を改造し毎年例祭を行って来ました。昭和三年(1928年)には次大夫敬慕三百四拾二年祭を斉行 もとより伊豆美神社の末社として尊崇維持されて来ました。伊豆美神社禰宜 小町守撰」と。

万葉碑

水神社前の信号のところに「万葉碑」への標識。住宅街をちょっと中に入る。100メートルも行かないうちにこ石碑が。横にある家の庭といったこじんまりしたたたずまい。石碑にの歌;
多摩川に さらす手づくり さらさらに何ぞこの児の ここだ 愛しき」
万葉集巻14
松平定信(楽翁・白河藩主)の書とのこと。


狛 江=「高麗」。ここに移り住んだ朝鮮からの渡来人が機織りの技術を伝えた。多摩川にさらす手づくり、とは多摩川で晒した布のこと。ちなみに、調布の由来、奈良時代、税制の「調(その地方の特産品を納める)」に多摩川で晒した布を納めたことから名付けられたとされている。この辺り、周囲には古墳や遺跡が多数分布している。が、本日は日没のためここでおしまい。暗闇のなか、京王線国領まで歩き帰途につく。
狭山丘陵散歩のサードラウンド。今回は狭山湖をぐるりと廻ってみようと思う。とはいうものの、どこからスタートしようかと結構迷った。地図を眺めていると、立川から狭山湖のほうに続く線路がある。多摩モノレールである。これは、いい、ということでアプローチ決定。

ところで、今日歩く狭山湖、正式には山口貯水池と呼ばれる。狭山丘陵の柳瀬川の浸食谷を利用し昭和9年に竣工。既に工事のはじまっていた多摩湖(村山貯水池)だけでは、関東大震災後の東京の復興と人口増加による水需要をまかなえなかった、ようだ。
多摩湖もそうだが、狭山湖への水は多摩川から導かれる。小作で取水され、山口線という地下導管で狭山湖まで送られる。一方、多摩湖への導水は羽村で取水され、羽村・村山線という地下導管によって多摩湖に送られる。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)

狭山湖(山口貯水池)に貯められた水は、ふたつの取水塔をとおして浄水場と多摩湖に送られることになる。第一取水塔からは村山・境線という送水管で東村山浄水場と境浄水場(武蔵境)に送られ、第二取水塔で取られた原水は多摩湖に供給される。また、多摩湖(村山貯水池)からは第一村山線と第二村山線をとおして東村山浄水場と境浄水場に送られ、バックアップ用として東村山浄水場経由で朝霞浄水場と三園浄水場(板橋区)にも送水されることもある、と言う。
狭山丘陵は多摩川の扇状地にぽつんと残る丘陵地である。狭山って、「小池が、流れる上流の水をため、丘陵が取りまくところ」の意。古代には狭い谷あいの水を ため農業用水や上水へと活用したこの狭山丘陵ではあるが、現代ではその狭い谷あいに多摩川の水を導き水源とし、都下に上水を供給している。さてと、そろそろ散歩にでかけることに。( 2月 , 2009年にブログを修正)



本日のルート:多摩モノレール上北台>県道55号線・所沢武蔵村山立 川線>武蔵村山歴史民俗資料館>野山北公園自転車道>尾根道を六地蔵に>宮野入谷戸>六道山>須賀神社>箱根ケ崎>狭山湖外周道路・北廻りコース>西久保湿地>出雲祝神社>西久保観音>大谷戸湿地>狭山湖堰堤>狭山不動・山口観音>

多摩モノレール上北台
立川でモノレールに乗り換え、上北台で下りる。前方に盛り上がる狭山丘陵が見える。山が群がったその山容が「ムレヤマ」>村山の名前の由来ともなった、とか。「群山」に向かい一路北に。青梅街道の芋窪交差点に。自動車道路道を湖に向かって登る。この道を進めば、多摩湖を左右に分けるの堰堤を経て西武ドーム方面へと続く。
尾根辺りに進むと、あれ、これって、どこかで見た景色。ここって狭山丘陵散歩ファーストラウンドで来た鹿島台。先回はここから北に、貯水池を上・下に分ける堰堤を渡ったが、今回はここから西に向かうことに。

県道55号線・所沢武蔵村山立川線
多摩湖自転車道を進む。水源保護のためか、柵があり湖は見えない。2キロ程度歩くと自転車道は県道55号線・所沢武蔵村山立川線に合流。合流といっても自転車道は自動車道脇を北に並走し、多摩湖と狭山湖の間を西武ドーム方面へと進む。
尾根道を西に進む道は一旦、この合流点で終わる。地図をチェックすると六道山方面への尾根道は丘陵を下った野山北公園からアプローチがあるようだ。自動車道を左折し、坂を下る。
坂を下り切ったあたり、学校給食センター脇に尾根道へ上る入口がある。野山北公園の入口ではないようだが、道は上に続いている。そこから上ろうとも思ったのだが、脇に案内図。この場所からすぐ下にカタクリの湯と武蔵村山歴史民俗資料館と、その脇に野山北公園がある。温泉はいいとして、どうせのことなら郷土資料館に立ち寄り、その後、野山北公園から尾根道に上ることにする。

武蔵村山歴史民俗資料館

しばらく武蔵村山歴史民俗資料館で時間を過す。狭山丘陵の成り立ちなどをちょっとお勉強。平地にポッカリ浮かぶ島といった狭山丘陵って、多摩川がつくった扇状地の真ん中に中州のように残された丘陵。西は青梅の草花丘陵、東は加治丘陵(金子丘陵)によって挟まれた扇状地。地形区分で言えば、、多摩川流域の沖積面(低地)、沖積面より一段高い立川面(立川、拝島、箱根ケ崎)、さらにその一段高い武蔵野面(東村山、小手指、所沢)の上に乗っかかる多摩面という丘陵地。ちなみに青梅の草花丘陵も加治丘陵も同じく多摩面である。常設展示はそれなりに面白かったが、手頃な郷土資料は揃っていなかった。購入書籍なし。残念。

野山北公園自転車道
資料館を離れる。ところで、資料館を少し南に下ったところに野山北公園自転車道がある。これって、羽村で取水され、地下導管によって多摩湖に送られる羽村・村山線の送水ルート。かつてここには羽村村山軽便鉄道と呼ばれる鉄道が走っていた。村山貯水場への導水管をつくるときの仮設のトロッコ道を再利用したもの。鉄道は、山口貯水場の建設工事の時に多摩川の砂利運搬のために使われた。現在は羽村から神明緑道としてはじまり、途中横田基地で途切れた後、この地まで野山北公園自転車道として続いている。
この自転車道は、この先丘陵地に潜り込み、1号隧道(横田トンネル)、2号隧道(赤堀トンネル)、3号隧道(御岳トンネル)、4号隧道(赤坂トンネル)として続き、その先の5号隧道は行き止まり。トンネルは多摩湖畔西岸まで続いている、ようだ。自転車道への寄り道は、今回は時間がないのでパス。そのうちに歩いてみよう。

尾根道を六地蔵に
資料館を離れ野山北公園に。野球などに興じる親子連れの姿を眺めながら尾根道へ上る。アスレチック広場もあるイントロ部分から次第にいい感じの雑木林。尾根道を進むとほどなく六地蔵へ。明治時代赤痢が大流行し、付近の村で51人が死亡したのを供養するために建立されたもの。

宮野入谷戸
さらに進むと、宮野入谷戸への分岐。里山や田圃などが残る、ということであり、再び尾根を下る。比高差もそれほどなく里山民家のあるエリアに。江戸時代の母屋を再現した茅葺き屋根の民家など里山の生活様式に触れる環境がつくられているようだ。田舎生まれ故に、古い民家はそれほど珍しくもなく、ちらりと眺め先に進む。
里山民家の西に岸たんぼ。水田体験を楽しむ水田のよう。田圃を見ながら先にすすむと宮野入谷戸。谷戸に沿って尾根にのぼるルートがある。谷戸の最奥部あたりは湿地。崖下から滲みだす地下水は如何にも、いい。武蔵村山歴史民俗資料館の展示コーナーの「丘陵と台地に生きた人々」で、往古丘陵地に住んでいた人々は、次第に丘陵地を下り谷戸で生活するようになった、とあったが、こういった湧水のある谷戸で生活したのであろう、か。

六道山
湧水、そして里山の風景を楽しみながら、里山ふれあいコースを進み尾根に戻る。尾根道に上り先に進むと六道山公園に。標高192m地点にある展望台は高さ13m。晴れたときには富士山、秩父連山、新宿のビルなども見渡せる、とか。
展望台を少し西に進んだところに出会いの辻。昔、狭山丘陵山麓の村に通じる六つの道がここで「出会って」いた。六道山の名前の由来でもある、とか。現在、尾引山遊歩道、石畑新道遊歩道、台坂遊歩道、天王山遊歩道、大日山遊歩道、高嶺山遊歩道といったハイキングコースがこの出会いの辻に向かって里から続いているが、こういった遊歩道が昔の里を繋ぐ道の名残であろう、か。

須賀神社

出会いの辻から台坂遊歩道、天王山遊歩道、大日山遊歩道といった遊歩道が尾根で合流するあたりに進む。なんとなく遊歩道の雰囲気を見たかった、ため。と、合流点近くに須賀神社。ちょっとお参り。やまたのおろちを平らげて、「我、この地に着たりて心須賀、須賀し、」といったかどうだか、素盞嗚命(スサノオノミコト)をおまつりする。ここ以外にも尾根道脇に同じく須賀神社がある。
須賀神社は島根と高知に多い、とか。元は「牛頭天王社」と呼ばれていたことろが多いようだ。牛頭天王って、インドで仏様のお住まいである祇園精舎の守り神。その猛々しさがスサノオのイメージとはなはだ近く、スサノオ(神)=牛頭天王(仏)と神仏習合された、と言われる。スサノオ、と言えば出雲の暴れん坊。先日の氷川神社と同様、この地を開拓した出雲族の名残であろう、か。


箱根ケ崎
遊歩道を下ったところが箱根ケ崎。国道16号線、青梅街道、新青梅街道、岩蔵街道(成木街道)、羽村街道と多くの道筋が交差する交通の要衝。昔も、鎌倉街道、旧日光街道、青梅街道などが通り、箱根ケ崎宿があったところ。9軒の宿があった,と言う。狭山神社、浅間神社といった神社も多く、また円福寺といった堂々としたお寺様も残る町である。旧日光街道は、八王子から日光勤番に出かける八王子千人同心が往還した道筋である。
ところで、箱根ケ崎という名前が気になった。由来を調べると、源義家が奥州征伐のとき、この地で箱根権現の夢を見、この地に箱根(筥根)大神を勧請した。それが現在の狭山神社である、という説、がある。また、瑞穂市教育委員会編「瑞穂の地名」によれば、この地の地形が箱根に似ていたの箱根神社を勧請。で、この地が箱根より先(都より遠くはなれた)ところであるので、「はこねがさき」となったとの説もある。例によってあれこれ。
町中に狭山池という残堀川の水源にもなっている池がある。これって鎌倉時代に「冬深み 筥の池辺を朝行けば 氷の鏡 見ぬ人ぞなき」と歌われているように、昔は「筥の池」と呼ばれていた。この地が古くから伊豆の箱根(筥 根)となんらかの関係があったことは間違いない、かと。この箱根ケ崎の町は、数回来た事があるのだが、通り過ぎるか、六道山への遊歩道に向かう出発点といったところ。そのうち、狭山池、残堀川など、のんびり歩いてみたいもので、ある。

狭山湖外周道路・北廻りコース

さて、出会いの辻から尾根道、というか狭山湖外周道路・北廻りコースを先に進む。フェンスで中には入れないが、道の南の谷筋は金堀沢。現在は狭山湖で断ち切られて入るが、元々は柳瀬川の源流といったことろ。また、この金堀沢には引入隧道口と呼ばれる導水路がある、と。これって小作から取水され、地下の導水管を通り狭山湖に送られる多摩川の水の出口。実物を見てみたいのだが、現在金堀沢への立ち入りは禁止されているようだ。少々残念。導水管は狭山池の少し北の地下を一直線に狭山丘陵に伸びている、とか。

西久保湿地
しばらく歩くと西久保湿地への分岐。谷戸の湧水、というだけで心躍る我が身としては、一も二もなく尾根を下りる。谷戸田では古代米なども栽培されている。谷戸の奥に進む。じわり、と湧く水を飽きもせず眺める。木橋の道を離れて、湿地にはいってみたいのだが、要所要所に「マムシに注意」の警告。マムシの写真に睨まれると足がすくみ先に進むのを断念。

出雲祝神社
湿地を眺めながらしばし休息。 地図をチェックするとすぐ下の里に出雲祝神社と西久保観音。特に、出雲祝神社と言う、いかにも有難そうな名前に惹かれる。お隣にある大谷戸湿地に廻る前にちょっと寄り道。西久保湿地を離れ、民家の間を少し下ると神社入口。落ち着いた雰囲気。参道を進みお参りを。
出雲祝神社は文字通り、出雲族が祭った神様。氷川神社、須賀神社とは異なり、ストレートに出雲を示す名前である。そもそも出雲族そのものがはっきりしてはいないようだが、単に現在の島根県・出雲にいた豪族のみを指すものではないようだ。
大雑把に言って、大陸・朝鮮半島からの渡来系王朝・崇神天皇からはじまるいわゆる征服系王朝に対して、それ以前に日本国内で有力であった勢力すべてを総称したキーワードっぽい名称。古事記や日本書紀にある、渡来系王朝の神・アマテラス系天津神に対する、オオクニヌシ系国津神の神々をまつる勢力の総称、とか。梅原猛さんの『神々の流竄』によれば、新しい神さまとして仏教をいれてはみたものの、仏教のもつ四海皆平等って発想では、律令制度のもと中央集権国家を目指す王朝としては具合が悪い、ということで、神々のディレクトリーを整理し、伊勢神宮を大陸系征服王朝の「神」として置き、それ以外の神々を出雲の地に流す。出雲大社をシンボルとして「流竄されて」しまった神々をまつる、物部氏を筆頭とする旧勢力の総称が出雲族ってことのようだ。
武蔵に出雲系神社が多いのは、大陸系王朝の覇権から逃れこの地に移り住んだ氏族が多かったためか、大陸系王朝の政策により物部氏といった既存勢力を地方開拓の行政官として重用した結果なのか、実際、武蔵の国造は物部氏であり、武蔵一ノ宮の氷川神社をつくったのもこの物部氏であったわけで、専門家でもないのではっきりとはわからないけれども、こういった状況が複合的に重なった結果であろう、と納得しておく。
で、この出雲祝神社、由緒書によれば、延喜式入間五座の一に列せられ、郡第一等の社格。景行天皇の御代創立という。奈良時代に、ここの出雲伊波比(いずもいわひ)神さまが、中央政府からのお供えがない、とお怒り。ために、政府の米倉・正倉を燃やしたとかいう話が伝わっている。実際は、中央政府を快く思わない地方豪族が正倉を燃やし、それを神さまのせいにしたのだろうが、 それはともかく、この神社は、それほど昔からあった古い神社ではある、ということか。

境内奥に廻ると「茶場碑」。狭山茶の由来が書かれてある。お茶が日本で本格的にひろまったのは、臨済宗の開祖、栄西禅師が中国・宋から種子を持ち帰り、栽培するとともに、「喫茶養生記」を著したのがきっかけ。狭山地方に初めてお茶がもたらされたのは、鎌倉時代。京都の高僧明恵上人が「武蔵河越の地」に栽植したのがはじまりとのこと。そして、狭山茶として本格的にスタートしたのは、江戸時代。19世紀初頭頃、この出雲祝神社のある入間市宮寺の吉川温恭、村野盛政たちが自家用茶ではなく、商品として売るため茶園をつくってからだという。
このあたりだけでなく、入間から狭山にかけて誠に茶畑が多い。先日入間の入曽から箱根ガ崎まで、なにするともなく歩いたことがあるのだが、至る所の茶畑に、茶所狭山をあたらめて実感した次第。

西久保観音

茶場碑脇にお寺の屋根。辿ってゆくと西久保観音。8世紀前半、行基が開いた、と。行基はいたるところに現れる。縁起は縁起としておこう。安産祈願で有名なこの観音様の境内には樹齢800年と言われるカヤの木。境内とはいっても滑り台があったり、児童公園といった雰囲気ではあった。観音さまにお参りをすませ次 の目的地である大谷戸湿地に向かう。

大谷戸湿地

成り行きで里を歩き、西久保湿地に戻る。そこから道標に従い大谷戸湿地に向かう。 林の中を進み、一度狭山湖外周道路の尾根道の支尾根に上り、再び谷に向かって林の中を進むとほどなく大谷戸湿地に。深い谷戸の奥に近いあたりのようだ。名前に違わず、如何にも、大きな谷戸といった景観。西久保湿地に比べ、少々荒々しい、というか人の手が入っていない様子の谷戸の景色を楽しむ。ここでも、じわりと滲みだす湧水を飽きもせず、眺めた後、狭山湖外周道路に戻る。

狭山湖堰堤
道標に従い尾根道に向かって上る。それほどの比高差はないのですぐに尾根道に合流。あとは一路、狭山湖堰堤に。湖面側はフェンスがあり見晴らしがあるわけではない。北側はところどころ、里に下りる分岐路のことろあたりで風景が開ける。トトロの森5号地を越え、早稲田大学所沢キャンパスの南をかすめ、トトロの森4号地の脇を続く道を進み、狭山湖堰堤に到着。4キロ弱といった行程えあった。

狭山不動・山口観音
堰堤でしばし湖や、堰堤下から続く柳瀬川の谷筋、そして、その東に広がる遠景を楽しみ、狭山山不動寺に。このお不動さんは西武鉄道が建てたもの。芝プリンスホテルを増上寺徳川家霊廟のあったところに建てるに際し、そこに残る建物をこの地に移した、と。国の重要文化財なども有るお寺さまではあるが、なんとなく新しく建てられた、って印象のギャップがあるのは、そういった事情であろう、か。お隣には山口観音。こちらは新田義貞が鎌倉攻めのときに戦勝祈願をしたとも伝えられる古いお寺さま。ダムができ、遊園地が出来る前からこの地にあったのだろうが、現在はマニ車があったり、中国風東屋、ビルマ風パゴダなどが、いまひとつ、よくわからない。足早に先に進み西武球場前駅に歩き本日の予 定終了。

3回に渡った狭山丘陵散歩、思った以上に素敵であった。何度も繰り返すが、森の香りの素晴らしさはなにものにも替えがたい。丘陵地帯の森も、結構奥深そう。柳瀬川、空堀川といった川沿いの散歩もよさそう、などなど「狭山丘陵・散歩への誘い」、メモを書きながら結構強くなってきた。 


セカンドラウンド。八国山に代表される狭山丘陵の東を歩く。当初このあたりを歩く予定はなかった。が、会社の同僚が、「八国山いいですよ。トトロの森もあるし。。。」と推薦。トトロで盛り上がる歳ではないのだが、八国山という「響き」に惹かれ歩くことになった。(2月 30, 2009年にブログを修正)


本日のルート;西武園駅>八国山・将軍塚>鳩峰八幡神社>久米水天宮>荒幡富士>山口城址>柳瀬川>堀口天神社>西武球場前駅

西武園駅
西武園線西武園駅で下車。いかにも西武園への入口といったエントランスの脇を下り、八国山緑地の入口に。芝生の丘のむこうに森が見える。案内版によれば八国山の散歩道は何通りかある。尾根道を進むこととした。いやはや、いい香り。先回もメモしたとは思うが、森の香り・フィトンチッドに感激したのはこの森での経験から。適度の湿気もあったのだろうが、芳香剤では出すことのできない、自然でありかつ強烈な香り。胸いっぱい吸い込む。

八国山緑地・将軍塚
この森のことをトトロの森3号地と呼ぶ。尾根道を進み将軍塚に。将軍塚のあたりが八国山の東の端。八国山の名前の由来によれば、「駿河・甲斐・伊豆・相模・常陸・上野・下野・信濃の八か国の山々が望められる」わけだが、木が生い茂り遠望不可。
将軍塚とは新田義貞が鎌倉幕府軍に相対して布陣し、源氏の白旗を建てたことが名前の由来。この地域で新田の軍勢と鎌倉幕府軍が闘ったことなど全然知らなかった。府中の分倍河原で新田軍が鎌倉幕府軍を破ったことは知っていたのだが、この地はその分倍河原の合戦に至る前哨戦であったのか。散歩をしていると思いがけなく「歴史イベント」の地に遭遇する。準備もなにもしない徒手空拳・無手勝流の散歩の楽しみのひとつだ。戦いの軌跡をまとめておく。
西暦1333年(元弘三年)新田義貞、鎌倉幕府を倒すべく上州で挙兵。5月10日、入間川北岸に到達。鎌倉幕府軍は新田軍を迎え撃つべく鎌倉街道を北進。5月 11日に両軍、小手指原(埼玉県所沢市)で会戦。勝敗はつかず、新田軍は入間川へ、鎌倉軍は久米川(埼玉県東村山市)へ後退。翌5月12日新田軍は久米川の鎌倉幕府軍を攻める。鎌倉幕府軍、府中の分倍河原に後退。5月15日、新田軍、府中に攻め込むが、援軍で補強された幕府軍の反撃を受け堀兼(埼玉県狭山市)に後退。新田軍は陣を立て直し翌日5月16日、再度分倍河原を攻撃。鎌倉軍総崩れ。新田軍、鎌倉まで攻め上り5月22日、北条高時を攻め滅ぼす。鎌倉時代が幕を閉じるまで、旗挙げから僅か14日間の出来事であった、と。

鳩峰八幡神社
将軍塚を後にし、尾根道を元に戻る。道の中間地点から、北に階段を下りる。松ヶ丘団地を抜け、トロロの森2号地に。目安は鳩峰八幡神社と水天宮。神社の横の小道がトロロの森へのアプローチ。鳩峰八幡神社は西暦921年(延喜21年)、京都の男山鳩峰に鎮座する石清水八幡宮を分祀したものといわれる。新田義貞は八国山に陣を置いた時、源氏の守り神であるこの八幡宮に参拝し戦勝を祈願。鎧を置いた所に稲荷神社をまつり「鎧稲荷」、兜を掛けたと伝わる松が拝殿の左側に。




久米水天宮
八幡神社のすぐ隣に久米水天宮。水天宮って、安産の神様。私も子供が生まれるとき東京の水天宮さんに腹帯を頂きにいったのだが、いったいどんな神様なのか、調べてみた
水天宮の御祭神は天御中主神 (あめのみなかぬしのかみ) 、安徳天皇 (あんとくてんのう) 、高倉平中宮(たかくらたいらのちゅうぐう。建礼門院?)、二位の尼 (にいのあま) 。天御中主神(あめのみなかぬしのかみ)がどんな神様か知らないが、それ以外は壇ノ浦で滅亡した平家の貴種。1185
年、平清盛の血をひく安徳天皇は壇ノ浦(山口県下関市)の合戦で、祖母の二位の尼に抱かれ、母の建礼門院と共に入水。安徳天皇8歳のこと。高倉平中宮に使えていた官女の按察使局(あぜちのつぼね)も壇ノ浦で共に入水しようとする。が、二位の尼に、「生きのびて、菩提をとむらうべし」、との命を受け遁れ、筑紫・久留米の千歳川(現筑後川)の辺りに、辿り着く。そして水辺に小さな祠を建て安徳天皇とその一族の霊を慰める日々を送る。これが今に続く水天宮の起源。
その後、久留米藩主有馬忠頼公の庇護を受け、広大な社殿が造られた。東京日本橋の水天宮は、参勤交代で領地を離れた有馬公が、江戸の地でもお参りをしたいということで江戸屋敷の中に屋敷神としてつくられたのが、その始まり。屋敷は慶応大学三田キャンパスのあたり。その後、この屋敷神が人々の評判になり、明治になって藩屋敷がなくなった後、日本橋に移った。この久米水天宮は武蔵国の中で日本橋にある水天宮についで由緒あるお宮さんとのこと。ちなみに、入水自殺を図った建礼門院(高倉平中宮?)、源氏に助けられ我が子の菩提をとむらうべく剃髪、隠棲生活されたのが京都大原の寂光院である。

荒幡富士

水天宮脇の道を進みトトロの森2号地に。雑木の森の中を進み、南部浄水場に。鳩峰公園をちょっと北に歩きはじめたが、どこに進んでいるのかわからなくなり、元の浄水場にもどり、わき道を下る。荒幡地区を歩き、ゴルフ場脇の丘を進むと荒幡富士。荒幡富士講を信仰する村内の氏子・信者はもとより、近隣の人々も協力し造りあげた、こんもりとした人工の塚。富士塚と言う。
富士山は古来神の宿る霊山として信仰の対象となっていた。富士山参詣による民間の信仰組織がつくられていたのだが、それが富士講。とは言うものの、誰もが富士に上れる訳でもない。で、近場に富士山をつくり、それをお参りする。それが富士塚である。
散歩の折々で富士塚に出会う。葛飾(南水元)の富士神社にある「飯塚の富士塚」や、埼玉・川口にある木曾呂の富士塚など、結構規模が大きかった。富士講は江戸時代に急に拡大した。「江戸は広くて八百八町 江戸は多くて八百八講」とか、「江戸にゃ 旗本八万騎 江戸にゃ 講中八万人」といった言葉もあるようだ。新田次郎さんの『富士に死す;新潮文庫』に、富士講中興の祖である身禄もことが詳しい。

山口城址
荒幡富士市民の森を抜け、柳瀬川を越え、柳瀬川から西武狭山選下山口駅に。駅前の交通量の多い道を左折し、山口城址前に。山口城址は武蔵七党の村山氏からでた山口氏の館跡、とはいうものの、今となってはスーパーマーケットの脇に、案内が残る、だけ。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)

柳瀬川
柳瀬川は狭山丘陵から流れ出し、志木で新河岸川に合流する全長20キロ程度の川。新河岸川で最大の支流。武蔵野台地を刻む最大の川筋でもある。本流と支流の北川は狭山丘陵の中から、支流の東川は丘陵の北側・早稲田大学所沢キャンパスの東から、空堀川は丘陵の南・野山北公園から流れ出す。とは言っても、本流と北川は源流点は狭山湖の西にある金堀沢。現在は狭山湖・多摩湖の工事によって堰止められている。余水が流されているのだろう、か。

堀口天満神社

高橋を越え、トトロの森1号地に向かう。丘のように聳える貯水池の堰堤防の手前、清照寺方面に右折。堀口天満神社あたりから森に入る。トトロの森1号地。結構森が深い。案内板に従い森を楽しみ、尾根を先に進み藤森稲荷神社に廻りお参りする。

西武球場前駅
森の道を下り貯水池の堰堤防に向かう。結構な登り坂。運動場になっている。堤防上に上がり、景色を楽しみ、堤防を南に。狭山自然公園に沿って歩く、狭山不動脇を下り、西武球場前駅に。山口線に乗り、一路家路に。 




狭山丘陵を散歩する。狭山湖と多摩湖、正確には山口貯水池であり、村山(上・下)貯水池を抱くこの丘陵、前々から歩いてみたいと思っていたのだが、あまりにも遠く、先送りにしていた。が、先日、玉川上水散歩の時、多摩川とこの貯水池の水の「連絡」を知った。多摩川の羽村取水口から多摩湖、小作取水口から狭山湖への送水ルートがある。
石神井川散歩の時、「馬の背」に出会った。武蔵・境緑道下を、多摩湖から東村山浄水場・境浄水場への水の「連絡」ルートである。馬の背は、低地部分に盛り土し、水が流れるようにした築堤。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」

また、朝霞を歩いていた時、東村山浄水場と朝霞浄水場との原水連絡管のことを知った。ふたつの浄水場を介しての多摩川と利根川の「連絡」、水系同士の「水の貸し借り」がおこなわれている、と。散歩ルート同士の「連絡・ネットワーク」があれこれつながってきた。
ということで、出かけた狭山丘陵散歩。当初、1回で廻り終えるかなどと、結構お気楽にでかけた。が、結局3回に分けての散歩となった。一回目は多摩湖周遊というか半周。正確には村山下貯水池周遊。2回目は狭山丘陵の東・八国山周遊。3回目は狭山湖周遊。正確には村山上貯水池・野山北公園・六道山・狭山湖周遊。3回かけて狭山丘陵のみどころはほぼ歩いた、ってところか。(2月 28, 2009年にブログを修正)



本日のルート:西武多摩湖線西武遊園地>氷川神社>狭山公園>多摩湖周遊道路> 狭山緑地.鹿島橋>西武多摩湖線西武遊園地

西武多摩湖線西武遊園地駅
ファーストラウンドは多摩湖・村山下貯水池周遊。西武多摩湖線西武遊園地で下車。改札を出るとそのまま遊園地の入り口に向かう。途中住宅街に抜ける。が、どうもこれは多摩湖に向かうメーンルートではないようで、歩道がない。他にルートはあるとは思うのだが、とりあえず車道の端を多摩湖岸・多摩湖下堰堤に向かう。

氷川神社
道すがら氷川神社。いやはや武蔵の地を歩いていると、至る所で氷川神社が現れる。出身地の愛媛などであまり聞いたこともなく、唯一「氷川」というキーワードで知っていることといえば、勝海舟の書『氷川清話』くらい、であった。調べてみた。氷川神社は関東一円に220社ほどある。関東以外では北海道に1社あるくらい。これは関東から北海道開拓に移住した人が建てたものだろう。ともあれめちゃめちゃ関東ローカルな神様である。総本宮=大宮、は埼玉の大宮にある氷川神社。氷川の由来は、出雲の斐川から。武蔵国造をはじめとする武蔵開拓の一族の出身が出雲であったのだろう。ちなみに、大宮氷川神社と出雲大社の宮司さん、ともに千さんと言うらしい。

狭山公園
堰堤に沿ってある狭山公園を南に下る。堰堤あたりは工事中(2005年8月)。北川(宅部川)を渡る。この川は、多摩湖の余水を逃がす水路。階段状になっているのは水流の勢いを抑えるためのもの。12段ある、と言う。水路にかかる橋を滝見橋というのは、その流れが滝のように見えたから、とか。最近は、水はながれていないようである。
滝見橋の南に「たっちゃん池」。多摩湖が出来る前からあった溜池を、貯水池の工事のときに農業用貯水池としたもの。池の南西の湿地からの湧水が水源となっていう、ようだ。
この狭山公園。いい公園というか林、というか森。樹林、湧水池。本当に素敵な自然林。気持ちよく歩く。心地よい森の香り(フィトンチッドって言うらしい)。 ところで、いつも気になるのだけれど、森と林って明確な違いがあるのだろうか?林=生やす、で人の手が入ったもの、森=盛る、で自然の力で盛り上がっている、自然に生えているのが森、といった解釈もあるが、どうも我々は森も林も区別せずに使っている、といった説が一番納得。これからも森といったり林といったり、そのときの気分次第で使い分けていく。

多摩湖周遊道路
狭山公園を抜け、一般道へ。多摩湖周遊路。サイクリング道路にもなっている。石神井川散歩のときに出会った「馬の背」、あの狭山・境緑道にあったサイクリング道路がこの道に連絡している、と言う。周遊路をひたすら歩く。湖の周囲の緑地は東京都水道局の水源保護林となっており、立ち入り禁止。湖を覗うことはできない。飲みものの自販機がない。どこにでもあると高をくくっていたのだが、歩けど歩けどなにもない。正確には後ででてくる鹿島台まで途中1箇所だけあったのだが、タイミングを逃してしまった。いや、きつかった。

狭山緑地

湖畔地区の住宅街が切れたころ、ちょっとした森が道路左手に現れた。狭山緑地。森の散歩と水の補給もかね、雑木林を下に降りる。蔵敷・芋窪地区。名前から 言っても、古くからの集落の、よう。芋窪地区は多摩湖の工事によって移転した集落もある、と言う。水分補給し、再び丘を登り多摩湖周遊路へ。

鹿島橋
鹿島橋に進む。多摩湖は村山上貯水池と村山下貯水池に分かれている。 この鹿島橋地点が多摩湖の上貯水池と下貯水池を分けている道路・多摩湖上堰堤 の南側になる。鹿島橋は、多摩湖の上貯水池と下貯水池を分けている道路の上に架かる自転車・歩行者専用橋。全長160m。

西武多摩湖線西武遊園地駅
多摩湖一周とも思ったのだが、そろそろ日暮れ。少々出発が遅かった。ここで撤収決定。多摩湖周遊路から離れ、堰堤の上を通り北岸に。北岸の多摩湖周遊路を西武球場、西武山口線の一種の「モノレール」を左に見ながら、西部山口線遊園地西、西武遊園地を経由してスタート地点の西武多摩湖線西武遊園地に。今回の予 定終了。


高麗の郷散歩

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会社の同僚と雑談。国分寺崖線を紹介してくれた男。高麗川散歩がいいとのこと。ガイドブックなどで、「高麗の郷。歴史と文化そして自然の宝庫、巾着田」といったコピーは目にしていた。が、なにせ遠い。二の足を踏んでいた。しかし、国分寺崖線を教えてくれた男。結構ハケの道を堪能した。今回も外れはあるまい。高麗に行くことにした。



西武池袋線高麗駅
西武池袋線高麗駅下車。JR八高線の高麗川駅からのアプローチがいいのか、どちらがいいのかよくわからなかったので、とりあえず出たこと勝負で高麗駅に降りた。

駅前に天下大将軍、地下女将軍の真っ赤な将軍標。このトーテムポールっぽい標識、韓国の伝統的守護神。天・地の守り神がともに相ともに村の守りについている。駅前の坂を下り、高架をくぐり、299号線に。左折。少し進み、道脇に入る。高麗石器時代住居跡。縄文時代中期のたて穴式住居跡。

聖天院
299 号線に戻り、道路わきを久保の交差点から高麗川に。歩道がないので少々車の往来が気になる。高麗川に掛かる橋・高麗橋を右折、清川沿いにのどかな道を進む。鹿台橋を右手に見ながら、元宿公会堂の交差点に。ここからカワセミ街道、といってもなんと言うことのない田舎道ではあるが、高岡浄水場、下高岡公会堂と歩き、聖天院に。高麗王若光王一族の菩提寺として奈良時代に創建。品のあるたたずまいのお寺さん。本堂は新築したものか。山門に向かって右側に、高麗の王若光の墓が置かれている。次は高麗神社。

高麗神社
高麗神社は聖天院から歩いて5分くらい。高句麗からの渡来人の指導者高麗王若光(こま「こしき」じゃっこう)を祭った神社。716年、というから奈良時代の初め、駿河、甲斐、相模、上総、下総、常陸、下野の七国の高麗人1799人が武蔵國に遷され、高麗郡が設置された。高麗王若光は高麗郡の郡長に任命され、武蔵の国の開発に尽力し、この地で没した。またこの神社は出世・開運の神としても名高い。浜口雄幸、若槻禮次郎、斉藤実、小磯国昭、幣原喜重郎、鳩山一郎らが、高麗神社に参拝した後、相次いで総理大臣となったことから「出世明神」と崇められてもいる。
参道の奥に緑に囲まれた本殿があり、さらにその奥に重要文化財の高麗家住宅がある。

神社を出て、小道をゆっくり降り、高麗川にかかる出世橋を渡り、JR八高線高麗川方面に。もくせい通り、野々宮を通り、左手に丘陵地帯を眺めながら静かな野の道をのんびり歩く。栗坪地区の「麓道」を。高麗中学、学童保育所、万蔵寺と進み、高麗峠への登り口に。登り口を確認し、後は時間次第で再度戻ってくる、という段取り。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)


巾着田
日も落ちてき始めたので急ぎ足で巾着田へと。歩行者専用の木製橋・あいあい橋を渡る。巾着田は、高麗川が大きく湾曲して、地形が巾着(口についた紐を引っ張ると口が縮んで閉まる袋。小銭入れ)の形に似ていることからつけられた名称。ここに移り住んだ高句麗からの渡来人が、蛇行する流れを巧みに利用して、川をせき止め、その内側にあふれた水を導き水田とした。つまりは当時高度な技術であった稲作を伝えたところといわれている。川原には川遊びを楽しむ家族が多い。巾着田を湾曲する川に沿って歩く。予定では湾曲部の「頭」あたりにある橋を渡り、高麗峠へ、と思っていたのだが、あいにく通行止め。峠道の日没も嫌であるので、結局は高麗峠行きは中止。後は、鹿台橋まで戻り高麗駅へ。本日の予定終了。


散歩をしながら考えていた。高麗、高句麗からの渡来人はどうして、この高麗の郷に来たのか。関東というか当時で言えば武蔵の国、これって結構広いのに、そのなかでこの郷に来ることになったのはなぜ?もちろん、自分たちの意思でというわけではなく、中央政府、西暦645年大化の改新から幾多の政争を経て西暦701年大宝律令を制定、律(刑法)と令(行政法・民法)をもとに、中央集権国家を目指し始めた大 和朝廷の指示によるのだけれども、この地が彼ら渡来人の終の棲家となった理由は?調べてみた。で、全くの推測、いつものとおり、自分として「筋が通ればいいか」ってスタンスでの我流解釈をしてみたい。

渡来人はどうして、この高麗の郷に来たの、か?
地理的解釈
まずは地理的解釈。この高麗神社のある一帯、現在の大都市東京に住んでいる我々から見れば関東のはずれ、のんびりとした田園地帯。が当時としては上野の国府(前橋市)から武蔵の国府(府中)に通じる幹線道路沿いの地域である。当時武蔵の国は東山道の中の一国。東山道とは近江国・美濃国 ・飛騨国 ・信濃国 ・武蔵国 ・上野国 ・下野国の7国。つまりは、上野の国府からは、東山道武蔵路を利用し、ここ高麗郡・入間郡をへて武蔵の国府に入ったわけで、昔は、メーンストリート。地理的に「はずれ」であったわけでなない。納得。
技術論(?)的解釈
次に、技術論(?)的解釈。渡来人のもつ技術力ゆえのこの地への移動。つまりは,西暦708年秩父(秩父鉄道黒谷駅の近く)で発見された和銅(にぎあかがね)という自然銅との関連。和銅の発見は画期的事件であり、朝廷はそれを祝って年号を慶雲から和銅に改元したほど。和銅の開発に関係する渡来人を監督するためかもしれない。また和銅を武蔵の国府に運搬する流通センターの機能を果たすためにこの地に集められたのかもしれない。高麗=駒、からも連想できるように、運搬手段としての馬の扱いは、ツングース系、騎馬民族の血を引く高麗人の得意とする「技術」であろう。ともあれ、秩父産出の銅にまつわる高麗人の「巧みさ」ゆえの移住。
政治的解釈
最後に政治的解釈。移転当時、この地は未開の大地。埼玉といえば埼玉古墳群がある行田市あたりが当時の「都会」だったのだろうか。こういった先住有力豪族が支配する「都会」を避けて、未開の地に移した理由は、地方での有力豪族に対する政治的施策か?つまりは先住の地方豪族に対する中央政府の橋頭堡つくり。先住の豪族の影響力がないところに、最新技術集団を落下傘降下。有無を言わさず開拓の実績をあげて中央集権化を進める中央政府の尖兵として力を見せつける、ってことか。渡来人は、高麗川筋を中心に開拓をすすめ、やがて、入間川(いるまがわ)、越辺川(おっぺがわ)、都幾川(ときがわ)と開拓をすすめていったわけであるが、巾着田における 水田開発なども押しも押されもしない実績のひとつとであろう。結局どの解釈を最終自分案として採用するかだが、3案足して3で割るといったところで自分としては結構納得。

武蔵のいたるところに渡来人の足跡がある
なぜ高麗の地に?ということを調べる過程で気づいたことがある。はじめ、高麗の地への移転はなんとなく「特別」な出来事、といった印象を持っていた。平家の落人的イメージというか、渡来人への態のいい「押し込め」といった、一種の「隠れ里」的印象をもっていた。事実はまったく違ったようだ。渡来人の移転、活躍は当時至極あたりまえのこと。武蔵のいたるところに渡来人の足跡がある。地名しかり、神社しかり。新座は西暦758年、帰化した新羅僧32人,尼2人、男19人、女21人の74人を武蔵国に移し設置した新羅郡が名前の由来。「志木」とは「志楽木=新羅」から。渡来人を核として高麗郡と新羅郡をつくったわけだから、これは当然といえば当然。その他東京都狛江市は「コマエ」と呼ぶが語源は高麗(こま)、三鷹市牟礼のムレとは朝鮮語で「聖なる高い場所」、といったように渡来人にまつわる地名は数限りない。
神社も同様。高麗神社とか駒形神社とか白髪神社といった渡来人系の神社の数は東京・埼玉で130箇所以上とも。高麗への移住はなにも特殊・特別なことではない。7世紀後半から朝鮮半島からの渡来人が続々と関東地方に現れている。文献上だけでも「西暦666年(天智5年)に百済人2千余人が東国移住」「西暦684年(天武13年)に百済人僧尼以下23人が武蔵國へ」「西暦687年(持統元年)には高麗人56人が常陸、新羅人14人が下野、さらに高麗の僧侶を含む22人が武蔵へ移住」。そして西暦716年(霊亀2年)の高麗郡が設置であり、西暦758年(天平勝字2年)の新羅郡設置である。天武・持統朝では渡来人を次々と東国各地に移住させていた。渡来人には田地や食料が与えられまた終身にわたり課役が免除されていた。当時の大和の中央政権にとって東国の支配と北武蔵の開発をすすめるためには、高い知識と技術をもった渡来人の力が必要不可欠なものであったのだろう。

飛鳥・奈良時代の日本列島には、何波にもわたって朝鮮半島から大量の渡来人がやってきた
武蔵の地に限らずマクロに日本を俯瞰しても、飛鳥・奈良時代の日本列島には、何波にもわたって朝鮮半島――伽耶や百済・高句麗から大量の渡来人がやってきた。5・6世紀には秦・漢・文氏・今来漢人等。7世紀から8世紀にかけては西暦660年の百済滅亡、西暦668年高句麗の滅亡にともない亡命してきた、百済王家・高麗王家らの亡命渡来人。4世紀以降8世紀の奈良時代まで,高句麗・百済・新羅などからの人々の移住が何波にもわたり繰り返されたわけである。
ここまでメモしてきて、「渡来人」ということを特殊なこととして考えること自体なんだかなあ、という気がしてきた。飛鳥文化発祥の地だった高市郡の人口の8、9割が、百済系渡来人の後裔だったというし、天智天皇は百済系、天武天皇は新羅系、こういった天孫系・征服王朝系も大陸との関わりがあるわけだし、出雲族といった征服王朝以前の有力豪族であってもその祭る神は大陸と深いつながりがあるというし、そもそも日本の神々などほとんどが大陸とのかかわりが強いわけで、渡来人が云々といった議論など意味がない、ということか。

とはいいながら、最後にこんな疑問がでてきた。渡来人の活躍が当たり前のことであったとして、ではなぜ高麗の地が、そして高麗王若光王が今にいたるまで「高麗の」といった形容詞で語られるのであろうか。調べてみた。結論は「高麗王若光が高徳の人」であったから。
神奈川県大磯に、高来神社がある。高麗王若光が祭られている。高句麗の使節としてとも、一族を引き連れての亡命とも言われるが、ともあれ、朝廷の指示で大磯に上陸、各地に散在して、この地方の人たちに、鍛冶、建築、工芸など各種の技術を伝えた。その徳ゆえに、高麗郡の郡長に任ぜられこの地を去って後も大磯の国人等は、長く王の徳を慕い、高来(たか神社をつくり高麗王の霊を祀った。ちなみに白髪神社も高麗王若光が祭られる。「高麗王はその髭髪白かりき、ゆえに 高麗明神を一に白髭明神とたたえ奉る」と言い伝えられている



今でこそ、の尾瀬の自然の有り難味であるが、それっていつの頃からその有り難味が評価されるようになったのか、ちょっと調べてみた。

尾瀬が環境的「歴史」に登場するのは、明治23年。平野長蔵さんが尾瀬沼のほとりに長蔵小屋をたててから。その頃尾瀬の水資源を利用するため尾瀬ヶ原を水没させる計画が出される。長蔵氏は反対を唱えたがなかなか賛同者が得られなかった。ということはこの時期は「世間」からその有り難味を認められていない。

昭和9年尾瀬は日光国立公園の一部に指定された。ということはこの時期に「国」から評価された。しかし、昭和19年尾瀬沼からの取水工事が開始された。平野長英氏は学者たちと反対運動を繰り広げたが,昭和24年工事が終了。沼尻に堰堤が三平下には取水門ができ,樹木や湿原の一部が枯れてしまった。ということは、この時期も「本当に」有り難味は評価されていない。

さらに,昭和30年代後半尾瀬に自動車道を通す工事が強行され,沼山峠・鳩待峠への自動車道が完成。大清水と三平峠を結ぶ自動車道は、平野長靖氏の建設反対への奔走、また、昭和46年環境庁の発足、なおまた、初代長官大石武一氏(かっこよかった政治家だったなあ)の存在もあり、その建設は阻止された。この時期に正式に「本当に」ありがたいものとして評価定着したということであろう。

こういう展開になるとは想像していなかったのだが、三平下で国道401号線が突然切れていた理由がこれでわかった。ここに道路が建設される計画だったのだ。 前述のごとく、戸倉から大清水を経て、沼山峠へ抜ける山道は、古くから上州と会津とを結ぶ交易の道であり、出稼ぎ人々が行き交う道でもあったわけだが、ほぼ、そのルートに沿って、経済成長から置き去りにされた山村の産業振興と観光を目的に、自動車道を建設しようと計画されていたのである。国立公園となろうがどうしようが、この時期までは自然の有り難味より、生活の重みを減らすことのほうが重要であったのだろう。親子3代にわたって尾瀬の有り難味を訴え続けた、その思いの強さもやっとわかった。国立公園に眠ることのその意味合いもやっとわかった。

尾瀬の名前の由来だが、これも例によっていくつもある。尾瀬大納言藤原頼国からきたという説。これは平清盛との恋の鞘当に破れ京を逃れた、とか平家追討の戦に破れたとか、宮廷内の抗争に敗れたとか、以仁王のお供で逃れてきたとか、また大納言の名前も尾瀬大納言尾瀬三郎房利、といったりで、あれこれあってわけがわからないが、ともあれ、この尾瀬の大納言がこの地に住んだことから来たとする説。とはいうものの、「おぜ」という名が歴史上登場したのは江戸時代からで、それも「小瀬沼」であり、それ以前は単に国境を表す「さかい沼」、ふるくは「長沼」「鷺沼」とも呼ばれていたわけで、いまひとつ納得できず。また、安倍貞任の子どもだったり、尾瀬の大納言の部下だったりとこれもあれこれあるが、つまりは悪いやから=悪勢がこの地を襲ったからといった「悪勢説」。これも出来すぎといった感があるので不採用。

尾瀬、って「浅い湖沼中(瀬)に草木が(生)えた状態=湿原」の意味
で、結局は地勢的特長から来る「生瀬」(おうせ)からきたという説。つまりは、浅い湖沼中(瀬)に草木が(生)えた状態=湿原を意味する「生瀬」が転じて「尾瀬」となったという説で自分としては納得。
今回の尾瀬歩きで土地勘ができた。次回は大清水・三平平ルートとは異なるもうひとつの群馬側からのルート。鳩待ち峠ルートで尾瀬ヶ原に行ってみよう。そして三条の滝方面へ降りてみよう。今年の秋までには。

2日目。本日の予定は尾瀬。大江湿原と尾瀬沼に。352号線を内川まで。ここで401号線と合流。352号線と401号線が共存する道を南下し檜枝岐に向かう。



檜枝岐
檜枝岐歌舞伎でよく聞くこの村、尾瀬への福島側から玄関口。江戸時代からの伝統を誇る歌舞伎、しかも、村人、といっても先回のメモのあるように、平家であり、藤原であり、橘である、といった貴種の末裔の誇り高い人たちだろうと思うが、その村人が自ら江戸からもちこんだ手作りの歌舞伎で有名である。であるからして、結構鄙びた村かと想像していた。が、村の造作は少々情緒に欠ける。ガイドの星さんの言によれば、この村、福島で個人所得の最も高いところである、と。観光・民宿で潤っておる。また、ダムの補償もあるとのこと。

沼山峠駐車場
ともあれ、檜枝岐を越え、御池に向かう。途中七入に大きな駐車場。水芭蕉の咲くハイシーズンには、マイカーはここで乗り入れ規制。シャトルバスで沼山峠に向かうことになる。今、8月のお盆はハイシーズンを越えており、御池まで乗り入れできる。ここの駐車場でシャトルバスに乗り換え20分くらいで沼山峠駐車場に。
バスを降り森を歩く。森の中のえも言われぬ「森の香り・フィトンチッド」、この香りは何ものにも変え難い。実は、森の香り感動した体験がある。何ヶ月か前、狭山丘陵の森を歩いていたとき、本当に心身とも癒される、少々叙情感に乏しい私でも本心感動した森の香りに出会ったことがある。ここの森の香りはそれほど「しびれる」香りではなかった。が、身体一杯に香りを吸い込む。木道として整備されたゆるやかな登り道を15分程度登り、沼山峠の展望台・休憩所に。標高1781メートル。燧ヶ岳(標高2,356メートル。東北地方の最高峰。ひうちがたけ)や日光連山、尾瀬沼が見えてきた。

大江湿原

展望台から下ること20分程度、大江湿原に下りる。湿原の道をゆるやかに歩く。ニッコウキスゲ、水芭蕉、ツリガネニンジン、コハギボウシなど私にとっては宝のもちぐされといった感無きにしも非ず。が、湿原の中をただ歩く、というだけで、それだけで十分である。本当に素敵であります。草花で唯一アテンションが懸かった、というか、これ か!といった按配でガイドの星さんの説明に聞き入ったのは、トリカブト。先日の石神井川散歩の折、推理小説家内田康夫さんの隠れファンであることをメモしたが、彼の小説にはトリカブトがよく出てくる。が、どんなものか実物をみたことがなかった。いや、まさに兜をかぶっている。しかも、西洋風の兜を。トリカブト殺人事件というくらいであるので、毒草ではある。ともあれ実物を見て結構満足。

尾瀬沼東端

湿原のなかをゆっくり歩き沼山峠の休憩所から3.3キロ、ほぼ1時間弱。尾瀬沼東端に着いた。休憩所・尾瀬沼ビジターセンターがある。長蔵小屋がある。この山小屋は、尾瀬の自然を林道開発の「乱暴」から守った平野さんの経営する小屋。ちなみに大江湿原から尾瀬沼に歩く途中に平野家3代のお墓のある小さな「丘」があった。国立公園の中に個人・私人のお墓がある。平野さんの功績は国レベルのことであったということだろう。ちなみに平野さんは檜枝岐の出身。

尾瀬沼
尾瀬沼 は標高1,665m。燧ヶ岳の噴火によりせき止められてできた沼。これまたお恥ずかしい話であるが、尾瀬に尾瀬沼と尾瀬ヶ原があるってことも知らなかった。尾瀬は所詮尾瀬であり、そこが端から端まで、尾瀬沼から尾瀬ヶ原まで何キロもあるような広大な地域であることなど想像もしていなかった。沼を半周、というか四分の一周し三平下の休憩所まで歩く。途中、燧ケ岳のすばらしい眺めが。燧=ひうち=火打ち、といかにも火山のイメージが強い名前の由来もあれば、雪渓が「火ばさみ」に見えるから、といった説など燧ケ岳の由来はこれも例によっていくつか。ちなみに私の田舎愛媛県の瀬戸内に広がる海のことを燧灘と呼ぶ。この燧の由来も「日映ち=夕日に映えていかにも美しい海」だから、とか、星にまつわる伝説とかこれも、いくつかの説がある。

星伝説というのは、愛媛県伊予三島市のとある神社で大山祇(おおやまづみ)の神を迎えるに際し、海が荒れた。荒ぶる海を鎮めるべくお祈り。山に赤い星のような火が現れて海を照らす。と、海の荒れがおさまった。以来その山は赤星山、海を日映灘(燧灘)と呼ぶようになったとか。燧ケ岳の名前の由来も、星さん、星の里、といった展開で新たな由来の解釈もあるかもしれない、か?

三平下
三平下で休憩。ここの休憩所に立体地形図、立体地形模型図といったほうが正確だが、東京電力がつくった立体モデルがあった。尾瀬沼と尾瀬ヶ原を取り巻く地形を、標高差を実感しながら「鳥瞰」できる。尾瀬沼から尾瀬ヶ原にゆったりと傾斜し、尾瀬沼・尾瀬ヶ原からの流れが只見川となって三条ガ滝へと落ち込んでゆく。いやはや、百聞は一見にしかず、であるよなあ。

尾瀬へのアプローチはいくつかある。そのひとつが、群馬からこの三平下に出るコース。群馬県の大清水から一之瀬(登り60分)、三平峠を越えて三平下(登り150分)に至る、これは結構のぼりがきついとのこと。

沼田街道

このルート、地図を見てはじめて分かったのだが、国道401号線の一部?国道が「尾瀬を横切っている」?会津から桧枝岐・御池まで続きていた401号線が突然「切れ」、群馬の大清水あたりから突然「現れる」?調べてみると、この国道、昔は沼田街道と呼ばれ、会津若松から群馬県の沼田市、昔風にいえば、会津と上州を結ぶ交易路。徳川時代に沼田城主真田氏の命で道が整備され、会津側からは米や酒、上州側からは油や塩・日用雑貨などが、尾瀬沼のほとりの三平下のあたりで盛んに交易されていた。
また幕末の戊辰戦争(1868年)の際に会津軍は、沼田街道を通って官軍が侵攻してくることに備え、大江湿原に防塁を築いたとのこと。会津軍は尾瀬を越え、戸倉で交戦したためこの地で戦いは行われなかったが、まかりまちがえば尾瀬に戊辰戦争戦跡地の碑が立ったかもしれない。ともあれ、尾瀬も今では観光地、癒しの地であろうが、ちょっと昔までは生活道路であったわけだ。尾瀬の評価が定まったのはいつの頃からなのだろう。 いつの頃から皆が「有難く」思うようになったのであろう。後日調べてみたい。

三平下で休憩後、今来た道を逆に戻り、大江湿原・沼山峠を越え、沼山峠駐車場に。あとはホテルに戻り、本日の予定は終了。片道一時間半強といった尾瀬の散歩ではあった。
昨日の駒止湿原のところでメモしたが、一般的に言えば、湖沼というものは、湖から沼で、沼から湿原へ、湿原から草原へと変わってゆく。今回歩いたこのルート大江湿原、尾瀬沼ではこの沼と湿原が同時にみることができた。10万年前、燧ケ岳の噴火でせき止められた川(大江川であり沼尻川)は湖となり沼となって窪地に満々と水をたたえる。湖は悠久の時間の中で周りから土砂が流入したり、植物が進入したり、川の解析作用が進み、徐々に浅くなってゆく。浅くなった湖に はヨシとかスゲとかミズゴケといった水生植物が堆積し泥炭化し湿原がつくられる。それは7000年前かはじまった。そして、悠久の時間の流れの中で、尾瀬沼は湿原となり、大江湿原は草原となっていくのであろう。
夏が来れば思い出していた、尾瀬に行く事にした。行きたいのだけれども二の足を踏んでいたのは、どこからどのルートで行けばいいのか?どのルートが大変で、どのルートが簡単なのか?日帰りができるのか?車の規制とかなんとか大変そう。と、よく調べれば分かりそうなことを理由に躊躇していた。が、いかなることか、家族で行ってみようと誰かが声を上げた。私ではない。で、言い出しっぺがいろいろ段取りを組み、会津高原にホテルを探し、かつまた、ホテルが主催するガイド付きの尾瀬散策ツアー・初心者向きを予約した。我々年代はあの「夏の思い出」の歌に、そこはかとない郷愁を感じるわけで、「水芭蕉の花が咲いている」尾瀬を思い起こすわけで、しかしながら、こどもたちは「夏の思い出」といえば、ケツメイシでしょう、といった、家族内での思いの濃淡を残しながら、ともあれ家族で尾瀬への道行きと相成った。

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会津高原下車

東武浅草駅から特急SPACIAにのり、下今市まで。下今市から新藤原までは東武本線鬼怒川線。隣のホームで待っていた。新藤原から会津高原へは野岩鉄道。乗り入れをしているので、これも隣のホームで待っていた。
会津高原下車。ガイドさんに迎えられる。星さん。この地方には多い名前であると。少々先走った話となるが、尾瀬への登山口、田舎歌舞伎で結構有名な檜枝岐村、星さん、平野さん、橘さんが非常に多いとのこと。平野は平、この村平家の落人伝説があるくらいだから当然か。星さんは藤原家の一族が棲みついた星の里から、橘は楠正成の流れをくむ武将橘氏から。平家の落人、源氏の落人、都落ちした公卿、戦に破れた戦国武将などなどが隠れ棲んだといった伝説に満ち満ちた この地ならばこそのありがたい、名前が満ち満ちている。それにしても日本の公卿になり得る四大姓、源、平、藤原、橘のうち3つをもっているとは。ガイドの星さんが、檜枝岐村は嫁、婿以外の移住は認めないと聞いたとき、えらい閉鎖的な村であるなあ、などと感じたが、貴種存続の歴史的使命を果たしているのかと納得。

会津西街道

ともあれ、世が世であればの、星さんの車で駒止湿原に。のんきなことに、駒止湿原が尾瀬とはまったくの別物、場所も会津高原を隔てて北・南であることがはじめてわかった。国道121号線を会津田島方面に北上。国道121号線は会津西街道、とも南山通りとも、下野街道とも呼ばれる。会津藩が参勤交代で江戸へ向かうために整備された往時の産業・文化のメーンルート。戊辰戦争のときに、官軍が会津に攻め入った道でもある。山川浩(大蔵)、佐川官兵衛といった魅力的な会津の知将・猛将もこの街道を転戦したのだろうか。調べてみよう。

駒込湿原
会津田島の手前で289号線に合流。左折し静川あたりで右に折れ旧道に。駒込峠のあたりに駒込湿原があった。標高は1000から1100メートル。会津高原が730メートルだから結構登ってきた。湿原は大谷地、白樺谷地、水無谷地の3つの湿原群から成る。植物にはとんと興味もなく、ただ歩きたいだけの私にはもったいない、猫に小判の世界。ともあれ、1時間ほど、大谷地、白樺谷地の途中まで歩く。ブナ、とダケカンバの違い、食虫植物の毛氈ゴケはなんとか覚え た。季節外れで姿・形のない水芭蕉、ニッコウキスゲの花を「想像」しながら、駒止湿地を後に。

帰りは駒止峠方面に。峠のある1100メートルから国道289号線のある地点、標高730メートルまでつづら折れの道を一気に下る。車窓から奥会津の山々が美しい。火山活動によると思える、なんともいえない山の相・姿がある。南会津の地形は過去、地質時代に起きた大規模火砕流噴火の遺物であり、火砕流大地と陥没地形が箇所に沢山残っていると言われる。いかにも「不自然」な山の相・姿が魅力的である。

駒止峠の由来は坂があまりにも急で馬を止めて休ませなければならなかった、とか、高倉宮以仁王の馬の歩みを止めた難路とか。以仁王 (もちひとおう)って平氏追討の命令を出した後白河天皇の皇子。1180年,源頼政の勧めにしたがって平氏追討の令旨(りょうじ・命令文書)を諸国の源氏に下し,挙兵をうながしたが事前に発覚。以仁王を支持する奈良の興福寺に向かう途中,宇治(京都府)の平等院で平知盛(とももり)・重衡(しげひら)らの追撃を受けて源頼政とともに戦死した、はず。実は、落ち延びてこの地にって、よくある伝説。

しかし、この地方には以仁王伝説が多い、いたるところにある。檜枝岐にもある。山を越えた群馬の片品にもあるらしい。植物の名前にまで以仁王に由来のものがある。アカミノアブラチャン。全国の山野にふつうに見られるクスノキ科クロモジ属の落葉低木であるアブラチャンの変種。赤い実をつけるというこの変種では、全国でも、只見町大字長浜地内だけに自生しているもの。伝説では、高倉宮以仁王と平家方の大戦闘がこの地で行われ、以仁王の郎党が平家の武将の首をはねた折、この辺一帯に野生していた黄緑のアブラチャンの実へ血潮が飛び紅く染めた。その後、この地に育つアブラチャンの実が紅くなったと言われている。 

サラサドウダンという県天然記念物のツツジ科ドウダンツツジ属の大木は、伝説では、高倉宮以仁王が越後小国に逃れるとき尾瀬より持ってきたもの、と伝えられている。平家の落人だけでなく源氏の貴種の落人も包み込んだ隠れ里であったのだろう。289号線を進み、401号線・沼田街道と合流。南下。内川で352号線に左折。舘岩村の会津高原のホテルに入り、本日の予定終了。

駒止湿原がどのようにしてできたのか、地質の専門でもないので、いかにも自分が納得できるようまとめるとすれば、火山活動で川が堰どめられる。溶岩台地といったところであるので水はけが悪い。湖ができる。沼になる。湿原になるってプロセスを悠久の時間の中でへてきたのであろう。で湖沼ファイナルステージは草原。駒止湿原も悠久の時間を経て日光の戦場ヶ原のような草原になるのだろう。明日は尾瀬である。
「川はみな曲がりくねって流れている。道も本来は曲がりくねっていたものであった。それを近年、広いまっすぐな新国道とか改正道路とかいうものができて、或いは旧い道の一部を削り、或いはまたその全部さえ消し去ってしまった。走るのには便利であるが、歩いての面白みは全く無くなってしまったのである。
埼玉県白子の町は、昔は白子の宿と云った。私が初めて武蔵野の中の禅林、野火止の平林寺を訪ねたのは、実に久しい以前のことで、まだ開けない全くの田舎であった成増の方から歩いて行った。その少し先が白子なのである。。。」。
素白先生こと、岩本素白の「独り行く(二)白子の宿」の書き出しである。新年、何処から歩き始めるか、少々迷ったとき、素白先生のこの書き出し部分を思い出した。そもそも、素白先生のことを知ったのは、昨年、成増・赤塚台辺りを散歩していたときのこと。一瞬白子の町をかすめ、その名前の面白さに惹かれ、あれこれ「白子」を調べているときに、偶然素白先生の「白子の宿」の文章を見つけた。散歩の達人、散歩随筆の達人ということである。で、著書はなどと探していると、みすず書房から『素白先生の散歩(岩本素白)』が出版されており、上の随筆も収められている。早速に入手。散歩の随筆といえば永井荷風の『日和下 駄』が知られているが、私はこの素白先生の文章に大いに惹かれた。同書の帯に曰く;「愛用のステッキを友に、さびれた宿駅をめぐり、横丁の路地裏に遊ぶ素白先生。沁みるような哀感、えもいわれぬ豊かさ、ひそやかな華やぎが匂う遊行随筆の名品」。そのとおり、である。素白先生の話になると、どこまで続くか分からなくなる。このあたりで本筋に戻る。素白先生の書き出しにあるように、白子の宿から平林寺まで歩こう、ということ。素白先生の歩いた道筋を辿るって、新年の歩きはじめには慶き事なり、と思った次第。(水曜日, 1月 10, 2007のブログを修正)


本日のルート;有楽町線・成増駅>254号線・川越街道>八坂神社>旧川越街道>旧新田宿>白子川>熊野神社>県道・109号線・旧川越街道>笹目通り交差>東京外環自動車道>和光市駅入口交差点>陸上自衛隊朝霞駐屯地前>朝霞警察署前>254号線・川越街道>黒目川交差>水道道路交差点>新座警察所前交差点>新座市役所>平林寺


有楽町線・成増駅
有楽町線・成増で下車。川越街道に沿って西に進む。板橋散歩の折に歩いたところでもあり、見慣れた風景。川越街道が白子川に向かって大きく下る手前にある八坂神社まで進む。素白先生の白子の宿の一説に、「丘の上に幾筋も道の在るのは遥かに見える南の丘と同じことで、この丘陵の上には高原のように打ち開けて秋は薄の野になるところ、如何に神とはいえ淋しかろうと思われる一宇の社があり。。。」とある。勿論原文とは場所も違うだろう。薄もあるわけではなく、車の往来の激しい川越街道沿いにひっそり佇むこの小祠、なんとなく、「如何に神とはいえ淋しかろうと」、思った次第。

新田坂の石仏群
八坂神社の手前に「新田坂の石仏群」の碑。先回訪れたときは、先客があり、じっくりとなにかメモをしておられたので、気にはなっていたのだが、先を急いだ。碑文に曰く:石仏群4基。新田坂(しんでんさか)周辺から集められたもの。道祖神は、区内唯一のもので、文久三年(1869年)の建立。もともとは八坂神社の入口にあった。
常夜灯は文政13年(1830年)の建立。成増2丁目34番の角に立っていたよう。「大山」と刻まれいることから、道標も兼ねていた。川越街道と分れて南に向かう道は、土支田方面に通じる。稲荷の石祠と丸彫の地蔵の造立年代は不明。昭和59年に区の有形文化財に」、と。土支田は白子川を南に進み、笹目通りと交差するあたり。光が丘の西にある。土支田(どしだ)は土師田、つまりは、土師(はじ)器をつくる人達が昔々住んでいた。白子川流域には土師器を焼いていた遺跡が多い。貫井には土師器を焼いた窯場跡が発見されている。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)


