時空付箋

四国遍路道;予土国境から予讃国境までの遍路道 2018年7月4日
いくつかの峠越えの遍路道歩きがきっかけて、どうせのことならと、予土国境から予讃国境までの故郷である愛媛県お旧遍路道を辿った。「えひめの記憶;愛媛県生涯教育センター」の記事にある、遍路道標を追っかけたルートであり旧遍路道に近いものと思う。
歩き遍路でつかれている方にとっては、険しい峠道避け国道のトンネルを抜けるのが自然とも思い、どの程度お役にたつのかわからないが、順不同で既に掲載した遍路メモを、予土国境から予讃国境まで、順を追って並べる。 また、四国遍路道全体地図も参考に掲載する。愛媛はすべて自分の足で辿り終えたが、他県は各種資料を基に作成したものではあるが、一応参考として掲載した。
(青の寺マークは宿坊のあるお寺様。閉じていることもあるので要確認)



南予

南予の遍路道①;土佐最後の札所39番延光寺から予土国境の松尾峠を越えて伊予に入る

南予の遍路道② ;予土国境の松尾峠を越えた小山からはじめ40番札所・観自在寺を打ち、柏坂へ

南予の遍路道③ ;柏坂越え

南予の遍路道 ④;柏坂を越えた上畑地の大門から宇和島の市街へと道を辿る

南予の遍路道⑤:宇和島市街を抜け四十一番札所・龍光寺へ

南予の遍路道⑥:四十一番札所・龍光寺から歯長峠を越えて明石寺へ

南予の遍路道⑦:四十三番札所・明石寺から鳥坂峠を越え、大洲へ

南予の遍路道⑧:大洲そして内子まで

南予の遍路道⑨:水戸森峠越え



中予

中予の遍路道①;下坂場峠と鶸田(ひわた)峠を越えて久万の町に

中予の遍路道②;真弓峠と農祖峠を越えて久万の町に

中予の遍路道③:第44番大宝寺から第45番岩屋寺へと遍路道を辿る

中予の遍路道④;越ノ峠越えと千本峠越え

中予の遍路道⑤;千本峠越えと六部堂越え

中予の遍路道⑥;三坂峠を下り四国霊場札所46番浄瑠璃寺、47番八坂寺を辿る

中予の遍路道⑦:四国霊場札所四十七番・八坂寺から四十八番西林寺へ

中予の遍路道⑧:四十八番札所・西林寺から松山市街の五十一番札所石手寺へ

中予の遍路道⑨:五十一番番札所・石手寺から松山市街を抜け五十二札所番太山寺へ

中予の遍路道⑩;五十二番札所・太山寺から五十三番札所・円明寺を打ち、五十四番札所・延命寺を繋ぐ

中予の遍路道⑪;粟井坂から花遍路の里を辿る

中予の遍路道⑫;鴻之坂の峠を越え浅海に

中予の遍路道⑬;北条の浅海から窓坂峠を越え菊間まで


東予

東予の遍路道①;五十四番札所・延命寺から五十五番札所・南光坊を打ち、五十六番札所・泰山寺へ

東予の遍路道②;五十六番札所・泰山寺から五十七番札所・永福寺を打ち、五十八番札所・仙遊寺へ

東予の遍路道③;五十八番札所・仙遊寺から五十九番札所・国分寺へ

東予の遍路道④;五十九番札所・国分寺から生木道・香園道分岐点まで

東予の遍路道⑤;生木道を中山川まで

東予の遍路道⑥;中山川を越え湯浪の横峰登山口へ

東予の遍路道⑦;香園寺道を辿り逆打ちで横峰登山口へ

伊予 歩き遍路 横峰寺道;湯浪登山口から順打ち遍路道を第六十番札所 横峰寺へ

伊予 歩き遍路 仏心寺経由道;第六十番札所 横峰寺から順打ち遍路道を第六十一番札所 香園寺へ
東予の遍路道⑧;札所六十一番・香園寺から逆打ちで札所60番・横峯寺へと辿る

