土佐北街道散歩 ;高知城下からはじめ權若峠取り付き口の釣瓶まで そのⅡ

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先回の散歩のメモでは、高知城下から参勤交代初日の宿泊地、布師田までをメモした。繰り返しになるが、今回の土佐北街道ルートハンティングの元となる『土佐の道 その歴史を歩く;山崎清憲(高知新聞社)』にある、布師田から權若峠取り付き口の釣瓶までのルートを記しておく;
布師田から先で市域は高知市から南国市に入るが、ここでルートはふたつにわかれる。ひとつは国分川南岸の中島を経由し国分川を八幡渡瀬で渡り返し北進し南国市岡豊町八幡に向かう。この道筋は初期の参勤交代道である野根山街道、通称「東街道」への道筋でもあったようだ。 そしてもうひとつは高知大学医学部の北を進み、右手に長曾我部氏の居城・岡豊城の建つ丘陵地を見遣りながら岡豊町八幡に出て、ここでふたつのルートは合流する。八幡は長曾我部氏ゆかりの別宮岡豊八幡宮由来の地名だろう。
合流点から先も二つのルートに分かれる。ひとつは現在の県道384号を領石に向かうもの。もうひとつは合流点から直ぐ、笠ノ川川を越え比江を経由して領石に向かうもの。比江経由の道は北街道が参勤交代に開かれた当初の道筋。比江の高村家を初日の宿泊所とした頃のもの。布師田に布師田御殿ができて以降は、直接領石を目指すようになったという。
領石川右岸の地にある領石で合流したルートは領石の送り番所を経て北進。一の瀬渡瀬で領石川を左岸に渡り、その先楠木渡瀬で右岸に、更に亀の本渡瀬で再び左岸に渡り直し、谷筋の小さな渡瀬を経て最後に梼山川の「下着渡瀬(私注;「着」はママ)を北に渡ると權若坂の登山口に着く、とある。
亀の本渡瀬から先は、過日土佐北街道・權若峠越えのとき、上述『土佐の道』に記載のないふたつの渡瀬を確認しており、そのルートを補足すると、亀の本渡瀬で領石川左岸に移った土佐北街道は、「左手渡瀬」で中谷川の右岸に移り、その先中渡瀬で左岸に渡った後、中谷川に合わさる梼山川の左岸から下り付け渡瀬で右岸(北)に渡り權若坂の登山口に着くことになる。

ルートは以上の通りである。計画では『土佐の道』に記載されるポイント、Google Mapに記載される「土佐北街道」、それと別の機会に既に確認済のポイントを頼りに道を繋ぐつもりであったのだが、思いがけなかった賜り物が布師田御殿跡にあった土佐北街道の詳しいルート図。この地図のおかげで、布師田から八幡合流点までは、ほぼ往昔のルートを辿れたと思う。
また当初渡瀬や送り番所など見つかるかどうか不安であったが、ほぼ見つかった。ために領石から釣瓶まではほぼ往昔のルートを辿れたとは思うのだが、八幡の合流点から領石まで、特に比江経由の北山道はあれこれ調べた上ではあるが、それでも推定の域を出ていない。八幡合流点から領石までのルートは参考程度と考えて頂きたい。
ともあれメモを始める。