八坂神社

向いの八坂神社にちょっとおまいり。「新田宿と八坂神社」の由来書;板橋宿の平尾(板橋3丁目)で中仙道と別れた江戸時代の川越街道は上板橋宿、下練馬宿をへて白子宿へ向かう。八坂神社右手の道が当時の川越街道で、この付近、白子川へ下るための大きく曲がった急坂(新田坂という)となっていた。新田坂から白子川の間は新田宿と呼ばれた集落で、対岸の白子宿から続いて街道沿いに発達した。昭和初期には小間物屋や魚屋、造酒屋などが軒を連ねていた。八坂神社は京都の八坂神社を勧請したものといわれ、「天王さま」とも呼ばれている。御祭神は素戔嗚尊とイナダヒメノミコト。元々は現在地よりやや南にあったが、昭和8年の川越街道新道工事の際に移された」、と。
ちょっと寄り道、というか、素白先生によれば「話は少し横へ逸れるが」という表現だが、この八坂神社ってよくわからない。祇園社、とも天王社とも呼ばれる。ちょっと調べてみた。そもそも八坂神社とは京都の八坂神社を勧請したもの。正確に言えば、八坂神社という名になったのは明治の神仏分離令以降。それまで「天王さま」とか「祇園さん」と呼ばれていた。明治になって本家本元・京都の「天王さま」・「祇園さん」が八坂神社に改名したため、全国3000とも言われる末社が右へ倣え、ということになったのだろう。八坂という名前にしたのは、京都の「天王さま」・「祇園さん」のある地が、八坂の郷、といわれていた、から。ちなみに、明治に八坂と名前を変えた最大の理由は、「(牛頭)天王」という音・読みが「天皇」と同一視され、少々の不敬にあたる、といった自主規制の結果、とも言われている。
で、なにゆえ「天王さま」・「祇園さん」と呼ばれていたか、ということだが、この八坂の郷に移り住んだ新羅からの渡来人・八坂の造(みやつこ)が信仰していたのが仏教の守護神でもある「牛頭天王」であったから。また、この「牛頭天王さま」は祇園精舎のガードマンでもあったので、「祇園さん」とも呼ばれるようになった。上に、御祭神は素戔嗚尊とイナダヒメノミコトと書いた。どうも、牛頭天王=素戔嗚尊、と同一視していたようだ。神仏習合である。
ちょっとややこしいがメモする;牛頭天王の父母は、道教の神であるトウオウフ(東王父)とセイオウボ(西王母)とも考えられるようになった。ために、牛頭天王はのちには道教において冥界を司る最高神・タイザンフクン(泰山府君)とも同体視される。そこからさらにタイザンオウ(泰山王)(えんま)とも同体視されるに至った。泰山府君の本地仏は地蔵菩薩ではあるが、泰山王・閻魔様の本地仏は薬師如来。素戔嗚尊の本地仏は薬師如来。ということで、牛頭天王=素戔嗚尊、という神仏習合関係が出来上がったのだろう。閻魔様=冥界=黄泉の国といえは素戔嗚尊、といったアナジーもあったのだろう。
また、素戔嗚尊は、新羅の曽尸茂利(ソシモリ)という地に居たとする所伝も『日本書紀』に記されている。「ソシモリ」は「ソシマリ」「ソモリ」ともいう韓国語。牛頭または牛首を意味する。素戔嗚尊と新羅との繋がりを意味するのか、素戔嗚尊と牛頭天王とのつながりを強めるためのものなのかよくわからない。が、素戔嗚尊と牛頭天王はどうあろうと同一視しておこうと、ということなのであろう。寄り道が過ぎた。先に進む。

新田宿
素白先生曰く;「僅かばかりしか家並みの無い淋しい町が、中程のところで急に直角に曲がり、更にまた元の方向に曲がっている。いわゆる鍵の手になっているのである。それと、狭い道の小溝を勢いよく水の走っているのとが永く記憶に残った。
新しく出来た平坦な川越街道を自動車で走ると、白子の町は知らずに通り越してしまう。静かに徒歩でゆく人達だけが、幅の広い新道の右に僅かに残っている狭い昔の道の入口を見出すのである。道はだらだら下りになって、昔広重の描いた間の宿にでもありそうな、別に何の風情もない樹々の向こうに寂しい家並みが見える(白子の宿・独り行く2)」、と
川越街道から一筋離れた坂をのんびり下る。素白先生の言うとおり、まっこと、車で走ると知らずに通り越すことだろう。心持ち落ち着いた家並み。このあたりは新田宿であったところ。板橋散歩のときのメモをコピーする;
白子川の手前、道の左手に細井金物店。この向いに童謡作家、清水かつらが住んでいた。かつらの代表的な歌詞は「靴がなる」。当時としては「靴」は高級品であったわけで、わらじではなく、靴に「はれやか」な思いを託していたのかも。
「靴がなる」
1.お手々つないで野道を行けば
  みんなかわいい小鳥になって
  歌をうたえば靴が鳴る
  晴れたみ空に靴がなる
2.花をつんではお頭(つむ)にさせば
  みんなかわいい兎になって
  はねて踊れば靴が鳴る
  晴れたみ空に靴が鳴る

ちなみにおなじところに「浜千鳥」や「おうちわすれて」の作者・鹿島鳴秋も住んでいた。

青い月夜の 浜辺には
親を探して 鳴く鳥が
波の国から 生まれでる
濡(ぬ)れたつばさの 銀の色

夜鳴く鳥の 悲しさは
親を尋ねて 海こえてn

月夜の国へ 消えてゆく
銀のつばさの 浜千鳥

白子川
坂を下りきったところに白子川。南大泉4丁目の大泉井頭公園を源流点とし、和光市、板橋区を流れ、板橋区三園で新河岸川に合流する全長10キロの川。かつては武蔵野台地の湧水を集めて流れる川。大泉の名前も、白子川に流れる湧水の、その豊さ故につけられた、とか。一時は汚染ワースト一位といった、あまり自慢にならないタグ付けをされたりしたが、先日白子川を源流から下ったときの印象では、川越街道あたりまでは美しい流れに戻っていた。白子川の清流を守る市民運動の賜物であろう、か。
白子の由来は、新羅(しらぎ)が変化した、と言われる。奈良時代、武蔵国には高麗郡、新羅郡が置かれた、ってことは以前メモした。新羅や高句麗、百済からの渡来人が移住したわけだが、新羅郡は平安時代の頃には新座郡と記され、大和言葉で爾比久良郡(にいくらこおり)と読まれるようになる。で、新座郡の中で、この成増の辺りは志楽木(しらき)郷と称し、のちに志未(志木)郷となる。志未は志楽の草書体からきたもの、とか。 「白子」も「しらぎ」が変化した地名と云われている。

熊野神社
以上が昨年7月にこの地を歩いたときのメモ。先に進むことにする。新田宿を越え、白子川を渡りT字路。素白先生の描く、「鍵の手」といったところか。右に折れ熊野神社に。素白先生曰く;「小家の並んだ道の右に、後ろに森を背負った社域の広い熊野の社がある。そこには、いささかの滝が落ちている。夏も冬も絶えず落ちていて、本来は信仰の上の垢離場であったのだろう(白子の宿・独り行く2)」、と。
熊野神社は白子の鎮守さま。由来書によれば、「中世、熊野信仰は全国的に武士や民衆の間に広まった。熊野那智大社に伝わる「米良文書」の中の「武蔵国檀那書立写」には多くの武蔵武士とともに「しらこ庄賀物助、庄中務*」の名があり、和光市域の武士にも熊野信仰が伝わっていたことがわかる」と。
この「庄」さんって、平安末期、練馬から和光市にかけて勢力をもっていた武蔵七党のひとつ・児玉党の流れをくむ「庄(荘)」一族であろう、か。境内には大きな富士塚があった。今まで見た富士塚の中でも最大級のもののように思える。神社脇に水が流れ落ちる。いささかの滝、といった表現がぴったり。神社の横に不動院。これって昔の記録にある白子不動さん、だろう。
素白先生の「白子の宿」への思い入れが少々強く、白子で長引いてしまった。先を急ぐ。

川越街道
白子宿の熊野神社を離れ、新座・平林寺に向かって進む。県道109号線。これって、旧川越街道。15世紀、途切れ途切れにあった古道をもとに、大田道潅が江戸と川越をつないだもの。江戸、川越、そして岩槻の城が古河公方に対する上杉管領陣営の攻撃・防御の戦略的拠点であったため、この往還を確保せんとしたのだろう。近世に入り、松平信綱が川越藩主となった寛永16年(1639)以後整備され、川越往還と呼ばれた。幅4、5間(7-9メートル)あった、というから結構広い。
川越往還は板橋宿(板橋3丁目)で中山道と分かれ、上板橋、下練馬、白子(和光市)、膝折(朝霞市)、大和田(新座市)、大井(大井町)の6宿を経て川越まで続く。その先は、道幅は半分以下になるものの、北へ進み川島、松山、大里を通って中山道・熊谷宿へと続いていた。松山から小川、寄居を通って 秩父へも行けるため、秩父参詣に行く者で往還は大いに賑わった、とか。
また、この川 越街道は公儀御用としても重要な往還であった。公儀御用の場合は、先触(人馬通知書)を出しておくことにより、宿場間に必要な人馬の数、駕籠(かご)などは無償で提供されることになる。白子宿には馬7頭、人足3人が常時用意されていた、とか。が、川越往還は川越御用、公儀鷹方御用、大名の江戸参府などの公儀往来が多く、常備だけでは間に合わず、周辺の村からの助っ人・助郷役が必要であった、とか。助郷負担って結構大変であったよう。ために、その代償として茶屋の営業権や、公儀御用の馬であっても、宿からの戻りの時には一般庶民を乗せて駄賃を稼げる、といったあれこれの便宜を受けていた、とか。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)


東京外環自動車道路
東京外環自動車道路と交差し先に進む。東武東上線・和光市駅入口交差点。和光の名前の由来だが、町制施行時に「大いに和する」ということで大和町と。これって、東大和市の由来と同じ。で、市制施行時には本来なら「大和市」、ということになるわけだが、既に東大和市などがあったため、「大和(町)に光を」ってことで、和光市となった、と。

陸上自衛隊朝霞駐屯地
109号線を進む。もちろんのこと、街道沿いの町並みに昔の面影などあるわけもなく、素白先生であっても、情景描写に難儀するのでは、などと思いながら歩を進める。陸上自衛隊朝霞駐屯地あたりで、和光市から朝霞市に入る。少し進むと膝折地区。昔は新座群膝折村と呼ばれた一帯。地名の由来は、馬が骨折したから、と。本来なら膝折町であり、膝折市となるところだが、あまりに縁起もよろしからず。ということで、昭和7年東京ゴルフ倶楽部がこの地に移るとき、その倶楽部の名誉総裁であった宮様の名を頂こう、となったわけ。その宮様が朝香宮殿下。が、そのままではあまりに畏れ多い、ということで、朝霞、となった、とか。いやはや地名の由来って、これといったルールもなく、あれこれあって興味が尽きない。

黒目川
旧川越街道を進む。朝霞警察署のあたりで旧・新川越街道が一瞬合流。このあたりから道は黒目川の川筋に向かっ て大きく台地を下る。黒目川によって開析された台地はその先で再び盛り上がっている。その台地の緑の先に平林寺があるのだろう、あってほしい、との思いが強い。年末に痛めた膝が完治しているわけでもないので、少々弱気。黒目って、先日の野火止用水散歩のときにメモしたように、黒目(くろめ)>久留米(くるめ)、と、東久留米市の名前の由来となったもの。
黒目川は水源を小平市・小平霊園内の雑木林に源を発し、東久留米市>新座市>朝霞市>新河岸川> 荒川へと続く全長15キロ弱の荒川水系・一級河川。カシミール3Dでつくった地形図を見ると、黒目川に沿って台地が大きく開析されている。正直、これほど大きく台地を切り開く川とは思ってもみなかった。そのうち源流点から一度歩いてみよう。

平林寺
台地をのぼり、水道道路の交差点を越え、新座警察署交差点に。ここを南に下ると平林寺まで、あと少し。歩を進める。新座市役所のあたりから平林寺境内林がはじまる。この雑木林は武蔵野の面影を残すものとして、国の天然記念物に指定されている。
フェ ンスに囲まれた雑木林を眺めながら進むと平林寺。昨年野火止用水を平林寺まで歩いたのだが、このお寺さまに着いたときは4時過ぎ。残念ながらお寺は閉門していた。なんとなく気になっていたので、年明け初めの歩きとしてここまで来た次第。拝観料300円を払い境内に。茅葺の山門が美しい。二層の楼門。その後ろに仏殿。山門の南手には半僧坊。半僧坊のことは秩父散歩でメモしたのでここではパス。
全体に落ち着いた、いいお寺。本堂の裏手に進む。雑木林の中をのんびり歩く。野火止用水の支流・平林寺堀の跡が残る。水は流れてはいなかった。武蔵野の林を堪能し、松平伊豆守信綱の墓所に向かう。平林寺は大河内・松平家の菩提寺でもある。

松平信綱
平林寺はもともと、元和元年(1375年)、岩槻に大田氏により創建。この大田氏って、岩槻城主であった太田道潅の父・道心という説、別人という説、あれこ れ。よくわからない。寛文3年(1663年)、川越藩主・松平伊豆守信綱の遺志を受け、子の輝綱がこの地に移す。松平信綱は家康の代官・勘定奉行をつとめた大河内久綱の子。伯父である松平正綱の養子となり松平を称する。島原の乱の鎮圧や「明暦の大火」の後の江戸の復興に尽力。「知恵伊豆」とも呼ばれ、家光・家綱の二代にわたり名老中としてその職務を果たす。松平信綱の墓所のあたりは重厚な墓所が広がる。大河内家の墓所であろう。少々圧倒される。

安松金右衛門
松平家の墓所の手前に安松金右衛門、小畠助佐衛門の墓が並ぶ。安松金右衛門は野火止用水開削の功労者。もともとは新宿にあったお墓を昭和になってこの地に移した
、とか。杉本苑子さんの小説『玉川兄弟』で、伊豆守の主命を受け玉川上水への取水口を羽村にするように玉川兄弟に協力する安松金右衛門の「姿」が思い 出される。
野火止用水を構想する伊豆守としては、高低差の関係より羽村からでなければ自分の領地・野火止台地に導水できない。技術的にも、羽村からでしか分水できなかったわけだが、玉川兄弟は当初、日野あたりからの分水を試みる。が、通水に失敗。結果的に羽村からの分水に落ち着く。
信綱は、玉川上水完成の功により、玉川上水の三分の一を野火止用水に導く許しを得る。野火止用水のことは既にメモしたので、このあたりで止めておく。で、小畠助佐衛門。信綱が川越城主となったとき、原野開墾・藩財政の安定に尽力。最後には家老にまで上り詰めた人物。野火止用水もその事業の一環。

増田長盛

増田長盛の墓もあった。豊臣政権・五奉行のひとり。武人というより文官。上杉景勝との交渉や太閤検地に力を発揮。関が原の合戦時は西軍に属し大阪城の留守居役をつとめる。が、石田三成の挙兵を家康に内通するなどしたため、所領は没収されるものの命は助けられ、身柄は岩槻城主・高力清長に預けられる。その後、息子が大阪の陣で西軍に属したため自害を命ぜられる。平林寺が岩槻にあったためこのお寺にお墓があるのだろう。

見性院殿
見性院殿の墓とい うか宝篋印塔もある。見性院とはいっても、山内一豊の妻・千代とは別人。武田信玄の息女であり、信玄の武将穴山梅雪の妻。ちょっと横道にそれるが、この穴山梅雪って、なんとなく面白い人物。信玄の重臣ではあったが、信玄の息子・勝頼とは反目。諏訪氏の血を受け継ぐ勝頼より、梅雪と見性院との間に生まれた息子が信玄の正当なる後継者であると信じていたから、といった説もある。
ともあれ、武田勝頼と織田信長・家康の連合軍が戦った長篠の合戦で梅雪は無 断で戦線離脱。その後、徳川家康に降伏した。重臣・梅雪にも見限られた勝頼は天目山で自害。名門武田家は滅ぶ。家康と梅雪は安土で信長にお目見え。その後、ふたりで堺見物と洒落込む。その時起こったのが、光秀の反乱・本能寺の変。池宮彰一郎さんの小説『遁げろ家康』にあるように、伊賀の山中をさ迷いながらも家康は窮地を脱する。が、梅雪は落ち武者狩りに遭い無念にも落命。梅雪の死後、見性院は家康の庇護を受け江戸城内で暮らすことになる。
やっと見性院に戻る。見性院といえば、名君・保科正之の養い親であった、ということで有名。この保科正之は二代将軍秀忠と奥女中との間に生まれた子。正室・小督の方に隠れ、見性院が育てることになる。で、この子は信州高遠藩・保科家の養子となり元服し保科正之と名乗る。三代将軍・家光とは異母弟。側近として家光をよく補佐し、その功により会津23万石の藩主に。家光没後はその遺言により、四代将軍家綱の後見役として、その補佐役に徹する。中村彰彦さんの書いた 『名君の碑―保科正之の生涯』は面白かった。見
性院はさいたま市の清泰寺に葬られたが、平林寺の住職とも懇意であったので、ここに宝篋印塔がおかれることになった、とか。

島原の乱供養塔
大河内・松平家の墓所から本堂に戻る途中に「島原の乱供養塔」がある。島原の乱については、昨年中野区散歩のときメモした。中野の宝泉寺に島原の乱鎮圧軍の上使であった板倉重昌がねむっていた、から。が、そのときのメモの記憶もそろそろ、あやしくなってきた。おさらいをする。島原の乱:寛永14年、というから1637年、九州・島原で起こった農民を中心とした反乱。信綱が幕府鎮圧軍の上使として派遣され、知恵伊豆の名をいやがうえにも高めることになる。そもそものはじまりは、大阪の陣の功績により島原の領主となった松倉重政、その子・重家の圧政そしてキリシタン弾圧。また、関が原合戦の功により天草を加増された唐津城主・寺沢堅高の、松倉氏ほどではないにしても、圧政とキリシタンへの厳しい取締り。農民による島原の代官所襲撃をきっかけに、浪人・民衆も加わり3万名弱の勢力となる。
総大将は天草四郎。原城に立て籠もる。反乱勢力に対し、幕府は13の藩からなる鎮圧軍を派遣。そのときの総大将・上使となったのが板倉重昌。が、上使とはいうものの、重昌は三河国・深津藩1万5千石の小大名。黒田藩、細川藩といった何十万石といった雄藩・大大名の軍は重昌を軽視。軍の統制とれるはずもなく、戦線は膠着状態。業を煮やした幕閣は松平信綱を上使として派遣することに。重昌は武士の面目なしと総攻撃を下知。鎮圧軍は指揮に従うわけもなく、重昌は単騎、死を覚悟して攻撃。あえなく討ち死に。

上使として到着した信綱は攻撃を止め、兵糧攻め。さら大砲による威嚇攻撃をおこなう。で、反乱軍の士気が落ちた頃を見計らい、総攻撃。食料もなく士気の衰えの激しい反乱軍は鎮圧され、場内にいたものは婦女子を含め1名を除いて死罪となる。その数2万7000名。うち婦女子は1万2千名にのぼった、という。助命された1名は、原城内の状況を内報していた、絵師だった、とか。
知恵伊豆のイメージとはほど遠い、厳しい処置ではある。が、反乱軍側だけでなく、圧政者にも厳しい処分を下す。松沢重家は打ち首。大名であれば通常切腹であろうが、それも許さぬ厳しい処置。また、寺沢堅高は領地没収。後に自刃した、と。この「島原の乱供養塔」は、3万名にもおよぶ人々を供養するため文久元年(1861年)に大河内・松平家の家臣により平林寺に立てられたもの、とか。
先回の野火止散歩で日没のため参詣できなかった平林寺もやっとカバーし終える。素白先生へのオマージュ故に、白子の宿からはじめた今回の散歩。締めも素白先生の「白子の宿―独り行く2」の最後のパラグラフを引用する。素白先生曰く;「私は何時もこういう何の奇もない所を独りで歩く。人を誘ったところで、到底一緒に来そうもないところである。独りで勝手に歩いているから、時々人と違ったことも考える。先頃この辺りを歩きながら考えたこと、それは昔私はよく、この世間に所謂聡明な人は極めて多いが、善良な人は甚だ稀だと思っていたが、このごろ考えてみると、善良な人は案外多くして、本当に聡明な人というものは殆ど無いということである。
こんな考え方は、私の歩くつまらない道と共に、大方の人はこれ笑うであろう。(昭和三十二年)」。
なんということのないところを、ひたすらに、ぶらぶら歩く。ために、独りで歩く。こんな散歩を2年近く続けてきた。3年目の1月、次回はどこを歩こうか。
吉原神社・鷲神社

石浜神社を離れ、少々遅いお昼をとる、一息いれ、墨田川を見てみようと堤防に進む。少し雨模様。立派な遊歩道となっている。対岸は向島。往古、このあたりが、橋場の渡し・白髭の渡し。古代、鳥越から砂州に沿って石浜のあたりまで東海道が通り、この渡しを超え市川の下総国府につながる。武蔵野台地と下総台地のもっとも接近したところであり、交通の要衝であったのもムベなるかな。交通の要衝というだけではない。浅草観音の門前には集落もできる。人も集まる。浅草寺の北にある、今戸・橋場・石浜の村落も水陸交通の要衝としてだけでなく、多くの寺院も集まる。今回の散歩ではスキップしたが、橋場1丁目の保元寺には踊念仏・時宗の「石浜ノ道場」があった。日蓮宗も石浜道場もあった。文学作品にもこのあたりの地が登場する。『伊勢物語』然り、『更級日記』然り、また墨田散歩のときにメモした梅若伝説の梅若の母・妙亀尼がまつられている「妙亀塚」もこの地にある。言わんとするところは、平安のころには、このあたりは都の人たちにも知られた場所となっていた、ということ。
ともあれ、このあたり一帯は中世、交通・商業・宗教そして軍事上でも重要な地であった。坂東八カ国の大福長者・江戸太郎重長の治める地。当時この浅草湊は海運の一大拠点。江戸時代に江戸湊が開かれるまでは、海から、また内陸の川筋からの船が多数この地に集まっていた。その富を一手に握っていたのが江戸太郎重長。その力あなどりがたく、頼朝がこの地に上陸するまで、市川の地で待機を余儀なくされた程。石浜神社のあたりに江戸氏の出城・石浜城があったとも。最終的には一族の葛西氏、豊島氏などの説得により江戸氏も頼朝に与力した。『義経記』に;石浜と申すところは、江戸の太郎が知行なり。折柄節西国舟の着きたるを数千艘取寄せ、三日が内に浮き船を組んで江戸の太郎は合力す」、とある。で、墨田の隅田宿・寺嶋あたりから隅田川を渡り、この石浜あたりの砂州・微高地に取り付き、その先の低湿地帯は船を並べた「船橋」を渡り、三ノ輪(水の輪)から王子で武蔵の台地に上陸したわけだ。



本日のルート;大黒天(浅草寺)>恵比寿(浅草神社)>毘沙門(待乳山聖天)>福禄寿(今戸神社)>布袋尊(橋場不動院)>寿老人(石浜神社)>弁財天(吉原神社)>寿老人(鷲神社)


石浜神社を離れ三ノ輪に向かう。雨が降ってきたこともあり、三ノ輪にはバスで移動。三ノ輪にある吉原遊女の投げ込み寺・浄閑寺におまいりしよう、となった次第。明治通りを西に。この道筋は昔の「思川」の川筋。吉野通りと明治通りの交差点に「泪橋」の地名が残るほか、川筋はすべて埋められており、川の面影は何もなし。思川は「音無川」の支流。王子あたりで石神井川というか石神井用水から分流され、京浜東北線に沿って日暮里駅前に。そこから先は台東区と荒川区の境を三ノ輪まで続き、三ノ輪でこの思川と山谷掘に分かれる。

バス停の少し先の道を一筋程度南に入ったところに、平賀源内の墓がある、という。昔はこの地に曹洞宗総泉寺があり、そこにあったわけだが、この総泉寺は板橋に移り、源内のお墓だけが残っている。散歩をはじめて源内先生のゆかりの地にもよく出会う。大田区・六郷用水散歩のとき、源内先生が考案した破魔矢がはじめて売られたという新田神社、はじめて住まいをもった神田加治町などなど。江戸のダヴィンチとも、奇人変人の代名詞とも言われる。が、二人を殺傷し獄死した、という話もあるし、その場合、このお墓って、とは思いながらも、とりあえず「土用の丑の日」に鰻を食べるって習慣をはじめた人物、というあたりで矛を収めておく。

昭和通・国際通りが合流し日光街道となり北に向かう三ノ輪に。「三ノ輪」は「水の輪」から転化したもの。往時この地は、北の低湿地・泥湿地、東・南に広がる千束池に突き出た岬といった地形であった。浄閑寺に。明治通りと日光街道の交差点を一筋北に。地下鉄入口の丁度裏手あたりにある。浄土宗のこのお寺さん、安政2年(1855年)の大地震でなくなった吉原の遊女が投げ込み同然に葬られたため「投込寺」と。川柳に「生まれては苦界 死しては浄閑寺」と呼ばれたように、吉原の遊女やその子供がまつられる。

浄閑寺を離れ、「日本堤通り」を吉原大門に向かう。日本堤通り、って、昔の山谷堀に沿ってつくられた土手道跡。昔の「日本堤」跡、というわけだ。日本堤は元和6年(1620年)、二代将軍・家光の命により、下谷・浅草の地を隅田川の洪水から護るため築かれた。幅8m、高さ4m。今戸から三ノ輪まで続く。土は待乳山を切り崩した。日本堤の名前は、「日本全国」の諸大名が分担して工事にあたったから、とか、当時奥州街道も吉野橋から千住小塚原にかけて土手になっており、これって多分「砂尾堤」だったと思うが、ともあれ二つ目の堤=二本堤>日本堤、であったからとか、諸説あり。歌川広重の江戸名所百景『吉原日本堤』には茶屋が並び、吉原への遊客で賑わう堤が描かれている。昭和の初期に日本堤が取り崩されて道となった。
日本堤通り吉原大門交差点に。旧吉原名所のひとつ「見返り柳」とその碑が、ガソリンスタンド脇に。吉原帰りの客が、後ろ髪をひかれながら、このあたりで遊郭を振り返ったところから、この名前が。「後朝(きぬぎぬ)の別れに見返る柳かな」「もてたやつばかり見返る柳なり」「見かぎりの柳とわびる朝帰り」「見返れば意見か柳顔をうち」といった川柳も。昔は山谷掘脇の土手にあったのだが、道路や区画整備のためにここに移された。

弁財天;吉原神社
吉原大門交差点を左折。吉原地区に向かう。いわゆる風俗街ってどのあたりにあるのか、千束4丁目あたりを眺める。このあたりは昔の吉原のメーンストリート・仲之町あたり。はてさて現在の吉原、新宿の歌舞伎町っぽい雰囲気を想像していたのだが、少々さびれた感じ。客引きの黒服さんが手持ち無沙汰な感じ。規制があるためなのか、声をかけるような、そうでないような、微妙なスタンス。
千束3丁目に吉原神社。明治5年、吉原遊郭の四つの隅にあった神社など、近辺の稲荷社を合祀してできた。中でも、九朗助稲荷の創建は古く、和銅4年(711年)、白狐黒狐が天下るのを見た千葉九朗助さんの手で元吉原の地に勧請されたのがはじまり、と。元吉原って、日本橋葦町あたり。明暦3年、廓がこの地に移る。新吉原と呼ばれた所以。それにともない、神社も移ってきた。弁天さまをお祀りしている。

少し先に進むと吉原弁財天。境内の「新吉原花園池(弁天池)跡」によれば、吉原遊郭はこのあたり一帯の湿地帯、いくつもの池が点在湿地帯を埋め立てて造成したわけだが、造成に際して池の一部が残った。で、誰からともなく、いつからともなくその池、花園池というか弁天池のあたりに弁天様をおまつりする。それが吉原弁財天のはじまり、と。
境内には「花吉原名残碑」や関東大震災の時に溺死した遊女のために作られた吉原観音がある。「花吉原名残碑(台東区千束三丁目二十二番 吉原神社)」:吉原遊郭は、江戸における唯一の幕府公許の遊里で、元和三年(1617) 葺屋町東隣(現中央区日本橋人形町付近) に開設した。吉原の名称は、はじめ 葭原 と称したのを縁起の良い文字にあらためたことによるという。
明暦三年(1657) の明暦の大火を契機に、幕府による吉原遊郭の郊外移転命令が実行され、同年八月遊郭は浅草千束村(現台東区千束)に移転した。これを 「新吉原」 と呼び、移転前の遊郭を 「元吉原」という。新吉原は江戸で有数の遊興地のとして繁栄を極め、華麗な江戸文化の一翼をにない、幾多の歴史を刻んだが昭和三十三年売春防止法の成立によって廃止された。(中略)昭和四十一年の住居表示の変更まで新吉原江戸町、京町、角町、揚屋町などの町名が残っていた」。

弁才天
大黒・恵比寿さまに続く三番目のメンバー。古代インドのサラスパティという名の豊かな川の女神。水の流れる音にちなんで音楽を司る神、弁舌さわやかな女神として知られ、妙音天とも大弁才功徳天、とも。
琵琶を弾く弁天さまの姿は、市杵島姫命(いちきしまのひめのみこと)の姿と習合した結果とも言われるが、それ以前は同系の女神・吉祥天と結びついていた。が、この吉祥天は美女ながら、少々怖い女神でもあり、吉祥天は弁才天に合体した、と(『江戸の小さな神々;宮田登(青土社)』)もともとは弁説の才と音楽を司る神。が、日本ではどうせなら金銀財宝をと、「才」が「財」にとって変わる。弁才天も弁財天と書かれるようになる。財産の神としての性格が強まった、ということだ。

寿老人;鷲神社

少し西に進み鷲神社(おおとり神社)に。下町を代表する神社。酉の市、お酉さまで知られる。祭神は天日鷲命(あめのひわしのみこと)と日本武尊(やまとたけるのみこと)。天照大御神(あまてらすおおみかみ)が天岩戸から現れるとき、鷲がどこからともなく飛び来る。八百万の神はその光景を瑞祥(いいしらせ)として、鷲の一字を入れて天日鷲命、と。
開運・開拓の神として当地に鎮座。これが天日鷲命の縁起。東征の帰途、戦勝を記念してこの神社の松に熊手をかけて御礼。その後、日本武尊をしのんで、命日におまつり。その日が11月の酉の日。ということが日本武尊、そして酉の市の由来。江戸時代には江戸っ子の篤い信仰を受けていた、と。

江戸期は鷲大明神。鷲神社となったのは明治になってから。が、少々疑問が。お酉さまって、新宿花園神社にもあるし、渋谷でも毎年お酉さまに集まれ、って義理の母から召集がかかる。ということは、お酉様の本家本元って何処だ?調べてみた;
その起源は、武蔵野国南足立郡花又村(今は足立区花畑町)にある鷲神社のよう。祭神は日本武尊(ヤマトタケル)。東征の帰路に花又地に立ち寄り、戦勝を祝した。これが縁となり尊が伊勢の能褒野(ノボノ)で亡くなった後、神社を作りお祀りしたと伝えられる。中世になると新羅三郎義光が戦勝を祈願したことから武神として尊崇されるようになる。江戸時代になると、日本武尊の命日といわれる11月の酉の日に、武家は綾瀬川を船で、町人は徒歩か馬を使ってこの地に詣でる。が、如何せん、少々遠すぎる。ということで、千住の赤門寺に「中トリ」、浅草竜泉寺(江戸初期の古刹。現在は不明)で「初トリ」が行われることに。結果、吉原を背景とする浅草の大鳥さま、大鷲神社、そしてと隣接する鷲在山長国寺が繁昌するようになった、と。なんとなく納得。もっとも、足立の鷲神社に人が集まった理由は、当時ご禁制であった、賭場が酉の市のときだけ許されていたから、とも言われる。賭博が禁止になると、だれも足立まで行かなくなり、これは大変と浅草に出店をひらき、新人なのか吉原なのか、その動機は知らねども、浅草の大鷲神社が半畳した、と。足立の鷲神社に行ってみなければ。

矢先神社;
福禄寿が残る。が、日も暮れてきた。一応七福神を巡った、ということで、本日の予定はこれにて終了。鷲神社から成行きで道を進み、浅草ロック、というか六区を通り浅草寺方面に。浅草花屋敷脇を抜け浅草寺の西に繁華街歓楽街通称「六区」に。正確には「公園六区」というべきか。明治17年(1884年)浅草寺が「浅草公園」と指定されたとき、7つに分けられた区画のひとつ。1区...浅草寺本堂周囲。浅草神社、二天門、仁王門、五重塔、淡島堂境内2区...仲見世3区...伝法院の敷地4区...公園中の林泉地。大池、ひょうたん池のあった付近。5区...奥山と呼ばれたところで公園の北部。花屋敷から本堂にかけてのあたり。6区...見世物の中心地。旧ひょうたん池跡をのぞく現在の六区ブロードウェイ。7区...公園の東南部。浅草馬道町明治17年、田圃を掘り起こし人造の池をつくる。それが「ひょうたん池」。掘り起こした土で整地したところが6区の繁華街。1951年には今度は、「ひょうたん池」を埋め立てる。浅草寺観音本堂再建の資金調達のため。埋め立て跡地は総合娯楽センター「新世界」となった、という。今はない。

ところで、七福神といえば宝船、ってことになる。いつの頃からか船に乗るようになったのかは定かではない。が、18世紀の初めころには乗船していた、とか。この宝船&七福神のペアは上方より江戸で盛ん。もっとも、将軍家とかお公家さんとか、武家の宝船には七福神は乗船していないようであり、七福神って庶民の間に広まった信仰であったのであろう。

それと浅草七福神、よくよく数えると九社ある。これは中国の列子の宇宙論、というか故事からきている、とか。曰く;「一変じて七となり、七変じて九となる」から、とか。だから、七も九も同じ、ってこと?少々こじつけっぽいのだが、なんのことやら、よくわからん;もう少し前後をメモする;
「子列子曰く、昔者聖人、陰陽によって以て天地を統(す)ぶ。夫れ有形の者は無形に生ず、即ち天地安(いづ)れより生ずるや。故に曰く、太易有り、太初有り、太始有り、太素有り。太易は、形の始めなり。未だ気を見ざるなり。太初は、気の始めなり。太始は、形の始めなり。太素は、質の始めなり。気形質具はって未だ相離れず、故に渾淪(こんろん)という。渾淪は、万物相渾淪して、未だ相離れざるを言うなり。視れども見えず、聴けども聞こえず、循(したが)えども得ず。故に易(い)と曰ふなり。易は形埒(けいれつ)無し。易変じて一と為り、一変じて七となり、七変じて九となる。九変は究するなり。乃ち復(また)変じて一と為る。一は、形変の始めなり。清軽なる者は、上って天と為り、濁重なる者は、下って池と為る。冲和の気なる者を、人と為す。故に天地精を含み、万物化成す」。列子の宇宙論では無から気が生じ、気は形を得て万物を生じる、と。「九変」はさまざまに変化すること。

浅草七福神巡りのメモもこれで終了。恋愛強化年間の皆様のガイドとして、ひたすら歩いたことがお役に立てたのであれば少々の幸せ。 
待乳山聖天・今戸神社・橋場不動・石浜神社

浅草花川戸を離れ、待乳山聖天、今戸神社、橋場不動、石浜神社と、これから先は、白髭橋のあたりまで隅田川に沿って歩く。今戸、橋場、石浜といった地名は、江東区や墨田区を含めた東京下 町低地の地形や歴史を調べるときに、幾度となく目にしたところ。地形としては、白髭橋のあたりから浅草、そして鳥越あたりまで隅田川にそって砂州というか自然堤防として形つくられた微高地となっていた。それ以外はというと、浅草の西というか北というか、入谷・竜泉寺・千束一帯は「千束池」、その南上野駅の東一帯、下谷・浅草・鳥越一帯は「姫が池」が広がり、これらの池は小川でつながっているわけだから台東区一帯は沼地といったところであろう。これらの低湿地帯が埋め立てられ、現在の姿に近い地形になるのは徳川の時代になってからである。



本日のルート;大黒天(浅草寺)>恵比寿(浅草神社)>毘沙門(待乳山聖天)>福禄寿(今戸神社)>布袋尊(橋場不動院)>寿老人(石浜神社)>弁財天(吉原神社)>寿老人(鷲神社)


毘沙門;待乳山聖天
隅田川に沿った江戸通りを北に進む。吾妻橋西詰めから松屋の脇を進み、東武伊勢崎線のガードをくぐる。墨田公園を右手に眺めながら言問通り・言問橋西詰めを越え、微高地ルートの最初の目的地、待乳地山聖天(まつちやま・しょうでん)に。小高い丘になっている。昔は鬱蒼とした森であった、とか。推古3年というから595年。この地が一夜のうちに盛り上がる。推古36年の浅草観音出現への瑞兆と伝えられている。同時に龍が舞い降り、この丘を守護した、と。待乳山本龍院の由縁か。で、この「待乳山」って名前、少々艶かしい。が、もともとは「真土山」。本当の土といった意味。沖積低地部には珍しい洪積層=本当の土、の台地であるからだろう。いつのころからか、真土が待乳に変わった訳だが、聖天さまというのは夫婦和合の神様である。それはそれでなんとなく納得。

毘沙門;
毘沙門。もともと暗黒界の悪霊の主。が、ヒンズー教ではクベーラと呼ばれ財宝福徳を司る神に。で、仏教の世界では、仏教の守護神に。サンスクリット語でベイシラバナと呼ばれる。夜叉、羅刹を率いて帝釈天に従う四天王のひとり、となる。説法をよく聞いたということから、別名、多聞天とも呼ばれた、とか、同系の神として多聞天と習合された、とか諸説あり。知恵の神様としても信仰された、よう。日本では戦いの神様としても名高く、武将達の信仰が厚かった。鞍馬寺の毘沙門天が庶民の信仰を集め、七福神のメンバーとなった、とか。

聖天さまを離れ、江戸通り(昔の奥州街道)を北に進む。道路の左手には山谷掘跡。道脇に今戸橋跡。隅田川との合流点・山谷堀水門跡地一帯は、現在は埋め立てられ公園になっている。山谷堀は王子から流れる音無川の下流部。というよりも、明暦2年(1656年)浅草裏の田圃の中に生まれた新吉原に向かう川筋というか掘として知られる。猪牙舟という小さな舟を仕立て、浅草橋あたりから隅田川を上り、山谷堀を吉原に進むのが「カッコ良い」吉原通いであったよう。

福禄寿;今戸神社

今戸1丁目の今戸神社に。今戸神社は1063年、奥羽鎮守府将軍・源頼義、義家親子が勅令により奥州の安倍貞任・宗任討伐のとき、鎌倉の鶴ケ丘と浅草今之津(今戸)に京の石清水八幡宮を勧請したのがはじまり。今戸八幡と呼ばれる。その後1081年、清原武衡・家衡討伐のため源義家がこの地を通るにあたり、戦勝を祈願。勝ち戦に報いるため社殿を修復した、とか。戦火にあうたび再建が繰り返された。江戸時代には三代将軍家光も再建に尽力している。境内に沖田総司終焉の地の碑。京の地から江戸に引き上げた総司は松本良順の治療を受ける。官軍の江戸入りに際して、この地に居を構えていた良順のもと、今戸八幡に収容され治療にあたった。が、その甲斐もなくこの地で没した、と。
境内には「今戸焼」発祥の地の碑。また、この地は「招き猫」発祥の地でもある。商売繁盛の「招き猫」の登場は江戸になってから。人形の招き猫はこの地の今戸焼での人形がはじまり。浅草に住まいする老婆、その貧しさゆえに、可愛がっていた猫を手放す。夢枕に猫が現れ、「吾が姿を人形にすれば福が来る」と。で、つくった人形を浅草寺参道で売り出すと大評判になった。目出度し目出度し、ということで先に進む。

福禄寿
道教の神様、とか。が、正体は不明。星の神様であったり、仙人であったり、と諸説あり。頭が長い独特の風貌が絵柄として面白く、絵の「モデル」として室町時代に人気があった、とか。福(幸福)・禄(富)・寿(長寿)と、名前がいかにも縁起がよさそうなので、庶民の信仰の対象となり、七福神におさまった、とも。とはいうものの、あまり日本に馴染みのない神であり、七神とするための「添え物」的なものである、と『江戸の小さな神々;宮田登(青土社)』にコメン トあり。納得。

布袋尊;橋場不動院

明治通り手前、橋場2丁目に砂尾山・橋場寺不動。道からちょっと入った奥まったところにある。うっかりすると見逃しそう。こじんまりしたお不動さん。が。天平宝字四年(760)というから長い歴史をもつ古刹。江戸時代に描かれた図を見ると、おなじく道から奥まったところに本堂、いかにも草堂といった雰囲気のお堂がある。

布袋さま
三神に次いで加わった毘沙門天の後、五番目にリスティングされたのが布袋さま。布袋尊とも呼ばれるように、お坊さん。神様ではない。9~10世紀頃の中国唐代の禅僧契此(かいし)。常に大きな布袋を担いで各地を放浪し、吉凶を占い、福を施した、と。弥勒菩薩の化身とも言われ、聖人として、神格化され崇められてきた。日本には禅画の中で竹林の七賢人という図柄で伝わった、と(『江戸の小さな神々;宮田登(青土社)』)。

寿老人;石浜神社

明治通りを越え、白髭橋西詰めのちょっと先に石浜神社。後ろには大きなガスタンク。周りは広々とした公園に整備されている。お宮も予想と異なり、都市計画で整備された中にたたずむお宮さんといった雰囲気。歴史は古い。聖武天皇の神亀元年(724)勅願によって鎮座。文治5年(1189)、源頼朝が奥州・藤原泰衡征討に際して戦勝を祈願し「神風や 伊勢の内外の大神を 武蔵野のここに 宮古川かな」と詠む。で、戦に勝利しそのお礼に社殿を寄進。境内にはいくつもの神社が集まっている。
「麁香神社(あらかじんじゃ)」は家つくり、ものつくりの神様。職人さんの信仰を集める。「日本大工祖神の碑」があるのもうなずける。「江戸神社」はこの地を治める江戸太郎重長が勧請した「牛頭天王社(ごずてんのうしゃ)」がはじまり。鈴木理生さんの『江戸の町は骨だらけ;筑摩文庫』に牛王天についての興味深い記事があった。どこかで牛王天のことをきちんとメモしようとは思うが、今日のところは、橋場の鎮守さまであったが、後に江戸神社となった、ということで止めておく。「北野神社」は言わずもがな。そのほか、妙義八幡神社とか寿老神とか。富士塚といった富士遥拝所もある。また「名にし負わば」の「都鳥歌碑」もある。
この神社には「真先神社」もある。天文年間に石浜城主となった千葉之介守胤が「真っ先駆けて」の武功を祈願した真先稲荷がはじまり。もとは隅田川沿岸にあり、門前は吉原豆腐でつくった田楽を売る茶屋でにぎわった、とか。吉原への遊びの客がこの地を訪れ詠んだ川柳;「田楽で帰るがほんの信者なり」。大正時代に石浜神社と一緒になりこの地に。この地、とはいうものの、石浜神社も真先神社も別の場所にあった。石浜神社の西隣にある大きなガスタンク・東京ガス千住整圧所。石浜神社はこの整圧所の北の方にあったらしい。真先神社は東の方墨田川寄りにあった、とか。で、工場建設に伴い現在の地に移転した、ということだ。お宮を離れる。あれ、神社の裏にお墓がある。「お申し込みは石浜神社に」、といった文句。神社にお墓ってなんとなく違和感。が、どうも都内唯一の神社霊園であるとか。

寿老人

福禄寿と同様、正体不詳。道教の祖・老子が神格化されたもの、との説も。福禄寿、寿老人を生み出した中国でもしばしば二人の仙人は混同されている。ともあれ、名前のとおり、長寿の神様として信仰された、よう。福禄寿と同様、七神とするための「添え物」的なものである、と『江戸の小さな神々;宮田登(青土社)』に書いてあった。
本日はここまで。

浅草七福神散歩_1;浅草寺・浅草神社;年明けのとある休日、浅草七福神巡りに出かけた。都内のパワースポットを訪れ、霊験あらたかなるを、体現する。もって、恋愛強年間のスタートに、との想いを巡らす会社の皆様とご一緒した次第。あれこれ歩き、各所で七福神に出会ってはいた。実際、浅草七福神の鎮座する寺社はすべて「巡り」済み。で、勝手知ったる、わが町の如く、七福神巡りのルーティングをおこなう;大黒天(浅草寺)>恵比寿(浅草神社)>毘沙門(待乳山聖天)>福禄寿(今戸神社)>布袋尊(橋場不動院)>寿老人(石浜神社)>弁財天(吉原神社)>寿老人(鷲神社)>福禄寿(矢先神社)、といった段取りで巡ることにする。

土地勘は問題なし。目を閉じても歩けそう。が、先般の散歩でも正面切って「七福神」を意識して歩いたわけでもない。「七福神」って良く聞くのだが、あまり詳しいことも知らない。で、「七福神」の何たるかについてまとめる。

七福神、って簡単に言えば、(幸)福をもたらす七人の神さま、ってこと。「福の神」という名前は中世の民間信仰の中に現れている。室町末期、応仁の乱といった戦乱により疲弊した庶民の心に、福を求める土壌があったこと、また室町以前の神様・仏様は鎮護国家、五穀豊穣といった、国や村といった共同体の「福」を願うものであったわけだが、室町になると商業活動がはじまった頃でもあり、庶民・個人の幸福への願いを託す信仰がはじまった。こうした庶民の福の神信仰の広がりを背景に、七福神信仰がはじまった。七福神といっても、はじめから七神そろっていたわけでもないようだ。また、メンバーの交代もあれこれ、おこなわれていた、と。

はじまりは、大黒天。次いで、恵比須さんとペアーとなる。が、二神で満足することなく女神・弁才天が加わり三神となる。日本古来の守神・恵比寿さんに、中国をへてインドから伝わった大黒さま・弁天さまを加えた三神信仰がはじまった。弁才天がメンバーとなるに際しては、吉祥天という女神さまとのコンペがあったよう。が、結局選ばれたのは弁才天。吉祥天は同じ美女ではあるが、少々怖い女神と思われていたから、とか。

三神が決定。が、何が物足らなかったのか、京の民人は毘沙門天を加える。多聞天との習合、とも言われる。そして、次には四神では縁起が悪いかも、ということで布袋和尚を加えて五福神となる。それでも物足らず、福禄寿と寿老人をエイヤ、とばかり付け加え、七福神を誕生させた。三神でも、五神でも 六神でもなく八神でもなく、七神としたのは、仏教経典の「七難即滅七福即生」にちなんだとか、中国の「竹林の七賢」にちなんだとか、諸説あり。

室町に興った七福神信仰も人気が大ブレークしたのは江戸時代。きっかけは、天海僧正による、七福神信仰の奨励。家康の政治指南でもあった天海は、七福神のもつ七徳によって天下を統一した家康の威徳と、その徳を拝みなさい、ということであったのだろう。江戸も中期以降、庶民が豊かになるにつれ、レクレーションを兼ねた「七福神巡り」が全国に広まることになる。先般メモした秩父観音霊場巡りが江戸庶民に広がるプロセスと同じ。メンバー交代の動きもあった、とか。
神様でもない福禄寿と寿老人がメンバーって、いかがなものか、と、福禄寿の変わりに吉祥天を加えるべし、って意見も。猩猩を寿老人の代わりに入れるべし、って説も。猩猩って、想像上の獣。福をもたらす海の霊獣と考えていたよう。また、福助とお福さんを加えるべし、との意見も。
あれこれと途中経過があったものの、インドのヒンドゥー教や中国思想などから候補が選ばれ、日本的な神さまにアレンジされ、厳しい選抜戦に勝ち残ったのが現在の七福神。現在、 全国で80箇所以上の「七福神巡り」がある、という。



本日のルート;大黒天(浅草寺)>恵比寿(浅草神社)>毘沙門(待乳山聖天)>福禄寿(今戸神社)>布袋尊(橋場不動院)>寿老人(石浜神社)>弁財天(吉原神社)>寿老人(鷲神社)>福禄寿(矢先神社)、

七福神散歩をはじめる。メモは七福神のコメント以外は先般歩いた台東区散歩のメモをコピー&ペースト。はてさて、集合場所は東武浅草駅。雷門通りを西に進み、「雷門」に。道を隔てて南側にある「浅草観光文化センター」で資料集め。
ところで、浅草は台東区にある。読みは、「タイトウ」区。台東区の「台」は上野の高「台」、「東」は上野の高台の東、つまりは浅草を指す、という。「台」は台覧、「東」は聖徳太子ではないが、「日の出ずるところ」であり、台も東も、どちらにしてもありがたい言葉である、と。
それにしても台東区って、少々分かりにくい。ひねり過ぎ?この散歩をするまで、浅草って隅田川の東、墨田区にあると思っていた。実際歩いてみて上野から結構近いところにあった、と改めて気づいた。区名 を決めるときは、東区とか上野区,宮戸区とかなどいろいろ案はあったよう。候補のひとつである上野浅草区でもなっていれば、少々わかりやすかった、かも。 ともあれ、最初の目的地、大黒天のある浅草寺に。

大黒天;
浅草寺浅草寺に伝わる縁起によると、創建は推古36年というから628年。漁師の檜前浜成(ひのくま・はまなり)と竹成(たけなり)が隅田川から拾い上げた金の観音像を、村長・土師中知(はじのなかとも)の家におまつりしたのが浅草寺のはじまり、と。
その後、大化元年(645年)には勝海上人が観音堂を建立。縁起は縁起以上のものではないにしても、すくなくとも平安時代の中頃には立派なお堂ができていたようではある。頼朝も治承4年(1180年)隅田川を渡り、武蔵の国へ攻め入るとき、浅草寺で戦勝祈願をしたというし、頼朝の父の義朝も浅草観音の信者であったというし、鎌倉の地に鶴岡八幡宮を造営の際、地元の宮大工など頼むに足らず、ということで、浅草寺をたてた浅草の宮大工を呼び寄せた、ともいうし、あれやこれやで結構昔から浅草寺は賑わっていた、そのことは間違いなさそう。
それにしても、それにしても、である。仏教伝来は538年。漁師の檜前浜成(ひのくま・はまなり)と竹成が隅田川から金の観音像を拾い上げたのが628年。伝来以来、一世紀弱で川から拾い上げた「もの」が「仏像」であると、一介の漁師がわかるものであろうか。あるとすれば、わずか一世紀弱で仏教が一般市民にも広まっていた、ということであろうか。
と、あれこれ考えながら、ふと気がついた。檜前浜成(ひのくま・はまなり)と竹成っていかにも渡来系の人。墨田区の散歩でメモしたように、この浅草湊は帰化人の橋頭堡であった。とすれば渡来系帰化人って、仏教を持ち込んだ人たちであろうから、拾い上げた像が「仏像」だとすぐにわかって当然でもあろう。結論;浅草湊は帰化人によって開かれた。仲見世通りを進み、浅草寺本堂におまいり。

それにしても境内にはいろいろな神や仏がそろっている。念仏堂、涅槃堂。閻魔堂などのお堂が169、お稲荷さんが35、不動堂が11、地蔵堂が10、弁天社が7、恵比寿・大黒さまが10。権現様もある。神や仏のデパートのようなお寺さんと呼ばれていた。
秘仏のご開帳も盛ん。江東区散歩のときの回向院は出開帳(でがいちょう)のナンバーワンのお寺であったが、この浅草寺は居開帳(いがいちょう)、つまりは自分のお寺の秘仏を自分のお寺でご開帳するって催しが二年に一度の割合で開かれていた、という。秘仏ご開帳の利益は膨大。『観光都市 江戸の誕生;安藤優一郎(新潮新書)』によれば、文化4年(1807年)のご開帳では70日間(本来は60日が最大)のイベントで、儲けが今の金額でおよそ2億円。この金額は通常の浅草寺のお賽銭額の3分の2にもなるという。
それではと、これも本来は33年に一度しかできないものを、あれこれ理由をつけて頻繁にイベントを催したお寺もあったようで、成田山新勝寺など150年の間に10回というから、15年に一度出開帳をおこなっている。ビジネスマネジメントの立場からして、気持ちはわからないでもない。

大黒天;福の神として最も早く祀られたのがこの大黒さま。もとはヒンズー教の破壊の神・シバ神。が日本に仏教とともに入ってきたときはお寺の食を司る神、台所の守り神 となっていた、と。日本に持ち込んだのは、天台宗の開祖最澄である。天台寺院の厨房に大黒天が置かれるようになったことから、この信仰が庶民にも広がった。台所の神から台所を司る主婦の守護神となり、さらには家の守護神となった、とか。
大黒天人気上昇の背景に、大国主命(おおくにぬしのみこと)の存在があった。 今日丁度手に入った『江戸の小さな神々;宮田登(青土社)』によれば、「最澄が天台宗の守護神として三輪山の三輪明神を勧請したという縁起があり、大国天の姿をした三輪明神が叡山に招かれ大国主命の神霊として、天台宗の守護神となった」、と。袋を担いだ大黒天の姿と、「大きな袋を肩にかけ」の大国主命の姿、大黒=大国という語呂も、大黒天と大国主命の混同に効果的であった、かも。記紀伝説に登場する日本を代表する「大国主命」の力も大いに影響し、福の神、打出の小槌をもっての無尽蔵の財宝と富のシンボルとして全国的に信仰されるようになった。

恵比寿;
浅草神社浅草寺の本堂から 少し奥というか北に浅草神社。檜前浜成と竹成、それと土師中知の3人を祭神とする。その後、神仏習合、というか本字垂迹というか、ともあれ「神も仏も皆同じ」といった論法で村長の土師中知が阿弥陀如来、浜成と竹成がその脇時の観音菩薩と勢至菩薩であるという権現思想が生まれ、この浅草神社が三社権現と呼ばれるようになる。「三社さま」の由来である。後に東照権現(家康)もおまつりされた。
本殿、弊殿、拝殿は共に慶安2年(1649年)家光公によって再建。この神社の祭礼である三社祭りは、以来江戸の三大祭りとなって今に至る。○ 恵比須さん。大黒さまに次いで登場した福の神。七福神の中で唯一の日本の神さま。ご存知、伊弉諾尊(いざなぎのみこと)・伊邪那岐命(いざなみのみこと)の三男、夷三郎が恵比須、とか。九州・日向の里からたどり着いたのが、摂津国西宮(兵庫県西宮市)。夷神社があるところ。
「えびす」の語源は、もともとは「夷」。海の遠方から富を授けてくれる神・漁業の神さまとして信仰される。はるかかなたの地から福をもたらす恵比寿さんは、寄神(よりかみ)、客神(まろうどかみ)であるがゆえに、農民や商人にも信仰され、農村では田の神、山村では山の神としても信仰される。ために、豊作の神様と。恵比須を全国に広めたのは、西宮夷神社の神人たち。全国を回り、恵比須を神像を配ったり、年末・年始に家々を廻り「エビス舞わし」などを披露し販促にこれ務めた。その結果、恵比須は大黒天と並んで全国で商売繁盛神として信仰されるようになった、とか。熊野の御師による熊野信仰の普及はあれこれ調べたことがある。恵比寿さんの祭祀圏の拡大もそのうちに調べてみよう。

浅草神社を離れ、花川戸地区に。名前に惹かれる。由来ははっきりしない。が、旧町名由来案内、によれば、「川や海に臨む地に戸をつけることが多いという。花川戸の地は、桜の並木あるいは対岸の墨堤に咲く桜など桜と隅田川に結びついていたので、この名がついたのではなかろうか」と。結構納得。
花川戸2丁目の花川戸公園に「姥が池跡碑」と「助六歌碑」。姥ヶ池(うばがいけ)は、昔、隅田川に通じていた大池。明治24年に埋立てられた。姥ヶ池にまつわる「石枕伝説」が残る:昔、浅茅ヶ原(あさじがはら)の一軒家で、 娘が連れてくる旅人の頭を石枕で叩き殺す老婆がいた。ある夜、娘が旅人の身代わりになって、天井から吊るした大石の下敷きになって死ぬ。 それを悲しんで悪業を悔やみ、老婆は池に身を投げて果てる。里人はこれを姥ヶ池と呼んだ。(東京都教育委員会による碑文)、と。

「助六歌碑」は「歌舞伎十八番助六」の歌碑。市川団十郎の当たり芸。あらすじは;助六は花川戸の侠客。助六は実は曽我五郎である、と。曽我物の「おきまり」。源家の家宝「友切丸」を探すため、毎夜吉原で喧嘩三昧。相手に刀を抜かし「友切丸」かどうか調べる。
吉原の遊郭三浦屋の揚巻は、人気全盛の花魁。助六といい仲。髭の意休は権力と金を嵩にきて揚巻に言い寄る。が、相手にされない。意休は助六を罵倒。刀を抜く。この刀こそ「友切丸」。意休を討ち果たして刀を奪う。助六は揚巻の助力で吉原から逃れた。代々の団十郎は曽我五郎を荒事の典型とする。助六もそのひとつ。助六の決まり文句:「江戸八百八町に隠れのねえ杏葉牡丹の紋付も桜に匂う仲の町、花川戸の助六とも、また揚巻の助六ともいう若いもの間近くよって面像おがみ、カッカッ奉れえ」
2月のはじめ、伊豆を歩くことになった。きっかけは倶利伽羅峠と同じく、源氏だったか平家だったか、ともあれやんごとなき公達を主人公にした恋愛シミュレーションに嵌った同僚のお誘い、から。
韮山にある頼朝配流の地・蛭が小島、北条家の館跡、修善寺に移り実朝、範頼終焉の地を巡るとのこと。韮山といえば、蛭が小島もさることながら、江川太郎左衛門ゆかりの地でもあり、一度は行ってみたい、と思っていた。また、1泊2日の行程の中には「伊豆の踊り子」の歩いた下田街道を登り、天城峠を越え、河津七滝を歩く、という、少々のコンプリメントというか、散歩フリークへのご配慮もある。行かずばなるまい、ということである。(火曜日, 2月 27, 2007のブログ修正)



本日のルート;伊豆箱根鉄道・韮山駅>韮山・イチゴ狩りセンター>代官屋敷>蓮華寺>山木判官屋敷跡>蛭ケ小島>伊豆箱根鉄道と交差>成福寺>伝堀越公方跡>政子産湯の井戸>狩野川>守山自然公園遊歩道>守山山頂展望台>古川>真珠院>願成就院>伊豆箱根鉄道・韮山駅>修善寺駅>修禅寺>指月院>実朝の墓>範頼の墓>湯ヶ島温泉

伊豆箱根鉄道・韮山駅
品川駅から「踊子号」に乗り、三島に。伊豆箱根鉄道に乗り換え韮山駅で下車。このあたり伊豆の国市韮山と言う。2005年、伊豆長岡町・韮山町・大仁町が合併してできたもの。駅から東に進み最初の目的地は「韮山・イチゴ狩りセンター」。ビニールハウスの中を、後ろから迫るグループに追い立てられる如く、とはいいながら、もとを取らずば帰れまい、といった落ち着かない心持で畦道を進むわけで、情緒のないことこの上なし。とっとと切り上げ、イチゴ狩りセンターから南に少し歩き、次の目的地「江川邸」に。

江川邸
江川邸。代官屋敷を今に伝える重要文化財指定の建物。高い天井裏の構造、立ち木をそのまま利用した生き柱などの説明をボランティアガイドの方より説明を受ける。このお屋敷の主人はご存知「江川太郎左衛門」。ご存知、とは思ったのだが、同行の、それほど若くもない同僚諸氏にはあまり馴染みがないようでもあった。
江川太郎左衛門、といえば幕末・洋学・韮山代官・反射炉・お台場・海防・西洋砲術、といったキーワードが思い浮かぶ。が、江川太郎左衛門って、代々世襲の名前であった。祖始は清和源氏・源経基からはじまる名家。もとは宇野を名乗った。宇野治長が頼朝の挙兵を助けた功により、江川荘を安堵。鎌倉幕府・後北条と仕え、室町になって「江川」姓に改める。秀吉の小田原攻めの際、北条から離反し家康に与力。その功により代官に。明治維新まで駿河・伊豆・甲斐・相模・武蔵の天領(5万4千石。後に26万石)の民政官として活躍した、と。

江川太郎左衛門
キーワードで代表される江川太郎左衛門、って36代の英龍のこと。号は担庵(たんなん)。若くして江戸に遊学。斉藤弥九郎に剣を学ぶ。二宮尊徳を招き農地改良をおこなったり、領民への種痘 接収など仁政を行い、「江川大明神」などと慕われる。そうそう、日本で最初のパンをつくった人でもある。
が、江川太郎左衛門といえば、なんといっても、反射炉であり、西洋砲術であり、お台場である。実のところ、この代官屋敷でボランティアガイドさんから説明を聞くまで、何ゆえ「韮山代官」が海防に尽力しなければならないのか、不思議に思っていた。伊豆の一地方・韮山の代官がどうして、相模湾・江戸の海防に腐心する必要があるのかわからなかった。説明によれば、韮山代官ってその行政範囲は駿河・伊豆・甲斐・相模・武蔵の天領といった広大なもの。外国船が出没しはじめた相模灘・相模湾、江戸湾の入口は行政管轄内であり、幕府の施策として「外国船打ち払い令」が制定されている以上、代官としては、その職務を全うするために海防施策にこれ勤める必要があったわけだ。「韮山代官」って如何にも「局所」っぽい名称に少々惑わされていた。
江川太郎左衛門と海防:職務上の必要から海防への強い問題意識。川路聖謨・羽倉簡堂の紹介で渡辺崋山・高野長英ら尚歯会の人物と交流。尚歯会は古色蒼然たる砲術の近代化のため、洋学知識の積極的な導入を図る。崋山は、長崎で洋式砲術を学んだ高島秋帆の登用を図る。蘭学を嫌う鳥居耀蔵ら保守勢力による妨害。天保10年(1839年)の蛮社の獄。鳥居の仕組んだ冤罪(えんざい)により崋山・長英ら逮捕され、尚歯会が壊滅。江川は老中・水野に評価されており、罪に問われることはなかった。
坦庵は崋山らの遺志を継ぎ高島秋帆に弟子入り。近代砲術を学ぶ。幕府に高島流砲術を取り入れ、江戸で演習を行う。高島流砲術をさらに改良した西洋砲術の普及に努め、全国の藩士にこれを教育。佐久間象山・大鳥圭介・橋本左内・桂小五郎(のちの木戸孝允)などが彼の門下生。水野忠邦失脚後の老中・阿部正弘にも評価され、彼の命によりお台場を築く。反射炉も作り、銃砲製作も行う。韮山に残る反射炉跡がこれ。また、造船技術の向上にも力を注いだり、近代的装備による農兵軍の組織を企図。その途上病に倒れる。

日本ではじめてつくった「パン」

江川邸を離れる。代官屋敷前のお店で坦庵が日本ではじめてつくった「パン」を買い求める。乾パン、といったテースト。

山木判官屋敷跡
道路脇の観光案内標示に「山木判官屋敷跡」の案内。山木判官って、治承4年(1180年)、源頼朝の軍勢による夜襲によって討ち取られた伊豆国の目代。源氏再興のはじまりとなった奇襲攻撃、である。この山木判官、正式名・平兼隆。京で検非違使をしていたが、その乱暴狼藉ゆえに勘当され伊豆国山木郷に配流。1179年のこと。翌年、以仁王の乱で伊豆知行国主・源頼政が死亡。平時忠が伊豆知行国主となる。で、兼隆は、国司・平時兼の目代として伊豆国を支配することに。目代とは現地に赴くことのない国司(遙任国司)が派遣した代理人のこと。
山木判官、って北条時政が、娘の北条政子を嫁がせようとした男であると言われる。で、婚礼前夜、政子は館から抜け出して源頼朝の待つ伊豆山権現へ遁れた、と。話としては面白いのだが、頼朝と北条政子の祝言は1177年。兼隆が伊豆に来たのが1179年であり、もう頼朝・政子は夫婦になっているわけで、兼隆・政子の祝言ってことはありえない話、といった節もある。山木判官屋敷跡を探して歩く。結局見つからず。どうも民家の庭先にあるようだ。

香山寺
道成りに進んで香山寺に。山木判官・平兼隆の墓がある、という。韮山駅から2.3キロといったところ。

蛭が小島
香山寺を離れ、次の目的地・蛭が小島に向かう。頼朝配流の地。蛭って、あまりにも、ぞっとしない名前。が、語源はノビル(野蒜)のことではないか、とも。蒜(ひる)とは、ネギやラッキョウなどを総称する古名。 川の堤防などに生える。つまり、蛭が小島って、ノビル(野蒜)が生い茂る川の中州、ってこと。往時、このあたりに狩野川の川筋があったのだろう。ちなみに、韮山の「韮」もノビル(野蒜)。韮山って、ノビル(野蒜)が生い茂る山といった意味、との説もあり。

頼朝がこの地に流されるまでの経緯
1156年、後白河天皇と崇徳上皇の争い。後白河側には源義朝・平清盛。崇徳サイドには源為義。これが保元の乱。後白河天皇側の勝利。戦後、平家を厚遇・源氏冷遇。1159年、清盛の熊野詣。この機を逃すべからずと、義朝挙兵。後白河が藤原信頼と図った謀略にうまく乗せられた結果、とか。これが平治の乱。
熊野より引き返した清盛に義朝は敗れ、東国に逃れる。が、尾張で殺される。一行に加わっていた頼朝も捕らえられ、殺されるところを、清盛の継母・池禅尼の嘆願により助命され、蛭が小島に流される。
何故、蛭が小島か、ということだが、この地が平時忠の知行地であった、ため。上でメモした、山木判官の目代屋敷のある地であり、監視下に置くのに都合が良かった、ということだろう。ちなみに、平時忠って、あの有名な「平家にあらずんば、人にあらず」というフレーズを言い放った人物。壇ノ浦で捕虜となる。娘を義経の側室にするなど、保身を図るが結局は能登に流され、一門は時国家として続くことになる。
14歳でこの地に流された頼朝は1160年ころから20年この地で暮らすことになる。流人とはいいながら、謀反の企てさえしなければ結構自由な暮らしではあったよう。熱海にある伊豆山権現や箱根権現の学僧に学問を学んだり、地方豪族の若者と狩りに興じたりもしている。で、恋愛も自由。蛭が小島のすくそばに館のあった北条家の政子にかぎらず、結構な恋愛模様が繰りひろげられた、よう。

条政子産湯の井戸跡

蛭が小島を離れ、次の目的地は北条政子産湯の井戸跡。西に進み伊豆箱根鉄道を越え国道136号線に。国道に沿って少し南に。道案内の標識を目安に西に折れ、小高い台地・「守山」方面に向かう。伝堀越御所跡の案内。「伝堀越」って何だ?と、疑問を残しながらも、標識に従い少し南。個人の住宅の玄関先といったところに「北条政子産湯の井戸跡」が。このあたりに北条一族の館があった、と か。もっとも、西手に聳える守山の西に館があった、との説もあり、よくわからない。付近には時政が頼朝のために宿館、つまりは別荘として建て、頼朝の死後に寺とした光照寺、8代執権北条時宗の子が父の遺志をついで創建したとされる成福寺など、北条氏ゆかりの寺が集う。
北条氏は桓武平氏の流れといわれる。伊豆の国北条庄にて代々在庁官人をつとめていた。とはいうものの、伊豆のほんの小豪族であり、頼朝の監視役であり、にもかかわらず娘が頼朝と割れな い仲に。立場上、当初反対するも、最後にはその仲を許し、上でメモした山木判官館襲撃をきっかけとして頼朝挙兵に与力。熱海・石橋山合戦での大敗北、その後安房への逃亡から再起、源平争乱をともに戦い、「大」北条となったことは、言うまでもない。