東予の遍路道⑨;六十一番札所・香園寺から六十三番札所・吉祥寺まで

東予の遍路道⑩;六十三番札所・吉祥寺から六十四番札所・前神寺まで

東予の遍路道⑪;六十四番札所・前神寺から新居浜・四国中央市の境へ

東予の遍路道⑫;新居浜・四国中央市の境から三島の遍路わかれへ

東予の遍路道⑬;遍路わかれから三角寺へ

東予の遍路道⑭:六十五番札所・三角寺から地蔵峠を越えて奥の院・仙龍寺へ下る 往路

東予の遍路道⑮:六十五番札所・三角寺から地蔵峠を越えて奥の院・仙龍寺へ下る 復路

東予の遍路道⑯;六十五番札所・三角寺から六十六番札所・雲辺寺へ (三角寺から佐野の雲辺寺口へ)

東予の遍路道⑰;六十五番札所・三角寺から六十六番札所・雲辺寺へ (佐野道・曼陀道・境目道)

遍路道ではないが、巡礼道繋がりとして掲載しておく

石鎚三十六王子
石鎚登拝道。まだ途中の二十王子社まで。

石鎚三十六王子社散歩 そのⅠ;序

石鎚三十六王子社散歩 そのⅡ;第一福王子社から第六子安王子社まで

石鎚三十六王子社散歩 そのⅢ;第七王子から第二十王子社まで

石鎚三十六王子社散歩 そのⅣ;黒川道



讃岐の遍路道

讃岐 歩き遍路:六十六番札所 雲辺寺から六十七番札所 大興寺へ
 ①雲辺寺から山道を里に

讃岐 歩き遍路:六十六番札所 雲辺寺から六十七番札所 大興寺へ 
②雲辺寺山の麓から大興寺へ

讃岐 歩き遍路:六十七番札所 大興寺から六十八番札所 神恵院 六十九番札所 観音寺へ

讃岐 歩き遍路:六十九番札所 観音寺から七十番札所 本山寺、七十一番 弥谷寺へ

讃岐 歩き遍路:七十一番札所 弥谷寺から七十二番札所 曼陀羅寺へ ①海岸寺道

讃岐 歩き遍路:七十一番札所 弥谷寺から七十二番札所 曼陀羅寺へ ②曼陀羅道


 讃岐 歩き遍路:七十二番札所 曼荼羅寺から七十三番 出釈迦寺、七十四番 甲山寺を打ち七十五番札所 善通寺へ



















阿波の遍路道


阿波 歩き遍路:第六番札所 安楽寺から第十一番札 所藤井寺へ

阿波 歩き遍路:第十一番札所 藤井寺から第十二番札所 焼山寺へ その①

阿波 歩き遍路:第十一番札所 藤井寺から第十二番札所 焼山寺へ その②

阿波 歩き遍路:第十二番札所 焼山寺から第十三番札所 大日寺へ その① 玉ヶ峠・県道21号ルート

阿波 歩き遍路:第十二番札所 焼山寺から第十三番札所 大日寺へ その② 建治寺道

阿波 歩き遍路:第十三番札所 大日寺から第十七番札所 井戸寺へ

阿波 歩き遍路:第十七番札所 井戸寺から第十八番札所 恩山寺へ

阿波 歩き遍路:第十八番札所 恩山寺から第十九番札所 立江寺を打ち鶴林寺道取り付口へ

阿波 歩き遍路:鶴林寺道を上り第二十番札所鶴林寺を打ち、那賀川筋の大井まで下る

阿波歩き遍路:那賀川筋大井からはじめ第二十一番 太龍寺を打ち第二十二番 平等寺へ;太龍寺道・いわや道・平等寺道・大根峠ルート ①

阿波歩き遍路:那賀川筋大井からはじめ第二十一番 太龍寺を打ち第二十二番 平等寺へ;太龍寺道・いわや道・平等寺道・大根峠ルート ②