本日のルート;
高知城下から布師田御殿跡まで
高知城>追手筋>山田橋・山田番所>茂兵衛道標(100度目)>比島橋>掛川神社>鳥付橋>土佐神社お旅所>お堂>石淵送り番所>岡村十兵衛先生住居跡>社>一木権兵衛先生の墓所>布師田御殿跡
布師田から岡豊町八幡の北岸・南岸ルート合流点まで
国分川北岸ルート
権兵衛井流>前田元敏先祖の墓所>奥官慥斎・奥宮健之父子の屋敷跡>西山寺>葛木橋>>葛木男神社>丘陵切通し>国分川筋に右折>山崎川・蒲原橋>山崎川橋>県道384号に出る>岡豊城跡>岡豊別宮八幡宮>県道を右に逸れ県道252号に出る
国分川南岸ルート
葛木橋を渡り国分川左岸に>郡境石>県道252号を左折し国分川に向かう>岡豊橋>県道252を北進し北岸ルートと合流
□地図に記載された「土佐北街道」ルート
山崎川・蒲原橋>山裾を水路に沿って東進>岡豊橋北詰めに出る
北岸・南岸ルート合流点から領石まで
□直接領石を目指すルート□
県道252号を右に逸れる道に>県道384号右手に笠ノ川地蔵>県道384号を左に逸れ丘陵土径に>県道384号をクロス>高知道インター高架下を進みルート合流点に
□比江経由のルート□
笠ノ川川渡河地点>検地帳>左折・検地帳>県道256号に出る>左折し国分小学校東の道に>国府小学校の東の里道を北進>阿波塚神社>道のえき風良里(ふらり)>丘陵地の土径を進み国道32号に出る>高知道インターの北のルート合流点に
領石より権若峠取り付き口の釣瓶まで
県道384号に出る>領石の送り番所>天満宮>一の瀬渡瀬>楠木渡瀬>清川神社>県道33号に出る>亀(瓶)の本渡瀬>県道を右折し林道釣瓶線に>左手渡瀬>中渡瀬>下り付きの渡瀬>権若峠・釣瓶取り付き口



布師田から岡豊町八幡の北岸・南岸ルート合流点まで

布師田から先で市域は高知市から南国市に入るが、ここでルートはふたつにわかれる。国分川北岸ルートと南岸ルートがそれ。まずは北岸ルートから。上述の如く布師田から国分川にそって北岸を進み、高知大学医学部キャンパス辺りから道を北に変え、キャンパス敷地北側を進み 右手に長曾我部氏の居城・岡豊城の建つ丘陵地を見遣りながら岡豊町八幡に出てるルートである。 当初、Google mapに「土佐北街道」と記載される、高知大学医学部キャンパス南を進む計画であったが、布師田御殿跡に土佐北街道の詳しいルート図があり、この道を辿ることにした。

国分川北岸ルート

権兵衛井流
布師田御殿跡を離れ案内にあった北街道の道筋のひとつ、国分川北岸ルートを進む。布師田ふれあいセンターの直ぐ先は国分川。堤防に沿った道を少し北に進むと左に逸れ山裾を進む道がある。北街道はこの左へと逸れる道に入るが、その分岐点に「権兵衛井流(ゆる)」の案内。 「布師田の国分川北岸の用水路に設けられた水門施設。通常は水量の調節を行うが、洪水など増水時には用水路の水門は閉めて下流への浸水を防ぎながら、近くに設けた別の水門を開けて国分川に水を流し、上流を浸水から守ったり堤防の崩壊を防ぐための仕組みです。 同じような施設が約 520m 離れた場所に一ヶ所ずつ計二ヶ所設けられていて一本権兵衛先生が発案して普請した水門として、権兵衛井流"と呼ばれています。布師田の誇る義人で一領具足出身の一木先生が野中兼山に抜擢され活躍されるきっかけとなったと言われる水門です。 現在も普請された当時とほとんど同じ場所にあって、当初の目的通りの運用を基本として地域で管理されています。
当時土佐藩の基盤を拡大強固にするため、土木・灌漑・干拓・港湾事業等を強力に進めていた執政野中兼山は物部川の山田堰工事の検分に行く途中布師田でこの"権兵衛井流"を目にして驚き、村人に問いただして一木先生を呼び出し、どのような考えでえこの水門を作ったか述べさせました。
一木先生は上記のような機能を考えて普請したことを話しました。それは兼山が山田堰から多くの用水路を作る計画の中で考えていた仕組みと正に符号するものでした。
すぐに郷士に取り立てられ一族百名ぐらいとともに山田堰に関係して用水路の建設に関わり、技 術の確かさや有能さが証明されたそうです。
その後兼山の計画する重要な工事で責任者を務めました。山田堰の工事をはるかに上回る仁淀川の治水灌漑工事や手結港の浚渫・津呂港の工事などがあります。兼山失脚後多くの部下が責任を問われる中で一木先生は珍しくお咎めなしとされ、土佐藩を挙げての三年がかりの大工事、室津港拡張工事の普請奉行として着任し、延宝七年(1679 年)六月工費十万三千五百両・役夫百七十三万人を投入して完成しました。
一木先生は難工事着手に当たって海神にわが身を捧げることを誓って成功を祈り、工事が無事完成した六月十七日夜、港上に場を構え、鎧・兜・太刀を海神に献じた後、未明に自ら人柱となり 切腹して亡くなられました。予算を何倍も越えた工事の責任を取ったと言われていますが、生前の 兼山からの、「御普請には存分の金銀を費やしても構わぬ、ただ、完全なものに仕上げることだ。」 を正に実践したのであって、また、郷士として取り立てられた恩を忘れずに、兼山一族に対する処 置への抗議の意思も込められていたとも言われています。
野中兼山の偉大な業績は失脚によって色あせるものではなく、兼山の元で実際に多くの工事に関わり現在の布師田や室戸方面・仁淀川流域等の発展の基礎を作って下さった一木権兵衛先生の業績を出身地のこの布師田から長く語り継いでいきたいものです。 布師田の未来を考える会」とあった。