堀越御所跡

「伝堀越」御所跡に戻る。案内板を読む。あれ?これって、伝「堀越公方」、つまりは、「堀越御所跡」と、伝えられる、って、こと。堀越御所がこの地にあるとは思っても見なかったので、当初、伝堀越、と呼ばれる御所があったところ、と読み違えていた。ともあれ、思いがけない堀越御所の登場。本日の最大のサプライズ、となった。
堀越御所は堀越公方・足利政知が開いた御所。韮山の西方、狩野川に近い北条、というか守山の麓にある。一万坪にちかい敷地に、寝殿つくりの建物が並び平安文化を感じさせる館があった、とか。堀越公方、とは言うものの、もともとは、兄でもある将軍・足利義政の命を受け、東国に威を示すために下向したもの。しかしながら、東国平定、具体的には古河公方・足利成氏を平定するどころか、鎌倉に入ることもできず、この地に留まらざるを得なくなる始末。とはいうものの、鎌倉は今川の鎌倉攻撃により焼け野原。入ったところで心休まる場所もなかったではあろう。
古河公方とか、堀越公方とか、関東管領・上杉とか、この時代は、あれこれややこしい。ちょっと整理しておく。ちなみに堀越は「ほりごえ」と読む。
京都の将軍家は東国支配のため鎌倉公方を設ける。これって幕府が東西にふたつできる、ってこと。しかし、あくまでも鎌倉は京都の下にあるべきものと、されていた。が、時がたつにつれ、下風に立つことを潔よしとしない鎌倉幕府・公方と京都が対立。京都と鎌倉の全面戦争が勃発。それが、永享の乱。京都方が勝利し、鎌倉公方足利持氏の自殺で幕を閉じる。
この騒乱をとおして力をつけたのが上杉一族。京都の足利将軍家に与力し、鎌倉公方を攻撃。その功により、関東管領として関東を支配することになる。が、上杉一族、とはいうものの、なかなか一枚岩になることはなく、山内上杉とか扇谷上杉とかいった一族・身内での内紛もあり、関東の豪族の京都=上杉に対する反発も強く、鎌倉方は持氏の遺児を擁して京都=上杉と再び争いが勃発。それが結城合戦。
1449年、京都=上杉サイドは妥協の産物として持氏の遺児足利成氏を鎌倉公方に擁立。が、これにて上杉と鎌倉公方サイドの遺恨が消えることもなく、父を殺され恨み骨髄の成氏は関東管領・上杉憲実(持氏討伐の首謀者)の息子憲忠を暗殺。これを機に勃発したのが享徳の乱。上杉管領家と成氏の騒乱がおきる。当初は成氏 有利な局面あるも、駿河守護・今川範忠の鎌倉攻撃により、成氏は鎌倉を落ち、下総古河に後退。京都に反発する武将が集結。これが古河公方。
局面打開のため、京都派の武将は堀越「公方」成氏に対抗できる「権威」の下向を要請。京都の足利義政は天龍寺に出家していた足利政知を還俗させ、関東に派遣を決定。1457年、政知は成氏討伐のため下向。が、副将・斯波義敏が義政の命令に従わず出陣しないなど、陣容整わず、政知は成氏軍に大敗。成氏の勢威強く、鎌倉入府さえ叶わず、鎌倉手前の伊豆領に留まる。当初、山内上杉領であった伊豆の守護府のある韮山・国清寺に居を構える。後に旧北条の館跡といわれるこの地に御所を。それが堀越御所であり、堀越公方と呼ばれるにいたった所以である。
関東統一を目指し下向したものの、自前の武力もなく、賞罰の決定権もない。軍事権も政治権も京都の傀儡、家臣団も官僚も京都からの派遣。関東の豪族の支持を得られることもなく、京都=上杉派の名目的棟梁。とはいうものの、京都と成氏に和議が成立するなど、パワーポリティックには全くの蚊帳の外。無力な落下傘公方として鬱々たる日々をこの地で送ることになった、とか。
とにもかくにも、思いがけなく堀越公方ゆかりの地に出会った。韮山って、ここに来るまでは、韮山代官とか、反射炉、程度しか知らなかったのだが、伊豆の守護府があったり、西関東全域を行政区域とする韮山代官所があったりと、この地は戦略的に重要な位置を占めていたのであろう。箱根峠にも近く、伊豆の府中である三島にも近く、東海道の喉元にあたり、西方は駿河、遠江を、東方は相模、武蔵を押さえる要地であった、ということであろう。

狩野川の堤
堀越御所跡を離れ、守山の脇を抜け、狩野川の堤に向かう。守山と狩野川の間の微高地に北条館があった、との説もあり、その近くに願成就院がある、と思った。大雑把な地図であり、願成就院は守山の東麓、というから、川堤に沿って迂回する必要はなかったのだが、それは後の祭り。ともあれ狩野川方面に向かう。
狩野川は伊豆半島最高峰の天城山の源流を発し、修善寺川などの支流を集め、下田街道に沿って北流。田方平野を潤し、沼津で西に向きを変え大場川、黄瀬川と合流し駿河湾に注ぐ。全長46キロほどの一級河川。水源地・天城連山は年間雨量の多い地帯でもあり、標高差も高く水害が多発した。なかでも1958年の台風22号による狩野川流域の被害は甚大。世に言われる「狩野川台風」である。

守山自然遊歩道

狩野川の堤を歩く。守山の自然・緑に惹かれる。と、守山自然遊歩道の案内。よく調べることもせず、成行きで進めば目的の願成就院、そして守山八幡に進めるのでは、などと御気楽に考え山に入る。 これが大きな誤算。はじめこそ、遊歩道っぽいゆったりとした登り道。が、途中から厳しい登り。
木の階段が延々と続く。麓を巡る遊歩道、といった思惑はもろくも崩れ、これって登山道の赴き。グングン高みに進む。で、頂上の展望台に。いやはや苦労しただけあって、眺めは素晴らしい。
眼下に韮山が一望のもと。狩野川の流れ、ここまで歩いてきた道筋が手に取るように見える。往時の見張り台としては理想的なロケーションであろう。事実、ここには「守山砦」があった、とか。平城というか、平安風館の堀越御所は防戦には使えず、御所の背後のこの地に砦を築き敵を迎え討った、と。事実、この守山砦を巡る合戦が後の北条早雲・伊勢新九郎と堀越公方・茶々丸の間で戦われた。
先日読んだ小説、南原幹夫『謀将 北条早雲』に、この守山砦の合戦の記述があった。どこまでが事実で、どこからがフィクションか不明ではある。が、ちょっとまとめておく
堀越公方・足利政知のことは先にメモした。この政知には先妻の子である嫡子・茶々丸、がいた。が、政知は次男・京都天竜寺香厳院に出家の清晃を将軍後継者に、と企てる。それに怒り心頭の茶々丸は乱暴狼藉。座敷牢に押し込まれる。が、改心のふり。解き放たれた茶々丸は政知、一族を殺戮。山内上杉顕定(関東管領兼伊豆守護)が茶々丸に与力し威を示す。
この茶々丸討伐の企てをおこなったのが、伊勢新九郎。当時、今川家守護代として沼津・興国寺城主であった。関東制圧の野望をもつ新九郎は、暴政・圧政を敷く茶々丸誅殺を決心。茶々丸に与力する山内上杉顕定(関東管領兼伊豆守護)に敵対する扇谷上杉定正(相模守護)と結び、茶々丸勢力の分散を図る。で、扇谷上杉定正が山内上杉顕定をひきつけ、援軍不可の状況を作り出し堀越御所を奇襲攻撃。支えきれない茶々丸は、この守山砦に退き防戦に努めた、とか。
茶々丸はこの地で討ち死にしたとか、茶々丸に与力する狩野道一の城・狩野城にこもり、長く伊勢新九郎こと北条早雲を悩ました、とか説はあれこれ。ともあれ、この新九郎による茶々丸攻撃は、室町幕府の御所に対する今川家守護代の襲撃であり、考えようによっては日本最初の下克上、とも言われている。
守山で北条早雲まで現れるとは思ってもみなかった。そういえば、今回訪れなかった韮山城も堀越御所攻撃の後、新九郎が籠もった城である。いやはや、韮山って、あなどりがたし。

真珠院

展望台を離れ自然遊歩道を山麓東に下る。降り切ったところを南に進み古川の手前に真珠院。曹洞宗のこの寺には、頼朝との悲恋のヒロイン・八重姫の供養等がある。
頼朝は流人とはいいながら、結構自由に行動し、恋愛もした、と上にメモした。八重姫もその一人。東伊豆の豪族・伊東裕親(すけちか)の娘。頼朝は裕親の館に1167年から1175年まで招かれていたのだが、その間に恋に落ち、一子・千鶴丸をも設ける。頼朝監視役の裕親は怒り心頭。千鶴丸をなきものとし、頼朝を殺さんと、する。頼朝は北条館に逃げ込み難を避ける。
その後、頼朝をこの地に訪ねた八重姫は、頼朝に会うこともできず、というのは、すでに政子と祝言をあげていた、といった説もあるが、ともあれその身を嘆き、古川に身を投げた、と。八重姫を哀れんだ里人は古川の傍らにお墓を建てる。後にこのお墓がこの真珠院に移され、今に至る、と。
この八重姫には別のストーリーも伝えられる。江間小四郎に嫁いだ、という説だ。この江間小四郎って、北条政子の弟。後の北条義時。実際、義時の妻のことは謎に包まれているとも言われているし、まんざらありえないことでもないよう。
ちなみに千鶴丸も甲斐源氏の辺見氏に預けられ、後の島津になった、とも。ということは、この千鶴丸って三代執権・泰時ってことになるわけで、こうなってくると、わけがわからない。ここでは古川に身を投げた悲劇のヒロインということで止めておく。
伊東祐親(すけちか)のメモ;東国における平家方武将として平清盛から信頼を得る。頼朝の監視役でもあったことは先に述べた。頼朝挙兵後の動きであるが、熱海・石橋山の合戦では大庭景親とともに、頼朝軍を撃破。が、安房に逃れ、その後勢力を盛り返した頼朝軍と富士川の合戦で戦うが、それに破れ捕らえられる。一命は赦されたが、そのことを深く恥じ自刃した、と。

願成就院

真珠院を離れ韮山最後の目的地・願成就院に。鎌倉時代に頼朝の奥州征伐の成功を祈って北条時政が「願いが成就するように」という意味で創建。その後北条氏の氏寺として伊豆屈指の大寺院となる。が、先にメモした伊勢新九郎の茶々丸襲撃の時であろうか、願成就院は全焼。僅かに再建された堂宇も、秀吉の小田原征伐の時に再び全焼。現在の堂宇は江戸期に建てられたもの、である。

はてさて、これで韮山散歩もほぼ終了。時間の関係で伊勢新九郎が伊豆への橋頭堡として住まいした、韮山城、そして江川太郎左衛門の建設した反射炉跡はパスした。少々残念。反射炉も、実のところ、どうせ模型程度であろう、と思っていたのだが実物が残っている、ということだ。そうであれば、少々無理をしてでも歩いてみたかった、とは思うが後の祭り。国道136号線を伊豆長岡駅までに向かい、次の目的地・修善寺に。

修善寺

修善寺駅を降り、はてさて、どうするか。日も暮れてきた。どうしたところで時間がない。当初、最寄のところまでタクシーで行き、それから駅に歩いて戻りながら源氏ゆかりの 地を巡る、って段取りであった。が、乗ったタクシーの運転手さんの、「名所まとめてご案内、その後は本日宿泊予定の湯ヶ島までまとめて6000円で」との魅力的なる提案に負け、修禅寺、指月殿、源頼家の墓、源範頼の墓を一巡。散歩のメモという以上、歩きもしないところをメモするのも、なんだかなあ、ということで、修善寺のメモはパスすること、に。湯ヶ島の結構立派な宿に泊まり、明日の天城越えへの英気を養う。

伊豆 天城峠越え

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伊豆の国散歩の二日目。天城峠を越え、河津七滝まで歩く。とはいうものの、どこから歩き始めるか、あれこれチェック。結局のところ、旧天城トンネルの2,3キロ程度手前、旧道が国道414号線から分岐する「水生地下」あたりからスタートすることにした。大雑把に10キロ強といったところだろう。予約してある電車・踊り子号の出発時間もさることながら、車の通行量の多い国道を峠に向かって歩くのって、今ひとつ興が乗らない。それが、水生地下からスタートと、決めた最大の理由。(木曜日, 3月 08, 2007のブログを修正)



本日のルート;湯ヶ島温泉>バスで「浄蓮の滝」>浄蓮の滝>バスで水生地下>下田街道>旧天城トンネル>河津七滝(釜滝・エビ滝・蛇滝・初景滝・カニ滝・出会滝・大滝)>大滝温泉>バスで河津駅>河津川沿い・河津桜>姫宮神社>伊豆急行線・河津駅>帰路


天城湯ヶ島

宿で朝食をとり出発。宿をとった天城湯ヶ島って、作家井上靖の育った町。自伝的小説『しろばんば』を読んでみたくなった。とはいうものの、文庫本でも結構のボリュームがあったような記憶が。また、『猟銃』もこの地が舞台、とか。そのほか湯ヶ島、といえば若山牧水の『山桜の歌』が有名。
「三月末より四月初めにかけ天城山の北麓なる湯ヶ島温泉に遊ぶ、附近の溪より山に山櫻甚だ多し、日毎に詠みいでたるを此處にまとめつ」といった詞書ではじまる23首の歌。牧水の代表作でもある。大正11年のこと。23首の歌をメモしておく;

うすべにに葉はいちはやく萠えいでて咲かむとすなり山櫻花
うらうらと照れる光にけぶりあひて咲きしづもれる山ざくら花
花も葉も光りしめらひわれの上に笑みかたむける山ざくら花
かき坐る道ばたの芝は枯れたれや坐りて仰ぐ山ざくら花
おほみ空光りけぶらひ降る雨のかそけき雨ぞ山ざくらの花に
瀬々走るやまめうぐひのうろくづの美しき頃の山ざくら花
山ざくら散りしくところ真白くぞ小石かたまれる岩のくぼみに
つめたきは山ざくらの性(さが)にあるやらむながめつめたき山ざくら花
岩かげに立ちてわが釣る淵のうへに櫻ひまなく散りてをるなり
朝づく日うるほひ照れる木(こ)がくれに水漬(みづ)けるごとき山ざくら花
峰かけてきほひ茂れる杉山のふもとの原の山ざくら花
吊橋のゆるるちさきを渡りつつおぼつかなくも見し山ざくら
椎の木の木(こ)むらに風の吹きこもりひと本咲ける山ざくら花
椎の木のしげみが下のそば道に散りこぼれたる山ざくら花
とほ山の峰越(をごし)の雲のかがやくや峰のこなたの山ざくら花
ひともとや春の日かげをふくみもちて野づらに咲ける山ざくら花
刈りならす枯萱山の山はらに咲きかがよへる山ざくら花
萱山にとびとびに咲ける山ざくら若木にしあれやその葉かがやく
日は雲にかげを浮かせつ山なみの曇れる峰の山ざくら花
つばくらめひるがへりとぶ溪あひの山ざくらの花は褪(あ)せにけるかも
今朝の晴青あらしめきて溪間より吹きあぐる風に櫻散るなり
散りのこる山ざくらの花葉がくれにかそけき雪と見えてさびしき
山ざくら散りのこりゐてうす色にくれなゐふふむ葉のいろぞよき

牧水の紀行文『追憶と眼前の風景』もこのときの作品、とか。『みなかみ紀行(中公文庫)』におさめられている、ようだ。どこかで手にはいるものであれば、詠んでみたい。

浄蓮の滝
バスに乗る。「水生地下」に行く前にちょっと寄り道。天城、といえば、「浄蓮の滝」でしょう、と、言うことである、らしい。同行者の中で、私だけ知らなかったのだが、この滝、石川さゆりの歌う「天城越え」で有名、とか。レコード大賞を受賞した大ヒット曲、と;

浄蓮の滝に下りる。高さ25m、幅7m、滝壷の深さ15m。天城山中に源を発する本谷川にかかる滝。狩野川の上流部にあたる。名前の由来は、近くに浄蓮寺があった、から。今は,無い。滝の近辺にはワサビ田が作られている。狩野川、といえば、というくらいワサビが有名。
ワサビ栽培発祥の地は静岡・安倍川沿いの山間の集落・有東木(ウトウギ)、とか。江戸期・慶長年間、有東木源流の山地に自生していたものを持ち帰った有東木の村人が、集落の遊水地で栽培したのがはじまり、と。慶長12年(1607年)駿府城の家康が食し、その味を愛で名が高まる。その故もあって、集落より持 ち出し不可、ということであった。が、この地に椎茸栽培の技術指導に赴いた天城の住人が故郷に持ち帰った、と。椎茸栽培の指導のお礼に、持ち出し不可のワサビの苗を、荷物の中にそっと忍ばせてくれた、ということらしい。

水生地下(すいちょうちした)
滝壷から戻り、バスを待つ。あまりバスの回数もないのでしばらく待つことに。乗ってわかったことなのだが、このあたりのバスは一部区間を除いて乗り降り自由。そんなことがわかっておれば、適当に歩いておけば、とも思ったがあとの祭り。ともあれ、バスに乗り、「水生地下(すいちょうちした)」で下車。「すいせい・ちか」ってなんだろう、と思っていたのだが、「水生地」の下、ってこと、であった。
バスを降り、旧道を旧天城トンネルに向かう。舗装はされていない。が、きれいに整地されている。整地されているのはいいのだが、そのためもあり車も入ってくる。土埃が少々興ざめ。少し歩くと川端康成の文学碑。川端康成のレリーフと直筆の『伊豆の踊子』の書き出しが彫られている;「道はつづら折になって、いよいよ天城峠に近づいたと思う頃、雨脚が杉の密林を白く染めながら、すさまじい早さで麓から私を追ってきた」、と。
10分程度歩くと水生地。地名の由来は、水が生まれる地、ということだろう。この近辺にもワサビ田跡、といったものが残っているし、なにより、この沢、本谷川だろう、と思うのだが、この沢の上流には「水源の森」がある。天城山のほぼ中央、天然のブナ林が残る自然豊か な森がある。北斜面は狩野川源流に、南斜面は河津川の源流となっている。特に良質の水が得られる、ようだ。水生地(水生地)という地名は、豊かな森ではぐくまれた良質の水がこんこんと湧くところ、ということであろう。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)



松本清張の『天城越え』の舞台・氷室園地
水生地から旧道を少し外れたところに氷室園地。大正から昭和にかけ、厳しい寒さを活用し天然の氷をつくった人工の池とその保存庫。この氷室って、松本清張の『天城越え』の舞台でもある。丁度いい機会でもあるので、読み直した。新潮文庫『黒い画集』に収められた短編。文庫サイズで42ページ程度。犯人である少年が一夜を明かし、それゆえに犯行におよぶことになるのが、ここにある氷室。
あらすじはさて置いて、読後、なんとなく、しっくり、こない。違和感が残る。多分、一人称の視点で、しかも、それが犯人の少年の回想、といったもの、であり、最後になって、というか、途中から想像はできるのだが、結局「僕が犯人でした」、って展開が、なんとなく??、と感じるのだろう。
一人称が探偵であり、犯人探し、であれば違和感はないのだろうが、一人称で語る書き手が犯人であるなら、最初から自分が犯人とわかってるわけで、いかにも事件に無関係といった風情で話が進み、最後に老刑事によって、「あんたが犯人だってことはわかってるよ」と暗示される、ってことが、それってないよな、と感じた次第。小説の作法はよくわからないのだけれども、こういった手法って有り?といったのが読後の正直な感想でありまし、た。

旧天城トンネル
旧道に戻りトンネルに進む。旧天城トンネル。1904年(明治37年)完成、全長450m・幅4.1m・高さ3.15m程度。日本でもっとも長い石造りのトンネル。2001年(平成13)4月20日、国の重要文化財に指定されている。1970年(昭和45年)に国道414号線の新天城トンネルが開通するまでは、天城越えの主要交通路、であった。
この国道414号って昔の下田街道。東海道、三島宿の三島大社を基点に、韮山・大仁・湯ヶ島を経て天城峠に。峠を越えると河津町梨本まで下り、そこから小鍋峠を越えて下田に至る。
天城越えの道はトンネルができるまでは、当然のこと急峻な峠越え。峠道も時代とともに変遷し, 新山峠, 古峠, 中間業, 二本杉峠,天城峠と変わった、よう。 このうち, 二本杉峠は幕末アメリカ領事館の初代総領事ハリスが通商条約締結のため,下田より江戸に上ったときに通った峠である。
ハリス一行の日記には, 「路は狭く,鋭角で馬の蹄を置く場所もなく. ようやく峠を越えて湯ヶ島に着く, 今日の路は道路ではなく通路とも言うべきものだ.」と記されている。結構な難所であった、よう。このトンネルの開通により、陸の孤島・南伊豆と北伊豆が結ばれることになった、とか。
旧天城トンネルを進む。トンネル内部はカンテラっぽい照明だけで、結構暗い。車も対向はできそうもない。旧天城トンネルは、川端康成著『伊豆の踊子』で有名。作品中で雨宿りをした茶屋はこの近くにあった。
「そのうち大粒の雨が私を打ちはじめた。ようやく峠の北口の茶屋にたどり着いてほっとすると同時に、私はその入り口で立ちすくんでしまった。あまりに期待が見事に的中したからである。そこに旅人の一行が休んでいたのだ。・・・私はそれまでにこの踊り子たちを二度見ているのだった。最初は私が湯ヶ島へ来ると途中だった。そのときは若い女が三人だったが、踊り子は太鼓を下げていた。私は振り返り振り返り眺めて、旅情が自分の身に付いたと思った。・・・暗いトンネルに入ると冷たいしずくがぽたぽた落ちていた。南伊豆の出口が前方に小さく明るんでいた。トンネルの出口から白塗りの柵に片側を縫われた峠道がいなずまのように流れていた。この模型のような展望のすそのほうに芸人たちの姿が見えた。六町と行かないうちに私は彼らの一行に追いついた・・・(『伊豆の踊子;川端康成』)」。
この散歩に出る前の日のことである。娘に、「明日、伊豆の天城峠、伊豆の踊子の道を歩く」、と話した。と、丁度、学校の宿題で、川端康成の『伊豆の踊子』のレポートを書く、とか。レポート提出の前日、あれこれ質問がくるであろうからと、丁度いい機会でもあるので、本棚にあった『川端康成―その美と愛と死;長谷川泉』を読み返した。

伊豆の踊り子

抜粋する;『伊豆の踊子』は、川端康成が伊藤初代との恋愛に敗れた傷心のうち、湯ヶ島に滞在して書かれた『湯ヶ島での思いで』がもとになる。この未定稿から『伊豆の踊り子』と『少年』が生まれた。大雑把に言って、『湯ヶ島での思いで』の前半が『伊豆の踊子』、後半が『少年』となる。『伊豆の踊子』は伊藤初代との恋愛に敗れた「傷心」を踊り子・薫によって純一無垢に洗い流し、『少年』はモデル小笠原義人との同姓愛の思い出を、清野少年という存在をとおして康成の心を浄化し純一にする、と。
『伊豆の踊子』の素材は伊豆の旅情のゆきずりの感傷で、ひとときの邂逅である、という。天城峠越えから、湯ケ野温泉をへて下田にいたる一高生の一人旅は、踊り子薫とその兄栄吉、栄吉の妻千代子、千代子のおふく、雇の百合子という旅芸人一行の誘いによって、旅情がなまめき潤うことになる。主人公にとっての救いは、孤児根性のひがみと、かたくなな歪みが、素朴で人間味溢れた一行によって浄化されたことにある。一行の中でも、不思議な色気を持ちながら、まだ十四歳の少女である踊り子の薫の対応が、とくに主人公の心を洗った。踊り子が一高生に言った「いい人」は「明かり」となって高校生を浄化した、とある。
川端康成にとって「いい子」は決め言葉、であった、よう。そのことは、孤児根性、と切っても切れない関係をもっている、とか。孤児根性は、両親をはじめ、肉親の死屍累々の中に投げ出された康成の感慨が根底にある。『伊豆の踊子』の中に;二十歳の私は自分の性質が孤児根性で歪んでいると厳しい反省を重ね、その息苦しい憂鬱に耐え切れないで伊豆の旅に出てきているのだ」と記されている。踊り子の薫たちは、一高生の川端康成、孤児根性にいじけた康成を「いい人」とすなおに描くことによって、かたくなに歪んだ心を純一無垢に洗い流す、と書かれてあった。(『川端康成―その美と愛と死;長谷川泉』より)
後日談。伊豆の旅から戻り、天城越えの実体験も交えて、娘に、さて、『伊豆の踊子』についてのレポートはどうなっている?などと聞いたところ、「お父さん、レポートは『雪国』だよ」、だって。がっくり。

八丁池への分岐

旧天城トンネルを過ぎると緩やかな下り。30分程度で寒天橋に。八丁池への道が分岐する。八丁池は標高1200m、天城原生林の中に佇む火口湖。「伊豆の瞳」とも。1時間ちょっとで行けたよう。後の祭りではあるが、歩いてみたいかった。

二階滝(にかいだる)
寒天橋あたりからは舗装。道なりに下ると寒天橋のそばに二階滝(にかいだる)。落差20m。河津川一番目の滝。八丁池からの水が二段にわけで落ちている。二階、という名前の由来でもある。滝を「たる」と呼ぶのは、「垂水」から、と。二階滝園地を過ぎさらに下る。新道への分岐案内。踊子歩道から離れ、杉などの茂る細道に。

平滑の滝
国道を横切る。小さな橋を二つ渡り、わさび田にぶつかる。コースは鉄橋を渡る。「平滑の滝」はコースからちょっとそれる。滝は幅20m・高さ4mの一枚岩。

宗太郎園地

橋を渡り、さらに下ると宗太郎園地。この先から宗太郎杉並木の林道がしばらくつづく。宗太郎園地には、太い幹の杉が立ち並ぶ。江戸時代に幕府の直轄地となっていたこの地の杉を伐採する際に、伐採の御礼にと植えた杉の苗が育ってできた森。「園地」とはいうものの、遊園地があるわけではない。美しい杉林と休憩用の東屋と水汲み場があるだけである。

河津七滝

しばし歩き河津七滝の入口に。河津七滝とは、河津川にかかる7つの滝(釜滝、エビ滝、蛇滝、初景滝、カニ滝、出合滝、大滝)の総称。河津川は、天城山を源とする河津川と天城峠の南斜面から流れる荻ノ入川が出合滝で合流し、河津平野を通り相模灘に注ぐ長さ 9.5キロの二級河川。
七滝散歩に向かう。滝方面への分岐を右に。石段は260段。まさか、また、戻るわけじゃないよね、などと少々の怖れ。小さな橋を渡ると河津七滝の第一「釜滝(かまだる)」。高さ約22m、幅約2mで、河津七滝中、大滝に次いで、2番目に高い滝。滝の周りは岩・玄武岩が柱状に規則正しく割れている。「柱状節理」。直ぐ下に「エビ滝」「蛇滝」と続く。川に沿って道があり、来た道を戻ることがない、とわかって少々安堵。蛇滝の先、階段を下りると「初景滝」。このあたりから舗装された道に。「カニ滝」。「出会滝」。ふたつの渓流が出会うこと、から。最後に「大滝」。七滝中最大の大滝。幅 7m、高さ30m。周囲には釜滝と同じく柱状節理が見える。

七滝のメモはしごく簡単になった。生来の情感の乏しさゆえか、はたまた、田舎の出身であり、美しい自然があたりまえ、故郷の自然が一番と思っている我が身には、どうしても、自然描写に気合が入らない。そのかわり、というわけもないのだが、河津の七滝にまつわる伝説をメモしておく。
その昔、この地、万三郎岳・八丁池のあたりに天狗が棲んでいた。八丁池で洗濯する天狗の美しい妻に、七つの頭をもつ大蛇が懸想。天狗は、大蛇を退治すべく策をめぐらす。八丁池のあたりに強い酒をなみなみと満たした七つの樽を置く。女性を求めてき た大蛇、酒の魅力に負け泥酔。頃もよし、と蛇を切り刻む。で、このとき使った七つのタルは河津川に捨てられ、流れ流れてそれぞれ谷に引っかかり、七滝の滝壷になった、とか。

河津駅
河津七滝散歩を終え、河津七滝バス停から河津駅までバスに乗る。30分弱。少し時間があったので、早咲き桜で名高い、河津桜が並ぶ河津川沿いを歩く。桜祭りが近々はじまるらしく、屋台の準備が大規模に行われていた。川堤を少しのぼり、姫宮神社で大きな楠を堪能。踊子号にて一路家路を急ぐ。
黒目川を歩いていたとき東久留米市が朝霞市に接するあたりで川が合流。これが落合川。この川も水量も豊かな美しい川であった。あれこれ調べてみると、湧水でまかなわれている川である、とか。いくつかの湧水点をもち、自然豊かな流れが楽しめそう、ということで落合川の源流を巡って歩くことに。
今回からは強力な散歩ツールが登場。携帯電話にあるNAVIウォークって機能。行きたいところに音声でガイドしてくれる。いままで1年以上、NAVIウォークの無料メニューで ある「GPS・現在地確認」だけを使っていたのだが、今回、月額315円の有料メニューを申し込む。テストもかねて、大体のルートを決め、目的地を事前に登録。その地に向かって音声ガイドに従って歩くことに。登録地は「北原公園」「白山公園」「多門寺」「向山緑地」「竹林公園入口」。前回歩けなかった黒目川の支流や湧水点を確認し、落合川の源流に向かう、という段取り、とした。



本日のルート;西武多摩湖線・萩山駅>西武拝島線・池袋線平走箇所>小平霊園東口>霊園内・さいかち窪>小平霊園北口>柳窪緑地地域・天神社>天神橋>北原公園>東久留米十小学校>新山通り>にいやま親水公園>新所沢街道・西団地前>新所沢街道>白山公園>新所沢街道>氷川神社>都大橋>西妻川・黒目川合流点>所沢街道>新小金井街道>前沢交差点>小金井街道>八幡町・落合川との交差点>落合川筋>氷川神社>南沢緑地保全公園>向山緑地公園・立野川源流点>氷川神社>落合川筋>毘沙門橋>多門寺>立野川・笠松橋>自由学園>西武新宿線交差>立野川筋>落合橋>黒目川との合流>西武池袋線・東久留米駅

西武多摩湖線萩山駅

自宅を離れ、京王井の頭線で吉祥寺。JRに乗り換え中央線で国分寺。西武多摩湖線に乗り換え萩山駅に。萩山駅から小平霊園。携帯には事前に登録はしていなかったので、携帯での地図上で目的地を霊園入口あたりに決め音声ガイドスタート。西武新宿線と西武拝島線が分岐するあたりを越え、霊園入口に。特に問題もなく目的地に案内してくれた。

小平霊園「さいかち窪」

小 平霊園に来たのは、通り道ということもあるが、霊園内にある黒目川の源流点「さいかち窪」をもう一度見ておこう、と思った次第。霊園内を歩き、北口近くの雑木林の中に分け入る。前回歩いた、いかにも川床といった窪みを歩く。先回見落とした、排水溝をチェック。相変わらず水はなかった。


霊園・北口を離れ、新青梅街道に。黒目川の川筋を確認。相変わらずごく僅かな水が流れている、だけ。排水といった程度のもの。北に進み再度、天神社に。湧水点を再度チェックするも、これまた、これといって水が滾々と湧き出ている、といった印象なし。森の中の道を天神橋のところまで下る。ここでNAVIスタート。「北原公園」にNAVIしてもらう。

北原公園

北原公園は黒目川に水を注ぐ湧水点と言われる。柳窪5-6辺り。公園というものの、調整池といったつくり。が、水はまったくなし。水路はほとんど暗渠となっているよう。どこで黒目川に合流しているのか確認すること叶わず。もっとも、天神橋から久留米西団地あたりまでは川筋を歩くことができないので、どうしたところで合流点は確認できない、かと。

白山公園
北原 公園から次の目的地・白山公園に向かう。NAVIのガイドに従って道を進む。下里3丁目あたりを進み、公園に。結構大きな公園。公園というか、これも調整池といった雰囲気。このあたり調整池が目に付く。湧水点を探す。公園は南北ふたつの公園に別れている。湧水点は北側の公園の端の湿地からごく僅か湧き出していた。これが黒目川の支流・西妻川の源流点。

公園を離れ新所沢街道から流れをチェック。僅かな流れが見える。川筋を歩くことはできそうにない。新小金井街道を北に。西妻川が交差する。先に進み所沢街道との交差点。所沢街道を東に折れ進む。ふたたび西妻川が交差。川は北に流れ、都大橋の下流で黒目川と合流する。

西妻川筋から離れ、落合川に向かう。所沢街道を東に進み前沢交差点で小金井街道と交差。交差点を北に折れる。しばらくすすむと川筋と交差。これが落合川。それほど水量か多くない。湧水点は、小金井街道の西、八幡町2丁目。最初、地図でチェックした時には、白山公園の直ぐ近くでもあり、白山公園が落合川の源流かとも思っていたのだが、どうもそうではないよう。住宅地の草むらに僅かに水が湧きでている、とか。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)


氷川神社の森
落合川の川筋に沿って東に折れる。しばらくは川筋を歩けたり、あるけなかったり。河川工事が行われている。旧川筋と新川筋が分かれたところもある。「湧水公園」といった場所もあった。


氷川神社
更に下ると氷川神社の森が見えてくる。そのあたりは、自然の流れを活かした河川整備がおこなわれている、よう。コンクリートの護岸がないだけで、結構心和む。氷川神社におまいり。「南沢緑地保全地域」に鎮座し、境内の東西を落合川の本流と支流に囲まれた高台にある。近くから土器なども出土するということだから、古くから人が住みついていた場所で、あろう。




緑地の中に湧水点
神社鳥居の先に川筋。これが落合川の支流。南沢浄水場あたりから流れ出る湧水である。極めて美しい。水量も多く、いかにも美しい水。川に沿った緑地の中に「東京名湧水」の案内。緑地の中に道があり湧水点まで続いている。ごく僅かな湧水が見られた。中に入ることはできなかったが、南沢浄水場あたりで湧き出る水は1日1万トン、と案内に書いてあった。いかにも湧水の里、といった場所である。



何ゆえ、この落合川あたりに湧水が多いのか、ということであるが、地下水を貯める砂礫層(武蔵野砂礫層)の上端が落合川に沿うようにあり、かつまた、黒目川とか落合川の南に分布する粘土層が落合川流域には、ない。つまりは、地表から浸透した地下水は粘土層を避け、落合川流域の砂礫層に十分に溜まり、その水が湧き出ている、ということ、らしい。
xそのためか、湧水は湧水点ばかりではなく、川床からも湧き出ている、と。その比率は半々、ということ、らしい。ちなみに南沢浄水場では地下300mの水源からポンプで汲み上げている、とか。

向山緑地公園

次の目的地は向山緑地公園。氷川神社の南。台地になっており、ぐるっと迂回して台地の南から回りこむ。野趣豊かな公園。自然のまま、といった雰囲気。
川筋を探すと、崖下に流れが見える。台地を下り、川筋に。ほとんど道なき道。極々僅か水が湧き出る場所を確認。
下るにつれ、小川っぽくなってゆく。これが落合川の支流・立野川。住宅街を崖線に沿って下り、自由学園の内をとおり、西武池袋線を越え、新落合橋のあたりで落合川に合流する。

多門寺
向山緑地公園を離れ、氷川神社のところに戻る。落合川にかかる毘沙門橋の袂に多門寺。鎌倉時代に開山。江戸時代につくられた山門が美しい。それにしても、多門寺という名前のお寺って、結構雰囲気のいいお寺が多い。中でも墨田区5丁目の多門寺が最も、いい。




竹林公園
落合川筋を「竹林公園」に向かって歩く。川筋の崖上に続く竹林を越えたあたりを南に下る。この崖線沿いの竹林は目的の公園ではなかった。道を進み、「竹林公園入口」を東に入る。ここも落合川の湧水地のひとつ。この竹林は新東京百景に選ばれている。公園内で湧水点は確認できず。台地を下る。北からの小さい水路を確認。水路に沿って歩く。西武池袋線の手前で黒目川と合流。

立野川を落合川との合流点まで歩く

さて、本日の予定終了としようか、とは思いながらも、どうせのことなら、先ほど向山緑地公園から流れる立野川を落合川との合流点まで歩いてみよう、ということに。NAVIで向山緑地公園の東、川筋が地図に確認できるところをチェックし、音声ガイドに従って歩く。

自由学園
川筋がはじまるところは住宅街の真ん中。先ほど確認した湧水点から台地下を流れてきているのだろう。川筋に沿って下る、とはいうものの、川筋に道はない。川筋をつかず離れず進む。まっこと、崖下に沿って流れている。たわむれに、台地上に廻ってみたが、直ぐに下りることもできず、といった按配でもあった。なんとか坂道を見つけ下る。
川筋は自由学園の敷地内に入る。学園脇を進むと西武池袋線。袋小路。NAVIで線路を越えて現れる川筋をチェックし、道を探してもらう。これは結構便利。

西武池袋線・東久留米
西武池袋線を越え、再び川筋近くまで。相変わらず川筋は歩けない。しばらく歩くと浅間神社。ちょっとおまいり。川筋はここで西に向かい、新落合橋の直ぐ下で落合川に合流する。あとは、落合川と黒目川の合流点まで進み、本日の予定終了。西武池袋線・東久留米に向かい、家路を急ぐ。

黒目川散歩の2回目。前回は、思わぬ展開で出水川から黒目川源流点へと歩くことになった。今回は、出水川と黒目川の合流点から黒目川を下流に向かい、新河岸川との合流点へと向かうことにする。途中、ちょっと野火止用水の走る台地に登り、地形のうねりを少々実感したい、とも思う。



本日のルート:平成橋付近(出水川と黒目川の合流)>黒目川>東京コカコーラ・ボトリング多摩工場>上落馬橋・小金井街道>中橋>曲橋>大円寺>子の神社>小山台遺跡公園>小山緑地保全地域>野火止用水>西武池袋線>氷川台緑地保全地域>黒目川筋>厳島神社>門前大橋>浄牧院>門前大橋>黒目川筋>平和橋>神山大橋>宝泉寺>昭和橋>黒目橋>落合川との合流>栗原橋>貝沼橋>馬喰橋>川筋を離れ36号・保谷志木線>新座市歴史民俗史料館>産業道路交差>関越自動車道交差>黒目川筋に戻る・大橋>市場坂通り>市場坂橋>山川橋>陸上自衛隊朝霞演習場の台地下>川越街道と交差・新座大橋>川越街道>朝霞警察署前交差点>幸町3丁目>朝霞中央公園入口>青葉台公園脇>朝霞市役所前交差点>東武東上線・朝霞駅


西武・多摩湖線の荻山駅
西武・多摩湖線の荻山駅。例によって、出発時間が遅く、到着は1時過ぎ。合流点までの時間をセーブするためバスを探す。が、それらしき路線は、なし。ということで、合流点近くの「都大橋」までタクシーに。都大橋から少し下り、新小金井街道との交差手前の合流点に。ここから本日の散歩スタート。

平成橋下に「黒目川雨水幹線」の合流部
平成橋の下に開口部。先回の散歩でメモした「黒目川雨水幹線」の合流部、とか。川と野火止台地の間には下里本邑遺跡公園がある。結構大きな公園。旧石器から奈良・平安までの遺跡が残る。降馬橋を越えると川の東側に東京コカコーラ・ボトリングの多摩工場。ここからも浄化処理された水が排水される。黒目川の水源のひとつ、と言ってもいい、か。

大円寺
小金井街道に架かる上落馬橋を越える。中橋、曲橋を越えると大円寺。落ち着いた、いいお寺さま。馬頭観世音塔で知られる。道標も兼ねており、板橋・八王子・四谷・川越へとそれぞれ5里の距離にあるので、「ゴリゴリ馬頭」とも呼ばれる。

子ノ神社
大円寺を離れ、小山台遺跡公園に向かう。途中に「子ノ神社」。小山1丁目。黒目川の河岸段丘崖といったところ。以前、目黒区の立会川を散歩していたとき、碑文谷八幡近くの高木神社(第六天)で「子の神」に出合った。「子の神」と呼ばれた付近の集落の守護神であった、とか。その名前故、なんとなく気になりながらも、そのままにしておいたのだが、ここで再び出合ってしまった。

神社前に「子ノ神社略記」:「小山村の鎮守。文禄元年(1592)8月、領主矢部藤九郎により本地仏は地蔵の勧請と伝えられ(中略)神社名はもと「根神明神」と称したが、後世にいたり十二支の子(ね)を用い「子ノ神社」と変更された。子は大黒天の神使いであり、縁日を甲子祭として子の日を選ぶなどの故事から習合されたものと思われる。祀神大国主命は出雲大社の祭神と同一神にして国土開発の神であると共に、縁結び・子孫繁栄・五穀豊穣の神とされている。(中略)創立者矢部氏は相模三浦氏の子孫で、小田原北条氏に仕えていたが、徳川時代の始め、三百石を賜り小山村の地頭となった」、と。


略記をきっかけに、あれこれ調べてみる。子の神、って、もともとは、「根ノ上社・根上明神・根之神社」、などと呼ばれていた、と。祭祀圏は南関東から東海にかけて集中的に分布。川崎というか昔の相模には4箇所ある、という。武蔵野線・矢部駅の近くにもある、とか。これって小田原・北条期の矢部氏の所領、との説も。矢部駅の近くには現在も小山という地名もあり、氏神さまも地名も一緒にこの地にもってきたのだろう、か。

もともと「根の神」など呼ばれていた「子の神」であるが、神社の由来・縁起も「根」に関連したものが目に付く。海上に突き出た大岩の「根」の部分に舟が乗り上げており、その中に神さんがいた、とか、やんごとなき君が放った矢の「根」をおまつりした、といったものだ。が、なんとなく、本当になんとなくだが、この「根」って「根の国」、黄泉の国のことではないだろうか、と想像する、というか、してみた。理由は単純。子の神社の祭神が大己貴(オオナムチ)命=大国主命であるから、だ。

神話に、「オオナムチ命はスサノオ命(須佐之男命)のいる地下界(根之堅州国)に逃れ、将来の妻となるスサノオ命(須佐之男命)の娘・スセリ姫(須勢理毘売)と出会う。夫婦となるために、スサノオ命から与えられた四つの試練を乗り越え、スセリ姫とともに「根の国」からの脱出を図る。スサノオ命も最後にふたりを祝福しはオオナムチ命を「大国主命」と命名する」、とある。スサノオ命曰く;「その汝が持てる生太刀・生弓矢をもちて、汝が庶兄弟は坂の御尾に追ひ伏せ、また河の瀬に追ひ撥ひて、おれ大国主神となり、また宇津都志国主神となりて、その我が女須世理毘売を嫡妻として、宇迦の山の山本に、底つ石根に宮柱ふとしり、高天原に氷椽たかしりて居れ。この奴。」、と。この神話から、根の神「根」って、根の国=根之堅州国、の「根」と関係あるのではない、かと、想像。神社の縁起にでてくる、岩とか矢なども、上にメモしたスサノオ命の台詞に散りばめられている。と考える。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)


少し横道に。諏訪大社の御柱祭の話である。「御柱道」沿いに「子之神」という地があり、そこに御旅「寝神社」がある。御柱を曳き下ろすときに、ここで「寝る」ために「寝神社」と呼ばれる、と。これもオオナムチ命の神話に、四つの試練のうち、初めての夜は蛇のいる室(ムロ)に「寝かされ」、次の夜にはムカデと蜂がいる室に「寝かされる」、といったエピソードと大いに関係があるのでは、と想像。諏訪神社の祭神・タケミナカタ命(建御方命)は、大国主命の第二子であるので、まんざらでもない解釈では、と思い込む、ことに。
根の国は「黄泉の国」=死者の国、ではある。が、同時に、オオナムチ命が大国主命に成長する、再生のプロセス、でもあろう。ということは、五穀豊穣と結びつく。また、根の神が子の神となった由来は「子は大黒天の神使いであり、縁日を甲子祭として子の日を選ぶなどの故事から習合されたもの」という。この神社略記からもあきらかなように、大国主命=大黒様、との関連から神仏習合の時に「根>子」となったのであろう。

想像の拡がりついでに、もう少し寄り道。大己貴(オオナムチ)命=大国主命、ということは、出雲系。武蔵の地はもともと出雲族の支配地、であった。出雲から信州を経て、武蔵の地に進んできたのだろう。古事記の上巻の大国主命の国譲りの条に、諏訪神社の由来が書かれている:「コトシロヌシの子のタケミナカタ神は国譲りに反対し、タケミカズチ神と力比べして破れ、科野国(しなの)の州羽海(すわの)に逃れて殺されようとしたところを命乞いして、「此処以外他所に出ず、また父の大国主の命に背かないことを約束して許された」、と。
こうして武蔵に入った出雲族の痕跡は南関東=荒川以西に多く分布する氷川神社の存在によっても明らか。氷川神社が出雲の「簸川(ひのかわ)」からきているし、武蔵一ノ宮が大宮にある氷川神社である、ということからも、武蔵における出雲族の力の程が偲ばれる。
子の神も南関東が祭祀圏である。また、祭神は大己貴(オオナムチ)命=大国主命。ということは、子の神=根の神は、大和朝廷の「尖兵」として物部氏が国造として武蔵支配する以前にこの地に住んでいた出雲系の氏族が信仰していた神さまであった、のだろう。と、あれこれ、自我流の解釈で空想・想像・を楽しむ。真偽の程定かならねども、自分としては十分に納得。このあたりで矛を収めて先に進む。

小山台遺跡公園
野火止用水が走る尾根道へと坂を登る。途中に小山台遺跡公園。縄文時代中期の住居跡が発掘されている。東南に傾斜した斜面にあるこの高台からは東久留米市を望むことができる。斜面下には黒目川が流れ、縄文の人々にとっても、暮らしやすい場所であった、ことだろう。

尾根道に「野火止用水」が流れる
公園を離れ「小山森の広場」を抜け尾根道へ。水道道路に沿って「野火止用水」が流れる。この水路を平林寺まで歩いたのは昨年の初冬であったろう、か。

と ころで、「野火止」って野焼き、というか焼畑の火を止める塚のようなものを指すのだろう。伊勢物語に「武蔵野は今日はな焼きそわか草のつまもこもれり我もこもれり」って歌がある。武蔵野には焼畑の伝統が昔からあったのだろう。草茫の地といわれる武蔵野だが、これは、夏まえに林の木々を伐採し、秋には西北からの風を利用し一帯を焼き尽くし、そのあとを畑とし、数年し地味が衰えると一旦お休みし草地とし、牧草にあてる。この繰り返しのなせる業であったのかもしれない。

氷川台緑地公園
西武池袋線を越えると、直ぐに台地を下りる。途中に、氷川台緑地公園・成美森の広場。東京都には43の緑地保全地域がある。そのうち東久留米には7箇所。先回歩いた柳窪もそうだが、この小山台緑地公園もそのひとつ。思わず足を踏み入れたくなる、美しい雑木林である。フェンスで囲まれているようでもあり、行き止まりになるか、などと少々気になりながらも、林の中を歩く魅力に抗えず先に進む。うまく台地下に下る 通路があり、緑地を抜ける。台地中腹の氷川神社におまいりし、台地を下り黒目川に戻る。門前大橋に

浄牧院
このあたり、門前大橋とか大門とか、由緒あるお寺がありそうな地名。地図をチェックすると近くに浄牧院というお寺さま。たぶんこのお寺さま故であろう、と門前大橋を渡り、大門1丁目にある浄牧院に。曹洞宗の立派なお寺様。
文安元年(1444年)、大石顕重によって創建、堂宇は最近になって建てかえられたように見える。お寺の前を浄牧院通りが走るが、これは1997年に都市計画によって浄牧院の敷地を分断してできたもの。ということは、堂宇の再建はその補償費でなされているもので、あろうか。つくりは安っぽくない。立派に造り直されている、よう。ここには南沢の領主・旗本の神谷家九代の墓所がある。

大石顕重
大石顕重が気になった。ひょっとして、あの大石一族?チェックする。八王子の滝山城を築いた大石定重などといった、あの大石氏の一統、であった。大石氏は木曽義仲の後裔と称し、戦国時代に武蔵で活躍した氏族。信濃国大石郷(佐久地方)に居を構え「大石氏」と。後に功あって足利氏より入間・多摩(八王子から秋川、村山、東久留米)に領地を拝領。あきるの市二ノ宮に居を構える。大石顕重は本拠を二宮から高月城に移した人物、である。

ちょっと脱線。高月城は秋川と玉川の合流点・加住丘陵にある。まだ行ったことがない。前々から気にはなっている。尾根続きといった滝山城には足を踏み入れた。とはいっても、到着したのが冬の午後6時過ぎ。あたりは真っ暗。ヘッドランプを頭につけ、城山に登った。枯れ葉の騒ぐ音に、身震いしたものである。もう1年以上前のこと。近々、昼間の滝山城から高月城へ行ってみよう、と思う(追記;その後、高月城も滝山城にも訪れた)。

厳島神社
浄牧院を離れ、門前大橋・黒目川筋に戻る。厳島神社。全国に500ほどある、という。田舎の愛媛には境内社も含めると300ほどある、とか。祭神は宗像三女神(市杵島姫命、田心姫命、湍津姫命)。「いつくしま」は市杵島姫命=イツキシマヒメ、からきているのだろう。「イツキシマヒメ」は水の神という。
数日前京都に出張に出かけた。週末、京都御所に寄ったとき、京都御苑に厳島神社が鎮座していた。また、脱線。祇園女御が三女神に加えて祭神となっていた。これは、安芸の厳島神社を祟敬していた平清盛が母・祇園女御を合祀したもの。もともと神戸にあったものが、この地・九条家の邸宅に移した、と。直ぐ近くに、宗像神社もありました。

宝泉寺
厳島神社の近くの台地には「金山森の広場」。ここも東京都の緑地保全地域。先に進み、平和橋、神山大橋へ。台地中腹に宝泉寺。東久留米の七福神ひとつ。弁才天がまつられている。東久留米の七福神はそのほか、米津寺の布袋尊、多門寺の毘沙門天、大圓寺の恵比寿・福禄寿・寿老人、浄牧院の大黒天、となっている。

落合川との合流点
神山大橋に戻り、先に進む。昭和橋を越えると、落合川との合流点。美しい流れである。この川の源流へも歩いてみたい。
合流点の三角地には下谷ポンプ場、そして東久留米スポーツセンター。これらの施設の下は調整池となっていた。黒目川雨水幹線といい、白山公園の調整池といい、北原公園の調整池といい、そしてこの調整池といい水防対策が盛んになされている。豊かな湧水地帯も大雨時には、洪水地帯であったのだろう。

新座市歴史民俗資料館

落合川との合流点を離れ神宝大橋に。このあたりから埼玉県。護岸のスタイルも東京都とは心持ち異なっている。栗原橋、貝沼橋、馬喰橋と進む。馬喰橋からは川筋を離れ、片山にある新座市の歴史民俗資料館に。しばし展示資料を眺め、先に進む。

妙音沢
しばらく歩くと関越道と交差。道は関越道・新座料金所のすぐ下あたりを進む。しばらくすすみ、大橋で黒目川と再会。再び川筋を進む。市場坂通り。台地に登る市場坂橋の手前で南から川が合流している。妙音沢と呼ばれる、とか。新座高校近く、ふたつの水源から豊富な湧水が湧き出ている、と。

川越街道・新座大橋
山川橋を越え、東の台地に陸上自衛隊朝霞駐屯地・演習場。先にすすむと川越街道・新座大橋に。日もとっぷり暮れてきた。新河岸川合流点にはいけそうもない。方針変更し、川越街道を東武東上線・朝霞駅に向かうことに。

東武東上線・朝霞駅に
以前、白子の宿から平林寺へと下った坂道を上る。膝折公団前、朝霞警察署前と進み、第四小前で川越街道を離れ、北に折れる。幸町3丁目を越え、朝霞西高、青葉台公園に沿って歩く。このあたりはキャンプドレーク跡地。米国の第一騎兵師団が駐留した基地。朝鮮戦争、ベトナム戦争に出動した部隊でもある。本町1丁目で東に折れる。朝霞市役所前をとおり、東武東上線・朝霞駅に。本日の予定終了。



新河岸川を歩いた時のことである。黒目川との合流点で行き止まりとなり、結構辛い思いをしたことがある。そのとき以来、その黒目川が気になっていた。いつか源流点から新河岸川との合流点まで歩こうと思っていた。また、ひさしぶりに、何も考えないで、ぶらぶら歩きたい、とも感じていた。
最近の散歩は「歌枕巡り」、というか、名所旧跡・神社仏閣巡りの趣がちょっと強い、かも。秩父観音霊場にしても、千葉の国府台・真間散歩にしても、時空散歩、というか、時=歴史メモが続いている。本来は、気楽に、行き当たりばったりで歩くのが好きなわけである。で、「そうだ、黒目川を気ままに歩こう」ということに。



本日のルート;西武多摩湖線・萩山駅>多摩湖自転車道>萩山町>西部新宿線交差>水道道路>新青梅街道>小平霊園西端>出水川>恩多町>公園橋(東村山運動公園下)>下里地区・ごみ処理施設・リサイクルセンター>新所沢街道>東久留米卸売市場>所沢街道>黒目川合流・新小金井街道>都大橋>新宮前通り>氷川神社>新宮前通り>西団地前交差点>にいやま親水公園>柳窪野球広場(東久留米十小学校の東)>柳窪緑地遊歩道>天神橋>天神社・長福寺>新青梅街道>西武多摩湖線・萩山駅


西武・多摩湖線萩山駅
黒目川の源流点は小平霊園内の「さいかち窪」とか。中央線で国分寺駅。西武・多摩湖線に乗り換え、萩山駅に。
駅前に「多摩湖自転車道路」が走る。何度かメモしたように、多摩湖近くの村山浄水場から武蔵境近くの境浄水場まで、一直線に続くサイクリングロード。自転車道路を過ごし、萩山地区を成行きで進む。西武新宿線を越えると野火止用水にあたる。
昨年野火止用水を歩いた。歩いているときはわからなかったのだが、用水の流路は台地の尾根道といったところを走っていた。カシミール3Dで地形図をつくってはじめてわかった。黒目川はその台地の下、崖線の下を流れている。今回は台地上を流れる野火止用水、そして崖線を形づくる台地を「意識」しながら、黒目川散歩を楽しもうと、気持ちも弾む。新青梅街道を西に、小平霊園に向かう。

武蔵野線

ちょっと脱線。地図をチェックしていると、野火止用水と西武新宿線が交差するあたり、「武蔵野線」のルートが描かれている。地上にはなにもないわけであるので、これって地下のトンネルを走っている、ってこと。
路線を辿ると、新小平駅で一瞬地上に顔を出し、またすぐ地下に潜る。そういえば、多摩の稲城を散歩しているとき、トンネルの入口に出会い、出口を探すと川崎・宮前区の梶ヶ谷操車場まで続いていた。これも武蔵野線の一部。武蔵野南線とか、武蔵野貨物線と呼ばれる。土・休日の臨時列車以外は貨物専用線となっている、とか。
武蔵野線ができるきかっけは、1967年の新宿駅での山手貨物線・列車転覆炎上事件。その列車が米軍の燃料輸送列車であったため、そんな危険な貨物が都心部を走るのは好ましくない、ということで都心を遠く離れたこの郊外に路線計画がなされた、と。本来であれば貨物専用でいいわけであるが、住民の理解を得るために旅客営業もおこなわれることに、した。住宅開発が進むベッドタウンに貨物だけでは具合が悪かったのだろう、というまことしやかな説も。
とは言うものの、この武蔵野線が最初に計画されたのは1927年というし、戦中の中断を経て1964年頃には工事がはじまったようではあるので、こういった話は「都市伝説」のひとつ、かも。

武蔵野線は横浜市鶴見駅から千葉県西船橋駅までが路線区間である。が、定期での旅客営業を行っているのは府中本町から西船橋方面だけ。武蔵野線に「寄り道」したのは、この路線開設が湘南新宿ラインとか埼京線のサービス開始に繋がっている、から。これらの路線は昔の山手貨物線を使っているわけで、埼京線や湘南新宿ラインを多用する我が身としては武蔵野線に「感謝」というわけである。寄り道が長くなった。散歩に戻る。

小平霊園の西端
小平霊園の西端に。新青梅街道から北にコンクリート護岸の川筋が現れる。これが黒目川?源流点は小平霊園内の「さいかち窪」ということであるので、霊園西端に沿って南に進む。塀というかフェンスに遮られ中には入れない、それらしき場所を眺めるが、それらしき水源などなにもなし。新青梅街道下からの突然の水が湧き出るはずもない。どこから水が流れてきているのか??小平霊園に沿った道が、いかにも川筋といった雰囲気。暗渠下というか道路下に川筋が続いている、とは思うのだが確認するすべもなし。ということで、源流探しをあきらめ、川筋を北に進むことにする。

出水川

この川筋、実のところ黒目川ではなかった。それがわかったのは、ずっと下って、本物の黒目川に合流する地点でのこと。この川は「出水川」であった。ともあれ、川筋に沿って恩田町を下る。典型的な都市型河川といった雰囲気。昔は生活排水などで河川汚染が結構大変であったように思える。
公園橋を交差すると西に東村山公園。リサイクルセンターを越えると新所沢街道。東久留米卸売市場の脇を進む。下里地区の新宮橋のあたりではコンクリート蓋水路。所沢街道の手前はコンクリート蓋に覆われた遊歩道となっている。下里団地のあたりもコンクリート蓋水路が続く。先に進み本村小学校を超えると水量豊かな川筋と合流。水草も美しく生い茂り、川筋の両側に遊歩道が整備されている。これが黒目川、であった。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)


黒目川の水源に向かう

少々迷った。このまま先に進むか否か。段取り優先であれば、そのまま先に、ということではあるが、黒目川の美しく・豊かな水量が、如何せん、気になった。水源がどのようなものか見たい、と思った。また、なによりも、豊かな水量が気になった。源流点はすぐ近くの小平霊園。深山幽谷でもあるまいし、これほどの水量が湧水だけから生まれているとは思えない。どこかの水処理センターで高度処理された下水が流されているのでは、などと、「豊かな水量」の原因を確かめたい、と思った。で、合流点から黒目川を源流点に向かい遡ることに、した。

こういった、気楽な散歩がいい。段取りも何もなく、成行きで歩くのがいい。道に迷えば、迷ったなりに 進めばいい。興味が向けば、それに向かってきままに進めばいい。国木田独歩の『武蔵野』の一節を思い出す:「武蔵野に散歩する人は、道に迷うことを苦にしてはならない。どの路でも足の向くほうへ行けば必ず其処に見るべく、感ずべき獲物がある。武蔵野の美はただその縦横に通ずる数千条の路を当てもなく歩くことに由って始めて獲られる。春、夏、秋、冬、朝、昼,夕、夜、月にも、雪にも、風にも、霧にも、霜にも、雨にも、時雨にも、ただこの路をぶらぶら歩いて思 いつき次第に右し左すれば随所に吾等を満足さするものがある」
「同じ路を引きかえして帰るは愚である。迷った処が今の武蔵野に過ぎない。まさかに行暮れて困ることもあるまい。帰りもやはり凡そその方角をきめて、別な路を当てもなく歩くが妙。そうすると思わず落日の美観をうる事がある。日は富士の背に落ちんとして未だ全く落ちず、富士の中腹に群がる雲は黄金色に染まって、見るがうちに様々の形に変ずる。連山の頂は白銀の鎖のような雪が次第に遠く北に 走て、終は暗澹たる雲のうちに没してしまう」。(国木田独歩『武蔵野』)。

都大橋で 西妻川が合流
合流点から新小金井街道に沿って流れる黒目川の川筋を上流に向かう。遊歩道が整備されて多くの人達が散歩を楽しんでいる。新宮前通りと交差する「都大橋」のあたりで別の川筋が合流。これは白山公園から流れてくる支流・西妻川。白山公園は滝山団地の水害防止のための調整池の役割も果たしている、とか。

氷川神社
都大橋を越えると遊歩道はなくなる。一時川筋から離れ新宮前通りを進む。少し歩くと氷川神社。新宮前通りの南を流れてきた黒目川は神社前で新宮前通りと交差し、神社の台地の下をぐるっと迂回する。
自然豊かな小川の雰囲気。台地下を少し川筋に沿って歩いたが直ぐに行き止まり。畠の中を新所沢街道まで続く。川筋から離れ、新宮前通りに戻り新所沢街道まで進む。

久留米西団地
新所沢街道を越えると久留米西団地。ここからしばらく川筋を歩ける。川の両側に芝生が植えられ、親水公園として整備されている。河川敷が広いのは増水時対策のための調整地も兼ねているのだろう。
この地域は大雨時の浸水常襲域であった、とか。ために、都市型水害に強い公共下水道雨水幹線の整備を行った。黒目川・出水川雨水幹線と呼ばれる。堤防の下を5キロ以上管が通っており、降雨時に一定以上増水した雨水は、この管を流れ、下流部平成橋のあたりで黒目川に合流することになる。これにより1時間当たり50mmの降雨に対しての安全が確保されることになった、とか。この親水公園は、この工事に際し、地表部分をコンクリート造りの護岸ではなく自然岸としてつくられたもの。
久留米西団地を越えると遊歩道が消える。川筋を歩くこともできない。水量もぐっと減っている。ということは、親水公園でなんらか人工的に水を「補給」しているのであろう。「豊かな水量」の源のひとつは、ひょっとしてこの辺り、かも。

再び川筋から離れて歩く。川から離れないように意識しながら先に進む。川は東久留米第十小学校をぐるりと迂回するように流れる。黒目川には柳窪5丁目にある 北原公園の湧水が、このあたりに流れ込んでいる、とか。とはいうものの、水量が増えているわけでもないので、それほどの湧水、というわけでもないのだろう。川筋を歩けないので合流点はわからない。

柳窪緑地
道は小学校の東を南に下る。柳窪野球場のあたりを西に折れ、川筋に出会う。このあたりから森・柳窪緑地自然公園がはじまる。深い森の中に散歩道が整備されている。とても東京とは思えないような自然が残る。

天神社
森の小道を進み天神橋に。橋のあたりから天神社への参道が続く。森の小道を進む。このあたりになると水量は極めて少なくなっている。ちょっとさびしい小川といった趣き。天神社前に湧水点がある。東京名湧水57に選ばれた、とか。とはいうものの、どこから湧き出しているのかもよくわからない、ほど。黒目川の貴重な水源と言われるとすれば、目には定かに見えねども、川底から湧き出ているのだろうか。

天神社にお参り。梅ノ木の脇に、「柳窪梅林の碑」。;西面に「柳窪里梅林之記」:、東面に「菅公(菅原道真)の碑」。「柳窪里梅林之記」は安政4年(1857年)、大国魂神社の宮司・猿渡盛章が書いたもの。久留米の地名が「来梅」とか「来目」とかかれている。東側には「ちとせとて まつはかぎりのあるものを はらだにあらば はるはみてまし」という菅原道真の歌が書かれている」、と。久留米の地名は「黒目川」に由来する、とされる。が、そもそも、黒目川の由来が何か分からないとことにはどうもしっくりこない。「来梅」ってなんとなく納得感が高いようには、思うが(追記;その後、この天神さまを数回訪れた。工事の最中であり、野趣豊かな雰囲気が少々損 なわれていたように見えた。さて、現在はどうなっているのだろう)。

新青梅街道脇
天神社から新青梅街道脇までは川筋は歩けない。川筋のとおる竹林を眺めながら川筋の西を平行に進み新青梅街道に。黒目川が新青梅街道に当たるあたりを確認。ほとんど
水はない。ということは、天神社あたりの湧水は黒目川の水源としては重要っていうこと、か。

小平霊園内の「さいかち窪」
小平霊園内に入る。なんとなく川筋っぽい地形を探す。雑木林が霊園入口近くに残っている。雑木林に向かう。木の生えていない窪んだ川床があった。ここが川筋だろう。水はないのだが、なんとなく、土が「ふわふわ」している、よう。適当に歩く。結局「さいかち窪」、ってところは確定できなかったが、なんとなくこの辺りであろう、というだけで十分に満足。

黒目川の水源は?
黒目川を一応源流まで辿る。あれほど豊かな水量の源はいまひとつわからない。なんとなく久留米西団地あたりの親水公園で供給される水が「源流」のひとつ、か。それから、あれこれチェックすると、天神橋の下流あたりで山崎製パン武蔵野工場からの浄水処理されたきれいな水が黒目川を潤している、とか。川筋は歩けないので、実際の合流点は見たわけではないのだが、天神社のあたり極めのて少ない水量が、氷川神社のあたりではそれなりの水量になっているわけで、ということは、その間でなんらかの給水がなされたわけで、湧水でもなければ、人工的に造水するしかないであろう。ということで、黒目川の源流は親水公園からの水と、パン工場からの水?どちらにしても、人工造水、と自分としては十分に納得。本日の散歩を終える。 

古河を歩く
平将門のゆかりの地を訪ねることになった。会社の同僚のお誘い。坂東市の岩井に「国王神社」がある、という。いかにも「新皇」を称した将門に相応しい名前の神社。実際のところ、平将門にそれほど興味・関心があるわけではないのだが、持ち前の好奇心のなせる業、男3名での道行き、となる。
ところで、坂東市って一体何処だ?聞きなれない地名。チェックする。平成の市町村合併で誕生した。岩井市と猿島町が平成17年に一緒になった、と。場所は茨城。利根川を挟んで千葉県・野田市と境を接する。予想に反して、結構近くにあった。
今回は車を使ったカー&ウォーク。せっかく機動力があるのだから、坂東市の近辺でどこか見どころは、と地図をチェック。東北道・久喜インターから東へ利根川へと目をやる。坂東市を探す。久喜市、幸手市をへて、江戸川と利根川の分岐点。そこから利根川沿いに南に下ると坂東市があった。あれ?途中の江戸川・利根川分岐点にあるのは「関宿」。そしてその少し上に「古河」がある。
関宿は、利根川の東遷事業、つまりは、古来江戸湾に流れ込んでいた利根川を、銚子へと瀬替えする際の分岐点として登場する地。前々から行ってみたかったところ。古河はいうまでもなく、古河公方の館があった地。なぜこの地に古河公方が館を構えたのか、この地でなければならなかったのか、気になっていた。
思いがけなく、前々から気になっていた場所が、突然「登場」した。であれば、ということで, コースは古河市・古河公方館跡からはじめ、坂東市岩井の将門ゆかりの地を巡り、締めは千葉県野田市関宿の江戸川・利根川分岐点へ、という段取りとした。
将門をきっかけにはじまった今回の散歩というかツアーではあるが、平安中期の将門だけでなく、室町期の古河公方、そして江戸期の利根川瀬替えの地・関宿と、時空を巡り楽しむ1日となった。メモは結構手ごわそう。(水曜日, 5月 09, 2007のブログを修正)