阿波歩き遍路:第二十二番札所 平等寺から第二十三番札所薬王寺へ

阿波 歩き遍路:第二十三番薬王寺から阿波・土佐の国境まで

土佐の遍路道 

土佐 歩き散歩:阿土国境の甲浦からはじめ第二十四番札所 最御崎寺へ

土佐 歩き遍路:第二十四番札所 最御崎寺から第二十五番札所 津照寺を打ち、第二十六番札所 金剛頂寺へ

土佐 歩き遍路:第二十六番札所 金剛頂寺から第二十七番札所 神峯寺へ

土佐 歩き遍路:第二十七番札所 神峯寺から第二十八番札所大日寺へ

土佐 歩き遍路:第二十八番札所大日寺から第二十九番札所国分寺を打ち第三十番札所善楽寺へ

土佐 歩き遍路;第三十五番札所 清瀧寺から第三十六番札所 青龍寺へ

土佐 歩き遍路;第三十六番札所 青龍寺から第三十七番札所 岩本寺へ ①青龍寺から焼坂峠分岐点まで

土佐 歩き遍路;第三十六番札所 青龍寺から第三十七番札所 岩本寺へ ②焼坂峠・添蚯蚓坂を越え岩本寺へ

土佐 歩き遍路;第三十七番札所 岩本寺から第三十八番札所 金剛福寺へ その①四万十川の渡しまで

土佐 歩き遍路;第三十七番札所 岩本寺から第三十八番札所 金剛福寺へ その②四万十川の渡しから金剛福寺まで

土佐 歩き遍路;第三十八番札所 金剛福寺から第三十九番札所延光寺まで



箸蔵街道散歩 そのⅠ;琴平の「金比羅さん」の奥の院・阿波の箸蔵寺より、阿波と讃岐を隔てる阿讃山脈・箸蔵街道を辿り讃岐へと下る

阿讃 箸蔵街道散歩 そのⅡ;琴平の「金比羅さん」の奥の院・阿波の箸蔵寺より阿波と讃岐を隔てる阿讃山脈・箸蔵街道を辿り讃岐へと下る 

 
別子銅山遺構散歩





土佐北街道











東京下町 埋め立ての歴史 東京下町散歩・江東区  2006年4月12日 水曜日
江東区は、天正18年(1590年)の家康入府以前は、ほとんどが葦の茂る低湿地。現在の総武線あたりが海岸線であった、とか。もう少し時代を遡り、室町時代の古地図を見ると、陸地は寺島(墨田区東向島)から小村井、そして平井を結ぶ線以北。その南には海というか、川というか湿地というか、ともあれ陸地からはなれたところに、亀井戸とか柳島(現在の亀戸天満宮の近く)とか、中ノ郷(東駒形)、牛島(向島)といった島というか洲が書かれている。江戸以前は江東区域って、ほとんどないも等しい、ということである。



利根川東遷事業 権現堂川から中川に 2007年 5月16日 水曜日
権現堂川を歩くことにした。利根川の東遷事業にしばしば登場する川でもある。東遷事業とは、その昔、江戸に流れ込んでいた利根の流れを、銚子方面へとその流路を変えるという、誠に希有壮大な事業。先日、茨城県古河市に遊んだ折、利根川や江戸川、そして関宿といった東遷事業ゆかりの地に触れた。それに触発された、というわけでもないのだが、東遷事業に関わる川筋を実際に歩いてみよう、と思った訳だ。

 
■利根川東遷事業;古利根川散歩のアーカイブ■

権現堂川からはじめた古利根川散歩のメモを纏めて置く(2018年現在)