前田元敏先祖の墓所
權兵衛井流に沿って道を進むと、道の左手に「前田元敏先祖の墓所」の案内;
「前田元敏は、幕末から明治大正にかけて活躍した日本を代表する英学者の一人です。安政4年(1857年)土佐藩士前田元幸(致道館槍術取立役、歌人)の嫡男として高知市廿代町に生まれました。致道館(植木枝盛や奥宮建之と同窓)、共立学舎英語学校にて英国人教師マイヤーらの指導のもと英学を修め、明治7年に上京。東京外国語学校等にて英語を修業後、東京開成学校に優秀な成績で合格。明治10年、東京大学理学部に入学(千頭清臣等と共に高知県貸費生)。明治14年、大学卒業まで数カ月というところで病により退学しましたが、高い学識と抜群の語学力が認められ、帰郷直後から教壇に立ちます。
高知共立学校(現土佐女子高等学校)、高知中学校(現高知追手前高等学校)、嶽洋社学課局、第五高等中学校(現熊本大学)、鹿児島高等中学造士館(現鹿児島大学)、岐阜県尋常中学校大垣分校(現岐阜県大垣北高等学校)校長。明治24年、従七位。明治29年、思想家・教育者の杉浦重剛に招かれて上京、私立日本中学校、同文書院(教頭)、私立郁文館中学校(激石『ぼっちゃん』の舞台)、同中学校教頭などを歴任。野武士のような風格と威厳があったと伝えられています。昭和2年没、享年71歳、墓所は東京都多磨霊園にあります。
教え子の中には、明治の文豪・大町桂月、内間総理大臣・濱口雄幸(濱口家への養子縁組を取持つ)などがいます。新渡戸稲造、内村鑑三、宮部金吾等と机を並べて英語を学び、英国人 (John.N. Penlington) が主宰する英字新聞(The Far East)に特別記事 (Japanese Views and Reviews) を寄稿するなど、殊に英語に優れており、日本英学史にその名を残しています。主な業績に『英和対訳大辞業』明治18年、『訂正増補 英和対訳大辞彙』明治19年、ベストセラーの教科書 Kambe's Readers 明治29年などがあります。
前田家は長宗我部元親家臣初代前田利國に始まり元敏は12代で、布師田西谷には4代から6代までの初期の墓所があり、布師田では珍しい古い時代の大きいお墓で、これ以降は筆山や秦泉寺山へと移っていっています。2代平兵衛利益は、元親が四国統一の途上の讃州引田の合戦時、敵の武将仙石勘解由を打ち取ったとの記録があり、妻は布師田・金山城主石谷民部少輔の息女で金山城と深い関係があります。3代源十郎利春は、長宗我部地検帳に多数の所領が記されており豊臣秀吉の命により薩摩軍と戦った豊後戸次川の合戦で長宗我部信親等と共に討ち死にしています。また4代彦九郎家勝は、万々城主吉松十衛門に嫁した元親の第四息女の孫娘を妻に迎えていて長宗我部氏とも深い関係があります。
また、上記説明文中の元敏と同窓の奥宮健之については、"奥宮慥斎・健之父子の住居跡"がここより約150m東方にあるのも何かの縁です。(奥宮慥斎は土佐藩の陽明学者で安政元年(1858年)江戸に出る時、後に三菱財閥の基礎をつくった岩崎弥太郎を従者として連れて行っています。)
前田元敏先祖の所へは説明板に向って右手の山道を道しるべに従って道なりに約3分上った左側にあります。 布師田の未来を考える会」とあった。
大町桂月
教え子の中に大町桂月の名があった。東京都文京区散歩の折、大町桂月の旧宅跡を訪ねたことがある。詩人・随筆家・評論家として知られる、というが、散歩フリークとしては紀行文しか知らない。誠に、いい。終世酒と旅を愛し、大雪山系にはその名からとった桂月岳が残る。与謝野晶子の「君死にたもうことなかれ」に対して、「皇室中心主義の眼を以て、晶子の詩を検すれば、乱臣なり賊子なり、国家の刑罰を加ふべき罪人なりと絶叫せざるを得ざるものなり」などと非難し戦後は少々評価をさげてはいたようだ。が、紀行文は誠に、いい。田山花袋の紀行文に『東京の近郊 一日の行楽』がある。これも、いい。同じく桂月に明治40年に書かれた「東京の近郊」がある。これもまた、いい。「一日に千里の道を行くよりも 十日に千里行くぞ楽しき」は桂月の言。

