2009年8月アーカイブ

曳舟川散歩

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足立・葛飾・隅田区を曳舟川筋に沿って、北から南に
隅田区を散歩していたとき、荒川に近い八広から斜めに一直線、京成押上駅近くで北十間川に合流する曳舟川水路跡に出合った。現在の曳舟通りがその川筋であろう。名前に惹かれチェック。荒川を越え、葛飾、足立、そしてその先にまで続いている。トレースする。八潮、越谷を越え、埼玉県鳩ヶ谷市瓦曽根の「しらこばと橋」辺りで、古利根川というか、元荒川から分岐していた。
この水路、もともとは万治2年(1659年)本所・深川が開発されたとき、旗本・御家人宅への上水を供給するためにつくられた。ために本所上水とも呼ばれた。また、流路の場所によって、亀有上水とも葛西上水とも呼ばれていた。が、この用水、供給水量が不安点だったこともあり、曳船川結局は享保7年(1722年)には上水としての役目を終える。その後は農業用水とか舟運に使われるようになった、とか。「葛西用水」が通り相場となったのは、このとき以降だろうか。全長70キロ以上とも言われる用水である。
曳舟川の名前の由来は、農業用水ではなく「舟運」利用にある。この川筋の脇を四ツ木街道が通り、水戸街道と接続している。そのためこの用水は次第に重要な交通路となる。道行く旅人の便宜のため、「ザッパコ」と呼ばれる田舟のような舟に乗せ、堰から引かせた。これが「曳舟川」の由来。
曳舟のサービスが提供されていたのは、亀有から四ツ木あたりまで。それより下流は早い時期に埋め立てられたようだ。が、ともあれ、葛西用水のうち、「曳舟サービス」が提供されていたところを差して「曳舟川」と呼んでいたようだ。ちなみに、偶然読んだ本、『江戸近郊ウォーク』(田中孝嗣・田中優子:小学館)、これって江戸時代尾張徳川家の家臣・村尾嘉陵の散歩の記録なのだが、ここには、世継ぎ(四ツ木)の引舟とも、亀有引舟とも書かれていた。
さて、どこからはじめよう。さすがに鳩ヶ谷は遠すぎる。ということで、せめてのこと、東京と埼玉の境、足立からスタートすることにした。地図を見ると足立区の大谷田あたりを通る曳舟川というか葛西用水脇に足立区の郷土資料館がある。葛飾区の白鳥あたりの用水脇には葛飾区の郷土資料館がある。足立にしても葛飾にしても、地理も歴史もなんにもわかっちゃいない。ついでのことでもあるので、足立から葛飾へと用水跡を歩き、地域の資料を集め、前から気になっていた木下川薬師(きねがわ)を訪ね、隅田区に下る、というルートをとることにした。
photo by harashu




本日のコース: 地下鉄千代田線・北綾瀬駅 > 葛西用水親水水路 > 足立区郷土博物館 > 大谷田陸橋 > 葛飾区;亀有 > 葛飾区郷土と天文の博物館 > 京成電鉄・お花茶屋駅 > 四ツ木;渋江の白髭神社 > 西光寺・葛西清重の館跡 > 木下川薬師(浄光寺) > 荒川・木下川橋 > 日枝神社 > 曳舟通り > 押上

地下鉄千代田線・北綾瀬駅
地下鉄千代田線で北綾瀬駅に。東に向かい谷中3丁目、大谷田3丁目を歩く。それにしても「谷」が目に付く。谷といっても阿佐ヶ谷の「谷」といった感じの低湿地のことを指すのだろう。このあたり、東の中川と西の綾瀬川に挟まれたこの一帯は、昔は利根川とか古隅田川が流れていたわけで、谷中は低湿地のど真ん中、大谷田は滅茶苦茶大きな湿地帯、といった地形を現していたのだろう。
葛西用水親水水路
曳船親水路道なりに適当に進むと「葛西用水親水水路」。曳舟川はこのあたりでは、葛西用水と呼ばれていた。足立区の北端の神明から葛飾区の境まで3.5km、中央に水路を通した親水公園として整備されている。釣り場などもある。ちなみに、神明って、この地にある天祖神社が「神明さま」と呼ばれることによる。天祖神社って、明治の神仏分離令のおり、「神明の社」が改名したものがほとんどである。
photo by harashu

足立区郷土博物館
「葛西用水親水水路」を少し北に。大谷田5丁目の水路脇に「足立区郷土博物館」。一通り廻り、『足立区立郷土博物館常設展示目録』、『足立の歴史』といった関連資料を購入し、水路を隅田に向かって散歩を開始する。

大谷田陸橋
南に下り、大谷田1丁目の団地のあたりまで下ると、水路の上に木道がつくられている。快適な散歩道。環七との交差、大谷田陸橋に。陸橋を越えると東は中川地区、西は東和地区。中川は言うまでも無く、中川に接しているから。東和は昭和になってつけられた町名。いくつかの町が一緒になるに際し、あれこれ議論があったよう。結局、このあたりの昔の地域名、東淵江村の村々が和をもってあれかし、といった按配で「東和」になった、とか。そういえば、東大和市の名前の由来も、おなじような手法。村々が合併するに際し、「大いに和するべし」ということで名付けられた、とか。

葛飾区:亀有
亀有東和を過ぎると亀有。古隅田川遊歩道の案内。中川から荒川(放水路)まで、足立と葛飾の区境を流れている、というか流れていた。葛飾区に入る。水路は常磐線・亀有の駅の西を下る。亀有、って元々は「亀無」とか「亀梨」と呼ばれていた。意味するとことは、「かめなし」 = 亀のような小高い砂州・微高地を成(な)していた・作っていた、ということ。が、「梨」のことを「有りの実」とも言うようだし、それよりもなによりも、「無し」はイメージがよろしくない、ということで「有り」にした。「するめ」を「あたりめ」というが如し、か。
photo by harashu

葛飾区郷土と天文の博物館
亀有4丁目あたりから、「曳舟川親水公園」となる。先に進み白鳥3丁目に「葛飾区 郷土と天文の博物館」。ひと周りし、資料を買い求める。『常設展示目録』、『下町・中世再発見』など結構しっかりした資料があった。白鳥の地名は、このあたりに白鳥が群れる沼・白鳥沼があったから。
京成電鉄・お花茶屋駅
お花茶屋「曳舟川親水公園」の西はお花茶屋地区。お花茶屋というなんとも響きのいい地名ができたのは戦後。昭和6年にできた京成電鉄の駅名から地名を起こした。で、そもそものお花茶屋の由来は、将軍吉宗だったか家光だったか、どちらかがこのあたりに鷹狩。急な腹痛。曳舟川沿いの御茶屋で休息。茶店の娘・お花さんの手厚い看護。将軍いたく感激。お礼に茶釜、そして店の名前を「お花茶屋」と名づけ、その後もしばしば立ち寄った、とか。これがお花茶屋誕生のストーリー。
photo by harashu

四ツ木:渋江の白髭神社
京成線を越え、四ツ木地区を下る。四ツ木の地名の由来は、頼朝が奥州征伐の折、このあたりで「今なん時?」と。応えて曰く、「四つ過ぎ」が「よつき」にといった、少々でき過ぎといった説があったり、四本の木に関係する何かがあったり、「世継ぎ(稲荷)から、といったりで、例によってあれこれ。
水戸街道と交差。交差点近く、四ツ木陸橋の南に白髭神社。渋江の白髭神社とも客人(まろうど)大権現とも呼ばれる。白髭社と客人社は明治になって一緒になったよう。白髭は何度かメモした。客人大権現ははじめて。「客人(まろうど:まれびと)」信仰、ってよくわからない。まつろわぬ民、つまりは大和朝廷に征服された先住民の信仰した土着神のこと、と言う。大宮の氷川神社には、摂社として「荒脛巾(あらはばき)神社」があるが、荒脛巾(あらはばき)って「客人神」である、とか。
また、民俗学者・折口信夫によれば、「客人」って、時を定めて訪れる霊的存在、と言う。地域に「閉ざされた」昔の人々にとって、遠方からの客人は、新しいもの・ことをもたらす貴重な存在として、もてなしたのだろう。見知らぬ情報・技術をもたらす客人を、神 = 霊的存在として信仰したのであろう、か。
渋江の由来は不明。江は、水辺のこと。曳舟川というか本所用水というか葛西用水と綾瀬川が交差する水郷地帯であった、ということか。渋江、って「飲み水につかえない水」とい説もある。ともあれ、わからない。

西光寺・葛西清重の館跡
水戸街道を越える。川筋跡は街道に沿って下り、綾瀬川に至る。道脇に結構立派なお寺さん。西光寺。葛西清重の館跡と言われる。葛西清重は豊島清光の子。渋江を含む葛西の荘を治める。頼朝挙兵当初より与力する。奥州討伐後、奥州総奉行となり、東北全域の御家人を統べた。
葛西氏はもとは秩父平氏の流れ。秩父平氏の畠山一党、江戸重長ともに平氏に与みするも、葛西氏は当初より源氏につく。頼朝の信頼も厚く、江戸重長を源氏に与力するよう交渉につとめてもいる。鎌倉幕府成立後、江戸氏は没落したが、葛西氏はその後も奥州葛西氏として続くが、小田原合戦の後秀吉に敗れ、一族の命脈は尽きる。

木下川薬師(浄光寺)
綾瀬川に沿って下る。中川が綾瀬川に合流するあたりに、木下川薬師(浄光寺)。「きねがわ」と読む。もとは現在の荒川の中にあったもの。荒川放水路の工事にともない現在地に移る。この薬師さんが気になったのは、先日の隅田区散歩のおり、荒川を隔てて向かい側、東墨田3丁目の白髭神社を訪ねたときのこと。もとは木下川薬師と一体だったものが荒川放水路工事のため移転。お寺は葛飾、神社は隅田へと泣き分かれ、とか。で、このお寺さん、平安の頃つくられたという由緒ある薬師さん。本尊の薬師如来は伝教大師の作、と。江戸の時代には将軍家の庇護を受け栄えた。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)


荒川・木下川橋
木下川薬師を離れ綾瀬川を北に戻る。木下川橋を渡り隅田区に。橋を渡りながら、考えていた。相当長い間、見当がつかずあれこれ考えていたことがある。曳舟川は、この大きな荒川をどのようにして越えていたのだろう、ということだ。綾瀬川を越えるときは懸樋を通していたようだが、こんな大きな川をどうやって、と考えていた。あれ、この荒川って昔は無かった。明治43年の大洪水を期に工事がはじまり、昭和5年に完成した人工の水路・放水路。ということは、江戸の昔にはこの荒川って影も形もなかったってこと。橋を歩きながら、少々の悩み解決と相成った。

日枝神社

橋を渡り京成八広駅あたりに。近くに日枝神社。日枝については幾度かメモした。その部分をコピー&ペースト:日枝神社は、明治に日吉山王権現が日枝神社となったものが多い。「**神社」って呼び方はすべて明治になってから。それ以前は「日吉山王権現の社(やしろ)」のように呼ばれていた(『東京の街は骨だらけ』鈴木理生:筑摩文庫)。
日吉山王権現という名称は、神+仏+神仏習合の合作といった命名法。日吉は、もともと比叡山(日枝山)にあった山岳信仰の神々のこと。日枝(日吉)の神々がいた、ということ。次いで、伝教大師・最澄が比叡山に天台宗を開いき、法華護持の神祇として山王祠をつくる。山王祠は最澄が留学修行した中国天台山・山王祠を模したもの。ここで、日吉の神々と山王(仏)が合体。権現は仏が神という仮(権)の姿で現れている、という意味。つまりは、仏さまが日吉の神々という仮の姿で現れ、衆生済度するということ。本地垂迹というか神仏習合というか、仏教普及の日本的やり方、とも。

曳舟通り
曳舟通り新四ツ木橋からの通り。ここが曳舟通り。昔の水路跡だろう。水路の名残はなにもない。ただ、東向島6丁目の長浦神社あたりまでは、通りの東側には公園といった緑地が多い。このあたりを流れていたのだろうか。想像するだけ。長浦神社の名前は、昔この辺りを寺嶋村大字長浦とよばれていた、から。先に進み明治通りと交差。曳舟川交差点。近くに京成曳舟駅とは曳舟文化センターとか、東武伊勢崎線曳舟駅といった曳舟川の名残を今に伝える名前が残る。
photo by harashu



押上
曳舟通り・飛木神社東武伊勢崎線のガードをくぐり押上地区に。「押し上げ」って、河口に流れ込み堆積される土砂、その堆積するさまがよく表される地名である。押上2丁目にある飛木稲荷の境内にある銀杏は、往時河口にあった自然堤防に育ったものである、と。
先に進み東武伊勢崎線業平橋の先で北十間川に曳舟通りは合流。昔は大横川の法恩寺橋のあたりまで掘が通じていたようだ。が、本所上水を廃止するころに、業平橋より南は埋め立てられた。
曳舟川を足立、葛飾、隅田区と縦一直線に下る。さてと、つぎは、葛飾区、そして荒川区を数回に分けて歩いてみよう、と思う。
photo by harashu


京王線・仙川駅から野川との合流点まで
仙川散歩の三回目は下流域散歩。京王線・仙川駅からはじめ、川筋に沿って下り、祖師谷、砧と進む。東名高速の手前、大蔵の地には崖下から湧水が湧き出る。崖線のことを「はけ」と呼ぶ。野川「はけの道」はよく知られている。この「はけ」もところによって呼び名が変わる。国立の立川・青柳崖線では「ママ」と呼ばれている崖は「バッケ」。「はけ」とか「バッケ」は崖がなまったもの、とは思うのだが。「ママ」って由来はなんだろう。一説には「アイヌ語」とも言われるが、よくわからない。
ともあれ、崖線を横に見ながら野川との合流点まで進む。合流点の近くでは「丸子川」も登場する。六郷用水の上流部である。流路は更に南に伸びている。



本日のコース: 京王線・仙川駅 > 甲州街道 > 甲州街道・仙川崖線緑地 > 神明神社 > 祖師谷公園・つりがね池 > 砧の撮影所 > 大蔵3丁目公園 > 野川と合流 > 丸子川・六郷用水分岐点 > 岡本民家園 > 矢戸川合流点 > 砧公園バス停

神明神社
京王線・仙川下車。京王線の南側を千歳烏山方面に下り仙川に。遊歩道を進む。駒澤大学の野球場を越えたあたり、神明神社と祖師谷公園。神明社とは、伊勢信仰に由来する名前。かつて神明社と呼ばれていた社・祠は、明治期に天祖神社と名称を変更したケースが多い、とか。天皇家にゆかりの深い伊勢神宮に遠慮をしたのだろう。ちなみに、「神社」という名称がつけられたのは明治になってから。それまでは、「社」とか「祠」と呼ばれていた、と(『江戸の街は骨だらけ』鈴木理生:桜桃書房)。神社自体は今ひとつ情緒がないが、境内の木立は素晴らしい。確か保護樹林といった掲示があった。



祖師谷公園・つりがね池
神社に隣接して、祖師谷公園。川の両側に広がる。公園を一回りし進み、祖師谷5丁目あたりの遊歩道に地域の地図。つりがね池という名前の池が目にとまった。川からちょっと離れており、さてどうしたものか、とも思ったが、名前に惹かれ足をのばすことにした。道に迷いながらあちこち。またも神明社に出くわす。行き 止まりに何度も阻まれながら「つりがね池」に。
崖下からの湧水がもとになった水源池。周囲の丘の緑も美しい。昔、わが身を犠牲にし、雨乞いをおこなった和尚の話が伝わる。日照りが続き、渇水に悩まされていたとき、和尚が現れ雨乞いの儀式をおこなう。するとある日突然の大雨。日があけると和尚の姿はない。お寺から鐘がなくなっている。鐘を引きずった跡が池の辺まで。鐘ともども池に身を投げ。。。つりがね池のあるこの「窪地・谷」 = 祖師谷との説も。祖師谷とは祖師堂のある谷のこと。で、祖師とは関東では日蓮上人のこと。池に身を投げた、といっても今の池は浅そうで身投げの想像はできないが、ともあれ、わが身を犠牲 にした坊さんが日蓮宗の坊さんであったとすれば、そのとおりであろうか。

砧の撮影所
川筋に戻り、両側に成城学園コンプレックスを眺めながら小田急線をくぐる。砧の撮影所を見ながら歩く。張りぼての「岩」が転がっている。砧の由来。往古、この地は絹布の名産地。織りあがった布を小槌で打ってやわらかくするときに下に敷いていた板のことを「絹板(きぬいた)」と。このこれが「砧」の地名の由来とのこと。で、砧といえば、砧6丁目に北原白秋が住んでいた、とか。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」

散歩をしていると白秋の住んでいた、というところにしばしば出会う。千葉の市川の国府台・里見公園には住居が「紫烟草舎」が保存されていた。「野茨に鳩」はお気に入りの詩。短い詩をちょっとメモ:

薔薇
薔薇ノ木ニ
薔薇ノ花サク。
ナニゴトノ不思議ナケレド。

他と我
二人デ居タレドマダ淋シ、
一人ニナッタラナホ淋シ
シンジツ二人ハ遣ル瀬ナシ
シンジツ一人ハ耐ヘガタシ
(白金之独楽)

大蔵3丁目公園
世田谷通りを越え、川筋から少し離れ、大蔵3丁目公園に。崖下から湧き出る湧水池。池や親水公園もいいのだけれど、その裏の崖が魅力的。崖を登ったり降りたり、気持ちのいい時を過ごす。崖をおり、川に戻る。すぐに東名高速道路と交差。砧公園の裏手の運動公園の森がある。








野川と合流
東名高速を越え、自動車教習所のあたりに、結構大きい浄水施設。「礫間接触酸化法[れきかんせっしょくさんかほう]とかいった浄化法で水を美しくし、谷戸川とか谷沢川にも水を供給しているとのこと。谷沢川って、等々力渓谷を流れる川。
少し下がったところで、仙川脇から細い水路が分かれている。気になってチェックすると六郷用水との掲示。地図で確認するとずっと南まで続いている。谷戸川とも繋がっている。
すぐ先にある多摩堤通りを越えると仙川は野川と合流。この野川との合流地点では帰るに帰れず、電車に乗るにも乗れない。どうせ最寄の駅まで歩くのならと、六郷 水路・谷戸川沿いに北上し砧公園へ。でバスに乗り、千歳船橋へとのコース設定。仙川・六郷用水の分岐まで戻る

丸子川・六郷用水分岐点
分岐点から六郷用水に沿って歩く。丸子川と呼ばれているこの六郷用水、江戸に入府した徳川家康が領内の耕作地を開発するために開削させたのがはじまり。多摩川から取水され、その左岸一帯の灌 漑用水として使われていた。多摩川治水奉行・小泉次太夫吉次の名にちなんで次太夫堀とも呼ばれる。野川・喜多見のあたりに次太夫公園がある。













岡本民家園
丸子川を下り、岡本民家園の前を通り、谷戸川が合流する場所を確認し、大きく迂回しながら矢戸川の源流地点方面に北に登る。地図で見る限り、砧公園中まで川筋が続いているようだ。時間がなくて寄れなかったが岡本民家園とか静嘉堂文庫あたりの森はいい感じ。地形のうねりも気になる。








砧公園バス停
砧公園川に沿って北に。が、東名高速道路との交差で行き止まり。川は下をくぐるが道はない。結局高速道路にそって砧公園・環八近くまで引っ張られバス停に。
photo by tarawo

仙川の中流域:武蔵境からはじめ、京王線・仙川駅に 仙川散歩の2回目。武蔵境駅からはじめ甲州街道まで下る。仙川の中流域、といったもの。地図を眺めると、人見街道あたりまでは川筋は直角に曲がっている。川筋は自然の地形を反映する。高きところから低きところへの進むわけである。道理として、勾配が急なところは比較的まっすぐ、緩やかな勾配のとことでは蛇行を繰り返す。低きところを求めて試行錯誤を繰り返した結果でもあろう。
で、直角の流路。これは「自然」では稀な流路。河川改修が施されたのであろう。直角の流路のが繰り返される連雀町のあたりは明暦の大火のあと、焼け出された神田連雀町の人々によって開墾されたところである。直角の流路が当時の開墾地の反映なのか、時代がずっと下ってのものなのか分からないが、基本的には人の手がかかったものであるのは間違いない。人見街道より上流は平成4年までに河川改修を終えたというので、ひょっとすると、遠い昔のことではないかもしれない。
連雀町の開墾は明暦以降というから17世紀の後半のことである。玉川上水からの分水によるところが多かった、と。この近辺の新田開発の経緯をメモする:三鷹市の資料によれば、牟礼、上・中仙川村、そして大沢村は古くからあった、よう。牟礼は井の頭の南。仙川は現在の中原・新川あたりだろうか。大沢は国立天文台のあたりに地名が残る。その後、1690年頃までには、下・上連尺村、北野村、野川村、野崎村が開かれる。北野は現在も地名が残る。牟礼と中央道に囲まれた一帯、か。野川村、野崎村は現在の地名には無いが、位置から見て、連雀町と仲原町に囲まれた一帯のように思える。杏林大学の近辺かもしれない。玉川上水・街道の開発によるところが多い、と言う。これらの村々は古新田と呼ばれた。で、武蔵野新田と呼ばれる、井口新田、野崎新田、深大寺新田、大沢新田が開かれたのは1725年より後のことになる。幕府の財政立て直しの施策として八代将軍吉宗が各地で新田開発をおこなったが、その一環であろう。
直角の流路 > 人工 > 新田開発、といった連想ゲームで話が少々広がってきた。ともあれ、散歩に出かける。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」



本日のコース: JR線・武蔵境駅 > 水源の森 > 禅林寺 > 野川宿橋 > 仙川公園 > 勝淵神社と丸池公園 > 甲州街道・仙川崖線緑地 > 京王線・仙川駅

中央線・武蔵境駅
武蔵境って、このメモするまで、都心と郊外の「境」といったことであろう、と思っていた。がどうも大きな誤りのよう。名前の由来は、このあたりに「境新田」があった、ため。現在の境とか桜堤といった一帯だろう。で、「境新田」の由来は、出雲松江藩の屋敷奉行の境本氏がご用屋敷のあった場所を幕府より貰い受け、新田開発につとめた、ため、と言う。

武蔵野市境南町から三鷹市上連雀に
地図で見る限りでは、直角に曲がっている。いかにも人工的に作られた水路。味気のない溝が続くのであろうとの予想。予想通りの展開。中央線下をくぐってきた水路確認。武蔵野市境南町から三鷹市上連雀に向かって、直角ターンで溝が続く。あじもそっけもないH鋼、というか「つっかえ棒」で横強度を保たれている。

水源の森
上連雀5丁目あたりに、「水源の森」。森といっても森があるわけでもなく、雨水を浸透させ地下に貯め、湧水のように仙川に流し込む人工的な水の循環施設。ちょっとした公園、といったもの。仙川を水の流れる川にするための試み。そういえば、武蔵境より先の、仙川の源流からの水などほとんど流れていなかったよう。また、水源の森のあたりにも水はあまりなかったようだが???





禅林寺
三鷹通りの手前、市立第四中学校付近を過ぎるあたりで、仙川は暗渠に入る。この暗渠は、三鷹通りを 斜めに横切り、八幡大神社、禅林寺の裏から連雀通りを渡って下連雀7丁目の変電所あたりまで続く。地図には禅林寺裏から水路が書いてあるのだが、実際はみ つけることができず、連雀コミュニティセンターあたりの掲示板で開渠部を確認し進む。
黄檗宗、いかにも中国風の山門をもつ禅林寺には太宰治とか森鴎外のお墓がある。太宰は森鴎外を尊敬していたとのこと。「花吹雪」のなかでは「この寺には、森鴎外の墓がある。・・・墓地は清潔で、鴎外の文章の片影がある。私の汚い骨も、こんな小綺麗な墓地の片隅に埋められたら、死後の救いがあるかもしれない」と。玉川上水で入水自殺をした太宰治は森鴎外のお墓の斜め前で永久 の眠りについている。

野川宿橋
下連雀の7丁目で開渠となった仙川は9丁 目、8丁目へと、ジグザグ・直角ターンを続け新川に人見街道とは野川宿橋で交差する。仙川はこの橋を境に、いわゆる川らしくなる。野川宿橋というのは、この新川あたりは昔、野川宿とよばれていたから。人見街道は、現在の府中・若松町の旧地名人見村へと通じる道であるから。また、人見の地名は、人見四郎に代表される武蔵七党の人見一族から、とか。

仙川公園
野川宿橋から川幅も急に大きくなる。また、橋下から勢いよく湧き出している。湧水?ではなく、ちょっと下った新川4丁目あたりにある樋口取水場からくみ上げた湧水が、ポンプでこの橋まで送られてきているとのこと。東八道路にかかる新川大橋をこえ、遊歩道に。川の両側に緑の公園。仙川公園。公園の名を小川が流れている。もちろん、人工のせせらき・小川だし、樋口取水場から送られてきた人工の湧水だろう。仙川遊歩道が快い。

勝淵神社と丸池公園
新川3町目から5丁目あたりに勝淵神社と丸池公園。勝淵神社の祭神は水波能売命(みずはのめのみこと)。いかにも水の神。「明神さま」と呼ばれている。境内には、柴田勝家の黄金の兜を祀ったといわれる塚がある。
ところでこの「明神さま」っていったい何だ? どうも特定の神さまではないようだが? 調べてみた。広辞苑によると、「神を尊んでいう称号」「名神(みょうしん)の転」とあり、「名神」は「延喜式に定められた社格。名神祭にあずかる神々で、官国幣を奉られる大社から、年代も古く由緒も正しく、崇敬の 顕著な神々を選んだもの」とあった。つまり、古くから祀られた由緒正しい神や神社のことを、一般的に「明神(めいしん)様」と呼ぶのだそうだ。ただ、明神(みょうじん)さまが普及したのは神仏習合・本地垂迹とも呼ばれた仏教普及策が広がってからではある。
勝淵神社 の東はちょっとした丘。丘を散歩し下に下りる。南に丸池公園。ここが遊水地「丸池」があったところ。昔はこのあたりを「千釜」と呼ばれていた。釜とは湧水源のこと。釜の形のように多くの湧水噴出し口があったのだろう。一時埋め立てられたが、今は池のある公園となって往時の姿の一部を再現した。ちなみに、こ の「千釜」がなまったものが仙川の名前の由来、とか。

甲州街道・仙川崖線緑地
樋口取水場を越え新川天神山青少年広場の雑木林を眺めながら中央高速をくぐる。左手に白百合女子大学の緑の森が美しい。三鷹市東部下水処理場。高度処理された下水が仙川に放流されている。甲州街道の手前に仙川崖線緑地。崖地を登り、雑木林を歩き甲州街道に。甲州街道を少し調布方面に戻り、京王線仙川駅に。

川を歩こう、とするとき、源流点がいかにも気になる。その理由はよくわからない。が、中国地方や九州では川 = カワ、といえば井戸、というか、水源のことを指す。伊豆七島でも共同井戸のことを、「カァ」と言う(『川の文化誌』北見俊夫:日本書籍)。川 = 源、といったことが刷り込まれているのだろう、か。ともあれ、仙川の源流点に向かう。
仙川の源流点は東京都小金井市・東京学芸大学の近く。仙川に限らず、東京の川の源流点は、この付近に多い。ここから1キロ弱、嘉悦女子短期大学の構内には石神井川の源流点もある。仙川は多摩川水系、石神井川は荒川水系である。多摩川水系には仙川のほか野川が知られる。荒川水系は、石神井川のほか、東久留米の湧水に源を発する黒目川・落合川などがある
水系の境となるところを分水界、と言う。多くは尾根道がそれにあたるが、武蔵野台地のこのあたりでは、玉川上水の流路が分水界であろうかとも思える。実際、仙川の源流点・上流部の流れのすぐ北、緩やかな坂の上に玉川上水の流路がある。石神井川の源流点はその「尾根道」の向こうでもある。
玉川上水は多摩川・荒川の両水系の間を東流する。分水界の尾根道を辿りながら、四谷大木戸へと開削していったのであろう。玉川上水とつかず離れず、仙川上流部の散歩を始めることとする。




本日のコース: サレジオ小中学校 > 仙川開渠最上流部 > 山王稲穂神社 > 築樋 > 仙川・小金井街道 > 三光院 > 大尽の坂 > 浴恩館公園 > 東大通り > 市杵島神社 > 梶野大通り > 桜堤公園 > くぬぎ橋通り・仙川 > 亜細亜大学・仙川 > 武蔵境通り・仙川 > 仙川開渠に > JR武蔵境駅

サレジオ小中学校
JR 武蔵小金井駅で下車。成り行きで歩き、東京学芸大学を目指す。仙川の源流点は、大学の北隣、サレジオ小中学校内の池、といった記事を見たことがある。それをたよりにサレジオ小中学校に。構内には入れないだろう、とは思っていたのだが、開放されていた。感謝。広々と、自然豊かな構内を歩く。結構広い構内を巡ったが池らしきものは、見当たらず。学校を離れ、新小金井街道沿いの「仙川上流端」まで戻る。






新小金井街道・「仙川上流端」
新小金井街道・学芸大角交差点のすぐ北に「仙川上流端」の案内板。開渠部には水の流れはなにも、ない。秋の頃でもあり、落ち葉が重なる。新小金井街道下からは暗渠部となっている。サレジオ小中学校に一直線の道があるが、それが昔の川筋であったのだろう、か。湧水も枯れ、川筋も埋められたので、あろう。
小金井には湧水が多かった、という。この新小金井街道の「小金井」も、「黄金のようにすばらしい水が湧き出るところ」、という説もある。また、このあたりの地名・貫井にしても同じ。貫井って練馬にもあるが、「温かい(ぬくい)水が湧き出ることろ」といった意味のようで、ある。先日歩いた貫井神社、小金井の貫井南にあるこの神社では、崖下(はけ)から豊かな地下水が湧き出ていた。

小金井公務員住宅
学芸大角交差点を東に折れ、北大通りに。最初の信号を北に折れ、仙川脇に。周囲は小金井公務員住宅。川筋に沿って道が続く。とはいっても、水路の周囲はフェンスで囲まれ、中に入ることはできない。水の流れはなにも、無い。川筋の両側には桜の並木が続く。小金井公務員住宅の東に本町住宅。どちらも公務員宿舎である。ようだ。これらの公務員住宅は、作られた当時、大規模団地のモデルとして、大いに人気があった、と言う。

山王稲穂神社

本町住宅を抜けると道のすぐ南に「山王稲穂神社」。承応3年(1654年)、小金井新田開発の守護のため、麹町山王宮(赤坂の日枝神社)より勧請されたもの。稲穂神社、という名前は明治になってつけられたのだろうが、この「稲穂」、最近あることで有名になった。早稲田実業の夏の甲子園優勝が、それ。早稲田実業の校章は「稲穂」。その縁もあり、この山王稲穂神社の宮司さんが地鎮祭を行った。またまた、その縁もあり、甲子園での活躍を祈って、この神社の「お守り」をナインに贈る。で、優勝。ハンカチ王子こと、斉藤投手も身につけていたという、神社の「幸福守り」、大願成就のお守りとして少々有名になった、とか。

「築樋(つきどい)」
神社を離れる。神社のすぐ北で、仙川は南北に走る堤の下をくぐる。仙川が交差する堤上に「築樋(つきどい)」の案内板。築樋(つきどい):「築樋(つきどい)は、赤土を盛ってつき固め、土手を築いて、そこを用水路としたもの。武蔵野台地では水車用水や、起伏の大きい場所に水を通すときに用いられた土木工法。元禄9年(1696年)、飲用水として玉川上水を分水するために造られたもの。長さ104m、高さ5.4mあったと記録されている。当時は仙川のうえを一部掛樋で渡していた」、と。





小金井用水跡を歩く
南北に続く堤は、玉川上水から分岐された「小金井用水」の水路であった。いつだったか玉川上水を歩いたときにメモした、小金井分水の案内板のまとめ:「承応3年(1654年)に玉川上水が開設。付近の村々は呑用水、田用水として分水を幕府に願い出る。小金井村分水は元禄年間(1688 - 1704年)に許可が出る。水路は山王窪(稲穂神社北側)の築樋を通り、小金井村に分水された。明治3年(1870年)、玉川上水の通船事業(明治5年廃止)に支障があるとの理由で、旧分水樋口や、井筋が廃止・統合される。新たに砂川用水が延長され、小金井村分水はこの場で分水されるようになった」、と。
玉川上水の通船事業というのは、玉川上水を船運水路として活用する事業。江戸期から何度も意申請が行われたが実現したのは明治になってから。とはいうものの、上水が汚染される、ということで、2年程度で廃止となった。
小金井分水はこの通船事業が開始されるとき、玉川上水からの分水が止められ、砂川用水から分水されることになる。砂川用水は西武立川駅の東、東文化通りと玉川上水が交差するところで、玉川上水から分岐。五日市街道に沿って南東に下り、小平の上水本町で玉川上水と接近。このあたりでは玉川上水と平行で東流していた。
玉川上水の少し南に切れ切れに水路跡がある。砂川用水の跡だろう。分水は飲料水、灌漑、水車等に利用され、新田開発に大きな役割を果たしたが、昭和40年代になり都市化にともないその役割を終えた。

小金井街道・「大松木之下の稲荷神社」
仙川をまたぐ堤を北に進む。小金井用水跡はちょっとした遊歩道として整備されている。少し北に進むと、道脇に水路が続いている。水は何も、無い。更に北に進み、再び仙川に引き返すべく、成り行きで東に折れる。
すこし進むと小金井一中。学校の南端を進み、上水公園を越え、小金井養護学校のあたりから南に下る。道なりに進み仙川筋に戻る。
本町4丁目を仙川に沿って東に進む。水はなにも、無い。水路は北大通りと合流するあたりで暗渠となる。東に進むと小金井街道。本町2丁目交差点。交差点東詰めに「大松木之下の稲荷神社」。現在は暗渠となっているが、江戸時代の末頃、仙川の水路の縁にあたるこの稲荷神社には、御神木の松の大木があった、とか。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)

三光院
交差点を東に進む。すぐに仙川の開渠部にあたる。今まで東に進んできた水路は、ここから北に向かう。このあたりから水路脇に道はなくなる。つかず離れずの川筋歩きとなる。石神井川歩きでの右往左往の戸惑いを思い出す。同じことになるのであろう、か。水は相変わらずなにも、無い。
本町3丁目、川の少し東に三光院。境内に「山岡鉄舟先生之碑」がある、と言う。鉄舟って、江戸城無血開城の立役者。勝海舟、高橋泥舟とともに、幕末の「三舟」と称される人物。剣・禅・書の達人といわれるが、西郷をして「金もいらぬ、名誉もいらぬ、命もいらぬ人は始末に困るが、そのような人でなければ天下の偉業は成し遂げられない」と言わせしめた人物。徳川慶喜に仕え、明治には明治天皇の教育係りをつとめあげたこともうなずける。
門は閉じられており、境内に入ることはできなかった。が、外から眺めても、所謂よくある「お寺」って感じがしない。なんとなく佇まいが気になる。すこしチェック(WEBサイト「坂東千年大国」より):この三光院は鉄舟が晩年の住処として買い求めた場所である、と言う。が、結局この地には尼寺が建てられることになる。昭和初期のことである。台東区谷中にある鉄舟開基の寺・全生庵ゆかりの女子が資財を投じて建てた、と言う。この女子、鉄道唱歌「汽笛一声新橋を」を冊子にして売り出して大成功を収めた、とか。三光院の初代住職は京都嵐山の曇華院から招かれた。曇華院は京都・嵯峨野にある尼門跡寺院(女宮様のお住まいの寺)。三光院では曇華院の流れを受けた竹之御所流精進料理がいただける、のはこういった経緯による。なんとなくの雰囲気を感じたのは、精進料理をもてなす尼寺、といったこともその因であったの、かも。
鉄舟が住処としてこの地を買い求めることになるのは、鉄舟と親交のあった侠客・小金井小次郎の口利きによる、と言う。幕府の重臣と侠客、このふたりが交わるまでには小金井小次郎の結構面白いストーリーがあった。前述、「坂東千年王国」からまとめる:小金井小次郎。三多摩から相模にかけての大侠客。元は小田原北条の武家の出。江戸時代、この地に移り関野新田を開墾し、名主となった関家の6代目。が、浪曲・講談ではないけれど、ガキの頃からばくち三昧。十代の頃には勘当され、無宿人に。草鞋を脱いだところが府中の大親分万吉一家。一宿一飯の恩義であろうが、「出入り」の末、凶状持ちに。江戸を逃れるも結局はお縄。石川島の人足寄場に送られる。二十歳過ぎのこと、と言う。
石川島の人足寄場で出会った人物が鉄舟との縁となる。新門辰五郎がそれ。辰五郎は大名火消しとの出入りでこの獄舎に送られていた。ここで二人は兄弟分となった。その後二人は石川島の人足寄場に類を及ぼすような大火に際し大活躍。その功績を認められ、晴れて自由の身となる。新門辰五郎はその後一橋慶喜の警護役として活躍。これまた有名な話。一方小次郎は府中の万吉の跡目をついで子分数千人という大親分となる。
十数年が過ぎる。小次郎親分、再びお縄に。積年の賭博の罪により三宅島に島流し。三十代も後半の頃、と言う。島から戻ったのは幕府の大政奉還の特赦。島にいた時には貯水槽をつくったりと、住民に感謝された、とか。
で、鉄舟と小次郎のかかわりは、新門辰五郎との両者の縁による。小次郎>辰五郎<慶喜<鉄舟、といった関連であろう。こういった縁で小次郎と知り合った鉄舟が、共にこの地を散策した、という。で、小次郎の口利きもあり、この地を買い求めるに至った経緯は、こういうことである。何気なく立ち寄ったお寺から、結構な時空散歩が楽しめることになった。先に進む。

大尽の坂
川筋に戻る。川の向こうに「大尽の坂」。名前に惹かれて北に進んだが、なんということのいない坂道、というか緩やかな上り。昔、この坂の西側、仙川の北に「お大尽 = 大金持ち」がいた、と言う。鴨下荘左衛門がそれ。醤油醸造業を営んで財を成した、とか。ちなみに、先ほどの侠客・小金井小次郎であるが、生家関家は小金井村鴨下の名主。先祖は北条の過家臣と書いたが、正確には鴨下出雲。鴨下家ゆかりの人物がこの地で関家を起こしたとき、昔の家名を地名としたのだろう、か。ともあれ、鴨下、ってこの地の有力者であったのだろう。

浴恩館公
仙川に戻る。川筋に人がひとり通れるかどうか、といった細路が続く。善福寺川筋もこういった、細路があったなあ、などと思い出しながら先に進む。緑中央通りと交差。川筋に沿ってはもう進めない。法政大学に向かって北に進む。明治の頃は法政大学のある一帯は大きな窪地。亀の子の形をしていたため亀の子久保地と呼ばれた田圃であった。
成り行きで東に折れ、浴恩館公園に。アカマツ、ナラ、ツツジなどの古木の茂る園内には昭和初期の家屋が残る。昭和5年、青年団指導者講習所として使われていた、という。その所長が下村湖人。『次郎物語』の舞台ともなっている。「次郎物語」を執筆した「空林荘」も残っている。
このあたり、緑町一帯は浴恩館を中心に雑木林や畑が残る。江戸時代には下山谷と呼ばれ、仙川の谷筋に新田が開かれた。緑町という名前は、緑豊かな地勢をもって命名された、と。

市杵島神社
浴恩館公園を離れ仙川筋に戻る。相変わらず水は何も、無い。川筋に沿って歩く道もない。仙川は、ここからすこし東に進み、東大通り手前で南に向かって流路を変える。川筋に沿って歩けるわけではないので、成り行きで東に進む。東大通り手前、小金井北高のテニスコールの東に沿って川筋が続く。水はなにも、ない。
東大通りと交差した川筋は、まっすぐ東に進み梶野通りへと進む。川筋には道はない。川筋の少し北に「市杵島神社」。細長い参道を進むと社があった。梶野弁天とも呼ばれている。
弁天様ってインド・ガンジス川市杵島神社の神。芸術、音楽、美の神様。川の恵みから転じて農業、富の神、ともなる。かくのごとき御利益多きインドの神様は、仏教とともに日本にもたらされ美貌の女神・市杵島姫命と習合する。市杵島神社が梶野弁天とよばれる所以である。市杵島姫命は北九州・宗像の海の民が祀った宗像三神のひとつ。古来、航海の安全を守る神として、海の民の間に広まる。瀬戸内の厳島神社もその名前は、「市杵島」に由来する。(『知っておきたい日本の神様』武光誠:角川文庫より)

梶野新田跡
市杵島神社を離れ、東に進む。梶野通りに。東大通りから東進した仙川は、東京電機大学中学・高校あたりで梶野通りに交差。流れを北に向ける。梶野通りに沿って走る水路を確認。水は、ない。東京電機大学中学・高校の北で仙川は梶野通りから離れ、桜堤2丁目にある上水南公園に向かって心もち斜めに上る。
梶野通り脇にあった案内によれば、このあたりに築樋があるとのことだが、見つからなかった。「梶野分水築樋」とのこと。このあたりの梶野新田の灌漑のため、玉川上水から分水されたもの。山王窪の築樋と同じく、仙川の谷と立体交差する築樋(長さ230m・高さ4m)が造らた、ようだ。この梶野分水は、明治三年(1870年)の玉川上水通舟事業開始に際し、砂川用水とつながり、下流は深大寺村(現調布市)まで伸びた、という。深大寺用水とも呼ばれた。

桜堤公園
上水南公園から仙川は東にまっすぐ進む。水はなにも、ない。周囲には桜並木が続く。川筋に沿って「くぬぎ橋通り」に。通りの手前に桜堤公園。仙川は公園の中に向かって南に下る。突然の水音。池から水が仙川に注がれる。この池、団地内に降った雨水を地下に貯め、ポンプアップして池の水とする。で、池に水があふれると、仙川に流している、と言う。人工とはいいながら、仙川で水をみたのはこれがはじめて。

「くぬぎ橋通り」
「くぬぎ橋通り」で交差した仙川は暗渠となる。川筋には道もないので、再び開渠となる亜細亜大学の北に向かって進む。くぬぎ通りを少し下り、東に折れ川筋をチェック。水はすでになくなって、いた。一瞬の「水辺」であった。
川に沿って道を下り、亜細亜大学のキャンパス内に。川筋は左に折れ、キャンパスを横切る。川筋に道はなく、なりゆきで南にくだる、のみ。アジア大学通りに交差。交差点を東に折れる。ここから武蔵境通りまで、川筋に道はない。

「武蔵境通り」
泣き別れでアジア大学通りを武蔵境通りまで進み、交差点を北に折れ、武蔵境通りと交差する仙川を確認。仙川は武蔵境通りからまたまた暗渠となり、開渠となるのは、アジア大学通りを少し東にいったところ。開渠部を確認し、仙川上流部散歩終える。水も無く、「川とは名のみの」といった風情ではあったが、小金井小次郎や分水築樋など、思いがけない時空散歩は楽しめた。

北十間川から、旧中川、荒川土手に


墨田区散歩の3回目は墨田区北部エリア。北十間川から北に進み、旧中川から荒川土手に向かう。北部エリアの地理と歴史を整理しておく。大雑把に言って、北十間川より南は湿地帯を開拓してできた土地。一方、本日の北部エリアは古墳時代前期ころまでには人間が住めるデルタ地帯となっていた。
奈良時代は隅田川が武蔵と下総の国境。隅田のデルタ地帯は下総国葛飾郡という律令国家の行政区画に編入されていた。正倉院に伝わる養老5年(721年)の戸籍によると、葛飾郡大嶋郷には50戸・1,191人が住んでいた、とか。奈良から平安にかけて、大嶋郡には東海道が通る。千葉県市川市の下総国府への道であった。
中世のこの地域・墨田区の北部一帯は、葛飾・江戸川・江東区の一部とともに葛西と呼ばれる。葛飾郡の西部にあったため。桓武天皇の子孫である葛西氏が支配する地帯でもあった。鎌倉時代にはこの地は葛西氏によって伊勢神宮に寄進され、葛西御厨と呼ばれるようになる。葛西氏の支配は鎌倉末期まで続き、室町には関東管領上杉氏の支配下。当時の資料には、寺嶋(現在の東向島)、墨田(墨田・堤通)、小村江(京島・文化あたり)などの地名が載っている。で、戦国時代には後北条の支配下に入っていく。



本日のルート;
押上 > 法性寺 > 吾嬬神社 > 香取神社 > 旧中川 > 白髭神社 > 荒川堤防脇の白髭神社 > 隅田稲荷神社 > 東武伊勢崎線・鐘ケ淵駅 > 多門寺 > 京成・掘切 > 北千住駅

柳島橋西詰めに法性寺

さてと、散歩スタート。本所エリアから北十間川に沿って浅草通りを東に進む。横十間川との合流点に柳島橋。柳島橋西詰めに法性寺。日蓮宗のことお寺、「柳島の妙見堂」として江戸の時代信仰を集めた。北斎もこのお寺への信仰篤く、このお寺を題材にした作品もある、という。北斎といえば、信州の小布施で北斎館を訪ねたことがある。北斎が、80を越えてから地元の豪商・高井鴻山を訪ねて数度にわたり訪れ、滞在したところ。あれこれ見たが、一番印象に残ったのは、75歳の頃描いた「富嶽百景」に書き残したセリフ;「70歳までに描いたものは、実にとるにたりない。73歳で、ようやく禽獣虫禽の骨格や草木の出生を悟りえた。80歳になれば画業益々進み、90歳にして更にその奥意を極め、百歳では、神の技に至ろう」と。また89歳で亡くなるとき、「あと10年寿命があれば、否5年あれば、本物の画工になれたのに」と。凄すぎてコメントできず。
このお寺には、近松門左衛門の供養碑があったり、歌川豊国の碑もある。豊国は昨今。広重や歌麿人気のため少々影が薄いが、江戸時代は第一の人気者であった、とか。

北十間川・境橋
浅草通りを北十間川に沿って東に進む。境橋。南詰めに「木下川(きねがわ)やくし道標」と「祐天堂由来碑」。葛飾区四ツ木1丁目の木下川薬師堂への道標。道標左側面に「あつまもり」と書いてある。読めるわけではないが、由来書にそう書いていた。吾嬬神社の森でもあった、ということか。「祐天堂由来」は元禄年間に祐天上人がこの地をへて千葉方面に往来の折、この付近の川に多くの水死人があるのをみて、供養塔をつくる。以来、この地に水死する人がなくなった、と伝えられてはいる。




北十間川・福神橋の北詰めに吾嬬(あずま)神社
浅草通りをさらに東に。明治通りと交差するところに福神橋。立花1丁目。北詰を右折。吾嬬(あずま)神社。神社の創建は景行天皇のころ、とか。神武・綏靖天皇(すいぜい)、安寧・懿徳天皇(いとく)・孝昭・考安・孝霊・孝元・開化・祟神・垂仁・景行・成努・仲哀・応神・仁徳、と子供のころに暗記した歴代天皇の名前からすれば、12代の天皇。結構古い。実在の人物か否かよくわからないが、とにかく、古い神社。日本武尊が東京湾を越えて千葉に進むとき、海が大時化(しけ)。海神の怒り鎮めるべく、妻の弟橘媛が海に身を投げる。その姫由来の品が流れついたのがこの地だった、とか。所謂、「吾嬬(あずま)、はや」からきた名前だろう。
それにしても、この「あずま、はや」にまつわる地、いろんなところで登場する。秦野の権現山というか弘法山にもおなじような由来があった。ともあれ、この神社、以来海や川で働く人々の守護神として信仰される。正治元年(1199)、北条泰時の命にて社殿を造る。嘉元元年(1303)に真言宗宝蓮寺を別当 とし、吾嬬大権現となった。神社に「吾嬬森」の碑。明和3年(1766年)の山県大弐が建てた碑。
江戸時代、このあたりは「吾嬬森八丁四方」とか「浮洲の森」とか呼ばれた有名な地。ここには「連理の樟」と呼ばれる名木があり、安藤広重の江戸名所百景にもなったほど。縄文式土器もこの地でみつかっており、この地の歴史の古さを物語っている。ちなみに、安永三年(1774)の大川への橋新設の時、橋が江戸からこの社への参道に当たる為、吾嬬橋と名づけられた、とか。立花の地名は弟橘(たちばな)媛からきたものだろう。 香取神社の近くの地名「小村井」は室町の古地図に描かれている。

香取神社
明治通りを少し北に行った文花2丁目に、香取神社。葛西御厨の文書などに、平安時代の末期、この地に下総・香取の地より、六軒の人々が移住し、小村井の鎮守とした、とある。香取神社が下総の国に広く展開していることを納得し北十間川筋に戻る。文化の地名は、近くに文教施設が多かったので「文」+弟橘媛の橘が「花」である、ということで「文」+「花」=文花、と。 近くに東武亀戸線の小村井の駅とか、明治通りと丸八通りの交差点に「小村井」といった地名がある。室町の古地図に出てくる地名。海岸線に面している。海に臨む入り江の小さな村=小村江>小村井、と。江戸川区に特徴的に見られるように「江」とは海岸線を表す言葉。一之江、二之江など。で、「井」は「江」の転じたもの。平井(江)、今井(江)など。

香取神社を離れ旧中川に
香取神社を離れ、東あずま大通を東に向かう。ひたすら進めば旧中川に当たるであろう、といった成行きまかせ。立花1丁目を進み、東武亀戸線を越え立花3丁目に「大井戸稲荷」。一面田園だったこのあたりで、清水が湧き出ていたとか。こじんまり、あまりにこじんまりとした祠。
立花6丁目あたりで平井橋。旧中川に当たる。木下川排水機場から小名木川排水機場までの7キロ弱の河川。もともとの中川が荒川放水路、つまりは今の荒川で分断され荒川東側を流れることになったため、「旧」中川と呼ばれることになった。正確には元中川か。
排水機場って、高潮時に雨水を排除するためのものらしい。上下二箇所の排水機場で常に水位を一定にしているとか。で、現在、水際の整備工事がおこなわれているため、遊歩道は一部にしか整備されてはいない。ゆるやかに湾曲する、いかにも元々の流れって風情を残す旧中川を進む。向こう岸は江戸川区平井。川に沿って工場が立ち並ぶ。 (「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)


旧中川脇に白髭神社
平井橋を越え、左に大きく湾曲するあたりに白髭神社。高麗からの帰化人・王若光の遺徳を偲んで作られた白髭神社のひとつ。先にもメモしたように、朝廷の命により、浅草湊に上陸した高麗からの帰化人は一群は荒川水系を新座、入間、高麗といった埼玉県方面に。別の一派は利根川水系を妻沼、深谷、太田、本庄といった群馬県方面に。このあたりの白髭神社は旧利根川水系の旧中川、綾瀬川の一群。平井地区にも白髭神社が見える。この白髭は「口髭」。先日の向島の白鬚は「あご鬚」。口とあごでなにが違うのかわからないが、なにか違いがあるのだろうか。
高麗と言えば、先日、平塚に出かけたときのこと。平塚は高麗の地として有名。高麗山とか高麗といった地名が残る。この機会を逃してはということで、高麗地区に進む。平塚駅から少し西、大磯方面に行ったところにある。目安は高麗山。広重の「東海道五十三次」にもあるように、高麗山は平地にお椀を伏せたような山容。平塚の駅から国道1号線をぶらぶら歩いたが、あまりに特徴的な姿ゆえに、見まごうことなし。麓に高来神社。もともとは高麗神社であったが、戦時中都合がわるいということで改名し今に至る。高麗から海原を渡ってきた一群が東の国にはじめて降り立ったのがこの地だったのだろうか。

荒川堤防脇の東墨田にも白髭神社
川筋を中平井橋、ゆりの木橋と進み。木下川排水機場手前から荒川堤防に。東墨田3丁目にも白髭神社が。この神社はもと白髭明神として木下川薬師(浄光寺)の守護神であった。が、明治43年の荒川放水路開削にともない、この地に移される。ということは昔の神社の場所は現在の荒川のど真ん中であった、ということ。で、その後葛飾区には木下川薬師、墨田区サイドには白髭神社と天満宮というように、ふたつに分けられてまつられることになった。地図を見ると、なるほど、荒川の対面に木下川薬師がある。葛飾散歩のお楽しみ、と。

荒川堤防脇・墨田4丁目に黒田稲荷神社

荒川河川敷をのんびりと進む。東墨田2丁目を越え、八広6丁目あたりで木下川橋を越える、というか下をくぐる。八広って、なんとなくありがたそうな地名、かと思ったのだが、いつつかの町が合併したとき、その町にあった「丁目」の数が「八つ」あった。それと末広がりの「広」をつけて「八広」と。
京成押上線をくぐり新四ツ木橋、四ツ木橋を越えると墨田4丁目。堤防からすこし離れ墨田稲荷神社に。「善左衛門稲荷」とも呼ばれる。天文年間(1532年から54年)、伊豆より逃れてこの地を開拓した堀越公方政知の家臣・江川善左衛門が伏見稲荷を勧請して創建。江川善左衛門は墨田区開拓の祖とも。南葛飾郡善左衛門村がそれ。江川善左衛門の徳を称えた万燈神輿が有名。

鐘ケ淵通りを進み鐘ケ淵の駅・鐘ケ淵陸橋
稲荷神社を離れ、少し西に進むと鐘ケ淵通り。荒川に平行して走る道筋を北に。東武伊勢崎線とクロスすると鐘ケ淵の駅。先に進むと墨堤通りと交差。鐘ケ淵陸橋交差点に。真っ直ぐ進めば水神通りを経て荒川区南千住。木母寺も直ぐ近く。ここでは直進することなく右に折れ墨堤通りを進む。適当なあたりで右に折れ民家の中を多門寺に向かう。







多門寺
墨田区6丁目に品のいいお寺が現れる。昔は墨田堤の水神社のあたりにあったようだが、徳川入部のころ現在の地に移る。本尊の毘沙門天は弘法大師の作、とか。隅田川七福神の最後。山門は享保元年(1716年)につくられた茅葺き。茅葺は趣がある。東青梅の塩船観音の山門、本堂もいい感じの茅葺屋根であった。
境内に狸塚。このお寺別名「狸寺」とも。天正年間、参詣者の便を考え、お寺のまわりの雑木林を伐採。ためにそこに住んでいた狸が怒り出し、大入道に化けて暴れ放題。それを毘沙門天の使いがさんざんに打ち据える。が、その大入道がこの地に住んでいた狸たちであったことを知った時の住職が、哀れにおもい塚をつくりお参りすることになった。
すぐ横に香取神社も。多門寺を離れ東武伊勢崎線に沿って荒川堤防脇を進む。首都高速6号向島線の下を進み、隅田川と荒川が最接近する水路を越えればそこは荒川区。東武伊勢崎線に沿って掘切駅、牛田駅と進み、北千住へ。これで、隅田区散歩を終える。

墨田区散歩2回目。先回の散歩は墨田区中央部、というか中世の海浜部を東から西に隅田川まで進み、そこからは隅田川沿いの微高地を南から北に登り、古代からの交通の要衝・「隅田宿」あたりから隅田川を渡った。今回は江戸時代に開拓され大名・旗本・御家人などの武家屋敷や町屋となった本所地区を巡る。









本日のルート: 両国駅 > 回向院 > 吉良邸跡 > 両国公園に勝海舟生誕の地の碑 > 堅川・塩原橋 > 旧安田庭園 > 北斎通り・「南割下水」 > 亀沢町 > 法恩寺 > 能勢妙見堂 > 横川1丁目遺跡 > 本所 > JR 総武線・錦糸町駅

総武線・両国駅
総武線両国駅で下車。両国とは武蔵と下総のふたつの国のこと。駅の北に江戸東京博物館。何度か足を運んだ。今回は、足は逆方向、両国駅西口から南に下り京葉道路方面に。西方向に進めば両国橋。
武蔵と下総の二つをつなぐことで両国橋、と。明暦の大火で逃げ場を失い十万人近くの人が犠牲に。その教訓から千住大橋以南、江戸に至近の位置にはじめてつくられた橋。時期は万治2年(1659年)。本所・深川地区を埋め立て・開発し、大名・旗本・御家人などの武家屋敷や町屋をつくり、発展させるためにも必要な架橋でもあった。大川(隅田川)にかけられたので当初「大橋」と。橋の両側は広小路。両国西広小路と東広小路。防火のための空きスペース・火除地。とはいうものの、空きスペース、いまどきのことばではオープンスペースには芝居小屋、見世物小屋、仮設飲食店が立ち並び、歓楽の地として賑わいをみせる。

京葉道路に面して回向院

両国橋西口からの道が京葉道路にあたる十字路に回向院。関東大震災などで破壊され、現在は鉄筋コンクリートのモダンなお寺さま。将軍家綱の命により、振袖火事とも呼ばれる明暦の大火の被害者・無縁仏をまつった「万年塚」がお寺の始まり。後に安政の大地震の被害者、水難犠牲者など幾多の無縁仏をおまつりするようになり、江戸市民の信仰を集める。江戸中期には両国橋広小路という歓楽地の近くという地の利もあり、全国のお寺の秘仏を公開する出開帳(でがいちょう)の寺院として大いに賑わう。幕末までの200年間に計160回の出開帳(でがいちょう)を実施。出開帳を主催する寺・「宿寺」として日本でナンバーワンの実績。あと、深川永代寺、浅草・浅草寺と宿寺ランキングが続く。ちなみに、江戸出開帳の中でも、圧倒的集客を誇ったお寺・秘仏は京都・嵯峨清涼寺の釈迦如来、善光寺の阿弥陀如来、身延山久遠寺の祖師像、成田山新勝寺の不動明王の四つと『観光都市江戸の誕生:安藤優一郎(新潮新書)』に書いていた。また、江戸後期には勧進相撲もはじまり、明治までの76年間、回向院相撲がとりおこなわれる。
境内には明暦大火の供養等。海難供養等、昭和11年に相撲協会がつくった「力塚」が残る。毛色の変わったものとしては、怪盗・鼠小僧次郎吉の墓も。回向院には牢死者も葬られた。が、刑死者は本所回向院の別院である小塚原の回向院に葬られるのが本筋。鼠小僧次郎吉は小塚原で刑死し無縁のものとして小塚原の回向院に葬られたのだが、やがてこの寺にもお墓ができた。ひとえにその人気ゆえのもの、と司馬遼太郎さん(『街道をゆく36 江戸本所深川』)。

吉良邸跡は両国3町目に

「吉良邸跡」を求めて両国3町目に。江戸切絵図によれば、回向院の道を隔てた東隣に土屋主税邸、本田孫太郎邸がある。吉良邸はその二つの屋敷の南にそって現在の馬車通りあたりまでの広大な邸宅であったよう。江戸切絵図には「松阪丁」とあるだけで、吉良邸の名前はない。
吉良邸跡・本所松坂町公園に。公園といっても吉良邸跡を残すだけ。石壁は江戸時代の高家の格式をあらわす「なまこ塀長屋門」を模したつくり。本所松坂町公園由来;吉良上野介義央の上屋敷跡。吉良邸は松坂町1丁目、2丁目(現在の両国2丁目、3丁目)のうち8400平方メートルを占める広大な屋敷であった」、と。映画やテレビで「本所松坂町の吉良邸」という言い方をされる。が、これはダブルフォールト。第一のフォールトは武家屋敷には町名は付けない。第二は、松坂町という町名は吉良邸が取り壊され町屋となったときの地名。吉良邸があったころには「松坂町」という名前は存在していなかった、ということ。

吉良邸跡の東・両国公園に勝海舟生誕の地の碑
吉良邸跡から少し東、両国小学校の東隣の両国公園に。勝海舟生誕の地の碑。咸臨丸で艦長として渡米、西郷隆盛との談判による江戸無血開城の立役者など、言うまでもない幕末の雄のひとり。
公園の少し南・馬車通りあたりに囲碁の「本因坊の屋敷跡」がある、とのことだが、見つけられなかった。江東区散歩のメモに書いたように、三ツ目通りとか四ツ目通り、一之橋、二之橋といった地名・橋名の基準となったところ。この本因坊の屋敷があったところから、3つ目の通りが三ツ目通り、といった風。

堅川
少し南に「堅川(たてかわ)」。江戸のお城から見て縦方向であり、堅川(たてかわ)。明和年間の本所開拓の時に開削された掘のひとつ。隅田川と中川を結ぶ。
隅田川から横十間川までは水面が残るが、その先は埋め立てられ「堅川河川敷公園」となっている。首都高速7号・小松川線が上を走る。清澄通り架かる二之橋、隅田川に向かって千歳橋、塩原橋、そして一之橋といった橋がある。塩原橋は亀戸天神でもメモした塩原太助に由来する。





旧安田庭園
隅田川の手前に架かる一の橋を渡り、一の橋通りを北に向かう。「両国国技館」の西を歩き「旧安田庭園」に。常陸笠間藩・本庄因幡守によりつくられる。隅田川の干満により水位を変化させる潮入り回遊式庭園。つまりは、水位の高低で見えたり見えなかったりする「小島」の景観を作り出す。明治期、安田財閥の創始者・安田善次郎の所有となり、のちに都に寄贈されて現在に至る。






北斎通りの元の名前は「南割下水」
旧安田庭園の北隣に横網町公園に。東京大空襲の犠牲者の慰霊塔が。清澄通りを南に下り、「江戸東京博交差点」に。T字路を東に向かう道筋は「北斎通り」。江戸東京博の近くには北斎生誕の地の碑がある、とか。北斎はこのあたりで生まれた江戸後期の浮世絵師。「富岳三十六景」などが有名。
で、この道筋、北斎通りと呼ばれているが、昔は「南割下水」と呼ばれる。下水とはいうものの、基本的には掘割のひとつ。道の真ん中に水はけをよくするための排水溝が掘られていたから、そう呼ばれた。3.6m程度の幅。「黙礼の中を流るる割下水」といった川柳も。このあたり武家地。割下水を隔てて挨拶を交わす武家の姿が浮かんでくる。俳人・小林一茶も割下水の住人。「葛飾や月さす家は下水端」「朝顔や下水の泥も朝のさま」「鶯が呑むぞ浴びるぞ割下水」といった句を読んでいる。

亀沢町には三遊亭円朝の旧居跡とか河竹黙阿弥の終焉の地が

北斎通りを亀沢1丁目、2丁目と歩き「野見宿禰神社」に。相撲の神と言われる野見宿禰を祀る神社。明治時代に陸奥弘前藩津軽越中守上屋敷跡につくられたもの。
少し進み区役所通りと交差。このあたりに三遊亭円朝の旧居跡とか河竹黙阿弥の終焉の地といったものがあるようだが、場所特定できず。亀沢町の由来は、この地に住んでいた旗本荒川助力郎の屋敷内に亀沢の池と呼ばれる池があったから、とか、単に縁起がいいからとか、亀のすんでいた池たあったからとか、例によっていろいろ。ちなみに、一説にはありふれた盗人、とも言われる鼠小僧次郎吉を一躍ヒーローに仕立てた仕掛け人が河竹黙阿弥。黙阿弥の書いた歌舞伎『 鼠小紋春着雛形 』が大ブレークしたためだ。 (「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)


「新徴組屋敷の跡」は見つからず

北に進み蔵前橋通りの手前、石原2丁目あたりを右折し適当に道筋を東に進む。石原の地名の由来は、隅田川の流れの故か石が転がっていたから、とか。三ツ目通りを過ぎると、このあたりに「新徴組屋敷の跡」がある、と言う。
新徴組って、新撰組の江戸守護バージョン。清河八郎に率いられ、将軍守護の名目で京に上った浪士組が、もともと幕府など眼中になく尊王思想第一とする清河の企てにより、倒幕の戦闘集団にするという天皇の勅許を受ける。これで幕府の軍隊から天皇の軍隊に。この動きに異を唱えた近藤勇一派は京に残り新撰組を結成。江戸に戻った清河は幕府に睨まれ佐々木只三郎により暗殺される。江戸に残された浪士組は庄内藩預かりとなり「新徴組」として江戸市内警護に。初代組長は沖田総司の義兄・沖田林太郎。戊辰戦争時には庄内にて官軍と戦う。
「新徴組屋敷の跡」は見つけることができなかった。本所三笠町。錦糸堀の近くに庄内藩・江戸の下屋敷があった、という。錦糸堀、って南割下水の大横川より東側の呼称。新徴組屋敷の詳細は知らないけれど、庄内藩下屋敷内にあったと想像すれば、このあたりだろう、とは思う。ちなみに庄内藩上屋敷は飯田橋のあたり。飯田橋の駅の近くには「新徴組屯所跡」の碑がある。

蔵前通りと大横川が交差するあたりに法恩寺。道灌ゆかりの寺である

下町の街中をブラブラ。蔵前橋通りからひと筋、ふた筋はいったあたりにいかにも相撲部屋といった建物。九重部屋であった。東に進み「大横川親水公園」に。北に進み、蔵前橋通りに架かる法恩寺橋を渡り法恩寺に向かう。開基は太田道潅。道潅江戸城築城の折、丑寅の方向に城内鎮護のため本住院を立てる。平河山(法恩寺)と呼ばれるくらいだから、もともとは平河町あたりにあったのだろう。その後、家康江戸入府にともなう江戸城拡張のため神田柳原、次に谷中清水町へと移り、元禄8年この地に移った。
境内には例によって「七重八重花は咲けども山吹の実の(蓑)ひとつだになきぞかなしき」の歌。この逸話、道潅ゆかりの地で何箇所聞いたことだろう。鎌倉散歩のとき朝比奈の切通しのあたりにもあったし、荒川の町屋、豊島区高田、そのほか秩父の越生にも。道潅がそれほど親しみをもたれていた、ということだろう。法恩寺、現在は4つの堂宇だけのお寺ではあるが、江戸のころは20を越える堂宇からなる広い寺域からなっていた。ちなみにこのあたりの大平の地名の由来は、大田道潅の「大」+平河山の{平}=大平と。

法恩寺と大横川を隔てたところに能勢妙見堂

法恩寺を離れ、大横川の妙見橋を渡り本所4丁目の能勢妙見堂に。大阪で能勢の妙見山に行ったことがある。ここはその妙見さんの別院。江戸切絵図には能勢熊之助の敷地内に「妙見社」とある。ここは親子鷹、勝小吉・海舟親子の熱烈な信仰を受けた神社。勝海舟の父・小吉が海舟、当時の麟太郎の出世開運を願ってか、はたまた、犬に噛まれた怪我の回復を祈ってか、ともあれ水垢離をとったところ。境内には海舟の銅像もある。
少し話はそれるが、この能勢一族の歴史も面白い。明智光秀に与力したため、秀吉により一族滅亡の危機。が、能勢の地から一族落ち延び隠れ里に。時代は移り、家康の家臣に。関が原で戦功をたて、お家再興。法華経への信仰の故と、広大な家屋敷を有徳の僧に寄進。これが能勢妙見山のはじまり。能勢頼直のときに、この地に下屋敷を拝領。妙見大菩薩の分体をこの地にまつる。

横川1丁目遺跡

北にのぼり横川1丁目。地名は明暦年間開拓の横川に由来。堅川(たてかわ)に対する横川。横川1丁目遺跡が。弥生中期頃以前にはこのあたりは、浅海の砂泥底。弥生中期頃には潮間帯に変化しカキ礁が形成された。その後、浅海、河川、後背湿地と変化した(横川1丁目遺跡調査会)。案内をメモ;「このあたりは地史的には海域、干潟、および湿地的環境。生活に適した地ではなかった。この地が整備されたのは明暦の大火(振袖火事)の後、江戸市街を拡張する都市計画の実施以降。以来武家屋敷や寺院がこの地に移ってきた。法恩寺もそのひとつ。このあたりは旗本・太田家の抱屋敷跡」、と。

春日通りを西に本所に向かう

春日通りを西に向かう。横十間川から大横川までは東北割下水。大横川から本所2丁目あたりまでは北割下水が掘られていた。いずれも万治2年(1659年)に本所地区が市街地として開発されたとき、水はけのための排水用に掘られたもの。本所3丁目、2丁目の境、区役所通りあたりまでぶらぶら歩く。
本所の語義は、中心の地ということ。石原村、牛嶋村の中心で本村、中之郷、本所であるということだろうか。このあたりは大小の旗本屋敷がならんでいたところ。本所全体で旗本・御家人といった直参の屋敷が240ほどあった。市街地造成が完了した元禄元年(1688年)以降移ってきた、と司馬遼太郎さんの『街道をゆく36 本所深川散歩』に書いてあった。
本所2丁目、華厳寺えんま堂。江戸66えんま巡りの2番目のえんまさまのあたりを右折し北に進む。駒形3丁目あたりで適当に右折。道なりに再び東に向かう。要は、本所あたりをあてもなく散策しよう、というとこ。



錦糸町
道なりに本所をブラブラ歩き横十間川まで進み、錦糸町に。錦糸町の由来は、錦糸掘があったから。で、錦糸掘の由来は?岸掘がなまったから、とか、明治時代紡績産業で栄えたこの地、金糸銀糸が輝いていたから、だとか、運河の水面がきらきら輝いていたから、だとか。とはいうものの、錦糸町の地名ができたはじまりは、ひょっとして昭和になってからかも。
次回は墨田区北部エリア、旧中川から荒川堤防に歩を進める。

墨田区中央部・北十間川から隅田川沿いの微高地に 墨田区散歩の第一回は墨田区中央部・北十間川から隅田川沿いの微高地を歩くことにする。 墨田区の地形をかんたんにまとめておく;中世のころの臨海部は大体、北十間川のライン。隅田川のまわりは砂州というか微高地が南に延びている。向島あたりから下に「牛島」と呼ばれる大きな島、というか細長い砂洲が南に総武線あたりまで延びている。一大湿地帯であった墨田区が現在の姿のようになるには、江戸の明和年間の都市計画というか埋め立て・開発を待つことになる。明暦の大火を契機に本所地域の開発が計画され、本所築地奉行の指揮のもと、堅川(たて川)、横川、十間川、北十間川、また両国地区の六間掘、南割下水、石原町入掘などが開削される。その揚げ土による埋め立てがおこなわれ、現在の墨田区の中央部・南部である本所・深川地区が人の住む地域に生まれ変わる。 隅田?墨田区?どっちだ?隅田川が最初に文献に登場するのは承和2年の太政官符。「武蔵・下総両国境、住田(すだ)河」とある。また伊勢物語の東下りの一節に「武蔵と下総の中に有る角田(すみだ)川の堤におりいて、思い侍るに。。。」とある。また「すだ」とも読まれ「須田」「墨田」「州田」とも書かれた。江戸時代には元禄には「須田村」。天保時代には「隅田村」と表記されている。明治になると、隅田村そして隅田町に。
これほど広く使われた隅田が区の名前に使われず、墨田区となったのは、昭和22年(1947年)3月15日、北部区域の「向島区」と南部区域の「本所区」が合併して、新しい「区」が誕生することになったとき、隅田区とする計画が頓挫。隅が当用漢字になく「隅田」が使えなかったわけだ。また、墨田はもともと使われてきた墨田ではなく、合成語。隅田川堤の異称「墨堤」の「墨」と、「隅田川」の「田」から2字を選んだ、とか。わかったようでわからない
墨田区散歩に向かう。大体のルーティングは、墨田区中央部、というか中世の海浜部を東から西に隅田川まで進み、そこからは隅田川沿いの微高地を南から北に登り、古代からの交通の要衝・「隅田宿」あたりまで進む、といったところ。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)





本日のルート: 総武線・亀戸駅 > 横十間川 > 北十間川 > 浅草通り・押上 > 三つ目通りから「言問橋東詰め」に > 牛嶋神社 > すみだ郷土資料文化館 > 三囲神社 > 水戸街道・秋葉神社 > 長命寺 > 白髯神社 > 隅田川神社 > 木母寺 > 北千住駅

総武線・亀戸駅から横十間川に
総武線・亀戸駅で下車。西に進み横十間川」を北に。「横十間川」のメモ;横十間川は北十間川から別れ堅川、小名木川とクロスし、仙台堀に合流する水路。仙台掘との合流点は二十間川とも呼ばれる。北十間川から小名木川までは水面が残るが、その南は「横十間川親水公園」となっている。川幅が十間(18m)であったことが名前の由来。本所・深川地区開発の万治2年(1659年)に開削された。

北十間川
直ぐに「北十間川」と合流。合流点に柳島橋。ここからは北十間川に沿って「浅草通り」を西に進む。隅田川と中川をつなぐこの北十間川のラインが古代から中世にかけての海岸線、と言われている。つまりは、墨田区の大半は一大湿地帯ということ。左手に広がる一大湿地帯を想像しながらのんびり歩く。

浅草通り:業平橋・押上
北十間川にそって浅草通りを業平3丁目、4丁目と進む。地名の由来は江戸時代にこのあたりに業平天神社がまつられたことによる。とはいうものの、現在その名の神社は見当たらない。業平の名はいわずと知れた伊勢物語の在原業平(ありわらのなりひら)による。
先に進む。四ツ目通りとの交差が「押上」。「押し上げ」って、隅田川というか中川というか江戸川というか、流路を銚子方面に付け替える前の利根川河口に流れ込み堆積される土砂、その堆積するさまがよく表される地名である。

三つ目通りを北に折れ、言問橋東詰めに

業平1丁目を越え、大横川跡に。現在は大横川親水河川公園となっている。浅草通りと大横川のクロスするところに業平橋。更に進む。東駒形を越え三ツ目通りと交差。右折し北に進み言問橋東詰めにある牛嶋神社に向かう。

牛嶋神社
牛嶋神社は、隅田川の東、「牛嶋」と呼ばれた旧本所一帯の鎮守さま。牛嶋の由来は、天武天皇の時代、両国から向島にかけての地域・旧本所が牛馬を育てる国営の牧場(官牧)であったことから。浮嶋牛牧と称された。江戸切絵図によれば、昔はもう少し北、現在の桜橋の東詰めあたりに「牛御前」の名前が見える。縁起書によれば創建は貞観2年というから860年頃。結構古い。当時このあたりは既に小高い砂州となっていた。
由緒書によれば頼朝が下総から武蔵への渡河作戦に際して、折からの豪雨を鎮めるため神明の加護を願う。そして願いが叶ったことを慶び社殿を造営した、とか。後に天文6年(1538年)、御奈良院より「牛御前社」の勅号を賜る。江戸時代になっても鬼門守護の神社として将軍家の庇護を受ける。現在の地に移ったのは関東大震災後。隅田公園整備の一環として実施された。

牛嶋神社の隣に「すみだ郷土資料文化館」
神社を離れ、「すみだ郷土資料文化館」に。隅田公園を歩き、言問橋の東詰を進む。三ツ目通り、というか水戸街道から一筋隅田川に入ったあたりに「すみだ郷土資料文化館」。「すみだのあゆみ」をスキミング&スキャニング。有り難かったのは、常設展示目録。古代から現在に至るまでの地理と歴史がまとまっている。1冊1000円。そのほか、1階の図書資料コーナーで鈴木理生さんの『江戸の川 東京の川(井上書院;2700円)』の実物を目にしたことも嬉しかった。いろんなところで話題にはなるのだが、版元の連絡先が良くわからなかった。奥付で住所・電話を確認し後日手に入れた。『川がつくった江戸(林英夫;隅田川文庫;1850円)』も購入。

三囲神社
すみだ郷土資料文化館を離れ「三囲神社」に。すぐ北にある。対岸の浅草・山谷掘りからの「竹谷の渡し」の船着場も近くにある。歌川広重の「東都三十六景 隅田川三囲り堤」とか「江戸高名会亭尽 三囲之景」に描かれているように、江戸の行楽地。「三囲(ミメグリ)」の由来は、この地に弘法大師由縁の廃社・壊社があるのを聞き改築を。地中より白狐に跨る神像が。そのとき白狐が神像の周りを三度廻ったことから。雨乞いのために歌った宝井其角の歌碑もある。「ゆふだちや田をみめぐりの神ならば」、と。

水戸街道脇に秋葉神社

水戸街道を進み桜橋通りを越え、向島4丁目の「秋葉神社」に。正応2年(1289年)、この地にすむ与右衛門さんが屋敷内にお稲荷様をまつったのがその始まり。このあたりは五百崎・庵崎(イオサキ)の千代世(ちおや)の森とよばれていたので「千代世稲荷大明神」、とも。広重の『江戸名所百景』には紅葉の名所として描かれている。ちなみに五百崎とは五百もの砂州や浅瀬がある湿地帯のこと。このあたりは、干潮になれば砂や土砂の堆積による数多くの小島が遠浅の海面から浮かび上がる、そういった地帯だったのだろう。
秋葉神社の本家・本元は静岡県・秋葉山の秋葉神。秋葉三尺坊・秋葉山三尺坊大権現とも呼ばれる。秋葉信仰がブレークしたきっかけは、江戸前期、貞享2年(1685年)、江戸と京都に向かった秋葉山の神輿渡御。全国に名を知られるようになり、秋葉詣でも盛んになった、と。火の災厄を鎮める神さま。

隅田川堤防沿いに長命寺

秋葉神社を離れ、再び水戸街道を越え、隅田川堤防方向に向かう。堤防沿いの道から一筋入った墨堤通り・向島5丁目に「長命寺」。お寺よりなにより、「長命寺の桜もち」を買ってくるようにとのご下命あり。店は隅田川の堤に沿った道路脇。
桜餅といえば、先日古本屋で見つけた『考証 江戸を歩く:稲垣史生(河出書房新社)』に面白い話があった。ちょっとメモする:この桜餅屋の名前は「山本屋」。銚子より職を求め、長生寺に寺男として働く。土手の桜の落ち葉を醤油樽に漬けて餅に包むと、風味よく評判になった。評判になったといえば、この山本屋の娘さんは美しいことで評判でもあった。とか。19世紀の中頃の老中・阿部正弘がこの店の娘・お豊さんをその美しさ故に贔屓にした、と。また、明治維新のころ、オランダ公使もこの店の娘・お花さんを見そめた。またまた、かの正岡子規も山本屋のお陸さんに淡い恋心を抱いた、とか。 おみやげを買い求め、先を急ぐ。このあたりは江戸の昔は文人・墨客、江戸の市民が花見を楽しんだ一大行楽地。墨堤通りを進み、東向島1丁目と3丁目の境、地蔵坂通りとの交差に、「子育地蔵堂」。車の往来多い。
ちなみに川の堤に桜の多い理由は、土手を踏み固める戦略というか戦術のため。桜の名所をつくれば、桜見物に多くの人が来る。土手を歩き、結果的に土手が強化される、といった論法。事実かどうか定かではないが、事実だとすれば、なかなかスマートな手法である。

墨堤通りを北に。東向島に「白鬚神社」

地蔵堂脇の道をすすむと東向島2丁目に「白鬚神社」。白鬚神社って昨年歩いた埼玉県日高市・高麗郷の高麗神社もそう呼ばれていた。高麗からの帰化人・王若光が晩年白髭を垂れ、白髭さまと呼ばれていたことに由来する。日高・高麗の郷の白髭神社を高麗総社とした白髭神社は武蔵の国に55社ある。この地の白鬚様もそのひとつ。武蔵の各地に分住した高麗人の子孫が王の遺徳を偲び分祀したわけだ。「白髯」は「新羅」からの転化である、といった説もあるほど、だ。
白鬚神社の縁起によれば、この地には古代帰化人が馬の放牧のために相当数移住した、とも。鈴木理生さんの『江戸の川 東京の川』にも「渡来人の基地としての浅草湊」という一項目が設けられている。大和政権は東国経営の一環として武蔵の国には、百済・新羅・高麗などからの渡来人を配置。夷を制する精鋭部隊でもあり、高い技術力をもつ開発者集団でもあったのであろう。海を渡り、上陸地を求めて浅草湊まで進み、ここを根拠地に武蔵野の台地へと踏み入ったのであろう。ともあれ、武蔵の地に帰化人の影響は大きい。荒川も渡来人「安羅」の川という説も。
ちなみに、「しろひげ」神社であるが、全国には「白鬚」「白髭」「白髯」「白髪」と名のついた神社が三百社以上ある、という。特に多いのは静岡や岐阜。東京では墨田区に目に付く。ここ白髯はアゴヒゲ、であるが、口ヒゲである白髭神社は平井や東墨田でも見かけた。

隅田川の堤そばに隅田川神社
墨堤通りを更に北に。明治通りと交差。左折し白鬚橋東詰めに。堤に沿って北に歩くと「隅田川神社」。治承4年というから1180年、頼朝がこの地に来たとき水神をあがめて建てた神社であり水神社とも呼ばれる。江戸切絵図にも「水神」という名前が見える。水運業者から深く信仰されていた。このあたりは、水神の森と呼ばれた微高地。隅田川の洪水にも沈むことがなく、ゆえに「浮島の宮」とも呼ばれた。狛犬ならぬ亀が鎮座している。水神様ならでは、というべきか。
このあたりは、奈良から平安にかけて、隅田川西岸の微高地を走る東海道が市川にあった下総の国府に至る道筋。墨田区西岸の橋場からの渡しもあり、河川交通の要衝。承和2年(835年)、隅田川に渡船の記録がある。伊勢物語の都鳥の舞台もこのあたりと伝えられている。天明年間(1781〜1789)に狂歌師・元の木網の「けふよりも衣は染つ墨田川 流れわたりて世をわたらばや」を刻んだ碑がある。

隅田川神社の隣には木母寺
水神社の直ぐ先に木母寺。能「隅田川」など日本の芸能に大きな影響を与えた梅若伝説の地。平安の昔、人買いにさらわれた梅若丸は隅田川のほとりで重い病を患い、隅田川東岸・関屋の里で置き去りにされる。里人の看病もむなしく「たづね来て問はばこたえよ都鳥墨田川原の露と消えぬと」という一首を残して12歳の生涯を閉じる。一年後、里人が梅若丸の塚で供養していると梅若を捜し求める母の花御前が。はじめてわが子がなくなったことを知る。花御前は嘆き悲しみ、吾が子のためにいのる。すると、塚の中から梅若の亡霊が現れ一時の親子の対面。しかし、梅若は再び姿を消す。花御前は悲しみのあまり、池に身を投げる。この木母寺は梅若を供養してつくった庵が起源。いまは鉄筋のお寺様。
本日はこれでお終い。あとは隅田川にかかる水神大橋を渡り台東区というか荒川区に入り、千住大橋経由で足立区北千住に進み一路帰途に。

鳥越川・新堀川跡へ




本日のルート: 浅草橋駅 > 浅草見附跡 > 柳原通り > 銀杏丘八幡 > 須賀神社 > 榊神社 > 浅草御蔵跡 > 須賀橋派出所交差点・鳥越川 > 鳥越川跡を遡る > 鳥越神社 > 三味線掘 > 佐竹通り商店街 > 小島・三筋から新堀川通りに > 新堀川跡 > 春日通りの北は寺町跡 > かっぱ橋道具街通 > 矢先稲荷神社 > 海禅寺・「梅田雲浜(うんびん)」の墓 > 曹源寺。別名「かっぱ寺」 > 秋葉神社 > 生涯学習センター > 竜泉寺 > 三ノ輪駅

総武本線浅草橋・浅草見附跡
総武本線浅草橋下車。江戸通りを少し南に戻り、神田川にかかる浅草橋に。北詰に「浅草見附跡」の碑。浅草橋は江戸三十六門のひとつ。浅草御門・見附門。幕府は交通の要衝に櫓とか橋とか門を築き、江戸のお城を警護。警護は五千石以上一万石以下の諸藩が三年勤番でことにあたった、とか。江戸通りは昔の奥州街道・日光街道。浅草に通じる道筋でもあることから、浅草御門と呼ばれる。警護役人を配置したため浅草見附とも呼ばれた。両国にありながら「浅草橋」と呼ばれる所以である。
明暦の大火の後、浅草に吉原ができると、観音様詣でだけでなく吉原通いの遊び人でこの往還は大いに賑わった。浅草橋から柳橋にかけては多くの船宿ができ、ここから猪牙舟に乗り組み山谷掘まで舟道中、というのが結構格好のいい吉原通いであった、よう。
明暦の大火の際、伝馬町の牢にも火の手が迫ったため、伝馬町牢奉行・石田帯刀により解き放たれた囚人がこの橋に群れる。が、見付役人は囚人の逃亡と思い込み門を閉ざす。ために、多くの一般市民も犠牲となった。ちなみに、浅草橋以外の見付門としては、筋違橋門、小石川門、牛込門、市ヶ谷門、四谷門、赤坂門、虎ノ門などがある。

柳原通り
浅草橋南詰に。このあたりは中央区。神田川の南側を柳原通りに沿って歩く。ここは千代田区。3つの区が境を接する。ともあれ、このあたり、江戸の昔は筋違御門から浅草御門までを柳原と呼ばれていた。もともと柳はなかったようだが、享保年間の将軍の御成りをきっかけに、この土手に柳が植えられ名実ともに「柳原」となった、とか。

銀杏丘八幡
左衛門橋を渡り、総武線を越え駅前に戻る。浅草橋1丁目に「銀杏丘八幡」。名前に惹かれる。社伝によれば、中世のころ、このあたりは小高い丘であり、隅田川が近くに眺められた、とか。11世紀のはじめ、康平5年(1062年)、頼義・義家が奥州平定のとき、隅田川で銀杏の枝を拾い上げた。で、それを丘に刺し、「朝敵征伐のみぎりは、枝葉栄うべし」と。奥州平定後、ふたたびこの地立ち寄る。銀杏が生い茂る。太刀を一振り奉納。八幡宮を勧請した、と。
元和4年(1618)この地を福井藩の松平氏が拝領。神社は邸内社となる。享和10年(1725)屋敷は公収され、町奉行・大岡越前守により福井町と命名され町屋に。銀杏は文化3年 (1806)の江戸大火で焼失。

須賀神社
江戸通りを北に。道筋に須賀神社。祭神は素盞嗚尊(すさのおのみこと)。古い歴史をもつ古社。江戸十社に入った神社でもある。素戔嗚尊の別称は牛頭天王。故に、社名も牛頭天王社と。また、祇園社、蔵前天王社、団子天王社とも呼ばれる。地元の町名も天王町と呼ばれた。橋名も天王橋と呼ばれた。須賀神社となったのは明治。神仏分離令によって須賀神社と改名。地名も須賀町となり、橋名も須賀橋となった。
牛頭天王がなぜ「須賀」、ということだが、素盞嗚尊(すさのおのみこと)がヤマタノオロチを退治し、出雲の国須賀に至り「吾、吾此地に来て、我が御心すがすがし」と言い、そこに社を作ったことに由来する。また、牛頭天王と素盞嗚尊(すさのおのみこと)の関係だが、朝鮮半島の牛頭山にいた偉い神様、日本でいうところの天照大神等言った神様が素盞嗚尊であった、と言う。スサノオノミコトって朝鮮から来た神様であった、ということ。

須賀橋派出所交差点・鳥越川
須賀橋派出所交差点。鳥越川が江戸通りと交差するところ。鳥越川は関東大震災の後、次第に埋め立てられ、もちろんのこと、須賀橋というか天王橋は、今はない。唯一、交差点にある交番が蔵前警察署「須賀橋」派出所として名前を留めている。鳥越川はこの交差点から東に、江戸の浅草御蔵跡の南端を流れ隅田川に注いでいた。「江戸切絵図」によれば、鳥越川は浅草御蔵のあたりで南に鍵の手状に曲がり、また東に曲がり御蔵の外側を廻るようにして隅田川に注ぐ。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)


浅草御蔵跡
浅草御蔵跡。このあたりから厩橋にかけての一帯は江戸幕府の米倉・浅草御蔵。幕府天領から船で運ばれてくる年貢米を貯蔵する一大米蔵コンプレックス。元和6年(1620)、隅田河岸を整地して造られた。明暦の大火(1657)後には、隅田川に沿って櫛の歯のように一番〜八番の堀を設けられたという。奥州街道、今の江戸通り沿いは石垣や土手で囲まれ、下・中・上と三つの御門があり厳重な警備体勢であった、とか。浅草橋駅並びの御蔵前通りには大きな米問屋や、札差(幕臣等のための米受取代理業者、金貸し業者)、両替商等の豪商が居を構えていた。蔵前橋は昭和2年にできる。場所は三番堀と四番堀の間のあたり。厩橋も明治7年に架橋。今の橋は昭和4年のもの。

榊神社
雨水排水用の暗渠の跡を隅田川に向かう。途中に榊神社。境内に浅草文庫碑と蔵前興業学園の碑。浅草文庫は明治7年、御蔵8番米倉に湯島聖堂から図書を移し閲覧・書庫を設けた。明治10年に上野図書館に移管されるまで開業。蔵前工業学園は東京工業大学の前身。関東大震災の後、この地から目黒区大岡山に移転した。
米蔵があり、学校がこの地にあった、とすれば、この神社って、どこにあったのか?まさか、キャンパス内でもなかろうし。ということで調べると、榊神社がこの地に移ったのは震災後の昭和3年ということ。榊神社という名前になったのも明治6年。それ以前は「第六天神宮」、「浅草御蔵の第六天」と呼ばれていたよう。もともとは蔵前3丁目あたりにあったものが、享保4年(1719年)からは現在の柳橋1丁目あたりにあった、という。
第六天は伊弉諾尊(いざなぎのみこと)を救ったとの古事から道陸神(どうろくしん)の名がある。道陸神は村の境を守り悪魔を払う神。道祖神と同じであろう。見たら駄目、といわれたにもかかわらず妻の「姿」を見てしまった伊弉諾尊。妻は怒り、黄泉国の軍隊を引きつれ追ってくる。伊弉諾尊は追っ手を遮るため、黄泉国とこの世の境に大きな石でバリケードを作り、杖を投げる。この石は塞神。杖は岐神(ふなどのかみ)、道陸神(どうろくじん)などと呼ばれたもの。要は伊弉諾尊を救ったありがたい杖というか神様ということ。第六天って、仏の世界では欲界という天上にいる天魔王のことらしい。明治の廃仏毀釈のとき、仏さんのイメージも強い「第六天」をいう名前を避けて、榊神社とした、とか。ちなみに、織田信長は自分のことを第六天魔王と称した、とか。

鳥越川跡を遡る
さてさて、鳥越川を水源まで登る。といっても先にメモしたように、小島地区までなので、ほんの少しの距離。鳥越川は小島地区にあった三味線堀を水源とする、とメモしたが、その三味線掘りには不忍池から忍川の水が注いでいた、とか。ともあれ、三味線堀に向かう。須賀橋派出所交差点からいかにもな川筋跡を辿り浅草橋3丁目あたりを歩く。この川筋跡は蔵前橋通りと、ほぼ平行に進む。












鳥越神社
蔵前橋通りの浅草橋3丁目交差点あたりに鳥越神社。ちょっと寄り道。鳥越2丁目にあるこの神社の創建は白雉(はくち)2年(651)。結構古い。日本武尊が東征の折、この地に滞在。その遺徳を偲びこの地の白鳥山に白鳥大明神をおまつりしたのがはじまり。永承(1050)の頃、奥州征伐に向かう八幡太郎義家は、白鳥に浅瀬を教えられ、軍勢を安全に渡す事が出来た。ために、白鳥大明神の御加護と感謝した義家は鳥越の社号を贈る。以後、鳥越神社と改称。付近一帯の地名も鳥越と呼ばれる様になった。鳥越川の由来でもある。ちなみに、白鳥山というか小山は正保2年(1645)ころ削られ、隅田川河岸埋め立て用の土砂採取場となり、跡地は町屋となった、とか。

三味線掘
先に進み清洲橋通りあたる。通りを進み鳥越1丁目から小島1丁目に。佐竹通り南口交差点。このあたりが三味線掘のあったところ。三味線掘は東西50m、南北30mのふたつの船溜りとそれをつなぐ長さ190m、幅10mの掘割からなっていた。そのかたちが三味線に似ていたのが名前の由来。船溜りには農産物、生活物資、それに少々尾籠ではあるが、「おわい船」なともあつまっていた。もちろん消火用水でもあった。この掘りは寛永7年というから1630年ころ、この一帯、姫が池などからなる沼地を埋め立てるために掘られた。大正6年ころまでにはすべて埋め立てられた、とか。
三味線堀に注いでいた川・忍川とちょっと辿ってみる。大体の流路は、不忍池南東端から上野公園入口をへて、アメ横を線路に沿って南下。昭和通・台東4丁目交差点あたりで東に振れ、東上野1丁目と2丁目の境あたりを東に進む。で、清洲通り・御徒町交差点あたりで南に下り、小島1丁目の三味線掘に注いでいた。
江戸切絵図を見ると、上野公園入り口あたりに「三橋(みはし)」、三つの橋が架かっている。真ん中の橋は幅6間(約10m)。将軍が寛永寺におまいりするときだけ使われた。ふだんは両側にある幅2間(3.6m)の橋しか渡れなかった。東上野1丁目と2丁目のあたりで忍川は筑後柳川藩立花家の構え掘りにつながる。その南隣には出羽久保田藩佐竹家の大名屋敷の構え掘りに繋がっている。つまりは大名屋敷の溝掘を通って三味線堀に流れ込んでいた、というのが正確なようだ。三橋あたりの名所百景の図を見ていると、三橋前が大きく開かれている。江戸切絵図で見ると、下谷広小路であった。納得。

昔懐かしい趣の佐竹通り商店街
清洲橋通りを渡り、佐竹通り商店街に。いやはや、結構レトロな雰囲気の商店街。日本で二番目にできた商店街である、と、どこかで聞いた事がある。商店街を進み北端・春日通りに。東上野1丁目とか2丁目あたりをぶらぶらし、再び佐竹通り商店街あたりに戻り、商店街のひとすじ西にある秋葉神社におまいりし、次の目的地というか散歩ルート・新堀川筋に戻ることに。

小島・三筋から新堀川通りに進む
小島1丁目と2丁目の境をブラブラと東に進む。小島町の由来は、この地の名主・小島さんから。三味線掘りというか鳥越川河川工事で掘り起こした土をつかって、このあたりの湿地を埋め立て町屋とした功労者。佐衛門橋通りと交差。佐衛門橋は神田川に架かる。江戸切絵図を見ると、近くに庄内藩酒井左衛門尉の屋敷がある。通りの由来はこのお殿様の名前からであろう。
通りを越え、三筋1丁目と2丁目のあたりを更に東にブラブラと。三筋のあたりは江戸期、書院番組屋敷、大番組屋敷、武家屋敷地があったところ。三筋町という町名ができたのは明治になってから。「三筋」の道筋があったから、とか。

新堀川
新堀通りに。新堀川の水源は本当のところ、どうもはっきりしない。江戸切絵図を見ると、東本願寺脇を海禅寺そして幸龍寺(このお寺、今は無い;どうも先日歩いた烏山寺町にあったように思う。移転したのであろうか)あたりまでは結構大きい川筋。その先は畑地の中を細い川筋が三ノ輪近く、竜泉町の竜泉寺あたりまで続く。
三ノ輪って、音無川、というか石神井川が王子から流れ、思川と山谷掘に分かるれあたり。結局は、石神井川というか音無川の落ち水を集めた入谷田圃が水源。ということは、結局石神井川が水源ということか。「御府内備考」にも、「今は石神井川の余水をも中田圃の辺りにて此掘に落とせり」と書いてある。流れは新堀通りに沿って南下し、蔵前橋通りを越えたあたりで東に向かう。で、江戸通りの手前で再び南下し鳥越川と合流する。今回は逆に水源に向かって歩くことにする。

春日通りの北は寺町跡
新堀通りに沿って北上。春日通を越える。道の両側に数多くのお寺。江戸切絵図でみると、お寺でびっしり。明暦の大火の後、都市計画によって江戸各地の寺院がこの地に集められたのであろう。浅草通りとの交差点は菊屋橋、と。新掘川にかかっていた橋の名残。近くに菊屋というお菓子屋さんがあったことが、名前の由来とか。名残といえば、春日通りの手前にある台東中学校の前に、「新掘小学校之碑」。新堀川の名前を冠したものである、との説明があった。

かっぱ橋道具街通り
菊屋橋交差点を越えると道の東に東本願寺。先に進むと合羽橋南交差点。このあたりからは通称、かっぱ橋道具街通り。道の両側に食器とかの「道具」を商う店が連なる。プラスティックフーズなどとも呼ばれる、料理のサンプルなど外国人観光客に人気がある、とか。

矢先稲荷神社
少し西に入ると、矢先稲荷神社。三代将軍・家光が尚武の意味を込め、京の三十三間堂にならって「浅草三十三間堂」をつくる。で、京と同じく、通し矢、つまりは決められた時間にいくつ矢を射るかを競ったわけだ。お稲荷さんはこの矢の的のあたりにあったので、「矢先」稲荷、と。三十三間堂は元禄11年(1698年)に焼失し、深川で再建。神社だけは地元の要望強く、この地に残った、とか。

海禅寺には「梅田雲浜(うんびん)」の墓v かっぱ橋道具街通りに戻る。少し進むと「合羽橋本通り」と交差。この道は江戸の昔の御成道。将軍が寛永寺から浅草寺にお参りするときに通った道筋。左折し、江戸切絵図にあった海禅寺に。質素なこのお寺には「梅田雲浜(うんびん)」の墓がある。幕末尊王攘夷を求める志士の精神的リーダー。安政の大獄で獄死。





曹源寺。別名「かっぱ寺
海禅寺の直ぐ近くに、曹源寺。別名「かっぱ寺」。説明文によれば、「かつて合羽橋は現在の通称合羽橋道具街を流れていた新堀川に架けられていた橋のひとつであり、雨合羽屋喜八の徳をしのんで名づけられたと考えられる。新堀川は昭和の初めころまでに暗渠となった」と。

秋葉神社
曹源寺から少し北、入谷南公園近くに秋葉神社。この神社はもともと、秋葉原にあったもの。秋葉原の名前の由来ともなったもの。明治のころ、火災頻発。火を鎮める神の秋葉神社を秋葉原の火除け地に。明治21年、JR秋葉原建設のため、境内地を払い下げこの地に移る。静岡県浜松の秋葉神社を勧請。秋葉信仰は、江戸期修験者によって秋葉講として全国に広まった。

生涯学習センター
かっぱ橋道具街通りを北に進む。合羽橋北交差点を越え、言問通りとの交差点手前に「生涯学習センター」。中央図書館もあり郷土資料もある。裏手に本念寺。江戸切絵図によれば、このあたり、現在の金竜小学校のあたりかとも思うが、西寄りのところに「立花左近将監」屋敷がある。これって、先回の散歩でメモした「太郎稲荷」のお屋敷。川筋は立花左近将監の屋敷前の田圃で切れている。が、この屋敷を囲む構堀が見える。その先は真っ直ぐに竜泉2丁目の竜泉寺あたりまで続く川というか堀筋と、途中で国際通り方面に分岐し鷲神社、長国寺あたりまで進み、西に振れて再び合流し竜泉寺に進む川筋が見える。

竜泉寺
金竜小学校の先を東に折れ、ふたたび北に進み国際通りと合流し、鷲神社手前あたりを左折。先回、朝日弁財天へと歩いた道筋の直ぐ近く。先回は西に、今回は北に。国際通りの一筋西を北に向かって進み、三ノ輪手前、昭和通と国際通りが交差する手前にある竜泉寺に。地名の由来ともなった古刹。鷲神社の「酉の市」のところでメモしたように、元々のお酉様であった足立の鷲神社、そこが少々遠いがゆえに、江戸のこの地・竜泉寺を「初とり」とした、という、御酉様繁栄のきっかけになったお寺、かとも思う。ともあれ、新堀川の水源あたり、昔の入谷田圃のあたりをイメージし、本日の予定終了。 3回に分けた台東区散歩も一応終了。後上野のお山、不忍池あたりが残っている。このあたりは結構歩いている。文京区の根津の谷を流れる藍染川・谷戸川・谷田川・境川、と呼び名はいろいろの川筋を歩くときに一緒にまとめて歩きたい。

草の繁華街から山谷掘から吉原を巡り、入谷へ
浅草散歩の第二回、浅草の繁華街を歩きその後、山谷掘・日本堤から吉原に入り、入谷へと抜けるコースをとる。山谷掘は猪牙舟(ちょきぶね)に乗り、大川(隅田川)から吉原遊郭に繰り出すのが粋、ということだった、らしい。日本堤は山谷掘に沿って築かれた土手。大川の洪水から江戸を守るため諸大名に命じつくられた、もの。
この地区も江戸の頃までは湿地帯。隅田川に沿った微高地、つまりは待乳山とか浅草寺のあたりの砂利が堆積された地帯は除き、その東は一帯の池や湿地。鳥越神社の北には姫ケ池、その北は千束池、かろうじて吉原のあたりに砂洲がある、といった状態である。昔、頼朝が千葉から武蔵に攻め込むとき、石浜から三ノ輪(水の輪)を経由してはいったとのことだが、その際小船を数千集めて橋にして渡ったというくらいであるから、湿地のほどは推して知るべし、である。葦の茂る湿地をイメージしながら散歩に出かける。

本日のルート: 浅草駅 > 伝法院 > 浅草六区 > 花川戸の「姥が池跡碑」と「助六歌碑」 > 待乳山聖天 > 山谷堀跡と日本堤 > 吉原大門交差点・「見返り柳」 > 吉原地区 > 吉原神社 > 吉原弁財天 > 鷲神社 > 飛不動 > 朝日弁天 > 小野照崎神社 > 入谷鬼子母神 > 元三島神社 > JR 鶯谷駅>

伝法院

浅草には何度か来たことがある。が、浅草寺以外に足をのばしたことがない。浅草ロック、というか六区ってよく聞く。どんなところか、ちょいと眺めてみよう。ということで、地下鉄を降り、雷門をくぐり、仲見世を抜け、浅草寺手前を西に折れる。伝法院が。よく聞く名前。浅草寺の総本坊。中に入れず。住職が住まいするところであれば当然か。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)


浅草六区
浅草寺の西に繁華街というか歓楽街。通称「六区」。正確には「公園六区」というべきか。明治17年(1884年)浅草寺が「浅草公園」と指定されたとき、7つに分けられた区画のひとつ。
1区...浅草寺本堂周囲。浅草神社、二天門、仁王門、五重塔、淡島堂境内
2区...仲見世
3区...伝法院の敷地
4区...公園中の林泉地。大池、ひょうたん池のあった付近。
5区...奥山と呼ばれたところで公園の北部。花屋敷から本堂にかけてのあたり。
6区...見世物の中心地。旧ひょうたん池跡をのぞく現在の六区ブロードウェイ。
7区...公園の東南部。浅草馬道町
明治17年、田圃を掘り起こし人造の池をつくる。それが「ひょうたん池」。掘り起こした土で整地したところが6区の繁華街。1951年には今度は、「ひょうたん池」を埋め立てる。浅草寺観音本堂再建の資金調達のため。埋め立て跡地は総合娯楽センター「新世界」となった、という。今はない。

花川戸の「姥が池跡碑」と「助六歌碑」
六区をブラブラしながら、浅草寺というか浅草公園を通り抜け花川戸地区に。名前に惹かれる。由来ははっきりしない。が、旧町名由来案内、によれば、「川や海に臨む地に戸をつけることが多いという。花川戸の地は、桜の並木あるいは対岸の墨堤に咲く桜など 桜と隅田川に結びついていたので、この名がついたのではなかろうか」と。結構納得。花川戸2丁目の花川戸公園に「姥が池跡碑」と「助六歌碑」。
姥ヶ池(うばがいけ)は、昔、隅田川に通じていた大池。明治24年に埋立てられた。姥ヶ池にまつわる「石枕伝説」が残る:昔、浅茅ヶ原(あさじがはら)の一軒家で、娘が連れてくる旅人の頭を石枕で叩き殺す老婆がいた。ある夜、娘が旅人の身代わりになって、天井から吊るした大石の下敷きになって死ぬ。 それを悲しんで悪業を悔やみ、老婆は池に身を投げて果てる。里人はこれを姥ヶ池と呼んだ。(東京都教育委員会による碑文)、と。
「助六歌碑」は「歌舞伎十八番助六」の歌碑。市川団十郎の当たり芸。あらすじは;助六は花川戸の侠客。助六は実は曽我五郎である、と。曽我物の「おきまり」。源家の家宝「友切丸」を探すため、毎夜吉原で喧嘩三昧。相手に刀を抜かし「友切丸」かどうか調べる。吉原の遊郭三浦屋の揚巻は、人気全盛の花魁。助六といい仲。髭の意休は権力と金を嵩にきて揚巻に言い寄る。が、相手にされない。意休は助六を罵倒。刀を抜く。この刀こそ「友切丸」。意休を討ち果たして刀を奪う。助六は揚巻の助力で吉原から逃れた。代々の団十郎は曽我五郎を荒事の典型とする。助六もそのひとつ。

助六の決まり文句:
「江戸八百八町に隠れのねえ 杏葉牡丹の紋付も
桜に匂う仲の町、花川戸の助六とも、
また揚巻の助六ともいう若いもの
間近くよって面像おがみ、カッカッ奉れえ」

山谷堀跡と日本堤
花川戸公園を離れ、山谷堀跡に進む。江戸通り(昔の奥州街道)を少し北に進み、先回散歩で訪れた待乳山聖天さま前に。道脇に今戸橋跡。隅田川との合流点・山谷堀水門跡地一帯は、現在は埋め立てられ公園になっている。山谷堀は、王子から流れる音無川の下流部。というよりも、明暦2年(1656年)浅草裏の田圃の中に生まれた新吉原に向かう川筋というか掘として知られる。猪牙舟という小さな舟を仕立て、浅草橋あたりから隅田川を上り、山谷堀を吉原に進むのが「カッコ良い」吉原通いであったよう。
北西方向に堀跡を進む。「山谷掘公園」として整備されている。紙洗い橋、地方橋と進む。勿論「跡」が残るだけ。山谷掘に沿って「土手通り」が通る。この土手通りは昔の「日本堤」の道筋。日本堤は元和6年(1620年)、二代将軍・家光の命により、下谷・浅草の地を隅田川の洪水から護るため築かれた。幅8m、高さ4m。今戸から三ノ輪まで続く。土は待乳山を切り崩した。日本堤の名前は、「日本全国」の諸大名が分担して工事にあたったから、とか、当時奥州街道も吉野橋から千住小塚原にかけて土手になっており、これって多分「砂尾堤」だったと思うが、ともあれ二つ目の堤=二本堤>日本堤、であったからとか、諸説あり。歌川広重の江戸名所百景『吉原日本堤』には茶屋が並び、吉原への遊客で賑わう堤が描かれている。昭和の初期に日本堤が取り崩されて道となった。

吉原大門交差点・「見返り柳」

山谷掘跡の遊歩道を進み、吉原大門交差点に。旧吉原名所のひとつ「見返り柳」とその碑がガソリンスタンド脇に。吉原帰りの客が、後ろ髪をひかれながら、このあたりで遊郭を振り返ったところから、この名前が。「後朝(きぬぎぬ)の別れに見返る柳かな」「もてたやつばかり見返る柳なり」「見かぎりの柳とわびる朝帰り」「見返れば意見か柳顔をうち」といった川柳も。昔は山谷掘脇の土手にあったのだが、道路や区画整備のためにここに移された。

吉原地区
吉原大門交差点を左折。吉原地区に向かう。いわゆる風俗街ってどのあたりにあるのか、千束4丁目あたりをぶらぶらする。このあたりは昔の吉原のメーンストリート・仲之町あたり。はてさて現在の吉原、新宿の歌舞伎町っぽい雰囲気を想像していたのだが、少々さびれた感じ。真昼間から客引きの黒服さんが手持ち無沙汰な感じ。規制があるためなのか、声をかけるような、そうでないような、微妙なスタンス。

吉原神社
千束3丁目に吉原神社。明治5年、吉原遊郭の四つの隅にあった神社など、近辺の稲荷社を合祀してできた。中でも、九朗助稲荷の創建は古く、和銅4年(711年)、白狐黒狐が天下るのを見た千葉九朗助さんの手で元吉原の地に勧請されたのがはじまり、と。元吉原って、日本橋葦町あたり。明暦3年、廓がこの地に移る。新吉原と呼ばれた所以。それにともない、神社も移ってきた。弁天さまをお祀りしている。






吉原弁財天
少し先に進むと吉原弁財天。境内の「新吉原花園池(弁天池)跡」によれば、吉原遊郭はこのあたり一帯の湿地帯、いくつもの池が点在湿地帯を埋め立てて造成したわけだが、造成に際して池の一部が残った。で、誰からともなく、いつからともなくその池、花園池というか弁天池のあたりに弁天様をおまつりする。それが吉原弁財天のはじまり、と。境内には「花吉原名残碑」や関東大震災の時に溺死した遊女のために作られた吉原観音がある。
「花吉原名残碑 (台東区千束三丁目二十二番 吉原神社)」:吉原遊郭は、江戸における唯一の幕府公許の遊里で、元和三年(1617) 葺屋町東隣 (現中央区日本橋人形町付近) に開設した。吉原の名称は、はじめ 葭原 と称したのを縁起の良い文字にあらためたことによるという。明暦三年(1657) の明暦の大火を契機に、幕府による吉原遊郭の郊外移転命令が実行され、同年八月、遊郭は浅草千束村(現台東区千束)に移転した。これを「新吉原」と呼び、移転前の遊郭を「元吉原」という。新吉原は江戸で有数の遊興地のとして繁栄を極め、華麗な江戸文化の一翼をにない、幾多の歴史を刻んだが昭和三十三年売春防止法の成立によって廃止された。(中略)昭和四十一年の住居表示の変更まで新吉原江戸町、京町、角町、揚屋町などの町名が残っていた」、と。

鷲神社

少し西に進み鷲神社(おおとり神社)に。下町を代表する神社。酉の市、お酉さまで知られる。祭神は天日鷲命(あめのひわしのみこと)と日本武尊(やまとたけるのみこと)。天照大御神(あまてらすおおみかみ)が天岩戸から現れるとき、鷲がどこからともなく飛び来る。八百万の神はその光景を瑞祥(いいしらせ)として、鷲の一字を入れて天日鷲命、と。開運・開拓の神として当地に鎮座。これが天日鷲命の縁起。東征の帰途、戦勝を記念してこの神社の松に熊手をかけて御礼。その後、日本武尊をしのんで、命日におまつり。その日が11月の酉の日。「酉の待」、「酉の祭り」が転じて「酉の市」になった、とか。これが、日本武尊、そして酉の市の由来。
江戸時代には江戸っ子の篤い信仰を受けていた、と。江戸期は鷲大明神。鷲神社となったのは明治になってから。が、少々疑問が。お酉さまって、新宿花園神社にもあるし、渋谷にも。で、お酉様の本家本元は?武蔵野国南足立郡花又村(今は足立区花畑町)にある鷲神社のよう。祭神は日本武尊(ヤマトタケル)。東征の帰路に花又地に立ち寄り、戦勝を祝した。これが縁となり尊が伊勢の能褒野(ノボノ)で亡くなった後、神社を作りお祀りしたと伝えられる。中世になると新羅三郎義光が戦勝を祈願したことから武神として尊崇されるようになる。
江戸時代になると、11月の酉の日に、武家は綾瀬川を船で、町人は徒歩か馬を使ってこの地に詣でる。単なる地元の産土神が江戸の人々の心を捉えたのは動機は信心だけではなさそう。この日だけは解禁されていた賭博が目当てであった、とか。が、安永5年に賭博禁止。となると客足が途絶える。で、新たなマーケティングとして千住の赤門寺に「中トリ」、浅草竜泉寺(江戸初期の古刹。現在は不明)で「初トリ」が行われることに。結果、吉原を背景とする浅草の大鳥さま、大鷲神社、そしてと隣接する鷲在山長国寺が繁昌するようになった、と。
突然、何故、「大鷲」かってことが気になった。調べた。この産土神さまは「土師連」の祖先である天穂日命の御子・天鳥舟命。土師(はじ)を後世、「ハシ」と。「ハシ」>「波之」と書く。「和之」と表記も。「ワシ」と読み違え「鷲」となる。ちなみに、天鳥舟命の「鳥」とのイメージから「鳥の待ち」に。この待ちは、庚申待の使い方に同じ。
ついでに熊手。参道で売られた熊手ももとは近隣農家の掃除につかう農具。ままでは味気ないということで、お多福などの飾りをつけて販売した。

飛不動
竜泉町1丁目に飛不動(とぶふどう)。下谷の不動と呼ばれ、江戸七不動のひとつ。由来は、お不動さんが奈良の大峰山から一夜にして江戸に戻ってきたから、とか。とはいいながら、飛不動ってここだけでなく、全国にはいくつかあるようだし、とは思いながらも、縁起は縁起以上でも以下でもないわけで、これいじょうのあれこれはやめて先にすすむ。ちなみに、七不動といっても、目黒不動、深川不動の他はどこだろう。