葛飾区散歩 (1):小合溜井から中川の堤へ





関東郡代伊奈氏の陣屋 見沼散歩(2);見沼通船堀から赤山代官屋敷跡へ 2007年6月 20日 水曜日,
赤山城跡、または赤山陣屋は代々関東郡代をつとめた伊奈氏が三代忠治から十代・忠尊までの163年間、館をかまえたところ。初代忠次は家康入府とともに伊奈町に伊奈陣屋を構えていた。当時は関東郡代という名称はなく、代官頭と呼ばれていた。関八州の天領(幕府直轄地)を治め、検地の実施、中山道その他の宿場の整備、加納備前堤といった築堤など、治水・土木・開墾等の事業に大きな功績を挙げる。常に民衆の立場にたった政治をおこない、治水はいうまでもなく、河川の改修、水田開発や産業発展に貢献。財政向上に貢献した。関東郡代と呼ばれたのは三代忠治から。関東の代官統括と河川修築などの民政に専管することとなる。治水や新田開発のほか、富士山噴火被災地の復旧などに力を尽くす。が、寛政年間、忠治から10代目にあたる忠尊の代に失脚。家臣団の内紛や相続争いなどが原因とか。



秩父観音札所 秩父観音霊場散歩1;第一回秩父札所巡り(1) 2006年 12月 16日 土曜日,
秋から冬にかけ、2回にわけ秩父の札所を歩いた。ともに1泊2日。会社の同僚が如何なる信仰心のなせる業か、秩父札所巡りを企画した。昨年秋、紅葉を求めひとりで長瀞を歩いたのだが、札所巡りなど思いもよらず、でもあったので、いいきっかけと話にのった。最初は9月中旬。秩父市街・横瀬町を中心とした17ケ所の観音霊場巡り。二度目は11月末。美しい紅葉の中、三峯山とその奥宮のある妙法ケ岳、そして札所1番と2番、さらに長瀞を巡った。札所巡りということで、あまりにお寺の数が多く、いまひとつ散歩メモを逡巡してはいたのだが、記憶もすでにおぼろげになりはじめた。思い切って、三峰と19の札所の散歩のメモをはじめることにする。(土曜日, 12月 16, 2006のブログを修正)



熊野古道 熊野散歩1;熊野へ 2005年11月23日 水曜日
会社の仲間に言われた。「熊野へ行きませんか」。とりたてて熊野に行きたいわけではないけれど、例によって「ええよ」、と言ってしまった。で秋の連休の中日に1日休暇をとり3泊4日の予定で熊野路に。結論から言えば、散歩はそれほどできなかった。コーディネーター女史が、悪路・険路は見事に避け、時間の割に距離を稼ぐという見事な采配。で、今回は散歩の記録というよりも、いきあたりばったりで出会った事象から好奇心のなすがまま、あれこれ調べ、自我流で強引なる結論づけを行いメモをまとめる、神坂次郎さん流に言うならば、『時空浴』と洒落てみたいと思う。が、相手は何せ世界遺産の熊野さま。どこまで時間・空間を越えた熊野シャワーを浴びることができるだろうか。(水曜日, 11月 23, 2005のブログを修正)



善福寺川と妙正川の分水界 善福寺川と妙正川の分水界を跨ぎ、石神井川の水源に 2009年, 3月 12日 木曜日
今回の散歩は、善福寺川と妙正川の分水界を跨ぎ、源流点を繋いでみようと思う。ついでのことなので、石神井川の水源のひとつである石神井公園​・三宝寺池も繋ぐ。で、水源と水源の間は分水界の尾根道だけでなく、神社・仏閣で埋めることにする。水道もない昔、水源の確保は最優先事項である。権威の象徴でもある神社・仏閣がその地を押さえるのは当然のことではあろう、との推論。神社・仏閣も、川筋も何度か歩いたところ。少々視点を変えて歩こうという次第。だぶる箇所は2006年10月に歩いた杉並散歩メモを流用する