奥官慥斎・奥宮健之父子の屋敷跡
更に続けて「奥官慥斎・奥宮健之父子の屋敷跡」の案内。
「奥宮値姦(1811~1877)
幕末明治初期の思想研究家。藩吏奥宮正樹の長男で、土佐藩主山内容堂の特講の陽明学者です。儒学を岡本寧浦に学び、文政12年(1829年)に江戸に出て陽明学者佐藤一斎にも学びました。
土佐へ帰った後に私塾「蓮池書院」を興し、藩校致道館の儒官や教授館教授をつとめました。土佐藩伝統の南学(土佐の朱子学)から排撃されながらも陽明学の土佐の地での中心的な存在となりました。
明治2年(1869年) 12月、板垣退助が高知県大参事となった時、協力して学制の改革や宣教の事務を担当、明治6年立志社の民選議員設立建白書起草案の修正などにもかかわっています。慥斎は、平井善之丞・佐々木高行・武市半平太・大石弥太郎らと交わり勤王の影響を与えています。門人に長岡健吉・中江兆民・河田小龍・淡中新作・北代正臣・島本伸道ら勤王の志氏を輩出しています。墓所は東京谷中墓地にありますが、父奥宮弁三郎正樹や母・妻などの墓所はこの屋敷跡より少し東方の西山寺の右手階段上にあります。(徒歩7分)
(陽明学とは中国の王陽明のとなえた哲学です。)《儒学とは孔子に始まる中国古来の政治・道徳の学問です。)
実業家で三菱財閥の創始者岩崎弥太郎は少年時代、それまで師事していた叔父で儒学者の岡本寧浦が没した後、奥宮慥斎にも師事し、安政元年(1854年)慥斎に従いこの屋敷跡前の道を通って江戸に出て行きました。奥宮慥斎は左遷のような形で老母梶子と従者伊太郎を伴って江戸藩邸詰めに出張して当代一流の佐藤一斎や安積艮斎らと交わりました。
この江戸行きの時、師として岩崎弥太郎を最初に江戸に連れていった人物です。布師田を発って安芸の岩崎の家で宿泊し室戸方面から徳島を通って江戸までの日記が残っています。慥斎の日記によると安政元年九月二十五日に出発し、六十日目の十一月二十三日築地の土佐藩下屋敷に到着しています。互いに詩を吟じ冗談を言いながらの楽しい旅だったようです。出発に際して弥太郎は裏の妙見山に登り、星神社の扉に"吾志得ずんは再びこの山に登らず"と大書した逸話はよく知られています。
弥太郎は三菱を創立した後も奥宮家を気に掛けていて何かと援助をしたと言われています。自らの漢詩の素養は慥斎の影響も大きいと言っていたようです。
慶応三年(1867年)二月、山内容堂に四侯会議出席を求めるため島津久光の命で土佐に来ていた西郷隆盛を訪問、意気投合して互いに漢詩を交換する仲となり、この時の漢詩は後に高知市民図書館に寄贈されています。
慥斎の長男正治は後に宮城控訴院検事長になりますが、弟の奥宮健之が大逆事件で罪を問われた時、健之を支えますが責任を感じてか辞職しています。
また、岩崎東山先生傳記(岩崎弥太郎の伝記)の編集もおこなっています。
慥斎の父正樹は藩の下役人でしたが、文化五年(1808年) 幕府測量使伊能忠敬一行が土佐を測量に来た時、土佐藩の案内役として普請方宮崎竹助と共に甲浦から伊予宇和島に出るまで約一カ月余り随行して測量の世話をしています。
〇奥宮健之
明治期の社会運動家・英学者。安政4年陽明学者奥宮慥斎の三男として土佐郡布師田村に生まれました。慶応3年(1867年) 致道館で漢学を学び、明治3年(1870年)上京し英人メーカーに英学を学びました。明治5年から湯島の共慣義塾に学び、同塾の教師や山内家の海南私塾の教師をつとめ、自ら英学塾育英舎も開いています。
一時三菱に勤めていますが、明治13年頃から政談演説に深く関わるようになり、明治14年(1881 年) 自由党結成に参加し、入党して全国各地で遊説しました。明治15年(1882年)には6月創刊の「自由新聞」に入社しています。また、同年に馬車鉄道の出現で失業した人力車夫を組織化し、自由民権論者と共に「車界党」(車会党)を結成、反資本主義的な運動も展開しています。
その後、政談演説などで植木枝盛と各地遊説も行っています。演説中止や集会条例違反などでたびたび投獄されたりもしました。幸徳秋水に爆弾製造法を教えたという罪で明治44年(1911年) 明治天皇暗殺計画という大逆事件に巻き込まれ、無罪を主張しましたが刑死となりました。
絞首刑 12名無期懲役12名を出した大逆事件は、社会主義者や無政府主義者への時の政府の大思想弾圧事件でした。現在は冤罪が定説になっています。奥宮健之や植木枝盛は布師田自由党の結成にも大きな影響を与えたのではないでしょうか。
明治17年3月25日布師田自由党は一宮村自由党と協力し、時の太政大臣三条条実美宛てに住民402 名の署名と共に 43 ページにもわたる『減租請願書』を提出したりしています。健之と同じ布師田西谷に先祖の墓所のある高知出身の英学者前田元敏とは致道館で同窓でした。」とあった。