朝日弁財天
国際通りを横切り、西に進み竜泉1丁目。朝日弁財天。明治の中ごろまで、このあたり、は「水の原の谷」と呼ばれる原っぱ。2400坪もある大きな池がふたつもあったという。この地には備中松山藩主・水谷伊勢守の下屋敷があり、弁天さまの信仰篤かった伊勢守は池の中に弁天さまの祠をつくる。上野不忍池の弁天様を祀ったのも水谷伊勢守。西の不忍池の弁天様を夕日、東のこの地の弁天さまを朝日、ということが、朝日弁財天の由来。関東大震災の後、残土処理のため、それも主に浅草十二階の残土をもってして池を埋めたてた。池が埋め立てられたことを惜しんだ久保田万太郎は、「水の谷の池 埋め立てられつ 空に凧」という歌を残す。

小野照崎神社

昭和通りを南に下り、下谷2丁目を左折。法昌寺。入谷七福神の毘沙門天をまつる。すぐ隣に英信寺。入谷七福神の大黒天をまつる。すぐ近くに小野照崎神社。おちついた神社らしい神社。由緒ありげ。小野照崎神社の祭神は小野篁(たかむら)。平安初期の学者、詩人として有名。足利学校の創設者でもある篁は、上野国司の任期を終え、帰洛の途についた際、上野照崎(忍岡、現在の上野公園付近)の光景を愛でそこに居を構える。 で、篁の徳をたたえる人々により、小野照崎大明神をその地に祀る。その後、上野寛永寺建立のため、現在の地に移る。
小野篁も散歩の折に時に顔を出す。武蔵と縁の深い人物のようだ。多摩というか府中の小野神社は武蔵一ノ宮。国府のあったところは小野郷とも呼ばれ小野一族が居住した地、とか。小野篁の子孫という。町田の小野路町で小野神社にはじめてであったときは、どうして小野篁が、こんなところに、とは思ったのだが、今度は江戸の東で出会った。小野篁の最も有名な歌:「わたの原八十島かけて漕き出でぬと 人には告げよあまのつりぶね 」。遣唐副使の任を正使との喧嘩で放棄。天皇の逆鱗に触れ、隠岐に流罪となるときに歌ったもの。

入谷鬼子母神
金杉通りを下り、言問通りに。少し東に戻り、昭和通りとの交差点近くに「入谷鬼子母神」。古式ゆかしいお寺を想像していたのだが、鉄筋のビル。この台東区に限らず、下町のお寺は鉄筋が多い。関東大震災とか東京大空襲で壊滅的被害を受けた地帯であることを改めて実感。「恐れ入谷(いりや)の鬼子母神」といった地口を通し、名前だけは知っていた。
鬼子母神って、印度の神様。子供をさらっては、食べていた、とか。それを戒めるべく、お釈迦様が鬼子母神の子供を隠し、子を失う悲しみをわからせたという。改心した鬼子母神は鬼の「角」のとれた「きしぼじん」となった。安産、子育て、水子など、子供を護ってくれる神様である。ちなみにさきの地口(ギャグ)は、「恐れ入谷の鬼子母神、びっくり下谷の広徳寺、どうで有馬の水天宮、志やれの内のお祖師様(杉並堀の内の妙法寺のこと)、うそを築地の御門跡」と続く狂歌の一節。「野暮天」の命名者でもある狂歌師・太田蜀山人の作とか。
それと、このお寺さん、朝顔市で知られる。入谷で朝顔が盛んになった理由は、このあたりは、入谷田圃(たんぼ)と呼ばれる低湿地であったが、上野の山からの落ち葉が水路などに堆積し、その土が朝顔の栽培に適していた。それと江戸の「都心」から近く、気安く来れた、といったことらしい。とはいいながら、有名になったのは明治になってから、とか。
入谷田圃で思い出した。入谷の地名の由来であるが、入会(いりあい)の田圃から来ている、とか。このあたりの田圃は境がはっきりしないため、どこの誰の所有と決めずに慣習上、入会地として共用されていた。で、入会の野>入野(いりや)>入谷となった、とか。ちなみに、下谷って地名は入谷田圃が明治に入って、東部が新谷町となったとき、西部を下谷とした、という。
入谷でもうひとつ思い出した。『観光都市 江戸の誕生;安藤優一郎(新潮新書)』に太郎稲荷のことがあった。筑後柳川藩立花家下屋敷の屋敷神であったが、流行病に霊験あらたか、ということで一大ブームを起こしたという。「いまだ暁より、門前に詰懸て門明(かどあけ)を待つ、参詣夥しなんどいう計りなし、往来は狭し、人は多し、左右の下水に押落され、泥に染る者、幾十百人という事を不知(知らず)」(享和雑記)、といった状態。現在の下谷2丁目あたり、とか。そのうちに行ってみよう。ちなみに、大名家の屋敷神が一般大公開と相成った例としては、有馬家の水天宮、讃岐丸亀藩京極家の金毘羅さん、三河西大平藩大岡家の豊川稲荷などがある。

元三島神社

言問通りを西に進み今日最後の目的地、元三島神社に。JR鶯谷の駅前、雑とした街の真ん中にある。言問通りに沿って鳥居というか、参道っぽいアプローチがある。由来は蒙古襲来弘安の役での勇将・河野通有の発願にはじまる。その後、一族が伊予の大山積神社を当地、金杉村上野山の河野館に勧請、この地方一帯の守護神とする。このあたりにはほかに下谷3丁目と浅草三島神社の三島神社があるが、縁起は皆同じ。JR鶯谷駅に戻り、本日の散歩終了。

下町散歩も、中央区、江東区、墨田区を終え台東区に入る。読みは、「タイトウ」区。台東区の「台」は上野の高「台」、「東」は上野の高台の東、つまりは浅草を指す、という。「台」は台覧、「東」は聖徳太子ではないが、「日の出ずるところ」であり、台も東も、どちらにしてもありがたい言葉である、と。
それにしても台東区って、少々分かりにくい。区名を決めるときは、東区とか上野区,宮戸区とかなどいろいろ案はあったよう。候補のひとつである上野浅草区でもなっていれば、少々わかりやすかった、かも。ということで、「台東」散歩は区名が示す、台の「東」・浅草からスタートする。
今回は、浅草から白髯橋のあたりまで隅田川に沿って歩く。途中の今戸、橋場、石浜といった地名は、江東区や墨田区を含めた東京下町低地の地形や歴史を調べるときに、幾度となく目にしたところ。地形としては、白髭橋のあたりから浅草、そして鳥越あたりまで隅田川にそって砂州というか自然堤防として形つくられた微高地となっていた。それ以外はというと、浅草の西というか北というか、入谷・竜泉寺・千束一帯は「千束池」、その南上野駅の東一帯、下谷・浅草・鳥越一帯は「姫が池」が広がり、これらの池は小川でつながっているわけだから台東区一帯は沼地といったところであろう。これらの低湿地帯が埋め立てられ、現在の姿に近い地形になるのは徳川の時代になってからである。



本日のルート: 浅草観光文化センター > 浅草寺 > 浅草神社 > 駒形橋西詰め > 駒形堂 > 乳待山聖天 > 今戸神社 > 橋場寺不動 > 橋場の渡し・白髭の渡し > 平賀源内の墓 > 玉姫稲荷 > 泪橋;思川の水路跡 > 三ノ輪橋跡 > 三ノ輪・浄閑寺

地下鉄銀座線・浅草駅の近くに「浅草観光文化センター」
地下鉄銀座線・浅草駅下車。吾妻橋西詰に出る。川端には水上バス乗り場。雷門通りを西に進み、「雷門」に。道を隔てて南側に「浅草観光文化センター」。散歩の資料を集め、浅草寺に。
浅草寺
浅草寺に伝わる縁起によると、神社創建は推古36年というから628年。漁師の檜前浜成(ひのくま・はまなり)と竹成(たけなり)が隅田川から拾い上げた金の観音像を、村長・土師中知(はじのなかとも)の家におまつりしたのが浅草寺のはじまり、と。その後、大化元年(645年)には勝海上人が観音堂を建立。縁起は縁起以上のものではないにしても、すくなくとも平安時代の中頃には立派なお堂ができていたようではある。
頼朝も治承4年(1180年)隅田川を渡り、武蔵の国へ攻め入るとき、浅草寺で戦勝祈願をしたというし、頼朝の父の義朝も浅草観音の信者であったというし、鎌倉の地に鶴岡八幡宮を造営の際、地元の宮大工など頼むに足らず、ということで、浅草寺をたてた浅草の宮大工を呼び寄せた、ともいうし、あれやこれやで結構昔から浅草寺は賑わっていた、そのことは間違いなさそう。
それにしても、それにしても、である。仏教伝来は538年。漁師の檜前浜成(ひのくま・はまなり)と竹成が隅田川から金の観音像を拾い上げたのが628年。伝来以来、一世紀弱で川から拾い上げた「もの」が「仏像」であると、一介の漁師がわかるものであろうか。あるとすれば、わずか一世紀弱で仏教が一般市民にも広まっていた、ということであろうか。
と、あれこれ考えながら、ふと気がついた。檜前浜成(ひのくま・はまなり)と竹成っていかにも渡来系の人。墨田区の散歩でメモしたように、この浅草湊は帰化人の橋頭堡であった。とすれば渡来系帰化人って、仏教を持ち込んだ人たちであろうから、拾い上げた像が「仏像」だとすぐにわかって当然でもあろう。勝手な結論;浅草湊は帰化人によって開かれた。
仲見世通りを進み、浅草寺本堂におまいり。それにしても境内にはいろいろな神や仏がそろっている。念仏堂、涅槃堂。閻魔堂などのお堂が169、お稲荷さんが35、不動堂が11、地蔵堂が10、弁天社が7、恵比寿・大黒さまが10。権現様もある。神や仏のデパートのようなお寺さんと呼ばれていた。
秘仏のご開帳も盛ん。江東区散歩のときの回向院は出開帳(でがいちょう)のナンバーワンのお寺であったが、この浅草寺は居開帳(いがいちょう)、つまりは自分のお寺の秘仏を自分のお寺でご開帳するって催しが二年に一度の割合で開かれていた、という。秘仏ご開帳の利益は膨大。『観光都市 江戸の誕生;安藤優一郎(新潮新書)』によれば、文化4年(1807年)のご開帳では70日間(本来は60日が最大)のイベントで、儲けが今の金額でおよそ2億円。この金額は通常の浅草寺のお賽銭額の3分の2にもなるという。それではと、これも本来は33年に一度しかできないものを、あれこれ理由をつけて頻繁にイベントを催したお寺もあったようで、成田山新勝寺など150年の間に10回というから、15年に一度出開帳をおこなっている。ビジネスマネジメントの立場からして、気持ちはわからないでもない。

浅草神社
本堂から少し奥というか北に浅草神社。檜前浜成と竹成、それと土師中知の3人を祭神とする。その後、神仏習合、というか本字垂迹というか、ともあれ「神も仏も皆同じ」といった論法で村長の土師中知が阿弥陀如来、浜成と竹成がその脇時の観音菩薩と勢至菩薩であるという権現思想が生まれ、この浅草神社が三社権現と呼ばれるようになる。「三社さま」の由来である。後に東照権現(家康)もおまつりされた。本殿、弊殿、 拝殿は共に慶安2年(1649年)家光公によって再建。この神社の祭礼である三社祭りは、以来江戸の三大祭りとなって今に至る。

駒形橋西詰めに駒形堂と浅草観音戒殺碑
浅草観光文化センターで手に入れたパンフレットをチェックすると、少し南、駒形通りに架かる駒形橋西詰めに「駒形堂」と「浅草観音戒殺碑」がある。駒形堂のある場所は、浅草寺縁起に言う、観音さま出現の地。出現の地であるが故に、このあたりの川で殺生を禁じたのが「浅草観音戒殺碑」。駒形の由来は、隅田川からのお堂を見ると、駒がかけているようだったので、「駒がけ」。それが「駒がた」に転化したとか、観音さまに寄進する絵馬を掛けたので「駒掛け」、それが転化した、とか、駒形神を相州箱根山から勧請したからとか、これも例によって諸説あり。
このあたり、昭和2年ころまで「駒形の渡し」があった。吉原の遊女・高尾太夫が恋しい仙台の殿様、伊達綱宗を思って詠んだ「(ゆうべは波の上の御帰らせ、いかが候。御館の御首尾つつがなくおわしまし候や。御見のまま忘れねばこそ、思い出さず候。かしこ;あなたのことを忘れることがない、ってこと)。君はいま 駒形あたり ほととぎす」の句の舞台はこのあたり。とはいうものの、先日、日本橋川が隅田川に合流する豊海橋のあたりの高尾稲荷起縁の説明とは正反対のエピソード。
高尾稲荷の説明では、どうしてもなびかない高尾太夫を伊達の若殿が切り殺したというが、こちらの話は高尾太夫が伊達の若殿に恋焦がれておる。酒色に溺れた放蕩三昧の故に、21歳の若さで蟄居逼塞、それがもとでの伊達騒動の発端となったお殿様ではあるが、馬鹿殿を演じていた、という説もあるし、よくわからない。思うに、勝手に思うだけだが、高尾太夫とのお話は「大名を振った遊女」といった筋書きが面白かろうと、虚実織り交ぜての芝居話となっていたのではないだろうか。

乳待山聖天
隅田川に沿った江戸通りを北に進む。吾妻橋西詰めから松屋の脇を進み、東武伊勢崎線のガードをくぐり、墨田公園を右手に眺めながら言問通り・言問橋西詰めを過ごし、微高地ルートの最初の目的地、乳待山聖天(まつちやま・しょうでん)に。小高い丘になっている。昔は鬱蒼とした森であった、とか。推古3年というから595年。この地が一夜のうちに盛り上がる。推古36年の浅草観音出現への瑞兆と伝えられている。同時に龍が舞い降り、この丘を守護した、と。待乳山本龍院の由縁か。
で、この「乳待山」って名前、少々艶かしい。が、もともとは「真土山」。本当の土といった意味。沖積低地部には珍しい洪積層=本当の土、の台地であるからだろう。いつのころからか、真土が待乳に変わった訳だが、聖天さまというのは夫婦和合の神様である。

今戸神社
聖天さまを離れ、北に進む。道路の左手には山谷掘跡が見える。山谷掘って響き、少々袖は引かれるが、次回散歩のお楽しみとし、今戸1丁目の今戸神社に。今戸神社は1063年、奥羽鎮守府将軍・源頼義、義家親子が勅令により奥州の安倍貞任・宗任討伐のとき、鎌倉の鶴ケ丘と浅草今之津(今戸)に京の石清水八幡宮を勧請したのがはじまり。今戸八幡と呼ばれる。その後1081年、清原武衡・家衡討伐のため源義家がこの地を通るにあたり、戦勝を祈願。勝ち戦に報いるため社殿を修復した、とか。戦火にあうたび再建が繰り返された。江戸時代には三代将軍家光も再建に尽力している。
境内に沖田総司終焉の地の碑。京の地から江戸に引き上げた総司は松本良順の治療を受ける。官軍の江戸入りに際して、この地に居を構えていた良順のもと、今戸八幡に収容され治療にあたった。が、その甲斐もなくこの地で没した、と。
境内には「今戸焼」発祥の地の碑。また、この地は「招き猫」発祥の地でもある。商売繁盛の「招き猫」の登場は江戸になってから。人形の招き猫はこの地の今戸焼での人形がはじまり。浅草に住まいする老婆、その貧しさゆえに、可愛がっていた猫を手放す。夢枕に猫が現れ、「吾が姿を人形にすれば福が来る」と。で、つくった人形を浅草寺参道で売り出すと大評判になった。目出度し目出度し、ということで先に進む。

橋場寺不動
明治通り手前、橋場2丁目に砂尾山・橋場寺不動。道からちょっと入った奥まったところにある。うっかりすると見逃しそう。こじんまりしたお不動さん。が。天平宝字四年(760)というから長い歴史をもつ古刹。江戸時代に描かれた図を見ると、おなじく道から奥まったところに本堂、いかにも草堂といった雰囲気のお堂がある。








石浜神社
明治通りを越え、白髭橋西詰めのちょっと先に石浜神社。後ろには大きなガスタンク。周りは広々とした公園に整備されている。お宮も予想と異なり、都市計画で整備された中にたたずむお宮さんといった雰囲気。
歴史は古い。聖武天皇の神亀元年(724)勅願によって鎮座。文治5年(1189)、源頼朝が奥州・藤原泰衡征討に際して戦勝を祈願し「神風や 伊勢の内外の大神を 武蔵野のここに 宮古川かな」と詠む。で、戦に勝利しそのお礼に社殿を寄進。境内にはいくつもの神社が集まっている。「麁香神社(あらかじんじゃ)」は家つくり、ものつくりの神様。職人さんの信仰を集める。「日本大工祖神の碑」があるのもうなずける。「江戸神社」はこの地を治める江戸太郎重長が勧請した「牛頭天王社(ごずてんのうしゃ)」がはじまり。橋場の鎮守さまであったが、後に江戸神社となった。「北野神社」は言わずもがな。そのほか、妙義八幡神社とか寿老神とか。富士塚といった富士遥拝所もある。また「名にし負わば」の「都鳥歌碑」もある。
この神社には「真先神社」もある。天文年間に石浜城主となった千葉之介守胤が「真っ先駆けて」の武功を祈願した真先稲荷がはじまり。もとは隅田川沿岸にあり、門前は吉原豆腐でつくった田楽を売る茶屋でにぎわった、とか。吉原への遊びの客がこの地を訪れ詠んだ川柳;「田楽で帰るがほんの信者なり」。大正時代に石浜神社と一緒になりこの地に。
この地、とはいうものの、石浜神社も真先神社も別の場所にあった。今石浜神社の西隣にある大きなガスタンク・東京ガス千住整圧所。石浜神社はこの整圧所の北の方にあったらしい。真先神社は東の方墨田川寄りにあったらしい。で、工場建設に伴い現在の地に移転した、ということだ。
お宮を離れる。神社の裏にお墓がある。「お申し込みは石浜神社に」、といった文句。神社にお墓ってなんとなく違和感。が、どうも都内唯一の神社霊園であるとか。

橋場の渡し・白髭の渡し
墨田川を見てみようと堤防に進む。立派な遊歩道となっている。対岸は向島。往古、このあたりから橋場の渡し・白髯の渡しが通っていた。古代、鳥越から砂州に沿って石浜のあたりまで東海道が通り、この渡しを超え市川の下総国府につながっていた。武蔵野台地と下総台地のもっとも接近したところであり、交通の要衝であったのもムベなるかな。
交通の要衝というだけではない。浅草観音の門前には集落もできる。人も集まる。浅草寺の北にある、今戸・橋場・石浜の村落も水陸交通の要衝としてだけでなく、多くの寺院も集まる。今回の散歩では見落としたが、橋場1丁目の保元寺には踊念仏・時宗の「石浜ノ道場」があった。日蓮宗も石浜道場もあった。
文学作品にもこのあたりの地が登場する。『伊勢物語』然り、『更級日記』然り、また墨田散歩のときにメモした梅若伝説の梅若の母・妙亀尼がまつられている「妙亀塚」もこの地にある。言わんとするところは、平安のころには、このあたりは都の人たちにも知られた場所となっていた、ということ。
ともあれ、このあたり一帯は中世、交通・商業・宗教そして軍事上でも重要な地であった。坂東八カ国の大福長者・江戸太郎重長の治める地であった。当時この浅草湊は海運の一大拠点。江戸時代に江戸湊(亀島川と隅田川の合流点近くにあった)が開かれるまでは、海から、また内陸の川筋からの船が多数この地に集まっていた。その富を一手に握っていたのが江戸太郎重長。
江戸太郎重長は、その力あなどりがたく、頼朝がこの地に上陸するまで、市川の地で待機を余儀なくされた程。石浜神社のあたりに江戸氏の出城・石浜城があったとも。最終的には一族の葛西氏、豊島氏などの説得により江戸氏も頼朝に与力した。
『義経記』に;石浜と申すところは、江戸の太郎が知行なり。折柄節西国舟の着きたるを数千艘取寄せ、三日が内に浮き船を組んで江戸の太郎は合力す」、とある。で、墨田の隅田宿・寺嶋あたりから隅田川を渡り、この石浜あたりの砂州・微高地に取り付き、その先の低湿地帯は船を並べた「船橋」を渡り、三ノ輪(水の輪)から王子で武蔵の台地に上陸したわけだ。
明治の頃、橋場のあたりは別荘地であったという。白髭橋のあたりに「対鴎荘跡」の案内文。明治6年、白髭橋西詰めに明治の元勲三条実美の別邸・対鴎荘がつくられた。「いそがしき つとめのひまを ぬすみ来て 橋場の里の月を見るかな」。三条実美が京都風の優雅さをこの地に求め詠んだ歌。対鴎荘はその後、多摩の聖蹟桜ヶ丘に移された、ということであったが、先般多摩を歩いた時は、それらしき屋敷は見つけることが、できなかった。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)


平賀源内の墓
橋場を離れ明治通りを西に。先に進む。ほんの少し先の道を一筋程度南に入ったところに、平賀源内の墓がある、という。昔はこの地に曹洞宗総泉寺があり、そこにあったわけだが、この総泉寺は板橋(小豆沢)に移り、源内のお墓だけが残っている。散歩をはじめて源内先生のゆかりの地にもよく出会う。大田区・六郷用水散歩のとき、源内先生が考案した破魔矢がはじめて売られたという新田神社、はじめて住まいをもった神田加治町などなど。江戸のダヴィンチとも、奇人変人の代名詞とも言われる。が、二人を殺傷し獄死した、という話もあるし、その場合、このお墓って、とは思いながらも、とりあえず「土用の丑の日」に鰻を食べるって習慣をはじめた人物、というあたりで矛を収めておく。

玉姫稲荷
吉野通りの手前、清川2丁目に玉姫稲荷。玉姫って、いかにも由来ありげな名前。昔このあたりに住む砂尾長者の一人娘、玉姫は恋に破れ、鏡が池に身を投げた。この玉姫をお祀りしたのが玉姫稲荷。とはいうものの、玉姫稲荷って全国にあるわけで、はてさて。境内には口入稲荷も。口入屋って一種の職業斡旋所。吉原の高田屋という口入屋の庭にあったものをこの地に移したとか。ちなみに、砂尾氏ってこのあたりの有力者。橋場不動を建てたもの、開基は砂尾修理太夫の手になる、という。

泪橋:明治通りは思川の水路跡
北に進み、明治通りに戻る。この道筋は昔の「思川」の川筋。吉野通りと明治通りの交差点に「泪橋」の地名が残るほか、川筋はすべて埋められており、川の面影は何もなし。思川は「音無川」の支流。王子あたりで石神井川というか石神井用水から分流され、京浜東北線に沿って日暮里駅前に。そこから先は台東区と荒川区の境を三ノ輪まで続き、三ノ輪でこの思川と山谷掘に分かれる。この音無川もすべて埋められている、とは思うがそのうちに歩いてみたい。音無という、名前に惹かれる。
三ノ輪・浄閑寺
更に先に進む。「土手通り」と合流。土手通りって、山谷堀にそってつくられた土手道。山谷掘りは今回はパス。昭和通・国際通りが合流し日光街道となり北に向かう三ノ輪に。「三ノ輪」は「水の輪」から転化したもの。往時この地は、北の低湿地・泥湿地、東・南に広がる千束池に突き出た岬といった地形であった。
三ノ輪では本日の最終目的地、浄閑寺に。明治通りと日光街道の交差点を一筋北に。地下鉄入口の丁度裏手あたりにある。浄土宗のこのお寺さん、安政2年(1855年)の大地震でなくなった吉原の遊女が投げ込み同然に葬られたため「投込寺」と。川柳に「生まれては苦界 死しては浄閑寺」と呼ばれたように、吉原の遊女やその子供がまつられる。

三ノ輪橋跡
少し元に戻り、交差点道脇に「三ノ輪橋跡」の碑を確認。音無川に架かる橋。王子から流れてきた音無川は、この先浄閑寺前でふた手わかれ、一筋は「思川」、あと一筋は「山谷堀」となり、ともに隅田川に流れ込んでいた。音無川、山谷堀散歩を先のお楽しみとして、本日の予定は終了。

秋川の谷合に残る古城を訪ねる。檜原城跡と戸倉城跡である。戸倉城は大石定久の隠居地、と。大石氏とは滝山城を北条氏照に譲ったあの大石定久、である。また、戸倉から少し秋川を上り、檜原にも城があるという。戸倉城と同じく同じく甲斐・武田への押さえためにつくられた城。あまり聞いたこともないお城。それぞれ少し離れており、また、途中はバス道であり、歩道があるわけでもないのでバスを利用。城跡の残る山道に取りつくのを本日のメーンイベントとする。 

 





本日のコース: 本宿役場バス停・口留番所 > 吉祥寺 > 檜原城跡 > 戸倉バス停 > 光厳寺 > 戸倉城跡 > JR五日市線・武蔵五日市

JR五日市線・武蔵五日市

JR中央線立川からJR青梅線、JR五日市線と進み武蔵五日市下車。予想外のモダンな駅舎。駅前で檜原城跡への最寄りの地・檜原村役場に行くバスを探す。駅前というかバス停近くに観光案内所。尋ねる。数馬行き、藤倉行き、小岩方面行きのどれかに乗り、本宿役場前バス停で下りればいいとのこと。数馬は秋川に沿って、檜原街道を進み武蔵・甲斐の国境・浅間峠手前を三頭山の裏手・都民の森方面へ向うルート。小岩は北秋川に沿って205号線を進む ルート。藤倉も同じルートで小岩のもっと先。


吉祥寺
小岩行きのバスに乗り、本宿役場前バス停で下車。北秋川と南秋川が合流し秋川の流れとなる交差地点に聳える山が檜原城跡。登山口を探す。あれこれ歩くがそれといった案内がない。交差点から檜原街道を少し南淺川によったところにお寺・吉祥寺。 臨済宗建長寺派の古刹で創建は応安6年(1373年)。なんとなくお寺から城山への道があるのでは、と見当をつけて境内に。本堂は工事中。土蔵に「三ツ鱗」。これって北条氏の家紋。北条ゆかり、ってことはひょっとしてこのお寺は檜原城主の菩提寺か。ということは、城につながる道があるに違いない、との推論。本堂横の山肌に「十三仏巡りの参道」。
とりあえず登る。不動明王、釈迦如来、文殊菩薩、普賢菩薩、地蔵菩薩、弥勒菩薩、薬師如来、観世音菩薩、勢至菩薩、阿弥陀如来、阿閃(しゅく)如来、と参道というか山道に佇む仏様に手を合わせながらひたすら登る。結構きつい。時々仏様への参拝道は行き止まりとなる。これも修行(?)と分岐点まで引き返し、気を取り直しさらに登る。道の分岐は複雑。が、なんとなくすべてが山頂に向っているよう。息を切らしながら尾根に到着。

檜原城跡

尾根道を歩く。2箇所ほど比較的広い平坦なスペース。広さから見て、主要な曲輪への攻撃を防ぐ小さな曲輪・腰曲輪だろう。尾根の稜線にある2箇所の腰曲輪の間には空堀・堀切があり、腰曲輪の間の通路を遮断している。通路は細い土橋でつながる。頂上地点に13番目の仏さま虚空蔵菩薩が。このあたりが主郭 (曲輪)なのだろう。標高450m余り。30分程度で上り終えた。主郭の南には急斜面を下る尾根道。向いに見える最高峰への鞍部なのだろうが、いかにも危険そうでパス。しばし休憩。見晴らしはそれほど良くない。が、それなりの眺め。本宿の集落と戸倉方面が見渡せる。下りは幾筋もある道を適当に下る。急斜面を垂直に掘った空堀・竪堀(たてぼり)らしきものを見ながら、麓へと下りる。
檜原城は武州南一揆・平山氏が築いた城、というか砦。この場合の「一揆」は通常使われる一揆とは異なり、地域自衛共同体といったもの。通常は農耕に従事し、一旦事あれば「南一揆」の旗を掲げ、武器をもち戦いに赴く農耕武士集団。実力においても室町期に秋川の谷筋を守った強力な自衛集団でもあった。平山氏は戦国時代、北条氏に従属。武蔵と甲斐をつなぐ唯一の街道であった浅間峠からの道筋の戦略的抑えとして檜原の地に城を構え、甲斐・武田氏に備える。
永禄十二(1569)年の武田軍侵攻は、この街道ではなく本隊が碓氷峠越え、小山田信茂率いる別働隊は小仏峠越えで侵攻。結局のところ武田軍と檜原城の攻防戦はないままで終わる。天正十八(1590)年の小田原の役では、八王子城が1日で落城。檜原城主・平山氏重は八王子城代・横地監物ほか敗残兵を収容。前田利家、上杉景勝らの軍勢と干戈を交える。が、衆寡敵せず、七月十二日に落城、平山氏は城下で自害。家紋が北条と同じ「三ツ鱗」であることからわかるように、平山氏重は北条氏に重用されたのであろう。戦うことなく降伏した武将の多いなか、北条家に殉じた数少ない武将・土豪のひとりである。その後この城は徳川家康の関東入封と同時に廃城となる。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)


口留番所
バス停に。前に 神社と見まごう趣き深い民家。表札には「吉野」さんと。このあたり、吉野街道とか吉野梅郷といった地名も多く、由緒ある家柄なのだろう。調べてみた。口留番所とのこと。甲州方面から檜原を通って武蔵国へ入る場合、秋川の橘橋を渡る。で、この橋の袂に設けられたのが口留番所。『武蔵名勝図会』によると「関の険固なることは類まれなる」とある。余程厳しかったのだろう。番所の役人は地元の名主。八王子の十八代官の一人から代々委任されていた。その名主宅が吉野家、ということだった。

光厳寺

バスに乗り、戸倉城跡に戻る。1時間に1本程度のサービス。戸倉までの道は、行きのバスで見た限りでは、快適な散歩道とは言い難い。歩道があるわけでなく、車道を3キロほど恐る恐る歩くことになる。バスに乗るのが正解だろう。
戸倉で下車。戸倉城跡のある城山を確認。秋川渓谷の入口に聳え立っている。登山口を捜す。バス停近くに「戸倉小学校・光厳寺」の標識。檜原城跡の吉祥寺ではないが、お寺からのアプローチを期待して寺に向う。光厳寺に。臨済宗建長寺派の古刹。「足利二ツ引両」の家紋。足利尊氏が創建したと伝えられている。ちな みに新田家は横線が一本の「一ツ引両」。門前の急斜面に樹齢 400年もの山桜。幹周り 533センチ、枝は東西に25メートル・南北に80メートルのび、高さは22メートル。東京都下三大巨樹桜のひとつ。

戸倉城跡
お寺左手に「城山」への案内。竹林の 中を進み山道に。最初はゆったりとし上り・下り。尾根に向かう。「掘切り」を越えると尾根道に。最初はゆったり。左手は断崖。少々怖い。次第に険しくなる。殆ど直登に近いのぼり道。左手は断崖。足がすくむ。頂上付近は切立った崖・岩肌。左手は断崖。高所が苦手なわが身にとしては。、腰を浮かすのも憚られる。岩肌にすがるように登る。主郭のある頂上に。小規模な削平地。櫓台跡(武器の倉庫)とも言われている。とはいうものの、スペースとしては狼煙あげる台があった程度、ではないかとも思う。
休憩。少々怖かった。が、頂上からの眺めは素晴らしい。絶景。五日市の市街まで一望のもと。檜原城からの烽火中継点としては理想的立地。休憩も終え下ることに。この西峰から東峰に尾根道が続いているようなのだが、如何せん、怖気心が先に立つ。登ってきた道を再び下りる。谷は極力見ないように、じっくりと腰を下ろし、というか岩にへばりつくようにゆっくり下りる。岩場を越え、右手の崖を見ないように尾根道を下る。 尾根道から斜面に降りる堀切りに到着。大安心。光厳寺まで戻り戸倉城跡登り終了。

戸倉城はもともと秋川渓谷周辺の武州南一揆の有力土豪・小宮氏の居城といわれる。で、後に滝山城を養子北条氏照に「渋々」譲った大石定久の隠居地に。とはいうものの、この大石氏、完全に北条氏に従ったわけではなく、青梅の谷に勢力を張る三田綱秀などと誼を通じ、北条に対する反抗の機会を伺っていたとも。定久のその後は定かではなく、八王子周辺の野猿峠で割腹したとか、 この地で天寿を全うしたとか諸説。天正十八年の小田原の役の頃は、大石氏は八王子衆として北条の家臣団に組み入れられ八王子城で戦ったといわれている。南一揆衆を一躍有名にしたのは、足利尊氏が武蔵野合戦で敗れたとき。南朝方の新田義宗軍に敗れ、羽村と拝島の中間点である牛浜の地から秋川を渡河。この秋川 の谷筋に逃げ込み、南一揆の諸将に匿われる。6日後には南一揆の諸将とともに府中に進撃。府中・国分寺・深大寺のあたりで両軍激突。南一揆が足利軍の戦陣で活躍し新田軍を追討した、と。世に言う金井原の合戦である。
戸倉バス停から五日市駅に戻り、本日の秋川古城跡散歩を終了。歩いた距離はそれほどない。が、450m程度の山登り、しかも結構厳しい直登、急峻な崖道と、散歩とは少々言い難いコースではあった。  


あきるの・八王子の丘陵と古城跡を歩く
青梅や秋川を歩いた時、折にふれて登場する武将がいる。大石氏がそれ。小田原北条氏が関東を制圧する以前、この地に覇をとなえた戦国の武将である。青梅の辛垣城とか、秋川の檜原城、戸倉城などが知られるが、八王子の北、多摩川に沿った地にもゆかりの地が点在する。東あきる駅近くの「二宮神社」、近くの高月には高月城。また、高月から尾根道を少し南に下った滝山城が、それである。
今回は、東あきる駅からスタートし、大石氏の足跡を辿る。歴史はそれはそれとしても、秋川・多摩川、草花丘陵・滝山丘陵といった、山あり川ありのハイキングが楽しめるコース、である。






本日のルート:
JR 五日市線・東秋留駅 > 二宮神社 > 高月城 > 高月城 > 滝山街道 > 滝山城跡 > 東京環状・16号 > 拝島橋 > 拝島大師

JR五日市線・東秋留駅

JR青梅線で拝島駅に。そこからJR五日市線に乗り換え東秋留(あきる)駅に。このあたりは現在「あきる野市」となっている。秋川市と五日市町が合併してできたもの。「あきる」の由来は、秋川の氾濫のため田圃の畦がしばしば崩されていたので「畦切」。このアゼキリ>アキル、となった。「切る」は開く。畦を開く>新しい土地を開く、って説もある。また、新羅の姫「アカルヒメ」に由来する、と、あれこれ。例によって諸説あって定説はなし。







二宮神社
駅を下り観光案内を探す。しごくさっぱりとした駅前。何もなし。とりあえず駅南に進むと普門寺。北条時宗によって建てられた、と。なかなか堂々とした構え。目指す「二宮神社」は駅の北のようだ。お寺前の道を北に向かう。JR五日市線の信号を渡るとすぐに鎮守の森。道脇に台地の上に「二宮神社」が鎮座する。
神社の案内;創立年代不詳。小川大明神とか二宮大明神と呼ばれていた。小川大明神の由来は、古来この地が小川郷と呼ばれていたため。二宮大明神の由来は、武蔵総社六所宮の第二神座であった、ため。二宮神社となったのは明治になって、から。この神社には、藤原秀郷にまつわる由来がある。秀郷は天慶の乱に際し、戦勝祈願のためこの神社におまいりした、と。故郷にある山王二十一社のうち二宮を尊崇していたため、である。天慶の乱とは平将門の乱のこと。またこの神社は、源頼朝、北条氏政といった武将からも篤い信仰を寄せられていた。滝山城主となった北条氏照も、ここを祈願所としている。
武蔵一の宮である小野神社の周囲には小野牧があった。この二宮のある小川郷にも小川牧がある。因果関係は定かではないが、馬の飼育・管理と中央政府の結びつきってなんらかインパクトのある関係だったのではなかろうか。実際小野牧に栄転した小野氏も、それ以前は秩父での牧の経営で実績をあげての異動であったように思える。藤原秀郷と二宮のかかわりは、母が近江の山王権現に祈願して授かった子、であったため。山王二十一社とは、 上七社・中七社・下七社の総称。そのなかでも特に重要な位置を占める上七社は大宮・二宮・聖真子・八王子・客人・十禅師・三宮である。秀郷は二宮にお願いして生まれたのであろう、か。ちなみに武蔵六宮とは一宮・小野神社、二宮は小川・小河神社(現二宮神社、東京都あきる野市)、三宮は氷川神社(のち一宮。さいたま市)、四宮は秩父神社(埼玉県秩父市)、五宮は金鑽神社(埼玉県神川町)、六宮は杉山神社(横浜市)である。
二宮神社の地は大石氏の館があったところ、と。『武蔵野 古寺と古城と泉;桜井正信(有峰書店)』によれば、貞和年間(1345年)鎌倉幕府の命により、木曽義仲の七代の孫・大石信重が築いた、とか。信濃国佐久郡、大石郷から移ってきた、とも。正平11年(1356年)には入間・多摩郡のうち、13郷を領している。大石氏はこの二宮神社の南に館を構えた。正平11年(1356年)から至徳元年(1384年)の間の28年間である。その後、陣場山麓上恩方案下に山城を築く。甲斐の武田信玄に対して西の備えとしたわけだ。この恩方城に至徳元年(1384年)から長禄2年(1458年)までの74年間居を構え、鎌倉公方持氏の滅亡、足利成氏と長尾影春の戦いなど、戦乱の巷を乗り切った。 (「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)

二宮考古館
石段を下り台地東の道に。道の東に公園。池がある。湧水池。日本武尊(やまとたけるのみこと)が国常立尊(くにたちのみこと)を祀ったところ水が湧き出た、とか。国常立尊は水の神さま。公園脇にハイキング案内図。羽村方面の「羽村草花丘陵」から南の滝山丘陵に続くハイキングコースが紹介されている。大まかなルートを頭にいれる。
その案内図を見ていると、二宮神社の裏に二宮考古館。道を少し北に進み、五日市街道に。二宮神社前交差点を西に。すこし進み石垣の間を南に折れる。神社境内脇に考古館。二宮神社周辺の遺跡や、市内で発掘された土器、石器などが展示されている。入口を入ったオープンスペース脇にスタッフの事務机。ご挨拶し、あれこれ説明を受ける。感謝。文化財地図やご紹介いただいた『五日市町の古道と地名』を購入し先に進む。

秋川
次の目的地は高月城。南に下り秋川を渡ったところにある。適当に南に下る。とりあえず秋川の土手に出て、そこを東秋川橋まで下ればいいか、といった成行きの歩み。野辺地区を下り、睦通りを交差し、小川地区を進むと秋川に。結構広い川幅。草が生い茂る。草の中に道筋が見える。堤防を折り、河川敷の中の道を進む。周りは一面の草地。「まむしに注意」といった案内に少々おびえる。川の中の道を進み東秋川橋に。橋の袂にはバーベキュー場。賑わいを眺めながら橋を渡る。川向こうに緑の丘陵が聳える。秋川を隔てた滝山丘陵の一角に高月城跡がある。





高月城跡
道路を南に下るとすぐに台地にのぼる道。舗装されている。すこしすすむと道の北側にホテル高月城。場所からすればこのホテルのあたりなのだが、如何せん足を踏み入れることを憚られる類のホテルではある。多摩川と秋川を見下ろす崖上にあり、あたりを睥睨したのではあろうが、あきらめる。
道の南に山に入る道がある。掘切の雰囲気もあるような、ないような。ともあれ、先に進む。台地にのぼる道は整地されていない。農具なども散見する。道をのぼり台地上に。そこは畑地。城の名残はなにもない。城の主郭と二郭はここにあった、とか。ちなみに先ほどのホテルのあったところは三郭跡である、と。
高月城に大石氏が移ってきたのは長禄2年(1458年)。古くからの豪族が滅び、管領山内上杉家が力を持ってきた時期。大石氏は山内上杉と誼を通じ上野国の守護代となり勢力をのばしていくことになる。城主は大石顕重。永正年間(1521年)までの60年この地を拠点とする。この城には戦国期の数奇人がしばしば訪れたよう。『廻国雑記』を書いた道興准后もこの地で城主と歌を詠んだ、とか。名城として知られたこの城も、戦術の変化などにともない加住丘陵の滝山城へと重点が移る。その後も高月城は滝山城の出城、というか砦の役割を果たす。尾根続きのふたつの城はコラボレーションを図り、秋川筋や立川・拝島・二宮方面からの敵に備えることにしたのだろう。

高月水田

高月城を離れ、次の目的地・滝山城に進む。加住丘陵に沿って南に進む。ところどころで丘陵方面に向かう道。尾根道に上りたいのだが、道案内はない。リスクは避けて山麓の道を南に。高月浄水場。この周囲は30haにわたる水田。高月水田とよばれる。東京都での最大級の水田。この浄水場で南北に分けられる。









滝山街道
高月浄水場前交差点から丘陵地帯に上る道が分岐する。車も走る道であり、これなら尾根まで進めるだろう、と山裾を進む道から離れる。峠までは、そこそこの距離。峠道を西に進む。丘陵の西側におりることになる。高月配水池の下を進み日野電工・高月病院あたりから南に。大乗寺、最教寺を道の両側に眺めながら進むと滝山街道に交差。滝山街道とは八王子から奥多摩町をへて甲府に通じる国道411号線のうち、八王子の国道16号線との交差点あたりから青梅市友田町2丁目あたりまでを指す。


谷地川

滝山街道・加住小西交差点を左折。滝山丘陵の西を下る。道に沿って谷地川が流れる。谷地川は八王子市戸吹町辺り、というから東京サマーランドの南あたりを源流とし、日野市栄町で多摩川に合流する13キロ弱の川。蛇行激しく、暴れ川であった、とか。丹木(たんぎ)町交差点。丘陵から下ってくる道は、先ほど高月浄水場で峠道に折れなければ歩いた道筋。滝山城跡への上り口は交差点のすぐ南。

滝山城址

滝山城へと上る。坂道、というか山道を掘切、土塁といった縄張りを眺めながら進む。結構規模の大きな構えである。三の丸跡、千畳敷跡脇を進む。道の左手は結構深い谷。複雑な地形。中の丸跡脇を進み、本丸跡に。ちょっとした公園となっている、金毘羅社脇に展望台。多摩川の眺めが美しい。
『武蔵野 古寺と古城と泉;桜井正信(有峰書店)』などを参考に滝山城のまとめ;「大永元(1521)年、武蔵国守護代・山内上杉氏の重臣、大石定重が高月城より移る。また、その子定久の築城とする説もある。天文十五(1546)年の河越夜戦で北条氏康は扇谷上杉氏を滅ぼし、山内上杉氏の勢力を上野に後退させる。武蔵の国人 領主たちの多くは北条の幕下に。大石定久もその一人で、氏康の三男、氏照を養子に迎えて隠居し秋川筋の戸倉に移る。氏照永禄2(1559)年ごろに滝山城に入城した、と。
戸倉城に隠居した定久ではあるが、かならずしも北条に全面的に服していたわけでもなく、上杉謙信や、北条氏照に勝沼城を追われ辛垣山城で抵抗していた三田綱秀らと誼を通じていた、との説も。また、定久は天文18(1549)年に八王子周辺の野猿峠で割腹した、あるいは謀叛が発覚して柚木城に移された、などの説もある。
永禄11年(1568)、信玄の駿河侵攻。甲相駿三国同盟の破棄。氏康・氏政父子は檜原城などの秋川筋の守備を固め、甲州勢に備る。永禄12年(1569)、信玄、勝頼、そして小山田信繁の軍勢が多摩川を挟んだ対岸の拝島付近、そして高尾山下の背後に布陣。三ノ丸まで陥落するも、師岡城主・師岡山城守らの奮戦で二ノ丸を抜くことができなかった。また、城主氏照は城を出て淺川廿里(ととり)、現在の多摩御陵に陣を敷き奮戦した、と。信玄は軍を退き小田原に向かう。一方の、氏照も鉄砲使用と集団戦にはこの城も適さずと、甲斐と接する要害の地に八王子城築城を決意。天正十二(1584)年ごろ、八王子に城を移し、滝山城は廃城となる。幾多の合戦にも一度も落城することのなかった名城であった、とか

尾根道を歩き国道16号線に
本丸跡を離れ、尾根道を南に進む。滝山自然公園を通り、ずっと南のJR八高線・小宮駅方面へのハイキングコースが続く。滝山城の遺構が残る。結構大規模な縄張りである。土塁や空堀が残る。尾根道を外れると急峻なる崖となっている。堀は非常に複雑で、かつ規模も大きい。二ノ丸の食い違い虎口周辺などはS字カーブというか、非常に屈曲のきつい土橋や馬出しとなっている。両側を深い谷津に挟まれている二ノ丸あたりの地形は「地形のうねり」大好きなるものとしては、うれしき限り。起伏の激しい丘、いくつもの深い天然の浸食谷、そして、それらの自然の地形を巧みに縄張りの中に取り込んだお城となっている。
尾根道をどんどん進む。少林寺の裏手を越えたあたりで道が分かれる。JR八高線・小宮駅方面へと尾根道散歩を続ける。しばらく進むと下り道。八王子車検場あたりに下りてきた。国道16号線・東京環状が丘陵を分断している。小宮駅方面には、国道を渡り再び丘陵にとりつき尾根道を進むよう。が、次の目的地は拝島大師。国道を北に向かう。

拝島橋

拝島橋をわたる。拝島の由来は、多摩川上流から流れてきた仏像が中州に漂着し、それを村人が拝んでいたことからきている、と。このあたりは昭島市。拝島大師というくらいなので、拝島市があるのかと思っていた。がそうではないようだ。昭和町と拝島村が合併し、両方の名前を足して二で割って出来たのが昭島である、と。地名にはよくあるパターン。橋を渡りしばらく歩き、国道16号線と奥多摩街道が交差するあたりに拝島大師がある。







拝島大師
拝島大師。天台宗の大寺。北条氏照の家臣・石川土佐守が娘おねいの眼病快癒を感謝し寄進した、と。大師堂、山門、鐘楼、多宝塔などの堂宇が並ぶ。大日堂にはさきほどメモした多摩川を流れてきた大日如来を祀る。天暦6年というから952年のことである。お正月に開かれる達磨市が有名。達磨の発祥の地は高崎市の少林寺。それに対し、このあたりの達磨は多摩達磨と呼ばれる。達磨が赤いのは達磨大師の着ていた僧衣が最高位の赤色であった、とか、赤は魔除けの効果あり、といったところから。ちなみに還暦の「赤いちゃんちゃんこ」も魔除けゆえ、とも。
お大師さんをはなれ、国道16号線と奥多摩街道が交差する堂方上交差点を北に。栗ノ沢交差点を北東に進みJR八高線を越え、消防署拝島出張所交差点を渡りJR青梅線・昭島駅に到着。

日本橋・小伝馬・馬喰町へ
中央区散歩も3回目。中央区の北部地域に進む。千代田区・台東区・墨田区・江東区に境を接する地区、言い換えれば北を神田川、東を隅田川、西・南を日本橋川に囲まれた地域である。江戸開幕から明治にかけて最も古い歴史をもつ商業地域でもある。
家康入府の折は、このあたりも同様に一面に葦の生い茂る湿地帯。埋め立てには、和田倉門から日本橋川・常盤橋あたりにかけ道三掘を開削し、その残土を用いた、と。周辺の低湿地を埋め立て町人の住む商業地を設けた。
日本橋川沿いの魚河岸を中心とした各種河岸ができあがる。人の賑わいの地には当然のこととして歓楽地ができるわけで、人形町を中心とした歌舞伎小屋・浄瑠璃小屋、そして遊郭が生まれる。また、往来の旅人のための旅籠町としての馬喰町、集めた荷を扱う問屋街の横山町、といった一大商業コンプレックスがこの地域に形成された。








本日のルート: 日比谷線・茅場町 > 日本橋蛎殻町・水天宮 > 日本橋人形町・「玄治店跡」 > 日本橋堀留町・椙森神社 > 十思公園・「伝馬町牢屋敷跡」 > 日本橋横山町・馬喰町 > 浅草橋・郡代屋敷跡 > 両国橋・両国広小路記念碑 > 都営新宿線・馬喰横山町

日比谷線・茅場町駅

日比谷線・茅場町で下車。先回は永代通りを霊岸島・新川方面に向ったが、今回は新大橋通りを茅場橋方面に。茅場町のこのあたり、江戸以前は海の中。葦や茅の生い茂る沼沢地。大雑把に言って、現在の首都高速都心環状線、江戸川ランプから京橋ランプあたりが江戸時代の楓川。それ以前は日比谷の入り江に飛び出た江戸前島の東岸。
茅場の由来は茅職人が住んでいたから、とか。江戸切絵図でチェックすると、現在の昭和通りより北は町人町。南は武家地と町人の町が混在している。江戸橋から霊岸橋にかけての日本橋川に沿って、表南茅場町といった町人町がある。数多くの酒問屋が集まっていた茅場河岸がこのあたりたったのだろう。

茅場橋を渡り日本橋小網町・「行徳河岸」に

茅場橋を渡り日本橋小網町に。地名の由来は、小網稲荷神社があったから、とか、家康のために網を引き、肴御用を命ぜられたからとか言われるが定かならず。小網町といえば、市川・行徳からの船が着く行徳河岸があったところ。明治12年、船便の廃止まで江戸と下総をむすんでいた。近くには上総・信太を結ぶ信太河岸もある。このあたりは江戸から明治にかけての船便の要衝であったわけだ。

日本橋蛎殻町・水天宮

小網町の横には日本橋蛎殻町。江戸開幕のころは、江戸湾に面した隅田川河口の海浜地。埋め立てによって作られた。江戸切絵図には小網町の裏と酒井雅楽守の間、稲荷(とうかん)掘のあたりに「カキガラ」の地名が読める。絵図で見る限りでは大名の下屋敷・蔵屋敷とか中屋敷が多い。酒井雅楽守の東には銀座が。当初京橋にあった銀貨鋳造所が享和元年というから1801年、この地に移り、明治に大阪造幣局にその機能が移るまで貨幣を鋳造していた。
このあたりで有名なのは水天宮。新大橋通りと人形町通りの交差点近くにある。二位の尼が安徳天皇と建礼門院を祀った神社である。本宮は九州・久留米。久留米の大名・有馬家が土地を寄進して建てられた。江戸では三田の有馬家屋敷神であった。現在の慶応大学三田キャンパスのあたり。次第に民衆の信仰が高まり、一般に開放されるようになった。この地に移ったのは明治5年のこと。人影まばらなこの地も水天宮の移転とともに賑わいのある地となった、と。

日本橋人形町に「玄治店跡」

蛎殻町の北には日本橋人形町。このあたりは町人地。歌舞伎、人形浄瑠璃の小屋もあり、人形師が多かったのが、この地の由来。吉原に移る前の遊郭・元吉原もこのあたりにあったよう。甘酒横丁を過ぎ、都営浅草線・日比谷線の人形町の駅があるあたり、「玄治店跡」。こどもの頃、春日八郎の歌った『お富さん』の歌詞にあった名前。「粋な黒塀 見越しの松に  仇な姿の 洗い髪 死んだ筈だよ お富さん 生きていたとは お釈迦さまでも 知らぬ仏の お富さん エーサォー 玄治店・・・ 」、である。
歌舞伎の『与話情浮名横櫛(よわなさけうきなのよこぐし)』が題材になっている。 ここにくるまで玄治店、ってなんのことだか知らなかった。幕府の奥医師岡本玄治の1500坪にもなる拝領屋敷があったことがその名の由来。
ついでに、芝居で有名な台詞。:「しがねえ恋の情けが仇、命の綱の切れたのを、どう取り留めてか木更津から、巡る月日も三年越し、江戸の親には勘当受け、よんどころなく鎌倉の、谷七郷は喰詰めても、面へ受けたる看板の疵がもっけの幸いに、切られ予三と異名をとり、押借り強請りも習おうより慣れた時代の源氏店、そのしらばけか黒塀に、格子造りの囲いもの、死んだと思ったお富とは、お釈迦様でも気がつくめえ。よくもお主(ヌシ)ア達者で居た なア。安やい、これじやア一分(ブ)じやア帰(ケエ)られめえじやねえか。〜」。
房州木更津。この地の顔役の妾お富。江戸の商家の若旦那与三郎(よさぶろう)が出会い一目惚れ。が、旦那に見つかり、与三郎は半死半生、体中に三十四箇所もの疵を受け放り出された。3年たったある日、身を投げたお富は、裕福な町人に助けられ、源氏店(「玄冶店」)の妾宅に囲われている。お富のもとに、無頼漢・蝙蝠安(こうもりやす)が一人の男を連れて小銭をたかりにやってきた。その男が与三郎。目の前にいる女が自分の運命を狂わせた当のお富だと気がついて言うセリフである。

日本橋堀留町・椙森神社

椙森神社日本橋人形町を越え日本橋堀留町に。江戸切絵図を見ると、小網町からの堀が堀留町の手前まで来ている。掘を留める、で「堀留」と。大商店やら問屋が集まる商業地であった。堀留町1丁目に椙森神社。「江戸名所図会」には堂々とした構えが描かれているが、関東大震災で倒壊。現在は鉄筋の少々つつましやかなお宮さまとなっている。案内によれば、平安時代には藤原秀郷が平将門追討の際に、戦勝祈願に訪れている。創建は平安時代。太田道潅も雨乞いのため、伏見稲荷の伍社を勧請し、深く信仰した。ために、江戸期には江戸城下の三森(烏森・柳森・椙森)のひとつ、椙森稲荷として人気を集めた。境内に「冨塚碑」。江戸時代に大流行の「富くじ」興行の場所としても有名であった。富くじは富突、とか突富ともよばれる。木札を錐で突いて富くじを決めたから、とか。

人形町通りを進み十思公園に「伝馬町牢屋敷跡」
人形町通りを北に進み日比谷線・小伝馬町駅を越え、日本橋大伝馬町・小伝馬町に。家康の江戸入府以前は、奥州街道が通っていた。伝馬町とは伝馬役がいたから。5街道の制とともにつくられたのが宿場、伝馬、助郷といった制度であるが、伝馬は馬の供給をおこなうもの。馬の供給の責務を負うかわりに地子(土地税)などが免除された、とか。
総武線をくぐり、十思公園に。伝馬町牢屋敷跡。切絵図には「囚獄 石田帯刀」とある。石田帯刀は牢役人の名前。吉田松陰終焉の地。石町時の鐘。江戸時代でもっとも古い時の鐘。将軍秀忠のとき、江戸城内にあったが鐘はうるさかったのか、太鼓に代わったので、鐘は場内からこの地に移った、とか。「囚獄 石田帯刀」のすぐ北に神田川の竜閑橋から今川橋へと川筋が見える。竜閑川なのだろう。ちなみに「十思」とは。唐の、時の皇帝への献上文・十か条。君主としてあるべき姿・十か条といったもの。「見可欲則思知足(徒に多くを望まないこと)」、とか、処高危則思謙降(地位が高いほど謙虚にしなさい)、といったもの。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)


日本橋横山町・馬喰町
大・小伝馬町から北東方向に。日本橋横山町とか日本橋馬喰町。この一帯は一大問屋街。馬喰町には多くの旅籠。もともとは馬喰が往来する宿場町といった地域であった。ある時期まで、馬の売り買いはこの地でしか許されなかった、と。この地に郡代屋敷ができることをきっかけに、公事訴訟に地方から出向いた人たちの宿場がここに滞在した。また訴訟ごとの人だけでなく、宿にとまる商人が増えるに連れ、お隣の横山町で問屋業が発達する。宿屋と問屋のコラボレーションによって地方の人をこの地にひきつけたのであろう。神田川にかかる浅草橋の袂に。

浅草橋・郡代屋敷跡

郡代お隣の台東区をむすぶこの橋の袂に郡代屋敷跡。由来所;「江戸時代、関東一円および東海方面など各地にあった、幕府の直轄地(天領)の年貢の徴収、治水、領民紛争の処理した関東郡代の屋敷があった跡。関東郡代は家康が関東に入国したときに、伊那忠次が代官職に任命され、のちに関東郡代とよばれるようになり、伊那氏が十二代に渡って世襲しました。その役宅ははじめ江戸城・常盤橋御門内にありましたが、明暦の大火で焼失し、この地に移りました」と。ともあれ、散歩をはじめて以来、この関東郡代伊奈氏には玉川上水からはじまりいろんなところで良く出会う。利根川東遷事業、見沼田圃、赤山陣屋跡等など。新田次郎さんの『怒る富士』も伊奈氏を主人公にしたものだが、清々しい人物は、いかにも善い。

両国橋・両国広小路記念碑

墨田川にかかる両国橋の袂に、両国広小路記念碑。江戸名物の火事の延焼を避けるための火除け地。ただ、この空き地にはいつしか寄席、茶店、見世物小屋が立ち並び、一大歓楽街ともなった、とか。地名は東日本橋、といった無粋なもの。近くに薬研掘がある。薬研とは、漢方の薬種を砕くための鋳鉄製の器具のこと。V字型をしており、堀の形もV字形にくぼんでいるのが地名の由来。

日本橋浜町
下に進み日本橋浜町に。このあたり武家地と町地の入り混じった一帯。隅田川に沿っては大名の下屋敷・蔵屋敷がたちならび、浜町川というか竜閑川というか船入掘というか、ともあれ隅田川に平行に南北に貫く川筋には北のほうは町地、南のほうは蔵屋敷が連なっている。で、浜町といえば明治座。明治に市川左団次によってつくられた。歌舞伎座っぽいイメージであったのだが、近代的なビルであった。 あとは清洲通りを少し北に戻り、都営新宿線馬喰横山町から一路自宅に。これで中央区散歩はお終り。次回は江東区に移る。

(佃島・月島)から(明石町・築地)へ
下町散歩第二回は中央区の佃島・月島を巡り、隅田川にかかる勝鬨橋を渡って築地に戻る。江戸時代の絵図を見ると、霊岸島の南、隅田川の河口に小さな島・三角州がある。石川島、佃島と描いてある。住吉社を囲むほんの小さな島である。現在の月島あたりは何も無い。月島地区が埋め立てられたのは明治になってからのこと、である。
前回の散歩で、「江戸港(湊)発祥跡」に出合った。佃島の対岸の地である。このあたりは江戸期の海上交通の要衝であったのだろう。佃の漁師が、徳川家との結びつきの強さのゆえ、漁だけでなく、海上交通の「見張り」役でもあった、といった「それらしき」話も、妙に真実味を帯びてくる。ともあれ、散歩に出かける。



本日のルート:
中央大橋から佃島 > 佃公園・「石川島人足寄場」・「石川島灯台跡」 > 住吉神社 > 佃の渡し跡 > 佃大橋 > 月島西仲通の「もんじゃ焼き」 > 勝鬨橋 > (築地) > 聖路加ガーデン > アメリカ公使館跡 > 明石町・「築地居留地跡」 > 聖路加国際病院 > 聖路加看護大 > 中央区郷土資料館天文館 > 慶應義塾開塾の地 > 蘭学事始の地 > シーボルト銅像 > 築地川公園 > 芥川龍之介生誕の地 > 浅野内匠頭邸跡 > 築地本願寺 > 新大橋通り・晴海通り・築地4丁目 > 晴海通り・「日比谷線東銀座駅」

中央大橋から佃島に
。中央大橋を渡り佃島に。現在このあたりは佃島、月島地区といった埋め立て地からなっている。おぼろげな記憶によれば中央大橋を渡ったあたりには昔、IHI石川島播磨重工業の工場があったような気がする。そのあたりには現在、大川端リバーサイドという高層マンション群が立っている。尾張屋版江戸切絵図と照らし合わせてみた。稲荷橋から続く鉄砲洲・船松町の沖合に石川島、佃島が描かれている。石川島は元々、鎧島と呼ばれていた。のちに佃島の一部になるが、幕府船手頭石川大隈守正次が徳川家光よりこの地を拝領し、石川島と呼ばれていた、とか。


佃公園に「石川島人足寄場」と「石川島灯台跡」

中央大橋を渡り大川端リバーサイド脇を右折、公園を隅田川に沿って歩く。佃公園に石川島灯台跡。1866(慶応2年)、人足寄場奉行の命により、人足たちの手でつくられた常夜灯。石川島人足寄場とは、江戸の無宿者を収容し職業訓練を行う更正施設。寛政2年というから1790年、長谷川平蔵の建言を入れ、老中・松平定信が設置したもの。収容人員は多いときで600名。大工、鍛冶などの訓練を受ける。労賃の3分の一は出所時に自立資金として積み立てられていた、とか。結構先進的。
長谷川平蔵って、『鬼平犯科帳』の鬼平。火付盗賊改(ひつけとうぞくあらため)の長官。火付盗賊改とは町奉行から独立した警察組織。町奉行の管轄外である武家・寺社地や江戸市外に対して捜査権を持つ、一種の特捜隊といったところ。

住吉神社
佃公園を進む。きれいに整備された公園。昔の掘入といった雰囲気の水路,船溜り、というか溝渠にそって歩く。佃小橋を渡り、民家の軒先を進み住吉神社に。佃島は隅田川の河口にできた寄洲。江戸時代初期に、大阪・摂津西成郡佃島から漁民がこの地に移り住んだことからこの名がついた。
その由来についてもあれこれ諸説あり。で、住吉神社の由来書をメモすることにする。「神功皇后が三韓征伐よりの帰途、摂津国西成郡田蓑島(現在の大阪市西淀川区佃)で住吉三神を奉斎された。これが大阪佃の田蓑神社の創祀である。天正14年(1586)、本能寺の変に際して、堺に滞在していた徳川家康は、摂津の多田の廟(池田市の多田神社)を参拝することを名目に三河への脱出を計った。この時、神埼川で進退が取れなくなった家康一行に対し、田蓑島の庄屋・森孫右衛門が漁師たちに声をかけて舟を集め、無事渡ることができた。これによって家康と田蓑島の漁民のつながりが深まり、家康が漁業だけではなく田も作れと命じたことから、佃と名を改めた。
天正18年(1590)、家康が江戸に移った際、森孫右衛門を筆頭とする佃の漁民30余名と田蓑神社の神職・枚岡権太夫好次も江戸に移住した。さらに寛永 7年(1630)、幕府より鉄砲洲の向かいにある干潟を拝領して島を築いた。竣工したのは正保2年(1645)、故郷の名にちなんで佃島と名づけた。翌年、ここに鎮守として田蓑神社の御分霊と東照権現を奉斎したのが佃島の住吉神社の起こりである。佃島の漁民はもとより、海上安全の守護神として広く崇敬された。
中央区指定文化財の水盤舎は天保12年(1841)年に寄進されたもので、欄間には当時の佃島近辺の情景を描いた浮彫が配されている。また、正面の鳥居に掲げられた陶製の扁額は有栖川宮熾仁親王の書で、同じく区の文化財に指定されている」と。
家康が漁業だけではなく田も作れと命じたことから、佃と名を改めた、とある。佃=人偏+田=人が田をつくる、ということ。埋め立てでも、開墾でも、ともあれ人が荒地を開いて田を作れ、ということ、か。この佃、って日本人がつくった漢字。言いえて妙なる造語である。
佃の渡し跡堤防近くで「佃の渡し跡」らしき雰囲気を感じ、水路にもどり尾崎波除稲荷横を進む。こじんまりした神社。由来もない。波除稲荷って築地にもある。埋め立て工事が難航を極めていたとき、波間にお稲荷さんが。それをお祀りしたところ、波もぴたりとおさまった、とか。


月島西仲通の「もんじゃ焼き
佃大橋からの道筋を越え、商店街に。月島西仲通。右を見ても左を見ても「もんじゃ」。月島って明治から昭和にかけて埋め立てられた土地。隅田川が運んできた土砂の堆積により、このあたり一帯は浅瀬。船の運航もままならなくなっていった。築島=つきじま=月島、島を築く「築島」が「月島」となった理由ははっきりしない。が、宝井其角の句

「名月ここ住吉の佃島」にあるように、月見の名所であった、のであろうか。定かならず。
ちなみに、「もんじゃ焼き」って「文字焼き」からと言われる。鉄板の上に水で溶いた小麦粉で文字を書き遊びながら、親子団欒、といった風情である。真偽のほどは定かではないが、それはそれとしていい話。

勝鬨橋を渡り明石町・「築地居留地跡」に
月島川を越え晴海通りに。北に向かい隅田川にかかる勝鬨橋を渡り、橋西詰めに。勝鬨の由来は、明治・日露戦争の戦勝を祝った「勝鬨」から。昔は中央部分が開閉していた、とのことである。
晴海通りを右に折れ築地7丁目から明石町に入り聖路加ガーデンに。「築地居留地跡の碑」が。概略をメモする。「安政5年の日米修好条約の結果、江戸の地に外国人のための居留地をつくることを義務付けられた。幕府はこの地を居留地と定め明治元年、築地居留地が完成した。築地居留地は他の居留地とは異なり、商館はそれほど多くなく、公使館・領事館のほか宣教師・医師・教師といった智識人が多く住み協会や学校を開いて教育を行っていた。このため地雉居留地は日本の近代化に大きく影響を与えた地域となっていた」、と。
この地に、アメリカ公使館跡、立教学院発祥の地、女学院発祥の地、雙葉学園発祥の地、それからいまもこの地にある聖路加病院、といった施設のある・あった理由がやっとわかった。明治32年に条約改正とともに居留地は廃止された。ちなみに、太平洋戦争の東京空襲のときも、アメリカ聖公会・トライスターのつくった聖路加病院は爆撃目標からはずされていたとか、いないとか。聖路加ガーデンの東に塩瀬総本家。650年の歴史をもつ和菓子屋。

中央区郷土資料館天文館
聖路加看護大学の西にある中央区保健所等複合施設6階に中央区の郷土資料館天文館。中央区の埋め立ての歴史など結構参考になった。先にすすむと慶應義塾発祥の地、それと並んで「蘭学事始の碑」。この地はもと豊前中津藩奥平家の中屋敷があった。藩医前野良沢はこの屋敷内で『ターヘル・アナトミア(解体新書)』の翻訳作業をおこなっていた。また、少し時代は下るが、中津藩士である福沢諭吉は、慶應義塾のはじまりである蘭学塾をこの地に開き、芝に移るまでここで講義をしていた。ちなみに地下鉄築地駅の近く、築地2丁目に甫州屋敷跡もある。蘭学医。前野良沢、杉田玄白とともに、『解体新書』の翻訳をおこなった。
築地川公園脇に「芥川龍之介生誕の地の碑」や「浅野内匠頭邸跡」
聖路加看護大学と築地川公園の隅に芥川龍之介生誕の地の碑。ちなみに、巣鴨の染井霊園近くの慈眼寺には芥川龍之介お墓があった。直ぐ横に「浅野内匠頭邸跡」播州赤穂藩・浅野家の江戸上屋敷跡。敷地面積は約2万9千があったという。元禄14年(1701)浅野内匠頭長矩の起こした松の廊下刃傷事件により、この江戸屋敷・領地は没収。赤穂藩浅野家は断絶となった。上屋敷とは、大名とその家族、および江戸詰めの家臣が住むところ。幕府から拝領の地である。中屋敷は嫡子および隠居、また参勤交代で江戸に出てきた家臣が住むところ。下屋敷は別邸であったり、畑地であったり、海岸近くでは荷揚地であったりした、という。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)


築地川支流跡から晴海通り・「日比谷線東銀座駅」に
築地川公園沿って築地本願寺方面に。この川筋は築地川の支流。本流は現在では首都高速の走る道筋の上を三吉橋から南に、亀井橋、祝橋、万年橋、采女橋、千代橋、新尾張橋、そして南門橋で浜離宮公園の築地川の堀に。支流は三吉橋から東に築地橋、入船橋。入船橋で直角に曲がり、暁橋、境橋、そして築地本願寺裏手の備前橋へと続く。もちろん水など流れているわけではない。備前橋もほとんど駐車場といった場所ではある。
川筋が埋め立てられた時期はいくつかある、ひとつは戦災、空襲・爆撃跡の瓦礫の片付けに川筋を埋めた。もうひとつは、東京オリンピックの時期。土地買収が困難なため川筋を埋めその上に高速道路を通した。もちろん河川の汚れを『蓋』をすることによって解決しようとした時期。こういったものだろう。ともあれこの中央区の川筋、ほとんど埋め立てられている。上の三つのどれかにはあてはまる、かとも。
築地本願寺前の新大橋通を少し浜離宮方面に進み晴海通りとの交差点・築地4丁目に。交差点を右折し、晴海通りを銀座方面に進み日比谷線東銀座に到着。本日の散歩終了。中央区の散歩も後、日本橋地区を残すだけ。次回は萱場町から日本橋川を渡り、人形町・浜町・小伝馬町に進む。

(八丁堀・湊)から(新川・霊厳島)へ
東京は山の手と下町に別れる。地形としては、山の手は武蔵野洪積台地、下町は沖積低地である。往古、下町の沖積低地はほとんどが葦の生い茂る低湿地である。江戸開幕の頃の海岸線は現在の総武線のあたり、と言われる。もう少々時代を遡り、室町の頃の古地図を見ると、海岸線は更に上がり、寺島(墨田区東向島)から平井を結んだ線である。つまりは、中央区とか江東区といったあたりは、海の中。台東区にしても、浅草近くの墨田川沿いの微高地を除けば一面の湿地帯である。
このような湿地帯が町屋に生まれ変わったのは、家康が江戸に幕府を開く頃から。天下普請とも呼ばれる一大開発事業・埋め立て事業を行い、宅地開発を進めたわけだ。堀を開削し、その残土を埋め立てに使う。小山を切り崩すといった、大工事も行っている。御茶ノ水の台地や浅草の待乳山を切り崩している。江戸の町が大きくなった後は、市中からでる塵芥をつかって埋め立て事業をおこなってもいる。なかなか面白い。
ということで、埋め立ての歴史をイメージしながら、東京下町低地を歩こうと思う。中央区からはじめる。中央区も当然のことながらほとんどが海の中。皇居のあたりまで日比谷の入り江が入り込んでいた、という。入り江の東には江戸前島という砂洲が東から西に広がっていた。神田あたりから新橋の手前まで延びていた、とも。その砂洲の外海側は現在の首都高速都心環状線、江戸川ランプから京橋ランプあたりではないか、ということだ。
下町散歩の第一回は中央区の八丁堀・湊から新川・霊岸島を巡る。鈴木理生さんの『幻の江戸百円;筑摩書房』によれば、隅田川の中洲を埋め立て霊岸島ができたのが寛永元年(1624年)。八丁堀の埋め立ては、それより少し後。八丁の船入堀を開削し、日本橋川に沿った茅場町に堤を築き、周囲を囲んで埋め立てを行った、とのことである。中央区散歩は八丁堀からはじめる。理由は特に無い。たまたま休日、ある会合で八丁堀に行ったから、である。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)




本日のルート: 八丁堀の与力・同心組屋敷 > 桜川公園 > 鉄砲洲稲荷神社 > 亀島川・南高橋 > 亀島川・高橋 > 亀島川・亀島橋 > 永代通り;亀島川 > 豊海橋 > 越前掘児童公園 > 「江戸港(湊)発祥跡」 > 亀島川;南高橋・「徳船(とくふね)稲荷神社」

地下鉄・八丁堀駅近くに「八丁堀の与力・同心組屋敷」
八丁堀地下鉄・八丁堀駅を降り鍛冶橋通りを銀座方面に少し戻ると京華スクエアがある。昔の小学校を生涯教育センターとして使っているよう。その入口わきに「八丁堀の与力・同心組屋敷」の案内。八丁堀といえば与力・同心の屋敷があったところ。案内板に目をやる;「江戸初期に埋め立てられた八丁堀の地は、はじめは寺町でした。寛永12年に、江戸城下の拡張計画が行われ、玉円寺だけを残して多くの寺は郊外に移転し、そこに与力・同心の組屋敷の町が成立しました。その範囲は萱場町から八丁堀一帯に集中しています。
八丁堀といえば捕物帖で有名な「八丁堀の旦那」と呼ばれた江戸町奉行配下の与力・同心の町でした。与力は徳川家の直臣で、同心はその配下の侍衆です。着流しに羽織姿で懐手、帯に差した十手の朱房もいきな庶民の味方として人々の信頼を得ていました。
初期には江戸町奉行板倉勝重の配下として与力10人、同心50人からはじまってのち、南北町奉行が成立すると与力50人、同心280人と増加し両町奉行所に分かれて勤務していました。与力は知行200石、屋敷は300-500坪、同心は30俵二人扶持で100坪ほどの屋敷地でした、これらの与力・同心たちが江戸の治安に活躍したのですが、生活費を得るために町民に屋敷地を貸す者も多く、与力で歌人の加藤枝直・千蔭父子や医者で歌人の井上文雄などの文化人や学者を輩出した町としても知られている」、と。
大江戸の街の治安をこの程度の与力・同心で果たして護れるのかどうか、とはおもうのだが、町年寄りとか名主を中心とした自治組織が一方にあり、大概のことは自治組織内で解決するというか、事件など起こしにくい向こう三軒両隣の目があったのだろう。 そもそも八丁堀の名前の由来だが、八丁というから800mほどの水路・八丁堀舟入りがこの地にあったから。現在の八丁堀の北、高速道路、江戸川ランプから京橋ランプにかけて、昔は楓川(かえでがわ)の水路が通り、その水路に沿って10の船入掘がつくられていた。江戸城普請のための荷揚げ場であったわけだが、海防の意味もあってその南側に埋立地がつくられた。ために、海から船入掘に進む水路がつくられることになるが、その長さが八丁。八丁の(船入)掘をもってこの地名とした、と。もっとも、池波正太郎さんの『江戸切絵図散歩』では、家康入府とともに江戸に移ってきたこの地の名主岡崎十左衛門が、故郷岡崎の八丁堤にちなみこの名をつけた、としている。

桜川公園;桜川は八丁堀船入りの水路跡

新大橋通りを渡る。右側に公園。桜川公園。今は埋め立てられているが、この桜川って、八丁掘船入の水路跡。堀川とも呼ばれていた。船入掘のあった水路が楓川、また楓川から外濠、今の東京駅前の道筋がその濠跡だが、その外濠に通じていた水路に紅葉川といった名前の水路がある。楓・紅葉に対して桜、とは、いつ名付けられたのか定かには知らねども、粋な計らいであろう。

入船・湊地区を進み「鉄砲洲稲荷神社」に

公園に沿って道なりに進む。入船1丁目から湊1丁目あたりに。入船とか湊とか、いかにも大江戸の海の玄関、江戸湊って感じ。中央小学校の南の公園を歩く。左手に神社が。鉄砲洲稲荷神社。八丁堀稲荷とも湊稲荷とも呼ばれた。江戸時代には全国から集まる荷物を荷揚げした江戸湊に臨んでいた神社であり、船員や海上守護の神様として人々の信仰を集めてきた。
鉄砲洲の由来;神社にあった御由緒によれば、「鉄砲洲の地は、徳川家康入府のころは、すでに鉄砲の形をした南北およそ八丁の細長い川口(*河口)の島であり、今の湊町や東部明石町の部分がこれに相当します。寛永のころはここで大砲の射撃演習をしていたので、この名が生まれたとも伝えられています」、と。またこの出洲が鉄砲の形に似ていたから、という説もある。

亀島川に沿って「南高橋」に

神社を後に少し東に進むと川筋に。隅田川と亀島川の合流点近くの「亀島川水門」のあたりに出る。亀島川の川向こうの地・新川地区って亀島川と日本橋川と隅田川に四方を囲まれている。もともとはこのあたりは霊厳島と呼ばれていたあたり。一面葦の生い茂る隅田川の中洲を埋め立ててできたのが寛永元年(1624年)。八丁堀周辺の埋め立てより時期は少々はやい、と言われる。
霊厳島を川向こうに眺めながら亀島川に沿って歩く。最初の橋は南高橋。この橋がつくられたのは昭和6年。関東大震災で被害を受けた両国橋の部材を再利用してつくられた。明治時代の鉄鋼トラス橋が今に残る。土木遺産としては結構貴重なものである。ちなみに、過日深川の富岡八幡宮を歩いたとき出会った、八幡橋(元の弾正橋)が都内に残る鉄鋼トラスト橋としては最も古い。トラスとは主構造にトラス(三角形に組んだ構造)を利用した橋。
亀島川;鍛冶橋通り・「高橋」

日比谷稲荷桜川が亀島川に合流した、であろう場所、つまりは八丁堀船入り口のあたりに稲荷橋の跡。八丁堀と湊町をつないでいた橋。
先に進み鍛冶橋通りに。「高橋」が架かる。日本橋川散歩の時にもメモしたが、江戸時代、このあたり船舶の往来激しく、橋脚の高い橋をつくった。それが「高橋」の名前の由来。この橋の八丁堀側が日比谷河岸、新川側が将監河岸と呼ばれる。
なぜここに日比谷が?近くにいかにもこじんまりした日比谷稲荷もあった。どうも、新橋日比谷町の代地がここにあったらしい。稲荷神社も大塚山(日比谷公園)にあったもののよう。 将監河岸の将監とは徳川の水軍を指揮した向井将監のこと。この地に向井将監の御船手組屋敷がこの地にあった。大砲といい、水軍といい、海からの攻撃への備えに配慮していたわけだ。ちなみに、日比谷の「ヒビ」って、海苔の養殖用に浅瀬に立てられた竹の束のことである。


亀島川;八重洲通り・「亀島橋」には堀部安兵衛武庸の碑
八重洲通まで進み亀島橋に。この橋、最初につくられたのは天禄時代と言われている。亀島の由来は、このあたりに小島が点在し、それが亀の姿に似ていたから、とか。橋の北詰に「堀部安兵衛武庸の碑」が。このあたりに住んでいたのだろうか。赤穂浪士が討ち入りの後、この橋を渡っていった、とか。ちなみに泉岳寺までのルートは、両国の「回向院」から「両国橋東詰め」、小名木川に架かる「万年橋」を経て「永代橋」。霊岸島に架かる「湊橋」を渡りこの「高橋」から「稲荷橋」、「聖路加病院(浅野内匠頭江戸上屋敷跡)」、「築地本願寺」、「歌舞伎座(浅野内匠頭嫡男浅野大学屋敷跡)」、「蓮莱橋」、「新橋」、「金杉橋」、「芝浜」、「泉岳寺交差点」といった道を通り「泉岳寺」に向ったようである。

亀島川;永代通り・霊岸橋
八丁堀・湊地区から、新川・霊岸島に移る。平成7年に架け替えられた新亀島橋を越え永代通りに架かる霊岸橋に。霊岸島に架かる橋であるから霊岸橋。結構古いものだろう。霊岸橋を渡り、霊岸島に。霊岸島の名前の由来は、江戸期、ここに霊厳寺があった、ため。寺は明暦の大火で焼失し、その後、現在の江東区白河に移った。

日本橋川と隅田川の合流点・豊海橋には「御宿かわせみ」が

日本橋川に沿って歩くと湊橋。新川地区と日本橋箱崎を結ぶ。先に進み豊海橋に。豊海橋といえば、江戸時代の船手番所であり、明治では日本銀行発祥の地のあたり、ではあるが、それよりなにより、平岩弓枝さんの時代小説『御宿かわせみ』の舞台。そのお宿のあったところである。善き人だけが登場する小説は、まことに読後、心地よい。

永代橋
隅田川に沿って南に進む。永代橋に当たる。元禄11年というから1698年につくられた当時は、豊海橋の北詰めにあった、よう。赤穂浪士もこの橋を渡って泉岳寺に進んだ、と。名前の由来は、永代島にあった永代寺の門前、門前仲町に向うことから。富岡八幡宮の別当としてつくられた永代寺ではあるが、明治の廃仏毀釈のあおりで廃寺となり、今は無い。
大川、と言うか、隅田川にそって隅田川テラスと呼ばれる散歩道が整備されている。直ぐに「新川の跡」。その昔、永代通りを一筋西に入ったあたりに亀島川と隅田川をつなぐ水路があった。それが新川。万治3年というから、1660年商人である川村瑞賢が荷揚げの便をはかるため開削した、と。ちなみに川村瑞賢の屋敷跡が永代通りと湊橋に続く箱崎湊通りの交差点近くに。

川村瑞賢の屋敷跡

教育委員会の説明版:「江戸時代、この地域には幕府の御用商人として活躍していた河村瑞賢(1618-1699)の屋敷があった。瑞賢(瑞軒、随見とも書く)は、伊勢国の農家に生まれ、江戸に出て材木商人となる。明暦3年(1657)の江戸大火の際には、木曽の材木を買い占めて財を なし、その後も幕府や諸大名の土木建築を請負い、莫大な資産を築いた。また、その財力を基に海運や治水など多くの事業を行った。瑞賢の業績の中でもとくに重要なのは、奥州や出羽の幕領米を江戸へ廻漕する廻米航路を開拓して輸送経費・期間の削減に成功したことや、淀川をはじめとする諸川を修治して畿内の治水に尽力したことが挙げられる。晩年にはその功績により旗本に列せられた。
斎藤月岑の『武江年表』によると、瑞賢は貞享年間(1684-1688)ころに南新堀1丁目(当該地域)に移り住み、屋敷は瓦葺の土蔵造りで、塩町(現在の新川1丁目23番地域)に入る南角から霊岸島一円を占めていた、と記されている。表門はいまの永代通りに、裏門はかって新川1丁目7番・9番付近を流れていた新川に面し、日本橋川の河岸には土蔵4棟があり、広壮な屋敷を構えていたようだ。『御府内沿革図書』延宝年間(1673-1681)の霊巌島地図を見ると、瑞賢が開削したとされる掘割に新川が流れ、その事業の一端を知ることができる。所在地は新川1丁目8番地域」、と。

新川跡を越前掘児童公園・越前掘に
新川跡に沿って島の中央あたりに。明正小学校の横に越前掘児童公園。霊岸島の由来書が;「当地区は、今から三百七,八十年前、江戸の城下町が開拓される頃は、一面の湿地葦原であった。寛永元年(1624年)に雄誉霊巌上人が創建して、土地開発の第一歩を踏み出し、同11年(1635年)には、寺地の南方に、越前福井の藩主松平忠昌が2万7千余坪におよぶ浜屋敷を拝領した。邸の北、西、南三面に船入掘が掘られて後に越前掘の地名の起こる原因となった。明暦3年(1657年)の江戸の大火で、霊厳寺は全焼して深川白河町に転じ、跡地は公儀用地となった市内の町々が、替地として集団的に移ってきた」。
同じ公園に越前掘の由来書も。概要をメモする;「江戸時代、このあたりは越前福井藩主松平越前守の屋敷があった。屋敷は3方が掘に囲まれ、越前掘と呼ばれていた。堀の幅は20mほどもあり運河として使われていた。明治になり、越前守の屋敷地が越前掘という地名になったが、次第に埋め立てられ、大正の関東大震災以降、完全に埋め立てられ、地名も越前掘から新川となり、現在に至る」、と。

隅田川・中央大橋から亀島川・「江戸港(湊)発祥跡」に

再び隅田川の川筋に戻る。中央大橋が。新川と佃島を結ぶ橋。霊岸島を一周しよう、ということで、橋を越え亀島川との合流点に。北に上り亀島水門近くに「江戸港(湊)発祥跡」が。慶長年間、幕府がこの地に江戸湊を築港して以来、水運の中心地として江戸の経済を支えて、昭和のはじめまで、房総の木更津や館山、相模・伊豆七島などへは浦賀、三崎、下田、伊豆諸島を結んだ船便がここから発着していた、と。ここから汽船が発着していたわけだ。






亀島川;南高橋・「徳船(とくふね)稲荷神社」
霊岸島、ぐるっと一周の最終地、「南高橋」の北詰に。徳船(とくふね)稲荷神社の由来書;「徳川期、この地新川は、越前松平家の下屋敷が三方掘割に囲われ、広大に構えていた(旧町名越前堀はこれに由来する)。その中に小さな稲荷が祀られていたと いう。

御神体は徳川家の遊船の舳(とも、へさき)を切って彫られたものと伝られる。明暦3年、世にいう振袖火事はこの地にも及んだが御神体はあわや類焼 の寸前、難を免れ、大正11年(1922)に至るまで土地の恵比寿稲荷に安置された。関東大震災で再度救出され、昭和6年(1931)、隅田川畔(現中央 大橋北詰辺り)に社を復活し、町の守護神として鎮座したが、戦災で全焼。昭和29年(1954)、同所に再現のあと、平成3年(1991)、中央大橋架橋 工事のため、この地に遷座となる。例祭は11月15日である。 中央区(八丁堀・湊)から(新川・霊厳島)散歩はこれでお終い。次回は佃島に向かう。 (「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)




足立散歩の2回目は竹の塚からはじめ、千住に下る散歩コース。
大雑把に言って、尾竹橋通りと旧日光街道を下るコース。曳舟川散歩で足立区の東端、先回の毛長ルートで北端・西端を歩いた、今回は中央突破ルートと言ったところ。前九年の役や後三年の役での奥州征伐に進む源義家ゆかりの地も多く、武蔵千葉氏の居城跡や神社仏閣など見どころも多い。大雑把に言って、隅田川の自然堤防・微高地上を通る古の奥州古道と言ってもいい、かも。自然堤防が残るとも思えないが、少々の想像力とともに、古道を辿る。



本日のコース:
竹の塚駅 > 実相院 > 諏訪神社 > 源正寺 > 常楽寺 > 満福寺 > 西光院 > 六月・炎天寺 > 鷲神社 > 島根・国土安穏寺 > 栗原・満願寺 > 西新井大師 > 本木・「六阿弥陀巡り」 > 中曽根神社 > 関原・関原不動尊 > 西新井橋 > 元宿神社 > 大川町氷川神社 > 北千住駅

日比谷線・竹の塚駅の西に実相院

日比谷線・竹の塚下車。先回は東口。今回は西口に下りる。最初の目的地は実相院。伊興2丁目に向かう。実相院は江戸の頃より伊興の子育て観音として知られる。寺伝によると創建は天平(729-748)の昔。行基菩薩が一本の流木から観音像を彫り上げた、と。行基菩薩もいろんなところに、顔を出す。縁起は縁起だけのこと、と思うべし。本尊の聖観世音菩薩は12年に一度開帳される秘仏。

千葉次郎勝胤の墓

寺の近くに千葉次郎勝胤の墓。家臣が主君を偲んで建てた碑であり、正確には墓ではない。あちこち歩いたが、見つけることができなかった。千葉勝胤(1471 - 1533年)は足立一帯に覇をとなえた千葉氏。
千葉勝胤は下総千葉宗家、正確には本家を滅ぼし「宗家」を名乗ったわけで、後期千葉家とも言われる分家筋の系列。1400年中頃、本家・分家で争いが起こり、戦に破れた本家筋の千葉実胤と自胤が武蔵のこの地に移り武蔵千葉氏となったはず。下総佐倉に館を構える千葉の勝胤さんが、このあたりに縁があるわけもないと思うのだが、どういうことだろう。同姓同名、ということだろう、か。実相院の近くに六万部経塚。経塚とは、末法の世まで善行を残すために書写した経典を土の中に埋納したもの、とか。

諏訪神社

少し南に進み西伊興1丁目と西新井4丁目の境に諏訪神社を訪ねる。足立に諏訪神社って結構目に付く。諏訪神社って、御祭神は建御名方命(たけみなかたのみこと)。出雲の大国主命(おおくにぬし)の子供。古事記の国譲神話では、建御雷神(たけみかづちのかみ)に敗れ諏訪の地に逃げ込んだとされている。国譲りを渋る大国主命に代わり、建御雷神と一戦交えるが、武運つたなく負け戦。この科野の州羽の海まで逃れ、もうここから一歩も出ません、謹慎いたします、とした次第。
ちなみに、建御雷神って、鹿島の土着神。鹿島神宮って、中臣氏が祭祀者。中臣、って藤原鎌足・不比等の出自。不比等、って古事記・日本書紀編纂の任にあった権力者。出雲系国ツ神が、中央朝廷系天ツ神に膝を屈するストーリーを史書の中に組み上げていったのだろう。
とはいうものの建御名方命って、「水潟」に由来し、この州羽の土着の神であり、出雲とも縁もゆかりもない、という説もある。出雲族が信州を通り、秩父・武蔵に移っていったわけで、当然この地にも強い影響力をもったのであろう。そういった背景をもとに、神話が組み上げられていったの、かも。ひたすら推論、というか空想、ではある。

源正寺

少し東に進み伊興2丁目に源正寺。本堂は結構大きいのだが、アプローチが少々わかりにくい。細い路地を入りなんとか入口を見つけた。伊興七福神の恵比寿天。ちなみに伊興七福神は実相院(大黒天・弁財天・毘沙門天)・福寿院(寿老人・福禄寿)、源正寺(恵比寿天)・法受寺(布袋尊)。さらに東に進み、地下鉄の検車場の北端を進み東武伊勢崎線を陸橋で越える。

竹の塚の寺町:常楽寺
竹の塚1丁目を道なりに進む。竹の塚1丁目から六月3丁目にかけて、ちょっとした寺町。常楽寺。真言宗豊山派。竹の塚に生まれ竹の塚に骨を埋めた江戸の文人・竹塚東子(たけつかとうし)の墓。実名・谷古宇四郎左衛門(やこうしろうざえもん)。東子は今でいうマルチタレント。寛政・亨和・文化にかけて活躍した。酒屋でありながら、生け花の師匠、俳諧をたしなみ、戯作者としても名を馳せ、そのうえ落語家。東子の俳譜の師匠が、千住在の建部巣兆。俳譜師にして画家、生け花や茶道の教授もするというこの人もマルチタレント。師の巣兆もそうだが、東子も奥州を行脚し、俳画帖をものしている。洒落本「田舎談義」で戯作者としての地位を確立。この常楽寺は寛永年間(1624 - 1643年)河内与兵衛(かわうちよへえ)によって中興されたと伝えられている。河内与兵衛は16世紀末、小田原北条氏没落後、この地に土着。江戸に入り徳川家に仕え代々この地の名主をつとめた人物。

満福寺

満福寺。創建不明。文明10年(1478年)の板碑墓石がある。明和・寛政のころが中興期であったよう。明治9年(1876年)4月公立竹嶋小学校(同12年2月正矯小学校と改名)が境内に設けられた。入口にその石碑が置いてあった。

西光院

開基は、河内与兵衛。本堂前に金剛界大日如来坐像(銅造)。明治12年には、寺内に公立正矯小学校が開校された。

六月・炎天寺

六月3丁目に炎天寺。平安末期創建。天喜4年(1056年)、炎天続きの旧暦六月、奥州安倍一族追討に向かう源頼義、八幡太郎義家親子がこの地で野武士と交戦。京の岩清水八幡に祈念し勝利を収める。で、お礼に八幡宮をたてる。地名を六月。寺名を源氏の白旗が勝ったので幡勝山、戦勝祈願が成就したので成就院、炎天続きだったので炎天寺と。
前九年の役のエピソードをもつ源氏ゆかりの寺。またこの寺は江戸後期の俳人・小林一茶ゆかりの寺。一茶は千住に住んでいた俳人・建部巣兆、竹塚の作家・竹翁東子などと寺のあたりをよく歩き、いくつかの俳句を残している。「やせ蛙負けるな一茶是にあり」「蝉鳴くや六月村の炎天寺」。当時の竹塚村は一面の水田地帯。初夏ともなると、あちこちでカワズが鳴き合う、蛙合戦として江戸でも有名であった、と。一茶は全国放浪の旅に明け暮れた俳人。炎天寺主催の「一茶まつり」が開かれている。
一茶もいいのだが、境内を歩いていて無財の七施の案内を見る。いい文章。お賽銭といった、形あるお布施もいいが、言葉や心など形のないもの、無財のもので施せば施すほど心が豊かになる、とのメモ。気に入ったので写しておく。
無財の七施(雑宝蔵経)
1. 眼施:やさしい まなざし いつも澄んだ清らかな眼で人を見よう
2. 和顔悦色施:にっこりと笑顔 ほほえみのある顔こそ最高
3. 言辞施:親切なひとこと 人を傷つける言葉 いわなくてもいい言葉をつかっていないか
4. 身施:きちんとしたおじき みなりをきれいにする
5. 心施:あたたかいまごころ 真心をこめる
6. 牀坐(しょうざ)施:ここちよい憩いの場 いま自分が坐っている場所をきれいにする
7. 房舎施:ここちよいもてなし 家の周辺をきれいにする


鷲神社

少し南に進み六月2丁目の鷲神社に。鷲神社は、旧利根川水系に多く祀られている。文保2年(1318年)武蔵国足立郡島根村の地に鎮守として創建され、大鷲神社と唱えたと伝えられる。島根村は現在の島根・梅島・中央本町・平野・一ツ家などの全部または一部を含む大村。村内に七祠が点在していたが、元禄の頃、このうち八幡社誉田別命、明神社国常立命の二桂の神を合祀し三社明神の社として社名を鷲神社に定めたという。何故、「大鷲」かってことは、花畑の大鷲神社でメモしたとおり。島根の由来。古くは島畑村と。島畑とは水田の中に点在する畑のこと。また、文字通り、島、というか微高地の根っこ・水際、とも。

島根・国土安穏寺
島根3丁目に国土安穏寺。構えのいいお寺。寺門に葵の御紋。これって徳川家の紋。もとは妙覚寺。将軍の鷹狩り・日光参詣の御膳所。葵の御紋を授けられたきっかけは、あの宇都宮の釣り天井事件。三代将軍・家光、日光参拝の折りこの寺に立ち寄る。住職の日芸上人より、「宇都宮に気をつけるべし」。で、家光、宇都宮泊を取りやめる。公儀目付け役が宇都宮城チェック。将軍を押しつぶすべく仕掛けられた釣天井を発見。宇都宮城主は二代将軍秀忠の第三子国松(駿河大納言忠長)の後見役・本多正純。家光を亡きもの にして国松を将軍にしようと陰謀をはかったといわれている。日芸上人によって九死に一生を得た家光は、妙覚寺に寺紋として葵の御紋を。寺号を「天下長久山国土安穏寺」とした。ちなみに、釣り天井事件の真偽の程不明。本多正純を追い落とす逆陰謀、といった説も。

栗原・満願寺

南に下り環七と交差。環七に沿って西に進む。栗原1丁目で東武伊勢崎線と交差。栗原の由来は不明。栗原3丁目に満願寺。小野篁作と伝わる地蔵菩薩を本尊とする。ここにも狸塚。御堂に老いた和尚さんが一人で住んでいた。 寒い夜、荷物を背負った狸が,暖を求める。和尚快諾。囲炉裏で暖をとり出てゆく。数日後再び狸が現れ、暖を求める。再び和尚、諾。囲炉裏で暖をとる。で、なにを思ったか和尚、狸の荷物に囲炉裏の灰を。狸出てゆく。翌朝、和尚丸焼けの狸発見。不憫に思い、手厚く葬った、と。2mもの狸塚がある。

西新井大師

先に進み東武鉄道大師線・大師前駅に。西新井大師。真言宗豊山派のお寺。寺伝によれば、弘法大師がこの地に立ち寄り、悪疫流行に悩む村人を救わんがため、十一面観音をつくり、祈祷を。と、枯れ井戸から水が湧き出、病気平癒した。村人はそれを徳としてお堂を建てる。井戸がお堂の西にあったので「西新井」と。
川崎大師、佐野厄除大師とともに関東の三大大師のひとつ。豊山派とは奈良・長谷寺を総本山とする真言宗の一派。豊山神楽院長谷寺とよばれることが名前の由来。ついでに、真言宗派の流れ。高野山や東寺からの流れに対し、真言中興の祖・興教大師以降の根来山を中心とした流れが新義真言宗。その新義真言宗がふたつにわかれ、一派はこの豊山派、もう一派は京都・智積院を中心とした智山派に分かれる。お寺の結構渋い山門を通り、門前町のお団子やなどをひやかしながら先に進む。

本木は「六阿弥陀巡り」に由来する地名

西新井栄町、西新井5丁目と進み興野、本木地区に。興野はもともと、本木村の奥、ということで、「奥野」と呼ばれていた。崩し文字で奥を興と読み違え、「興野」と。ほんまかいな? また、「こうや:荒野・高野・興野」で文字通り、新開地といった意味から、との説もある。
本木の由来もあれこれ。気に入った説をメモする:足立小輔が熊野権現に願掛けをして得た愛娘・足立姫を豊島清光に嫁がせる。が姑との折り合い悪く里帰りの途中、行く末をはかなみ侍女5人と入水自殺。足立小輔、菩提をとむらうべく全国の霊場巡礼。熊野で「霊木を授ける。仏像を刻むべし」とのお告げ。霊木を得る。なぜかは知らねど、その木を紀伊の海に流す。足立に戻ると、霊木は足立の里に流れ着いていた。霊木を館に安置。諸国行脚の行基菩薩が立ち寄り、霊木から六体の阿弥陀如来を彫り、近隣の六ケ寺に。で、根元に近い余り木で一体を彫り館に収めた。この仏さまを「木余り如来」「本木の如来」と。これが地名となった、と。
この話、先日の足立散歩の時、船方神社で出会った。もっともそのときは、侍女は12人だったよう。また、足立さんのほうに嫁ぐってことで真逆でもあった。敵役も替わっている。真偽のほどは、どちらでもいいか、とも。それより、こういった話が、江戸の六阿弥陀詣での縁起として昇華する。
足立、荒川あたりで「六阿弥陀」ってフレーズをよく耳にした。阿弥陀如来が収められた六つのお寺を巡るのが「六阿弥陀」。密教では非業の死をとげた人を鎮魂するためにおまつりするわけだが、入水したお姫さまと5人の次女といった民間伝承を、密教の信仰に組み込んでいったのであろう。六つのお寺は、豊島の西福寺、小台の延命寺・西原の無量寺・新堀の与楽寺・下谷の常樂院・亀戸の常光寺。「本木の如来」は性翁寺・「木残り如来」は西原の昌林寺にあるという。延命寺は明治9年廃寺。豊島の恵明寺に移され、常樂院は調布西つつじが丘に移転。
「六阿弥陀」は全行程6里以上。結構な距離。「六つに出て六つに帰るを六阿弥陀(川柳)」といったように一日仕事。「六阿弥陀翌日亭主飯を炊き(川柳)」、といった無理な行軍で弱った女房に代わり旦那がオサンドン。「六阿弥陀みんな廻るは鬼ババァ(川柳)」といったとんでもない句も。「六阿弥陀嫁の噂の捨て所」と言われるように、江戸の庶民のリクリエーションとして江戸の中頃広まっていった、と言う。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)

中曽根神社
本木2丁目に中曽根神社。中曽根城跡と言われる。中曽根城は足立区一帯を支配していた千葉次郎勝胤により築かれたとされる。が、どうもよくわからない。伊興の千葉勝胤の墓のところでメモしたように、勝胤は下総千葉氏。このあたりの武蔵千葉氏の流れにその名は無い。足立区の郷土館で手に入れた資料にも、このお城をつくったのは「千葉某」と書いてあった。
千葉での本家・庶家争いに敗れ、この地に逃れてきた本家筋の千葉実胤(さねたね)・自胤(これたね)が武蔵千葉家となる。上杉氏の重臣・太田道灌の援助を得て、武蔵国石浜(荒川区から台東区にかけての隅田川沿岸)と赤塚(板橋区)に軍事拠点を構えて下総国の奪還を期す。結局、千葉への返り咲きは叶わなかった。で、拠点としたのがこの中曽根城。地名をとり、「淵江城」とも。
其の後の千葉氏:大永4年(1524年)小田原北条氏が上杉氏の江戸城を攻略。武蔵国に進出。武蔵千葉氏もその傘下に。北条氏のもとで家格を重視され、「千葉殿」の尊称 を得る。天正18年(1590年)に北条氏が豊臣秀吉に滅ぼされると共に中曽根城も放棄された。

関原・関原不動尊
少し東に進む。関原2丁目に大聖寺。関原不動尊とも。関原の地名の由来は不明。木造の本堂はしっとりと美しい。境内には「おびんずる様」。赤や青の着物や紐でぐるぐる巻かれたほとけさん。苦しいところをなでると直る、とされる「なでぼとけ」。この「おびんずる様:賓頭盧尊者」はいつも赤ら顔。早い話が飲兵衛の仏様。お釈迦様のお弟子さんではあったが、内緒でちびちび。御釈迦さんに説教され禁酒を誓う。が、つい一献。ということで破門。一念発起で修行。お釈迦さんも努力を認め、本堂の外陣であれば、ということでそばにはべるのを許された、って仏様。以降、いろんなところで「おびんずる様」に出会うことになるが、ここが「おびんずる様」最初の邂逅地。

西新井橋
商店街を少しくだると八幡神社。「出戸八幡」とも。出戸は砦のこと。中曽根城主・千葉氏の守護神であった。先に進み首都高速中央環状線をくぐり、荒川堤に。西新井橋を渡り千住に進む。

元宿神社

千住元町を進む。軒先をかすめるが如くの有様。下町って感じ。道なりにすすむと元宿神社。由来書をメモする:このあたりは鎌倉時代には集落ができていた。奥州路もここを通っていたと言われる。江戸時代初期、日光道中開設とともに成立した「千住宿」に対して「元宿」と。天正の頃、甲州から移り住んだ人々によって北部の川田耕地などが開墾され、その守護神・八幡宮がこの地に祀られた。

大川町氷川神社
東に進み千住大川町。大川町氷川神社。荒川放水路工事のため大正4年(1915年)現在地に移転。「紙漉歌碑」。足立区は江戸時代から紙漉業が盛ん。地漉紙を幕府に献上した喜びの記念碑。浅草紙というか再生紙は江戸に近く、原材料の紙くずの仕入れも簡単、地下水も豊富なこの足立の特産だった。境内には富士塚も。
日も暮れてきた。千住宿は結構見所が多そう。後日ゆっくり歩く、ということで千代田線・北千住駅に進み家路へと急ぐ。これで足立区散歩は一応お終い。
いつだったか、曳舟川跡散歩のとき、足立区の神明地区から亀有まで、中川に沿って南に下った。中川は足立区の西の境、である。今回の足立区散歩は、さてどこから、と考えた。で、なんという理由はないのだが、なんとなく花畑にある大鷲神社に行こう、と思った。現在お酉さまで有名なのは浅草の大鷲神社ではあるが、元々のお酉様は足立区の大鷲神社という。
大鷲神社の場所を確認。足立区と埼玉県八潮市、草加市の境にある。綾瀬川と伝右川、そして毛長川の合流点。毛長川が埼玉・草加と足立の境になっている。毛長という名前に惹かれた。また、毛長川は、古墳の入間川の流路、である。
現在の入間川は飯能あたりを源流とし、川越とさいたま市の境あたりで荒川に注ぐ。江戸の荒川西遷事業の頃は、現在の荒川・隅田川の流路を下っていた、という。荒川西遷事業、というのは、現在の元荒川・古利根川筋を流れていた荒川の流れを、西に流れる入間川に大鷲神社瀬替した大工事のことである。で、古墳時代の入間川は、というと、これが当時の利根川水系の主流であった、よう。熊谷>東松山>川越>大宮>浦和>川口>幡ヶ谷、と下り、現在の毛長川に沿って流れ足立区の千住あたりで東京湾に注いでいた、ということだ。
葛飾・柴又散歩のとき、東京下町低地の二大古墳群は柴又あたりと毛長川流域とメモした。そのときは、それといったリアリティはなかった。が、千住あたりが当時の海岸線である、とすれば、この毛長川流域、って東京湾から関東内陸部への「玄関口」。交通の要衝に有力者が現れ、結果古墳ができても、なんら違和感は、ない。
大鷲神社がきっかけに、古墳時代の武蔵の「中心地」のひとつ、毛長川が現れた。ということで、今回の散歩は、大鷲神社からはじめ、毛長川にそって埼玉・川口市まで歩く。その後は、新芝川に沿って荒川まで進み、鹿浜橋を越え王子に出る、といったルート。つまりは、東京と埼玉との境を川にそってぐるっと一周することにした。



本日のコース: 竹の塚駅 > 竹塚神社 > 保木間氷川神社 > 花畑・正覚寺 > 綾瀬川・伝右川・毛長川合流点 > 大鷲神社 > 白山塚古墳・一本松古墳 > 花畑浅間神社 > 花畑遺跡 > 法華寺境内遺跡 > 伊興・白旗塚古墳 > 応現寺 > 伊興寺町 > 東伊興・氷川神社 > 伊興遺跡 > 毛長川・毛長橋 > 見沼代用水跡 > 諏訪神社 > 舎人氷川神社 > 入谷古墳・入谷氷川神社 > 入谷・源証寺 > 新芝川・荒川の合流点 > 鹿浜橋

地下鉄日比谷線・竹の塚
地下鉄日比谷線・竹の塚下車。近くに竹が生い茂る塚・古墳があった、とか、「高い塚」を意味する「たかきつか」が転化したもの、とか例によって諸説いろいろ。エスカレータで降り、駅の東を進む。

竹塚神社
竹塚神社。源頼義公の足跡。奥州征伐の折、この地に宿陣した、と。墨田にしても、葛飾にしても、いやはや源頼義、その息子八幡太郎義家の由来の多いこと

延命寺

北に少し進み竹塚5丁目に延命寺。総欅造りの山門はなかなか渋い。昭和51年に佐渡の円通寺から移されたもの。鎌倉とか室町の作と伝えられる聖徳太子がある。

保木間氷川神社
延命寺の東、保木間1丁目に保木間氷川神社。保木間地区の鎮守さま。もと、この地は千葉氏の陣屋跡。妙見社が祀られていた。妙見菩薩は中世にこの地で確約した千葉一族の守り神。千葉一族の氏神とされる千葉市の千葉神社は現在でも妙見菩薩と同一視されている。菩薩は仏教。だが、神仏習合の時代は神も仏も皆同じ、ってこと。後に、天神様をまつる菅原神社、江戸には近くの伊興・氷川神社に合祀。この地で氷川神社となったのは明治5年になってから。本殿の裏手に富士塚。鳥居には「榛名神社」。ということは、富士は富士でも榛名富士? 氷川神社の前を通る道は江戸時代の「流山道」。花畑の大鷲神社、成田さんへ、また、西新井大師へと続く信仰の道。 (「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)

花畑・正覚寺
保木間地区をブラブラと歩き綾瀬川まで進むことに。途中の保木間4丁目には寺町っぽい地区がある。地名の保木間は、もともとは「堤や土地の地滑りを防ぐ柵のこと。山城の国からやってきた人々が一面の湿地帯を開拓し部落をつくったときにつくったこの柵のことを地名とした。「ほき」は「地崩れ」、「ま」は「場所」。
少し東、花畑3丁目に正覚寺。ここにも新羅三郎義光の伝説。兄である八幡太郎義家を助けるため奥州遠征の途中、この寺に立ち寄る。守り本尊を預け、戦勝祈願を。正覚院に凱旋帰還。住職曰く「枯れ木に花又が咲くがごとくなり」と。

花畑・綾瀬川、伝右川、そして毛長川の合流点

毛長・綾瀬合流先に進み綾瀬川の堤に。雑草が生い茂る土手道。草を踏み分けながら北に進む。途中、花畑6丁目に諏訪神社。先に進むと綾瀬川、伝右川、そして毛長川がひとつにあるまる合流点に。花畑7丁目。花畑ってなんとなく惹かれる名前。地名の由来を調べる。元は花又村。明治に近隣の村が一緒になるとき、もとの花又村の{花}と、近辺が畑地であったので「畑」を加え、「花畑」に。で、もとの花又であるが、花 = 鼻 = 岬・尖ったところ。又 = 俣>分岐点。毛長川と綾瀬川、伝右川のが合流・分岐する三角洲、といった地形を美しく表した名前である。
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大鷲神社

大鷲神社毛長川に沿って湾曲部を進む。雑草が深い。湾曲部を廻りきったあたりで道路と交差。左に折れると直ぐに大鷲神社。大鷲神社はこの地の産土神。中世、新羅三郎源義光が奥州途上戦勝祈願。凱旋の折武具を献じたとか。
浅草酉の市の発祥の地。室町時代の応永年間(1394 - 1428年)にこの神社で11月の酉の日におこなわれていた収穫祭がお酉さまのはじまり。「酉の待」、「酉の祭り」が転じて「酉の市」になった、とか。
この地元の産土神さまのおまつりが江戸で有名になったのは、近隣の農民ばかりでなく広く参拝人を集めるため、祭りの日だけ賭博を公認してもらえたこと。賭博がフックとなり千客万来状態。江戸から隅田川、綾瀬川を舟で上る賭博目的のお客さんが多くいた、と。が、安永5年に賭博禁止。となると客足が途絶える。新たなマーケティングとして浅草・吉原裏に出張所。これが大当たり。本家を凌ぐことになった。賭博にしても、吉原にしても、信仰といった来世の利益には、こういった現世の利益が裏打ちされなければ人は動かじ、ってこと。かも。ついでに、参道で売られた熊手も、もとは近隣農家の掃除につかう農具。ままでは味気ないということで、お多福などの飾りをつけて販売した。
「大鷲」の名前の由来:この産土神さまは「土師連」の祖先である天穂日命の御子・天鳥舟命。土師(はじ)を後世、「ハシ」と。「ハシ」>「波之」と書く。「和之」と表記も。「ワシ」と読み違え「鷲」となる。ちなみに、天鳥舟命の「鳥」とのイメージから「鳥の待ち」に。この待ちは、庚申待の使い方に同じ。
鳥の話、といえば、鉄道施設と鳥のかかわり。東武伊勢崎線はこの花畑地区を通る予定だったらしい。が、この「陸蒸気」、その轟音と煤煙でにわとりが卵を産まなくなる、とか、大鷲神社の「おとりさま」に不快な思いをさせるのは畏れ多い、ということであえなく中止。電車が通っていたら、この辺りの環境は今とは違った姿に、なっていたのでは、あろう。
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毛長川:白山塚古墳・一本松古墳・花畑浅間神社
毛長川に沿って進む。川に沿って古墳が多い。大鷲神社近辺には白山塚古墳、一本松古墳。花畑大橋をすこし進むと花畑浅間神社。といっても本殿はなし。富士塚があるだけ。「野浅間」と呼ばれる。つくられたのは明治になってから。毛長川にそって点在する古墳を利用したもののよう。

毛長川:花畑遺跡・法華寺境内遺跡
さらに進む。花畑から保木間に入るあたり、日光街道に交差するあたりに花畑遺跡。草加バイパスを越え、直ぐ先、川からすこし入ったあたりに法華寺境内遺跡。
先に進む。東武伊勢崎線と交差。西清掃事務所に沿って谷塚橋に。左に折れ、次の目的地・白旗塚古墳に向かう。

伊興・白旗塚古墳
白旗古墳伊興白旗交差点。いかにも水路跡のような道筋。どうも、保木間掘跡のよう。保木間掘親水公園と呼ばれるようだが、東部伊勢崎線との交差するあたりまでは、そういった雰囲気はない。
線路手前を南に折れるとすぐ「白旗塚史跡記念公園」。白旗塚古墳がある。5世紀から6世紀につくられたもの。伊興古墳群のひとつ。直径12m、高さ2.5m、広さ60平方メートルの上段円墳。白旗塚古墳以外にも、甲塚古墳、擂鉢塚古墳などがあったよう。白旗塚の由来は、例によって、源頼義、義家が登場。これも例によって、勝利の証、源氏の白旗を掲げたところ、だとか。
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伊興寺町
伊興遺跡古墳脇に座り、一息入れる。足立って、由来は何、と考える。低湿地帯に葦が立ち並ぶ、ってことだろう、と。どうもそのとおりのよう。公園を離れ伊興寺町に。伊興町狭間と呼ばれる。北の毛長川、南の沼地に挟まれた微高地だったのが狭間の由来。お寺は関東大震災の後、浅草本所近辺のお寺がこの地に移ってきた。ちなみに、浅草の南にあったお寺は烏山に移り、烏山寺町に。
応現寺:伊興五庵と呼ばれている五つのお寺を南から進む。最初は「応現寺」。寺宝のいくつかは国立博物館に展示されている、とか。一遍上人の開いた時宗のお寺。江戸初期の建築様式が残る山門が美しい。
東陽寺:塩原太助の墓がある。江東区散歩のとき、亀戸天満宮とか塩原橋など、何回か出会った。「本所(ほんじょ)に過ぎたるものが二つあり津軽大名炭屋? 塩原」と呼ばれた本所在住の豪商。1876年三遊亭円朝が『塩原太助一代記』をつくり、噺をして以来一躍有名人に。
「河村瑞軒の墓」もある。瑞軒にも中央区霊岸島散歩のとき出会った。川村瑞賢は江戸初期の豪商。明暦の大火のとき、木曽福島の木材を買占め大儲け。その後、米を運ぶための航路開発や淀川治水工事などに貢献した。
法受院:五代将軍・綱吉の生母 桂昌院の墓がある。「怪談牡丹灯篭の碑」も。谷中に住んでいた円朝は千駄木・三崎坂の荒涼たる法住寺をモチーフに怪談を創作。怪談に出てくる寺の了碩(りょうせき)和尚は当時実在した住職。子供の頃、新東宝映画でこの手の怪談ものを良くみた。三本立て10円であった。ともあれ、怪談牡丹灯篭のあらすじ:旗本の娘お露は浪人萩原新二郎に恋。父に許されず、恋焦がれ死して幽霊となり、乳母お米の幽霊を伴い夜ごと牡丹灯寵をさげて新二郎の許へ通う。三崎坂にカランコロンと響いた下駄の音、ってストーリー。
そのほかこの寺町には常福寺。「林家三平(海老名家)」の墓がある。
易行院には花川戸助六と芸者・揚巻の墓が。団十郎の建てた「助六の碑」も。このお寺、落語家・三遊亭円楽師匠の実家とのことである。浅草・清川町から移る。
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東伊興・氷川神社