鶴見川・多摩川の分水界 多摩丘陵散歩:鶴見川・多摩川の分水界を歩く 2007年  8月 13日 月曜日
先回の新百合ヶ丘からスタートした散歩では、真福寺川によって開かれた谷筋を歩いた。道の左右には標高70mから80m程度の丘陵が連なる。起伏に富んだあの丘陵の向こうには一体なにがあるのだろう、との想いが残る。という事で、再び新百合ヶ丘近辺を歩くことにした。
今回は散歩のコースを事前に、少々真面目にチェックする。WEBには「分水界を歩く」とか「王禅寺の丘陵を歩く」とか、思いのほか多くのコースが案内されている。「分水界」とは、河川流域の境となる尾根筋のこと。ここで言えば、鶴見川と多摩川の流域の境となる尾根筋である。また、「王禅寺の丘陵」コースも魅力的。その名前だけで大いに魅かれる。で、今回は、分水界&尾根道&丘陵歩き、ということにする。小田急線・柿生駅からスタートし、麻生川筋をのぼり、新百合ヶ丘へと進む。そこからは、尾根道に乗り、王禅寺に向かい、あとは丘陵をアップダウンしながら小田急線・柿生駅まで戻る、といった段取りとする。(月曜日, 8月 13, 2007のブルグを修正)



武田家終焉の地を歩く
 天目山散歩 2009年  8月 22日 土曜日
天目山が武田家終焉の地である、ということは知っていた。が、天目山がどこにあるのか、つい最近まで知らなかった。それがわかったのは数ヶ月前。笹子峠を越えたときのことである。雪の峠を越え、甲斐大和・駒飼の里まで下ってきたとき、山腹に「武田家終焉の地、甲斐大和」と書かれた特大看板が眼に入った。あれ?ひょっとして天目山って、このあたり?チェックする。天目山って、甲斐大和駅から日川渓谷を大菩薩方面に7キロほど上ったところにあった。こんな近いところに、天目山が!
天目山。山とはいうものの、「山」でもないようで、栖雲寺という武田家ゆかりの山号のようである。道も車道が走っておりアクセスは容易。日川渓谷に沿って遊歩道もある、ようだ。歴史も自然もまとめて楽しめそう。ならば、行かずばなるまい、と言うことで、笹子峠越えから日を置かず、甲斐大和、へ



畠山重忠と木曾義仲ゆかりの地 武蔵嵐山に畠山重忠と木曾義仲の足跡を辿る 2007年 6月 15日 金曜日,

先日の寄居散歩の途中、気になっていた地名、武蔵嵐山・小川町・男衾あたりの地図を眺めていた。と、武蔵嵐山に県立歴史資料館のマーク。菅谷館跡も近くにマークされている。菅谷館って、鎌倉武士の亀鑑・畠山重忠の館跡。歴史資料館があるということは、そこに行きさえすれば、なんらかの新たなる「発見」もあろうかと、例によって前もってなにも調べず、お気楽に武蔵嵐山に向かう。この地が木曾義仲ゆかりの地であったことなど、そのときは知る由も、なし。



半田稲荷 葛飾散歩 (1):小合溜井2006年 6月 10日 土曜日
先に進む。次の目的地は東金町4丁目にある半田稲荷。和銅4年(710年)鎮座の古刹。先日購入した『江戸近郊ウォーク』(安倍孝嗣・田中優子:小学館)の中に「半田稲荷詣での記」という記事があった。尾張徳川家の藩士・村尾嘉陵の散歩の記録である。そこには「尾張・紀州両藩の士、その他諸侯の士、江戸の町々、品川あたりの者などが、ここまで月詣でする、という」と書いてある。どんなところなのか、なんとなく気になっていた。



無財の七施 竹の塚から奥州古道を想い、西新井へと 2006年 9月11日 火曜日

一茶もいいのだが、境内を歩いていて無財の七施の案内を見る。いい文章。お賽銭といった、形あるお布施もいいが、言葉や心など形のないもの、無財のもので施せば施すほど心が豊かになる、とのメモ。気に入ったので写しておく。
無財の七施(雑宝蔵経)
1. 眼施:やさしい まなざし いつも澄んだ清らかな眼で人を見よう
2. 和顔悦色施:にっこりと笑顔 ほほえみのある顔こそ最高
3. 言辞施:親切なひとこと 人を傷つける言葉 いわなくてもいい言葉をつかっていないか
4. 身施:きちんとしたおじき みなりをきれいにする
5. 心施:あたたかいまごころ 真心をこめる
6. 牀坐(しょうざ)施:ここちよい憩いの場 いま自分が坐っている場所をきれいにする
7. 房舎施:ここちよいもてなし 家の周辺をきれいにする