「西山六本松(旧布師田橋の所在地の一つ)」の案内
直ぐに「西山六本松(旧布師田橋の所在地の一つ)」の案内;「布師田橋の位置(「南路志」の解釈) 布師田橋の位置については「南路志」に、『七つ城に長さ三十三間(60m)・幅二間(3.64m)の橋が川の東から西にかかっている。万治三年(1660年)に現在の場所(七つ城)に架け替えられた。以前は西山六本松に架かっていた。更に明暦年間(参考:明暦元年=3D1655年)には東山(場所不明)の端に架かっていた。』とあります。
"七つ城の布師田橋"=現在の布師田橋の少し上流付近と思われます。
万治三年(1660年)以前には布師田橋はここ西山六本松に架かっていて、甲浦まで陸路を通る場合や北山道を取って国分川を渡るときは、この橋を利用したと思われます。1660年以降はここより約600m下流にある"七つ城の布師田橋"が利用されました。
"西山六本松"は現在の地蔵堂部落の"地蔵堂"から国分川を隔てた北側。現在は土手上が道路になっているが、以前の土手(昭和35年頃)は上部の幅員が狭くて車は通行できませんでした。その土手の"西山六本松"と思われる付近は二十畳ぐらいの広場になっていて、昔からの地名を残すような形でちょうど松の木が六本ぐらい植えられていました。
ホノギで"西谷"の北の山裾の小川に沿った西谷部落の道から分岐して斜めに"スカ"を横切り土手を上がってきた所(この道は現在も大部分が残っている)が西山六本松"でした。ろっぽん"と呼んで子供の遊び場所でもありました。
また、国分川の河原に置かれていたという葛木男神社のお神輿の休む畳二畳ぐらいの御旅所 の石(現在は少し下流の左岸道路わきに移されている)が中心に置かれていました。
西山六本松付近の国分川は現在も浅瀬で、昔から歩いて往来できたそうで、秋祭りのお神演も 川の中を担がれて渡っていたそうです。 布師田の未来を考える会」とある。