氷川神社寺町から離れ、毛長川方面に。東伊興2丁目に氷川神社。足立区最古の氷川社。淵江領42カ村の総鎮守。「淵の宮」とも呼ばれる。奥東京湾の海中にあった東京下町低地一帯が陸地化していく中で、このあたりが最も早く陸地化した。古墳時代に人々は、大宮あたりから当時大河川であった毛長川を下り移り住む。で、大宮・武蔵一ノ宮の氷川神社を勧請。
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伊興遺跡

伊興遺跡当時はこのあたりは淵が入り組んだ一帯。「淵の宮」と呼ばれた所以。付近一帯は古代遺跡。神社の直ぐ隣に伊興遺跡。縄文後期(約4000年前)から古墳時代初期の遺跡。毛長川沿いにあった遺跡のなかでもっとも繁栄した遺跡。毛長川を利用した水上交通の要衝。西日本からの須恵器なども発見されている。公園内の展示館には出土品を展示してある。伊興の地名の由来。定かならず。「吾妻鏡」に地頭で「伊古宇」の名前などが登場する。関係あるのかないのか、ともあれ不明。
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毛長川・毛長橋
毛長川毛長川に沿って西に進む。ところで、毛長川の名前の由来。地名の由来がいつも気になる、というか、地名の由来から昔の姿を想像する、それが楽しい。ともあれ、毛長川の由来:毛長川を隔て、埼玉の新里すむ長者に美しい娘。葛飾・舎人の若者と祝言。婿殿の実家と折り合い悪く実家に戻ることに。その途中沼に身を投げる。その後、長雨が続くと沼が荒れる。数年後沼から長い髪の毛を見つける。娘のものではないかと、長者に届ける。長者感激。ご神体としておまつり。それ以降沼が荒れることがなくなる。その神社が現在新里にある毛長神社。沼を毛長沼と。
毛長橋を越えると古千谷本町4丁目。「古千谷」 = こじや。古千谷の由来:江戸時代の文書にこの地を「東屋」=「こちや」。東風(こち)吹かば、匂いおこせよ、の「こち」。もともとは「荒地谷(こうちや)」だった、かも。「こうち」は「洪水のあることろ」。「や」や沢とか湿地・低地未開拓の湿地帯のこと。ちなみに、小千谷(おじや)は「落合」。水が落ち合 = 合流するところ。なんとなく音・表記が似ていたのでメモした、だけ。
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舎人・見沼代用水跡と諏訪神社

毛長川の堤を進み、舎人3丁目に。舎人の由来。これも、舎人親王に関係あるとか、「とね = 小石の多いやせ地」+「いり = 入り江」 = 「とねいり」>転化し「とねり」>「舎人」と表記、とか諸説あり定かならず。
堤からはなれ、一筋南に水路跡。見沼代用水跡。現在は親水公園になっている。親水公園脇に諏訪神社。小さい鳥居。この神社にまつわる婚姻説話:昔、この社地に夫婦杉。が、見沼代用水を掘り割るとき、水路を隔てた泣き別れに。以来、里人は縁起をかつぎ、この地を避けて通ることに。その心は、婚礼の時、難儀するほうが後々幸せに、といったこと、また、里を練り歩き、婚礼を披露するための方便に、といったこともある、とか。

舎人氷川神社
先に進み、舎人5丁目に舎人氷川神社。鎌倉初期に大宮氷川神社を勧請。現在の社殿は天保7年(1836年)のもの。総欅つくり。舎人の地も古くから開けたところ。神社近くの舎人遺跡からは古代の井戸が見つかっている。江戸時代は赤山街道の宿場として栄える。
入谷古墳・入谷氷川神社 少し南に入谷古墳・入谷氷川神社。「新編武蔵風土記」入谷古墳のメモ:「八幡社 塚上ニアリ。土人白旗八幡ト称ス。古岩槻攻ノ時、当所ニ幡ヲ立ショリ、カク称セリト云」と。昭和49年区画事業により、この塚の半分以上が削られることになっていたが、入谷氷川神社総代を中心とした住民の反対により計画変更。保存されることに。

入谷・源証寺
少し南に下った入谷2丁目に源証寺。江戸中期の建築様式を今に伝える太子堂、梵鐘で知られる。入谷の由来。毛長掘からは「入り込んだ」湿地。

新芝川
入谷から皿沼、谷在家、加賀そして鹿浜、そして新芝川へと進む。皿沼の由来。定かならず。が、「さら」 = 「浅い」ということで、「浅い沼」>「湿地帯」。皿沼は水はけの悪い、水田地帯だった。加賀。これも由来不明。が、「かが」って「耕作地にできない草群とか岩地」。このあたり耕地になりえないようなところだったのだろうか。谷在家の由来。沼田川の谷もしくは沢に開いた農家。在家は集落のこと。「湿地の部落」って意味。どうしたところで湿地帯であったようだ。ちなみに鹿浜。「しかはま」または「ししはま」。鹿を「しし」と読むことは多い。鹿が群れていたところだったのだろう。
入谷からのルート一帯は御神領。神の領地。この場合の神は東照大権現・家康。御神領とはつまりは東叡山・寛永寺の領地のこと。家康入府以来、このあたりは天領であったが、四代将軍家綱、五代将軍綱吉が寄進した。御神領堀といった用水も道筋にあった。

新芝川から荒川との合流点に
御神領を進み、新芝川の堤を下り荒川との合流点に。合流点近くに休憩所。夕刻でもあり、眺めが素晴らしい。しばしゆったり。荒川に沿って下り、鹿浜橋を渡り新田地区に。夕刻時間切れのため、タクシーにのり新神谷橋を渡り王子の駅に。本日の予定終了。

亀有から立石、そして新小岩へと
中川青戸金町・新宿町の散歩を終え、今回は昔の亀有村地区から立石、そして新小岩に下る。このあたりも、結構古くから開かれていたよう。養老5年(721年)の「下総國葛飾郡大嶋郷戸籍」大嶋郷にあった甲和里は現在の小岩、仲村里は奥戸あたりとされる。この周辺は利根川や荒川といった暴れ川の堆積作用によって嶋もしくは浮洲、微高地が点在。西暦4世紀ころには、そこに古代に人々が住み着き農業や漁業を営み、奈良時代には既に集落が形成されていた、ということだろう。
実際、今日の散歩のコースにある、立石さまの霊石、熊野神社の神体である「石」も古墳の石室であろう、と。熊野神社近くの南蔵院の裏手にも古墳跡が残る。先回歩いた、柴又八幡様の古墳も含め、このあたりは足立区の毛長川流域の古墳群とともに、東京低地にある代表的古墳群とされる。大型ではなく比較的小型のこれら古墳群は6世紀後半の群集墳の特徴を示す。
古くから開けた、この大嶋郷、当時の人口は1,191名。明治7年で16,570名。明治の頃でもその程度の人口。昭和7年の葛飾区誕生時は89,919名。そして現在は40万名強、となっている。
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本日のコース:R亀有駅 > 御殿山公園・葛西城跡 > 青砥神社 > 中原八幡神社 > 「立石」様 > 熊野神社 > 南蔵院の古墳跡 > 奥戸の鬼塚 > 西井掘跡 > 於玉稲荷 > JR新小岩駅

御殿山公園・葛西城跡
橋の西詰め、道の右手に延命寺。江戸時代初期の庚申塔がある。環七通り・青砥陸橋のある青戸交差点を南に折れる。少し進むと御殿山公園。v 環七に沿ったこの公園は葛西城跡。中川に沿った微高地に築かれた平城跡。15世紀中ごろに関東管領上杉氏が築いたと言われる。その後小田原北条氏の手に落ち、下総進出の拠点として拡張整備される。国府台合戦のときは後北条側の基地として使われたのだろう。その後もこの城を巡っての争奪戦が繰り広げられるが、天正18年(1590年)秀吉の小田原征伐による北条の滅亡とともにその使命を終える。
家康江戸入府の後は、この地に青戸(葛西)御殿が建てられ、家康・秀忠・家光の三代にわたる鷹狩の休息所として利用される。その屋敷も17世紀後半には取り壊された、とか。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)

青砥神社
青戸神社環七を隔てて中川寄りに青砥神社。もとは白髭神社と呼ばれる。天正の頃、白髭・諏訪・稲荷神社を合わせ、三社明神と。昭和18年、付近の白山神社を合わせ、青砥神社とする、と。
ここまでメモしてきてちょっと気になることが。青砥? 青戸? 地名が混在している。表記が二通りある。調べてみた。元は青戸。「戸」は「津」と同じ。津は湊を意味する。青戸を「おはつ」と読み表記している文献もある。「おはつ」>「おおつ:大津」>「おおと:大戸」>「あおと:青戸」となったのだろう。元々の意味は、「おおいに栄えた津・湊」、であったのだろう。
それが「青砥」と表記されるようになったきっかけは、高砂・極楽寺で出会った青砥藤綱、から。江戸時代、この名裁判官が一躍有名になり、その名声にあやかって「青砥」と表記するケースもでてきた、ということらしい。つまりは、地名・地形にかかわるものは「青戸」、藤綱を冠したいケースは「青砥」。とはいうものの、青砥藤綱って、実際の人物かどうか不明ではある。江戸時代、滝沢馬琴が中国の小説をモデルにして書いた『青砥藤綱模稜案』、これって大岡裁きの中世版といった読み物であるが、これがヒットして庶民のヒーローになったのが青砥藤綱ってこと、らしい。
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中原八幡神社
環七を進み、青戸5丁目で京成線と交差。少し西に青砥駅。駅前に中原八幡神社。その昔、60人あまりの近在の男衆が祭事を行っている姿を描いた絵馬が有名、らしい、が一見客の我が身が見れるわけもなし。

「立石」様
立石さま立石8丁目まで下り、「立石」様を探す。少々迷ったが、児童公園の隅っこに「立石」様を発見。立石の地名の由来ともなったもの。「根あり石」とも呼ばれ、昔、いくら掘っても、掘っても最後まで行き着かない、地中に埋没する部分が計り知れない、といわれる石。
石の下には空洞があるようで、石室をもった古墳の石室の天井、ではないかといった説もある。ちなみに石は千葉の鋸山からしかとれない房州石(凝灰岩)。柴又八幡神社遺跡の古墳の石室につかわれているものと同じ、である、
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熊野神社
熊野神社立石さまの直ぐ近くに熊野神社。陰陽師で有名な安倍清明の創建とされる。清明、花山上皇に従い熊野での山篭りを終え、熊野神社勧請の旅の途中この地を訪れる。中川、というか古利根川に沿ったこの美しい地を聖なる地と。陰陽道五行説の五行をかたどり境内を30間5角とし、五行山熊野神社とし、熊野三社権現をまつり、石棒・石剣をご神体とする。以来、人々の信仰を集める。また葛西清重の信仰も篤かった、と。江戸に入っては三代将軍家光、八代将軍吉宗は「鶴」お成りの際はこの神社参拝を常とした。
とはいうものの、安倍清明さん、って実在の人物かどうかよくわからない。平将門の息子という説も。花山天皇とともに将門の意を継いで関東に独立国をつくろう、とした、って説も。熊野散歩のときにも、鎌倉散歩のときにも、花山天皇ってよく顔をあらわす。関東に下ったって事実はないようだ、が。
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南蔵院の古墳跡
南蔵院熊野神社の南に南蔵院。裏手に古墳が残る、という。東京低地の古墳群は上にメモしたように、足立の毛長川流域。この地葛飾一帯。この二つは代表的なもの。そのほかに、荒川区南千住の素盞雄神社、台東区の鳥越神社、北区の中里遺跡など、さらに浅草寺周辺についても古墳跡ではないか、とも言われている。
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奥戸の鬼塚
奥戸川中川に沿って下り、本奥戸橋に。橋を渡ると昔の奥戸町。奥戸はもと、奥津。津は湊。奥はよくわからない。本奥戸橋東詰に。中川にそって中川左岸緑道公園。少し進むと大きな工場。森永乳業。塀にそって東から南に進む。奥戸3丁目、南奥戸小学校の南に「鬼塚」。室町、江戸に渡って築造された塚。江戸時代にはお稲荷様をまつるため土を盛り、塚をつくりなおしている。塚のあたりからはハマグリといった貝殻の堆積も見られる。
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西井掘跡
西に進むとなんとなく川筋跡っぽい道筋。西井掘。葛西用水が新中川、これって昔は無かった川だが、この新中川にかかる細田橋あたりで分岐し南西に流れる一流。もうひとつ中井掘はまっすぐ南に下る。
西井掘跡を奥戸から東小岩地区に下る。東小岩3丁目あたりから緑道になっている。蔵前橋通りと交差。巽橋交差点。南に折れ平和橋通りを歩き、総武本線の南側に進む。

於玉稲荷

最後の目的地は新小岩4丁目にある於玉稲荷。線路にそった道を進み、適当に右に入りこみなんとか到着。由緒書:「当地は「小松の里」と呼ばれ、かつては徳川将軍の鷹狩の地でした。古地図で見ると、この地に「おたまいなり」の所在が記されていますが、古くは御分社でありました。当、於玉稲荷神社はこのゆかりの地に、安政2年の大震火災で焼失した神田お玉が池の社を、明治4年に御本社として遷宮したものです。 神田時代のお玉が池の稲荷神社の沿革については「江戸名所図会」神田之部所引の「於玉稲荷大神の由来」にも述べられているように、長禄元年 太田道灌の崇 敬をはじめ、寛正元年 足利将軍義政公の祈願、さらには文禄4年 伊達政宗公の参詣などが記されております」と。
於玉稲荷の後は JR 新小岩駅に戻り、本日の散歩終了。新小岩の由来は、駅名に「新小岩」という名前がお役人によってつけられたため。小岩は大嶋郷「甲和」>こいわ、から。葛飾区散歩もほぼ完了。後は昔の南綾瀬町を残すのみ。そのうちに。

金町からはじめ、柴又をぶらり、そして新宿地区に
今日は、柴又のあたりを歩く。古代、このあたりは「嶋俣里」と呼ばれていた。東大寺の正倉院に伝わる養老5年(721年)の「下総國葛飾郡大嶋郷戸籍」には当時の大嶋郷には甲和里、仲村里、嶋俣里の三つの里があると記されている。大嶋郷って、南は北十間川の川筋あたり、東は江戸川、北から西は中川から古隅田川に囲まれた沖積地帯。現在の葛飾区・江戸川区・隅田区の北半分である、と言われる。
甲和里は現在の小岩、仲村里ははっきりしないが奥戸あたりとか。で、嶋俣。これって、柴又のはじまりの地名、とか。嶋は砂州・微高地、俣は分岐点。湿地帯の中に小高い砂州があり、そのあたりに幾く筋もの流れがあったのだろうか。柴又となったのは17世紀から。
大嶋郷に住んでいた人は1191名。甲和里には44戸・454名、仲村里には44戸・367名。そして、嶋俣里には42戸・370名の計130戸・1191名が住んでいた、とされる。で、ほとんどの人は孔王部(あなほべ)姓。「孔王部 (小さ)刀良」(あなほべ とら)が7名、「孔王部 佐久良売」(あなほべ さくらめ)が2名。『男はつらいよ』の寅とさくら、はここからきている、であれば面白いが、そんなことはないだろう。ともあれ、寅さんの舞台、柴又から散歩に出かける。


本日のコース:ス: 常磐線・金町駅 > 矢切りの渡し > 柴又帝釈天 > 柴又八幡神社 > 小岩用水跡 > 京成高砂駅 > 青龍神社と怪無池 > 極楽寺・青砥藤綱 > 上下之割用水跡 > 新宿・「水戸街道石橋供養道標」 > 中川大橋・日枝神社 > JR亀有駅


JR 常磐線金町駅
葛飾散歩2回目。先回は金町から上に。今回は金町から下に向かう。JR 常磐線金町駅で下車。南に進み、金町3丁目あたりを江戸川堤に向かう。堤の手前に金町浄水場。広い。それもそのはず、日本で最大の浄水場。江戸川から取り入れた水を処理し、東京で使われる水の20%を供給している。

矢切りの渡し
江戸川の堤に。堤に登る。堤をのんびり歩き広い金町浄水場を過ぎると柴又。歌謡曲や伊藤左千夫の小説『野菊の墓』で名の知られた矢切の渡しがある。対岸の千葉県・松戸市に「矢切」地区がある。後北条・小田原北条家と下総里見家の国府台合戦のおり、里見方の矢が尽きた=矢切れ>矢切、が由来。この渡しは、農民のみの往来が許されていた、とか。柴又矢切の渡し公園あたりで堤を離れ柴又帝釈天に向かう。

柴又帝釈天
柴又帝釈天。映画「寅さん」で一躍有名になった日蓮宗のお寺。寛永6年(1629年)開草。帝釈天はバラモン教・ヒンドゥー教の武神インドラの神。元々は阿修羅とも戦った武勇の神であったが、仏教に取り入れられてからは慈悲深い仏法守護十二天のひとつとなった、とか。七福神の中の毘沙門天とも言われる。わかったようでいまひとつわかってないのだが、ともあれこの帝釈天がこのお寺の本尊。しかも、板に描かれたもの。そのうえ、親鸞上人が自ら刻んだというもの。
が、このご本尊、一時行方不明に。その後、安永8年(1779年)荒廃した寺院の修復をしているとき、偶然梁から板の「ご本尊」が見つかる。その日が庚申の日。で、安永に続く天明年間の天明の飢饉のとき、帝釈天の日敬上人、この人って板本尊をみつけた人なのだが、板本尊を背負って江戸や下総の国を歩き、功徳・布施を施す。江戸を中心にした帝釈天信仰が高まったのはこういった地道な活動のたまもの。
帝釈天では庚申信仰も盛んにおこなわれた。板本尊が出現したのが庚申の日でもあり、江戸末期に盛んになった「庚申待ち」信仰とも相まって、帝釈天への「宵庚申」参詣が盛んにおこなわれるようになったのだろう。
帝釈天のHPに次のような庚申参詣の記事があった:「明冶初期の風俗誌には「庚申の信仰に関連して信ぜらるるものに、南葛飾郡柴又の帝釈天がある。 帝釈天はインドの婆羅門教の神で、後、仏法守護の神となったが、支那の風俗より出た庚申とは何の関係もない、此の御本尊は庚申の日に出現したもので、以来庚申の日を縁日として東京方面から小梅曳舟庚申を経て、暗い田圃路を三々五々連立って参り、知る人も知らない人も途中で遇えば、必ずお互いにお早う、お早う、と挨拶していく有様は昔の質朴な風情を見るようである。」と書いてある。
続けて:「見渡す限りの葛飾田圃には提灯が続き、これが小梅、曳舟から四ツ木、立石を経て曲金(高砂)の渡しから柴又への道を又千往、新宿を通って柴又へ至る二筋の道に灯が揺れて非常に賑やかだったと言う事である。茶屋の草だんご等は今に至っている。人々は帝釈天の本堂で一夜を明かし、一番開帳を受け、庭先に溢れ出る御神水を戴いて家路についたのであった。」と。陸続と続く信心の人たちの姿が目に浮かぶ。
今も人で賑わう参道を歩く。上に挙げた明治の風俗誌にもあった、草だんごの店でお土産を買い求め、昔、子供の咳止めに買った飴屋さんをひやかしながら参道を進み京成柴又駅に。手前で線路を右に折れ、八幡神社に向かう。

柴又八幡神社

柴又八幡神社。神社の縁起よりもなによりも、この神社は古墳の上につくられている。昔から、古墳っぽい、とは言われていたようだが、発掘調査されたのは1975年の社殿改築の時。そのとき埴輪とか馬具などが見つかり、その後本格調査がおこなわれ、八幡神社古墳は古墳時代(6世紀後半)のものであるとわかった。現在はすべて埋め戻され、神社裏手に古墳記念碑「島(嶋)俣塚」が残っている。
平成13年の学術調査のとき、三体の埴輪が見つかった。そのうち一体は「寅さん埴輪」としてニュースにもなった。写真を見ると、帽子がいかにも寅さん。あのトレードマークの帽子とそっくり、である。発見された日が、寅さんこと、渥美清さんの命日であった。

埴輪もさることながら、気になったのは、この古墳で見つかった石室の石材。房州石と呼ばれる、安房の鋸山周辺の石である。この房州石、武蔵の国の各地の古墳で使われている。散歩で訪れた、埼玉・さきたま古墳群の将軍山古墳、北区・赤羽台古墳群、千葉・市川の法王塚古墳、南千住の素盞雄神社に鎮座する「瑠璃石」も房州石であった。埼玉や東京の 6 世紀後半〜7 世紀台の古墳の石室材としてこの房州石が使われている。ということは、そのころには既に、古い利根川筋をつかった河川舟運が行われていた、ということであろう。

小岩用水跡を越え高砂に
柴又八幡を離れ、先に進む。柴又1丁目と高砂8丁目の境あたりで小岩用水跡を越える。小岩用水は小合溜井を水源とする上下之割用水(かみしものわりようすい)が新宿(にいじゅく)地区で分水したもの。ちなみに上下之割用水は新宿からすこし下ったあたりで3つに分水し、東井掘、中井掘、西井掘として南に下った。
京成高砂駅に。高砂の地名の由来は、小高い砂州から、かな、と思ったのだが、昭和に町村合併のおり、縁起がいいということで、世阿弥元清の謡曲、婚礼の折の謡の代表局「高砂」から名づけたもの。「高砂や この浦舟に帆を上げて この浦舟に帆を上げて 月もろともに出汐の 波の淡路の島影や 遠く鳴尾の沖過ぎて 早、住之江に着きにけり 早、住之江に着きにけり」。いくつもの町村が合併するときによくあるパターン、であった。 (「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)

青龍神社と怪無池
高砂駅あたりをぶらぶらし、とりあえず中川の堤まで出ることにする。地図を見ると、高砂6丁目の「水道管橋」あたりに青龍神社と怪無池。名前に惹かれて進む。青龍神社はささやかな祠。昭和56年に神社が全焼したそうだ。で、この神社は榛名山の分霊とか。由来はあまりよくわからない。神社の横に怪無池。多くの人が釣りを楽しんでいた。この池は横の中川が決壊してできた池。名前の由来はいくつかある。怪我なし、とか「け」 = 飢饉なし、とか毛がないとか。が、どれもいま一つ。
で、自分なりの推論というか、空想。青龍神社 = 榛名山。であれば榛名あたりに怪無山ってないだろうか。あった。怪無 = 木無し。頂上付近に木々の無い山ってこと。榛名山と怪無山の関係が = 青龍神社と怪無池、といったなんらかの関係があった、と自分勝手に納得する。
極楽寺は鎌倉幕府の名裁判官・青砥藤綱ゆかりの寺、と
中川の堤を少し南に。京成線を越え、堤下に極楽寺。高砂橋からの道筋を東に。直ぐの交差点で北に。極楽寺は鎌倉幕府の名裁判官・青砥藤綱によってつくられた。国府台合戦で焼失・荒廃するも江戸になり復興し、門前に市がたつほど賑わった、とか。
藤綱は北条時頼、時宗の二代につかえた鎌倉武士。この藤綱って鎌倉散歩の時、滑川に架かる青砥橋の碑文で出会った人物。川に落とした十文銭の話で有名。碑文:「太平記に拠(よ)れば 藤綱は北条時宗 貞時の二代に仕へて 引付衆(裁判官)に列りし人なるが 嘗(かって)て夜に入り出仕の際 誤って銭十文を滑川に 堕(落)し 五十文の続松(松明)を購(買)ひ 水中を照らして銭を捜し 竟(遂)に之を得たり 時に人々 小利大損哉と之を嘲(笑)る 藤綱は 十文は 小なりと雖(いえども) 之を失へば天下の貨を損ぜん 五十文は我に損なりと雖(いえども) 亦(また)人に益す 旨を訓せしといふ 即ち其の物語は 此 辺に於て 演ぜられしものならんと伝へらる」、と。要は、川に落とした十文銭を拾うため、五十文のお金を使って松明を買いついに探し出す。人皆、「それって大損」、と。が藤綱は、十文が無くなるのは天下のお金を無くすこと。50文を失った、といってもそれは人のためになったわけだから、と人を諭した。このお寺に藤綱の墓がある、と言う。
上下之割用水跡を新宿に 極楽寺の東に天祖神社。再び線路を越え北に戻る。線路脇に観蔵寺。葛飾七福神のひとつ寿老人が。北に進む。怪無池の線路・新金線貨物線を隔てた丁度東あたりにいかにも川筋跡といった通り。上下之割用水跡であった。用水跡を北に。新金線貨物線を斜めに越える。用水跡は新宿(にいじゅく)にむかって先に続く。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)

新宿・「水戸街道石橋供養道標」

水戸街道と交差。昔、新宿橋があったよう。それよりもなによりも、昔はこのあたりは交通の要衝。江戸の地図を見ると、この新宿から西に水戸街道、佐倉街道、国分道、北に向かって原田道、小向道、それと新宿のちょっと中川寄りのところからは流山道が北へと分岐している。新宿は小田原後北条により、対岸の葛西城の町場として整備された。水戸街道をちょっと越えた用水跡に「水戸街道石橋供養道標」。
碑文をメモする。:「水戸・佐倉両街道の分岐点に立つ道標です。この地域の万人講、不動講、女中講の人々は、安永2年(1773年)から5か年を費やし27か所の石橋を架けま した。これはその供養のため、不動明王像と道標を、この町の石工中村左衛門に造らせたものです。当時27か所もの石橋を架ける事は、共同事業とはいえ大変 な大事業であったと思われます。また今は無くなってしまいましたが、この道標(竿石)のうえに不動像を安置していました。新宿町は水戸・佐倉街道の分岐にある宿場町で、千住から1里余り中川を渡りちょうどこの辺りで水戸街道は金町へ(水路に沿った道を左に)、そして佐倉街道は上小岩へと向かいます(現在の水戸街道を越えて右に入る)。
この佐倉街道は参勤交代に利用されただけでなく元禄(1688年)以降、民間の信仰が盛んに なると、成田山新勝寺や千葉寺参詣の道としても利用され、成田道、千葉寺道と呼ばれるようになりました 葛飾教育委員会」、と。

中川大橋
中川大橋手前に日枝神社。イチョウの大木で有名。元禄時代は山王大権現。元はもっと中川寄りの地にあったが、中川河川改修の折、この地に移る。中川大橋を渡る。川を渡れば昔の亀有村地区。金町・新宿地区散歩のメモはここまで。JR 亀有駅に向かい、家路へと。

金町駅から水元公園・小合溜井と中川堤をぐるっと一周し、金町駅に戻る

葛飾を歩く。先回、曳舟川跡を歩いていたとき、地図で水元公園を見つけた。水路の湾曲の具合が面白い。なによりも、その溜が「小合溜井(こあいたるい)」などと呼ばれる。いかにもなんらかの歴史を感じるような名前に惹かれた。
水元公園は小合溜井を中心とした水郷地帯、である。この小合溜井は江戸時代・享保14年(1729年)につくられた旧古利根川というか中川の遊水地。江戸川の増水時、ここに水を引き入れ、江戸の町を洪水から護るためにつくられた。また、普段は東葛西領50余カ村の水田を潤すための上下之割用水の水源。「水元」と水元公園いう名前の由来でもある。小合は室町時代の地名「小鮎」から。
古利根川とか中川とか、川が入り組みややこしい。ちょっと、まとめ:本来、利根川は江戸湾に流れ込んでいた。流路は現在の中川・旧中川とか江戸川(太日川)の流れといったところか。江戸時代になり利根川の東遷事業、つまりは、茨城県の銚子に流すように瀬替工事・治水工事がおこなわれた。結果、残された川筋、つまりは江戸に流れ込んでいた川筋、これを古利根川と呼ぶ。
古利根川といっても、河川工事が行われているわけもなく、もちろんのこと一筋ではない。いくつもの細流がわかれている。となれば、それぞれの流路は水量が減ってくる。そのため農民は堰を設け水田用の水を確保することに。これが溜井。亀有溜井といったものもあったようだ。
堰を設け、南に流れる水路を止める。堰き止められた水は、低くきを求めて東に流れ現在の太日川、現在の江戸川筋に合流した。小合溜井を通る川筋・小合川筋は、このようにしてできた古利根川の川筋であった。
宝永元年(1704年)、この古利根川が溢れた。太日川・江戸川の大増水により、古利根川に逆流した暴れ水が、八潮市と葛飾区の境、現在の大場川と中川の合流点あたりの堰(猿ヶ俣・八潮市大瀬間の締め切り堰)に押し寄せ、堤防が決壊。葛西領と江戸下町一帯が大水害に見舞われた。
この大洪水に懲り、江戸を洪水の被害から防ぐため、将軍吉宗の命により、享保14年(1729年)井沢弥惣兵衛の手によって治水工事が開始された。井沢弥惣兵衛は見沼通船堀、見沼代用水などを差配した治水・利水工事のスペシャリストである。小合川筋の古利根川は江戸川合流点手前で堰を設け溜井をつくった。これが「小合溜井」。
一方、猿ヶ俣・八潮市大瀬の堰以南の川筋、古利根川の細路・流路を開削し広い川筋を設けた。これが中川。正確には、中川とはこのあたりより下流を指すのだが、現在ではこれより上流も中川と呼ばれている。ちなみに、江戸川だが、もとは渡良瀬川の下流。太日川とも呼ばれ、利根川とは別の流れで江戸湾に流れていた。1641年には上流部で人工水路が開削され、利根川の水も取り入れて流れている。
ということで、葛飾散歩一回目は、水元公園からスタートし、葛飾と埼玉、葛飾と足立の境を区切る川筋を、ぐるりと一周することにする。葛飾区は昭和7年に東京府南葛飾郡の水元村、金町、新宿町、亀青町、南綾瀬村、本田町、奥戸村の7つの町村が合併してできたわけだが、今回の散歩は大雑把に言って、昔の水元村と金町巡りといったところか.。  (「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)
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本日のコース: JR常磐線・金町駅 > 葛西神社 > 金蓮院 > 半田稲荷 > 江戸川の堤・金町関所跡 > 松浦の梵鐘 > 南蔵院の「しばられ地蔵」 > 香取神社・「上下之割用水跡(うえしたのわり)」 > 閘門橋(こうもんばし) > 遍照院 > 葛西御厨神明宮 > 猿が又水神様 > 安福寺・飯塚の夕顔観音 > 富士神社・富士塚 > JR常磐線・金町

JR 常磐線・金町駅・葛西神社に

最寄の駅は JR 常磐線・金町駅。下車し線路に沿って東に進む。江戸川堤防近くに葛西神社。このあたり一帯の総鎮守。平安末期、葛西清重により香取神宮を分霊し創建された。江戸時代には徳川家康によりご朱印十石を受ける。葛西神社となったのは明治になってから。「江戸まつりばやし」のルーツといわれる「葛西ばやし」発祥の地でもある。ちなみに、葛西清重って、現在の隅田川と江戸川の間に広がる東京下町低地を開発し所領した葛西一族の重鎮。頼朝の覚え目出度く、後々奥州総奉行となる人物だ。

金蓮院
葛西神社を離れ西に進む。東金町3丁目に金蓮院。特段ここを目指していたわけではないのだが、鬱蒼とした森に惹かれてなんとなく訪れた。槙の大樹で有名。境内に愛染明王の像がある。愛染明王、って梵語で「ラーガ」。赤、とか愛欲って意味らしい。煩悩としての愛欲を、そのまま仏の悟りに変える力、愛欲煩悩即菩提をもつ明王である、と。

半田稲荷
先に進む。次の目的地は東金町4丁目にある半田稲荷。和銅4年(710年)鎮座の古刹。先日購入した『江戸近郊ウォーク』(安倍孝嗣・田中優子:小学館)の中に「半田稲荷詣での記」という記事があった。尾張徳川家の藩士・村尾嘉陵の散歩の記録である。そこには「尾張・紀州両藩の士、その他諸侯の士、江戸の町々、品川あたりの者などが、ここまで月詣でする、という」と書いてある。どんなところなのか、なんとなく気になっていた。
村尾嘉陵の日記にあるように、江戸名所のひとつ。歌舞伎、芸能界、花柳界、魚河岸を主とする講中も多く、月詣が盛んにおこなわれたよう。疱瘡、はしか、安産の神様。境内に神泉遺構。昔は湧水井戸だったとは思うが、現在は水はなし、井戸跡を囲む石柵には寄進者として市川団十郎の名も。ちなみに、この神社、尾張徳川家の立願所。現在の社殿も尾張家の寄進、とか。
それにしても、それにしても、である、この神社が何故また歌舞伎、花柳界などの贔屓を得るようになったのか。ちょいと調べてみた:時は昔、明和・安永の頃(1764 - 81年)、体中赤ずくめで「葛西金町半田の稲荷、疱瘡も軽いな、発疹(はしか)運授 安産守りの神よ。。。」と囃し江戸を練り歩き、チラシを配る変な坊主がいた。この坊主は神田在の願人坊主。半田稲荷のキャンペーン要員。この販促企画が大ヒット。この坊主が来ると、景気がよくなるとまで言われた。
この噂は上方まで伝わった。で、その人気に目をつけた市川団蔵が天明4年(1784年)、大阪角座で歌舞伎芝居として上演。明和2年(1765年)、江戸市村座にて中村仲蔵も上演。文化10年(1813年)には坂東三津五郎も願人坊主を演じ、大人気を博する。歌舞伎だけでなく、川柳で「股引と羽織で半田行く所」と読まれたり、長唄で歌われたりと、江戸庶民に深く「刺さった」ようだ。で、神泉遺跡に市川団十郎の名があったり、歌舞伎、芸能界、花柳界の贔屓を得るようになった、のだろう。飯塚の夕顔観音、渋江の客人大権現とともに葛西の流行神でもあった。

江戸川の堤・金町関所跡
半田稲荷を離れ、江戸川に沿って進む。葛西大橋、葛西橋への道筋とクロスし江戸川の堤近くに。堤の手前、下水道局東金町ポンプ所脇に金町関所跡。水戸街道が江戸川を渡るところに位置する江戸の東の関門。4名の関所番が常駐していたと。対岸の松戸との間は渡船が常備。将軍の小金原への鷹狩のときは川に高瀬舟を並べて臨時の橋とした、とか。

水元公園・「松浦の鐘」
金町関所跡から暗渠の上を水元公園に向かう。この暗渠は水元公園から江戸川への水路だろう。東乃橋、西乃橋、天王橋と進み水元公園に。水元公園は小合溜井(こあいたるい)を中心とした水郷風景が楽しめる都内唯一の公園。20万本の花菖蒲、都指定天然記念物オニバスがある。江戸前金魚展示場などを右手に見ながら公園に沿った道筋を進む。「松浦の鐘」。鐘だけが遊歩道というか道のど真ん中に。お寺がなくなり、危急時の早鐘として使われた、と。

南蔵院の「しばられ地蔵」
しばられ地蔵道路を少し離れて南蔵院に。八代将軍吉宗の頃、南町奉行大岡越前守の「大岡裁き」で有名な「しばられ地蔵」がある。たしかに荒縄でぐるぐる巻きに縛られていた。もとは本所にあったが、関東大震災のあと、この地に移ってきた。
縛られ地蔵のお裁き、とは:昔々呉服問屋の店員さんがお地蔵さんの前で、うとうと居眠り。大切な反物を置き引きされる。で、越前守曰く「面前での盗人を見逃すとは、不埒千万。即刻地蔵を召し取れ」と。お地蔵さんに縄を打つ。前代未聞の地蔵のお裁き。大挙集まった人々が奉行所・お白州にもなだれ込む。越前守曰く「お白州に踏み込むとはなんたる所業。罰金として反物を納めるべし」と。その反物の中に盗まれたものが。かくして、盗人を召し捕らえた、って話。わかたような、わからないようなお話。
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香取神社・「上下之割用水跡(うえしたのわり)」
香取神社道に戻り、先に進む。香取神社が。下小合村の鎮守。神社の前に南に下る川筋というか掘筋がある。「こあゆの小路」。小合溜井の外堀と内掘をつなぐ水路。勝海舟の書の「香取社」という扁額も。このあたりからなんとなく南西に掘っぽい筋が感じられる。これって「上下之割用水跡(うえしたのわり)」だろう、か。
上下之割用水は享保14年(1729年)、幕府勘定方井沢弥惣兵衛の手によりつくられ、現在の葛飾・江戸川区の中川より東側の耕地を灌漑した。橋を渡り、公園に沿って更に進む。桜並木が続く。「水元さくら堤」。八代将軍吉宗の江戸川治水工事の一つとして、小合溜の整備とともにつくられた江戸川の外堤防(二次堤)。堤の全長は約4キロ弱。ソメイヨシノ、山桜、八重桜などの桜が植えられている。
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閘門橋(こうもんばし)
東水元地区を進む。日枝神社。山王神社としてあったが、水元公園の工事にときに場所も移り、名前も変えた、と。熊野神社。境内にタブノキがある。先に進み東水元6丁目の閘門橋(こうもん)に。このあたりが水元公園の最西端。都内唯一のレンガ造りのアーチ橋。閘門とは、水位・水流・水量等調節用の堰のこと。江戸時代この辺りは古利根川(現在の中川)や小合川筋(現在の大場川、小合溜井)が入り組み、水はけの悪い、古利根川の氾濫地域。古利根川と小合川の逆流を防ぐためにこの閘門が設けられた。橋は、明治43年「弐郷半領猿又閘門」としてレンガ造りアーチ橋が造られる。後に、新大場川水門の完成により閘門としての役割を終えた。

大場川に沿って中川に

大場・中川合流閘門を離れ、大場川に沿って中川に向かう。大場川は現在の中川と水元公園をつなぐ3キロ弱の川。大場川も、もとはといえば中川。中川も、もとはといえば古利根川、ってことは上でメモしたとおり。
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遍照院
水元5丁目三叉路交差点で岩槻街道と交差。しばし川堤の道を離れる。南西に下る。遍照院。和銅元年に開かれたという区内最古の歴史をもつ。天文7年(1538年)の小田原北条氏と安房・里見氏の「国府台合戦」の際,伽藍焼失。以降、再建されたり、火災に遭ったり、水害に遭ったりと、いうのは諸寺院・神社の世の習い。少し南にくだり、水元神社を眺め再び大場川筋に戻る。

葛西御厨神明宮

西水元4丁目に葛西御厨神明宮。葛飾の名所・旧跡の指定地。とはいうものの、手入れの跡はない。由来書も案内もなにもない。葛西御厨の名前に惹かれてきたのだが、知らなければなんの抵抗もなく通り過ぎるだけのお宮、というか小さな祠。
葛西御厨って、葛西にある伊勢神宮の領地ってこと。平安時代末期から現在の隅田川と江戸川に挟まれた下町低地一帯を開発・所領した葛西一族の葛西清重が、領地のうち下葛西と上葛西の33郷、現在の葛飾区を中心とする地域一体を伊勢神宮に寄進した。それが葛西御厨。
神明社は伊勢信仰に由来するお宮。伊勢の内宮(天照皇大神)または外宮(豊受大神)を分霊したもの。もともとは皇室以外が伊勢の神様をおまつりすることなどできなかったようだが、財政難には抗しがたく全国各地に布教活動を始めた。で、各地の武将が神領を寄進し、その地に神明社とか神明宮とか神明神社とは太神宮といった名前でお祀りされた。
近世になって、庶民にも伊勢信仰が広まると、新田開発に際して、農業神である豊受神や天照大神を祀る神明宮が盛んに創建され、村の鎮守として機能していた、ということ、か。日本各地にある天祖神社は明治の神仏分離令のとき、神明社が改名したとことがほとんど、だ。

猿ケ又水神様
水神様神明宮を離れ、大場川と中川の合流点に。新大場川水門脇を通り中川に至る。西水元3丁目の土手道に猿ケ又水神様。小さな祠。なにも案内はなかったが、素朴ないい雰囲気ではあった。猿ケ又の由来は不明。川筋が3方向に分岐していていた、「三ケ又」から転化された、という説もある。
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安福寺・飯塚の夕顔観音

少し南に進み安福寺。飯塚村の名主・関口治左衛門が自宅近くの老松の根元から夢のお告げにより観音像と仏具を掘り出す。鎌倉時代の作とか。お堂をつくり夕顔観音としてお祀り。飯塚の夕顔観音として江戸の元禄年間は賑わったとか。安福寺におかれるようになったのは明治になってから。
何故「夕顔観音」か、よくわからない。が、どうもこのあたりとか、千葉に「夕顔観音」にまつわる話が多い。千葉介の祖である平良文も法名・夕顔観音大士。良文にまつわる夕顔観音塚もある、という。足立の瑞応寺に夕顔観音。千葉介の千葉常胤の娘、夕顔姫の菩提をとむらうお寺。
そもそもこの千葉常胤にも夕顔観音にまつわる「羽衣伝説」がある。天女の羽衣を見つけた武将、幾年か天女とともに暮らす。数年たち、天女は天上に戻る。が、武将がなくなったとき、天女地上に現れ、ともに天上の国に。そのとき、一粒の「夕顔」の種を落としていく。その種を拾った子供が種をまくと、すくすく育ち、中から観音さまが。「夕顔観音」と名付ける。この夕顔観音を護り本尊とした子供は大きくなり、立派な武将に成長。それが千葉常胤である、という。

富士神社・富士塚
富士塚先に進み、飯塚橋を越え富士神社に。立派な富士塚がある。明治12年に浅間山に土を持って作られたもの。飯塚の富士塚と呼ばれる。散歩をはじめて富士塚を結構沢山見てきた。が、ここの富士塚が今まででは最も立派。
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JR 金町駅
富士神社を離れ、中川を下る。三菱ガス化学の工場脇を進み、常磐線と交差。南側には線路に沿って道はない。少し南に下る必要がありそう。で、ガードの北に戻る。線路に沿って細い道が通る。北はまったくの更地。工場跡だろうか。本当に道が続くのかどうか少々不安。が、なんとなく大きな通りに出て一安心。道なりに進み金町駅北口に。本日の予定終了。
水元村と金町はほぼ歩いた。先日の曳舟川散歩は亀青町・本田町といったことろ。次回は金町から新宿町・奥戸町を歩いてみよう。

荒川地区よりはじめ、隅田川に沿って町屋地区から西の尾久地区へと進む

荒川散歩も3回目。日暮里、南千住地区を歩き、今回は中央部の荒川地区よりはじめ、隅田川に沿って町屋地区から西の尾久地区へと進む。
荒川地区はもとは三河島と呼ばれていたところ。歴史は古く、戦国期にはその名が登場する。三流の川があったとか、三河守がいたからとか、名前の由来はさまざま。この歴史のある三河島という名前が荒川に変わったのは、昭和36年になって、から。
町屋地区は地元で発見された板碑などから、室町期には既にこの地は開墾されていたとされる。町屋という名前が登場するのは江戸時代になって、から。

町屋の名前も諸説あり。文字通り、町屋があったから、との説がある。とはいっても、街道筋があるわけでもなく、?? 真土谷に由来する、って説もある。本当の土 = 洪積世の土が取れる谷 = 沢があったところ、と。屋 = 野、であり、真土野、とも言われるが、ともあれ、これは、待乳山( = 真土山)聖天さまの由来と同じである。入間川沿いの微高地に、川の流れによって堆積した土ではない、真の土=粘り気のある土があった、ということか。実際、この地の荒木田の土は、壁土や焼き物に重宝された良質の土であったという。この説に結構納得。
尾久も古い。室町期には既に「小具」として登場する。「越具」とも書かれる。「奥」とも書かれたので、江戸の奥、から来る、というのが地名の由来とも。それはないだろう、と。どうもよくわかっていない。
荒川区の名前の由来は荒川、から。現在荒川区の北を西から東に隅田川が流れるが、この川が「荒川」。隅田川となったのは昭和40年から。上流の岩淵水門より南東に下る人工の放水路が正式に「荒川」と命名されたため、もとももの「荒川」であった川筋が「隅田川」となったわけだ。荒川区が誕生したのは昭和7年。そのときは確かに荒川に沿った区であったわけで、至極普通な命名であったのだろうが、その荒川が「手元から抜け落ちる」などとは想像もしなかったのであろう。ともあれ、往時の名前を残す、「荒川地区」より散歩にでかける。




本日のコース: 都電荒川線・三ノ輪駅 > 隅田川堤 > ハンノキ山 > 荒木田の原 > 尾竹橋 > 尾久の原公園 > 小台橋 > あらかわ遊園 > 船方神社 > JR田端駅

都電荒川線・三ノ輪駅

地下鉄三ノ輪駅より、日光街道を越え、都電荒川線・三ノ輪駅に。近くの公春院横を北に進む。南千住警察署前に出る。少し広い道路。千住間道と呼ばれる。交差点を左折し西に進む。線路と交差。


隅田川の堤に
都電荒川線である。線路に沿って進むと、荒川自然公園に。線路から離れ、外周部を北に進み隅田川の堤に向かう。公園に続く三河島水再生センター外周部を廻りきったあたりから堤に出る。




ハンノキ山
隅田川を見ながら少し進む。京成線のガード。荒川五中前に。校門前に「ハンノキ山」の説明文。このあたり、隅田川が大きく湾曲する通称「マキノヤ」の下手、この中学校から先般の三河島水再生センターあたり一帯に、ハンノキが群生していた、と。
ハンノキは元々、湿原にある落葉喬木。ハンノキ山といっても山ではなく、平地の雑木林のことではある。が、歌川広重の描く、名所江戸百景「日暮里諏訪の台」にハンノキ山らしいとされる高木が描かれている。諏訪台といえば日暮里駅裏の台地。そこから見えるというのだから、結構の群生であり、「山」と言ってもいいくらいのボリューム感であったのであろう。


荒木田の原

先に進む。適当に左折。尾竹橋通り・荒木田交差点。江戸の昔は荒木田の原。一面の草原。『江戸遊覧花暦』に、「遊客酒肴をもたらしきたって興ずること、日の西山に傾くを知らず」と書かれるほどの行楽の地。荒木田近辺の畑の土は壁土、焼き物の土として珍重されたという。

尾竹橋
尾竹橋通りを北に進み尾竹橋に。この橋の名前を冠する尾竹橋通りは、足立区東伊興2丁目から荒川区をへて台東区根岸2丁目まで続く。尾竹の由来はこの橋の少し下流にあった、町屋と千住・西新井を結ぶ渡し、から。三軒茶屋(富士見屋・柳屋・大黒屋)があったので、「お茶屋の渡し」、と。また、茶店の看板娘にお竹さんがいたので、「お竹の渡し」とも。お竹>尾竹となったとか。

尾久の原公
川端には道がない。少し引き返し川より一筋南の道を進む。町屋6丁目、5丁目と進み「尾久の原公園」に。旭電化跡地にできた公園。企業撤退の後、跡地利用の決定に時間がかかっているうちに自然体系が回復し、結局その自然を活かす公園とすることになった、とか。「とんぼ」の生息地として広く知られるまでになる。川の堤防は工事用のフェンスで囲われ無粋ではある。が、道から「尾久の原公園」方面に目をやると、素晴らしい景観。地形のうねりを感じる。遠くに見えるのは上中里方面の高台だろう。

小台橋
先に進み「尾久橋通り」に。西日暮里と足立区舎人のあたりをつないでいる。尾久橋通りを越えて堤から一筋南の道筋を進む。尾久8丁目。華蔵院。寺子屋が開かれ、このあたりの教育の中心として機能した、と。先に進む。道の正面に宝蔵院。ぐるりと迂回し「小台橋」の通る道筋に出る。小台の由来は文字通り、「ちょっとした台地」。隅田川でもメモした「微高地」といったところか。昔、このあたりに「小台の渡し」とか「尾久の渡し」と呼ばれる渡しがあった。

あらかわ遊園
川に沿って歩く。少し進むと「あらかわ遊園」。名前はよく聞くのだが、どこにあるのか知らなかった。あらかわ遊園を越えると、荒川から離れ、北区になる。本日最後の目的地、船方神社に。

船方神社
船方神社。質素なお宮様。神亀2年(725年)にはじめてつくられた、とか。本殿右脇に「十二天塚」があることから、「十二社」と呼ばれていた。船方神社となったのは明治12年。言い伝えによれば、この地域の荘園主 豊島清元(清光)が、熊野権現に祈願してひとりの娘を授かる。その娘、足立少輔に嫁ぐことに。が、 心ない仕打ちを受け、荒川に身を投げる。姫に仕えていた十二人の侍女たちも 姫に殉じる。
で、十二天とは、この十二人の侍女のこと。と同時に帝釈天をはじめとする十二の神々とされる。密教では非業の死をとげた人を鎮魂するため塚など祭壇におまつりした。本殿右手の十二天塚がそれ。民間伝承と密教が合体したわけだ。
密教と強くむすびついた熊野信仰もまた、この民間伝承を神様へと昇華するスキームに合流する。熊野信仰では熊野三社とよばれる本宮・那智・速玉の三社は、それぞれの祭神を相互にお祀りし、併せて天照大神はすべての神社が祀りしたので、一社4神 × 3 = 12神>十二所権現、十二社、と呼ばれていた。熊野信仰が盛んだった荒川流域の村々では、悲しい次女たちの地域伝承と密教の十二天、そして熊野信仰の十二社が結びつき、船方村の十二天としてまつられた、ということだろう。
この伝承は江戸時代の中頃に流行した、六阿弥陀札所参詣の縁起の「ネタ」となる。侍女の数が変わったり、苛めた悪役が地域によって正反対になったりと(実際、川を隔てた足立区では、敵役が足立氏ではなく豊島氏になっていたように思う)、少々のあらすじは換わって入るものの、ストーリーはこの神社に伝わる伝承とほぼ同じ。「六阿弥陀嫁の噂の捨て所」と言われるように、江戸の庶民のリクリエーションとして六阿弥陀詣でが広まっていった。ちなみに、江戸六阿弥陀とは、一番・西福寺(北区豊島)、二番・延命寺(足立区江北)、三番・無量寺(北区西ヶ原)、四番・与楽寺(北区田端)、五番・常楽院(調布市西つつじケ丘)、六番・常光寺(江東区亀戸)、木余りの弥陀・性翁寺(足立区扇)、木余りの観音・昌林寺(北区西が丘)。木余り、木残りのなんたるかは、足立:中央部散歩でメモしたとおり。

JR 田端駅
船方神社を離れ、どこか最寄の駅を目指す。南に向かう道筋、あらかわ遊園からの帰りの客と一緒に。都電荒川線まで結構賑わう。西尾久5丁目と西尾久7丁目の境あたりを南に下る。明治通りにあたる。当初尾久の駅、へと思っていたのだが、これって東北本線。田端駅にむかうことに。尾久操車場、田端操車場を右に眺めながら明治通りに沿って南東に下る。田端新町3丁目交差点右折し、道なりにすすみ線路を跨ぐ新田端大橋をこえて JR 田端駅に到着。予定やっと終了。荒川もこれで一通り歩いたことになる。 
台東区の散歩の折、浅草から石浜神社に足をのばした。このあたりは台東区ではなく荒川区。荒川区って、大雑把に言って、北と東は隅田川、南は台東区と京浜東北線、西は京浜東北線の尾久辺り、というラインで囲まれた地域。
荒川区は散歩をはじめるきっかけとなったところでもある。田端とか西日暮里のあたり、京浜東北線にそって聳える崖線が気になり、「崖線のその先にあるものは」、といった好奇心から散歩が始まった。そのとき最初に訪れた田端の駅あたりは北区ではある。が、西日暮里駅東の道潅山台地一帯、「ひぐらしの里」と呼ばれる高台は荒川区だった。花見寺と呼ばれる妙隆寺・修性院、青雲寺、月見寺の本行寺、雪見寺として名高い浄光寺など、1年前の記憶がちょっと蘇る。
「ひぐらしの里」はさておき、今回は、荒川をどのコースから歩こうか、地図を眺めあれこれ考える。で、結論は、台東区散歩の折、時々顔を現した「音無川」の川筋を歩くことにした。名前がいかにも、いい。音無川の名前の由来は熊野の本宮大社前を流れる川の名前から。そもそも音無川の水源点とされる北区・王子が、熊野権現信仰の若王子(にゃくおうじ)権現の社(現在の王子神社)があったところであり、熊野信仰の社の前を流れる川 = 音無川、といったアナロジーでつけられた名前だろう。ともあれ、音無川を辿る。





本日のコース: 西日暮里駅 > 日暮里駅前 > 善性寺・「将軍橋と芋坂」跡 > 御隠殿橋 > 御行の松 > 根岸の里 > 三ノ輪

地下鉄千代田線・西日暮里駅
スタートは音無川が荒川区に入り込むあたり、西日暮里から始める。地下鉄千代田線・西日暮里駅下車。JR 西日暮里の東口に。音無川の川筋跡を探す。山手線に沿って、いかにも川筋跡といった雰囲気の道。確証はないのだが、道筋の揺れ具合、というかうねり具合が川の流れをイメージできる。音無川の水源は王子駅あたり。石神井川からの分水とのこと。
『新編武蔵風土記稿』によると、「王子村石堰より十間許上流にて分派し、飛鳥山下を流れ、西ヶ原、梶原、堀ノ内、田端、新堀、三河島、金杉、竜泉寺、山谷、橋場数村を経て浅草川に達す。其近郷二十三村に引注ぐ故、直に二十三ケ村用水と名づく」とある。
JR 王子駅南端辺りで京浜東北本線を横切り、次いで尾久に向かってカーブする東北本線を横切る。その後は、京浜東北線に沿って南に向かい、尾久操車場と田端操車場の間を流れ、西日暮里の駅前に出る、ってのが大体の流路、である。 (「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)


日暮里駅前
川筋跡を南に進む。京成線のガードをくぐり常磐線の踏み切りを越える。道なりに進むと直ぐに日暮里駅前。次の目安は善性寺。このお寺の前に音無川に架かっていた「将軍橋」跡が残っている、と。例によって駅前の案内図で場所を確認。はっきりした案内図ではなかったので、結構道に迷う。駅前をぐるぐる廻り、結局駅の中にある案内図で再度確認し、再び善性寺に向かう。結局は京浜東北線に沿った商店街の道筋を進めばよかった。日暮里の由来は、新しい堀を穿った地、と言うことではあったが、後に、高台からの日暮れの眺めが如何にも素晴らしい、ということから日暮の里、とした、と言われる。

善性寺
門前に「将軍橋と芋坂」跡の碑が。このお寺は六代将軍家宣の生母がまつられて、将軍ゆかりの寺となる。後に家宣の弟がここに隠棲。ために将軍の御成りがしばしばあり、門前の橋を将軍橋と名づけた、と。
善性寺の向かいに羽二重団子の看板を掲げた和菓子屋。文政2年(1819年)上野寛永寺出入りの植木職人庄五郎が芋坂下と呼ばれたこのあたりで団子屋を開く。羽二重のようにきめの細かい団子が評判となる。屋号「羽二重団子」として今に続いている。
明治には泉鏡花とか正岡子規もこの店に出入りしたよう。子規の呼んだ句:「芋坂も団子も月のゆかりかな」「名月や月の根岸の串団子」。漱石の『我輩は猫である』にも、芋坂と団子屋が登場する:「行きましょう。上野にしますか。芋坂(いもざか)へ行って団子を食いましょうか。先生あすこの団子を食った事がありますか。奥さん一返行って食って御覧。柔らかくて安いです。酒も飲ませます」と例によって秩序のない駄弁を揮(ふる)ってるうちに主人はもう帽子を被って沓脱(くつぬぎ)へ下りる。吾輩はまた少々休養を要する。主人と多々良君が上野公園でどんな真似をして、芋坂で団子を幾皿食ったかその辺の逸事は探偵の必要もなし、また尾行(びこう)する勇気もないからずっと略してその間(あいだ)休養せんければならん。」、と。
江戸切絵図を見ると、芋坂を下りたところに「植木屋」の文字がある。また、善性寺ではなく「善光寺」と書かれていた。ちなみに、この場合の「芋」は自然薯、のこと。昔はこの辺りで、山芋が採れたのであろう。

御隠殿橋
おみやげの団子を買い求め先に進む。尾久橋通りとの交差する手前に「御隠殿橋」の説明文。台地上にあった上野寛永寺門主・輪王寺宮の隠居所から坂道を下ったところにあった橋。昭和8年頃に音無川が埋められ暗渠となった、とのことである。輪王寺宮とは江戸時代の門跡のひとつ。皇族が門主をつとめる寺院のこと。天海僧正開山のこの上野寛永寺も三代目から代々、皇族がその門主となり、13代に渡り、比叡山延暦寺、東叡山寛永寺、日光輪王寺の3山を統轄した。

御行の松
次の目標は「御行の松」。川筋は荒川区と台東区の境に沿って進んでいたよう。川が行政単位の区切りとなることはよくあること。区境の町名、台東区の根岸・荒川区の東日暮里を跨ぐつもりで歩を進める。
尾久橋通りを少し南に。竹台高校前交差点あたりから、いかにも川筋跡っぽい道が西に。左折し進む。尾竹橋通りと交差。東日暮里4丁目南交差点。細い道が西に続く。東日暮里4丁目22の辺りで北に。実際は、直進し完全に根岸、つまりは台東区に入ってしまったため、慌てて引き返した次第。少し進むと西方向に曲がる。突き当たりにお寺っぽいものが。お不動さん。そこが「御行の松」跡。
江戸名所図会に描かれている松は、大層立派。大正年間も天然記念物の指定を受けたほど。樹齢350年。高さ13m、幹の周り4.6mの堂々とした松であったよう。その松は枯れ現在は3代目である、とか。江戸名所図会に見る音無川はそれほど大きくはない。幅は2mから3mといったところ。小川といった風情ではある。江戸名所図会で見ても、江戸切絵図を見ても、周囲はまったくの田地である。

根岸の里
「根岸の里の侘び住まい」、というフレーズを良く聞く。根岸の里って、この御行の松のあたり一帯のことだろう、とは思う。根岸の名前の由来は、上野のお山の「根もと」にあり、沼地・田圃の水際だった、ということ。江戸名所図会によれば、「呉竹の根岸の里は、上野の山陰にして幽趣ある故にや、都下の遊人多くは、ここに隠棲す、花になく鶯、水にすむ蛙も、ともにこの地に産するもの其声ひとふしありて、世に賞愛せられはべり」と。根岸は、上野の高台を控え、(音無川の)豊かな流水に恵まれた閑静な地で、だから鶯や蛙の声もよそとは違うと、いった意味。
この風光明媚な地をめでて文人墨客が根岸の里に「別荘」をもつ。文人墨客だけでなく大店の寮(別荘)も。浅草の橋場とともに江戸の二大別荘リゾートであった。とはいうものの、文化文政の頃の戸数はわずか230戸。確かに「侘び住まい」の雰囲気であろう。

三ノ輪
東日暮里4丁目と根岸4丁目、つまりは荒川区と台東区の境を進む。くねくねと小刻みに蛇行を繰り返す。日暮里駅前から昭和通に続く結構広い道路にでる。このあたり、東日暮里2丁目と根岸5丁目の境道あたりまで来ると、道幅も広くなる。昭和通と平行に北に東日暮里1丁目を進み明治通りと交差。明治通りを越え、常磐線のガードの手前を東に進むと、日光街道と交差。
道の東側に三ノ輪橋の碑。「石神井川の支流として分流した音無川にかけられていて、長さ10m程、幅6m程あった」と。音無川はこのすぐ裏にある浄閑寺、吉原の遊女の投げ込み寺からから二手に分かれ、ひとつは思川として明治通りから橋場そして隅田川、もう一方は山谷掘として日本堤に沿って下り、今戸のあたりで隅田川に注ぐことになる。三ノ輪は「水の輪」に由来する、とか。地下鉄の三ノ輪駅に向かい、本日の散歩終了。

南千住から汐入地区を辿り、三ノ輪に戻る荒川散歩の2回目は千住、そして汐入地区。荒川区の東部一帯である。千住って地名は折に触れてよく聞く。メモをはじめわかったのだが、千住は隅田川を隔てて北と南に分かれる。北千住、もっとも北千住って地名はないようだが、隅田川の北の千住は足立区。隅田川南の南千住が荒川区、であった。
往古、南千住は交通の要衝であった。とは言うものの、この場合の南千住は、現在の千住大橋近辺というより、先般の浅草散歩でメモした白髯橋近辺、橋場の渡し・白髯の渡しのあたりではなかろうか。
鎌倉から戦国期の地図を見ると、鳥越から砂州に沿って石浜のあたりまで東海道が通り、この渡しを超え市川の下総国府につながっている。武蔵野台地と下総台地のもっとも接近したところであり、交通の要衝であったのもごく自然なことである。すぐ近くには古代の海運の一大拠点・浅草湊もあるわけで、交通だけでなく商業・宗教。軍事拠点であったわけだ。
戦国期の南千住のあたりの地図を眺めてみると、浅草から橋場・石浜に隅田川(当時は、入間川)に沿って砂州・微高地がある。同様に、現在の千住大橋・素盞雄(スサノオ)神社近辺にも砂州が認められる。が、その内側は千住大橋から三ノ輪を結ぶ線より東は入り江状態。その線より西は三河島のあたりまでは泥湿地帯となっている。源頼朝が浅草・石場から王子へと平家討伐軍を進めるに際し、小船数千を並べて浮橋とした、というのも大いにうなずける。江戸以前、南千住の一帯は、入間川(隅田川)沿いに堆積した砂州を除き、ほとんどが水の中・湿地帯であった、ということだ。
本日の散歩をはじめる千住大橋近辺も古くから開けたところである。戦国期の地図を見ると、入間川沿いの砂州・微高地に飛鳥社が見て取れる。飛鳥天王社、現在の素盞雄(スサノオ)神社であろう。この神社は古墳跡とも言われる。
周囲を川と湿地・汐入の入り江で囲まれた「浮島」のようなこの千住大橋近辺が、橋場・白髯地区にとって替わり、交通の要衝となったのは、まさしく千住大橋が作られて以降であろう。文禄3年(1594年)のことである。この橋ができて以降、従来は橋場・石浜から下総へと延びていた佐倉街道、奥州街道・日光街道、水戸街道は、この千住大橋経由にシフトした。以降、宿場町として賑わいをみせることになる。ちなみに千住の名前の由来は、川の中から「千手」観音が出てきた、とか、千寿姫にある、とか、「千」葉氏が「住」んでいたから、とか、例によってあれこれ。ともあれ、散歩にでかける。





本日のコース: 三ノ輪 > 百観音・円通寺 > 素盞雄(スサノオ)神社 > 荒川ふるさと文化館 > 誓願寺 > 熊野神社 > 千住大橋 > 日枝神社 > 胡録神社 > 水神大橋 > 回向院 > 小塚原刑場跡 > 日光街道

百観音・円通寺
三ノ輪橋跡より日光街道を北に、千住大橋に向かって進む。道の左手に百観音・円通寺。延暦10年(791年)、坂上田村麻呂の開創とか。また、源義家が奥州平定の際、討ち取った首を境内に埋めて塚を築く。これが小塚原の由来、とも。江戸時代、下谷の広徳寺、入谷の鬼子母神、簔輪の円通寺、この三つのお寺を下谷の三寺と呼ぶ。秩父・坂東・西国霊場の観音様を百体安置した観音堂があったため、「百観音」とも。
境内に上野寛永寺の黒門が。上野のお山でなくなった彰義隊の隊士をこのお寺の和尚さんが打ち首覚悟で供養した。官軍に拘束されるも、結局埋葬・供養を許される。そうえいえば、京都散歩のとき、黒谷金戒光明寺にあった会津小鉄のお墓。鳥羽伏見の戦いでなくなった会津の侍を命がけで埋葬。坊さんと侠客と、少々キャラクターは異なるが、その話とダブって見える。

素盞雄(スサノオ)神社

少し先に、素盞雄(スサノオ)神社。「てんのうさま」とも。スサノオのことを牛頭天王(ごずてんのう)とも呼ばれるからだろう。朝鮮半島の牛頭山に素盞雄(スサノオ)が祀られていることに由来する。日本神話の神様・素盞雄(スサノオ)って、朝鮮半島の神様である、ということ。
この神社、石神信仰に基づく縁起をもつ。延暦14年(795年)、石が光を放ち、その光の中から素盞雄命と事代主命(ことしろぬしのみこと)が現れて神託を告げる。その石を瑞光石と呼ぶ。光の中から出現した二神が祭神。
散歩の折々、石を神として祀る神社も時々出会う。石神井神社、江東区亀戸の石井神社、それと先日歩いた葛飾立石の立石様、といったもの。石といえば、この素盞雄(スサノオ)神社の石は、千葉県鋸山近辺の「房州石」であり、この石材は古墳の石室に使われる。よって、素盞雄(スサノオ)神社って古墳跡では、とも言われている。

荒川ふるさと文化館
神社の裏手に「荒川ふるさと文化館」。例によって、常設展示目録、企画展資料・「川と川」、「ひぐらしの里」といった資料を購入。

誓願寺
文化館を離れ千住大橋の袂に。誓願寺。奈良時代末期、恵心僧都源信の開基と伝えられる。源信といえば、『往生要集』(985年)。地獄・極楽を描き出し、ゆえに極楽浄土への往生をすすめる浄土教基礎を確立した人物。恵心は叡山で学んでいたときの道場名である。
境内には親の仇討ちをした子狸の「狸塚」。お寺の隣にあった魚屋の魚が無くなる。不審に思った近所の人たちがウォッチ。古狸の仕業。で、打ち殺す。その夜から、魚屋の魚が宙に浮く。祈祷師に見てもらうと、子狸が親の敵討をしていた、といった按配。ちなみに先日の隅田散歩での多門寺にも狸塚が、あった。狸塚って、結構多い。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)


熊野神社
誓願寺の近く、民家に囲まれたところに熊野神社。入口に門があり鍵がかかっているような、いないような、ということで中に入るのは遠慮し、外からちょいと眺める。創建は永承5年(1050年)。源義家の勧請によると伝えられる。千住大橋を隅田川にかけるにあたり、関東郡代・伊奈忠次は成就祈願。橋の完成にあたり、その残材で社殿の修理を行う。以後、大橋のかけかえ時に社殿修理をおこなうことが慣例となった。
神社のあたりは材木、雑穀などの問屋が立ち並ぶ川岸。奥州道中と交差して川越夜舟、高瀬舟がゆきかい、秩父・川越などからの物資の集散地としてにぎわった。秩父の材木は筏に組んで流され、千住大橋南詰めの三王社前で組み替え、深川方面に運ばれた。ために、このあたりは材木屋が立ち並んでいた、とか。

千住大橋
千住大橋。荒川ふるさと館で仕入れた「常設展示目録」をもとに、メモする:文禄3年(1594年)、家康の命により、伊奈忠次が総指揮。万治3年(1660年)に両国橋が架けられるまでは「大橋」と。奥州・日光方面への入口として交通・運輸上の要衝。橋を渡ると足立区。

ともあれ、千住大橋の南北に広がる千住宿は、江戸四宿のひとつ。日光道中の最初の宿駅。参勤交代や将軍の日光参詣など公用往来の重要な継立地。橋の南の小塚原町、中村町は「千住下宿」として諸役人の通行や荷物搬送のため人馬を提供。奥州方面への玄関口として街道筋がにぎわい、荒川を上下する川舟の航行が盛んになると、さまざまな職業の店が立ち並ぶ宿場町を形成」、と。i

日枝神社・旧砂尾堤土手の北端

千住大橋を少し東に。日枝神社。入口に歯神・清兵衛をまつる祠。千住の歯神、とも。どこかの藩の清兵衛が歯の痛みに耐えかねてこの地で切腹、といったエピソード。が、それよりもなによりも興味があるのは、このあたりが旧砂尾堤土手の北端である、ということ。

砂尾堤土手とは、荒川の氾濫に備えて築かれた堤。昔の地図を見ると、この神社あたりから東に伸び、現在の隅田川貨物駅あたりの東端を南に下る。よくわからないが、南端は明治通りのあたりだろうか。氾濫する隅田川の水をこの堤で防ぐ。この堤を越えた水はその南、東西に続く日本堤で防ぎ、ふたつの堤で増水した水を絞り込んで隅田川に再び流し込んでいた、のだろう。ちなみに、「汐入堤」とも呼ばれるこの堤は石浜の土豪・砂尾長者が築いたとか。

胡録神社
日枝神社から東に進む。常磐線・つくばエクスプレスのガードを越え、東京地下鉄千住車庫に沿って進む。その先は汐入地区と呼ばれる。このあたりまで満潮時には海水が隅田川を上ってきていたのだろう。「川の手新都心構想」のもと、都市整備が進んでいる。次の目的地、「胡録神社」もそのど真ん中にあった。都市開発に際して、元の地から50mほど、境内全体を移設、というか「曳き家」をおこなった、と。



この神社に来たのは、名前に惹かれたから。荒川とか足立に多く見られるローカルな神社ではあるらしい。千葉の野田にも三社あると言う。胡録の由来はよくわからない。「胡」粉+第「六」天、の合成といった説もある。胡粉はかきがらを石臼で粉にした装飾材料。このあたりは汐入の入り江であり、カキガラも多くあっただろうし、それはそれなりに納得感はある。が、それに第「六」天の「六」が転化、といった論の展開の瞬間に??、と相成る。また、胡録神社はここだけでない。ために、この地特有であるカキガラを根拠とした推論が、どの程度一般化できるものか、少々心もとない。また、胡録は弓の武具の呼称である、という説もある。ともあれ、よくわからない。
ちょっと見方をかえて推論、というか空想。胡録神社、って「神社」という名前になったのは、明治になってから。それ以前の名前は、とチェックする。第六天の社、と呼ばれていた。どこの胡録神社もそのようである。この第六天、新編武蔵風土記稿によれば武蔵には各村に1社ある、といったほどの多かった、とか。その多くは江戸初期に土地を切り開いていった農民が祀ったもの。神社が隅田川から江戸川の間に多いのもうなずける。
その開墾農民であるが、指導者には帰農した元武士も多かったよう。で、第六天であるが、織田信長が自らを第六天魔王、と称していたほどである。当然のこととして、武士の間で信仰されていたと考えてもそれほど不思議ではないだろう。ということは、帰農武士とともに、第六天魔王信仰が広がっていたのであろう。事実、この胡録神社もはじまりは、川中島の合戦の後、この地に逃れてきた上杉の家臣高田、杉本、竹内氏が其の守護神をまつる祠をつくったことはじまると、いう。
で、この守護神、第六天魔王であれば、これで推論はおしまいであるのだが、その守護神は面足尊(おもだるのみこと)と惶根尊(かしこねのみこと)の両神、とのこと。「体の整いたる神、国の整いたる神」である面足尊(おもだるのみこと)と惶根尊(かしこねのみこと)は、天地開闢の7代の神様のうちの6代目の神様。初代国常立尊(くにのとこたちのみこと)からはじまり、七代伊弉諾尊(いざなぎのみこと)・伊弉冉尊(いざなみのみこと)で終わる 神代七代と言われる神々の六代目、つまりは第六天神、ということになる。それはそれなりに理屈に合うのだが、第六天魔王との関係が気になる。
これまた根拠のない空想ではあるのだが、神様の第六天神と仏様の第六天魔王が、なんとなく字面、語感が近く、江戸期には「理論武装」され神仏習合していたのか、はたまた、明治の神仏分離に際し、それまで「第六天魔王」で通してきたものが、急に神様を必要とし、第六の天神である上記神々を引っ張り出したのが、さてどちらであろう。なんとなく後者、といった感じもするのだが、根拠なし。寄り道が過ぎた。先に進む。

回向院
汐入地区をブラブラ歩き、隅田川が湾曲し南に下るあたりまで進む。水神大橋の西詰あたりで折り返し、汐入公園あたりを通り JR 常磐線・南千住駅に向かう。次の目的地は回向院と小塚原刑場跡。吉野通りと常磐線が交差する手前に回向院。鉄筋のお寺。イメージとは大いに異なる。このお寺は本所回向院の住職が行き倒れの人や刑死者の供養のために開いたお寺。安政の大獄で刑死した橋本左内、吉田松陰、頼三樹三郎ら多くの幕末の志士が眠る。毒婦・高橋お伝も。明和8年(1771年)、蘭学者杉田玄白・中川淳庵・前野良沢らが、小塚原の刑死者の解剖に立会ったところ。
小塚原刑場跡 小塚原刑場は、はてさて。地図でみると、線路のど真ん中。どうなっているのやら、と、とりあえず常磐線を越え、日比谷線のガードをくぐり、隅田川貨物線の線路を跨ぐ陸橋に上ろう、としたときに、右手にささやかな入口。そこが小塚原刑場跡(延命寺)。正面には大きな首切り地蔵が。刑死者をとむらうため寛保1年(1741年)につくられた、と。ともあれ、刑場跡は常磐線と隅田川貨物線の線路群に囲まれた「三角州」に、かろうじて残っていた、という状態であった。

日光街道
刑場跡を離れ、回向院脇の道を常磐線に沿って西に進む。途中、とほうもない行列のつづく店が。あまり食べ物に興味がないのではあるが、さてなんのお店であったのだろう、とは思いながらも先に進み日光街道に戻る。あとで調べてみると、「尾花」さんという鰻屋さんであった、よう。今回の散歩はここで終了。

江東区散歩も最後のエリア。区内では最も古い地帯。とはいっても、江戸以前は江東区はここ以外の地帯は湿地帯。この亀戸のあたりが臨海部、というわけで、砂洲状の微高地や入り江が入り組んだ地帯であった。亀戸の名前はこの島が、小さな亀の形をしていたとか、海浜に面した港(津)であったとか、飲料用の井戸があったとか諸説、あり。ともあれ、「亀島」「亀津」「亀津島」「亀井戸」などと呼ばれたことに由来する。室町時代の地図に「亀島」「亀井戸」といった地名が見える。中世にまで遡る寺社も多い、幕府の直轄領に歩を進める。

埋め立ての歴史(江東区発行の『江東区のあゆみ』より);
正保年間(1644年から);柳島・小梅・押上(亀戸1・2・3丁目)




本日のルート: 総武線・亀戸駅 > 横十間川 > 亀戸水神通り・水神社 > 香取神社 > 神明宮跡 > 北十間川・天祖神社 > 横十間川・龍眼寺 > 亀戸天神

総武線・亀戸駅から横十間川に
総武線・亀戸駅で下車。総武線に沿って西に横十間川まで戻る。川に沿ってすこし北に。道脇に亀戸銭座跡。江戸時代の通貨鋳造場のあったところ。寛永通宝をつくっていた。そのすぐ北に日清紡績創業の地の碑。陸軍被服工廠などを経て、現在はスポーツ施設とかマンションに様変わりしている。
蔵前通りまで進み天神橋東詰めを右折。明治通の交差点まで進み右折。すこし南に下り、左折。亀戸水神通りを東に進む。

亀戸水神通り・水神社
亀戸水神通りを進み、東部亀戸線・亀戸水神駅の手前に「亀戸水神社」。道の脇にこじんまりした神社。このあたり海に近く低湿地帯。その開墾に際し、水害からこの地をまもるため作られた。神社の案内書によれば、堤防の突端に、まわりの地面より高く石垣をつくり石祠が祭られた。ついでながら、水神さんと祇園さんは関係あるらしい。
それにしても神社の構えの割には神社の名前のついた通りや小学校があったりと、なんとなく気になる神社。室町時代の古地図にも「水神社」って記述があるし、昔はもっと大きな構えだったのだろうか。チェックする。創建は16世紀の享保年間、というから室町幕府12代将軍・足利義晴の頃。結構古い。奈良県吉野の丹生川上神社を勧請したもの。祭神は弥都波能売神(ミズハノメノカミ)という水を司る女神さま。朝廷からの信仰も篤く、社格高い「明神」号をもつ社であった。社殿は昭和20年の東京大空襲で焼失した。

蔵前通りの北を明治通りに戻る
少し北に進み蔵前通りを越えると常光寺。亀戸の七福神のひとつ寿老人が祀られている。西に進むと石井神社。石神社と呼ばれたとも。民家の間に挟まれて少々窮屈な感じ。油断すると見過ごしてしまいそう。おしゃもじ様と言われ、咳の病を治す神社として信仰を集めた。おしゃもじを神社から借り、効果あればふたつにして返すのがルール。境内にいくつかのしゃもじがあった。この神社の神体は石棒。石の神様=しゃくじん>しゃくし>杓子=おしゃもじに繋がる。ついでに、「しゃくじん」、を「せきじん」とよぶこともあり、せきじん>咳き>咳の病に効く、といあいなる次第。ちなみに、都内で石を神体とするのは、いつか散歩したちきにであった石神井神社、葛飾区立石の熊野神社、豊島区西巣鴨の正法院の石神、板橋区仲宿の文殊院の石神などがある。西に進み、明治通りの手前に東覚寺。亀戸の七福神の弁財天が祀ってある。通りを隔てた西に香取神社がある。

香取神社
明治通りに。北に向かってすこし進む。香取神社。天智天皇4年(665年)創立。藤原鎌足が「亀の島」に船を寄せ、香取大神を勧請し旅の安全を願った。以来、亀戸の総鎮守。平将門の乱を平定した藤原秀郷が戦勝の返礼として弓矢を奉納。その故事にちなみ勝矢祭りがおこなわれるといった由来書。祭神は経津主(フツヌシ)。アマテラスの命を受け、まつろわぬ民を平定した、ということで武門の神様として信仰されてきた。
本宮は千葉県佐原市にある上総一ノ宮の香取神宮。経津主(フツヌシ)神を祭神とするこの神社は「古利根川東岸」、つまりは埼玉県東部、東武日光線沿線東側、もっと具体的には、埼玉県東部の春日部市、越谷市、三郷市、千葉県野田市、柏市、東葛飾郡に数多く分布している。ついでのことなので、鈴木理生さんの『幻の江戸百年』に書いてあった祭祀圏、平たく言えば神様の勢力圏について概略をまとめておく。 香取神社は上にメモしたように、上総の国、つまりは隅田川の東、川筋で言えば古利根川に沿って数多く分布している。隅田川の西、つまりは武蔵野国にはまったく無いといってもいいほど。一方、武蔵の国、つまりは隅田川の西、埼玉県や東京を中心におよそ230社も分布しているのが氷川神社。本社は大宮にある武蔵一ノ宮の氷川神社。川筋でいえば少々大雑把ではあるが荒川・多摩川水系といってもいいだろう。
これほどきっちりと分かれているということは、それぞれの地域はまったく別系統の人々によって開拓されたといってもいい、かと思う。香取神宮の神様は経津主(フツヌシ)。『日本書紀』によるとフツヌシとはアマテラスの命を受け天孫降臨の尖兵として、タケミカヅチ神とともに出雲の国へ行き、大国主命に国譲りをさせた神様。沼を隔てて鎮座する茨城県鹿島市の鹿島神宮の祭神・タケミカズチの神と同神とされる。アマテラスの尖兵といったことであるから、大和朝廷系・有力氏族とかかわりの深い神さまの系統であるのだろう。本来は物部系の氏神。物部氏の勢力が衰えて以降は中臣・藤原氏が氏神とする。ちなみに、由来書の藤原鎌足が勧請した、とのくだりは、香取=中臣・藤原氏の深い関係を示唆するもので、実際にこの地にきたかどうか、とは関係ない、かも。
一方の氷川神社。祭神はスサノオノ命。考昭天皇の代に出雲大社から勧請された。「氷川」とは出雲の「簸川(ひのかわ)」に由来するとも言われる。大和朝廷に征服された部族の総称=出雲族系統の神様である。ついでのことながら、東西にくっきり分かれる氷川神社と香取神社の祭祀圏の間に分布する神様がいる。つまりは、そういった神様を祭る部族がいる、ということ。その神様は「久伊豆神社」。元荒川と古利根川の間に100社近くが分布している。祭神はスサノ須佐之男直系の「大己貴命」というから氷川系に近い部族であるのだろう。この「久伊豆神社」の祭祀圏はほとんどが河川の氾濫によりできた沖積地帯。台地上の立地は既に氷川さんとか、香取さんに占拠されている、ということであろから比較的新しい時代の開拓民の集団であったのだろう。本社は不明である。 (「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)


香取神社の近くに普門院・神明宮跡
香取神社を離れ南西方向のすぐのところに普門院。亀戸の七福神のひとつ毘沙門天が。そうそう、香取神社にも亀戸の七福神のうち恵比寿神と大黒神があった。北に進み入神明宮跡を探す。なかなか見つからない。あきらめかけた頃、ひょいと顕れる。民家に囲まれた駐車場の脇に碑文があるだけ。由来書によれば、昔この地は海上に浮かぶ小島。往来する船の安全を祈ってこの宮を勧請。明治40年に土錘(魚網のおもり)が出土。昭和62年に、香取神社に合祀された、と。近くに梅屋敷跡があるはず。が、見つからなかった。

北十間川・天祖社
北十間川に沿って北西方向に。すぐ天祖神社。推古天皇の頃(593〜628年)の創建と伝えられる。亀戸の七福神の福禄寿が。天祖神社は、もともとは伊勢信仰の社であった、神明宮が明治の神仏分離令の折に、天祖神社と改名したところがほとんどである。

横十間川・龍眼寺
横十間川を南に下る。龍眼寺。品のいいお寺さん。亀戸の七福神のひとつ布袋尊が祭られている。このお寺、元禄の頃から萩を全国から集め幾千株にしたことから、別名萩寺とも呼ばれる。文人墨客多数訪れたのだろう。平岩弓枝さんの『御宿かわせみ』にも登場していた。

亀戸天神
南に下って亀戸天神に。寛文2年(1662年)大鳥居信祐が天満宮を勧請。梅と藤の名所。言わずと知れた学問の神様。中江兆民の碑をはじめ多くの筆塚もある。なかでも気になったのが塩原太助奉納の灯篭。灯篭に興味があるわけでなく塩原太助のこと。どこで覚えたのか定かではない。が、子供のころに読んだ本に出ていたのだろう。愛馬との別れの話だったのか、親孝行の、といったコンテキストだったのか、それもで覚えていない。で、調べてみた。
江戸で生まれたが故あって育てられる。16歳になって、江戸にでて独立の決心。愛馬「あお」との別れ。一時は大川に身を投げよう、ともした。が、通りかかった薪炭商山口善右衛門に助けられる。一念発起。努力をかさね「本所に過ぎたるものが二つあり、津軽大名、炭屋塩原」と言われるまでの豪商となった、とか。 今回で江東区散歩はおしまい。下町低地・埋め立ての歴史散歩は、次は隅田区に。

木場一帯が埋立てられたのは、明暦3年(1657年)以降。同年、江戸を焼きつくした、いわゆる明暦の大火の後、幕府は防火を主眼とした都市計画をおこなう。市街地の再開発、拡張、寺町の移転などを実施。当初永代島にあった貯木場をこの地に移す。元禄14年(1701年)の頃である。 木場の東、千田から扇町にかけての「十万坪」、仙台堀川の南の東陽町が埋立てられたのは、18世紀の初頭から中頃のことである。

埋め立ての歴史(江東区発行の『江東区のあゆみ』より);
元禄11年(1698年);築地町・十五万坪(木場・平野)/ 六万坪・石小田新田(東陽4・5・6・7丁目)
享保年間(1716年);十万坪(千田・千石・扇橋)
明和2年(1765年);平井新田(東陽3・5丁目)




本日のルート;地下鉄東西線・東陽町 > 江東区役所 > 横十間親水公園 > 平井新田跡 > 洲崎神社 > 大横川 > 宇迦八幡宮・「十万坪」 > 木場公園

地下鉄東西線・東陽町;永代通り・四ツ目通りの交差点からスタート
地下鉄東西線・東陽町で下車。永代通りと四ツ目と通りの交差点を北に。前々から気になっていたのだが、この四ツ目って何だ?三ツ目もあるし、ということで調べてみた。昔、堅川の北、現在の両国2,4丁目あたりに本所相生町というところがあった。この地に本因坊さんが住む。本因坊って囲碁の名家。この相生って名前も、本因坊に由来する。囲碁の真髄は相手とともに成長する>ともに暮らし、老いる=相老>相生となった、とか。
それはさておき、相生町1丁目,2丁目は碁盤の目に因んで一ツ目、相生町3町目・4丁目・5丁目は二ツ目。その道にかかる橋を一ツ目の橋>一の橋、二ツ目通りにかかる橋を二つ目の橋>ニノ橋と呼ばれた。三ツ目通り、四ツ目通りも同じ理屈でつけられたのだろう。現在、一ツ目通りは一ノ橋通り、二ツ目通りは清澄通り、三ツ目通り、四ツ目通りはそのまんま。五ツ目通りは明治通りになっている。 (「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)


江東区役所
四ツ目通りを少し北に。江東区役所。広報課公聴課に行き、『江東区のあゆみ』『江東文化財マップ』などが購入できる。『江東区のあゆみ』は江戸から平成までの江東区をまとめた小冊子。100円で手に入れる。125ページ。江東区の埋め立ての歴史がよくわかる。『こうとう文化財マップ』は500円。江東区の全体像をまとめるには便利そう。
話は少々それるが、広報資料として、戦前の江東区の写真集もあった。1000円だったと思う。ぱらっと眺める。埃っぽい道、汚染の進んだ河川などなど、今の江東区の姿からは想像するのが難しい風景。実のところ、散歩を始めて江東区を歩くまでは、こんなに美しく整備された川筋など想像もしていなかった。団塊世代の我が身としては、江東区=ゼロメートル地帯、荒れた・少々美しくない川筋を想像していた。10年かけたのか、20年かけたのか、ともあれ豊かな川筋・町並みに様変わりしていた。

江東区役所のすぐ北に横十間親水公園
直ぐ北に横十間親水公園・井住橋が架かっている。南北に貫く横十間川が、東西に走る小名木川、仙台堀川を越え、更に葛西橋通りを過ぎたところで進路変更。西へと進み大横川に合流している。

東陽3丁目のあたりには「平井新田」があった

横十間親水公園は、その雰囲気だけ感じ、もとの永代通りまで戻る。西に進み、東陽3丁目から5丁目を。このあたりは平井新田。
明和2年というから1765年、平井満右衛門、虎五郎が江戸城の掘り浚いの土で埋め立てる。明和3年(17766年)には塩浜も開かれた。先に進み木場5丁目に。大横川にかかる沢海橋に。東詰めに関東大震災殉難者供養碑。

横川・沢海橋のすぐ南に「洲崎神社」
沢海橋のすぐ南、弁天橋の近くに洲崎神社。元禄13年(1700年)、将軍綱吉時代、護持院隆光が、江戸城中より弁天像を安置したのが州崎弁天社の始まり。その後州崎弁天への沿道には料理茶屋などができ、賑わった。
深川洲崎十万坪と呼ばれ、浜の真砂が続くこの景勝の地も寛政3年(1791年)暴風雨・大津波で壊滅的打撃を受ける。以降埋め立てが進むことになる。州崎神社となったのは明治になってから。
洲崎神社の西に波除碑。寛政3年の高波・津波の被害の経験から、洲崎神社から平久橋まで一帯を空き地にして家屋建築を禁止。洲崎神社の前・木場6丁目と平久橋の西の2箇所に波除碑を建てて目印とした。
平久橋は大横川が西に進み、平久川と交差するところにある。平久川(へいきゅうがわ)。旧町名・平富町と久右衛門町の間にあったのが名前の由来。ちなみに、平久橋のすぐ南には、古石場川親水公園。江東区散歩のスタート地点。ぐるっと一周して元に戻ってきた。

横川を北に
沢海橋から大横川を北に木場4丁目方向に進む。大横橋、横十間川親水公園との分岐をそのまま直進。豊木橋、茂森橋・葛西橋通り、仙台掘を越え、大栄橋、福寿橋と進む。東が千石、西が平野地区。更に北に三石橋、亥之掘橋へ。東が石島、西が三好地区。

千田地区・宇迦八幡宮のあたりは「十万坪」とよばれる埋立地
清洲橋通り手前を右折。石島地区を越え千田地区に宇迦八幡宮。当地の開発者千田庄兵衛が建立。千田稲荷神社と呼ばれる。このあたり、千石・石島・海辺・扇橋一帯はその昔、十万坪と呼ばれる埋め立て地。享保8年というから1723年、近江屋千田庄兵衛と井籠屋万蔵の両名により開発。江戸の塵芥をつかい、2年の歳月をかけて完成。庄兵衛の名字をとり千田新田と。寛政8年(1796年)には一橋家の領地となり、一橋家十万石と呼ばれる。
また、十万石の南、現在の東陽6,7丁目あたりは宝永7年(1710年)より、開発が進み、六万坪町・石小田新田ができる。江戸の塵芥で埋め立てる。石小田新田は、石川・小柴・豊田という3名の開拓者の名前から。歌川広重の描く『名所江戸百景 深川洲崎十万坪』にその広大な景観が感じられる。

木場公園
このエリアを代表するのは木場公園。もとの貯木場。寛政18年(1641年)、江戸の大火で日本橋の材木置き場が焼失したことがきっかけで、深川(佐賀・福住あたり)に材木置場を移す(元木場)。のちに一時猿江に移るが、元禄14年(1701年)にこの地木場に。それ以来300年に渡り、この地が木材流通の中心となる。が、昭和49年、新木場への移転がはじまり、この地は平成4年に木場公園に。

江東区散歩も残すところ、亀戸地区だけに。

砂町も、江戸初期に開かれた砂村新田に由来する土地である。それ以前のこの地は、利根川・入間川・隅田川の三水系の間に自然形成されたデルタ地帯。陸とも海ともつかぬ場所だった。
家康の江戸入府の半世紀以上前、連歌師・柴屋軒宗長(さいおくけんそうちょう)がまとめた旅行記がある。『東路のつと』といい、今の小名木川筋に当る水路をつたって現在の浦安辺りまで行ったときの「半日ばかり蘆荻(ろてき)を分けつつ、かくれ住みし里々を見て」と記す。ところどころに小村落があった、そういった一帯であった。
江戸時代に入ると、点在する村々に開拓農民たちがやって来た。砂村新田を開発した砂村新左衛門もそのひとり。浮島と干潟であったこの辺りの開拓をおこなう。以降、この周辺には次々と新田が開拓された。その多くは同様に開発者の名前が付けられた。v 砂村地区は深川などとともに野菜つくりが盛んにおこなわれた。江戸の人口が膨らむと、米は年貢米として市中に出回ったが生鮮野菜は圧倒的に不足。つくればつくるほど売れるという噂も広まるほど。年貢免除といった幕府の振興策もあり関西からネギ、ニンジン、ナス、キュウリなどの野菜の種がこの地にもたらされ、江戸近郊農村として、江戸の食料の供給地として野菜類の促成栽培が行われた。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)


埋め立ての歴史(江東区発行の『江東区のあゆみ』より);
正保年間(1624年);亀高村(北砂4・7丁目;亀戸新田と高橋新田をあわせ亀高村に)
寛文年間(1661年);太郎兵衛新田(東砂)
万治2年(1659年);砂村新田(南砂1-7丁目、東砂8丁目)
万治年間(1658年);八郎右衛門新田(東砂4-8丁目)
寛文年間(1661年);太郎兵衛新田(東砂1・3・4丁目)
元禄年間(1688年):大塚新田(北砂4・7丁目)/久左衛門新田(北砂2・3・4町目)/中田新田(東砂5丁目)/




本日のルート;仙台堀川公園>東砂4丁目>北砂7丁目>清洲橋通り・境川橋>旧大石家住宅>葛西橋通り>南砂6丁目>南砂7丁目・富賀岡八幡宮>元八幡通り>南砂3丁目・南砂3丁目公園>「砂村新田跡」の碑>南砂4丁目>明治通り>南砂緑道公園・長州藩大砲鋳造場跡>永代通り>東陽町

仙台堀川公園
小名木川から南に延びる仙台堀川公園を下る。仙台堀川の水路跡につくられた親水公園といった風情。東砂4丁目から先は砂町中南部エリア。北砂7丁目を進み清洲橋通りに架かる境川橋に。少し進むと、南砂5丁目と東砂7丁目の境で仙台堀川公園遊歩道は西に折れる。










旧大石家住宅
曲がり角に旧大石家住宅。江東区最古の茅葺き民家。この地域は半農半漁の農家も多く、この家も水害に対する工夫が見られる、とか。仙台堀川の由来。昭和40年の河川法改正で仙台掘と砂町運河をあわせて、「仙台堀川」となった。仙台掘って、隅田川河口の「上之橋」北詰に仙台藩の下屋敷・蔵屋敷があったから。






南砂7丁目には富賀岡八幡宮
仙台堀川を離れ、少し南を東西に走る葛西橋通りをすこし東に。南砂6丁目の境で南に下り、南砂7丁目にある富賀岡八幡宮に向かう。名所江戸百景『砂むら元八まん』に描かれる桜並木に惹かれたため。
現在に富賀岡八幡宮は少々殺風景。通称元八幡、富岡八幡宮の元宮と言われるとはいうものの、といった雰囲気。江戸時代は松が生い茂り、海浜に面した参堂の桜並木が有名で善男善女が数多く訪れた、とか。が、明治43年の大水害で松も桜も壊滅的損害を蒙った。





南砂3丁目公園の砂村新田跡。17世紀中ごろに埋め立てられた
神社を離れ元八幡通りを西に進む。昔の参道だったのだろう。南砂3丁目に南砂3丁目公園。「砂村新田跡」の碑。海に浮かぶ島だった砂町地区は江戸時代に埋め立てられてできたもの。
摂津の国の砂村新左衛門が一族を引き連れ関東に下り、横浜桜木町の野毛新田、横須賀の内川新田を埋め立て・開拓したあと、この地にくる。そして浮島と干潟であったこのあたりの埋め立てをおこなう。砂村新田の由来である。万治2年(1659)の頃である。延宝9年(1681年)にはこの砂村新田と永代島新田がごみ捨て場として定められた。

南砂緑道公園に長州藩大砲鋳造場
南砂4丁目を越え明治通りに。南砂3丁目交差点のあたりに「南砂緑道公園」。南砂中学校とか南砂住宅の周囲ををぐるっと囲む遊歩道。全長1キロ程度。川筋かと思ったのだが、都電の線路跡地、とのことである。緑道を少し西に。すぐ南に下ると長州藩大砲鋳造場跡。白御影石の台座の上に、パリのアンヴァリッド(廃兵院)に保存されている大砲(実物は長さ3メートル)のモデルが置かれている。
「江戸切絵図」をよれば、このあたりに長州藩主松平大膳太夫の屋敷。長州藩では、三浦半島の砲台に置く大砲を鋳造するため、同藩の鋳物師郡司右平次(喜平次)が、佐久間象山の指導のもと、この砂村の屋敷内で36門の大砲を鋳造。アンヴァリッドに保存されている長州藩毛利家の紋章の入った大砲は、攘夷戦で破れ、下関の砲台を占領され、その戦利品としてパリに持ち帰られたもの。
永代通り先に進むと永代通りに合流。西にすこし進めば東陽町。ここから先は木場・東陽エリア。

大島・砂町北部エリアを歩く。大島の地は江戸の比較的早い時期に埋め立てが行われている。大島と呼ばれるくらいであるので、小名木川のラインを渚とする低湿地ではあったものの、ちょっと大きな島、というか、砂洲があったのだろう。近くに旧中川が流れるので、その砂洲でつくられた微高地を「取り付く島」として埋め立てが進んだのだろう、か。まったくの想像。根拠なし。
砂村の地の埋め立ての歴史も早い。17世紀のはじめ。寛政の頃である。砂村の名前はこの地を埋め立て、砂村新田開発をおこなった砂村新左衛門一族の名前から。北砂の旧地名をチェックすると、八右衛門新田、治兵衛新田、久左衛門新田、大塚新田など、「新田」が並ぶ。

大島と砂町の境にあるのが小名木川。塩の道も近代に入ると鉄工所などの工場が立ち並んだ。釜屋跡、化学肥料創業記念碑。そのほか北砂5丁目の精製糖工業発祥の地。日本で初めて白砂糖の精製に成功した鈴木藤三郎が明治21年に建設した工場の跡地である。日本の近代工業を支えた地帯でもある。昭和30年代になると、多くの工場が転出。その跡地に集合住宅が建設される。東砂2丁目の小名木川沿いに、並ぶアパートがそれであろう、か。

埋め立ての歴史(江東区発行の『江東区のあゆみ』より);
天正年間(1573年);小名木川村(大島3・5・6.7.8丁目)
慶長年間(1596年);枚方村(大島5・6・7・8丁目;大坂・枚方の人が開発した)
寛永年間(1624年);八右衛門新田(北砂1・2丁目・扇橋あたり)
正保年間(1644年);荻新田(東砂1・2丁目、北砂6丁目)/ 又兵衛新田(東砂2丁目)
明暦年間(1655年);深川上大島・下大島(大島1・4丁目)




本日のルート: 大島橋東詰め > 横十間川親水公園 > 中浜万次郎宅跡 > 釜屋の渡し跡 > 新大橋通り・五百羅漢跡 > 中川船番所資料館 > 中川船番所跡 > 小名木川 > 仙台堀川公園

大島橋東詰めに釜屋跡・化学肥料創業記念碑。

都営新宿線・住吉駅を降り、新大橋通りを東に進む。横十間川に架かる本村橋を渡ると大島1丁目。東詰めを右折。南に下り横十間川・大島橋東詰めに。釜屋跡。化学肥料創業記念碑。釜屋跡は江戸初期、近江の国の太田氏釜屋右衛門(釜六)と田中氏釜屋七右衛門がこの地に工場を構え、明治・大正まで鋳物(いもの)業を営む。「東京深川釜屋堀釜七鋳造場」には、小名木川にそって拡がる広大な工場が描かれている。明治時代だろう。同じところに「尊農・化学肥料創業記念碑」。明治21年、タカジアスターゼで有名な高峰譲吉博士が工場長となり、日本最初の科学肥料工場がこの地にできた。 (「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)


横十間川親水公園
南に進み、横十間川と小名木川と交差するところにクローバー橋。クロスにかかる橋を渡り、横十間川親水公園を少し南に下る。北砂1丁目にあった、土佐藩下屋敷跡に中浜万次郎宅跡がある、とのこと。探したがみつけることができなかった。ジョン万次郎。土佐の漁師。船が遭難。アメリカの捕鯨船に救助される。アメリカで教育を受け、帰国後、土佐藩に登用されこの地に住み、開成学校(東大の前身)で教授として働く。で、後からわかったのだが、旧居跡は北砂小学校の敷地内にあったようだ。





小名木川に戻り「釜屋の渡し跡」に
再び北に登り、小名木川沿い・釜屋の渡し跡に。碑文の概略;釜屋の渡しは, 上大島村(大島1)と八右衛門新田(北砂1)を結び, 小名木川を往復。 名称は, この対岸に 江戸時代から続く鋳物師, 釜屋六右衛門・釜屋七右衛門の鋳造所があったから。 写真には釜屋、というか鋳物工場と, そこで働く人びと や製品の大釜が写っている。明治時代の利用状況は, 平均して 1日大人200人, 自転車5台, 荷車1台で, 料金は1人1銭, 小 車1銭, 自転車1銭, 荷車2銭, 牛馬1頭2銭、と。
近くにJR貨物専用線が走る。越中島貨物線と呼ぶらしい。新小岩から亀戸、そして小名木川駅を経て越中島貨物駅に続く。昔は、その先、晴海方面にまで続いていた、と。現在は貨物輸送は廃止されているようである。

進開橋から新大橋通り・五百羅漢跡

>小名木川を東に進む。進開橋を渡り明治通りを北に。新大橋通り交差点あたりに五百羅漢跡が。とはいうものの、どうもあたりは工事中。碑文を見ることはできなかった。五百羅漢とは、500人の優秀な仏弟子、とでもいったものか。
江戸時代初期、開山松雲元慶が10年の歳月をかけ江戸の町を托鉢して集めた浄財で等身大の五百の羅漢像をつくりあげた。五代将軍綱吉、七代将軍吉宗の庇護を得て「本所のらかんさま」として人気を集める。「名所江戸百景」にも描かれているが、現在はこの地にはない。明治20年に本所に、同42年に下目黒に移った。目黒不動の傍である。ちなみにこのあたりは本所五つ目と呼ばれていた。道を隔てた向かい側に羅漢寺があるが、これは別のお寺さん。

旧中川脇に中川船番所資料館
新大橋通りを東に進む。大島の町並み。旧中川にかかる船越橋の手前を右折。小高く盛り上がった「大島小松川わんさか広場」の南に中川船番所資料館。中川番所を中心に関東の河川海運と江東区の郷土史の資料を展示している。中川のコーナーには番所中川番所の再現ジオラマを中心に出土遺物、番所に関する資料。
江戸をめぐる水運のコーナーには、江戸を巡る河川水運について、海辺大工町や川さらいに関する資料。江戸から東京へのコーナーには、蒸気船の登場などによる水運の近代化を通運丸や小名木川の古写真を中心に紹介してある。『江東区中川船番所資料館・常設展示目録(700円)』『江東地域の400年(100円)』を購入し、資料館を離れる。

中川船番所跡
資料館前道を旧中川に沿ってすこし南に。中川船番所跡。資料館の番所略史の抜粋:中川番所は、寛文元年(1661)に小名木川の隅田川口にあった幕府の「深川口人改之御番所」が、中川口に移転したもの。番所の役人には、寄合の旗本3〜5名が任命され「中川番」と呼ばれ、5日交代で勤めていた。普段は、旗本の家臣が派遣されていた。小名木川縁には番小屋が建てられ、小名木川を通行する船を見張る。おもに夜間の通船、女性の通行、鉄砲などの武器や武具の通関を取り締まり、また船で運ばれる荷物と人を改めていた。
「通ります通れ葛西のあふむ石」と川柳に詠まれたように、通船の増加により通関手続きは形式化(あふむ=鸚鵡返し)していったようだが、幕府の流通統制策に基づき、江戸に入る物資の改めを厳しく行っていた。

仙台堀川公園
番所橋を渡り小名木川の南を西に戻る。東砂2丁目を越え東砂1丁目。左手に遊歩道。仙台堀川公園である。大島・砂町北部エリアもここまで。仙台堀川水路跡の仙台堀川公園を南に進めば砂町中南部エリアに入ることになる。

江東区(森下・住吉)は、小名木川の北になる。昔、どこかで江戸初期の地図を見たのだが、小名木川あたりが海岸線のようであった。小名木川の南は海。といって、北が「ちゃんとした」陸地、というわけでもないだろう。葦の生い茂る低湿地であったかと思う。
小名木川。隅田川から荒川、正確には荒川の手前の旧中川まで江東区を東西に横断する長さ5キロ弱の一級河川。川、といっても自然の川ではない。家康が江戸開幕の折に開削した運河である。千葉の行徳の塩を江戸に運ぶためつくったもの。
江戸城の和田倉門から道三堀、日本橋川を経て隅田川、隅田川から荒川まで小名木川、荒川を越え新川(船堀川)から旧江戸川を経て行徳まで連なる「塩の道」の一部ではある。
小名木川の開削は家康の最重要事業であった、という。塩は生活の必需品であるから、だろう。運河が掘られる。で、その残土を埋め立てに使う。小名木川以北が埋め立て事業の最初に行われたのは、こういった事情もあったのではないか、と思う。
小名木川の名前の由来は、家康の命によりがこの運河を開削したのが小名木四郎兵衛の名前から。もっとも、これも諸説あり、うなぎがよく採れたのでうなぎ川、それがなまったという説などいろいろ。
小名木川は、後に、関西地方から江戸に塩がもたらされるようになり、「塩の道」の役割が少なくなってからも、東北や北関東からの生活物資を江戸に運ぶ重要河川としてその役割を担った。房総、浦賀といった太平洋の海の難所を避け、茨城あたりで内陸に入り、利根川・江戸川経由で小名木川、そして江戸に続く、いわゆる奥川廻し、この内陸水路をつかった水運ネットワークの一環として機能したのだろう。ともあれ、歩をすすめることにする。


埋め立ての歴史
(江東区発行の『江東区のあゆみ』より);
慶長年間(1596〜1615);深川村(森下・常盤・新大橋・猿江・住吉)
享保年間(1716年);毛利新田(毛利)




本日のルート:万年橋北詰・船番所跡 > 芭蕉記念館 > 新大橋東詰め・御船蔵跡 > 猿江神社 > 猿江船改番書跡・扇橋閘門 > 小名木川橋北詰め > 猿江恩賜公園・猿江御材木蔵跡

小名木川・万年橋北詰に船番所跡
小名木川・万年橋北詰。常盤町。昔、松代町と呼ばれていたが、町名を変える際、「松」にちなんで縁起よく、常盤(松)、としたとか。船番所跡の案内。川舟の通行を改める「深川船改番所」のあったところ。寛文元年(1661)に中川に移るまでこの地にあった。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)


芭蕉稲荷神社・芭蕉記念館
同じく北詰をすこし隅田川に入ったところに芭蕉稲荷神社。大正6年の大津波の後、この地から芭蕉愛顧の石の蛙が見つかり、それを記念し神社がつくられた、と。芭蕉は17世紀後半、この地に芭蕉庵を営み、「蕉風」と呼ばれる俳諧を確立した。江戸切絵図によれば、紀伊殿屋敷に「芭蕉庵の古跡、庭中ニアリ」と書いてある。芭蕉没後、尼崎藩・松平紀伊守の屋敷。北に進む。芭蕉記念館。芭蕉の肖像画や手紙などの資料が展示されている。更に北に進み新大橋通りにあたる。


新大橋東詰めに御船蔵跡
新大橋東詰めの御船蔵跡。幕府御用船の格納庫跡。寛永9年幕府軍艦安宅丸(あたけぶね)を伊豆より回航繋留。のちに天和2年解体した地であることを記した碑。橋詰より東に進む。

深川神明宮は深川の開発者の屋敷神から
清澄通りを少し下り、森下1丁目に深川神明宮。深川村の総鎮守。このあたりは深川発祥の地。葦の生い茂るこのあたり一帯の埋め立て・開発をおこなった摂津の人、深川八郎右衛門の名前にちなみ深川という名前が生まれる。慶長期(1596〜1615)であるので、江東区埋め立ての始まりの時期でもある。 八郎右衛門の屋敷内に祀られたお伊勢さんの祠が深川神明宮の起こり。森下の地名は、江戸初期、この地にあった酒井左衛門尉の下屋敷の樹林が深く、周囲の町屋は森の下のようであったからだ、と。
神明さま、とは伊勢信仰の「天照大神」のこと。明治期におおくの神明社は、伊勢神宮=天皇家、を憚って改名。天祖神社などという名前にしたが、ここはママ、残った、ということか。

大横川に架かる猿江橋を渡り猿江神社に
墨田区との境を森下3丁目、4丁目と進む。新大橋通りと小名木川の間を道なりに進み、三つ目通りを越え、大横川に架かる猿江橋に。大横川よりは東住吉エリア。住吉の名前は昭和になって、いくつかの町が一緒になった際、縁起がいいという理由で名づけられたもの。由来は特に無い。
住吉は昔からのこの地域の地名、猿江で呼ばれることが多い。猿江1丁目に猿江神社。由来書によれば、11世紀はじめ源義家の奥州征伐のころ、この地で果てた源氏の家臣・猿藤太に由来する、とか。猿+(入り)江=猿江、となったとの説明。猿江神社の少し北に、摩利支天祠跡・日先神社。今は、なんとなくこじんまりした構えではあるが、江戸名所図会では結構なる造作。江戸屈指の規模をもつ神社であった、とか。摩利支はサンスクリット語で「マリシ=太陽や月の光」。摩利支天は陽炎を神格化したもの。陽炎は実体がないので、捉えられず・傷つくこともない、ということで武士の間で信仰されていた。楠正成など兜の中に摩利支天の小さい像を入れていた、と言う。また、だまされず、財をとられることもないということがら江戸後期には民衆の信仰を集めた。

小名木川筋に戻り、猿江船改番書跡・扇橋閘門へ
近くに小名木川。ちょっと寄ってみようと「猿江船改番書跡」に。元禄から享保期(1688〜1736)頃、川船行政を担当する川船改役(かわふねあらためやく)の出先機関として設置。船稼ぎの統制と年貢・役銀の徴収と極印(証明)等の検査をしていた。
直ぐ東に扇橋閘門(こうもん)。江東区の東と西では水位が異なる。で、東の小名木川と西の隅田川の水位を調整するためにつくられた。大潮のときなど2m近い水位差がある、とか。船が入った後、後ろの門が閉じられ、水位調整のあと前の門を開けて船が出ていく、というもの。

小名木川橋北詰めに五本跡と五百羅漢道標
四ツ目通りと小名木川が交差するところに小名木川橋。橋の北詰に五本松跡と五百羅漢道標。歌川広重の「名所江戸百景」での「小奈木川五本まつ」、とか「江戸名所図会」の「小名木川五本松」に描かれた名所跡。少々寂しい松が数本生えていた。五百羅漢道標は大島の五百羅漢寺と亀戸天神への道を示したもの。

新大橋通りに戻り猿江恩賜公園・猿江御材木蔵跡に
四ツ目通りを北に。新大橋通り。都営新宿線・住吉の駅を右折。毛利2丁目に猿江恩賜公園・猿江御材木蔵跡;幕府の材木蔵の後。享保19年(1734年)墨田区本所横網にあった材木蔵がここに移る。明治になり政府宮内省の材木蔵となるが、昭和7年に南部、昭和51年には北部の営林署貯木場が新木場に移転し、57年北部も公園となる。毛利の地名は、麹町の毛利藤左衛門が、私財を投じてこの地にあった入掘を埋めて新田・毛利新田をつくったことに由来する。森下・住吉エリアはここまで。次は大島・砂町北部エリア。

(門前仲町エリア) 門前仲町エリアの埋め立ての歴史は、現在の佐賀・永代・富岡・門前仲町あたりが第二期。寛永から承応まで(1624-1654)の頃である。第一期の小名木川以北が埋め立てられた後、隅田川に沿って海辺新田から南に開発されていったのであろう。南の越中島のあたりは、第三期。明暦の頃である。
埋め立ての歴史(江東区発行の『江東区のあゆみ』より);
寛永6年(1629年);深川猟師町(佐賀・永代・福住・清澄・門前仲町)
承応年間(1652年);永代寺門前(富岡)
明暦年間(1655年);三十三間堂町(富岡)/ 越中島

(清澄・白河エリア)

第一期は小名木川以北が中心であるが、以南では海辺新田(清澄・白河・扇橋)が第一期、慶長から元和まで(1596-1623)の頃埋め立てられている。その東の、霊厳寺門前(三好)は万治元年(1658年)、築地町(木場、平野あたり)は元禄(1697年)、いずれも第三期に埋め立てられた。

埋め立ての歴史(江東区発行の『江東区のあゆみ』より);
慶長元年(1596年);海辺新田(清澄・白河・扇橋あたり)
万治元年(1658年);霊岸寺門前町(三好)
元禄11年(1698年);元加賀新田(三好;松平加賀守の屋敷があったため)




本日のルート;
(門前仲町エリア)
相生橋>東京海洋大学・明治天皇聖跡の碑>越中島1丁目>古石場1丁目>古石場2丁目>越中島川>古石場文化センター>古石場親水公園>牡丹1丁目>大横川・黒船橋>深川猟師町>永代1丁目>永代橋東詰>門前仲町2丁目>富岡1丁目>深川不動>永代寺>富岡八幡>旧弾正橋>深川1丁目>採茶庵跡>仙台掘・海辺橋