「鍵屋!玉屋!」 東松山城と吉見百穴を辿る  2009年 3月9日 金曜日

壮麗な権現つくりの本殿裏に元宮。小さな祠の前に狛犬なら ぬ、駒狐(?)。口に飾物らしきものをくわえている。これって何?と、同僚の指摘。玉に跨がっている狐もいる。チェックすると、玉は宝珠、飾物は鍵であっ た。鍵の替わりに巻物をくわえるものもいる、とか。鍵の形状は少々壊れやすく、ために巻物にした。ちなみに、この珠と鍵、って花火の、「鍵屋!玉屋!」、 の起こり。お稲荷さまを信仰する花火問屋がお稲荷様が口にくわる鍵を見て屋号を「鍵屋」に。鍵屋から分家した問屋は「玉(珠)屋」とした。



火曜 台地を進み、道が大きく湾曲するあたりから台地のはるか下に串川の流れが見えてくる。結構な比高差。深い谷、といった雰囲気。現在の串川の規模には少々似つかわしくないほどの発達した河岸段丘である。気になり調べてみる。 かつての串川は早戸川(現在は中津川水系の支流。宮ヶ瀬ダムに注ぐ)とつながっていた。水量も豊富。発達した河岸段丘はその時のもの、である。その後、早戸川は中津川水系に流れを変えた。河川争奪である。5万年以上の昔、地殻変動によって引き起こされた、と。ために、早戸川は串川から切り離され、現在のような小さな川になってしまったよう、だ。



岩渕水門 北区:荒川・隅田川に挟まれた下町低地を歩く 2006年7月9 日 日曜日 

京浜東北線を越え次の目的地、「荒川知水館」に進む。新荒川大橋下の河川敷を歩きしばらくすると水門が見える。旧岩淵水門。水門あたりで新河岸川も合流する。水門脇に案内板があった。メモする;昔、荒川の本流は隅田川。が、隅田川は川幅がせまく、堤防も低かったので大雨や台風の洪水を防ぐことができなかった。ために、明治44年から昭和5年にかけて、河口までの約22km、人工の川(放水路)を作る。大雨のとき、あふれそうになった水をこの放水路(現在の荒川)に流すことにした。この放水路が元の隅田川と分かれる地点に、大正5年から大正13年にかけて作られたのがこの旧岩淵水門。9mの幅のゲートが5門ついている。その後旧岩淵水門が老朽化したこと、また、もっと大きな洪水にも対応できるようにと、昭和50年から新しい水門(下流に作った青い水門)の工事が進められ、昭和57 年に完成。旧岩淵水門の役割は新しい水門に引き継がれた、と




山岡鉄舟と小金井次郎 仙川源流点から武蔵境へ 2005年9月3日 土曜日 

交差点を東に進む。すぐに仙川の開渠部にあたる。今まで東に進んできた水路は、ここから北に向かう。このあたりから水路脇に道はなくなる。つかず離れずの川筋歩きとなる。石神井川歩きでの右往左往の戸惑いを思い出す。同じことになるのであろう、か。水は相変わらずなにも、無い。 本町3丁目、川の少し東に三光院。境内に「山岡鉄舟先生之碑」がある、と言う。鉄舟って、江戸城無血開城の立役者。勝海舟、高橋泥舟とともに、幕末の「三舟」と称される人物。剣・禅・書の達人といわれるが、西郷をして「金もいらぬ、名誉もいらぬ、命もいらぬ人は始末に困るが、そのような人でなければ天下の偉業は成し遂げられない」と言わせしめた人物。徳川慶喜に仕え、明治には明治天皇の教育係りをつとめあげたこともうなずける。

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