現在は中島経由の北街道は葛木橋を渡ることになるが、往昔は葛木橋の少し下流にあった古布師田橋を渡り国分川左岸に移ったようである。この旧布師田道を渡り中島に向かう道は土佐北街道南岸ルートであると共に、土佐北街道が開かれる以前の土佐藩参勤交代道である野根山街道をを越えて甲浦に出る、通称「東街道」のルートでもある。

西山寺の案内
さらに直ぐ、「西山寺:の案内;「真言宗善通寺派に属し、正式名称は普門山観明院西山寺といい本尊は聖観音です。江戸時代に成立した土佐の歴史・地理書である。南路志にもその名が見られる古いお寺です。尚、南路本では西山寺は五台山の末寺で本尊同弥陀 運慶作となっています。
明治初年の廃仏稀釈運動により廃寺となり一時私塾「球磨学舎」として使われたこともありましたが、昭和5年に再興され同21年宗教法人となり現在に至っています。第6番西国観音場(私注:土佐三十三観音霊場)としての参拝者もあります。
近くに石渕送番所や布師田御殿があった関係でしょうか、土佐山内家の藩政下では西山寺は、 他藩からの使者等をここでお迎えして城下に案内などもする重要な役割を担っていました。 事実、山本周五郎の「桜の木は残った」で有名な原田甲斐の登場する"伊達騒動"で、土佐藩預かりになっていたの騒動当事者の伊達兵部が延宝七年十一月四日に亡くなった時、江戸からの検使が西山寺で土佐藩の出迎えを受けた記録があります(有路志第八巻p246)。
〇西山寺主要な所蔵物
本尊聖観音菩薩立像; ヒノキ材の一木造り、彫眼の彩色像、平安時代作 ふくよかで伏し目の思やかなお顔
黑沙門天立像 ;ヒノキ材の寄木造り、玉眼の彩色像、鎌倉時代作 目を見開き正面を見据えたりりしいお顔
弘法大師像; ヒノキ材の寄木造り、玉眼の彩色像、江戸時代作 西山寺の棟札により意政6年(1794)五台山法印慶隆の導師で開眼供養が執り行われていることがわかります。
記録で確認のできる西山寺
「南路志」の布師田村の項には、応永 15年(1408)山田氏が西山寺の聖観音菩の厨子を寄進したことが記されています。
「長宗我部地検帳土佐國土佐那布師田村地検」天正16年(1588)に「西山寺」の記述があります。
〇江戸時代の西山寺の役割
現在布師田地区の氏神である墓木男神社の棟札からこの神社を管轄していたことが窺えます。 地区を複家として管轄し、「南路志」の記述から土佐藩政の一旦を担っていたことも競えます。 境内の石造物
境内には地蔵仏や五輪塔・供養塔など多数あり歴史の古さを物語っています。見かけることの少ない遍路の墓石も発見されました。(三頭のカラス天時は室内収納)
〇周辺情報
西山寺下の市道少し西の用水路北側には、奥官慥斎の住居跡があります。
西山寺の東側山道を道なりに進み階段を登った少し上段に「布師田奥宮家の墓所」があります。伊能忠敬測量隊を土佐藩の命により案内したうちの一人で、奥宮弁三郎三部正樹一族の墓所があります。正樹の妻や正樹の父、忠蔵正性、奥官慥斎の妻等です。正樹は奥宮慥斎、奥宮暁峰兄弟の父親です。 布師田の未来を考える会」とあった。