(清澄・白河エリア)
清澄3丁目・清澄庭園・清澄公園>滝沢馬琴誕生の地>佐賀2丁目・セメント工業発祥の地>清洲1丁目・平賀源内電気実験の地>清洲橋>清洲橋通り>白河1丁目・清洲白河駅前>霊厳寺・松平定信墓>江戸深川資料館>三好1丁目>紀伊国屋文左衛門墓>平野2丁目・間宮林蔵墓>小名木川・万年橋

(門前仲町エリア)

有楽町線・月島駅;佃島から越中島に
門前仲町エリアからはじめる。有楽町線・月島駅に。清澄通りを進み相生橋を渡る。川の中ほどに中ノ島がある。橋を渡りきったところ、東京海洋大学の脇に明治天皇聖跡。
このあたり幕末は幕府の軍事調練場。明治になっても引き続き練兵場となっており、明治天皇が閲兵式に訪れた。越中島1丁目と永代1丁目の境、大横川が隅田川に合流するあたりに練兵橋という、そのものずばりの名前の橋が残る。
越中島の由来はその昔、隅田川河口に小島状の洲があり、その名が越中島と呼ばれていたとか、江戸時代このあたりに播州姫路藩・榊原越中守の屋
敷があったから、とか。これも例によってさまざま。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)



古石場文化センター
少し進み右折し越中島通りに。ほどなく京葉線・越中島駅に。駅脇の地域案内板で情報を探す。近くに古石場文化センター。古石場という名前に惹かれる。また文化センターであればなにか面白い情報があるやに、ということで古石場文化センターに向う。
深川三中西交差点を左折。越中島川の掘留のあたりに調練橋・調練公園。このあたりも練兵場だったのだろう。掘に沿って進み古石場2丁目。古石場文化センターに。小津安二郎紹介展示コーナーが。地元、深川1-8-8で生まれた日本を代表する映画監督。古石場の由来は、江戸築城に必要な石の置き場であり、江戸市中の町屋の土台石の加工場、置き場であったため。

古石場川親水公園から大横川・黒船橋に

センターを離れ直ぐ北にある古石場川親水公園に。古石場川は牡丹2丁目、3丁目から越中島1丁目へと流れる大横川の分流。牡丹1丁目あたりで別れ南に。そして東に流れ平久川に続く。牡丹町は江戸時代、付近に牡丹がたくさん植えられていたから。1km弱の親水公園を歩き、大横川にかかる黒船橋に。黒船の由来は、「黒船」の来襲と関係ありや、とおもったのだが、どうもそうではないらしい。浅草蔵前黒船町が火災にあい、その替地となったため。

隅田川脇に深川猟師町跡
大横川に沿って永代2丁目を隅田川方面に。大島川支流にかかる巽川を越え、永代1丁目の永代河岸通りへ。このあたり深川猟師町跡。猟師とは言うものの、当時のこの語の使い方は狐や狸を捕るのではなく、魚や貝を採る漁師を指していた。熊井理佐衛門ら8名がこの地を埋め立て漁業を営んだ。船百六十九隻をもつ漁師町であった。

永代公園には江東区の歴史案内が
永大河岸通り左手の隅田川方面に永代公園。なんとなく足を踏み入れる。公園はどうということはないが、堤にそって江東区の埋めたての歴史の案内が。年代を追って、別のボードに地図とともに説明されている。結構見入った。結果的には『江東区のあゆみ』に掲載されている情報と同じもの、のようである

永代通り・深川不動尊
永代橋袂に。永代通りを東に一路、深川不動尊、富岡八幡へと向う。門前仲町2丁目に成田山深川不動堂。江戸の成田不動といったお寺。江戸初期から元禄にかけ成田山信仰が高まる。が、成田は少々遠い。で、富岡八幡別当・永代寺境内で成田山江戸出開帳。出張興行といったもの。

成田屋・市川団十郎の歌舞伎の影響もあり、ますますの成田信仰が盛り上がる。本山からの本尊を分霊し、「成田山御旅所」をつくる。出張所といったものだろう。明治になり神仏分離。富岡八幡と離れる。明治11年、永代寺跡地に「成田山御旅所」を「成田不動堂」となし、現在に至る。現在の永代寺は、永代寺の塔頭だった吉祥院聖天堂が、後に改称して名称のみを継承したもの。門前仲町はもとの永代寺の門前町ということ。


深川不動尊の横に富岡八幡
富岡八幡。長盛上人がこの地を埋め立てる。6万坪の埋め立て地を幕府に寄進。幕府から富岡八幡と永代寺を建てる許しを得る。坊さんなのでお寺を建てる必要があったにしても、何故八幡様。
言い伝えによれば、上人は先祖伝来の八幡大菩薩を護持。あるとき、「武蔵の永代島、そこの白羽の矢が立つところに私をまつりなさい」ということで八幡様が建てられた。八幡様は源氏の氏神。徳川家の手厚い庇護を受ける。
富岡八幡はまた、江戸勧進相撲発祥の地。京・大阪ではじまった相撲興行はトラブルも多く禁止令がでる。17世紀末になり春と秋の2場所の勧進相撲が許可。その地が富岡八幡。のちに本所回向院に移るがそれまでの100年に渡り、この地で本場所が開催された。
新横綱の土俵入りがこの八幡様でおこなわれる理由も納得。ちなみに、江戸時代の相撲の最高位は大関。横綱とは将軍の上覧相撲の栄誉に浴した大関に与えられる儀式免状であった。儀式というか称号としての横綱が番付上の横綱として登場したのは明治42年(1909年)のことである。


海辺橋の南詰めに芭蕉ゆかりの「採茶庵跡」
八幡様の東、掘跡に旧弾正橋(八幡橋)。元は楓川と鍛冶橋通りが交差するところに架かっていた橋。国産第一号の鉄橋。関東大震災の後この地に移される。もともとあった堀も埋められ遊歩道となった道に上にかかっている。
北に進み、高速道路に沿って富岡八幡、深川不動の裏手を歩き門前仲町交差点に。
交差点を右折し清澄通りを海辺橋に向かう。16世紀末埋め立てられた海辺新田がその名の由来、かも。塩気の含んだ井戸水しかない時代、水売り船が着いたところ。仙台掘にかかるこの橋の南詰めに採茶庵跡。松尾芭蕉の門下杉山杉風(さんぷう)の庵があったところ。芭蕉の銅像。芭蕉はここから船で千住に向かい、「奥の細道」に旅立ったと。門前仲町を離れ、次は清澄・白河エリアに向かう。 
 
(清澄・白河エリア)海辺橋を渡り平野地区。滝沢馬琴や間宮林蔵のゆかりの地
海辺橋を渡り門前仲町エリアから清澄・白河エリアに移る。平野1丁目。海辺橋北詰は滝沢馬琴誕生の地。戯作者・山東京伝に師事し、『椿説弓張月』『南総里見八犬伝』などを作す。平野の地名は、江戸時代、この地にはじめて町屋を開き名主となった平野甚四郎長久の姓がその名の由来。少し東にいった平野2丁目・本立院に間宮林蔵の墓。伊能忠敬に測量を学び、19世紀初頭、樺太を探検。樺太が島であることを発見。大陸との海峡を間宮海峡と名づけられる。
間宮海峡と名づけられたのはシーボルトの紹介である、とか。国禁の日本地図をシーボルトに渡したとして洋学者の高橋景保は獄死、シーボルトは国外追放となった、いわゆる「シーボルト事件」の密告者とされた林蔵であったが、シーボルトは林蔵の功績大として、評価したわけである。

(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)


仙台堀に沿って清澄公園に
清澄公園清澄通りを仙台掘に沿って左折。清澄庭園・公園の南を西に進む。清澄1丁目に平賀源内エレキテル実験の地。六郷用水散歩の折、武蔵新田の新田神社で平賀源内に出会った。確か破魔矢を考案した、と。清澄の由来は、この地域一体を開拓した弥兵衛さんの姓が清住(清澄)であったから。
元禄に清澄(清住)となる前は、弥兵衛町と言う名であった。清澄1丁目の少し南は佐賀2丁目。セメント工業発祥の地。明治5年、明治政府が官営セメント工場をつくる。日本で始めてのセメント工場である。佐賀の名前は地形が肥前の佐賀湊によく似ているためにつけられた、とか。
清洲橋東詰に。清洲って、名古屋の清洲に由来するものと思っていた。が、実際は深川の清澄町と日本橋・中州町を結ぶ橋ということで名づけられたもの。橋は昭和3年、世界一美しいと言われるドイツのケルン橋に範をとってつくられたもの。
清洲橋通りを少し東に進む。右折し清澄庭園に。紀伊国屋文左衛門の別邸と伝えられ、幕末まで下総関宿藩主・久世大和守の中屋敷。明治になって三菱財閥・岩崎家の所有となる。「深川親睦園」として三菱社員の慰安、賓客のゲストハウスとして使われる。
関東大震災後、東半分が東京市に寄付された。「回遊式築山山水庭園」。泉水、築山、枯山水を主体にしてこの庭園には全国から奇岩が集められている。庭園の西側には清澄公園が広がる。しばし公園内を散歩し清澄通りに戻る。

白河地区は寺町跡
清澄通りを隔てた東側は白河地区。江戸時代からの霊厳寺、浄心寺、雲光院といた寺町になっている。霊厳寺の開山は雄誉霊厳上人。もとは霊岸島にあったもの。明暦の大火の後この地に移転。松平定信のお墓がある。徳川吉宗の孫。白河藩主。天明の飢饉では藩内で餓死者を出さず、名君と讃えられた。田沼意次を失脚させ、老中首座となり将軍家斉を補佐。寛政の改革を行った。白河の地名はこの松平定信が白河藩主であったため。昭和になって深川東大工町・霊岸町・元加賀町・扇橋町の各一部を合わせて白河町となった。
三好1丁目の成等院には豪商・紀伊国屋文左衛門のお墓。講談本で名高いみかん船で名をはせ、後に木材商となる。振袖火事の時には木曾材を買い占めて巨万の富を得た。が、大銭の鋳造を請負ったもののすぐに通用停止となり、大きな損失をうけ、晩年は非常にみじめであったという。平野の浄心寺には関東大震災の蔵魄塔が。江戸切絵図によれば、結構寺域が広い。庭園も描かれている。江戸時代、浄心寺の庭って観光名所だった、ってどこかで読んだことがある。

小名木川・万年橋

白河1丁目に深川江戸資料館。江戸時代の深川が再現されている。小名木川までのぼり、東に進む。東深川橋、西深川橋、高橋、そして隅田川河口の万年橋に。小名木川を渡れば、森下・住吉エリア、となる。 

メモ
折に触れ江東区は歩いている。富岡八幡に出向いたり、清澄公園を歩いたり、亀戸天神におまいりしたり、小名木川に沿って江東区を西から東まで歩いたり、と結構歩いている。江戸の町歩きとしては定番のところである。が、今回は中央区散歩に引き続き、埋め立ての歴史を頭に入れながら歩いてみようと思う。葦原・湿地が埋め立てられ、町屋に変わりゆく姿をイメージしながら歩くことにする。
江東区を東西に貫く小名木川を行徳まで歩いたとき、海岸線の直ぐ脇を通る小名木川を描いた古地図をみたことがある。江戸初期、今の江東区はほとんど海の中、ということである。諸々の資料には、江東区って葦の生い茂る低湿地って書いてある。それがどのようなプロセスを経て今の江東区が形作られたのか、江東区発行の『江東区のあゆみ』をもとにまとめておく。


より大きな地図で 江東区_埋め立ての歴史 を表示          赤い線が第一期。緑の線が第二期。青が第三期。

江戸以前
江東区は、天正18年(1590年)の家康入府以前は、ほとんどが葦の茂る低湿地。現在の総武線あたりが海岸線であった、とか。もう少し時代を遡り、室町時代の古地図を見ると、陸地は寺島(墨田区東向島)から小村井、そして平井を結ぶ線以北。その南には海というか、川というか湿地というか、ともあれ陸地からはなれたところに、亀井戸とか柳島(現在の亀戸天満宮の近く)とか、中ノ郷(東駒形)、牛島(向島)といった島というか洲が書かれている。江戸以前は江東区域って、ほとんどないも等しい、ということである。

江戸時代
江東区域が「浮上」するのは江戸以降。本格的な江戸の都市建設・天下普請がはじまり、関西方面からこの新開地に入り込み土地の埋め立て・開拓が始まってから。『江戸のあゆみ』によれば、江戸期の開発は3期に分かれる、と。

第一期:<慶長から元和まで(1596-1623):小名木川以北、西は隅田川沿岸から東は猿江あたりまで。小名木川以南は海辺新田(清澄・白河・扇橋)が開発。

第二期:寛永から承応まで(1624-1654);隅田川に沿って海辺新田から南に開発。現在の佐賀・永代・清澄・富岡・門前仲町あたりが埋め立てられる。さらに、城東地区の砂村・亀高村(北砂)・荻新田(東砂)・又兵衛新田(東砂)・亀戸村の一部も開拓される。

第三期:明暦から幕末まで(1655-1867);代表的なところでは明暦の越中島、万治(1658年)の砂村新田、霊岸寺門前(三好)、元禄(1697年)の平井新田・石小田新田(東陽町)、築地町(木場、平野あたり)、享保(1716年)の十万坪(千田新田:千田・千石・扇橋あたり)といったもの。

(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)


江東区の土地開発の歴史を頭に入れ散歩に出かける。
コースは江東区発行の『こうとう文化財マップ』の地域分類に従い
I;門前仲町エリア Ⅱ;清澄・白河エリア Ⅲ;森下・住吉エリア Ⅳ;木場・東陽町エリア Ⅴ;亀戸エリア Ⅵ;大島・砂町北部エリア Ⅶ;砂町中南部エリア
以上七地区に分けメモをする。

「平井の渡し」からはじめ、旧中川・荒川から江戸川堤に
善養寺
江戸川のランドマーク、小岩からの散歩は終わった。今回は、と考える。で、前から気になっていた、それがなぜかは分からないのだが、結構気になっていた「平井」からはじめよう、と考えた。平井の渡し、といったフレーズに惹かれていたのかもしれない。で、その後は、なんとなく気になる地名や神社・仏閣、具体的には、大杉神社、鹿骨、一之江名主、そして善養寺といったところを訪ねて歩こうと思う。





本日のコース: 総武線・平井駅 > 天祖神社 > 安養寺 > 荒川土手 > 平井聖天 > 諏訪神社 > 浅草道石造道標 > 平井の渡し > 目黄不動・最勝寺 > 大杉神社 > 仲井掘通り > 一之江境川親水公園 > 第六天堂 > 瑞江公園・大雲寺 > 一之江名主屋敷跡 > 鹿見塚 > 鹿骨親水緑道 > 善養寺 > JR総武線・小岩駅

総武線平井駅

総武線平井駅で下車。駅前の地図で見所チェック。駅の北に、天祖神社と安養寺。とりあえずこのふたつを目指す。北に進み平井大橋西詰めで蔵前橋通りと交差。

天祖神社
さらに北に進み平井6丁目と7丁目のあたりに天祖神社。本殿はあまり見られなくなった茅葺屋根、とのことだが、よくわからない。茅葺の上に瓦屋根をかぶせているのだろうか。境内には香取神社と水神社。香取神社は荒川放水路開削工事に伴い、この地に移った。天祖神社は、もとは神明宮と呼ばれたケースが多い。伊勢信仰の社ではあったが、明治期、皇室の守り神でもある伊勢信仰 = 神明の社、とはあまりに恐れ多いと、天祖と改名した、とのことである。 (「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)

安養寺
天祖神社を離れ安養寺に。ちょっと通りから入ったところでわかりにくかった。弁天様と富士塚、そして念仏講で知られている。弁天様は「平井弁天」として親しまれている、と。

荒川土手

平井荒川堤道なりに進み荒川土手に。平井大橋の西詰めに付近の名所・旧跡の案内。「平井梅屋敷跡」、「平井聖天」、「平井の渡し」の説明。平井の梅屋敷跡は、土手を北に進み、旧中川が荒川に合流する木下川水門の辺り。江戸時代は徳川家が所有。梅見見物で賑わっていたとのことだが、現在は跡を残すのみ。



平井聖天

平井聖天、平井の渡しに向かう。場所は平井6丁目。少し駅方向に戻ることになる。蔵前橋通りを西に進み、平井駅入口交差点に。交差点を北に進み平井聖天に。草創は平安の頃と伝えられる真儀真言宗の古刹。燈明寺と呼ばれる。
平井聖天埼玉県・妻沼聖天、浅草の待乳山聖天とともに関東三大聖天のひとつ。聖天さまとは夫婦和合の神様。将軍鷹狩のときの御膳所として使われたほか、幾多の文人墨客が訪れている。


諏訪神社
お寺の直ぐ横に諏訪神社。燈明寺のお坊さんの出身地が信州ということから、信州の諏訪大明神を勧請した、とか。

浅草道石造道標
道なりに平井橋に向かって進む途中に「下平井の観世音菩薩 浅草道石造道標」が。ほんとうに小さい祠。偶然見つけたが、探すとなったら大変であったろう。浅草方面から行徳道への道標でありましょう。

平井の渡し
旧中川に平井橋。このやや西に「平井の渡し」があった。平井の渡しは、行徳道が下平井村と隅田区・葛西川村の間を渡る地点にあった。平井橋ができる明治32年まで使用されていた。
平井の渡し
橋の少し南に妙光寺。慶長3年(1598年)創建のお寺さま。由来書に、元禄年間(1688 - 1704年)の津波で堂宇を消失。ために本堂は床を高くしている、と。このあたりまで影響を及ぼすような津波って、一体どんな地震であったのか、今度調べておこう。


目黄不動・最勝寺
南に下り、平井駅出口交差点で蔵前橋通りと交差。平井駅に戻り、平井駅前通を南に下る。賑やかな商店街。平井1丁目あたりで商店街の道から離れ、荒川方面に道成りに進む。先に時計台っぽい建物。どこかの私立学校かと思い、ちょっと寄り道。予想に反し、都立小松川高校。
で、後から気がついたのだが、この高校の直ぐ隣に目黄不動・最勝寺があった。江戸五色不動のひとつ。が、学生の下校時のパワーにおされ見落としてしまった。
五色不動:目黒不動(天台宗龍泉寺:目黒区目黒3丁目)、目白不動(真言宗豊山派金乗院。もとは文京区関口の新長谷寺にあったが戦災で廃寺となったため移された)、目青不動(天台宗教学院。世田谷区太子堂4丁目。もとは麻布の勧行寺、または、正善寺にあったものが青山にあった教学院に移され。その後教学院が太子堂に移った)、目赤不動(天台宗南谷寺。文京区本駒込1丁目。もともと三重県の赤目不動が本尊。家光の命で目赤に)、目黄不動(台東区三ノ輪2丁目の天台宗・永久寺とこの最勝寺。とはいうものの、目黄不動だけは複数あり、渋谷の龍眼寺など全部で六箇所あるとも言われる)

小松川橋
平井荒川荒川土手をのんびり下る。小松川橋に。京葉道路が走るこの橋を渡り荒川・中川を越える。平井・小松川地区を離れ、中央地区に入る。まずは江戸川区郷土資料室に。買い忘れた、というか、後から気になった『地名のはなし』『江戸川の治水のあゆみ』を購入


大杉神社
江戸川区役所の近くを進み、中央1丁目、2丁目から大杉1丁目に進む。途中水路跡があった。が、水路名不明。大杉神社。天祖神社の通称、とも。名前の由来は大きな杉があった、とか。旧西一之江村の鎮守。創建時期は不明。天祖将軍鷹狩の折には必ず立ち寄る由緒ある神社であった、とか。

仲井掘通り
神社の直ぐ東に仲井掘通りが走る。江戸川区を走る用水についてまとめておく。水元公園の「小合溜井」から下った「上下之割用水」が最初に分流するのは葛飾区の新宿4丁目あたり。ここからの分流は小岩用水と呼ばれる。南東に真っ直ぐ下り、京成高砂駅の東側、京成小岩駅の西側を下り、西小岩5丁目愛国学園の西沿いの道を真っ直ぐ南へ南小岩8丁目の小岩郵便局辺りまで続く。
一方、本流は水戸街道を越え、京成高砂駅の少し南で三流に別れる。一流は新小岩に向かって南西に下り、平井2丁目で旧中川に至る「西井掘」。

「中(仲)井掘」は新中川とほぼ平行に下り、上一色町の上一色中学校西沿いの道を南に、千葉街道の菅原橋、大杉1.2丁目境を経て西一之江2丁目・一之江1・2・3丁目の中を通り。春江4丁目と一之江7丁目・一之江町の境を経て新川に流れ込む。おおまかにいって環七と今井街道、新大橋通りと交差するあたりで続くわけだ。 (「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)

一之江境川親水公園
仲井掘を越え環七と交差。環七を南に下り一之江1丁目の交差点で京葉道路を過ぎ、ついで首都高速7号・小松川線と交差。一之江境川親水公園が交差点を走る。少々親水公園を歩くことにする。この親水公園は一之江境川の水路跡。東一之江と西一之江の境を流れていたのでこの名がついた。
今井街道との合流まで清流が戻った。水神宮、一之江天満宮、薬王寺、円福寺、妙音寺と続く。妙音寺には「片目の鮒伝説」がある。目が不自由なお嬢さんが、このお寺の本尊・薬師如来に願掛け。満願の日に目が見えるように。お礼に鮒を池に放つ。すべて片目。この話を聞いて願掛けをして目が治った人たちが放った鮒もすべて片目であった、とか。

第六天堂
妙音寺を離れ、東に進み環七を越え、春江橋西詰め近くの第六天堂に。第六天のエノキ、って大木がある、とのとことではあったが、現在は根元部分が残るだけ。

瑞江公園・大雲寺
春江橋を渡り春江3丁目を北東に進む。瑞江公園の北に大雲寺。寺域広大。1万平方メートルも。歌舞伎役者のお墓が多い。市村羽佐衛門(初代から16代まで)、中村勘三郎(初代から13代まで)、尾上菊五郎(初、5、5代)、松本幸四郎(4,5,6)などなど。ために、「役者寺」とも。浅草、押上、そして関東大震災後、この地に移る。椿通りを北に進み、ふたたび首都高速7号・小松川線をくぐり、春江町2丁目の一之江名主屋敷に。

一之江名主屋敷
一之江名主屋敷って、一之江新田の開拓者でもある田島図書の屋敷跡。田島図書はもと、豊臣の家臣、掘田の姓を名乗っていたとか。関が原合戦後、大杉の田島家を頼り、以降田島姓に。鬱蒼とした樹木に囲まれている。入口は長屋門。茅葺き曲がり屋造りの母屋が美しい、といいたのだが、到着したときはすでに門が閉まっていた。又の機会に。

鹿見塚
椿通りを北に進む。新掘2丁目から鹿骨1丁目に。鹿骨4丁目、5丁目あたりで鹿骨街道と交差。東に進み前沼橋交差点のところに鹿見塚。常陸の鹿島大神が大和・奈良の春日大社に移る途中、この地に。大神の杖となっていた神鹿が病気で倒れる。里人はこれをこの地に祀った。
鹿骨(ししぼね)は600年も前の文書に登場する古い土地。この塚は古墳では、とも言われている。 

骨親水緑道
神社横の道を北に。交差点が「前沼橋」と呼ばれたように川筋跡。鹿骨親水緑道となっている。鹿骨3丁目が切れるあたりで鹿骨親水緑道は二手に分かれる。北西に向かうのは鹿本親水緑道、北東に向かい江戸川に至る水路が「興農親水緑道」。「興農」は名前の通り、農業を興す水路であったのだろう。


善養寺
北篠崎2丁目、1丁目を進み江戸川堤に。川の流れを楽しみながら北に。少し進むと天祖神社。さらに北に進み善養寺。堂々とした、雰囲気のあるお寺。真言宗豊山派・星住山地蔵院、と。星降り松、と呼ばれる枝振りのいい松があったから星住山。初代の松は枯れ、現在は二代目。地蔵院は本尊の地蔵菩薩から、か。小岩の不動尊としても知られる。16世紀のはじめ頃つくられたとされる。
善養寺
慶安元年(1648年)には将軍家より10石の御朱印を受ける。本堂わきには「びんずる尊者」。江戸の昔から「善養寺のなでぼとけ」として知られている。「びんずる尊者」って、足立散歩のとき、関原大聖寺で出会った。いつも赤ら顔の呑兵衛の仏さま。酒ゆえに、お釈迦さまから一度は破門。悔い改め、傍に控え居るだけなら、とぴうことで本堂脇に。仁王門も堂々としていうる。不動堂は、「小岩不動」である不動明王が安置されている。で、なにはともあれ、このお寺の最大の魅力は「影向の松」。樹齢600年ともいわれる、堂々とした枝ぶり。松の高さは8mだが、東西南北に30mほどの枝の広がりがある。久しぶりに、本格的な枝振りの松を見た思いがする。

JR 総武線・小岩駅
寺を離れ東小岩3丁目、5丁目、南小岩8丁目と道成りに進み JR 総武線・小岩駅に到着し、本日の散歩を終える。 

「小岩市川の渡し」から元佐倉道を下り、中央部・東部を歩く

江戸川区散歩をはじめる。とはいうものの、今回が初めてではない。実のところ、江戸川は過去2回ほど歩いたことがある。塩の道に沿って小名木川から新川・古川、そして行徳まで歩いた。また、左近川に沿って江戸川区の南部を東西に歩いたこともある。
今回はどこから、とは思うのだが、いまひとつポイントが絞りきれない。葛飾であれば柴又帝釈天、足立であれば西新井大師、といった具合に、どうといった理由はないが、なんとなくランドマークがある。が、江戸川区にはフックがかかる、というか、ランドマークが思い浮かばない。は小岩てさて。ちょっと江戸川の歴史をおさらいし、どこから歩を進めるか決めることにしてみよう。
江戸川区の大昔は海の中。これって東京下町低地はすべて同じ。およそ3000年ほど前より江戸川(昔の太日川)が運ぶ土砂により、流路に沿って砂州・微高地ができはじめる。江戸川区で人が住み始めたのはおよそ1800年前。弥生時代後期の頃、現在の JR 総武線・小岩の北、上小岩遺跡のあたりに人が住みはじめたようだ。その後、江戸川に沿った篠崎の微高地、現在の旧中川に沿った東小松川のあたりに集落が増えていく。葛飾区、足立区といった東京下町低地のメモのとき何度も登場したが、正倉院の文書に下総国葛飾郡大嶋郷の戸籍にある「甲和里」は、確証はないが、どうも小岩らしい、とか。甲和里には454人の住民がいたようだ。
中世にはいると、この辺りは葛西御厨の一部。葛西三郎清重が葛西33郷(江戸川区、葛飾区など)を伊勢神宮に寄進したもの。神社に寄進することによって、国の収税システムから逃れたわけだ。体のいい節税対策。
それより少々前、寛仁四年(1020年)の頃、菅原孝標(たかすえ)の書いた、『更科日記』にも江戸川が登場する:「そのつとめて、そこをたちて、しもつさのくにと、むさしとのさかひにてある ふとゐがはといふがかみのせ、まつさとのわたりのつにとまりて、夜ひとよ、舟にてかつがつ物などわたす。 つとめて、舟に車かきすへてわたして、あなたのきしにくるまひきたてて、をくりにきつる人びと これよりみなかへりぬ。のぼるはとまりなどして、いきわかるゝほど、ゆくもとまるも、みななきなどす。おさな心地にもあはれに見ゆ」、と。任地・上総での任期が終わり、京に戻る途中、夜通しかかって下総と武蔵の国境の太日川(今の江戸川)をわたる姿が描かれている。もっとも場所は松里というから、松戸の渡しではある。
永正6年(1509年)には、連歌師・柴屋軒宗長は隅田川から川舟で行徳に近い今井に向かい、浄興寺を訪れ小岩市川の渡しから善養寺を訪ねた紀行文「東路のつと」を書いている:「隅田川の河舟にて葛西の府のうちを半日ばかり葭・蘆をしのぎ、今井といふ津(わたり)より下りて、浄土門の寺浄興寺に立ち寄りて、とあれば、はやくよりこの津のありしことしられたり」、と。
この小岩市川の渡しのあたりは、その後、小田原・北条氏と下総・里見氏の間でおこなわれた合戦の舞台。世に言う、国府台合戦。北条氏の勝利に終わり、以降北条氏が秀吉に滅ぼされるまではこのあたりは北条氏の領地となった。
江戸に入ると、盛んに新田開発がおこなわれる。宇喜新田を開拓した宇田川善兵衛。宇喜田村は新川の南。伊予新田を開いた篠原伊豫。この新田は小岩のあたり。一之江新田を開いた田島図書などが特筆すべき人物。江戸川区は二箇所の旗本の領地、一つの寺領があるほかはすべて幕府の直轄地。将軍の鷹場となっていた。八代将軍吉宗など、76回も鷹狩にこの地を訪れた、と。この鷹場があるためのいろいろな制約で農民は苦労したようだ。
河川の開削も進む。行徳の塩を運ぶため新川開削が代表的なもの。幕府の利根川東遷事業も相まって、江戸川の水運が活発化する。東北や北関東の物資は、銚子や利根川上流から関宿を経て江戸川を下り、新川・小名木川を経て江戸に運ばれることになるわけだ。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)
  このあたりは江戸と房総を結ぶ交通の要衝でもあった。小岩市川の渡しは定船場。番所(関所)が設けられた。佐倉の掘田氏をはじめとする房総諸大名の参勤交代しかり、また庶民の成田詣でなどで街道が賑わった、とか。小岩市川の渡しのある御番所町や、逆井の渡しのある小松川新町あたりが賑わった。
街道も整備される。区内には佐倉道、元佐倉道、行徳道、岩槻道といった往来が走る。佐倉道は日本橋から足立区・千住、葛飾区・新宿(にいじゅく)から小岩を経て市川、船橋そして佐倉に続く道。元佐倉道は両国から堅川を東に進み、旧中川の逆井の渡しを越えて小岩に続き、そこで佐倉道に合流する。
行徳道は平井の渡しを渡り、東小松川・西一之江、東一之江、今井の渡しを経て下総・行徳に行く道。
岩槻道は埼玉・岩槻への道。行徳の塩を運ぶ道である、とか。現在の江戸川大橋のあたり、つまりは江戸川と旧江戸川が分岐するあたりから北に、小岩、柴又、金町、猿ケ又で中川を渡り古利根川沿いに岩槻に至る道。
幕末動乱期、この江戸川の地も幕府と官軍の戦いの場となる。場所は小岩市川の渡しのところ。江戸川の両岸に両軍対峙し戦端をひらいた、と。
なんとなくランドマークが浮かび上がった。小岩市川の渡し、つまりは現在の JR 総武線・小岩あたりが幾度となく登場する。それと、江戸川区って江戸と房総の交通の要衝。戦略上の見地から橋などない当時、「渡し」を起点に街道が整備されている。
ということで、江戸川散歩は、ランドマークの小岩を基点に、元佐倉道を下り、渡しと渡しをつなぐ街道に沿って歩くことにする。
江戸川区の大雑把な地区わけは小岩、鹿骨、東部、中央、葛西、平井・小松川の六地区。小岩から中央、東部地区、といったところである



本日のコース: JR総武線・小岩駅 > 上小岩遺跡 > 上小岩親水緑道 > 八幡神社・北原白秋の歌碑 > 江戸川の堤 > 真光院・遊女高尾の墓 > 京成・江戸川駅 > 御番所跡 > 宝林寺 > 千葉街道・旧佐倉道筋 > 小松川境川親水公園 > 江戸川区郷土資料室 > 仲台院・将軍の御膳所 > 善照寺 > 白髭神社・浮洲浅間神社 > 一之江境川 > 都営新宿線・一之江駅

上小岩遺跡

小岩遺跡総武線・小岩駅で下車。北口から蔵前橋通りに進む。最初の目的地は「上小岩遺跡」。蔵前橋通りを東に進み、柴又街道と交差。柴又街道を北に進み京成小岩駅前交差点を東に折れる。京成小岩駅手前に「上小岩遺跡」の案内。弥生時代中期から、古墳時代前期の土器類が発見されている遺跡、とか。
最初に見つけたのは昭和27年、当時の小岩第三中学の生徒。以来30年に渡って同校の中村先生によって発掘調査がなされた。場所は現在の北小岩6,7丁目あたり。当時このあたりが、「上小岩村」と呼ばれていたのが、遺跡命名の由来。養老5年(721)の下総国葛飾郡大嶋郷の戸籍にある、甲和里は、どうも小岩らしい、とメモした。甲和里には454人の住民が住んでいた、と。このあたり川沿いの自然堤防・微高地であったのだろう。
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上小岩親水緑道

京成小岩駅を越え東に。北小岩6丁目交差点あたりに遊歩道。上小岩親水緑道。この地に住む石井善兵衛さんが、灌漑用の水の乏しかったこのあたりに、江戸川から用水を引くことを思い立ち、明治11年に完成した水路跡。緑道に沿って北に進む。この川筋が「遺跡の銀座通り」とか。左手に小岩三中を見ながら進み、緑道の最北端に「水神碑」。石井善兵衛さんの功績をたたえた碑。

八幡神社・北原白秋の歌碑
堤防脇の道を北に進む。八幡神社。北原白秋の歌碑がある。大正5年から1年間、小岩村三谷に住む。その住居を「紫烟(しえん)草舎」と呼ぶ。紫えん草舎は現在は市川にある。が、小岩を愛した白秋を偲んで、地元の人が八幡さまの境内にこの歌碑を作った。「いつしかに 夏のあわれとなりにけり 乾草小屋の桃色の月」。北原白秋もいろんなところに顔をだす。生涯に何度引越ししたのだろう、か。



江戸川の堤
神社を離れ江戸川の土手道を歩く。川向こうには国府台(こうのだい)の丘陵地。小田原北条氏綱・氏康親子が下総の小弓義明氏、安房の里見義堯氏と争った天文7年(1538年)の第一次国府台合戦、また、小弓氏が斃れた後、房総最大の勢力となった里見義弘氏(義堯の子)と北条氏康が戦った第二次国府台合戦に思いを馳せる。この合戦に北条氏が勝利を収めたことにより、関東一円が北条氏の勢力下に入った。江戸川以西が下総から武蔵になったきっかけでもあった、とか。
また、この地は幕末の小岩市川戦争の舞台でもある。江戸無血開城を潔し、としない旧幕臣が江戸を脱出。大鳥圭介の率いる2500名が市川国府台に集結。新撰組の土方歳三や幕府、会津、桑名の兵と軍議。結局日光方面へと転進する。一方、江戸を去り木更津に集結した福田八郎衛門の率いる幕府撤兵隊(さんぺいたい)1500名が大鳥軍に合流すべく市川に集結。が、既に大鳥軍は日光転戦。後に残されたこの幕府撤兵隊と官軍の津、福岡、佐土原、岡山藩との間で戦端が開かれる。市川市内での激しい市街戦、江戸川を越えての激しい砲弾の応酬があったこと、今は昔。

真光院・遊女高尾の墓
堤道を下り、天祖神社前の通りを京成江戸川駅方面に道を進む。北小岩4丁目に真光院。遊女・高尾の墓がある。この高尾太夫も散歩のあちこちに顔をだす。が、よくよく調べると、高尾太夫って一人ではない。吉原の妓楼・三浦屋お抱えの歴代遊女の総称。7人とも11人とも14人とも言われる。ここの高尾太夫は三代目。このお寺の閻魔様の坐像は高尾太夫が寄進した、とか。境内を歩いたが、どこにあるのやら。お参りはできず。ちなみに、中央区散歩のとき、豊海橋の近くで出会った高尾太夫は二代目であった。

京成・江戸川駅近くに小岩市川の渡し・関所跡
お寺を離れ京成・江戸川駅に向かう。季節柄、駅近くの小岩菖蒲園帰りの人たちが手に菖蒲を抱えて駅に入ってゆく。京成線の少し南の河川敷に関所跡。この地、小岩市川の渡しは江戸と房総を結ぶ佐倉道が江戸川を渡るところ。元和2年(1616年)に定船場となり番所が置かれる。後に関所となり往来する人や物資の出入りをチェックした。

御番所跡
駅前の通りに御番所跡。関所付近のこの界隈は旅籠や掛茶屋で賑わった、とか。この辺りはいくつかの街道が合流。日本橋からはじまり、足立区・千住、葛飾区・新宿(にいじゅく)から小岩に至る佐倉道、両国から堅川を東に進み、旧中川の逆井の渡しを越えて小岩に続く元佐倉道、江戸川と旧江戸川が分岐するあたりから北に進み、小岩をへて柴又、金町、猿ケ又で中川を渡り古利根川沿いに岩槻に至る岩槻道などがこの地で合流する。

宝林寺
道に沿って宝林寺。この地を開拓した篠原伊豫の墓。伊豫はもと里見義弘の家臣。安西伊豫守実元と名乗る武士。が、国府台合戦で里見氏が敗れたのち、この地に移り篠原と改名。農業に従事する。慶長15年(1610年)には新田開発を行い「伊豫新田」と名づける。これが伊豫田村の前身。少し先に本蔵寺。関所役人の中根平左衛門代々の墓がある。先に進むと蔵前橋通りと交差。いかにも旧道といった赴きはここで無くなり車の多い往来となる。

千葉街道・旧佐倉道筋
蔵前橋通りとの交差から先は千葉街道。この道は、おおむね昔の旧佐倉道筋。南西に一直線に下る街道を中川堤まで歩くことにする。一里塚交差点、東小岩4丁目交差点、小岩郵便局前交差点、二枚橋交差点を越え、新中川にかかる小岩大橋を渡り、鹿本中学交差点を過ぎ菅原橋交差点に。菅原橋交差点のところから小松川境川親水公園に入る。

小松川境川親水公園
川筋はほぼ千葉街道に沿って進む。整備された遊歩道が続く。さすがに親水公園発祥の区。中央森林公園を越えたあたりで北から下ってきたもう一筋の川筋と合流。この流れも小松川境川。総武線と環七の交差するあたりまで流路っぽい川筋跡が地図に見える。名前の由来は、上・下だったか、南・北だったか、ともあれふたつの小松川村の境を流れていたため。
本一色地区を進み中央1丁目と新小岩3丁目の境を進む。平和橋通りと千葉街道が交差するところが八蔵橋。八蔵の由来は、このあたりに住んでいた無頼漢の名前。江戸から来るヤクザ者を青竹で追い返すのが役目であった、とか。

江戸川区郷土資料室
少し進むと「グリーンパレス」。江戸川区の郷土資料室がある。例によって『江戸川区の史跡と名所』『江戸川区の文化財』『古文書に見る江戸時代の村と暮らし (2):街道と水運』といった資料を購入。本一色の由来は不明。本来「一色」とは免税田のこと。が、この地に免税田の記録はない、と。

仲台院・将軍の御膳所
先に進む。京葉通りにかかる境川橋の下をくぐり、今井街道、首都高速7号・小松川線を越える。左手に仲台院。将軍の鷹狩の折、食事をとったり休憩したりする御膳所。吉宗など江戸川区だけでも76回も鷹狩に訪れている。幕府直轄地である江戸川区一体は鷹場として指定されていたわけだが、鷹狩の度に農作業を止めなければならない農民にとっては迷惑なことであったの、かも。
境内に加納甚内の墓。元は牧戸甚内。代々紀州侯お抱えの綱差役。綱差役とは、鷹狩のターゲットとなる鶴の餌付けをする人。早い話が、将軍が放つ鷹は必ず獲物を取れるように段取りを組む人、ということ。吉宗が将軍になるにおよんで、紀州より召しだされ、西小松川に居えを構える。で、この甚内さん、単に綱差役だけでなく、新田開発にもつとめる。その新田は「綱差新田」と呼ばれた。


善照寺
親水公園に沿って寿光院、源法寺、永福寺、宝積院と、お寺が続く。永福寺など、結構品のいいお寺さま。親水公園が中川に合流するあたりに善照寺。威風堂々のお寺。将軍家光より六石の御朱印地を受けている。六石って多いのか少ないのか、その有り難味はわからない。が、一石というと、大人ひとりが1年間食べられるお米ということではある。このお寺、江戸川区で最初の公立学校「葛西学校」が開校された。


白髭神社・浮洲浅間神社
寺の直ぐ近くに白髭神社。もとは浮洲浅間神社。神社の古鏡に天平11年(739年)の銘もある、江戸川区最古の神社のひとつ、と言われる。昔々、漁師が潮待ち。浅間さまの札が流れてくる。その札を埋め置いたところにだんだん砂がたまってくる。で、そこにお宮を建てた、とか。中川・荒川放水路開削の折、白髭神社に合祀され、今に至る。

一之江境川から都営新宿線・一之江駅
これから先は、今井街道進み、行徳に出る予定、ではあった。今井街道は昔の行徳道。小松川3丁目を越え、船堀街道と交差し松江、一之江と進み、今井橋で旧江戸川を渡るり行徳にでる。松江の由来は小松川の「松」と一之江の「江」を足したもの。一之江ははっきりしない。が、江の意味からして「入り江」といった地形を表す一体であったのだろう。
が、成り行きで進んでいると、突然、一之江境川に交差。そして直ぐに新大橋通りに出でしまった。東に進んで行徳道に当たるはずが、どうも南東に進んでいたよう。結局、行徳道を下るのをあきらめ、新大橋通りを東に進み、春江町にある葛西工業高校前で環七を北に折れ、都営新宿線・一之江駅に。一路家路へと。


逗子、名越・釈迦堂の切通し、そして祇園ハイキングコースへ
逗子からのアプローチ。名越の切通しを超えて鎌倉に入ることになる。その後は、お寺を巡りながら釈迦堂切通しに。ついで祇園山ハイキングコースを歩きJR鎌倉駅に、といったコース。通常、切通しは鎌倉と周辺地域とのゲートウエイではあるが、釈迦堂切通しは鎌倉市内のバイパスといったもの。この名越の地は北条一門の館があったところである。朝比奈方面からのアプローチを容易にするため、山が削られたのであろう、か。残念ながら崩落のおそれありと、通行禁止となっていた。











本日のコース;JR逗子駅>池田通り>久木郵便局前>小坪入口>岩殿寺>久木ハイランド入口>法性寺>名越切通し>まんだら堂>安国寺>妙法寺>釈迦堂切通し>大宝寺>安養院>八雲神社>祇園山ハイキングコース>高時切腹やぐら>東勝寺跡>宝戒寺>妙本寺>JR鎌倉駅

逗子駅
名越の切り通しへのアプローチを三浦半島方面から攻めようと逗子駅下車。逗子の名前の由来は「厨子」から。市内、延命寺に弘法大師が設けた厨子があった、から。逗子といえば、徳富蘆花、泉鏡花などの作家がこの地に住んでいる。蘆花の代表作『不如帰』は逗子が舞台。文人墨客だけでなく政治家・実業家が別荘を設けているが、そのきっかけは葉山に御用邸が設けられた、ため。道路などの環境整備が進んだのであろう。ともあれ、散歩に出かける。駅前を池田通り、久木郵便局前、小坪入口の交差点に。交差点を少し行ったあたりに岩殿寺への案内。  (「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」

岩殿寺
坂東三十三観音第二番札所。頼朝とかその娘・大姫が足しげく通ったお寺。悲劇の姫君・大姫の話は、唐木順三さんの『あずまみちのく:(中公文庫)』に詳しい。民家の間を通り、谷戸というか谷津の奥に進むと岩殿寺、ガンデンジ、と読む。岩窟が自然の社のように見えることが名前の由来。山の斜面に観音堂、鐘楼堂が建つ。全体の雰囲気は大和・長谷寺を小ぶりにした感じだなあ、と思っていたら、長谷寺の開基徳道上人が、この地で熊野権現の化身に逢ったとの寺伝。
開創は僧行基とか。十一面観音の石像を安置し本尊とする。で、この観音様は頼朝の生涯の守り本尊。石橋山の戦いに敗れた頼朝が安房に逃れるとき、観音さまが船頭として窮地を救ったとか。
建長寺での半僧坊伝説ではないけれど、船頭として窮地を救う話しって、多い。将軍家の信仰篤く御台所、大姫、実朝など一族の参詣もしばしば。『吾妻鏡』に「姫公岩殿観音堂に参りたもう」とある。正暦元年 (990)に花山法皇が、承安四年(1174)には後白河法皇が参詣したという。
熊野でしばしば顔を現した花山法皇もここにも登場。もっとも、花山法皇が関東に来たという事実はない。西国観音霊場を開いたという花山法皇の名前を出すことで、坂東観音霊場のブランドイメージを高めようとしたのだろう、か。
ともあれ、長い階段を 上り眺める谷津の景観は落ち着いて美しい。本堂左手にお稲荷さん(?)があり、右手には熊野社。どちらもそのまま先へ進んでいくと本堂の裏の山というか、 尾根道に。このまま名越に行けるか、とは思ったが、少し歩くと行き止まりではあった。階段を下り、元の道に戻る。ちなみに岩殿寺、明治の文豪・泉鏡花がすず女との恋愛模様の折り、逗子逗留。このお寺によく訪れたよう。鏡花の「普門品 ひねもす雨の桜かな」の句碑がある。泉鏡花の『逗子より』には、岩殿寺の在りし日の情景が描かれている。

法性寺
横須賀線に沿って鎌倉方面 に。久木ハイランド入口の交差点。横浜・横須賀道路の朝比奈インターで下り、朝比奈切通しというか、鎌 倉霊園の丘を越え、ハイランドの住宅街を登り下りし出てくるのがこの久木ハイランド入口。海岸道へのショートカットとしてよく使われる。交差点を進み、道路道が横須賀線と交差する手前を右に山、というか丘方面に進む。「法性寺・名越の切り通し」の案内。
猿畠山法性寺。日蓮宗のお寺。名越の山の反対側の谷(やつ)・松葉ケ谷に草庵を結んだ日蓮が、他宗派非難の激しさ故、鎌倉中の僧門から迫害を受け、草庵を焼き討ちされた。そのとき、山王権現の化身である数匹の白猿が現れ、名越の尾根沿いにこの法性寺の地まで日蓮を導く。で、岩窟に身を隠し法難から遁れた、という白猿伝説が残る。
山王権現=日吉山王権現。日吉山王権現という名称は、神+仏+神仏習合の合作といった命名法。日吉は、もともと比叡山(日枝山)にあった山岳信仰の神々のこと。日枝(日吉)の神々がいた。次いで、伝教大師・最澄が比叡山に天台宗を開いき、法華護持の神祇として山王祠をつくる。山王祠は最澄が留学修行した中国天台山・山王祠を模したもの。ここで、日吉の神々と山王(仏)が合体。権現は仏が神という仮(権)の姿で現れている、という意味。つまりは、仏さまが日吉の神々という仮の姿で現れ、衆生済度するということ。本地垂迹というか神仏習合というか、仏教普及の日本的やり方、とも。
境内の坂道を尾根に向って進む。頂上あたりに、仏殿。その脇にちょっとした岩山。山王権現がまつってある。ここが白猿伝説の岩窟のあたり、と。伝説は別にしても、ここからの眺めは素晴らしい。海が広がるのびやかな風景だ。それにしても、日蓮が危難に遭う時には、白いお猿が現れる。確か、房総から三浦に渡ろうとして猿島に流れ着いたときも、白猿が現れた、とか。ともあれ、この猿畠山から墓地横の道を抜け、 尾根に進む。途中山肌に「やぐら」。磨り減った石段を登る。尾根に出る。「右・大切岸。左・名越切通し」の道標。

大切岸
名越の逆方向、右に行く。大切岸(おおきりぎし)がある。石切の跡とも、巨大な防御崖とも言われる大切岸に向い結構歩くが、どこにあるのか良く分からない。道標がない。足元の崖がそうなんだろうが、尾根から見れるわけでもない。どんどん進む。この先は一体何処まで。ハイランドへと続く尾根道だろうが、途中まで進み引き返し、名越の切り通しに向う。大切岸は法性寺からの尾根道で見るのがいい。






名越の切通し
途中、落葉樹と照葉樹に囲まれたコジンマリした広場。無縁仏をまつる石碑。少し下ると名越の切通し。大岩がゴロゴロしている。切り取った岩が転がっているだけなのか、防御用の意図的ものなのか、ともあれ野趣豊か。
名越の切通しは鎌倉七切通しのひとつ。鎌倉東南の出入り口。古代から旧東海道と思われるルートが名越の坂をこえて沼浜(ぬはま;逗子)に通っていた。名越の切通しは三浦半島から房総へと至る交通の要衝であった、とか。すこし下り気味に進むと「まんだら堂」への入口。普段は文化財調査のため工事・閉鎖中。 が、今回は幸運にも公開日にあたる。
「やぐら」群。石仏、というか石を積み重ねた仏様。石仏を見ながらしばし休息。切り通しに戻る。途中の崖にも「やぐら」の横穴が口を開いている。垂直に切り立った、いかにも切り通し、といったところを越えると山道が途切れ突然平地に。亀ヶ岡団地のはずれ。ちょっと団地の中を進むが、海岸線まで結構ありそう。で、名越切通しに引き返し、先日と同じルートを大町に下りる。

安国論寺
横須賀線にそって進み、逗子から続く県道に出る。長勝寺交差点で横須賀線を越え、道なりに進む。安国論寺が。日蓮宗の寺院。建長5年(1253)、安房から鎌倉に入った日蓮上人がこの地・松葉ケ谷(やつ)に来て、初めて草庵を結んだ所の一つ。この草庵で「立正安国論」を著して前執権・北条時頼に建白。為に、幾多の法難を受け、法性寺の白猿伝説と相成る。






妙法寺
道なりに行くと妙法寺。同じく日蓮上人が松葉ケ谷に結んだ草庵のひとつ。日蓮宗最初の場所。護良親王の遺子・日叡が、亡き父の菩提を弔ったお寺でもある。松葉ケ谷の草庵って、一体何処だったのか確定はしていないよう。いくつかのお寺が、「我こそは」といった由来を書いてある。道なりに歩く。








釈迦堂切通し
釈迦堂切通し「釈迦堂切通し」の道標。小さく通行止め、と書いてある。が、とりあえず進む。谷(やつ)の奥まったところに、釈迦堂切通し。切り通し、というより、岩をくり貫いた洞門のよう。洞門の向こうは釈迦堂谷戸。三代執権泰時が父である二代執権義時の菩提をとむらうべく建立した釈迦堂があったのが名前の由来。が、現在それがどこにあったか不明とのこと。
釈迦堂切通しの近くに「北条時政名越山荘」と伝えられる跡地がある、とのこと。立ち入り禁止のようだが、ここは時政の屋敷跡、政子の御産所とも、浜の御所とも。鎌倉の七つの切り通しの地には北条一族の館がある。外敵に対する抑えの意味をもつ。この地は、三浦半島への交通の 要衝。三浦半島に勢力をもつ頼朝以来の有力御家人、三浦一族に対する押さえとして住まいしたものだろうか。地図をよくよく確認すると、釈迦堂切通しの上の山は、先日登った衣張山。眺めが素晴らしいところ。ともあれ、この切通し、他の切通しは鎌倉と外部とのゲートウエイではあるが、ここは金沢街道から名越地区へのショーカット、鎌倉内部の連絡路。この地区に館を構える北条一門の力の象徴と考えてもいいかもしれない。ちなみに、時政の浜の御所、横須賀線を挟んで松葉ケ谷の反対側、海に近い谷・弁ケ谷、新善光寺のあたり、という説もある。
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安養寺・別寺
通りに戻る。道脇に安養院。北条政子の法名でもある浄土宗のこのお寺、政子が頼朝の菩提をとむらうために建立した長楽寺がその前身。別願寺。鎌倉における時宗の中心となった寺。室町時代には足利一門の信仰篤く、鎌倉公方代々 の菩提寺であった、とか。









八雲神社
別願寺から少し、大町四つ角手前を右に。八雲神社。祇園ハイキングコースの入り口がこの神社の境内にある。鎌倉最古の「厄除開運」の社。鎌倉で疫病が流行し、多くの人々が苦しむ様子をみた 八幡太郎義家の弟である新羅三郎・源義光が京都祇園社の祭神をここに勧請したのが始まり、と。祇園社の祭神、って「牛頭天王(ごずてんのう)」。牛頭天王は朝鮮半島慶尚道楽浪郡にある牛頭山に祀られる神さま。その名前をスサノオ,と言う。スサノオノミコトが朝鮮半島の神様である、というのも驚きだ。この話しは、鈴木理生さんの『江戸の町は骨だらけ』に詳しい。「桜桃書房」、または「ちくま学術文庫」から出ている。ともあれ、この牛頭天王社、明治の神仏混交廃止令によって「天王・明神・権現」といった神仏習合の呼び名が禁止され、多くののところが、八雲神社と改名されている。この八雲神社もその伝、であろう。

祇園山ハイキングコース
ハイキングコースに上る。どこに続いているのだろう。うまくゆけば衣張山まで尾根が続いているかも、などと思いを巡らしながら登る。木立が茂りそれほど眺めはよくない。しかし、いい雰囲気のハイキングコース。尾根道を進む。15分か20分程度歩いたであろうか、道は急に下りはじめる。
北条高時の「腹きりやぐら」 下り切ったところに北条高時の「腹きりやぐら」。新田義貞の鎌倉攻めのとき、十四代北条高時一族郎党この地で自刃。「今ヤ一面ニ焔煙ノ漲ル所トナレルヲ望見シツツ一族門葉八百七十余人ト共ニ自刃ス」、と。北条家滅亡の地である。近くに東勝寺跡地。北条一門の菩提寺。三代執権泰時が建立した臨済宗の禅寺。北条一族滅亡の折、焼失。室町に再興され関東十刹の第三位。その後戦国時代に廃絶。いまは石碑のみ。

東勝寺橋
先に進むと滑川にかかる東勝寺橋。青砥藤綱の銭さらいの話の舞台。ある夜、この橋の辺りで、誤って十文の銭を落とす。
五十文で松明を買い、川ざらい。落とした銭をみつける。「愚かなり」と笑う人に、「十文は小なりと雖(いえども) 之を失へば天下の貨を損ぜん 五十文は我に損なりと雖(いえども) 亦(また)人に 益す 旨を訓せしといふ 即ち其の物語は 此辺に於て演ぜられしものならんと伝へらる(10文は小なりといえど失えば天下の損。50文の出費は自分には 損だが、人々のためになったのだからそれでよい)」と。
ちなみに、葛飾区青戸七丁目・環七沿いにある御殿山公園(葛西城址)は青砥藤綱の邸宅跡との説も。地名が青戸であるのに、京成線の駅名が青砥であるのは、このあたりに由来するの、かも。橋を渡ると右手に宝戒寺。左折し若宮王子幕府跡あたりから若宮王子をとおりJR鎌倉駅に戻る。

先回は鎌倉へ西からのアプローチ。今回は東から。朝比奈の切通しを越えて鎌倉に入ることになる。そのあとはお寺様を巡りながら衣張山に。ちょっとした山登り、といった雰囲気ではあるが、山頂から見下ろす鎌倉の眺めはすばらしい。普通は、この山を下ったら市内へと、という段取りだろうが、勢いに任せて名越の切通しまで進んでしまった。



本日のコース:京急線・金沢八景駅 > 上行寺 > 朝夷奈切通し > 熊野神社 > 峠・磨崖仏 > 十二所神社 > 浄明寺 > 報国寺 > 衣張山 > 巡礼古道 > 名越切通し > 八雲神社 > JR鎌倉駅

京急線・金沢八景下車
京急線・金沢八景下車。最初の目的地「朝比奈切り通し」の最寄りのバスは朝比奈バス停。バスもいいが、今回は歩くことに。国道16号線を六浦の交差点へ。交差点で右折し横浜・横須賀道路の朝比奈インター方面に。金沢の地名は秩父の金沢郷、から。源氏武士の華・畠山重忠一党が、現在の釜利谷のあたりに住まいした。重忠に従って来たものの中には鍛冶職人も多く、地名を「金沢」としたとのことである。釜利谷のある谷戸には、重忠ゆかりの地も多い。金沢八景は、江戸期、妙見台から眺めた景色が美しく、明の名勝地にちなんで名づけられた。 (「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)

上行寺
道沿いに上行寺。日蓮上人ゆかりの寺。当時、この寺あたりが海岸線。元は真言宗・金勝寺。日蓮上人が千葉・下総と鎌倉を往復する際に、船中にて在地豪族と問答。結果、真言宗から日蓮宗に改宗。これが「船中問答」。六浦地区を越え、大道地区に。道脇に摩崖仏。往時、この「鼻欠け地蔵」の手前を右に入り、天園の尾根道から鎌倉に入る道があった。天園ハイキングコースを歩いていたとき、いかにも釜利谷方面に抜けるような道筋があったが、朝比奈の切り通しができるまでは、こういった尾根道を通って鎌倉に入っていたのだろう。

朝夷奈切通し
朝比奈切通し朝比奈バス停から、すこし進んだところに「朝夷奈切通し 200メートル」の掲示。朝比奈?朝夷奈?一夜のうちに峠を切り開いたとされる「朝夷奈」三郎義秀の名前を忠実に峠道に使っているのだろうか。真偽のほど不明。ともあれ、左折し朝夷奈切通しの横浜側のスタート地点に。由来書:鎌倉七切通しのひとつ。国指定史跡。執権北条泰時が鎌倉と六浦を結ぶ道の開鑿を決定。朝執権自ら監督、と。鎌倉の外港、下総などとの窓口・六浦との連絡を容易にし、東国の物資、また塩を鎌倉にもたらす戦略道路としての位置づけであったのだろう。
峠道への入口には、お地蔵さまが迎えてくれる。野趣豊かな道を進む。すぐ、横浜・横須賀道路の下をくぐる。石が多く足場のよくない坂を登る。峠の手間に「熊野神社左」のサイン。朝夷奈切通しの工事の無事をいのって頼朝が熊野三社を勧請したと。熊野神社に向う。この道も朝夷奈切通しができるまでは鎌倉に通じる尾根道。谷へと下り、そして太 刀洗方面に至るルートがあるのだろう。神社まではそれほど遠くない。5分程度か。到着。
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熊野神社
神社の階段スタート地点に鉄の進入禁止柵。なんのため?意味不明。階段を上りおまいり。先日読んでいた大田道潅を主人公とした小説にこの神社が登場していた。狩のみぎり、突然の雨。山家に駆け込み蓑の借用を申し出 る。その家の娘、無言のまま、八重の山吹を盆に載せ差し出す。"実の"つかない八重の山吹。家が貧しく、"蓑"一つさえも無いことを婉曲に伝え詫びたもの。
道潅、わけもわからず不機嫌に帰館。家臣のひとりが、娘が旧歌で返答したのだと。「七重八重、花は咲けども山吹の、実の〈簑〉一つだになきぞ悲し き」。道潅、己が無学を恥じ、爾来研鑽を重ね、歌人としても名を成すに至った、そのきっかけとなった出来事の舞台がこのあたり。
もっとも、この山吹の里って、散歩の途中であっただけでも数箇所ある。埼玉・越生、都内豊島区の高田地区、などなど。それだけ道灌が人気者であった、ということ、か。峠・磨崖仏、そしてお地蔵さま。
ともあれ、おまいりを済ませ、分岐へと戻る。峠を越えた下り道は水多し。湧き水だろうが、道を湿らす。足場よくない。途中、朝比奈切通しの由緒書が再び。そのあたりは、真に崖が切り取られている。磨崖仏も。結構な景観。道端にお地蔵さま。いい表情。更に坂を下り、出口、というか、鎌倉側の切通し入口に。水量の多い滝があった。三郎の滝。朝夷奈三郎から来たもの。平地を十二所方面に。太刀洗川に沿って歩く。梶原景時の太刀洗水があるとのことだが、見落とした。滑川と合流。すぐ先で朝比奈峠を越え鎌倉霊園から鎌倉に入る車道に出る。十二所は道の反対側。

十二所神社
十二所神社自体は結構さっぱりした神社。熊野十二所権現社として近くの光触寺境内にあったものがここに移されたと言われる。十二所権現って熊野三山の神を勧請したもの。
熊野三山とは熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社の総称。熊野の各社はそれぞれの主神を互いに勧請仕合っており、各社3つの神を祀る。
更に各社には共通の神さんとして「天照大神」が祀られる。ために、1社=4神、その三倍で12柱となる。これをもって、熊野十二所権現社と称した。十二所=十二社。そう言えば、新宿西口に十二社が。
そのすぐそばに熊野神社がある。納得。で、光触寺、こじんまりしたお寺。塩嘗地蔵(しおなめじぞう)がある。道を往来する商人が初穂としてそなえていたのだろう。

浄明寺
稲荷小路、宇佐小路、明石地区と歩く。明石橋の交差点。左に坂を登れば、ハイランド住宅街。この道は逗子の駅前に抜ける近道としてよく利用した。道なりに直進。浄明寺地区に。道の北側に浄妙寺。浄明寺?浄妙寺?地区名と寺の名前が異なる。往古このあたりは浄妙村だった。が、江戸時代になり、浄妙寺中興の祖・足利貞氏の戒名が「浄妙寺殿」。畏れ多いということで、村の名前を浄「明」寺とした、と。で、この寺、鎌倉五山の第五位、結構あっさりとしたお寺さん。これといった印象に乏しい。境内の石窯ガーデンといった小洒落たカフェでお茶ができるのはいいかも。

報国寺
報国寺道の反対側に人が多い。報国寺への人波、か。臨済宗建長寺派の禅寺。足利貞氏(浄明寺中興の祖)の父・家時(尊氏の祖父)が開く。永享の乱のおり、幕府・関東管領軍に破れ、永安寺で自刃した鎌倉公方・足利持氏の長子・義久が自刃した寺でもある。悲劇の話はともかく、かやぶきの鐘楼などなんとなくいい感じ。拝観料を200円払う。何があるのか、と思ったが、孟宗竹の茂る庭園、やぐらを借景にした庭の拝観料といったところ。一周し寺をでる。
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衣張山
山というか崖に沿って歩く。極力崖から離れないように歩いていると、「衣張山まで15分」といったしごく控えめな案内板。15分ならちょっと上り、戻ればいいか、と思ったのが、鎌倉散歩の中でも最高の眺めを楽しめることになる、衣張山へのプレリュード。
衣張山に向かって登る。結構きつい登り。15分? そんなはずはない。結構登る。森は深い。どこまで続くのか、と少々の後悔をしながら登る。山が開ける。尾根近くに。展望コースという掲示。
ハイランド住宅地方面が一望。途中、石切り場跡地。中に入るも少々気味悪く、すぐ退散。すぐに上り道。頂上。ここからの眺め、本当に素晴らしい。鎌倉の街並み、山々、相模湾、すべて一望のもと。天園ハイキングコースの峠の茶屋からの眺め以上、か。

衣張山の名前は、北条政子が、夏の暑い日にこの山を白い絹布でカバーし、冬山に見立て涼をとったという話に由来する。こんな大層な話はともかく、確か北条一族は、三浦半島地区に勢力をもつ三浦一族にそなえるため、名越地区に館をかまえていたはず。この山の近くの釈迦堂の切り通し付近という説、海より光明寺近く、弁ケ谷近くといった説もある。が、 ともあれ、このあたりが北条一族の本拠地。政子の話もこの地区における北条一族の力の象徴と意味合いとすれば納得。

巡礼古道
名残惜しくはある。が、頂上にあるお地蔵さんのお顔を心に留めながら下山。上りとは逆方向の下り道へ。結構長い。下っていたと思ったら、また登る。本当に大丈夫か、と不安になったころ麓、というか住宅地に。ハイランド住宅地区の一部だろうから、正確には未だ山の上のハズ。
掲示で、「左 巡礼古道5分、報国寺20分」「右 名越切り通し15分」。巡礼古道の名前に惹かれ、左に進む。5分行って、すぐ戻り、名越切通しへ、と決めた。左に進む。広い芝生の公園。遊歩道を進む。
住宅地の道路に出る。左手、山道方向に「巡礼古道」のサイン。報国寺まで15分と。最初は入口の雰囲気だけ、と思っていたのだが、やはり巡礼、しかも古道、これは歩くにしかず、ということで予定変更、報国寺まで歩く。
巡礼古道。かつて鎌倉ニ街道・杉本寺のあたりから逗子駅近くの岩殿寺にかけて巡礼の道があった。頼朝は岩殿寺の観音様を守り本尊しており、毎月18日の観音様の縁日には、必ず月詣にこの巡礼道を辿ったと「吾妻鏡」 は伝えている。現在ではハイランド住宅地の開発により、大半が潰え去ったが、一部、報国寺裏手から崖線に沿ってハイランド住宅地の瑞まで残っているってことのようだ。 崖道は誠に、いい感じ。道の途中に庚申塚、石仏・金剛窟地蔵尊も。森は深い。谷も深い。衣張山頂から、大して下りていなかったということだ。下り道。足を踏み外せば谷底に、といった急峻な道。道が開け、住宅街、報国寺の屋根が見下ろせるあたりまで下る。

名越切通し
もとの分岐に戻り、名越切り通しへ。このとき、名越切り通し、って舗装道路、幹線道路って勝手に決めていた。後になってわかったのだが、これって大間違い。極楽坂の切り通しと混同していたよう。ハイランド住宅地の外周部、 崖に沿って散歩道を進む。子ども自然ふれあいの森を越えたあたりから山道へ。結構進む。尾根道近く一軒の住宅が見えた。その家の裏、狭い道を進む。野趣豊か。どこまで続く?麓は未だか?不安になりはじめたころ、少し大きな道と合流。名越の切り通しの案内。
尾根道から名越の切り通しへの合流地点はごつごつした岩場。左に行けば逗子。右に行けば鎌倉市内に戻る。切り通しを越えて逗子に至る山道は往古、鎌倉を東西に走る二本の幹線道路のひとつ。相模と千葉・房総を結んでいた。名越の切り通しの道は、海側東西道。旧東海道である。ちなみにもうひとつの東西道は、朝比奈切通しから六浦に抜ける山側東西道、である。
右方向に進む。下り道。いい感じの道。すこし歩くと道が開き眼下に横須賀線が。足元はトンネル。横須賀線にそって崖道を下る。大町5丁目。 降りきったところで踏み切りを左に。少し歩き、交通量の多い道に当たり、道なりに踏み切りを右に渡る。鎌倉駅まで1キロ弱、といったところ。

八雲神社

駅への途中、八雲神社。仕上げも兼ねお参り。鎌倉最古の厄除け神社。八幡太郎義家の弟、新羅三郎義光が疫病退散を祈願し京都祇園の八坂神社を勧請したもの。社殿裏から祇園ハイキングコースのサイン。道なりに歩き、鎌倉駅に到着。

今回は北鎌倉からのアプローチはお休み。鎌倉に西から入る。まずは鎌倉山のさくら道からスタート。途中、バスを利用しながらJR鎌倉駅に。そこからは、お寺様を巡りながら東に進み、東端・瑞泉寺に。そこから「天園ハイキングコース」に入り、北鎌倉へと歩く。天園ハイキングコースは、北鎌倉の建長寺からこの瑞泉寺まで続いているのだが、先回、途中で覚園寺に下りたため、再び尾根道にのぼることに。見所多い鎌倉ゆえに、選択肢は多い。







本日のコース:湘南モノレール・西鎌倉駅 > 鎌倉山さくら道 > 常盤口バス停 > JR 鎌倉駅 > 鶴岡八幡宮表参道 > 宝戒寺 > 永福寺 > 瑞泉寺 > 天園ハイキングコース > 貝吹地蔵 > 天園峠の茶屋 > 大平山 > 勝上嶽 > 明月院 > JR 北鎌倉駅

湘南モノレール・西鎌倉駅
スタートは湘南モノレールの西鎌倉駅。JR渋谷で湘南新宿ライン平塚行きに乗る。車中、大船で乗り換え、湘南モノレールの西鎌倉下車。昭和のはじめ、大船から江ノ島に通じる自動車専用道路ができ、それがきかっけとなってこのあたりが開けた、と。モノレールができ、古都鎌倉とは趣をことにする都市開発が一段と進んだことであろう。

鎌倉さくら道
スタートは湘南モノレールの西鎌倉駅。JR渋谷で湘南新宿ライン平塚行きに乗る。車中、大船で乗り換え、湘南モノレールの西鎌倉下車。昭和のはじめ、大船から江ノ島に通じる自動車専用道路ができ、それがきかっけとなってこのあたりが開けた、と。モノレールができ、古都鎌倉とは趣をことにする都市開発が一段と進んだことであろう。
モノレールに沿って北東に上り鎌倉山のロータリーに。「鎌倉山さくら道」の表示。当初、鎌倉山、とかいうくらいであるので、結構歴史のあるところかと思っていた。が、実際は、昭和初期、この先ほどの自動車専用道路の開通を待って始まった宅地開発の際に命名された、とか。実際の鎌倉山、って八幡宮の裏山である「大臣山」とも言われるが、定まったものではない、と。
住宅街が続く。山道・尾根道とは異なり、車の走る道。名前のとおり、桜並木は春には美しい、かと。道なりに歩く。鎌倉山1丁目、峠といっていいのかどうかわからないが、坂道を上りきったころから鎌倉の平地が眺められる。美しい。
『だれも書かなかった鎌倉;金子晋(講談社)』によれば、明治の頃、この地に国木田独歩が住んでいた、と。ある日田山花袋などととともに鎌倉山に上り、そのときの風景を描いた記事がある;「北の地平線は武蔵野、極目さへぎるものがない、また大山よりかけて武蔵の国境をめぐる連山!箱根足柄の諸山よりかけ伊豆の岬角に連なる山脈!此等の諸山を圧して立つ富士!大磯小磯の浜つづき、峰づたいに眺めつつ、路、林に入れば憩い、林を出づれば大洋!水平線は思いがけない所に高く一線を画して居る、小坪、葉山の磯は指点すべく、三浦の岬は遠く水平線に没しておる(『鎌倉の裏山』)。まさしく美しい景観である。
笛田公園の傍をくだり市役所通りと交差、常盤口に。車の往来激しい。この道は昔の深沢道。西の湘南モノレールあたりに深沢という地名があるが、そこに名前の由来があるのだろうか。ともあれ、この深沢道は昔の鎌倉に入るメーンルート。いまでは、北鎌倉から鎌倉を訪れる人も多いが、それはJR大船線ができて以来。それ以前はこの深沢道を通って山越えで大仏前に出るか、それでもなければ、藤沢宿から江ノ島を横手に見ての渚渡りしかなかったようである(『だれも書かなかった鎌倉;金子晋(講談社)』)。ここからはバスに乗り、鎌倉駅に。

JR鎌倉駅
JR鎌倉駅からは、鎌倉市内を一気に東端まで歩き、天園ハイキングコースの東端・瑞泉寺に行く。そして、そこから西へと戻ることにした。

鶴岡八幡宮表参道

鶴岡八幡参道鎌倉駅下車。段葛を鶴岡八幡宮前まで歩く。段葛は鶴岡八幡宮の表参道、二ノ鳥居から三ノ鳥居までの道の中央の一段高い歩道。500mにわたり桜並木が続いている。碑文によれば、「置石(おきいし)とも。妻の政子の安産の願いを込 めて、頼朝が、この参道を築く。その土や石を北条時政(ときまさ)をはじめとした多くの武将たちが運んだ。明治はじめに、二の鳥居から南の方の道が無く なった」と。司馬遼太郎さんの『街道を行く;相模半島』だったと思うが、一段高くしているのは、山地に囲まれた鎌倉、雨が降れば土砂・ぬかるみ激しく、足 元を安んずるため、といった記述があったよう。
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宝戒寺

八幡宮前右折。すこし進むと宝戒寺。開基は後醍醐天皇。二代執権・北条義時以来、北条執権家の跡地。西暦1333年(元弘三年)新田義貞により鎌倉幕府滅亡。北条一門も滅ぶ。北条九代の菩提をとむらい人材養成のため、後醍醐天皇の命により足利尊氏が 建てた天台宗の寺。金沢街道を進み、「岐れ道」という地名の分岐点をお宮通りに入り、鎌倉宮方面に。鎌倉宮前を右折。

永福寺
しばらくいくと永福寺跡。「えいふくじ」ではなく「ようふくじ」。開基は源頼朝。奥州平泉を攻め落とし、頼朝は鎌倉に凱旋。平泉の中尊寺大長寿院(二階大堂)をモデルに、永福寺・二階大堂の建立を決定。奥州征討の戦死者を祀ることが目的。ちなみに、このあたりの二階堂という地名はこのお寺・二階大堂から。おちついた住宅街を進み瑞泉寺に。

瑞泉寺
瑞泉寺瑞泉寺は鎌倉幕府の重臣・二階堂道蘊が瑞泉院として建立。足利尊氏の四男・鎌倉公方・足利基氏が瑞泉寺に。中興の祖となる。以降、鎌倉公方の菩提寺となり、鎌倉五山に次ぐ関東十刹の第一位の格式を誇る。臨済宗円覚寺派。いい雰囲気のお寺さん。品がいい。素敵な邸宅といった趣。庭もいい感じ。夢想疎石作との伝え。夢想疎石は京都の苔寺・西芳寺や天竜寺といった庭園で有名な寺院も後につくっている。鎌倉期唯一の庭園として国の名勝に指定されているのも納得。そういえばこの夢想疎石、鎌倉の浄智寺の住職、円覚寺の住職も歴任した仏教界の重鎮。政治との関わり。も深く、後醍醐天皇や北条、足利氏と交わったと。円覚寺の開祖・無学祖元の流れを汲む高僧である。
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天園ハイキングコース
瑞泉寺を出て、天園ハイキングコースへ。瑞泉寺の入口にハイキングコースの掲示が。掲示に従って動いたはずだが、住宅街の中で道に迷う。元に戻る。道脇にほんの人ひとり通れるくらいの細い道。これがハイキングコースの入口。多くの人は見逃すだろうな。ともあれ、山道を建長寺に向かって歩く。

貝吹地蔵
野趣豊かな尾根道を上るとお地蔵さん。貝吹地蔵。新田義貞軍に破れ、北条高時自害。その首を守りながら敗走する北条氏の部下たちを助けるべく、貝を吹き鳴らして 先導したという伝説のある地蔵。

天園峠の茶屋
アップダウンの山道を歩くと天園峠の茶屋。ちょっと休憩。眼下の鎌倉の山々が美しい。相模湾も光っている。天園は別名、「六国峠」とも。武蔵、相模、上総、下総、伊豆、駿河が望めることができたから。このあたりは一部舗装。左手は鬱蒼とした森、右手はゴルフコース。このアンバランスはかえって新鮮。

大平山の頂
天園一部舗装の道を進み、ゴルフ場のクラブハウスっぽい建物の横、広場を通ると眼前に岩場。岩場を上り、大平山の頂上に。鎌倉アルプスの最高峰、といっても159メートル。鎌倉アルプスの尾根道を進む。アップダウン、心地よい。道脇には無数の「やぐら」が。更に進むと覚園寺分岐に。更に尾根道を。左手は深い山々、右手は民家が迫る。このアンバランス。
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勝上嶽
勝上嶽に。道案内に「明月院方面は右」と。まっすぐ進めば半僧坊から建長寺総門まで30分弱。はてさて、と一瞬の迷い。あじさい寺としても有名 な、明月院、ってどんなお寺さんかといった興味もあり結局右手に進む。狭いブッシュの多い下り道を進むと、宅地・住宅街に出る。ハイキングコースの掲示に瑞泉寺からここまで4.1キロと書いてあった。

明月院
明月院宅地を道なり、というか適当に歩き、明月院・北鎌倉駅への掲示を見つける。駅まで1.5キロ程度。左に折れ、坂道を結構下る。結構歩く。明月院前。このお寺も関東十刹のひとつ。もとは北条時頼の建てた最明寺。その跡に、子の時宗が禅興寺を建立。明月院はこの塔頭として室町時代、関東管領上杉憲方によって建てられた。将軍足利氏満の命による、と。室町幕府三代将軍・足利義満の時代に禅興寺は関東十刹の一位となる。が、明治初年に禅興寺は廃寺となり、明月院だけが残る。明月院は〝アジサイ寺″として有名。 鎌倉十井の一つ「瓶ノ井(つるべのい)」がある。やぐらは鎌倉時代最大のもの、である。後は一路JR北鎌倉駅に。
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ずっと気になっていた天園ハイキングコースも走破、というほど大そうなものではないけれど、ともあれ全コースを歩き終えた。本当にいい感じの山の散歩道。葛原岡ハイキングコースも大仏ハイキングコースもよかった。鎌倉は三方を山に囲まれたた要害の地で、鎌倉と他地との往来は七つの切り通しが、といった記述も歩いてみた本当にそのとおり、と実感。地形図をご覧のとおりである。
エトアニア室内管弦楽団の演奏会がきっかけで鎌倉に来た。1回のつもりが3回になってしまった。鎌倉にそれほど興味があったわけではないが、山の散歩道の素晴らしさ惹かれたのだろう。
で、メモをする過程で鎌倉とか頼朝とか北条とか、いろいろ整理することができた、いくつか気になることをメモしておく。真偽のほど定かならず。自分だけが納得
。 1. 鎌倉に「幕府」はなかった。「幕府」とは一種の戦地作戦参謀室といったもの。鎌倉幕府と呼ばれたのは、徳川幕府ができてから。徳川幕府と区別するために、以降鎌倉幕府と呼ばれるようになった。で、鎌倉時代には「鎌倉殿」とだけ呼ばれていた。
2. 頼朝の鎌倉武士政権の歴史的意味は、律令制に対するアンチ・テーゼとして。律令制の根幹をなす、「公地公民=土地はすべて国のもの」に対し、開拓民というか屯田兵というか、ともあれ、武士が「自分で開拓し切り開いた土地は自分のもの」という主張を明確にしめした。律令制度の崩壊を決定的にしたこと。
3. 頼朝といったところで、御大将というよりも、関東武士団の対朝廷土地問題利益代理人といったところ。関東の土地問題を公平に裁き、その土地の所有権を朝廷から認めさすのが最大で唯一の職務。
4. 源氏は三代で滅ぶ。そのあと北条氏が執権として将軍を補佐。実質的に政権を動かす。で、将軍は?藤原氏や天皇家から将軍を迎えていた。いうまでもなく北条の傀儡将軍。 5. 北条氏って、頼朝時代の政子、時宗、滅亡時の高時など、あまりいい感じの人物がいないと思っていた。が、北条泰時さん。結構格好いい。じっくり調べて見たい人物、というのが今回わかった。
快適な3つの散歩道と北条泰時という人物に「出会った」のがこの鎌倉散歩の大きな収獲であった。
二回目は北鎌倉から大仏様へと向かう尾根道のハイキングコースを歩く。大仏さまからは、再び東に戻り、佐助稲荷から源氏山を越えて、寿福寺脇に下る。本来であれば、葛原岡ハイキングコースから大仏ハイキングコース、そして江ノ島あたりでひとつ。葛原岡ハイキングコースから寿福寺、そして鎌倉市内がひとつ、といったものだが。今回は足に任せた欲張りなコースとなった、よう。ともあれ今回のコースは、野趣豊かなハイキングコースである。







本日のコース: JR 北鎌倉駅 > 葛原岡神社 > 日野俊基の墓 > 化粧坂 > 銭洗い弁天 > 大仏切通 > 鎌倉大仏 > 佐助稲荷 > 源氏山公園 > 寿福寺 > JR 鎌倉駅

葛原岡ハイキングコース
JR北鎌倉駅で下車。道を進み、浄智寺への入口に葛原岡ハイキングコース・大仏ハイキングコース入口の案内が。浄智寺脇>葛原岡公園>源氏山公園>大仏へと 続くよう。源氏山公園から化粧坂に戻ればいいと方針変更、このルートから源氏山に向かう。

浄智寺脇の坂をゆっくり上る。次第に山道。アップダウンも激しい。木の根っこに足を掛けながら登り下り。1キロ、20分か30分程度の尾根道だと思うのだが、結構な山道である。途中下り坂っぽい分岐もあるが、案内は見当たらない。ルートを外れたのかと不安になりながら進む。





葛原岡神社・日野俊基の墓
開けた場所に。「文章博士の日野俊基の神社はこちら」の案内。葛原岡公園に着く。文章博士とは、作文が上手な人っていうわけではない。律令制の大学で詩文、歴史等を教える大先生ってわけ。
太平記第二巻「俊基朝臣再び関東下向の事」に、 「落花の雪に踏み迷う、片野の春の桜狩り、紅葉の錦きて帰る、嵐の山の秋の暮れ、一夜を明かす程だにも、旅寝となれば物憂きに、恩愛(おんあい)の契り淺からぬ、我が故郷(ふるさと)の妻子(つまこ)をば、行方も知らず思いおき、年久しくも住みなれし、九重の帝都をば、今を限りと顧みて、思わぬ旅に出でた まう、心の中(うち)ぞ哀れなる」。
後醍醐天皇の意を受け、倒幕を計画。露見し逮捕され鎌倉送り。天皇の弁明もあり釈放。これが正中の変。これにめげず再 度倒幕計画。またまた発覚。元弘の変。再度鎌倉送り。上の文章はその折の作。きらびやかで、道行文の傑作とのことだが、内心はいかばかりか。重犯であり、 さすがに今回は助かるはずもなく、いつ殺されるかといった恐怖の中での文章。実際、この葛原で斬殺される。

化粧坂
葛原岡神社、日野俊基の墓をまわり、源氏山公園に向かう。道の途中に化粧坂。「化粧坂」の由来は、討ち取った平家の武将の首実検のため、化粧を施した、とか、坂の麓に遊女がいた、とかあれこれ。それよりも、ここは鎌倉七口のひとつであり、攻防戦の重要拠点。新田義貞の鎌倉攻めの場合も、この地で合戦があった。が、結局ここを破ることはできず、有名な稲村ヶ崎の渡り、鎌倉攻略と相成る。


源氏山公園
源氏山公園は白旗山、 旗立山とも。頼朝の祖先である源頼義、(八幡太郎)義家親子が後三年の役で奥州に向かう際、源氏の白旗を立て、勝利を祈願したことに由来する。頼朝も平家追討に際し、この地で戦勝を祈願したとか。頼朝の像もあった。
源氏山公園からハイキングコースはいくつか選択肢がある。化粧坂から海蔵寺へのルート、英勝寺に下りるルート(通れないとの案内があったよう)、寿福寺へ下りるルート、銭洗弁天へのルート、佐助稲荷へのルート、大仏ハイキングルート、など。今回は大仏ハイキングコースを歩くことにする。先回の天園コースに続き、鎌倉の尾根道を楽しむことになる。


銭洗弁天
大仏ハイキングコースに向かうとすぐ、「銭洗弁天へ、150メートル」の案内。ちょっと寄り道を。坂を下り、洞穴をくぐり弁才天に。頼朝が夢に現れた老人のお告げで岩から湧き出る霊水を発見。社を建てて宇賀福神=弁天さまを祀ったという言い伝え。この霊水、鎌倉五名水のひとつ。この水でお金を洗うとお金がたまるというが、ザルで小銭を洗うこともなく上之水神社に。脇からあふれ出る湧水が。また崖の中腹から滝のごとく水が流れ落ちる。素敵な眺め。コースに戻る。   (「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)

大仏ハイキングコース
大仏ハイキングコース降り口大仏ハイキングコース。公園からしばらくは民家ある眺め。道幅も広い。が、次第に本格的ハイキングコースに入っていく。葛原岡ハイキングコース同様、急な上り・下り、木の根に足を掛けての山道が続く。途中で道が二手に分かれる。標識がなかったのでなんともいえないが、佐助稲荷へ降りて行く道だったのだろう。ともあれ、道なり、と思しき踏み分け道を歩く。きつい下り坂を乗り越え平地に。大仏トンネルの脇に出た。
大仏坂切通しはこのあたりの、はず。残念ながら案内がなく切通し跡を訪ねることはできなかった。あとから調べると、このトンネルの北から切り通し跡の道が続いているようだが、トンネルの出口あたりで道は切れていた。次のお楽しみ、と。2キロ弱の山道ハイキングであった。
photo by Koichi Suzuki

鎌倉大仏・高徳院
600メートルほどで大仏さんのある高徳院に。あまりの人の多さに圧倒され、大仏さんは頭だけ外から眺め、スキップ。みやげ物屋が並ぶ長谷通りを下り、長谷観音前を左折。由比ガ浜大通りを東へと。次は平地を少し東に戻り佐助稲荷へと。


佐助稲荷
浄智寺由比ガ浜大通を歩く。道脇に平盛久の碑が。戦に破れた平盛久は捕らえられて鎌倉へ。処刑の日を迎えたが盛久を斬ろうとした刀が何故か折れてしまう。日頃から清水の観世音を深く信仰していた故か。頼朝に許された盛久は、これも観音のおかげと喜びの舞を舞ったとか。
笹目の交差点あたりで左折し北に向かう。佐助1丁目から法務局前交差へ。銭洗弁天、佐助稲荷への案内掲示。銭洗弁天、佐助稲荷は結構近かった。佐助2丁目で左折し、佐助稲荷へ。
鬱蒼とした森を奥へと。赤い鳥居をくぐり社殿に。神社の縁起によると、伊豆配流 となっていた頼朝の夢枕に鎌倉鎮座の稲荷神と名乗る翁現れ、頼朝の平氏追討、天下統一を告げる。鎌倉幕府を開いた頼朝はこの地に稲荷社があることを知り社殿を立てたとか。よくある話。ちなみに佐助とは頼朝が右兵衛佐(うひょうえのすけ)の官職にあったため「佐殿(すけどの)」と呼ばれていた。で、佐助稲荷、「佐殿を助けた」の意味でこの名がつけられたと言われている。
photo by Sig.
源氏山公園から寿福寺
佐助稲荷から、源氏山公園は近い。ということで、源氏山公園に戻り、そこから寿福寺へ下りるコースに向かう。銭洗弁天横の坂を再び登り、源氏山公園に。寿福寺への下り口を探す。結構わかりにくい。あれこれ大回りし、なんとか下り口に。すこぶる険阻なる山道。整地されてなどいないし、すごい坂道。ブッシュもあるし、人ひとりかろうじて通れるような岩場の裂け目を下りるわけだし、途中には寿福寺の墓地に紛れ込みそうになるし、いかにも不気味な「やぐら」はあるし、いやはやな山道走破を求める方にはお勧め。

寿福寺

寿福寺臨済宗建長寺派の寺。鎌倉五山第三位。源頼朝没後、北条政子の発願で伽藍を建立。明庵栄西が開山。 頼朝の父義朝の館のあった所、とも。また、裏手の源氏山は源頼義・義家(八万太郎)が戦勝祈願をしたところ。源氏ゆかりの地である。ために、頼朝は当初ここに幕府を構えようとした、とか。境内には源実朝、北条政子の墓。そのほか、高浜虚子、大仏次郎さんなどが眠る。栄西の『喫茶養生記』や地蔵菩薩は国の重要文化財(「鎌倉国宝館」にある)。『喫茶養生記』はお茶の製造法、効用などが書かれている。栄西禅師が喫茶の習慣を日本にもたらした、という所以である。
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JR 鎌倉駅
寿福寺前からJRの踏み切りを渡り、雪ノ下地区を歩いていると、お屋敷。外国映画の輸入・配給でよくお名前を聞いていた川喜多かしこさんの邸宅だった。後は一路鎌倉駅に向かう。

 
鎌倉は三方を山で囲まれている。鎌倉アルプスなどとも呼ばれている。アルプス、とは言うものの標高は150m程度。山登り、というほどのことはない。その尾根道にはいくつものハイキングコースが整備されている。尾根筋から眺める鎌倉の街並み、そして、その前に広がる湘南の海は、なかなかの景色である。
山に向かえば、「切通し」にも出合える。切通し、って山を切り崩した道である。昔、鎌倉に入るには、渚沿いの道のほかは、「切通し」を通るしかなかった、という。よく聞くのだが、歩いたことはなかった。ということで、鎌倉散歩は、古都を取り囲む山を歩き、そこに残る切通しの跡を巡る。あわせて、道すがら、名刹・古刹も訪ようと思う。
第一回は天園ハイキングコースから亀ケ谷・化粧坂切通しを辿るコース。北鎌倉の名刹からはじめ、鎌倉アルプスと呼ばれる標高150m程度の丘陵にある天園ハイキングコース歩く。ハイキングコースは尾根伝いに朝比奈方面・瑞泉寺のほうまで続いているが、今回は途中で尾根をくだり、鎌倉幕府が開かれた大蔵の地に下りる。そこで頼朝のお墓など名所を巡り西に向かい、亀ケ谷坂切り通し・化粧坂の切り通しを経てJR鎌倉駅に至る。




本日のコース:
円覚寺 > 東慶寺 > 浄智寺 > 建長寺 > 半僧坊 > 覚園寺 > 鎌倉宮 > 荏柄天神 > 源頼朝の墓 > 毛利季光・島津忠久の墓 > 亀ケ谷坂切り通し > 岩船地蔵堂 > 海蔵寺 > 化粧坂 > 英勝寺 > 寿福寺 > JR鎌倉駅

円覚寺
円覚寺横須賀線北鎌倉下車。駅近くに円覚寺。鎌倉五山第二位、臨済宗円覚寺派の大本山。文永・弘安の役、つまりは蒙古来襲の時になくなった武士をとむらうために北条時宗が創建したもの。読みは「えんがくじ」。開山は無学祖元。中国・宋の国・明州の生まれ。無学祖元禅師の流れは、夢窓疎石といった高僧に受け継がれ、室町期の禅の中核となる。五山文学や室町文化に大きな影響を与えたことはいうまでもない。
ところで、時宗が執権職についたのは18歳の時。亡くなったのは33歳。その間、文永・弘安の役といった国難、兄・時輔らとの内部抗争、日蓮を代表とする批判勢力の鎮圧、といた数々の難題。年若き時宗だけで、対応できるとも思えない。第七代執権・北条政村を筆頭に、金沢実時、安達泰盛といったベテランがバックアップしたのであろう。
舎利殿は国宝。
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東慶寺
東慶寺円覚寺を出て鎌倉街道を少し南に下り東慶寺に。お寺でもらったパンフによると「開山は北条時宗夫人覚山尼。五世後醍醐天皇皇女・用堂尼以来松ヶ丘御所と呼ばれ、二十世は豊臣秀頼息女天秀尼。明治にいたるまで男子禁制の尼寺で、駆け込み寺または縁切り寺としてあまたの女人を救済した」と。寺に逃げ込み3年間修行すれば女性から離縁することができたとのこと。
このお寺には多くの文人・墨客が眠っている。西田幾多郎(哲学者; 『善の研究」)、和辻哲郎(哲学者;『風土 人間学的考察』)、川田順(財界人・歌人。「老いらくの恋」の先駆者(?)。 そして、「何一つ成し遂げざりしわれながら君を思ふはつひに貫く」の歌)、安倍能成(骨太の自由主義者。一学校長・学習院院長・文部大臣。愛媛県松山生まれ)、鈴木大拙(禅を世界に広めた哲学者)、小林秀雄(文芸評論。『無常ということ』)などのお墓がある。あまりお寺っぽくない。品のいい日本邸宅のような趣。文人が好んで眠るのも納得。
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浄智寺
浄智寺少し進んで浄智寺。鎌倉五山第四位。臨済宗円覚寺派。執権北条時頼の三男宗政の菩提をとむらうために宗政夫人が開く。お寺から頂いたパンフレットによると、「浄智寺が建つ山ノ内地区は、鎌倉時代には禅宗を保護し、相次いで寺院を建てた北条氏の所領でもあったので、いまでも禅刹が多い。どの寺院も丘を背負い、鎌倉では谷戸とよぶ谷合に堂宇を並べている。浄智寺も寺域が背後の谷戸に深くのび、竹や杉の多い境内に、長い歴史をもった禅刹にふさわしい閑寂なたたずまいを保つ。うら庭の燧道を抜けると、洞窟に弥勒菩薩の化身といわれる、布袋尊がまつられている」。鎌倉の地形の特徴がよく現されている。
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建長寺
建長寺JR横須賀線の線路を越えると建長寺。巨福山建長興国禅寺。臨済宗建長寺派の大本山。五代執権北条時頼が蘭渓道隆(後の大覚禅師)を開山として創建。日本初の禅宗道場。 巨福門(こふくもん)と呼ばれる総門を越えると三門。禅宗では「山門」ではなく、「三門」と呼ぶことが多いようだ。「三門とは悟りに入る3つの法門、三解脱門のこと。つまりは空三昧・無相三昧・無願三昧の三つの法門」、と。
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半僧坊大権現
「天園ハイキングコース」は、建長寺境内からはじまり、裏山中腹の半僧坊から尾根道を歩き、鎌倉の山並みの最高峰・太平山、といっても156メートルだが、この太平山をこえ天園から天台山、そして瑞泉寺に降りるコース。
建長寺の境内を北に向かい250段ほどの階段を上ると半僧坊大権現。からす天狗をお供に従えた、この半僧半俗姿の半僧坊(はんそうぼう)大権現、大権現とは仏が神という「仮=権」の姿で現れることだが、この神様は明治になって勧請された建長寺の鎮守様。当時の住持が夢に現れた、いかにも半増坊さまっぽい老人が「我を関東の地に・・・」ということで、静岡県の方広寺から勧請された。建長寺以外にも、金閣寺(京都)、平林寺(埼玉県)等に半僧坊大権現が勧請されている。結構「力」のある神様、というか仏様であったのだろう。気になりチェック。
方広寺の開山の祖は後醍醐天皇の皇子無文元選禅師。後醍醐天皇崩御の後、出家。中国天台山方広寺で修行。帰国後、参禅に来た、遠江・奥山の豪族・奥山氏の寄進を受け、方広寺を開山した、と。半僧坊の由来は、無文元選禅師が中国からの帰国時に遡る。帰国の船が嵐で難破寸前。異形の者が現れ、船を導き難を避ける。帰国後、方広寺開山時、再び現れ弟子入り志願。その姿が「半(なか)ば僧にあって僧にあらず」といった風体であったため「半僧坊」と。

天園ハイキングコース
社務所前の小さな鳥居をくぐりハイキングコースに。樹林の中の起伏に富んだルート。遊歩道として整備されていることもなく、野趣豊か。木の根っこが飛び出す山道をどんどん進む。5分ほどで「勝上けん展望台」。名月院方面からの道が合流する。鎌倉の海の眺めが楽しめる。更に5分程度で「十王岩の展望」。かながわの景勝50選に選ばれた展望ポイント。海に続く一直線の若宮大路が見下ろせる。
「十王岩の展望」の先でコースは瑞泉寺へと続くメーンルートと、麓の覚園寺に下るコールに別れる。今回は、覚園寺へと下る。分岐点を5分も歩くと、「百八やぐら」。「やぐら」は横穴式のお墓。鎌倉では、岸壁や岩肌に横穴を掘って、そこに遺骨等を埋葬した場所を「やぐら」と言い、武士や僧侶の墓所であるとされている。 「やぐら」は鎌倉の谷戸や山間部の至るところに点在している。山に囲まれ土地が狭い故だろう、か。

覚園寺
覚園寺手付かずの自然の中を下ると覚園寺の脇に出る。覚園寺の創建は13世紀初頭、北条義時が薬師堂を建てたことにはじまる。その後薬師堂は足利尊氏によって再建。現在の薬師堂は江戸時代に作り直されたもの、と。薬師堂前の地蔵堂には全身黒ずんだお地蔵さん。蒲原有明の随筆『鎌倉のはなし』に、このお地蔵さんの記述が;「覚園寺の地蔵尊は地獄で獄卒にかわって火を焚き、罪人の苦痛をやすめたといわれ、世間では火焚き地蔵とも黒地蔵とも呼んでいる」と(『だれも書かなかった鎌倉:金子晋(講談社)』)。近辺の谷戸(津)には紅葉の名所も多い、とか。「獅子舞」、瑞泉寺のある紅葉ヶ谷(もみじがやつ)などである。
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鎌倉宮
宮が。明治天皇が、後醍醐天皇の第1子護良親王(もり ながしんのう)を祭「神として創建したもの。大塔宮護良親王は建武の新政の際の征夷大将軍。が、足利尊氏と対立して鎌倉に流され、後に暗殺される。小説で呼んでいた、親王が幽閉されていたという土牢もこの裏手にある。黒須紀一郎さんの『婆娑羅太平記』」などでの護良親王の姿にリアリティが出る、かも。
次はどこに。案内掲示をチェック。荏柄天神>源頼朝の墓>大江広元の墓>鶴岡八幡経由の建長寺とする。

荏柄天神
荏柄天神は日本 三大天神社(福岡・太宰府天満宮、京都・北野天満宮)の一つ。学問の神様として信仰されている。祭神は菅原道真。創建は平安後期と伝えられている。


源頼朝の墓
ちょっと歩き源頼朝の墓に。白幡神社を過ぎ、大蔵幕府跡が一望できる大倉山中腹にある、高さ約2mの層塔が頼朝の墓。53歳で亡くなったが死因不明。この墓は江戸時代、18世紀、薩摩島津藩島津重豪がつくったとのこと。右奥には三浦一族をまつる、「やぐら」がある。

大江広元・毛利季光・島津忠久の墓

源頼朝の墓の近くに大江広元の墓。あまり整備されていない階段をのぼり、結構寂しい場所の「やぐら」の中に祀られている。大江広元って結構面白い人物。無骨なる荒武者相手に文官として 頼朝の最高ブレーン、頼朝亡き後も北条政子や北条義時とともに北条氏の執権独裁体制を確立させるため奮闘した文治官僚。
で、この大江広元のお墓を囲むように、毛利季光、島津忠久のお墓。中国毛利家の藩主、薩摩島津家の藩主と大江広元や頼朝との関係は?
毛利季光(もおりすえみつ)。大江広元の四男。相模の国・毛利荘を領して、初めて毛利姓を称した。宝治・三浦の乱に三浦一門に組し、北条時頼軍に敗れ、源頼朝 の法華堂(白幡神社)で三浦一族郎党500名とともに自害。ちなみに、この戦いに参加しなかった毛利一族が安芸国に移り、これが、戦国大名毛利家の祖先と なる。 島津忠久。母は比企能員の妹・丹後局。一説には源頼朝のご落胤とも。宝治・三浦の乱で同じく法華堂で自決。薩摩藩主・島津氏の祖。島津家が頼朝の子孫と言うわけは、このあたりに。島津家が頼朝の墓をつくったりした理由も納得。

亀ケ谷坂切り通し
東御門から西御門地区、途中、頼朝が政務を行った幕府・大蔵幕府跡地、一遍上人が開山という来迎寺(あまりに普通のお寺さん)に寄り道しながら、鶴丘八幡を素通りし建長寺に戻る。西に向かい、「亀ケ谷坂切り通し」に。鎌倉七口のひとつ。観光用に一番綺麗に整備されている「切り通し」。
崖が「切り取られて」いる。国史跡、とはいうものの、地域の生活道路。山ノ内地区、つまりは大船・戸塚・武蔵方面と扇ガ谷(おうぎがやつ)地区を通じる路。亀ケ谷(かめがやつ)は扇ガ谷(おうぎがやつ)の古称。室町時代の関東管領が扇ガ谷上杉殿と山の内上杉殿に分かれて、といった話がよく小説に描かれているが、これがその扇ガ谷の地。ちなみに山の内地区は浄智寺のあたり。坂を下り住宅街に。

岩船地蔵堂
JRとの交差近くに岩船地蔵堂が。頼朝の娘・大姫の守り本尊と伝えられている。木曾義仲の長男義高に嫁いだ大姫は、父・源頼朝に夫を殺され自らも命を絶つ。その悲恋は「吾妻鏡」に記されている。


海蔵寺
JR横須賀線をくぐり海蔵寺近くへ。もうあたりは暗く、海蔵寺も階段の両側から草木が迫っているって感じを受けるだけ。海蔵寺の近くに鎌倉七切通しのひとつ、化粧坂への案内。とりあえず行けるとこまで行く。住宅街を進み、山道へ。整地なし。自然のまま。もう足元も見えなくなった。少々やばい。引き返す。で、英勝寺から寿福寺前を通り御成町から鎌倉駅に。本日の予定終了。化粧坂、あらから先はどうなっているのだろう、あのまま行けたのか、道に迷うことになったのか、心残り。明日も再度鎌倉だ!(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)


後日談
家に戻り本棚を探し唐木順三さんの『あづま みちのく』を取り出した。大学生の頃読んだ本である。中に、「頼朝の長女」という記述がある。これって、つまりは、鎌倉・岩船地蔵尊で出会った大姫のこと。「頼朝の娘・大姫の守り本尊と伝えられている。木曾義仲の長男義高に嫁いだ大姫は、父・源頼朝に夫を殺され自らも命を絶つ。その悲恋は「吾妻鏡」に記されている。」と簡単にメモした。が、「頼朝の長女」を読んで、簡単なメモではなく、ちょっとまとめておこうと思った。以下、「頼朝の長女」からの抜粋;
1. 大姫は、女性史からだけでなく、中世史全体からみても留意すべき人であった、と唐木順三氏
2. 頼朝と木曽義仲の間柄が険悪になる。それは、甲斐源氏・武田太郎信光の讒言による。武田信光が娘を木曽義仲の嫡子・志水冠者義高にと思うが、木曽義仲にすげなくあしらわれプライドが傷ついたため。讒言の内容;木曽義仲が京に上るのは、平家と連合し頼朝を討つため、と。
3. 頼朝より;謀反なき証として、志水冠者・義高を鎌倉に送るなら、「父子の儀」をなすと。志水冠者は当時11歳。大姫6,7歳。許婚者となる。
4. 2ヵ月後義仲、京都に攻め込む。平氏西海へ逃れる。備中水島で平氏に敗れる。後白河法皇、鎌倉に義仲追討を命じる。範頼・義経軍に敗れ義仲、近江で敗死
5. 1184年(寿永3年)4月。頼朝が義高を亡き者にとの動きあり(「誅せらる可きの由、内々おぼしめし立ち。。。」:吾妻鏡)。大姫・大姫付きの女房たち、義高を逃すべ工作。義高女装。近習が冠者になりすます偽装工作。夕刻露見。頼朝激怒。
6. 頼朝;堀藤次親家に、義高を討ち取るべしとの下知
7. 大姫「周章して魂を、けさしめたまう」
8. 脱出6日目。堀藤次親家の郎党、藤内光澄帰参して曰く「志水冠者を入間川の河原で殺した」と。境川(東京都と神奈川県の境を江ノ島まで流れる)に沿って遡り、町田、府中、国分寺を過ぎて所沢に出て、そこから入間川に達したものと思われる。
9. 大姫、漏れ聞き愁嘆。母の政子も、姫の心中を察し哀傷殊に甚だしく、殿中の男女も嘆色を示す
10. 当時義高12歳。大姫8歳程度。
11. 政子の怒り;堀藤次親家の郎党、藤内光澄、斬首のうえさらし首。
12. 理由;志水冠者を殺して以来、大姫の哀傷いよいよ募り、病床に在って懊悩。日ごとに憔悴の度を加えている。志水冠者を殺したのが大姫憔悴の原因であるから、その郎党に責任がある
13. 1186年(文治三年)2月、吉野の蔵王堂で捕らえられた静御前が鎌倉へ護送。政子の再三の懇請により舞を。上下皆興感を催す。5月、大姫が鬱気を散ずるため参籠しているお堂に大姫の願いにより静が招かれる。2ヵ月後、静、義経の子出産。幕府の命により、由比ガ浜に棄てられる。大姫の愁嘆甚だしく、宥めるすべなし、と
14. 文治年間は大姫の病状は一進一退。大姫の発願により多くの寺で志水冠者の冥福をいのる催し。大姫も岩殿の観音堂に参詣。
15. 1191年(建久2年)、大姫15歳。病状、はなはだ御辛苦。御不例。頼朝、岩殿・大蔵の観音堂に参籠。大姫の快癒を祈る。「総軍家の姫君、夜よりご不例。是れ恒の事たりと雖も、今日殊に危急なり。志水殿の事有りしの後、御悲嘆の故に、日を追いて御憔悴、断金の志に堪えず。殆ど沈石の思いを為し給うか。且つは貞女の操行、衆人の美談とする所なり」と。頼朝、参詣・快癒祈願を繰り返す。
16. 京より一条高能、鎌倉に。頼朝の甥。大姫を一条高能に嫁せしめようと。鎌倉を離れることにより、過去を忘れさせんと。大姫、強いて言うなら「身を深淵に沈むべし」と。一途に亡き志水殿を慕っている。
17. 1195年(建久6年)、頼朝、奈良東大寺大仏落慶法要に。19歳の大姫も同行。在京100余日。大姫、後鳥羽天皇の妃として入内の工作。確か、平氏により大仏殿が焼け落ちたはず。
18. 京都から鎌倉に。大姫、いたく病む。入内拒否の故と。「心身常に非ず、偏に邪気の致す所か」。大姫拒否の理由は、志水冠者へのやみがたき思慕、懐旧に由ると『吾妻鏡』は言う。
19. 入内を自分の意思で拒んだ女性は歴史上、大姫以外に思い当たらない、と。このような未曾有のことが19歳ほどの若い女性によって行われ、その悩乱によって程なく死にいたったのである。1197年(建久8年)7月14日、「京へまいらすべしと聞こえし頼朝がむすめ久しくわづらひてうせにけり」と。
20. このような大姫、殺伐な世の中に己を持して生きていたということだけでも、私(唐木順三)は言っておきたい。
散歩のときの数行のメモ、ちょっと調べればその裏には、あたりまえのことながらすごい歴史が紐づいていた。そういえば、同じような生き方をした女性の本も最近読んだ。先日、渋谷散歩の際、学芸大学の古本屋で買った『千人同心』、また作家は忘れたが、『大久保長安』の中に登場した武田信玄の五女松姫の話。織田信長の長男・信忠との婚約の儀。松姫7歳、信忠11歳くらいか。輿入れの日を待つだけ。が、信玄と家康、三方が原で激突。信長は家康に援軍を。結果、武田・織田友好関係解消。松姫の婚約も解消。織田の武田攻めを逃れ、松姫武州恩方(東京都八王子)に逃れる。武田家天目山で滅亡。信忠本能寺で自刃。それより前、八王子に松姫がいることを知った信忠、妻に迎えたいとの使いを出し、松姫が信忠のもとに向かう途中で本能寺の悲報を聞いたといった、ドラマティックな説もある。松姫出家。信松尼で生涯を終えるまで、信忠の許婚としていき続ける。大姫も松姫も、雛人形のごとき思いを一生大切に、己を持して生きていた。
後日、義高が誅された入間の地、松姫が余生を過ごした八王子の心源院や信松院を訪れた。

座間の湧水を巡る

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座間の湧水を巡る

座間といえば、米軍基地であり、戦前は帝国陸軍士官学校など軍都、といった印象でしかない。また、ニッサンの座間工場などといった工場の街といったイメージが強い。そんな座間には湧水点が多い。市内を南北に座間丘陵が走る。

その西には中津原段丘面、そしてその下に田名原段丘面、更にその西には相模川のつくる沖積低地が広がる。湧水というのは、通常、崖下タイプか谷頭(こくとう)タイプに大別される。座間の湧水も中津原段丘崖線下より湧き出るもの、台地面の谷奥=谷頭より湧き出るもの、に大別される。市内に点在する湧水を、地形を実感しながら辿ることにする。








本日のルート:

小田急線・座間駅 > 谷戸山公園の湧水 > 入の谷戸上湧水 > 星谷寺 > 心岩寺湧水 > 龍源院湧水 > 鈴鹿明神社 > 鈴鹿の泉湧水 > 番神水湧水 > 座架依橋 > 相模川湧水 > 神井戸湧水 > 国道246号線 > いっぺい窪湧水 > 目久尻川 > 第三水源脇の湧水 > 第三水源湧水 > 小田急線・相武台駅 小田急線・座間駅

座間。往古この地は街道の宿場町。古の古東海道、また、平塚から八王子へと通じる八王子街道の宿場町であった、とか。地名の由来も、古代この地にあった街道の駅名から、との説もある。「伊参(いさま)駅」が伊佐間となり、ついで「座間」となった、ということだ。また、高座郡にある間(小平地)であるので、座間といった説もあり、例によって、あれこれ。 


谷戸山公園内の湧水
湧水散歩スタート。第一の目標は、「谷戸山公園内の湧水」。県立座間谷戸山公園内にある。東口に下り、南東へと上る台地へと進む。台地の上に進み、道が再び下る手前で北に折れ、座間谷戸山公園に向かう。公園南口から園内に。シラカシ観察林の中をゆっくり歩く。ここは雑木林を手を入れないで自然のまま推移させる極相林。そしてシラカシの林になった、とか。道を下ると里山体験館。いかにも昔の農家といった建物が再現されている。体験館の前は水田。確かに里山の景観ではある。
田圃の脇を進み、湿生生態園を越えると水鳥の池。湧水池。夏には1日1600トン、冬でも100トン、という。結構なボリュームである。湧水点を求めて奥に進む。いかにもそれらしき、「わき水の谷」に。案内によれは公園内には9か所の湧水があり、そのうちふたつがこの谷にある、と。湧水点っぽい雰囲気の場所はあるのだが、いかにも人工的。自然の湧水点ではあるのだろうが、周囲を整地しているようだ。石の井戸といった構えの中から水が湧き出ている。座間市内の湧水についての案内があった。座間の湧水状況がよくわかる。メモする;「本公園は、座間丘陵のほぼ中央部に位置しており、本公園を含む座間市内には多くの湧水地が分布している。それらは座間基地西端から小田急線座間駅西方に続く相模野台地西縁の崖下と、栗原方面の相模野台地を刻む目久尻川とその支流芹沢川の谷とに分布している。これらは共に相模の台地の下に広がっている砂礫層の中より湧き出ている」、と。 


入の谷戸上湧水

わき水の谷」を後に、「入(いり)の谷戸上(やとうえ)湧水に。目印は公園・東口近くの「ひまわり公園テニスコート」。湧水点はテニスコート脇にある、という。木の階段を上り台地上に進む。雑木林の中を進むとテニスコート脇に。湧水点のありそうなところを求めてあちこち、ぶらぶら。テニスコート脇を下り、公園の手前にごく僅かな「水気」を見つける。湧水というには、あまりに「僅か」。昔は、ここから小さい谷筋が通り、目久尻川に向かって湧水が流れていた、という。その谷筋は現在の市役所の東の道筋である、とか。「入の谷戸上湧水」は、付近の住民の生活用水ともなっていた、とのことであるので、ある程度の水量もあったのだろう。が、現在は見る影もない。それでも、夏は6トン(日)、冬は0.9トン(日)あるらしい。 


星谷寺

坂東観音霊場のひとつ。真言宗大覚寺派の古刹。建立は奈良時代、とか。坂東8番札所。縁起によれは行基菩薩がこの地を訪れ、だれも足をふみいれたことのない「見不知森(見知らず)」に入る。法華経が聞こえ、星が降り注ぐ。そして、古木の下から観音像が。これが現在に残る聖観音、と。もっとも、聖観音は行基菩薩が彫ったという言い伝えもある。

また、星谷の由来も『風土記稿』によれば、「其地は山叡幽邃にして清泉せん湲たり、星影水中に映じ、暗夜も白昼の如なれば土人星谷と呼べり」とある。観音霊場といえば定番の花山上皇が訪れた、という縁起もあるが、花山上皇が武蔵に下向した事実はない、ということは秩父でメモしたとおり。縁起は縁起として受け入れる、べし、ということだろう。とはいうものの、名刹であることに変わりはなく鎌倉以降も、頼朝、家康などの武将の庇護を受けている。梵鐘は国の重要文化財。源氏の武将・佐々木信綱の寄進とされる。


心岩寺湧水
星谷寺を離れ、次の目的地・心岩寺湧水に向かう。入谷地区。深い谷があった地形に由来。崖線が楽しみ。西に進み、相武台入谷バイパス・星の谷観音坂下に。交差点を少し南に下り、道路を離れ心岩寺(しんがんじ)に。座間丘陵の段丘下にある。

本堂はコンクリートつくり。境内に入ると池。崖下から水が湧き出ている。湧水を見るだけで、これほどに心躍る、ってどういうことであろう、か。夏には日量437トン、冬には14トンほど湧き出している、と。この心岩寺からは境内から土器が見つかったり、台地上には縄文期の遺跡が見つかったりしている。湧水脇に人々が集まって生活していたのであろう。 


鈴鹿明神社
心岩寺湧水の次は龍源院湧水。心岩寺のすぐ北にある。龍源院の手前に鈴鹿神社。伝説によれば伊勢の鈴鹿神社の神輿が海に流され、この地にたどりつく。里人は一社を創建しこの座間一帯の鎮守とした、とか。欽明天皇の御代というから、5世紀中ごろのことである。伝説とは別に、正倉院文書には天平の御代、この地は鈴鹿王の領地であったわけで、由来としては、こちらのほうが納得感がある、ような。鈴鹿王(すずかのおおきみ)、って父は天武天皇の子である高市皇子。兄は長屋王。ちなみに、「明神社」って、「明らかに神になりすませた仏」、のこと。権現=神という仮の姿で現れた仏、と同じく神仏習合と称される仏教普及の手法でもある。 