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本日のルート;古河市>古河歴史博物館>高見泉石記念館>利根川>古河総合公園>古河公方別邸>・・・>境歴史民俗資料館>逆井城址公園>岩井・国王神社>岩井営所跡>関宿城

久喜インター
久喜インターを降り、利根川に架かる利根川橋に進む。今回はカーNAVIの誘導であるため、経路はよくわからず。渋滞を避けてガイドしてくれる。正確には帯電話のカーEZ助手席ナビ。話は後先逆になるが、黒目川・落合川散歩のとき携帯のNAVIウォークの有料サービスを使い始めたとメモしたが、それはこのときの携帯カーNAVI・助手席ナビのあまりのパフォーマンスのよさに感激したため。音声ガイドで車でもちゃんとガイドしてくれる。であれば、歩きなど問題もなかろう、と使い始めたわけである。

国道4号線
国道4号線を進む。この国道、東京の日本橋から青森まで続く。陸上距離が最も長い、とか。743.2キロもある。大雑把に言って、昔の日光街道・奥州街道(江戸から白河)、仙台道(白川から仙台)、松前道(仙台から函館)を進む、という。


古河歴史博物館
国道4号線を古河駅前近くで西に折れ、最初の目的地・古河歴史博物館に。あれこれ資料を手に入れる。この博物館の敷地は古河城の一郭。12世紀頃は下河辺氏の居城。江戸期は小笠原・松平・小笠原・奥平・永井そして、土井・堀田・松平と続く。中世・15世紀の頃は、古河公方の居城。本来の目的である古河公方のメモをはじめる前に、下河辺氏と土井氏のことをちょっとまとめておく。

下河辺氏
12世紀のころの文書には下河辺の名前がしばしば登場する。下河辺荘という地名も登場する。この下河辺荘って、八乗院御領の寄進系荘園。北は古河・渡良瀬遊水地あたりから、南は葛西、東は下総台地・江戸川から西は元荒川あたりまで含む広大なもの。下河辺氏ってこの荘園の荘司から興った氏族であろう。治承4年(1180年)、以仁王の平家追討の令旨を受け源頼政が挙兵。下河辺は頼政に従軍。が、平家軍に敗れる。で、自害した頼政の首をこの地まで持ち帰り、菩提をとむらった、と。記念館の北西に頼政神社がある。何故かと思っていたのだが、こういう所以かと納得。

土井氏
最初の大老・利勝から前後150年あまり、この地を領する。利勝は家康の子であった、とも。開幕時の重鎮。その他に有名な人物は15代・利位(としつら)。雪の殿様と呼ばれる。雪の結晶を観察し日本で最初の雪の科学書『雪華図説』を著す。大阪城代のとき、大塩平八郎の乱を鎮定。その功を認められ京都所司代、老中、老中首座に。

古河城
古河城のあれこれについて、ちょっとまとめておく。館内に古河城の模型。また歴史館で手に入れた資料によれば、古河公方がこの地に入城したころは、城というより「御陣」といった程度のものだった、よう。その後改修が続けられ、御座所から「古河城」へとなってゆく。小笠原氏、松平氏、奥平氏、永井氏と城郭の改修と城下の整備にあたった、と。古河城の天守に相当する御三階櫓が完成したのは、土井利勝が城主となった翌年、寛永11年(1634)のこと。博物館のあたりは、諏訪曲輪と呼ばれる出城。渡良瀬川堤防のあたりにあった本丸を中心とする城との間には「した掘り」と呼ばれる大きな堀が描かれている。諏訪曲輪と本丸・丸の内は「御成道」と呼ばれる土手で繋がる。将軍が日光東照宮におまいりするときに通る道、であるとか。本丸も二の丸も丸の内も周囲すべてが掘で囲まれた「水城」である。

古河公方
はてさて、露払いは終わり、本命である古河公方のメモに進む。古河に来た最大の理由は、何ゆえ、古河公方がこの地に館を構えたのか、を知りたかったから。先日、伊豆・韮山で偶然掘越公方の館跡に出会い、あれこれ調べ、韮山・掘越の地に館を構えたのか、なんとなくわかった。同様に、古河を歩くことをきっかけに、「古河」でなければならなかった所以を把握しようと思う。
上杉禅秀の乱
「古河」の地であるべき所以の前に、そもそもの古河公方について、ちょっとまとめておく。はじまりは鎌倉公方・足利持氏。管領である上杉家と対立。クーデター(上杉禅秀の乱)により駿河に追放されるも、最後は幕府の助力でクーデター勢力を鎮圧。その後、5代将軍義量の死。持氏は将軍になれるとおもっていた。が、管領畠山満隆らの策謀によりその願い叶わず。結局、義教が還俗し6代将軍に。

永享の乱
鎌倉府・持氏と幕府との対立が激化。関東管領・上杉憲実が融和に努めるも、挫折。憲実は故郷・上野国に退く。持氏は追討軍派遣。それに対抗し、将軍・義教は持氏追討軍派遣決定。1438年、幕府軍が鎌倉攻撃。上杉憲実が幕府側につき、持氏敗れる。持氏は出家し助命を願うが、義教それを許さず。持氏自害。これを「永享の乱」、という。

結城合戦
持氏の3人の遺児は鎌倉を逃れる。次男・三男のふたりは日光、四男の永寿王丸(後の成氏)は信濃に。流浪の身となった持氏の遺児に対し、結城城の結城氏朝が救いの手。室町幕府に対し結城城にて挙兵。これが「結城合戦」。南原幹夫さんの『天下の旗に叛いて:新潮文庫』に詳しい。主君の遺児を擁し、「義」によって挙兵した氏朝に対し、利根川以東の豪族が集結。この結城合戦って、簡単に言えば、管領上杉家と東関東の豪族の対決と読み解けばいい、かも。
この動きに対し将軍義教は追討軍派遣。十万の大軍が結城に結集。結城軍1万。1年の攻防の末結城城は落城。持氏の遺児次男・三男のふたりは京への護送の途中、美濃・垂井で義教の命で殺される。四男の永寿王丸(後の成氏)は沙汰を待つ。その間に義教が赤松満祐に暗殺される(嘉吉の変)。永寿王丸は混乱に乗じ助かる。
この永寿王丸が後の古河公方・成氏。文安4年(1447年)、越後守護上杉房定の斡旋で永寿王丸を奉じて鎌倉幕府復興。鎌倉公方・足利成氏、となる。しかし関東管領・上杉憲忠と対立。親同士の宿敵の因縁が子の代まで、といった図式。成氏が憲忠邸を襲撃し殺害。「享徳の大乱」が勃発。成氏勢は府中・高安寺に陣。

古河公方
いつだったか高安寺にでかけたことがある。藤原秀郷の開基で館であった、とか。秀郷って平将門を討ち取った人物。俵藤太って、我々の世代では「むかで退治」で有名なわけだけど、そんなこと知っている人も少なくなっているよう。ともあれ、高安寺に陣を張った成氏であるが、分倍河原の合戦で勝利するなど緒戦は有利に展開。が、駿河守護今川範忠の鎌倉制圧を受け、康正元年(1455年)、古河に本拠を移す。これが古河公方。最初に住んだのが古河城の南にある「鴻巣の御所」。2年後、下河辺氏の居館であった、古河城を改修し、ここを本拠とする。

掘越公方
長禄2年(1458年)、幕府は足利政知を鎌倉公方に。とはいうものの、鎌倉に入ることも叶わず伊豆の韮山・掘越に館。掘越公方、と呼ばれる。このあたりの経緯は伊豆韮山散歩のときにメモしたとおり。文明14年(1483年)、幕府と成氏の和議成立。「都鄙合体」と「呼ばれる。掘越公方が北条早雲に滅せられるまでふたりの公方が存在することになる。
古河公方のその後。成氏の子孫が古河公方を世襲。16世紀前半、家督争い。足利義明が子弓公方として分裂。天文15年(1546年)、足利晴氏が川越の戦い(日本三大夜戦)で北条氏康に破れ、実質的に古河公方が滅ぶ。

古河公方がなんたるか、についてのメモ終了。ついで、本題の何ゆえに「古河」かについて。偶然のことではあるが、高円寺の古本屋で『日本人はどのように国土をつくったか;学芸出版社』という本を手に入れていた。その中に「古河公方の天と地、あるいは乱の地文学」という箇所がある。以前読んではいたのだが、如何せん土地勘とか問題意識が希薄であり、まったく頭に入っていなかった。が、今回実際に歩き、その気になって読むと、なんとなくポイントがつかめた。以下そのメモである。
古河の地に館を構えた理由:第一にこのあたり、下河辺荘を中心とした現在の利根川以東の地が成氏の御料地であった、ということ。また、その御料地とも関係あるかもしれないが、利根川以西が管領・上杉の領地であったのに対し、御料地のある利根川・渡良瀬川、太日川以東の関東北部、あるいは東部の上総・下総・下野の豪族は鎌倉公方・持氏の遺児にシンパシーを寄せていた。宇都宮氏・小山氏・結城氏・野田氏・簗田(やなだ)氏・千葉氏などである。勿論、力を増した管領上杉に対し、快く思わず、足利家嫡流という盟主を擁し失地回復を図ろうといたことも否めない。ともあれ、古河を含む一帯は、成氏にとって友軍の中の「安全地帯」であった、ということ。
では、その安全地帯の中で、何故「古河」であったか、ということだが、それは、この古河の地が舟運・陸運の交通の要衝であった、ということ。常陸川(ひたち)水系(現在の利根川水系)、渡良瀬川から古利根川水系(大雑把に言って、現在の江戸川)といった水系が入り乱れ、つながり、迷路状に絡み合う、一種の「運河地帯」であったのだろう。現在からはなかなか想像できないが、往古の舟運というのは商品流通の手段としては重要であったようで、各川筋には数多くの河岸がある。利根川水系では高崎に近い倉賀野など江戸時代、物流の一大集散地であった、とか。実際、関宿合戦に勝利し、梁田氏から関宿(現在の江戸川と利根川の分岐点)の支配権を奪い取った北条氏照など「一国にも値する」と大喜びしたほどである。津料、ひらたくいえば通行料も結構なものであったのだろう。関宿合戦については、後ほどメモする。
船運の要の地であった古河は、陸路の要衝・クロスロードでもあった。舟運は便利ではある。が、大軍の移動といった大規模物流・機動性には少々難がある。それを補うのは陸路。その点からしても、古河は幸手、元栗橋をへて古河に通じる奥州本道とも呼ばれる鎌倉街道、東山道武蔵路の途中から北東へ分岐し、鷲宮をへて渡良瀬川を越え古河に至る奥州便路といった鎌倉を結ぶ当時の幹線道路が交差していた。

鷹見泉石記念館
さてさて、やっと散歩に出かける。歴史博物館を離れ、道を隔てて南隣に鷹見泉石記念館。鷹見泉石って、渡辺崋山の描く国宝「鷹見泉石像」が有名(東京国立博物館所蔵)。土井利位の家老として活躍。幕府中枢の要人を補佐する立場であった泉石の残した膨大な日記は、当時の重要事件を記録してあり、その高い資料性ゆえに、国の重要文化財に指定されている。
「ダン・ヘンドリック・ダップル」という西洋の名前をしばしば用い、洋学界にも貢献した。韮山代官、江川太郎左衛門とも親交あったようである。韮山散歩のイチゴ狩りが思い出される。この記念館は水戸天狗党の乱に巻き込まれ、幕府にくだった水戸藩士100名を収容したところでもある。

長谷寺
泉石記念館を離れ、渡良瀬川の堤に向かう。西に向かう道は昔の御成道、か。往古、左右は水をたたえるお濠であったのであろう。道の南には長谷寺。日本三大長谷のひとつ、とされる。鎌倉から勧請されたもの。これまた鎌倉の長谷寺から名越の切通しへの散歩が懐かしい。
ともあれ、歴史館で手に入れた資料では、濠の端に見える。これは江戸になってからのことであろう。中世のころは、お城も整備されていなく、入り江の対岸に鬼門除けとして鎮座されていた、とか。

渡良瀬川の堤防
成行きで進み、渡良瀬川の堤防に。すぐ北には渡良瀬川遊水地が広がる。現在の土木・治水技術をもってしても、こういった調整池・遊水地が必要な「あばれ川」であったとすれば、昔はこのあたり一帯は幾多の細流が入り乱れる、大湿地帯が広がっていたのであろう。
遊水池の南には利根川が流れる。が、これは江戸の利根川の東遷事業で掘削された水路。「新川通り」などと呼ばれていたよう。昔は栗橋あたりを源流とする常陸(ひたち)川が銚子に向かって流れていたのであるが、利根川の東遷以前には江戸湾へと流れこんでいた渡良瀬川も、時として常陸川へ流れ込んでいた、と。この遊水池の規模を見るにつけ、大いに納得。

古河城址

渡良瀬川の堤防を歩く。ひょっこり、「古河城址」の案内。昔の本丸のあったあたり、とか。渡良瀬川の河川改修で取り壊されたのであろう。それにしても、結構大きな構え。南北1800m、東西550mにも及んだ、と。資料を見ると、本丸あたりに頼政神社が。現在は歴史博物館の北西にある。この神社も河川改修工事のときに移されたものであろう。

古河総合公園・古河公方館跡
新三国橋まで下り、東に折れ古河総合公園に。郷土物産展といったイベントで人が集まっていた。なにがうれしかった、といって、秩父で買った「田舎饅頭」がここでも手にはいったこと。祖母の味を堪能する。
公園を南に進む。池、というか、沼にかかる橋を渡り、池に挟まれた下状台地の雑木林の中に。ここに古河公方館跡がある。足利成氏が古河に移り、最初に館を構えたところ。鴻巣御所と呼ばれた。ちょっとした堀切や虎口付近には土塁らしきものも残る。義氏と氏女の墓所があった。義氏って、秀吉の頃の古河公方。氏女って、義氏の息女。秀吉により、子弓公方・足利義明の孫に嫁ぎ、下野・喜連川に。あれこれの有為転変の末、この地でなくなった、と。

古河の地形
カシミール3Dでつくった地形図で古河城、古河公方館跡を取り巻く地形をチェック。さきほどの『日本人はどのように国土をつくったか;学芸出版社』を参考にする。歩いているときにはそれほど地形のうねりを感じることはできなかったのだが、あらためて地形図をみると、古河城・館の地は下総台地の西端・猿島台地と呼ばれる低い台地上にある。
この台地は東西、そして南を川・湿地で囲まれている。西は渡良瀬川。東は昔、大山沼と呼ばれる沼地があった。明治に干拓され現在は向掘川と呼ばれる細流が残すだけである。が、昔はこの川は渡良瀬川上流にあたる思川の派川であり、水量豊かな流れであった、とか。ちなみに、鴻巣御所を取り巻く、御所沼であるが、これは向掘川の豊かな地下水流というか伏流水が台地下をくぐり、この御所沼の谷戸の奥に湧き出たものではないか、と言われている。
この向掘川、昔は大山沼入り、その先、栗橋のちょっと東あたりで利根川に流れ込んでいた。利根川といっても、江戸期に東遷事業で開削された「赤堀川」と呼ばれた流れではある。
で、開削以前はどうか、というと、このあたりは、南に進み江戸湾に流れる渡良瀬川水系と、栗橋あたりを源流点とし、東へと進む常陸川(ひたちがわ)を隔てる、曖昧なる「分水嶺」といったところ、と『日本人はどのように国土をつくったか』では指摘する。つまりは、大山沼の水も渡良瀬川水系に流れることもあれば、逆に渡良瀬川の水が常陸川に流れこむこともあったのでは、と。猿島台地の両端は、流れの向きの不安定で滞りやすい湿地を成していたため、古河は西・東・南の三方を水に囲まれた要害の地であった、という。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)

『日本人はどのように国土をつくったか』の記述を続ける。「渡良瀬川を望む、この猿島台地の西縁に、流れと平行して深く北方へ切れ込む谷戸がある。それと行き違うように低い台地が南に向かって細長く突き出していた。立崎と呼ばれるその岬の先端に古河公方は城を構えた。いわゆる水城である。そこから少し南に、やや太い谷戸が東に向かって、台地へ切れ込んでいる。八つ手の葉のように分かれたその先端は、台地の分水嶺の近くまで貫入して、反対側の向掘川から延びた伏流水が音を立てて湧き出していた。八つ手になったその谷戸状の沼に三方を囲まれた舌状台地が突出している。
疎林に覆われたその眺めの良い場所に、公方の居館・鴻巣御所があった。沼はいまでも御所沼と呼ばれている。古河公方の居城と館はこうした湿地の迷路の奥にあった」、と。つまりは、古河の地は、猿島台地という水に囲まれた要害の地であった、ということだ。
なぜ、古河なのか、という疑問も、地政学的、および地形学的に自分なりに納得。散歩の距離の割りにメモに時間をとられた。が、長年の疑問も解消し、次の目的地に、心も軽く向かうことにする。
岩井を歩く
平将門のゆかりの地を訪ねる散歩メモの第二回。古河を離れ次の目的地、平将門ゆかりの地、坂東市・岩井に向かう。途中どこか見どころがないかと地図をチェック。東仁連川、飯沼川、西仁連川といった川筋が集まる逆井の地に、逆井城跡公園。どういった由来のお城かわからない。それよりも、この城跡の北を流れる
飯沼川が気になった。これって、昔の飯沼の跡地ではなかろうか、と。
将門ツアーをいい機会と、いくつか将門に関する本を読んだ。どこかの古本屋で求めた『将門地誌:赤城宗徳(毎日新聞社)』と『全一冊 小説平将門;童門冬二(集英社文庫)』などである。ちなみに、赤城宗徳さんは農林大臣などを歴任した政治家。最近、こういった、「格好のいい」政治家がいなくなった、なあ。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)

ともあれ、本の中に飯沼が登場していた。将門の妻子がこの沼地東岸に隠れていたのだが、敵である伯父の良兼の軍が去ったと勘違いし出て行ったところを見つけられ、惨殺された場所である、とか。古河から17キロ程度であり、岩井への道筋からそれほどはなれてもいない。携帯カーナビ・EZ助手ナビをセットし、逆井に向かう。カーナビのガイドゆえに、経路わからず。(土曜日, 5月 12, 2007のブログを修正)


より大きな地図で 将門ゆかりの地 を表示 

本日のルート;古河市>古河歴史博物館>高見泉石記念館>利根川>古河総合公園>古河公方別邸>・・・>境歴史民俗資料館>逆井城址公園>岩井・国王神社>岩井営所跡>関宿城

逆井城跡公園
逆井城跡公園に。周囲を低地で囲まれた台地上にある。戦国期の城郭が再現されている、と。どうせのこと、おもちゃのような、味もそっけもない城郭もどきのコンクリート建築であろう、と思っていた。が、予想に反し、時代考証をきちんとした城郭がつくられている。近づくにつれ、台地上に城を囲む土塀と井楼(井桁状に骨組みを組み合わせた高層の櫓)と望楼が見える。当時、井楼があったのかどうか、はっきりしないようだが、ともあれ戦国の雰囲気を感じることができる。
大手門でもある西二ノ曲輪にかかる木の橋を渡り城内に。大手門下には入江。飯沼からの荷を運ぶ舟入跡であろう。大手門横に二層の望楼が。城郭内部から見た土塀もなかなかリアル。城内には関宿城から移した門や戦国期の本丸殿社をもとにした御殿、観音堂などもある。一ノ曲輪のあたりには櫓門と木の橋。櫓門の周囲には土塁も残っている。木橋下の空掘りも結構深い。
この城は、逆井氏の築城と言われる。逆井氏は、豪族・小山氏の係累。逆井の地を領したため逆井氏、と。その後、小田原北条氏によって落城。ちなみに、城内にある「鐘掘り池」は落城時、城主の息女か妻女か、どちらか定かはないようだが、ともあれ先祖代々伝わる鐘をかぶって身を投げた池、と言われている。
この城を落とした小田原・北条氏はこの城を、佐竹氏、多賀谷氏といった常陸勢力、また越後の上杉謙信に対する拠点として整備。現在残っている城の構えになったのも北条氏による大規模な縄張りの結果誕生したものであろう。

飯沼
城の端から飯沼方面を眺める。いかにも沼であったかのような、低地が広がる。台地下に西仁連川が流れる。不自然なほど直線の川筋。こういった川筋はほぼ、人工的に開削されたもの、と考えてもいいだろう。実際、この川は江戸期に飯沼の水を抜き、新田とするための水路であった。地形大好き人間としては、この飯沼の変遷が気になった。ちょっと調べる。
現在この地には東仁連川、飯沼川、西仁連川がそろって流れている。そしてこれらの河川は下流でひとつになって、利根川に注ぐ。西仁連川は栃木県南部が源流。三和町で東仁連川と別れる。飯沼川はその少し下で東仁連川から分かれている。西仁連川と飯沼川は坂東市幸田新田で合流。東仁連川は水街道市を経て、飯沼下流部で飯沼川と合流。そしてこの飯沼川は野田市で利根川に合流することになる。
はてさて、これらの河川は飯沼の水を抜き、新田を開発するために工事がなされた。最初の工事は飯沼の水を利根川に逃がすため、飯沼下流部から利根川まで川筋を開削。これが飯沼川のはじまり。
次におこなわれた工事は、更に飯沼の水を落とすため、沼の中央に水路を通し、下流部の飯沼川と繋ぐ。その次の工事は、飯沼に流れ込んでいた川筋を東西に分岐。ふたつの川筋とした。西が西仁連川、東が東仁連川。これは、新田に灌漑用水を供給するための川である。このとき、西仁連川は飯沼の南端まで掘り進め、飯沼川と合流させた。東仁連川は現在とは異なり、鬼怒川に流れるようにしていたようである。このように、飯沼の水を利根川や鬼怒川に流すことにより、新たな新田を開発していった、ということである。

飯沼は将門の妻子が殺されたところ
この飯沼であるが、将門の関連としては、上にメモしたように、将門の妻子が殺されたところである。このときの将門は勇猛なる武将とは程遠い行動をとっている。京において、庇護者とも頼む太政大臣・藤原忠平より、「もう少々おとなしくしなさい」などと諭されていたことも一因かもしれない。その遠因となったのが、「野本合戦」。前常陸大掾源護の息子が将門を討つべく待ち伏せ。が、逆に返り討ちとなる。将門はこの「野本合戦」で息子をうしなった源護の訴えにより京都に召還される。結局無罪ではあったのだが、その際に忠平に自重を求められていた、ということだ。ちなみに、野本合戦のおこなわれたのは下妻市の東、明野町赤浜である。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」) 

この赤浜からすこし西に小貝川にかかる子飼渡(小貝大橋のあたりか)がある。この渡での「奇計」も将門の戦う気力を削いだといわれる。その奇計とは、良兼(伯父)と貞盛(伯父である国香の息子)が、子飼渡の渡河に際し軍の先頭に「高望王と将門の父・良将の像」を押し立てて進んできた、ということ。将門は尊敬するふたりに弓矢を向けることができなかった、などとも言われる。当時将門は子飼渡から南西に降りた鬼怒川沿いの千代川村鎌庭に館を構えていたようだが、戦う意欲のない将門を見て、良兼軍は更に第二波の攻撃をおこない、鎌庭の対岸・仁江戸のあたりまで攻め込んだ。で、件(くだん)の飯沼の芦原へ逃れ、結局妻子を失うことに、なるわけである。
飯沼と将門の関係をもうひとつ。正確には将門というより父の良将と菅原道真の三男景行の関係。景行が常陸介として羽鳥の地、現在の真壁町というか、筑波山の西の麓ってところに館を構えた。が、飯沼の開拓に励むため大生郷に移る。現在の坂東市の東、鬼怒川沿いの場所にある。当時の大生郷は飯沼に臨んだ高台であった、よう。飯沼は周囲十数理におよぶ大湖水。大小17の入江があり、まわりは鬱蒼たる森林に囲まれていた。南北22キロ。東西1.5キロ。景行と良将のコンビで下総の開拓につとめた、という。

逆井は将門終焉への闘いの舞台
飯沼というかこの逆井と将門の関連を更にひとつ。先ほどの子飼渡のエピソードの時期からは少し下るが、この地は、将門終焉への闘いの舞台でもある。関八州の国府を制圧した将門は宿敵貞盛・為憲を求め常陸北部の掃討作戦を進める。が、貞盛、為憲の所在つかめず。一時軍を解散。そのとき、秀郷4000の兵を集め将門討伐に立ち上がる。将門にとっては予想外のことであった、よう。仲間とも、よき理解者とも思っていたようだ。老獪なる秀郷ならではの行動、か。とまれ、その報に接した将門は1000人の兵を率いて秀郷の本拠・田沼(佐野市)に進軍。敵軍見つからず。後続部隊が岩舟町(佐野市の東側)の北西の小野寺盆地に敵軍発見。全軍一致の軍令に背き、個別攻撃。戦上手の秀郷軍に包囲され敗れる。
岩船で敗れた将門軍、東に逃れ結城から本拠地岩井へと逃れる。将門軍は水口村(八千代町・猿島町の北)に陣を張る。ここは結城から岩井に通じる要衝の地。戦闘。緒戦は将門軍有利も、次第に貞盛・秀郷軍優勢に。将門軍、猿島の広江(飯沼)に退却。沼地に常陸軍をおびきよせ、討ち破る計画。が、貞盛はその手にのらず、猿島郡と結城軍の境、いまの逆井に到着。将門をおびき出すため村落を焼く。そうして、最後の決戦地、将門が討ち取られた地、国王神社あたりに続くことになる。

さしま郷土館ミューズ
逆井、飯沼でちょっと寄り道が過ぎた。岩井の国王神社に向かうことにしよう。県道135号線を南東に下る。途中坂東市市山にある「さしま郷土館ミューズ」に立ち寄り、猿島資料館で猿島の歴史などをちょいと眺め、沓掛あたりで県道20号・結城岩井線を南に折れる。江川を越えると国王神社。江川は猿島町から菅生沼までの14キロ程度の川。飯沼川とか仁連川といった江戸時代に新田開発のためつくられた川ではなく、昔からの水路を改修してできたもの。で、やっと当初の目的地・国王神社に到着。

国王神社
茅葺の国王神社拝殿。道路脇にあり、神さびた、という社ではなかった。読みは「くにおう」と。説明文のメモ;「祭神は平将門である。 将門は平安時代の中期、この地を本拠として関東一円と平定し、剛勇の武将として知られた平家の一族である。天慶三年(九四〇)二月、平貞盛、藤原秀郷の連合軍と北山で激戦中、流れ矢にあたり、三十八才の若さで戦死したと伝えられる。その後長い間叛臣の汚名をきせされたが、民衆の心に残る英雄として、地方民の崇敬の気持は変わらなかった。本社が長く地方民に信仰されてきたのも、その現われの一つであろう。本社に秘蔵される将門の木像は将門の三女如蔵尼が刻んだという伝説があるが、神像として珍しく、本殿とともに茨城県文化財に指定されている」と。
ここは将門が陣没したところと伝えられる。将門の二女が出家し如蔵尼と称し、この地に庵を結び父の冥福を祈る。この庵が後にこの国王神社となった、とも。上で将門終焉の地へのエピローグともいう合戦を逆井まで下った。将門は飯沼の地に隠れ、戦いの時期を待っていた。援軍を待っていた、とも。援軍は伯父の良文の軍である。良文は他の伯父とは異なり、常に将門の理解者であった、よう。が、良文の援軍が来ることはなかった。
願い叶わず。飯沼の隠れ家を出て、菅生沼を渡り、岩井の北山に陣を張る。貞盛・秀郷軍と矢合わせ。緒戦将門軍勝利するも、将門軍400対貞盛・秀郷軍3000の勢力差はいかんともしがたく、国王神社の地で矢にあたりあえなく討ち死に、となる。

平将門のあれこれ
平将門って、名前はよく聞くのだが、実のところあまり詳しく知らない。関東に独立国をつくろうとした、とか、所詮は伯父と甥の身内の勢力争いである、といった程度のことしか知らない。いい機会なので概要を整理した。参考にしたのは、赤城宗徳さんが書いた『将門地誌』である;

平将門について; 桓武天皇の第四子に葛原親王という人がいた。東国に荘園をもち、9世紀には常陸の太守にもなっている。といっても任地に赴任することはなく、いわゆる遙任として京に留まっていた。この葛原親王の子が高見王であり、その子が高望王。この高望王が「平」姓を賜り上総介として東国に下ることになる。朝敵を"平らげたる"ゆえに、「平」ということだ。
当時の上総の地は、騒然としていた。大和朝廷に征服され、帰順した「えぞ」・俘囚が反乱を起こしていたわけだ。ということで、高望王の仕事は国内の治安維持ということであった、よう。ということもあり、高望王は息子を国内要衝に配置。長男・国香は下総国境の市原・菊間。鎮守府将軍の任にあたる。二男の良兼は上総東北隅の横芝。三男の良将は下総の佐倉。この人が将門の父。四男は上総の東南隅の天羽。この四男はあまり登場しないので、名前は省略。上総の四周の要衝を息子で占める。五男の良文は京都に留まっていた。
高望は地元の有力者との婚姻政策も進める。 良兼と国香の子である貞盛には常陸大掾源護源護の女、良将には下総相馬の犬養氏の女、といった具合である。良兼は源護から婿引出として常陸国真壁郡羽鳥(筑波山西麓)の荘園をもらっている。良将は事実上の下総介、鎮守府将軍として一族の中で重きをなしていた。こういった中、高望の死。朝廷は藤原利仁を上総介・鎮守府将軍に。平一族の勢威を快く思っていなかった朝廷の平氏牽制の政策、か。国香の不満大いに高まった、とか。
といったところでの良将の死。一族のバランスが一挙に崩れる。良兼が良将の遺領の切り崩しをはじめたわけだ。そのころ、将門は京にあり太政大臣藤原忠平のもとに仕える。滝口の武士、といった武勇にすぐれた衛士として認められていたよう。忠平の覚えもめでたかった、とも。
将門帰国。相馬御厨の下司として戻る。場所は取手市上高井のあたり。将門の居館は「守谷」にあった。後に、本拠を豊田郡鎌輪に移した、と。その当時の父良将の旧領の状況は、成田以東の利根川沿いは良兼に、千葉から東は国香、千葉以西、利根川以南は印旛沼周辺を覗いて良文の領地となっていた。
ここで登場した良文は高望王の五男。38歳まで京に留まる。下総に下ったのは高望が死んで12年。良将が死んで5年。将門が京に出て3,4年のこと。相模の村岡郷(現在の大船付近)や、秩父にも領地をもつ。ために、村岡五郎と呼ばれた、と。良将がなくなり、将門が上京したあと、国香や良兼が、良将の旧領を侵蝕。波瀾含みの遺領を安泰ならしめる対策として、良文に内命が下り、東国に差し遣わされた、と。で、下総は安泰。帰国した将門は利根川以北の下総経営に専念できることになる。この良文は国香とも争っている。国香を上総から常陸に移したのはこのため、とも言われる。この良文は他の伯父とはことなり将門の味方であった。

野本合戦
京より戻った将門は相馬御厨の下司として、また、北総の地の開拓をおこない国土経営につとめるが、争いが突然やってくる。荘園拡張を計画する源護の息子が将門を待ち伏せ。殺すつもりななく、単に脅しのためだけであった、とも言われるが、結果的に将門の反撃により源護の息子3人戦死。源護を助けた国香も傷がもとでなくなる。これが先にメモした「野本合戦」である。場所は明野町赤浜である。国香の館は明野町東石田。赤浜の直ぐ近くにあり、源護は息子貞盛の義理の親でもあり、国香自身も源護の後をつぎ常陸大掾となっていたり、といった関係もあり、援軍に出向いたのであろう。
平良正(扶らの姉・妹婿)が将門への復讐戦をはじめる。が、力不足のため良兼に助け求める。戦は将門有利。下野国分寺(栃木県下野市;小金井駅の近く)まで良兼を追い詰める。最後は見逃す。ここからが一族が相い争う「天慶の乱」のはじまりとなる。

天慶の乱
源護が将門に非ありと、京に訴える。が、非は己にあり、ということで将門は無罪。帰国となる。途中、近江・甲賀での貞盛の待ち伏せの噂。争いをさけるため、海路をとる。京都より大阪に下り、海路紀州灘より伊勢湾にはいり、名古屋に上陸。そのあとは、中山道が危険ということで、東海道に沿って、道なき道を進むことに。当時宿などもなく、まして食べ物なども自給自足しかない、艱難辛苦であった、よう。

青梅の将門伝説
東海道を東に進み、富士山麓をとおり、大月に。その後、佐野峠をへて青梅渓谷にはいる。青梅では二俣尾の海禅寺にはいった、との伝説がある。それから、秩父にでるか青梅にでるかということだが、当時青梅には国府の大目(だいさかん)にあたるものが派遣されており、土着し、大目(おおめ)という名で里正(さとおさ)をつとめていた。この大目氏は将門を快く受け入れた。ために、青梅に入る。高峯寺を宿所とした、と。
高峯寺に留まり、下総か武蔵の状況を偵察。武蔵の郡司・武蔵武芝が将門に敵対しないこと、そしてその人となりを知り、武蔵を無事通れることを確信。後年、この武蔵武芝が窮地に陥ったとき、頼まれもしないのに調停に赴いたのは、このときの恩義、か。また、有名な青梅伝説ができたのも、このとき。大目氏の邸宅に梅の老木。将門、この梅の枝を杖とし、金剛寺に。寺の境内に枝をさし曰く「梅 樹となり、東風を得て花を咲かせよ、わが運命もかくのごとく開けん」。開花結実するも、霜雪の候にいたって、なお実青く枝に残る。 以降、大目氏は青梅と名を改めた、と。

子飼渡
ともあれ、京都から4カ月をかけて故郷にもどる。故郷に戻った将門は忠平の訓戒を守り、自重。それに乗じた良兼が仕掛けたのが、上でメモした「子飼渡」からはじまる闘い。武力放棄していた、といった将門であるが、妻子を殺戮され、しかも財宝すべて奪い取られ、怒りの報復戦をおこなうことになる。良兼が羽鳥に来ているのを知り、攻撃。略奪の限りをつくす。が、良兼をとらえることなく引き揚げる。将門が朝廷に告訴状。良兼追討の官符。次いで、良兼から将門への告訴状。将門追討の官符。朝廷の無定見このうえなし。
羽鳥を破壊尽くされた良兼の報復戦がはじまる。当時の将門の本拠地は鎌輪の地。鎌輪は羽鳥にあまりに近く、危険ということで、猿島の石井(岩井)に移る。岩井への良兼の夜襲計画。未然にこれを防ぎ、良兼負け戦。この戦を機に良兼は闘争心を失い、翌年にはこの世を去る。
貞盛、将門謀反を唱える。朝廷にその旨訴えるべく、京に向かう。その貞盛を追って千曲川まで駒を進めたのもこのころ。将門謀反を唱えるものがもうひとり現れる。武蔵介・源経基である。このきっかけは武蔵国・郡司との紛争。武蔵権守興世王、介である源経基と武蔵郡司・武蔵武芝との紛争。頼まれもしないのに将門が調停を買って出る。将門・興世王・武芝の交渉。調停不調と勘違いした武芝の軍勢が源経基を包囲。経基、京都に逃げ帰り、「興世王、将門謀反」と虚言を呈す。おめおめ逃げ帰った己の保身のため、といわれている。

常陸国府石岡の攻撃
こういった、将門謀反の噂の中で起きたのが、常陸国府石岡の攻撃。将門の生涯での一大転機となる。それまでは一族間の、いわば内輪揉めであったものから、国府という国の機関、その関係者との戦いになった、ということ。
常陸国府石岡の攻撃にいたる経緯はこういうこと。常陸介・藤原維幾は国香の妹婿。その息子・為憲が将門の領土を得んものとして、伯父の平貞盛と共謀。国司である父の力を利用し、国の兵器・軍備を使って将門戦の準備をしたわけである。
この報に接した将門は先手を打って国府を攻撃した。自衛手段として、といっても国府の攻撃。叛乱とみなされても仕方なし。で、将門の結論は、「一国をとるも誅せられ八国をとるも誅せられる。誅は一なり。如かず八国をとらんには」、ということで下野(栃木)、上野(群馬)、武蔵(埼玉・東京)、相模(神奈川)の国府を攻撃。国司を追放。「新皇」を称する。
京都にショック。天位を覆す企てと。全国に檄をとばし、大規模な征討軍の派遣決。が、征討軍が到着する前に、貞盛と藤原秀郷の連合軍のため、石井(岩井)で戦死。この間の経緯は上にメモしたとおり。

岩井営所
なんとなく平将門、およびその騒乱についてわかってきた。散歩を続ける。国王神社を離れ、岩井営所に。国王神社のすぐ近く。ショートカットで畑の畦道を進む。直ぐに島広山の岩井営所跡に。「昭和のはじめまでは老杉亭々として空にそびえ、けやきの大木と友に水天宮の祠をおおい、清水を湧出して、一ひろの清水をたたえていた」、と『将門地誌』に書いてあったが、現在は民家の庭先といったところ。実際、見過ごして歩いてしまった、ほどである。ここが将門の政治・経済・軍事の中心地であった、といわれても、現在は、のんびりとした田園風景が広がるのみ、であった。

延命寺
島広山の台地を下り、道なりに進み延命寺に。ここは、国王神社の別当寺。将門の守り本尊であった薬師如来をまつり、別名、「島の薬師」とも呼ばれる。寺の由来書によれば、石井営所の鬼門除けとして設立。貞盛・秀郷により石井営所一帯が焼かれたとき、薬師如来は移し隠され、世が落ち着いてから現在の低湿地に移された、と。カシミール3Dでつくった地形図をみると、なるほど、江川によって開析された谷戸が深く切り込まれている。昔は、東に菅生沼、西に鵠戸沼、南は小さな沼が点在した低湿地であったのであろう。。
散歩の距離の割りに予想通り、メモに結構手間取った。これで将門巡りは終了。次の目的地、関宿へと向かう。
平将門のゆかりの地を訪ねる散歩メモの第三回。将門の営所のあった岩井を離れ、最後の目的地・関宿城跡に向かう。国道354号を北西に古河方面に。利根川に架かる「境大橋」を渡るとすぐ、関宿城博物館。 利根川と江戸川の分岐点の近くにある。本当に、まっこと、本当に来たかったところ。利根川東遷事業ってどんな規模のものだったのだろう、江戸川と利根川の分かれるところってどんな風景であるのだろう、舟運の要衝っていうけれど、大河を遡るわけで、どの程度の流量なのであろう、などとあれこれ想像していたわけだ。やっとのこと関宿の地に来ることができた。

関宿城博物館

到着時間が4時半を過ぎ。関宿城博物館は既に閉館していた。ここに来た目的は、利根川東遷、というか、利根川の瀬替えに興味があったから。関宿城自体がどういった歴史をもつものか、なにもしらなかった。
関宿の歴史との唯一の接点は千葉・市川散歩のとき。市川市・国府台にある総寧寺に関宿城主であった小笠原氏の墓所があった。これは総寧寺自体がもともとは関宿にあったものが、国府台に移ったため、とか。
小笠原氏をきっかけに江戸期の関宿城主をチェックすると、牧野氏・板倉氏・久世氏といった老中格の譜代大名が城主となっていた。奥州の外様大名への備えとして重要な地であったわけだ。利根川・江戸川の分岐点、ということは、舟運に限らず交通・物流の要の地であったわけで、当たり前といえば当たり前のことではあった。で、散歩のメモをきっかけにあれこれ調べると、関宿から、まことに波乱万丈の歴史が現れてきた。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)



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関宿時空散歩:「空」の巻
当初関宿については、その地理的なところにフォーカスを充ててのメモと思っていた。が、その歴史も結構のもの。「時空散歩」がたのしめそう、である。まずは「時空散歩」の「空」、空=関宿の地理、からはじめる。当然のこととして、此処に来た最大の理由、利根川東遷事業の視点からメモしてみたいと思う。

利根川と江戸川の分流点
とりあえず歩きはじめる。向かう場所は利根川と江戸川の分流点。別にこれといって道があるわけではない。葦が生い茂る低地を「力任せ」に進む、のみ。背丈以上もあるような葦原。とてものことひとりでは心細くて歩けたものではない。また、こんなところを歩く酔狂な者など居るはずもない、だろう。周囲に塵芥が散見する。水量が増したとき流れ着いた浮遊物であろう、か。葦原の踏み分け道を進む。葦原が切れ、川筋近く、テトラポットが幾重にも積まれている。足元を気にしながら、突端に進む。利根川と江戸川の分岐点に到着。結構時間がかかった。30分ほど歩いたような気がする。川面に手を入れ、思わず満足の笑み。わけの分からない達成感ではある。
利根川と江戸川の分岐点と書いた。が、正確には、昔からここに利根川・江戸川が流れていたわけではない。目の前に流れるこれらの川筋は、人工に開削された水路である。現在「利根川」と呼ばれている水路は、「赤堀川」と呼ばれる人工水路であった。また、現在「江戸川」と呼ばれる水路は、これもまた「逆川」と呼ばれる人工水路であった。

赤堀川は元和7年(1621年)に開削。関宿から上流の栗橋まで掘り進められたわけだが、これはおなじく元和元年、赤堀川の上流、佐波地区から栗橋までの8キロを開削し、利根川と渡良瀬川を合流させた「新川通り」とよばれる直線河道の延長上につくられたもの。
この赤堀川は関東ローム層台地を掘り割り、江戸に流れ込んでいた利根川・渡良瀬川を常陸川筋とつなぎ、銚子から太平洋に流す、いわゆる、利根川東遷事業の第一歩といってよい。とはいうものの、開削された当時は工事のミスか、それとも計画通りなのか定かには知らねども、通常殆ど水はながれていなかった、よう。「新川通り」からあふれる洪水時対策用水路であった、ともいわれる。で、工事を繰り返し、幅50m、深さも9mといった「大河」となり、ちゃんと水が流れ始めたのは元禄11年(1691年)の頃。が、水深・川幅などを勘案すると、常陸川水系にインパクトを与えるほどの水が流れ始めたのは、江戸時代後期の文化6年(1809)年ころになってから、とも言われる。

一方、現在江戸川と世ばれている川筋は、このあたりは当時「逆川」と呼ばれていた。関宿の少し南、江川の地まで開削されてきた江戸川と、赤堀川、というか、常陸川水系をつなぐものであった。『日本人はどのように国土をつくったか;学芸出版社』によれば、この逆川は複雑な水理条件をもっていた、と。普段は赤堀川(旧常陸川)の水が北から南に流れて江戸川に入る。が、江川で「江戸川」と合流する川筋・「権現堂川」の水位が高くなると、江戸川はそれを呑むことができず、南から北に逆流し、常陸川筋に流れ込んでいた、と言う。

この江戸川も上流部は人工的に開削されたものである。寛永11年(1635年)に起工し寛永18年(1641年)通水。下流・野田橋の近く、金杉あたりから18キロにわたって関東ローム層の台地を掘り割ってきた。江戸川の開削も洪水対策のため、と言われる。瀬替え、堰の締め切りなどにより、権現堂川から庄内古川に集中することになった、利根川・渡良瀬川水系の水を、江戸川に集めることにしたわけだ。沖積低地上の庄内古川筋を流れていた利根川の水を、関東ローム台地の中に導水し治水につとめた、ということ、である。

利根川の河道の変遷
利根川の河道の変遷をまとめておく。上でいろいろメモしながらも、やっぱりこの複雑な水路を整理しないことには、少々混乱してしまいそう。派川は省略し、主道をまとめる。
利根川は群馬県の水上にその源を発し、関東平野を北西から南東へと下る。もともとの利根川は大利根町・埼玉大橋近くの佐波のあたりで現在の利根川筋から離れる。流れは南東に切れ込み、高柳・川口方面へと続いていた。浅間川とよばれていたようだ。地図を見ると、現在は「島中(領)用水」が流れている。が、これは昔の浅間川水路に近いのだろうか。で、ここから流れは現在の「島川」筋を五霞町・元栗橋に進む。ここで北方から古河・栗橋・小右衛門と下ってきた渡良瀬川(思川)と合流し、現在の権現堂川筋を流れる。そして上宇和田から南へ下る。昔の庄内古川、現在の中川筋と考えてもいいだろう。水は下って江戸湾に注いでいた。これがもともとの利根川水系の流路である。

この流路を銚子へと変えるのが利根川東遷事業。狭義では江戸開府以前に行われた「会の川」の締め切り工事から「赤堀川」通水までを指す。もっとも、広義には、江戸初期から昭和初期までの400年に渡る河川改修プロジェクトを指す、とも。ともあれ、文禄3年(1594年)、忍城の家老小笠原氏によって羽生領上川俣で「会の川」への分流が締め切られる。これが「会の川」締め切り。
ついで、元和7年(1621年)、浅間川の分流点近くの佐波から栗橋まで一直線に進む川筋を開削。これが先にメモした「新川通り」とよばれるもの。この「新川」開削に合わせて、高柳地区で浅間川が締め切られる。そのため、それまでの島川への流れが堰止められ、川筋は高柳で北東に流れ伊坂・栗橋に。そこから渡良瀬川筋を下り、権現堂川から庄内古川へと続く流路に変更された。

「新川通り」は開削されたものの、利根川の本流とはなっていない。この人工水路が本流となったのは時代をずっと下った天保年間(1830年―44年)頃と言われる。この新川の延長線上に開削されたのが上でメモした「赤掘川」である。 この赤堀川も当初はそれほど水量も多くなく、新川の洪水時の流路といったものであったようだが、高柳・伊坂・中田へと流れてきた利根川水系の水と、北から下り、中田あたりで合流した渡良瀬川の水をあつめ、次第に東に流すようになったのであろう。

利根川の瀬替えにより、利根川水系・渡良瀬川水系の水が権現堂川筋から庄内古川に集まるようになった。結果、沖積低地を流れる庄内古川が洪水に脅かされることになる。その洪水対策として関東ローム層の台地を開削したのが「江戸川」。この江戸川とつなぐため、上宇和田から江戸川流頭に位置する江川までの権現堂川が整備される。権現堂川から庄内古川への流水は閉じられ、この結果、栗橋で渡良瀬川に合流した利根川本流は、栗橋・小右衛門・元栗橋をとおり権現堂川を下り、関宿から江戸川に流れることになった。また、江戸川の通水をみた寛永18年(1641年)に江戸川流頭部と常陸川を結ぶ逆川が開削されたのは、上でメモしたとおりである。

利根川・江戸川の分流地点を離れ、江戸川に沿って歩く。道などなにもない。本当に先に進むことができるのか、少々不安になるほど。なんとか、難路を切り抜け堤防をよじ登る、といった有様で、中ノ島公園に到着。関東一と言われるこぶしの大樹がある、という。しばし休憩し、長い橋を歩いて関宿城博物館に戻る。

関宿時空散歩:「時」の巻

関宿の時空散歩の前半、「空」=地理について、利根川流路の変遷をまとめた。今度は「時」=歴史。戯れに、といった軽い気持ちでチェックしたのだが、これがとんでもないことになった。簗田氏の登場。関宿の地を舞台に、小田原・北条、上杉謙信、武田信玄を相手に丁々発止。常に古河公方の側に立ち、戦国期を乗り切った、まことに「とんでもない」一族がこの地にいた。少々長くなるが、梁田氏および関宿を巡る戦国騒乱をまとめておく。

簗田(やなだ)氏

まずは、簗田(やなだ)氏の出自について。桓武平氏の流れをくむ、とか、源義家に従い「前九年の役」で活躍し、その恩賞で下野・簗田御厨に土着した、とか、例によってあれこれ。定かにはわからず。が、出自はともあれ、簗田氏は関東公方の家来であったことは間違いない。公方よりのおぼえもめでたく、側近中の側近であったようで、公方から名前の一字を頂戴したり、息女を鎌倉公方・足利持氏に輿入れするほどの強い結びつきになっていた。

「永享の乱」の勃発。先にメモしたように、鎌倉公方・持氏と京都の将軍&関東管領上杉家の争い、である。乱は持氏の死をもって終わる。先にメモしたように、持氏の遺子は各地に逃れる。で、第四子・永寿王丸を鎌倉から逃したのがこの簗田氏である。簗田氏にとって、永寿王丸は孫にあたるわけで、当然といえば当然、か。その後紆余曲をへてこの永寿王丸が古河公方・足利成氏となる。持氏に従った簗田氏は領地を下河辺荘、本拠は下総猿島郡水海(総和町)に移すことになる。
さて、関宿城のはじまり、であるが、それは結城合戦のころ。幾筋もの河川が交錯するこの地に下河辺氏が砦をつくる。これが、関宿城のはじまり、と言われる。 で、件(くだん)の簗田氏が関宿城に入ったのは長禄元年(1457年)の頃。足利成氏が関東管領上杉憲忠を暗殺したことから勃発した、古河公方と関東管領上杉家の騒乱「享徳の乱」の真っ最中のことだ。簗田氏は、持氏に息女を嫁したように、代々古河公方に息女を嫁していた。当然のことながら、両者強い結びつきを保っていた。古河と関宿という強力なフォーメーションによって、舟運・交通の要衝を押さえていたわけだ。

とはいうものの古河公方も簗田氏も常に一枚岩であったわけではない。二代古河公方・足利政氏のとき、政氏と嫡男・高基と不和。簗田氏も古河政氏方、高基方に分かれて対立。足利高基が簗田高助の関宿城に移り、古河城の足利政氏・簗田政助と対峙することになったことも。最後は、足利政氏は太田氏をたより岩槻城に移り、出家。最後は足利高基も、政氏と和解した、ということだ。

もうひとつややこしい問題が起きる。それは子弓公方の問題。足利義明。二代古河公方・足利政氏の次男である。義明は、はじめは兄の高基と結び、父・政氏を排除する。が、上総武田氏や里見氏の助力を得て力をつけると、今度は、公方の座を兄の高基と争うことになる。上総・安房の勢力を集め、足利高基を支持する下総・千葉一族の領地に侵入。古河を目指す。この対抗策として、古河公方高基は小田原北条・二代氏綱と結ぶ、ことに。足利高基の嫡子・晴氏に北条氏綱の娘を嫁する、という婚姻政策をとることになる。敵の敵は味方、ということ、ではあるが、古河公方と小田原・北条のアライアンス、というか、小田原・北条氏の勢力下に組み込まれる第一歩、といえよう。

が、事はそれほど簡単ではない。古河公方・足利高基の死。高基の嫡子・晴氏は北条を嫌い、簗田高助の女を正室に迎えようとする。父への反抗か、はたまた、北条氏の影響を排除しようとしたのか。実際は影響力の低下を恐れた簗田氏の暗躍の結果、ではないか、とも言われている。
そうした状況下で起きたのが、天文7年(1538年)の「国府台合戦」。古河公方足利晴氏をたてる北条氏綱・氏康と子弓公方・足利義明率いる安房・上総軍勢の戦い。市川・国府台散歩でメモした通り、安房・上総勢力の足並みが揃わず、子弓公方・義明は単騎突撃で討ち死に。古河公方・足利晴氏が勝利。結果的に、北条氏の古河公方に対する影響力が強まることになる。北条氏の「威圧」もあったのか、晴氏は心ならずも、氏綱の女を正室に迎えざるを得なくなった。晴氏心穏やかならざること、このうえなし。

で、そんな状況下で起きたのが「日本三大夜戦」と呼ばれる「川越夜戦」。天文14年(1545年)、北条勢が立て籠もる川越城が上杉の軍勢に包囲される。背後に今川義元の脅威があるため北条氏康は動けず。北条方は絶望的状態。このような状況下、北条氏に不満を抱く足利晴氏は上杉軍に与する。ここでおきたのが「川越夜戦」。北条勢は十倍の上杉方に夜襲。上杉方敗退。古河公方・足利晴氏は古河に逃げ帰ることになる。

川越夜戦の勝利により北条氏の武蔵支配は完了したといっても、よい。さて、北条氏を「裏切った」古河公方の仕置きであるが、このときは穏便にすませている。古河公方の利用価値は、まだあったのだろう。滅ぼすことはせず、北条氏正室の子・義氏を古河公方の跡継ぎとすることで決着している。ということで、簗田高助の息女の子、晴氏の本来の嫡子である藤氏は廃嫡。古河公方同様、簗田氏もその利用価値ゆえに、厳しい仕置きをすることはなく、引き続き関宿の城を任している。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」

北条氏が完全に古河公方を「乗っ取った」のは天文23年(1554年)。北条に不満を抱く晴氏・藤氏親子は古河城で挙兵。が、あっという間に北条氏が平定。晴氏は幽閉される。 この事件を契機に北条氏は北関東への本格的進出を決定。永禄元年(1558年)、北条の血を継いだ足利義氏を古河公方とした。居城は関宿城。で、代々関宿を治めてきた簗田氏を古河城に移す。関宿の舟運を握る簗田氏の勢力解体の試みの第一歩、ということだろう。舟運の要の地・関宿をわが手にという、北条の戦略でもあろう。

ここで、北条の古河公方権力の完全支配に対し、危機感を抱いたのが安房の里見、常陸の佐竹氏など。これら反北条方武将の要請で上杉謙信が関東に攻め入ることになる。永禄3年(1560年)のことである。関東討ち入りに際し、謙信は北条に不満を抱く簗田高助に帰順求める。条件として、外孫・藤氏を古河公方とする約束。謙信の関東進出に対し、関宿城の足利義氏は謙信を恐れ、高城氏の小金城、本佐倉城などを転々とし最終的には鎌倉に逃げてしまう。謙信の小田原攻撃。城は落ちず、謙信鎌倉に赴き、山内上杉氏の家督と氏関東管領職を引き継ぐことになる。越後に引き上げ。足利藤氏を古河城に、簗田氏を関宿に置き越後に帰る。

謙信が越後に引き上げた後、北条氏の反撃開始。要衝の地である関宿城、古河城奪還を図る。永禄5年(1562年)古河城攻略。足利藤氏捉えられ伊豆に幽閉・殺害される。簗田氏のこもる関宿城が一挙に緊張。ここからが、この地関宿を舞台にした、三度におよぶ関宿合戦となる。
第一次関宿合戦;北条氏が古河公方の解体を目指し関宿城の攻略戦を開始。武蔵を手中におさめ下総の大半を掌握した北条氏は常陸・上野・下野への進出を図る。水陸の要衝の地である関宿を手に入れることが必須であったのだろう。永禄8年(1565年)、北条氏康は北条に内通した大田氏資の岩槻城と江戸城を拠点に関宿攻略開始。先鋒は大田氏資。簗田氏それを撃退。越後勢来襲の報。氏康撤収。上杉謙信も臼井城攻撃の失敗や足利藤氏の死などもあり簗田と北条は和睦。これが第一次関宿合戦。

第二次関宿合戦;永禄11年(1568年)、八王子・滝山城主・北条氏照が野田氏の栗橋城を接収し関宿攻略を図る。このとき政治状況が大きく変化。「甲相駿三国同盟」を破り信玄が駿河に侵攻したわけだ。そのため北条氏は上杉謙信との同盟を結ぶことになる。結果、関宿を巡る戦線も解消。北条氏照は関宿から兵を退く。謙信としても古河公方にすると約定した藤氏も既になく、北条の血を継ぐ義氏を古河公方にすることに異議はなし。結果として、簗田氏は孤立。

孤立した簗田氏がとった戦略は予想をうわまる大胆なもの。その戦略とは藤氏の弟・藤政の擁立、そして武田信玄との同盟を結ぶこと。信玄は厨橋城付近まで進出する。北条方に緊張。そんなとき、元亀2年(1571年)北条氏康の逝去。遺言として後継者の氏政に、「相越同盟の破棄と相甲同盟の復活」を指図。北条氏政は信玄と和睦。その結果簗田氏、武田氏とも敵対すること、に。

第三次関宿合戦;天正元年(1573年)、北条氏照は関宿城を夜襲し失敗。翌年再度出兵。簗田藤政は佐竹・上杉謙信に救援求める。上杉謙信は武蔵羽生まで出兵。背後の敵や利根川の増水で積極的後詰できず。その機に乗じて、北条氏政は関宿攻略に。謙信、春日山より出兵。佐竹氏・宇都宮氏に出陣求める。謙信は北条の後詰を断つべく忍城、騎西城、菖蒲城の城下焼き討ち。藤岡まで進出。が、足並みに乱れ。佐竹が謙信との同陣を拒む。昔、勝手に北条と結んだことへの反感、か。「幸島(猿島)口」に越軍現る、の報を受け、氏政は飯沼・逆井あたりの防衛を命じている。先にメモした逆井城を拠点としたのであろうか。ともあれ、北条軍は越軍の足並みの乱れに乗じ、関宿攻撃へ大包囲戦。総攻撃。簗田氏は佐竹氏の仲介を頼み関宿城開城。水海城へ退去。これにより、簗田氏の関宿支配が終わり、関宿は北条直轄の軍事拠点となる。

関宿合戦の結果、古河公方領は北条に組み込まれる、天正10年(1582年)古河公方・足利義氏がなくなる。が、既に古河公方の権威を必要としなくなっていた北条氏は、後継ぎをつくることはなかった。古河公方の事実上の断絶ということである。
古河公方係累のその後;天正18年(1590年)小田原の陣で北条滅亡。義氏の死。息女・氏姫は秀吉の命により、古河城を退去。鴻巣御所に移る。秀吉に子弓公方義明の孫国朝との婚姻を命じられる。こういった「優遇」処置は、国朝の姉が秀吉の側室であった、ため、と言われる。名門足利家の血を絶やさない、との強い意地、であった、とも。が、国朝は子をなさないまま逝去。氏姫は秀吉の命で国朝の弟と再婚、子をもうける。義親。これが喜連川氏の祖。下野(栃木県さくら市)に立藩され、明治まで続いた足利の子孫である。で、氏姫は元和元年(1620年)鴻巣御所でなくなる。鴻巣散歩のときにみた義氏・氏姫の墓所がこれである。江戸期にはいると関宿には譜代の重臣クラスを配置。関宿の重要性は変わらず、老中クラスが城主。「出世城」と呼ばれた、と。

関宿を訪れ、気になっていた利根川・江戸川分流点を実感し、その実感を忘れないうちにと、利根川東遷についてまとめた。また、思いがけなく簗田氏という、北関東の戦乱を影で動かすフィクサーといった一族のことを知った。古河公方の古河からはじめ、将門の岩井、そして、この関宿。利根川の瀬替えだけが興味・関心ではあったのだが、あまりに古河公方と深く結びついた簗田氏のことを知るにつけ、古河と関宿はまさに文字通り、一衣帯水、であったことを大いに実感。時空散歩を終え,助手席NAVIをガイドに一路家路につく。

先日来、数回に渡って旧利根川筋を歩いた。権現堂川とか会の川といった川筋である。東遷が終われば次は西遷、というわけでもないのだが、今回は荒川の西遷事業・付替えの地を歩くことにした。荒川の付替とは寛永6年(1629年)、関東郡代・伊那忠治によっておこなわれたもの。現在の元荒川筋を流れていた本流を、熊谷近くの久下(くげ)で人工的に開削し、武蔵野の沖積平野・低地を流れていた川筋を西側、つまり、和田吉野川から入間川筋に流れを変えた。これが、 現在の荒川となったわけだ。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)


荒川付替の地・久下は熊谷駅から国道17号線を南東に少し下ったところにある。久下から元荒川を下るのも一興と思いながら、どうせのことなら、近辺で何か見どころはとチェックする。
近くの行田市に「さきたま古墳群」がある。前々から気にはなっていたところ。なぜこのあたりに古墳群、というか、古代豪族の本拠があったのか、よくわからなかった。実際に言ってみればなにかヒントがあるかと、まずは、古墳の地に足を延ばすことにする。その後は現地で得た情報をもとに成行きで進み、最後に荒川付替の地・久下でクロージング、といった段取りとした。

本日の散歩;JR高崎線吹上駅>県道66号線>吹上本町地区>元荒川>駅入口交差点・国道17号線>下忍地区>前谷落>JR上越新幹線>下忍交差点・国道17号線>ものつくり大学前>佐間>県道77号線>忍川・野合橋>武蔵水路・新野合橋>さきたま風土記の丘・埼玉古墳群>前玉神社>県道77号線>旭町交差点>市役所前>忍城>諏訪神社>東照宮>秩父鉄道・行田駅>秩父鉄道・熊谷駅>荒川河川敷・荒川運動公園>JR高崎線・熊谷駅>自宅

JR高崎線・吹上駅

さてと、JR高崎線・吹上駅に。現在は鴻巣市となっている。この地は中山道の熊谷宿と鴻巣宿の中間にあり、昔は「間の宿」として発展。また、日光脇往還を経て忍の城下町(行田市)へと進む分岐点でもあった。 ちなみに、「吹上」の名前の由来は、水が吹き出るように湧く地、といったことから。町の中央部を流れる「元荒川」が、昔は川底から美しい水が湧き出ていた、とか。その面影は、今はない。

元荒川・新宿橋

県道66号線・駅北口通りを北に進む。しばらく歩くと新宿橋。元荒川に架かっている。元荒川の源流は、熊谷市佐谷田あたり。もともとは、大雷神社あたりからの湧水をあつめていた、と。このあたりは、荒川扇状地の扇端部にあたり、豊かな湧水が各地から湧き出していたようではある。が、今ではそれも枯渇し、ひとつは生活排水、もうひとつは近くの県水産試験場で地下水をポンプで汲み上げ、それを源流としている、と。

元荒川
元荒川は現在、熊谷市佐谷田からはじまり、行田・鴻巣・桶川・蓮田・岩槻と進み、越谷で中川に合流する。上でメモしたように、寛永6年、荒川付替により、熊谷市久下で荒川が締め切られるまでは、この元荒川が「荒川」の本流。付替により荒川が西の入間川筋に変更されたため、本来の川筋が、「元」荒川と呼ばれるようになった。現在では荒川と利根川は別水系ではあるが、元々の荒川・元荒川は利根川水系の一派川であったことは、いうまでもない。

中山道

先に進む。国道17号線・駅入口交差点に。この国道は昔の「中山道」筋。江戸の日本橋を発し、京都の三条大橋にいたる。東京から高崎までは、国道17号線の道筋である。で、先般の古河散歩のときも取り上げた、『日本人はどのようにして国土をつくったか;学芸出版社』によれば、江戸初期の荒川付替の直接的な目的は、この中山道の洪水対策・整備である、という。以下該当箇所をメモ;
「中山道は、板橋宿から志村に。ここで関東ローム台地を下りる。戸田の渡しで荒川を渡り、蕨に。蕨から浦和に入り、台地に上がる。志村から浦和までは低湿地帯。その中で、微高地の自然堤防を見つけて進む。この地点では三角州河川であるため洪水のエネルギーはそれほど強くない。洪水に襲われても、水が引けばそのまま道路は使用できた。
浦和を過ぎ、大宮・上尾・桶川・鴻巣と大宮台地上を通る。台地上のため洪水の影響はない。その後、(鴻巣市)箕田を過ぎると再び沖積低地に下りる。ここより熊谷を過ぎ、深谷近くまで沖積低地を通る。熊谷を過ぎると熊谷扇状地の扇端近くの小高い自然堤防上を通るため洪水の危険性はない。が、(鴻巣市)箕田から吹上・熊谷までは荒川に沿った自然堤防上を進み、洪水の脅威を受けることになる。この地帯は地形上、水が集中するところ。荒川の勾配の変節点でもあり変流しやすく、洪水のたびに大量の土砂を運び込み、復旧には多大な労苦を要する地帯であった」、と。久下のあたりで、内陸部に流れる川筋を締め切り、川筋を西に迂回させ、洪水の被害が中山道に及ばないようにした、ということか。なんとなく、納得。

「下忍」って、忍藩の「忍」??