西山の六本松とか西山寺とあるように、石淵の送り番所にあった龍馬青春の道、「布師田橋は渡らずに国分川北岸を、西谷・折越峠・蒲原・小蓮と通って、藩境の立川番所をめざした」とある西山がこの辺りである。

国分川堤防道に出る
山裾の道は国分川添いの道に合流。合流点付近には水門や堰がある。上述権兵衛井流の案内のあった水門から距離も500m強。このあたりにふたつあった水門のひとつがあったのだろうか。本音を言えば、この規模の用水路で説明にあった洪水調節機能、土手崩壊を防ぐ機能を果せるのだろうかとの疑問もある。洪水調節機能、土手崩壊を防ぐ機能は国分川ではなく井流域というのであればそれは納得できるが、この辺り西山の丘陵から国分川の間の耕作地もそれほど広くなく井流が灌漑用に大きなインパクトを与えるとも思えない。水門での調節といった仕組みの有り難さはわかるのだが、その距離が500m強という井流自体の役割のポイントは門外漢にはいまひとつわからなかった。

葛木男神社
葛木橋を越え先に進むと、北山道はほどなく堤防沿いの道から左に逸れる。道の左手に葛木男神社。葛木男神社由緒には、「祭神 高皇産霊大神 葛木男大神 葛木咩大神
勸請年月日縁起沿革等は未詳であるが第六十代醍醐天皇延喜七年(皇紀一五六七年)神祇官の延喜式神明帖に登録せられた延喜式内社で土佐国二十一座の一座である。
古来より布師田の総鎮守で中古高結大明神と称す。即葛木氏は高皇産霊神(私注;たかみむすびのかみ)五世孫劍根命(私注;つるぎねのみこと)の後裔布師臣武内宿禰の男葛城襲津彦を祖とする。葛城氏族は布としての仕事を営む傍ら生活の糧を得るため布師田の原始林を開始し。永住の地と定め太祖高皇産霊神を氏神として奉祀したものである。
近世は布師田全山城主源信も太祖神を斎き祀りしものである
布師田は布師の人の住む里なるか故に布師と号け昔より田地の多い処なるが故に布師田と唱へ今の地名となりたりと伝えられる
縁起式内社葛城襲津彦命妃命を奉祀する葛木神社は昭和四十七年十二月合祀しました」とある。
葛木男大神は葛城襲津彦、 葛木咩大神は葛城襲津彦妃命とWikipediaは云う。伝承では、元は両社とも現社地の南東方において同じ境内に鎮座したが、葛木咩神社は東南方に移り、葛木男神社も国分川の増水を避け北西方の現在地に移ったが、昭和47年に葛木咩神社は合祀された。
由緒丘陵はともあれ、この社が布師田の地名の由来ではある。

丘陵の切通し
左に逸れた道は丘陵を切通しで抜ける。石淵の案内にあった龍馬青春の道「布師田橋は渡らずに国分川北岸を、西谷・折越峠・蒲原・小蓮と通って、藩境の立川番所をめざした」とある折越峠がこのあたりかもしれない。
道の左手は高知刑務所。切通を抜けて先に進むと高知県警交通機動隊の建屋前に出る。布師田御殿跡にあった北街道ルートによると、道は高知県警交通機動隊の建屋の先辺りで右折し国分川t堤防に向かう。