龍源院湧水
龍源院は鈴鹿神社の東側の段丘下にある。本堂裏手から湧き出す湧水は、夏には942トン(日)、冬には225トン(日)、と。近くの鈴鹿神社から縄文後期の遺跡が発掘されているので、この湧水は縄文人の生活に欠かせないものであったのだろう。境内には「ほたるの公園」といった湧水池もあった。清流故のほたる、であろう。 





鈴鹿の泉湧水
龍源院の北側の段丘下から湧き出す湧水。お寺の隣にありそう、ということで境内をぶらぶら歩いていると、北の隅にみつけることができた。水量は豊富。夏には622トン(日)、冬には32トン(冬)ほど湧き出ている、と。途中柵があり、湧水点までは入れない。しかし、清冽な流れはいかにも心地よい。 





番神水湧水
鈴鹿の泉湧水を離れ、北に進む。道に沿って清流が流れる。美しい。これって今から訪れる番神水湧水からの流であろう、か。しばらく歩き、円教寺の東側の段丘下にある祠(ほこら)「番神堂」の裏手から湧き出る湧水。湧水点は柵があり中には入れない。なんとなく崖下から湧き出る雰囲気は感じられる。夏には659トン(日)、冬には27トン(日)の湧水がある、と。日蓮上人が地を杖で突いたところ、清水が湧き出したとの言い伝え、あり。湧水は昭和初期、座間台地上に陸軍士官学校が移ってきたころから、半減した、と。水源が切られた、ということであろう。 


座架依橋
座間丘陵西端を一度離れ、相模川に向かう。川床から水が湧き出ている、と。場所は相模川の座架依(ざかえ)橋の下にある水辺広場の南側の護岸付近。台地下から2キロ弱といったところ。ひたすら西に向かって歩く。西に広がる山地は丹沢山系だろう。また、最高峰の峯は、大山ではなかろうか、と思う。なかなか見事な眺めである。相模川左岸用水や鳩川の水路、相模線の鉄路を越え、30分ほど歩いただろう、か。座架依橋に到着。厚木と座間を結ぶ。この橋ができたのは平成4年、とそれほど昔のことではない。それ以前は木造の橋であった、よう。また、木造の橋ができたのも昭和34年。それまでは渡し船があった、とのことである。座架依の由来は、座間と川向うの依知の間に架けられた橋、ということから。ありがたそうな名前であり、なんらかの由来ありや、とも思ったのだが、拍子ぬけ。 


相模川湧水
湧水点を探す。なにか案内があるか、とも思ったのだが、なにもなし。あてどもなく、勘だけを頼りに歩く。取りつく島もなし。橋の南の川床に水の溜まり。本流からちょっと分かれたものか、湧水なのか定かならず。とりあえず進む。本流につながっているような、いないような。進につれて護岸下あたりに生える芦原あたりにも水がたまっている。家族づれが釣りをしているそばを進み、溜まりの「はじまり」部分を探す。うろうろしていると、川床の、ほんとうになんでもないところから、水が浸み出ていた。そこが湧水点なのだろう。ここの湧水は、上流域などで浸透した雨水が、古の相模川の砂利層を下り、ここから湧き出している、と。ちなみに相模川って、源流は山中湖。富士吉田、都留、大月をへて相模湖・津久井湖に来たり、その先厚木・平塚・茅ヶ崎の境近くで相模湾にそそぐ。全長100キロ強の一級河川。 


神井戸湧水

座間高校の北東側あたりにある。相模川から再び台地に向かうことになる。2キロ強、といったところ。道脇に湧水があった。腰を下し一休み。現在はちょっとした井戸、程度の大きさの湧水地、ではあるが、昔はこの10倍くらいあった、とか。湧水は豊富。現在でも夏には632トン(日)、冬には102トン(日)ほどの水量がある、と。泉の名称については、神様からの賜り物、ってことだろう。湧水マップにはこの神井戸湧水の南150mほとのところに根下南(ねしたみなみ)湧水がある、ということだが、見つけることができなかった。


目久尻川

座間丘陵台地西縁崖下の湧水散歩、相模川湧水の後は、栗原方面に移り、相模野台地を刻む目久尻川に沿って点在する湧水を巡ることに。台地に上り、北に緑地を見ながら中原小学校脇を進むと国道246号線にあたる。少々味気ない国道に沿って栗原地区を北東に進み、西原交差点に。交差点を南東に折れ、先に進むと「栗原巡礼大橋」に。

目久尻川によって開析された深い谷を跨ぐ大橋である。目久尻川に。相模原市にある小田急線・相武台駅近を水源とし寒川町で相模川に注ぐ。昔、栗原村にあった小池から流れ出ていたので、「小池川」とも、また、湧水からの冷たい=寒い水が流れるため寒川とも呼ばれていた。目久尻川と呼ばれたのは、相模一之宮・寒川神社の領地・御厨から流れているためその下流で「みくりや尻川」と呼ばれていたのが、いつしか「めくじり川」となった、とか。また、この川に棲む河童のいたずらを懲らしめるため、目をえぐり取った=目穿(くじる)から、とか、例によってあれこれ。


いっぺい窪湧水
「いっぺい窪湧水」は目久尻川脇。橋の手前を川に向かって下りる。目久尻川を少し南にくだる。目印は巡礼橋。坂東観音霊場を巡る巡礼者がこのあたりを通った、と。橋の脇から台地に上る坂道を巡礼坂、という。橋を南に下る。遊歩道脇に「いっぺい窪湧水」。民家の敷地内、ということで、柵があり、水源点のチェックはできない。「わさび」を栽培しているように思う。水量はいかにも豊か。夏には1,300トン(日)、冬には800トン(日)になる、と。いっぺい窪の名前の由来は、例によって諸説あり、定かではない。が、巡礼者がこの湧水の「一杯」の水で、乾きを癒したことであろう。この湧水から南にすこし下ったところに「大下(おおしも)湧水」があるとのこと。近くには縄文時代の遺跡もある、という。今回はパス。 


第三水源湧水
座間の上水は現在でも豊富な地下水を活用しているようで、水道水の85%は湧水である、という。「いっぺい窪」より第三水源に向かって目久尻川を北に進む。栗原巡礼大橋下をくぐり、座間南中のある台地下に沿って進む。しばらく進むと芹沢川が合流。第一・第二水源のある芹沢公園の湧水から流れ出る川、であろう。ちなみに、芹沢公園の近くに、第一、第二水源がある。
国道246号線を越え、蛇行する川筋に沿って歩く。246号線から1キロ強、といったところにいかにも水源といった場所。ここが市営水道・第三水源であろう。衛門沢湧水、とも呼ばれていた、と。湧水点はわからない。水源地から滾々と湧き出ているのであろう。水道用として一日、3,500トンほど汲み上げる、とか。また、水源とは別に現在も夏季には日量3,700トン(日)、冬には2,800トン(日)ほど湧き出ている、ということである。湧水点というより水源地、といった規模の湧水である。


第三水源脇の湧水
第三水源近くのスポーツ広場にも湧水がある、という。グランド土手の斜面から僅かに湧き出る、ということだ。水源の東と北にグランド。どちらにあるのか、少々迷う。東のグランドにはそれらしき水路は見当たらない。北のグランドに進む。地形としては、台地に近いこちらのほうが本命ではあろう。土手の斜面に目をこらす。あった。とはいうものの、まことにささやかなもの。ちょっとしたお湿り程度、といったものであった。湧水点はこの少し北、下小池橋のあたりの護岸にもあるようだ。そこが、目久尻川の湧水点では最上部、と言われる。昔は相武台東小学校の北にも豊富な湧水があったようだが、現在では埋め立てられ児童公園となっている

小田急線・相模台前駅
駅名はもとは「座間駅」。陸軍士官学校本科が当時の座間村に移ったのを契機に、「士官学校前」に。後に「相武台」、と。相武台とは士官学校の別名。朝霞の陸軍予科士官学校は「振武台」、豊岡(現入間市)の陸軍航空士官学校は修武台。市谷から淺川(八王子)に移った陸軍幼年学校は建武台とよばれたよう。ちなみに、命名は昭和天皇による、と。陸軍士官学校跡地は現在在日米軍キャンプ座間となっている。ついでのことながら、相武って、相武国造(さがむの くにのみやつこ)から、だろうか。相模国のもとの名前であろう、か。

座間の湧水を巡った。湧水というのは、通常、崖下タイプか谷頭(こくとう)タイプに大別されると上にメモした。座間の湧水も中津原段丘崖線下より湧き出る入谷地区の湧水群、後者は台地面の谷奥=谷頭より湧き出る栗原地区の「いっぺい窪」とか「第三水源湧水」といった湧水群ではあろう。座間市のホームページの資料によれば、市内の湧水は次のようにカテゴライズされていた。
1.座間丘陵西側の段丘崖の湧水群・・・・・番神水、鈴鹿の泉、龍源院、心岩寺、神井戸、根下南
2.座間丘陵の谷底低地・・・・・・・・・・・・・・谷戸山公園、入りの谷戸上
3.目久尻川沿いの谷底低地・・・・・・・・・・大下、いっぺい窪、芹沢川護岸、第三水源、第三水源脇、目久尻川護岸
4.その他の湧水・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・相模川に湧き出す湧水

見沼散歩の二回目。今回は見沼通船堀・八丁堤の西端からスタート。見沼代用水西縁を起点に芝川経由で見沼代用水東縁に。そこから上流・見沼公園に向かう。見沼田圃を先回とは逆方向から見れば、なんらか新たな発見が、といった心持ち。その後北向きの歩みを、どこかで適当に切り上げ、南に折り返す。歩くなり、または成り行き次第で電車に乗るなりして、最後の目的地伊奈氏の赤山代官跡に進もう、と。

赤山代官跡って、外環道路のすぐそば。一体全体、どういった雰囲気のところにあるのか、興味津々。伊奈氏は見沼溜井を作り上げた治水のスペシャリスト。玉川上水工事をはじめ、散歩の折々で顔を出す名代官の家系。先日たまたま読んだ新田二郎著『怒る富士』にも関東郡代・伊奈半左衛門が登場。宝永の大噴火で田畑を埋め尽くされた農民を救済すべく奮闘する姿が凛として美しかった。見沼散歩の仕上げとしては、伊奈氏でクロージングのが「美しかろう」とルートを決めた。

伊奈氏について、ちょっとまとめる。堀と堤は時代が異なる。先日の散歩メモの繰り返しにはなるのだが、頭の整理を再びしておく。

見沼のあたり一帯は、芝川の流れによってできた一面の沼というか低湿地。これを水田の灌漑用水として活用しようとつくったのが八丁堤。大宮台地と岩槻台地が最も接近するこの地、浦和の大間木と川口の木曽呂木の間、八丁というから、870mにわたって土手を築く。流れを堰き止め、灌漑用の溜井(たるい)としたわけだ。この工事責任者が伊奈氏。しかしながら、この溜井、灌漑用の池としては十分に機能しなかった、よう。全体に水量が乏しかったこと。また、溜井の北の地区には農業用水が供給されなかった。にもかかわらず、雨期にはそのあたりは洪水の被害に見舞われた、といった有様。見沼はこういった問題を抱えていた。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)

見沼溜井を干拓し水田に変える試みがはじまる。上でメモした諸問題があったこともさることながら、それ以上に、当時水田開発が幕府の大いなる政策課題となっていた。幕府財政逼迫のためである。で、米将軍とも呼ばれた八代将軍・吉宗の命により、水田開発の切り札として吉宗の故郷・紀州から呼び出されたのが、伊沢弥惣兵衛為永。見沼溜井の干拓に着手。まず、芝川の流路を復活させる。溜井の水を抜き溜井を干拓する。ついで、灌漑用水を確保するため、用水路を建設。はるか上流、利根川から水を導く。これが見沼代用水。見沼の「代わり」とするという意味で、「見沼代」用水、と。で、代用水を西と東に分流。新田の灌漑用水路とするため、である。これが見沼代用水西縁と見沼代用水東縁。この西縁と東縁を下流で結んだ運河のことを見沼通船堀、という。目的は、代用水路を活用した船運の整備。代用水路近辺の村々と江戸を結んだ、ということだ。

本日のルート:
武蔵野線・東浦和駅 > 見沼通船堀公園 > 見沼通船堀西縁 > 八丁堤 > 附島氷川女体神社 > 芝川 > 見沼通船掘東縁 > 木曽呂富士塚 > 見沼代用水東縁 > 武蔵野線 > 浦和くらしの博物館 > 大崎公園東 > 見沼代用水縁 > 国道46号線交差 > 東沼神社 > 川口自然公園 > 武蔵野線にそって東に > 東北道 > 北川口陸橋 > 石神配水場 > 妙延寺地蔵堂 > 外環交差 > 赤山陣屋跡 > 山王社 > 源長寺 > 新井宿 


武蔵野線・東浦和駅

武蔵野線・東浦和駅下車。駅前の道を南に附島橋の方向に進む。すぐ東浦和駅前交差点。東に折れ、ゆるやかな坂道をほんの少しくだると水路にあたる。見沼代用水西縁。見沼通船堀公園の西縁でもある。公園の南縁は八丁堤の土手。土手の上には赤山街道が走る


見沼通船堀

通船堀を進む。土手道・八丁堤は堀の南に「聳える」。竹林が美しい。土手の向こうはどういった景色がひろがるのか、附島氷川女体神社に続く道筋をのぼる。赤山街道に。赤山街道、って関東郡代伊那氏が陣屋を構えた川口の赤山に向かう街道。年貢米を運んだ道筋、ってこと、か。赤山街道、とはいうものの、現在では車の行きかう普通の道路。道の南とは比高差あり。土手を築いたわけだから、あたりまえ、か。附島氷川女体神社におまいり。道路わきに、つつましく鎮座する。このあたり附島の地は先回歩いた氷川女体神社の社領があったところ。その関連で、この地に氷川女体神社が鎮座しているので、あろう。

再び通船堀に戻る。しばらく進むと、関がある。これって水位を調節し船を進めるためのもの。東西を走る代用水と中央を流れる芝川には3mもの水位差があった、ため。船が関に入る。前後を締め切る。水位を調節し、先に進む、といった段取り。ありていに言えば、パナマ運後の小型版。パナマ運河より2世紀も早くつくられた。日本最古の閘門式運河の面目躍如。こういった関が芝川に合流するまで二箇所あった。見沼代用水西縁から芝川まで654mほど。見沼通線堀西縁と呼ばれる。

芝川合流点。橋がない。一度赤山街道まで南に下り、といっても、どうという距離ではないのだが、芝川にかかる八丁橋を渡り、芝川の東側に。道に沿って進む。見沼代用水東縁まで390mほど。見沼通船堀東縁、と呼ばれる。その間に2箇所の関があった。西縁は竹林であったが、こちらは桜並木。あっという間に見沼代用水東縁に。


見沼用水東縁・富士塚

突き当たり正面に台地が聳える。なんとなく気になり、たまたま近くに佇む地元の方に尋ねる。富士塚とのこと。どんなものだろう、とちょっと寄り道。赤山街道に戻り、台地南を迂回して富士塚方面に。途中ありがたそうな蕎麦屋さん。あまり食に興味はなにのだが、なんとなく気になり立ち寄ることに。それにしても、このあたりの「木曽呂」って面白い地名。アイヌ語かなにかで、「一面の茅地」といった意味がある、とも言われる。が、定説なし。ちなみに。西縁の大間木の由来は、「牧」から。近くに大牧って地名もある。馬の放牧場があったのだろう、か。

しばし休息し富士塚に。蕎麦屋さんのすく横にあった。高さ5.4m、直径20m。「木曽呂の富士塚」と呼ばれ、国指定の重要有形民族文化財となっている。結構な高さのお山にのぼり、成り行きで見沼代用水への坂道を下る。


浦和くらしの博物館民家園

見沼用水東縁を北に。水路に沿ってしばらく進むと武蔵野線と交差。遠路を越えたあたりで水路からはなれ、「浦和くらしの博物館民家園」に寄り道。芝川と国道463号線が交差するところにある。道筋はなんとなく昔の見沼田圃の真ん中を進むといった感じ。とはいっても田圃があるわけでもなく、一面の草地。調整池をかねているようで、敷地内には入れない。フェンスにそって進む。下山口新田とか行衛(ぎょえ)といったところを進む。行衛って面白い地名。ところによっ ては、「いくえ」って読むところもあるが、ここでは「ぎょえ」。由来定かならず・

「浦和くらしの博物館民家園」に。なんらかこの地域に関する資料があるか、と訪ねたのだが、民家が保存されている公園といったものであった。先に進む。国道の北にある「グリーンセンター大崎」の東側にそって進む。園芸植物園を超えると水路にあたる。見沼代用水東縁。ここからは用水路に沿って南に戻る。 東沼神社
公園があった。大崎公園。先に進む。ちょっと大きな道を越え、どんどん進む。右手には広々とした風景。見沼田圃の風景である。どんどん進む。お寺を眺めながら湾曲する水路に沿って歩く。大きな神社。太鼓の音が聞こえる。その音に誘われ境内に。太鼓や神楽のイベントがおこなわれていた。この神社は東沼神社。結構大きなお宮様。もともとは浅間社。明治期にいくつかの神社を合祀して、東沼神社と。「とうしょう」神社と読む。


武蔵野線から女郎仏に

しばらく神楽の舞を楽しみ散歩に出発。先に進むと左手に公園。川口自然公園。その先に線路が見える。武蔵野線。赤山陣屋への道筋は、大雑把に言えば、武蔵野線に沿って東北道まで進み、その先は南に東京外環道まで下ればいけそう。武蔵野線に沿って残間の地を歩く。電車は台地の切り通しといった地形の中を進む。しばらく進む。東北道と交差する手前で南に折れる。高速道路に沿って下る。西通り橋を過ぎ、大通り橋を越え、北川口陸橋に。陸橋を渡り道路東側に。すぐ南に川筋が。見沼代用水からの水路のようだ。水路の南にはいかにも給水塔、といった建物。石神配水場であった。水路に沿って東に進み配水場を越える。南に下る車道。その道筋を進み、新町交差点に。交差点を東に折れる。少し進むと妙延寺。「女郎仏」がまつられている。昔、いきだおれになった美しい女性をこの地で供養したという。

女郎仏のそばで少々休憩。少し東に進み、すぐ南に折れる。道なりに南に進み、神根中学、神根東小学校脇に。今まで平坦だった地形がこのあたりちょっと、うねっている。学校の南には外環道の高架が見える。赤山陣屋はすぐ近く。外環道の下を南に渡り、落ち着いた住宅街を進む。新興住宅地といったものではなく、洗練された農村地帯の住宅街といった雰囲気。のんびり進むと森というか林がみえきた。地形も心持ち盛り上がっているように思える。微高台地というべきか。道筋から適当に緑地に向かう。赤山城跡に到着した。


赤山陣屋跡

赤山城跡、または赤山陣屋は代々関東郡代をつとめた伊奈氏が三代忠治から十代・忠尊までの163年間、館をかまえたところ。初代忠次は家康入府とともに伊奈町に伊奈陣屋を構えていた。当時は関東郡代という名称はなく、代官頭と呼ばれていた。関八州の天領(幕府直轄地)を治め、検地の実施、中山道その他の宿場の整備、加納備前堤といった築堤など、治水・土木・開墾等の事業に大きな功績を挙げる。常に民衆の立場にたった政治をおこない、治水はいうまでもなく、河川の改修、水田開発や産業発展に貢献。財政向上に貢献した。関東郡代と呼ばれたのは三代忠治から。関東の代官統括と河川修築などの民政に専管することとなる。治水や新田開発のほか、富士山噴火被災地の復旧などに力を尽くす。が、寛政年間、忠治から10代目にあたる忠尊の代に失脚。家臣団の内紛や相続争いなどが原因とか。

散歩のいたるところで、伊奈氏に出会った。川筋歩きが多いということもあり、ほとんどか治水、新田開発のスペシャリストとして登場する。玉川上水、利根川東遷事業、荒川の西遷事業、八丁堤・見沼溜井など枚挙にいとまなし。が、見沼散歩でちょっと混乱した。井沢弥惣兵衛である。はじめは、井沢氏って伊奈氏の配下かと思っていた。が、どうもそうではないようである。互いに治水のスペシャリスト。チェックする。

伊奈氏と伊沢氏はその自然へのアプローチに違いがあるようだ。伊奈氏は自然河川や湖沼を活用した灌漑様式をとる。伊奈流とか関東流と呼ばれる。自然に逆らわないといった手法。一方、見沼代用水をつくりあげた伊沢為永は自然をコントロールしようとする手法。堤防を築き、用水を組み上げる。紀州流と呼ばれた。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)

伊奈流の新田開発の典型例としては、葛西用水がある。流路から切り離された古利根川筋を用排水路として復活させる。上流の排水を下流の用水に使う「溜井」という循環システムは関東流(備前流)のモデルである。また、洪水処理も霞堤とか乗越堤、遊水地といった、河川を溢れさすことで洪水の勢いを制御するといった思想でおこなっている。こういった「自然に優しい工法」が関東流の特徴。しかし、それゆえに問題も。なかでも洪水の被害、そして乱流地帯が多くなり、新田開発には限界があった、と。

こういった関東流の手法に対し登場したのが、井沢弥惣兵衛為永を祖とする紀州流。八代将軍吉宗は地元の紀州から井沢弥惣兵衛為を呼び出し、新田開発を下命。関東平野の開発は紀州流に取って代わる。為永は乗越提や霞提を取り払う。それまで蛇行河川を堤防などで固定し、直線化する。ために、遊水池や河川の乱流地帯はなくなり、広大な新田が生まれることに。また、見沼代用水のケースのように、溜井を干拓し、用水を通すことにより新たな水田を増やしていく。用水と排水の分離方式を採用し、見沼代用水と葛西用水をつなぎ、巨大な水のネットワークを形成している。こうした水路はまた、舟運としても利用された。

とはいえ、伊奈氏の業績・評価が揺るぐことはないだろう。大水のたびに乱流する利根川と荒川を、三代六十年におよぶ大工事で現在の流路に瀬替。氾濫地帯だった広大な土地が開拓可能になる。1598年(慶長三年)に約六十六万石だった武蔵国の総石高は、百年ほどたった元禄年間には約百十六万石に増えた、と言う。民衆の信頼も厚く、ききんや一揆の解決に尽力。その姿は上でメモした『怒る富士』に詳しい。最後には、ねたみもあったのか、幕閣の反発も生み、1792年(寛政四年)、お家騒動を理由に取りつぶされた、と。とはいえ、素敵な一族であります。
赤山城は微高台地に築かれている。周囲は低湿地であった、とか。本丸、二の丸、出丸が設けられ自然低湿地を外堀としている。陣屋全体は広大。本丸と二の丸だけで東京ドームと後楽園遊園地を合わせたほどの規模となる。郡代とはいうものの、8千石を領する大名格。家臣も300名とか400名と言うわけで、むべなるかな。城跡を歩く、北のほうは林、中ほどはちょっとした庭園風。南は畑といった雰囲気。あてもなくブラブラ歩き、東に進み山王神社に。そこから赤山陣屋を離れ源長寺に向かう。

源長寺

源長寺。城跡で案内を見ていると、伊奈氏の菩提寺となっている、と。きちんとおまいりするに、しくはなし、と歩を進める。南に下る道を進み首都高速川口線と交差。赤山交差点。東に折れ、江川運動広場を越え、東に折れ、微高地に建つ源長寺に。いまでこそ、ちょっとした堂宇ではあるが、お寺の資料を見ると、明治のころには祠があっただけ、といったもの。伊奈氏の業績を考えれば少々寂しき思い。

新井宿

台地を下り、埼玉高速鉄道・新井宿に。このあたりは日光御成道が通っていた、と。日光御成道、って鎌倉街道中道がその原型。江戸時代に日光街道の脇往還として整備された、文字通り、将軍が日光参詣のときに利用された街道である。道筋は、東大近くの本郷追分で日光街道から離れ、幸手宿(埼玉県幸手市)で再び日光街道と合流する。宿場は、岩淵宿(東京都北区) 、川口宿(埼玉県川口市) 、鳩ヶ谷宿(埼玉県鳩ヶ谷市)、大門宿(埼玉県さいたま市緑区) 、岩槻宿(埼玉県さいたま市岩槻区) 、幸手宿(埼玉県幸手市)。新井宿とは、いかにもの名前。ではあるが、日光御成道に新井宿という宿場名は見当たらない。そのうちに調べてみよう、ということで、地下鉄に乗り家路へ と。

見沼田圃を通船堀に
見沼田圃 見沼田圃を歩こうと、思った。大宮台地の下に広がる、という。大都市さいたま市のすぐ横に、それほど大きな「田圃」があるのだろうか。ちょっと想像できない。が、先日の岩槻散歩の途中、大宮から乗り換えて東部野田線で岩槻に向かう途中、緑豊かな田園風景に接したような気もする。たぶんそのあたりだろう、と、あたりをつけて大宮に向かう。 
見沼と見沼田圃。沼と田圃?相反するものである。これって、どういうこと。それと見沼代用水。代用水って何だ?沼や田圃との関係は? 見沼というのは文字通り、沼である。昔、大宮台地の下には湿地が広がっていた。芝川の流れが水源であろう。その低湿地の下流に堤を築き、灌漑用の池というか沼にした。関東郡代・伊奈氏の事績である。
堤は八丁堤という。武蔵野線・東浦和駅あたりから西に八丁というから870m程度の堤を築いた。周囲は市街地なのか、畑地なのか、堤はどの程度の規模なのだろう、など気になる。その堤によって堰き止められた灌漑用の池・沼、溜井は広大なもので、南北14キロ、周囲42キロ、面積は12平方キロ。山中湖が6平方キロだから、その倍ほどもあった、と。 
見沼田圃とは水田である。見沼の水を抜き水田としたものである。伊奈氏がつくった「見沼」ではあるが、水量が十分でなく灌漑用水としては、いまひとつ使い勝手がよくなかった。また、雨期に水があふれるなどの問題もあった。そんな折、米将軍と呼ばれる吉宗の登場。新田開発に燃える吉宗はおのれが故郷・紀州から治水スペシャリスト・伊沢弥惣兵衛為永を呼び寄せる。為永は見沼の水を抜き、用水路をつくり、沼を水田とした。方法論は古河・狭島散歩のときに出合った飯沼の干拓と同じ。まずは中央に水抜きの水路をつくる。これはもともとここを流れていた芝川の流路を復活させることにより実現。つぎに上流からの流路を沼地の左右に分け、灌漑用水路とする。この水路を見沼代用水という。見沼の「代わり」の灌漑用水、ということだ。見沼代用水は上流、行田市・利根大橋で利根川から取水し、この地まで導水する。で、左右に分けた水路のことを、見沼代用水西縁であり、見沼代用水東縁、という。上尾市瓦葺あたりで東西に分岐する。 (「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)



本日のルート:
JR 大宮駅 > けやき通り > (高鼻町) > 市立郷土資料館 > 氷川神社 > 県立博物館 > 盆栽町 > 見沼代用水西縁 > (土呂町・見沼町) > 市民の森 > 芝川 > 東武野田線 > 土呂町 > 見沼代用水西縁 > 寿能公園 > 大和田公園 > 大宮第二公園 > 鹿島橋 > 大宮第三公園 > 堀の内橋 > 稲荷橋 > 自治医大付属大宮医療センター > 大日堂 > 中川橋・芝川 > (中川) > 中山神社・中氷川神社 > 県道65号線 > 芝川 > 見沼代用水西縁 > 氷川女体神社 > 見沼氷川公園 > 見沼代用水西縁 > 新見沼大橋有料道路 > (見沼) > 芝川 > 念仏橋 > 武蔵野線 > 小松原学園運動公園 > 見沼通船掘 > JR 東浦和駅

大宮駅
散歩に出かける。埼京線で大宮下車。大宮といえば武蔵一之宮・氷川神社でしょう、ということで最初の目的地は氷川神社とする。とはいうものの、見沼関連でよく聞くキーワードに氷川女体神社がある。また八丁堤って名前は知ってはいるが、どこにあるのか、よくわかっていない。観光案内所を探す。駅の構内にあった。地図を手に入れ、それぞれの場所を確認。駅の近くに郷土資料館とか県立の博物館もあるようだ。見沼に関する資料もあろうかと、とりあえず郷土館に向かう。コースはそこで決めよう、ということにした。

郷土資料館
駅の東口に出る。道を東にすすみ「けやき通り」に。そこを北に折れる。この道筋は氷川神社の参道。中央の歩道を囲み左右に車道が走る。参道の長さも結構ある。一の鳥居からは2キロ程度ある、とか。参道をしばらく進むと道の脇、東側に図書館。市立郷土資料館はその隣にある。地下にある常設展示で見沼に関する情報を探す。見沼溜井というか、見沼たんぼの概要をまとめたコーナーがあった。さっと眺め、見沼代水路西縁とか、芝川とか、見沼代水路東縁、氷川女体神社、八丁堤・見沼通船堀、といったキーワードと場所を頭に入れる。また、展示してあった見沼の地図で、見沼の範囲を確認。形は「ウサギの顔と耳」といった形状。八丁堤のあたりでせき止められた溜井が「ウサギの顔」。西の大宮台地と東の岩槻台地、そしてその間に岩槻台地から樹皮状に伸びた台地によって左右に分けられた溜井の端が「ウサギの耳」。西は新幹線の少し北まで、東は東部野田線の北あたりまで延びている。
郷土資料館であたらしい情報入手。見沼を左右にわける大和田の台地にある「中川神社」がそれ。氷川神社と氷川女体神社とともに「氷川トリオ」を形成している。氷川神社が上氷川、中川神社が中氷川、氷川女体神社が下氷川。一直線に並んでいる、ということである。見沼に面して、氷川神社が「男体宮」、氷川女体が「女体宮」、そして中間の中川神社が「簸王子(ひのおうじ)宮」として、三社で一体となって氷川神社を形つくっていた、とか。簸王子社は大己貴命(大国主神)、男体社はその父の素戔鳴命、女体社には母の稲田姫命を祀る、って按配だ。で、いつだったか、狭山を散歩しているとき、所沢・下山口の地で、中氷川神社に出会った。その時チェックした限りでは、奥多摩の地に奥氷川神社があり、これもトリオとして、一直線に並び、奥多摩は「奥つ神」、所沢は「中つ神」、そして大宮は「前つ神」として氷川神社フォーメーションを形つくっていた、と。

 氷川神社
氷川神社
郷土資料館を後に、氷川神社に。武蔵一之宮にふさわしい堂々とした構え。氷川神社については折にふれてメモしているのだが簡単におさらい;氷川神社は出雲族の神様。出雲の斐川が名前の由来。武蔵の地に勢を張った出雲族の心の支えだったのだろう。昔、といっても大化の改新以前、この武蔵の地の豪族・国造(くにのみやつこ)の大半が出雲系であった、とか。うろ覚えだが、22の国のうち9カ国が出雲系であった、と。
その出雲族も、大化の改新を経て、大和朝廷がこの武蔵の地にも覇権を及ぼすに至り、次第にその勢力下に組み入れられて、いく。行田の散歩で出会った「さきたま古墳群」の主、中央朝廷の意を汲む笠原直使主(かさはらのあたいおみ)が、先住の豪族小杵と小熊を抑えたのがその典型例であろう。小杵は朝廷から使わされた暗殺者によって「誅」された、と。
ともあれ、政治的にはその勢力を奪い取った大和朝廷ではあるが、さすがに出雲族の宗教心まで奪うことはできなかったようだ。利根川以西に広がる出雲系神社の数の多さをみてもそのことがわかる。 氷川神社は武蔵一之宮、と。が、多摩の聖蹟桜ヶ丘にある小野神社も武蔵一之宮と称する。武蔵国に二つも一之宮があるって、どういうことであろう。チェックした。
一之宮って正式なものではない。好き勝手に、「われこそ一ノ宮」と、称してもいい、ということ。もちろん、おのずと納得感が必要なわけで、いまはやりの、それらしき「説明責任」がなければならない。氷川神社は大宮の地に覇を唱えた出雲系氏族が、「ここが一番」と称したのだろう。また小野神社は府中に設けられた国府につとめる役人たちによって、「ここが一番」と主張されたのかも知れない。小野神社は武蔵守として赴任した小野氏の関係した神社であるので、当然といえば当然。また、先住の出雲系なにするものぞ、といった気持もあったのかしれない。  (「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)



県立博物館
次の目的地は県立博物館。境内を北に進む。それにしても池が多い。湧水なのだろう、か。台地の上にあるだけに、水源が気になる。池に沿って進むと県立歴史と民俗の博物館。見沼の情報をさっと眺め休憩をとりながら、先の計画を練る。いままで得た情報から、出来る限り見沼の上流からスタートする。さすがに最上端・上尾まで行くわけにはいかない。新幹線ならぬ、JR宇都宮線近くの市民の森・見沼グリーンセンターに向かう。そこから芝川に沿って下り、岩槻台地の樹枝台地先端にある中山神社に。そのあと見沼に下り、今度は大宮台地の先端にある氷川女体神社に。そのあとは見沼田圃を南にくだり、八丁堤に進む、という段取りとした。


盆栽町
県立博物館を離れる。すぐ北に東武野田線・大宮公園駅。北に抜けると盆栽町。西には植竹町。盆栽との関連は、とチェック。大正末期、当時土呂村であったこの地に盆栽業者が移り住んだ。昭和15年に旧大宮市に編入される際、「盆栽町」とした。盆栽町から土呂町に進む。台地をくだる。土呂町というか見沼地区にある市民の森に。すぐ手前に水路。チェックすると「見沼代用水西縁」。水路に沿って下りたい、とは思えども、とりあえず当初の予定どおり、芝川に進むことにする。市民の森を過ぎるとすぐに芝川。

芝川
芝川の土手を南に下る。周りは水田、というより畑。西にちょっとした台地。東に大宮の台地。その間を芝川は流れる。博物館で見た資料によれば、八丁堤で堰き止められた溜井の水は、このあたりの少し上流、JR宇都宮線の少し上あたりまできていたようだ。芝川に沿って下る。東武野田線と交差。あら?道がない。川の西側の道は車道であり、交差している。が、こちらは行き止まり。線路に沿って西に戻る。結構長い。が、仕方なし。少し進むと見沼代用水西縁。その先に踏み切りがあった。

見沼代用水西縁
見沼代用水西縁
踏み切りを渡り、東に戻ると見沼代用水西縁。芝川まで戻るのをやめ、この水路を下ることにする。水路脇は遊歩道として整備されている。少し下ると水路東に大和田公園、市営球場、調整池、大宮第二公園が広がる。水路西は寿能町。西に坂をのぼった大宮北中学のあたりに寿能城。そして見沼を隔てた大和田の台地には伊達城(大和田陣屋)があった。これらの城は、川越夜戦により北条方に落ちた川越城への押さえとして築かれたもの。寿能城には潮田出羽守資忠。軍事的天才と称された太田三楽斉資正(道潅の子孫)の四男。伊達城主は太田家家老、伊達与兵衛房が守る。これらの城は、岩槻の太田三楽斉資正、とともに、軍事拠点をつくっていた、と。
photo by Uhock

中山神社・中氷川神社
鹿島橋に。ここからは水路の東は大宮第三公園となる。白山橋、堀の内橋、稲荷橋と進む。水路東に自治医大・大宮医療センター。芝川小学校を超え朝日橋に。水路を離れる。見沼を隔てた東の台地にある中川神社に向かう。東に折れ芝川にかかる中川橋に。中川橋で芝川を渡り、中川地区を進み中山神社に。中氷川神社と呼ばれた中川の鎮守。中山神社となったのは明治になってから。中氷川の由来は、先にメモしたように、見沼に面した高鼻(大宮氷川神社)、三室(氷川女体神社;浦和:現在の緑区)、そしてこの中川の地に氷川社があり、各々、男体宮、女体宮、簸王子宮を祀っていた。で、この神社が大宮氷川神社、氷川女体神社の中間に位置したところから中氷川、と。 この神社の祭礼である鎮火祭りは良く知られている。この地区の中川の名前は、この鎮火祭りの火によって、中氷川の「氷」が溶けて「中川」になった、とか。本当であれば、洒落ている。

さきほどのメモで見沼の格好が「うさぎの頭:顔と耳」と書いたが、正確には、この中山神社あたりまで延びている沼がある。大きい耳の間に、ちょっとおおきな角が生えてる、って格好。こうなれば兎ではないし、どちらかといえば、鹿の角というべきであろうが、ともあれ、沼が三つにわかれている格好。三つの沼があったので「みぬま>見沼」って説もある。真偽の程定かならず。

氷川女体神社
氷川女体神社
次の目的地、氷川女体神社に向かう。県道65号線を下る。西には第二産業道路が走る。芝川の手前に首都高埼玉新都新線の入口があるよう、だ。芝川にかかる大道橋を渡るとすぐ見沼用水西縁にあたる。ここからは見沼用水西縁に沿って進む。北宿橋を越え、ここまで東に向かっていた水路が、大きく湾曲し、南に向かうところに氷川女体神社がある。 氷川女体神社。神社のある台地に登る。あれこれの資料や書籍に、「見沼を見下ろす台地先端にある」と表現されているこの神社の雰囲気を実感する。確かに前に一面に広がる沼に乗り出す先端部って雰囲気。しばし休息し、先に進む。これから先が見沼田圃の中心地(?)。敢えて兎というか、鹿で例えれば、「顔」の部分、ということか。


見沼田圃
芝川
氷川女体神社の前にある見沼氷川公園をぶらっと歩き、その後は見沼用水西縁を離れて、芝川に向かう。本日は予定に反してほとんど芝川脇を歩いていないので、なんとなく締めは芝川にしよう、と思った次第。成行きで東に進み芝川に。それほどきちんと整地されてはいない。土手を進む。周囲を眺める。「田圃」というより、畑地。低湿地であった雰囲気は残っている。見沼田圃を思い描きながら、しばらく下ると新見沼大橋有料道路と交差。下をくぐり進む。見沼地区を経て念仏橋を越え、大牧、蓮見新田、大間木を過ぎると武蔵野線と交差。

武蔵野線・東浦和駅
線路を過ぎると芝川を離れて西に向かう。小松原学園運動場の脇を南に下ると見沼通船堀公園。結構高い堤が前方に「聳える」。じっくりと歩いてみたい。が、残念ながら日が暮れてきた。通船のための水路もぼんやりと見える、といった按配。次回再度歩くことにして本日はこれで終了。公園近くの武蔵野線・東浦和に向い、一路家路を急ぐ。

本日のコースは石丸峠から牛の寝通り(尾根)を進み小菅村に下りる道。江戸時代、奥多摩を経て甲斐の国に進む道はふたつ。そのひとつは丹波山村から大菩薩上峠を越える丹波大菩薩道。昨日歩いた旧大菩薩峠がこれ。で、もうひとつが、小菅村から大菩薩下峠、現在の石丸峠を越える道。「牛の寝道」と呼ばれる。
江戸時代は相模川に沿った甲州街道が開かれていたが、距離が2里ほど少ないといったメリットもあり、甲州裏街道として活用された。関所がなかったこともそのメリットかもしれない。これら大菩薩峠を越える道は、明治11年、現在の柳沢峠を開削し車道、といっても馬車ではあろうが、ともあれ道が開けることにより、物流幹線と してのその役割を終えることになる。

牛の寝の由来は、尾根筋が牛の寝姿に似ている、とか、牛の寝(1352m)という山というか、場所があるから、とか、ともあれ、名前からすれば、それほど厳しいルートでもないような印象である。ともあれ、小菅に向かう。





2日目;大菩薩峠から牛の寝通りを辿り小菅まで
二日目のルート:介山荘>熊沢山>石丸峠>牛ノ寝と小金沢山の分岐>牛ノ寝通り入口>榧ノ尾山>棚倉小屋跡に棚倉・大ダワ>モロクボ平・川久保分岐>田元バス停・小菅の湯分岐>登山口>小菅の湯>田元バス停

熊沢山
早朝、富士のご来光を見るため親知らず頭に。運良くご来光をGET。朝食を済ませ小菅村へと向かう。介山荘を出発。すぐ南に熊沢山。左右に笹原が広がる北の稜線とは異なり熊沢山は針葉樹に覆われている。道もあるような、ないような。最後の上りは結構きつい。20分弱でピークらしき場所に。標高は1978m。大菩薩峠から比高差100m弱といったところ、である。

石丸峠
尾根道を進むと南が開けてくる。南に続く稜線は笹子峠方面に続く山並み。稜線に連なる小金沢山とか湯の坂峠とか大蔵高丸といった山や峠は、笹子峠を越えたとき、そして日川に沿って天目山を歩いたときにはじめて知った地名ではあるのだが、なんとなく懐かしく、心嬉しくなる。富士も顔をだしている。これもなんとなく心躍る。
先に進むと鞍部が見えてくる。石丸峠。大菩薩峠と同じく笹の原が美しい。笹に囲まれた峠に下りる。標高1930m。介山荘から40分程度の行程ではあった。
江戸時代、この峠は大菩薩下峠と呼ばれていた。江戸から奥多摩を経て甲斐の国に進む道はふたつあり、そのひとつは丹波山村から大菩薩上峠を越える丹波大菩薩 道。昨日歩いた旧大菩薩峠から荷渡し場に下る道筋、だろう。で、もうひとつが、小菅村から大菩薩下峠、現在の石丸峠を越える道。「牛の寝道」と呼ばれる。賽の河原のおかげか、介山文学碑のおかげか、大菩薩峠の名前は大菩薩上峠に占有されてしまったが、この石丸峠もれっきとした大菩薩峠。往古、旅人はここから現在の県道218号線の石丸峠登山口へと下り、上日川峠へと続いていたのだろう、か。

牛の寝通り分岐
石丸峠を離れ牛の寝通りに向かう。少し上り10分程度で道は分岐。右に折れると天狗棚山。標高1970m。こちらを先に進むと狼平、小金沢山、牛奥ノ雁ガ腹摺山、黒岳、湯ノ沢峠へと笹子峠方面に続く。今回歩く牛の寝通りは直進。小金沢連峰の縦走路から別れて下ってゆく。10分も歩かないうちに「長峰の尾根」への分岐。南西へと続く稜線上には白草の頭(1326m)がある。

ミズナラやダケカンバの自然林の中を行く。広葉樹林帯が続く。標高1720mあたりに熊笹が広がる。玉縄山のあたりらしいが、よくわからないままに通り過ぎてしまった。

榧ノ尾山
道はどんどん下る。「山道」の道標。いったいどんな道なのだろう、などと思いながら先に進む。やがて小さな伐採地の丘のようなところに出る。榧ノ尾山。標高1420m。南側が開け、長峰の稜線はほぼ同じ高さ、その先の小金沢山や雁ヶ腹摺山方面が高く聳える。ということは結構下ってきた、ということ、か。時間を見ると、石丸峠から1時間半弱歩いていた。

大ダワ
ここから小菅村への分岐点である大ダワまで穏やかな道が続く。標高1300~1400mの間で緩い下りと登り、まっすぐだったり曲がったり、を繰り返す。牛の寝(1352m)も知らずに通り過ぎる。狩場山(1376m)はピークを巻く。「ショナメ」と呼ばれる、なんとなくいわくありげな鞍部を過ぎて、10分弱で大ダワに。ここは小菅への分岐点。直進すれば松姫峠へと続く。牛の寝通りは一応、ここまで、らしい。「ショナメ」の意味不明。
大タワって、「大きなたわみ=鞍部」ということだが、実際はそれほど大きなスペースではない、ちょっとした伐採地といったもの。南北が開けている。道標には「棚倉」とある。小菅に折れず直進すれば大マテイ山(1409.2m)を経て松姫峠へと続く。
松姫は武田信玄の娘。悲劇の主人公としてなんとなく気になる。頼朝の娘大姫と木曽義仲の嫡子義高との悲劇とダブル。松姫の場合は相手は織田信長嫡子信忠。
松姫は幼くして織田信長の嫡子信忠と婚約。が、信玄上洛の途上、三方ヶ原で徳川と武田が合戦。織田は徳川に援軍。ために、武田と織田は手切れ。両家の婚約は解消。信玄亡き後、織田軍甲斐の国へ侵攻。総大将は嘗ての婚約者織田信忠。
武田軍形勢不利。松姫は兄の姫君を護り、道なき道を八王子方面へと逃れる。そのルートも諸説あり、松姫峠もそのひとつ、と言う。織田信忠は嘗ての婚約者の安否を心配したとか、しないとか。松姫は、幼き姫を育て、武田家滅亡後、家康に仕官した旧武田家の遺臣(八王子千人同心)の心の支えとして、八王子の心源院、その後信松院で一生を過ごした、と言う。

モロクボ平
ここから大マテイ山へ続く稜線を離れて左へ下る。モミジやカエデ、ミズナラなどの広葉樹林の木立の中、高指山(1274m)を巻くように30分強歩くと分岐点。モロクボ平である。ほどなく道標。右は「小菅の湯」方面。左は「小菅村」の道。川久保地区に下りてゆく。いずれにしても小菅村ではあるが、小菅の湯に下ることに。

小菅の湯
白樺らしき木も見える木立のノ中を15分程度下ると再び分岐点。直進すれば田元。右に折れると小菅の湯。植林地帯のジグザグの急な坂を下るとく登山口に。登山口には立派な道標が立っていた。大菩薩峠の介山荘から4時間強の行程であった。

山沢川に架かる橋を渡り舗装道路を道なりに進み小菅の湯に。一風呂浴び、田元のバス停に。小菅の湯から町までは結構下ることになる。途中、田元からの登山口などを見やりながら、小菅川にかかる田元橋を渡り田元橋のバス停に。バスの時間に余裕もあったので、町を歩くと川久保からの登山口もあった。バスを待ち、奥多摩駅へと、一路家路に向かう。念願の大菩薩峠は越えた。後は、早々に奥多摩から小菅への道をカバーしようか、と、  

古甲州道歩きも3回目。 初回は秋川丘陵を戸倉まで。2回目は檜原本宿から小河内へと抜ける浅間尾根を歩いた。本来なら3回目は浅間尾根の終点であった数馬から小河内へ抜け、小河内から小菅村といった段取りではあるのだが、途中を飛び越え、一挙に大菩薩越えと相成った。小説『大菩薩峠』の主人公、机龍之介が辿ったであろう、古甲州街道・大菩薩峠越えの道へのはやる想いを、といったところ、である。
ルートは塩山から大菩薩峠に上り、石丸峠、牛の寝通りを経て小菅村に出ることに。日程は1泊二日。無理すれば1日でも歩けそうにも思うのだが、小菅から奥多摩へのバスの最終便が5時過ぎということである。時間配分がいまひとつ見えない初めての山塊でもあるので大菩薩峠の山小屋で一泊することにした。
 

初日;東京を出発し大菩薩峠に
初日のルート:裂石バス停>雲峰寺>車道を丸川峠分岐へ>千石茶屋跡>ロッジ長兵衛>福ちゃん荘>富士見山荘>勝縁荘>介山荘>大菩薩峠>大菩薩嶺付近>小菅村への道_荷渡し場>介山荘泊

塩山
東京を出発。中央線で塩山に向かう。車窓からは相模川の発達した段丘を眺め、川沿いに続く江戸時代の甲州街道に想いをはせる。大月には駅前に岩山が聳える。気になり調べると岩殿山とのこと。このときがきかっけとなって、後日小山田氏の居城・岩殿城を歩くことになった。
笹子トンネルでは、雪の笹子峠越えを思い出す。トンネルを抜けると甲斐大和駅。武田勝頼自刃の地、天目山への最寄り駅。目的の塩山はその次の駅。
塩山からは山梨交通バスに乗り、国道411号線を大菩薩山登山口である裂石に進む。411号線は八王子と甲府をつなぐ1級国道。新宿から続く青梅街道は青梅市内でこの国道411号線につながる。ために、国道411号線は青梅街道とも呼ばれている。またこのあたりでは青梅街道・大菩薩ラインとも呼ばれる。

裂石
30分弱バスに乗り裂石で下車。国道411号線はそのまま柳沢峠へと向かうが、大菩薩峠への登山口は国道を離れ県道201に折れる。県道201号線は正式には「山梨県道201号線塩山停車場大菩薩嶺線」と呼ばれる。終点は大菩薩への登山ルートでもある、ロッジ長兵衛のある上日川峠。そこから先に続く道は県道218号線(大菩薩初鹿野線)となり、甲斐大和へと下り国道20号線・甲州街道に合流する。

雲峰寺
バス停から東にのびる県道を進むとほどなく道脇に古刹・雲峰寺。徒歩5分といったところ。「うんぼうじ」と読む。198段の高い石段を上ると本堂、書院、庫裏が建つ。天平17(745)年行基菩薩を開山とする臨済宗妙心寺派の名刹。武田家戦勝祈願寺として歴代領主の帰依が厚く、本堂、仁王門及び庫裡はすべて重要文化財。室町時代に武田信虎によって再建された。
甲斐国の府中からみて鬼門にあたるこの寺は、武田家代々の祈願所。武田家の家宝もあった日本最古の「日の丸の旗」が残る。後令泉天皇から清和源氏源頼義へ下賜され、その後甲斐武田氏に伝わったもの。また、この寺には天正10年(1582)武田勝頼が天目山で自刃したあと、家臣が再興を期してひそかに当寺に納めた「孫子の旗」六旒をはじめ、信玄の護身旗である「諏訪明神旗」、そして「馬印旗」といった武田軍の軍旗が所蔵されている。
ちなみに「日の丸の旗」って、「御旗楯無」の「御旗」。武田軍は「御旗楯無も御照覧あれ」との必勝の誓いのもと出陣していた、と言う。「孫子の旗」って、有名な「風林火山」の旗。
裂石の地名の由来はこの名刹、から。寺の縁起によれば、行基菩薩がこの地を訪れたとき、突然の雷鳴。砕けた大岩に十一面観音が現れ、そこに萩の木が生える。行基菩薩はその萩の木で十一面観音像を彫り、雲峰寺を開基した、と伝えられている。裂けた石はどこにあるのかわからなかったが、萩の木云々は、このあたり上萩原と呼ばれているわけでもあり、それなりのストーリー展開となっている。。

丸川峠分岐
お寺を離れ、最初の目的地である上日川峠に向かう。県道201号線を進む。舗装道路を20分程度歩くと丸川峠への分岐点に。この地点から北に折れると大菩薩嶺の北にある丸川峠(標高1700m)へと続く。

千石茶屋
丸川峠への分岐から20分弱、道が大きくカーブするあたりに道標。ここが登山道への分岐点。千石平と呼ばれている。この道標を目安に県道を離れ小道に入る。橋を渡ると千石茶屋。店は閉まっていた。千石茶屋から少し歩くと大菩薩峠登山道入口の標識。ここから林道へと入る。
ここから先、上日川峠のロッジ長兵衛までは樹林の中。おにぎり石を見やり、第一展望台、第二展望台に。ここでおおよそ上日川峠への半分くらい、だろうか。「やまなしの森林百選大菩薩のブナ林」の看板を過ぎると、傾斜が厳しく、つづら折れの道となる。あと残り三分の一弱。大きな栗の木を越えると傾斜が緩やかになり、ほどなくロッジに到着。ロッジ長兵衛。千石茶屋からほぼ1時間。裂石から1時間半強、といったところである。

上日川峠・ロッジ長兵衛
いつの頃だったか、大菩薩峠に来たことがある。まだ子供が小学校の低学年の頃なので10年も前のことだろう。そのときは、このロッジ長兵衛まで車で上ったのだが、ここが峠とはまったく思えなかった。上日川峠。裂石から上ってきた県道201号線はここで終点。ここからは県道218号線として甲斐大和に下る。
こ こが峠と知ったのはつい最近のこと。笹子峠を越え、甲斐大和に下ったとき、山の中腹に「武田家終焉の地・甲斐大和」の大きな看板。武田家終焉の地って確か天目山だった、かと。チェックすると、天目山って甲斐大和のすぐ近くにあった。日を改めて甲斐大和に訪れ、県道218号線を上り、武田家ゆかりの寺・景徳院や、天目山栖雲寺を訪ねたのだが、その道すがらバス停に眼をやると、「上日川峠行き」、との案内。地図でチェックすると上日川峠はこのロッジ長兵衛があ るところと分かった次第、である。
ところで、上日川って、「かみにっかわ」なのか「かみひかわ」なのか、どちらだろう。この峠から甲斐大和へ下る県道に沿って流れる日川は「にっかわ」と呼ばれる。が、その上流の上日川ダムは「かみひかわ」と呼ぶようだ。この峠も現在は「かみにっかわ」ではあるが、そのうちに「かみひかわ」となるのだろう、か。
ロッジ長兵衛の長兵衛とは、安政の頃、この峠に棲んでいた山窩(さんか)の名前のこと。山窩とは山に暮らす住所不定の山の民。この長兵衛さん、あれやこれやよからぬことをしたとかしない、とか。

福ちゃん荘
上日川峠を離れ、福ちゃん荘に向かう。舗装路が先に続く。舗装路に沿って林の中を続く山道に入る。ミズナラとかカラマツの樹林帯を30分ほど歩くと福ちゃん荘。標高1720m。福ちゃん荘は唐松尾根への分岐点。雷岩を経て大菩薩嶺へと続く登山道がある。
福ちゃん荘といえば赤軍派の逮捕劇で有名。武装蜂起を企て、この地に潜伏して山中訓練を行っていた赤軍派のメンバーが、未明の警察部隊の突入により、53名が逮捕された。世に「大菩薩事件」と呼ばれる。

富士見山荘
福ちゃん荘を離れしばらく平坦な道を進むと富士見山荘前。10年ほど前に来たときも閉まっていたし、今回も閉まっていた。建物脇に展望台。富士が見えるというが、先回も今回も残念ながら姿現れず。子供とここに来たときのことを思いだし、と、少々の想いに浸る。

大菩薩峠・介山荘
ほどなく姫ノ井戸沢の脇に勝縁荘。福ちゃん荘から10分程度。このあたりまでは車道も通る。ここから先は小石が転がる山道となる。
ブナなどの林を抜けると笹に覆われた斜面が眼に入る。やや急な上りを越えると大菩薩峠。福ちゃん荘から30分強。上日川峠・ロッジ長兵衛から1時間弱。裂石登山口から2時間半強といったところであった。
大菩薩峠は標高1897m。ごつごつした岩場。その峠直下に介山荘がある。今夜の宿泊場所はここ。時間は少々早いので、玄関に荷物を置き、大菩薩嶺に向かうことに。
峠に建つ介山荘の前から奥多摩方面を眺める。集落らしきものは小菅だろう、か。天気がよければその先には奥多摩湖.背後には石尾根の稜線が見える、とか。塩山方面には南アルプス、そして手前に光る湖水は上日川湖であろう。
介山荘の前から北に稜線が続く。北に見えるピークは、親知らずの頭(あたま)と妙見の頭。親知らずの頭を越えると旧大菩薩峠、そして賽の河原。大菩薩嶺はその先、1時間半くらいの行程となる。

中里介山の文学碑
歩き始めるとほどなく中里介山の文学碑。1.5mの五輪塔には「上求菩薩下化衆生」、と。「上求菩薩、下化衆生」は仏教の教義を意味する。上求菩薩とは、悟りを求めて厳しい修行を行うこと。下化衆生とは、慈悲を持って他の衆生に救済の手を差し伸べること。仏の道を目指すものはこれら両方を合わせて修得すべきこととされている。

この文学碑は未完の長編小説『大菩薩峠』を記念するもの。「大菩薩峠(だいぼさつとうげ)は江戸を西に距(さ)る三十里、甲州裏街道が甲斐国(かいのくに)東山梨郡|萩原(はぎわら)村に入って、その最も高く最も険(けわ)しきところ、上下八里にまたがる難所がそれです。
  標高六千四百尺、昔、貴き聖(ひじり)が、この嶺(みね)の頂(いただき)に立って、東に落つる水も清かれ、西に落つる水も清かれと祈って、菩薩の像を埋(う)めて置いた、それから東に落つる水は多摩川となり、西に流るるは笛吹(ふえふき)川となり、いずれも流れの末永く人を湿(うる)おし田を実(みの)らすと申し伝えられてあります。
 江戸を出て、武州八王子の宿(しゅく)から小仏、笹子の険を越えて甲府へ出る、それがいわゆる甲州街道で、一方に新宿の追分(おいわけ)を右にとって往(ゆ)くこと十三里、武州青梅(おうめ)の宿へ出て、それから山の中を甲斐の石和(いさわ)へ出る、これがいわゆる甲州裏街道(一名は青梅街道)であります。
 青梅から十六里、その甲州裏街道第一の難所たる大菩薩峠は、記録によれば、古代に日本武尊 (やまとたけるのみこと)、中世に日蓮上人の遊跡(ゆうせき)があり、降(くだ)って慶応の頃、海老蔵(えびぞう)、小団次(こだんじ)などの役者が甲府へ乗り込む時、本街道の郡内(ぐんない)あたりは人気が悪く、ゆすられることを怖(おそ)れてワザワザこの峠へ廻ったということです。人気の険悪は山道の険悪よりなお悪いと見える。それで人の上(のぼ)り煩(わずら)う所は春もまた上り煩うと見え、峠の上はいま新緑の中に桜の花が真盛りです。(『大菩薩峠』)」
実のところ、つい最近まで小説の主人公である机龍之介が、何故に人里はなれた、標高2000m近い山奥を歩かなければならないのか、いまひとつ理解できなかった。それがなんとなくわかるようになったのは街道歩きを始めてから。古甲州道のルートを調べていると、江戸以前の甲州街道はこの大菩薩峠を越えていた。江戸期に相模川沿いに甲州街道が開かれてからもここは甲州裏街道。今で言えば国道1号線といった大幹線道路。であれば、そこを机龍之介、旅人が歩いていてもそれほど不自然ではない、などと納得した次第。

旧大菩薩峠
稜線の登山道は親知らずの頭に登っていく。親知らずの頭は富士の展望ポイント。明朝はご来光を期待しよう。親知らずの頭を越えると旧大菩薩峠。賽の河原と呼ばれる鞍部には丸太組の避難小屋がある。このあたりが昔の大菩薩峠であった、とか。

峠はその昔、交易の場であった。『大菩薩峠』より;「妙見(みょうけん)の社(やしろ)の縁に腰をかけて話し込んでいるのは老人と若い男です。この両人は別に怪しいものではない、このあたりの山里に住んで、木も伐れば焼畑(やきばた)も作るという人たちであります。 
 これらの人は、この妙見の社を市場として一種の奇妙なる物々交換を行う。 萩原から米を持って来て、妙見の社へ置いて帰ると、数日を経て小菅(こすげ)から炭を持って来て、そこに置き、さきに置いてあった萩原の米を持って帰る。萩原は甲斐を代表し、小菅は武蔵を代表する。小菅が海を代表して魚塩(ぎょえん)を運ぶことがあっても、萩原はいつでも山のものです。もしもそれらの荷物を置きばなしにして冬を越すことがあっても、なくなる気づかいはない――大菩薩峠は甲斐と武蔵の事実上の国境であります。(『大菩薩峠』)」。
妙見の社がどこを指すのかはっきりしないが、賽の河原の先にあるピークが妙見の頭と呼ばれ、そこには妙見大菩薩が祀られていたというわけだから、このあたりのことなのだろう。
「荷渡し場」は峠から丹波・小菅に下る道にその跡が残る、と言う。ここ旧大菩薩峠は風の通り道でもあり、遭難も多かったため、場所を移したとも。おそらく昔は妙見の頭を巻くように小菅・丹波村へと続く道が伸びていたのだろう。現在、丹波・小菅に下る道は介山荘のそばから下っている。後ほど荷渡し場の跡まで歩く。

大菩薩嶺
妙見の頭のピークをそれ、なだらかな斜面を左に横切り先に見えるピークに進む。このピークは神部岩(神成岩)。標高2000m。神部岩から先に進み、標高を30mほどのぼったところが雷岩。ここは唐松尾根ルートの分岐。下れば福ちゃん荘脇に出る。介山荘からほぼ1時間といったところ。雷岩を過ぎ、10分強歩くと大菩薩嶺に。大菩薩嶺山頂は木々に囲まれ視界はない。標高2057m。日本百名山のひとつ。介山荘から1時間半弱といった行程であった。

荷渡し場跡
一休みし、荷渡し場跡に向かうため大菩薩峠へと戻る。「小菅村・丹波山村」ヘの指導標を目安に道を下る。所々に石畳の道、石組みの跡も残る。右側は崖。10分強下っただろうか、そこに荷渡し場の標識。「萩原村(塩山市)から丹波、小菅まで行ったのでは1日では帰れないので途中に荷を置いて戻った。萩原村からは米、酒、塩などを、丹波、小菅側からは木炭、こんにゃく、経木などが運ばれた」、と。
『甲斐国誌』によれば、「小菅村ト丹波ヨリ山梨郡ヘ越ユル山道ナリ。登リ下リ八里、峠ニ妙見大菩薩二社アリ、一ハ小菅、ニ属シ、一ハ萩原村(塩山市)ニ属ス。萩原村ヨリ、米穀ヲ小菅村ヘ送ルモノ此、峠マデ持来タリ、妙見社ノ前ニ置キテ帰ル、小菅ヨリ荷ヲ運ブ者峠ニ置キテ、彼ノ送ル所ノ荷物ヲ持チ帰ル。此ノ間数日ヲ経ルト雖モ、盗ミ去ル者ナシ」、とある。信用取引といったところ、か。実際の荷渡し場は、ここからもう20分弱下ったフルコンバ小屋(標高1680m)のあたりではないか、とも言われる。初日はこれでおしまい。介山荘に戻り一夜を過ごす。 
上流域は谷端川。中・下流域は千川、そして小石川と呼ばれる川跡を辿る

板橋散歩の時、大谷口の給水塔を訪ねたことがある。残念ながら、給水塔は取り壊され、新しい姿へと模様替えの最中であった。それはともかく、その大谷口の台地から有楽町線・千川駅へと下った。千川って、千川上水(用水)の流路に関係あるのだろう、とは思ったのだが、いかなる流路を経て、この地に至るのかちょっと気になった。
千川用水は散歩の折々に顔を出す。玉川上水を歩いていたときも出会った。武蔵境の境橋あたりで分岐し、江古田、東長崎辺りまで下っていた。現在の千川通りがその流路跡であろう。が、それから下流、有楽町線の千川駅辺りの流路はいまひとつよくわからない。ということで、まずもって、豊島区の郷土資料館に行くことにした。そこに行けば千川用水に関する、なんらかの資料があるだろう、と思った次第。散歩コースはその場で決めよう、と。
池袋駅で下車。豊島区郷土資料館は池袋駅のそば。東京芸術劇場前の通りを池袋警察前交差点方面に進んだ勤労福祉会館内にある。『豊島区史跡めぐり』『歴史をたずねて;豊島区の文化財』、『歩く・聞く・映す』、そして欲しかった『千川上水探訪マップ』などを手に入れた。1階の喫茶で食事をしながら資料チェックする。
『千川上水探訪マップ』によれば、東長崎辺りで直角に曲がった水路跡・千川通りは、千川駅近くに上ってきている。その先は、要町3丁目を経由し、北東方向に川越街道にまで進んでいる。はてさて、どういったコースを歩こう、か。思案するも、どうも今ひとつコースが思い浮かばない。と、『歩く・聞く・映す』に、要町あたりを源流点とし、蛇行をしながら文京区へと下る川筋跡が示されている。谷端川である。「やばた」と読む。『江戸の川あるき;栗田彰(青蛙房)』でも紹介されていたのを思い出した。源流点近くの上流では「谷端川」。途中板橋区や北区との境を流れ、文京区にはいると「千川」とか「小石川」と呼ばれ、最後は現在の後楽園のあたりから神田川に注ぐ。前から結構気になっていた。ということで、当初予定の千川用水は別の機会に廻し、今回は谷端川を歩くことにした。行き当たりばったりの散歩故の妙味、かと。
この谷端川、ざっと見ても距離は10キロ以上ありそう。あまり時間がない。ということで、池袋駅から有楽町線に乗り、千川駅まで行く。ついでのことながら、駅に戻る途中、メトロポリタンホテルの横に「丸池跡」があった。池袋の名前の由来ともなったこの池。この地から音羽を経て神田川と合流する「弦巻川」の源流点でもある。先を急ぐ。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)





本日のルート;粟島(あわしま)神社>長崎>長崎神社>谷端川緑道スタート>祥雲寺、洞雲寺、功雲院>川越街道と交差>東武東上線・下板橋駅>明治通りを越えてJR大塚駅に>猫又橋>簸川神社>小石川植物園>こんにゃく閻魔>小石川後楽園

粟島(あわしま)神社
有楽町線・千川駅下車。駅の直ぐ近く、道路からちょっと南に入った要町2丁目14に「粟島(あわしま)神社」。この境内にある池・弁天池の湧水が谷端川の源流。もっとも、現在ではポンプアップで水をくみ上げている、よう。また昔も湧水だけでは灌漑用の水量が不足していたようで、千川用水からの分流を取り入れ、養水もおこなっていた。谷端川が下流で「千川」と呼ばれたのは、これによる。ちょっとした「小川」程度であった弁天池からの流れが「谷端川」といった「本格的」な川となったのは千川用水と繋がってからのこと、であろう。で、要町の由来。扇の要、つまりは昔、長崎村とよばれたこのあたりの中心地であった、ということか。
粟島神社って、淡島神社と同じ。和歌山の加多にある淡島神社が総本社。人形供養で有名な神社である。淡島神は住吉の神さまの妃神ともいわれるのであれば、人形供養も違和感がない。弁天さまも女性の神様。もともとは、インドの川の神である。

長崎
神社を離れ谷端川散歩に出かける。粟島神社前の道、いかにも水路跡って感じの道を、千早・長崎地区、つまりは昔の長崎村を進む。昔の長崎村、って、結構広かったよう。現在の目白、下落合あたりまでも含み、豊島区の30%弱もあった、とか。明治の頃は豊島区は牧場地帯。牧歌的風景が広がっていたのだろう。千早は、千川の流れと楠木正成の千早城が相まってつくられた地名。長崎は、舌状台地が長く伸びた地形を現している、とか。とはいうものも、上でメモしたように、結構広い地域を含む名前であったとすれば、単なる地形的特徴からの名前、というよりも、有力武将長崎氏に由来する、といった説も、なんとなく説得力を感じる。
川筋を下る。古地図を見ると、淡島神社の弁天池だけでなく、数カ所からの水路が合わさっている。小さい谷戸が随所にあったのだろうが、今と成っては、それといった地形のうねりは感じられない。途中、川筋跡から少し離れ、御嶽神社と八幡神社にちょっと寄る。御嶽神社は雨乞いのため青梅の御嶽神社の「七代の滝」の水を持ち帰ったのがはじまり。

長崎神社
南に進み西武新宿線・椎名町に。ここまで、ほぼ一直線に下ってきた川筋は線路を越え、すぐ南の公園手前で90度折れ曲がり、東へと向きを変える。川筋は山手通り交差し、さらに東に進む。が、ちょっと寄り道。駅の北に戻る。山手通り脇に長崎神社と金剛院。長崎神社は江戸時代、「十羅刹女社」と呼ばれた。十羅刹女とは「法華経」にある10人の鬼女。仏法に帰依してからは、「法華経」を信ずるものの守護神となった、とか。その後、氷川神社という名称の時期をへて、現在の長崎神社に。で、金剛院はその別当寺。
椎名町駅といえば、帝銀事件の舞台となったところ、である。帝国銀行椎名町支店で12名が毒殺され、平沢貞通が逮捕され死刑判決を受ける。が、歴代法務大臣が死刑を承認することなく終わった謎の多い事件。もう歴史の彼方に去ってしまったのであろうか。ちなみに、椎名町という駅はあるが、町名にはそれは、ない。椎名の地名の由来は不明。




谷端川緑道スタート
川筋跡に戻る。線路を越え、いかにも川筋跡、といった道筋を300mほど東に向かうと、今度は直角に90度、北に向きを変える。すぐに、西武線で行き止まり。少し戻り、線路を越え、先ほどの行き止まりのあたりまで進む。ここから「谷端川緑道」がはじまる。谷端川は、この椎名町付近でU字に曲がる。先ほどの「長崎」の地名の由来ではないが、舌状台地の突端部を、谷端川がぐるっと迂回し、東の台地との間を北に流れるため、だろう。地形図を見ると、JR板橋方面に向かって山手通りに沿って細い谷地が続いている。谷端川は、3キロ弱のこの谷地を勾配差5mほどで、ゆったりと下ることになる。

祥雲寺、洞雲寺、功雲院
少し進む。川筋跡から少し西に入ったところに「羽黒神社」。あまりに、こじんまりとした神社、というか祠といった風情。緑道は立教大学の裏手を山手通りに沿って進む。立教通りとの交差点・霜田橋をすぎると大きな道路と交差。有楽町線・要町駅近く、祥雲寺坂下に「出る。東に進めば池袋駅に至る坂のあたりに、祥雲寺、洞雲寺、功雲院。どれも「雲」が。偶然なのだろうか。
祥雲寺は、永禄7年(1564年)、江戸城主・遠山景久が江戸城・和田蔵門内・吉祥寺の内に創建したもの。その後、小石川戸崎町をへて明治39年、この地に移る。このお寺には「首切り浅右衛門」こと、山田浅右衛門の石碑がある。公儀介錯人、といった人。
洞雲寺はもと、小石川関口台にあった。当時、その地にあった竜隠庵の別当寺でもあった。その竜隠庵は現在「芭蕉庵」と呼ばれている松尾芭蕉ゆかりのお寺。功雲院は別名、「鳩寺」とも。もとは高輪泉岳寺境内に。福知山藩主、朽木元綱の息女で掘直廣の正室・功雲院が鳩供養の観音堂を建てたのがはじまり。功雲院が18歳のとき重い病を患った。夢枕に鳩。「薬を飲みなさい」とのお告げ。「三枝九葉草」を煎じ服用を続ける。病が癒え、天寿をまっとうした、と(2008年2月に再び訪れたときは、改装工事中で、本堂は影も形もなかった)。このあたりの地形、谷筋を歩いているときは、あまり感じなかったのだが、お寺のあたりから緑道に戻るときは、結構、傾斜感を感じた。

川越街道と交差
緑道に戻る。山手通りに沿って北東に進む。緑道から少し東に折れ池袋3,4丁目あたりに御嶽神社と三社神社。こんもりと木々が茂ったところに御嶽神社。昭和になるまでは三嶽神社と呼ばれていた。三社神社は本当にこじんまりした祠、って感じ。三社神社を離れ少し進むと川越街道。山手通りと川越街道の交差点にある熊野神社、そしてすこし池袋寄りの川越街道に面した重林寺にちょっと立ち寄り、再び緑道に戻る。池袋3丁目に子育地蔵。江戸時代、池袋村の雑司谷道と小石川道の二股に建てられた。少し東に進むと氷川神社。旧池袋村の鎮守。このあたりには池袋貝塚があった、とか。この辺りは小高い台地となっている。池袋の台地の北端、といったところ。

東武東上線・下板橋駅
氷川神社の北に東武東上線が走る。山手通りに沿って北東に登ってきた谷端川緑道はここで東に向かって流れを変える。池袋の台地の北端ということだろう。東武東上線に沿って東に進んだ緑道は、下板橋駅手前で一瞬北に向かい、踏み切りを越えると再び線路に沿って東に進む。このあたりは板橋区。緑道は自転車置き場も兼ねている。先に進みJR板橋駅ホーム下をくぐる。歩行者用トンネルのコンクリート壁が昔の橋梁跡、とのこと。
ホーム東側に出ると緑道はなくなる。現在、川の機能が失われ、雨水排水路となった現在の谷端川は、板橋駅を埼京線にそって北上し、石神井川に流れ込む。が、散歩は、昔の流路を辿ることにする。一般道路となった川筋は板橋区と豊島区の境を南、というか南東に明治通りまで下る。池袋の台地の北端をぐるっと廻った感じ、ではある。





明治通りを越えてJR大塚駅に
明治通りを越えると再び豊島区に。道なりに西巣鴨1丁目を進む。道の東手にある西巣鴨小学校の前身・西巣鴨第一尋常小学校の校歌;「谷端の川の流れ、いと清き」「谷端の川の、たえぬごと」と谷端川が織り込まれている。先に進むと明治通りからJR大塚駅に向かう道筋と交差。北大塚3丁目交差点。車の頻繁に往来する道をJR大塚駅に。駅の東側のガード、それも、ふたつあるガードの東手のガードをくぐる。大塚の「由来は、文字通り、大きな塚があったから、とか。

猫又橋
川筋は、ガードを越えるとすぐ、弧を描くように南東に下る。千石3丁目へと下る大きな道路道の一筋東に、いかにも流路跡といった、うねった道筋が続く。南大塚1丁目の東福寺前、巣鴨小学校を道なりに進むと先ほどの大きな道筋にあたるが、川は相変わらず車の多い道野一筋東をすすみ不忍通りと交差。千石3丁目交差点の一筋東である。ここは文京区となる。
不忍通りを横切ると、歩道脇に「猫又橋の親柱の袖石」の碑。「この坂下にもと千川(小石川とも)が流れていた。むかし、木の根っ子の股で橋をかけていたので根子股橋と呼ばれた」との説明文。谷端川はこのあたりでは千川とか小石川と呼ばれるようになる。交差点の上は猫又坂。不忍通りが千川の谷地に下る長い坂。千川にかかっていた猫又橋が名前の由来。猫又とは、根子股とは別に、妖怪の一種であったという説もある。このあたりに、狸もどきの妖怪がいたとか、いないとか。



簸川神社
住宅地の間を、先に進みむと、小石川植物園の手前、台地の上に簸川神社。第五代孝昭天皇の時代というから、5世紀の創建と伝えられる古社。この神社、もともとの社号は氷川神社。簸川となったには大正時代になってから。天皇自体は伝説の天皇かもしれないが、その当時から簸川=氷川=出雲族の神様をまつる部族がこのあたりに住んでいたのだろうか。氷川神社のメモ:氷川は出雲の簸川(ひかわ)に通じる。武蔵の国を開拓した出雲系一族が出雲神社を勧請して氷川神社をつくる。武蔵一ノ宮は埼玉・大宮の氷川神社。武蔵の国に広く分布し、埼玉に162社、東京にも59社ある、とは以前メモしたとおり。もとは小石川植物園の地にあったが、その地に館林候・徳川綱吉の白山御殿が造営される。ために、おなじところにあった白山神社とともに元禄12年(1699年)、この地に移った。八幡太郎義家奥州下行の折、参籠した、といったおなじみの話も伝わっている。
簸川神社坂下一帯は明治末期まで「氷川田圃(たんぼ)」と呼ばれる水田が広がっていた、とか。神社階段下に「千川改修記念碑」。白山台地と小石川台地に挟まれた谷地を流れる川筋は水はけが悪く、昭和9年には暗渠となる。「千川通り」のはじまり。千石の地名は、千川の「千」と小石川の「川」の合作。

小石川植物園
東京大学の付属施設であるこの植物園の歴史は古い。貞享元年というから、1684年、徳川綱吉の白山御殿の跡地に、幕府がつくった薬草園・御薬園が、そのはじまりである。三代将軍家光のときに麻布と大塚につくられた薬草園をこの地に移したわけだ。園内には八代将軍吉宗のときにつくられた、小石川養生所の井戸なども残る。養生所は山本周五郎の小説『あかひげ診療譚』でおなじみのものである。台地上や崖線をゆったりと歩く。巨木、古木のなかで最も印象的であったのがメタセコイヤ。垂直に天に伸びる姿はなかなk、いい。
谷端川がこのあたりで千川と呼ばれる所以は、この川筋は源流点で千川用水の水を取り入れていたから。このことは既に述べた。が、別の説もある。千川用水自体が、この小石川植物園、つまりは昔の小石川白山御殿まで通っていたから、もの。千川用水開削の目的はもともとは、小石川白山御殿・本郷湯島聖堂・上野寛永寺や浅草寺などの御成御殿への給水のため、ということであり、この説も至極もっとも。神田・玉川上水からの給水が地形上どうしても不可能なため、新たな上水道を開削したわけだ。 要町から先の千川上水というか用水の流路をチェックしておく。要町3丁目から北東に東武東上線・大山駅付近まで登る>その先、都営三田線・板橋区役所駅前が北端のよう>その後は、駅前通・旧中山道に沿って南東に下る>明治通りとの交差するあたりで王子への分水>さらに旧中山道を下り巣鴨駅前・巣鴨三丁目で白山通・中山道通りに>白山通りを進み白山前道から白山御殿に給水、といった段取りでこの小石川植物園あたりまで進んできている。
この用水、将軍様だけでなく、駒込の柳沢吉保の六義園といった幕府関係者への給水、また本郷地区の住民も上水の恩恵に浴した。その後白山御殿閉鎖にともない、いくつかの紆余曲折はあったものの上水の給水はなくなり、水田灌漑用の用水として機能した、と。ちなみに、千川用水のルートをチェックしながら、これって尾根道、一方谷端川は谷地。同じところに辿るにも、地形ゆえの紆余曲折があるなあ、と改めて実感。

こんにゃく閻魔
白山3丁目を植物園に沿って歩く。西には台地。茗荷谷駅などの小石川台地が続く。川筋は台地を越えることはないわけで、台地の切れるあたりを求め千川通りを先に進む。播磨坂の下る植物園前を越え、小石川3丁目まで直進。南東に下ってきた通りはここで南に折れる。すぐ東を白山通りが川筋と平行に南に下る。少し進むと東大のある本郷弥生交差点、菊坂下、白山通西片交差点を経て下ってきた道筋がT字形に交差する。言問通りの西の端、ということか。そのT字交差点が「こんにゃく閻魔前」。
「こんにゃく閻魔」。正式には源覚寺。閻魔大王って、地獄の王、ではあるが、本来は閻魔天と呼ばれ、仏法を守り、人々の延命を助ける神様。閻魔信仰が日本にもたらされたのは平安末期。中国より伝わり、鎌倉期に盛んになった。道服、つまりは道教の修行者の服を着ていることからもわかるとおり、道教の影響が強い。「こんにゃく閻魔」の由来;寺の縁起によれば、「目を患う老婆が閻魔さまに回復祈願。満願の夜、夢枕に閻魔様が現れ、自分の目を与える、と。目覚めると目の痛みが消える。閻魔様に御参りすると、片目が濁っていた。老婆、閻魔さまに感謝し、自分の好物であるこんにゃくをお礼に供えた。以来、目を病む人がこんにゃくを携え御参りを、という按配。本堂脇にある、塩に埋もれた塩地蔵尊もなかなか、よかった。

小石川後楽園
さらに少し南に進み、春日通りと交差。春日通り、って豊島区池袋から、文京区、台東区を経由して、墨田区、大雑把に言えば、池袋駅近くの明治通り(六ツ又陸橋)との交差を西端、四ツ目通り(横川三丁目交差点)を東端とする道の通称。春日の由来は、春日局がこの地を将軍家光から拝領したことによる。春日局は家光の乳母。
川筋はこの先で水戸徳川家の屋敷内(現在の小石川後楽園)を経て神田川に合流していた、と。なにか川筋の跡でもあるものか、と庭園内に。この庭園は、江戸時代初期(寛永6年:1629年)、水戸徳川家の祖・頼房が中屋敷の庭としてつくった。完成は二代光圀の時。造園に際しては、明の儒学者・朱舜水のアドバイスを受けた回遊式築山泉水庭園。西湖の堤や廬山(ろざん;園内では小廬山)があるのは。中国の文人が好んで訪れた場所であるから、だろう。渡月橋や竹生島、清水さんなどといった日本国内の景勝地も取り入れられて、いる。
仙川の痕跡を探したがみつからなかった。かわりに、神田用水の水路跡が残されていた。神田川からの分流である、という。小石川白山御殿へも仙川用水が引き込まれていたが、水が生命線であるとすれば、水利権の確保は至上命題であった、とも思う。至極もっとも。 もあれ、谷端川・千川・小石川、といった川筋の谷はここで終わる。ちなみに、。小石川って、小石が多かったから。『江戸砂子』に;「小石多き小川、幾筋もある故小石川と名づけし」と。この小石川のあたり、礫石公園、礫石小学校など「礫石」という名前の地名・施設が多い。礫、つまりは小石が多かったわけである。

巣鴨の染井霊園から千駄木・谷中をへて台東区・不忍池に
先回歩いた谷端川(千川・小石川)は、文京区に入ると白山台地と小石川台地に間を流れ、白山台地が切れたあたりでは本郷台地と小石川台地の間を流れていた。文京区を流れる川筋としては、そのほかに目白・関口台地と小日向・小石川台地の南を流れる「神田川」、目白・関口台地と小日向・小石川台地の間を流れ、その後小日向・小石川台地の南を下る「弦巻川」「東青柳下水」、白山台地と本郷台地の間を下る「東大下水」、そして本郷台地の東、赤羽から上野に続く崖線台地との間を流れる「藍染川」がある。この藍染川、前々から気になっていた。名前に惹かれるのもさることながら、この流れって往古の石神井川の流路であった、ということである、から。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)

 現在の石神井川は、王子から東に流れ、隅田に注いでいる。が、昔は王子のあたりから崖線台地と本郷台地に間を南に下り、不忍池に注いでいた、と。流路が変わった理由は定かではない。が、有力な説はいわゆる「有楽町海進期」における「河川争奪」説。今から6000年前、江戸の地は、現在よりも海面が3mほど上昇していた。これを「有楽町海進期」と呼ぶのだか、この時期に海進によって台地の崖ぎわが急速に後退、簡単に言えば「薄く」なった。ために、石神井川が崖端侵食、つまりは「崖が裂け」、それまで南に下っていた石神井川の流れが、崖の割れ目から東に流れることになった。そして、その川筋が南に流れていた水を「横取り」してしまった。それが「河川争奪」。で、横取りされた川筋であるが、石神井川からの流れは途絶えた。が、それにもかかわらす、いくつかの湧水からの水などを集め、往古の石神井川の川筋に沿って流れていた。それが、源流点では谷戸川とか境川、途中で谷田川、そして不忍池に注ぐあたりでは藍染川と呼ばれた川筋ではなかろう、か。自分なりの勝手解釈ではあるが、結構納得。さてさて、藍染川散歩をはじめることにする。



本日のルート;染井霊園>本妙寺>慈眼寺>染井銀座商店街>妙義神社>染井稲荷>勝林寺>谷田川通り>道潅山通り>よみせ通り>夕焼けだんだん>さんさき坂>藍染川>谷中>池之端>不忍池

染井霊園
藍染川の源流点は「染井霊園」と、その北、現在の中央卸売市場豊島市場との間にあった「長池」と言われる。都営三田線・巣鴨駅で下車。北西に走る中山道の東側に出る。西側は巣鴨地蔵通り。とげ抜き地蔵で知られる高岩寺におまいりしたのは15,6年も前。二人目のこどもが生まれるころ。ちょっと寄ってみようか、などとも思いながらも、結局のところ源流点へ、と気持ちが急ぐ。
中山道をそれ霊園に沿って歩く。中央卸売市場豊島市場との間の道に。豊島市場って、もとは文京区の天栄寺ではじまった駒込青果市場。昭和12年にこの地に移る。寛政12年(1798年)設置された巣鴨御薬園跡でもある。渋江長伯が文化14年(1817年)日本ではじめて綿羊を飼育したところでもあり、綿羊屋敷と呼ばれてもいた、とか。

本妙寺
染井霊園に沿って道を進む。昔はこのあたりに池があったのだろう。豊島市場が切れるあたりから道筋は急に狭くなる。人ひとりがすれ違うことができるかどうか、といった細い道。道というか川筋を歩く前に、近くのお寺にちょっと訪れる。染井霊園に隣接し「本妙寺」。
明治44年、本郷より移転。このお寺、あの明暦3年(1657年)の振袖火事の火元。その供養等があった。北辰一刀流の開祖・千葉周作や江戸町奉行・遠山景元のお墓がある。で、この振袖火事、明暦の大火とも呼ばれ、江戸の街の半分以上を焼きつきし、3万人とも10万人以上がなくなった、ともいわれる。途中経過はあえて無視して結果を言えば、寺に供養するために火中に投じた振袖が、おりしもの強風にあおられ、本堂に舞い上がり大火事となった、とか。
この説に異を唱える人もいる。どこで読んだか定かに覚えてはいないのだけれども、火元になった本妙寺が厳罰に処せられることなく、その後も続いた、というのがおかしい。本当は当時の本妙寺の裏手にあった老中・阿部忠秋邸からの失火との説、である。老中の家からの失火では洒落にならない、ということで、お隣の本妙寺に「泣いてもらった」、との説。阿部家から本妙寺に供養代が払われている、それも大正時代・関東大震災の後まで。明暦の大火の犠牲者の供養のために回向院があるにもかかわらず、である。そこまでするのは、大きな「恩義」がなけれならないだろう、という説。真偽の程定かならず。

慈眼寺
本妙寺の隣に慈眼寺。深川にあったのだが、明治になって谷中の妙伝寺と一緒になりこの地に移る。司馬江漢、芥川龍之介、谷崎潤一郎などが眠っている。お寺と染井霊園の間の細道を北に進む。慈眼寺を越え少し進むと道筋は少し広くなる。染井霊園から離れ北に。豊島区と北区の境の道を北東に進む。道はすぐに二股に分かれる。南手の狭い道を道なりに進む。「染井銀座商店街」の入口に。

染井銀座商店街
染井銀座商店街 はうねっている。いかにも川筋跡って雰囲気。染井銀座商店街はそのまま「霜降橋商店街」に続く。本来の川筋は霜降橋商店街の入口あたりから、北にそれすぐ横を走る、ちょっと広めの道路に沿って流れていた、よう。
ともあれ、いかにも下町の、って感じの商店街を進む。本郷通りを横切るところには霜降橋がかかっていた、と。現在は交差点にその名前が残る。

妙義神社

そのまま先にすすむか、引き返し染井霊園を歩くか、しばし迷う。が、霊園に引き返すことに。霜降橋交差点を駒込駅方面に少し下る。女子栄養大学のあたりで本郷通りをはなれ、西に向かう。女子栄養大学を過ぎたあたりを南に進むと妙義神社。文明3年(1471年)、足利成氏との戦いに望んだ太田道潅が戦勝祈願をしたところ、とか。足利成氏のメモ;五代目鎌倉公方。が、管領上杉氏と反目。鎌倉から逃れ古河に本拠を移す。初代古河公方。上杉氏や堀越公方と争う。1482年に和解。その後、上杉氏の内紛に際しては、当初扇谷上杉、後に山内上杉の支援など、複雑な動きを繰り返した人物。

染井稲荷
駒込小学校の南を歩き、西福寺、そして隣に染井稲荷に。西福寺には植木屋伊藤伊兵衛の墓。このあたりは植木で有名であったよう。染井稲荷の別当寺。染井稲荷は少々つつましやかなお宮さん。で、川筋を歩いていたときはあまり感じなかったのだが、このあたりは結構な高台。つまりは染井霊園って台地上にある、ってこと、か。水源の長池は谷からの湧水、であったのかも。実際、染井霊園内の長池跡(矢戸川源流)の案内にもそのように書いてあった。
長池跡のメモ;「長池はかつての谷戸川の水源にて、古地図(安政3年、1856年の駒込村町一円之図)によれば巣鴨の御薬園と藤堂家抱え屋敷にまたがる広大なもので長さは八十八間(約158m)幅は十八間(約32.4m)もあったという。この池は現存していないが、この案内図板下のくぼ地の一帯がその跡地(約半分で残り半分は道路部分)と思われる。かつては清らかな湧水は池を満たし、清流となって染井霊園沿いに流れていた。
池から西ヶ原あたりまで谷戸川(やとがわ)、駒込の境あたりで境川(さかいがわ)、北区に入り田端付近で谷田川(やたがわ)、さらに下流の台東区根津付近からは藍染川(あいぞめがわ)と呼ばれて不忍池に流れ込んでいた。(全長約5.2km)明治末期には周辺の開発等もあり、湧水も減少して池も小さくなり大正に入って埋め立てられた。ここに、在りし日の湧水清らかな「長池」とその清流「谷戸川」をしのび記念の一文を残すものである。平成十四年三月   ソメイヨシノの咲き乱れる佳日に  東京都染井霊園)」と。

勝林寺

台地上の十二地蔵、植木屋伊藤伊兵衛の屋敷跡であった専修院から霊園の東端を下る。先ほど歩いた慈眼寺脇の川筋に戻る。ふたたび染井銀座商店街方面に。途中に勝林寺。もとは神田に。その後本郷。この地に移ったのは昭和15年。老中田沼意次の墓がある。ほんとうに、つつましやかなるお寺さま。ちょっとした民家、と見誤る。道なりに進み本郷通り・霜降橋交差点に戻り再び川筋を辿ることに。

谷田川通り
本郷通りを横切り、豊島区と北区の区境を南東に進む。道路が分岐。川は北側の道筋を流れていたよう。その先で山手線のガードをくぐる。そこには「中里用水架道橋」の表示があった。中里1丁目を越え、田端4丁目、田端3丁目に。先日の散歩で歩いた大龍寺、八幡神社から下る八幡通りと交差する。田端銀座前。このあたりから先の道筋は「谷田川通り」と呼ばれる。途中「谷田川通り」の案内;「矢田川通りは矢田川が暗渠となってできた通り。この川に沿って萩原朔太郎、画家・小杉放庵、歌人・林古渓、美術史家・岡倉天心などが住んでいた。谷田川交差点のところに、谷田橋があり、それは現在田端八幡神社に移されている」と。これって先日の北区・田端地区散歩のとき訪れた八幡さま。谷田川通りの一筋北、赤紙仁王通りに沿ってあった。「赤札仁王」さま、いい表情の仏様でありました、との思いをしばし。

道潅山通り

先に進むと道路脇に水稲荷。川筋があったエビデンスでもあろうか。不忍通りの動坂交差点に下る道筋を越え、田端1丁目を進む。この先で文京区と荒川区の境が弧を描く。荒川区西日暮里4丁目28番の一角あたりだが、例によって川筋が区の境となっていた、のであろう。文京区は千駄木4丁目。
弧を描いた細い道筋も数十メートル程進むと少し広くなる。今度は、文京区と台東区の区境となっている。台東区は谷中、文京区は千駄木。谷田川と道潅山通りが交差するあたりは、荒川区・西日暮里と、文京区・千駄木、そして台東区・谷中と3つの区が川筋を境に隣り合っている。
千駄木の由来は、太田道潅が栴檀(せんだん)の木を植えたところ、と、上野寛永寺に千駄の、というと馬千頭分の護摩の香木を収めていた、ということが相まって名づけられた、とか。ちなみに、「栴檀は双葉よりも芳し(かんばし)」の栴檀はこの木ではなく、白檀のことを指す。白檀は発芽したころから芳しい香を放つ、ということから、出来のいい人物は小さいときから他とは違ったものをもっている、という意味になった、と。谷中は文字通り「谷の中」。根津谷というか藍染川の谷地にあるところ、ってこと。

よみせ通り
道潅山通りを横断。川筋はやや南に向きを変え、ゆるやかに「蛇行」する「よみせ通り」に入る。少し進み道筋が「逆クの字形」に折れるあたりで「谷中銀座」が「よみせ通り」にT字形で交差する。「よみせ通り」の名前の由来は、文字通り、夜店(露天)、から。川筋を暗渠にしたこの通り沿いに、多くの夜店(露天)が並んでいたためである。 








 


夕焼けだんだん
谷中銀座を歩く。ここはいつ来ても、多くの人で賑わている。いつ来ても、とは言っても、今回で2回目。谷中銀座って、散歩のはじめたころ、田端から日暮里までの崖線台地上を歩き、道なりに谷地、つまりは、今回の藍染川の谷に下りてきたとき偶然通ったところ、である。「夕焼けだんだん」って、いかにも郷愁をそそる名前の石段を下り、屋台と見まごう商店街を歩いた記録が少々蘇る。
谷中銀座を突き切ったところに「 夕焼けだんだん」。
40段から50段の石段。ここからの見る夕焼けがいかにも美しい、ということで、作家の森まゆみさんが命名した、とか。森さんは、この地域で生まれ、地域雑誌『谷中・根津・千駄木』を創刊し、編集人となる。先日森さんの『彰義隊遺聞;新潮文庫』を読み終えたばかり。

さんさき坂
先に進む。「さんさき坂」の道筋と交差。「さんさき」って、「三崎」と書く。このあたりには三崎村という地名もあったらしい。駒込、田端、谷中の高台が藍染川の谷に突き出た姿が、三つの岬のように見えたのだろう、か。「さんさき坂」の道と「不忍通り」との交差点は団子坂交差点となる。ということは、団子坂は不忍通りを隔てて西の本郷台地の坂道、か。団子坂って東から下る坂道、と思い込んでいた。つまりは、「さんさき坂」のことはまったく知らなかった、ということ。ちなみに団子坂の由来は、坂の途中に団子屋があったとか、急な坂ゆえ、団子のことくころころ転げたから、とか、例によって諸説あり。

藍染川
藍染川が「さんさき坂」と交差するあたりに「藍染川と枇杷(びわ)橋(藍染橋)跡」の説明版。メモする;「文京区と台東の区境の道路はうねうねと蛇行している。この道は現在暗渠となっている藍染川の流路である。『新編武蔵風土記』によれば、水源は染井の内長池で、ここから西ヶ原へ、さらに駒込村から根津谷へ入る。川は水はけが悪く、よく氾濫したので大正十年から暗渠工事が始められ、現在流路の多くは台東区との区境となっている」、と。谷戸川、谷田川とよばれていたこの川筋は、このあたりになると、藍染川と呼ばれるようになっている。

谷中
「さんさき坂」を越えた川筋は、小さく蛇行を繰り返しながら南に下る。「さんさき坂」の先から、蛇行しながら南に向かう細い道筋がそれであろう。不忍通りが千駄木2丁目交差点でクの字形に曲がるあたり、一筋東の川筋はこのあたりで少し広くなり、ほぼ直線で南東に下る。道路にそって「藍染」の名前が目立つようになる。藍染保育園、藍染大通り、といった按配。「藍染屋」、つまりは染物屋さんも道筋に見かけた。このあたりの旧町名は「藍染町」。藍染川に由来することは、言うまでもない。
ちなみにこのあたり、台東区は谷中、文京区は根津。根津の地名の由来、もよくわからない。山や岡の付け「根」にある津=湊、という説。川もあるし、もっと昔は海がこのあたりまで入りこんでいただろうから、どこかに津=湊があったのだろう。また、根津神社の天井や絵馬に「ねずみ」が描かれているが、ねずみ、って根津神社にまつられている大国主命の使い、とも言われるし、根津って地名が使われはじめたのも根津神社の門前町ができた頃から、であるとすれば、ねずみ>ネズ、って説もある。よくわからない。

池之端
藍染川は「言問通り」にあたるところで、西に曲がり、「不忍通り」の手前で再び南下。東京弥生会館、上野グリーンクラブの西に沿って進み、「不忍通り」歩道に当たる。このあたりは池之端。文字通り、池の西の端にある、ことに由来する。昔はこのあたり、「上野花園町」と呼ばれた。藍染川の豊かな水を利用して上野寛永寺が花畑をここにつくり、上野御花屋敷と称していた、と。

不忍池
藍染川は「言問通り」に沿って進む。昔の不忍池派現在の池より一回り大きかった、と。藍染川はこの道筋を進み、不忍池に注いでいたのだろう。不忍池が池になったのは室町時代と言われている。太古、上野台地と本郷台地に入り込んでいた入り江の名残が時代とともに土砂が堆積し、潟湖となり、沼地となり、そして池となった、ということだろう。
もちろんのこと、もとは石神井川が注いでいた。そして、王子付近において河川争奪の結果石神井川の瀬替がおこなわれた後は、藍染川がこの不忍池に注いでいた、と。で、どこかでメモしたと思うのだが、上野の台地を「忍ケ丘」、と言う。で、なぜ「不忍池」なのか?いくつかの説がある。
が、最も納得感のあるのは、忍ケ丘から見下ろすと、この池が、くっきり、と、忍ぶことなく、周りと際立って存在していた、という説。『江戸名所記』によれば;「萱、すすきが生い茂り、道のさかいも分けざるに、池ばかりはあらわれみえたれば、忍ぶこともあたわずの意とする」とある。
藍染川は不忍池に注いで終わる。が、この水系はもう少々先に続く。不忍池からは先日散歩した三味線掘に注ぐ「忍川」に。三味線掘からは「鳥越川」となり、隅田川に注ぐ。歩けば歩くほど、「襷」が繋がってくる。

西台、中台の台地をへて志村へと進む
板橋散歩の3回目は西台からはじめることにした。先回の散歩で前谷津川緑道を歩いていたとき、前谷津川の流れる谷によって隔てられた徳丸・赤塚の台地と、もう一方の台地、それが西台の高台なのだが、その台地が気になった。で、台地上を、アップダウンを期待しながら西から東に横断してみよう、ということに。
大体のルートは、西台>(谷・環八)>中台>(谷・首都高速5号・池袋線)>志村>中山道>小豆沢。そして、時間が許せば赤羽まで進むといった、武蔵野台地の北端を歩くコースをルーティング。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)





本日のルート;都営三田線・西台駅>天祖神社>西台遺跡>峡田(はけた)の道>京徳観音堂>前谷津川緑道>円福寺>西台陸橋>西台不動尊?・西台公園>環八>サンシティ>中台馬場崎貝塚>稲荷神社>熊野神社>志村城跡


都営三田線・西台駅
都営三田線・西台駅で下車。南口に出る。船渡大橋から南に下る道路が高島平と蓮根地区の境を走る。台地が見えない。少々不安になりながらも、先に進む。西から東に一直線に走ってきた首都高速5号・池袋線が南方向に振れるところにあたる。高速道路の南に台地が見えてきた。陸橋を渡り、台地下に。適当にルートをとり、坂をのぼる。

天祖神社
道なりに進むと天祖神社。創建年代不詳。円墳のうえにつくられた祠がはじまり、とか。往時、神明社と。明治になって天祖神社となる。
神明、って言葉は「天照大神」、つまりは伊勢神宮の祭神、つまりは、皇祖。それではあまりに、畏れ多いと、明治の神仏分離例の際に、神明を天祖と改名した神社が多い。
境内奥には御岳山、といった山岳神、石神さま、また「天王さま」とも称される八雲神社など、近くにあった神様たちを合祀している。石神さまの前には「しゃもじ」が奉納されている。石神が「せき神」>「しゃく神」となり、「せき」が「咳」、「しゃく」が「杓子」となり「しゃもじ」となった、と。おなじような話は亀戸石井神社にもあった、よう。

西台遺跡
天祖神社の西に西台福寿公園。弥生時代後期の竪穴式住居跡が確認された西台遺跡。遺構は現在公園下に保存されている。案内をメモ:
「西台遺跡は、この公園を中心に、荒川低地を北に望む台地上にあり、東を西台中央通りの谷、西を前谷津川の谷に挟まれている。発見は昭和29年。発掘の結果、弥生期の住居跡、壷などが見つかった。中でも、菱形土器は、東海地方の土器との共通項をもち、同地域との交流を示唆する貴重なものであった、とか。

峡田(はけた)の道
公園は台地の北端。民家の軒先を歩き、急な坂というか石段を下る。標高差は10m以上ありそう。崖下の道を台地にそって進む。このあたりでは崖下の道を「峡田(はけた)の道」と呼ぶ。国分寺崖線では「はけ」、目白崖線では「ばっけ」と呼ばれている。

京徳観音堂
峡田の道を少し進むと京徳観音堂。入口にはお地蔵さんとか庚申塔。お地蔵さんは峡田の地蔵と呼ばれる。石段を登った境内には鎌倉だか室町だかの武士のお墓。昔はこの観音さまに御参りする人がひきもきらず、参道・石段が壊れた、とか。
それはそれとして、その修理代の負担に嫌気をさした村人は、草堂の柱を「逆さ柱」とした、とか。「逆さ柱」って、魔除けのためのものであり、参拝者にきて欲しくなかった、ということ。とはいうものの、日光東照宮の柱には「逆さ柱」がある、という。これは、建物は、建てた瞬間から壊れ始める、ということから、この「負」の要素に、「逆さ柱」という「負」の要素を掛けることにより、「正」に変えよう、ということだったのだろう、か。



前谷津川緑道
道を西にとり、前谷津川緑道に下る。前谷津川は、川越街道近く、赤塚新町あたりからはじまり、赤塚、四葉、徳丸、西台の谷間を流れ、高島平から新河岸川に注ぐ5キロ程度の流れ。現在はすべて暗渠となっており、このあたりは緑堂として整備されている。
徳丸・赤塚台と西台を隔てる前谷津川の谷地に立ち、東西の高台を確認。ふたたび西台の高台に戻る。京徳観音堂の南、西徳第二公園脇の坂をのぼる。



円福寺
坂を登りきったあたりに円福寺。立派な構えのお寺さん。もとは太田道潅が川越に開いたお寺。江戸時代のはじめにこの地に移された。西台の大寺と呼ばれていた由緒あるお寺さん。山門扉の桔梗の紋は大田道潅の紋所。
円福寺を舞台にした板橋の昔話・「枯れ葉の小判」;円福寺の坂の下を、お武家が通る。近くにいたお百姓に「鶴が池」は、と尋ねる。お百姓、場所を教える。お武家曰く「お礼に小判2枚与える。が、私が立ち去る姿を振り返ってはいけない」、と。お百姓、うれしさのあまり、その言葉を忘れ振りかえり、お見送りを。手元の小判は楢の枯れは二葉に変わっていた」、と。

西台陸橋
尾根に沿った道路を北に進む。道から少し東にはいったところに法蔵院。お寺は西向きの台地の端に建つ。円福寺の隠居寺。法蔵とは阿弥陀様のこと。阿弥陀如来がまつられているから。お寺というか庵っぽい法蔵院を離れ、道なりに北に少し進む。民家の入口といったところに馬頭観音堂。ここからさらに東に進むと陸橋が。この西台陸橋は西台1丁目と2丁目の台地をつないでいる。で、この西台1丁目の南は大きく谷に落ち込み、その向こうには西台公園の高台が見える。結構複雑な地形。

西台不動尊​・西台公園
谷地に下りる。坂道の途中、左手に西台不動尊の石碑。奥に、つまりは西台2丁目の崖地に不動堂。木彫りの不動明王は12年に一度のご開帳、とはいうものの、お堂は少々寂しげ。
お堂を離れ道なりに進むと西台公園。山林の中にフィールドアスレチックなどもある緑の深い公園。環八へと向かう道筋は、谷戸、というか谷津の風景。湧水もあったようだし、お不動さんのあたりには滝もあった、とか。

環八
公園の中をゆったり歩き、東端を下りる。下りきったところは谷地。これから進む中台の台地と分けている。谷地に環八が走っている。こんなところに環八?地図にもないし?もっとも手持ちの地図は古本屋で買った年代ものではあるのだが、それにしても環八はどうもできたてほやほや、って感じがするし。ということで、チェック。この区間が開通したのは2006年5月28日。首都高速5号線下から川越街道までをつなげている。またGoogle Mapのサテライトで確認すると、川越街道からその先にも道が見える。この板橋区間と同じ頃、目白通りから井荻トンネル部分も開通し、環八全線開通となった、ということ、か。計画から完成まで50年もかかったと、テープカットの石原都知事は吼えていたとか、いないとか。

サンシティ
環八をくぐり、「騒音対策」を要求する建て看板などを眺めながら、今度は中台の台地に取り付く。といっても、10m程度の標高差。首都高速5号線が走る台地の北端に再開発都市・サンシティ。遠目にも目立つ建物。旭化成研究所跡地利用とか。建設に先立っての遺跡調査で奈良時代の竪穴住居跡がみつかった、と。

中台馬場崎貝塚
少し南に進み若木3丁目のあたりには中台馬場崎貝塚がある。案内板のメモ:「今から6500年から5300年前、縄文時代早期末から前期中頃は、気候温暖化に伴う「縄文海進」と呼ばれる、海水面の上昇があり、この北側の荒川低地には海水が入り込み、前期中頃には埼玉県富士見市の先まで海が広がっていた。
中台馬場崎貝塚は、明治時代より知られていた。昭和42年に発掘調査が行われ、縄文時代前期中頃の住居跡から、多くの土器や石器とともに貝の堆積が発見された。その貝に河口付近で採れるヤマトシジミが多く含まれており、このあたりが川が海に注ぐ河口近くであったことがわかった」、と。 板橋には70近い遺跡がある、という。白子川とか石神井川、このあたりでは前谷津川とか出水川といった川が武蔵野台地を切り開き、そこで水を確保した人々が多く住んでいたのだろう。

稲荷神社
若木地区を南に下る。稲荷神社に到着。中台の高台に鎮座するお稲荷さま。古来、「稲荷渡り(とうかわたり)」と崇められお稲荷さんが降臨したとか、しないとか。稲荷が「いなり」となったのは「いなに」が転化したとかしない、とか。稲成りに、稲荷という文字をあてたとか。稲荷は稲を荷のごとく架けれるまでに生育したことに感謝したとか、しないとか。いまひとつわからない。どこかで読んだ記憶があるのだが、お稲荷さん=狐、というのは、狐が稲の害虫を食べてくれる動物であったため。稲成りの信仰をあまねく広めるとき、狐をキャンペーンマスコットにすれば、少々分かりやすかったから、とか。真偽のほど定かならず。 休憩のあとは、神社前の交番の横の道を東に進む。中台中学の手間の五差路右手に子育地蔵。祠の脇には庚申塔も。道なりに北に進む。北前野小学校あたりから坂を下り、首都高速の走る谷地に至る。

熊野神社
高速下・志村交差点を渡ると志村坂上に続く道・志村城山通りの坂が見える。坂をのぼることなく台地下を巻くように歩く。結構豪華なレジデンスが高台上に聳える。
ヴィオスガーデン城山と書いてある。都営三田線・志村三丁目方向に、ぐるっと崖下を迂回する。高速側のほぼ反対側から台にのぼる道。結構きつい。登りきったあたりに熊野神社。長久3年(1042年)志村将監が紀州熊野より勧請。天喜年間、源頼義と義家が奥州征伐の折り、境内に八幡様をまつった、と。

志村城跡
また、この地には志村城があった。康正2年(1456年)、一族間の抗争に破れ下総市川を追われた千葉自胤が赤塚城に籠もったとき、その前線基地として千葉信胤がこの地に入場したと言われる。熊野神社はこの志村城の守護神と。本丸は現在の志村小学校を中心とする一帯。北と西には出井川が流れ、攻めるに難い堅城と言われたが、大永4年(1542年)には北条氏綱により落城。熊野神社のあたりは二の丸跡にあたり、古墳のうえに建てられている、と。神社の社殿脇の空堀が往時の名残をとどめている。 台地を下り、都営三田線の志村三丁目駅に進み、本日の散歩を終える。志村の由来は、旧村名篠村、から。篠の生い茂る原野を開墾したのだろう、か。

成増から赤塚、徳丸へと進み東武練馬駅に
板橋区散歩の2回目は成増からはじめることにした。先回赤塚地区を歩いたとき、赤塚やそのお隣の成増地区にある神社仏閣、そして複雑な地形を、如何にも歩き残した感があった、ため。
営団成増で下車。赤塚地区に向かう前に、どうせなら西の端、和光市との境まで進み、境を流れる白子川、そして白子宿をちょっと眺めてみよう、と思った。「川はみな曲がりくねって流れている。道も本来は曲がりくねっていたものであった」からはじまる、岩本素白さんの描く『白子の宿』の地をちょっと歩いてみたかった、から。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)





本日のルート;成増駅>大山常夜燈>八坂神社>白子川>菅原神社>小松原阿弥陀堂>青蓮寺>氷川神社>諏訪神社>赤塚公園の崖線>北野神社>天神坂>前谷津川緑道から不動通り>東武練馬駅


成増駅
駅を南に進み川越街道に。西に進む。川越街道が大きく下る。白子川を渡るため台地から川に向かって下っていくのだろう。道の左手に団地が建て並ぶ。この一帯は成増1丁目遺跡。縄文から弥生にかけての集落跡が発見されたところ、とか。

大山常夜燈
坂道の途中、川越街道から旧川越街道がわかれるあたりに道祖神と大山常夜燈、そしてその近くに八坂神社。道祖神、って旅人の道中の安全を守るもの。江戸時代に街の辻などにあり、道標の役割も果たした。猿田彦命が御祭神。大山常夜燈は江戸中期、庶民の信仰の対象となった大山信仰のためにつくられた。

八坂神社
八坂神社は京都の八坂神社を勧請したもの。「天王さま」とも呼ばれている。御祭神は素戔嗚尊とイナダヒメノミコト。元々は現在地よりやや南にあったが、昭和8年の川越街道新道工事の際に移された」、と。
八坂神社って京都が本家本元。が、そのはじまりはよくわからない。一説では高麗の調使であった伊利之(いしり)の後裔・八坂氏が、朝鮮の牛頭(ごず)山に祀る牛頭天王を移したことにはじまる、とも。「天王さま」と呼ばれる所以である。
八坂神社という名になったのは明治の神仏分離令以降。明治になって。京都の「天王さま」・「祇園さん」が八坂神社に改名したため、全国3000とも言われる末社が右へ倣え、ということになったのだろう。八坂という名前にしたのは、京都の「天王さま」・「祇園さん」のある地が、八坂の郷、といわれていた、から。ちなみに、明治に八坂と名前を変えた最大の理由は、「(牛頭)天王」という音・読みが「天皇」と同一視され、少々の不敬にあたる、といった自主規制の結果、とも言われている。「祇園さん」と呼ばれていた理由は、「牛頭天王さま」は祇園精舎のガードマンでもあった、ため(鈴木理生『江戸の町は骨だらけ(ちくま学術文庫)』)。

白子川
八坂神社の脇を旧川越街道が下る。このあたりは新田宿。白子川を越えた白子宿に続く。坂を下りきったところに白子川。南大泉4丁目の大泉井頭公園を源流点とし、和光市、板橋区を流れ、板橋区三園で新河岸川に合流する全長10キロの川。かつては武蔵野台地の湧水を集めて流れる川。大泉の名前も、白子川に流れる湧水の、その豊さ故につけられた、とか。一時は汚染ワースト一位といった、あまり自慢にならないタグ付けをされたりしたが、現在では相当改善されている、と。
白子の由来は、新羅(しらぎ)が変化した、と言われる。奈良時代、武蔵国には高麗郡、新羅郡が置かれた、ってことは以前メモした。新羅や高句麗、百済からの渡来人が移住したわけだが、白子川も彼ら渡来人に由来する名前であろう。
白子川の手前に童謡作家、清水かつらが住んでいた家があった、とか。かつらの代表的な歌詞は「靴がなる」。当時としては「靴」は高級品であったわけで、わらじではなく、靴に「はれやか」な思いを託していたのかも。

「靴がなる」
1.お手々つないで野道を行けば   みんなかわいい小鳥になって   歌をうたえば靴が鳴る   晴れたみ空に靴がなる
2.花をつんではお頭(つむ)にさせば   みんなかわいい兎になって   はねて踊れば靴が鳴る   晴れたみ空に靴が鳴る

ちなみにおなじところに「浜千鳥」や「おうちわすれて」の作者・鹿島鳴秋も住んでいた。
「浜千鳥」
青い月夜の 浜辺には 親を探して 鳴く鳥が 波の国から 
生まれでる 濡(ぬ)れたつばさの 銀の色
夜鳴く鳥の 悲しさは 親を尋ねて 海こえて
月夜の国へ 消えてゆく 銀のつばさの 浜千鳥




白子宿
白子宿のあたりを少し歩く。坂の上に熊野神社。「東京名湧水57選」にも選ばれた湧水もあり行ってみたいのだが、これではきりがない。おまいりは次の機会とし、成増に引き返す。ちなみに白子宿といえば、岩本素白さんが「白子の宿 ひとり行く」という散歩のエッセーを書いている。『日和下駄』ではないけれど、散歩随筆の達人って、永井荷風がしばしば語られる。が、この素白さん、あれこれ散歩に「理屈」をつけることなく、自然な風情がなんとなく魅力的。
「白子の宿」から引用する;「僅かばかりしか家並みの無い淋しい町が、中程のところで急に直角に曲がり、更にまた元の方向に曲がっている。いわゆる鍵の手になっているのである。それと、狭い道の小溝を勢いよく水の走っているのとが永く記憶に残った。新しく出来た平坦な川越街道を自動車で走ると、白子の町は知らずに通り越してしまう。静かに徒歩でゆく人達だけが、幅の広い新道の右に僅かに残っている狭い昔の道の入口を見出すのである。道はだらだら下りになって、昔広重の描いた間の宿にでもありそうな、別に何の風情もない樹々の向こうに寂しい家並みが見える(白子の宿・独り行く2)」。素白先生は、この白子宿から新座の平林寺まで歩いた、という。そのうちに同じ道筋を辿ってみたい。