先に進む。道の東は「下忍」地区。忍って、忍藩の「忍」?じっくりと地図を見る。その通り。このあたりは行田市であった。いつものように、前もってあれこれ調べることもせず、行き当たりばったりの散歩であるがゆえの「展開」。忍藩というくらいなので、お城でもあるものか、と期待する。どこかでチェックしなければ、などと思い巡らせながら、ともあれ、先に進む。

JR上越新幹線の手間に水路。「前谷落(まえやおとし)」。行田市持田からはじまり、吹上地区で元荒川に合流する4キロ程度の農業排水路。道の北側に「ものつくり大学」。いつだったか、新聞ネタになった、かと。学校前を進む。しばらく行くとふたたび、国道17号線。熊谷バイパスとなっている。途中幾筋かの小さな農業水路と交差しながら県道66号線を進み「佐間」交差点に。ここで県道77号線と交差。ここで右折し、77号線を南東に歩く。しばらく歩くと野合橋。忍川が流れている。

忍川

忍川は全長12キロ。中川水系の河川。熊谷市に起点があり、行田市内を経て、鴻巣市の吹上地区・袋で元荒川に合流する。この川には現在、水源といったものはない。元々は、熊谷市星川の星渓園あたりでの湧水が源流としていたようだが、現在ではそれも枯渇し農業排水と都市排水を集めて流れる。
忍川はかつて、熊谷市から行田市の忍沼(現在の水城公園)までは「上忍川」、そこから下流は、「下忍川」と呼ばれていた。下忍川は野合橋の少し北を通り、東に流れ見沼代用水に合流していた、とか。昭和初期の河川改修で下忍川は廃川。替って、南に向かって元荒川に合流する川筋が開削された。これが現在の忍川の下流の名前である「新忍川」。ちなみに、下忍川は現在、「旧忍川」として流れている。

武蔵水路
忍川を越えると直ぐにもうひとつ川筋。「武蔵水路」。この水路は、利根川と荒川の連絡水路。新河岸川と隅田川の浄化用水を導入している。きっかけは東京オリンピック。隅田川があまりに汚れているから、世界の皆様にお見苦しい、ということで、突貫工事でつくられた、とか。利根川からの取入口は、見沼代用水とおなじ、行田市下中条の利根大堰。排出口は鴻巣市の糟田。荒川は、元は利根川の水系であったわけで、荒川の西遷事業で切り離された川筋が再び繋ぎあわされた、といえなくもない。

さきたま古墳群

武蔵水路を越えてしばらく進むと、「さきたま古墳群」。5世紀の終わりから7世紀のはじめにかけてつくられた9基の大型古墳が集まっている。入口の南に「埼玉県立さきたま資料館」。この古墳群の全体像をちょっと眺め資料を手に入れる。で、実際の古墳に向かう。入口を入ると天祥寺。忍藩・(奥平)松平家の菩提寺。家康の長女・亀姫の子・忠明を祖とする家。

丸墓山古墳
北に進み最初に「丸墓山古墳」。日本で最大の円墳。6世紀前半に造られた、と。『風駆ける武蔵野;大護八郎(歴史図書社)』によれば、1日100人が働いて500日かかるボリュームとか。当時、そのくらいの人を動員できる勢力が登場していた、ということ。単に祭祀的首長ではこのような大規模の動員はできまい。ということは、政治・経済的な権力をもった首長が既にこの地に登場していた、ということ、だろう。
頂上に向かって階段を上る。1590年、石田三成が忍城を水攻めにしたとき、この古墳に陣を張ったという。この丘が、古墳であると思っていたのだろうか。資料館で昔の写真を見たのだが、木々が茂ったその様は、単なる小高い丘といえなくも、ない。ちなみに、三成といえば、駐車場からこの古墳までの道筋は、三成が忍城水攻めの時に築いた堤防の跡。石田堤と呼ばれている。

稲荷山古墳
丸墓山古墳の東に「稲荷山古墳」。階段を上る。全長120mの前方後円墳。造られた時期は5世紀後半。さきたま古墳群で最初につくられた古墳、とか。同じく『風駆ける武蔵野』によれば、1日100人で働いて300日を必要とする、と。昭和12年に前方部が削り取られたが、現在は復元工事によって昔の姿をとどめている。

金錯銘鉄剣
この古墳は、昭和43年に発見された金錯銘鉄剣、そしてそこに刻まれた115の文字で有名。資料館で手に入れた資料によれば、鉄剣に刻まれた文字の意味は「わたしの先祖は代々杖刀人首(じょうとうじんのおびと;親衛隊長)をつとめる。わたし(ヲワケノキミ)はワカタケル(雄略天皇)に仕え、天下を治めるのを補佐。で、辛亥の年(471年)7月に、これまでの功績を刻んで記念する」と。大和朝廷との深い関係を高らかに宣言している。この時期にすでに大和朝廷の勢威がこの地に及んでいた、ということだ。

将軍山古墳

稲荷山古墳の東に「将軍山古墳」。この前方後円墳がつくられたのは6世紀後半。稲荷山より100年ほど後のこと。後円部が失われていたが、現在は復元されている。古墳の上には埴生が置かれている。複製品であることは、いうまでもない。古墳には上がれない。

二子山古墳

少し南に戻ると「二子山古墳」。武蔵の国では最も大きな古墳。6世紀初頭に作られた、とされる。周囲は水をたたえた掘となっており、上ることはできない。

愛宕山古墳

二子山古墳から天祥寺脇を抜け、入口に戻る手前に「愛宕山古墳」。古墳群の中ではもっとも小さな古墳。古墳と言われなければ、ちょっとした「丘」といった風情。


県道77号線を越え、「さきたま資料館」側に戻り、瓦塚古墳、鉄砲山古墳、などを眺める。さきたま古墳群を歩き、資料館で手に入れた資料とか、既に挙げた『風駈ける武蔵野;大護八郎(歴史図書社)』などを参考に、「さきたま古墳群」のあれこれをメモする。

古墳の主は武蔵の国造・笠原直使主(かさはらのあたいおみ)。金錯銘鉄剣をつくらせた人物ともいわれる。鉄剣に刻まれた文字の解釈によれば、「わたしの先祖は代々杖刀人首(じょうとうじんのおびと;親衛隊長)として、(ヲワケノキミ)はワカタケル(雄略天皇)に仕え、天下を治めるのを補佐した」ということで、上に述べたように、大和朝廷との関わりを宣言している。
この笠原直使主って、武蔵の国造の地位を巡って胸刺(関東南部)の小杵、それを助ける毛の(上野・下野国)の小熊と相い争い、大和朝廷の助けにより、小杵・小熊を破った人物。つまりは、大和朝廷の尖兵として、先住の豪族を打ち破り、武蔵の国を大和朝廷の完全支配下に置いた、その象徴としての人物である。言い換えれば、武蔵の国を支配していた出雲系部族を大和政権の完全支配下に置いた象徴的「存在」である、とも言える。金錯銘鉄剣の歴史的意義は、そこにある。

大和朝廷の威が及ぶ前の武蔵の地は出雲族の支配する地であった。国譲りの神話などで、粛々と天津神系の大和朝廷に下った国津神系の氏族として登場するが、実際は、大和朝廷なにするものぞ、と最後まで「まつろうことのなかった」氏族である。
武蔵の国が出雲系氏族の支配する地であったことは、氷川神社の祭祀圏の分布でもあきらか。氷川=出雲の簸川の神、スサノオ・オオナムチ・クシイナダヒメの三神を祀る氷川神社が旧利根川水系の西に数多く祀られている。また、大和朝廷によって国司が派遣される前の地方の首長、つまりは、国造であるが、東国25カ国のうち、9国の国造が出雲系であった、と言われる。
こういった地に、大和朝廷の尖兵として武蔵に君臨しようとしたのが、笠原直使主。出雲族と衝突するのは当然であり、反旗を翻した先住出雲系氏族の小杵・小熊と衝突。結局は大和朝廷の勝利に終わる。『太子伝暦』には、「従来出雲系氏族によって継承されていた武蔵国造が、聖徳太子の時に物部系に移った」とある(前出の『風駈ける武蔵野』)。笠原直使主がどういった出自のものかわからない。が、結局のところ、というか、歴史的事実としては、武蔵の国は、大和朝廷と縁戚関係にある物部氏が国造となった、ということ。このことにより、歴史的事実としても、武蔵の地が完全に大和朝廷の支配下になった、ということであろう。

で、最後に、なぜこの地に、ということだが、これも『風駈ける武蔵野』によれば、「灌漑を主とする水田耕作は、河川に臨んだ低平地への集落の集中化となり、用水利用は必然的に広域の支配者の台頭とともに、富の蓄積と文化の向上をうながした。鉄剣が出土したさきたま古墳群の地は、利根川と荒川に挟まれた肥沃な一大平野で、大首長の生まれる格好な土地であった」とする。往古、川越あたりまで古東京湾が入ってきていたわけだし、このあたりから先は、茫漠たる湿地帯であったのだろう。逆に言えば、このあたりがなんとか人の住める低平地の限界線であったということだろうか。自分勝手に納得。

さきたま古墳群を終え、次の目的地はと、行田市の案内地図をチェック。「さきたま古墳公園」の直ぐ横に、「前玉(さきたま)神社」、それと行田市内に「浮き城・忍城」がある。どちらも魅力的。両方をカバーし、その後に当初の目的地・久下に向かうことにする。

前玉(さきたま)神社
さきたま古墳公園の中を歩き、「前玉(さきたま)神社」に。「さいたま」、という地名は、この「さきたま」から生まれた、と。祭神は前玉比古(さきたまひこ)と前玉比売(さきたまひめ)。名前からすれば、さきたま古墳群と大いに関係ありそう。
神社は古墳の上に祭られている。浅間塚古墳。丘の中腹に浅間神社が祀られている、ため。近世、富士信仰が盛んになったとき、忍城内に祀られてあった浅間神社をこの地に勧請。どうも、古墳であるとは知らなかったようで、前玉神社とともに合祀した。明治になって、丘の頂上に前玉神社、中腹に浅間神社と分けられ現在に至る。

前玉神社を離れ、忍城に向かう。郷土博物館がある、という。時刻は4時過ぎ。5時まで開いていることを祈りながら、早足で進む。県道77号線を戻り、佐間の交差点を越え、一直線に秩父鉄道・行田駅方面に進む。

与野地区にある高源寺を越えたあたりで水路と交差。道の西に水城公園。ということは、この水路は昔の下忍川であろう、か。時間があれば水城公園を廻りたいのだが、如何せん時間がない。

忍城・郷土博物館

さらに北に進み国道125号線とT字交差。西に折れ、行田市役所前を越えると忍城の御三階櫓が見えてきた。櫓脇の門をくぐり場内にある郷土博物館に向かう。が、時刻は午後4時35分。開館は4時半まで、ということで残念ながら、入館叶わず。門も鐘櫓も復元されたものではあるが、落ち着いた雰囲気に出来上がっており、安っぽさは、ない。譜代幕閣の重職が城主であった城の風格であろう、か。

諏訪神社・東照宮

しばし休息し、気を取り直し、お城前にある諏訪神社、そして東照宮に歩を進める。鬱蒼とした盛の中に諏訪社が鎮座する。東照宮も門が閉じられていた。東照宮は江戸時代の忍藩主・松平家は、家康の長女・亀姫の子である忠明を祖とする、故。境内に忍城の鳥瞰図が納められていた。なるほど、水城である。四方が水で囲まれている。この水城を三成が水攻めをした、というが、果たして効果があったのだろうか。気になる。後から調べてみよう、と思う。

熊谷駅
さて、最後の目的地・久下に向かう。秩父鉄道・行田駅から電車にのり、熊谷駅に。日が暮れ始める。久下までは行けそうもない。せめてのこと、荒川堤までは行こう、ということで、熊谷駅を南に降り、荒川堤に向かう。

熊谷桜堤
成行きで南に進む。荒川運動公園。熊谷桜堤に出る。荒川の土手から、しばし南を眺め、久下に行ったつもりで本日の予定を終了する。もともとは久下が本命であったのだが、さきたま古墳とか、忍城といったインパクトのあるトピックが登場し、予定外の散歩となったが、それはそれなりに、行き当たりばったりの散歩の楽しみを満喫した1日であった。

甲斐姫
後日談。『水の城 いまだ落城せず;風野真知雄(祥伝社文庫)』という本を読んだ。忍城水攻めの攻防戦を描いたもの。主人公は成田長親、そして甲斐姫。長親は城主成田氏長の従兄弟。城主氏長が小田原北条氏直の要請により小田原城に詰めたため、忍城を託されることになった成田肥前守の嫡男。が、突然の肥前守の死により、この城を預かり、石田三成と攻防戦を繰り広げることになる。
甲斐姫は城主氏長の息女。美貌のじゃじゃ馬娘として描かれている。頃は天正17年(1589年)。秀吉による小田原征伐のとき。4月から5月にかけて、北条方諸城の大半が攻略される。6月には、北条氏邦の鉢形城、北条氏照の八王子城、伊豆韮山城も落城。残るは、小田原城と忍城のみとなる。
小田原にて秀吉の命により、石田三成に館林城、忍城攻略の下知。可愛い三成に軽く手柄をたてさせてやろう、との親心。5月に上野館林城を3日で攻略。2万の兵をもって勇躍、忍城攻略に。
が、この小城はなかなか落ちない。で、秀吉の高松城の水攻めを真似たのか、7日間の突貫工事で、全長28キロ、高さ1間から2間の土手を築く。が、堤防が自壊するなどして失敗。むしろ自軍に数百名の被害者を出す始末。昼行灯として描かれる長親の、のらりくらり戦法。そしてじゃじゃ馬姫の突っ走り攻撃など、攻略戦のあれこれが描かれる。
散歩で歩いた佐間の、通じる佐間口には、長塚正家が陣を張った、とか。浅野長政、真田昌幸の援軍。それでも城は落ちず、結局小田原城開城の後まで落ちなかった唯一の城であった、と。とは言うものの、攻防戦の期間は意外に短く、38日程度であった、よう。
で、長親と甲斐姫のその後。長親は尾州に寓居。剃髪し自永斎と名乗る。二度と成田家には戻らなかった、と。城主・氏長に敵方内通の誤解を受け、気分を害したものであろう、と。

一方の甲斐姫は波乱万丈。秀吉がその武勇、またその美貌ゆえに懸想。側室となる。淀の方のお気に入りとなり秀頼の守り役、と。が、なにがどうなったか、秀頼の子を宿す。姫を出産。大阪落城のとき娘は7歳。千姫の助けにより鎌倉・東慶寺に預けられる。東慶寺中興の祖、天秀尼がその人。
東慶寺って、鎌倉散歩で訪れた品のいいお寺さま。縁切り寺とも駆け込み寺、とも。ちなみに忍城にこもった武士たちは、その武勇ゆえに家臣へと迎えたい、とった話、引きもきらずであった、とか。

そうそう、忍城の歴史をちょっとまとめる。戦国時代、この地に土豪・忍氏の館。忍地方の西部に力をもってきた土豪・成田親泰が山内・扇谷両上杉の争いに乗じ忍氏を襲い館を攻略、築城した。荒川扇状地の末端扇端の湧水地帯と利根川中流域に挟まれた低湿地に築かれた。忍城は周囲一里ほどの沼の中にある。沼がそのまま濠の役割。沼の中の島々に二の丸、三の丸、本丸、重臣たちの屋敷がつくられているわけで、このような「水城」、利根川・荒川の氾濫に馴れきっている忍城を水攻めしたところで、なんのインパクトもない、と思うのは私だけであろうか。

聖蹟桜ヶ丘散歩

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京王線に乗っていると、いくつか気になる駅がある。聖跡桜ヶ丘もそのひとつ。聖跡というからには、明治天皇ゆかりの地ではあろう。きっかけがあれば一度歩いてみようと思っていた。そんなおり、古本屋で『多摩歴史散歩;佐藤孝太郎(有峰書店新社)』という本を手に入れた。その中に関戸・連光寺地区のことが書かれている。関戸の渡し、関戸合戦、武蔵一の宮、鎌倉街道、霞ヶ関、そして桜ヶ丘公園。あれこれ見どころも多い。ということで、聖跡桜ヶ丘に。


本日のルート;京王線・聖蹟桜ヶ丘駅>一宮2丁目>多摩川堤>一宮1丁目・小野神社>関戸1丁目>関戸2丁目>鎌倉街道>新大栗橋・大栗川>乞田川>対鴎荘跡公園>小野小町歌碑>(向の丘大橋)陸橋・川崎街道>乞田川脇道に戻る>行幸橋>川崎街道・向の丘交差点への道>春日神社>蓮光寺3丁目>大谷戸公園>聖蹟記念館>桜ヶ丘公園>桜ヶ丘公園管理事務所>聖ケ丘中学>団地>聖ヶ丘遊歩道>多摩養護学校>道なりに連光寺2丁目>関戸5丁目・観音寺>丘に登る・団地>阿弥陀寺>熊野神社>旧鎌倉街道>多摩市役所・図書館>永山橋>乞田>乞田新大橋>鎌倉街道は南下>多摩ニュータウン通りに>愛宕交番前>貝取大通り>乞田川遊歩道>多摩センター入口>パルテノン多摩>多摩センター駅入口>多摩モノレールに沿って北上>三本松陸橋>大塚東公園>鹿島団地>大栗川交差>大塚八幡>野猿街道>大塚帝京大入口>大塚御手観音>野猿街道>中和田神社>大栗川交差>百草地区>稲荷塚古墳跡>桜ヶ丘>寿徳寺>とりで公園>延命寺>京王線・聖蹟桜ヶ丘駅

京王線・聖跡桜ヶ丘駅
京王線・聖跡桜ヶ丘駅で下車。元々は関戸駅と呼ばれていた。どういったきかっけかはしらないけれども、桜の名所「桜ヶ丘公園」と明治天皇が足跡を残した地・「聖跡」をコンバインしたわけである。

小野神社
北口から多摩川の堤に向かう。最初に小野神社を訪ねることにした。一ノ宮地区にある。駅から北西に500m程度。小野神社の名前の由来は、このあたりの地が小野県とか小野郷と呼ばれていたから。府中に国府が出来る前のことである。小野神社はこのあたりに地主神であった、ということだ。
小野県・郷の由来は小野氏による。小野妹子や篁を出したあの小野一族である。その小野氏がこのあたりで牧、つまりは、牧場を経営していた。その後、一族の小野利春が武蔵守として府中に赴任してくる。秩父での牧の経営で実績をあげた、とか。一族のものが国司となってきたわけであるから、土着の小野氏も元気百倍。牧も市営から公営となり、武蔵権介に出世するものの現れる。町田の小野路などで、小野神社といった小野氏の足跡をみることがあるのは、こういったことであった、のか、と納得。
主祭神は「天下春命(あめのしたはるのみこと」。知々夫国造(当地方)の祖神であるというのは、小野氏が秩父から移ってきたことを考えれば、それほど異なことではない。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)


ひとつ疑問がある。武蔵一の宮といえば埼玉大宮の氷川神社が知られる。一の宮がいくつもあっていいものか?と、チェック。一ノ宮って、公式に決められたものではなかった。由緒や社勢により自然発生的に決まったもの。大宮の氷川神社は在地勢力の代表として「一ノ宮」と称し、この地の一の宮は、府中の国衙勢力が自分たちの力を誇示するため、近くの小野神社を一ノ宮とした、と。
大宮の氷川神社って斐川=出雲族の代表。その勢力に対抗すべく、国府=大和朝廷側が小野神社を一ノ宮とした、って説もある。ともあれ、一ノ宮って、それなりの「納得感」があれば言ったもの勝ち、というか。

小野神社を離れ、ちょっと多摩川堤に。川向こうは府中あたりだろう、か。先日、府中の郷土の森博物館から国立に向かって多摩川の堤を歩いたわけだが、そのあたりであろう。いろいろ歩いていると、風景と地名、そしてそこの歴史が紐づいてくる。

「一ノ宮の渡し」の碑
堤近くに「一ノ宮の渡し」の碑。府中の四谷を結んでいた。昭和12年、関戸橋の開通まで使われていた、とか。ちなみに、鎌倉街道渡しとして、府中の中河原を結んでいた「関戸の渡し」は関戸橋の少し下流にあった。一ノ宮の渡しとおなじく、関戸橋が開通する昭和12年まで存続していた。

連光寺の丘に向かう
多摩川堤を離れ、次の目的地である「連光寺の丘」に向かう。昔、連光寺ってお寺があったようだが、今はない。

大栗川
聖蹟桜ヶ丘の駅まで引き返し、駅の南口から線路に沿って東に進み鎌倉街道に。大栗川にかかる新大栗橋を渡る。橋を渡ると東に折れる。大栗川は八王子鑓水地区の多摩美術大学あたりを源流とし、柚木街道・野猿街道、川崎街道につかず離れず進み、この聖蹟桜ヶ丘の東で多摩川に合流する。

乞田川
新大栗橋を渡りすぐに東に折れる。もうひとつの川筋。乞田川。小田急線・唐木田駅近くの鶴牧西公園あたりを源流点とし、多摩センターあたりを東に進み、永山あたりより、鎌倉街道にそって北に下り、聖跡桜ヶ丘で大栗川に合流する。

「対鴎荘跡」の案内

乞田川の向こうは連光寺の丘。通称「向の丘」と呼ばれる。この丘に対鴎荘とか、小野小町歌碑があるという。坂道をのぼる。整地された公園が。「対鴎荘跡」の案内。いつだったか隅田の川を歩いているとき、今戸神社近くの白鬚橋のところに「対鴎荘跡」の案内があった。三条実美の別邸であった。いつの頃からか、この地に移された、という。が、はてさて、いったいこんどはどこに移ったものだろう。チェックする。1980年頃まではこの地にあったよう。料亭として使われていた。が、その後荒れ果て、結局取り壊された、とか。

「小野小町歌碑」
公園を離れ、「小野小町歌碑」に向かう。どうも、丘の北端の尾根道にあるようだ。公園のある丘と歌碑のある丘の間には、川崎街道がとおっている。道路を跨ぐ橋・「向の丘大橋」を進むと「向いの丘公園」。対岸の眺めが美しい。桜並木の続く遊歩道の一角に歌碑はあった。ちょっとわかりにくい。「むさしのの向の丘の草なれば根をたずねてもあわれとぞ思う」、と。

小野小町って、散歩のいたるところで顔をだす。生まれたところ、なくなったところ、など小町ゆかりの地は日本28都道府県にある、という。日本人の「なにか」に訴える魅力をもっているのであろう。もっとも、このあたりは小野神社でもわかるように、小野一族が覇をとなえる地。あれこれ伝説がつくられても不思議ではない。
先日歩いた国分寺の「真姿の泉」も、病により顔が崩れた小町が、その泉の水で顔を洗うと、あら不思議、もとの美しい姿にもどった、と。

行幸橋
小町の碑を確認し、今来た道を引き返し乞田川脇に戻る。少し北にすすむ。行幸橋。「聖蹟」桜ヶ丘の名前の由来ともなった、明治天皇巡幸が名前の由来、であろう。

春日神社

行幸橋を東に折れ、坂道をのぼる。この道は、川崎街道・向の丘交差点に続く道。途中、坂をのぼりきったあたりに「春日神社」。おまいりを済ませ、桜が丘公園に進む。

大谷戸公園

連光寺3丁目を北に進むと、大谷戸公園。谷戸とか谷津って、台地に切れ込んだ谷地のこと。いかにもの命名。園内には池などもある。昔は谷戸特有の湿地帯があったのだろう、か。

桜ヶ丘公園

大谷戸公園を進む。大谷戸公園の南東部には桜ヶ丘公園の雑木林が広がる。この大谷戸公園は桜ヶ丘公園の導入部といった位置付け、といってもいい、か。深い緑の中を台地に向かって、どんどん上る。桜が丘公園という名前なので、もっと、いかにも「公園」といった風情を想像していたのだが、ここは緑豊かな台地をそのまま公園とした、といったものであった。

聖跡記念館

少々息を切らせ台地上に。聖跡記念館があった。ギリシャ風柱列の建物。昭和5年、元宮内大臣伯爵・田中光顕によって建てられたもの。明治天皇は雪の連光寺の山々での兎狩り、多摩川の清流での鮎漁などを楽しみにこの地を訪れた、とか。明治14年のことである。
前日、八王子で兎狩りを楽しんだ天皇は、ことのほか、これをよろこび、もう一日遊びたい、と。急遽、この地に来ることになった、と言う。それがきっかけとなったのか、この地がお狩場となる。天皇は翌年再度行幸されただけ(4度行幸があった、とも)のようだが、皇族方はあれこれこの地に訪れたようである。

桜丘公園管理事務所

明治天皇のお立ち台跡・御立野の碑、などを歩き、丘を下る。結構広い公園であり、いくつのもルートがある。雑木林の散策路としては、とびきりの出来のよさ。 どこを進んでも、なんとかなろう、と成り行きで台地を下る。どっちに向かって歩いているのかよくわからない。台地を下り道なりにすすむと「桜丘公園管理事務所」。なんとなく居場所を確認できたので、次の目的地である鎌倉街道・霞が関に向かう。

聖ヶ丘遊歩道

公園を離れ、聖ヶ丘中学脇を通り、団地近くに。聖ヶ丘遊歩道があった。道を進むと、多摩養護学校。連光寺2丁目を道なりに進み鎌倉街道におりる。

観音寺

熊野橋を渡り、関戸5丁目。鎌倉街道を少し北に戻り、一筋西の通りに。旧鎌倉街道。近くに観音寺がある。関戸の名主、相沢伴主が眠る。江戸期、允中流という生け花をはじめた人物。生け花にはそれほどの想いはないのだが、伴主が下絵を書き、『江戸名所図会』の絵師・長谷川雪旦の子の雪堤が仕上げ、木版刷りにした、「調布玉川惣画図」は魅力的。往時の多摩川の風景が蘇る。

観音寺から丘にのぼる。城郭跡があるとか、ないとか。とりあえず、どんな地形がみておこうと丘にとりついた次第。住宅街が広がる丘を進む。住宅街の真ん中に阿弥陀寺。城跡といった雰囲気の場所も見当たらないので、丘を降り熊野神社に向かう。

熊野神社
適当におりていくと、偶然にも熊野神社の脇にでた。熊野神社におまいりをすませ街道脇に下りると、「霞が関」の碑。鎌倉街道の通じるこの地は交通の要衝であった。幾多の合戦が行われているのは、そのためでもあろう。交通の要衝であるがゆえに、この地に関が設けられた。関戸という地名はそのことによる。

関戸の歴史

関戸の歴史を簡単にまとめておく;この地が交通の要衝となったのは、大化の改新で府中に国府が設置された、ため。府中を結ぶ官道がこの関戸を通ることになったわけだ。で、平安時代に「霞ヶ関」がおかれることになる。伝説によれは、平将門によって設けられた「関戸」を追討使・藤原秀郷(俵藤太)が「霞の関」と名付けて打ち破った、と。
鎌倉期には、鎌倉街道がこの地を貫く。府中分倍(河原)から関戸、乞田、貝取をへて鶴(小野路川村=町田市)に通じていた。関戸の地は鎌倉防衛の戦略要衝であった。霞ヶ関は「小山田関」とも呼ばれる。稲毛氏の一族である小山田氏の居館があった、ため。見つけることはできなかったが、城郭は小山田義保のものといわれる。
時代は下り、建武の中興の時、この関戸は西の吉野と並び、東の重要戦略拠点。分倍河原おいて、新田義貞との合戦に敗れた北条氏は総崩れ。関戸の地を敗走する。新田方の追討戦がこの地で繰り広げられる。関戸合戦と言う。太平記などで、合戦の模様が伝えられる。
討ち死に寸前となった北条方の大将・北条泰時を守るべく、身代わりとなってこの地に踏みとどまり奮戦したのが横溝八郎であり、阿保入道父子など。が、奮戦むなしく討ち死に。この地にお墓が残る。観音寺にも横溝八郎の位牌がある、という。また、地元の人達が現在でもなくなった武将の供養をしている、と。
分倍河原の合戦が元弘年(1333年)5月15日、関戸合戦が5月16日。新田軍は17日まで関戸に滞陣。5月18日鎌倉周辺での戦闘。5月21日、有名な稲村ガ崎突破。5月22日北条滅亡。横溝八郎、阿保入道といった忠臣の奮闘むなしく、結局は義貞に鎌倉を攻められ滅亡。
戦国時代に入ると関戸宿は小田原北条氏のもと発達。市が開かれ、商業も活発になり農民から商人になるものも現れる。が、江戸になると衰退する。鎌倉街道といった南北の道がそれほど重要なルートとはならなくなった。甲州街道といった、東西の道がメーンルートになったわけである。

多摩市役所

鎌倉街道を道ひとつ隔てた旧鎌倉街道を南に進む。しばらくすすむと多摩市役所。市役所前の古道に「古市場」の案内。上でメモした小田原北条時代の交易の場であった。市役所敷地に寄り道。ここに図書館がある。多摩市には郷土館が見当たらないので、図書館になんらか郷土資料などないものか、と寄り道。残念ながら、これといった資料は手に入らなかった。

次の目的地は、大塚御手観音。コースは多摩センターまで進むそこからモノレールに沿って北に進み、野猿街道に、といった段取り。

パルテノン多摩
図書館を離れ、永山駅近くの永山橋に。鎌倉街道はここから南に下る。道を西にとり、多摩ニュータウン通りに。愛宕交番前から貝取大通りをへて、乞田川遊歩道に。しばらく歩くと多摩センター入口に。ここでちょっと寄り道。「パルテノン多摩」に。駅から「パルテノン通り」をまっすく南に進んだところにある。コンサートホールなどもあるが、目的は「歴史ミュージアム」。多摩丘陵の開発の歴史が展示されている。一種の郷土資料館といったもの。丁度、相沢伴主の企画展がおこなわれていた。「調布玉川惣画図」もゆっくり見ることが出来た。あれこれ眺め、いくつか資料を買い求め、先にすすむ。


駅に戻り、多摩モノレールに沿って進む。坂をのぼると三本松陸橋交差点。道の東に「大塚東公園」。緑が美しい。ちょっと寄り道。なりゆきで台地を登る。台地上からは東の「愛宕山緑地」に向かって道が続く。比高差が結構ある。途中で切り上げ、北に向かって台地を下りる。下りると鹿島団地。団地の中を成行きで北に進む。大栗川と交差。
先に進むと大塚八幡神社。小高い丘に鎮座する。裏手に最照寺。お寺の脇を下ると野猿街道に。どこかで既にメモしたように、野猿の由来は結構面白い。戦国武将大石某が兜(甲)を置いた峠を「甲山峠」と。で、甲が申に書き間違えられ、いつしか、申(さる)が猿、と。わかったようでわからないけれども、妙に納得する。

大塚御手観音

野猿街道を渡る。一筋北にある通りに進み、大塚帝京大学入口交差点に。北に折れ、すこし坂をのぼると道脇に清鏡寺。「大塚御手観音」とも呼ばれる。
観音の本体は千手観音。秘仏として非公開。由来によれば、このお寺の住職の夢枕に仏が現れ、朽ちた仏像に唯一残った一本の手をもとに、仏像を修復してほしい、と。翌朝、近くのお堂で仏像の手を発見、鎌倉に出向き、腕自慢の老翁に修復を願う。その翁は運慶の弟子の湛慶。断わられるも、粘り勝ち。幾年かたち、できあがった仏像が届けられる。が、その先手観音様には999本の手。1本は仏像の腹の中にあった、と。これが御手観音の由来。
いまひとつ言わんとすることがよくわからないのだが、とりあえず、よし、とする。それよりも、この観音堂、秀吉の八王子攻略戦のころ、柚木領の北条武士の砦として使われた、とか。また、昔、観音堂の東に池があった、と。その池の水は少々しょっぱい、と。山塩があったのだろう。この観音堂から西の谷戸が塩釜谷戸と呼ばれていた。塩を焼く釜があったのだろう。このお寺を塩釜山清鏡寺とよばれるのは、このことによる。

御手の観音の次の目的地は「稲荷塚古墳跡」。野猿街道脇にある中和田神社にちょっとおまいりし、稲荷古墳跡のある「百草」に向かう。ちょっとややこしいのだが、「大塚御手の観音」から北に進んだ京王線・百草園駅方面の地名は「百草」。が、今から進む稲荷古墳のある百草は、逆方向。飛び地となっている。理由などそのうちに調べてみよう。

稲荷塚古墳跡
野猿街道を渡り、南東に下る。大栗川を渡り、百草1140に。EZナビのガイドが頼り。音声の命ずるままに進む。なにもない空き地に誘導。
案内もなにもない。釈然としない。あてどもなく周囲をブラブラ。一筋西に、いかにも古墳跡、といった場所を発見。案内によると7世紀前半の古墳、と。八角墳といった珍しい形であった、よう。このあたりはこの稲荷塚古墳だけでなく和田から百草にかけて古墳が点在している。この多摩の地には結構有力な集団がいた のであろう。

現在古墳上には恋路稲荷。『多摩歴史散歩;佐藤孝太郎(有峰書店新社)』によれば、昔には、恋路が池とか恋路が原という地名があった、よう。鎌倉の頃、そのあたりに「恋路」という遊女がおり、武家とのなさぬ仲をはかなみ、池に身を投げた、と。その太夫をとむらったもの、とか。 国分寺の恋ヶ窪における畠山重忠とあさづま太夫夙妻太夫の悲恋物語のアナロジー、といった趣もある。が、伝説は伝説として楽しんでおこう。

とりで公園
稲荷神社を離れ延命寺に向かう。少し進むと大きな道。野猿街道から多摩ニュータウン通りに南北に下りる道。先に進むと深い緑。寿徳寺がある。佐伯道永が再建した寺。道永は小田原北条の家臣。台地に上る。台地上をぐるっと廻ると見晴らしのいい公園。「とりで公園」と。なんから合戦に関係があるのであろうか。このあたりを「佐伯谷」と呼ばれてるのも、納得。

延命寺
「とりで公園」を離れ、最後の目的地・延命寺に。台地上に広がる桜ヶ丘の住 宅街をゆっくりと下る。桜ヶ丘集会所あたりにロータリー。北西に進み、台地をほとんどおりきったあたりに延命寺。横溝三郎が眠っている、とか。おまいりをすませ、台地を折りきり、再び聖蹟桜ヶ丘の駅に戻る。本日の予定はこれにて終了。


先日府中から国立に多摩川に沿って、また立川から府中へと立川崖線に沿って歩いた。その時気になっていたのは、多摩川を隔てて聳える多摩丘陵。あそこは聖蹟桜ヶ丘か、ということはその東の丘は米軍のレクレーションセンターのあるところか、あのあたりは高幡不動か、と、あたりをつけながら歩いた。

そのときふと、平山城址公園ってどのあたりだろう、と地図をチェック。昔南大沢から分倍河原に向かって歩いたことがあるのだが、平山城址公園のそばの道を越え、北野街道に出た。そのときは、日没時間切れのため結局、平山城址公園に行けなかった。そのことが少々心残りであったのだろう。ということで、とある日曜日、平山城址公園へとでかけることにした。

行く前に地図をチェック。平山城址公園のそばに長沼公園がある。またその西には野猿峠・野猿街道が走っている。さらにその西南には「絹の道」のマーク。横浜開港時、八王子で集めた絹を横浜まで運んだ道筋とか。絹の道って、多摩の歴史などを読んでいると、しばしば登場するキーワード。いい機会なのでそこまで足を伸ばすことにした。距離は10キロ程度。が、カシミール3Dでチェックすると、結構なアップダウン。多摩の丘陵を登ったり降りたりの散歩となりそう。少々膝に不安を覚えながらも、まずは最初の目的に京王線平山城址公園に向かう事にした。



本日のルート;京王線・平山城址駅>宗印寺>平山城址公園>北野街道>長沼公園>展望台・南陽口>長沼公園・野猿峠口>絹ヶ丘>白山神社>北野台>大塚山公園>絹の道>絹の道資料館>鑓水>小泉家屋敷>京王相模原線・多摩境駅

平山城址公園駅

平山城址公園駅に降りる。のんびりとした駅前。ローカル線の旅といった風情。駅前で案内をチェック。平山季重を巡る散歩コースといった案内がある。
さて、最初の目的地平山城址公園に行くルートを探す。穏当に歩くとすれば、北野街道をすこし東に戻り、先日南大沢から分倍河原に戻る際に歩いた峠越えの車道であろう。途中から公園に上る入り口もあった、かと。

宗印寺から丘陵に上る
が、地図を眺めていると駅の南、北野街道からすこし丘陵地に入ったあたりに宗印寺。このお寺の裏山あたりから城址公園に上る道があるにちがいない、と故なき「確信」のもと歩を進める。
お寺に着く。眼下の眺めが美しい。登り道はないものかとチェック。お寺の西脇から山に向かう細道がある。とりあえず進む。

先に続く。結局オンコース。しばらく進むと、森を離れ住宅街に出る。住宅街の西端を進む。平山京王緑地に沿ってのぼる。京王研修センターと京王グランドの間を抜け、下からのぼってくる車道を西に折れ、少し進めば平山城址公園の入口に到着。

平山城址公園

平山城址公園の案内;「この地は遠く、嘉永の昔、今より七百七十余年前、源平一の谷の合戦で、熊谷直実と武勇を誇った源氏片の侍大将平山武者所季重の居住地で、居館の跡はこの下の市立図書館あたりにある。左方に突出した丘は丸山と呼び、季重居住の頃は見張り所の置かれたところで、勇士の名に因んでこの苑地を平山城址公園と名付けた」、と。

入口脇に駐車場。尾根筋となっている。案内板をチェック。公園敷地は尾根から下るよう。谷筋に沿ってルートが書かれている。下に進み、公園内を歩いてみたい、とは思うものの、例によってあまり時間もない。次の目的地・長沼公園に進むことに。

野猿尾根道コース
尾根道は「野猿尾根道コース」となっている。長沼公園をへて野猿峠・野猿街道に続いているのだろう。が、この尾根道コース、「私有地のため通行禁止」、と。いまさらそれはない、ということで、進めるところまでは進むことにする。快適な尾根道を進む。しばらく行くと再び「通行禁止のサイン」。その先に、焼け落ちた民家跡。残念ながらこれ以上先に進むのはあきらめ、近くにあった下り道をおりる。

北野街道に戻る

道を下ると住宅街。再び山に入る道はないものか、と意識しながら歩く。が、道は見つからず。結局、北野街道まで戻ってしまった。北野街道を西に進む。適当に進み、EZナビで長沼公園をチェック。

長沼公園
ガイドに従って、北野街道から離れ、山道に入る。山道といっても車道であり、舗装もされている。この道は北野街道・長沼公園入り口交差点から続く道であった。道は細い。車一台がかろうじて通れる車幅。
しばらく進むと車止め。そこから先は尾根道にのぼる山道だけとなる。公園というより完全な山地。長沼「公園」、という名前故に、芝生の広がる、いわゆる「公園」をイメージしていたのだが、予想外の展開。聖蹟桜ヶ丘公園にしても、平山城址公園にしても、公園とはいうものの、林そのもの、丘陵地そのものだったわけで、なにゆえ長沼公園だけ、いわゆる公園と考えていたのか自分でも理解に苦しむのだけれども、ともあれ、予想外の野趣豊かな自然に直面することになった。

霧降の道コース
しばらく進むと案内。尾根道にはいくつかのルートがある。長泉寺尾根ルート、西長泉寺尾根ルート、西尾根ルートとかとかルートもいくつか用意されている。が、文字通り「脛に傷もつ」我が身としては、あまり膝に負担がないコースと、結局は簡易舗装がされている「霧降の道コース」をとり、尾根に登る。道に沿って「柿木谷戸」が続く。柿木谷戸には西の沢が合流。西尾根の西側にはひよどり沢が下る。尾根道と谷戸が入り組む。尾根に到着。そこからは多摩の街並みが見える。南大沢のあたりだろうか。

野猿尾根道コースを東に

尾根道は「野猿尾根道コース」となっている。西に向かえば野猿口。東に向かえば向陽台口に。さきほどの平山城址公園での「通行止め」のその先など、どうなっているものやらと、ひたすらの好奇心で東に進む。
気持のいい尾根道を進む。途中に展望台。北に広がる高尾、金子丘陵などなどが一望のもと。先に進むと丘陵地の端。山はここで一度切れ、谷地となり、その先に再び平山城址公園に続く丘陵が盛り上がっている。谷地のあたりは宅地開発され、瀟洒な住宅が山裾まで続いている。
平山城址公園と長沼公園は尾根道でつながっているわけではなかった。「通行禁止」のその先の姿を眺め、なんとなく納得し、引き返す。

野猿尾根道コースを西に
尾根道をしばらく西に進むと民家、というかお休み処。先に進み、「バス停方面」といった案内に従い西に進む。住宅街を抜けると野猿街道にあたる。

野猿街道
野猿(やえん)街道は八王子市の中心部と多摩市とを結んでといる。八王子市側の起点は甲州街道。線路を南へ越えて八王子駅南口を経て東へ進み北野に。ここまでは、北野街道とも呼ばれる。北野から南東へと丘を登り、野猿峠を越えて下柚木に。そこで東進して多摩市一ノ宮で川崎街道に合流する。 現在では八王子市街と多摩ニュータウン方面を繋ぐ ルートとして交通量の多い道路だが、かつての野猿峠はかなり険しい山道であったらしい。

野猿峠の名前の由来だが、「武蔵名勝図会」によれば、大石道俊(定久)がこの峠に甲を埋めて碑を建てた、とか。で、当時は「甲山峠」と呼ばれたようだが、その後、甲を申と書き間違え、「申山峠」と。それが、猿山峠となり、江戸の末期には何故だか知らねど、「猿丸峠」となった。で、結局、野猿峠となったのはいつの頃からなのかはっきりしない。国土地理院が正式に「野猿峠」と書くようになったのは、昭和28年から。当時、京王電鉄が峠付近をハイキングコースと整備し、「野猿峠」という名前を使い始めたともいわれるが、確証はないよう。

大石定久
大石定久って滝山城とか戸倉城とか高月城とか、八王子・秋川・青梅散歩の折々に出会う。八王子一帯に覇を唱えた豪族である。そう言えば、東久留米の浄牧寺も大石氏ゆかりの寺であった。滝山城を娘婿の北条氏照に譲り、秋川渓谷の入口の地・戸倉城に隠居したといわれるが、野猿峠で割腹したとか、柚木城に移されたとか、はたまた、この峠下、下柚木にある、永林寺に住んでいた、とか、諸説あり。

野猿街道からの次の目的地は「絹の道資料館」。途中に「白山神社」。どうせのことなら、ちょっと寄ってみよう、ということでEZナビをチェック。ガイドに従い先に進む。野猿街道を少し下り、絹ヶ丘2丁目の交差点西に折れる。南西に進み、白山通りで南に。右手に公園、というかゲートボール場を眺めるあたり、その先に「白山神社」。

白山神社
白山神社。成立の時期ははっきりしないようだが、平安の頃、比叡山西塔の僧、武蔵坊弁慶の血縁といわれる弁智が法華経を納めた関東七社のひとつとされる。このあたり中山村の鎮守様。参道は南から急な階段を上って続いている。北からきたのであまりわからなかったのだが、上りきった台地の端に位置しているのだろう。
比高は結構ある。普通の地図で見る限りでは、こういった地形のうねりなどわからない。最初、この神社に寄ろうと思った時のイメージは、住宅街に鎮座する少々寂しげな神様、と思っていたのだが、とんでもありません。堂々たる社でありました。

北野台

急な階段を降りる、痛めた膝が少々苦しい。台地下に降り、西に向かってすすむ。車道に出る。車道にそって先に進み大きく湾曲するあたりで車道から離れ、急な階段を台地に上る。尾根道でもあるのだろうか、と想像していたのだが、上は住宅街。北野台と呼ばれる。尾根道ではなく、南から続く台地の上に出た。周りは住宅街。西に進む。

大塚山
しばらく進むと再び急な階段。台地のその上にそびえる山といった雰囲気。なにゆえこんな山に引っ張っていかれるのか、EZナビに少々クレーム。山頂に到着。 案内版。案内版のところから里に向かって「絹の道」が続いている。遇然ではあろうが、絹の道に出た。先ほど文句を言ったナビ君に感謝。あえてこのコースを選んでくれたのか、はたまた、資料館に行くにはこのコースしかなかったのか、神のみぞ知る、ってことではあろうが、結構感謝。

この山は大塚山と呼ばれる。標高213.5m。頂上に大塚山公園がある。明治の頃、この地に生糸商人が浅草花川戸から勧請したお堂を建てた。お大尽振りを示したのも であろう。が、明治30年を境に、生糸商人は没落。それと機を同じくしてこのお堂も忘れられ、平成2年に大塚山公園として整備された。

京王片倉駅あたりからこの地までの絹の道をチェック。国道16号線>京王線片倉駅>慈眼寺・白山神社脇>釜貫>片倉台中央公園>大塚山公園、と続く。遡ってもみたいのだが、如何せん時間が足らない。

絹の道
北に向かう思いを抑え道を南に下る。絹の道、といわれるだけで、ありふれた掘割道もありがたいものに思える。時刻は四時を過ぎている。閉館が心配で走るがごとく、翔ぶが如く進む。しばし進み車道に。「史蹟絹の道」の案内。

絹の道資料館

絹の道資料館は道を下ること120m。絹の道って、幕末から明治30年頃までのおよそ50年、この地を通って生糸が横浜に運ばれた。八王子近郊はもちろんのこと、埼玉、群馬、山梨、長野の養蚕農家から八王寺宿に集められた生糸の仲買で財をなしたのが、この地の生糸商人。この地の地名にちなみ、「鑓水商人」と呼ばれた。
鑓水商人で代表的な人は、八木下要右衛門、平本平兵衛、大塚徳左衛門、大塚五郎吉など。この記念館もその八木下要右衛門さんの屋敷跡。アーネストサトウも訪れたことがある、と。
が、資料展示を見ていると、結局、このあたりの生糸商人も、横浜の大商人に主導権を握られていた、とか。その後、生糸が養蚕農家のレベルから官営工場への転換といった機械化により、養蚕農家の家内制生糸業を中心とした商いをしていたこの地の、鑓水商人は没落していった、と。また、鉄道便の発達による交通路の変化も没落を加速させたものであろう。ちなみに、当時この街道は「浜街道」と呼ばれた。絹の道とかシルクロードって名前は、昭和20年代後半になって名付けられたものである。

資料館をはなれ、帰路に。最寄りの駅をチェック。京王相模原線・多摩境まで2キロ強。鑓水地区の道を下り、柚木街道と交差。谷戸交差点を渡り、多摩ニュータウンの
西端あたりにそって南に進む。

鑓水
このあたりも鑓水の地。鑓水って、尖った竹などを崖に刺し、そこから地下水をとった、「遣り水」に由来する。岩盤の層があり、先の尖ったもので刺すと地下水が湧き出るわけだが、その水を瓶などに溜める。その瓶から水を流れるようにしたものを「遣り水」といった、とか。

小山内裏公園
道端に小泉家って昔の農家が残されている。鑓水中学、鑓水公園脇を進む。しばらく進むと、なんとなく昔見たような風景。これって先日南大沢あたりを歩いた 「戦車道」の端あたりにあった小山内裏公園。戦車道って、昔相模原にあった陸軍工廠でつくった戦車の走行実験をしていた尾根道。昔はこのあたりは、一面の丘陵地。人の心配などしなくてよかったのだろう。

多摩境
小山内裏公園の西端に沿っちょっと台地を下る。谷戸の交差点からこのあたりまでの道筋はほぼ昔の絹の道。絹の道はここからまっすぐ進み、町田郵便局手前で現在の町田街道と平行して下っていた。日も落ち、これ以上絹の道を辿ることもできない。交差した道を西に折れ、多摩境の駅に。本日の予定はこれで終了。 

会社の同僚から散歩のお誘い。どこか丘陵地を歩きたい、と。はてさて、どこにしようか。八王子から飯能にかけての金子丘陵もいいか、はたまた多摩丘陵・よこやまの道にしようか、とあれこれ思案。で、結局は八王子・片倉駅から絹の道に下る、里山&雑木林&尾根道コースを歩くことにした。先日、絹の道散歩のとき、絹の道資料館で頂戴したハイキングマップに掲載されていた、この「由井の里山自然探索コース」に、なんとなく惹かれるものがあったからである。里山とか雑木林とか尾根道といったキーワードには、滅法弱い我が身ではある。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)




本日のルート;京王線・片倉駅>住吉神社・片倉城址公園>国道16号線・東京環状>JR横浜線交差>日本文化大学入口交差点>浅間神社>片倉高校前交差点西>雑木林の尾根道>御殿山・多摩丘陵自然公園>国道16号線>御殿峠交差点>山野美容芸術短大>多摩養育園>御殿山尾根道>道了山跨道橋>大塚山公園・道了堂跡>絹の道>絹の道資料館>鑓水>柚木街道・谷戸入口>鑓水中学・鑓水公園>小山内裏公園>戦車道>南大沢給水所>尾根道幹線道路と交差>桜美林大学野球場>上小山田町>小山田南小学校>小山田桜台>下小山田町・高齢者在宅サービスセンター>宮ノ前公園>すみよし緑地>下小山田町・大泉寺西>よこやまの道上口>大妻女子大多摩キャンパス>小田急・唐木田駅

京王線・片倉駅
京王線・片倉駅で下車。片倉の地名の由来は、「カタクリ」の群生地があったから、とか「集落の片側が崖」という地形を表す言葉であるとか、例によって諸説あり。駅前はいたって素朴。国道16号線を南に下る。

湯殿川
京王線のガードをくぐり、片倉交差点で北野街道を越え、湯殿川にかかる住吉橋を渡る。湯殿川源の流は、と地図を辿る。ほぼ西に向かう。高尾近くの町田街道沿いの拓殖大学あたりが源流点のようだ。京王線・長沼近くで浅川に合流する淺川水系の一支流である。ちなみに、住吉橋のひとつ上流に「カタクリ橋」。地形の「カタクリ説」の存在がわかっただけで、同じ地名がそれまでと違った地平に見えてくる。

住吉神社
住吉橋を渡るとすぐに西に折れる。ちょっと進むと住吉神社。片倉城の鬼門除けとしてまつられた、と。池というか湧水池というか、崖下に湿地が残る。本格的なカメラを構えた多くの人たちが池に向かって盛んにシャッターを押していた。情感乏しきわが身としては、風情よりは時空散歩へと石段をのぼり、おまいり。
室町期に片倉城主・長井某が摂津の住吉神社を勧請したとか、大江某が長門の住吉神社を勧請したとか、由来はあれこれ。定説はない。
住吉神社の祭神って、伊邪那岐大神の子供である、底筒之男命・中筒之男命・表筒之男命。神功皇后が三韓征伐の際、この住吉三柱の守護により無事に目的達成。摂津国西成郡田蓑島(現 大阪市西淀川区佃)におまつりしたのがはじまり、と。
住吉三柱まつる神社は全国に2100ほどもあるそうだ。が、あれこれ散歩をしても、東京近辺ではあまりみかけない。佃島の住吉神社は有名だが、それって家康とのつながりで江戸期の話。この地の住吉神社は室町期に開かれた、とのことであるが、なんとなく「?」が残る。そのうちに調べてみよう。

片倉城址

住吉神社を離れ、片倉城址に向かう。といっても、同じ台地内。成行きで歩いていると、偶然にも「片倉城址」への案内。『新編武蔵風土記稿』によれば東南は沼地、西は高い平地。高さ20m程度の山にある、という。
坂道というか、竹林の細をのぼる。台地上に広場。本丸、二の丸、三の丸(今は畑)があったところ。空堀、縦堀、土塁、馬出などの遺構が残る。築城時期は室町前期と推定されてはいるが、よくわかっていない。鎌倉幕府別当大江広元の子孫の長井道広が築城し、その後、山之内上杉氏に属する大石氏が支配して鎌倉道を守っていたとの説が有力。大江氏がこの地に関係をもったのは建暦3年(1213年)の「和田合戦」での活躍のため。この合戦において、多摩に覇をとなえる横山時兼以下の横山党は和田義盛に組し、北条軍に戦いを挑む。が、武運つたなく戦に破れる。ために多摩の横山庄は幕府に領地没収され、結果、大江広元に所領が与えられることになった、とか。

大江広元
大江広元といえば鎌倉散歩が思い出される。頼朝のお墓の近くに眠っていた。頼朝を支えた実務型官僚といったタイプの人物であったかと思う。朝廷の下級官僚から身を起こし、初代政所(まんのどころ)別当にまでなった人物。頼朝に守護・地頭設置を献策したのは、この広元と言われている。
以下、真に勝手な想像であるが、このあたりには由井小学校とか由井中学校といった名前が残る。現在の地名にはないのだが、昔はこのあたりは由井村といった、とか。先ほどの和田合戦で横山党と北条軍が戦ったのが「由比ガ浜」。勝者大江氏がこの地に領地をもったとき、鎌倉由来の「由比>由井」をいう地名を使ったのだろうか。勝手な想像というか妄想。なんら根拠なし。が、自分では妙に納得。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)


兵衛川

片倉城址公園を離れ、国道16号線を南に下る。JR横浜線をくぐり兵衛川にかかる兵衛橋を渡り、日本文化大学入口交差点を過ぎる。兵衛川の源流はすこし南に下った熊野神社・福昌寺のあたり。流れはJR横浜線に沿って北に進み、横浜線を越えたところで湯殿川に合流する。

浅間神社
交差点を少し南に進み、国道16号線を離れる。少し西に進むと小さな祠。浅間神社、と。清々しく整っている。地元の人達のお世話の賜物であろう。浅間神社脇から細い道が丘に向かう。
周囲には里山の風景が広がる。散歩をはじめていくつもの美しい里山に出会った。多摩というか町田の小山田の里もよかった。埼玉・寄居の車山あたりの里山も忘れられない。狭山湖に近い野山北・六道山公園あたりの里山もいい感じであった。心休まる風景がまだまだ残っている、などと、散歩で出合った里山を思い起こし先に進む。

大きな車道。16号線・片倉高校前交差点からJR横浜線・みなみ野駅に続く。地図で見ると駅の西には「八王子みなみ野シティ」が広がる。かつての里山を切り開いた住宅地。計画では28,000人が住むことになる、とか。

雑木林の尾根道
車道を越える。ここからは雑木林の尾根道。木橋と崖に注意、といった看板もある。確かに雑木林越しに眺める谷との比高差も結構ある。雑木林を抜けるとしばらく砂利道が続く。そのあたりでは西側が開ける。広がる住宅街は「八王子みなみ野シティ」、であろう。天気がよければ、北から南にかけて大菩薩、高尾、富士山、丹沢の山々を見ることができる、とか。あいにく天気が悪い。ちょっと残念。砂利道を進むと国道16号線・東京工科大学前交差点から延びる車道。これも「みなみ野シティ」に続いている。

御殿山の山裾をぐるっと迂回
車道を横切りふたたび丘陵地に。御殿山の山裾をぐるっと迂回する道筋。このあたりは昔「多摩丘陵自然公園」と呼ばれていた、と。昭和25年の指定。片倉から多摩市の桜ヶ丘公園にかけての丘陵地が、そう呼ばれていた。カシミール3Dでチェック。

地形

聖蹟桜ヶ丘公園方面からいわゆる横山の道、そして戦車道、小山内裏公園をへて御殿峠に続く尾根道、そしてもうひとつ、平山城址公園、というか高幡不動方面から平山城址公園、長沼公園、野猿峠から大塚山をへて御殿峠に続く尾根道が見える。こういった丘陵地を「多摩丘陵自然公園」としたのだろう。景色のよい尾根道が続いていたのではあろう。が、都市開発の影響で尾根道はところどころで分断され住宅地に変わっている、と。「みなみ野シティ」もそのひとつ。また、先日歩いた野猿峠と大塚山の間にある北野団地もそういった雰囲気であった。もっとも、多摩ニュータウン全体が多摩丘陵を切り開いたものであるわけで、始めて多摩・南大沢一帯を目にしたときの、あの「近未来的空間」に迷い込んだといった感覚を思い出せば、大概のことは「普通」に思えてはしまう。

御殿峠
夢見から散歩に戻る。御殿峠を迂回するこの道筋には相原から続く昔の鎌倉道も合流している、と。地図には、日本閣の近くに鎌倉道が合流していた。が、残念ながら確認できず。
丘陵を抜けると国道16号線。自然公園前交差点。すこし東に戻り御殿峠に。名前の由来は粟飯原氏だか、藍原氏だかの館があった、とか。
が、この峠で思い出すのは明治天皇の兎狩り。明治14年のこと。その狩をことのほか愛で、急遽、もう一日兎狩りとあいなった。で、そのお狩場となったのが、聖跡桜ヶ丘の地であった。このことは聖跡桜ヶ丘散歩でメモしたとおり。

御殿山尾根道に

御殿峠からは国道を離れ、山野美容芸術短大のところを東に入る。少し進むと多摩養育園。御殿山尾根道に抜けるには、この養育園の敷地内を通ることになる。

地層観察ポイント
駐車場には土がむきだしになった崖。地層が観察できるようになっている。赤土の下に礫っぽい地層。こういったところに地下水が溜まるのだろう、などとなんの根拠もなく、ひとり納得。地層観察ポイントをはなれ園内をあちら、こちらと進み、尾根道を探す。

道了山跨道橋

なんとかかんとか尾根道に。フェンスに沿って進む。フェンスの向こうは東京工科大学であろう。尾根道はほぼ西から東に進む。尾根道はいい。尾根道というだけで、心が弾む。
しばらく進むと跨道橋。国道16号線のバイパスを跨ぐ、道了山跨道橋。橋の少し南は鑓水峠。橋の上から南北の景色を眺める。結構いい景観。

大塚山

橋を渡ると前方に小高い山。大塚山である。標高213m。山裾を時計と逆周りに歩き「絹の道碑」に。先日、この絹の道を歩いたとき、行けなかった山頂の「道了堂跡」に進む。先回は、絹の道記念館の閉館時間が気になり石段を登る余裕がなかったわけである。

道了堂跡

山頂には礎石が残る。道了堂跡だろう。「絹の道」での商売が盛んなりしとき、この地の絹商人・鑓水商人が財を誇ってか、浅草花川戸から勧請したもの。が、鑓水商人の衰えとともに、今は、ない。

尾根道緑道を経て小田急線・唐木田駅へ
石段を下りで絹の道を下る。絹の道資料館に立ち寄り、鑓水を過ぎ鑓水小山給水所のところまでは、前回の散歩と同じコース。前回はここから多摩境の駅に進んだが、今回はここから小山内裏公園を抜け尾根道緑道を経て小田急線・唐木田駅へと進むことに。

小山内裏公園

小山内裏公園って、結構ありがたそうな名前。由来についてははっきりしないが、このあたりの地名が「小山ケ丘」であり、また、小山内裏公園の北、多摩ニュータウン通りに沿って、内裏谷戸公園とか、内裏橋といった地名がある。ふたつの地名「小山」+「内裏」=小山内裏、としたのであろう。
小山内裏公園の

戦車道

中の尾根道を進む。尾根道緑道とも戦車道とも呼ばれている。これも既にメモしたとおり、昔相模原にあった陸軍造兵廠で製造された戦車の走向実験がこの尾根道でおこなれた、ため。淵野辺のあたりは戦前、陸軍兵器学校・陸軍航空技術飛行機速度検定所や原町田憲兵分隊が駐屯する陸軍の街であったわけだ。戦後は米軍が接収。米軍補給廠となる。戦車道には陸軍の戦車に替わって米軍の戦車やブルドーザーが走っていた、と。

尾根道幹線と交差

尾根道緑道を進む。ところどころに見晴らし広場。相模原の町並み、丹沢の山並みが広がる。少し進むと尾根道幹線と交差。尾根道幹線道路は、京王線の永山というか若葉台あたりから多摩を東西に横切り、唐木田、長池公園傍をへて町田街道に抜ける。ほぼ「よこやまの道」と並行して進む大きな車道。

目的地は唐木田であり、本来ならここで尾根道を乗り換えなければならなかったのだが、うっかり。そのまま尾根道緑道を進んだ。尾根道緑道って、小山内裏公園から唐木田に続く尾根道と思い込んでいたわけだ。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)


桜美林学園野球場
尾根道緑道を進む。桜美林学園野球場のサイン。このあたりから、ちょっとおかしいぞ、とは思い始めてはいた。EZナビで唐木田駅までの距離をチェックすると、縮まるどころか逆に増えている。が、確認することなく歩みを続ける。なんとなく丘陵を下る雰囲気。小山田南小学校、小山田桜台、桜美林協会。住所は下小山田町。これはあまりに、ということで現在地をチェック。あらあら、とんでもない方向に進んできている。最寄の駅はJR淵野辺駅などと、なっている。唐木田までは5キロ弱、と。

町田市リサイクル文化センター

Ezナビで小田急・唐木田駅をセット。ガイドに従い進むことに。町田市のリサイクル文化センターの近くからスタート。市考古資料室などといった惹かれる施設もあるのだが、寄る気力、これなく、先に進む。もっとも時間も5時を過ぎており、閉館してはいただろう。

鶴見川の上流

道を進み、宮ノ前公園脇を進み、水路を渡る。この水路は鶴見川の上流であろう。源流点は町田市の北部、多摩市との境でもある小山田地区。川の脇には小山田神社もある。残念ながらここにも寄ること叶わず。川を渡ってちょっと進むと車の多い、といっても、そこそこの交通量だが、ともあれ、車道に出る。道の東の緑は小山田緑地であろう。

大泉寺
道を北に。大泉寺の案内。ここはいつだったか訪れたことがある。小山田氏ゆかりの寺。鎌倉時代、この地で覇をとなえた小山田有重の館があったところ。有重が家督を行重に譲ったとき、館近くに寺をつくった。高昌寺と呼ばれた。その後、小山田氏が没落。15世紀に大泉寺が開基された。そのとき、高昌寺もこの地に移された、と。

小山田氏
小山田氏のあれこれをちょっとメモしておく。小山田氏の祖は秩父氏。桓武平氏の流れとも。小山田氏の開祖有重は秩父重弘の次男。重弘の長男重能は畠山姓を名乗る。その重能の次男が豪傑で名高い畠山重忠である。小山田氏と畠山氏は兄弟である。有重はもともとは保土ヶ谷の地で榛ケ谷御厨を治めていた。
この地に移ってきたきっかけは、小山田荘の別当に任命された、ため。別当とは馬牧の管理人ということである。上にメモしたように、大泉寺のあたりに館を構えた。有重の母が横山党・横山孝兼(小野孝兼)の娘であったため、その遺領土を継いだ、とも言われる。八王子を根拠地として相模に勢力を広げようとした横山氏は積極的な婚姻政策をとった。秩父氏と縁を結んだのも、そのひとつである。
母の遺領は小山田の地だけではなかった、よう。小野路・稲城・矢野口にもひろがっていた。ために、小野路は次男義重が、稲城は三男重成が継ぎ稲毛氏と称す。また矢野口・小沢城は稲城重成の子の小沢小次郎が領した。また、保土ヶ谷の地は棒谷重朝が継いだ。小山田氏が没落するのは、二俣川で畠山重忠が北条によって粛清された、とき。畠山氏の一族として、稲城三郎重成や棒谷四郎重朝も誅される。
小山田氏が再び歴史上に登場するのは、有重から六代目の小山田高家のとき。延元元年(1336)南北朝動乱の時である。足利尊氏・直義兄弟と戦う南朝軍の一員として名前が登場する。摂津国・湊川の合戦において、新田義貞の身代わりとして討ち死にした。これが小山田高家。湊川の美談として 後世に伝えられた。ちなみに町田市忠生の地名の由来は、この美談による。忠臣高家の生まれた村という ことから忠生村の名がつき、現在での忠生となった。

あれこれ大泉寺や小山田氏のことをメモした。今回は時間なく訪れることはなかったのだが、小山田氏の記憶をぼんやりしてきたので、ちょっと整理といった、按配。

大泉寺のあたりからは、谷戸といった道筋を北に進む。美しい里山が続く。いつだったか歩いた東京国際カントリー倶楽部脇の尾根道から小山田緑道への美しい里山の景観が思い出される。これも時間があれば寄ってみたいのだが、如何せん既に6時が近い。今回は先を急ぐ。

蛇行する坂道を進み尾根筋にのぼる。そこには、ちょっとした公園。これって、「横山の道」への上り口。京王線・永山から続く「よこやまの道」の道筋である。ここに来たのはもう1年も前だろう。ここから小山田緑地へと下ったり、西に大妻女子大の裏を進むも、建設工事のため通行止めとなった、といったことが思い出される。

小田急唐木田駅
公園でしばし休憩のあと、大妻女子大多摩キャンパスの下を進む。道の東の下方向にある小田急電鉄唐木田車庫を眺めながら尾根道幹線道路を越え、右折。小田急電鉄の跨道橋を渡り、唐木田の駅に。本日の予定はこれで終了。うっかり尾根道の乗り換えを忘れ、20キロ近い結構タフな散歩となってしまった。同僚の皆様、失礼致しました。

いつだったか、多摩の「よこやま」、つまりは、多摩丘陵の尾根道を歩いた。もう一年も前のことだろう、か。その尾根道は津久井湖・城山湖のほうまで続いている、と。そのうちに行ってみよう、とメモした覚えがある。
最近、八王子から多摩への散歩が続いている。その余勢をかって、というわけではないのだが、津久井湖・城山湖まで出かけよう、と思った。カシミール3Dでチェックする。確かに、多摩から続く丘陵は、国道16号線・御殿峠のあたりで南北のからの尾根道が集まり、そこから更に西に延び、津久井湖方面に向かって延びている。津久井湖・城山湖畔の散歩も惹かれるものがあるのだが、どうせのことなら、湖畔散歩だけでなく、そこから多摩に向かって尾根道を歩いてみよう、と思った。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)



本日のルート;京王相模原線・橋本>(バス;三カ木行き;城山高校下車)>城山ダム管理事務所>城山大橋>津久井湖城山公園花の苑>津久井城址登山口>飯綱権現>山頂>津久井湖城山公園花の苑・刊行センター>山道>飯綱大権現>コミュニティ広場>城山発電所>川上橋>大戸>町田街道・大戸>八木重吉記念館>法政大学入口>法政トンネル>尾根道>相武カントリー倶楽部>武蔵岡中>町田街道・東京家政学院入口>東京家政学院前>峠>七国峠入口なし・引き返す>鎌倉古道>町田街道・相原十字路近くに下りる>長福寺>JR横浜線・相原駅

京王相模原線・橋本駅

京王相模原線のターミナル・橋本駅に向かう。多摩丘陵をトンネルでくぐりぬけ、多摩境を越えると車窓から多摩の丘陵が一望できる。尾根道緑道なのだろうか、町田の方角に南に向かって広がっている。先日の散歩で尾根道の乗り換えを間違い、延々と歩いた、あの尾根道である。少々の感慨に浸るまもなく電車は橋本駅に到着。駅前再開発が進んだのか、大型ショッピングセンターが目立つ。これほどの街とは想像していなかったので、少々の驚き。なんとなく、千葉・松戸の駅前の雰囲気を思い出す。

「三カ木行」バスで、「城山高校」で下車

構内でバスの案内を探す。見当たらない。西口に行けばなんとかなるか、と思い進む。バスターミナルはあったものの、津久井湖方面のバスはない。引き返し東口に。津久井湖へは「三カ木行」に乗り、「城山高校」で降りればいい、と。少し待ちバスに乗る。しばしバスの車窓からの眺めを楽しみ「城山高校」で下車。降りたら案内などあるだろう、と思っていたのだが、なにもない。前方に聳えるのが津久井城址のある山であろう、とは思うのだが、確たる自信もない。ダムの堤防のようなものが見える。とりあえず先に進む。




津久井城址登山口
国道413号線を堤防に向かって下ると城山大橋。大橋とは言うものの、実際はダムの堤防。城山ダムと呼ばれる。相模湖を堰き止めたもの。堤防を渡ると「津久井湖城山公園花の苑」。道の先に観光案内所が見える。道脇に「津久井城址登山口」の案内。誘われるように登山口に。階段を少し上る。なだらかなスロープの坂道を進むと、すぐに登山道にあたる。

「宝ケ池」湧水池。
つづら折れの登山道を進む。のぼり道は幾通りかあるよう。どちらに進めばいいのか、きちんとした案内がない。仕方なく、成行きでグングンのぼる。30分以上も歩いただろうか。山道脇に「宝ケ池」。湧水池。この城山にはこういった湧き水が数箇所あった、とか。水が確保できなければ、籠城策もできないわけであり、城郭の生命線。いつだったか小田原を歩いたとき、秀吉の一夜城跡にのぼった。そこの湧水地は規模が大きかったなあ、などと散歩の記憶に少々浸る。

飯綱権現

水場から少しすすむと尾根道に。飯綱権現がまつられてある。飯綱曲輪があった、とか。
飯綱権現、って高尾山の守り神。また、先日、信州の川中島を歩いたとき、信玄・謙信が策を競った妻女山から眺めた信州の山並みの中に飯綱山があった。これもまた、ひとしきり旅の思い出に浸る。
ちなみに飯綱権現って、飯綱山で修行する修験者が信仰したもの。白狐にまたがった天狗がシンボル。飯綱権現は軍神としても知られ、幾多の戦国武将の信仰を得た。