菅原神社
白子川から八坂神社まで戻る。脇に登り道。道なりにすすむと東武東上線。跨線橋を渡り先に進む。台地から坂道を下り、成増駅北口商店街、百々向川(ずずむきがわ)緑道を越えると台地下に天神下公園。少々休憩。台地の下をぶらぶら歩くと崖線に沿って旧白子川緑道が走っていた。台地を登る。菅原神社。旧成増村の鎮守さま。新編武蔵風土記では「天王社」。17世紀後半には「自在天社」。菅原神社となったのは明治になってから。
自在天、って仏教で言う地獄や天国といった六つの世界(六道)の最上位界に位する神様。菅原道真の御霊に「天満大自在天神」といった神号がついているが、これは道真の御霊と自在天が習合したものであろう。自在天社が菅原神社となった理由も、このあたりにあるのだろう、か。ちなみに、神社から臨む白子川の谷の眺めは結構、いい。

小松原阿弥陀堂
更に道なりに進むと小松原阿弥陀堂。阿弥陀堂自体は、さっぱりしたもの。その前の道角に庚申塔。「西 白子道 北 吹上道」と。区民農園に沿って進むと道は下りとなる。下りきるとケヤキの大木。その根元の道角に庚申塔。道は三方向に分かれている。適当に進む。左斜面は梅林。

青蓮寺
台地に登り少し進むと青蓮寺。台地の先端部分にあり、いい眺め。青蓮寺の寺号は「石成山」。成増の旧名でもある。「石」ころだらけの原野を開き、耕地と「成」したから、とか。成増の由来は、この石成村の名主の名前が田中左京成益であった、ため。成益が成増となった。また、富がどんどん成り増していく、のがその由来といった説も。お寺の近くの石成公園にちょっと寄り、三園通りに出る。成増と赤塚の境を南北に走る道である。

氷川神社
三園通りを越え少し東に進むと氷川神社。赤塚城主千葉自胤が大宮にある武蔵一宮・氷川神社から勧請したもの。境内脇に富士塚もある。桜の並木からなる長い参道を南に下ると参道入り口あたりにケヤキの老木。明治期の落語家三遊亭円朝の落語「怪談乳房榎」にちなんだ、「乳房榎大神」の碑がある。乳房の病にれいけんあらたか、とか。とはいうものの、落語に登場するのは、先回歩いた松月院の境内にある榎。コブからしたたる甘い雫をお乳がわりに、子供を育てたとか。

諏訪神社
氷川神社の少し「南に清涼寺。横に石成公園。成り行きで進むと赤塚小学校とか赤塚体育館に至る道に出た。先に進むと松月院通りと交差。通りを東、というか、北東に進む。先回歩いた、松月堂大堂、そして松月院をやり過ごし、新大宮バイパスを越え、台地の北端に進む。「竹の子公園」隣に諏訪神社。
赤塚城主の千葉自胤が15世紀の中ごろ、信州諏訪神社より勧請。本当に台地の端。木立に遮られそれほど見通しはよくないが、高速道路越しに高島平が見下ろせる。


赤塚公園の崖線
神社のある大門地区をはなれ、道なりに坂を下る。崖線下には赤塚公園が続く。結構な比高差。武蔵台地と沖積低地の境がはっきりわかる。崖下を進み赤塚公園交差点で再び台地に上る。
紅梅小学校、安楽寺と進む。安楽寺は室町時代の創建。九州・大宰府にある菅原道真の廟所である安楽寺を模したとか。





北野神社
松月院通りを越え、北野神社に。長徳元年(995年)、この地に疫病が流行したとき、梅の古木に祈願すると、あら不思議、ということで、梅にちなんで京都の北野天満宮より勧請。それにしてもこのあたり、北野神社とか菅原神社とか、安楽寺とか、紅梅(小学校)とか、菅原道真にちなむものが多いように思える。このあたりの「徳丸(徳麻呂)」の地名も、道真公の子供・徳丸から、って説もあながち間違いでもないのかも。


天神坂
北野神社の鳥居あたりから南を眺める。低地を隔て、その先に台地が見える。あの台地上を川越街道が走るのだろう。名前は忘れたが、近くの公園に展望台があり、そこからの眺めもなかなか、いい。
北野神社に戻り、急な坂を下る。天神坂。20m程度の標高差があるよう。下りきったところに「前谷津川緑道」。水源は赤塚新町2丁目・赤塚新町保育園のあたり。松月院通りとほぼ平行に南から東に流れ、徳丸6丁目から北に向かう。また下赤塚駅近くから続く支流があり徳丸5丁目・石川橋付近で前谷津川に合流する。支流はもうひとつある。新大宮バイパスと東武線が交差する赤塚1丁目あたりからの流路らしきものが見られる。前谷津川のまとめ;前谷津川は台地上のいつくかの湧水を集め、今まで歩いてきた北野神社のある徳丸の台地と、今から歩こうとする西台の台地を分け、高島平に下る全長4キロ程度の川である、ということか。





前谷津川緑道から不動通り
前谷津川緑道に大山不動明王の碑。大山参詣の人たちが身を清めたところ。東に進み「不動通り」と交差。緑道を離れ、不動通りに。不動通りは東武練馬駅と高島平をつなぐ道。南は東武線との合流点で途切れ、北は都営三田線で途切れる。南に下り、坂が台地に登る手前に中尾不動尊。さっぱりしたお不動さん。不動通りの名前の由来はここにある。不動尊の脇の急坂を登る。長谷津観音堂。庚申塔や石仏が。これも、さっぱりしたお堂。

東武練馬駅
お堂を都立北野高校に沿って急な坂を登る。で、登りきったところが東武練馬駅。川越街道を走っているだけではわからない。が、北から進んでくると台地上に鉄道・道路が走っている、ってことがはじめてわかった。それにしても複雑な地形を歩いた一日であった。ルートマップでアップダウンを確認し、将に納得。

赤塚地区から旧川越街道を中板橋に
北区を歩き終え、次は何処へ、と思案した。あれこれ考え、結局板橋区を歩くことにした。理由は北区の隣にある、ということだけだった、かとも思う。とはいうものの、板橋って名前で思い浮かべるランドマークは、中山道の板橋宿、川越街道、それと高島平といったところ。歩くにしてもきっかけがあまりに乏しい。ということで、例によって板橋区の郷土資料館に出かけ、資料を求め、スキミング・スキャニング。それからおもむろに散歩にでかけよう、ということに。  (「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)





本日のルート;板橋区郷土資料館>赤塚城本丸跡>乗蓮寺>不動の滝>松月院>松月院大堂>東武東上線下赤塚駅・旧川越街道に>上板橋>石神井川・下頭橋>中板橋駅

板橋区郷土資料館
板橋区の郷土資料館は都営三田線の西高島平が最寄り駅。駅前に東西に高島通り、南北に首都高5号・池袋線が走る。高速の下は新大宮バイパス。北には新河岸川と荒川。新河岸川は明治まで小江戸・川越と江戸を結ぶ舟運路であった。河岸跡を辿った散歩が懐かしい。荒川には笹目橋が架かる。
郷土資料館は駅の南、首都高速が東に、新大宮バイパスが南へと分岐するあたり。赤塚溜池公園の中にある。池で釣りをする人たちの中を進み郷土館へ。23区で最初に作られた郷土資料館、とか。『常設展示目録』、『"まち博"ガイドブック』等、例によって資料を買い求める。『板橋区文化財マップ』は無料で頂戴できた。
さて、どこから歩くか、あれこれ資料に目を通す。と、この赤塚溜池公園に接する台地上に「赤塚城本丸跡」がある。ランドマークとしては結構わかりやすい、ということでこの城跡からはじめ、あとは成行きで日が暮れるまで、板橋方面に向かって歩こう、と。

赤塚城本丸跡
木立の中を台地上に登る。城跡公園の広場に。赤塚城は武蔵千葉氏の主城のひとつ、と考えられている。武蔵千葉氏と赤塚城のメモ:下総の守護千葉氏は、亨徳の大乱に巻き込まれ、骨肉相食む一族間の争いを繰り広げた。亨徳の大乱って、古河公方足利成氏と関東管領・上杉氏の覇権争い。康生2年(1456年)、足利成氏に攻め込まれた千葉実胤(さねたね)・自胤(これたね)兄弟は下総・市川城を逃れ、この赤塚城と隅田河岸の石浜城に逃れる。これが武蔵千葉氏のはじまり。
寛正4年(1468)、自胤は太田道潅に従い、現在の和光市や大宮、足立区内に所領を拡大。武蔵千葉氏の基盤を固める。その後武蔵千葉氏は南北朝以来の領主であった京都の鹿王院の支配を排除し、赤塚地区の支配の強化につとめる。鹿王院って、足利三代将軍満建立の禅寺。時代が下り、小田原後北条が武蔵に進出してくると武蔵千葉氏はこれに従い、天正18年(1580)北条氏が秀吉に滅ぼされるまで勢力を振るった、と。
城は荒川低地に面し、東と西に大きく入り込んだ谷に挟まれた台地上にある。縄張りは広場部分が「一の郭」。広場南の梅林部分が「二の郭」、その西側が「三の郭」とされる。台地の北、東、西の三方は自然の谷で切り取られ、台地下の溜池公園は谷からしみ出した水を集めている。
台地上からは、北に広がる高島平が見える。もっとも、木立が深く、見通しはそれほどよくはない。この高島平は江戸時代、「徳丸が原」と呼ばれる原野であった。天保12年(1841年)、高島秋帆が西洋式砲術訓練をこの地でおこなう。
明治時代以降は開墾され、「徳丸田圃(たんぼ)」とよばれる水田地帯となる。高島平の団地の開発がはじまったのは昭和40年以降のこと。高島平って地名ができたのは、昭和44年。もちろん、高島秋帆に由来する。

乗蓮寺
台地上を東京大仏のある乗蓮寺に向かう。結構複雑な地形。標高25mから30m程度の台地が枝状というか舌状に複雑に「うねって」いる。道なりに進み乗蓮寺。もともとは下板橋(現在の仲町)にあった。江戸時代には中山道の板橋宿内にあり、将軍から10石の寺領が与えられた御朱印寺。1石でひとりが1年間食べれるお米である。10人の食い扶持ということか。
江戸切絵図には石神井川の近くに乗蓮寺が描かれている。現在の地に移ったのは昭和46年。高速道路の建設にともなう国道17号線の拡張にともない7年の歳月をかけて移ったという。境内には天保の飢饉の供養等や中世の豪族・板橋信濃守忠康のお墓などがある。板橋忠康は旗本板橋氏ならびに板橋上宿名主板橋氏の先祖と言われている。大仏さまは昭和52年につくられたもの。8mの高さがある。

不動の滝
乗蓮寺を離れ、不動の滝に。赤塚城のある台地と道ひとつ隔てた台地の崖から水がわずかながらも流れ出ていた。崖にある不動石像が名前の由来。昔、大山詣でや富士詣でにでかける人たちが、この湧水で禊ぎをおこない旅立った、とか。この滝は「東京名湧水57選」にも選ばれている。





松月院
台地の間の道筋を上る。上り切ったあたりに「松月院」。立派な構え、品のいいお寺さん。延徳4年(1492年)、武蔵千葉氏の千葉自胤が寺領し中興した。幕末には高島秋帆が高島平で西洋式砲術訓練をおこなったときの本陣。下村湖人がこのお寺で『次郎物語』の構想を練った、とか。

松月院大堂
松月院の前を東西に走る松月院通りと東武東上線・下赤塚駅へと南に下る赤塚中央通りの交差点・松月院前を少し西に戻ると、道の南側に「松月院大堂」。
板橋区で最も古いといわれるお寺。平安時代に創建され、室町の頃は七堂伽藍をそなえた大寺院であった、とか。上杉謙信が小田原北条攻めのとき、焼き払った、と。現在は往時の面影は偲びがたく、少々殺風景。

東武東上線下赤塚駅・旧川越街道に
何も考えずに訪れた赤塚地区ではあるが、複雑な地形や由緒ある神社・仏閣が点在する。予想外に魅力的なところである。一通り歩きたいのだが、如何せん時間が足りない。赤塚には再び訪れることにして、東武東上線方面に向かう。日が暮れるまで歩き、日没とともに直近の駅から電車に乗ろうという算段、とした。
赤塚中央通りに戻り、道なりに南に進んでいくと線路に当たる。線路手前に出世稲荷。結構小振りであるのは、地元の旧家の屋敷神であるから、と。東武東上線・下赤塚駅脇の信号を渡り南に進むと川越街道にあたる。川越街道を東に歩き、赤塚新町1丁目あたりまで進むと、川越街道から別れる道筋。いかにも旧道っぽい感じ。旧川越街道。このあたりは練馬区のようだ。
川越街道は中山道の脇往還として江戸時代、川越藩主・松平信綱によって整備された。板橋宿平尾(板橋3丁目)で中山道と別れ、上板橋宿(板橋区)、下練馬宿(練馬区)、白子宿(和光市)、膝折宿(朝霞市)、大和田宿(新座市)、大井宿(ふじみ野市)と6つの宿場を経て川越城下に達する。川越名産のサツマイモをもじって、「九里(栗)よりうまい十三里」と、言われる。実際は、川越城から江戸の川越藩の屋敷までは11里(44キロ)ほどであったよう。参勤交代では、川越城を夜中12時に出発。大井宿で小休止。あとは5つの宿をとおり、翌日の夕刻には江戸に到着した、という。新河岸川の舟運にお客を取られ、難儀した話もどこかで読んだ記憶がある。舟運のほうが速くかつ快適であろうから、それはそうだろう。

上板橋
17号線・新大宮バイパス、東武東上線・東武練馬駅を越え歩く。街道脇の浅間神社も軽くお参り。北町を越えると再び板橋区に入る。上板橋2丁目。東武線・上板橋の南を進み、上板橋1丁目で旧川越街道は川越街道に合流する。もっとも、後からわかったのだが、旧川越街道は合流点手前から上板橋四小あたりを通り、東武線・ときわ台駅前を通り先にすすんでいたようだ。ともあれ、川越街道を進み環状7号線・板橋中央陸橋を越えると石神井川に出合う。

石神井川・下頭橋
最寄りの駅をチェック。石神井川に沿って少し上ったところに東武東上線・中板橋駅がある。川に沿って歩くと下頭橋。先ほど別れた旧道がここに続いている。橋の東詰めにこじんまりした祠・「六蔵祠」。案内をメモする;「弥生町を縦断するのが旧川越街道。
大山町境から石神井川迄が上板橋宿跡。宿端の石神井川に架かる下頭橋は寛政10年(1798年)、近隣村々の協力を得ることで石橋に架け替えられ、それまで頻発した水難事故も跡を絶ったという。この境内にある「他力善根供養」の石碑はそのときに建てられたもの。
橋の名の由来には諸説ある。一説は、僧が地面に突き刺した榎がやがて芽をふいて大木に生長した逆榎がこの地にあった。第二説は、川越城主が江戸出府の折、江戸屋敷の家臣がこの地で頭を下げて迎えたから。第三節は橋の袂で喜捨を受けていた六蔵さんが、そのお金をもとに石橋に架け替えたから。六蔵祠は、その六蔵さんの威徳をたたえ、建てられた」、と。このあたりは上板橋宿の中宿あたりだったのだろう。

中板橋駅
石神井川に沿って進む。線路にあたる。右折し中板橋駅に進み本日の散歩終了。板橋を歩く前には、板橋区って川越街道が走る、平坦な地形と思い込んでいた。実際は結構複雑な地形。北に荒川の氾濫によって形成された低地帯と、その低地帯に対し屹立する武蔵野台地といった地形に立地する。で、その武蔵野台地は石神井川、白子川、前谷津川といったいくつかの河川で刻まれ、複雑な谷合を作り上げている。北区の台地と同様に、低地に沿った台地上には旧石器時代から縄文、弥生、古墳、奈良・平安に至るまでの数多くの遺跡が残る。はてさて、「地形のうねり」散歩フリークとしては俄然板橋散歩が楽しみになった。次は、板橋の西の端から台地と谷合のアップダウンを楽しむことにしよう。



志村から前野地区をへて、板橋宿、そして常盤台に

西端からはじめた板橋散歩も4回目。今回は、北東部からはじめ、中央部から南部に向かって歩こうと思う。大雑把に言えば、北区との境あたりから豊島区に向かって下る、といったコース。
このコースを歩けば、中山道、川越街道、石神井川、そして板橋宿といった板橋のビッグワードはカバーできそう、である。 




 



本日のルート龍福寺>小豆沢神社>総泉寺>清水薬師>旧中山道・清水坂>延命寺>見次公園>出井川跡>常楽院>西前野熊野神社>東前野熊野神社>長徳寺>蓮沼・氷川神社>南蔵院>清水稲荷神社>智清寺>日曜寺>環七の近くに氷川神社>板橋宿>中宿>板橋観光センター>本陣跡>縁切り榎>石神井川・東武東上線>常盤台・天祖神社>大谷口・エンガ掘>氷川神社と西光寺>大谷口の給水塔

龍福寺
都営三田線・志村坂上で下車。小豆沢地区に向かう。板橋区の北東端といったあたり。駅前から小豆沢通りを東に進む。小豆沢公園前交差点を越え、すぐ北に折れしばらく進むと龍福寺。板碑が多く残されている、とか。このあたりは小豆沢貝塚が発見されたところ、らしい。崖下に新河岸川が流れている。

小豆沢神社
お寺の隣に小豆沢神社。この地域の氏神さま。で、小豆沢の由来だが、その昔、この地で小豆を積んだ船が沈没。積荷の小豆が漂着した地である、という説もある;
「小豆沢村は、往昔、荒川の入江に傍って、七々子崎と唱へし、わずかの湊なり、平将門東国を押領せし頃、貢物の小豆を積来り船、この江に沈みしかば、此の名は起これり」、と。
また、赤羽の地名の由来でメモした、赤埴(あかはね)、つまりは赤い土、からきたものかとも思う。真偽の程定かならず。このあたり志村城址から小豆沢神社にかけて円墳が点在。志村古墳群と呼ばれるほど。この神社もかっては観音塚と呼ばれる円墳であった、とか。

総泉寺
小豆沢神社を離れ、都営三田線・志村坂上に戻り、清水薬師に向かう。中山道を北に進む。中山道が環八との交差に向かって下る、というか、新河岸川の流れる低地に向かって下る途中に総泉寺。この総泉寺って、台東区散歩のとき橋場で出会った。正確に言えば、もとはその橋場の地にあった江戸三刹と呼ばれる大寺であった、あの総泉寺。板橋に移ったとそのときのメモに書いていたが、ここにあった、とは。
総泉寺で思いだすのは、総泉寺にあった平賀源内のお墓はもとの橋場の地に残っている、ということと、隅田散歩の折の「梅若伝説」の悲劇の母親・妙亀尼のお墓がある、ということ。お寺の歴史をまとめておく。
開基は建設仁元年(1201年)、千葉介により開かれた。中興開基は石浜城主・千葉介守胤。江戸時代には曹洞宗江戸三刹の一つとして幕府の庇護を受け,同時に秋田藩主佐竹氏の江戸での菩提寺となった。
現在の地に移ったのは昭和2年。関東大震災により被災し、当地にあった大善寺と合併した。境内にある薬師三尊は,もと大善寺の本尊。清水薬師とも呼ばれる,清水坂の地名もこれによる。地蔵堂に祀られている地蔵は,もと清水坂の中腹にあったもの。現在は子育地蔵として信仰を集めている。鉄筋のつくり、っぽい。中山道沿いお寺の営業用看板が結構目立つ。

清水薬師
坂を少しくだり、薬師の泉に。現在は公園になっている。江戸名所図会「清水薬師・清水坂」を見ると、このあたりに清水薬師大善寺があった、よう。清泉というか、清水が湧き出でていたわけだ。
新編武蔵風土記稿の文政9年(1826)の豊島郡の項の記録;「大善寺、禅宗曹洞派江戸芝青松寺末医王山薬師院と号す。本尊薬師聖徳太子の作坐像長二尺許是を清水の薬師と呼ぶ。享保の頃有徳院殿(八代将軍吉宗)御放 鷹の時、境内に清水あり、その流れいと清冷なれば清水の薬師徒と唱えよとの仰せあり。これより以来近郷にその名高しという」。清水坂の由来はこの清泉にあったわけだ。
ちなみに、江戸名所図会を見ていると、清水坂って、まっこと山の中って雰囲気。現在の姿から、この坂が難所であった、ってことは想像できない。

旧中山道・清水坂
清水薬師を離れ、中山道を志村坂上方面に戻る。道の西側に成り行きでそれる。道なりに進むと、都営三田線の高架が台地下に入り込むあたりに結構な坂道。清水坂。偶然、旧中山道に出会った。
この清水坂、江戸を出てから最初の難所であった、とか。昔はもっと勾配がきつかったのか、そうでなくても、舗装していない往時、雨でも降れば滑ったりして大変であったのか、その「難所感」はいまひとつ実感はできないながら、坂を登る。
清水坂の由来は、このあたりに、というか中山道沿いの清水薬師さんなのだが、清水が湧き出ていたから。千葉隠岐守信胤にちなみ、「隠岐坂」とも。坂の途中に地蔵尊があったので、「地蔵坂」とも。 江戸名所図会に清水坂の説明;「志村にあり。世に地蔵阪とも号(なず)く。旧名は隠岐殿(おさどの)坂と呼べり。昔隠岐守何某闘かるるゆゑなりといふ。この地峻岨 (けんそ)にして、往還の行人おはいに悩めり。よって寛保年間(1741~44)大善寺の住守直正和尚、僧西岸と力を戮せ(あわせ)、勧進の功を募り、木 を伐り荊(いばら)を刈りて、石を畳みて階とす。しかありしより、行人苦難の患ひを逓」、と。 (「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)


延命寺
旧中山道を歩き、志村坂上まで戻り、志村銀座を西に向かう。少し歩き、これも適当に志村銀座通りを折れて南に進む。木立茂るあたりを探しながら歩くと、次の目的地・延命寺に。大永4年(1524年)、小田原北条家の北条氏綱が江戸城から川越に落ちてゆく扇谷上杉朝興との追討戦となり、このあたりで干戈を交える。先般のメモのように、その折、志村城が落城。城主千葉信胤の家臣、見次権兵衛は自宅庭先で討ち死にした子息・権太郎をみるにつけ、世の無常を感じ自邸を寺としたのがおこり。江戸時代は志村・熊野神社の別当寺。

見次公園
延命寺を離れ、道なりに進む。次の目的地は中台・前野町のある高台。首都高速5号・池袋線の走る谷地に下りる。坂道に沿って志村坂上見次公園がある。その東手には凸版印刷。この板橋工場には昔来たことがある。出張校正であったのだろうか。ともあれ、坂を下る。谷地に見次池。このあたり、もともとは田圃(たんぼ)。いたるところ湧水が湧き出ていたとのこと。池ができたのはそれほど昔のことでもないかと思う。

出井川跡
首都高速5号・池袋線、見次交差点に。このあたりには昔、出井川が流れていたよう。出井川の源流点は泉町の「出井の泉」。川は泉町からはじまり、すぐに高速道路の路線に沿って北西に進む。もちろん今となっては流路などなにもない。途中2箇所の支流を集め、ひとつは上板橋の西手あたりでもあるのだが、ともあれ支流を集め、先般歩いた志村城山あたりで高速から離れる、というか流れていた。あとは、城山の台地下を巻き、都営三田線・志村三丁目に。
そこからは緑道となり、新河岸川に続いている、というか、「いた」。

常楽院
首都高速下・交差点を渡り、前野町の台地に取り付く。少し進むと常楽院。いい風情のお寺さま。土器寺とも呼ばれる。この地で弥生式土器が発見され、前野町式土器として知られる。




西前野熊野神社
常楽院山門を離れ西に。前野本通りを過ぎ、途中、急坂を登り、のぼりきったところに西前野熊野神社。神社は少し寂しい。が、神社裏手から台地下の眺めは結構いい。
台地のさらに上に淑徳学園。で、今更のこと気がついたのだが、淑徳学園の西って、先回歩いた稲荷神社のある若木地区。地名の「襷」が繋がってくる。




東前野熊野神社
淑徳学園から前野公園に進み、前野中央通りの坂道を下る。この道、逆に進めば、東武東上線・上板橋の東手に出る。坂を下り、台地を下りるちょっと手前、前野町3丁目に東前野熊野神社。西前野に比べて造作はいい。ちょっと長い参道も格好いい。神社の東は台地の端。下に大型ホームセンターが見える。境内で少々休憩し次のルートを考える。




長徳寺
東前野熊野神社を離れ、台地を降りきり、首都高速5号・池袋線に沿って少し下る。道に沿って長徳寺。藤原時代の阿弥陀像がある、という。結構、構えの大きいお寺さまである。
大原町をブラブラすすみ中山道にあたる。大原の地名の由来。小豆沢村の字である、大日前・大日後の「大」と、本蓮沼村の字名・西原の「原」を組み合わせたもの。そんなんありか。小豆沢村の字名・大日は長徳寺にある「大日」如来から来ている、と。


蓮沼・氷川神社
中山道の陸橋に上がり、深い緑を探す。少し北に戻ったあたりに、それっぽい緑。少し北に戻り、道から少々入ったところに氷川神社。神社の由来もさることながら、このあたりの地名蓮沼がめっぽう気になった。こんな台地の上に沼がある?川筋もないのに?調べてみた。
この神社、もとは志村の台地下、荒川河川敷、現在の坂下・東坂下・舟渡あたりにあった。が、たびたびの洪水の被害のため、特に享保12年(1728年)の洪水の折、村人は水難を避けて現在の地に移る。蓮沼村字前沼にあった氷川神社もこの地に移る。ために、蓮沼村は坂上と坂下の二ヶ所に別れることになる。坂下は「上蓮沼村」と称したため、この地は「本蓮沼村」となった、と。蓮沼町もこの神社のまわりだけ、というこじんまりした地域であるのも納得。水害で何度となく流失したため「十度の宮」とも呼ばれる。

南蔵院
氷川神社の隣に南蔵院。氷川神社の別当寺。同じく志村坂下からこの地に移る。度重なる荒川の氾濫を避けてのことである。享保6年(1722年)、八代将軍吉宗が荒川で鷹狩をしたとき、御膳所となった、という由緒のあるお寺まさ。関東36不動霊場の第12番札所の志村不動尊と呼ばれる。


清水稲荷神社
中山道を南に下る。首都高速5号・池袋線と合流。少し南に歩き、稲荷通り商店街を西に入る。少し進むと清水稲荷神社。由緒書をメモ;創立年代不詳。

『遊歴雑記』に「老親飲めば美酒、その子飲む時は清水なり、彼地を呼んで酒泉澗といい、後に清水村とあらためけるとなむ」とある。当時一丈 ばかりの高台に祀られていた小祠が、当稲荷神社であり、後世、中山道の支道の当地に移転され、古来清水村の鎮守として尊崇を集め伝統を守って今日に至る、と。
酒泉澗があったのは、この神社の少し北、志村第一小学校近くの清水児童公園あたり(泉町24)。出井川の源流点がここ、のはず。



智清寺
清水稲荷を出て、道なりに南に下る。中山道と環七の交差・大和交差点に。少し南に進み、中山道を離れ、西に折れる。すこし坂をくだると智清寺。室町時代初期の創建、とされる。天正11年(1591年)、家康が5石の御朱印地を寄進。
山門手前の石橋は、かつてこの地を流れた石神井川の分水である中用水(根村用水)の遺構。江戸から大正に渡って流れていた、と。境内には豊臣秀吉ゆかりの「藤吉稲荷」(木下稲荷、出世稲荷、とも)がある。


日曜寺
すぐ隣に日曜寺。江戸時代の創建。本尊の愛染明王から「愛染さま」の名がある。「藍染」に通じるところから、染物業者の信仰を集めた。享保年間、八代将軍・吉宗の第三子・田安宗武によって再興された、と。山門の扁額は白河藩・松平定信の書。それにしても、「日曜」って、どこから来た言葉なのだろう。少なくとも、曜日の「日曜」からきたとは思えない。曜日の意味での「日曜」が使われ始めたのは明治になってから、ってわけだから。
調べる;この場合の「日曜」は、「七曜の御暦(しちょうのごりやく)」からきている、かと。七曜暦はインドの天文学・暦をもとにつくられたもので、日本では平安時代に既に使われていた、よう。一説によれば空海が中国から持ち帰った「宿曜経(すくようきょう)」の影響とされる。特に密教各派がこれを使った、とか。宿曜経によれば、日(太陽)と月、それと火星・水星・木星・金星・土星の七つを七曜と称し、その暦をもとに善悪吉凶を占う、一種の占星術といったものであった、よう。藤原道長も日記に曜日が記載している。現在の「曜日」の意味ではなく、その日の吉凶の判断の参考にしていたのだろう。こういった素地もあったので、明治に太陰暦から太陽暦に変更するに際し、1週間Seven daysを意味する「曜日」の用語として、この「七曜」を採用したのだろう。ということで、この日曜寺の日曜って、大いに密教の影響を受けた「宿曜経」の意味するところの「日曜」であった、ということで一件落着、としておこう。



環七の近くに氷川神社
日曜寺を離れ、道なりに坂道を上る。すぐ下は石神井川なのだが、坂の上を走る環七の近くに氷川神社がある。ちょっとのぞいてみよう、と思う。
真に立派な構えのお宮さま。由来書のメモ;「創建年代は不明。社伝によると応永年間(1394〜1427)に大宮氷川神社から勧請されたと伝えられている。当松山氷川大名神と称し、旧根村、板橋宿上宿の産土神として崇敬された。相殿として祀られている蒼稲魂命(うかのみたまのみこと)は、もと下板橋宿稲荷台の新堀山に鎮座していた新堀稲荷社。板橋城廃城後、太田道灌の家臣新堀氏がこの地で奉斉したもの。明治40年氷川神社に合祀された」、と。

板橋宿
氷川神社を離れ、次は板橋宿に向かう。いつだったか、石神井川を源流から下り王子で隅田川の合流点まで歩いたことがある。途中、石神井川に板橋という橋がかかっており、そこが板橋宿であった。ということで、成り行きで南に石神井川まで下り、川に沿って続く遊歩道を東に向かう。
中山道の手前の氷川神社にちょっとお参りし、中山道を渡り少し進むと旧中山道に板橋が架かる。橋の脇に「板橋」の案内。簡単にまとめる;「板橋の名前は、この橋に由来する。板橋の名前は鎌倉時代の古書に登場。江戸には宿場町、明治には町名、昭和には区名となる。板橋宿は南の滝野川村の境から北の前野村境までのおよそ2.2キロ程度。この橋より京都寄りを上宿、江戸寄りを中宿、平尾宿と称し、山宿をまとめて板橋宿と呼んだ。板橋宿の中心は、本陣や問屋場、旅籠が並ぶ中宿ではあるが、この橋のあたりも賑やかであった。橋野長さは16m強、幅5m強あった」、と。

中宿
橋を離れ、旧中山道を南に下る。商店街となっている。本陣跡などないものか、と左右を見ながら進むが、それらしきものは見当たらない。道なりに進むと、旧中山道中宿の標識のある小振りなロータリーに。これから先は不動通り商店街となる。はてさて、と思案。
と、道脇にに「板橋観光センター」の案内。不動通りを少し南に下った、板橋地域振興センター内にある。行けばなんらかの資料もあろうかと、先に進む。

板橋観光センター
センターには板橋宿や中山道の案内が展示。赤塚、高島平、志村、板橋、常盤台の地域別の地図などが無料で提供されている。板橋散歩の最初にここに来ておけばなあ、などと少々の溜息。ボランティアであろう職員さんも親切で、まことに心地よかった。
で、本陣、脇本陣などをチェック。来た道の途中にあるようだ。また、石神井川を越えたところに「縁切り榎」などもある。ということで、少々の休憩の後、商店街を北に戻る。

本陣跡
住所をたよりに進むとスーパーの脇、民家の玄関脇(仲宿47)に、ひっそりと碑が立っていた。本陣が残っているわけでもなく、見逃すはずである。どうように脇本陣跡(仲宿53)も、マンションの駐車場脇にひっそり碑がたっていた。この脇本陣には皇女和宮が宿泊した。
板橋宿は江戸期に大中小あわせて60ほどの旅籠があった。人馬継問屋は遍照寺というお寺の境内にあったが、明治に成って廃寺。現在は成田不動の末寺となっている。仲宿40にある跡地は民家然とした、お不動さん。通路にならぶ馬頭観音が昔のなごりをとどめるだけ、である。




縁切り榎
中宿の商店街を抜け、石神井川にかかる板橋を再び渡りすこし進むと道路脇に「縁切り榎」。案内を参考にメモ:「江戸時代、道を隔てた向かい側に、旗本近藤歌之助の抱屋敷があった。その垣根の際に榎(えん)と槻(つき)の古木があった。
で、いつの頃からか、縁切り榎と呼ばれるようになった。(えん>縁)がつき>尽きる)ということであろう。ために、嫁入りに際しては、縁が切れるのをおそれ、その下を通らなくなった。その中で、もっとも有名なのが皇女和宮の迂回路のエピソードである。
文久元年(1861年)、皇女和宮が十四代将軍・家茂に嫁ぐため京より中山道を下向。で、この地で縁切り榎を避けるため、迂回路をつくった。中山道が現在の環七と交差するあたりで中山道を離れ、練馬道(富士見街道)、日曜寺門前、愛染通りを経て再び旧中山道に戻り、板橋宿の上宿へと戻ったようだ。槻(つき)の木とは欅(けやき)のこと、である。『和宮御留:有吉佐和子(講談社)』をそのうち読み返してみよう。





石神井川・東武東上線
板橋宿を離れ、常盤台に向かう。縁切り榎前の交差点を西に進み、中山道を渡ると先ほど歩いた智清寺、日曜寺前の愛染通り。
道なりに西に進むと中根橋で石神井川にあたる。遊歩道を西に向かう。中山橋の先で川が南西に大きく湾曲。その先で東武東上線と交差、そしてその先に先日訪れた下頭橋。今回は下頭橋西詰めから旧川越街道を西、というか北西に進む。


常盤台・天祖神社
環七を越え、東武東上線・常盤台駅近くに天祖神社。立派な雰囲気。旧上板橋村の産土神。江戸の文人・太田南畝・蜀山人がこの神社のメモを書いている;「上板橋の石橋を越へ右へ曲り坂を上りゆく、岐路多くして判りがたし、左の方に一丁あまり松杉のたてたる所あり、この林を目当てに行けば神明宮あり」。
「石橋」とは「下頭橋」のこと。「神明宮」とは、天祖神社は明治まで、他の天祖神社も多くがそうであったように、「神明宮」「神明社」と呼ばれていた、ため。川沿いの小高い丘の鎮守の森、そこに鎮座するお宮さま。地名、常盤も明治に東武鉄道により宅地開発・分譲がおこなわれたとき、この鎮守の森の「常盤」の松に由来する。ちなみに蜀山人。この人も散歩の折に触れ姿を現す。なんだかおもしろそう、ということで『蜀山残雨:野口武彦(新潮社)』、『橋の上の霜:平岩弓枝(新潮文庫)』などを読んだが、未だ未消化。

大谷口・エンガ掘
天祖神社を離れ、南西に下る。川越街道を越えと東新町に氷川神社。構えの立派なお宮様。参道入り口から台地に上るアプローチはなかなか、いい。先を急議、道を南東に成り行きで進むと環七通りに交差。道を渡り、更に成り行きで南に下ると石神井川に合流。橋を渡れば大谷口。
石神井川を離れ南に進む。いかにも水路跡といった暗渠が続く。「エンガ掘」と言うようだ。筑波大付属看護学校あたりでちょっとした商店街に当たる。


氷川神社と西光寺
向原団地のつつましやかなる商店街をちょっと東に。急な坂のうえにこんもり茂った緑。いかにも鎮守の森。氷川神社。旧大谷口の鎮守さま。神社を離れ道なりに進むと結構立派な構えのお寺さん。西光寺。ここには「しろかき地蔵」の話がある。
板橋の昔話からのメモ;「代かき地蔵:昔々大谷口村に仏様を深く信仰するお百姓が。明日は村を上げての田植え。そのお百姓、準備に一生懸命勤める。が、代かきが間に合わない。困り果てていると、どこからともなく若いお坊様。「代かきが間に合わないの」と話かけ、どこともなく去っていった。一夜あけ、あたりを見まわすと代かきがきちんと終わっている。泥の足跡が田んぼから丘の上まで。跡を辿ると丘の上の小さなお堂まで。中を開けると腰の辺りまで泥だらけのお地蔵さまが。このお地蔵様は現在この西光寺にある、とのこと。
ちなみに大谷口の地名の由来は、文字通り、「大きく谷が扇状仁開いた地形であった」から。なんとなく氷川神社あたりの地形が近い、かも。

大谷口の給水塔

板橋散歩の最後に大谷口に来たのは、東京都水道局の大谷口給水塔を見ておきたかった、から。西光寺を東に進んだところにある、はず。近くに東京都水道局の給水塔があった。これって、荒玉水道のところでメモした、荒川―多摩川を貫通すべく企画したが、結局この地で留まった、その給水塔。大谷口中央通を東に進み、川越街道から要町3丁目に抜ける大きな通りとの交差点に出る。
交差点前に大規模な工事現場。これって、給水塔の場所。角の交番で訪ねると、目下、リニューアル、というかお色直しとのこと。数年後に完成する、ということだった。少々残念。後は、台地を下り、要町三丁目まで進み、有楽町線・千川駅から一路家路、へと。

赤塚地区、高島平地区、志村地区、板橋地区、そして常盤台地区と歩き、なんとなく板橋各地区位置関係がわかってきた。なにも考えずにはじめた板橋の散歩であるが、地形も歴史も魅力的で、結構、時空散歩を楽しむことができた。

権現堂川を歩くことにした。利根川の東遷事業にしばしば登場する川でもある。東遷事業とは、その昔、江戸に流れ込んでいた利根の流れを、銚子方面へとその流路を変えるという、誠に希有壮大な事業。先日、茨城県古河市に遊んだ折、利根川や江戸川、そして関宿といった東遷事業ゆかりの地に触れた。それに触発された、というわけでもないのだが、東遷事業に関わる川筋を実際に歩いてみよう、と思った訳だ。

最初に権現堂川を選んだ理由はとくにない。なんとなく名前がありがたそう、であったから。「権現堂川」の名前は言うまでもなく、権現様から。江戸末期に幕府によって編纂された『武蔵風土記』によれば、「村の中に、熊野権現、若宮権現、白山権現という三社を一箇所にまつった神社があり、権現堂村と名付けた」とある。権現堂村を流れていたのが名前の由来であることはいうまでもない。ちなみに「権現」って、権=仮の姿で「現われた」もの。仏が神という仮の姿で現れるという、神仏習合の考え方である。
散歩の前に、東遷事業に関わる利根川の河道の変遷をまとめておく;利根川は群馬県の水上にその源を発し、関東平野を北西から南東へと下る。もともとの利根川の主流は大利根町・埼玉大橋近くの佐波のあたりで、現在の利根川筋から離れていた。流れは南東に切れ込み、加須市川口・栗橋町の高柳へと続く。その流れは浅間川とよばれていたようだ。地図を見ると、現在は「島中(領)用水」が流れている。が、これは昔の浅間川水路に近いのだろうか。
で、ここから流れは「島川筋(現在の「中川筋」)を五霞町・元栗橋に進んでいた。ここで北方、古河・栗橋・小右衛門と下ってきた渡良瀬川(思川)と合流し、現在の権現堂川筋を流れ、幸手市上宇和田から南へ下る。上宇和田から先は、昔の庄内古川、現在の中川筋を下り江戸湾に注ぐ。これがもともとの利根川水系の流路であった。
この流路を銚子方面へと変えるのが利根川東遷事業。はじまりは江戸開府以前に行われた「会の川」の締め切り工事。文禄3年(1594年)、忍城(行田市)の家老小笠原氏によって羽生領上川俣で「会の川」への分流が締め切られることになる。利根川は往古、八百八筋と呼ばれるほど乱流していたのだが、「会の川」はその中の主流の一筋ではある。南利根川とも呼ばれていた。 会の川は加須市川口、現在川口分流工のあるあたりだろうが、ふたつに分かれる。ひとつは島川筋(現在の中川)、もうひとつは古利根川筋(現在の葛西用水の流路)。実際、現在でも中川と葛西用水は川口の地で最接近している。こういった流れの元を閉め切り、南への流れを減らすべくつとめた。これが「会の川」締め切り、である(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)

 
ついで、元和7年(1621年)、浅間川の分流点近くの佐波から栗橋まで、東に向かって一直線に進む川筋を開削。これが「新川通り」とよばれるもの。で、この「新川」開削に合わせて、高柳地区で浅間川が締め切らた。そのため、島川への流れが堰止められ、川筋は高柳で北東に流れ伊坂・栗橋に迂回。そこから渡良瀬川筋を下り、権現堂川から庄内古川へと続く流れとなった。「新川通り」は開削されたものの、すぐには利根川の本流とはなっていない。この人工水路が、利根の流れを東に移す本流となったのは時代をずっと下った天保年間(1830年―44年)頃と言われる。
この「新川」の延長線上に開削されたのが「赤掘川」。栗橋から野田市関宿まで開削される。赤堀川も当初はそれほど水量も多くなく、新川の洪水時の流路といったものであったようだ。が、高柳・伊坂(栗橋町)・中田(古河市)へと流れてきた利根川水系の水と、北から下り、中田あたりで合流した渡良瀬川の水をあつめ、次第に東に流すようになったのであろう。
「新川通り」の開削といった、利根川の瀬替えにより、利根川水系・渡良瀬川水系の水が権現堂川筋から庄内古川(中川)に集まるようになった。結果、沖積低地を流れる庄内古川が洪水に脅かされることになる。その洪水対策として実施されたのが「江戸川」の開削。庄内古川に集まった水を江戸川に流す工事がはじまる。
江戸川は太日川ともよばれていた常陸川の下流部であった。この江戸川を庄内古川とつなぐため、北に向かって関東ローム層の台地が開削される。関宿あたりまで切り開かれた。17世紀中頃のことである。
この江戸川とつなぐため、上宇和田から江戸川流頭部・関宿まで権現堂川が開削される。同時に、権現堂川から庄内古川へ向かう流れは閉じられた。この結果、栗橋で渡良瀬川に合流した利根川本流は、栗橋・小右衛門・元栗橋をとおり権現堂川を下り、関宿から江戸川に流れることになった。こうして、南に向かっていた利根の流れを東へと移し替えていったわけである。
ちなみに、現在関宿橋のあたりから江戸川・利根川の分岐点あたりまでは寛永18年(1641年)に開削されたもの。当時、逆川と呼ばれていたようだ。関宿の少し南、江川の地まで開削されてきた江戸川と、赤堀川、というか、常陸川水系をつなぐことになる。
で、この逆川は複雑な水理条件をもっていた、と。『日本人はどのように国土をつくったか;学芸出版社』によれば、普段は赤堀川(旧常陸川)の水が北から南に流れて江戸川に入る。が、江川で「江戸川」と合流する川筋・「権現堂川」の水位が高くなると、江戸川はそれを呑むことができず、南から北に逆流し、常陸川筋に流れ込んでいた、ということである。少し長くなった。散歩に出かける。



本日のルート:JR宇都宮線・栗橋駅;静御前終焉の地>利根川>川妻給排水機場>太平橋>舟渡橋>行幸水門・行幸給排水機場>権現堂堤>行幸橋 ・行幸堤碑>宇和田公園>中川・昔の庄内古川筋>幸手放水路>江戸川


JR宇都宮線・栗橋駅;静御前終焉の地
Jr宇都宮線・栗橋駅に。栗橋は埼玉の西北部。利根川を越えると茨城県となる。東口はのんびりした雰囲気。例によって駅前の案内をチェック。思いがけなく、直ぐ近くに「静御前終焉の地」がある、という。静御前は、いうまでもなく源義経の愛妾。奥州へ落ちのびた義経を追って、このあたりでその死を知り、落胆のあまり命を落とした、とか。もっとも、静御前終焉の地って全国に7箇所もあるようで、実際のところはよくわからない。
ここ栗橋駅周辺の伊坂の地は往時、静村と呼ばれていたようだし、この地の静御前の墓は、江戸末期の関東郡代・中川飛騨守忠秀が建てたとも伝えられるわけで、諸説の中では信憑性は高い、とは言われている、と。「吉野山峰の白雪ふみわけて 入りにし人の跡ぞ恋しき」「しづやしづ賤のをだまき くり返し 昔 を今になすよしもがな」は、静御前が義経を偲んで詠んだとされる歌。

利根川
「静御前終焉の地」を離れ、道なりに東に進む。関所跡は国道4号沿いの利根川土手堤にある、という。関所跡を訪ねて、利根川堤に向かう。利根川橋の近くに香取神社と八坂神社。この近くに関所跡の碑があるとのことだが、見つけることができなかった。

利根川橋に国道4号線が走る「栗橋」この国道は昔の日光街道の道筋。日本橋からはじまり、千住宿・草加宿・越ケ谷宿・粕壁(春日部)宿・杉戸宿・幸手宿、と続き、この栗橋宿に至り、利根川を越えて中田宿・古河宿と日光に続いてゆく。
この栗橋の地はかつて、交通の要衝であり、江戸時代には東海道の箱根、甲州街道の駒木野、中山道の臼井と並ぶ関所が置かれていた。明治2年に関所が廃止されるまで栗橋は日光街道の宿場町、利根川の船運の町として栄えた、と。このあたりに渡しがあり、「房川の渡し」と呼ばれていた。ちなみに、駒木野の関跡は昨年、旧甲州街道・小仏への散歩の折りに出会った。もともとは小仏峠にあった小仏の関が、後に駒木野の地に移されたため、こう呼ばれた。高尾の駅から歩いて20分程度のところであった、かと。

川妻給排水機場
川向こうの古河の地を思いやりながら、利根川少し南に。成行きで進み、川妻給排水機場に。権現堂川の北端、といったところ。利根川堤にある権現堂樋管で取水された水は、この川妻給排水機場を経由して権現堂川に送られる。利根川と給排水機場の間は暗渠となっており、権現堂川、とはいうものの、実際のところ調整池といった雰囲気。池端を南に進むと霞橋。東北新幹線と交差する。このあたりの川筋は狭められている。

太平橋
新幹線を越えると、国道4号線・日光街道が接近。南に並走することになる。川、というか池の西側は小右衛門(こうえもん)地区。この地の開拓者の名前、とか。
少し南に下ると太平橋(たいへい)。国道4号線の交差点名が「工業団地入口」となっているように、川筋の東側には工業団地が続いている。この太平橋であるが、往時は渡船場があった。「勘平の渡し」とも呼ばれた、と。川幅が100mから200m程度あったようで、橋を架けることなどできなかった、わけである。

舟渡橋
大平橋を過ぎると、日光街道は川筋から少し離れてゆく。川の東側は五霞町元栗橋。茨城県猿島郡。そして西側は幸手市外国府間。「がいこくふかん」って何だ?とチェック。「そとごうま」と読む、という。しばらく進むと「舟渡橋」。権現堂川は舟運が盛んであり、それは昭和初期まで続いていた、と。川沿いには河岸場がいくつも作られていた。高瀬舟が往来していた河岸場は渡船場を兼ねることも多かった、とか。舟渡橋のあたりも、かつて、「外国府間の渡し」があった、よう。舟渡橋は「渡し」があった名残を留めるもので、あろう。
調整池には「スカイウォーター120」と呼ばれる、大噴水が見える。120mも噴きあげるから、とか。この調整池は御幸湖とも呼ばれている。国体カヌー会場でもあった。調整池は中川総合開発の一環として造られたもの。権現川は内務省の利根川改修事業にともない、昭和初期には廃川となっていた。このあたりは「溜井」として農業用水の水源として残されていたものが、中川総合開発の一環で調整池に生まれ変わり、1級河川として復活した。中川の洪水調整の機能、工業用水や上水の取水、また、中川への河川維持用水も供給することになったわけである。

行幸水門・行幸給排水機場
>しばし南に歩くと行幸水門・行幸給排水機場。ここで権現川は中川に合流する。この水門には中川の洪水を調整池に取り入れる堰も設けられている。現在は中川と呼ばれてはいるが、江戸時代はこのあたりは権現堂川と呼ばれていた。それでは、中川と呼ばれるようになったのは、いつの頃からか、チェック。
中川l江戸時代、中川と呼ばれていたのは元荒川・庄内古川・古利根川が合流する越谷より下流。もとより、これらの流れは利根川の東遷事業、荒川の西遷事業の結果取り残された川筋である。この川筋のうち明治になって、庄内古川・島川の流れが本流となり、この権現堂あたりもふくめて中川と呼ばれるようになった、よう。
現在、中川は江戸川の西・幸手市上宇和田から南に下る。この流れが昔の「庄内古川」である。島川筋って、利根川の本流でもあった浅間川が高柳で閉め切られ、取り残された元々の浅間川といったもの。昔の地図を見ると、水源を失った島川は古利根川へと流れる「会の川」とつながったよう、である。

権現堂堤
中川を進む。このあたりにも昭和初期まで権現堂河岸があった、とか。南の土手は桜並木で有名な権現堂堤。昔、このあたりは洪水多発地帯であった。利根川の瀬替により、本流は高柳で北東に向かい、伊坂・栗橋を通って権現堂川筋を流下することになった。この流れは北から下る渡良瀬川の水も合わせるわけであるから、大雨の時など、大変なものであったのであろう。その「巨大」な流れが北から一気にこの権現堂に押し寄せるわけで、それを防ぐものとして、この「巨大」な堤がつくられた、と。
権現堂川は自然の河川ではなく、中世に太日川とか渡良瀬川と呼ばれた川の支川として開削されたのがはじまりと言う。川辺領(大利根町)や島中領(栗橋町)の主要排水路であったが、川床の勾配が緩やかで、そのうえ年月を経るたびに堆砂が増えてきた。分岐元の赤堀川も積年の堆砂で河積が狭くなり水位が上がり、往々にして赤堀川より権現堂川のほうが流量が多くなることもあった、よう。また、権現堂川の「出口」の江戸川には、権現堂川から洪水が流入しないように工夫されていた。
そのため、権現川の水位は常に高く、水が滞留することになる。こういうことも周辺地域に水害をもたらした要因とのことである。

行幸橋 ・行幸堤碑
堤を少し西に戻り、行幸橋に。このあたりには行幸湖とか、国道4号線にかかる橋を行幸橋とか、天皇の「御成り」を想起さすような地名が多い。これは、水防に大いに関係する。権現堂堤の西端には「行幸堤碑」があるが、それは、明治8年6月起工、10月竣工した権現堂堤の修堤工事(島川の水除堤)を記念したもの。権現堂川に合流していた島川を締め切るためにほとんどを地元負担で工費が行われた。明治9年、明治天皇の巡幸は、その功績を称えるためのものであろう、か。ちなみに、桜並木、桜の時期に歩いたことがある。それはそれは立派なものでありました。




宇和田公園
堤を歩き、桜並木が切れるあたりで堤防を下り、中川というか権現堂川筋に戻る。川筋には工業団地が続く。工業団地が切れるあたりに幸手総合公園。多目的グランドや野球場が見える。公園を過ぎると、再び工業団地。
工業団地が切れるあたりに宇和田公園。設計者は本田静六氏。日本の公園設計の「父」といった人物。日比谷公園、水戸偕楽園、福岡の大濠公園、そして大宮公園などを手がけた。そうそう、先日歩いた武蔵嵐山の嵐山渓谷の名付け親でもある。小高い堤の上に緑が続く。権現堂堤の名残でもある。



中川・昔の庄内古川筋
宇和田公園辺り、上宇和田から中川は南に下る。昔の庄内古川筋である。正確に言えば、庄内古川の流頭部は杉戸町椿あたり。その下流が庄内古川であった。で、このあたりは昭和初期に開削されたもの。吉田村新水路と呼ばれていた。ともあれ、この人工水路が切り開かれ、庄内古川は権現堂川とつながることになる。
中川が南に下る少し手前に北から川筋が合流する。五霞落川。「ごかおとし」と読む。川というか、排水路というか、といったもの。合流点には中川からの逆流を防ぐための水門が見える。ちなみにこのあたり、五霞町であるが、この町だけが利根川の西にある茨城県の地。利根川の流路が変わったために、ここに取り残されたのであろう。

幸手放水路
中川が上宇和田の地から南に下るあたりに、東に進む川筋が見える。これは幸手放水路。中川の洪水を江戸川に分流する水路、である。この流れは、下流より掘り進み、赤堀川とつながった江戸川へと繋ぐために開削されたもの。寛永18年頃(1641年)頃と言われている。この江戸川への流路開削にともない、庄内古川への流入路は閉じられ、結果、栗橋で渡良瀬川に合流した利根川は、庄内古川筋ではなく、江戸川に流れになった。利根川本流は、栗橋、小右衛門、基栗橋を通って権現堂川を流れ、上宇和田、江川を経由して関宿から江戸川に流れることになったわけである。

江戸川
幸手放水路は関宿橋の上流で江戸川に合流する。もっとも、川筋が合流するわけではなく、「中川上流排水機場」で閉じられる。江戸川とは幸手樋管によってつながれることになる。昔の権現堂川の利根川からの取水口も、江戸川への流水口も現在では給排水機場で「閉じられて」いる。権現堂川は1級河川とはいうものの。実態は巨大な調整池であった。また、旧権現堂川は上流部が権現堂調整池、中流部は権現堂川の旧流路を改修した「中川」、そして、下流部は「幸手放水路」となっていた。
関宿橋に佇み、遠く関宿城博物館を眺め、本日の予定終了。橋の西詰めにあるバス停でしばしバスを待つ。東武動物公園行きのバスに乗り、家路へと急ぐ。

昔、現在の利根川や荒川は埼玉の中央部を江戸に向かって流れ込んでいた。大雨ともなれば洪水が江戸の街を襲った。その洪水から江戸の町を守るためおこなわれたのが、利根川の東遷事業であり、荒川の西遷事業、である。舟運の水路を開くためのものでもあった、よう。
利根川の流れを東に移し、銚子方面へと瀬替えする試みが利根川東遷事業、荒川の流れを西の入間川筋に瀬替えする試みが荒川西遷事業、である。この瀬替えの跡を辿るべく、野田市の関宿や熊谷市の久下といった地を訪ねたことがある。また、東遷・西遷事業によって元の水源から切り離され、埼玉の沖積低地に取り残された昔の利根川水系、現在の中川水系ゆかりの地も巡った。その場所は、利根川に近い、どちらかといえば上流部といったところである。
で、水源を断ち切られ、「取り残された」川筋の中流域や下流域はどうなっているのだろう、ということで、古利根川、元荒川といった中川水系の川筋を見やる。これらの川筋は越谷市と吉川市の境にある吉川橋のあたりで、中川に合流している。その合流点って、どんな風景が広がるのか気になった。街工場の中を流れるのか、それとも緑豊かな郊外・牧歌的風景の中をゆったり・のんびり流れるのか、無性にその地を歩きたくなった。で、とある週末、中川水系合流の地に出かけた。




本日のルート;越谷駅>葛西用水・元荒川が並走>シラコバト橋>東京葛西用水>元荒川>元荒川の「葛西用水伏越吐口」>逆川>久伊豆神社>新方川>大吉調整池>松伏溜井>古利根川(大落古利根川)>大落古利根川・中川合流点>中川・新方川合流点>中川・元荒川合流点

越谷駅
越谷駅の東口に出る。例によって駅前の案内図でチェック。駅の近くに久伊豆神社がある。先日岩槻で思いもよらず出会った神社がここにもあった。岩槻の久伊豆神社は結構立派な構えであった。この地の久伊豆神社ははてさて、どのような構えであろうか。川巡りの道すがら立ち寄ることにする。
駅のすぐ近くには元荒川が流れている。と、その脇に、というか同じ川筋に葛西用水の流路がある。葛西用水は駅の少し南、瓦曽根のあたりで元荒川から別れ、南に下る。瓦曽根 って、瓦曽根溜井のあったところである。
葛西用水は上流地域では人工的に開削された川筋を進むが、中流域では古利根川とか元荒川といった東遷・西遷事業によって「取り残された」川筋を利用し水路が作られている、と言う。また、自然の川筋と溜井といった「農業用水の溜め池」をうまく組み合わせて送水路をつくられている。それが関東郡代伊奈氏によって開発された関東流の特徴である、と。その実物が駅のすぐ近くにあった。予想外の展開。これは行かずばなるまい、ということで、中川水系合流点巡りに先立ち、まずは元荒川と葛西用水・瓦曽根溜井に向かうことにした。

葛西用水・元荒川が並走
駅の東口から東へと進む。葛西用水・元荒川が並走する川筋に到着。川筋の手前に市役所と中央市民会館。市民会館は誠に堂々とした構えである。橋を渡る。葛西用水に架かる橋が平和橋。中央の土手から先、元荒川にかかるののが新平和橋、である。中央の堤まで進む。堤の東に元荒川の流れ。西側には葛西用水の遊水池が広がっている。この遊水池が瓦曽根溜井、だろう。その取水口の水門らしきものが川筋の南岸に見える。取水口に向かって堤を進む。


シラコバト橋
堤を下る。500mほど下流に「シラコバト橋」。美しい斜張橋である。堤は橋から少し下ったところで終わる。葛西用水が元荒川に合流する水門が見える。ちなみに、シラコバトって、埼玉の県鳥。天然記念物になっている。それにしても、この川筋、そしてこの橋は美しい。自然の残された川と人工的な橋のコントラストもその一因、か。
それにしても、この橋といい市民会館といい、周囲の景観といい、越谷って豊な感じがする。中川水系の川が合流する土地柄、昔は洪水多発の地域であったはずであり、なにがどうなって、こういった豊かな雰囲気の街となったのだろう、か。まさか、洪水対策故の大規模な公共投資事業がその因ということではないのだろうが、何となく気になる。

東京葛西用水
シラコバト橋を渡り南詰めに。少し戻ったところに取水口。これは八条用水。葛西用水と同じく関東郡代・伊那氏が堀削したもの。現在、ここ瓦曽根溜井から南東に、ほぼ葛西用水と平行してくだり、足立区の手前、八潮で葛西用水に合流している。
そのすぐ隣に葛西用水。ここ瓦曽根溜井から下流は「東京葛西用水」とも呼ばれている。流れは、南東にほぼ一直線に草加市・八潮市を貫き、足立区の神明に下る。神明から先は、先日散歩した曳舟川の川筋となり、足立区を南下。葛飾区亀戸からは南西に流路を変え、四ツ木で荒川(放水路)を越え(といっても荒川放水路が人工的に開削されたのは、昭和になってから)、墨田区の舟曳・押上に続いている。 葛西用水は関東郡代・伊那氏によって開発された。万治3年(1660年)のことである。
埼玉県羽生市の川俣で利根川から取水され、加須市・鷲宮町・久喜市・幸手市・杉戸町・春日部市・越谷市・東京都足立区へと続き、足立区からは曳舟川となる。全長70キロ。見沼代用水(埼玉)、明治用水(愛知)とともに日本三大用水のひとつと言われる。

葛西用水は、自然の流路と溜井という遊水池を組み合わせた関東流の送水路のつくりをその特徴としている、と上で述べた。流路については、羽生から加須までは人工的に開削されているが、加須市から下流は、利根川の東遷・荒川の西遷事業により取り残された河道跡や廃川を整備しその流路がつくられている。大雑把に言って加須市大桑から川口までは「会の川」、川口から杉戸までは「古利根川」、杉戸から越谷までは「大落古利根川」、「元荒川」の河道を使っている、ということだ。
もうひとつの葛西用水の特徴である溜井とは、農業用の溜池といったもの。川のところどころの川幅を広げるなどして、水を溜め灌漑に使っていた。代表的なものはこの瓦曽根溜井と松伏溜井。松伏溜井は古利根川にある。葛西用水はその松伏の地から南西に一直線に下り、新方川を横切り、越谷の市役所の少し上で元荒川に合流している。道すがら松伏溜井、新方川、そして元荒川との「交差点」も立ち寄ってみようと思う。

元荒川
元荒川についてまとめておく。全長61キロ。埼玉県熊谷市佐谷田を基点として、おおむね南東に下る。行田市・鴻巣市・菖蒲町・桶川市・蓮田市・岩槻市をへて越谷市中島で中川に合流する。寛永6年(1629年)の荒川付替により、荒川が熊谷市久下で締め切られるまでは、この元荒川が「荒川」の本流であった。利根川が東遷され、荒川が西遷され、ふたつの水系は現在では別系となっているが、往古の荒川は利根川の支川であった。荒川付替の主たる理由は中山道を水害から防ぐためのものであった、とか。ちなみに、桶川市小針あたりの備前堤で元荒川は綾瀬川と分かれるが、どうもこの綾瀬川筋がもともとの荒川の川筋でもあった、とも。

元荒川の「葛西用水伏越吐口」
東京葛西用水の分流点から久伊豆神社に向かう。川筋を平和橋まで戻り、葛西用水の西岸を北に進む。「藤だな通り」と呼ばれている。進むにつれて、葛西用水は元荒川から離れる。ふたつの川筋の間は、三角州といった「島」によって隔てられる。
先に進むと御殿町のあたりで川筋は消える。地図を確認すると、その先に元荒川。そしてその元荒川を隔てて、再び葛西用水の水路が現れる。元荒川の下を「伏せ越し」ているわけだ。荒川の下を潜った水はサイフォンの原理で再び川向こうで浮上する。ちなみに御殿町の名前の由来は、徳川家康が鷹狩りの折り宿とした越ヶ谷御殿があった、から。
伏越の吐口へと向かう。先は行き止まり。少し戻り、新宮前橋を渡り元荒川の東岸に。橋の袂に久伊豆神社の参道が。ここは少しやり過ごし、葛西用水の吐口の確認に向かう。川の脇にある天嶽寺を越え、公園の手前に吐口があった。用水はそこから北西へと一直線に続く。

逆川
越谷市大沢の元荒川の伏越吐口から新方川、そして越谷市大吉・大吉調整池の近くにある松伏溜井までの葛西用水は、「逆川」とも呼ばれる。その理由は、この用水の流れは時として逆流する、から。松伏溜井のあった古利根川から瓦曽根溜井のあった元荒川へと送水していた逆川は、洪水時とか非灌漑期には元荒川から古利根川へと水が逆流するわけである。これは、先日の岩槻散歩のとき見た古隅田川と同じ。



久伊豆神社
新宮前橋の参道に戻ることなく逆川に沿って北に進む。遊歩道が整備されている。右手の鎮守の森を見ながら成り行きで進む。適当に右に折れ久伊豆神社に。岩槻の久伊豆神社と勝るとも劣らない立派な構えの神社。名前から、というか、由来のよくわからない神社ということで、小さな祠程度と思っていたのだが、とんでもなかった。神社の何たるか、については、先回散歩の岩槻・久伊豆神社でメモしたので、ここでは省略。ちなみに、境内で田舎饅頭を農家のおばあさんが売っていた。即購入。東京から最も近い田舎饅頭入手スポットをゲット!結構うれしい。田舎では、柴餅と言っておった。ちなみに、柴餅って、田舎の愛媛では柴、というか柏ではなく、山帰来、というか、サルトリイバラの葉っぱで包んでいた。

新方川
久伊豆神社を離れ、本日のメーンエベントである中川水系の川筋巡りをはじめる。久伊豆神社の北東を流れる「新方川」に向かう。花田2丁目、新方川に架かる宮野橋を目指す。県道19号線を1キロ程度進むと新方川に。「ニイガタ川」と読む。起点は春日部市増戸と岩槻の平野地区あたり。越谷市中島で中川に合流する11キロ程度の河川である。流域は元荒川、大落古利根川、古隅田川の自然堤防に囲まれた沖積低地であり、合之掘川、安之掘川、武徳用水などの用排水路として使用されてきた、ようだ。

大吉調整池
宮野橋のひとつ上流に「定使野橋(じょうつかいのばし)」。越谷市大吉にあるこの橋のの近くに大きな調整池・大吉調整池がある。このあたりは、大落古利根川と元荒川に挟まれ浸水常襲地域であった、とか。
それも、そんなに昔のことではない。昭和57年とか昭和61年の台風によって5000戸近い家屋が被害にあった、と言う。この調整値は水害被害の再発防止を図って造られた、と。 定使、って中世の荘園にいた下級役人。領家と現地を往復し命令を伝えたり、年貢の徴収などを受け持った。端的に言えば、「使い走り」ということ、だ。

松伏溜井
定使野橋の近く、定使野公園まで続いた葛西用水はここでも新方川の下を伏越で潜る。大吉調整池脇の吐口から「浮上」した葛西用水は更に北西に進む。昔は葛西用水が新方川の上を流れていた、と。しばらく進み県道19号線に架かる寿橋の西詰めで葛西用水は古利根川に到達する。
川には大きな堰がある。この古利根堰の上流は川幅も広くなっているが、ここは松伏溜井(ためい)と呼ばれる農業用水の貯水池。葛西用水はこの溜井に水を送水するために古利根川を利用しているとも言われる。で、松伏溜井の水はこの古利根堰で取水され、逆川(葛西用水)を経由して、瓦曽根溜井(元荒川、越谷市)へ送られ、瓦曽根溜井からは東京葛西用水、八条用水などに送水することになる。これは上にメモした通り。
元荒川の瓦曽根溜井からはじめ逆川を越え、ここ松伏溜井まで続いた葛西用水巡りも、ここで一応終了。次は、古利根川を下り中川との合流点を目指す。

古利根川(大落古利根川)
大落古利根川とは古利根川の正式名。起点は久喜市吉羽・杉戸町氏下野あたり。そこで葛西用水と青毛掘川が合流しているのだが、そこから下流が大落古利根川となる。流れは杉戸町・春日部市へと下り、越谷市増森・松伏町下赤岩で中川と合流。地図をチェックすると、春日部から下の流れは「古利根川」と書かれている。全長27キロの中川水系の1級河川。
大落古利根川には多くの「落し」が合流する。古利根川が「大落古利根川」とも呼ばれる所以である。「落し」は農業廃水路のこと。掘とも呼ばれる。中川水系の低地に散在していた沼沢地を干拓するため江戸期につくられた排水路、である。この排水先が大落古利根川であった。これらの「落し」には見沼代用水の支線である騎西領用水や中島用水から取水し灌漑に使われたあとの悪水(農業用排水)も集められている。ということは、葛西用水は見沼代用水の排水路ともなっている、ということでもある。
大落古利根川はさまざまの「落し」から集められる水の「排水路」ではある。が、同時にこの川は葛西用水の「送水路」ともなっている。利根川の東遷と荒川の西遷によって取り残された利根川の旧河川、現在の中川水系の河川は江戸時代に農業用水路として整備され、見沼代用水・葛西用水を中心にした農業用水網が確立した。で、この大落古利根川であるが、大正から昭和にわたる大規模河川改修により排水改良工事が行われ、葛西用水の送水路、また見沼代用水の排水路として現在に至っている。もちろんのこと、時代の変化にともない工場・家庭からの生活廃水をさばく都市型河川の性格を強めているのは言うまでもない。

大落古利根川・中川合流点
古利根川の堤をのんびり歩く。自然豊かな川筋である。しばらく進むと増林に勝林寺。渋江氏ゆかりの寺。渋江氏って、岩槻に地名として残っており、ちょっと気になりチェックしていた。岩槻の地は中世、渋江郷と呼ばれたくらいであるから、渋江一族が威をとなえていたのだろう。そこに、太田道潅の父・道真(資清)が関東管領・上杉氏の家宰として岩槻に城を築く。渋江氏は太田氏の支配下に組み入れられるも、道潅の孫・資頼のとき北条氏に与し、一時太田氏を岩槻から除く。が、最終的には資頼に敗れる。で、この勝林寺は資頼との戦に破れた渋江氏が戦死者の菩提をとむらったお寺である、と。勝林寺からしばらく歩くと中川に合流。寿橋から3キロ弱。ここからは中川を下る。 資頼は太田道灌の孫、とはいうものの、その父・資家は道灌の養子。道灌が伊勢崎市の粕屋の館で主である扇谷定正によって謀殺された後、岩槻城主となった。

中川水系
先回、権現堂川を歩いたとき、権現堂川と中川の合流点にあった石碑の文章を参考に中川のメモをする。あれこれ複雑で、繰り返し、繰り返しメモしなければ、すぐに忘れてしまう、から;
中川の起点は羽生市。地図を見ると羽生南小学校近く、葛西用水路左岸あたりまで水路が確認できる。そこから埼玉の田園地帯を流れ中川と新中川に分かれ東京湾に注ぐ全長81キロの河川、である。 中川には山岳部からの源流がない。低平地、水田の排水を34の支派で集めて流している。源流のない川ができたのは、東遷・西遷事業がその因。江戸時代、それまで東京湾に向かって乱流していた利根川、渡良瀬川の流路を東へ変え、常陸川筋を利用して河口を銚子に移したこと。また、利根川に合流していた荒川を入間川、隅田川筋を利用して西に移したことによって、古利根川、元荒川、庄内古川などの山からの源流がない川が生まれたわけである。

現在の中川水系一帯に「取り残された」川筋は、古利根川筋(隼人堀、元荒川が合流)と島川、庄内古川筋(江戸川に合流)に分かれていた。幕府は米を増産するために、この低平地、池沼の水田開発を広く進め、旧川を排水路や用水路として利用した。が、これは所詮「排水路」であり「用水路」。「中川」ができたわけではない。排水路や用水路を整備し「中川」ができるのは、時代を下った昭和になって、から。 中川水系の水田地帯を潤し、そこからの排水を集めた島川も庄内古川は、その水を江戸川に水を落としていた。が、江戸川の水位が高いため両川の「落ち」が悪く、洪水時には逆流水で被害を受けていたほどである。低平地の排水を改善するには、東京湾へ低い水位で流下させる必要があった。そこで目をつけたのが古利根川。古利根川は最低地部を流れていた。島川や庄内古川を古利根川つなぐことが最善策として計画されたわけである。実際、江戸川落口に比べて古利根川落口は2m以上低かったという。
この計画は大正5年から昭和4年にかけて外周河川である利根川、江戸川および荒川の改修に付帯して実施された。島川は利根川の改修で廃川となった権現堂川を利用したうえで、幸手市上宇和田から杉戸町椿まで約6キロを新開削して庄内古川につながれた。庄内古川は松伏町大川戸から下赤岩まで約3.7キロして古利根川につながれた。こうして「中川」ができあがった。 また、昭和22年カスリーン台風の大洪水のあと、24年から37年にかけて放水路として新中川も開削される。都内西小岩から河口までの約7.6キロ、荒川放水路計画の中で用水路に平行して付け替えて綾瀬川を合流させた。こうして中川・新中川が誕生した。ちなみに、中川って、江戸川と荒川の「中」にあったから。とか。

中川・新方川合流点
合流点から1キロ強下ると新方川が合流。いつだったか、新河岸川を歩いていたとき、朝霞市で黒目川が合流。合流地点近くに橋がなく、夕暮れの中、もと来た道を引き返したことがある。この新方川との合流点でも同じ羽目に陥る。合流点から1キロ弱、新方川を西に戻り昭和橋に。昭和橋脇にまことに大きな道路。東埼玉道路。東京外環八潮インターから庄和に向けてつなげようとしている。現在は八潮インターから、庄和橋のちょっと北あたりまで開通している、よう。


中川・元荒川合流点
昭和橋を渡り、新方川をふたたび中川合流点に。合流点から中川を600m強だろうか、南に下ると元荒川に合流する。あたりの景色は、のんびりした郊外の風景。町工場の密集した景色を想像していただけに、嬉しい誤算。
合流点に近い中島橋を渡り、さらには中川にかかる芳川橋を渡り、南に下りJR武蔵野線・吉川駅に。 利根川の東遷事業・荒川の西遷事業によって取り残された川筋が中川水系として合流するポイントを巡る散歩を終え、一路家路へと向かう。


「西郊の特色が丘陵、雑木林、霜、風の音、日影、氷などであるのに引きかえて、東郊は、蘆荻、帆影、川に臨んだ堤、平蕪などであるのは面白い。これだけでも地形が夥しく変わっていることを思わなければならない。林の美、若葉の美などは、東郊は到底西郊と比すべくもない。その代わりに、水郷の美、沼沢の美は西郊に見ることの出来ないものである。 荒川と中川と小利根と、この三つは東郊の中心を成している。林がない代わりに、欅の並木があり、丘陵のない代わりに、折れ曲がって流れている川がある。あんなところに川があるかと思われるばかりに、白帆が緩やかに動いていったりする。 蘆荻には夏は剖葦が鳴いて、魚を釣る人の釣り竿に大きな鯉が金色を放って光る。(『東京近郊一日の行楽(田山花袋)』より)」。まことにゆったりとした一日の行楽を楽しんだ。

利根川東遷事業の川筋を歩く;葛西用水、会の川から中川へ 中川の上流域を歩こうと思った。先日権現堂川を歩いたとき、権現堂堤近くで合流した川である。利根川の瀬替えによって取り残された川筋をつなぎ、まとめあげた水系、とのこと。八甫(鷲宮町)、川口(加須市)、島川(栗橋町)といった地名が川筋に沿って見える。昔の舟運とか利根川東遷の際に、しばしば登場する地名である。また、鷲宮町には。関東最古の社、とも言われている鷲宮神社もある。ということで、今回の散歩は鷲宮町の鷲神宮からスタートし、中川に沿って川口、八甫へと進み、権現堂川との合流点で締め、といった段取りとした。実際は大きくコースが変わることになるのだが、それも成り行き次第の気ままな散歩の妙味でもあろう。



本日のルート;鷲宮郷土館>天王新堀>鷲宮神社>中川と葛西用水の最接近部・川口>葛西用水・川口分水工>会の川>県道125号線>川口>門樋橋>JR宇都宮線交差>行幸橋 ・行幸堤碑>幸手駅

鷲宮郷土館
湘南新宿ライン・宇都宮線直通電車で東鷲宮に。駅の西口に降り、線路に沿って北に。県道152号を西に。3号線と交差。先に進む。しばらく進むと葛西用水と交差。葛西用水に出合うとは思っていなかったので、少々流れが気になる。気にはなりながらも、本日の散歩は中川筋を歩くこと。先を急ぐ。
橋を渡ると鷲宮郷土館。しばし鷲宮の歴史を概観。縄文期からはじまり、平安期の荘園領・太田荘の頃、中世・古河公方との強い関わり、といったこと、それと、中川筋の交通の要衝であったこの地の歩みをスキミング&スキャニング。そもそも鷲宮って地名を知ったのは、古河を歩き、古河公方のあれこれを調べたとき。古河公方がこの地を物流の要衝として重視していた、ということだった。鷲宮の何たるかを再確認。

天王新堀
郷土資料館を離れ、西に進む。道の北側に水路。天王新堀である。この掘は、加須市東栄町1丁目あたりの都市排水路が基点。上流域は「六郷掘」と呼ばれる。加須市内を東武伊勢崎線に沿って下り、東北道を越え、鷲宮で東武伊勢崎線と交差する。それより下流が天王新堀と呼ばれている。この流れは葛西用水と青毛掘川の間を下り、久喜市吉羽で青毛掘川に合流。全長10キロ程度の都市排水路である。もともとは、農業用排水路であった。

鷲宮神社
道を更に西に進むと鷲宮神社。立派な構え。由来書によれば、「出雲族の草創に係る関東最古の大社。武蔵国の経営に東に下った天穂日命とその子・武夷鳥命がこの地に到着。お供の出雲族が当地に大己貴命を祀る。その後、日本武尊(やまとたけるのみこと)が東国平定の折り、この地に宮を建て天穂日命とその子・武夷鳥命(天夷鳥命、天鳥舟命;あめのひなとりのみこと)を祀った、と。大己貴命(おほなむちのみこと)は出雲の大国主命。出雲族がまつったことは理にかなっている。神話のことは、ともかくとして、境内には縄文から古墳期にかけての複合遺跡「鷲宮堀内遺跡」も残っており、古くから開けたところでは、あったのだろう。

いつだったか、足立区花畑の大鷲神社を訪ねたことがある。この神社は「お酉様」の本家、とか。大鷲神社の産土神(うぶすなかみ)は天穂日命の御子・天鳥舟命であった。この地の鷲宮神社と同じ、である。この天鳥舟命、って「土師連」の祖先。「土師(はじ)」を後世「はし」と呼ぶようになり、「はし」を「波之」とか「和之」と表記。それを、「わし」と読み違え、「鷲」となり、神社の名前が「鷲宮神社」となった、とか。
鷲宮神社は中世以降関東の総社、また関東鎮護の神。藤原秀郷や源義家といった武将から庇護を受けた。鎌倉時代には源頼朝が神馬奉献・社殿造営。北条時頼が神楽奉納。北条貞時が社殿造営。小山義政が社殿修理。室町時代には古河公方の保護を受ける。徳川期には、徳川家康により400石の御朱印地を与えられた。 この神社の近く、中川、昔は島川であり、浅間川であったのだろうが、ともあれ現在の中川筋に川口とか八甫といった河岸があり、舟運が盛んであった、とか。近辺が交通・物流の要衝として栄えていたのも、多くの武将がこの神社を崇めたことと関係ないわけではないだろう。

中川と葛西用水の最接近部・川口
神社を離れ、鷲宮3丁目を成行きで中川に向かって進む。葛西用水が再び登場。気になる。水路脇の案内に、「川口分水工」とか「会の川合流点」といった記載。少々迷う。予定通り、すぐ北、というか、用水のすぐ東を流れる中川の土手に出て、八甫に向かうか、それとも、「会の川」に向かうか、少々迷う。距離も結構ある。予定とは真逆の方向。また、会の川といっても、源流は遥か彼方で、単に葛西用水との合流点であるだけではあるのだが、はてさて、の迷い。が、結局、利根川東遷事業のはじまりともなった「会の川」って言葉に惹かれて予定変更。会の川との合流点を求め、葛西用水を西に向かうことに、した。

葛西用水・川口分水工
鷲宮地区を越え、葛西用水に沿って、川口3丁目に。「川口分水工」がある。「北側用水」が分流している。川筋をチェックすると、中川に沿って下り、権現堂堤あたり、国道4号線を越えると権現堂用水となっている。そこから、中川にそって更にくだり、杉戸町・並塚で一瞬、神扇落に合わさり、すぐに中川に合流。なお、神扇落は、幸手市下吉羽で権現堂用水路から分流した用水である。
葛西用水のすぐ北に中川が流れる。このあたりが両水路の最接近地。とは言っても、昔は中川があったわけでなく、このあたりは南利根川とも呼ばれ、東遷事業以前の利根川の主流のひとつでもあった「会の川」がふたつに分かれたところ。ひとつが現在の中川筋、もうひとつが現在の葛西用水の川筋(昔の古利根川筋)であったわけで、正確には、最接近と言うより、ここが「会の川」の分岐点であった、ということである。

会の川
葛西用水、つまりは昔の「会の川」筋を活用した川筋だが、この用水に沿って西に進む。西に進むにつれて、中川との距離は開いてゆく。のんびりとした田園風景の中を進む。川面橋を越え、国道125号線に架かる新篠合橋に。この橋のすぐ西に「会の川」の合流点があった。
 「会の川」って、利根川東遷事業のはじまりとも言える、「会の川」締め切り、ということで結構気になっていた。現在は中川水系の川とはなってはいる。が、昔は中川があったわけではない。そのことは上にメモした。
近世以前の利根川は八百八筋と呼ばれるほど、派川が多く、乱流していた。「会の川」は、その利根川の「本流」のひとつであった、とか。現在の「会の川」は、羽生領上川俣で利根川からわかれ、行田市と羽生市の境界線を走り、羽生市砂山あたりで東に流れを変え、そこからは羽生市と加須市のを通り、加須市南篠崎と大利根町大桑の境界で葛西用水に合流する。その合流点が新篠崎橋近くの合流点である。

県道125号線
合流点を確認し、中川に戻ることに。125号線を東に。トラックの往来が多い。太田市を含めた北関東一帯って、「北関東工業地帯」と呼ばれていると。国内有数の工業地帯となっている、とか。そういった活発な生産活動ゆえ、ではあろうが、歩く立場からすれば、大型トラックの風圧など結構怖いものである。 北大桑の香取神宮を越えたあたりでなんとか車道から離れた野道があった。北東に進む。中川の堤に出る。中川に沿った土手道を歩く。遊歩道といった雰囲気ではない。野趣豊かな土手道である

川口
古門樋橋に。このあたりから、土手道もあやうくなる。川筋東側は通行止め。西側も工事中のような、そうでないような、微妙な雰囲気。とりあえず進む。なんとか進める。自然のままの土手道。土手脇に鹿島道路栗橋テクノセンターがある。この工場がきれるあたりが、中川と葛西用水の最接近の場所。葛西用水を西に向かったスタート地点・川口地区にやっと戻った。

門樋橋
川の北側の土手道を進む。門樋橋手前では、土手道が行き止まり、となる。仕方なく少し引き返し、道なき道を力任せに押し通る、といった感じ。門樋橋を越え土手道を進む。門樋橋の南は雑木林といった有様で歩けない。

JR宇都宮線交差
北側を進む。JR宇都宮線を越える。川の北は島川、南は八甫地区。島川橋を過ぎると北から稲荷木落排水路が合流。しばらく進むと東北新幹線と交差。更に進み、昭和橋の手前には香取神社とか香取大明神、権現堂など。昔はこのあたりに河岸でもあったのだろう、か。

行幸橋 ・行幸堤碑
昭和橋を越え、高須賀池の森を眺めながら、進み東武日光線と交差。道も切れ橋の下をくぐり進む。行幸橋に。まったく道はなし。畑の端を這い上がり、ブッシュを切り抜け上に上がる。橋の東で中川は権現堂川と合流する。
合流点ちかくにあった石碑にあった、中川についてのあれこれをまとめておく。 中川;中川は羽生市を起点とし、埼玉の田園地帯を流れ東京湾に注ぐ全長81キロの河川。起点をチェック。羽生市南6丁目あたり。宮田橋のところで葛西用水を伏越で潜り、宮田落排水路(農業排水路)とつながるあたりが起点、とか。
中川には山岳部からの源流がない。低平地、水田の排水を34の支派で集めて流している。源流のない川ができたのは、東遷・西遷事業がその因。江戸時代、それまで東京湾に向かって乱流していた利根川、渡良瀬川の流路を東へ変え、常陸川筋を利用して河口を銚子に移したこと。また、利根川に合流していた荒川を入間川、隅田川筋を利用して西に移したことによって、古利根川、元荒川、庄内古川などの山からの源流がない川が生まれた。
現在の中川水系一帯に「取り残された」川筋は、古利根川筋(隼人堀、元荒川が合流)と島川、庄内古川筋(江戸川に合流)に分かれていた。幕府は米を増産するために、この低平地、池沼の水田開発を広く進め、旧川を排水路や用水路として利用した。が、これは所詮「排水路」であり「用水路」。「中川」ができたわけではない。
中川水系の水田地帯を潤し、そこからの排水を集めた島川も庄内古川も、その水を江戸川に水を落としていた。が、江戸川の水位が高いため両川の「落ち」が悪く、洪水時には逆流水で被害を受けていたほどである。低平地の排水を改善するには、東京湾へ低い水位で流下させる必要があった。そこで目をつけたのが古利根川。古利根川は最低地部を流れていた。島川や庄内古川を古利根川つなぐことが最善策として計画されたわけである。実際、江戸川落口に比べて古利根川落口は2m以上低かったという。
この計画は大正5年から昭和4年にかけて外周河川である利根川、江戸川および荒川の改修に付帯して実施された。島川は利根川の改修で廃川となった権現堂川を利用したうえで、幸手市上宇和田から杉戸町椿まで約6キロを新開削して庄内古川につながれた。庄内古川は松伏町大川戸から下赤岩まで約3.7キロして古利根川につながれた。こうして「中川」ができあがった。
また、昭和22年カスリーン台風の大洪水のあと、24年から37年にかけて放水路として新中川も開削される。都内西小岩から河口までの約7.6キロ、荒川放水路計画の中で用水路に平行して付け替えて綾瀬川を合流させた。こうして中川・新中川が誕生した。ちなみに、中川って、江戸川と荒川の「中」にあったから。とか。
大雑把に言って、利根川の東遷事業、荒川の西遷事業によって「取り残された」埼玉中央部の川筋を、まとめ直した川筋をして中川水系、と言ってもいいだろう。

幸手駅
御幸橋から権現堂桜堤を経て、幸手駅まで歩き、本日の予定終了。幸手の由来は、アイヌ語で「乾いた土地」から、とか、日本武尊が東征の折上陸した「薩手が島」に由来するとか、例によって諸説あり。



「小金の牧」と「小金城跡」を辿る
いつだったか、週末の午後、1時頃からフリーとなった。はてさて、何処へ。とはいうものの、それほど時間もない。気にはなりながら、行きそびれているところにヒットエンドランで駆け抜けよう、と。
それでは、と思いついたのは「小金の牧」と「小金城跡」。先日、松戸から市川に歩いたときにちょっと気になっていた。 小金の牧は下総台地に広がる野馬の放牧地。小金城は下総屈指の中世城郭跡とか。当時の姿など今に留めるわけなどない、とは思いながらも、なんとなく気になる以上、とっとと行くべし、といった心持ちであった。 

 



本日のルート:常磐線・南柏駅>野馬除土手>常磐線・北小金駅>根木内歴史公園>富士川の氾濫原>本土寺>大谷口歴史公園・小金城址

常磐線・南柏駅
常磐線・南柏で下車。水戸街道を越えたあたりに「野馬土手」がある。「小金の牧」を歩こう、とはいうものの、柏や松戸といった都市に放牧場が残っているわけでもないだろう。牧の名残としては実際のところ、なにがあるのだろう、と思っていた。偶然のことながら、先回散歩のとき、松戸の駅で手に入れた観光パンフレットに、南柏の「野馬土手」が案内されていた。野馬土手は野馬除土手とも呼ばれる。野馬が牧の外に出て、人家や田畠を荒らさないようにと、つくられたもの。牧の名残りの一端でも感じることができれば、と南柏にやって来た。
「小金の牧」のことを知ったのは件(くだんの)の書・『江戸近郊ウォーク』。「小金の牧道くさ 下総国分寺」散歩随想の箇所があった。大江戸の散歩の達人・村尾嘉陵が、わざわざ訪ねきた「小金の牧」ってどんなところなのか気になっていた。文化14年(1817)の早朝に屋敷を出て小金牧を訪ねた、とある。 「松戸渡し、向ひにわたれば松戸宿、人家四五百戸...」 と、江戸川の松戸の渡しより松戸宿へ。さらに、馬橋村(まばしむら・松戸市)などを経て向小金村(むこうこがねむら・流山市)の小金牧に歩いてきたわけだ。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)

 『江戸近郊ウォーク』より小金牧の箇所をちょっとまとめる;「牧が7つある。水戸街道の北を上の牧。ヘイビ(蛇?)沢原、高田台(柏市高田辺り)、大田原。水戸街道の南を下の牧。日ぐらし山(松戸市日暮:白子についで多く馬100頭ほど)、五助原(船橋の台地)、平塚(印旛郡白井町)、白子(松戸の宿の東にあたり;500頭ぐらいの馬がいる)。西は船橋、中山、国府台、松戸、馬橋辺りの山を境にする。東南は下総佐倉の手前辺りを境として馬を放しているのだろう。上の牧は下の牧に比べてやや小さいと思われるが、確かなことはわからない。(中略)野馬は宵から暁にかけては、街道近くまで来て、人に馴れているような仕種を見せるが、昼間は人の近くには来ない。下の牧の中には、東北の果てに木立の茂っている山が見えるが、昼はその山に集まっている。この辺りには狼もいないので、馬が食われる心配はない。下の牧には追い込みの枡が3箇所。毎年11月15日過ぎに、江戸から吉川摂津守が来て、馬狩りをおこなう。牧師は全員ここに滞在し、毎日牧を見廻って損馬を改め、頭数を調べて台帳に記す。上・下合わせて1500、1600頭程度馬がいる。牧の入口に木戸がある。土居を築いて土に竹を植えて、里の牧との境としている。木戸に入ると小金の牧。」、と。南柏のこの野馬土手って柏市豊四季。千葉県流山市松ヶ丘との境界でもあるので、だいたいこのあたりを訪ねてきたのではなかろう、か。

野馬除土手

駅から北西に向かって進む。水戸街道の北に緑地が見える。そこが豊四季緑地。駅から500m程度だろう、か。なんとなくそのあたりだろう、と成行きで進む。緑地公園といった雰囲気。緑地の北端に掘・土塁といった「構え」が北に向かって続いている。何処にも案内板もなく、これが野馬土手だろうか、と思い悩みながらも土塁に沿って歩いていく。
土塁の北には住宅街が続いている。比高二重土塁。牧側が小土手、外側が大土手。堀底からの比高は大土手で3m、小土手で2m程度。小土手は馬の脚を痛めないようにと、少々なだらかにつくられている。こういった土手は柏市内に10箇所程度残っている、とか。
北にしばらく進むと土塁が終わる。その先にも小川に沿って土塁のような土手が続くのだが、野馬土手かどうかよくわからない。一応、野馬土手の雰囲気を感じることができたので、気持ち豊かに駅に戻る。ともあれ、豊四季緑地に残るこの野馬土手は規模・保存状態でもっともいい状態のものである、という。

野田市立図書館・電子資料室のHPなどを参考に小金牧についてのまとめておく;小金牧とは下総台地上、現在の野田市から千葉市にかけて点在していた放牧場の総称。もともとは、周辺の村から逃亡した馬などが原野で育ち、自然発生的につくられた牧場といったもの。平安時代にはすでに5つほど牧があった、とか。 徳川幕府は、馬牧の経営や馬の育成に力を入れ2つの牧をつくった。「佐倉牧」とそしてこの「小金牧」。江戸初期、小金牧には7牧あった。庄内牧(野田市。新田開発のため消滅)、高田台牧(柏市)、上野牧(柏市)、中野牧(松戸市・鎌ヶ谷市)、一本椚牧(享保8年に中野牧に吸収)、下野牧(船橋市)、印西牧(白井市)。今日歩いた牧は、上野牧だろう。柏にはそのほか十余二に高田台牧があった。市の5分の1は小金牧であった、とも言われる。

牧では、幕府の役人・牧士(もくし)が管理し、時期がくれば捕込(とっこみ)に野馬を追い込んで捕らえ、良馬は軍馬に、それほどでもない馬は近郊農民達にも売り払ったりしていた、と。とはいうものの、馬は野で育てて、野で捕まえる、といったもので、計画的に馬の飼育が行われていたわけでなかったようだ。 牧の中には村が点在。そのため、野馬は村や畑に侵入して耕作物などを荒らした。 各村々は、村境に野馬除土手をつくり被害を防ごうとしたわけだが、完全に防ぎきれず被害に大変苦しんだ、という。野田市中里の愛宕神社には「野馬除感恩塔」があるという。それは、農民に被害を与えていた野馬の里入防止に尽力した岩本石見守に感謝した村人が、その善政をたたえ記念碑をつくったほど、わけである。 村々の被害は馬だけではなかったようだ。野に繁殖する鹿や鳥獣による被害も多大なものとなった。ために年貢が減るといった状況にもなり、その対策として鷹狩が行われている。八代将軍吉宗を始めとして、3人の将軍が4回にわたって鹿狩りをおこなっている。

牧は徳川幕府の終結と共に廃止される。その後、新田開発を目的として、牧野が開拓されることになる。これは、新政府の最初の事業とも言われる。江戸というか東京に集まった旧武士8000人をこの地に移し、入植・開墾に従事させることにする。社会不安の根を摘む施策でもあった、よう、である。明治2年のこと。結局この事業は失敗に終わったようだが、そのときできた13の開墾集落の名前は今に残っている。今回歩いた豊四季もそのひとつ、である。
13の開拓地区名;1番目 初富(はつとみ)(鎌ヶ谷市)-小金牧内・中野牧>2番目 二(ふた)和(わ)(船橋市)-小金牧内・下野牧>3番目 三咲(みさき)(船橋市)-小金牧内・下野牧>4番目 豊(とよ)四季(しき)(柏市)-小金牧内・上野牧>5番目 五(ご)香(こう)(松戸市)-小金牧内・中野牧>6番目 六(むつ)実(み)(松戸市)-小金牧内・中野牧>7番目 七(なな)栄(え)(富里市)-佐倉牧内・内野牧>8番目 八街(やちまた)(八街市)-佐倉牧内・柳沢牧>9番目 九(く)美上(みあげ)(佐原市)-佐倉牧内・油田牧>10番目 十倉(とくら)(富里市)-佐倉牧内・高野牧>11番目 十余一(とよいち)(白井市)-小金牧内・印西牧>12番目 十余二(とよふた)(柏市)-小金牧内・高田台牧>13番目 十余三(とよみ)(成田市)-佐倉牧内・矢作牧(野田市市立図書館の資料より)

牧といえば、先日会社の同僚と平将門の営所のあった、石井に出かけた。現在の坂東市である。で、この際と、将門の資料をいくつか読んだのだけど、その中に、牧の話がしばしば登場した。相馬御厨だったか、どこかの御厨で馬、それも半島渡来の馬を飼育し、実績を上げていた、とか。実績の話はともかく、その資料の中で、馬の放牧の話があった。はっきりとは覚えていないが、馬は自由に放っていた。それは、沼地や台地で遮られ、馬が逃げることができなかった、と。現在の開発された下総台地からは、いかにしても想像するのは難しい。そのうちに、昔の姿を想像しながら下総の台地を巡ってみよう、と思う。

常磐線・北小金駅
野馬土手より南柏駅に戻り常磐線・北小金駅に戻る。郊外の小さな駅舎といった風情を創造していた。が、予想とは大きく異なり、駅前には大きなショッピングセンターが建てられている。 東漸寺 駅を南に下る。しばらく進むと東漸寺。江戸初期には広大な境内・多くの堂宇を抱える大寺院。末寺35を数えたとか。関東18壇林のひとつ、壇林とは僧侶の学校のこと、である。
このあたりは昔の小金の宿。江戸時代、江戸と水戸を結ぶ重要な街道が水戸道中として整備された。小金は松戸~我孫子間の宿場町として繁栄。東漸寺を中心に、上宿、中宿、下宿、横宿がつくられ、本陣・脇本陣・問屋場 をはじめ、旅籠(はたご)が設けられていた。

『江戸近郊ウォーク』にも、このあたり・お寺さんのことが描かれている。「曲がりくねった道を行くと、小金の宿(水戸街道の宿、松戸市小金)である。人家300戸ほどの宿で、松戸に比べると家のたたずまいからしてやや貧しそうに思える。宿の入口が二ツ木村(松戸市)で、その先が上総内村(松戸市小金清志町辺り)である。西側に黒観音福昌寺道があり、宿の中ほど西側に仙法山一乗院(東漸寺)という寺がある。関東18壇林のひとつである。寺中にみるべきほどのものはない」、と。みるべきほどのものはない、とはいうものの、現在でも結構長い参道がつづく、堂々とした構えのお寺さんである。

根木内歴史公園
東漸寺を離れ、根木内歴史公園に進む。お寺から東に進み水戸街道にあたる。公園は水戸街道に沿った台地にある。この公園は中世の城郭跡。寛正3年(1462年)、高城胤吉の築城と言われる。天文6年(1537年)に大谷口城(小金城)に移るまでこの城を居城とした。空掘、土塁、土橋が残る。
高城氏は千葉氏の重臣・原氏の寄騎として軍事力を誇っていた。その所領は流山から船橋に至る広大なもの。太日川、船橋そして市川真間といった舟運の要衝を押さえていた。また、中山法華寺、真間弘法寺、平賀本土寺といった大寺をその支配下におき、その覇をとなえた、と。千葉宗家にとっても高城氏は重要な存在であり、千葉介昌胤は妹を高城胤吉の妻としている。
小田原北条氏の下総攻略時には、原氏とともに北条氏の他国衆(直接支配)として活躍。国府台合戦のときは、北条方として戦っている。天正18年(1590年)の秀吉による小田原征伐に際しては小田原城に入城し秀吉と戦う。小田原開城とともに、居城・大谷口の小金城を開城し下野。江戸時代は700石の旗本、御書院番士そして小普請として続くことになる、と。
高城胤吉は千葉宗家・千葉介昌胤の妹を妻とした、とメモした。あれ?高城胤吉は16世紀前半期の人物??どういうこと?千葉宗家は康正元(1455)年、というから15世紀の中頃には、小弓城主・原胤房や馬加城主・馬加康胤の攻撃により既に滅んでいる。で、その後、馬加康胤が千葉宗家を継いだ、というか、詐称(?)したわけである。ということは、高城胤吉の妻の実家・千葉宗家って、「本家」滅亡後のいわゆる後期千葉氏であろう。

あとひとつ?が。国府台合戦では小弓公方足利義明・上総武田氏・里見氏と、古河公方・北条氏・千葉氏・原氏らの勢力が戦った、とメモした。小弓公方って、小弓城を居城としたから、そう呼ばれるのだが、小弓城って原氏の居城では?また、千葉氏って原氏に滅ぼされたのでは?調べてみた。
永正十四(1517)年、真里谷城主武田信保は古河公方に対抗するため、足利義明を擁立し原氏の居城・小弓城を攻撃・奪取。足利義明は翌年に小弓城に移り、「小弓公方」と呼ばれることになる、と。つまりは、原氏はこの時期に小弓城を追い出されたわけだ。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)

国府台合戦でどうして千葉氏・原氏といった「千葉県勢」が小弓公方とか里見勢といった「千葉勢」に寄騎しないで、小田原・北条勢に加勢したか、これで納得。 城を追われた原氏と、千葉宗家とはいうものの、原氏に滅ぼされた本家・千葉氏ではなく、本家・千葉氏を滅ぼした馬加氏が「継いだ」(後期)千葉氏ということ、か。納得。ちなみに、ここに古河公方が登場しているのは、長尾景信によって古河城が陥落し、古河公方・足利成氏は(後期)千葉氏を頼んでこの地に逃れてきた、から。
なお、都内で幾度か出会った武蔵千葉氏、千葉実胤・自胤は、原氏らにより滅ぼされた千葉宗家の遺児。武蔵に逃れていたため、武蔵千葉氏と呼ばれることになった。経緯から見れば、本家筋といえるだろう。

富士川の氾濫原
台地の裾を歩く。東には湿地が公園として保存されている。昔の富士川の氾濫原であったところだろう。木でつくられた通路を歩き、富士川脇に。川に沿って進むと水戸街道と交差。道路下をくぐる通路があり、先に進む。川の西の方角には台地が見える。平賀地区を成行きで進む。北西に走る如何にも参道といった風情の道に。先に進むと本土寺が見える

本土寺
正式には長谷山本土寺。池上長栄山本門寺,鎌倉長興山妙本寺と並ぶ日蓮宗「朗門の三長三本」のひとつ。開創は,鎌倉時代の建治3年(1277),領主曽谷教信が,源氏の名門・平賀左近将監忠晴の屋敷跡に地蔵堂を移して法華堂としたのが始まりと伝えられる。 
中世,この地を支配した千葉氏の信仰を得て大いに栄えた。水戸光圀公が寄進したと伝わる古い杉並木の参道や,朱塗りの仁王門,回廊,五重の塔がある。「あじさい寺」として知られるが、それだけでなく四季折々の花が有名とか。拝観料500円、ってなんだかなあ、と思ってはいたのだが、境内を歩き、花々の手入れを見るにつけ、維持費としても結構なお金がかかりそうである。拝観料も納得。
平賀氏って、源平争乱期、源義家の孫が信濃国佐久平・平賀郷を拠点とし、平賀氏を名乗る。鎌倉初期、平賀義信、源頼朝に従い活躍、鎌倉幕府の重鎮となる。平賀朝雅など、北条時政に推され将軍職をねらったりもする。あと延々と続くが、このくらいにしておく。ともあれ、源氏の流れをくむ一族。讃岐の出身・平賀源内もその流れ、とか。

大谷口歴史公園・小金城址
台地を下り、ちょっと大きな通り・まてばしい通りに。通りの南に緑豊かな台地が迫る。大谷口歴史公園。ここに戦国の時代、下総西部を領有した高城氏の居城があった。南北600m、東西800mという大きな構えをもつ城。下総屈指の城郭であった、と。現在は外曲輪の虎口であった達磨口と金杉口が残るだけ。あとはすべて宅地なっている。台地東端の達磨口から入る。すぐに行き止まりとなる。おおきな土塁が残っている。引き返し、公園入口を探す。台地上にあるお寺の西に公園入口。金杉口の虎口。障子掘や畝掘が。畝掘など、いかにも畠の畝って感じ。粘土質の地ならではのつくり。武者も脚をとられたことであろう。
既にメモした経緯をへて、高城氏が築いた小金城は北条方の西下総の拠点であった。永禄3年(1560年)、長尾景虎こと上杉謙信が関東攻略のため、古河城に進出。ために古河公方の足利義氏はこの小金城に逃れ来る。高城氏は謙信の関東侵攻時は、一時謙信に属したとか、いや、謙信の攻城を篭城戦で乗り切ったとか、ともあれ、謙信が越後に戻ると再び北条氏に属する。永禄7年(1564年)の第二次国府台合戦では、市河付近で兵糧調達を試みた里見義弘、大田資正を妨害するなど、北条軍の勝利に貢献。その後の経緯は上でメモしたとおり。城跡を離れ、北小金駅に戻り、一路家路を急ぐ。


我孫子から手賀沼を歩き、利根川に
手賀沼を歩くことにした。千葉県の北、我孫子市の南に広がる。正確には、我孫子市・柏市・印西市・白井市にまたがる沼である。
手賀沼を歩こうと思ったきっかけは、松戸や北小金で出会った「小金の牧」というキーワード。野馬の放牧地であった下総台地の原野の原風景をすこしでもイメージしたかった、から。沼の周辺であれば、「昔を偲ぶ」自然が残っているであろう、といった思惑、である。前もっての事前知識は何も、ない。沼の脇をひたすら歩き、我孫子市の北を流れる利根川との合流点まで行ければいいか、といった段取りで自宅を出る。 

 



本日のルート:我孫子駅>楚人冠公園>志賀直哉邸跡>白樺文学館>手賀沼公園>手賀沼遊歩道・手賀大橋>水の館>高野山新田>手賀曙橋・ 手賀川>手賀川>利根川

我孫子駅
下北沢で地下鉄千代田線に。JR常磐線に乗り入れている。そのまま我孫子駅に。我孫子市は利根川と手賀沼に挟まれたベッドタウンというべき、か。我孫子の地名の由来は諸説ある。大和朝廷時代の官職にある「阿毘古」からとの説。この阿毘古って、大王に魚や鳥などの食糧を貢進する氏族であった、とか。網曳が転じたとする説もある。網曳とは朝廷に海産の魚貝を貢進する職制のことである。常陸川(現在の利根川)や手賀沼の魚貝を供していたのだろう、か。その他、「アバ(くず れた)・コ(処)」が転じたといった説もあり、これといった定まった説は、ない。
我孫子駅に下りる。常のことのように、名所案内を探す。駅前に案内が。白樺派と我孫子のかかわりを中心に紹介されている。武者小路実篤、柳宗悦、志賀直哉、杉村楚人冠、バーナード・リーチなどの名前がある。そのほかに柔道の嘉納治五郎、柳田國男なども我孫子ゆかりの人物として紹介されていた。 駅の南に手賀沼。その手前に志賀直哉邸跡、そして白樺文学館がある。折りしも、娘の文学作品鑑賞のお手伝いで漱石の『こころ』を読み直していた。この『こころ』って新聞小説であり、漱石の次の書き手が志賀直哉であったのだが、志賀直哉が「わたしゃ書けない」といったばっかりに、漱石が疲労困憊した、って記事を読んでいたところ。これも因縁であろうかと、まず手始めに志賀直哉ゆかりの地を訪ねることにした。 (「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)


楚人冠公園
駅を南に下り国道356号線に。ここは昔の成田詣の街道。緩やかな坂を下る。道脇に楚人冠公園。段丘上にある。観音山という高台。杉村楚人冠の邸宅跡。明治から昭和にかけて活躍したジャーナリスト。朝日新聞の最高幹部でもあった。校正係りであった石川啄木の才能をいちはやく見出した人物。随筆家・評論家としても知られる。関東大震災後、別荘のあったこの地に移り住む。『アサヒグラフ』で手賀沼を紹介したことが、我孫子が別荘地・北の鎌倉ともよばれるようになったきっかけ、とか。近くに柳宗悦の屋敷があり、その中にバーナード・リーチが住んでいた、と。

志賀直哉邸跡
楚人冠公園脇を下り、「手賀沼ふれあいライン」に。目的の志賀直哉邸跡は、この車道の一筋北にはいったところ。緑2丁目にある。弁天山の一角。楚人冠邸とは異なり、どちらかといえば、段丘下・斜面林の中といった場所。ここは、武者小路実篤とともに白樺派を創設した直哉のはじめての持ち家。結婚後まもなくの大正4年から12年までこの地で過ごした。妻康子は実篤のいとこ。また、実篤と直哉は学習院仲間、と。
邸跡は現在公園となっている。段丘斜面、道より一段高いところにある公園には、ちいさな家屋の一部が残されている。小さな湧き水もあった。直哉はこの地で「城崎にて」、「和解」、「小僧の神様」などの作品を書く。小説の神様と呼ばれるようになった作品である。「暗夜行路」の前編刊行までこの地に住み、その後京都・山科、奈良高畑町、そして鎌倉へと移ることになる。

白樺文学館
志賀直哉邸跡を下りる。公園斜め前に「白樺文学館」。B級路線一直線の我が身には、少 々敷居が高いのではあるが、とりあえずどんなものかと中に入る。個人の篤志家が建てた記念館。入館料を200円払う。ボランティアのスタッフの方に説明していただく。
お話いただいたことのまとめ;この地に文人が多く住み始めたきっかけは、講道館柔道の創始者・嘉納治五郎。明治の頃、この地に別荘をもった治五郎は理想の学園をつくろうとしていた、とか。甥の柳宗悦を呼び寄せる。宗悦は民藝運動起こした思想家。素朴な民藝に芸術が宿る、と。志賀直哉はこの宗悦のすすめにより、この地に移る。
白樺派の同人である武者小路実篤をこの地に呼んだのは志賀直哉。直哉はここ我孫子に8年住む。実篤は2年ほどこの地に住み、理想の地を求めて九州・宮崎の地に「新しき村」を建設。大正7年のことである。しかし、この村も昭和13年にはダムのため水没。埼玉県の毛呂山に移る。先日埼玉の毛呂山町の散歩のとき「新しき村」って案内が目に入ったが、それって以上の経緯を経て移ったもの、であった。6年後実篤は「新しき村」を離村。村外会員となった。これもいつだったか、調布市仙川を散歩していたとき、国分寺崖線上に実篤公園があった。実篤の邸宅が残っていたが、それは村外会員となってからのこと、ということ、か。歩いていればあれこれ「襷」が繋がってくる。
館内には実篤、直哉の記念の作品が展示されている。いいなあ、とおもったのはバーバードリーチの絵。リーチといえば陶器が有名ではあるが、手賀沼を描いたエッチングの絵が素敵であった。また芹沢銈介氏の装丁なども素敵であった。が、よくよく考えたら芹沢銈介氏って、人間国宝。少々失礼なるコメントであったと、反省。
二階の展示の中に、漱石の書簡。新聞小説の連載を断わる志賀直哉に対して困り果てた漱石の姿が目に浮かぶ。「志賀の断わり方は道徳上不都合で小生も全く面喰らいましたが、芸術上の立場からいうと至極尤もです。今まで愛した女が急に嫌になったのを、強いて愛したふりで交際しろと傍から言うのは少々残酷にも思われます」、と。上にメモしたように、娘とともに、というか、娘のために、というか、それより、親父の威厳を示すため、というか、ともあれ、丁度漱石の作品研究をしていたところであったので、偶然の出会い驚く。予定調和、というべけんや。

手賀沼公園
白樺文学館を離れ、手賀沼の畔を目指す。手賀沼公園に。公園手前に市の生涯学習センターター。図書館もあるので、なにか郷土資料などないものかと中に入る。特になし。センターを離れ、隣の手賀沼公園に。バーナード・リーチ碑や血脇守之助の碑。血脇守之助って、明治・大正・昭和にわたる歯科医師会の重鎮。東京歯科大学の創始者。それよりなにより、野口英世の物心両面にわたるスポンサーとしてあまりにも有名。




手賀沼遊歩道・手賀大橋
公園から先は水辺に沿った遊歩道を進む。手賀沼遊歩道。遊歩道より一筋水際の土手道を進む。葦や水草を眺めながら散歩。少々の風もあり、寄せては返す波の音も。遊歩道でウォーキングを楽しむ人を眺めながら、こちらは、たらたら、と散歩。姿勢を正しく腕を振って、といったスタイルとは真逆のスタイル。1キロほど進むと我孫子高校。その先には手賀沼大橋が沼を跨ぎ柏市と我孫子市を繋ぐ。

水の館
手賀大橋を越えると手賀沼親水広場。広場と「手賀沼ふれあいライン」の間に「水の館」。手賀沼に関する歴史・自然環境に関する展示室やプラネタリウムがある。ここに来るまで、手賀沼のことなどなにも知らなかった。暢気に歩いてきたのだが、手賀沼って最近まで水質ワースト1位であった、とか。平成12年ワースト1位(COD14)、平成13年ワースト2位(COD12)、平成14年ワースト9位(COD8.2)、平成15年ワースト6位(COD8.4)といった按配だ。
水質浄化に取り組み環境は改善しつつある、と。水質汚染の要因は生活排水と産業排水。1955年頃までは水は十分澄んでいたとのことだが、急激な周辺人口の増加に汚水処理が間に合わなかった、ということ、か。沼に注ぐ川は大堀川と大津川ではあるが、どちらも地図で見る限りでは市街地に源流点があるように見える。であれば、それほど水量が多いわけではないだろうし、水源は生活排水といった時代もあったの、かも。
ともあれ、手賀沼は汚れた。その対策としては、利根川の水を導き、手賀沼の西端に注ぐ大堀川に流し水質を改善する。利根川から取水されたこの水路は北千葉導水路と呼ばれる。また沼の南にある北千葉第二機場では浄化用水を注ぐ。このような浄化計画の成果だろうか、ワースト1位からは外れるようになっている。

高野山新田
水の館を離れ再び手賀沼遊歩道に。水の館のすぐ北には鳥の博物館。皇族が勤務する山科鳥類博物館であろう。いまひとつ鳥に興味がないので今回はパス。沼の反対方向、北側は台地が続く。印旛手賀自然公園の手前、高野山新田の向こうの台地の緑の中に香取神社と水神山古墳。白樺文学館でのレクチャーで伺ったことだが、文学館があったあたりは葦原であったとか。台地の下まで沼がせまっていたのであろう。手賀沼って、もともとは、洪積台地にできた浸食谷。それが溺れ谷、有体に言えばリアス式のギザギザ谷となり、さらには常陸川(現在の利根川)の土砂にせき止められて沼となった。往古、香取海の入江。手下浦(てかのうら)と呼ばれていた、と。
このあたりの地名・高野山新田、って干拓によって開かれた新田、か。本格的に干拓工事がはじまったのは、1958年から。沼の半分が干拓された、とか。沼の北には根戸新田、我孫子新田、高野山新田、岡発戸新田、都部新田、中里新田、日秀新田など。沼の南には戸張新田、簔輪新田、大井新田、鷲野谷新田、染井入新田、片山新田、手賀新田など。これだけ新田が地名に残っているわけで、半分が干拓されたといっても違和感なし。
沼の南といえば、利根川から手賀川の東を進んできた北千葉導水菅は、手賀沼に至り南岸を進み、さらには大堀川に沿ってのぼり、流山市の野々下あたりの坂川放流口まで続いている。ここから放流された利根川の水は坂川を下り、江戸川に注ぐ。この導水路は手賀沼の汚染対策だけではなく、利根川と江戸川を結び江戸川の水量を補っている、ということだ。先般行田を歩いたとき、利根川と荒川を結ぶ武蔵水路に出合った。これは東京オリンピックのとき、汚れた隅田川が少々見苦しかろうと隅田川上流の荒川の水を少しでもきれいにしようとした、と。この北千葉導水路は、水路沿いの手賀沼の水質浄化とともに、首都圏への水の供給源としても機能している。

手賀曙橋・ 手賀川

市民農園脇を進み、滝下広場を越え印旛手賀沼自然公園がある水際を進む。岡発戸新田南の峠下公園を過ぎ、湖北集水路を越えると我孫子高校の野球場。このあたりが手賀沼の東端。植生浄化施設脇を進み、手賀沼フィッシングセンターに。手賀曙橋。水門も兼ねた橋となっている。ここで手賀沼は終わり、手賀川となる。歩きはじめて5キロ前後といった距離であった。ここから利根川との合流点までおよそ7キロ、というところ。
手賀川は、手賀沼の東端から利根川までを繋ぐ水路である。かつて手賀沼は、そのまま利根川につながっている沼だった。干拓によって沼の東半分が広大な農地となり、西半分の手賀沼はひとまわり小さくなって残された。で、その手賀沼と利根川を繋いだ水路がこの手賀川というわけだ。

手賀川
手賀川に沿って土手道を進む。すぐ先に手賀第三揚水機場・手賀第三排水機場。北千葉導水って、手賀川の南に埋設されているわけで、この施設って、どういった役割なのだろう。地図をみると、手賀川の一筋北に水路がある。通常排水機場って、支川の水をポンプで汲み出して浸水被害を防ぐもの。大雨などで支川が氾濫しはじめたら、その水を支川より水位の高くなった手賀川に放水するのであろう。
土手道を進む。1キロ単位で目印がたっており、それを目安に歩く速度を計る。1キロを10分で進む。水道橋の北詰を進み、次は浅間橋。手賀第二排水機場。手賀沼からほぼ3キロといったところ。
浅間橋の南北にはまっすぐにのびる道路がある。これは、昔の千間堤の跡。江戸時代の享保年間、千間というから、およそ1.8キロにわたって堤が築かれていた。見沼散歩の折にも登場した、伊沢弥惣兵衛の建議で干拓を計画。もともとは沼全体の干拓を計画していたようだが、計画を変更し、この千間堤を築き、沼を東西に分ける。西はそのまま残し、堤より東を干拓することにした、と。江戸の町人高田茂右衛門友清が請け負った、とか。が、完成後しばらくして堤は決壊。上でメモしたように、大規模な干拓工事が実施されたのは、第二次世界大戦後。昭和43年になって完成。500HAの水田ができあがった、ということだ。
浅間橋を越え、1.5キロ程度で手賀沼週末処理場。家庭排水を集めて浄化し川に流す。先ほど手賀第三揚水機場・手賀第三排水機場のところで、手賀川の一筋北に水路が走るとメモした。この水路は手賀沼週末処理場から出ている。ということは、少し上流まで水を運び、手賀川の水質の浄化も行っているのだろう、か。
手賀沼週末処理場。ここまでくれば、利根川の堤まで2キロ程度。川筋を離れ処理場を迂回し成行きで東に進む。JR成田線を越え先に進む。川筋に北千葉揚排水機場。大雨・台風といったとき、水位の高くなった利根川の水を水門で防ぎ、同時に水位が高くなった利根川に手賀川の水を放水できるようにしている。北千葉揚排水機場の先に国道356号線。道の向こうに土手、というか堤防。利根川に到着。

利根川
土手の上を最寄りの駅、JR成田線・木下駅に進む。木下は「きおろし」と読む。このあたりの河岸から江戸に雑木を運んでいたのが名前の由来。木下は、利根川船運の要衝の地であったよう。「木下河岸跡」の案内によれば、「寛文の頃(1661~72)、香取・鹿島神宮などへの参詣と銚子の磯めぐりを楽しむ「木下茶船」と呼ばれる、江戸町民の人気を集めた乗合船が発着するようになり、利根川下流へ向う旅客や銚子、九十九里からの鮮魚の陸揚げで賑わうようになった。最盛期には50軒余りの旅籠や飲食店が軒を連ねていた」、と。 木下河岸と市川の行徳河岸の間には「木下街道」が走る。現在の国道59号線。木下からは鮮魚が、行徳からは鹿島神宮などへの行楽客を運ぶ道として利用された。又、常陸の麻生藩、下総の高岡藩・小見川藩といった大名がこの街道を通っていた、と。 ともあれ、往時は交通の要衝であった、木下という地名を新たに記憶に刻み、本日の予定終了。それにしても、往時の交通の要衝の駅舎は、駅員の姿も見えない素朴なものでありました。

松戸から市川へ歩く 松戸から市川に向かって歩いた。もともとは、後北条氏と里見氏が戦った国府台合戦の跡である「国府台(こうのだい)」、それと、万葉の時代から知られる「真間」を歩こうと思った、から。ともに市川市にある。では、なぜ松戸から、と言うと、まず市川の歴史博物館に行き、あれこれ資料を手に入れようと考えた、ため。博物館は、どちらかといえば、松戸からのほうが近そうに思えた。
そもそも、何故に国府台であり、真間であるか、ということだが、いつかどこかで買い求めた『江戸近郊ウォーク;小学館』がきっかけ。江戸期、清水徳川家の御広敷用人・村尾嘉陵が描いた『江戸近郊道しるべ』を現代語訳したこの本の中に、「下総国府台 真間の道芝」とか、「真間の道芝 中山国台も」などと「真間」とか「国府台」という記述があった。
国府台は、小岩あたりを散歩したとき国府台合戦のことを知り、そのうち歩いてみたいと思ってはいた。が、「真間」はこの本ではじめて知った。万葉集にも取り上げられた昔からの古い地名である、という。「まま」って音の響きにも惹かれていた。「まま」ってアイヌ語の「急な崖」の意味、とか。ちなみに、御広敷用人って、大奥の管理運営責任者としても使われるが、この場合は清水家の当主や夫人の暮らし向き一切を取り仕切る責任者のことである。さて、散歩をはじめる。



本日のルート:松戸駅>相模台>戸定が丘歴史公園・戸定邸>水戸街道>市川市歴史博物館?・堀之内貝塚>国分寺>真間の井>手児奈霊堂>真間の継ぎ橋>真間山弘法寺>下総総社跡>江戸川堤

松戸駅
常磐線・松戸駅、というか、地下鉄千代田線・松戸駅で下車。予想以上に大きな都市である。人口は48万人弱。昭和18年の人口は7千人強というから、首都圏のベッドタウンとして発展を続けているのであろう。 この地は平安の昔から交通の要衝。下総の国府(市川市国府台)から常陸の国府(茨城県石岡市)、武蔵の国府(都下府中市)への分岐点であった。
地名の由来は、例によって諸説あり、太日川(現在の江戸川)の津・渡しであったため、「馬津(うまつ)」とか、「馬津郷(うまつさと)」と呼ばれていたのが、「まつさと」となり、「まつど」になった、という説。なぜ「馬」か、というと、この松戸、というか下総台地一帯には小金牧といった放牧地があり、馬の飼育が盛んであった、から。そのこととも関連するのだが、「馬の里」から「馬里(うまさと)」となり、「まさと」、そして「まつど」となった、との説もある。更には、平安時代の「更級日記」に書かれた「松里」が地名の由来とも。こうなったらわけがわからない。

相模台
駅の東に台地が迫る。標高20m前後だろう。下総台地の西端である。開析された谷が樹枝状に入り組み、複雑な地形をつくっている。最初の目的地は市川市の歴史博物館。とりあえず南に下れば、とは思いながらも、途中に見どころはないか、と駅の案内板をチェック。線路に沿って南に下った台地に「戸定邸」がある。水戸藩最後の藩主・徳川昭武の別邸跡。ちょっと寄り道をしようと、南に下り、成行きで台地にとりつく。登りきったところは公園になっているのだが行き止まり。地図をチェック。戸定邸のある戸定台地ではなく、駅の東に迫る相模台であった。
一度台地を下りる。が、どうせのことなら、この台地の地形を楽しんでみようと再び台地に取り付く。台地上の松戸拘置支所の塀間際まで登り道。拘置所は未決囚を勾留・拘禁するところ。未決囚って被疑者・被告人ってことは知っていたが、死刑囚も未決囚。死刑執行までは未決囚扱い、となるようだ。わかったようで、よくわからない。
台地上を歩く。裁判所とか聖徳大学が並ぶ。こういった「公的施設」が集まるところは、昔の軍関係施設のあったところが多い。案の定、この相模台も陸軍工兵学校があった、とか。相模台の由来は、鎌倉時代、北条相模守長時がここ岩瀬坂に城を築いたことによる。
この相模台は第一次国府台合戦の戦場でもある。北条氏綱と里見義堯(よしたか)・足利義明が戦った。足利義明って小弓公方と呼ばれる。古河公方の分家。本家と覇権を争った、と。現在の千葉市中央区の小弓城に居を構えたのが名前の由来。江戸期の高家・喜連川として後の世に続くが、高家として優遇されたのは家康が足利家の「流れ」を重んじた、から。

戸定が丘歴史公園・戸定邸
台地の急坂を下り、南に進む。開析谷といった平地の直ぐ先に台地。この台地・戸定台の北端に「戸定が丘歴史公園・戸定邸」。「戸定」って、お城の外郭・外城の、意味である、とか。
戸定邸への緩い坂をのぼる。戸定が丘歴史公園って、松戸徳川家の敷地を公園として整備したもの。また、戸定邸は徳川昭武が明治に別邸としてつくったもの。大名の下屋敷の建築様式を今に伝える、と。邸内をひとまわりし、松戸市戸定歴史館に。幕末から明治の激動の時代を生きた昭武の事績を展示している。

 徳川昭武のメモ;最後の将軍・徳川慶喜の弟。1864年、12歳で、水戸藩兵300名を率いて京都御所警備に。1867年、将軍の名代でパリ万博に旅立つ。14歳のとき。万博終了後は、フランスに長期留学。次の将軍へと期待をかける慶喜の帝王教育であった、とか。
1868年、幕府崩壊。新政府よりの帰国命令。最後の水戸藩主となる。16歳のときのこと。1883年(明治16年)に隠居。戸定邸建設開始。翌明治17年、完成。明治天皇の傍につかえるため、通常は都内の水戸家本邸に住む。が、公職を離れ、アウトドアライフとか趣味の生活はこの地で楽しむ。多彩な趣味の中でも明治36年からはじめた写真撮影は有名、1500枚にのぼる写真が残る。

水戸街道

戸定邸を離れ、次の目的地、というか当初の最初の目的地・市川市の博物館に向かう。坂道を一度下り、台地の東端に沿って進み水戸街道と交差。再び台地に上ることになる。松戸周辺には中世の城址が多くある。48箇所もあるということから、「いろは城」などと総称される、と。代表的なものは松戸の北、北小金の大谷口歴史公園にある大谷城址であるが、この戸定台も中世の城址、とか。水戸街道との交差点の近くに「陣ヶ前(じんがまえ)」という地名が残る。小弓公方・足利義明の陣構え跡がその名の由来とも、松戸宿最初の旗本領主高木筑後守の陣屋跡がその名の由来、とも。
水戸街道を越え、南に進む。車の往来も多く、宅地が広がる。が、昔は、下総台地って、小金原とか佐倉原と呼ばれるように、湧水・湿地・斜面林など、谷津の豊かな自然が広がっていたのだろう。その台地には松戸の由来でメモしたように、江戸時代には多くの馬が放牧されていた。小金原って、松戸・野田市あたりだろう、か。そこには小金の牧という馬の放牧地があり、1500頭くらいの馬が放し飼いされていた、よう。次の機会に小金の牧の名残を求めて、松戸の北部を歩いてみよう、と思う。

市川市歴史博物館?・堀之内貝塚

「二十世紀が丘」地区に沿って南に進み。北総開発・北国分駅に。このあたりから市川市に入る。西に進み台地を下る。ちょっとした谷地の向こうにこじんまりした台地が残る。この谷地も削り取られたもの、とか。ともあれ、小島のように残った台地のうえに堀之内貝塚や考古博物館、歴史博物館がある。 貝塚は縄文後期・晩期のもの、というから、今から2000年から4000年前のもの。またここらか土器が発見されており、「堀之内土器」として知られる、と。考古博物館は先土器時代から律令時代あたりまで、歴史博物館は中世から現代までの資料が展示されている。考古専門の博物館をつくれる、ってことであるわけで、市川市が考古資料の宝庫って言われるのも、納得。
松戸から下ってきた最大の理由は、この博物館で資料を手に入れるため。『市川散歩』といった小冊子、『いちかわ 時の記録』といったいくつかの資料を買い求める。

国分寺
市川市歴史博物館を離れる。丘を下り、堀之内地区を東に進む。北国府と中国府の台地に挟まれた、ちょっと大きめの谷津といった雰囲気。中国府の舌状台地の東端を上り、国分寺に。ここは下総・国分寺跡。そのちょっと北に国分尼寺跡。現在は公園となっている。
天平13年(741年)、聖武天皇の勅願により全国に「金光明四天王護国之寺」と呼ばれた僧寺と、「法華滅罪之寺」と呼ばれた尼寺のふたつの寺が建立された。『江戸近郊ウォーク』には、「この山全体は千歳の古跡、つまりは下総国分寺跡であろうが、茅葺きの仁王門、本堂、本堂の傍らに堂」、といった国分寺の姿が描かれている。

真間の井

国分寺跡のある台地を下り、細長い谷津を経て国府台の台地の端を進み、「真間の井」に向かって歩く。下総台地の南端が低地に落ち込むところ。往古、このあたりは入り江が迫っていたのであろう。「真間の井」のある亀井院に向う。万葉集に「勝鹿(葛飾)の真間の井見れば立ち平(なら)し、水汲ましけむ手児奈し思ほゆ」と高橋虫麻呂が詠む。現在はちゃんとした井戸となっているそうだが、もとは湧水を水瓶のような受け皿で集めていただけであった、とか。そのためでもあろうか、亀井院は昔、瓶井坊と呼ばれた、とも。
『江戸近郊ウォーク』には、「今の真間の井戸は、世の中にごく普通にある堀井戸である。もとの姿ではない。(祠の方に引き籠もった所に小庵を造り、坪庭めいた所に井戸を堀り、さも意趣を凝らしたかのように井桁を組んで、石などで整えてあるのが、かえって野暮ったく見える)。昔の井戸は山際の、萩、薄のうっそうと生えている中にあった。今ではそこに行く人もいないであろう。その井戸は、山の際の窪んだ所に、山の水が自然に滴たり溜まっているものに、粘土質の土で囲いを造る程度にちょっと人の手を加えて,柄杓で汲みやすいようにしただけのものであった。実に自然のままに見えたものである」とある。あれこれ人の手が加わったことを少々嘆いているのが、実に「良い」。

手児奈霊堂
亀井院のすぐ近くに、手児奈霊堂。手古奈って、『万葉集』に詠われる女性。絶世の美女であった、とか。ために幾多の男性から求婚される。が、誰かひとりを選べば、その他の人を苦しめることになると思い悩み、入水自殺したとされる。万葉集の中で、山部赤人が詠った「吾も見つ 人にも告げむ 葛飾の 真間の手児奈が 奥津城処」が有名。
全文は以下のとおり;「葛飾の 真間の手児名が奥津城(おくつき)を 此処とは聞けど 真木の葉や 茂りたるらむ 松が根や 遠く久しき 言のみも 名のみも吾は 忘らゆましじ吾も見つ 人にも告げむ 葛飾の 真間の手児奈が 奥津城処葛飾の 真間の入江に うち靡(なび)く玉藻刈りけむ手児奈し思ほゆ(ここが葛飾の真間の手墓所だと。が、真木の葉が茂っているからか、長い年月ゆえか、その面影は、今はない。が、手児名ことは忘れることはないだろう。入り江に揺れる玉藻をみると手児名を思い出される。)

手児奈霊堂は、直ぐ北にある弘法寺の上人が手児奈の奥津城(墓)と伝えられるあたりに建立した、とされる。霊堂脇の池は水草が生い茂り、真間の入り江のありし日の姿を今に伝える。『江戸近郊ウォーク』には「畦の細道を蛇が進むようにくねくねと行き、辿り着いたところが手古奈の社の前である。(昔は)社は,蘆荻(ろてき)の生い茂った中に、5,6尺の茅葺きの祠があるだけで、鳥居などもなかった。それから多くの年月を経て詣でたときは、社は昔の面影のままであったが、鳥居が建っていた。なお年月が経て詣でたときには、もとの茅葺きの祠は取り払われ手、広さ2間ほどに造り変えられ、(中略)さらに今日、40年を経てきてみると、祠は、広さ5間ほど、太い欅柱に、瓦葺き、白壁造りのものに建て替えられていた。鳥居も大きなものを建て並べるなどして、昔の面影はどこにもない。誰がこんな社にしたのであろうか。人がなしたことなのか、知るすべもなし」とある。「昔はよかった」って、今も昔も同じである、ってことか。

真間の継ぎ橋
弘法寺に向かう。参道に「真間の継ぎ橋」。万葉集に「足の音せず行かむ駒もが葛飾の 真間の継ぎ橋止(や)まず通(かよ)はむ」の歌がある。往古、このあたりの入り江には多くの洲があり、その洲の間を継いだ橋であったため、継橋、と。別の説もある。『江戸近郊ウォーク』には、「昔は「まま」という言葉だけあって文字がなかったが、時代がたつにしたがって漢字を当てて「真間」とし、この橋も「真間橋」といったのであろう。しかし、時代が経つと「真間」という漢字を「継(まま)」と書き換えるようになり、そのうちに「継橋(つぎはし)」と呼ばれるようになってしまったのであろう」、と。
『江戸近郊ウォーク』には手児奈霊堂から継橋あたりの景色についての記述もある。昔はこのあたりから妙法経寺のある中山や(本)八幡のあたりまで見渡せたのであろう;「また、今は社の後ろ、入江にまで稲を植え、辺り一面田圃になっている。かつては社頭に背丈の高い松があって、その下枝が生い下がって入江の波に浸っていたが、その松もいつの間にか枯れてしまって今はない。(中略)社頭を去って継橋に着いて、入江を見渡せば、一里ほど東南に正中山(妙法経寺)が、その手前に八幡の宿の木立が見える。入江に小舟を浮かべて、刈り取った稲を運んでいる。その眺めに、昔見た以上の感動を覚えるのは、若いときには心もそぞろにひと渡り見ていただけだからであろう。この継橋の通りは、真間山の大門に向かう道で、継橋の下の細い流れも,入江の水も、利根川に注ぎ込む流れである」、と。

真間山弘法寺

真間山弘法寺(ぐほうじ)。「真間山の石段を五十段ほど登って楼門に入ると、向いに釈迦堂、祖師堂がある」と『江戸近郊ウォーク』に描かれている。立派な構えの寺院。天平9年(737年)、行基が『万葉集』に詠われる真間の手古奈の霊を慰めるため創建した、と。もとは「求法寺(ぐほうじ)」、と呼ばれる。のちに弘法大師が伽藍をつくり、ために「弘法寺(ぐほうじ)と改められた。その後、天台宗の時期もあったが、建治2年(1276年)中山・法華経寺の上人によって日蓮宗に改宗された。元亨3年(1323年)には千葉胤貞が寺領寄進、また家康からは朱印が与えられている。
江戸の頃は紅葉の名所としても知られ、「真間の紅葉狩り」として有名であった。台地からの眺めを、などと考えたのだが木立が邪魔して、見晴らしはよろしくなかった。
ところで、千葉胤貞って、中山門流日蓮宗を庇護した九州の肥前・千葉一族。大隈守である。なぜ肥前の千葉氏が?ちょっと気になり調べてみた。千葉氏は桓武平氏の一族。平安末期に、「下総権介」として千葉の地に移り、「千葉」氏を名乗った。千葉氏隆盛のきっかけは、頼朝の挙兵。平氏追討戦への貢献大で、頼朝より「師父」と呼ばれるほどに。鎌倉幕府の勢威拡大とともに、北は東北から南は九州・薩摩国へまで知行地をもち、その覇を拡大した。各地に千葉氏の流れができることになる。
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肥前・千葉氏の誕生のきっかけは元寇の役。肥前小城郡に知行地をもつ千葉宗家・頼胤に出陣命令。この宗家筋は元寇の役が終わった後も九州の警護のため、帰国叶わず大隈守護職として九州に留まる。いつまでも下総に戻ってこない、というか、戻ってこれない宗家筋に対し、宗家の弟筋が「千葉介」に就任。下総千葉氏がこれ。九州に下った「宗家筋」が肥前千葉氏となる。逆転現象である。 で、やっと大隈守千葉胤貞の登場。誕生は肥前。が、元服の頃には鎌倉に出仕していたようである。千葉宗家たる「千葉介」は弟筋が継いたわけだが、肥前千葉氏はもともとは「本家」千葉介であったわけで、父ゆかりの知行地も残っていた。八幡庄や千田庄がそれである。大隈守とはいうものの、活動の拠点は八幡庄周辺であったとされる。

千葉胤貞と日蓮宗との関わりは、その八幡庄に屋敷を構えたことからはじまる。そこに父の政務官でもあった富木常忍入道日常や、大田左衛門尉乗明といった、日蓮宗のエバンジェリストがいたわけだ。富木常忍は迫害を受けた日蓮を庇護し、その後出家し屋敷を「法華寺」としている。大田乗明の屋敷は「本妙寺」となっている。もっとも、「千葉介」を奪い取られた敵愾心から、下総千葉氏が信仰する真言宗とは別の宗派を押し立てることによって、自らの存在感を示すことにあった、との説も。下総千葉氏との確執などあれこれのストーリーはあれど、本筋からどんどん離れていきそうである。何故肥前千葉氏が弘法寺の堂宇を寄進し、日蓮宗を庇護したか少々理解できたところで鉾を収める。

下総総社跡
弘法寺を離れ、少し北にある下総総社跡に向かう。弘法寺の境内から裏に抜ける。千葉商科大学の塀にそって進む。キャンパスが切れ、運動場のあたりになり一度台地を下り、裾を進む。道成りに進み、再び台地にのぼり運動場に進む。
下総総社跡は、運動場のど真ん中といったところにある。昔はこのあたり一帯は鬱蒼とした森であった。「六所の森」とか「四角の森」と呼ばれていた、とか。ここに六所神社があった。総社というのは、国守が領内に点在する由緒ある神社をいちいち廻るのが鬱陶しい、ということで一箇所に集めたもの。国府の近くに合祀したわけだ。
和洋女子大前でバスを待ち、市川駅に戻り、本日の散歩を終えることにする。当初予定した国府台は時間切れでキャンセル。次回改めて歩き直すことにする。

江戸川堤

本文江戸川の堤を北に進む。東京都と千葉の境界。昔は「太日川」と呼ばれた。「太日川」の流れは江戸期における利根川東遷事業に大いに関係する。つまりは、もともとは、前橋のあたりで平野に入り渡良瀬川と合流し江戸湾に流れていた利根川を、関宿近辺で瀬替え工事をおこない、本流を銚子に流す工事をおこなった。その際、支流を人工的に開削し、この太日川に通すことになった。そのためこの流れは、「新利根川」などと呼ばれることもあった、ようだ。
「江戸川」と呼ばれるようになったのは、いつの頃からだろう、か。利根川水系を利用し、常陸那珂湊から内陸に入り、霞ヶ浦から「江戸」に物資を運ぶ、いわゆる『内川廻し』による船運が発達した頃からだろう、か。とはいうものの、『江戸近郊ウォーク;村尾嘉陵(小学館)』にはこのあたりのことを「利根の渡し」と書かれているので、少なくとも1807年頃は、「利根」と言われていたようだ。
また、たまたま今日読んでいた『郊外の風景;樋口忠彦(教育出版)』の中で田山花袋の『東京の近郊』の一部が引用されていたのだが、そこには「小利根(江戸川)」と書かれている。大正5年のことである。江戸川となったのは結構最近のことのように思えてきた。

往古、江戸川の水はとびきりきれいであった、と。『江戸近郊ウォーク;村尾嘉陵(小学館)』には、「水の重さが普通の水に比べて相当軽い、と棹をさしている男が言った」、と書かれている。いつだったか、小名木川に沿って行徳へと続く「塩の道」散歩の折り、江戸川に面した江戸川5丁目の「熊野神社」での芭蕉の句が思い出される。
「茶水汲む おくまんだしや 松の花」といった句碑があったのだが、この辺り、「おくまんだし(御熊野さま)」のあたりの清澄な水は将軍家のお茶の水として使われていた、とか。上流の野田といえば醤油だが、これもいい水を江戸川からとっていたのであろうし、ともあれ、江戸川って昔は澄んだ美しい流れであったので、あろう。

本八幡の「真間の入り江」から大町の「谷津」を辿る
真間、国府台に惹かれはじまった市川散歩、今回は中山、本八幡、そして、北に進み大町へと歩みを進める。中山はいうまでもなく日蓮宗の大本山・法華経寺、八幡は葛飾八幡、そして「八幡不知」がある、という。「八幡不知」は一度迷い込めば二度と出られない、といった薮であった、とか。大いに惹かれる。で、その先はどういったコースを取るか、とチェック。北の大町には深く入りこんだ谷津があるという。地形フリークとしては、これは外すべからず、ということで、このルートに決定。 (「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)




本日のルート:本八幡駅から中山駅に>中山・法華経寺>八幡不知森>葛飾八幡宮>永井荷風終焉の地>真間川>真間川から大柏川に>武蔵野線>駒形大神宮>大町自然観察園

本八幡駅から中山駅に
都営新宿線・本八幡駅に下りる。いつものように、家を出るのが少々遅いため、中山までの行きかえりを歩くと、どうしても時間が足りない。京成線・八幡から京成・中山まで往復し、時間をかせぐことに。京成線に乗り換え京成・中山に向かう。途中の駅の名前が気になった。鬼越え、と。鬼が出没するので「鬼子居」と呼ばれていたのが後世になって、鬼越となった、と。
別の説によれば、地形に由来する、と。「おおきく崩れた崖」を意味する「オークエ」とか、「鬼のようなおおきな者が崩した崖」を意味する「オニクエ」が由来、とか。鬼が居たよりは地形からの由来のほうがしっくりくる、のは言うまでもない。このあたりも昔は少々の台地であったのが、崩落を繰り返し現在の地形になったのであろう。

中山・法華経寺
京成線・中山で下車。こじんまりした駅舎。駅前から続く参道を進み黒門に。法華経寺の総門。山門の朱塗りに対し、黒塗りのため、この名前がついた。江戸時代の中ごろに作られた、と。朱塗りの山門・赤門をとおり境内に。祖師堂、法華堂、五重塔、四足門といった堂々とした堂宇が並ぶ。法華経寺は日蓮上人の遺品が多く残されていることで知られる。
この寺は、日蓮に帰依した若宮の領主・富木(とき)常忍が館内に立てた法華寺と、中山の領主・大田乗明の子・日高がおなじく館内に建てた本妙寺を合体してひとつの寺、としたもの。常忍は日蓮入滅後、出家し「日常」と号し、開山上人となる。祖師堂は特徴的な屋根をもつ大堂。ふたつ並べた比翼入母屋造りが印象的であった。このお堂は、いい。法華経寺の直ぐ傍にある塔頭のひとつ、浄光院に訪れ中山を後にする。

八幡不知森
京成電車に乗り、本八幡に戻る。駅を南に進み、千葉街道・国道14号線に。東に進み市川市役所の手前に「八幡不知森」。「やわたしらずのもり」と呼ばれ、ここに入れば再び出ること叶わず、とか、祟りがある、といわれていた。広辞苑にも「八幡の薮知らず」として「出口のわからないこと」の意味で使われている、とか。とはいうものの、現在では、街道沿いに、こじんまりとした竹薮として残るだけ。
「薮知らず」は「八幡知らず」が転じたのだろう、と言われる。
あれこれ由来はあるが、最も有名なものは、平将門の祟りがあり、この地に入るべからず、という言い伝えを馬鹿げたもの、とこの地に入った光圀公が薮に入ったところ、白髪の老人が現れ、戒めを破ることなかれ、と戒めた、とか。この話が錦絵となり、この地が一躍有名になった。
『江戸近郊ウォーク;村尾嘉陵(小学館)』にも「八わたしらず」の記述がある;「道の南側に、八わたしらずという木立がある。四方に垣根をめぐらして、人が立ち入れないようにしてある。中に少し窪んだ所がある。ここに入った人は必ず死ぬという。時として、瘴気を発することがあるためであろう。上総にもここと同じような所があり、酢を熱く煮立てて、それを藁に沁み込ませ、それを撤き散らしんがら行けば、なんの問題もないという」、と。瘴気とは、本来、熱病などを引き起こすと考えられていた毒を帯びた空気のこと。言い伝えはそれとして、人々は合理的な解釈をしていたようだ。こういった言い伝えができたのは、この地が行徳の入会地であり、そのため八幡の住民はみだりに入ることが許されず、八幡不知として、祟りに話を広めたのであろう。

葛飾八幡宮
「その道の北側に八幡宮がある。宮居を朱に塗り、神さびた雰囲気があって尊い感じがする。社頭の左に古木の銀杏の樹がある。かつてここを詣でた時にはこずえが高く立ち伸びていて、雲にかかるほどであった(中略)。石の鳥居、そして楼門がある。その東に小社がある。その傍らに桜が一本あり、春にはさぞかし華やかであろうと思われる」と『江戸近郊ウォーク;村尾嘉陵(小学館)』に描かれているのが葛飾八幡宮。
寛平年間というから、9世紀末、宇多天皇の勅願によって京都・岩清水八幡宮を勧請したもの。頼朝、道潅、家康など武人の祟敬を受けた。神木である巨樹「千本公孫樹木(せんぼんイチョウ)」は国指定の天然記念物。これて、村尾嘉陵がメモした古木の銀杏のことであろう。「江戸名所図会」には「この樹に小蛇がすみ、毎年8月15日の祭礼のとき数万の小蛇が現れる」と。はてさて。

永井荷風終焉の地
八幡不知を離れ、京成・八幡駅に向かう。駅の北、菅野の地に、永井荷風終焉の地がある、とか。それらしきところを探し回ったが結局見つけることはできなかった。散歩大好き人間としては、散歩エッセーとして有名な『日和下駄』の作者でもあるので、少々残念であった。昭和21年の借家住まいからはじまり、友人宅の間借り、そして昭和34年、買い求めた古屋で独り寂しくなくなるまでこのあたりに住まいした。浅草の歓楽地に「日参」したのも、この地からであろう。また、この菅野の地にはほかに幸田露伴などの文士が居住した、と。

真間川
市川市北部の台地と千葉街道の間は、かつては真間の入り江であったところ。この菅野も、文字とおり、「スゲ」などが一面に密生した湿地帯、だったのだろう。明治末期に、排水が悪く、すぐ氾濫するこの地を耕地に変える事業がおこなわれた。そのため、真間川の流路を改修し、原木から東京湾に流れるようにし、大いに排水が促進されるようになった、とか。
実のところ、真間川の流れに「当惑」していた。地図を見ると、西は江戸川につながり、南は東京湾に繋がっている。堀でもなければ、こんな川、って有り得ない。散歩・散策を好み、この真間川を愛した荷風も同じ思いを抱いたようだ。


数ヶ月前池袋・雑司が谷近く、明治通り沿いの古本屋で見つけた『永井荷風の東京空間;松本哉(河出書房新社)』の中にこうった記述がある;「この流のいづこを過ぎて、いづこに行くものか、その道筋を見きわめたい」とずっと辿っていった、という。そのときの有様を晩年の最高傑作と言われる随筆『葛飾土産』に書いている。「片側(東端)は江戸川に注ぎ、もう一方(南端)は海に注ぐ真間川はいったいとっちに向いて流れているのか、ボクが抱いた興味はそれでした。どちらも水の出口。北の方から流れ込んでくる支流の水を双方に流していることに気づきます。しかし、実際に辿ってみると、予想通り、そんな簡単なものではありませんでした。支流との合流点でもなんでもないところで突如流れの向きを変えているのです。やはり「川は生きもの」。こういう不思議な流れ方を見届けたのがボクの「葛飾土産」でした(『葛飾土産』)」。 荷風も疑問を抱いた、北も南も、どちらも水の出口、っていうのは、改修工事の結果であった。昔は、国分川とか大柏川といった流れを集めて江戸川に流れ込んでいたのだが、排水をよくし洪水を防ぐため、海沿いの砂州を切り開き東京湾に流れる人工の法水路をつくったわけだ。その結果、川の流れが西ではなく東と言うか南というか、ともあれ逆に流れるようになったわけだ。 (「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)


真間川から大柏川に
はてさて、名所・旧跡巡りは終了。あとはのんびりと北の野趣豊かな谷津に向かうことにする。八幡地区を成り行きで北に進み真間川と交差。川に沿って東というか南に進むと大柏川と合流。真間川は南に下る。これが改修工事でつくられた放水路であろう。散歩は大柏川に沿って北に進む。
大柏川は鎌ヶ谷市の二和川、中沢川、根郷川といった支流を集め真間川に合流していた。市川学園を過ぎたあたりに大きな調整池がある。真間川流域では市街化の進行により、洪水被害が頻発したよう。この都市型水害を防ぐため、真間川水系には調整池が目につく。支流のひとつ国分川流域にも調整池があった。国分川の支流といった春木川には地下貯水池もある。
春木川がふたたび国分川の合流するところに春木川排水機構。北に目をやると、春木川と紙敷川が合流した国道464号の北で国分川分水路が西に進み坂川に合わさる。坂川が江戸川と合流するところには柳原排水機構。真間川と江戸川の合流点には根本排水機構。真間川が東京湾に合流するところには真間川排水機構。下総の台地にこれほどの排水施設があるとは想像外。自然に抗って人が住まいするようになった、そのための自然との戦いの結果だろう、か。

武蔵野線

さらに進む。武蔵野線の高架が目にはいるあたりから、西の台地が接近してくる。曾谷・宮久保・下貝塚・大野地区。台地上には曾谷城跡、安国寺、曽谷貝塚などがある。曽谷城は日蓮に帰依し安国寺を開いた、曽谷教信一族の城、と。
宮久保は台地が宅地開発で切り取られ弥生時代の宮久保遺跡は姿を消したが、縄文時代の遺跡とその周囲に貝塚が残っている。武蔵野線と交差するあたりは、東からの台地も迫ってくる。このあたりから樹枝状台地と谷津(戸)が複雑に交差する。


駒形大神宮

武蔵野線を越えると北というか西に迫る台地に大野城跡。平将門が下総西部を制圧するためにつくった出城との言い伝えはある。が、実際は戦国時代のものではないか、とも。台地上には浄光寺、法蓮寺、礼林寺といった日蓮宗、そして曽谷教信ゆかりの寺が集まる。曽谷教信って、日蓮に深く帰依し、富木常忍や大田乗明などとともに日蓮の初期の壇越として熱狂的なる支持者となった曽谷の領主。富木常忍と大田乗明は中山・法華経寺でメモしたとおり。
曽谷教信は、はてさて、どこかで聞いた覚えがあるのだが、どこだったか?そうそう、松戸の名刹・本土寺を開いた人だった。
台地を進む。殿台遺跡。縄文と弥生期の住居跡、さらには先史時代の石器もみつかった。その先に駒形大神宮。一度台地を下り、その先の台地の端に鎮座する。大野には将門伝説が多い。大野城もそのひとつだが、この神社も経津主命(ふつぬしのみこと)とともに、将門がまつられている。

大町自然観察園

成行きで先に進む。市川動植物園に。目的の大町自然観察園はこの敷地内にあるようだ。よくわからないながら先に進むと大町自然観察園に。市川で一番深く切り込まれた長田谷戸(津)の最奥部にあたる。2キロ弱の谷津のうち700mが、湧水・湿地・谷・斜面林という下総台地の典型的な自然を残す観察園として保全されている。隣接してバラ園やせせらぎ園なども整備されている。台地上は梨畑などの農地となっている。
現在は蛍の群生地もある自然観察園として保全されているこの大町自然観察園ではあるが、ここにいたるまでは、それなりの「歴史」を経ている。谷津の入口は市川北高のあたりであるが、S字形に曲がる2キロ弱のこの谷津は、昭和42年頃までは田圃が広がっていた。昭和46年頃には休耕地が目立つようになり、自然公園開設の準備が始まった。
最奥部には養魚場があった、とか。昭和56年頃には、S字形の中央の湾曲部から下流は霊園が整備され、上流部は孤島のような湿地帯として取り残されることになる。つまりは下流の水系から切り離された、ってこと。
昭和60年ころには動物園といった観光開発が進められる。平成元年には動物園開園。そのほかバラ園とか池が整備される。平成5年には鑑賞植物園開園。養魚場は半分湿地帯に戻ってしまう。平成13年頃には養魚場は完全に湿地帯に戻ってしまう。つまりは、田んぼや休耕地が広がっていた時期があり、ついで、S字形の屈曲点から下流が開発された時期があり、そして、観光開発が始まり、自然公園が自然観察園として現在に至る。大町自然観察園に「歴史あり」ってことか。とはいうものの、結果的に、湧き水の流れが網の目のように広がる湿地帯となり、野趣豊かな自然観察園となったのは素晴らしいことではあった。谷戸の北端から台地にのぼるとすぐに北総開発・大町駅。本日の予定はこれで終了。一路自宅へと。

国府台に後北条氏と里見氏の合戦跡を辿る


とある週末。午前中は雨。散歩は無理か、などと思っていた。が、午後になって晴れてきた。とっとと家を出れば、先日歩き残した市川・国府台あたりは歩けそう。
ということで、総武線市川駅に。午後2時となっていた。日が暮れるまで3時間程度ある。国府台から総寧寺、それから「じゅんさい池」へと台地を下り、北総開発・矢切駅まで歩く、といったコースを頭に描く。 

 



本日のルート:市川関所跡>国府台・羅漢の井>里見公園・ 紫烟草舎>里見公園・国府台城跡>里見公園・ 古墳>里見公園・ 「夜泣き石」>総寧寺>じゅんさい池


市川関所跡
駅を西に、江戸川の堤に向かう。「市川関所跡」が最初の目的地。国道14号・千葉街道に沿って歩く。市川橋の直ぐ北に関所跡。三代将軍・家光による参勤交代の制度などの影響もあり、この市川は房総と江戸の交通の要衝となる。当初は市川と小岩の間に「渡し」が設けられ、そのための番所が置かれていた。元禄10年(1697年)、江戸から佐倉に通じる街道のうち、八幡までを官道として道中奉行が直轄することになり、番所が「関所」にステータスアップとなった、とか。
とはいうものの、『江戸近郊ウォーク;村尾嘉陵(小学館)』の「下総国府台 真間の道芝」に「市川の関」の記述があるのだが、そこには、「伊那友之助という御代官の守っている所である。しかし、関とは名ばかりで、入る方も出る方も、杉の丸木で門を造ってあるだけで、留めるものはなにもない。これも現代の安泰を示すめでたいことであろう」と、ある。このエッセーが書かれたのは1807年。「入り鉄砲と、出女」を極めて厳重に取り締まっていた関所も、今は昔となっていた、ということ、か。 (「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)


国府台・羅漢の井
江戸川の堤を北に進む。国府台の台地が川堤に接近してくる。小岩散歩のとき川向こうに見える台地が気になり、しかも歴史的にも国府台合戦などの舞台となった城址があるわけで、いつか歩いてみたいと思っていた。やっとその地に足を踏み入れることになる。少々、心弾む。
遊歩道だけを残し、崖と川筋が接するように続く。遊歩道が車道にあたるところから台地の坂にとりつく。坂の途中に「羅漢の井」。弘法大師が見つけたとか、祈った結果湧き出した、とか、あれこれ由来はある。「江戸名所図会」に「総寧寺羅漢井」と紹介されているくらいなので、結構有名であった、よう。

里見公園・ 紫烟草舎
坂を登りきり、「里見公園入口」に。この公園には戦時中、高射砲陣地があった。また陸軍司令部を建設中に終戦となり、その後昭和34年に里美公園となった、とか。城址に向かう。といっても、これといった案内も見つからなかったので、成行きで崖の方に進む。
「紫烟草舎」が登場。あれ、これって、白秋の住まい跡。昨年、小岩を歩いていたとき、北小岩8丁目の八幡神社に白秋の歌碑があった。そのとき、小岩にあった住まいが江戸川の改修工事にひっかかり、市川に移した、ってことをメモした。それがこの「紫烟草舎」。ここで出会うとは予想外の展開。白秋ファンとしては望外の喜び。
ちょっと調べると、小岩に移る前にはもともと市川・真間に住んでいた、とか。大正5年、真間の亀井院の庫裏に、江口章子と暮らしていた、と。「葛飾閑吟集」には『葛飾の真間の手児奈が跡どころその水の辺のうきぐさの花』などの歌を残している。小岩に移ったのはその後のこと。1年2ヵ月ほど小岩で暮らした、よう。その住まい「紫烟草舎」が上記理由により、この地に移った。真間と小岩で暮らした生活は、白秋の人生や詩作の転機になったといわれ、『白秋小品』『童心』『雀の卵』『雀の生活』『白秋小唄集』『二十虹』などの作品として残されている。
ちょっと寄り道。江口章子と暮らしたこの時期は白秋の再生の時期だった、とも。『邪宗門』で一躍時代の寵児となった白秋が、隣家の人妻・松下俊子と恋に落ち、姦通罪で拘置され、一瞬のうちにその地位・名誉を失う。「城ヶ島の雨」はそういった、傷心の時期に詠まれたもの。そう思えば、この歌詞の味合いも、ちょっと違ってくる、かも;「雨はふるふる 城ヶ島の磯に 利休鼠の雨がふる雨は真珠か 夜明けの霧か それともわたしの忍び泣き船はゆくゆく 通り矢のはなを ぬれて帆上げたぬしの舟ええ 舟は櫓でやる 櫓は唄でやる 唄は船頭さんの心意気雨はふるふる 日はうす曇る 舟はゆくゆく帆がかすむ」。 ともあれ、松下俊子と結婚するも、それも長く続かず、その離婚をまって江口章子と結婚することになる。この真間・小岩でのふたりの関係も長くはつづかず、念願の洋館を小田原に建てたころには江口章子は白秋のもとを去ることになる。その後、谷崎潤三郎のもとに走るなど、江口章子の「人生」をメモしはじめたキリがない。このあたりで散歩に戻る。

里見公園・国府台城跡
崖のほうに進む。いかにも土塁跡といった雰囲気の地形。この土塁の外側を空堀が囲っていたようだ。これが「国府台城」跡。文明11年(1479年)、太田道潅が開いた、と。石浜城主・千葉自胤を助け、長尾景春に呼応した千葉孝胤を攻める際に着陣したのが、はじまり、とか。その後この地では第一次、第二次国府台合戦の舞台となる。
天文7年(1538年)、小弓公方・足利義明、舎弟頼基は久留里城・里見義堯ら房総勢一万余騎を従え関宿城攻撃のために北上し、国府台城に着陣。江戸城を進発した北条氏綱・氏康勢ら二万騎とこの地で対陣した。里見軍に戦意なく、足利義氏はほとんど「単騎」突撃の末に戦死、里見軍をはじめとした房総勢は義明を見殺し。安房に退却。これが、第一次国府台合戦。小弓公方は滅亡。北条は下総を手中に。里見も小弓公方の領地・上総を手中に収め、領地を拡大する。
千葉自胤と千葉孝胤の整理;千葉自胤は武蔵千葉氏。もとは千葉宗家。鎌倉公方、後の古河公方・足利成氏と関東管領・上杉氏の争いで上杉方についたが、成氏方についた千葉の豪族・原氏や馬加氏に破れ武蔵に逃れることになる。一方の千葉孝胤は千葉宗家を滅ぼし、千葉宗家を継いだ馬加氏の子孫。 第二次国府台合戦は永禄6年(1563)年のこと。武田信玄の攻める上州倉賀野城救援のため上杉謙信が厩橋城に着陣。岩槻城の太田資正、佐貫城の里見義弘らに兵糧調達を命じる。里見・太田軍は市河津付近で調達活動開始。その情報を入手した北条氏康・氏政・氏照・氏邦は2万の軍勢で進撃、永禄7年(1564)年、国府台城周辺で里見・太田軍八千と戦闘。北条軍は先鋒の遠山丹波守綱景、富永三郎左衛門尉康景らが渡河作戦で討ち死するなど、里見・太田軍が序盤戦有利に展開。北条方の武将140名、雑兵900名ほどが戦死した、と『江戸近郊ウォーク;村尾嘉陵(小学館)』にある。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)

 初戦の勝利に里見方に油断が生じる。東方の真間付近に迂回した北条綱成らの急襲を受け里見・太田軍は壊滅的な損害を受けて退却した。三千名の戦没者を出した、と『江戸近郊ウォーク;村尾嘉陵(小学館)』に。これが第二次国府台合戦。北条と総越同盟の直接対決であったと言える。里見勢は下総・上総の支配権を失う危機的状況。上杉勢は身動きできず、北条勢の勝利と相成った。で、天正十八(1590)年の北条討伐後、家康の江戸入封に従い、江戸俯瞰の地にあたる国府台城は廃城となった。江戸城を見下ろす場所にある城は不可、ということであった、とか。

里見公園・ 古墳
土塁跡をぶらぶら歩いていると、小高い丘。如何にも古墳跡といった雰囲気。登っていくと、そこに2基の箱式石棺が露出してある。ここが「明戸古墳石棺」。前方後円墳の後円部に相当する。古墳時代後期、というから、6世紀後半から7世紀はじめのものと推定されている。道潅がこの地に陣を築いた際、盛り土が取り除かれて地表にあらわれた、とか。
古墳跡を離れ、土塁の「尾根道」を公園入口のほうに戻る。途中に「里見諸将群霊墓」。第二次国府台合戦で戦死した里見方将士の数は三千名以上にもなったという。200年以上も弔う者とてなかったようだが、文政12年(1829年)になって、3基の墓というか塚がつくられた。

里見公園・ 「夜泣き石」
おなじ場所に「夜泣き石」。第二次国府台合戦で討ち死にした里見広次の娘が、父の霊を弔うべくこの地に。あまりの凄惨な光景に、泣き崩れ、そのまま息絶えてしまった。
『江戸近郊ウォーク;村尾嘉陵(小学館)』にこの夜泣き石の記述がある;「東の竹垣の外に卵塔がある。その中に二尺ほどの大きさの石で、人がうづくまっているような形に蓮華座に据えてあるのが見える。夜啼の石、という。当寺(総寧寺)の某和尚の時に、山の鬼哭を聞いた。その場所を探し当ててそこを掘ってみると、この石がでてきた。それで塚を造ったら哭く声がやんだ」という。もともとは、総寧寺の境内にあったようだが、いつのころからかこの地に移された、と。

総寧寺
里見公園を離れ、総寧寺に向かう。曹洞宗のこの寺は、もともとは、永徳3年(1383)に近江源氏の佐々木六角氏頼により近江に創建された、もの。天正3年(1595)に北条氏政により、関宿宇和田(埼玉県幸手町)に移転。しかし、この地は洪水に遭うことしばしばで、寛文3年(1663年)、家綱のときこの地に移ってきた。寺領は128石あまりであるが、幕府はこの寺を関東僧録寺とし、歴代住職には十万石大名の格式をもって対処した、と。現在は小ぶりな寺域となっているが、江戸期には里見公園から真間山下にまでおよぶ広大なものであった、とか。
寺の入口にはその格式ゆえの「下馬」の碑が残る。『江戸近郊ウォーク;村尾嘉陵(小学館)』にも、「下馬の表示から大門まで1丁(110m)余り」、と書かれている。また、その大門は「故水戸の西山公(徳川光圀)が、当時の住職である、一間和尚のために建立したもの瓦葺きで、建物は黒く塗ってある」と。また、続けて、「一間は西山公の甥の縁続きの人である。この人には大計があり、曹洞一門の総本山になることを図ったが、批判を受け、戒律により処罰を受けた」とある。総本山になることはなかったようだが、関東僧録寺であった」、と。

僧録寺って、幕府の禅宗に対する統制政策として設けられたもの。1619年、僧録が新設。金地院僧録、とも呼ばれたように黒衣の宰相・金地院祟伝が任命される。が、この制度は禅宗五山派にしか影響が及ばなかったようだし、祟伝没後は、幕府の宗教政策としては寺社奉行が設けられるなどして、僧録の権限は大幅に縮小されるようになった、と。結局は「本山・末寺制度」などの整備で仏教に対する政策を実行していった、とか。
本堂左手に大きな五輪塔。若くして逝った関宿城主・小笠原政信夫妻の供養塔。 里見公園はもともと、総寧寺の境内であった。が、明治になって、この地に大学をつくる計画があった、とか。総寧寺が現在の地に移る直接のきっかけはこの施策。が、結局は大学がつくられることはなかった。実現しておれば、東大クラスの国立大学がこの地に誕生したことであろう。で、その跡地に目をつけたのだが陸軍。都内というか東京市内に点在していた陸軍教導団、陸軍の下士官養成機関、をこの地に設置した。明治19年には兵営が完成した、と。現在のスポーツセンターのあたりは練兵場であった。
明治32年、下士官制度改正にともない教導団廃止。跡地に野砲16連隊。日露戦争では旅順や奉天の会戦に参戦し目ざましい戦果を挙げる。その後、野砲14,15連隊もこの地に移る。終戦まで国府台は軍隊の町であった。

じゅんさい池
総寧寺を離れ、次の目的地「じゅんさい池」に向かう。東に進み、松戸街道に。成行きで国府の坂を下ると、国分の台地との間に深く切り込まれた谷津、というか谷戸がある。ここに沼があり、じゅんさいが生えていたことから、この「じゅんさい池」という名前がついた。
昔は、じゅんさいを出荷したようだが、昭和の初期には沼が干上がり、じゅんさいは絶滅した、と。その後田圃となったが、汚染が激しくなり泥沼の状態となる。昭和54年、地元の人の要望をうけ、公園として整備された。現在は昔の谷津が残され、斜面林とともに、心なごむ景観をつくっている。ちなみに、じゅんさい(蓴菜)は睡蓮科の植物。澄んだ池や沼に生える水草。茎と葉は粘膜でつつまれ、ぬるぬるしている。若葉を食用にする。
じゅんさい池の遊歩道を進み、谷津の最奥部あたりで再び台地に取り付き、松戸街道に戻り、道なりに進み北総開発・矢切駅に到着。本日の予定終了とする。
寄居から釜伏峠を越え、日本水源流点に
釜伏峠を越えた。過日、秩父往還を実感しようと川越道・粥新田峠を歩いたのだが、釜伏峠も秩父往還・熊谷道。そのうち歩いてみようと思っていた。

で、先日、寄居散歩のとき、県道294号線脇に「釜伏峠」そして「名水日本水源流点」の案内を見つけた。秩父往還への強き思いもさることながら、川とか源流点とか清水、というだけで嬉しくなる我が身としては、はやる気持ちを抑えがたし、といった按配であった。 

 


本日のルート;東武東上線・寄居駅>関所跡>釜山神社>奥の院から日本水源流地点>日本水源流点>日本(やまと)の里>秩父鉄道・波久礼(はぐれ)の駅>少林寺

東武東上線・寄居駅

土曜日。9時起床。ちょっと遅いかとも思いながら釜伏峠行きを決める。池袋より東部東上線小川町行き急行に乗る。急行とはいいながら、川越から各駅停車。小川町で寄居行きに乗り換え。到着したのがお昼過ぎ、であった。 秋山・釜伏峠への分岐点 駅前の観光案内所でパンフレットを手に入れる。が、釜伏峠方面の地図はしっかりしたものがない。仕方なし。駅前から県道294号線・登山口への分岐までタクシーを利用。3キロ以上もあるし、先回歩いた道筋でもあるので、カットしようと思った次第。タクシーで鉢形城公園脇を走り、秋山の釜伏峠への分岐点に。ここから峠に向かって上ることになる。登山道、とはいいながら、この道は車道。峠に上る車も結構走っている。
中間平
曲がりくねった道を上っていく。およそ2.5キロ程度進むと「中間平」。別方向から中間平に登ってくる道がある。これって、本来の熊谷道かもしれない。あれこれ調べてみると、熊谷道って、現在の八高線が荒川を渡るあたりに「渡し」があり、そのあたりからこの中間平に向かっていたようだ。
中間平には緑地公園もある。公園には行かず、展望台で小休止。車やバイクで登ってきた人達も幾人かいた。寄居の町が眼下に。車山、荒川にかかる正喜橋などが見える。素晴らしい展望である。 少し休み、釜伏峠へと進む。およそ2.7キロ、と。「中間平」とはよく言ったものである。勾配も心持ちきつくなった、よう。峠から降りてくる車も結構多い。途中、「ポピーの花、咲いてました?」などとドライバーに聞かれたりする。まったくもって、花を愛でる情感が少々乏しい我が身には、何のことやらさっぱりわからず。

関所跡
少々汗をかきかき峠へと進む。途中「関所跡」。説明によれば、この関所は他の関所とは役割が違ったようだ。通常関所って、「入り鉄砲 出女」の監視といったものである。が、ここは険路であるこの釜伏峠を上る旅人・巡礼者を助けるためのものであった、よう。関所を越えてしばらく進むと釜伏峠に。
釜伏峠
峠道には車が多い。粥新田峠近くから、「ふれあい牧場・秩父高原牧場」、二本木峠を経て尾根道を進む県道361号線が釜伏峠に続いている。また、国道140号線のバイバス・皆野長瀞ICあたりから三沢川を上り、芳ノ入からこの峠に登る車道、それと、秩父鉄道・波久礼方面から風布地区を通りこの峠に上る道、この三つの車道がこの釜伏峠で合流している。
道路が交差するところにある道案内をチェック。大雑把な道案内であり、はてさて、日本水(やまとみず)へのルートがよくわからない。釜山神社が近くにあるようで、その近くに日本水源流点があるようで、といった、心もとない案内図。EZナビで「日本水 寄居」で検索。ヒット。ナビをたよりに歩を進める。

釜山神社
歩き始めると、すぐそばにいかにも神社らしき雰囲気の空間。釜山神社って、もっと道からはなれた山に入らなければ、と思っていたので、予想外の展開。ナビを切り、神社参道に。
釜山神社の起こりは不明。伝説によると、紀元504年、第九代開花天皇の皇子が武蔵を巡幸したとき、この地で国家安康を祈った、とか、紀元770年頃、日本武尊がこの地に立ち寄り、神に供する粥を釜でたき、その釜を伏せて祈った。ために、釜伏山であり、釜山神社である、と。別の説もある。この山の形が釜を伏せたように見えるから、とも。
神社の狛犬はここでは山犬というか狼。これって、秩父の三峰神社の流れ、か。火災除け・盗難除けに効能あり、とするのも三峰神社に同じ。
それにしても秩父には日本武尊の話が多い。先般の粥新田もしかり。また粥新田峠からこの釜伏峠の途中にある二本木峠は、日本武尊が地面に突き刺した箸が木になったから、と。秩父と日本武尊の関係をそのうちに調べてみよう、と思う。
奥の院から日本水源流地点
お参りを済ませ本殿脇を見ると「奥の院から日本水源流地点」への案内図。車道を通る道ではなく、山道コースのよう。本殿のペンキ塗りをしていた地元の方に道を尋ねる。「先に進みT字路を右に行けばいい」、と。途中に、「ハイキングスタイル必須」といった案内。軽く考えたのが大間違い。
山頂に向かってどんどん登る。結構な岩場。予想外の展開。グングン、上に上にと引っ張られる。痛めた膝にこれでもか、といった負荷がかかる。結局奥の院って、山頂に鎮座していた。石の祠、であった。 (「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)

急峻な下り道

奥の院・山頂から先はまさしく急降下、といった急峻な下り道。岩場に鎖やロープがある。とんでもないところに来たものだ、と少々弱気に。釜山神社に寄り道せず、車道を下っておれば、などと考えながら、とりあえず直滑降で下る。しばらく悪戦苦闘の後、「日本水源流点へ40m」の案内。ほっと一安心。

日本水源流点へ40m
案内板をチェック。岩盤崩落の危険あり、と、立ち入り禁止のお知らせ。釜山神社の日本水への案内板に、それらしきことが書いてあった。が、それは、日本水へ向かうルートに通行禁止のところがある、といった程度にしか読めなかった。ここに来て「不可」とは殺生。それも40m先に目的地がある、という。

日本水源流点
少し悩んだ。が、結局どういう状態かちょっと入ってみよう、ということにした。危険であれば即引き返す、といことで進む。日本水の源流点はすぐ着いた。百畳敷岩とよばれる垂直に切り立った巨大な岸壁。その間から流れ出している水をペットボトルに入れ、即撤収。

尾根道ルートを下ることに
元に戻る。案内板をチェック。道は2ルート。日本水源流点を経て下に下る。これが、逆に言えば車道から入ってくるルートなのだろう。それと、尾根道を下るルート。どちらにしようか、と少々悩む。結局尾根道ルートにしたわけだが、これがなんともはや、といったルートであった。

道に迷う
尾根道ルートには途中、風布だったか、どこだったか、ともあれ里まで750mといった案内があった。それを目安に道を下る。次第に道がわかりにくくなる。が、なんとか先に道は続く。しばらく進むと道筋が全くわからなくなった。ここで引き返すか、もっとよく道筋を調べればよかったのだが、なんとかなるだろう、と力まかせで下に進む。
杉の木立に赤いリボンが結ばれている。どう見ても、道などないのだが、リボンを目安に下ればなんとかなるかと思い、とりあえず進む。次第に状況は悪くなる。リボンも見当たらなくなった。勾配もきつくなる。斜度45度以上と思えるほどの急峻な山肌をころびつつ、まろびつつ「落ちる」。少々パニック。
状況はますます悪くなる。先に進もうにも木立、ブッシュが前を遮る。木立を折り、ブッシュを掻き分け進む。どうなることやら。気持ちは焦る。ひょっとしたら、にっちもさっちも、いかなくなる、との怖れ。が、先に進むしか術はなし。 直滑降で真下に進む。先は谷地。行き止まり。谷があれば川があろうと、谷筋に沿って川下に向かう。木立を掻き分け、ブッシュをなぎ倒し、とりあえず先に進む。気持ちが焦る。何度転んだかわからない。秩父で遭難って洒落にならん、と思えども、携帯も繋がらないし、こんなところで人が迷っているなど、誰も思わないだろうし、家族にはどこに行くとも言っていないし、どうしたもんだ、と、頭の中はパニック状態。 









里が見えた
と、下のほう、木立の間に、すこし屋根のようなものが見えた。実際は屋根でもなんでもなかったのだが、力任せにそこに向かう。突然、里が見えた。木立を折り、なんとか里に出る。汗びっしょり。言葉が出ないほど消耗。畑のむこうに車道が見える。あとからわかったのだが、国道140号線バイパス寄居・風布IC入口付近。寄居で一度トンネルに入ったバイパスは、この地で一度開け、再びトンネルに入る。バイパスのトンネルの上で悪戦苦闘をしていたのであろう、か。


里に下りる
それにしても、ほんとうにこの尾根道って、登山ルートであったのだろう、か。案内にはそのように書いてはあったと思うのだが、この道は絶対道に迷う。実際、HPなどでルートをチェックしてみると、「地図をもっていなければ迷う」といったコメントもあった。そんなところを案内するのは如何なものであろうか。ともあれ、自然に手を合わせる。神仏にマジ感謝。
ほとんど呆けた状態でフラフラ歩く。しばらく歩くと少し大きな車道。この道は、釜伏峠から下る道。本来であればこの道を下ってきたのだろう。釜山神社に寄り道しなければ、この道を楽しく下ってきた、はず。が、今となってはあとの祭り。

日本(やまと)の里

このあたりは「日本(やまと)の里」、と。日本武尊との由来があるのだろう。が、当面、何を見る気力もなし。しばらく進むと休憩所。食事ができる。実も世もないといった状態でお店に。うどんを注文。人心地ついた。うどんがおいしかった。腰がある。秩父うどん、って、あなどれない。
また、ここに田舎饅頭があった。ゆっくり、じっくり休み、気持ちを鎮め、お土産に饅頭を買い求め店を出る。お店で茶飲み話をしていた地元のおばあさんに、遭難するところでしたよ、などと笑いながらも少々の同感を求め訴えるも、一笑に付される、のみ。なにが嬉しくて、また、なにが悲しくて、薮の中を歩き廻るのか、私達にはわからない、といった顔つきでありました。

釜伏川を下り、秩父鉄道・波久礼(はぐれ)の駅
休憩を終え、川に沿って下る。風布川かと思っていたのだが、釜伏川であった、よう。2キロ弱歩き荒川にかかる寄居橋に。川の流れはない。玉淀ダムの貯水池となっている。秩父鉄道・波久礼(はぐれ)の駅は近い。よっぽどこのまま電車に飛び乗り家に帰ろうか、とも思ったのだが、最後の締めは、五百羅漢の少林寺としようと、もうひと頑張り。橋の袂から2キロ弱、といったところ。

少林寺
国道140号線を進む。車の通行量すこぶる多し。歩道がはっきり分かれているといったところが、あったり、なかったり。その都度、少々怖い思いをする。しばらく進むと、国道から離れる。一安心。末野地区を進む。
山間に進むと少林寺。本堂自体はそれほど大きくはない。このお寺に来たのは、五百羅漢さまに会いたいため。境内のどこに、と探す。本堂脇から裏手も山にのぼる道が。
山道を進むと道脇に石つくりの仏様。荒削りの小さな羅漢、道にそって絶えることなく続く。九十九折れの山道を羅漢様のお顔を見ながら進む。夕暮れとなり、日蔭の道は薄暗く、どうとも、思わず手を合わせてしまう。本日の遭難寸前といった状況に対し、思わず知らずご加護を感謝する、といった思い。それほど信心深いわけではないのだけれども、まかり間違えば、といった状況から運良く、ほんとうに運がよかったということであるのだが、その幸運に対して大いに感謝する。

五百羅漢さま

道端の羅漢像は山頂まで続く。円良田湖とか、鐘撞堂山へのルートもあるが、時間もないので本日はこのあたりで散歩を終える。それでも、先回の寄居散歩のとき少林寺の羅漢様を見ようと途中まで歩いたのだが、日没のため中止。少々心残りでもあったが、これで十分満足。本日の予定はこれで終了。
寄居の駅に向かって歩き、一路家路へと急ぐ。ともあれ、本日は結構危なかった。気をつけなければ、と。そして、せめては、どちら方面に行く、といったことは家族に伝えて出なければ、と反省しきり。
先日の寄居散歩の途中、気になっていた地名、武蔵嵐山・小川町・男衾あたりの地図を眺めていた。と、武蔵嵐山に県立歴史資料館のマーク。

菅谷館跡も近くにマークされている。菅谷館って、鎌倉武士の亀鑑・畠山重忠の館跡。歴史資料館があるということは、そこに行きさえすれば、なんらかの新たなる「発見」もあろうかと、例によって前もってなにも調べず、お気楽に武蔵嵐山に向かう。

この地が木曾義仲ゆかりの地であったことなど、そのときは知る由も、なし。 

 



本日のルート;東武東上線・武蔵嵐山>道254号線>県立歴史博物館>畠山重忠の館跡>都幾川>槻川>鎌形八幡宮>班渓寺>渓流・武蔵嵐山>平澤寺>東武東上線・武蔵嵐山


東武東上線・武蔵嵐山

東武東上線・武蔵嵐山下車。駅前で軽く昼食、などと思っていたのだが、それらしきレストランなど見当たらない。閑散としている。商店街もほとんどシャッターが閉まっており、まことに静かなるものである。駅前で観光案内をチェック。菅谷館の案内。そのほかに、木曽義仲産湯の清水とか義仲の妻・山吹姫の墓といった案内があった。 北陸・倶利伽羅峠を歩き、木曽義仲のあれこれを調べたとき、木曽義仲って、木曽で育ってはいるが、生まれは奥武蔵(外武蔵?)であったことを思い出した。思いがけなく義仲の登場。畠山重忠ゆかりの地を歩く、といった思いでこの地に来たのだが、源平争乱の雄・義仲が現れた。行き当たりばったりの散歩の醍醐味ではある。急遽、重忠&義仲ゆかりの地を巡る散歩とする。 (「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)

国道254号線
平屋建ての家並みの多い商店街を北にすすむ。国道254号線と交差。この国道、東京都文京区から埼玉、群馬を経て、長野県松本市に通じる。昔は、川越街道・川越児玉往還・信州街道とも呼ばれていた。国道254号線を越え、更に南に進む。菅谷中学校、菅谷小学校の間を抜けると大きな道。これも国道254号線。先ほどの道筋が旧道で、この道筋はバイパスとしてつくられたのであろう、か。

県立歴史博物館

国道を渡ると菅谷館跡。館跡の入口にある県立歴史博物館を訪ね、この地の歴史の概略を頭に入れる。菅谷館は鎌倉時代に畠山重忠が構えた館をその始まりとし、戦国期に小田原北条氏により館から平城へと拡張されていった。この地は鎌倉街道に面する交通の要衝でもある。元久2年(1205)武蔵二俣川の合戦の際、畠山重忠はこの館より鎌倉街道を下っていった、と『吾妻鏡』にある。また、1488年(長享2)には、近くの須賀谷原で、山内・扇谷両上杉氏が戦い戦死者700名、傷ついた馬数百等にもおよんだ、という事である。

畠山重忠の館跡
館跡を南に進む。遺構の規模も大きい。館跡は台地上にあり、南は都幾川によって浸食され屹立した崖。東と西は幾筋もの谷が走り外堀となっている。この館というか城跡は地形をうまく活かし、高い土塁と空掘に囲まれた縄張がおこなわれている。 土塁の規模も大きく、高さ12mにもなるものも、ある。本郭は南の崖線に近いところ。それを囲むように二郭・三郭・西郭・南郭の四つの郭が配置されている。こういった縄張りは小田原北条氏によるものであろう。さきほどの県立歴史博物館は二郭と三郭の間に建つ。二郭門の後にある土塁上には畠山重忠の像がある。

畠山重忠のあれこれ;頼朝のもっとも信頼したという武将。が、当初、頼朝と戦っている。父・重能が平氏に仕えていたため。その後、頼朝に仕え富士川の合戦、宇治川の合戦などで武勇を誇る。頼朝の信頼も厚く、嫡男頼家の後見を任せたほどである。 頼朝の死後、執権北条時政の謀略により謀反の疑いをかけられ一族もろとも滅ぼされる。上にメモした二俣川の合戦がそれ。
きっかけは、重忠の子・重保と平賀朝雅の争い。平賀朝雅は北条時政の後妻・牧の方の娘婿である。恨みに思った牧の方が、時政に重忠を討つように、と。時政は息子義時の諌めにも関わらず、牧の方に押し切られ謀略決行。まずは、鎌倉で重忠の子・重保を誅する。ついで、「鎌倉にて異変あり」との虚偽の報を重忠に伝え、鎌倉に向かう途上の重忠を二俣川(横浜市旭区)で討つ。
討ったのは義時。父・時政の命に逆らえず重忠を討つ。が、謀反の疑いなどなにもなかった、と時政に伝える。時政、悄然として声も無し、であったとか。 その後のことであるが、この華も実もある忠義の武将を謀殺したことで、時政と牧の方は鎌倉御家人の憎しみをうけることになる。
「牧氏事件」が起こり、時政と牧の方は伊豆に追放される。この牧の方って、時政時代の謀略の殆どを仕組んだとも言われる。畠山重忠だけでなく、梶原景時、比企能員一族なども謀殺している。
で、最後に実朝を廃し、自分の息子・平賀朝雅を将軍にしようとはかる。が、それはあまりに無体な、ということで北条政子と義時がはかり、時政・牧の方を出家・伊豆に幽閉した、ということである。

都幾川
主郭に続く土橋を渡り都幾川へ下る崖線に向う。崖を下り、「ホタルの里」とか「蝶の里公園」の中を歩き、都幾川(とき川)に。都幾川の源流は比企郡ときがわ町大野地区。標高400mから900mという秩父山地東部の山間からはじまり、菅生のある比企郡小川町を経て東松山に進み、比企郡川島町長楽で越辺川と合流する。

槻川
この都幾川に秩父郡秩父村を源流とする槻川(つきかわ)が合流する地点にかかる二瀬橋を渡り、都幾川の堤防を南に下る。右手は山間の景観、左手は畑地、堤防は桜堤。ゆったりした時間が流れる。千騎沢橋を越え、八幡橋に。八幡橋を渡れば鎌形八幡宮に着く。


鎌形八幡宮
鎌形八幡宮は坂上田村麻呂が創建したとされる。代々源氏の氏神として尊祟された、とか。現在は、少々寂しい構え。往時の面影を偲ぶのは少々むずかしい。社にむかって右側にいかにも湧き水といった小さな池。境内の手水場に注がれる水は「木曽義仲産湯の清水」とあった。
義仲の生まれたところは比企郡嵐山町にある大蔵館。父・義賢の館である。鎌形神社から1キロほど東。ということは、このあたりに別邸でもあったのだろう。 義仲の父・義賢は帯刀(たてわき)先生と呼ばれる。帯刀の長ということ。で、帯刀は皇太子の護衛官である。義賢はもともと京都の堀川にある源氏館にいた。が、義賢の父・為義と争い相模に下っていた兄の義朝に抗すべく、上野国大胡の地を領する。大蔵に館を構えるのはその後のこと。
義朝の長男・義平が大蔵館を急襲し義賢を討ったのは、義賢が大蔵の地に移ったことと関係ありそう。相模,上野と互いに威をとなえ、バッファー地域であった武蔵の地に移った義賢の動きに危機感を抱き、事を起こすことになったのだろう。 父義賢を討たれた遺児駒王丸こと義仲を助け木曽に逃がしたのは畠山重忠の父・重能と斉藤実盛。斉藤実盛は武蔵の国・長井庄というから、いまの熊谷市が本拠。もともとは義朝派。が、武蔵に館をもった義賢に伺候した時期がある。義朝への恩義もあって畠山重能から託された駒王丸を助けたのであろう。 
木曽に逃れた駒王丸は木曽の豪族中原兼遠の庇護を受け、ために「木曽義仲」と呼ばれる。ちなみに、斉藤実盛は最後まで平家方の武将として奮戦。加賀・篠原の合戦で義仲軍に討ち取られる。命の恩人を討ち取ってしまったことを知った義仲は、涙した、ということである。命の恩人斉藤実盛を討った義仲であるが、もうひとりの命の恩人・畠山重能の息子である重忠と宇治川の合戦で戦う。義仲は武運つたなく戦に敗れ、滅びることになる。なんとも因果な巡り合わせである。

班渓寺
鎌形神社を離れ、都幾川に沿って南に進む。ほとんど農家の庭先を歩く、といった按配。すぐに川筋は西に向かって湾曲。班渓寺橋手前を北に折れる。すぐに班渓寺。お寺の前の石碑には、木曽義仲生誕の地、とある。このお寺の裏に、木曽殿館跡がある。
寄り合いがあるのだろうか、地元人の出入りが多い。少々遠慮しながら境内に。 ここには義仲の妻・山吹姫の墓がある。義仲の妻は巴御前が知られるが、山吹姫も妻のひとり。平家物語には、『木曾殿は信濃より、巴・山吹とて、二人の便女(美女)を具せられたり。山吹はいたはりあい、都にとどまりぬ。中にも巴は色白く髪長く、容顔まことに優れたり。』とある。 巴御前は女武者で有名。倶利伽羅峠の合戦では一軍を率い、勝利に貢献。京の三条河原で畠山重忠と一騎打ちをした、と『源平盛衰記』にある。中原兼遠の娘と言われる。
山吹姫も妻のひとり。木曽義仲が逃れた、木曽・中原兼遠の縁の者とも言われるが、定かではない。ともあれ、このお寺は、山吹姫が義仲との間にできた子供・義高の供養のために建てたもの、と。鎌倉散歩のときメモしたように、頼朝の娘・大姫との縁組が決まっていた義高であるが、頼朝・義仲の争いに巻き込まれ、鎌倉を逃れる。が、入間川原で追っ手によって討ち取られた。これに嘆き悲しんだ大姫のあれこれは、唐木順造さんの『あずま みちのく(中公文庫)』に詳しい。

渓流・武蔵嵐山
班渓寺を離れ北に進む。一度、鎌形八幡宮社方面へと折れ、八幡橋の手前で北に進む。ちょっと小高い丘に進むと郷土館。旧日本赤十字社埼玉県支部社屋である。木造の建物。鎌形小学校の敷地内のようであった。とはいえ、館内に入れるといった雰囲気はなく、通り過ぎる。
学校の門の前を西にすすみ県道173号線に。 渓流・武蔵嵐山へと成行きで進む。冠水橋の手前まで進む。案内板をチェック。森へと続く細い小道に入る、槻川手前に出る。崖になっており、下りることができない。
川にそって森の中を東に進む。ブッシュが生い茂り、先に進むこと叶わず。南に農家が見える。失礼とは思いながらも庭先を犬に吼えられながら抜ける。元の道に戻る。で、成行きで進み、再び冠水橋を目指す。が、着いたのは槻川に架かる槻川南詰。橋の脇に嵐山渓谷バーベキュー場。多くの家族連れで賑わっている。ここまで戻ってきてしまえば、冠水橋にいく気力なし。ということで、次の目的地白山神社・平澤寺を目指す。平澤寺には大田資康詩歌会跡がある、という。

平澤寺
県道173号線を北に進む。国道254号線と交差。国道に沿って西に向かう。JA埼玉中央農産物直売所の交差点を左に折れ、大平山方面に。登り道。適当なところで北に下りる坂道。坂道を下りきったあたりに平澤寺、そしてその裏手に白山神社。 
このお寺、現在では堂宇ひとつ、といった構えであるが、往古、七堂伽藍を誇る、大寺院であった、よう。「まぼろしの大伽藍」と言われる。裏手の丘に白山神社。境内に大田資康詩歌会跡がある。資康は道潅の嫡子。父の仇・上杉定正を討つべくこの地に陣を張る。菅谷館跡の地に館を構えていた、とも言われる。上でメモした須賀谷原の合戦にも加わっている。
須賀谷原の合戦に際し、友人・万里集九との別れの歌宴をこの神社で開いたといわれる。この禅僧は道潅とも親交があり、越生に隠居した道潅の父・道真を訪れ、歌会を開いたりもしている。集九は室町期の禅僧・歌人。全国各地を旅している。そういえば、墨田散歩の時、梅若伝説の残る木母寺に集九が訪れていたって記録があったような気もする。

東武東上線・武蔵嵐山
白山神社を離れ、国道354号線に戻り、東へ進み菅谷館跡の交差点まで戻る。後は、来た道を駅に戻り、本日の予定終了。畠山と義仲という因縁浅からぬふたりの足跡を楽しめた一日であった


粥新田峠を越え、秩父往還・川越道を秩父観音霊場一番札所に

秩父観音霊場34札所もすべて歩き終えた。最後の締め、というわけでもないのだが、秩父往還・川越道を歩き、一番札所に至る道筋を辿ろうと思った。江戸の人達が、どういう道筋、峠道を通り観音霊場を訪れるのか、実際に体験してみたい、と思ったわけだ。
 秩父往還には大きく分けて3つのルートがある。ひとつは吾野道。飯能から吾野、そして芦ヶ久保へと続く、現在の正丸峠を通る道。次いで、熊谷道。荒川が秩父盆地を離れ、武蔵の平野に入る辺りの寄居から、釜伏峠を経て秩父に入る道。
そして、今回歩いた川越道。小川町から山間の道を進み、粥新田峠を越えて秩父に入る。 川越道は江戸時代に最も多くの人が往還した道、と言う。また、この道がポピュラーになったため、川越道を下った栃谷の四萬部寺が一番札所となった、とか。それ以前は何番札所だったか忘れたが、江戸からはるばる歩いてきてくれたお客様に、どうせのことなら、一番札所から秩父観音霊場巡りを始めてもらおう、といった心配りであろう。江戸の人達と同じ風景を眺めながら、秩父観音霊場・一番札所へと歩を進めることにする。 
 



本日のルート;東武東上線小川町>橋場バス停>粥新田峠>秩父高原牧場・彩の国ふれあい牧場>榛名神社>秩父往還・釜伏道に合流>曽根坂一里塚の阿弥陀塔>秩父観音霊場1番札所・四萬部寺


東武東上線小川町
東武東上線小川町に。駅前から白石車庫行・イーグルバスに乗る。川越に本社をもつこのバス会社は、もともとは企業や学校の送迎とか観光バスを中心に事業をおこなっていたが、路線バス事業に乗り出した、ということらしい。1時間に1本のサービス。電車が到着したのは、発車10分程度前。乗り遅れたら大変、ということで、街を見物することもなくバスに飛び乗る。 小川町をバスは進む。古い家並みがところどころに見え隠れする。県道11号線を進む。この県道は熊谷市から小川町をへて、定峰峠方面へと登る。峠からは栃谷の四萬部寺近くに下り秩父市に至る、およそ48キロの道。

橋場バス停
バスは進む。下古寺というか腰越地区のあたりで槻川が接近。この川は武蔵嵐山で嵐山渓谷に流れ込んでいた川筋である。山間の道を北西に進み、東秩父村役場を越え、落合橋で大内沢川を渡ると県道は南に下る。落合橋から1キロ弱進むと橋場バス停。峠道に最短のバス停はここであろう、と当たりをつけて下車。






峠道を進み栗和田集落に

バス停から西に上る車道がある。これが峠へと続く道であろう。峠道を進む。もっとも、峠道とはいっても完全舗装。車の往来も多い。走り屋には有難い道の、よう。しばらく進むと道脇にハイキング道の案内。これが旧道。車道を離れ森の中を進む。 杉林の山道を上る。林を抜け景色が開ける。大霧山であろうか、奥秩父というか外秩父というのか、ともあれ秩父の山並みが眼前に開ける。山並みを楽しみながらブッシュを進むと車道に出る。このあたりは栗和田集落。ハイキング道はおよそ500m程度であった。ワインディングロードを避けた直登ルートといったものであろう、か。 (「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)


杉林の中を粥新田峠に
しばらく車道を進む。比較的農家が集まる栗和田地区のメーンストリートのあたり、左に入る道筋。「関東ふれあいの道」の案内。「粥新田峠」「皇鈴山CP」といった案内。CPって何だ?チェックポイントのことであった。 旧道を進む。農家が途切れるあたりから舗装もなくなる。杉林の中を進む。見晴らしはよろしくない。が、こういった道を昔の人々も歩いたのか、と思うだけで結構嬉しい。しばらく進むと舗装された林道に合流。粥新田峠に到着する。バス停からおよそ1時間で到着した。予想よりはやい展開であった。

粥新田峠
粥新田峠。「粥仁田峠」とも書かれる。坂上田村麻呂が蝦夷征伐の途中、この地でお粥を食べたとか、日本武尊が粥を食べたとか、名前の由来はあれこれ。標高は540mほど。秩父困民党が東京の鎮台軍と戦い敗れたところでもある。 峠の「あずま屋」でちょっと休憩。あずま屋脇には、大霧山への登山道。標高767mの山頂まで1時間程度、とか。大霧山から定峰峠へと抜けるルートが定番のようだ。少々惹かれはするのだが、本日は巡礼道巡り。奥秩父の山登りは別の機会とすべしと、はやる心を静める。

尾根道散歩
休憩のあと、尾根道をちょっと歩こう、と思った。当初、粥新田峠からは秩父、また小川方面・外秩父の眺望が楽しめる、と思っていたのだが、まったくもって見晴らしが利かない。南へのルートは大霧山への登山ルートであり、尾根道散歩といった雰囲気ではない。地図をチェックすると、北に「秩父高原牧場・彩の国ふれあい牧場」のマーク。北に向かって展望のいいところまで進むことにした。 峠からもと来た道を少しくだり、「二本木峠」「皇鈴山CP」の案内方向に進む。舗装道。ドライブを楽しむ人もときに見かける。しばらくは見晴らしよくない。が、少し歩き、牧場が近づくあたりから眺望が開ける。西は秩父の山並み、東は外秩父の山並み。山が深い。豊かな眺めである。

秩父高原牧場・彩の国ふれあい牧場
牧場のあたりから、三沢方面に下る道がある。その道を越え、500mほど北に進むと「秩父高原牧場・彩の国ふれあい牧場」。売店もある。実のところ、喉がカラカラであった。駅で買い求めた水をどこかで落とした。なんとか水を補給したいと少々焦っていたので一安心。 売店で水を買い、新鮮な牛乳を飲み、さらに食堂で「うどん」を食べる。これが、結構「こし」があり美味であった。お勧めである。眺望を楽しむ。大霧山の山麓、だと思うのだが、山肌がゴルフ場のように下刈りされているのは、牧場敷地であろう、か。 秩父高原牧場の敷地は広い。山稜の西の秩父郡皆野町三沢地区、東の東秩父郡坂本および皆谷地区にまたがり、二本木峠の北にある愛宕山から粥新田峠の南の大霧山稜線上に位置する。標高は270mから767m、広さは270ヘクタール、というから西武ドームの270倍にもなりという。

峠道を下る

少し休憩し、粥新田峠に戻り峠道を下ることにする。峠から100mほどはちょっとした登り。その後は、牧場脇の道をグングン下る。結構膝にくる。牧場用に保存している牧草地が美しい。それにしても秩父は山が深い。秩父市街まで幾重にも尾根が見える。秩父市街の眺望を遮るのは、蓑山であろう。標高587m。先日黒谷の和銅遺跡を訪ねたとき途中まで登った山地である。ちょっとした丘陵地程度と思っていたのだが、蓑山は結構な山容であった。

榛名神社
坂を下ると次第に人家が見えてくる。広町の家並み、か。南にいかにも武甲山といった山容の山。霞みがかかって見づらいのではあるが、武甲に間違いないだろう。途中に榛名神社。案内;室町時代の昔からこの粥新田峠は、秩父と関東平野を結ぶ主要な峠であった。この榛名神社はその中腹に祀られ、上州(群馬)榛名神社の本家とも、または姉君の宮ともいわれている。

秩父往還・釜伏道に合流

峯地区をとおり里に下りる。広町。川越道と熊谷道が分岐するこの地は、宿場町として賑わったようだ。県道82号線に合流。長瀞玉淀自然公園線と呼ばれるこの道は、昔の秩父往還・釜伏道。長瀞から、蓑山と外秩父の山々の間の谷筋、三沢川の谷筋を進み、栃谷を越えると西に折れ、大野原で国道140号線に合流する。 (「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)






曽根坂一里塚の阿弥陀塔
県道を南に進む。道の脇に「曽根坂一里塚の阿弥陀塔」。碑の中央に「南無阿弥陀仏」と刻んである。塔の左右に「みキハ大ミや」、「ひだり志まんぶ」と。右へ行くのが大宮(秩父市)道で、左が、四万部(札所一番)道、ということ。この阿弥陀塔は「道しるべ」でもありる。塔の建てられた年号は「元禄一五年」(1702)とある。江戸からの秩父巡礼の始まったのは、このころだった、とか。 道を進むと峠に差しかかる。蓑山からの稜線と外秩父の稜線が再接近するところ。湾曲した峠道を下ると秩父観音霊場1番札所・四萬部寺に到着。


秩父観音霊場1番札所・四萬部寺

山門をくぐり中へ入ると、正面奥に観音堂。元禄の頃の建築。いい雰囲気。寺伝によれば、昔、性空上人が弟子の幻通に、「秩父の里へ仏恩を施して人々を教化すべし」と。幻通はこの地で四萬部の佛典を読誦して経塚を建てた。四萬部寺の名前はこれに由来する。本尊の釈迦如来像が明治の末に、行方不明になったことがある。その後、70年をへて都内で発見され、現在この寺に収まっている、と。 本堂の右手に施食殿の額のかかったお堂。お施食とは、父母、水子等があの世で受けている苦しみを救うための法会。毎年、8月24日に、この堂で行われる四万部の施餓鬼は、関東三大施餓鬼のひとつと。大いに賑わう。ちなみにあとふたつは「さいたま市浦和の玉蔵院の施餓鬼」、「葛飾・永福寺のどじょう施餓鬼」。
 この四萬部寺、現在は一番札所である。が、昔は24番札所。札所番号が変わったのは時代状況の変化に即応した、というとことだろう。初期の札所1番は定林寺(現在17番)、2番松林寺(現在15番)、3番は今宮坊(現在14番)といった秩父市街からはじまっている。
その理由は、設立当初の秩父札所は秩父ローカルなものであったから、だろう。秩父在住の修験者を中心に、現在の秩父市・当時の大宮郷の人々のために作られたものであり、西国観音霊場巡礼や坂東観音霊場巡礼に、行けそうもない秩父の人々のためにできたから、であろう。
その後、江戸時代に、札所の番号は20番を除いてすべて変わってしまった。その理由は、秩父ローカルなものであった秩父観音霊場が、江戸の人をその主要な「お客様」に迎えることになったため、であろう。
豊かになった江戸の人たちがどんどん秩父にやってくるようになった。信仰と行楽をかねた距離としては、1週間もあれば十分なこの秩父は手ごろな宗教・観光エリアであったのだろう。秩父札所の水源は江戸百万に市民であった、とも言われる。
秩父にしっかりした檀家組織をもたない秩父観音霊場のお寺さまとしては、江戸からのお客様に頼ることになる。お客様第一主義としては、江戸からの往還に合わせて、その札番号を変えるのが、マーケティングとして意味有り、と考えたのであろう。
この栃谷の四萬部寺が1番となった理由を推論。江戸時代は「熊谷通り」と「川越通り(小川>東秩父>粥新田峠)」を通るルートが秩父往還の主流。で、このふたつの往還の交差するところがこの栃谷であったから。江戸からはるばる来たお客様に、どうせのことなら、1番札所から始めるほうが、気分がすっきりする、と考えたのではなかろうか。
栃谷からはじまり、2番真福寺を通り、山田>横瀬>大宮郷>寺尾>別所>久那>影森>荒川>小鹿野>吉田と巡る現在の札番となった理由はこういった、マーケティング戦略によるのではなかろう、か。我流類推のため、真偽の程定かならず。 粥新田峠を越え、秩父往還・川越道を秩父観音霊場一番札所に歩き、江戸の人たちの巡礼と言うか、行楽気分をちょっとシェアし、本日の散歩を終える。

岩槻は上杉方・太田道灌の戦略拠点。古河公方と対峙する 

埼玉県岩槻市を歩いた。先日、古河公方関連の地、古河市あたりを歩いたのだが、岩槻にはこの古河公方に対抗する、管領・上杉方の城があった、とか。大田道潅とも、その父である大田道真の築城になる、とも言われる。
古河公方の勢力範囲は利根川以東。上杉管領方はおおむね利根川以西。昔の荒川筋、利根川筋などが乱流する低湿地帯を挟んで両陣営が対立していた、ということであろう。
地政上の説明では、古河公方に対する、上杉方の戦略的橋頭堡は江戸城・岩槻城・川越城である、と。地形上の説明では、低湿地に屹立する台地に縄張りをしている、と。
そういえば、新河岸川散歩のときに立ち寄った川越城って武蔵野台地の端にあった。岩槻城って、どんな地形のところにあるのだろう、と思ったのが岩槻散歩のきっかけである。 




本日のルート;東武野田線・岩槻駅>芳林寺>浄国寺>岩槻郷土資料館>愛宕神社の大構
>岩槻城址公園>元荒川>久伊豆神社>慈恩寺>玄奘三蔵塔>古隅田川>東武野田線・豊春駅

東武野田線​・岩槻駅
新宿から湘南新宿ラインで大宮に。大宮で東武野田線に乗り換え、岩槻駅に向かう。 岩槻 って場所もいまひとつわかっていなかったのだが、大宮に結構近い。途中、大宮台地の下に広がる沼地跡​​​・見沼田圃跡を横切り岩槻駅に。
駅前で案内ボードを探す。いつものスタイル。町の東、元荒川の傍に岩槻城址公園。それ以外に何処か見どころは、とチェック。駅からそれほど遠くないところに「岩槻郷土資料館」、そして、岩槻城址公園を北に進み東武野田線を越えたあたりに「久伊豆神社」がある。
久伊豆神社は利根川以東の香取神社の祭祀圏、以西の氷川神社祭祀圏に挟まれた独自の祭祀圏をもつ神社。由来などいまひとつはっきりしない、と言う。思いがけない久伊豆神社の登場。
これは行かずば、ということで、大雑把なルートは、最初に郷土資料館。次に城址公園。最後に久伊豆神社。もっとも、郷土資料館の「発見」次第では、別ルートもあり、といった成行きで進むことに。 






芳林寺
郷土資料館に向かう。といっても住所が分からない。なんとなく地図のイメージを頼りに進む。東武野田線の線路に沿って西に進むと本町1丁目の道に脇に芳林寺。寺域は広い。太田道灌が信仰した地蔵仏を本尊に道灌の曾孫・太田資正が開基したという。道灌や5代目岩槻城主・氏資の供養塔、徳川家康の腹心で岩槻城主・高力清長の長男・正長の墓がある。
本堂は明治4年に一時、埼玉県庁が置かれた場所でもある。寺名の由来は、太田氏資の母芳林尼による。 太田資正は道潅に勝るとも劣らない名将であった、とか。三楽斎(さんらくさい)と号する。扇谷上杉に仕えていたが、川越夜戦で主君上杉氏が滅びたため、北条の旗下に。その後、北条氏の家臣として武功をたてるが、1560年、上杉謙信の小田原侵攻に機を同じくして、北条より離反する。
日本最初の「軍用犬」を使った軍事連絡などを駆使し、勇名をはせるた資正だが、嫡男・氏資の離反により岩槻城は落城する。、家督相続を巡って父・資正と対立し出家していた氏資は、第二次国府台合戦で父・資正が北条に破れた時 に還俗し、北条方についたわけである。氏資の奥方が北条氏康の娘であったことも関係あるの、かも。
で、資正は常陸の佐竹氏のもとに逃れ、反北条として転戦。一方、氏資は上総国三船台の合戦に3万の北条軍の一翼を担い参戦。里見義弘の軍勢に破れ、殿軍として奮戦するも戦死した。  浄国寺 加倉地区に入る。緑の森が見える。なんとなく森に向かう。国道122号線に出るとすぐに立派なお寺さまの入り口。

浄国寺
岩槻城主・太田氏房の発願により、天正15年(1587年)に開基。また江戸期の岩槻藩主・阿部家の菩提寺でもあった。浄土宗学僧の学問の場として関東18檀林のひとつに数えられる古刹。
周囲に広がる保安林を見るにつけ、往時の威勢が偲ばれる。 太田氏房のことはどうもはっきりしない。太田の家系ではなく北条の一族。4代当主北条氏政の三男と言われている。芳林寺でメモした氏資の戦死を受け、太田の家系の女性を娶り太田姓を次いだ、とか。

岩槻郷土資料館
国道122号線を東に進む。ここは昔の日光御成道。江戸を出た日光街道は4番目の宿場町・糟壁(春日部市)で岩槻街道と分岐。この岩槻道は将軍が日光参詣の折の経路であり、ために日光御成道と呼ばれた。岩槻宿には、本陣と脇本陣が各1軒、旅籠10軒あった、とか。
日光御成道を北東に進む。岩槻郷土資料館に。ここは旧岩槻警察署庁舎。昭和5年に建てられたもの。大正期の雰囲気を今に伝えるレトロな、そしてこじんまりとした資料館。
岩槻の歴史をさっと眺める。市販の資料はなかったようだが、ここで「大宮市文化財マップ」を手に入れる。??岩槻市ではなく、さいたま市岩槻区、と。平成の市町村合併ということ、か。ともあれ、文化財マップはここ岩槻だけでなく、さいたま全域の文化財が概観できる。あれこれ先の計画もたてやすくなる。思いがけなく、ありがたい資料が手に入った
 
人形の街・岩槻
日光御成道を更に北東に進む。街道(?)筋には、人形店が軒を並べる。さすがに、人形の街・岩槻、である。
で、何ゆえ岩槻で人形造りが盛んになったか、ということが気にな った;岩槻周辺は上質の桐の生産地として有名。箪笥や下駄をつくっていた。その製造過程で大量にでるのが桐の粉。それが人形の頭をつくるのに最適であった。また、人形つくりに不可欠な胡粉(人形に塗る白い粉)の溶解と発色に適した良質の水も豊富であった。

環境はそろった。あとは人。それが、日光東照宮の造営、修築にあたった工匠たち。日光御成街道沿いのこの地に、そのまま足をとどめ、人形づくりを始めた。これが、岩槻で江戸期以来、人形作りが盛んになった理由。大消費地・江戸が近かったことも大きな要因であったことは、言うまでもない。
 
愛宕神社の大構
国道122号線・岩槻駅入口交差点を越え、ひとすじ先の交差点を線路方向に折れる。線路手前に愛宕神社。少々寂しげなお宮さま。なるほど土塁上に鎮座まします。
「愛宕神社の大構」の案内;戦国時代の末から江戸時代の岩槻城下町は、その周囲を土塁と掘が囲んでいた。この土塁と掘を大構(外構・惣構・土居)という。城下町側に土塁、その外側に掘が巡り、長さは8キロに及んだ、という。 この大構は天正年間(1580年代)頃、小田原の後北条氏が豊臣政権との緊張が高まる中、岩槻城外の町場を城郭と一体化するため、築いたものとされ、城の防御力の強化を図ったほか、城下の町場の保護にも大きな役割を果たした。
廃城後は次第にその姿を消し、現在は一部が残っているにすぎず、愛宕神社が鎮座するこの土塁は大構の姿を今にとどめる貴重な遺構となっている。 

岩槻城址公園
再び国道122号線に戻り、岩槻城址公園に向かう。渋江交差点を越え、岩槻商高入口交差点を南に折れ、諏訪神社に。城址にあるのだから結構大きな神社か、とはおもったのだが、小じんまりしたお宮さま。 神社脇を公園に。桜の頃でもあり、家族連れが目立つ。公園をふたつに分ける道路脇に岩槻城の案内。
概要をメモする;「岩槻城は室町時代に築かれた城郭。築城者については大田道潅とする説、父の大田道真とする説、そして後に忍(現行田市)城主となる成田氏とする説など様々。16世紀の前半には太田氏が城主。が、永禄10年(1567年)、三船台合戦(現千葉県富津市)で大田氏資が戦死すると小田原の北条氏が直接支配するところとなる。
 北条氏は天下統一目指して関東への進出を図っていた豊臣秀吉と対立。やがて天正15年(1590年)豊臣方の総攻撃を受けた岩槻城は2日後に落城。同年、秀吉が北条氏を滅ぼすと徳川家康が江戸に入り、岩槻城も徳川の家臣高力清長が城主となる。 江戸時代になると岩槻城は江戸北方の守りの要として重要視され、幕府要職の譜代大名の居城となる。
室町時代から江戸時代まで続いた岩槻城も、明治維新後に廃城。城の建物は各地に移され土地は払い下げられ、400年の永きに渡って続いた岩槻城は終焉の時を迎える。
岩槻城が築かれた場所は市街地の東側。元荒川の後背湿地に半島状に突き出た台地の上に、本丸・二の丸・三の丸などの主要部が、沼地をはさんで北側に新正寺曲輪、沼地をはさんだ南側に新曲輪があった。
主要部の西側は掘によって区切られ、さらにその西側には武家屋敷や城下町が広がっていた。また城と城下町を囲むように大構が建てられていた。 岩槻城の場合、石垣は造られず、土を掘って掘をつくり、土を盛って土塁をつくるという関東では一般的なもの。現在では城跡の中でも南隅の新曲輪・鍛冶曲輪(現在の岩槻公園)が県史跡に指定。どちらの曲輪も戦国時代に北条氏によってつくられた出丸で、土塁・空掘・馬出など中世城郭の遺構が良好に残されており、最近の発掘調査では、北条氏が得意とした障子構がみつかっている」、と。 

元荒川
前々から気になっていた岩槻城をやっと歩くことができた。低湿地を前に、台地に築かれた城。利根川の東に陣取る古河公方側の武将に対抗する、関東管領・上杉方の橋頭堡として東に睨みをきかせていたのであろう。さて、どの程度の台地かと、元荒川方面に下ることにする。
崖上から下を見る。結構の高さがある。確かに台地である。 崖を下り花見で盛り上がる皆様の脇を進み、元荒川に。川のすぐ脇には進めない。川道から少し離れたところに遊歩道。桜並木が美しい。満開を少し過ぎた頃ではあるが、十分に桜を堪能した。 (「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)


川筋に沿った遊歩道を北に進む。元荒川についてまとめる。全長61キロ。埼玉県熊谷市佐谷田を基点として、おおむね南東に下り、行田市・鴻巣市・菖蒲町・桶川市・蓮田市・岩槻市をへて越谷市中島で中川に合流する。寛永6年(1629年)の荒川付替により、荒川が熊谷市久下で締め切られるまでは、この元荒川が本流であった。利根川が東遷され、荒川が西遷され、ふたつの水系は現在では別系となっているが、往古の荒川は利根川の支川であったことはいうまでもない。
ちなみに、桶川市小針あたりの備前堤で元荒川は綾瀬川と分かれるが、どうもこの綾瀬川筋がもともとの荒川の川筋でもあった、とか。
荒川の西遷事業って、元荒川の流れを締め切り、西を流れる入間川筋につなげ、現在の荒川筋を本流へと瀬替えした工事。荒川付替の主たる理由は中山道を水害から防ぐためのものであった、とか。
鴻巣市吹上地区で元荒川の上流部を見たことがある。取り立てて趣のある川筋、ってものではなかったが、ここまで下れば川幅も結構広く、野趣豊かな川筋となっている。地図だけではなかか実感できない川筋の雰囲気を味わいながら、先に進む。国道2号線を越え、本丸地区を進む。岩槻城の本丸があったあたりであろう。東武野田線を越え、鬱蒼と茂る森を目指す。その鎮守の森に久伊豆神社が鎮座する。 

久伊豆神社
前々から結構気になっていた神社。最初にこの神社の名前を知ったのは、鈴木理生さんの『幻の江戸百年:鈴木理生(ちくまライブラリー)』。関東における神社の祭祀圏がクッキリとわかれ描かれていた。利根川から東は香取神社。利根川の西の大宮台地・武蔵野台地部には氷川神社。この香取・氷川の二大祭祀圏に挟まれた元荒川の流域に80近い久伊豆神社が分布する。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)

香取神社の祭神はフツヌシノオオカミ(経津主大神)。荒ぶる出雲の神・オオクニヌシ(大国主命)を平定するために出向いた神。氷川神社の祭神はスサノオ・オオナムチ(オオクニヌシ;大国主命)・クシナダヒメといった出雲系の神々。が、この久伊豆神社の由来はよくわからない、と。神社に行けば何か分かるかと、期待しながら歩を進める。 
予想に反して大きいお宮様。想像では祠程度の神社と思っていた。こんなに大きな神社であった、とは、少々の驚き。神社の由来をチェック:神社由来:御祭神:大国主命。今をさる1300年前、欽明天皇の御世、出雲の土師連の創建したものと伝えられる。その後相州鎌倉扇ケ谷上杉定正が家老太田氏に命じ岩槻に築城の際、城の鎮守として現在地に奉鎮したといわれている。江戸時代歴代城主の祟敬厚く、特に家康公は江戸城の鬼門除けとして祈願せられた、と。 大国主命(大己貴命)、ということは出雲系の神社。出雲の土師連の創建した、ってことは先日歩いた鷲宮神社の由来と同じ。鷲宮神社の祭神は天穂日命とその子の武夷鳥命、および大己貴命。
天穂日命って、アマテラスの子供。大国主を平定するために出雲に出向くが、逆に大国主に信服し家来となり、出雲国造の祖となった、とか。とにもかくにもバリバリの出雲系の神様である。 
土師氏とは、埴輪つくりの専門家集団。野見宿禰をその祖とする。埴輪って、天皇がなくなった時、殉死者の代替としてつくられたのも。古墳の周りに置かれることもあり、土師氏は古墳つくりの専門家といった性格ももつようになった、とか。元荒川流域には古墳が多い。また、上野国は埴輪のメッカ、とも言う。土師氏が祀る久伊豆神社が、この元荒川流域に多いのは、こういったことも一因、か。勝手な解釈というか、妄想。根拠はない。
ちなみに、菅原道真の菅原氏は土師氏の後裔。古墳がなくなる頃、土師氏を菅原に改めてる、と。 久伊豆神社の分布範囲は、平安時代末期の武士団である武蔵七党の野与党・私市党の勢力範囲とほぼ一致している、とか。その中心地・騎西町にある玉敷神社が、久伊豆神社の「総本家」という。そのうちに訪れてみたい。

 慈恩寺
久伊豆神社を離れ、東岩槻の慈恩寺に向かう。東武野田線に沿って、元荒川に戻る。線路のすぐ上流にかかる橋を渡り、東岩槻地区に。道なりに北に北に進み、左に団地を見ながら東岩槻小学校脇に。小学校を過ぎる頃から、畑地の中を歩くことになる。
のんびり、ゆ ったり歩を進め、しばらく北に歩くと坂東観音霊場12番の札所・慈恩寺がある。駅から2キロ強といったところ。
境内前の駐車場には幾台かの車。観音巡礼の人達であろう。 慈恩寺。天長年間(824~34)慈寛大師の草創という。慈覚大師・円仁。下野国の生まれ。第三代比叡山・天台座主。最後の遣唐使でもある。慈寛大師、って、いままでの散歩では、鎌倉の杉本寺、目黒不動・龍泉寺、川越の喜多院などで出合った。
慈恩寺は往時本坊四十二坊、新坊二十四坊といった大寺ではあったよう。境内も13万坪以上あった、と。このあたりの地名が慈恩寺と呼ばれているのは、その名残であろう。
江戸期には徳川家の庇護も篤く家康より寺領100石を賜っている。また、本尊は天海僧正の寄進によるもの、とか。ともあれ、天台宗の古刹であった、ということだ。『坂東霊場記』に「近隣他境数里の境、貴賎道俗昼夜をわくなく歩を運び群集をなせり」、と描かれているように、昔は、門前市を成すって活況を呈していたのであろう。が、現在では、あっさり、というか、さっぱりしたもの。本堂前には南部鉄でつくられた鉄の灯篭があった。 

玄奘三蔵塔
慈恩寺を離れる。のんびりした風景。慈恩寺の寺名の由来は唐の大慈恩寺から。このあたりの風景が慈覚大師の唐での学び舎・大慈恩寺の風景によく似ていたから、とか。そういわれれば、風景もありがたいものと思えてくる。
そのこととも関係あるのだろうが、近くに「玄奘三蔵塔」が。玄奘三蔵法師の骨を分骨している、と。大慈恩寺って玄奘三蔵法師が天竺・インドへの仏典を求める旅から戻り、その漢訳に従事したお寺さま。先の大戦時、南京で日本陸軍が偶然発掘し、一部をこの地におまつりした、という。ちなみに、奈良の薬師寺にはこのお寺さまから、分骨したということである。 

古隅田川
東武野田線・豊春駅へと向かう。徳力地区を越えると春日部市に。両市の境あたりに水路がある。古隅田川。岩槻区南平野を基点とし、春日部市梅田で大落古利根川に合流する。あれ?南流しないで、北流している。どういうことか?チェックしてみた。
近世以前、利根川東遷事業、荒川西遷事業による河川の瀬替え以前は、この川は他の川筋と同じく南流していた。流路は春日部市梅田あたりまでは古利根川筋を流れていた。梅田で現在の川筋とは異なり、南西へと流れを変え、岩槻市長宮あたりに向かって下り、現在の元荒川に合流。
次いで、元荒川を流れ越谷市中島あたりで中川筋の流路となり、最後は隅田川につながっていた。 流れが逆方向になったのは、利根川・荒川の瀬替えのため。
瀬替えによって水源を失った元荒川・古利根川は水位が急激に低下。そのため、岩槻市長宮あたりから春日部市梅田方面に向かって北東に逆流することになった、という。
で、古隅田川の東京都に入ってからの川筋だが、いつだったか、千代田線綾瀬駅あたりで古隅田川に出合ったような気がする。
調べてみる。古隅田川は中川を下り、東京都に入る。足立区中川あたりで中川から分かれ、葛飾区小菅で綾瀬川に合流。その後は北千住あたりを経て、隅田川に通じていた、なんとなく流路を把握できた。 

東武野田線・豊春駅
古隅田川を越え、東武野田線・豊春駅に到着。豊春、って名前が気になりチェック。明治22年に11の村々が合併してひとつの村ができるとき、「年々耕作の豊かに熟して春和の候の如く合併各村和熟せんことを望むにあり」ということから豊春という名前となった,と。これって、東大和市ができるとき、「大いに和するべし」ということから名付けられた、ってことと気分は同じ。地名の由来って、一定のルールもなく、ために、面白い。 
ついでのことながら、駅の近くには、梅若伝説とか在原業平ゆかりの業平橋、といった旧跡が残る。梅若伝説は墨田の墨堤にあった木母寺が「本家」。また、業平橋というか、在原業平の「都鳥...」のお話も、墨田区が「本家」。昔の隅田の流れに沿って、この地にまで伝わってきたのだろう、か。はたまた、その逆か、はてさて。

それはそれとして、今回の散歩は思いもかけず久伊豆神社に出会え、気持ちも軽やかに家路に向かう。
埼玉を歩くと太田道潅とか小田原北条氏ゆかりの地に出会うことが多い。そのようなとき、折に触れて登場するのが鉢形城であり、その城を築いた長尾景春である。鉢形城って、荒川の断崖上につくられている、と。写真で見るに、なかなか魅力的な風情である。場所は寄居。荒川が秩父盆地から関東平野に流れ出るところ。少々遠い。が、思い切って散歩にでかけることに。



本日のルート;東武東上線・寄居駅 >荒川・正喜橋>鉢形城 >鉢形城公園・諏訪神社>釜伏峠の分岐点>車山>東武東上線・寄居駅 


寄居駅
東武東上線の急行に乗り、寄居に向かう。急行で、とはいうものの、川越から先は各駅停車。武蔵嵐山、小川町、男衾といった町を越えていく。なんとなく名前に惹かれる。近々にこれらの地に足を踏み入れる予感、あり。東武東上線・寄居駅で下車。「はるばる来たぜ」を小声で叫ぶ。 
駅前で例のごとく見所案内をチェック。鉢形城の場所を確認。寄居近辺には、釜伏峠、日本水(やまとみず)、少林寺、そして北の円良多湖(つぶらた)、鐘撞堂山(かねつきどう)などなど面白そうなところが多い。釜伏峠は秩父往還・熊谷道の峠。日本水は名水百選に選ばれた「神秘の水」。円良多湖は桜の名所。鐘撞堂山は戦国時代、鐘をついて敵の来襲を鉢形城に知らせたことが名前の由来。 
よさげなハイキングコースに少々惹かれる。が、如何せん時間がない。いつものとおり出発が遅く、既にお昼はとっくに過ぎている。あれこれ行きたいのはやまやまなれど、まずは鉢形城に。その後は成行きで、ということで歩を進める。

荒川・正喜橋
駅前を南に下ると荒川。正喜橋がかかる。大正時代に地元の篤志家が私費で吊橋をつくったのがはじまり。大正の「正」と、橋をつくった神谷茂助さんの父・喜十郎さんの「喜」をあわせて「正喜橋」と。
つくられた当時、渡橋は有料であったらしい。その後県が買い上げ、現在の橋となった。少し上流の折原橋の近くに玉淀ダムがつくられるまでは、もっと水量豊かだったよう。橋の上から対岸の崖を見やる。写真で見慣れた鉢形城の景観。自然と足が速まる。

鉢形城
橋を渡り、すぐ右に折れると鉢形城の案内;「鉢形城は荒川に臨んだ断崖上に位置し、南には深沢川があって自然の要害を成している。文明8年(1478年)、長尾景春が築城し、その後上杉氏の持城となって栄える。室町末期に至り、上杉家の家老でこの地方の豪族であった藤田康邦が北条氏康の三男氏邦を鉢形城主に迎え入れ、小田原北条氏と提携して、北武蔵から上野にかけての拠点とした。 
城跡は西南旧折原村を大手口とし、旧鉢形村を搦め手としている。本丸、二の丸、三の丸、秩父曲輪、諏訪曲輪等があり、西南部には侍屋敷や城下町の名称が伝えられており、寺院、神社があり、土塁、空堀が残っている。天正18年(1595年)、豊臣秀吉の小田原攻めの際、前田利家、上杉景勝、本田忠勝、真田安房守などに四方から攻撃され、三ヶ月の戦いの後、開城した」と。

長尾景春 案内では長尾景春のことはさらっと触れていただけ。鉢形城といえば長尾景春でしょう、ということで、少々メモを付け加える。 
文明5年(1473)のことである、関東管領山内上杉氏の家宰・長尾景信が死去。上杉顕定は景信の弟・忠景に家宰職を嗣がせた。怒ったのが長尾景信の子である景春。一時は居城・白子城(群馬県子持村臼井。沼田市の吾妻川東岸)でおとなしくしていたのだが、「やっぱり勘弁ならぬ」、ということでここ鉢形に城を築いて関東管領・上杉氏と対立することになる。これが世に言う「長尾景春の乱」のはじまり。 
翌年、景春は五十子城(いかつこ;本庄市東五十子)の上杉氏本陣を襲撃。上杉氏は上野に逃れる。扇谷上杉氏の家宰・太田道灌は景春に帰順を求める。が、景春は拒否。用土原(大里郡寄居町用土;市街地の北東)で合戦。景春は敗れて鉢形城に立て籠もる。
上杉氏は鉢形城を包囲。それに対抗すべく、景春は古河城の足利成氏と同盟を結ぶ。関東管領上杉氏と古河公方は犬猿の仲。敵の敵は味方、ってことだろう。
成氏が上野(滝)まで進軍。
本陣危うし、ということで、上杉軍は包囲を解いき、上野に引き上げる。 文明10年(1478年)、上杉氏と足利成氏の間で停戦成立。が、太田道灌は鉢形城を攻略。景春を秩父へ追放。鉢形城は上杉顕定の居城となる。その後、景春は秩父方面で文明十二(1480)年まで抵抗を続けるが、最後には上杉氏に降伏することになった、とか。これが長尾景春のあれこれ。

景春以降の鉢形城 ついでに、景春以降の鉢形城について補足;景春の後、一時上杉がこの鉢形城に居を構えたこともある。が、結局は小田原北条の拠点となる。そのことは案内板の通り。
上杉から小田原北条への潮目はやはり、川越夜戦か。天文15年(1546)の河越夜戦で上杉氏が北条氏に大敗。武蔵の土豪は次々に北条氏に帰順。天神山(秩父郡長瀞町岩田字城山1871 ;長瀞町の北部)城主・藤田重利(康邦)は北条氏康の三男・氏邦を養子に迎える。氏邦は永禄三(1560)年前後に本拠を鉢形城に移し、大規模な改修を行った。永禄十二(1569)年、武田信玄が小田原城攻撃のため上州から侵攻。鉢形城も攻められる。が、守りが堅いのを見た信玄はそのまま南下して滝山城に向かった、と。 
天正18年(1590年)の小田原の役では、北条氏邦は出撃論を主張。が、当主氏直以下の首脳部は小田原評定の結果、籠城策。氏邦は鉢形城に戻り守備を固めた。
前田利家、上杉景勝らの北国軍が鉢形城の攻撃を開始、本多忠勝らが車山から大砲を撃ち込み、城内の被害が甚大であったことから、鉢形城は開城。氏邦の身分は前田利家に預けられた。
鉢形城はこれを最後に廃城となった。ちなみに、小田原評定って、あれこれ会議ばかりで、いつまでたっても結論がでないこと。

 鉢形城公園・諏訪神社
荒川の崖に近づく。本丸のあったあたりをぶらぶら歩き、車道を越えて鉢形城公園に。西に諏訪神社。二の丸とか三の丸があったところ。公園の南の崖を下り、深沢川を渡る。外曲輪があったところ。鉢形城歴史館がある。残念ながら閉まっていた。はてさて、どうしたものか。公園に座り次のルートを考える。

里山を歩く
 地図をチェック。県道294号線が南に下り、落合橋のところで県道11号線に合流。11号線を東に向かえば小川に続いている。歩いてみたいのはやまやまなれど、山道なのか、民家があるようなところなのか想像もつかない。夕刻までそれほど時間もない。他には、と再度地図をチェック。
県道294号線の南にある標高227mの車山の裾野をぐるりと一周する道がある。一周し正喜橋まで戻ってくるのに6キロ程度。時間的には丁度いいか、ということで決定。里山の風景を楽しむことにする。
ちなみに、落合橋に続く県道であるが、後日、車で走ったことがある。山の中というわけではなく、ゆったりとした農村風景が広がっていた。