尾根道に「引橋」

飯綱権現を離れ、尾根道を頂上・本城跡に向かう。尾根道にはいくつか掘切跡が残る。堀切には普段、「引橋」が渡されており、一旦事が起こると、その橋を外し、敵の侵入を困難難ものにした、とか。

津久井城
烽火台跡、鐘撞堂跡などから眼下の眺め。南の方角を見下ろす。快適な尾根道を進み山頂から本城跡に。津久井城の案内。ここにくるまで、津久井城について、なにも知らなかった。津久井城のもと歴史的・地理的意味合いをちょっとお勉強;
「津久井城は地理的には、北方に武蔵国、西方に甲斐国に接する相模国の西北部に位置する。そして、八王子から厚木・伊勢原、古代東海道を結ぶ八王子道と、江戸方面から多摩丘陵を通り、津久井地域を東西に横断し甲州街道に達する津久井往還に近く、古来重要な水運のルートであった相模川が眼前に流れていることから、交通の要衝の地でもあった。
また、津久井地域は、その豊かな山林資源がら、経済的に重要な地域としても認識されていた。このように、津久井地域は中世の早い時期から、政治・経済・軍事上の要衝であり、利害の対立する勢力のせめぎあいの地でもあった」と。

何故、こんな不便な場所にお城が、などと思っていたのだが、それって、現在の大都市・東京の視点から考えているだけであって、往古、いまだ東京・江戸が一面の葦原であったころ、この辺りは陸運・水運の要衝の地であったわけだ。

「築城は鎌倉時代、三浦半島一帯に勢力を誇っていた三浦一族・津久井氏による、という。戦国時代、小田原北条氏は16世紀中ごろには相模・武蔵を領国とする戦国大名に発展。その広大な領土を支配し、外敵に対するため本城の下に支城を設け、支城領を単位とする支配体制をつくった。この津久井城は甲斐国に近く、領国経営上重視されており、津久井城(城主内藤氏)は有力支城として重要な役割を果たしていた。現在の遺構は16世紀の北条氏の時代のものである」、と。小田原北条時代の城跡であった、ということか。
「標高375m。西峰の本城曲輪、太鼓曲輪、飯綱神社のある飯綱曲輪を中心に、各尾根に小曲輪が階段状に配置されている。これらの曲輪には土塁や、一部石積みの痕跡も残っている。また、山頂尾根には敵の動きを防ぐため、3箇所の大堀切が、山腹には沢部分を掘削・拡張した長大な、堅堀が掘られている」
「津久井城は独立した山に築かれた「山城」。通常山城は平地が狭いため、城主の館や家臣の屋敷などを山麓に置いた。これが根小屋であり、山麓に根小屋を備えた山城のことを根小屋式山城という。津久井城は戦国時代の根小屋式山城の様子を伝える貴重な遺構が残る。
根小屋は根本・城坂・小網・荒久・馬込地区一帯に広がっていた、とされ。各地域で大小の曲輪が確認できる。とくに、城坂地区には、お屋敷跡、馬場、左近馬屋といった地名が残されており、根小屋の中心であったと考えられる。
お屋敷跡には建物跡や硝煙蔵跡、深さ3mにもおよぶ空堀、土塁跡などが残されており、城主館跡と考えられている」、と。根小屋とか根古屋、って散歩の折々に出合った。秩父にも根古屋があった、かと。いまになってはじめて、その由来がわかった。

登山口に戻る
山頂から下る。道案内がいまひとつしっかりしていない。成行きで下る。小網口へと下る道。が、どこに進むのかはっきりしない。なんとなく西に向かっている雰囲気。いやいや、どんどん西に向かう。予定では、登山口のあたりに戻り、観光案内所で地図でも手に入れようと思っていた。ということは西ではなく、むしろ東に進みたいわけで、少々焦る。途中で分岐。東に向かう道に乗り換え、幸運にも登山口に下りた。「津久井湖城山公園花の苑」内にある観光案内所に進む。が、そこはお土産屋。これといった資料はない。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)


壁にかかった地図を眺め、大体のルートをチェック。ここから先のルートは、城山湖>町田街道>法政大学>七国峠>JR相原駅といった段取りが、尾根道筋であろうかと、仮決め。

津久井湖記念館

国道413号線を戻る。城山大橋を渡り、城山ダム管理事務所の横を進む。道脇に「津久井湖記念館」。ちょっと寄り道。津久井湖建設の歴史、というかダム建設で水没した村々の歴史をパネル展示。相模湖で堰き止められた相模川は、途中道志川の水を合わせ津久井湖に注ぐ。そして津久井湖の下流では串川や中津川が合流し厚木、平塚、茅ヶ崎と下り相模湾に流れ込む。源流は富士山麓・山中湖。全長100キロ強の一級河川である。

都井沢交差点

記念 館を離れ、中沢中学脇を進み、都井沢交差点手前を北に折れる。都井沢交差点からは結構大きな道が山頂に続いているのだが、ここはおとなしくEZナビのガイドに従う。先に進む。小道を抜け、あろうことか竹薮の中にリードされる。だいじょうぶか?味気ない道路みちではなく、野趣豊かなルートを選んでくれたのであろうと、とりあえず進む。次第に道など無きに等しい状況に。薮を掻き分け進む。枝に足をとられ、転びつつ、まろびつつ、進む。心の中で、「勘弁してくれ」、と。大転倒数回を経て、右手に車道らしきガードレールが見える。一安心。ガードレールを乗り越え車道に。

ほっと安心。車道を進む。しばらく進み、何気なく胸に手をやる。「あれ、サングラスがない」。10年も昔になるだろうか、家族でグアムにいったときに買ったお気に入りのもの。唖然。先ほどの踏み分け道で転んだときに落としたに違いない。見つける自信はないのだが、とりあえずブッシュ道に戻る。雑草に覆われた道に目を凝らし進む。「見つからない、見つからない、あ、アッタ」。嬉しかった。思わず神さま仏様に感謝。大西滝治郎中将ではないが、神風特攻生みの親・大西中将のフレーズを使えば「深謝」。心の底から感謝、ってこんな状態を指すのであろう。喜色満面、車道に戻る。

飯綱大権現
車道東に都井沢配水地。その先で、城山町若葉台方面からの車道と合流。すぐ先に飯綱大権現。権現様は仏が神という仮の姿で現れた、って神仏習合の賜物。密教というか修験道の影響から生まれたもの。ともあれ、境内から見下ろす津久井湖はなかなかのもの。津久井城址のある小高い山も一望のもと。

城山発電所

権現様で一休みし、さらに進む。1キロ弱歩いただろうか、コミュニティ広場に。野球を楽しんでいる。広場の横は城山発電所。発電所の敷地内を通り、坂をのぼると湖畔に。湖畔といっても、擂鉢上の縁の上。水辺には下りる道はないよう、だ。

城山湖

城山湖。境川の支流・本沢渓谷を堰き止めたダム湖。本沢ダム、とも。とはいうものの、川筋が繋がっているようには見えない。なんとなく、現在では大雨などで溢れた水を放水するために境川水系を使っているようにも思える。

であれば、このダムの水はどこから?チェックした。水は津久井湖から夜間汲み上げている、と。で、電力需要の多い日中に、この城山湖から津久井湖へと落差153mで水を落とし、25万キロワット、12万世帯へ電力を供給している。湖畔に立ち入りを禁止しているのはこのため。揚水と落水の繰り返しで、水位が1日に28mも上下する、と。危なくって、近寄れないわけだ。城山湖のダムが本沢ダム。津久井湖のダムが城山ダム。少々ややこしいが、城山ダムの水を水源にしているのだから城山湖、って論法であれば、それなりに納得。

次の目的地・七国峠に向かう。ランドマークは法政大学・多摩キャンパス。地図をチェックする。城山湖の外周道からは降り口はない。この湖の周りは5キロ程度の素敵なハイキングコースとなっているようだが、時間的にちょっと無理。コミュニティ広場のところから、東に下り、町田街道に続く道筋がある。案内もなく、確信があるわけではないのだが、なんとか進めそうな気もするので、とりあえず歩を進める。 

町民の森の東を下る 
道をくだる。しばらく進み、ダムの堰堤を左手に眺める。進入禁止となっており堰堤に進むことはできない。町民の森の東を下る。大戸、本沢ダム入口、青少年センター入口といった案内を眺めながら、どんどん下る。

上大戸交差点
境川と本沢川が合流する。しばし境川に沿って進み、上大戸交差点に。近くに大戸観音。昔は立派であったのだろうが、現在はさっぱりしたもの。境内に案内:このあたりは横山之荘の相州口。大木戸番所があった。ために大木戸>大戸、と。このあたりは、鶴間から分岐して秩父、高崎方面に向かう「鎌倉街道山之道」でもあった、とか。

法政大学入口
先に進むと町田街道の大戸交差点。町田街道を下る。法政大学入口に。地図をチェックすると相武カントリークラブの中を横切る道がある。そんなはずはない、とは思いながら、多摩の唐木田にある東京国際カントリークラブでは、敷地内を小山田緑地へと進む道があったよな、などと、かすかな望みだけをたよりに進むことに。

相武カントリークラブ

法政大学入口交差点を越えてすぐ、町田街道をはずれて北に小道を進む。しばらくすすむと法政大学トンネルの出口、というか入口。キャンパスの脇を丘陵地にのぼる。竹薮の中をおっかなびっくりで尾根道に。キャンパス近くということで整地されているのかとおもったのだが、ブッシュ。野趣豊かな尾根道を東に進む。相武カントリークラブのフェンスが見える

予想通りというか、残念ながらというか、相武カントリークラブはフェンスに囲まれている。なんとか入口はないかと、フェンスに沿った外周道を北に。しばらく進むと進入禁止のサイン。こんなところに来る人もいないのか、とは思うのだが、もう少し早く案内してほしいもの。引き返す。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)


大戸小学校と武蔵岡中学の間に下りる

南に下る。フェンスに沿ってどんどん下る。これで行き止まり、って洒落にならんよな、などと思いながら丘陵地を下る。突然、行き止まり、というか進入禁止。「それはないよな」、と。よっぽどゲートを乗り越えてやろうかともおもったのだが、それも大人気ない、と気持ちを鎮める。あたりを見廻す。なんとなく林の中に踏み分け道っぽい通路。とりあえず進む。前方にフェ ンス。フェンスに沿ってくだる。なんとか平地に。大戸小学校と武蔵岡中学の間に下りることができた。一安心。

東京家政学院入口交差点

南に下り、再び町田街道に。町田街道は八王子の東淺川で甲州街道から南にくだり、町田を下り、東名高速横浜町田インター近くの鶴間まで続く。
町田街道を少し進むと東京家政学院入口交差点。七国峠はこの交差点を北にすすんだ峠道のちょっと東にある。七国峠に続く道はまずもってないだろう、とは思いながらも、とりあえず先に進む。

峠道
東京家政学院前交差点を越え、峠道をのぼる。ゆったりとした上り道。峠を越えるあたりから、七国峠に抜ける道がないかとチェック。それらしき雰囲気のところはあるのだが、整地されているわけでもなく、ブッシュが生い茂る。ちょっと薮に入ってみたが、とてものこと進めるといったものではない。諦めてもとの車道に戻る。

七国峠にこだわるのは、いつかどこかで、鎌倉古道が通る道筋という記事を見た覚えがある、ため。掘割、切り通し、といった風情を楽しむことができないかと、少々残念に思いながらも、藪蛇のうち、とくに蛇が怖くて諦めた次第。

車道を家政学院前交差点に。そこで左折。相原十字路交差点へと向かう。目的地はJR横浜線・相原駅。久しぶりにEZナビをセット。なじかわ知らねど、相原十字路まで進まず、途中から山道に入れ、とのガイド。もう峠道は結構、とはおもいながらも、とりあえず案内の通り先に進む。峠道といっても車の走る大きな道ではある。

峠をこえたあたりから、「下界」が開ける。方向からすれば相原とか多摩境といった街並みではあろう。やはりこのあたりは尾根道である、といったことをあらためて実感。城山湖から結構下ったはずではあるが、大戸そして法政大学、七国峠といったあたりが尾根筋なのではあろう、か。

鎌倉古道の案内

峠を越える。この道筋であれば、ひょっとすれば七国峠へと続く鎌倉古道にあたるかも、といった淡い期待。大正解。道脇に鎌倉古道の案内があった。南の雑木林に入ることになる。北にも道筋。ひょっとすれば北に進み七国峠に続く道案内があるかと、ちょっと北に。案内はない。北に進む整地された道のほか、雑木林に入る道もある。どちらかよくわからない。日も暮れてきた。本日はやめとこうと、峠道・車道に戻る。

JR横浜線・相原駅


車道脇の鎌倉古道案内のところから、山道に入る。心持ち掘割といった雰囲気が残る。雑木林の中を進むと二股に。切り通しといった雰囲気の道を下る。ほんの、あっという間に雑木林を抜ける。畑の脇を下り、里にでる。林の縁を進むと鎌倉古道入口の案内。どうも、さきほどの分岐で違った道を歩いたようだ。とはいってもなんの案内もないわけで、致し方なし。後は一路東へと進みJR横浜線・相原駅に。一路家路に。

原駅から乗った電車の車窓から丘陵の姿をチェック。電車後方、というから八王子方面だが、小高い台地が聳えている。その台地は東からの台地と繋がっている。相模と八王子、そして多摩はこの台地で隔てたられている。地図を見ただけでは平坦な活字情報が目に入るだけであった。が、これからはこのあたりの地図を眺めたとき、地形のうねりも共に感じることができるではあろう。それがどうした、ということではあるが、自分としては、理由なき達成感にひとりほくそ笑む。


川崎市麻生区から横浜市青葉区に

日曜日、例によって散歩にでかけようとした。が、少々の野暮用がありあまり時間がない。近場でどこか、と地図をチェック。川崎と横浜の境、横浜市青葉区に「寺家ふるさと村」がある。里山が美しいといった記事をどこかで読んだ。小田急の新百合ヶ丘から歩けば5キロ程度。で、ふるさと村から田園都市線・青葉台まで歩けば、合計で10キロ程度になるだろうか。距離も丁度いい、ということで、本日は川崎市麻生区から横浜市青葉区への散歩にでかける。(木曜日,8月 09, 2007のブログを修正)



本日のルート;小田急・新百合ヶ丘駅>南口>上麻生1丁目>弘法松公園>南百合丘小学校>吹込>真福寺小西>真福寺>真福寺川>不動橋>宿地橋>鶴見川合流>水車橋>寺家町>(寺家ふるさと村)>ふるさと村郷土文化舘>熊野神社>むじな池>河内橋・鶴見川交差>横浜上麻生道路>桐蔭各園入口>中里学園入口>佐藤春夫・「田園の憂鬱」由来の碑>黒須田川交差>稲荷前古墳群>市ヶ尾横穴古墳群>地蔵堂下>国道246号線・市ヶ尾駅前>田園都市線・市ヶ尾駅

小田急線・新百合ヶ丘駅
小田急線・新百合ヶ丘駅。以前、駅の北東、2キロ強のところにある読売ランド方面からスタートし、千代ヶ丘の香林寺の五重塔を眺め、この新百合ヶ丘駅まで歩いたことがある。五重塔から眺めた丘陵下の風景はまことに美しかった。それはそれとして、そのときは新百合ヶ丘駅の北口しか見ていなかったのだが、今回降りた南口は全く様変わり。津久井道の走る北口とは異なり、南口駅前は一大ショッピングセンターである。事実、首都圏でも特に目覚しい発展をした街である、とか。新百合山手といった巨大住宅開発が実施され、丘陵を切り崩し巨大な住宅地が丘の上に開けている。ちなみに、百合丘の地名の由来であるが、百人の地権者がこの地の開発に力を合わせたとか、県の花であるヤマユリが自生していたから、とか、百の丘があったからとか、例によって諸説あり。「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)


吹込交差点

南口に降り、大型商業施設の中を成行きで南に向かう。成り行きで進み少し大きい車道に出る。坂道を南西に向かって下る。南百合丘小学校脇を下り最初の大きな交差点に。吹込交差点。王禅寺西2丁目と3丁目の境にあるこの交差点からは大きな車道の一筋南に進む道に入る。しばらく進むと南に下る大きな車道に出る。この道が、目的地・寺家ふるさと村に向かってのオンコース。ちなみに王禅寺の地名の由来は、古刹・王禅寺、より。

真福寺川
しばらく進むと、道脇に真福寺小学校。小学校の裏 手には豊かな緑が見える。後から地図をチェックすると、「むじなが池」や白
山神社などがある。いつか歩いてみたい。道に沿って川筋がある。真福寺川。麻生区百合丘カントリークラブあたりを水源とし下麻生で鶴見川に合流する2.5キロの川。真福寺小学校を超えたあたりで、西に折れまたすぐ南に。
先ほどの車道の一筋西を真福寺川に沿って下る。左手には白山南緑地の緑。それほど美しくもない川筋を進む。王禅寺地区から下麻生地区に。不動橋の西に見える小高い緑の中には月読神社がある、という。「月読」って名前も神秘的。また、月読神って、その粗暴な所業故に天照大神の怒りをかい、ために月は太陽のでない夜しか、顔をだせなくかった、という昼夜起源の話となっている神様。結構面白そうな神様ではある。




寺家ふるさと村
宿地橋を過ぎると真福寺川は鶴見川に合流。水車橋を渡り、鶴見川の西岸に移る。橋を渡ってすぐの民家の脇に「寺家ふるさと村」の石碑。道の西には小高い里山が迫る。山裾を南に進む。桜ゴルフコースの案内を眺めながら南に。里山の南端に。田圃を隔てて南にもうひとつの里山。その間に田圃が西に続く。典型的な谷戸の景観。山の端を西に進むと「ふるさと村郷土文化舘」に。文化舘とはいうものの、おみやげ物の展示が中心。併設される喫茶で一休み。
「ふるさと村郷土文化舘」を出る。南に進み、田圃で隔てられた、もう一方の里山に移る。入口にある熊野神社を眺めながら、山裾を進む。「むじな池 右折」の案内。里山に入る。雑木林の道を上る。すぐさま尾根筋に。尾根、というのはおこがましいほど、つつましやかな「尾根」を越え、少し下ると「むじな池」。どうということのない、こじんまりした池。池の前には田圃が広がる。「ふるさと村郷土文化舘」前の道筋を真っ直ぐ進むと、ここにあたる。
それにしても、典型的な谷戸の姿である。これほど長く切れ込んだ谷戸って、あまりお目にかかったことがない。「むじな池」に限らず、「大池」とか「新池」とか「熊野池」とか、水源があり、そこから流れる水が谷地を潤す。心休まる景観。ちなみに、寺家は「じけ」と読む。「寺領」の意味。どこかのお寺の「寺域」であった土地。寺家町の中心には古くから東円寺というお寺があった、とか。

鶴見川
田圃の畦道に腰を下ろし、次の予定を考える。このまま青葉台の駅に進み、おとなしく家路に向かうのも、いまひとつ盛り上がりに欠ける。はてさて、どこか見どころは、と地図をチェック。田園都市線・市ヶ尾駅近くに、稲荷前古墳群と市ヶ尾横穴古墳群。とりあえず市ケ尾方面に進むことに。
「ふるさと村」前の道を東に進む。しばらく進むと鶴見川。河内橋を渡り、横浜上麻生道路に。環状4号入口交差点手前で、台地下を走る道路に入る。台地下とはいうものの、ちゃんとした車道。台地の上は横浜桐蔭学園。

佐藤春夫・田園の憂鬱の碑

桐蔭学園入口交差点を越え、中里学園交差点に。佐藤春夫の「田園の憂鬱」由来の地の記念碑があった。いつだったか古本屋で『郊外の風景;樋口忠彦(教育出版)』という本を買った。その中で、「佐藤春夫の近郊の風景」という箇所があった。なんとなく「田園の憂鬱」のことを書いていたのでは、と思い本棚から取り出した。まさしくその通りであった。「田園の憂鬱」は大正5年の晩春から晩秋までの半年ほど居住した神奈川県都築郡の寒村の生活を回想したもの。このあたりの風景を描いたところをメモする。
主人公が移り住むのは、「広い武蔵野が既にその南端になって尽きるところ、それが漸くに山国の地勢に入ろうとするところにある、山の辺の草深い農村である」「それは、TとYとHとの大きな都市をすぐ六七里の隣にして、たとえば三つの劇(はげ)しい旋風(つむじかぜ)の境目にできた真空のように、世紀から置きっ放しにされ、世界からは忘れられ、文明からは押し流されて、しょんぼりと置かれているのである」「この丘つづき、空と、雑木林と、田と、畑と、雲雀と村は、実に小さな散文詩であった」「とにかく、この丘が彼の目をひいた。そうして彼はこの丘を非常に好きになっていた」「フェアリー・ランドの丘は、今日は紺碧の空に、女の脇腹のような線を一しおくっきりと。浮き出させて、美しい雲が、丘の高い部分に聳えて末広に茂った梢のところから、いとも軽々と浮いて出る。黄ばんだ赤茶けた色が泣きたいほど美しい。その丘が、今日又一倍彼の目を牽きつける」

『田園の憂鬱』ではないが、同じ頃書いた短編『西班牙(スペイン)犬の家』には、このあたりの雑木林を描いた箇所がある。メモする。「何でも一面の雑木林である。その雑木林はかなり深いようだ。正午に間もない優しい春の日ざしが、楡や樫や栗や白樺などの芽生したばかりの爽やかな葉の透間から、煙のように、また匂いのように流れ込んで、その幹や地面やの日かげと日向との加減が、ちょっと口では言えない種類の美しさである」、と。
当時佐藤春夫が住んでいたという家の周りを映した写真があるが、まっこと純正の「田園」である。佐藤春夫というか主人公は多摩の丘陵や美しい雑木林で癒されていた、ようだ。急激な市街地化が起きる前の、ほんとうに静かな田園の景観が目に浮かぶ。ちなみに上でメモしたTは東京、Yは横浜、Hは八王子である。

稲荷前古墳群


中里学園交差点を越え、南に進む。川筋と交差。黒須田川。王禅寺の日吉あたりに源を発し、市ヶ尾高校のところで鶴見川に合流している。川を越えるとすぐ道の左手の住宅の建つ台地上に緑の一角。稲荷前古墳群であろう。道を離れ、住宅地の中を台地にむかって上る。入口から石段をのぼると雑草に覆われた丘となっている。
ここが前方後円墳をふくめた三つの古墳跡、という。そう言われれば、そうかなあ、と思う程度の知識しかない。発見当時は前方後円墳2基、前方後方墳1基、円墳4基、方墳3基、横穴墓9基が発見され、「古墳の博物館」と呼ばれたようだが、現在では市街地開発で失われ、三基が残る、のみ。このあたりの古墳は4世紀から6世紀の頃のもの。近畿地方に遅れること1世紀、ということである。鶴見川(谷本川)を見下ろす丘の上に力をつけた首長が登場していた、ということ、か。

市ヶ尾横穴古墳群
丘の上に座り、しばしのんびり。得がたいひと時。丘からの眺めを楽しみ、次の目的地・市ヶ尾横穴古墳群へと向かう。住宅街を下り、薬王寺脇を通り大場川を渡り、大雑把に言えば南東に進む。一度丘を下り、低地で川を渡りふたたび丘に上る、って感じ。横浜市青葉区市ヶ尾町の北端、市ヶ尾小学校の北側に「市ヶ尾横穴古墳群」がある。六世紀後半から七世紀後半にかけての、いわゆる「古墳時代」の末期に造られたもの、と。市ヶ尾遺跡公園となっており、園内に入ると散策路が延び、その奧に広場がある。このあたりは鶴見川を見下ろす丘陵地であるのだが、公園前に建つ住宅のために、眺望はあまりよくない。家々の間から、かろうじての丘陵下の景色が見える。ただ、それだけでも結構爽快ではある。
公園内の各所に、市ヶ尾横穴古墳群の案内板があった。メモ;市ヶ尾の周辺には丘陵の谷間の崖面に造られた横穴墓群が多く、この「市ヶ尾横穴古墳群」はその代表的なもの、と。この地方の有力農民の墓ではないかという。公園内には「A群」12基、「B群」7基の横穴式古墳が残されている。横穴の周囲はコンクリートで固められてあり、少々情緒に欠ける。公園の中に案内が。
抜粋メモする。「市ヶ尾横穴古墳群は禅当寺谷の奥まった崖面にある。谷本川(鶴見川)の平地と富士山や丹沢が眺められる。
周辺にはいくつかの横穴群。東北には小黒谷横穴群、尾根を越えた北側に大場横穴群が背中合わせにならび、稲荷前には前方後円墳を含む稲荷前古墳群がある。南には朝光寺古墳群。
付近の台地の上には鹿ケ谷遺跡をはじめとする古代遺跡が発見されている。そしてこれらの東方に掘立柱建の残る長者ケ原遺跡が発見されている。これは律令時代の郡役所跡」と。「古墳時代の後期になると、豪族のもとで貧富の差が広がり、家父長を中心とする農民の家族が成長してゆく。古墳が盛んに作られた時代を古墳時代(4世紀―7世紀)という。古墳は九州から東北まで広がる。古墳は、支配する地域を見渡すような場所に、自然の地形を利用したり、人工的に土を盛り上げたりしてつくられた。彼らは水田耕作に適した中・下流域ばかりでなく、上流域の丘陵地帯にも耕地を開き、集落を営み横穴墓や円墳などの群集墳をつくった」、と。

東急田園都市線・市が尾駅
公園を離れ、道なりに東急田園都市線・市が尾駅に進み、本日の予定は終了とする。それにしても、何も考えず、特に何があるとも思わず歩きはじめたわけだが、川あり、里山あり、古墳ありといった盛りだくさんの一日となった。が、それよりなりより印象に残ったのは急激な市街地化。丘陵を切り崩し、住宅地を開発していたわけだ。

丁度読んでいた『都市と水;高橋裕(岩波新書)』にこの鶴見川流域の記事があった。抜粋:「鶴見川は1975年より実施された全国14河川の総合治水対策の先駆的事例。高度成長期を経て顕著な都市化が進行、かつ低平地を流れているため、江戸時代以 来、氾濫対策に苦慮していた、と。鶴見川は町田市内の多摩丘陵に源。長さ43キロ弱。流域の7割が丘陵、台地、残りが下流の沖積低地。標高は80mから70mといった低い丘陵が分水界。
全流域がきわめて平坦。流域は宅地化の最も激しかった地域。この流域の土地利用は1950年以来急変。宅地化が山林、低平地の水田などで進行。
65年以降、毎年流域の2ないし5パーセントが新しい市街地に変わる。特に恩田川流域が激しかった。鶴見川流域全体では、55年までは流域の10%。66年には20%。75年には60%。85年には75%まで市街化されていた」と。最近では宅地化が85%にまでなっていると、どこかで読んだことがある。50年で一面の山林・水田が宅地に変わった、ということ、である。新百合ヶ丘駅前で受けた、一体全体この賑わいは何?と思った素朴な驚きは、結構「当たり」であったわけである。散歩って、あれこれとした発見がある。
先回の新百合ヶ丘からスタートした散歩では、真福寺川によって開かれた谷筋を歩いた。道の左右には標高70mから80m程度の丘陵が連なる。起伏に富んだあの丘陵の向こうには一体なにがあるのだろう、との想いが残る。という事で、再び新百合ヶ丘近辺を歩くことにした。
今回は散歩のコースを事前に、少々真面目にチェックする。WEBには「分水界を歩く」とか「王禅寺の丘陵を歩く」とか、思いのほか多くのコースが案内されている。「分水界」とは、河川流域の境となる尾根筋のこと。ここで言えば、鶴見川と多摩川の流域の境となる尾根筋である。また、「王禅寺の丘陵」コースも魅力的。その名前だけで大いに魅かれる。で、今回は、分水界&尾根道&丘陵歩き、ということにする。小田急線・柿生駅からスタートし、麻生川筋をのぼり、新百合ヶ丘へと進む。そこからは、尾根道に乗り、王禅寺に向かい、あとは丘陵をアップダウンしながら小田急線・柿生駅まで戻る、といった段取りとする。(月曜日, 8月 13, 2007のブルグを修正)



本日のルート;小田急線・柿生駅>麻生川>麻生川を北に>小田急線交差>隠れ谷公園>小田急線交差>檜山公園>弘法松公園>生田南郵便局前>王禅寺東一丁目>日吉の辻>王禅寺>王禅寺ふるさと公園>琴平神社>籠口の池公園>真福寺川交差>月読神社>おっ越山ふれあいの森>秋葉神社>小田急線・柿生駅

小田急線柿生駅
小田急線・柿生駅で下車。北口に出るとすぐ前に「津久井道」。江戸時代、神奈川県西部の津久井、愛甲地方の産物、とくに絹を江戸に運ぶルートとして栄えた道。東京の三軒茶屋で国道246号線(大山道)から分れ、多摩川を多摩水道橋で渡り、狛江市、川崎市多摩区、麻生区、町田市を経て津久井に進む。甲州街道の脇往還として使われた。現在、三軒茶屋から多摩川までは世田谷通り、その先、鶴川までを「津久井道」と呼ばれている。

麻生川
津久井道をすこし北に進み、麻生川脇に。川筋の両側に遊歩道が整備されている。「麻生」は「あそう」ではなく「あさお」。地名の由来は「麻」が生える地、ってこと。8世紀、朝廷への調・貢ぎ物であった麻布の原材料である麻の産地であった。南北朝時代には麻生郷という地名が記録に残っている。地名の由来といえば、駅名の「柿生」。これも「柿」故のもの。鎌倉時代に王禅寺の等海上人が見つけた「禅寺丸柿」がその名の由来である。
麻生川を柿生新橋、麻生川橋と北に進む。桜の並木が続く。桜の名所であるらしい。川筋の両サイドには丘陵地が見え隠れする。川の東の丘陵地が鶴見川と多摩川の分水界かとも思った。が、東の丘陵のその東には真福寺川が流れている。ということは、東の丘陵は未だ鶴見川流域である、ということだ。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)


小田急多摩線
小田急多摩線下をくぐり、津久井道との交差の少し手前で川筋を離れ右に迫る台地にのぼる。「隠れ谷公園」と。「かくれだに」ではなく「かくれやと」公園。谷戸というほどの、切り込んだ谷地は実感できなかった。地形図でチェックすると、どうもこのあたりが「分水界」の尾根道の始まりのよう。

こやのさ緑道
公園を抜け、麻生小学校前の道路に出る。再び小田急線を跨ぐ橋を越え、線路の南に。山口白山公園脇の道を南に下り、麻生スポーツセンター入口交差点に。五差路。右から左から、南や東から上ってくる車、北や西から下ってくる車とで混雑している。東に進み、成行きで進むと緑道に。小田急線に平行に緑道を北東に進む。
1キロほど続くこの道は、「こやのさ緑道」と呼ばれる。宅地開発の前はこの周辺は細長い沢道。周辺の山には茅を刈るための共有地があり、その管理「小屋」があったため、「小屋のある沢」>「こやのさ」、と。新百合ヶ丘の駅前に近づくと人通りも多くなる。さらに進むと住宅街に。駅からそれほど離れてはいないのだが、閑静な住宅街となっている。少し進むと「檜山公園」に着く。

万福寺檜山公園

「檜山公園」は崖線上にある。比高差は結構ある。この崖の東は多摩川流域だろう。分水界の上に立っている、という、誰とも共有できない、であろう、故なき感慨に浸る。現在は雑木林や松が生い茂るこの公園は、かつて、この尾根筋に檜を植えた山があった、とか。開発で消えた美しい檜山を惜しんで名付けられた、ということだ。

弘法松公園

公園を離れ、尾根道を「弘法松公園」に向かう。住宅街を南東に進む道筋の南に小高い緑の丘。そこが弘法松公園であろう、とおもうのだが、道の先に展望台のような場所が見える。標高もこのあたりでは最も高いよう。ちょっと寄り道、のつもりで進む。が、結局、そこが「弘法松公園」であった。
展望台の休憩所で一休み。さすがに眺めは素晴らしい。西が鶴見川流域。東は多摩川流域。分水界に立つ、ってイメージをあらためて実感。それにしても、いい景観である。「弘法松公園」と思い込んでいた緑の丘も眼下に一望のもと。単なる思い込みではあったのだが、その堂々とした山容ゆえに惹かれ、それゆえに「弘法松」を意識するようになり、再びの歩みとなり、素晴らしき景観を堪能できたわけである。「思い込みも」それなりに意味あった、よう。
公園につつましやかな松。それが弘法の松。昭和37年に植えられたもの。伝説の弘法松は昭和31年に火難に遭い、その後、枯れてしまった、と。

弘法松の由来:弘法大師ゆかりの伝説が残る。大師がこの地に訪れる。百の谷があればお寺を建てよう、と。が、九十九の谷しかない。で、お寺のかわりに松を植えた、と。なにを言いたい伝説なのか、よくわからない。もっとも、「江海之所以能為百谷王者、以其善下之。故能為百谷王。(容納百川)」;(大河や海が百川の水を集め得るのは、つつましやかに低地にいるから。だからこそ、百川に帝王としていられるのだ)、といったフレーズもあるわけで、仏教では「百の谷」って、なんらか意味があるのかも。とはいうものの、弘法大師が関東に来たってことはないようだ。伝説は所詮伝説として楽しむべし、ということか。
弘法松はかつての都築郡と橘樹郡(たちばな)の境界にあたる峠であり、旅人にこの巨松はよき道標であった、と。都築郡は横浜市の北西部、橘樹郡は川崎市全域と横浜市の北東部。ちなみに橘樹郡って、先般、行田市の「さきたま古墳群」を歩いたときメモした、笠原直使主が朝廷に献上した4箇所の「屯倉(みやけ)」のひとつ。武蔵国造・笠原直使主が同族の小杵(おぎ)と争ったとき、助けてくれた、と言っても暗殺者を派遣し小杵を殺めた、ということなのだが、ともあれ朝廷への感謝のために献上した地域である。また、そのときに献上した久良岐の地は、現在の横浜市の東南部である。

生田南郵便局交差点
公園内を成行きで歩く。南側は崖となっている。石段を下りると弘法松交差点。交差点の西は丘陵を下る道。東の尾根道を進む。王禅寺西2丁目と百合丘3丁目の間の尾根道・車道を進む。眺めが素晴らしい。生田南郵便局交差点はすぐ近く。どうでもいいことなのだが、この郵便局が、なぜ生田南局というのか、わからない。近くに生田区とか、多摩区西生田といった地名はあるものの、ここはまだ麻生区百合丘である。
生田南郵便局交差点から北東方向に車道が続く。交通量も結構多い。標高も高くなっており、尾根道は生田のほうに続いている。どういった地形かチェックするため、交差点から少し尾根道を先に進む。道を少しはずれると崖上に。確かに生田方面に尾根道が続く。このまま進んでみたい、という思いはあるものの、本日のメーンエベント「王禅寺」は真逆の方向。生田方面への尾根道散歩は次の機会のお楽しみとして、交差点に戻る。

日吉交差点

交差点を南に下る。しばらく進むと尻手黒川道路と交差。王禅寺東1丁目交差点。交差点を越え、更に南に進むと日吉交差点。道の両側に丘陵が迫る。いままでこれでもか、って住宅街を歩いてきたので、急激なコントラスト。谷戸の雰囲気が残る。道の東に川筋。黒須田川。この辺りを源流とし、市ヶ尾高校近くで鶴見川に合流する。

王禅寺

しばらく歩くとT字路。日吉の辻。南東に折れ、少々の坂をのぼる。車の交通量も多い。そのわりに歩道がないので、ちょっと怖い。坂を上りきったところに南からの道が合流する。その上り道をちょっと進み、すぐに緑の中に続く道に移る。案内もなく、よくわからないままに進むと王禅寺の入口になっていた。あたりは一面の鬱蒼とした森である。王禅寺の寺域であったのだろう。
星宿山華厳院王禅寺。名前のどれを取っても、有り難そう。真言豊山派の古刹。はじまりは古い。考謙天皇(718-770)の勅命により、都築郡二本松で見つかった銅つくりの聖観音像をまつったのがはじまり。中世には禅・律・真言三宗兼学の道場として西の高野山とも呼ばれた、とか。王禅寺といえば、「禅寺丸柿」というほど、柿の話で名高いが、古い寺歴があったわけだ。

「禅寺丸柿」の話をまとめておく;禅寺丸柿とは王禅寺中興の祖・等海上人が見つけた甘柿。新田義貞の鎌倉攻めのとき焼失した堂宇再建のため山中で木材を探していたとき見つけた、とか。建保2年(1214年)のことである。村人に栽培を奨励し、この地で柿の栽培が盛んになった。地名に「柿生」が生まれる所以である。境内には禅寺丸柿の原木が残されている。その傍らには、王禅寺の自然を愛して度々訪れた北原白秋の句碑がある。
白秋も散歩のいたるところで出会う。最初は世田谷の砧、次に杉並の阿佐ヶ谷。江戸川の小岩でも、そして市川でも出会った。東京で23回も引越しを繰り返したわけで、当たり前といえば当たり前である、ということか。「薔薇ノ木ニ薔薇ノ花サク。 ナニゴトノ不思議ナケレド」は、白秋のフレーズであった、かと。

王禅寺ふるさと公園

王禅寺を離れて、王禅寺ふるさと公園に向かう。寺域と接しており、成行きで進めばなんとかなるだろう、と、雑木林をのんびりと歩く。石段を下り、如何にも谷戸といった雰囲気の里を進む。しばらくすると寺の入口に。それにしても、これが表門だろうか。よくわからない。ともあれ、入口を出て、寺域というか緑に沿って西に進む。すこしの上り。のぼり切ったあたりで、これも成行きで公園に入る。整地されていない雑木林。いい感じ。どんどん進む。が、結局行き止り。これまた成行きで引き返していると、大きな道にでた。道を進むとトンネル。トンネルを抜けると、そこは如何にも「公園」といった風景が広がっていた。
公園の案内をチェック。「見晴らし広場」の名前に惹かれて、北に向かう。小高い場所ではあるが、見晴らす対象は公園の景色であった。引き返すのもなんだかなあ、ということで、これも成行きで北に。なんとなく裏門通りの方面に出る。次の目的地は琴平神社。公園の南西端にある。公園に沿って南に下る。道の西に「化粧面谷公園」。これって、「化粧料(面>免)除」ってこと。江戸時代この王禅寺あたりが二代将軍秀忠夫人・お江与の方の「御化粧領地」であり、幕府から諸役負担の一部が免除されていた、から。

琴平神社
しばらく歩くと琴平神社。地元の名主・志村文之丞が、文政9年(1826)に讃岐の金刀比羅宮を勧請したもの。入口に立ち入り禁止のサイン。どうも放火で焼失したようであった。金刀比羅>金毘羅とはサンスクリット語の「クンビー ラ」の音を模したもの。ガンジス川に住むワニを神とみなし、仏教の守護神としたもの。

稲荷森稲荷社

琴平神社を離れ、神社の儀式殿の前を通る道を南西に下る。少し進み、消防団の倉庫のところを右に入る。緑地の裾を西に進む。神明神社の祠を見ながら進み、稲荷森稲荷社に。ちょっとした台地上に鎮座する。石段を上りおまいり。周囲は竹。立ち入り禁止のため、石段を下り先に進む。

籠口の池公園

道なりに進み、ジグザグ道を上る。のぼりきったところで西に進むと「籠口の池公園」に着く。こんな丘の上に何故池が、などと思ったのだが、池は公園を下ったところにあった。池も昔はこのあたり下麻生の田畑の灌漑用に使われたのであろうが、現在は雨水の調整池。

月読神社

池からの水路である暗渠に沿って下り東柿生小学校交差点に。少し北に進み、すぐ西に折れる。下麻生花鳥公園脇を進み、真福寺川に架かる不動橋を渡り「月読神社」を目指す。
神社は台地の上にある。雑木林の中の石段を登る。素朴なる祠程度かと思っていたのだが、結構立派な構え。1534年、麻生郷領主小島佐渡守によって伊勢神宮の別宮
から勧請されたもの。
今まで散歩し、結構神社で休んではいるのだが、「月読神社」に出会ったのはこれが初めて。古事記によれば、伊邪那岐命(いざなぎのみこと)と伊邪那美命(いざなみのみこと)が天照大神の次に産んだのが月読尊(つくよみのみこと)と。あとひとりの兄弟である素盞嗚尊(すさのおのみこと)と合わせ、三兄弟というか三貴子と呼ばれている。有力なる神様であったわけだ。元々は壱岐の島の海上の神様であったようだが、渡来氏族、特に秦氏の力もあって、山城の地にもたらされた、と。古代京都の神仰や、渡来文化を考える上で重要な意味を持つ神様であるよう。姉の天照が太陽・お昼、この月読がお月さん・夜をつかさどる。夜のうちに作物が育ち、暦が変わるといったアナロジーで「成長・再生」のイメージをもっているのだろう。で、この神様の普及には、出羽三山の修験道が大きな役割を果たしたよう。修験者とともに全国各地に月山神社と月読神社が広まっていた、とか。

源内谷公園神社を離れ、西に進み麻生台団地の端を北に折れる。少し進むと、雑木林に入る。源内谷公園脇を進む。右手は崖。左手は鬱蒼とした谷戸、といった地形。結構な比高差がある。尾根道を進むと左手下にお寺か神社といった屋根が見える。尾根道をはずれ南に下る坂道を少し進むと秋葉神社。
秋葉神社
紅葉の中に秋葉神社。日除けの神様。江戸時代、領主三井家が遠州秋葉神社の火伏の神を勧請したもの。『神社の由来がわかる小事典:三橋健(PHP新書)』によれば、静岡県周智郡・秋葉山に鎮座する秋葉神社が「本家」。江戸時代に秋葉山の神輿が京と江戸に向かって渡御したことがきっかけとなって秋葉神は全国に勧請され有名になった、とか。江戸の中期には東海道や信州から秋葉詣でが盛んに行われた、という。

浄慶寺

秋葉神社のすぐ隣、というか同じ敷地内に浄慶寺。j神仏習合の名残であろうmか。小ぶりではあるが落ち着いた雰囲気のお寺様。千本を越えるアジサイが植えられ、「柿生のあじさい寺」と呼ばれている、とか。



おっ越し山ふれあいの森

先ほど下った坂道を再び尾根道に戻る。ほどなく「おっ越し山ふれあいの森」。「おっ越し」って、興味を引かれる名前ではあるが、もともとは「丸山」と呼ばれていた、よう。由来のほどはよくわからない。先に進むと、すぐに下り階段。柿生中学脇に下りる。交通量の結構多い車道。ゆるやかな坂をくだり小田急線・柿生駅に進み、本日の散歩は終了。一路、家路へと急ぐ。
先回の散歩で多摩川・鶴見川の分水界を歩いた。新百合丘から弘法松公園を経て、尾根道を生田南郵便局交差点まで進み、そこからは尾根道をはずれ南の王禅寺に向かった。その時に見た、生田南郵便局交差点から東に向かって続く尾根道が如何にも魅力的であった。もっとも尾根道とは言うものの、宅地開発された住宅街が続いているだけではある。が、ともあれ尾根筋に惹かれた。
今回は、生田南郵便局交差点から続く尾根筋を東に進んでみよう、と思う。その先には生田緑地もある。そこには枡形城跡もある、と言う。ということで、今回もまた新百合ヶ丘方面から散歩を始める事にする。(水曜日, 8月 15, 2007のブログを修正)



本日のルート;小田急線・百合丘駅>第二児童公園北側>百合丘第二公園>百合丘第五公園>生田南郵便局前>高石水道局配水塔>南生田中学>長沢浄水場>専修大学入口>生田緑地>桝形山>東生田4-22>飛森(とんもり)谷戸(初山1-17の東)?初山交差点>平瀬川>平瀬川分岐・南の川筋>源流点(尻手黒川道路の北)>菅生3丁目>稗原団地入口交差点>菅生こども文化センター>平瀬川交差>東長沢交差点>五反田川交差>小田急線生田駅

百合丘駅
小田急線に乗る。たまたま到着したのが普通電車。たまにはのんびりと読書をしながら、ということでそのまま飛び乗る。新百合ヶ丘駅手前の百合丘駅に停車。急行か何かの待ち合わせであった、のだろう。時間待ちをするくらいなら、と百合丘駅で下りることにする。新百合ヶ丘の駅前とは少々様変わり。昔風の商店街、といった趣き。駅前にはゆるやかにカーブし弘法松公園へと向かうのぼり道。

生田南郵便局交差点
第二児童公園北側交差点まで上る。道はここから一旦沈み、ふたたび弘法の松交差点へと上る、よう。第二児童公園北側交差点で車道を離れ脇道を進む。百合丘第二公園に。坂道に沿った窪地にある。公園南の道を南東に進む。百合丘第五公園へと少し坂道を上る。百合丘第二団地の中を南に進むと、先回の散歩で弘法の松交差点から生田南郵便局へと進んだ尾根道に出る。
先回の散歩では気がつかなかったのだが、生田南郵便局交差点手前の坂道からの眺めが美しい。しばし丘陵下の景観を楽しむ。生田南郵便局交差点に。この尾根筋では最も標高が高い、よう。110m強ある、だろうか。先回の散歩ではこの交差点から南に下ったのだが、今回は北東へと続く尾根筋に向かう。

高石配水塔
車の数も多い。しばらく進む。高石6丁目で分岐。車は東へと折れる尾根筋に流れる。が、尾根筋は北東へも続いている。どちらに進もうと少々悩む。が、結局は北東方向に。車道ではなく宅地の中の道筋。台地下の景観などを見やりながら進むと水道局配水塔脇に。 高石配水塔。さきほど生田南郵便局あたりの標高が高いといったが、川崎市多摩区の最高標高地点は配水塔近くの生田病院の裏側。そして二番目はこの高石配水塔である、と。
高石配水塔は台地の突端。塔の周囲をぐるっと廻り込む。1年ほど前にこの地を歩いたときは、配水塔の南の崖線上は林が残っていたのだが、今では宅地開発されすっかり様変わりとなっていた。

南生田7丁目・三田4丁目
崖線に沿って東に進む。道の南の南生田2丁目は、台地下に見える。ほどなく結構大きな通りに出る。ゆったりとした下り。道路の東に南生田中学校。ここからは再びゆるやかな上り道。中学校を超え「春秋苑」の脇を抜け再び坂を下る。賑やかな道筋に。この道を北に進めば小田急線・生田駅に続く。南を見ると、道路を跨ぐ橋のようなものが見える。生田中谷第一公園へと上りチェク。なんとなく配水管のように思える。すぐ近くに長沢浄水場がある。そこへの導水管であろう。

長沢浄水場
公 園を下り、道路道に。成り行きで道の東の台地に上る。長沢浄水場。東京都と川崎市のふたつの浄水場が併設されている、と。ここの水源は相模川水系の相模湖や津久井湖。そこから導水トンネルで導かれる。その距離は32キロに及ぶ、という。東京都は
世田谷、目黒、太田区の一部に給水。川崎はここから鷺沼配水池に送られ、高津・宮前区の一部、そして中原・幸区の水道水となる。鷺沼配水池といえば、いつだったか鷺沼散歩のとき、結構立派なプール施設があったのを思い出した。


生田緑地公園
浄水場の北端を進む。しばらく進むと道の両側に大学。北は明治大学。南は専修大学。道を第六公園から専修大学記念館前あたりまで進み、そこからは専修大学入口方面辺と右に折れる。専修大学入口の前は深い緑。川崎国際生田緑地ゴルフ場。ここを東に進めば生田緑地公園。

稲毛枡形城
緑が深い。丘陵地の宅地開発が進む前に川崎市が緑地として計画・保存した、と。公園内の尾根道を進む。岡本太郎記念館とか日本民家園などもあるのだが、なんとなくパス。稲毛枡形城跡のある枡形山に進む。気持ちのいい散歩道を進むと、枡形、つまりは方形に整地された山頂に着く。中央に展望台のある公園となっている。展望台に上る。多摩丘陵の東端といった位置であり、東は多摩川により開かれた低地である。四方の見晴らし至極、いい。この枡形山に稲毛枡形城があった。
稲毛枡形城;鎌倉時代の御家人・稲毛重成の居城跡。といっても重成は麓の広福寺あたりに館を構えていたようではある。で、枡形山に城、という か砦が築かれたのは戦国時代の北条氏の時代になってから。また、規模もそれほど大きくはなかったようで、永禄12年(1569年)この地に侵攻した信玄は、この砦を無視している。その程度の陣城(砦)であった、よう。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)

稲毛氏。平安末期に登場した秩父氏の一派。秩父重弘の子・有重がこの多摩の地に下り小山田氏となる。稲毛氏はその子の重成がこの地を領して稲毛を名乗った。ちなみに、畠山氏も秩父氏の一党。秩父重弘の子重能が畠山の地を領しその姓を名乗った。江戸氏も秩父氏の一派。秩父重弘の弟筋が墨田近辺に下り、地名を冠した名を興した。
枡形城について、もう少しメモ。稲毛重成が居を構える前、この地には松方重時が居を構えていた。松方氏は河越重頼の四男というから、これも関東八平氏の一党、つまりは、秩父氏の流れである。で、河越氏といえば、源義経の正妻となった百合野の出た家柄。義経との繋がり故に、頼朝によって滅ぼされることになる。で、桝形の館の松方重時も河越の出自ゆえに、身の危険を感じる。そこで重時がとった危機管理策は、頼朝の三男・島津忠久の薩摩下向に随行する、ということ。薩摩に落ちのびることにより、危機を脱した。重時がいなくなり、無人となったこの枡形城の地に移ってきたのが、稲毛三郎、ということである。
ついでのことであるが、この松形方氏って明治の元老・松方正義の祖。松方一族って、松方コレクションで有名。また、ライシャワー元駐日大使のハル夫人も松方氏の出である。それから、西下した島津氏、って、鎌倉散歩のとき、頼朝のお墓の近くに島津氏のお墓があった。どうしてなのか今ひとつわからなかったのだが、これで納得。ちなみに、その横にねむる毛利氏は頼朝の補佐役でもあった大江広元の流れ。広元の四男・季光が厚木近くの「森庄」を領したため、森>毛利と名乗るようになった、と。ともあれ、江戸「幕府」を倒した島津、毛利両氏が鎌倉「幕府」を開いた頼朝と深い関係があった、というのは何とも言えない巡り合わせ、である。寄り道が過ぎた。散歩に戻る。

とんもり谷戸
公園のベンチで先のコースを想う。これといって、次の目標が定まらない。とりあえず公園のある台地を南に下り、ぐるっと一回りして生田駅の方面に向かうことにする。公園を離れて台地を下る。公園駐車場に。南に上る坂道・車道を進む。尾根筋まで進み、車道を離れ脇道に。ゴルフ場の境に沿って台地を下る。谷戸に下りる。湿地の上に木の橋が続く。里山の雰囲気を楽しみながら遊歩道を進むと初山地区に飛森(とんもり)谷戸
。遊歩道を離れ、林に寄り道。いい雰囲気。台地下の窪地から湧き水が沁み出てくる。今までの散歩で湧水も結構見てきたが、このように、土の間から沁み出す、といったところははじめて。新鮮な印象。何度でも訪れたいところ、である。結構なる満足感。雑木林の中をしばらく歩き、遊歩道に戻る。

平瀬川
遊歩道を南に下る。道に沿って、水路が続く。ゴルフ場内の滝沢の池(初山の池)から流れ出る用水路(とんもり川)ということ、だ。台地が切れたところに比較的交通量の多い道筋が東西に走る。初山交差点を西に進む。飛森谷戸を形づくる樹枝台地の裾といった雰囲気。しばらく進むと川筋。平瀬川。おもわず川筋へと車道を離れ北に進む。源流点まで遡ることに。遊歩道を進むとすぐに分岐。どちらの川筋に進もうかと、ちょっと悩む。が、結局、西に進む川筋に。

尻手黒川道路
川筋を少し進むと比較的交通量の多い道路。地図でチェックすると、専修大学入口から下る道。浄水場通り。住宅街をどんどん進む。途中には湧水公園、といった公園もある。先にすすむと水路は台地下の溝に入り込む。これ以上は進めない。台地を上ると尻手黒川道路に出た。菅生3丁目と水沢2丁目の境目あたり、である。

平瀬川
そろそろ日が暮れる。最寄りの駅をチェック。どことも離れているが、どちらかといえば小田急の生田駅が近そう。北に3キロ程度。尻手黒川道路を離れ北に向かい、先ほどの平瀬川が「消える」ところに戻る。川筋から再び台地に上る。台地の東端には聖マリアンナ医科大学がある。また、西には潮見台浄水場がある。台地を再び下りると川筋。これって、先ほど分岐した平瀬川のもう一方の川筋。こちらが支川である、と。水源は麻生区東百合丘。生田南郵便局のある台地下、田園調布大学裏手あたりまで水路が続いている。多摩丘陵東部台地の森が養った水が、丘陵地の谷合を通り多摩川に注ぐ。今越えてきた台地は平瀬川の川筋を南北に分けている、ということだろう。

小田急線生田駅


平瀬川の支流を越え、またまた台地に取りつく。南生田6丁目と長沢2丁目の境あたりを上る。交通量の多い車道に出る。生田駅前に続く通り。長沢浄水場にのぼるとき交差した道筋だ。緩やかな坂道を下り、五反田川を渡る。五反田川は麻生区細山地区に源を発し、細山調整池をへて、小田急線に沿って東に下る。そうそう、いつかメモしたように、細山の水源近くには香林寺がある。五重塔前からの眺めは一見の価値あり。
世田谷通り、というか津久井道を右折すれば小田急線・生田駅に到着。一路家路へと。ついでのことながら、生田の由来。川の名前にもあったように、「五反田」と「上菅生」を合わしたもの、という説がある。生+田ということだ。地名のなりたちは、いつもながら、それなりも面白い。  
 田園都市線・荏田駅から東横線・大倉山駅に

多摩丘陵を数回歩き、横浜市青葉区市ヶ尾まで下ってきた。地形図をチェックすると、丘陵はまだまだ南に続いている。どうせのことなら、多摩丘陵の南端まで歩こう、と思った。
地図を眺め、コースを想う。田園都市線・荏田駅から南東に2キロ強、早淵川を下ったところに横浜市歴史博物館がある。実のところ、この港北地区の時空については、まったくもって、何も知らない。とりあえず博物館に行き、あれこれお勉強をする。散歩のコースはそれから考えようと、いうことに。結果的に、横浜市都築区・港北区を歩くことに。(月曜日, 8月 20, 2007のブログを修正)



本日のルート;田園都市線・荏田駅>東名高速>国道246号線>荏田町>剣神社>緑地・愛和幼稚園>神社裏>荏田南町>荏田東町>早淵川・矢先橋>13号・横浜生田線>区役所通り>横浜市歴史博物館>大塚・歳勝土遺跡>13号・横浜生田線>早淵川>最乗寺>勝田町>勝田団地>第三京浜交差>新田・庚申堀>市営地下鉄三号線・新羽(にっぱ)町>鶴見川・新羽橋>太尾町・大曽根台町>大倉山公園>東急東横線・大倉山駅

田園都市線・荏田駅
田園都市線・荏田駅に。「荏田」とは「湿地」の意味。早淵川沿いの湿地であったのだろう。また、この地は江田氏の本拠。義経や頼朝に従って活躍した、と。江田が荏田になったのがいつの頃からか、はっきりしない。荏田駅の南口に下りる。駅前に道路が複雑に交差する。あざみの駅方面から南北に通る道。北東から南西に通る国道246号・厚木街道。同じく北東から南西に走る高架は東名高速。地図を見ただけではわからないが、地形図を見ると、厚木街道も東名高速も、台地の高みを避けて走っている。そして、荏田で交差したふたつの道は、多摩丘陵を越え、鶴見川によって開析された谷地へと走ってゆく。川もそうだけれども、道も自然の地形に抗うことなく、素直に続いているよう、である。

剣神社
歴史博物館に行く途中に、どこか見どころはないかと地図をチェ
ック。駅の南東、1キロ弱のところに剣神社。名前に惹かれた。とりあえず進む。厚木街道を少し引き返す。台地に向かって上ってくる道を逆に歩き、最初の交差点・荏田西団地入口に。そこで右折し台地へと上る道に。荏田第二公園脇を進み、台地上に上る。で、何処で左に折れたのか今となっては定かではない。あたりは畑。目印がないわけだ。とりあえず台地を下る。眺めはいい。下は早淵川で開かれた「谷」ではあろう。
のどかな畑地をゆっくり下る。道に「縄」。とはいうものの、なんとなく動いている。蛇。結構大きな蛇。勘弁してほしい。お蛇様がゆったりと道を横切るまで待機。見えなくなって、小走りに進む。細路を進む。蛇を見た直後でもあり、少々緊張。ほどなく剣神社に裏手に出る。
剣神社。いままであれこれ歩いたが、この名前の神社ははじめて。縁起とか由来案内がなかったので、ちょっと調べる。どうも「本家」は、越前にある剣神社ではなかろう、か。越前では気比神社についで二宮ということだから、それなりに格式のある神社なのだろう。別名織田明神。越前の領主であった、朝倉・斯波・織田氏の庇護を受け、特に織田氏はこの神社を氏神として祟敬した、と。
WEBで調べていると、違う視点からの「剣」に関するアプローチがあった。音韻、というか「音」からのアプローチで、その説によれば、剣も都築も、表記は異なるが、「音」は同じ「tungus」である、と。また、敦賀も駿河も津軽も角も鶴も、筑紫も、戸越も、富樫も櫛も楠も、みな音は同じである、とする。真偽の程は分からないので、このあたりに留めておく。が、剣と都築が同じってことは、なんらか意味があるのか、単なる偶然か、はてさ。。。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)


早渕川
神社の前に車道が見える。そのまま里に下りようか、とも思ったのだが、台地をもう少し歩いてみたい、先はどうなっているのかちょっと知りたい、との想い、あり。という事で、神社裏手の小道を引き返す。畑の畦道といった台地中腹の道筋を進む。成行きで進むと愛和幼稚園。南に進むとT字路。東に折れ、下ると車道・神社裏交差点に出る。
車道を越え、荏田南町にある台地の裾を迂回する。北端近くで台地に上る道に進む。すぐに台地を下りると荏田東町。早渕川が流れる。地形図でチェックすると、このあたり、いかにも開析谷。多摩丘陵が早渕川によって「開かれ」ている。早渕川は、青葉区の美しが丘、というから、田園都市線・あざみの駅の北が源流。都築区、港北区を流れ鶴見川に注ぐ。蛇行を繰り返し、早瀬や渕があったのが、名前の由来。荏田駅へと台地を上る国道246号線は、この早渕川の低地から上ってきていたわけだ。

横浜市歴史博物館
川に架かる矢先橋を渡る。台地手前を東に進む。早渕川の両サイドは丘陵地。緑が深い。太古の地形に想いを馳せる。しばらく歩くと、急にモダンな街並み。区役所通りと交差。センター北、といった地下鉄の駅がある。このあたりは港北ニュータウンの中心(センター)なのだろう。自然豊かな丘陵地とのコントラストが印象的。区役所通りを越え、地下鉄なのだろうか、高架を過ぎ、右に折れると横浜市歴史博物館がある。ここに来るまで、博物館が、どうしてこの場所にあるのか、意味不明、であった。なにせ、このあたりの地名は中川であり、牛久保、といった「ローカル」な名前。が、来てみて納得。都築の中心地であった。
横浜市歴史博物館に。横浜市の太古より現代までの歩みをスキミング&スキャニング。印象に残ったことは、このあたりも海進・海退が繰り返された、ってこと。どのあたりまで海が入り込んできていたのか、いまとなってははっきり思い出すことはできないのだが、海進期の地層が下末吉層であり、その段丘面が下末吉台地であるとすれば、今歩いている多摩丘陵あたりまで海が入り込んできていたのだろう、か。多摩丘陵の南には下末吉台地が広がっているわけであり、その比高差はおおよそ10m程度といったところ。その崖線が太古の海岸線であったのであろう。
また、もうひとつ印象に残ったことは、このあたりに古墳というか遺跡が非常に多いこと。この博物館に来るまで全く知らなかったのだが、大塚・歳勝土遺跡といった国指定の弥生時代の遺跡がある、と。もっとも、これほど古墳が多く見つかったのは、港北ニュウタウンの開発と大いに関連あるようにも思える。往古の人は台地上に集落を造らざるを得ないわけで、というのは低湿地など川の乱流・氾濫が怖くて住めるわけもないわけであり、そういった台地を掘り返せば遺跡・古墳が出てくるのは当たり前といえば当たり前のこと、である。
開発主体がお役所がらみであったことも、多くの遺跡がみつかったことと関係あるように思える。お役所がらみの大手ディベロッパーが開発主体であれば、工事現場から遺跡が見つかれば、きちんとレポートせざるを得ないわけで、結果的に多くの遺跡が見つかったのではなかろうか。ちなみに、文化財保護法って法律ができて以来、遺跡の発見・報告の数が激減した、といった記事をどこかで読んだ記憶がある。工事中に遺跡が見つかれば報告すべし、というのがこの法律。で、遺跡の調査、となれば、工事が中断。段取りが狂う。お金が入ってこない。結果として、頬かむり、となるわけだ。が、お役所主導の大規模開発ゆえに、キチキチと遺跡が発見・発掘された結果が多くの遺跡が見つかった主因ではなかろう、か。
そうそう、メモし忘れそうになったのだが、博物館で印象に残ったこととして、中小の河川流域を開発した古墳時代の人達は、その後、枝分かれし、谷戸の窪地への開発へと移っていった、ということ。勿論集団の規模は小さくなる。先日市ヶ尾の横穴古墳の主は、谷地の村の長、といった案内があり、いまひとつ、よくわかっていなかったのだが、ここにきて納得。

大塚・歳勝土遺跡
さてさて、次の目的地は、といっても、大塚・歳勝土遺跡と決まってはいるのだが、どこにあるのか、と地図をチェック。あれ、博物館のすぐ隣にある。博物館をブラブラしていると、大塚・歳勝土遺跡へのアプローチにのぼるエレベータもあった。エレベータで屋上に。歴博通りを跨ぐ陸橋を渡り、大塚・歳勝土遺跡公園に。入口で案内を眺め、まずは大塚遺跡に。
大塚遺跡;弥生時代の環濠集落跡。今からおよそ2000年前の竪穴住居、高床式倉庫などが復元されている。およそ100人ほどの弥生人が住んでいた、とか。歳勝土遺跡はこの地の人達のお墓である。港北ニュータウンの開発にともなう事前事業として昭和48年(1973年)から51年(1976年)にかけて発掘調査がおこなわれた、と。やっぱり。で、全貌があきらかになった1986年に国の史跡として指定された。ありがたい遺跡ではある。が、最近は遺跡・古墳への興味関心が急速に薄れている。娘の古墳・埴輪のレポートのお手伝いが終わったせいでもあろう。ということで、遺跡公園をあっさりと眺め、つぎの目的地をあれこれ想う。

最乗寺
次の目的地は大倉山とする。理由はよくわからない。なんとなく。昔から気にはなっていた地名。それが何故だかわからない。水道の配水塔があるのだろう、と何の根拠もなく思い込んでいる。距離も7キロ程度。日暮れも迫ってきており、丁度いい距離。で、遺跡公園を出発。公園内を東へと進む。フォレストパーク、というのだろうか、高層マンションあたりで南に折れる。こんなところ進んで大丈夫か、といった細路を下る。右手に竹林。一瞬中に入るが、やっぱり戻る。で、車道に下りる。大棚町。
道の南を流れる早渕川を渡り、茅ヶ崎東地区の小高い丘を迂回。廻りきったところに最乗寺。メモをするために地図をチェックしていると、そこからちょっと進んだところに杉山神社がある。この神社は鶴見川流域のみのローカルなお宮さま。50程度あるようだ。続日本後記にも登場する、ということは千数百年の歴史をもつ。延喜式では都築唯一の式内社。武蔵六所宮の「六の宮」といわれている。が、その「本家」というか「元祖」がどこなのかはっきりしないようではある。今回は実際に行ったわけでもないので、メモはこの程度にしておく。また、そのうちにどこかで出会うであろう。

市営勝田団地
最乗寺を越えると、またまた前方に小高い丘。樹枝状の台地が複雑に入り組んでいる。台地に上り、といっても宅地ではあるのだが、再びその台地を下る。目の前に再び坂道。交通量の多い車道。道を上ると市営勝田団地。少々の「歴史」というか「風雪」、というか「年輪」を感じる団地の坂道をのんびり下る。新栄高校交差点。少し進むと第三京浜と交差する。

新羽消防署前交差点

第三京浜を越えると、ゆったりと南東にカーブする道筋を進む。細い水路が見えるあたりで道筋は、今度は東に進み、新羽消防署前交差点に。水路の名前はわからない。地形図でチェックすると、この道筋は台地に挟まれた谷筋。多摩丘陵の最南端といったあたりのように思える。

鶴見川・新羽橋
新羽消防署前交差点からは交差点を南に。地形をチェック。このあたりまで来ると、多摩丘陵からはなれ、鶴見川によって開析された低地になっている。横浜市営地下鉄線あたりまで進むと、庚申堀に。少々騒がしい町並みとなる。更に南に。港
北産業道路と交差。道を東に進むと横浜市営地下鉄線・新羽駅に。新羽駅(にっぱ)東側交差点を越え、新田緑道を過ぎると鶴見川・新羽橋。前方に見える台地が大倉山であろう。あと一息、である。新羽の名前の由来は「新しく開墾された山の端(は)」といったところからくる、よう。地形から見れば、その通り、である。

大倉山記念館

新羽橋を渡ると太尾地区。往古、下末吉海進期にはこのあたりまで海岸線が上がってきており、そこに浮かぶ大倉山の姿が動物の尾っぽのように見えたから、と。新羽橋東側交差点に。南東に折れ、太尾堤交差点に。そのまま進めば東急東横線・大倉山駅ではあるが、大倉山に上るため道を左に折れ、龍松院前の道に入る。ゆったりとした台地、というか公園への上り道を進む。公園の中を進み、台地の上に大倉山記念館があった。