釜伏峠の分岐点
 公園を離れ、県道294号線を西に進む。八高線を交差しさらに進む。折原小学校を越え、道が南に下るあたりが秋山地区。「釜伏峠、日本水」方面への案内がある。釜伏峠まで4キロ強といったところ。往時、秩父観音霊場に向かう人達がこの峠道をとおり、秩父に入った、という。
釜伏峠から1キロ程度のところに日本水(やまとみず)。美味しそうな水に惹かれはするが時間がない。次回のお楽しみということで、県道を南に下る。

車山
南に下る、といっても山間に向かっての緩やかな上り。この道は、小川町から西に進む川越道と落合で合流する。川越道とは、昔、江戸から秩父に入るときに利用した道筋。粥新田峠をへて一番札所・四萬部寺に出る。 道をしばし進むと、東に分かれる道。車山の裾を通る道。県道を離れて、野道に入る。のんびりとした里山の景色がまことに美しい。山容が穏やか、ということもあるのだろう。また、寄居と秩父を隔てる山並みも500mとか600m程度であることも、なんとなく圧迫感がなくいいのかもしれない。  (「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)


 車山を眺めながら畑の脇の道を進む。車山は小田原の陣のとき、包囲軍・本田忠勝が鉢形城に向かって大砲をうった、とか。大砲ではなく、火矢を飛ばしたとも伝えられる。
『武州鉢形城』より;少し高みの諏訪曲輪の跡にのぼると線路があって電車が通りすぎた。城内を八高線が通過しているわけである。この曲輪には、諏訪神社という祠の前に大きな欅の木がある。鉢形合戦のとき、この曲輪へ徳川方の本多忠勝が車山から大砲で最初の一発を打ち込んだ。車山は真南の方角に少し霞んで見えていた。 
「運転手さん、ここから車山まで、一千メートルの上もあるだろうか。一千百か二百ぐらいだろうか。」 
「さあ、まだそれとは云わないでしょう。恰好がいい山は、近くに見えるんでしょうか。遠くに見えるんでしょうか。二千メートルに近いんじゃないでしょうか。一千七八百ぐらいですかね。」 
「鉢形合戦時代の大砲は、一千七八百メートルも飛んだろうか。あの山から、この曲輪に撃ち込んでいるのだからね。」 
「しかし、いいところ一千九百ですね。 

先日、古本屋で見つけた井伏鱒二さんの『武州鉢形城』の一節。鉢形城の落城の様子が静かに、しかし迫力をもって描かれている。
平倉地区に入ると民家・農家が増えてくる。のんびりとした風景。久しぶりにいい雰囲気の里山の景色を楽しめた。予想していなかっただけに、結構嬉しい。

白髭神社
道に沿って流れるのは深沢川。源流点は先ほどの県道を進んだ峠あたりであろう。道の南に白髭神社。白髭さまといえば、高麗王・若光。てっきり若光をおまつりしたもの、かと思ったのだが、この神社は第二十二代・清寧天皇をまつる、という。清寧天皇は生来白髪であった、と。白子というかアルバイノであったとも言われるが、白髭皇子(しらかのみこ)という名前に由来するとも言われ、真偽のほど不明。 
それにしても、なぜ清寧天皇がこの寄居にまつられているのだろう。熊谷市妻沼町に白髭神社があり、そこの祭神も白髮武広国押稚日本根子命、こと清寧天皇。この神社創建には清寧天皇の白髭部が関係しているとされる。白髭部って 、子のない大王(天皇)の諱〔いみな〕を後世に残すために置かれた部民。 清寧天皇にはこどもがいなかったとされるし、また白髪部は、山背・備中・武蔵・上総・美濃・遠江に分布ししていた、と。まったくの想像ではあるが、この地の白髭神社の創建にも清寧天皇ゆかりの人々が関係したのであろう。

東武東上線・寄居駅
東に進み八高線・折原駅近くを交差。八高線と平行に北に進む。鉢形城歴史観の近くまで進むと県道294号線にあたる。県道294号線を北に進み県道30号線と合流。東に折れると正喜橋に 。もと来た道を駅に戻る。
 駅に戻り、少林寺に向かう。五百羅漢に惹かれたから。駅の北口に回り、近代的な寄居町役場脇を進み、国道140号線を末野陸橋あたりまで歩いた。が、どうにも日がもちそうにない。日が暮れてきた。少林寺は山の中にある雰囲気。残念ながら、本日はここまでとし、駅に戻り家路に急ぐ。 
そうそう、「寄居」の由来であるが、 江戸時代に作られた『新編武蔵風土記稿』によると、「鉢形城落城の後、甲州の侍、小田原の浪士などより集まりて居住せし故の名なり」、と。また、中世の城郭の周囲に築かれた施設・集落などのことを「ネゴヤ(根古屋)」「ヨリイ(寄居)」等と呼んだとの説もある。そういえば、根古屋って、今までに散歩のときに、秩父でも、松戸でもであった。で、どちらが正しいのかわからないけれども、どちらにしても「人が寄り合う・集まる」ところ、ということに間違いないようはある。



臼井そして印旛沼疎水路下流部・花見川を東京湾に下る


印旛沼散歩も3回目。印旛沼の畔を歩き、次いで印旛沼疎水路上流部・新川をほぼカバー。
残すは印旛沼疎水路下流部だけとなった。疎水を下れば東京湾に出る。
どうせのことなら、印旛沼疎水路下流部・花見川を下り、沼から海へと襷をつなぐことに、した。





本日のルート:京成線・臼井駅>稲荷台>中宿>臼井城址>太田図書の碑>星神社>主郭跡>雷電為衛門の碑>道誉上人の碑>京成線・大和田駅>印旛沼疎水路下流部・花見川>勝田川の合流地点>弁天橋>花島橋>総武線・幕張駅


京成線・臼井駅
都営新宿線で本八幡に。京成線に乗り換え先回の終点・勝田台駅に向かう。車内で地図をチェック。臼井城址が目に留まる。場所は勝田台と佐倉の間。印旛沼の直ぐ近くにあるのだが、先回時間がなくパスしたところ、である。少々の思い残し感もあり、急遽予定を変更し最初に臼井をカバーすることに。

稲荷台
京成線・臼井駅で下車。臼井駅は東・西・南を台地で取り囲まれている。開口部は印旛沼に向かう北方向、だけである。駅を北に下りる。駅前に台地が迫る。地名も稲荷台と呼ばれている。
住宅街の坂を上る。尾根付近、といっても住宅街には変わりは無いのだが、そこに雷電公園がある。佐倉の観光協会でもらった臼井の資料に、この地に雷電為衛門のお墓がある、ということであった。が、この公園にはお墓はない。地図をチェックすると、台地下のお寺の近くにある。とりあえず臼井城まで進み、そのあとこの江戸期の大横綱・雷電のお墓でもおまいりしよう、と。
尾根を下る。途中にお稲荷さん。雷電公園の隣、といったところ。稲荷台の由来のお宮なのではあろう。境内にはケヤキの大木。また、敷石は雷電が寄進した、とか。お隣の公園が雷電公園と呼ばれる理由がこれで納得。

中宿

坂を下る。国道296号線・成田街道にあたる。成田街道を少し東に進むと「中宿」交差点。街道はここで南東に折れ佐倉に向かう。中宿、って如何にも宿場跡って地名。チェックする。この地の歴史は古い。縄文期の貝塚や土器が発見されている。数千年前からこの地には人が住んでいたのであろう。大化の改新の頃も、この地方の中心地であった、よう。が、歴史上に臼井が登場するのは平安末期(12世紀)に千葉氏の一族である臼井氏がこの地に居を構えてから。以来、12代に渡って臼井氏およびその一門がこの地に覇を唱える。が、それも小田原北条氏の滅亡とともに歴史の舞台から去る。その後お城は徳川一門の居城、幕府直轄地をへて元禄3年(1700年)には佐倉領に組み込まれることになった、とか。 (「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)

中宿、をきっかけに少々話が拡がってしまった。歴史的・政治的変遷はあったとはいえ、臼井は往古より、交通の要衝であった、よう。江戸時代には成田詣の旅人で賑わった、と。現在は地名として中宿が残るが、当時は上宿、中宿、下宿、新町という地名もあった。町には本陣・脇本陣を中心に多くの旅籠が並び、180軒あまりの人家があった、と言われる。明治になっても旅籠は6軒も残っていた、ようだ。また、この地は成田街道だけでなく、利根川>印旛沼>そして江戸へと続く水運の要衝でもあった、とか。

臼井城址
臼井城址に向かう。中宿交差点の一筋手前の道を台地へと進む。緩やかな坂道の途中に駐車場。駐車場の奥から城址に上る。上りきったところに道。遺構を守るために舗装されているが、往時の土橋、であろう。二郭と主郭をつなぐ。整備される前の写真が道脇にあったが、細い「通路」といった雰囲気。土橋の両側は堀であったのだろうが、現在はこれも少し埋められている、よう。
土橋を西というか北に進み二郭跡に。整地された大きな公園になっている。二郭を離れ三郭、というか外城をつなぐ土橋跡に出る。土橋とはいっても現在は車一台が通れる、といった生活道路。二郭を取り巻く堀はいかにも深い。上杉謙信の軍勢がこの城を落とすことができなかったと言われるが、成る程、この堀は難儀であっただろう。逆は自然の谷であろう、か。

太田図書の碑

土橋を先に進む。太田図書の碑。この地でなくなった太田道潅の弟・図書助資忠ほか53名をまつる。観光協会でもらったパンフレット『ゆったり臼井へ』によればその顛末は以下の通り;文明10年(1478年)千葉孝胤は、上杉家の重臣太田道潅に破れ、臼井城に撤退。翌年正月に道潅の弟・図書助資忠は千葉自胤(武蔵千葉氏)と臼井城を攻撃、戦死した、と。すっと流せばそれだけのことなのだが、ちょっと考え始めると、わかったようで、よくわからない。なぜ道潅が千葉氏と争う?なぜ千葉自胤は同盟軍?興味を覚えチェック。

大雑把にまとめてみる;ややこしさのすべては上杉管領家と古河公方の争いに端を発する。鎌倉公方を補佐する管領と公方に争い、である。鎌倉公方が京都に反旗を翻す。足利将軍家の関東名代だけでは面白くなく、将軍になりたかった、とか。京都方についた上杉管領家に鎌倉公方は破れる。鎌倉から逃れて古河に拠点を構える。ために古河公方,と言う。 この争いに千葉氏も巻き込まれ一族は二つに別れる。
千葉宗家は上杉管領側。そして一族の重臣である馬加康胤、原胤房は古河公方につく。結局、千葉宗家は馬加、原氏の軍勢に急襲され破れる。嫡子・千葉自胤、実胤は武蔵に逃れ上杉管領家の庇護のもと武蔵千葉氏、となる。平安時代末期、上総介平忠常からはじまり、頼朝の挙兵を助けるなど一時期を画した千葉宗家は滅亡することになった。 で、この千葉宗家の系統を継ぐのは自分だ、と千葉氏を称したのが馬加(岩橋)康胤。さすがに居城までは千葉宗家があった亥鼻城(いのはな;中央区亥鼻町)では具合が悪かろう、と新たに移ったのが「本佐倉城」、ということだ。
上のメモで太田道潅と争った千葉孝胤とはこの馬加(まくわり)康胤の嫡男。太田道潅が千葉孝胤と戦ったのは、道潅が関東管領側であり千葉孝胤は古河公方側であるから。また、千葉自胤が道潅の弟・図書助資忠と臼井城を攻撃したのは、千葉孝胤が親の敵である馬加氏の流れであるから、である。謎解きができて、少々すっきり。

星神社
太田図書の碑の近くに星神社。臼井妙見社とも呼ばれるように、妙見様をおまつりする。北斗七星を神としたもの。千葉氏の氏神様といったもの。千葉一族の家紋である「月星」「日月」「九曜」は妙見さまに由来する。ちなみに妙見信仰といえば、先般歩いた秩父神社が思い出される。秩父神社は秩父平氏・平良文をまつる。平忠常を祖とする千葉氏も秩父平氏の流れを汲む、ということであり、これも大いに納得。 星神社を離れ台地上をブラブラ歩く。台地が北に続いている。どうもお城だけの独立丘陵といったものではないようだ。昔はこの台地上に出城というか支城というか、砦といったものが配置されていたの、だろうか。台地上から印旛沼を眺めよう、と思ったのだが崖線が近くにある、といった雰囲気でもない。お城跡へと引き返す。

主郭跡

二の郭から土橋を通り主郭に向かう。虎口を抜け主郭跡に。ここも公園となっている。主郭からの眺めは素晴らしい。印旛沼が一望のもと。昔は沼は台地下まで迫っていたのであろう。事実、いつだったか古本屋で買い求めた『利根川図志;赤松宗旦(岩波文庫)』に、安政年間(19世紀中頃)の臼井城のイラストが掲載されているが、確かにお城の台地下まで印旛沼が迫っている。
臼井城は、14世紀中頃に中世城郭としての形を整えたと言われる。臼井氏中興の祖と言われる臼井興胤の頃である。東西1キロ、南北2キロであった、とか。その後16世紀中頃には原氏が臼井城主となる。原氏が臼井氏の嫡子への後見役となったことがそのきっかけ、かと。原氏とは、上でメモしたように、馬加氏とともに千葉宗家を滅ぼした、あの原氏である。
城の主となった原氏は城の機能を拡充。戦国時代には、小田原北条氏の幕下に入り千葉氏をも凌ぐ勢力となる。永禄9年(1566)には上杉謙信の臼井城攻撃を撃退している。が、天正18年(1590)7月に原氏は北条氏とともに滅亡。翌8月には臼井城に徳川家康の家臣酒井家次が入城。文禄2年(1593年)に出火・消滅。その後、慶長9年(1604)、家次が上野国高崎に転封され臼井城は廃城 となった。

雷電為衛門の碑
臼井城址を離れる。次の目的地は「雷電為衛門」の碑。何故かは知らねど、雷電とか谷風といった江戸の相撲取りの名前を覚えている。子供のころ、なにかで読んでおぼえていたのであろう。
台地を下り、成田街道まで戻り、西に少し戻る。妙伝寺入口を北に折れ、お寺への台地手前を南に折れる。道成りに進み、公園というか地域のお年寄りの集会所といった施設の裏手あたりに進む。そこに、ひっそりと江戸時代の名大関の碑があった。
雷電は16年間大関をつとめた。とにかく強かったらしい。信濃生まれの雷電がこの地に眠るのは、妻がこの臼井上町にあった甘酒屋の娘であったため。ちなみに雷電は谷風(西の大関)の内弟子であった。刻まれた題字は幕末の名士佐久間象山のもの、と言われる。
と、あれこれメモしながら少し疑問が。これほど強い関取がどうして大関で、横綱でないのか。チェックする。 真相は単純。当時の相撲の最高位は大関であっただけ、のこと。横綱とは将軍の上覧相撲の栄誉に浴した大関に与えられる儀式免状であった、とか。儀式というか称号としての横綱が番付上の横綱として登場したのは明治42年(1909年)のことである。
ちなみに、雷電って、結構インテリであった、とか。文字の読み書きができ、足掛け27年に渡って旅日記『諸国相撲和帳』、通称『雷電日記』を書いている。これって当時の力士としては稀有の存在であった、よう。どこかの古本屋で買い求めた雑誌の中に書いてあった記事のうろ覚え。出典定かならず。

道誉上人の碑
雷電の碑を離れ駅に戻る。稲荷台の台地に戻る。途中、ちょっと寄り道。少し台地を下り道誉上人の碑に立ち寄る。どこかで聞いたことがある名前である、と思うのだがどうも思い出せない。そのうちにわかるかと、ともあれ、お墓のある長源寺に向かう。境内、というより、道脇の台地の中腹にお墓があった。
道誉上人は当時下総生実(おゆみ;千葉氏中央区生実)に居を構えていた原氏の招きで下総に。増上寺9世管主を経て長源寺を開山した高僧。おまいりし、脇の道を台地に上る。どうも昔の臼井城の砦があったところのよう。『利根川図志;赤松宗旦(岩波文庫)』にもいかにもこのあたりに「トリデ」のマークがあった。台地上から臼井駅のある低地を囲む台地を眺め臼井駅に。本日のメーンエベント・花見川散歩のスタート地点である京成線・大和田駅まで電車で向う。

京成線・大和田駅

京成線・大和田駅で下車。成田街道は駅の北を通る。八千代市役所も成田街道沿いにある。江戸時代、成田詣のために早朝江戸を出立した旅人は、最初夜は船橋宿か、この大和田宿で一夜を明かした、と言う。成田街道から離れたこの駅はこじんまりとしている。大正15年開業の八千代市で最も古い駅である、とか。  (「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)


印旛沼疎水路下流部・花見川
駅前を成行きで南に進む。直ぐに水路にあたる。源流を辿ると陸上自衛隊習志野駐屯地の演習場あたりまで確認できる。が、水路の名前はわからない。印旛沼疎水路下流部・花見川に向かって東に進む。ほどなく川筋に。住所は横戸町。
勝田川が東側より合流する。鷹の台カントリークラブがある台地下に沿って花見川が湾曲するあたりで、である。地図で源流を辿ると、この川も陸上自衛隊習志野駐屯地の演習場あたり。そこから四街道市、佐倉市の境を流れ、現在はこの地で花見川に合流し東京湾に下る。
現在、勝田川は花見川に合流する、とメモした。が。それは最近のこと。昭和23年(1948年)からはじまり昭和44年(1969年)に完成した印旛沼総合解発事業以降のことである。それ以前は、勝田川は現在の新川筋を流れ印旛沼に注いでいた。以前、印旛沼の水を東京湾に排水するため、印旛沼に注ぐ新川筋と、東京湾に注ぐ花見川を横戸のあたりで繋いだ、とメモした。ということは、その繋ぎの場所というのは、このあたりだったのだろう。

勝田川の合流地点
勝田川の合流部分は東西の台地が最も接近している。分水界となっていた台地を切り崩し、ふたつの川筋をつないだのであろう。二つの川筋を繋いだ、と書面だけで言われても、いまひとつ実感がなかった。どういうふうに繋げたのであろう、どういう地形なのだろう、などと疑問をもったのが、今回の花見川散歩の目的のひとつではあるのだが、勝田川の流路が逆転した、ということ、そしてその場所が如何にも狭隘な台地接近部であるという地形を見て、あらかたの疑問は解決。気持ちも軽く先に進む。



弁天橋

弁天橋を渡り花見川の東岸に移る。ここから花見川サイクリングコースがはじまる。川の両岸に台地が迫る。緑が深い。快い道筋である。散歩をはじめて、結構多くの遊歩道、緑道を歩いたが、その中でも印象に残る道筋のひとつと言える。
水色の水道橋が現れる。柏井浄水場から水を送っている。 弁天橋から1.5キロほど下ると柏井橋。道は橋の下をくぐる。新川筋と花見川筋を繋げるための分水界の開削は、弁天橋からこの柏井橋まであたりまでに及んだ、と。江戸時代幾度か開削が計画されながら、結局失敗に終わったということであるが、両側に迫るこの台地を切り崩すのは並大抵でなかったろう、と改めて実感。
で、ここまで歩いてきて、大和田機場に出会わないことに気がついた。印旛沼の水=新川を花見川に排水する施設であるが、後からチェックすると、場所は京成線より北、成田街道にかかる大和橋より更に北にあった。印旛沼の水を2日もあればすべて排水できるほどの強力なポンプがある、という。見てどうということはないのだが、とりあえずどんなものか見ておこう、と思ったのだが、後の祭り。とはいうものの、年に数回しか新川の水を汲み上げてはいないようなので、まあいいか、とも。
ところで、この大和田機場を境に新川と花見川の川床は数メートル差がある。花見川サイドの方が高い、と。それがこの排水機場でポンプアップする要因なのだろうが、これって何のため?チェックする。どうも設計段階から段差をつけた、よう。自然の勾配だけで印旛沼の水を流すと、勾配が緩やかになり、満潮時に海水が川筋を遡上し洪水の可能性がある、ということで、接合部の川床を高くした、と。わかったようで、よくわからない。

花島橋

あれこれと想いを巡らしながらも、まことにいい雰囲気の道を1キロ弱進むと花島橋。古い雰囲気の橋。500mほど下ると花見川大橋。結構新しそうな橋。道は青い橋桁の下を通る。橋の近くに赤い水道管が走る。少し下に水門。長作水門。水量を調節する、と。

直ぐ近くに天戸大橋。天戸大橋を過ぎると、台地から離れ平地に移る。牧歌的風景。 天戸大橋から1キロ程度進むと亥鼻橋。桜並木もさることながら、田園風景が美しい。もっと雑とした風景を想像していたので、予想外の展開。亥鼻橋からこれも1キロ弱進むと京葉道路と交差。
京葉道路手前に汐留橋。文字通り、汐留=海水の遡上をここで止めるわけであり、橋の下に堰が設けられている。ここまで汐がのぼってくる、ということであろうか。であれば上でメモした、大和田排水機場あたりの川床の高さや勾配に関するあれこれについて、急にリアリティが出てきた。

総武線・幕張駅

京葉道路をくぐり先に進む。川の東岸に花見川区役所。また西側前方には見慣れた幕張のビルが見えてくる。それにしても、少しは住宅が増えてきた、とはいうものの、ここまで下ってきても、のんびりした風景である。
更にくだると浪花橋。京葉道路から1キロほどのところ。ここから河口まで3キロ強、といったところだが、日没時間切れ。浪花橋を西に渡り、総武線に沿って進み総武線・幕張駅に進み、一路家路へと。本日の散歩はこれで終了。
ところで、花見川の名前の由来だが、川堤の桜が美しかったから、といった説もある。千葉実録には、源頼朝にこの地の桜の花の美しさを言上する千葉一門の口上がある。曰く:『この川上に桜の林これあり候、花盛りには吉野にも優り申すなり。この川の橋にて眺むる時は、川上より流るる花は水を包み、また川下よりは南風花を吹き戻す。よって水上へ花びら往来し、その景色言語に述べ難し』、と。
花見川の名前の由来は定まっているわけではないが、この口上ゆえに、結構納得。地名の由来のついでに、幕張。これって、臼井城のとことでメモした馬加(まくわり)から、との説もある、と。そういえば、馬加城って現在の幕張市幕張3丁目にあった、ということである。そのうちにこの馬加城、そして千葉宗家の居城のあった亥鼻城(いのはな;千葉市中央区亥鼻町)を歩いてみよう、と思う。


西印旛沼から新川に歩き、勝田台に

印旛沼散歩の2回目。今回は佐倉からスタートし、印旛沼疎水の新川を歩き、成行きで勝田台まで下ろう、と。

何がある、というわけではない。ただひたすら、印旛沼の水を東京湾に流すために開削された水路、新川ってどういうものだろう、といった好奇心、故。






本日のルート:京成線・佐倉>台地上の城下町>佐倉城跡>鹿島川>西印旛沼>歴史民俗資料館>再び新川筋に>阿宗橋>京成線・勝田台駅


京成線・佐倉
都営新宿線で元八幡に。そこで京成線に乗り換え、一路佐倉へと。例によって駅前で観光案内をチェック。駅の直ぐ前に観光協会がある。
南口を進み少し大きい道路との交差点の角にある観光協会に入る。佐倉や臼井(うすい)の資料を入手。佐倉はともあれ、臼井って何処だ?そういえば、その昔この地に覇を唱えた千葉氏の関連で、どこかで聞いたような、そうでないような、といった程度の事前知識。が、あれこれ見どころもあるよう。途中時間があれば、寄り道でもしてみよう、ということに。
台地上の城下町 観光協会を出る。南に小高い丘。丘とか台地を見ればとりあえず上りたい、ということで、あてもなく台地に上る。住宅が建ち並ぶだけで、これといって見どころがあるわけでなないのだが、のんびり台地上を散策。住所は鏑木町。メモをするため地名をチェックしていると、台地下にも鏑木町が飛地のように残っている。中世期に鏑木村であったところが、台地上に佐倉の城下町ができたため、分断されてしまった、とか。 そうえいば、駅に下りても、どこに城下町の面影があるのかはっきりしなかった。この台地上にあったわけだ。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)

地図をチェックすると、東から延びる舌状台地上に神社・仏閣、そして公的機関が集まっている。そして台地の西の端に佐倉城址・現在の国立歴史博物館がある。台地上にお城がある、ってことはよくあるが、城下町が台地上にあるって、あまり聞いたことがない。佐倉の城下町の特徴、ということであろう、か。

佐倉城・城下町のメモ;本佐倉城に移封されていた老中・土井利勝が家康の命により慶長16年から元和3年の7年をかけて、築城半ばで廃城となっていた戦国期の鹿島城跡に佐倉城を築城。その周辺に城下町をつくった。以来西の小田原、北の川越などとともに江戸防衛の要衝として徳川譜代の有力大名が封ぜられる。老中も多く輩出したため『老中の城』と呼ばれた。築城から明治維新までの258年のうち141年に渡ってこの地を治めたのが堀田氏。幕末に筆頭老中として日米修好通商条約を締結した堀田正睦(まさよし)が有名。(「ブラリ佐倉へ;佐倉市観光協会」より)。
ちなみに本佐倉城とは、佐倉から東に3キロにある下総の有力氏族・千葉氏の本拠地。千葉氏とは言うものの、もともとの下総守護でもあった千葉宗家を滅ぼし、この地に居を構え「千葉氏」を称した千葉氏の重臣・馬加氏ではある。千葉宗家と区別するため後期千葉氏とも呼ばれる。ともあれ、その千葉氏が文明年間(1469~1486)に築城、天正十八年(1590)に豊臣秀吉により滅ぼされるまで9代に渡り居城した。千葉氏滅亡後は徳川一門が陣屋を構えていたわけだ。

佐倉城跡
鏑木町の台地を下りる。前もって台地上が城下町、と知っていたなら、もう少々台地を歩き、西の端のお城跡まで進んだろうが、今となっては後の祭り。駅前の通りを西に進む。
市役所下交差点で国道296号線・成田街道に合流。西に進むと歴史博物館交差点。道路脇にはお堀がある。城下町をすっぽりと囲んだ総構え(堀)の名残であろう。台地に上れば歴史博物館がある。またその裏手には佐倉城跡。歴史博物館には一度来たことがある。今回はパスし、城のお堀あたりをぐるっと歩く。
歩きながら少々気になったことがある。そもそも、歴史博物館が何故佐倉にあるのか、ということである。チェックする。いくつか候補地はあったようだが、10万坪といった広大な国有地があり、歴史的にもそれなりの納得感があるところ、ということで佐倉になった、とか。国有地はともかく、掘田氏の居城があったとか、近くに本佐倉城といった千葉氏歴代の居城があった、というのが「歴史的」納得感ということであろうが、我々歴史の門外漢にとっては、少々強引な紐付け、かも。

鹿島川
歴史博前交差点を過ぎ、少し歩くと鹿島川にあたる。地図を辿ると、外房線土気駅近くの土気調整池あたりが源流のようである。全長29キロの一級河川。地形図でチェックすると、結構変化に富んだ地形を縫うように走る。そのうちに源流から佐倉まで歩いてみよう、と思う。 鹿島橋を渡り、西詰を折れ川に沿って印旛沼に向かう。工業用水道佐倉浄水所脇を過ぎると直ぐ先に京成線。踏み切りがあるのかどうか分からない。が、とりあえず進む。と、踏み切りが。一安心。踏み切りを渡り、川筋を下る。少し進むと堤防工事中。ということで、迂回。田圃の畦道を西に歩き、京成線に沿って走る道に進む。線路に沿って1キロほど進むと「佐倉ふるさと広場」に。印旛沼、正確には西印旛沼に到着。

西印旛沼
休憩所で一息。オランダ風車やチユーリップ畑を眺めながら、沼脇のサイクリングロードを進む。印旛沼取水場近くの道脇に歌碑。遠辺落雁;「手を折りて ひとつふたつとかぞふれば 満ちて遠べに落つる雁がね」。臼井八景のひとつ。臼井八景とは、元禄の頃、隠士 臼井信斎と臼井にある円応寺の住職宗的が北宋の瀟湘八景(しょうしょうはっけい)にならって選定した景勝の地。またこのふたりによって歌がつくられた、と。

桜並木を先に進む。印旛沼浄水場を過ぎると再び臼井八景の碑。瀬戸秋月の地:「もろこしの 西の湖 かくやあらん には(注;水面)照る浪の瀬戸の月影(水面に瀬戸村の空に輝く月がうつっている。唐の名勝の地・洞庭湖の秋を思わす美しい景観である)」。すぐそばに「防人の碑」。印旛郡出身の人の歌碑とのこと。携帯での写真の写りが良くなく、なんとかいてあったのか不明。が、この地から防人として出かけた人がいた、というだけで、歴史上のことである「防人」に少々のリアリティが感じられるようになった。
水路脇の道を進む。臼井駅、臼井城址への案内。臼井城って、千葉一族臼井氏の居城。方向としては進行方向左手に見える丘が城跡であろう。行きたし、と思えども、どうしたところで本日は時間がない。次回のお楽しみとして、先を急ぐ。

歴史民俗資料館
橋を渡ると直ぐ左に道を折れる。田圃の中を道が続く。岩戸地区。台地の裾を進み、成行きで台地上への細道を上る。のぼりきったところに車道。舟戸大橋から続く道路に出る。台地上の道を少し進むと宗像小学校とか歴史民俗資料館への案内。それにしても久しぶりに家並を見た感じ、ではある。人家のない沼の畔を延々と歩いてきたわけで、少し人心地。 案内に従い道を左に折れる。小学校の中に進む。奥まったところに歴史民俗資料館。が、閉館。時間は未だ四時過ぎ。少々早い。案内を見ると、最近では事前予約があるときだけ明けている、とか。それならそうと、どこかでアナウンスして欲しいものだ。とは思うが、村の歴史資料館を訪れる人はそれほど多いとも思わないので、まあ、仕方なし。階段に座り一息つく、のみ。

再び新川筋に

休みながら先のルートを考える。地図を見ると、新川を少し上った、というか下ったところにある阿宗橋のまで橋は無い。とりあえずその橋まで進み、それからは台地上を勝田台まで進むことに。休憩終了。小学校前の道を西に進む。道は下り。ゆったりとした坂を下る。西部地区公園を過ぎると道は再び台地に上る。台地手前に水路。水路に架かる名護屋橋を越えたところで道を離れ、田圃の畦道に入る。 先に車が走っているのが見える。そこまで行けばちゃんとした道があるだろう、と、成行きで進み道に出る。が、どうせのことなら新川脇を歩こう、と先に進む。新川の手前に水路。もう先には進めない。雑草の生い茂る踏み分け道を水路に沿って進む。本当にちゃんと道が続くのか、少々不安。が、なんとか先に進み少々力任せではあるが、阿宗橋の手前に出た。

阿宗橋
阿宗橋。延々と続いたサイクリングロードもこのあたりで一区切り。なんとなく管轄が変わるのか道の整備状態も変化する。今までが国で、これから先が市といったとことだろう、か。ところで、この阿宗橋って、名前が少々ありがたそう。由来などあるのかとチェック。昔は阿蘇橋と呼ばれていた、とか。新川を渡った台地上が阿蘇地区とよばれていたのだろう。現在でも阿蘇中学とか阿蘇小学校という名前が残っている。で、この阿蘇地区と先ほどの資料館のあった宗像小学校ではないが、宗像地区を結ぶので阿(蘇)+宗(像)=阿宗、と。足して2で割る、よくある地名命名パターンであった。

京成線・勝田台駅
橋を渡り台地へと上る。新川に沿って台地の廻りをぐるっと、とは行きたいのだが、なにせ時間切れ。日の暮れないうちに勝田台まで進まなければ、ということで川筋から離れ台地上を歩くことに。おおよそ4キロ弱といったところ、か。 坂を上りきったあたりから道を離れ脇道に入る。左手の森は少年自然の家。周りは未だ畑地が続く。成行きで南へと道を進む。予想とは異なり台地上は平坦。幅3キロ強といった幅広い舌状台地となっている。新川がぐるっと廻りを囲む。あまりアクセントのない道を進む。下高野を過ぎ上高野まで歩くと道の周囲は工業団地となる。上高野工業団地。工業団地を抜け、道の右手に黒沢池市民の森の緑を見れば、勝田台の駅は直ぐ近く。ゆるやかに上り、そしてゆるやかに坂を下ると京成線勝田台駅に着く。本日の散歩はこれで終了。家路へと急ぐ。


龍角寺古墳群と北印旛沼
先日手賀沼を歩いた。で、どうせのことなら北総台地に残るもうひとつの大沼・印旛沼を歩いてみたいと思った。印旛沼に向かう。
といっても、どこからはじめよう、と地図をチェック。先日手賀沼散歩の終点であったJR成田線の木下(きおろし)を成田方面に進んだ下総松崎(まんざき)駅の近くに、「房総風土記の丘」がある。北総台地上の古墳群がある、という。印旛沼の脇をひたすら歩く、って本日の散歩に、少々の文化的アクセントをつけるのもいいのでは、とスタート地点に決める。その後は印旛沼に沿って佐倉まで下る、ことに。 

 



本日のルート:下総松崎駅(まんざき)駅>坂田ケ池総合公園>土師神社>風土記の丘・岩屋古墳>風土記の丘・旧学習院初等科正堂>房総風土記の丘資料館>龍角寺>松崎街道から北印旛沼に>北印旛沼>印旛捷水路>山田橋>県道65号・佐倉印西線>西印旛沼>京成線佐倉駅

下総松崎駅(まんざき)駅

地下鉄・千代田線で我孫子駅に。我孫子からJR成田線に乗り換え下総松崎駅に進む。2時間程度かかった、ようだ。下総松崎駅(まんざき)はまことにのどかな駅舎。
駅前といってもなにも、なし。駅前に「房総風土記の丘」への簡単な道案内。大雑把な方角だけ把握して歩き始める。 駅の前に車道。松崎街道と呼ばれる。成田山裏門交差点と印旛郡栄町安食までの区間を走る県道18号成田安食線のこと、である。
きちんとした車道があるわけでもないので、時折通過するトラックに少々怖い思いをしながら西に向かう。台地が街道に迫るあたりに「坂田ケ池総合公園」「房総のむら」への案内。台地に向かって街道を離れる。


坂田ケ池総合公園

道なりに台地を北に進む。案内に従い坂田ケ池総合公園に。坂田ケ池を中心に、湿性植物園や野鳥観察所、遊歩道などが整備された千葉県唯一の総合公園である、と。池の畔をしばし進み、房総風土記の丘に向かう。 

土師神社
成行きで進むと道端に土師神社(はじ)が。土師神社って、土師連の氏神さま。で、土師連って、土師式土器や埴輪の製作、そして皇陵の築造の専門家集団。今から進む房総風土記の丘には古墳群があるわけで、何らかの関連がある、かと。
そういえば、印旛沼東の台地、そこには結構な古墳群があるようだが、その台地上には埴生神社が三社ある、という。埴生神社も土師神社も同源。埴輪つくりの部族の氏神様。ここまでの例証が揃えば、この土師神社が風土記の丘古墳群をつくった技術集団の氏神様であろうか、との推論もあながち間違いではない、かも。

風土記の丘・岩屋古墳
土師神社を離れ、先に進む。大きな道路に。あれ?なんだか、あらぬ方向に進んだよう。地名をチェックすると龍角寺。どうもこの道路は成田安食バイパスの、よう。風土記の丘は、もう少々西。 道に沿って西に進む。道脇に「岩屋古墳」「みそ岩屋古墳」への道案内。
道路を左に折れ、南へと進む。林の中を進むと小山が見える。それが「岩屋古墳」。方墳。一辺80m、高さ12mもある、という。推古天皇量にも勝るとも劣らないつくり。天皇陵にも匹敵する規模の古墳をつくることができた豪族の正体は未だ不明。 

風土記の丘・旧学習院初等科正堂

岩屋古墳を離れ、先に進む。すぐにちょっとした広場に。すぐそばに白亜のレトロな建物。旧学習院初等科正堂。もともとは新宿にあったものだが、正堂の新築にともない、成田市の下総御料牧場に移築された。その後成田市から千葉県に寄贈され、この地に移された、と。 案内に従い房総風土記の丘資料館に進む。雑木林の道に左右には古墳が続く。小さいものから大きいものまで様々。高さ数メートルといったものもある。それにしても数が多い。資料館に行って、この古墳群の何たるかをチェックするのが少々楽しくなってきた。先を急ぎ房総風土記の丘資料館に。

房総風土記の丘資料館
千葉各地から集められた考古学の資料が展示されている。展示説明やビデオを駆け足でチェック。お勉強した内容を簡単にメモ。この地の古墳群は龍角寺古墳群と呼ばれる。印旛沼と利根川に挟まれたた海抜約30mの台地上に、前方後円墳36基、円墳71基、方墳6基など113基の古墳が集まっている。つくられた時期は5世紀末から7世紀前半頃まで。前方後円墳で最大のものは、浅間山古墳。全長70m。方墳は先ほど訪れた岩屋古墳。日本での最大規模の方墳。6世紀後半、この地域に台頭してきた 豪族が勢力を伸ばし、7世紀前半に築造したものと考えられている。

龍角寺古墳の名前の由来は、この地から少し北にある寺院・龍角寺、から。7世紀後半に建てられた東日本で最も古い寺院と言われる、と。展示説明で最も興味を覚えたことは古墳とお寺の関係についてのコメント。龍角寺にしても、それをつくったのは岩屋古墳を築いた印旛地方の豪族であり、彼らは畿内の有力者と結びついて仏教をいち早く取り入れ、その勢力を広げるために一族の寺を建てた、とのこと。 古墳とお寺の関係といったのは、豪族が仏教に心が傾くにつれ、古墳をつくらずお寺を作るようになった、ということ。言われてみれば当たり前のことではあるが、今までそういった視点で古墳・寺院を見たことがなかったので、結構新鮮であった。 (「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)

それにしても下総台地上には古墳が多い。先日歩いた手賀沼北岸の台地にも100近い古墳があるという。手賀沼南岸の沼南町もしかり。そしてここ印旛沼東北岸の台地、東岸の成田ニュータウンのある台地、そして佐倉市の印旛沼を見下ろす台地の山崎ひょうたん塚古墳群など数限り無い。往古、印旛沼も手賀沼も内海であり、この内海を臨む台地の上には長い年月に渡って古墳がつくられていったのであろう。先日娘の宿題で群馬が古墳王国であり、埴輪の出土数が全国一、といったことを知った。千葉もそれに負けず劣らず、といった様である。なんとなく訪れた印旛沼をきっかけに、あれこれ新しいことが見えてきた。

龍角寺
資料館を離れ、龍角寺に向かう。北におよそ1.3キロ程度歩いたところ。資料館から北に向かって道が続く。白鳳道と呼ばれる。龍角寺が建てられたのが上でメモしたように7世紀後半の白鳳時代であることが、名前の由来。
白鳳仏とよばれる本尊・薬師如来を有した龍角寺に向かって白鳳道を進む。道の両側にはこれまた大小の古墳群が続く。 しばらく進むと「成田安食バイパス」に当たる。道の手前からバイパスをくぐる道に下りる。バイパス下のトンネルをくぐると雑木林に。蛇が出そうで少々怖い。道の北側は整地されることなく、野趣豊かな雰囲気がそのまま残る。夕暮れ時など独りで歩くのは少々躊躇われる、といった道筋である。

林を少し進むとのどかな農村風景の中に。龍角寺は直ぐ近く。資料館のビデオで何となく想像はしていたのだが、往時の壮大なる堂宇は、今は無い。金堂跡、といった跡が残るだけ。本堂らしき建物もないのだが、正面のつつましやかなお堂が、それなのだろう。重要文化財となっている本尊・白鳳仏がある、という。どこかの博物館にでも保管しているのか、と思ったが、どうもこの本堂の中にお座りになっている、とか。
しばし休憩。本日のメーンイベントである印旛沼散歩に備える。印旛沼までのコースを地図でチェック。来た道を戻り、坂田ケ池手前から松崎街道・県道18号成田安食線に出るのが最短コースであろうか、と。道を戻る。途中バイパス手前に前方後円墳・浅間山古墳がある、と。結構気をつけて歩いたのだが、確認できず。

松崎街道から北印旛沼に

白鳳道を資料館に戻り、そこから先は成行きで歩くと、印旛沼が見える散歩道、といったコースに出る。印旛沼が見える、とはいっても、眺望が開けたのは一箇所のみ。それなりにいい眺め。先を急ぐ。その先も成行きで進み、台地を少々下ると坂田ケ池の畔に。道なりに台地を下ると「大和の湯」に出る。今はやりの温泉(鉱泉)センター、か。台地裾にあるこの温泉センターを先に進み松崎街道に。松崎街道から先は、水田の中を印旛沼に向かって西に進む。途中ショートカットで田圃の畦道なども強引に踏み分ける。行き止まり。これも強引に水路を飛び越えなんとか印旛沼脇の道にたどり着く。ここから佐倉まで、10キロ以上の印旛沼散歩をはじめることにする。

北印旛沼

印旛沼散歩、とはいうものの印旛沼は全く見えない。道と印旛沼の間には水路があり堤防には登れない。堤防の高さは標高5m。水路、正確には低地排水路と呼ぶらしいが、その標高は1.2mといったところ。
見通しがきかない。そのうちに沼も見えてくるだろう、と先を急ぐ。 松崎、八代、舟形と進み、甚兵衛機場に。ここの役割は、低地排水路に流れ込んできた地域の排水をポンプで汲み上げ印旛沼に戻す。また、印旛沼の水をポンプで汲み上げ地域の最も標高の高いところに送り、そこから水田へと水を供給する。印旛沼の標準水位は2.3m、満水、つまりは農閑期の頃だろうが、その時で2.5mと低地排水路より高くなる。ために、ポンプで汲み上げているわけである。
ちなみに、甚兵衛って、義民・佐倉惣五郎を助け、お咎めを見越して自ら命をたった船頭さんの名前。飢饉・水害に苦しむ農民のため幕府への直訴を図る惣五郎のために、ご法度である夜間に舟を出した、ということだ。惣五郎は、首尾よく江戸で4代将軍家綱に直訴し、佐倉領主・掘田氏には厳しい叱責がなされた、とか。

印旛捷水路
甚兵衛機場を過ぎ、甚兵衛大橋を渡る。この道は464号線・宗吾街道。歩道があるわけではないので、車が通るたびに少々怖い思いをする。橋を渡ると左に折れ「印旛捷水路」に沿って南西に下る。印旛捷水路はいままで歩いた北印旛沼と西印旛沼を繋ぐ水路。捷水路、って自然の水路、つまりは曲がりくねった水路を人工的に開削し真っ直ぐに通した水路のことを言う。江戸時代の絵地図とか大正10年頃の地図を見ると、昔の印旛沼は印旛捷水路の東を流れる中央排水路に沿って、水路というか沼そのものが蛇行している。蛇行部分を干拓し、この捷水路を通して上下の沼を通したのであろう。
捷水路を進む。水路脇にはサイクリングロードが続く。北印旛沼に注ぐ長門川の酒直水門のあたりからはじまり、北印旛沼の西岸を通り、甚兵衛大橋のところで印旛捷水路に入る。印旛捷水路を進み、西印旛沼の南を進み、八千代市の阿宗橋のあたりまで延々と続いている。

山田橋

サイクリングロードを東橋、安能橋と進む。台地が迫る。この台地を切り崩して水路を通したのだろうか。なんらかの自然の水路もあったのだろうか。工事そのものは昭和40年代とのことではあるようだが、この台地を一直線に切り通すには、それなりの理由がなければ、とてもやっておれない、といったスケールの台地の切り開きではある。そのうちにこの工事のことでも調べてみようか、と思う。

鶴巻橋を渡り、水路の南側に移る。市井橋を過ぎたあたりから道は台地への上り、となる。水路北側の道は大地に上ることなく、水路に沿って続いていく。北側の道を見下ろしながら進み台地上に。山田橋が架かる。橋の袂にナウマン象発掘地点の碑。1966年、印旛捷水路の工事のとき、日本で最初にほぼ完全なナウマン象の化石が発掘された、と。


県道65号・佐倉印西線
山田橋には結構大きな道が走る。県道65号・佐倉印西線。橋の北方向にコンビニ。有り難い。実のところ、松崎で北印旛沼に入った頃から水を切らしていた。10キロ程度水無しで歩いただろう、か。結構きつかった。コンビニで浴びるように水分補給。一息つく。 しばし休憩の後、県道65号・佐倉印西線を西印旛沼に向かって台地を下る。南東方向に台地が舌状に延びる。昭和になるまでは、この台地を取り囲むように沼地が広がっていた、ということだが、真っこと違和感なしの台地・低地のコントラスト。

西印旛沼
坂道を下り、西印旛沼に。沼畔に公園。ちょっとした見晴らし台といったものもある。寄っては見たいのだが、先客がのんびり沼を眺めている。邪魔をするのも如何なものかと、先に進む。
しばらく進むと印旛中央排水路。現在はささやかな水路ではあるが、総合開発がはじまる昭和38年以前は、沼はこの西印旛沼東端と同じ500mほどの幅があったのではなかろう、か。
印旛沼についてちょっとメモ;今を遡ること1000年、平安時代の頃、印旛沼は手賀沼や霞ヶ浦と一帯となった大きな水域であった。香取の海あるいは安是の海と呼ばれる広くて大きな海水の入り込む内海であった、よう。 が、上流からの流される土砂や海退現象によって、次第に陸地化し、それぞれが独立した水域となる。人々は土砂で浅くなった水域の周囲を開墾し新田開発に努めた、とか。
その状況が大きく変化したのは江戸時代。幾度かメモした利根川の東遷事業によって流路が銚子へと変わった利根川により、印旛沼は洪水に見舞われることになる。江戸を守るために流れを変えた利根川の水が印旛沼に流れ込み、地域に洪水被害を引き起こす。 洪水被害を防ぐため江戸時代に数度にわたって印旛沼の水を江戸湾に流す工事をおこなう。が、天明期の担当老中の田沼意次、天保期の水野忠邦の失脚などにより工事は頓挫。
結局は昭和38年からはじまる印旛沼総合開発事業の完成を待つことになる。印旛沼の水を花見川を通し東京湾に流すことができたのは昭和44年のことである。

京成線佐倉駅

台地を上る。歩道はない峠道。少々怖い。右手は佐倉市民の森。左手は岩名運動公園。ゆっくりと台地を下り、台地の裾・下根地区を進む。山崎地区を過ぎれば駅は直ぐ。日も暮れた。京成線佐倉駅から家路へと急ぐ。

赤羽台地に旧軍の跡を辿る

北区を2回に渡って歩いた。が、なんとなく遣り残した感がある。崖線部もあるいた。沖積地帯・下町低地もあるいた。が、赤羽台に登っていない。稲付公園の丘から、香取神社の丘から、そして静勝寺の丘から眺めた武蔵野台地・赤羽台を歩いていない。ということで、赤羽台をぐるっと歩くことにした。赤羽台といえば陸軍の施設があったところでもある。ありし日の帝国陸軍の「跡」をランドマークに歩を進める。北区散歩番外編というところ、か。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)





本日のルート;赤羽八幡社>師団坂> 諏訪神社>赤羽緑道公園>公団赤羽団地>赤羽台西小学校> 赤羽自然観察公園


赤羽八幡社
 埼京線・赤羽駅で下車。西口に出る。埼京線に沿って北に進む。埼京線と京浜東北線が分かれるあたり、先般訪れた宝憧院(ほうどういん)への道筋、ということは日光御成道だとは思うのだが、そこを右折することなく埼京線に沿って北に進む。
東北・上越新幹線も同じルート上。 線路に沿った坂を登る。師団坂とも工兵坂とも呼ばれる。台地上に第一師団および近衛師団に属した工兵隊の施設があったため。
坂の途中に、赤羽八幡社。このあたり一帯の総鎮守。延暦3年(784年)征夷大将軍・坂上田村麻呂がこの地に陣を張り、武運長久を祈って八幡三社を勧請。その後、源頼光が社殿を再興、源頼政が改修、太田資清が社領として土地を寄進、道灌が社殿を再興(文明元年・1469)したとある。
また、江戸時代には、三代将軍家光の時に社領七石を与えられ、以後代々将軍家より御朱印を寄付された由緒ある神社。ちなみに、八幡三社って、加茂・八幡・高良神社、とか。この神社、武蔵野台地の東端。見晴らしはそれほどよくない。境内下を東北・上越新幹線、埼京線のトンネルが通る。 

師団坂
八幡さまを離れ、師団坂を登る。登りきったあたりに星美学園。ここはもと、陸軍第一師団工兵第一大隊旧舎跡。明治20年8月に丸の内からこの地に移る。
隊の変遷;明治7年東京鎮台工兵大隊として発足> 明治9年 工兵第一大隊として大手町に>明治10年 西南戦争出征> 明治20年9月赤羽に移る>明治27年日清戦争出征>明治37年日露戦争出征 ・旅順203高地作戦を戦う>大正3年第一次大戦 対独出征>大正7年シベリア出征 >昭和3年浮間橋架橋 浮間町民の寄金6000円で工兵隊が架橋 6000円橋と呼ばれる>太平洋戦争ではレイテ島で玉砕。 

東京北社会保険病院 星美学園に沿って西に台地上を進む。左手に低地、これを八幡谷と呼ぶようだが、その谷を隔てて向こうに台地が見える。赤羽台のこのあたり、どうも一筋縄ではいかない。台地の中に谷がある。すり鉢状の地形になっている。ということは、尾根道を歩き、一旦、谷に下り、再び向かいの丘に上るのか、はたまた尾根道を、ぐるっと、一周すれば向いの台地につけるのか、結構楽しみ。 

少し進むと東京北社会保険病院。もとの国立王子病院。明治20年9月に近衛師団工兵大隊がこの地に移転。隊の変遷;明治7年創設>明治10年西南戦争出征>明治20年この地に移る>明治26年近衛工兵中隊から大隊へと改称>明治28年日清戦争出征 大連台湾 >明治37年日露戦争出征鴨緑江旅順奉天会戦を戦う>大正3年 第一次大戦 対独青島出征 >大正7年 シベリア出征 >太平洋戦争ではシンガポール、スマトラに進駐。

 諏訪神社
東京北社会保険病院脇の道を北に。武蔵野台地の北端といったこところ。崖下に埼京線・新幹線の線路が走る。進行方向左手に公団住宅を眺めながら道に沿って西に下る。
下りきったところに諏訪神社。結局台地を一度下りることになった。諏訪神社のところで一度切れた台地は神社から西に盛り上がっていく。台地の縁を赤羽北3丁目から小豆沢2丁目そして志村坂上方面に歩いてみたい、とは、思いつつも、今回は台地下の谷筋を赤羽駅に続く道に進む。

赤羽緑道公園
進行方向左手の台地上の団地、社会保険病院を眺めながら、谷地の道を進む。逆側の台地は工兵作業場があったところ。途中に八幡小学校。このあたりは射撃訓練場。駅に抜けるトンネルの手前に赤羽緑道公園。こんなところ、台地に川が流れているわけもない。ひょっとして軍施設への軍用線路の跡では、と推論。その通りであった。
昔の地図を見ると、西が丘サッカー場近くにあった元自衛隊十条駐屯地赤羽地区、昔の陸軍兵器支廠や、緑道左手に広がる赤羽団地・もとの陸軍被服本廠あたりから引込み線が出ている。 
緑道の西の台地に桐ヶ丘団地。この地は昔、陸軍火薬庫。明治5年、明治政府というか、未だ幕府と戦っていた官軍の武器庫が作られたところ。その後、陸軍が引き継ぎ、第一師団・近衛師団が移ってきてからは、両師団の火薬倉庫を兼ねることに。
ここに火薬庫がつくられたことが、赤羽地区が陸軍一色となる契機となるわけだが、それにしても、なぜこの地に火薬庫が作られたのだろう。明治9年、加賀藩下屋敷跡に「板橋火薬製造所」がつくられたからだろうか。桐ヶ丘団地から西が丘サッカー場前を通り、板橋火薬製造所があった帝京大学医学部、東京家政大学あたりまで一直線に走る道は軍用道路であったと言われるし、あながちこの推論、間違いでもないかも。


公団赤羽団地
ゆるやかに上る赤羽緑道公園を進むと、ちょっと広い道路にあたる。緑道はここで切れる。左手に団地・公団赤羽団地。星美学園の台地から八幡谷を隔てた台地上に、結構立派な建物が見えたのだが、それは赤羽団地の建物だったのだろう。
この地はもと、陸軍被服本廠があったことろ。大正8年、麹町・本所・築地・深川に分散していた被服倉庫も合わせ、本所にあった陸軍被服本廠をこの地に移した。軍装だけでなく国民服も製造。戦時中一時上尾に移転。戦後米軍に接収され、戦車の修理工場ともなった、とか。

赤羽台西小学校
赤羽台西小学校あたりまで進む。ほとんど台地東縁。台地から低地に向かっていくつかの名前のついた坂道もある。西小学校あたりの庚申坂。赤羽西4丁目信号あたりの「三日月坂」。三日月坂を下りたところの「中坂」、など。
三日月坂の案内板のメモ:(坂の途中にある)道灌湯から東南へ登り中坂へでる坂。道灌湯のあたりに、大正三年(一九一四)に帝国火工品製造所(導火線工場)ができ、この工場のためにできた坂、と。工場へ往来する馬車などで賑わったが、大正四年五月に工場は爆発事故で焼失。その後このあたりは住宅地となり、坂を登りきった北側あたりに三日月茶屋ができた。坂名はこれに由来。また、道灌湯が開業したことから道灌坂とも呼ばれている、と。

 赤羽自然観察公園
赤羽台西小学校から西に進む。谷地に「赤羽自然観察公園」。公園の南の台地も含めて、元陸上自衛隊十条駐屯地・赤羽地区の跡地。
自衛隊十条駐屯地は、もと東京砲兵工廠銃砲製造所。後の東京第一陸軍造兵廠。旧陸軍兵站の中枢であった施設。この自然公園のあたりも車両試験場であった、とか。十条駐屯地では戦後、米軍の戦車の修理などをおこなっていたわけで、戦車の走行テストでもおこなっていたのだろうか。単なる想像。十条のあたりを米軍の戦車が好き勝手に走っていた、という話を聞いたこともあるわけで、あながち間違いではないかも。 都営三田線・本蓮沼駅 赤羽自然観察公園の西側を通る道、これって、先にメモした桐ヶ丘の「火薬庫」から板橋の「火薬製造所」に走る軍用道路跡、だとは思うのだが、この道を西が丘サッカー場の手前まで歩き、稲付中学とサッカー場の間を西に進み、都営三田線・本蓮沼駅まで歩き、赤羽台散歩を終えることにする。後は、都営三田線に乗り、次の目的地板橋区・西高島平に向かう。

>荒川から隅田川、そして石神井川へと
北区散歩の第一回は武蔵野台地の東端、東京下町低地に境に屹立する崖線にそって歩いた。今回は、荒川・隅田川に囲まれた一帯、また武蔵野台地と隅田川に囲まれた低地を一回りする。北区で気になるキーワード、荒川知水館、というか岩渕水門もカバーできるだろう。 

さて、どこから、と、思案する。荒川区散歩のとき、ちょっとかすった掘船地区の船方神社から北というか西に動くか、浮間から南というか東に向かうか、と考える。で、結局、浮間からはじめることにした。

一番の理由は「浮間」という名前に惹かれたため。その後は、荒川に沿って岩渕水門まで下り、赤羽とか王子の東、隅田川と武蔵野台地の間の下町低地を進むことにした。





本日のルート;埼京線・浮間船渡駅・都立浮間公園>氷川神社>荒川土手>新河岸川>岩淵水門>知水資料館>熊野神社>八雲神社>宝憧院>R赤羽駅>国道122号線・北本通り>神谷掘公園>豊島馬場遺跡>清光寺>紀州神社>西福寺>石神井川


埼京線・浮間船渡駅・都立浮間公園
埼京線・浮間船渡駅(ふなど)駅に。北口に出る。駅からすぐのところに都立浮間公園。浮間ケ池を中心にした自然豊かな公園。もと、ここは荒川の流路。蛇行していた流路を大正から昭和にかけての河川改修で直線化し、川の流れが池として残った。浮間ケ池がそれ。 いつだったか、川崎市中原区の武蔵小杉を歩いていたとき出会った、多摩川脇の等々力公園が同じく、多摩川の河川改修によって残された流路跡であった、かと。 池の西側を荒川堤防に向かって進む。

氷川神社
堤防手前で池の東側に折れる。氷川神社にちょっと御参り。すぐ横に、浮間ケ原桜草圃場。江戸から昭和初期にかけて、このあたり一体は桜草の名所。浮間ケ原の由来は、荒川に突き出した半島状の地勢が島のようであったから、とか。 神社から北東に少し堤防方面に歩いたところ、浮間2丁目4番地に、北向き地蔵。もともとの場所は現在の荒川河川敷。村の北の入り口に、外に向かって立っていた。外敵から村を守るが如く、と。

荒川土手
堤防の道をのんびり歩く。川向こうに高層ビル群が見える。川口あたり、だろう。我々団塊の世代の人間にとっては川口、って吉永小百合主演の『キューポラのある街』、つまりは小さな鋳物工場がひしめ街といったイメージが強い。が、現在では、様変わり。その鋳物工場の跡地が高層ビル街に変身している。55階のビルをはじめとして、20階以上のビルが川口駅前に20近くあるよう、だ。 

川口駅周辺に高層ビルが多いのは、鋳物工場の街であった、ということと大いに関係ある、とか。詳しくは知らないが、工場地域というのは、都市計画上建築制限が緩く、工場の跡地など広い土地の確保などが容易であり、その結果高層ビル群が林立することになった、よう。周辺に高いビルが見えない分、川口あたりの景観が目につく。 

新河岸川
京浜東北線と交差するあたり、南手に川筋が接近する。新河岸川。川越から隅田川と合流するあたりまで全長34キロ弱。入間川の分流を川越で集めて水源とする。といっても単なる自然の流れではなく、知恵伊豆こと川越藩主・松平信綱が大きく手を加えている。水量安定のため、川筋を湾曲させており、九十九曲がり、と言われるほど、である。 
新河岸川は江戸から明治初期にかけ江戸と川越を結ぶ水運ルートとして賑わった。船にも並船、早船、急船、飛切船などいろいろ。並船は江戸までの往復1週間から20日かかる不定期船。急船は一往復2,4日の荷船。飛切船はそれより速い特急便、といったもの。

川越からの荷物は農産物。江戸からの帰り船は日用品と肥料。肥料とは、早い話が下肥。江戸の人々の糞尿は大切な肥料。この下肥を巡る利権争いもあった、よう。大名屋敷のそれは栄養状態もいいので値が高く、かつまた大量に確保できるので、争奪戦も激しかった、とか。 尾籠な話はともかく、川越街道による陸運を凌駕し運送の大動脈であったこの「川越夜船」も、明治になって鉄道の開通、河川改修による水量の減少などにより、昭和6年、その役割を終えることになった。 

岩渕水門

京浜東北線を越え次の目的地、「荒川知水館」に進む。新荒川大橋下の河川敷を歩きしばらくすると水門が見える。旧岩淵水門。水門あたりで新河岸川も合流する。水門脇に案内板があった。メモする;昔、荒川の本流は隅田川。が、隅田川は川幅がせまく、堤防も低かったので大雨や台風の洪水を防ぐことができなかった。ために、明治44年から昭和5年にかけて、河口までの約22km、人工の川(放水路)を作る。大雨のとき、あふれそうになった水をこの放水路(現在の荒川)に流すことにした。
この放水路が元の隅田川と分かれる地点に、大正5年から大正13年にかけて作られたのがこの旧岩淵水門。9mの幅のゲートが5門ついている。その後旧岩淵水門が老朽化したこと、また、もっと大きな洪水にも対応できるようにと、昭和50年から新しい水門(下流に作った青い水門)の工事が進められ、昭和57 年に完成。旧岩淵水門の役割は新しい水門に引き継がれた、と。 

放水路建設のきっかけは明治43年の大洪水。埼玉県名栗で1212mmの総雨量を記録。荒川のほとんどの堤防があふれ、破れた堤数十箇所。利根川、中川、荒川の低地、東京の下町は水没した。流出・全壊家屋1679戸。浸水家屋27万戸、といったもの。 
荒川放水路の川幅は500m。こんな大規模な工事を、明治にどのようにして建設したのか、気になった。ちょっとメモ;第一フェーズ)人力で、川岸の部分を平らにする。掘った土を堤防となる場所へ盛る。第二フェーズ)平らになった川岸に線路を敷き、蒸気掘削機を動かして、水路を掘る。掘った土はトロッコで運ばれて、堤防を作る。第三フェーズ)水を引き込み、浚渫船で、更に深く掘る。掘った土は、土運船やポンプを使い、沿岸の低地や沼地に運び埋め立てする。浚渫船がポイントのような気がした。

知水資料館
水門近く、新河岸川そばに「知水資料館」。展示それ自体はそれほどでもないが、水に関する図書資料は充実している。また、ここでもっとも印象に残ったのは青山士(あきら)さん。荒川放水路工事に多大の貢献をした技術者。
明治36年、単身でパナマに移り、日本人でただひとり、パナマ運河建設工事に参加した人物。はじめは単なる測量員からスタート。次第に力を認められ後年、ガツンダムおよび閘門の測量調査、閘門設計に従事するまでに。明治45年、帰国後荒川放水路建設工事に従事。旧岩淵水門の設計もおこなう。氏の設計したこの水門は関東大震災にも耐えた堅牢なものであった。 

業績もさることながら、公益のために無私の心で奉仕する、といった思想が潔い。無協会主義の内村鑑三氏に強い影響を受けたとされる。荒川放水路の記念碑にも、「此ノ工事ノ完成ニアタリ 多大ナル犠牲ト労役トヲ払ヒタル 我等ノ仲間ヲ記憶セン為ニ神武天皇紀元二千五百八十年 荒川改修工事ニ従ヘル者ニ依テ」と、自分の名前は載せていない。2冊ほど伝記が出版されているよう。晩年の生活はそれほど豊かではなかった、と。ちなみに、日露戦争において学徒兵として最初に戦死した市川紀元二はお兄さん、とか。

熊野神社
資料館を出て志茂橋を渡り少し東に進み志茂4丁目の熊野神社に。結構長い参道。志茂の由来は、岩淵下村の「下」から。町になるとき、「下町」では、東京の下町と混同しやすい、ということで、しも=志茂、と読み違えのないように漢字をあてた、との説、これあり。熊野神社の近くに西蓮寺。雰囲気のいいお寺さま。本尊は聖徳太子がつくった、と言われる阿弥陀如来像。運慶作と言われる毘沙門天像もある。熊野神社の別当寺。熊野神社を勧請したのは昔のここのお住職。

八雲神社
西蓮寺から新荒川大橋・国道122号線方面に戻る。国道手前の岩淵橋の近くに八雲神社。創建年次は不明。江戸時代の日光御成街道が通る岩淵宿の鎮守であった。
境内に「町名保存の碑」。往時、宿場町としてこのあたり一帯の中心地であった「岩淵」の名前を後世に残すために努力した市井の人たちの功績を記す。要するに、岩淵って地名を、近年になって勢いをもってきた「赤羽」に吸収しようとする行政の動きに対して断固抵抗した、ってこと。高崎線の駅名が岩淵ではなく、赤羽となったことに納得のいかない古老もいる、とか。地下鉄南北線の駅名が「赤羽岩淵」となっているのに、大いに納得。 

宿場町・岩淵宿についてメモ;江戸からあまり距離もないこの地に宿が設けられ理由は、荒川が「荒ぶる川」であったため。氾濫して渡しが止まり、足止めになることも多く、そのための臨時というか緊急用宿場といった按配。そのため千住宿のように大きな宿となることはなかった。が、それでも天保の頃というから19世紀の中頃には戸数200軒強、人口1500人程度では合った、と言う。

 ついでに、岩槻街道、というか、日光御成道のルートをメモする;王子までは本郷通り>王子で石神井川というか音無川、それにかかる音無橋を渡り>今回あるいた、王子神社崖下の森下通り商店街>王子稲荷神社前>名主の滝公園前をとおり>崖上の道に>京浜東北線に沿って>中十条1丁目交差点>地福寺>中十条2丁目>東十条駅西>西音寺西>環七通り・馬坂交差点>京浜東北線と埼京線の合流点近く・京浜東北線に最接近>埼京線を西に>香取神社・普門院・静勝寺の崖下を>赤羽駅前・宝撞院>ここから新荒川大橋まで一直線・赤羽岩淵駅>北本通り>新荒川大橋へと進む。 

宝憧院
新荒川大橋南詰から日光御成道にそって赤羽に向かう。途中、梅王寺とか正光寺跡とか大満寺といったお寺さまに寄りながら地下鉄南北線・赤羽岩淵駅に。
梅王寺は、もとは尼寺。正光寺は火事で本堂が焼失。門と観音さまだけが残っている。大満寺は岩淵不動とも。赤羽岩淵駅からJR 線に向かって少し進むと宝憧院(ほうどういん)。院の前に道標。「東 川口善光寺道日光岩付道」「西 西国富士道 板橋道」「南 江戸道」、と。日光御成道上の交通の要衝、であったということか。 

JR赤羽駅
JR赤羽駅。現在の赤羽駅前は大きく賑わっている。が、明治以前は岩槻街道・日光御成道筋の一集落。岩淵宿のほうが宿場町として賑わっていた。状況が変わってきたのは、鉄道駅と陸軍か。明治18年赤羽駅。明治20年代には近衛師団・第一師団の陸軍工兵隊が赤羽台に移転。それを皮切りに多くの陸軍施設がこの地につくられ、赤羽地区が賑わっていった、ということ。 
ちなみに、赤羽の由来。荒川に抉られた台地面に赤土が露出していたので、赤土を意味する赤埴(あかはね)と呼ばれていたのが由来とか。埴とは埴輪など、赤粘土のこと。これも諸説あり定かならず。 (「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)


国道122号線・北本通り

さてと、赤羽から先は新田地区の清光寺、というから隅田川畔まで進み、そこから最後の目的地・王子に戻るコースを取る。赤羽駅・東口を適当に北東に進む。スズラン通り商店街。活気がある。商店街の出口付近、岩淵中の隅を右折。道なりに進む。赤羽中の横を通り、志茂地区を適当に進む。
地下鉄南北線・志茂駅近くに。 北清掃工場脇を通る。明治の頃、このあたり、東というか北は神谷の荒川土手から、西というか南は京浜東北線にかけて飛行場があった。名前は岸飛行場。岸さんというお医者さんの所有する18万坪にもおよぶ広大なものであったらしい。 国道122号線・北本通りに出る。
ちなみに北本通りの読みは「きたほんどおり」。ずっと「きたもとどおり」と思い込
んでいた。埼玉県の北本市と何か関係あるのか、とも思っていた。が、読みが違えば関係ない。この国道122号線、栃木県の日光からはじまり、群馬・埼玉と経由し東京都の豊島区の西巣鴨交差点(国道17号線交点)までの157.5キロ。都内では明治通り・北本通り、埼玉に入って岩槻までは岩槻街道と呼ばれる。

神谷掘公園

北本通を神谷地区に。少し進むと神谷掘公園。神谷掘とも、「甚兵衛掘」とも呼ばれていた排水路跡。甚兵衛堀の由来は、この堀をつくり新田開発に貢献した甚兵衛さん、から。かつてこの地は湿地帯。大雨や洪水のたびに田畑に大被害。掘は江戸時代排水のためにつくられた、とか。明治になり、旧王子製紙十条工場が隣接地に作られ、その物資の運搬に使われたが、現在は埋め立てられている。




豊島馬場遺跡
神谷掘公園を隅田川方向に進む。王子5丁目から豊島8丁目へと進む。東京聖徳学園前、隅田川にほど近いあたりに古墳時代の遺跡・「豊島馬場遺跡」。現在は公園になっている。台地上のいくつもの集落の共同墓地と言われる。台地上だけでなく低地帯でも生活ができるほど、土木技術も進歩していったのだろう。神谷の由来は、蟹庭か蟹谷が転化したもの、と。蟹が群れていた地帯だったのだろう。実際、神谷掘のあたりは、渓谷であったと言われる。


清光寺
豊島7丁目、新田橋の近くに清光寺。品のいいお寺さん。休憩所など、もてなし、ご接待の気持ちがありがたい。このお寺平安末期から鎌倉初期にこの地で活躍した豊島康家・清光が開基のお寺さん、と言われる。ひとり娘の菩提をとむらうお寺、とも。
清光は子の清重とともに、頼朝の武蔵討ち入りに協力し、鎌倉幕府の御家人として重きをなした。本尊は不動明王。行基作の「豊島の七仏」のひとつ、と。ちなみに、行基と七仏、というか七仏薬師って、全国各地に見られる。時間ができたら調べてみよう。(つい最近訪れたときは、本堂の工事中。お堂が影も形も無くなっていた)




紀州神社
お寺を出て新田橋通りを進み、紀州通りを左折し紀州神社に。この神社、もとは王子の王子権現の境内にあった。王子権現も紀州神社も、豊島氏が紀州熊野から勧請したもの。この地に移ったきっかけは、水争い。
この地・豊島村と王子村の間で争いとなり、豊島村の産土神である紀州神社をこの地に戻した。このとき先頭で錆びた槍をもち、豊島村のために戦ったのが甚兵衛さん。その姿から「錆槍甚兵衛」と呼ばれるようになる。で、この甚兵衛さん、先ほどの神谷掘、というか甚兵衛掘の名前の由来ともなった人物でもある。 

西福寺

紀州神社を離れ、豊島中央通商店街を南に下る。豊島3丁目に西福寺。六阿弥陀第一番のお寺として知られる。境内には敗走中に殺害された六名の彰義隊員を供養する六地蔵、それと「土佐の高知の播磨や橋で、ぼんさん、かんざし、買うを見た」の歌で、ぼんさんにかんざしをもらった、お馬さんのお墓もある。で、六阿弥陀についてまとめておく。といっても、足立散歩のときにも、荒川区散歩のときちょっとかすめた北区の船方神社でもメモしたように思う。 

六阿弥陀って、嫁ぎ先での不仲を悲しみ川に身を投げた姫というか娘と、5人の侍女の計6人をとむらうもの。川に身を投げた娘は清光の娘、といわれたり、清光のもとに嫁いだ娘、とも言われたり、嫁ぐにしても、清光が悪代官の如く、いやがる娘を無理やりおのれのものにしたり、とあれこれ。身を投げた川も、荒川であったり沼田川(足立区)であったり、と、あれこれ。ともあれ、娘をなくした「誰か」が熊野に参詣。夢枕に仏が曰く「よき木を与える。行基が訪ね参るので、阿弥陀仏を作らしめるべし」と。行基が訪れる。一夜で六体の仏像を掘りあげる。で、その六体を六ヶ所のお寺おつくり安置した。 
第一の寺;西方浄土に生まれ出る御利益を授ける、西福寺。 北区豊島2丁目 
第二の寺;家内安全・息災延命の御利益を授ける延命寺 足立区江北2丁目 
第三の寺;福寿無量に諸願を成就させる無量寺。北区西ヶ原2丁目 
第四の寺;皆に安楽を与える与楽寺。 北区田端1丁目 
第五の寺;一家和楽の福徳を授ける常楽院。現在、調布市西つつじヶ丘、に移転 
第六の寺;常に光明を放つ常光寺と名付けた。江東区亀戸4丁目 そのほかにも余った木でつくったという二体の仏さん 木余りの弥陀:性翁寺足立区扇2丁目 木残りの観音:昌林寺;北区西ヶ原3丁目 
それにしても六阿弥陀信仰って足立、荒川、北区ローカルな「巡りもの」。これもどこかでメモしたと思うのだが、六阿弥陀巡りは結構距離がある。「六つに出て六ツに帰るは六あみだ」と読まれるように六里から7里もあるわけで、隅田川から武蔵野台地の崖線に沿って歩く1日がかりで歩くことになる。信仰、参詣とはいうものの、大いにレクレーションもかねているわけで、春秋のお彼岸の日に、入日を遥拝することによって西方浄土、極楽浄土に行けるという信仰をお題目に、太陽の廻る方向に東から西の寺院を「六阿弥陀嫁の噂の捨て所」などとあれこれお話をしながら骨休めをしたのでありましょう。北区散歩の最後で豊島清光ゆかりの、「清光寺」、そして清光ゆかりの「六阿弥陀さん」の第一番のお寺でしめくるのも、偶然とはいえ、奇しくもの因縁か。 

石神井川
西福寺の後は、いつだったか石神井川を散歩したとき、王子から隅田川への合流点まで歩いた道筋、つまりは、新掘橋から掘船地区への道筋を逆に辿り王子駅に。北区散歩も石神井川散歩からはじまり、奇しくも石神井川で終わった。
ついでのことながら、この石神井川って明治の工業化の立役者。北区の産業発祥の地は幕府建造の反射炉(大砲製造所)跡地につくられた鹿島紡績所。現在の滝野川2丁目につくられたこの工場の動力源は千川上水から石神井川に落として廻した水車。その後渋沢栄一がつくった抄紙工場や印刷局抄紙工場も石神井川の下流につくられた。
こういった石神井川下流部にできた工業を契機にして繊維、製紙などの工場、さらには軍事施設関連工場などが相まって近代産業の礎がつくられた、とか。滝野川地区の石神井川の姿を思い起こしながら、北区散歩を一応終わりとする。

田端から王子、赤羽へと
北区を歩く。石神井川源流から下ってきたとき、意図せず、北区・王子近辺を歩いたことがある。平氏打倒の旗揚げをした頼朝が、下総から武蔵に乗り込み、最初の陣を張ったとも伝えられるお寺・金剛寺だったか、「音無しさくら緑地」の緑の吊橋のあたりだったか、ともあれ、突然の雷雨に見舞われた。王子の近く、滝野川地区あたりから、いかにも渓谷の雰囲気をもつ石神井川を見ながら、こんなに深く掘る必要があるのだろうか、などと思っていたのだが、雷雨による増水で川が溢れんばかり。いろんな場所から集められ、排水口から川に流れ込む濁流を見て、あらためて自然のパワーを感じ入った次第。そんなこともあったよな、と少々昔のことを思い出した。 (「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)

さてさて、今回はどこからはじめるようか、と考える。北区で、なんとなく気になるのは、荒川治水資料館。名前だけに惹かれるのだが、浮間。そして、飛鳥山公園にある飛鳥山博物館。そこには北区の郷土資料館がある。キーワードはこの三つ。そうそう、それと、北区って旧軍関連施設・軍需工場がやたら多かったような印象がある。北区の一割程度を占めていた、とも言われる。旧軍関連施設も北区のキーワード、であろう。 
で、あれこれ思案し、北区散歩の第一回は、結局、飛鳥山辺りを始点に、王子から赤羽にかけての武蔵野台地東端を歩くことにした。いつだったか日暮里辺りの崖線上の高台を歩き、武蔵野台地と東京下町低地の境目、そのコントラストに少々魅せられたのだが、今回の崖線歩きも地形の「うねり」が楽しめそう。ともあれ、王子の郷土資料館を手始めに、と自宅を出る。



本日のルート;田端駅>田端文士村記念館>田端八幡神社>谷田川跡>赤紙仁王>北田端八幡>大龍寺>山手線の踏切>円勝寺>中里貝塚>旧古河庭園>平塚神社>滝野川公園>七社神社>飛鳥山公園>飛鳥山博物館>音無橋>王子神社>王子稲荷神社>名主の滝公園>地福寺>富士神社>十条銀座商店街>清水坂公園>稲付公園>法真寺>香取神社>静勝寺


田端駅
飛鳥山公園のある京浜東北線・王子駅に向かって家を出る。山手線に乗り、田端で乗り換えて、と思っていた。が、乗換えが鬱陶しくなった。結局田端で降り、崖線を王子まで歩くことにした。JR田端南口で下車。南口って、崖上側。例によって、駅前の地図・案内板をチェック。田端文士村記念館、八幡神社とその別当寺あたりが目についた。





田端文士村記念館
「田端文士村記念館」を探して少々道に迷った。が、結局のところこの記念館は駅前にそびえる飛鳥タワーの1階にあった。芥川龍之介、小杉放庵、室生犀星、板屋波山といった田端を拠点に活躍した文士・芸術家の記念品が展示されている。ここに文士村ができたのは、地理的には上野の東京芸大に近かった、ということ。また、中心となる人物は芥川龍之介のような感じがした。芥川の紹介ビデオを観ていて、『羅生門』がほとんどはじめての頃の作品といっていいものである、とのこと。数日前に娘の宿題で芥川の『羅生門』について一緒に調べていたので、誠に興味深かった。「ぼんやりとした将来への不安」という言葉を残して自らの命を絶った芥川龍之介に合掌。

田端八幡神社

田端駅前から不忍通りに通じる道を降りる。いかにも切通しといった雰囲気。田端文士記念館でもらったパンフレットには、昭和8年、この切通しが完成したと書いてあった。ともあれ、両側の崖地を眺めながら田端2丁目・赤紙仁王通りで右折。隅に「田端八幡神社」。1189年建立。田端村の鎮守様。一の鳥居の手前に谷田川に架かっていた橋桁が埋め込まれていた。この赤紙仁王通りの一筋南に「谷田川通り」がある。ここが川筋跡だろう。


谷田川跡
谷田川はいろんな名前をもつ。源流点の染井霊園のあたりでは境川とか谷戸川、谷中から下あたりは藍染川、と。実のところ、この藍染川というか谷田川って、前々から気になっていた。が、どこを流れていたのか今ひとつわからなかった。今回、偶然にも谷田川跡を「掴んだ」。近いうちに源流点から不忍池あたりまで歩いて見たい。

赤紙仁王
さてさて、先に進む。田端八幡さまの横に東覚寺。八幡様の別当寺とかなんとかといった、お寺の縁起よりないより、不動堂前にある一対の仁王様の石造、すこぶる味がある。全身にぺたぺた赤紙が貼られている。赤紙仁王と呼ばれる所以。これって、おのれの患部と同じ箇所に赤紙を貼ると直ると言われ、病気が治ったお礼にわらじを奉納する、とのことだ。仁王様の表情がすこぶるいい。ひさしぶりにいいものを目にした。ちなみに写真はお正月に訪れたときのもの。参拝客も多く、お顔一面にも赤札が貼られ、ご尊顔を拝し得ず。


北田端八幡

赤紙仁王通りを西に進み、八幡坂通りに。ここにも「八幡神社」。こちらは北田端八幡さま。北田端村の鎮守さま。この田端一帯の地形は魅力的。太古、海によって削り取られた武蔵野台地の縁。田端駅近くの高台ってこの台地と東京下町低地の境界線。この崖線・高台が谷田川通りのある川筋に向かって下り、不忍通りを越えると再び本郷台地として盛り上がる。散歩をはじめるきっかけとなった、京浜東北線というか山手線に沿って聳える崖線、その先に、一体なにがあるのだろう、といった好奇心、そのときの気持ちが蘇る。田端はその思い出の地ではある。

大龍寺

神社の横には大龍寺。板谷波山などが眠っている。板谷波山(はざん)は明治から昭和にかけての陶芸家。もともとは無名の職人であった陶工を、アーティストとして、その社会的地位の向上に大いに貢献した、と。子規には散歩の折々で出会う。墨田区墨堤の長命寺近くの桜餅の店。ここに一時期、避暑かなにかで滞在し、そこの美人の娘さんに惹かれた、と。また、日暮里・善性寺前の羽二重団子のお店でも、子規がそのお団子を贔屓にしたとか、といったエピソードを聞いたような気がする。だからどうした、言われれば、それだけのことでは、ある、が。

山手線の踏切

滝野川七小前を西に進む。踏み切りに当たる。線路が北と南に分かれている。南への路線が山手線。北への路線が宇都宮・高崎線。それにしても、それにしても、である。踏み切り、とは。都内の山手線といった幹線で、踏み切りがある、というのは、まっこと、奇異な感じがする。崖線部分で交通量もない、といった事情なのであろうか。ともあれ、踏切を見たときは山手線とは、とても信じられなかった。

円勝寺
踏み切り脇に円勝寺。このお寺には、江戸時代の茶人であり、数奇屋頭として幕府の茶道を支配していた伊佐家のお墓がある。数奇屋頭とは数寄屋坊主を指揮し、大名や御三家の茶事を司る職制。武家茶道に大きな影響力をもっていた一派、とか。門下には松江藩主・松平不昧公がいる。 この寺に「五石の松」の話が伝わる。家康鷹狩りの折り、この寺で休息。枝振りのいい待松を愛で、「松に五石を賜る」と。とはいうものの、松に領地とはこれいかに、との批判もあり、沙汰は取りやめ。とたんに松が悄然として、枯れそうに。家康公ゆかりの松を枯らしては大変と、松に「五石を賜る」と伝える。あら不思議、みるみる元気になった、とさ。

中里貝塚
線路に沿って崖線の高台、尾根道といった「田端高台通り」に戻る。このあたりの高台下、上中里2丁目19のあたりに「中里貝塚」。京浜東北線と尾久操車場に囲まれた地帯にある縄文中期から後期にかけてつくられた貝塚だ。目の下にはあるのだが、そこに行くには結構大廻り、となる。 崖線上を進み、瀧野川女子学園前の陸橋を渡り、貝塚に。
1キロ強。貝塚跡は公園となっている。で、この貝塚、幅100m、長さ500m、層の厚さは4.5m。通常の食べ殻を棄てるにはあまりにも大きすぎる。ために、貝類の加工をおこなっていた「水産加工場」ではないか、と言われている。石器をつくる石材などと交換する交易品として貝が加工されていたのだろう。もと、この地は明治の頃より、「中里遺跡」として知られていた。東北新幹線の上野乗り入れ工事のとき発見された独木舟(まるきぶね)などを知るに付け、このあたりから漁にでかけていたのか、交易舟であったのか定かには知らねども、縄文の人たちの姿に少々の思いを馳せる。

旧古河庭園

高台通りを西に。女子聖学院の前を進み西ヶ原交差点で本郷通りと合流。合流点に旧古河庭園。明治の元勲・陸奥宗光の邸宅を古河財閥が譲りうけたもの。いつだったか、バラを観に行った覚えがある。 陸奥宗光、って、その質、才気煥発にして、坂本龍馬も大いに評価した人物であった、とか。紀州藩出身。薩長藩閥政治に異を唱える。陸奥宗光は日清戦争の下関講和条約の全権のひとりとしてその才を大いに発揮した。 (「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)



平塚神社

本郷通りを進み平塚神社に。もともとこの地は中世の豪族、豊島氏の居城。後三年の役を制し奥州から凱旋した八幡太郎・源義家一党がこの城に立ち寄る。一党をもてなし、その武功を偲んで社を建てたのが平塚神社のはじまり。拝領した鎧を埋め、その上に平たい塚を築く。これが平塚の由来でもある。 文明9年(1477年)、石神井城を居城とする豊島泰経が江古田・沼袋の戦いで太田道潅と交戦。この戦いに敗れた豊島泰経は石神井城に逃れるが、その城も落城。翌年にはこの平塚城も落ちる。いつだったか、内田康夫ファン、というか、浅見光彦ファンとして、しばしば作品に登場するこの神社を訪れた。が少々イメージと異なった風景。長い境内は駐車場になっていた。作品に登場する団子屋さんの平塚亭は、いかにもファン倶楽部然としたグループで結構賑わっておりました。






滝野川公園
少し進み、本郷通りから離れ滝野川公園に入る。昔はこのあたり一体に平塚城があったのだろう。また、ここは「御殿前遺跡」があったところ。この「遺跡は律令期というから7世紀から10世紀前半にかけての古代の役所・「武蔵国豊島郡衙」の跡ではないか、とされる。ここには政庁域と正倉院があった、とか。





七社神社
国立印刷局滝野川工場とJRとの間の崖線下を進む。直ぐ隣を電車が走る、って感じ。道なりに進み崖上に戻る。西原2丁目に七社神社。もとは一本杉神明社。樹齢千年以上の杉を神木とする神社があった。明治初年に七社神社がこの地に移り、以来、七社神社と。 七社神社は江戸時代、七所神明社と呼ばれていた西ヶ原村の鎮守。この七社神社は別当寺である古河庭園横の無量寺にあった。紀伊高野山の四社明神に、天照・春日・八幡さまを合わせた、結構豪華なラインアップ。明治の神仏分離令により、現在地にまつられることになった。

飛鳥山公園

本郷通りに戻るとすぐに飛鳥山公園。公園に入る。渋沢邸や渋沢資料館。資料館には日本の近代経済社会の基礎を築き、日本産業界の指導者として活躍した人物・渋沢栄一の91年の生涯にわたる資料が展示されている。この人物評伝は結構、読んだ。城山三郎さんの『勇気堂々』が印象に残る。つい最近も、『渋沢家三代(文春文庫)』を呼んだばかり。ともあれ、この地に渋沢栄一さんの別邸、後には本邸となった住居があった、とのこと。


飛鳥山博物館
渋沢資料館の隣に飛鳥山博物館。北区の歴史資料が展示されている。予想以上に充実している。いくつか訪ねた郷土資料館の中では、エクセレント・レベル。例によって、『北区飛鳥山博物館 常設展示案内』『北区文化財ガイドマップ』『キッズランド北区』といった資料を入手。ルート取りが楽になった。 博物館を出る。飛鳥山公園には弥生時代中期の環濠集落が発見されている。長径およそ260m、短径150mといった東日本でも最大級の集落。環濠集落って、周囲に溝を巡らした村、といったもの。北区ではここ以外に王子本町2丁目の亀山遺跡、赤羽台遺跡でこの環濠集落が見つかっている。

音無橋
飛鳥山公園を出て、本郷通りが王子駅方面に回りこむあたりの歩道橋を渡る。石神井川にかかる音無橋に。石神井川ってこのあたりでは、音無川とも滝野川とも呼ばれる。石神井川は西武線・花小金井の近く、小金井公園裏手の嘉悦大学境内が源流点。といっても、いつだったか、源流点を見に行ったときときには、湧水などまるでなかった。ともあれ、そこから、早大運動場脇の関公園の池、石神井公園の池などを経て、東に下り、北区堀船で隅田川に合流する。全長25キロ強の一級河川である。 もともとの川筋は、この王子近くで南に下っていたようだが、「河川争奪」のため、王子から東にその流れを変えた、と。河川争奪とは、元の川筋が別の川筋に「奪い取られる」ということ。ここでは、崖線が浸食のため削られ、崖線に沿って南に下っていた元々の流路が、東野東京下町低地へと、その流れを奪い取られた、ということ。都内では、ほかに等々力渓谷に見られる。 橋から石神井川を少し戻る。結構な渓谷、である。河川争奪の結果、王子方面へと流れを変えた川筋は、結構な急勾配を下ったのだろう。地形図をチェックすると、王子あたりでの比高差は10mほども、ある。その急勾配故に、川床が深く掘り切られていったのだろう。このあたり。滝野川とも呼ばれ、紅葉の名所であった、とか。

王子神社
川筋から戻り、橋を越え、北区第二庁舎あたりを右折。王子神社。中世熊野信仰の中心となった神社。紀州熊野三所若一王子が勧請され若一王子宮となったのがはじまり。若一王子(にゃくいちおうじ)または、若王子(にゃくおうじ)とは少年または少女の姿で現れる神さま。全国の熊野信仰のひろまりにつれ、熊野神社を勧請する際に多くの場合、この神様が祀られた、とか。日本では古来、若宮とか御子神といった、本宮の神様の子供をお祀りする信仰があるが、これなどその典型か。ともあれ、東京低地から武蔵野台地に「登りあがる」この地に熊野信仰の橋頭堡を確保し、武蔵の国一体に、その川筋に沿って進出していったのだろう。 熊野・紀州で思い出したのだが、この王子一帯が行楽地としてブレークしたのは八代将軍吉宗の力によるところが大きい、と。紀州徳川家の出身故に、熊野信仰のこの地を庇護し江戸時代、庶民の一大行楽地となった、とか。ちなみに、先ほどの音無川も、熊野の音無川に由来することは、言うまでもない。

王子稲荷神社

台地をすこし降り、京浜東北線の手前の森下商店街を北に進む。左手に「王子稲荷神社」。関八州の稲荷神社の総社。毎年大晦日、関東のお稲荷さんの名代としてお狐さまが、王子2丁目、というから王子駅を明治通り方面に少しすすんだあたりにある装束稲荷神社に集まる。で、高級女官の装束に改めて、行列を調えこのお稲荷さんに参拝した、という装束稲荷伝説ものこっている。落語『王子の狐』の舞台でもある。 王子の狐;ある男、娘に化けている狐を見かける。そしらぬ顔をし、料理屋に。狐が酔っ払って寝ている間に、その男、店をでる。「お勘定は娘にもらってくれ」。目が覚めた狐、突然の御代の請求に我を忘れ、正体を現す。で、追い回され、殴られ、狐はほうほうの態で逃げ出す。逃げた男、狐をだますと祟りがあると恐れ、狐のもとに謝りに。おみやげのボタモチ。子きつね、「おいしそう。食べてもいい」。親きつね曰く「およしなさい。馬の糞かもしれないよ」。お後がよろしいようで。



名主の滝公園
少し先に金輪寺。もと、王子権現の別当寺の藤本坊。幕末に焼失。明治に金輪寺の名前を継いで王子山金輪寺、とした。鉄筋のお寺様。直ぐ近くに名主の滝公園。江戸時代、王子の名主であった、畑野孫八が開いた庭園。明治になりこの地を所有していた垣内徳三郎が塩原の景観を取り入れた造作とした、と。落差8mの男滝をはじめ、女滝、独鈷の滝、湧玉の滝など四つの滝。水量もおおく、湧水というか地下水を利用した庭を開いた、とはいうものの、この滝から流れる水は人工的なものでは?、とその圧倒的な水量を見るに付け忖度する次第。ともあれ、こんな自然が、都内に残っているだけで結構幸せ。ちなみに、この公園、映画「黄泉がえり」の中で柴崎コウが歌った「月のしずく」のプロモーションビデオのロケ地でもあった。

地福寺
道なりに東十条駅方面に進む。地福寺。門前手前に六体のお地蔵さん。十条村のお地蔵さん、と呼ばれた所以、か。茶垣の参道、も。昔、王子周辺はお茶の栽培が盛んであった、とか。その歴史を今にとどめるべく、茶の生け垣による参道を作られた、と。






富士神社
富士神社には社殿はなく富士塚のみ。もともとは古墳ではなかったか、とも言われる。富士塚は富士信仰による。実際に富士にお参りできない人たちのために、その姿に似せて塚とつくる。散歩をはじめるまで、富士塚など、見たこともなかったのだが、歩き始めて以来、あちらこちらで出会うことになった。都内で出会ったもので、最大のものは、葛飾区南水元の富士神社であった、かと。先日、冨士講中興の祖・食行身禄(じきぎょうみろく) を描いた『富士に死す;新田次郎(文春文庫)』を古本屋で見つけ読み終わったばかり、である。 富士神社の角を西に入り埼京線・十条駅に。ここからしばらくは、十条銀座商店街を進むことになる。




十条銀座商店街
およそ200以上の店が集まるこの商店街は、近隣に設置された軍関係施設の拡充に呼応して発展。北区の一割近くを占めたといわれる軍関連施設をまとめておく。 明治初年に赤羽の台地に火薬庫が、石神井川沿いに板橋火薬製造所ができたのがはじまり。
赤羽・十条・滝野川の西部を弧状に分布していた軍施設は、北から、工兵第一大隊架橋場、近衛工兵隊架橋演習場、練兵場、第一師団工兵第一大隊(星美学園敷地)、近衛工兵大隊兵営(東京北社会保険病院)、陸軍被服本廠(赤羽団地)、工兵作業所、陸軍火薬庫(桐ヶ丘団地)、陸軍兵器庫、東京陸軍兵器支廠、陸軍火工廠稲付射撃場(西ヶ原2丁目・梅ノ木小学校)、板橋火薬製造所、十条兵器製造所、雷こう場、王子火薬製造所分工場、火薬製造所豊島分工場、といった按配。ちなみに西ヶ原の東京外国語大学敷地には海軍下瀬火薬製造所があった。 十条銀座の雑踏を進む。こういった商店街って大阪にはよくあるのだが、東京ではあまり見かけない。進むと富士見銀座に続く。

清水坂公園
環七通りを越え、先に進むと清水坂公園。公園は崖面を活用したつくりになっている。台地下に下ることなく、高台というか尾根部分を進む。台地が切れる。崖端から眺める。複雑に入り込んだ枝状の台地が魅力的。貝塚の遺跡跡を公園にした、と言う。

稲付公園
崖縁の石段を下りる。稲付公園のある丘に登る。ここは講談社・野間家の旧別邸跡。ひとつの丘全部が別邸とは剛毅な限り。丘に登る坂は野間坂。講談社社長・野間清氏に由来することは言うまでもない。 丘をぐるっと廻り坂をくだる。鳳生寺坂。
案内文;この坂は、鳳生寺門前から西へ上る坂で、坂上の十字路まで続き、坂上の旧家の屋号から六右衛門坂とも呼ばれます。坂上の十字路を右(北)へ向かうと赤羽駅西口の弁天通り、左(南)に向かうと十条仲原を経て環七通りへと至ります。名称の由来となった鳳生寺は、太田道灌の開基と伝えられ、岩淵宿にあったものを移したので、現在も岩淵山と号しています、と。稲付って地名の由来;昔、荒川が氾濫したとき、この高台に稲が流れ付いたから、とか。今ひとつ釈然とせず。

法真寺
鳳生寺前を通り、香取神社に向かう。行く手に見える小高い丘、その緑の中にあるのだろう。坂道を上ると法真寺。落ち着いた、いいお寺。徳川家光公より十三石二斗の御朱印を受ける。現在でも門跡寺院の格式をもち、京都の公家寺同様に、掘に二本の白線を入れる権利をもつ由緒あるお寺。開山は天海僧正の弟 ・日寿上人。開基は京都山科毘沙門堂跡守澄法親王、と聞けば、なんとなく納得。

香取神社
すぐ隣に香取神社。旧稲付村の鎮守さま。創建時期は不明。縁起によれば、奥殿に安置されている朱塗りの本殿は、かって上野東照宮の内陣だったもの。
家光が夢のお告げにより稲付村に移された、と。それにしても、隅田川の西で香取神社を見たのははじめて。基本的には隅田川の東が香取神社の祭祀圏ではあるのだが、はてさて、どういった経緯でこの地に誕生したのか、ちょっと調べてみたい。

静勝寺
台地の上を進み静勝寺。室町中期、太田道潅が北の拠点として築城した稲付城址。稀代の英雄の菩提をとむらうため道灌の禅の師匠・雲綱がむすんだ庵・道灌寺がはじまり。江戸時代、太田備中守資宗の庇護のもと、道灌とその父資清の法号をもとに現在の名前に改められた。 お寺は台地の端。眼下に赤羽の駅前低地。
台地下は鎌倉時代には岩渕宿、室町には関がもうけられるなど交通の要衝。時代は下って江戸期には岩槻街道、というか日光御成道となっている。城はその主要道を見下ろす台地に位置し、江戸と岩槻の城をつなぐ戦略拠点であった、ということだろう。 静勝寺の坂を降り、駅前への道、これって岩槻街道、というか日光御成道に下り、すぐ近くの赤羽駅に。今回の散歩は、お寺あり、神社あり、貝塚あり、城跡あり、桜の名所あり、紅葉の名所あり、台地あり、川あり、なかなかにバラエティに富んだコースであった。

大田道潅ゆかりの越生から毛呂山町の鎌倉街道を辿る

越生に出かけた。大田道潅ゆかりの地。道潅の父・道真の隠居所もあるという。少々遠いため、「越生に行きたしと思えども 越生はあまりに遠し」と、敬遠していたのだけれども、寄居や武蔵嵐山に歩を進めた昨今となっては、どうということもない、という気持ちになっていた。



本日のルート;東武東上線・東毛呂駅>出雲伊波比神社>毛呂川>東武越生線・越生駅>尾崎薬師>五大尊つつじ園>越辺(おっぺ)川>山吹の里歴史記念公園>県道30号線>鎌倉街道>呂山町歴史民俗資料館>東武越生線・川角駅

東武東上線・東毛呂駅
池袋から東武東上線で坂戸駅に。坂戸で東武越生線に乗り換え越生に進む。社内で地図を眺めていると、越生のふたつ手前の東毛呂に「出雲伊波比神社」がある。これはこれは、ということで急遽、東毛呂で下車することに。 東口に出る。駅前の案内をチェック。東のほう、500m程度のところに出雲波比神社。また、逆方向の西に3キロ程度のところに「歴史民俗資料館」がある。歴史民俗資料館って、どの程度のものかわからないけれども、結構気になる。はっきりとした住所はわからないのだが、大類とか苦林といった地名の近く、のようだ。越生を歩いたあと、「歴史民俗資料」を訪ねることにする。

出雲伊波比神社
駅を離れ神社に向かう。進むにつれ、鬱蒼とした森が左斜め前に見える。出雲伊波比神社の鎮守の森であろう。岩井地区で県道 30号線に。飯能市の国道299号線から分かれ、大里郡寄居町に続く。このあたりは重複して走っている。国道を渡るとすくに伊波比神社の境内。巨大である。独立丘陵上すべてが境内といった有様。本当のところ小さい祠程度かと思っていた。一昨年だったか、狭山丘陵を歩いていたとき、狭山湖の北西、入間の中野で「出雲祝神社」に偶然であった。こじんまりとした、田舎の社といった雰囲気であった。ために、この地の社も「祠+α」程度といったものかと思っていた。が、とんでもない。立派な構えの社でありました。

神社で手に入れた由緒によれば、祭神は大名牟遅神(大国主命)・天穂日命。創建は景行天皇53(123)に日本武尊(倭建命)が東征凱旋のおりに創建した、と。天皇から賜ったヒイラギの鉾を納め、神宝としたのもこのときといわれている。成務天皇のとき、出雲臣武蔵国造・兄多毛比命が祖先神・出雲の天穂日命を祀り、大己貴命とともに出雲伊波比神としたとされる。兄多毛比命って、出雲族を率いて武蔵にやってきた人物として、いろんなところで顔を出す。で、この神社、孝謙天皇の御世・天平勝宝7年(755年)に官幣にあずかる。光仁天皇の宝亀3年(772年)、勅により幣を奉られ、以降歴代天皇の祈願所でもあった。醍醐天皇の延喜7年(907年)には武蔵国入間郡五座に列せられた。 この神社は武家の信仰も篤く、康平6年(1063年)、源義家が奥州平定の凱旋の折、この社を訪れ鎮定凱旋を寿ぎ流鏑馬の神事を奉納した。これが現在、県の指定民俗資料となっている「流鏑馬」のおこりである。
建久年間(1190年頃)、源頼朝は畠山重忠を奉行とし本殿を桧皮葺に造営、神領も寄進した。永享の頃(1430年頃)は足利持氏が社殿を瓦葺の造営。その後焼失するも、大永8年(1528年)、この地に覇をとなえた毛呂顕繁によって再建される。その後も北条氏、徳川家の庇護を受けるといった具合である。 神社の名前は、中世から江戸期にかけて飛来明神(毛呂明神)と称される。幕末から明治時代に古来の出雲伊波比神社に改められた。
出雲伊波比神社という名前に最初に出合ったのは、先ほどもメモした入間の出雲祝神社。なぜ、武蔵に「出雲が」と持ち前の好奇心でチェックし、武蔵の国と出雲族の関係が少し分かった。武蔵を祭祀圏とする氷川神社も出雲族の祖先神であり、出雲の斐川=氷川、に由来する、ということは何度となくメモした。武蔵国造としてこの地を治めた出雲族は、物部氏に代表される大和朝廷の派遣される国司に取って替わられ、中央王権に屈していく。が、さすがに祖先の神々までを排することはできなかったのであろう。それにしても、「出雲伊波比」とか「出雲祝」とか、「出雲」そのままの名前まで残すって、朝廷も「出雲族」に配慮しなければならなかったのであろう、か。 (「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)

正倉神火事件 ついでのことながら、出雲伊波比神社で思い出すのは「正倉神火事件」である。これも出雲祝神社のときにちょっとメモした。概略をメモ;奈良時代末~平安時代初期、主に東国において「神火」によって、役所の倉・正倉が焼失するという事件が頻発した。「朝廷が神に幣帛を奉るのを怠ったたえ、神の祟りが起きた」ということ、である。そしてその怒った神がどうやら出雲伊波比の神であると、いう。地方からの報告を聞き、朝廷も最初はそれを信じていたらしい。が、その実態は神でもなんでもなく、どうやら各役所の官僚の悪知恵であったよう。米の横領を隠蔽しようとして倉に放火。その罪を神に被せようということであった、わけだ。また、上司を罪に落とし入れ、責任をとられ、自分が取って替わる、といった思惑もあったとも。あれあれ、といった事件でありました。 

毛呂氏 
毛呂氏について、ちょっとまとめておく。毛呂氏は常陸国に流された藤原氏が、武蔵七党の丹党と婚姻関係を結んで土着したものといわれる。鎌倉政権では、藤原の流れというその貴種ゆえに、頼朝に重用される。「吾妻鏡」には毛呂季光を豊後国の国司に推挙するとある。南北朝時代には足利尊氏方に与力し活躍。15世紀末に太田道灌が死去すると山内上杉方に与する。大永4年(1524)に北条氏綱が江戸城を奪うと、その傘下に。山内上杉憲房の攻撃を受けるが、氏綱の救援。和議が成立。その後も後北条に属して活躍するが、豊臣秀吉の小田原征伐で運命をともにする。

毛呂川
神社を離れ、県道30号線を北に進む。東武越生線の跨橋を越え、岩井の交差点を西に折れる。「岩井」は出雲「伊波比」から転化したものだろう。しばらく進むと毛呂川橋。文字通り、「毛呂川」に架かる。毛呂川は毛呂山町の山間部からはじまり、越生で越辺川に合流する7キロ程度の川。
東武越生線・唐沢駅
川に沿って遊歩道が下流に続いている。歩いてみたい、とは思えども、越生へと、の思いも強く、先を急ぐ。武蔵越生高校前を過ぎ、東武越生線・唐沢駅手前で北に折れ、線路に沿って越生方面に進む。柳田川に架かる柳田橋を越え、五領児童公園前を進み、しばらくすると東武越生線・越生駅に。

東武越生線・越生駅

駅前で案内板をチェック。山吹の里は駅の東。西には五大尊つつじ公園。またいくつかお寺があるが、どれが道潅ゆかりのものか手がかりはない。どうしたものかとは思いながら、街を歩く。古い家並みがところどころ見え隠れする。
駅の正面に法恩寺。行基が開基と。天平13年というから、西暦738年のことである。それにしても、いたるところに行基が顔を出す。それほどに、ありがたいお坊さんであったのではあろう。その後、荒廃するも、文治の頃、というから、1190年頃、源頼朝の命により越生次郎家行が再興。源家繁栄の祈祷所となる、と。もとは報恩寺と書かれていたが、いつの頃からか法恩寺と書かれる様になった。
確か、墨田を散歩していたとき、道潅ゆかりの法恩寺があった。道潅が江戸城内に祀った平川山本住院を、後に孫の資高が墨田に移し平川山法恩寺とあらためた、とか。このお寺と名前が同じ。報恩寺が法恩寺となったのは、ひょっとしてこのあたりに原因が、と独り勝手に空想する。 

越生氏 
越生氏は武蔵七党のひとつ。鎌倉時代この地を領した。武蔵権守越生次郎家行の一族である越生新大夫有行が越生氏の祖といわれる。一族に黒岩氏、岡崎氏、鳴瀬氏、吾那氏などがある。越生の名前の由来でもある。越生氏は足利尊氏とともに南北朝を駆け抜ける。「太平記」には、越生四郎左衛門が南朝方の総大将・北畠顕家を討ち取った、とある。が、活躍もそのころまで。それ以降、越生氏は歴史に登場することはない。

で、そもそも「越生」の由来であるが、この地が平野と山地の接点にあり、秩父に向かうにも、上州に向かうにも尾根や峠を越えねばならなかった。ために「尾根越し(おねごし)」から変化した、とか。 ちょっと気がついたのだが、この越生の「生」って読み方さまざまである。「越生;おご(せ)」、福生ふっ(さ)」、「生(いく)田」、埴生はにゅ(う)」、「早生(わせ)」、「生(なま)もの」、「生(い)きる」、「生(う)む」、「生(お)い立ち」、、「生(き)糸」、「芝生(ふ)」「実が生(な)る」などなど。読み方は50種類以上もある、という。何ゆえこういうことになったのか、日本語の先生にそのうち聞いてみようと思う。ちなみに、「生越」さんという人がいた。越生と真逆でありながら、同じく「おごせ」と読む。これも、そのうち確認してみたい。

尾崎薬師
どこに進もうか、ちょっと考える。山吹の里に直行しようか、それともどこか見どころは?結局、五大尊つつじ園に寄ることに。それほど、花を愛でるといったタイプではないのだが、1万本のつつじが咲く関東屈指のツツジ園ということであれば、どんなものかとちょっと眺めてみようと思う。 街の中を成行きで進む。越生町役場のところで車道から離れ、中央公民館とか町立図書館の前を進む。尾崎薬師の案内。ちょっと寄り道。 この薬師堂は越生一族の岡崎氏が館を構えたとき、薬師如来を安置したのがはじまり、と。その後岡崎氏は石見国に移り、北朝方として活躍したとされる。

五大尊つつじ園

岡崎薬師から道に戻り、先に進む。越生小学校のあたりから山に向かう小道。丁度ツツジまつりの最中でもあり、結構人が多い。入園料を払って園内に入る。といってもとりたててフェンスがあるわけでもなく、この季節に限り地元の人達が切符切りをしている、といった有様。急な坂道を上り、山肌一面のツツジを眺め、お不動さんにおまいり。ちなみに越生一族の黒岩氏の館はこのあたりにあった、とか。しばし休憩し、石段を下り、次の目的地「山吹の里」に向かう。ついでのことながら、昨年だったかつつじで有名な東青梅の塩船観音に行ったときのことを思い出した。擂鉢上の山肌一面のツツジも見事でありました。文京区の根津神社も美しいツツジでありました。歩いていれば、あれこれ繋がってくる。

越辺(おっぺ)川
車道に戻り、黒岩の交差点を東に折れる。車の多い通りを避け、川筋をあるこう、と思った次第。春日橋の手前を折れ土手道を歩く。この川は越辺(おっぺ)川。越生町黒山地区に源を発し、有名な越生梅林を経て越生の町を抜け、毛呂山町・鳩山町へと。で、坂戸市で高麗川、比企郡川島町で都幾川が合流し、川越で入間川に流れ込む。それにしても、この「おっぺ」って、なんともいえない音の調子。古代朝鮮語の「布」という意味だとか、アイヌ語だとかあれこれ説はありようだが、これといった定説はないようだ。


山吹の里歴史記念公園

土手道を進み、中央橋手前で車道に戻る。うちわの手づくりが体験できる、といった店がある。越生ってうちわで有名のようだ。最近テレビで見た旅番組でレポーターがうちわつくりを体験していた。駅前を抜け、越辺川に架かる山吹大橋を渡ると、正面に「山吹の里歴史記念公園」。 
太田道潅、といえば「山吹の花」といわれるくらい有名であるが、ちょっとおさらい;道潅が狩に出る。突然の雨。農家に駆け込み、蓑を所望。年端もいかない少女が、山吹の花一輪を差し出す。「意味不明?!」と道潅少々怒りながらも雨の中を家路につく。家に戻り、その話を近習に語る。ひとりが進み出て、「それって、後拾遺集にある、醍醐天皇の皇子・中務卿兼明親王が詠んだ歌ではないでしょうか」、と。「七重 八重 花は咲けども山吹のみのひとつだに なきぞ悲しき」。「蓑ひとつない貧しさを山吹に例えたのでは」、と。己の不明を恥じた道潅はこのとき以来、歌の道にも精進した、とか。 話としては面白いのだが、もとより真偽の程は定かではない。それに、このエピソードというか伝説は散歩の折々に出合った。横浜の六浦上行寺あたり、豊島区高田の面影橋、荒川区町屋の小台橋あたり、であったろうか。伝説は所詮伝説であるし、それほど道潅が人々に愛されていた、、ということであろう、か。 
台地のあたりをブラブラし、公園を離れる。入口に説明文。小杉の地に建康寺、山麓に龍穏寺など道潅ゆかりの史跡の案内。建康寺は道潅の菩提をとむらうため建立。近くには道真の隠居所・自得軒があった。道潅が歌人・万里集句と訪れたところ。伊勢原の糟屋館で謀殺されるひとつ気前のことである。親子最後の対面の場であったのだろう。
また、龍穏寺は6代将軍足利義教が、関東管領上杉持朝に命じて先祖の冥福と戦没者の菩提を弔う為に建立したもの。その後荒廃するも、太田道灌により再建される。道真はこのお寺の近くに「山枝庵」をつくるが、後に小杉に移った、と。道潅親子のお墓もある。 建康寺、龍穏寺にちょっと惹かれる。とはいうものの、結構距離かある。今回は諦める。越生は資料収集がいまひとつうまくいかず、「積み残し」が多かったようだ。建康寺、龍穏寺、そして越生神社。報恩寺をでたところを山に向かえば越生神社があった、よう。報恩寺再興をした越生次郎家行の氏神として祀ったもの。さらに、越生といえば、というほど有名な「越生梅林」。関東三大梅林のひとつである。次回はこのあたり、越生の丘陵地を中心とした散歩を計画いたしたく。時間があまりない。先に進むことに。

県道30号線

県道30号線を進む。すぐに丘陵地の裾に向かって脇道に入る。この丘陵地は入間カントリークラブとか武蔵富士カントリークラブといったゴルフ場。地名は如意。案内に如意輪観世音といった看板があったが、それが地名の由来だろう。稲荷神社を越え、箕和田湖前。ここで県道343号線である岩殿・岩井線に入る。先に進むと目白台。丘の上に目白台団地があるよう。西戸に国津神神社。いかにも出雲系の名前。由来などをチェックにと寄り道。案内はなにもない。境内に滑り台があるといった素朴なありさま。少し進み、すぐに右に折れる。東に進み川角リサイクルプラザを越えると越辺川に交差する。



鎌倉街道
少し進み、すぐに右に折れる。東に進み川角リサイクルプラザを越えると越辺川に交差する。橋を渡り先に進み大類グラウンドの手前に「鎌倉街道」の案内。南に細い道が続く。グラウンド脇の、なんということのない道を下る。グランドが切れるあたりから、木立の脇を通る道となる。昔の面影が少々残る。川角地区と大類の境あたりに掘割遺構が見える。 
鎌倉街道って、イザ鎌倉というときにだけに使ったわけではない。すべての道はローマならぬ幕府のある鎌倉に続いていたのだろう。鎌倉と諸国をつなぐ幹線道路であったわけだ。そのうち良く知られているのが、鎌倉を基点に埼玉の中央部を貫き群馬に抜ける「鎌倉街道上道」、東京から川口・岩槻・宮代を経て茨城の古河に続く「鎌倉街道中道」、そして、東京から千葉県市川市の下総国分寺に向かう「鎌倉街道下道」の三つのルート。
ここは鎌倉街道上道。埼玉の中央部というと少々違和感があるが、秩父も埼玉であるので、このあたりが埼玉の中央部ということらしい。 鎌倉街道上道をもう少々詳しくメモ;鎌倉>大和市>町田の七国山>町田・>小野路多摩市>府中・国分寺>小平市>東村山>>久米川所沢>入間>日高>毛呂山町・市場>川角>苦林>鳩山町>笛吹峠>嵐山町・菅谷>小川町>川本町>児玉>藤岡、へと続く。

毛呂山町歴史民俗資料館
鎌倉街道をそれ、少し東に進むと「歴史民俗資料館」。資料館にはいるまで、どこの資料館かよくわかっていなかった。毛呂山町の歴史民俗資料館であった。立派な資料館である。ハンドアウトも豊富。展示もわかりやすい。それほど期待をしていたわけではないのだが、予想外に素敵な資料館でありました。今回の散歩で最初に訪れた出雲伊波比神社も毛呂山町であったことが、ここに至って改めて認識した次第。





東武越生線・川角駅
しばし休憩し、最寄りの駅・川角駅に向かう。鎌倉街道に再び戻り南に下る。西久保地区に入ると、雰囲気のある道筋となる。掘割の遺構も残る。「歴史の道百選」にも選ばれている。さらに南に進むと川にあたる。葛川。高麗川の支流である。小さな川を渡り、市場地区を南に下り、東武越生線・川角駅に到着。本日の予定終了とする。

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