大倉山記念館は実業家・大倉邦彦氏が私財をなげうち建てたもの。東西の精神文化研究のためにつくられた「精神文化研究所」がはじまりである。ギリシャ神殿といった重厚なる建物。この台地は記念館が建てられるまでは、名無しの台地。それが、この研究所の完成をきっかけに、大倉山、と。また、駅も太尾から現在の大倉山という名前に変わった、と。
記念館の中をぶらぶらと眺め、しばし休憩。台地上から南方向を眺めると、多くの台地が見える。複雑な地形。なかなか面白そう。次の散歩は、この大倉山からはじめ、南に下ろう、との想いを抱き、東急東横線・大倉山に下り、本日の散歩を終え一路家路へと。
多摩の丘陵に惹かれて川崎市麻生区から横浜市青葉区、都築区そして港北区・大倉山まで下ってきた。はじめは、「なんとなく新百合ヶ丘」といった程度ではじめた散歩。何回にも分けて歩くことになろうとは思ってもいなかった。それだけ、丘と谷、入り組んだ谷戸の景観に惹かれたのであろう。
先回の散歩では、都築区から、これも「なんとなく大倉山」に下った。なぜ「大倉山」という地名が記憶に残っていたのか、よくわからない。ともあれ、大倉山まで下ってきた。で、大倉山から南を眺めたとき、これも結構入り組んだ感じの丘陵が見えた。大倉山の近くには中世の城址がある。また、鶴見の近くにも城跡がある。で、どうせのことなら、あと少し足を延ばし、城跡を辿りながら海岸まで下ってみよう、多摩の丘陵地帯から海まで襷を繋げよう、と思った。多摩から歩いてどの程度で海にたどり着くのか、少々のリアリティを感じてみたかったわけである。



本日のルート;東急東横線・綱島駅>綱島公園・綱島古墳>綱島街道>鶴見川・大綱橋>綱島街道>東急東横線・大倉山駅>綱島街道・交差点>環状交差点>環状大倉山2号交差>みその公園>尾根道>獅子ケ谷横溝屋敷>獅子ケ谷市民の森>二ツ池>三ツ池公園>釣鶴見高校>別所交番前>第二京浜・北寺尾交差点>響橋>第二京浜・東寺尾交差点>馬場町公園>殿山>白幡公園・白幡神社>寺尾小学校>第二京浜・東寺尾交差点>(鶴見獅子ケ谷通り)東寺尾交番前>亀甲交差点>JR鶴見駅

東急東横線綱島駅
渋谷で東急東横線に乗り、大倉山駅に向かう。急行でもあり、一駅前の綱島に止まる。普通電車を待つのもウザッタイので、綱島で降りて歩くことに。綱島って、川の中州や湿地に点在する島、「津の島」のこと。すぐ南に流れる鶴見川、東を流れる早淵川によって形つくられた「川中島・中州」であったのだろう、か。
綱島古墳
駅に降りて案内をチェック。駅の近くに綱島古墳。直近まで全く興味のなかった古墳時代ではある。が、最近娘の宿題のお手伝い、といった事情もありに少々の問題意識を持つことにもなっている。つい先日、吉祥寺の古本屋で『まぼろし紀行;稲荷山鉄剣の周辺(奥村邦彦:毎日新聞社)』を買ったばかりではある。それはともあれ、線路に沿って少し戻る。少し歩くと小高い丘。古墳はこの綱島公園の中にある。公園の最も高いところに古墳があった。案内をメモ;「5世紀に造られた円墳で、墳丘頂部の埋葬施設から鉄刀、鉄子、鉄鏃などの副葬品が発見され、古墳の周辺からは須恵器甕や円筒埴輪などが出土し、地域首長の墓と考えら れる」、と。綱島公園は戦時中高射砲陣地があった、とか。

綱島街道・鶴見川
公園を離れ、大倉山に向かう。一旦、綱島駅に戻る。バスセンターが賑やか。駅前の道を綱島街道に出る。綱島街道は東京の五反田を起点に、丸子橋をへて横浜市神奈川区浦島までの道筋のうち、丸子橋より西を指す。都内は中原街道と呼ばれる。先に進むと「大綱橋」。名前の由来は大綱村から。鶴見川を渡り、樽町を進む。「樽」って、「伊豆・河津の七樽」ではないけれど、「滝」ってこと。鶴見川が氾濫してなかなか水が引かず、「樽に溜まった水」のようであった、ため。鶴見川の氾濫は昔から多かったようである。
大倉山の台地の北端は鶴見川で切られる。鶴見川によって開析された台地と平地との境目、といった風情。地形図でチェックすると、綱島の台地が平地にポッカリと浮かぶ。綱島街道を隔てた諏訪神社のある台地と共に「連れになった島>つなしま」、って知名の由来もあるのだが、地形図で見ると大いに納得。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)

師岡熊野神社
道の両側に丘陵が迫る。向かって右手が先日歩いた大倉山の台地。左が熊野神社のある「熊野市民の森」の台地だろう。道を進むと熊野神社入口交差点。熊野神社は御園城跡(獅子ケ谷城跡)を拠点とした国人たちの心のより所であった、とか。ちょっと立ち寄る。台地を少しのぼり、ちょっと下ると熊野神社。境内前に池。「い」の池。灌漑用の溜め池。雨乞神事とか、片目の鯉の伝説が残る。
神社がひらかれたのは、8世紀前半・聖武天皇の頃。誠に由緒ある社である。9世紀末には光孝天皇の勅使六条中納言藤原有房卿が此地に下向。「関東随一大霊験所熊埜宮」の勅額を賜り、それ以来、宇多・醍醐・朱雀・村上天皇の勅願所となる。また、戦国期の小田原北条、江戸期の徳川家からの信仰も篤く、幕末まで御朱印を受けた、とか。
石段を上り本殿に。新しい。平成に大修理がなされた、と。なんとなく本殿裏手の姿に惹かれる。古い社とともに、雰囲気のある池。「の」の池。まわりは神域となっている。池の傍に裏山にのぼる道。のぼりきったところに展望台。師岡貝塚の碑もあった。縄文海進期の頃は、このあたりまで海であったのだろう。少し休み、綱島街道に戻る。

東急東横線・大倉山駅
熊野神社入口交差点からゆるやかな坂を大倉山駅方面に下る。綱島街道を離れて大倉山駅に行く。例によって、駅前での名所案内をチェックするため。いくつか散歩コースが案内されていた。目的地は御園城跡(獅子ケ谷城跡)。城跡の案内はどこにもない。この城の名前はいつだったか古本屋で購入した『多摩丘陵の古城址;田中祥彦(有峰書店新社)』にあったもの。そこの紹介でも、地元の国人たちの軍事拠点といった程度のもの。城というほどのものではなかったのかもしれない。『多摩丘陵の古城址』によれば、場所は横溝屋敷の北にある台地である、と。駅前の案内には「みその公園・横溝屋敷」と紹介してあっ
たので、とりあえず「みその公園」に進むことにする。
駅の北には大倉山が広がる。結構広い。山頂には大倉山記念館。ギリシャの神殿を思わせるような堂々とした建物である。実業家大倉邦彦氏が昭和7年につくった研究所がはじまり。当時名もないこの丘も、大倉氏の名前をとって大倉山、と。ちなみに、太尾駅と呼ばれていた駅も大倉山駅に改名。記念館の北、谷戸の風情を残す公園も、太尾公園から大倉山公園に改められた。

御園城
大倉山駅前の通りを進む。前方に新幹線の高架。商店街の上に新幹線が走る、って姿をみたかったのだが、残念ながら列車には出合わなかった。先に進み綱島街道・大豆戸交差点に。ここで環状2号に交差。目指す「みその公園」は環状2号線の南に広がる台地の上。信号を渡り、すぐの石段を登る。台地上から眺めると、環状2号は台地を「切り通し」ていた。
台地上は住宅街。ちょっと道に迷うが、先の緑の台地が「みその公園」であろう、と台地上の尾根道を進む。台地を少し下り、またすぐのぼると「みその公園」。御園城といわれていたのであれば、この台地が城跡であるのだろう。先に進む。雑木林が開けると、ちょっとした広場。このあたりが城跡であったのだろう、と、とりあえず思い込む。先に進む。「横溝屋敷」の案内。尾根道を進み、くねくね道を下ると台地下に「横溝屋敷」があった。

横溝屋敷
「横溝屋敷」。慶長年間から寛永にかけて名主を務めていた小田切氏の館跡に建つ。茅葺き屋根の母屋・表門(長屋門)・穀蔵・文庫蔵・蚕小屋などが残る。ゆったりとした、いい気持ちのひととき。台地崖下からの湧水池も、いい。
さて、これから先はどうしたものか。本日の最終目的地は、いままで二度チャレンジし、結局お店が休みで手に入らなかった、「よね饅頭」を買うこと。「お江戸日本橋七つ立ち」の歌に出てくる、あの「よね饅頭」である。といっても、会社の同僚でこの歌を知っている者はごく僅か。鶴見に行く目的はお饅頭ばかりでなく、あとひとつ。鶴見近くの寺尾にある、これも、お城といっていいのかどうかわからないような寺尾城跡をチェックすること。そこまでは、成行きで進もう、といった段取り。

獅子ケ谷市民の森

横溝屋敷前にある案内をチェック。南に広がる台地上に展望台のサイン。台地、谷戸といった地形 のうねりが大好きの我が身としては一も二もなく台地に向かう。道を南東に進み台地下に。「獅子ケ谷市民の森」と書いてある。台地下の公園から段を上る。少し湿った土。朝の雨の影響なのか、それとも湧水なのだろう、か。チェックする、池は地下水のポンプアップではあるが、崖地からは湧水が滲み出ていた。尾根道に進む。道は南北に通っているが、北に進み、しばらく雑木林の中を歩き、里に下りる。このあたり、樹枝状の台地が複雑に入り組んでいる。

二ツ池
さて、ここから先は、と、地図をチェック。近くに二ツ池、三ツ池公園、それと鶴見への道筋に下末吉といった地名が目に入る。池は谷戸からの湧水であろう。また、下末吉って、地質学で言うところの下末吉台地となんらか関係があるのだろう。ちょっと惹かれた。で、大体のコースを二ツ池>三ツ池公園>下末吉地区の順とする
谷戸を歩き、光明寺へ。ちょっとお参りし、それほど幅のない台地を越え東におりる。ゴルフ練習場脇を進み、車道に。少し北に戻ると道の東に二ツ池。池の中央に堤がつくられ、ふたつの池に分けられている。西は葦のような草が茂る野趣豊かな池。東側はふつうの池。多くのひとがつりを楽しんでいた。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)



三ツ池公園
池に沿って進み、再び台地に上る。鶴見女子学園のグランド南を進むと三ツ池公園に着く。こんな台地の上に池があるとは思えない。予想通り、崖地の下に池が見える。如何にも谷戸の姿。台地に囲まれた窪地から水が湧き出ているのだろう。結構大きい池である。池の周りを囲む崖上の遊歩道を進み「上之池」南端に下る。家族連れが多い。しばし休憩。

下末吉台地
公園を離れ、下末吉地区に進む。公園に沿って台地に上る。上りきったところに鶴見高校。ブラスバンドの練習の音。いかにも青春って風情。高校に沿って歩く。道は大きな下りとなっている。真っ直ぐ進むのもいいのだが、進行方向右手、つまりは道の西の地形が魅力的。一度下った谷地の向こうに再び台地が盛り上がっている。第二京浜の走る尾根道だろう、か。結構複雑な地形となっている。
この地形の「うねり」に抗すべくもなく、鶴見高校を越えたあたりで右に折れる。道の東は下末吉6丁目。当初、故なく下末吉1丁目一番地に行ってみようとも思ったのだが、行って何があるわけでもない。下末吉に足跡を残した、というだけで留めておくことに。それより、下末吉台地についてちょっとまとめておく。
下末吉台地・下末吉層;関東での地形の資料を見ているとしばしば登場する用語。この下末吉で発見された発見された地層により、往古、間氷期に現在より海面が上昇し、内陸奥地まで海が入り込んでいたことが明らかになった、とか。このとき堆積された地層を「下末吉層」、そして、海進が進んだ時代を「下末吉海進期」、そのときに形成された段丘面を「下末吉面」と呼ぶ。下末吉面の台地にあたるのが「下末吉台地」。鶴見高校のあったあたり。この洪積台地の下が沖積平野となる。そして、この上下の面の間は浸食されてできた段丘崖で隔てられている。神奈川県東部の北には多摩丘陵が広がる。神奈川県域では標高70mから90mといったところ。下末吉台地は、多摩丘陵の南、横浜市港北区、鶴見区、神奈川区に広がる。標高は多摩丘陵より一段低い40mから60mといったもの、である。

第二京浜・北寺尾交差点
下末吉面の台地を下る。下りきったところが別所交番前交差点。左手に見える白い建物が気になり左に折れる。少し進むと台地に上る。上りきったところが、第二京浜・北寺尾交差点。で、気になった建物は、道路わきに建つ聖ジョゼフ学園であった。交差点の手前にあるスターバックスで休憩。次の目的地、寺尾城跡への道順をチェック。響橋交差点で水道道に入り、馬場を経て、殿山に行けば、そのあたりが寺尾城跡の。よう。

東寺尾交差点
スターバックスを離れ、第二京浜に沿って南に進む。道の東に聖ジョゼフ学園を眺めながら進む。前方に第二京浜を跨ぐ道。この台地を繋ぐ道が響橋の、よう。第二京浜からははるか高いところを通っており、水道道に進めそうもない。響橋右折を諦め、少し進み東寺尾交差点で第二京浜から離れる。

馬場町公園
脇道はしばらく第二京浜に沿って進む。道が三叉路にわかれるところで台地に上る。台地を登りきり、住宅街を西に進むと馬場町公園。公園の北には谷地を隔てもうひとつ台地が見える。その台地に寺尾城跡があるのだろう。ということは、響橋からの道とい
うのは、その尾根道なのだろう。結構比高差のある台地を下り、窪地を進み、すぐに再び台地に取り付く。なかなか複雑な地形。上りきると結構交通量の多い車道。水道道に出た。少し北に鶴見配水場があるので、そう呼ばれるのだろう。

寺尾城
水道道・馬場3丁目交差点を少し南西に進む。殿山バス停。バス停脇から斜めに入る道。水道道を離れ脇道を少し上ると寺尾城跡の案内。案内と『多摩丘陵の古城址;田中祥彦(有峰書店新社)』を参考に、寺尾城についてかいつまんでメモする。

寺尾城跡:この城は入江川の谷戸を支配した豪族が築いたもの。城主は諏訪氏と言われる。諏訪氏について詳しいことはわかっていないが、早い時期に北条幕下に入っている。関東管領上杉氏のもとで長尾氏や大田氏が台頭することを快く思っていなかった、から。北条氏が上杉謙信と同盟を結んだときは、北条氏とともに武田信玄に備え、また、信玄と誼を通じたときは、謙信に備え川越の寺尾城に詰めた、とも。
ちなみに、寺尾と諏訪は深い関連がある、よう。川崎市、川越、そして秩父の寺尾の地はすべて諏訪氏と深い関係をもつ地である。鎌倉時代、川越の諏訪氏が寺尾姓の改姓しているほど、である、と。ちなみに、この城は北条とともに駿河に出向いているときに、武田信玄の軍勢により焼き払われた、ということだ。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」) 

入江川
先に進む。台地上は住宅街。城跡の赴きは何もなし。取り付く島もない。仕方ないので、台地を下り、寺尾城主・諏訪氏が創建の白幡神社に向かうことに。窪地に下りると川筋。入江川。地図でチェックするとこのあたりが源流のよう。流れは西に進み、西区寺尾付近でJR横浜線に沿って南に下り、神奈川区子安通りで横浜港に注ぐ。このあたりの複雑な谷戸の景観は昔入江川によって開析されたものであろう。とはいうものの、現在はほとんどが暗渠である。

白幡神社
白幡神社は向いの台地の上。坂道を上り白幡公園内にある白幡神社に。室町時代中期(1435)に創建された、と。神社を離れ、寺尾小学校に沿って台地を下る。道なりに進むと、先ほど馬場町公園に折れた交差点に。先に進み、第二京浜・東寺尾交差点に。交差点を渡り、台地に上る。今日はどれほど台地の上り・下りを繰り返した ことだろう。で、この台地がどうも最高点のような気がする。成行きで進み、鶴見獅子ケ谷通りに。東に下りると鶴見駅。西に進むとさきほどの水道道になっている。

総持寺
鶴見駅方面に下る。道の南には総持寺の寺域が広がる。遠くから見えていた青銅色の屋根は総持寺の甍であった、ようだ。総持寺は曹洞宗の大本山。はじまりは、7世紀の能登。明治31年に全山焼失。明治40年、この地に移る。移転の理由は、発展する京浜への教線を広げる、とか、海外に禅の教えを広める二は、海に面し開けたこの地がいい、ということのようだが、はてさて。ともあれ、移転を巡っては大騒動があったことであろう。そのうちに、調べてみよう。

よね饅頭
駅北にある古本屋でしばし古本を探し、最後の目的地、「よね饅頭」を売る、和菓子屋・青月に。しかし、またもやお休み。祝日は休み、日曜は休み。三度目の正直とも成り得ず。鶴と亀との「よね饅頭」になかなか、お目にかかれない。ちなみに、鶴と亀とは鶴屋と亀屋。鶴見橋のあたりにあった店の名前。よね、は浅草待乳山下にあった鶴屋の娘の名前。よね、さんがつくったのだ、と。
それにしても今回散歩の地形は実に面白かった。樹枝状に開析された丘陵地帯は、谷戸が入り組み複雑このうえない。鶴見といった海岸近くは、平坦なる低地であろうかと思っていたのだが、下末吉台地が鶴見川などによって複雑に開析され、結果、アップダウンに富んだ、魅力的な地形であった。結構満足。
武蔵小杉から多摩の台地に向かう
ここ何回かに分けて川崎市の丘陵地帯を歩いた。が、いまひとつ川崎市の時空についてわかっていない。川崎市の郷土歴史館などないものか、と調べてみる。と、武蔵小杉の近く、等々力緑地に市ミュージアムがある。そこが川崎の歴史郷土館の機能をも持っている、と。
ということで、今回の散歩は、とりあえず市民ミュージアムに行く。そこで川崎市のあれこれについてのスキミング&スキャニング。その情報をもとに、武蔵小杉から、つまりは、多摩川によって開かれた平地・沖積原から、多摩丘陵の東端へと上るルートを組み上げてみよう、ということに。
結果的には、川崎市中原区・宮前区・高津区を歩くことになった。(土曜日, 9月 08, 2007のブログを修正)



本日のコース;東急東横線・武蔵小杉駅>(小杉御殿町)小杉御殿跡>(小杉陣屋町)小杉陣屋>小杉神社>市民ミュージアム>春日神社>府中街道>ニケ領用水>(上小田中)>中原街道>南武線・武蔵中原駅>下新城交差点>江川交差>千年(ちとせ)交差点>影向寺>神明社>尻手黒川道路>第三京浜交差>野川小交差点>矢上川>権六谷戸>権六坂>野川第一公園前交差点>国道246号線>新道馬絹>武蔵野貨物線>馬絹古墳>馬絹神社>東急田園都市線・梶ヶ谷駅

武蔵小杉駅
東急東横線で武蔵小杉駅に向かう。武蔵小杉には多くの鉄道路線が集中している。東急東横線、東急目黒線、横須賀線、南武線、そして東海道新幹線。東急目黒線は東急東横線の複々線のうちの複線部を使用しているので、まあ、同じものといってもいいかと思うが、それにしても多い。交通の要衝であった、ある、ということだろう。実際、武蔵小杉のあたりには古くからの街道が交差している。中原街道、綱島街道、そして府中街道である。

中原街道;中世以来の主要道。平塚の中原と江戸を結ぶ。東海道の脇往還でもあった。はじまりはよくわかっていない。が、本格的に整備されたのは小田原北条の頃から。家康の江戸入府のときは、東海道が未だ整備されていたかった、ということもあり、この街道を利用した、と。中原街道と呼ばれるようになったのは,1604年以降。平塚の中原に「中原御殿」があったのが、名前の由来。
綱島街道;矢倉沢往還とか中原街道などの主要道を繋ぐ枝道のひとつ。稲毛道とも呼ばれた。この道は、神奈川宿から矢倉沢往還の溝ノ口へ至るショートカット・コース。神奈川宿をスタートし、北に綱島まで進む。現在の道筋はそこから武蔵小杉に向かって東に進むが、昔の街道は綱島から北に高田、下田を経て溝の口に続いていた、ようである。
府中街道;川崎宿の六郷の渡し辺りから多摩川西岸に沿って北に進み、小杉で中原街道、溝の口で大山街道(矢倉沢往還)、登戸で津久井道、そして、再多摩川を超えて府中に達する道筋。現在は川崎駅から府中をへて東村山市まで続いている。
街道チェックのため地図を眺めていると、鉄路の異常なほど急激なカーブが目に付いた。横須賀線、そして東海道新幹線である。直進すれば多摩の丘陵地帯に入り込んでしまうために、いずれにしてもこのあたりでカーブはしなければならない、とは思うのだが、それにしても何故にこのあたりで急カーブをしなければならない路線をとったのであろう。ふたつの鉄路とも図ったように綱島街道手前で急カーブしている。綱島街道を越えられない、なんらかの理由があったのだろう、か。疑問が残る。
急激なカーブと言えば、我が家の近くの井の頭線・明大前にも急激なカーブがある。当初の計画では、直線上に路線が延びることになっていたのが、なんらかの事情で中止になり、急なカーブだけが残った、とか。地形・環境の「ノイズ」にはそれなりの理由があるわけで、そのうちに調べてみよう、か。寄り道が過ぎた。先に進む。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000 /50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)


小杉御殿
武蔵小杉で下車。北口に向かう。常のごとく、駅前の案内板をチェック。市民ミュージアムのある等々力緑地の途中に、小杉御殿跡とか小杉陣屋後の案内。そうそう、小杉御殿って、あったよな、小杉陣屋って二ケ領用水を開削した小泉次太夫の陣屋跡であるよな、などと思いがけないキーワードの登場に少々の喜び。成行き任せの散歩ゆえのサプライズ、といったところ、か。
北口の南武沿線道路を南武線に沿って西に進む。小杉交差点を越え、府中街道・小杉御殿町交差点を北に折れる。道成りに進み中原街道・西明寺交差点に。中原街道はこのあたりでカギ形に折れ曲がっている。街道脇に「小杉御殿とカギ形道」の案内板:「御殿の敷地はおよそ1万二千坪(四万平米)。表御門、、裏御門、御屋敷、御賄屋敷、御殿番屋敷、御蔵、御主殿などの各屋敷が連なり、規模大であった中原街道はここでカギ形に曲がる。城下町で見られるカギ形の道は防衛のために工夫されたもの。背後の多摩川、さらに西明寺や近くの泉沢寺も合わせて御殿の守りを固めていた」、と。
近くに道案内図。「小杉御殿の御主殿跡」、「小杉陣屋と次太夫」といった場所の大雑把な道順が示されて、いる。道案内を目安に「小杉御殿の御主殿跡」に。中原街道から一筋北の住宅地の中に、こじんまりとした祠があった。そこが御主殿跡。案内板:「二代将軍秀忠のたてた小杉御殿は家康の送迎のほか、鷹狩の休憩所として使われた。後に東海道が主街道となると、御殿は廃止された」、と。
御殿って、開幕時、新領国の安定・整備のために設けられたもの。慶長13年(1608年)の頃と言う。慶長期には江戸近郊に鷹場が設けられ、その宿舎としても御殿が使われた。いつだったか青砥のあたりを歩いたときにも青砥御殿に出合った。千葉には御茶屋御殿といったものも、あるようだ。また、前出の平塚・中原御殿もそのひとつ。静岡の御殿場もその名残、だろう。
この小杉御殿はまた、駿河と江戸を往復するための家康の宿舎としても使われた。西国大名の参勤交代のときの接待の場としても使われた。上にメモしたように、鷹狩りのときの宿舎としても使われた。勿論、鷹狩とはいうものの、それは単に鷹狩りだけでなく、領内の政治状況の安定と譜代家臣の結束を図る、といった目的もあった、よう。ために、藩幕体制が磐石なものとなってくると、その存在意義が薄くなる。同時に主街道が東海道に移ったこともあり、17世紀の中旬頃にはその役割を終え廃止された、とか。

小杉陣屋と次太夫

「小杉御殿の御主殿跡」を離れ、案内にあった「小杉陣屋と次太夫」に向かう。大雑把な案内図でもあり、いまひとつ場所がわからない。成り行きで進むと小杉陣屋町2-10に、ささやかな跡地を発見。小泉次太夫はじめて出会ったのは、世田谷区・砧散歩のときであった、かと。丸子川に出合い、あれこれ調べていると、丸子川って、昔の六郷用水の中流部、であった。この六郷用水の工事責任者が小泉次太夫、ということであった。それ以来、気になる人物であった。
二ケ領用水のことを知ったのもその時。次太夫は六郷用水だけでなく、多摩川を挟んだ川崎側にも用水を開削した。それが二ケ領用水。稲毛と川崎の二つの地を貫くため、「二ケ領」用水、と呼ばれた。で、今回、思いがけなく小泉次太夫の陣屋辺りに出会えた。また、近くには二ケ領用水も流れている。成行き任せの散歩の賜物、ではある。
それにしても、六郷用水はよく歩いた。取水口はどこ、下流はどこまで続いているのかと、取水口を求めて狛江市の和泉多摩川まで歩いた。下流部へと太田区を数回に分けて歩いた。北堀とか南堀とかいくつもの分流があり、六郷用水の詳しい流路をチェックするため、馬込にある大田区の郷土資料館に行ったりもした。池上本門寺から大森への流れの跡を辿った。世田谷区喜多見の次太夫堀公園にも足を運んだ。そのときの情景が少々ながら思い出される。

市民ミュージアム・等々力緑地
小杉陣屋町を離れ、市民ミュージアムのある等々力緑地に向かう。陸上競技場などが整備されたこの公園敷地は多摩川の旧川道。明治14年頃の地図を見ると、緑地のあたりで多摩川が大きく湾曲している。湾曲した川道の南端にあたりに鳥居のマーク。公園に沿った道路の南に小杉神社があるが、このあたりが昔の多摩川の自然堤防であろう、か。
外周道路に沿って進むと緑地の北に市民ミュージアムがある。立派な構え。あれこれ美術展などもおこなっている、よう。2階に歴史資料が常設展示されている。展示資料は、まあ、それなりのもの。なんとなく印象に残ったのは、影向寺、そして馬絹古墳、といったもの。資料も書籍として手ごろなものはなかったが、「二ケ領用水」とか「中原街道」「橘樹郡家と影向寺」といった小冊子を買い求める。
少々休憩。資料を見ながら、コースを検討。当初の方針は多摩川の沖積原から多摩丘陵に進むってこと。中原街道を西に向かい丘陵をのぼり影向寺に進む、そこから尾根道を北に進み国道246号に。東に折れ、馬絹古墳に向かい、梶ヶ谷で終わりとする、といったルーティングを想う。

春日神社
市民ミュージアムを離れ先に進む。先ほど歩いた緑地の外周道路を少し南に戻る。途中成行きで西に折れ、先に進むと春日神社。創建時期ははっきりしないが、12世紀頃と言われる。この地・稲毛郡の荘園領主であった九条家(藤原北家の系統)の氏神である奈良の春日大社をこの地に勧請したものであろう。また、神社の隣の常楽寺は奈良時代創建の古刹である、と。

二ケ領用水
神社を離れ西に進むと府中街道にあたる。府中街道を越えるとすぐに二ケ領用水。遊歩道になっている。用水は総延長32キロ。稲田堤の近くの中野島取水口、そして宿河原近くの宿河原取水口より多摩川の水を取り込み、川崎市のほぼ全域を流れる。先日取水口から武蔵小杉まで歩いたばかり。そのうちにメモをまとめておこう。

巌川橋・江川
道を南西に進み、南武線・武蔵中原駅手前で中原街道に合流。中原街道を西に進む。大戸小入口交差点、下新城交差点、巌川橋で江川を渡る。江川は二ケ領用水・根方堀の一部。二ケ領用水は溝の口の近く、久地で根方堀、川崎堀、六ケ村堀、久地・二子堀と4つに分かれる。灌漑面積に応じて用水を分流する施設・久地円筒分水が久地にある。地図をチェックすると、久地不動尊のある緑地、っぽいところに分流施設があった。のような形が見て取れる。

影向寺
橋を渡り千年(ちとせ)交差点に。このあたりは高津区になる。交差点の向こうには丘陵地が迫る。このあたりが多摩丘陵の東端であろう。地形図をチェックすると、溝の 
口から南東に千年交差点に向かって引いた線が丘陵の東端となっている。中原街道を離れ台地に上る。住宅街の中を第三京浜方面に向かって西に進むと影向寺がある。住所は宮前区野川となっている。
影向寺(ようごうじ)。7世紀後半の創建というから、法隆寺とおなじ頃つくられた古刹。平安時代後期に造立された薬師三尊像は重要文化財に指定されている。古代王権の確立期には、このあたりに武蔵国橘樹郡の役所である郡衙、正確には郡司である豪族の私邸を使っていたので郡家と呼ぶようだが、ともあれ郡の中心地があった。先日歩いた柿生の王禅寺が「西の高野山」と呼ばれるように、この寺は「関東の正倉院」とされる。ということもあり、お寺ももっともっと大きな構えを想像していたのだが、静かに、そして落ち着いた、つつましい堂宇であった。どうも中世の頃、時の権力者からの庇護もなく荒れ果てていたようである。15世紀の頃、伽藍再興の勧請をおこない小規模ながら金堂が建立された。深大寺とのコラボレーションもあった、とか。

矢上川
寺を離れ崖上に進む。崖の下には第三京浜が走っている。地形図で見る限り、丘陵を切り崩して道を通している、よう。崖線上を南に下る。神明社脇を進み、丘陵地を下ると再び中原街道に。野川交差点で尻手黒川道路に乗り換え西に進む。中原街道はこの野川交差点で南に折れ、第三京浜に沿って下ることになる。
第三京浜下をくぐり尻手黒川道路を西に進む。尻手黒川道路は矢上川に沿って進む。この道筋はどうも矢上川によって開かれた谷筋のようである。矢上川は東名高速川崎ICの西、というか先回歩いた生田緑地の南あたりを源流とし、下末吉台地を切り開き、高津区から中原区を流れ、幸区の矢上で鶴見川に合流する。

権六谷戸
しばらく進み、野川小入口交差点で尻手黒川道路を離れる。近くに「権六谷戸」がある、という。野川小学校脇を過ぎると道は上りとなる。その手前あたりで車道を離れ、谷地をのんびりと進む。奥まったところには未だに農地が残っている。なんとなく谷戸の雰囲気を楽しむ。権六谷戸の由来は、戦に破れた武士団、といっても20名程度であったそうだが、この地に落ち延びる。が、追っ手の追討を浮け、殆どが討ち取られた。で、ひとりのこった武家が権六と改名し、なくなった仲間の菩提をとむらった、とか。

野川台
谷内から丘陵に戻る。台地上の道を進む。どうも尾根道のようではある。尾根道とはいうものの、車の往来の激しい道筋、ではある。この丘陵は野川台と呼ばれている。北は矢上川、南は有馬川によって開かれた谷筋となっている。野川第二公園、野川第一公園と進む。住宅の脇から僅かに見える台地下の景色を確認しながら北西に進む。しばらく歩くと国道246号線・野川団地入口にあたる。

武蔵野線・梶ヶ谷貨物ターミナル

交差点を東に折れる。台地を下る。下りきったところは矢上川によって開かれた谷筋である。尻手黒川道路を越え、矢上川を渡るとその先には武蔵野線の梶ヶ谷貨物ターミナル。この武蔵野線に最初に出合ったのは確か稲城であった、かと。丘陵のトンネルに入る貨物を見て、このトンネルって、どこまで続いているのだろうか、とチェック。地中を走り、この梶ヶ谷でやっと地表に出ていた。
武蔵野貨物線が出来たきっかけは、山手線新宿近くで起きた米軍燃料貨物車の脱線事故。大都市のど真ん中で大爆発でも起きたら大事、ということで、その代替線として武蔵野線が計画された、とか。貨物だけでよかったようだが、沿線住民への説得材料として「人」も運びます、ということで、計画が承認された、といったことをどこかで聞いたかと思う。路線は横浜市の鶴見駅から首都圏をぐるっと周り千葉県船橋市の西船橋まで。そのうち旅客サービスは府中本町から西船橋駅までが定期サービス区間となっている。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000 /50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)


馬絹古墳・馬絹神社
武蔵野線を越えると道は再び台地への上りとなる。国道246号線に沿って坂道を上る。目指す馬絹古墳は馬絹神社の隣にある。馬絹古墳;幅33m、高さ6mの円墳。7世紀後半のものであろう、と言われている。古代朝鮮半島の古墳様式の影響を強く受けているも
のである、と。
古墳を離れ馬絹神社に。アプローチを誤り、一度台地を下りることになった。後からわかったのだが、古墳から時計の逆回りに進めば割りと簡単に神社に行けたよう。ともあれ、一度台地を下り、神社正面から入ることに。結構構えの大きなお宮さま。長い石段を台地上まで進むと本殿。昔は女躰権現社と呼ばれていた、とか。明治に八幡社、熊野社、三島社、白山社が集まり「神明社」、と。馬絹神社とよばれるようになったのは、1986年のことである。
薄絹を身にまとった女性が杜に消えた。それをおまつりしたのが女躰権現社のはじめ、とか。ちなみに馬絹の由来であるが、この地に馬の放牧地があり、「まきの」と呼ばれていたのが、いつしか「まきぬ」になった。武将の馬に掛けた絹がこよなく美しかった、ため、とか。例によって諸説あり、これといった定説は、ない。


女体神社って、散歩の折々に出会う。昨年だったか、大田区の東嶺町を歩いていたときであった白山神社が、もともとは女体神社と呼ばれていた。また先日の埼玉・見沼散歩のときにも氷川女体神社に出会った。その艶かしき名前ゆえに、少々の驚きも覚えたのではあるが、よくよく考えれば「男体(山)」って名称は結構あるわけで、逆があってもそれほど不思議ではない、ということではあろう。
氷川女体神社の祭神は奇稲田姫命(クシイナダヒメノミコト)。素戔鳴尊(スサノオノミコト)が八頭大蛇退治のとき助けて妃にした女性。ちなみに、大宮氷川神社は、もとはスサノオノミコトだけを祀る男体神社であった。日光の男体山には男体権現こと大己貴命(おおなむちのみこと)、女峰山の御神体は田心姫命(たごりひめのみこと)が女体権現として祀られる。筑波山には西の峰に伊弉諾命が男体権現として、東の峰には伊弉冉命が女体権現として祀られる。と、あれこれメモしたがいまひとつ、よくわかっていない。そのうちに調べてみようかと思う。ついでのことながら、筑波の由来は、山頂で琴(筑)を弾いたところ、海の波が山まで届いたから、とか。この馬絹神社をもって本日の予定終了。国道246号線に戻り、国道に沿って東にすすみ田園都市線・梶ヶ谷駅から一路家路へと急ぐ。

大山散歩

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ひさしぶりにちょっとした山登り。散歩は大好きではあるが、山登りはそれほど好みではない。だらだらといつまでも歩くのは気にはならないのだが、急勾配の山道を、息を切らし大汗をかいて、といったことは、できることなれば御免蒙りたい。これが本心である。ということで、丹沢山系の霊山・大山は前々から気にはなりながらも躊躇っていた。
なぜ大山に登る気持になったのか、実のところ、よくわからない。いつもより少し朝早く起きたこと、そして、これといって出かけるところが思いつかなかった、だけのような気もする。ともあれ、標高1252mの霊山・大山に出かけることにした。(水曜日, 9月 12, 2007のブログを修正)



本日のルート;小田急箱根線・伊勢原駅>(神奈川中央交通)>大山ケーブル駅バス停>大山ケーブルカー追分駅>下社駅>阿夫利神社下社>登山門>蓑毛裏参道分岐(16丁目)>ヤビツ峠分岐(25丁目)大山山頂>阿夫利神社本社>ヤビツ峠分岐(25丁目)>イタツミ尾根>ヤビツ峠>蓑毛バス停>(神奈川中央交通バス)>小田急線・秦野駅ケーブルカー追分駅>下社駅>阿夫利神社下社>登山門>蓑毛裏参道分岐(16丁目)>ヤビツ峠分岐(25丁目)大山山頂>阿夫利神社本社>ヤビツ峠分岐(25丁目)>イタツミ尾根>ヤビツ峠>蓑毛バス停>(神奈川中央交通バス)>小田急線・秦野駅

小田急線・伊勢原駅
小田急線で伊勢原駅に。イメージではもう少々大きな街かとは思ったのだが、思いのほか小じんまりとした駅前ではあった。北口バス停から神奈川中央交通バスで大山に向かう。バスの中で閑にまかせ、「観光お土産ガイドマップ」を眺める。駅で手に入れたものである。

道灌が謀殺された粕屋館をかすめる
バス道の近く、東名高速を交差してすこし上に「太田道潅の墓」の案内。どうせのこと、武蔵のいたるところにある道潅由来の地のひとつ、であろうと気に留めることはなかった。が、メモする段階でチェックしていると、この地ってあの「粕屋」の地。道灌が謀殺された扇谷上杉の館・粕屋館の地であった。粕屋って伊勢原であったのだ。が、今となっては後の祭り。前もってあれこれ調べない、ケセラセラ散歩の習慣ゆえの慙愧の念。仕方なし。

大山ケーブル駅バス停
大山上粕屋線をどんどん山に入る。山容がせまる。昨日、雨が降った名残か、山腹は霧で包まれている。果たして山に登れるのか、などと思い悩むうちに「大山ケーブル駅バス停」に着く。伊勢原駅を出て、20分程度であった。そうそう、忘れないうちに伊勢原の地名の由来。どうせのこと、お伊勢さんに関係あるだろう、とは想像がつく。チェックする。江戸時代、伊勢出身の人達がこの地を開墾し、そこに伊勢神宮の分社を設けた、と。現在の伊勢原大神宮がそれ。駅から北に進み、国道246号線手前に神社はある。

矢倉沢往還
ついでのことながら、この国道246号線は昔の矢倉沢往還。江戸の赤坂御門を起点として、青山、渋谷、三軒茶屋より瀬田を経て、多摩川を二子で渡り、溝ノ口・長津田・下鶴間・国分・厚木・愛甲・伊勢原・曽屋・千村・松田惣領・関本と進み足柄峠手前の矢倉沢関所に至る脇街道である。タバコ、生糸など相模地方の産物を江戸に送る道でもあった。
矢倉沢往還は江戸時代中期以後、江戸庶民の大山詣での道として盛んに利用され「大山街道」、「大山道」と呼ばれるようになる。もっとも、鎌倉街道ではないけれども、大山に至る道はすべて大山道と呼ばれるわけで、この矢倉沢往還だけが大山道ということでは、ない。「大小の岐路、いやしくもその一端が大山に達するものは、大山道と名付く。その岐路に至って、人の迷うところには必ず、大山道の石標を設立せり。」と、大山史に言うことであろう。
(2008年11月、紅葉見物をかねて足柄道を歩く。途中矢倉沢関所も訪れる。足柄峠からの富士の眺めは見事)

ケーブルの駅に向かう
バス停からケーブルの駅に向かう。お土産店、旅館が軒を並べる参道を進む。石段の脇には「**講」といった石碑が多い。大山詣の御師の「ブランド名」であろう、か。御師(おし)とは、ある特定の寺社に属し、信者を案内し、参拝・宿泊の手配をするツアーガイドといった人。大山を山伏修行の地としていた修験者たちは、徳川家康の命により山を下りる。修験者は小田原北条氏とむすびつき、僧兵といった性格ももっていたので、そのことに家康が危惧の念を抱いた、ということであろう。この命により修験者は蓑毛の地などに住まいすることに。で、これらの修験者・僧・神職が御師となり、庶民の間に大山信仰を広め大山参拝にグループを組織した。それを「講」という。江戸時代には幕府の庇護もあり、大山講が関東一円につくられる。最盛期の宝暦年間(1751年から64年)には、年間20万人にも達した、とか。

豆腐が名物
参道には豆腐料理店も目につく。大山名物、とか。いい水があった、ということもさることながら、坊さんといえば「豆腐」でしょう、といったこと、そして、大量にかつまた保存に適した食べ物としては「豆腐」がベストチョイスであったのだろう。なにせ、上にメモしたように年間20万人の参拝客の食事を賄う必要があったわけだ。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)


ケーブルカーの途中に大山寺

参道を登るとケーブルカーの追分駅。待ち時間は少々あったが、乗り込むと下社駅まではほんの6分程度。途中、お不動さんへの駅があったのだが、その有難さがいまひとつ分からず途中下車することもなく進む。このお不動さんが大山寺。天平勝宝7年(755年)良弁僧正の開山。良弁僧正って、東大寺の建立に尽くし、初代別当になったという高僧。大山山頂にある大山阿夫利神社・大山石尊大権現と相まって、山全体が神仏習合の信仰対象として崇拝されてきた、と。

阿夫利神社下社
大山ケーブルカー追分駅で下車。阿夫利神社下社に向かう。拝殿にのぼる石段の横に茶店。お昼時でもあり、おむずびを買い求め先に進む。鳥居を抜けるとひろびろとした境内。案内をメモ;「御祭神は大山祗神(おおやまずみのかみ)・高オカミノ神(たかおがみのかみ)・大雷神(おおいかずちのかみ)。大山は、またの名を「あふり山」という。あふりの名は、常に雲や霧を生じ、雨を降らすのでこの名が起こったといわれる。標高は、1,251mで、関東平野にのぞんで突出している雄大な山容は、丹沢山塊東端の独立峰となっている。
阿夫利神社は、古代からこのあたりに住む人たちの心のよりどころとなり、国御岳(くにみたけ、国の護りの山)・神の山としてあがめられてきた。山野の幸をつかさどる水の神・山の神として、また、海上からは羅針盤をつとめる海洋の守り神、さらには、大漁の神として信仰をあつめると共に、庶民信仰の中心として、今日に及んでいる。
山頂からは、祭りに使ったと考えられる縄文時代(紀元前約1,000年頃)の土器片が多く出土していて、信仰の古さを物語っている。仏教が伝来すると神仏習合の山となり、阿夫利神社は延喜式(えんぎしき)内社として、国幣(こくへい)の社(やしろ)となった。
武家が政治をとるようになると、代々の将軍たちは、開運の神として武運の長久を祈った。祭(ひきめさい)・簡粥祭(つつがゆさい)・納め太刀・節分祭・山開きなど、古い信仰と伝統にまもられた神事や、神に捧げられる神楽舞(かぐらまい)・神事能・狂言などが、昔のままに伝承されている。全山が四季おりおり美しい緑や紅葉におおわれ、神の山にふさわしい風情で、山頂からの眺望もすばらしい。都市に近いため、多くの人たちに親しまれ、常に参詣する人の姿が絶えない」、と。大山祗神(おおやまずみのかみ)って、イザナミノミコトの子でコノハナノサクヤヒメの父、である。

登山口
本堂の左手に登山口の案内。先に進む登山口にあった案内;「当阿夫利神社は、海抜1,252メートルの山頂に本社があり、現在地の下社御拝殿は700メートルに位置し古くより信仰活動の中心霊場。神仏習合時代には石尊大権現とも称せられ堂塔はその威容を誇った。が、安政元年12月晦日と明くる正月2日の二度にわたる山火事により焼失。仮殿が再建。明治33年に下社御造営事業が着手。本殿のみ新装。拝殿は手がつかぬまま。で、昭和52年に竣工を見た」、と。 
平安時代から朝廷の庇護(ひご)を受けていた大山信仰であるが、武士の世になっていよいよ盛んになる。源頼朝をはじめ、足利尊氏、小田原北条氏など多くの武士もこの山を信仰した。源頼朝は、天下泰平・武運長久を願って阿夫利神社に太刀を奉納している。武家政治の時代には将軍達は開運の神として武運長久を祈る。「時により すぐれば民の なげきなり 八大竜王 雨やめたまえ」。鎌倉三代将軍の実朝が大山の山神に献じた歌と言われている。勿論、大山が全国的に有名になったのは江戸時代。庶民の間に大山信仰が広まってから、ということは上でメモしたとおり。

山頂への登山口は鳥居と片開きの扉、そしてその向こうには、急峻なる石段が続いている。登山口にあった案内;「明治初年の神仏分離までは、この登拝門は夏の山開き大祭(7月27日~8月17日)期間以外は固く閉ざされ、山頂への登拝は禁止されていた。登拝門の鍵は遠く元禄時代より、280年に及ぶ長い間、大山三大講社の一つである東京日本橋のお花講が保管し、毎年7月27日の夏開きには、お花講の手により扉は開かれる慣例となっている。
その後、明治20年には登拝者の増加に伴い、春山開き大祭(当時は4月5日~15日)が新たに設けられ、この期間の山頂登拝が出来得ることとなり、山頂登拝の規制は徐々にゆるめられる。更に、みのげ・日向・ヤビツ峠方面等の表参道以外よりの登山道が開かれると共に、昭和40年には国定公園に指定をされ登山者は急激に増加したので、現在では年間を通して常時庶民の山として登拝門は開かれるようになった。然し、その結果は、必然的に登拝門の伝統的意義と性格が失われてしまったので、ここに往時をしのびつつ登拝門のもつ史跡としての重要性を考え合わせて、一枚の扉のみを閉じて片開きといたし、その名残をとどめることした」と。

登山開始
さて、散歩、というか、本格的な登山開始。上社に向けて登山をはじめる。スタート地点が1丁目。頂上は28丁目となる。1丁目から3丁目までは急な石段。一気にのぼる。3丁目からはすこしゆるやか。6丁目に千本杉。杉の中を進む。岩の転がる山道を進む。昨日の雨により石が滑りやすくなっている。危ないことこの上なし。上りはまだしも、下りはこの道は避けたい。山頂から西にヤビツ峠に向かう道か、東に見晴台から日向薬師に下りるか、ふたつのルートがある、どちらかの尾根道を下ることにすべし、と。
8丁目には夫婦杉。樹齢600年を越す杉の大木。樹林の中を登る途中、時折、眺望の開けるところがある。が、天気が悪く見通しがきかない。霧というか水蒸気というか、ともあれ下界は白煙に包まれ、なにも見えない。16丁目で蓑毛からの裏参道と合流。石尊大権現と彫られた大きな石柱がある。
20丁目に富士見台。天気がよければ富士山の眺望が素晴らしい、と聞く。本日はなにも見えない。足場は依然よくない。雨で濡れ、滑りやすい。登山になれない若者が息も絶え絶えになりながら上っている。散歩で鍛えた我が身としては、必要以上に軽快なるふりをして、お先に失礼する。25丁目でヤビツ峠からの道が合流。ここまでくれば山頂までは10分ほど。鳥居を2つくぐると、28丁目・山頂に到着。のぼりはじめて1時間程度であった。

山頂
山頂には阿夫利神社・上社がある。山小屋風の社にて、少々情緒に欠ける。山小屋なのか退避小屋なのか、よくわからないが、小屋のまわりで食事をするパーティが多い。わたしゃ、ひとり旅。ひとりでしばらくぶらぶら。天気がよければ360度の眺望、とはいうものの、本日はまったくの霧の中。天気がよければ、真鶴半島と伊豆半島、小田原の海。利島、大島、三浦半島、房総半島。都心、多摩、丹沢山塊、富士山がずらりと見える、はず。まったくもって残念至極。
景色はあきらめ、お世辞にもホスピタルティ精神があるとは思えない売店で、これまたお世辞にも美味とはいえないお蕎麦を食べ、下山ルートを検討。「ヤビツ」という名前に惹かれてヤビツ峠ルートに決める。ヤビツの地名の由来は、武田と北条の合戦がこのあたりで行われ、そのときの矢櫃が発見された、とか、アイヌ語から来るとか、あれこれ。

ヤビツ峠ルートを下る

山頂から下る。下りは怖い。慎重に歩を進める。ヤビツ峠分岐まで戻り、ヤビツ峠に続くイタツミ尾根をひたすら下る。見晴らしのいいガレ場や尾根上の急激な下りなどを繰り返し進む。岩が転がる道と比べれば圧倒的に楽な道。この選択は正解。40分程度あるいただろうか、道はゆるやかになり、小さな広場に。ここを過ぎればヤビツ峠はすぐ。

蓑毛バス停


ヤビツ峠から本数はすくないもののバスは出ているよう。が、蓑毛まで山道を下ることに。ヤビツ峠の広場からは、蓑毛方面への案内に従い登山道を下る。杉林の中、九十九折れの道をどんどん下る。穏やかな下り。日陰が多いのか、薄暗く日暮れの、よう。ヤビツ広場から40分程度あるいただろうか、下りついたあたりから舗装された林道となる。沢沿いの林道をしばらく歩くと蓑毛バス停に。秦野駅までのバスの旅。途中、いつだったか秦野・弘法山散歩の折り歩いた丘陵を眺め、少々の感慨に浸る。秦野駅で小田急に乗り、一路家路へと急ぐ。
秩父 ろく札所巡りのメモもこれで6回目。5回までは昨年11月から12月にかけてメモした。その後、ことしの春先に2回に分けて札所を巡り、秩父巡礼は一応結願とはなっていたのだが、なんとなくメモをする気が起きなかった。理由は、春先の2度にわたる秩父行きは、本来の目的である「のんびり散歩」から少々離れ、スケジュール優先の仕切りとしていたため。歩くことは歩くのだが、段取り優先でバスを使ったり、電車を使ったり、あまつさえ、最終回など、ついに車を使っていた。
1泊2日のスケジュールを含め、秩父には既に延べ6日ほど秩父に来ていたように思う。このままではあと何回かかるやら。秩父地域経済に少々貢献するのはいいのだが、それにしても、なあ、といった気持ちもあった。また、いままでの巡礼道は、それなりに効率的に廻れる道順であったのだが、残された15ほどの霊場は、札所20番代はまだしも、30番代になると、あちらこちらとお寺が点在し、とてものことバスを利用しなければ、いつ結願となるかわからない。そういった事情もあった。ともあれ、なんとか、あと2回くらいでおさめたい。その思いが強く、バスや電車を乗り継いでの「旅」となり、散歩のメモ、というには少々面映い、といった心根ではあった。
そういった折も折り、秩父往還、そしてまた、川越往還を歩き秩父に入ることにした。昔の人と同じく、峠越えをして秩父札所に入る、って体験をしてみたわけだ。この往還のメモも済ませ、ブログにアップ、とは思ったのだが、なんとなく納まりがよくない。抜けている霊場メモが気になった。やはりメモしておこう、と相成った。薄れ行く記憶に抗いながらのメモ。どこまで思い出すものやら、あまり自信がない。ともあれ、散歩のメモをスタートする。

今回は1泊2日。1日目は秩父鉄道沿いの札所。26番から30番まで。二日目は、1日目の仕上がり次第できめることに。西武秩父駅に到着。そこから秩父鉄道・お花畑駅に。ここには何度きたことやら。で、秩父鉄道にのり、最初の目的地30番札所・法雲寺のある白久駅に。


本日のルート;(初日)30番札所・法雲寺>29番札所・長泉院>28番札所・橋立寺>27番札所・大淵寺>26番札所・円融寺>12番札所・野坂寺>()>19番札所・龍石寺>20番札所・岩之上堂>21番札所・観音寺>
(2日目)本日のルート;31番札所・観音院>32番札所・法性寺

(初日)


30番札所・法雲寺
白久駅から谷津川に沿って歩く。札所は山の斜面を活かしたつくり。正面に「浄土楽園」と呼ばれる庭園。沢の水を引き入れた池。この「心字池」を渡り石段を登る。脇に石仏。観音堂は、この池の後方一段高いところに建つ。本尊は如意輪観音。楊貴妃観音とも呼ばれる。寺伝によれば、1319年(元応元年)鎌倉・建長寺の高僧が、唐の玄宗皇帝が楊貴妃の冥福を祈り彫った像をこの地にもたらした、とか。
ご詠歌;「一心に南無観音と唱うれば 慈悲ふか谷の誓いたのもし」

法雲寺の次は29番札所・長泉院。最寄りの駅は秩父鉄道・武州中川駅。距離は7キロ強。この間を歩くとなると2時間弱かかるよう。スケジュール優先の今回の旅、迷うことなく電車を利用する。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)


29番札所・長泉院
この寺は石札堂とも呼ばれる。1234年、性空上人が秩父巡礼の折に納めたという古い石札がある、と。性空上人が秩父に来たことはなかったことは、昨年散歩の折にメモしたとおり。伝説は伝説として物語を楽しむべし、と。台座の上に石の延命地蔵。 本堂正面の欄間に、寺宝の一つである板絵額がある。葛飾北斎52歳と署名入りの楼花の絵であるとか。
先日、会社の同僚と信州の川中島を歩いたとき、小布施に行った。小布施は北斎が83歳のときをはじめとして計4回訪ねてきている。江戸で知り合った、小布施の商人・高井鴻山を訪ねてのこと。小布施にある北斎館で印象的であったのは、「天、我をして五年の命を保たしめば真正の画工となるを得べし」という言葉。90歳でなくなったが、100歳まで生き れば、どういった傑作を描き出したのであろう。それにしても改名31回、転居92回、破天荒な人生であった。境内には古木のしだれ桜。本堂の前方に紅葉大権現。豊川稲荷もあった。寺伝によれば、小笹の茂る岩屋の中の観音像を見出し、お堂を建てた、それがこのお寺さまのはじまり、とか。
ご詠歌;「わけのぼりむすぶささの戸 おしひらき 仏をおがむ身こそたのもし」

長泉寺から28番札所・橋立寺には歩いて向かう。山道を進み、浦山川を渡る。山間には浦山ダム。鄙には稀な郷土資料館。ダム建設とのバーターであろう、と。予想通り、郷土資料館でもあり、浦山ダムのあれこれ展示会場でもあった。山道にとりつき先を急ぐ。しばし歩くと、道に沿って、というか、道の下にそれらしきお堂がちょっと見える。道の脇道から岩山を迂回すると橋立寺に

28番札所・橋立寺
朱塗りの観音堂は石灰岩の岩壁の下に建つ。岩壁は高さ65mもあるだろうか。古代、ここに人が住んでいた、とも。ために、岩陰遺跡とも呼ばれる。本尊は馬頭観世音。札所ではここだけ。鎌倉時代の逸品、と。馬頭観音は六観音・八大明王のひとつ。六観音って、聖観音、十一面観音、千手観音、馬頭観音、如意輪観音、准胝観音。これが真言系。天台系では准胝観音の代わりに不空羂索観音を加えて六観音とする。八大明王とは不動・降三世・大笑(軍荼利)・大威徳・大輪・馬頭・無能勝・歩擲の各明王の総称。
堂の右手に馬堂。左甚五郎作という白馬の像がある。ここには県指定天然記念物の橋立鍾乳洞がある。『秩父回覧記』には弘法大師にまつわる縁起が書かれている。 弘法大師が高野山に居た頃のこと。金胎両部の浄土が日本にあるはず、と。ある翁より、「秩父の橋立に行くべし」との御託宣。大師、この地に。再びかの翁が現れる。その案内で洞窟に。金胎の諸仏の姿を感じる。この地が金胎両部の浄土であると確信。馬頭観音を刻んで、堂宇を建立した、とか。この洞窟が橋立鍾乳洞である。ちなみに、金胎両部とは、金剛界曼荼羅と胎蔵界曼荼羅のこと。密教独特の宇宙観のことである。この橋立観音は江戸時代には大宮郷の本山修験である今宮坊の持寺。明治の修験道禁止の頃まで修験道が続いていた。
ご詠歌;霧の海たちかさなるは雲の波 たぐいあらじとわたる橋立

橋立堂を離れ、県道73号線を下る。秩父鉄道と交差し、影森駅方向に向かう。国道140号線にそって走る小道を進み、成行きで右折し進むと、大淵寺。

27番札所・大淵寺
この寺の開基伝説にも橋立堂と同じく弘法大師が登場する。昔々、あるお坊さんがこの地に来た。が、病気で足が動かなくなる。たまたま通り合わせたのが弘法大師。観音像を彫って与える。その像を拝むとあら不思議、みるみる病が癒えた、とか。行基と双璧をなす開基伝説の主人公。29番札所・長泉院の性空上人ではないけれど、伝説は伝説として「楽しんで」おこう。本堂前に清水。飲めば長生きするとの言い伝え。境内には不動明王もまつられている。
このお寺には高さ16mもの観音像がある。高崎・大船とともに、関東の三大観音と呼ばれる。左手に蓮華の代わりに剣をもつ。つくられたのが戦前のこと。軍国主義華やかなりし頃のことでもあり、蓮華の代わりに剣をもつ。ために、護国観音、とも。と、見てきたようにメモしたが、実際に見たわけではない。この観音様は、少々山の中にある。20分程度歩くわけで、わかっておれば歩いたのだろうが、どうしたことか、気がつかなかった。大淵寺から護国観音、山腹の岩井堂、琴平神社をへて26番札所・円融寺に抜ける道がある。琴平ハイキングコースと呼ばれ、尾根道散歩が楽しめるとのことではあった。
ご詠歌;「夏山や しげきがもとに露までも こころへだてぬ月の影森」

26番札所・円融寺
大淵寺を離れ、秩父鉄道・影森駅を越え、成行きで右折。円融寺に着く。この寺には、寺宝として守られる鳥山石燕作の「景清牢破りの絵馬」と、石燕の門人石中女が13歳のとき描いたという「紫式部石山寺秋月の図の絵馬」が保管されている。県指定文化財の牢破りの絵馬は、近松門左衛門の浄瑠璃、『出世景清』を題材にしたものであろう、か。景清って、平景清とも藤原景清、とも。俵藤太こと藤原秀郷の子孫。平家方の武将。その勇猛さゆえに悪七兵衛景清と呼ばれる。屋島の合戦でその勇猛ぶりを示すも、壇ノ浦の合戦で破れ、捕らえられ、獄中で断食し果てた、と。が、景清牢破りの段ではないけれど、どういうわけか、全国に景清を巡る伝説が残り、ために、浄瑠璃や歌舞伎でもおなじみの人物となっている。または、浄瑠璃や歌舞伎で有名になったために全国に伝説が広まったのかもしれない。ま、いずれにしても、景清の何が民衆の琴線に触れたのであろう。そのうちに調べてみたい。鳥山石燕は狩野派の絵師。「画図百鬼夜行」といった妖怪絵師として勇名。ユーモアのある石燕の妖怪は水木しげるなどにも影響を与えた、と。
ご詠歌;尋ねいりかすぶ清水の岩井堂 こころの垢を すすがぬはなし(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)


円融寺の次は12番札所・野坂寺。段取り優先の今回の散歩、というか旅のため、影森から秩父鉄道に乗り、西武秩父まで進む。西武秩父でおり、駅前の野坂町を進み、国道140号線に。南に少し進むと西武秩父線と交差。ガードをくぐり、西武線に沿って東に進むと野坂寺に。秩父への行き帰り車窓から何度も眺めたお寺さま、であった。

12番札所・野坂寺
参堂を通ると黒塗りの楼門。明治末期の火災で寺は焼失。山門だけは残る。楼上には阿弥陀・釈迦像・十三仏像が安置される。不動明王、釈迦如来、文珠菩薩、普賢菩薩、地蔵菩薩、弥勒菩薩、薬師如来、観世音菩薩、勢至菩薩、阿弥陀如来、阿しゅく如来、大日如来、虚空蔵菩薩。これが13仏。階下両脇には十王が。地獄を統べる10人の王様。閻魔王が代表的、というか閻魔様以外、我々門外漢にはポピュラーでは、ない。この十王が現れることにより、他界にバリエーションが生まれた、と。この思想は江戸期になって13仏信仰に結実する。
本堂に安置する本尊は聖観世音。一木造り。藤原時代の作と言われている。昔、甲斐の国の絹商人がこの地で山賊に襲われる。神仏に助けを求め、南無観世音を唱え続ける。と、お守りが輝き、賊どもは眼を射られて退散。観音の功徳をありがたく思い、この地に堂宇を建て、観世音まつった。これがこの寺の草創、と。本堂の正面に童顔の六地蔵。本堂の右手にお堂。子授け観音と、呑龍上人が祀られている。呑龍様は戦国から江戸期の浄土宗の僧。親孝行ゆえに禁を犯した子供を手厚く保護したことから、「子育て呑龍」と呼ばれ民衆から尊敬された。
ご詠歌;「老いのみに 苦しきものは野坂寺 今おもいしれ 後のよのみち」

野坂寺を終え、はてさて次はどこに、と。今夜の宿は寺尾地区。荒川の西岸、札所22番・童子堂の近く。であれば、ということで宿までの道すがら、札所19番から21番までをカバーしよう、ということにした。すでにお昼もとっくに過ぎている。距離的には丁度いいかと。秩父鉄道に乗り、どちらかといえば最寄りの駅、と言えなくもない大野原の駅に。駅をおり、荒川方面に進む。大畑町に19番札所・龍石寺。

19番札所・龍石寺
砂岩の小山の上に観音堂が建つ。本尊の観音様は室町の作、と。ここにも弘法大師にまつわる由来。日照りで苦しむ人々の前に弘法大師が訪れる。雨乞いの儀式。大岩が二つに割れ、龍が天空に舞い上がる。大雨が降り、地が潤い、豊かな作物が、といったお話である。高い台の上には身代わり地蔵も。三途の川の奪衣婆をまつる三途婆堂も。『地蔵十王経』中に、三途の川や脱衣婆が登場するわけで、上でメモした十王信仰という、地獄の王にその慈悲を願う信仰のことである。
ご詠歌;「あめつちを動かすほどの龍石寺 参いる人には利生あるべし」

次の目的地である20番札所・岩之上堂は荒川の対岸。秩父橋を渡り荒川に沿って少し南に下ると荒川を望む崖の上に札所がある。

20番札所・岩之上堂

札所中最古の建物。荒川に臨む崖の上にある。本尊の聖観音は藤原時代の作。札所中最古の建物。堂内に「猿子の瓔珞」が垂れ下がっている。千疋猿とも呼ばれている。くくり猿をたくさんつくり千羽鶴のように紐をとおしたものである。子の健やかなる成長を祈って母親がつくったもの、とか。観音堂の裏の方に熊野神社があった。
ご詠歌;苔(こけ)むしろ しきてもとまれ 岩の上 玉のうてなも くちはつる身を

石段をのぼり、道にでる。寺尾地区を歩き、県道72号線に。小田蒔中学校、小田蒔小学校の前を進むと道脇に21番札所・観音寺。

21番札所・観音寺
平将門が戦勝祈願のため矢を納めたので矢納堂とも呼ばれる。また、もっと古くは日本武尊が東征の折、ここに立ち寄り、鏑矢を納めたから矢之堂、とも。なおまた、八幡大菩薩の放った矢がここに落ちたためこの名がついた、とも。なおなお、またまた矢納村(現児玉)にあったお寺をここに遷座したので村の名を取って矢納堂、それが訛って矢之堂になったという説も。由来縁起は例によって、あれこれ説があり、定説はない。本尊は聖観音。大正12年の火災からも逃れ、ために「火除けの観音様」とも呼ばれる。行基作との伝えあり。またまた行基が登場。境内には延命地蔵、そして八幡様も。
ご詠歌;梓弓(あずさゆみ) いる矢の堂にもうできて ねがいし法に あたるうれしさ

日もだいぶ暮れてきた。県道72号線を南に進む。しばらく進むと県道を離れ荒川岸に。桜ゴルフ練習場あたりから、台地を荒川に向かってくだる。荒川の崖上といった雰囲気の場所にある宿に入り、本日の予定はこれで終了。散歩から少々時間がたっており、記憶も断片的にしか残っていない。メモはとっとと済ますべし、とあらためて思い直す。

宿で一泊。翌日はどこに、と検討。あれこれ地図を眺め、結局は小鹿野地区、というから西北方向。国道299号線を延々と進めば、志賀坂峠を越え佐久の方面に繋がっている。どうしたところでバスを使わなければ行けそうもない。どこからバスに乗るかとチェック。西武秩父に戻るのもなんだかなら、と調べる。根拠はないのだけれども、国道299号に出ればなんとかなろう、と宿から一直線に長尾根丘陵を越えて国道にでることに。で、就寝。

(2日目)
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宿を出て荒川の段丘崖をのぼり県道72号線に。県道を少し北に戻り、長尾根丘陵にのぼる道に。たまに車も通る道。ジグザクの道をのぼり尾根を越え、長尾根丘陵のその先にある風景をはじめて目にする。畑地が広がるのんびりとした風情。蒔田川を越え、国道299号に。運良く尾根から下ってきた道が国道と合流するところにバス停。また、運良く、ほとんど待つ間もなくバスが来る。
バスに飛び乗り、小鹿野に向かう。これが結構長い。10キロほどもあるだろう。山裾を走り、千束峠を越え、山を下り赤平川を渡り、小鹿野用水と交差するあたりで県道を離れ、街中に入る。小鹿野役場、小鹿野車庫を越え、黒海土バイパスで再び国道に合流する。31番札所・観音院への最寄りのバス停・栗尾はすぐ近く。バスの車窓から見える、稜線がギザギザの山は両神山であろう。
バス停から札所まで山道を歩く。4キロ弱はあろうか。山道といっても舗装道。岩殿沢にそって進む。光珠院を越え、しばらく進むと地蔵堂。新しいお寺様であろうかと思う。が、山腹に広がるお地蔵さんには少々圧倒される。トンネルを抜け、百観音の道案内とともに31番札所・観音院に進む。

31番札所・観音院

道路脇に山門。日本一といわれる石の仁王様。4mもあるだろうか。山門からは観音堂に向かって石段を登る。296段あるという。般若心経276字と、普回向20字の合計の数。普回向20字とは「願以此功徳  (がんにし くどく)普及於一切  (ふぎゅうお いっさい)我等與衆生 (がとうよ しゅじょう)皆共成佛道 (かいぐ じょうぶつどう)のこと。お坊さんが言う、「願わくば この功徳をもって普(あまね)く一切におよぼし 我らと衆生と皆ともに仏道を成(じょう)ぜんことを;十方三世一切(じっぽうさんぜいっさい)の諸仏諸尊菩薩摩訶薩(しょぶつしょそんぼさつまかさつ) 摩訶般若波羅蜜(まかはんにゃはらみつ)」のあの台詞である。一段づつ、お経を唱えながら登っていくと、厄除けのご利益があるとも。
杉林の中を進む。観音堂は昭和47年に再建されたもの。境内には、大岩壁から落ちる滝がある。清浄の滝。滝下には不動明王。弘法大師が彫ったとされる磨崖仏も。西奥の院に石仏群や胎内くぐり、東奥の院には芭蕉句碑とか馬つなぎ跡なとがある。ここは修験者の修行の地であった、とか。
ご詠歌;みやま路を かきわけ尋ね ゆきみれば わしのいわやに ひびく滝つき

観音院を離れ次の目的地・法性寺に。来た道を戻り、小鹿野の市街まで戻る。小鹿野車庫からバスが出ている、と。バス停に着き時刻表をチェック。2時間だか3時間だか、バスが来ることは無い。枝線であり、確か町営バスであったかと。はてさて、どうしたものかと。できれば今日中に33番札所・菊水寺も廻っておきたい、ということもあり、法性院まではタクシーで行くことに。こうなってしまっては、散歩なのか、スタンプラリーなのかわからなくなってきた。メモを書くのを躊躇っていたのは、こういった「歩き」にもとる行動を散歩とすることへの逡巡のため。ともあれ、タクシーで法性寺に(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)


32番札所・法性寺
道脇に鐘桜門。79段の石段をのぼる。本堂には薬師如来。本堂の前に舟をこぐ観音像を描いた額。ために、この寺は、「お船観音」とも呼ばれる。観音堂は本堂から更に上に、100mほど石段というか、岩を削った山道をのぼったところにある。宝永年というから、1707年につくられた。舞台造り。観音堂の背後には大きな岩窟。ここは長享二年(1488)当時、般若岩殿と呼ばれた第十五番札所である。縁起では行基菩薩が観音像を彫っておさめた、と。また寺伝には、弘法大師も登場する。 『大般若経』六百巻を書写し納めたとか。
この札所の寺宝は「長享の札所番付」。33札所までしかない、ということは初期の頃の資料。今回歩かなかったのだが、奥の院のある山上の岩場が大きな船の舳先の形をしている、と。ために、岩船山と。またここに建つ観音様を、岩船観音と呼ぶ。
ご詠歌;ねがわくわ はんにゃの舟にのりをえん いかなる罪も浮かぶとぞきく

法性寺を離れ次の目的地は33番札所・菊水寺。お寺の前まで町営バスは来るようだが、なにせ数時間待ちといった時間帯。とてものこと、待っているわけにもいかない。歩きはじめる。どの程度あるいただろうか、長若交差点に。駒木野方面へのバス停がある。が、これって残念ながら南に進む。菊水寺は国道299号線方面というから、どちらかといえば北方向。国道299号線・松井田バス停に到着。残念ながら日没時間切れ。33番札所・菊水寺は次回に廻す。バス停で西武秩父行きのバスを待ち、一路家路へと急ぐ。
秩父札所巡りもほぼ歩き終え。あとは、皆野町の33番札所、吉田の里の34番札所、そして長尾根丘陵上の24番札所、25番札所を残すのみ。なんとか今回で終わりにしよう、と同僚と作戦会議。今回のメーンエベントは長尾根丘陵の江戸巡礼古道を歩くこと。少々不便な33番、34番をカバーし、残り時間で丘陵地帯を歩くにはバスでは少々心もとない。如何せん便数が少なすぎる。ということで今回は車を使い、東京を離れ秩父に向かった。
秩父市街に入り、国道140号線を北上。皆野町役場のあたりから国道を離れ、荒川方面に左折。栗谷瀬橋を渡り、荒川西岸に。少し南に戻り、国神交差点で県道44号線に移る。日野沢川に沿って皆野の町を北東に進む。深沢橋、根古屋橋を越え、どんどん進む。国神交差点から5キロ弱程度だろうか、34番札所・水潜寺に着く。ちなみに根小屋って、先日津久井湖散歩のとき案内版でわかったのだが、山城の裾野の広がる武家屋敷のこと。このあたりもなにかそれらしき館でもあったのだろうか。少なくとも秩父の横瀬町の根古屋は北条氏の根古屋城があった、とか。(金曜日, 9月 14, 2007のブログを修正)



本日のルート;34番札所・水潜寺>33番札所・菊水寺>24番札所・法泉寺>25番札所・久昌寺

34番札所・水潜寺
百観音の結願寺。百観音って、西国33観音霊場、坂東33観音霊場、そしてこの秩父34観音霊場を合わせて百観音、とする。元々は秩父も33観音霊場であったわけだが、34霊場となったことをきっかけに、百観音というマーケティング戦略に転換した、ということだろう、か。
本堂の前に結願の「御砂ふみ」がある。百観音御砂と掘られた足形。「足形のうえで祈れば、百観音の功徳あり」ということ、だ。観音堂は寛政の頃、というから、18世紀末、江戸の人々の寄進により再建された。「檀家をもたない秩父の札所は江戸でもつ」と言われる所以である。観音堂の右奥に岩の絶壁。岩屋があり清水が湧く。「長命水」、と。巡礼を終えた人が水垢離をとる。水潜りの岩屋と呼ばれる。これが寺名の由来。
讃仏堂内に、オビンズルさま。十六羅漢のひとつ。オビンズル様こと、ビンズル尊者には散歩の折々に出合った。撫で仏様として坐っていることが多かったように思う。赤ら顔の飲ん兵衛がキャラクターイメージ。放蕩の末、反省し仏弟子となった、はず。十六羅漢とは、仏を護持する16人の佛弟子のこと。本堂の右手に子育て観音像。本堂下参道脇に六地蔵。六道能化のご利益。六道能化とは六道(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天)のそれぞれの衆生を救うお地蔵様。讃仏道の左には七観音。七観音って、野坂寺でメモしたのだが、六観音が真言系と天台系では少し異なる。聖観音、千手観音、馬頭観音、十一面観音、如意輪観音までは同じであるが、あとひとつが真言系では准胝観音(じゅんていかんのん)、天台系では不空羂索観音。これがいつのまにか、すべて合わさって七観音になった、とか。
ご詠歌;萬代のねがいをここに 納めおく 苔の下より いづる水かな

34番を終え33番に向かう。これが結構遠い、今回車を使うしかないだろう、となった工程である。ルートは一旦、国神まで戻る。国神交差点からは荒川西岸を大渕まで進む。大渕交差点からは荒川を離れ、赤平川の北を進む。国神交差点から5キロ程度走ったところで左折。奈良川橋を渡り、赤平川の南側に移る。奈良川橋から2キロ程度赤平川に沿って進み、番戸大橋で赤平川の支流を越える。橋を渡るとすぐに南に折れ、2キロ弱進むと33番札所・菊水寺に。時間があれば吉田の里、秩父困民党の決起した椋神社などに寄りたいのだが、何せ時間がない。またいつかの機会、この吉田の里から札立峠を越えて34番札所・水潜寺へと歩く、2・5時間の峠越えをするときにでも寄ることにしよう。

33番札所・菊水寺
正面に観音堂。本尊は聖観音。藤原時代の作。井上如水が奉納した「子がえしの絵図」。生活苦から子供をあやめることを諌めたものである。芭蕉の句碑:寒菊やこぬかのかかる臼のはた。菊水寺の名前の由来は、菊水の井戸から。山賊が雲水の法力で非を悔い改め身を清めた井戸が菊水の井であった、とか。また山賊が行基の教えに改心したといった説も。
ご詠歌;春や夏 冬もさかりの菊水寺 秋の詠めに おくる年つき

江戸巡礼古道散歩
さてさて「僻地」の札所を車でさっと廻る。歩きではないので、少々のウシロメタさもありメモもあっさりにならざるを得ない。が、これからが今回のメーンエベント・江戸巡礼古道散歩となる。
スタート地点は23番音楽寺あたりからはじめよう、と。江戸巡礼古道自体は21番札所・観音寺の少し南あたりにのぼり口はある。が、そのあたりは先回の散歩で長尾根丘陵を横切って国道299号線に降りていったとき、少々の雰囲気を感じてはいる。また、いつだったか、23番札所・音楽寺から22番童子堂に下るときに、これも少々の古道の雰囲気などを感じてはいる。で、観音寺から音楽寺までの巡礼道散歩は「まあ、いいか」となった次第。
スタート地点の23番札所・音楽寺へのアプローチはどうするか。音楽寺の駐車場に車を停めるって案もあるのだが、歩いた後にまた車を取りに戻らなければならない。少々ウザったい。西武秩父からシャトルバス・ぐるりん号が音楽寺まで出ていたような気もする。西武秩父駅に行けばなんとかなるだろう、と言ったこれまたアバウトな確信で車を置きに西武秩父に。
道を南に下り、泉田交差点で国道299号線に。先回の32番札所・法性寺からバス停のある国道299号線までは、結構きつかった、と少々の思い出に浸る。車は東に向かい、道なりに秩父ミューズパークに向かって進み、公園のある長尾根丘陵を越え、荒川を渡り西武秩父駅に。車は秩父市役所横、秩父市民会館の駐車場に停める。秩父に日参したおかげで、どこに車を停めることができるか、ってことも分かるようになっている。
市民会館に車を置き、西武秩父駅に。それほど遠くにない。駅前のバスターミナルで「ぐるりん号」の時間をチェック。残念ながら全然便はない。1日に数便といったもの。どうしたところで、利用できる便はない。あきらめて、タクシーで23番札所・音楽寺に行くことにする。

江戸巡礼古道スタート。音楽寺駐車場から長尾根道・山腹を進む江戸巡礼古道を進むことに。江戸巡礼古道、とはいうものの、江戸時代にこの名称があったわけではあるまい。秩父市観光振興課が作成している観光パンフレット「秩父札所 江戸巡礼古道」によれば、寛延3年(1750)には一番札所のある栃谷村には5万弱、30番札所のある白久村にも5万強の巡礼者が訪れている、と。元禄時代、裕福になった江戸市民の信仰を兼ねた行楽の旅が盛んになった、ということだ。こういった観光客のために、多くの道しるべがつくられた。「右++ 左**」といったもの、である。馬頭観音の石碑もつくられた。で、それをつなげ合わせ江戸の巡礼道を組み上げたのが「江戸巡礼古道」である、と前述のパンフレットにある。秩父市の観光マーケティング施策にまんまと乗せられている、といった思いも残しながら、昔ながらの面影の残る道筋であることを期待しつつ、先に進む。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)

駐車場を越え梅林に沿って進む。少し下ると駐車場。駐車場を抜けると長尾根道がはじまる。杉林の中を進む。道脇に馬頭観音。杉林をしばらく進むと、「天保9年・二十二夜碑」。ついで、延暦年間・弁才天碑。このあたりからの眺めは美しい。沢を渡る。桜久保沢。念仏坂のあたりには馬頭観音が残る。南は佐久良橋あたりであろう。再び美しい眺め。永源寺跡の脇を進み丘陵を下り、県道77号線近くまで下りる。72号線の一筋東の細路を進む。「江戸時代のみちしるべ石」を越えるあたりで県道72号線に合流。少し進むと24番札所・法泉寺。

24番札所・法泉寺
長い石段。かなり急な勾配。116段。お堂は仁王門と観音堂を一宇とした造り。本尊は聖観音。室町時代の作と言われる。本堂の左手に六地蔵。地獄・餓鬼・畜生・修羅・人道・天道の六道を能化する有難い佛様。寺の開基伝説によれば、毘盧遮那の仏勅によって、加賀の白山を勧請した、と。事実『長享二年秩父観音札所番付』では白山別所と記されている。白山系修験者によって奉祀されていたもの、であろう。当時の本尊は十一面観音。白山の本地仏である。本尊が聖観音に変わったのは、勢力強化のために関東を訪れた聖護院門跡道興准后の影響。それを契機に、白山系から本山派に転じて今宮坊の配下となり、さらに聖護院直末となったためであろう、と言われる。白山権現社は、明治期の神仏分離をへて白山神社として現存している。
ご詠歌;天てらす神のははその色かえて なおもふりぬる雪の白山

宝泉寺を離れ次の目的地25番札所・久昌寺に向かう。県道を少し進み、「江戸道しるべ石」のあるあたりから、案内にしたがい県道を離れる。北に進むと「酒つくりの森」。酒蔵資料館などもある。地元の酒蔵の経営のようである。すこし中を眺め先に進む。峠道へとのぼる雰囲気。眺めがいい。実にいい。
県道209号の脇の細道を峠へと進む。この県道は小鹿野町に続く。しばらくすると県道を離れ下り道に。案内に従い下ると、「寛政年間のみちしるべ」。眺望良好。東下る。馬頭尊。南に下ればミューズパーク入口あたりだろう。江戸巡礼古道はここから南西に向かう。長尾根道をはなれ「久那みち」となる。
しばらく進み舗装道から離れ脇道に。森というか林の中。沢を渡る。五百(いお)沢。県道72号線と平行に、少し西を進んでいる、よう。久那小学校の西をとおり25番札所・久昌寺に。野面を横切り、沢を渡るといった巡礼道であった。五百沢から25番までの雰囲気がなかなかいい。

25番札所・久昌寺
本尊は聖観音。入口に「御手判寺」の大石柱。このお寺は別名「御手判寺」とも呼ばれる。御手判って、性空上人らが冥土からもたらした石札。閻魔大王の手形石とも。閻魔大王の招きで冥府(めいふ)に赴いた性空上人は、石の手判と石の証文を授かる。その石の証文は西国十四番に、石の手判は秩父札所二十五番に納め置かれた、と。
西国十四番って、近江の三井寺というか園城寺。石柱のすぐ向こうに小さな茅葺の仁王門。観音堂には一木造りの観音さま、が。背後の土手に上ると弁天池。弁財天をまつるお堂がある。武甲山の山容も美しい。ご詠歌にある岩谷堂の由来は、鬼とよばれた母親を大切に孝行したきだてのよい娘が、なくなった母親を岩屋に祠を建てる。その心持にうたれた里人が建てたのがこのお寺のはじまりである、ということだ。
ご詠歌;みなかみは いづくなるらん 岩谷堂(いわやどう) 朝日もくなく 夕日かがやく

秩父鉄道・浦山口駅
荒川を久那橋で渡り、浦山川を常盤橋で渡り、秩父鉄道・浦山口に進み、西武秩父駅に戻り、車に乗り、一路家路を急ぐ。長かった秩父札所巡りもこれで一応結願と相成った。
先日、鶴川からJR横浜線・中山に向かって下った。途中、奈良川、そして恩田川に出会った。奈良川源流あたりの谷戸ってどんな景観だろう。また、恩田川流域は鶴見川に負けず劣らず、宅地化が急激に進んだところ、という。これまた、どのような景観が開けるのだろうか。ということで、今回は多摩丘陵西端近くを開析するふたつの川筋、奈良川と恩田川を巡る。そして、そのあとは丘陵西端を越えて相模原台地に進むことに。(2007,210月のブログ修正)



本日のルート;小田急線・玉川学園前>南口>玉川学園7丁目>奈良町第三公園>奈良町第二公園>奈良川源流部>協和緑病院>奈良町第四公園>奈良保育園前>鶴川街道・こどもの国西口交差点>こどもの国駐車場南を西に>奈良川・こどもの国線交差>奈良1丁目・奈良山公園南端>T字路>尾根道に上る>尾根道を北に>奈良5丁目・成瀬台4丁目>成瀬台4丁目>東玉川学園2丁目>昭和薬科大学・町田キャンパス>キャンパス南端を西に>かしの木山自然公園>南大谷中学>恩田川>恩田川自転車歩行者専用道路>小田急線交差>桜橋>稲荷坂橋>恩田川分岐>日向山公園脇>本町田東小学校脇>親水公園>今井谷戸>鎌倉街道を南に>木曽団地東交差点を西に>恩田川分流の源流・湿地帯・調整池>本町田小学校脇>町田街道>境川橋>JR横浜線・古淵駅

小田急線・玉川学園前駅
少々の雨模様の中、奈良川の源流点に近い、小田急線・玉川学園前駅に。南口に下りる。駅前に台地が迫る。谷戸・丘陵の広がるこの地を開発したのは玉川学園の創設者。地価の安い「原野」を開発し、駅をつくり地価を上げ宅地を売り出し、学園建設資金にまわした、という。たしか、駅の建設費用も学園が負担したとか、しないとか。阪急電鉄の小林一三翁といった電鉄会社の経営手法が頭によぎった。
で、ふと何故「玉川学園」なのか気になった。創設者は小原さん、ということだし、玉川という言葉との関連は?小原さんって、世田谷の成城学園にも関係していた方である。世田谷には二子玉川など、「玉川」が多い。それが学園命名の由来だろう、か。
それにしても、そもそも何故「玉川」であり、「多摩川」でないのだろう?「玉川」と「多摩川」の違いは?気になりチェック。大きな思い込み・勘違いがわかった。大河・多摩川のその存在の大きさ故に、多摩川が「本家」で「玉川」が分家、と思っていたのだが、どうもそうではないらしい。「多摩川」は明治になるまで「玉川」と呼ばれていいたようだ。多摩川の羽村で取水され、江戸まで引かれた上水が「玉川上水」であり、「多摩川上水」でない理由がよくわからなかったのだが、江戸時代、「多摩川」はなく「玉川」が流れていた、とすれば、至極あたりまえのことである。
玉川が多摩川となった経緯は定かではない。が、思うに、明治26年、多摩三郡(北多摩、南多摩、西多摩)が神奈川から東京に移管されたことがきっかけ、ではなかろうか。そもそも三多摩の東京への移管は、東京の上水地の水源である、とも言われる。水源地である多摩郡に「敬意」を払い、玉川を多摩川としたのではないか、との説もある。玉川って、玉=清らかな・宝のような川、である。玉川学園、って、そういった清らかな大河、に由来するのだろうか。まったくの根拠なし。

奈良川の源流域
駅前の台地を上る。玉川学園7丁目あたりの台地上の道を進み、玉川学園の敷地方向に。敷地に沿った車道を台地から下り、奈良川の源流点に向かう。源流点とはいうもの、車道の周囲は住宅街である。前方は奈良北団地、学園奈良団地の高層マンションであろう。
坂を下り奈良町第三公園で左折、宅地に入る。先に進み奈良町第二公園。その先は深く落ち込んでいる。典型的な谷戸の景観。坂道を下る。細い水路が流れている。奈良川の源流域、であろう。水路は北に向い玉川学園のほうに続いているのだが、フェンスに囲まれよく見えない。少し北に進むが、学園にそって急な石段が続く。どうも、これ以上進めそうもない。源流点さがしはここでストップ。Uターンし、奈良川を下ることに。

土橋谷戸
奈良町第二公園あたりまで戻る。道は川筋から少し離れる。いい風景。里山、というか穏やかな谷戸の景色が広がる。「土橋谷戸」と呼ばれているようだ。しばらく歩くと「緑協和病院」。道は五差路となる。奈良町第四公園脇を奈良川にそって下る。東の台地上はTBS緑山スタジオ。奈良保育園前交差点を越え、奈良小学校を西に見ながら進み鶴川街道・こどもの国西側交差点に。奈良保育園前交差点を西に進めば、先ほど奈良川源流に向かって下ってきた玉川学園脇の坂道に続く。

国西側交差点・鶴川街道

こどもの国西側交差点からはしばらく鶴川街道を進む。歩道が整備されていないので、通過する車が怖い。こどもの国駐車場、こどもの国線・こどもの国駅を越える。西に奈良山公園の緑。西に向かって川を越えたいのだが、なかなか橋がない。また、橋があっても線路で行き止まり。結局、住吉神社手前まで、引っ張られることに。住吉神社前交差点を西に折れ奈良山公園の南端に沿って進む。少し歩くと、大きな道筋。先ほどの「こどもの国西側交差点」から南に下る道筋である。先に進むと、先日歩いた恩田町の「子之辺神社」の西に通じている。

奈良尾根緑地

宅地開発されたばかり、といった街並みの中を南に下る。西に台地が見える。なんとか台地に上りたい、とは思えども道がない。結局、奈良3熊ケ谷公園あたりまで歩くことになった。西に通じる車道が通る。交差点を折れ、台地方向へと向う。道は台地下のトンネルをくぐる。トンネル脇に台地に上る道。迷うことなく台地上に続く細路に進む。坂をのぼると尾根道に。いい感じの散歩コースになっている。尾根道を南に進めば「成瀬山吹緑地」、北に進めば「奈良尾根緑地」に続く、と。この尾根道は青葉区と町田市成瀬との境界線、南のあかね台から北の奈良町まで続いている。
北に上るか、南に下るか、どちらに進むか結構迷う。で、結局、北に向かう。あとからGoogle Mapの航空写真でチェックすると、南方向は先日歩いた「子之辺神社」の西を通り、あかね台の県道140号線あたりまで緑が続いている。少々惹かれる。そのうちに歩いてみたい。ともあれ、北に進む。しばらく歩くと、木立の中の散歩道はなくなり、東は台地端、西は住宅地の続きとなる。

奈良5丁目と成瀬台4丁目境・奈良尾根緑地の北端
どこだったか、一度台地を下り、車道を渡り再び台地に上る。もう、尾根道というよりも、台地端に迫る住宅街の道を歩く、といった状況となる。この車道は「こどもの国駅」あたりから西に通る車道ではないか、と思う。更に先に進む。大きな車道を跨ぐ陸橋に。すぐ先に奈良北団地交差点。このまま進めば、「スタート地点」に戻ることになりそう。北に進むのを止め西に向かうことに。奈良5丁目と成瀬台4丁目の境、こどもの国西側交差点の少し南から、西に向かって続く車道が大きく湾曲するあたりで陸橋を下り西に道をとる。次の目標は「かしの木山自然公園」。目印は東玉川学園3丁目にある昭和薬科大学、である。

昭和薬科大学

成瀬台から東玉川学園の住宅街を進み、薬科大学町田キャンパスに。構内を抜ける道もありそうだが、残念ながら構内通行不可。仕方なく、キャンパスの縁を南に進み、南端で西に折れる。塀にそって台地を上る。台地の頂上付近から雑木林。雑木林を下り、テニスコート脇の竹林を抜け、峠道に当たると、そこは「かしの木山自然公園」の入り口、となっていた。

かしの木山自然公園
かしの木山自然公園。東の成瀬台、西の南大谷、高ケ坂地区の境に位置する。緑豊かな5haほどの公園。園内にはわずかな距離ではあるが、鎌倉古道も残る。園内に入り、鎌倉古道を歩く。が、あっという間に終了。コナラやクヌギの林の中を進むと「シラカシの森」がある。かしの木山自然公園の名前の由来、である。
シラカシはシイやカシ、そしてツバキなどとともに(常緑)照葉樹と呼ばれる。太古武蔵野を覆っていた植物群である。その後、人が住むようになり、原野を切り開く。焼畑で焼き払われた後には3,4年たつと、一面のススキ。 それが15年くらいでススキの間からクヌギやコナラといった落葉広葉樹が伸びてくる。これがいわゆる雑木林というものである。江戸が大都市になるにつれ、燃料としてこういった落葉広葉樹が必要になるわけで、人工的にも「雑木林」が増える。これが武蔵野の雑木林。
武蔵野の雑木林・落葉広葉樹も、管理することなく放置しておくと、百年ほどで林床に芽生えた(常緑)照葉樹にとって替わられる。落葉広葉樹は日当たりのいい所ではよく育つのだが、(常緑)照葉樹が増えると日当たりが悪くなり、消え去る。そして最後には極相とよばれる、植物遷移の最終段階の「シラカシの林」となるわけである(『雑木林の四季;足田輝一(平凡社カラー選書)』)尾根道を進み公園の西端近くに。恩田川によって開かれた谷筋が下に見える。散策路を歩き、南口に。台地を下り、西に進むと恩田川にあたる。

恩田川

尾根道を進み公園の西端近くに。恩田川によって開かれた谷筋が下に見える。散策路を歩き、南口に。台地を下り、西に進むと恩田川にあたる。
恩田川。町田市の七国山、というか今井谷戸あたりが源流。長津田の北で奈良川と合流。横浜線・中山駅の西、中原街道・落合橋あたりで鶴見川に合流する。いつだったか、源流点・今井谷戸あたりを歩いた。谷戸とはいうものの、鎌倉街道などの主要車道が交差しており、とてものこと、谷戸とか里山の面影など感じられなかった。川を遡れば、それなりの開析谷の景観が見えるか、はたまた、新百合丘で見たような強烈な宅地化が待ち受けているのか、ともあれ、源流点・今井谷戸に向かって歩きはじめる。

今井谷戸交差点
恩田川の川筋には自転車歩行者専用道路が整備されている。南大谷中、南大谷小脇を進む。小田急線と交差。桜橋、大谷一号橋、本町田団地を過ぎると稲荷坂橋。その先で鶴川街道と交差する。鶴川街道を少し西に行けば菅原神社。少し進むと恩田川はふたつに分かれる。西に向かえば町田街道・滝の沢。このあたりも恩田川の源流のひとつ。北に進む。里山の景観もなければ、インパクトのある宅地が広がることもない。
少し歩くと、また恩田川がふたつに分かれる。西に進み川筋は、鎌倉街道のすぐ西にある町田木曽住宅あたりまで続いている。鎌倉街道に沿って北に進む。日向山公園、本町田小学校を越える。川筋は消え、親水公園といった人工水路になる。今井谷戸交差点の東を鎌倉街道のあたりまで川筋を探す。結局人工の水路しか見当たらなかった。で、源流点チェックはこのあたりで終わりとする。結局、里山の景観もなければ、インパクトのある宅地が広がることもなかった。

木曽団地交差点
今井谷戸交差点を離れ、境川を越えて相模の国に進む。鎌倉街道に沿って南に下る。鎌倉街道、といっても車の多い幹線道路。先ほど恩田川に沿って上った道を戻る感じ。今井谷戸から西に進む道筋もあったのだが、なんとなく上りとなっていたので敬遠した、次第。この鎌倉街道は、南に道なりに進むと鶴川街道に合流。そこを鶴川街道に乗り換えれば町田の駅近くに達する。が、今回は町田ではなく、なんとなく、西に進みたい、と思った。
木曽団地交差点で鎌倉街道を離れ、西に折れる。少し歩くと町田木曽団地の前に調整池。人工の調整池、というよりも、湿地帯をそのまま残している雰囲気。地図をみれば、恩田川の支流水路が、このあたりまで続いている。昔は恩田川の水源のひとつ、だったのではないか、と。

境川
道は上りが続く。多摩丘陵を越え、境川に向かって「下る」というイメージとは真逆の地形。いつ、下りになるのだろう?しばらくすすむと「町田街道」に。交差点を越えると、心持ち下る道筋。しかし前方には丘の高まりが見える。あれ?一体どうなっているのか?少々混乱。少し進むと境川。武蔵と相模の境となる川筋。昔は相模川の一支流、であったよう。堺川を越えると、丘に向かっての上り坂。横浜線・古淵駅は、坂を上りきったところにあった。さっぱり訳がわからなくなってしまった。多摩丘陵をグンと下り、境川へと、と思っていたのが、今井谷戸、というか恩田川から先は、下りというより、ずっと上り、といった地形であった。
電車に乗る。窓から地形を見る。が、線路の東に台地の高まりは見えない。平坦な台地上を走る。多摩丘陵の高まりが遠くに見えたのは、相模原だったか、橋本だったか、ともあれ、結構北に走ってからであった。
家に帰って地形図でチェック。城山湖(本沢湖)付近を源流とする境川は多摩丘陵下に沿って下っている。おおよそ桜美林大学のあるあたりまで。その先で、堺川は丘陵下を離れ、南東に相模原台地を下っている。で、多摩丘陵の西端のラインだが、相原駅>多摩境駅>桜美林大学>恩田川流路、を結んだ線。当初恩田川は、多摩丘陵の中の開析谷を流れている、と思い込んでいたのだが、どうも、恩田川って、多摩丘陵の西端下を流れる川であった、ようだ。
思うに勘違いの主因は、本日歩いた成瀬台、であり、長津田のある台地にあったように思う。地形図を見ると、成瀬台は多摩丘陵が西に突き出た舌状台地。そして相模台地面を隔てて長津田の丘陵地が広がっていた。多摩丘陵散歩の仕上げとして、多摩丘陵を相模台地に下る、といったイメージを描いていたのだが、「かしの木山自然公園」を恩田川に向かって下った段階で、多摩丘陵を下り相模台地に入っていた、ということ、であった。ともあれ、一見落着、である。
小机城から篠原城に
前回の散歩では鶴川からはじめ、中山にある榎下城跡まで下った。今回は、中山からスタートし、恩田川・鶴見川筋を下り小机城を経て、新横浜駅近くにある篠原城へと進む。おおよそ8キロ程度の散歩である。縄文海進期の地形をで言えば、多摩丘陵が海と接する海岸線を小机まで進み、そこからは「海・小机湾」の中にある新横浜へ「泳いでいく」、といったもの。戦国期に想いをはせると、中山の東に広がる恩田川・鶴見川流域は一面の低湿地帯。中山の榎下城も、小机の小机城も低湿地に突き出した舌状台地の先端に位置する。小田原北条の前線基地として、東からの敵に備えていたのではあろう。さてと、往古の地形を思い浮かべながら散歩に出かける。



本日のルート:横浜線・中山駅>大蔵寺・長泉寺>落合川・鶴見川合流点>鴨居>小机城>多目的遊水池>亀甲橋>新横浜駅>篠原城跡

横浜線・中山駅
渋谷から田園都市線で長津田。そこで横浜線に乗り換え中山駅に。先日の散歩で、この中山にある榎下城を訪ねた。この城は、鶴川の沢山城、小机の小机城とともに小田原北条の前線基地。東の地、江戸城から攻め寄せる太田道灌に備えた。とはいうものの、中山はどうみたところで、それほどの要害の地といった風情は、ない。なにゆえ中山の地、かと少々気になりチェックした。で、結論としては、この地が交通の要衝であった、ということ。

鎌倉街道中ノ道。鎌倉街道上ノ道、山ノ道などとともに「いざ鎌倉」への道。鎌倉から二子玉川、板橋、川口、栗橋、古河、小山を経て宇都宮から白河の関へと進むのが「中ノ道」。この中ノ道が中山を通る。北鎌倉の勢揃橋(水堰橋)を出た道筋は、柏尾川と並走し、東戸塚を越え相鉄線・鶴ケ峯駅あたりで二俣川を渡り、この中山に。中山からは恩田川を渡り川和、江田、宮前平、溝口をへて二子玉川を渡り、板橋へと上っていく。鎌倉武士の鏡・畠山重忠が討ち死にしたのは中山から鎌倉街道中ツ道を4キロ弱南に下った二俣川。源頼朝の奥州征伐の道筋も、この中山を通り川和、江田を経て二子ノ渡しに進んだとされる。幾多の武将がこの中山の地を駆け抜けたことであろう。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)


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大蔵寺・長泉寺
中山駅の近くには由緒ある寺も点在する。駅を挟んで東には大蔵寺。鎌倉武士・相原一族の菩提寺。頼朝の菩提をとむらう。相模原には「相原」の地名が残る。西には長泉寺。木食僧・観正が開く。木食僧とは米穀を断って木の実を食べて修業する僧のこと。江戸期の文化・文政のころ流行した。観正の他、木食僧としては徳本などのが知られる。ちなみに、木喰像で知られる木喰五行上人とは別人。
長泉寺の隣、というか同じ敷地には杉山神社。神仏習合の名残であろう。それにしても、この近辺には杉山神社が多い。杉山神社もそうだが、散歩をしていると「地域限定」の神様に時に出合う。元荒川流域の久伊豆神社、古利根川流域の鷲宮神社など。もう少し広い地域でみると、荒川の西を祭祀圏とする氷川神社、東の香取神社なども、ある。
杉山神社は武蔵国総社に勧請された六所宮のひとつ。社格の高い神社ではあったのだろうが、実態はよくわかっていない。本社の場所も特定されていない。ともあれ、7、8世紀の頃、この神様を「氏神」とする集団が鶴見川などを伝ってこの地域に進出。しかし、なんらかの理由でその先に進む歩みを止め、この地域にとどまった、ということではあろう。ちなみに、このあたり、少し小高い丘となっているのだが、そのことが地名「中山」の由来、とか。

落合川・鶴見川合流点

長泉寺を離れ、中原街道・宮の下交差点を北に折れる。横浜線を越えると鶴見川にかかる落合橋に。橋の少し上流が恩田川と鶴見川の「落ち合う」ところ。鶴見川は多摩丘陵、小山田の里の湧水を水源とし、鶴見で東京湾に注ぐ43キロ弱の川。恩田川は町田市本町田の今井谷戸の北あたりを水源とする13キロ程度の川、である。
いつだったか、それぞれの水源を訪ねたことがある。鶴見川の水源は小田急線・唐木田駅の南、尾根道幹線の通る尾根道を南に下った美しい里山の中。豊かな湧水池があった。一方恩田川の水源である今井谷戸は、なるほど「谷戸」といった地形の名残は留めるものの、交通量の多い交差点となっていた。特段の水源は見あたらなかった。
『都市と水;高橋裕(岩波書店)』によれば、落合川を含めた鶴見川水系って、戦後の宅地化が最も激しかったところ、と言う。実際、麻生川にそった新百合ケ丘あたりを歩いたとき、その宅地開発の激しさには少々驚いた。耕して天に至る、ではないけれど、全山すべて住宅といった有様。事情は恩田川上流域もまったく同じであった。鶴見川全流域では55年までに流域の10%しか宅地化していなかったが、75年には60%、85年には75%が市街地化された、と(『都市と水;高橋裕(岩波書店)』より)。
鶴見川って言えば、一昔前まで、「洪水氾濫」の代名詞と行った印象がある。鶴見川は昔は海であった沖積低地を蛇行して流れているわけで、ただでさえ洪水に見舞われやすい。そのうえ、上流の激しい宅地開発。本来ならば土地に吸い込まれていた水が、舗装され、行き場をなくし、すべて川に合わされ下流に流れ込む。で、自然環境、社会環境が相まって、鶴見川は治水の難しい川の一つになっていた、と(『都市と水;高橋裕(岩波書店)』より)。鶴見川は、75年から実施された全国14河川の総合治水対策の先駆的役割を果たしたとのことである。下流に進むにつれ、治水事業の有様など散見できるであろう。

鴨居
落合橋より、鶴見川に沿って堤を歩く。川の東側には近代的な工場群が続く。横浜線が川筋に近づく。2キロ強進むと鴨居駅。この駅の鶴見川東岸も近代的工場群が見える。鴨居の地名の由来は、カムイ=神が居る、とか、文字通り近くに鴨場があった、とか例によって諸説あり。そういえば、障子などの上部の横木を「鴨居」と言う。対する物として、足下の横木を「敷居」と言う。「鳥居」などの表現もある。鴨居も敷居も、鳥居の横木からのアナロジー、とも言われる。で、鳥が居たので「鳥居」、ということで、鴨がいたので鴨居、鴫(シギ)がいたのでシギイ>敷居、ということにした、との説も。
新川向橋手前で、JR横浜線が川筋に急接近する。台地の崖と川の間を走り抜ける。このあたりは洪水で水位が警戒水位に達するたびに、運転見合わせとなっていた、とか。新横浜近くにある日産スタジアム周辺での多目的遊水が整備される、状況は大幅に改善された。
小机城
川 向橋より先は川沿いの道が切れる。前方に第三京浜の高架。その道筋により南北に分断された山が小机城の城山。川沿いの道を離れ、高架下を進み小机の町に。東にはUFOっぽい形をしたサッカー競技場・日産スタジアムが聳える。台地の緑を眺めながら山裾を道なりに歩く。なかなか城山への上り道が見つからない。局台地をぐるっと廻り、台地の南側、JR横浜線が城山トンネルから出てくる辺りまで歩く。民家の脇に「市民の森」への案内。民家の間の細路を上ると、城 山への入口。
竹林の道を上る。ほどなく本丸広場。野球場となっている。深さ10mほどの空堀が本丸の廻りに残る。二の丸曲輪に進む。井楼櫓には土塁が残る。有名な城の割には、それほど大きくない。第三京浜によって分断されてしまったためだろう、か。つい最近旧東海道を歩き箱根越えをしたとき、箱根峠から三島に下る途中の山中に山中城を訪ねた。その規模の壮大さを思うにつけ、小机は少々つつましい。
この城、有名な城ではあるが、はじまりはよくわかっていない。15世紀中頃の永享の乱の頃、関東管領上杉氏によって造られた、ともされる。永享の乱って、鎌倉公方足利持氏と関東管領上杉家が相争った戦乱のことである。小机城が歴史に登場してくるのは15世紀も後半の頃。関東管領山内上杉氏の家宰職の相続を巡り、長尾景春が寄居・鉢形城で挙兵。武蔵五十子城の上杉の居城を攻める。関東を戦乱・混乱の巷に陥れた長尾景春の乱のはじまりだ。石神井城主・豊島泰経が長尾景春に呼応。扇谷上杉氏の家宰・太田道灌と江古田・沼袋で戦う。道灌の勝利。豊島泰経は武蔵平塚城(JR山手線上中里近く)を経て、小机城に敗走。道灌追撃。で、この地で豊島一族を助ける小机弾正、矢野兵庫らとともに、2ヶ月におよぶ合戦。道灌の勝利。その後、小田原北条氏の城となる。猛将で有名な北条氏綱の重臣である笠原信為などの城として、秀吉の小田原征伐による北条氏の滅亡まで続く。江戸期は廃城。

多目的遊水池

小机城を離れ、鶴見川へと向かう。横浜線の小机駅の南にはお寺が点在。雲松寺は俳優内野聖陽さんの実家、とか。今回はパス。畑越しに小机の城山をみやりながら交通量の多い車道へと。新矢之根の交差点あたりで鶴見川の傍に。川幅が異様に広く、川床には野球場や運動広場が見える。いかにも遊水池、といった雰囲気。鶴見川に面した堤防の一部が低いのは越流堤。洪水時にここから鶴見川の水を遊水池に流入させる。で、洪水がされば排水門から鶴見川に水を戻す。実際2004年の台風22号のとききは、この湧水池が一面の湖となった、とか。
多目的遊水池は鶴見川方面だけではない。車道の南に広がる新横浜公園、日産スタジアム、病院などの敷地全体が遊水池。洪水時のため、スタジアムや病院の床は高床式となっており、また、平時には駐車場となっている1階も、増水時には遊水池に変身す
る、という。

亀甲橋

道を進み、新横浜公園交差点に。鶴見川にかかる橋は亀ノ甲橋。橋の向こうに
見える小高い山、というか台地が亀ノ甲山であろう。亀ノ甲山は豊島泰経を追撃し、この地に攻め寄せた太田道灌が陣を張ったところ、という。道灌が部下を勇気づけるために詠った「小机はまづ手習ひのはじめにて いろはにほへと ちりぢりになる」は有名。小さな机で習字をはじめるこどもは、いろはにほへと、あたりまではちゃんと書けるが、その後はむちゃくちゃになる。子供相手の戦くらい簡単に勝てる、といった意味、か。

新横浜駅
少し道を進み、労災病院交差点に。ここで道を南に折れ新横浜駅方面に向かう。すぐ鳥山大橋。鳥山川にかかる。地図で源流を辿ると保土ヶ谷の横浜国立大学、羽沢農地あたりまで続いている。橋を道に沿って真っすぐ進めば新横浜駅につく。いまでこそビルが建ち並ぶ一帯となっているが、縄文時代まで遡れば、このあたりは海の中。もう少し上流にある川和町あたりが鶴見川の河口とする入り江。先ほど歩いた小机や新横浜駅の南の篠原地区の台地がかろうじて陸地。入り江を挟んで北の日吉、東の末吉が小高い台地として存在していた、とか。
時代が下って、江戸の頃でも、湿地と田畑が点在する一帯。勾配の緩やかな低地であるため、川の流れが蛇行し頻繁に流路を帰る。洪水時の水はけが悪い。そのうえ、満潮時には新羽橋あたりまで潮が上ってきた、言う。この状況が改善されたのはそれほど昔のことではないようだ。昭和の頃も一面の田畑。その地を買い占めたのが西武グループの堤次郎。で、新幹線の路線地として国鉄に転売し巨大な利益を得る。ちなみに、新大阪駅前一帯も西武グループが買い占めていた、と。やれやれ、といったことを想いながらビル街を抜け、駅をと降り抜け次の目的地・篠原城跡に進む。山道といった風情の坂道を台地上に。

篠原城跡
新横浜駅の南に出る。駅のすぐ近くまで台地が迫る。それにしても、北側の再開発と比較して、民家が軒を連ねる南側のコントラストは激しい。道路も狭く、対向できないところも見受けられた。いかなる事情によるものなのだろう。チェックすると、市と住民や地権者との対立があるようだ。とはいものの、北の再開発にまつわる、土地買収の歴史などを思うと、事情はわからないが、対立があったとしても、それほど違和感は感じない。


篠原城跡を探す。正覚院の裏山あたり。寺の南側の坂を上る。台地上まで進も、裏山には辿り着けない。
元の道に坂を下り、今度は寺の北にある細路を台地に上る。城跡への入口を探しながら台地上の道を進む。民家が軒を連ねる。案内も何もないのだが、なんとなく台地最上部の緑に向かう細路に折れる。民家の間の細路を上る。民家と畑の間に上部に進む道が続く。民家の敷地のような雰囲気で、なんとなく気後れするのだが、ともあれ先に。右手のブッシュは市有地の案内があり、フェンスで囲われている。空堀跡っぽい気がする。先に進む。最上部で行き止まり。城跡といえば城跡なのだろうが、素人には郭がどれかなどわかるはずも、ない。
篠原城。別名、金子城。小机城の支城としてつくられた、とか。戦国期は小田原北条氏の家臣である金子出雲守の居城。金子氏って、武蔵七党・村山党の流れ。埼玉の入間に本拠地があった。金子十郎の旧跡を訪ねて金子丘陵を歩いた事が思い出される。北条滅亡後、金子一族は菊名一帯に土着した、とか。
鶴川からはじめた鶴見川水系・小田原北条の出城巡りもこれにておしまい。新横浜から一路家路に。
いつだたか、善福寺川や妙正川の源流点を訪ね川筋を遡ったことがある。源流点には善福寺池や妙正寺池があった。現在は地下水をポンプアップしているとのことだが、その昔は、湧水であった、とか。

それぞれの湧水点は武蔵野台地の標高50m辺り。武蔵野台地の地下4mから6mあたりを流れる地下水は崖線の切れ目から湧水として流れ出る。流れは分水界を境に別水系となり、武蔵野台地を下る。善福寺川と妙正川の分水界は大雑把に言って青梅街道、といったところだろう。か。街道って、台地上の尾根道を走るのが普通であるわけで、その分水界を境に、善福寺川は青梅街道の南、妙正寺川はその北を流れる。そしてふたつの流れは台地が切れる目白あたりで合流する。


今 回の散歩は、善福寺川と妙正川の分水界を跨ぎ、源流点を繋いでみようと思う。ついでのことなので、石神井川の水源のひとつである石神井公園​・三宝寺池も繋ぐ。で、水源と水源の間は分水界の尾根道だけでなく、神社・仏閣で埋めることにする。水道もない昔、水源の確保は最優先事項である。権威の象徴でもある神社・仏閣がその地を押さえるのは当然のことではあろう、との推論。神社・仏閣も、川筋も何度か歩いたところ。少々視点を変えて歩こうという次第。だぶる箇所は2006年10月に歩いた杉並散歩メモを流用する


本日のルート;JR 西荻窪駅下車>荻窪八幡神社>観泉寺薬師堂(薬王院)>今川観泉寺>井草八幡宮>善福寺川源流点>善福寺>井草遺跡>西武新宿線>旧早稲田通り>石神井川>練馬区郷土資料室>石神井城址>三宝寺池>氷川神社>三宝寺>道場寺 />天祖神社>西武新宿線井荻駅>科学と自然の散歩道>妙正寺池>妙正寺>天沼弁天公園>桃園川跡 

JR西荻窪駅下車。商店街を北進む。善福寺川にかかる関根橋を越え、東に折れ道なりに進む。駅から川筋へとはゆったりとした下り坂。善福寺川脇の遊歩道は環七から西から環八まではいい雰囲気の遊歩道が整備されている。
が、環八近くから状況は一変。道幅が急に狭くなり、人がすれ違えない、といったところも出てくる。そういえば、石神井川も同様であった。源流点の花小金井の嘉悦大学のあたりから田無、というか現在の西東京市あたりは遊歩道も整備されてなく、川筋を辿るのに、結構難儀したことを思い出してしまった。

荻窪八幡神社
川筋からゆったりと坂を上ると青梅街道。この尾根を境に、雨水は南北に泣き別れ、となる。荻窪警察署交差点の南に「荻窪八幡神社」。旧上荻村の鎮守さま。寛平年間(889-898年)創祀と伝えられる。永承6年(1051年)、鎮守府将軍・源頼義が奥州東征のとき、この地に宿陣・戦捷を祈願。康平5年(1062年)凱旋するにあたって社を修繕・祝祭を行った、と。文明9年(1477年)、大田道灌が石神井城を攻略するにあたり軍神祭をとり行う。社前に「槙樹」1株を植栽。「道灌槙」である、と。

観泉寺薬師堂(薬王院)
青梅街道を渡ると信号東に観泉寺薬師堂(薬王院)。観泉寺の境外仏堂。本尊は薬師如来像。秘仏ゆえに公開されない、と。門も閉じられていた。元禄年間(1688~1703)に創設。この地の領主である名門・今川氏の祈祷所となる。1747年頃には観泉寺の末寺。明治期に合併して境外仏堂(薬師堂)と。また、一説には、もと寺分(現・杉並区善福寺1丁目)にあった古寺・玉光山薬王院万福寺、とも言われている。
北に進む。西手に大きな公園。これって、昔日産プリンスの荻窪工場があったところ。現在は更地となり公園、に。件のリストラの影響か。この地は旧中島飛行機製作所跡。大正14年にエンジン研究工場として建設。太平洋戦争中の世界の名機・ゼロ戦のエンジンもここで開発された。

今川観泉寺
道なりに北に進むと山門に突き当たる。今川観泉寺。この地の領主・今川氏ゆかりの菩提寺。「慶長2年(1597年)、中野成願寺の和尚が下井草2-25に観音寺を創立。正保2年(1645年)に領主となった今川範英(直房)が現在地に移し観泉寺と。慶安2年(1649年)に将軍家光公より、寺領十石の朱印状が下付された。山門を入ると正面に立派な本堂。手入れの行き届いた庭。いい雰囲気のお寺さま。
この今川氏は駿河の名族。今川義元が織田信長に討たれてから衰退していたところ、名門好きの家康に旗本として召抱えられ、正保二年(1645)範英の代に杉並区今川付近に知行地を与えられた。家光の命により、朝廷におもむき家康の御霊に「東照大権現」の称号を授与されるに、多大の功績があった、ため。5ケ村の加増を受けた、とか。
石高は2500石。一万石以下ではあったが、名族故に、大名の格式を得て領内の青梅街道沿いに陣屋を構えた。が、この陣屋も長くは続かず、宝永四年(1707)に領内の開拓が一段落したとのことで陣屋を破却して耕地に払い下げられた。大名の格式は財政負担が重く、少ない石高では陣屋を維持できなかった、というのも理由のひとつ。

四面道交差点から2つ目の交差点に「八丁」というところがある。それは陣屋の敷地が八町あり、その跡地付近であった、から。陣屋がなくなってからは、観泉寺の境内で年貢の取立や裁判なども行われていた。つまりはこのお寺は代官所としての役割も兼ねていたよう。今川地区。地名の由来は「今川氏」にあるのはいうまでもない。
青梅街道から観泉寺あたりまでは見た目にはほとんどフラット。地図でチェックすると青梅街道から妙正寺川の源流点まで1キロ程度あるようであり、結構広い台地となっているように思う。

井草八幡宮
今川3丁目・4丁目を道なりに進み青梅街道戻る。早稲田通りと青梅街道が交差する井草八幡前交差点に。道を隔てて鬱蒼とした鎮守の森。「井草八幡宮」。往古、「遅ノ井八幡」と呼ばれた、旧上下井草村の鎮守様。この地には縄文時代から人々が生活していた、と。すぐ隣の善福寺池の豊富な湧水がポイントか。境内地及び周辺地域からも縄文時代 (約四千年前)の住居址が発見され、また多くの土器や石器が発掘されて、「井草新町遺跡」と呼ばれている。南に善福寺川の清流を望む高台にあり、中世初頭まで宿駅として、また交通の要衝として栄えた。

神社としての体裁がととのったのは平安末期。はじめは春日社をおまつりしていた。文治5年(1189年)、源頼朝が奥州征伐の途次、戦勝を祈願して松樹を手植す。以来、八幡さまを主祭神と。文明9年には太田道灌が石神井城の豊島氏攻略の折り、当社に戦勝を祈願したとの言い伝えもある。江戸時代になると三代将軍家光は、寺社奉行井上正利をして社殿を造営せしめ、慶安3年(1649年)に朱印領六石を寄進。また歴代将軍何れも朱印地を寄進し江戸末期の 萬延元年に及んでいる。 今川家の氏神さまでもあった。

善福寺川源流点

井草八幡を離れ、台地道を善福寺公園・池に下る。善福寺川の水源。古来より武蔵野台地からの湧水地として知られる。池の西南部に弁天様(市杵島神社)をまつった小島。そのそばには「遅野井の滝」。源頼朝が奥州討伐からの帰途、この地に滞在。折からの旱魃で将士、渇きに苦しむ。頼朝、弁財天に祈り、7箇所地を穿つ。将士、渇きのあまり、「水の出ること遅し」とて、「遅ノ井」と。島の弁天さまは江ノ島弁才天をこの地にもってきた、もの。現在の「遅野井の滝」は千川上水から導水した人工の滝。昭和5年に町営水道の深井戸が近くで掘られて以来、泉は枯れた、と。
千川上水、って武蔵境の境橋のところで玉川上水から分流したもの。千川通りを進み、井草八幡のちょっと北西の関前交差点で青梅街道と交差し、北東へと進む。現在玉川上水から千川上水には1日1万トンの水が導水されているようだが、そのうち7000トンが善福寺へと流されている、ということである。

街道は通常、尾根道を通る、と上で述べた。同様に上水・用水といった人口の水路も通常、付近でもっとも「高い」ところ、つまりは尾根道に沿って開削される。水は高きところから低きところに流れるわけで、分水するには高いところを通っているのが至極もっともなわけである。つまりは上水路もほぼ尾根道と考えてもそれほど間違ってはいないと思う。
地図を眺めてみると、青梅街道と千川上水の尾根道の間の谷間を流れるのは妙正寺川水系。千川上水の北は石神井川水系、といったところ、か。少々大雑把ではあるが、「にぎり」としては結構正鵠を得ている、かも。


善福寺
善福寺公園の周囲を歩き、ゆるやかな坂道を上り青梅街道へと向かう。途中に善福寺。もとは今川観泉寺の境外仏寺で、福寿庵と呼ばれていた。善福寺となったのは昭和になってから。ということは、中世のころ、この地にあった善福寺ではないわけで、では本物の善福寺は?幕末に米国公使間のあった麻布善福寺の奥の院であった、といった説もあるが、よくわからない。

井草遺跡
青梅街道に戻り、井草八幡前交差点を越え、上井草4丁目に進む。青梅街道からのゆるやかな下り坂を進み、ふたたび都立杉並工業高校脇のゆるやかな坂を登る。これって、千川上水の通る台地の尾根道への上りであろう。
坂の途中に「井草遺跡」の碑。メモ;上井草4丁目13を中心に広がる縄文時代草創期(約9000年前)の遺跡。草創期の頃は、河川流域の湧水周辺のゆるやかな斜面に小規模な集落を形成する例が多く見られる。この遺跡もそのひとつで、井草川の西側斜面に位置しています。

うむ?井草川?ということはこのあたりに井草川跡があるやも、と、地図をチェック。青梅街道にほど近い、「切り通し公園」あたりから、いかにも流路のような道筋が続いている。道に沿って三谷公園、道潅橋公園、上瀬戸公園など、いくつもの公園が続いている。川筋を利用した緑道であろう。ということで、「切り通し公園」に戻る。

切り通し公園

結構な勾配のある公園。谷頭あたりから昔、湧水が湧き出ていたのであろう、といった雰囲気。縄文時代の遺跡もあった、とか。公園下から、緑道が続く。元の井草川の跡である。切通し公園を源流点とする井草川は妙正寺川の水系。青梅街道を分水界に、数百メートルを隔ててふたつの水系に分かれている。
緑道を進み道潅橋公園に。太田道潅に由来のあるのだろう、とは思う。実際この公園の南、早稲田通りの今川3丁目交差点のあたりは「陣幕」と呼ばれていたらしい。道潅が豊島氏の居城・石神井城を攻めるに際し、この地に陣を敷いた、とか。

この切通し公園も、「道灌の切通し」とも呼ばれる。石神井城主・豊島泰経が井草八幡参拝の途上、この切通しを通る。で、この地で道灌の伏兵に襲われ、落命。王子の地・平塚城から石神井城に急いだ豊島泰明であるが、道灌軍に攻められ、結果落城することに。そのきっかけとなった地、と思うと少々の感慨、も。もっとも、これは伝説。実際、道灌との石神井城攻防戦に豊島泰経が登場しており、真偽のほど定かならず。

西武新宿線

歩を進め、上井草8丁目を過ぎ上井草2丁目。四宮森公園を過ぎると西武新宿線に当たる。道はここで切れる。迂回し西武新宿線の北に回り、さきほどの行き止まりのあたりまで戻る。

切通し公園から流れ出し、北東に上ってきた井草川はこのあたりで流路を変え、井荻駅方面に向かって東に進み、駅の東で南に下り、妙正寺川に合流する。切通し公園から井荻駅、そして妙正寺池を結んだちょっとした舌状台地に沿って流れているのだろう。北は千川上水の通る尾根道となっている。お散歩はここでいったん井草川から離れ、石神井川へと進む。

旧早稲田通り

ゆったりとした上りを進むと井草4丁目交差点。千川上水と新青梅街道が交差する。街道を北にこえると、道はゆるやかに下りはじめる。ゆったりとうねっている。石神井川への谷筋に向かっているのだろう。
ほどなくして旧早稲田通りに合流。本天沼2丁目で早稲田通りかわ分かれ、北西へとのぼる。所沢街道とも呼ばれたようだ、もともとはこちらがメーンルーとであったのだろうが、早稲田通りが本天沼から井草八幡方面へとのびたため、「旧」という名称と「なったのであろう。

石神井川
旧早稲田通りを少し進むと石神井川に架かる豊島橋に。石神井川の名前の由来は旧石神井村を流れていた、から。石神井村、現在の石神井のつく地名以外に、谷原とか高野台、そして関町といった、地域をカバー。大雑把に言って、笹目通りから西の練馬区一帯といったものであった、よう。

川を歩くとき、水源が気になる。目黒川は北沢川と烏山川が国道24号あたりで合流し、それより下流は目黒川となる。北沢川にも烏山川にも水などなにもないのだが、目黒川で急に水が流れ出す。この水源は下落合の下水処理場で高度処理された下水とのこと。延々地下を導かれ、この地で放流される。吞川も同様であった。東京工大のある大岡山のあたりで放流される水は、これも下落合処理場からの導水であった。工場からの高度処理排水が水源となっている川もあった。東久留米の黒目川である。東京コカコーラボトリングからの処理排水から下流になると、水曜が多くなる。

先ほど訪れた善福寺川は千川上水からの導水による善福寺池を水源とする、とメモした。千川上水は玉川上水の分水である。で、この玉川上水は、小平までは羽村で多摩川から取水された水ではあるが、その水は小平からは村山浄水場に導水され、小平から下流は清流復活事業により昭島にある多摩川上流処理場で高度処理された下水がながれている。ということは、善福寺川の水源は昭島周辺の家庭や工場の排水、ということであろう、か。

石神井川はどうだろう。源流地点の嘉悦大学あたりには水はほとんどなかったし、西東京のあたり家庭排水が流れ込んでもいたようだし、水量がふえてくるのは武蔵関公園の富士見池のあたり。池の水はポンプアップだが、近くの早稲田大学のグランドからの湧水は現在も結構豊富、とか。また、この石神井公園の三宝寺池も水源のひとる。ポンプアップによって地下水をくみ上げている、と。

お散歩で東京近辺の川筋を結構歩いたが、自然の湧水が源流となっていたのは、あまりなかった。東京では、東久留米の落合川、国立の矢川、町田の鶴見川あたりが記憶に残る。それだけに、「自然」な川の流れが思いのほか有難く思う。寄り道が過ぎた。散歩に戻る。

練馬区郷土資料室

豊島橋を渡り、禅定院前の豊島橋交差点を西に折れる。道の北に台地。その向こうには石神井池が広がる。石神井池は人口の池。かつては三宝寺池からの水路が開かれ、田圃が広がっていたのだが、その水路を堰止め、池とした、と。

しばらく進み石神井小前交差点に。南北に走る道は、三宝寺池と石神井池の間を通る。交差点を少し北に石神井図書館。その地下に練馬区の郷土資料室がある。少々、つつましやかな施設。とはいうものの、いつだったかここを訪れたとき「千川用水」の資料を手に入れ、それをもとに、千川筋や千川が養水した谷端川などの散歩が楽しめたわけで、施設の大小に関係なく、有難い場所ではあった。

石神井城址
資料室を離れ、三宝寺池二向かい、ゆるやかな坂を上る。坂の途中で西に折れる。道場寺、三宝寺の裏を進む。小路の北の台地が石神井城址。鎌倉末期、豊島泰経の居城跡、である。保護フェンスがあり中には入れない。空堀と土塁らしきものを保護フェンス越しに眺める。

豊島泰経って、太田道潅との戦いに敗れた平安以来のこの地の名族。道灌との合戦の経緯;1477年、道灌軍は豊島氏の属城である平塚城を攻める為に江戸城から進軍。平塚嬢は、上中里にある平塚神社のあたりとにあった、と言われる。泰経はその隙に江戸城を奪うべく石神井城より出陣。が、道灌軍は転じて石神井城方面に侵出。江古田・沼袋付近で両軍は激突(江古田原・沼袋の戦い)。豊島軍は敗れ、この石神井城に逃げ込むが落城。豊島泰経は,落城後,平塚城(北区平塚神社)に敗走。その翌年の1月25日に道灌に攻められ小机城(横浜市)に逃げた、と伝えられる。
そもそも何故、道灌と豊島泰経が争うことに成ったか、ということだが、遠因は関東管領と古河公方の争い、そして関東管領内部の内紛。元は鎌倉公方、つまりは、室町幕府の関東10カ国の最高責任者と、それを補佐する管領という立場ではあったが、京都の将軍家の下風に立つことを潔しとしない鎌倉公方と京都側に立つ関東管領が争い、結局公方が破れ、鎌倉を逃れ古河(茨城県古河市)で古河公方と称す。

道灌は関東管領の一族・扇谷上杉の重心。豊島泰経も関東管領山内上杉氏の重臣。もとはともに管領側の武将。同じ管領側が敵味方に分かれたのは、山内上杉家の重臣、長尾景春が跡目相続の恨みで主家に反旗を翻し、鎌倉公方から古河公方に移ったことによる。その際、豊島泰経は長尾景春に与力。泰経の妻が景春の妹、といった説もあり、両者の結びつきは強かったとも、新参者の道灌の活躍が名族豊島氏に目障りであったとか、諸説あり。ともあれ、泰経が古河公方側、というか長尾景春側についたため、関東官領の大田道潅と戦うことになった、ということだ。

後日談。大田道潅は出る杭は打たれる、ということか、主家扇谷上杉家に疑念をもたれ謀殺される。その後、後北条(ごほうじょう)氏、上杉氏、足利氏、長尾氏、太田氏による戦乱の中、扇谷上杉家は力を失い滅亡。一方山内上杉は越後に逃れ、管領職を重臣・執事の長尾氏に。長尾景虎こと、上杉謙信が関東管領として関東を窺うことになる。


三宝寺池

石神井城址のある台地を下ると三宝寺池。野趣豊かな池。ボートが浮かぶ公園といった雰囲気の石神井池とは少々赴きが異なる。昭和30年頃までは、結構湧水があったようだが、最近は地下水をポンプアップしている、とのこと。水面には葦なのだろうか、水草が茂っている。コウホネやハンノ木なども池中央の浮島に茂っている、と。
コウホネって渋谷川水系を辿っているとき、コウホネ(河骨)川に出合い、はじめて知った植物。河骨川って、童謡「春の小川」の舞台になった小川である。ハンノ木も同じ。荒川沿いを歩いているとき、園昔ハンノ木があった、といったことが語られていた。こういったきっかけでもなければ、花鳥風月を愛でる情感に乏しい我が身としては、一生知らなかった「単語」ではあった、ではあろう。

氷川神社
池の周囲をのんびり歩き、再び石神井城址のある台地へと戻る。城址の西に氷川神社。創建は室町時代。豊嶋氏が武蔵一宮である大宮の氷川神社から勧請したもの。石神井郷の総鎮守であった。

三宝寺
氷川神社を離れ旧早稲田通りへと台地を下る。通りに沿って三宝寺。由緒ある真言宗の寺。品格のある風情。ここにも将軍鷹狩の折って由緒書き。御成門もあるし、徳川家の祈願所でもある。もとは先ほど訪れた禅定院のところにあったようだが、豊島氏を破った太田道灌の命により、この地に移った。ちなみに三宝、って「仏・法・僧」。悟りを開いた人である「仏」、仏の教えである「法」、法を学ぶ仏弟子「僧」ということ。

道場寺
三宝寺能登なりに道場寺。豊島氏の菩提寺。開山も14世紀中頃と歴史も古い。建物は結構新しい。山門や三重塔は昭和40年代に建てられたものではあるが、落ち着いた雰囲気。本堂は唐招提寺を燃したもの、とのこと。

天祖神社

石神井池、というか三宝寺池巡りを終え、井草川緑道に戻る。石神井川の谷筋から千川上水の通る台地の尾根道に戻る。途中、下石神井6丁目に天祖神社。天祖神社って、昔は神明社と呼ばれていたが、明治の神仏分離の際に天祖神社となった例が多い、ここもその例にもれず、といった案配。
神明とは伊勢信仰、つまりは皇室の祖先神である天照大神が主神であり、明治の御代の皇威盛んなり折、皇室に対し「不敬」であろう、と自主規制した結果、天祖と改名したようだ(『江戸の町は骨だらけ;鈴木理生(桜桃書房)』)。

西武新宿線井荻駅

千川上水の尾根を越え、ふたたび井草川の流路のある谷地へと、ゆったりとしたうねりを下る。再び西武線近くの緑道に。すぐ東に矢頭公園。この公園越えると再び西武新宿線に交差。南に下ることになる。線路を渡り柿木北公園を過ぎると環八。環八を越えると西武新宿線井荻駅に。

科学と自然の散歩道

井荻駅前に「科学と自然の散歩道」の案内図。井草川遊歩道をノーベル賞受賞科学者・小柴先生の受賞記念事業としてつくられたもの。小柴先生の日常の散歩コースであったらしい。井草川遊歩道・妙正寺川・妙正寺公園・科学館をつないだ散歩道になっている。下井草5丁目・4丁目を下り、早稲田通りを過ぎると妙正寺公園にあたる。

妙正寺池
井草川は妙正寺池に流れ、この池の湧水を合わせ妙正川となって下ることになる。妙正寺池は昭和30年頃までは湧水が溢れていた、とか。池の東は台地となっており、いかにも湧水点、といった雰囲気。現在は地下水をポンプアップしているのは、井の頭池、三宝寺池、と同じ。

妙正寺川の始点に。妙正川の案内があった。「妙正寺川は、千川上水からの水もあつめ、神田川に合流する9キロなにがしの1級河川である」、と。北の千川上水から分水し、井草川を介して養水していたのだろう、か。

いつだったか、この始点から神田川との合流点まで歩いたことがある。川筋の道は、切れたり繋がったりと全面的に遊歩道が整備されているわけではないのだが、
 鷺宮とか沼袋とか、いかにも往時の湿地帯をイメージさせる地名にそって蛇行する川筋、弥生時代の遺跡の残る平和公園や、哲学堂の台地、目白の台地など、結構地形のうねりを楽しむことができる。

妙正寺
妙正寺池を離れ、公園に続く台地の上にある天祖神社に。先ほどの天祖神社と同じく、昔は神明社と呼ばれていたが、明治になって改名。その南に妙正寺。品格のある日蓮宗のお寺。慶安2年(1649年)、将軍家光が鷹狩りの際にお参りし、朱印地を寄進したことから、御朱印寺と呼ばれた由緒あるお寺だった。

天沼弁天公園
妙正寺の後は、一路JR荻窪駅に進む。清水地区を成り行きで進み天沼に。東京衛生病院裏手に天沼弁天公園。いつだったか、桃園川の源流点を探して歩いたときに来たところ。当時は、お屋敷の更地工事の最中。西武グループ総帥であった堤氏の「杉並御殿」の跡地であった、かと。現在は公園となり、池がつくられていた。
桃園川の水源であった弁天池はお屋敷が建てられたとき埋め立てれたようだが、再びそれらしき池として復活させたのであろう。公園内には杉並区の郷土歴史観の分館もある。

「天 沼」という地名の由来はこの弁天池、から。雨でも降ると水が溢れ、一面沼沢地のようになったのであろう、か。天沼=雨沼、かもしれない。実際、この一帯の地名、井草=「葦(藺)草;水草」、であり、荻窪=荻の生える窪地、ということで湿地帯であったことは間違いないだろう。
天沼の北に「本天沼」って地名がある。もとの天沼村を南北に分けるとき、北が「本天沼」と先に宣言。もともとの地名の由来にもなった地域は「天沼」に。素人目には「本天沼」のほうが本家・本元って感じがする。

『続日本紀』に武蔵国「乗潴(あまぬま)駅」って記述がある。諸説ある中でも、その場所はこの天沼あたりではないか、というのが定説になっている。「乗潴(あまぬま)駅」は、武蔵の国府のある国分寺から下総の国府のある国府台に通じる街道の「駅家」。官用の往来のため、馬などを常備していた、と。乗潴(あまぬま)駅から、武蔵にあったもうひとつの駅家・豊島(江戸城付近)を経由する官道があったのだろう。ちなみに「潴」、って「沼」の意味。

桃園川跡
今日は、善福寺川、石神井川、妙正寺川の水源と、その間の尾根道・分水界を巡る散歩ではあったのだが、最後で思いもよらず桃園川の水源にも出合った。この天沼の地から阿佐ヶ谷、高円寺と大久保通りに沿って中野を下り、新宿区との境で神田川に合流する神田川水系の川。現在覇すべて暗渠の下水幹線とはなっているが、小径といった緑道が阿佐ヶ谷から下流に整備されている。
公園からは如何にも水路跡らしき道を辿り、天沼八幡さまなどちょっと立ち寄りながら、JR荻窪駅に到着。本日のお散歩を終える。 

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