山崎川・蒲原橋北詰めに
右折というが、右折点の先は道と言うより水路沿いのブッシュ。取敢えず土手まで進み、堤防上の道を進むみ山崎川・蒲原橋北詰めに出る。
龍馬青春の道にあった「布師田橋は渡らずに国分川北岸を、西谷・折越峠・蒲原・小蓮と通って、藩境の立川番所をめざした」の蒲原がこの辺りだろう。


山崎川橋手前で左に逸れ山崎川右岸を進む
北街道は蒲原橋北詰めをそのまま直進し、山崎川右岸を進み山崎川橋。橋の手前に左に逸れる道がある。布師田御殿跡にあった地図によれば、この道が土佐北街道のようでもある。
左に逸れ山崎川右岸を進み、水路が山崎川に合流する先で左岸に渡り返し、水路に沿って東進し山崎川橋を渡ってきた道に出る。



高知大学医学部附属病院北を県道384号に抜ける
土佐北街道は道をクロスし高知大学医学部敷地の北を進み、医学部敷地東を走る道路を横切り更に東進し、道が岡豊城跡のある丘陵に当たる手前で左折し県道384号に出る。
高知大学の北に岡豊町小蓮の地名がある。龍馬青春の道にあった「布師田橋は渡らずに国分川北岸を、西谷・折越峠・蒲原・小蓮と通って、藩境の立川番所をめざした」の小蓮がこの辺りだろう。
補足メモ
当日は上述の如く山崎川橋を渡り先に煤んdのだが、メ。モの段階で山崎川橋手前で左に逸れ山崎川右岸を進み、水路が山崎川に合流する先で左岸に渡り返し、水路に沿って東進し山崎川橋を渡ってきた右折点の水路に続く道がある。確証はないが、この道筋のほうが旧路っぽい

岡豊別宮八幡の先で県道384号を右に逸れ県道252号に出る
県道384号を東進すると道の左手に岡豊別宮八幡。布師田御殿跡にあった地図には、そのすぐ先で県道を右に逸れ、「谷泰山先生先塋の地」の傍に出るとある。
「谷泰山先生先塋の地」は道の右手の丘陵地にあるようだ。岡豊八幡宮の直ぐ先にある右に逸れる道に入り、丘陵裾の道を辿ると県道252号に出る。ここで布師田から国分川を渡り中島経由の北山道と合流する。
岡豊別宮八幡
元親の信仰が篤く、出陣にあたっては必ず戦勝を祈願したといわれている。八幡宮の宮司谷氏の祖である大神氏は、大和の国三輪山から土佐に移り、その子孫は谷左近、谷秦山、谷干城などにつながる。
谷左近
長曾我部元親に仕えた。左近の伝えた八幡大菩薩のご神託が元親の阿波出陣のきっかけとなった、と。長宗我部盛親の改易後は浪人となる。
谷泰山
江戸前・中期の儒学者,神道家。名は重遠,秦山は号。土佐(高知県)に生まれる。17歳で京都に出て,山崎闇斎や浅見絅斎に学ぶ。土佐に帰ったのち,さらに闇斎門下の渋川春海に書簡を送り,天文・暦算や神道を学ぶ。藩主山内豊房に用いられて,藩士に学を講じるが,宝永4(1707)年豊房死後の政変で蟄居,10年余におよぶ。朱子学に神道をあわせた学問を展開し,一時絶えていた土佐南学派を再興した。その国体論は,幕末の勤皇倒幕運動にも影響を与えた。
谷干城
幕末から明治にかけて活躍したの武人。幕末は、土佐藩の勤皇派として、乾退助(板垣退助)の片腕を為し、薩摩藩・小松帯刀、西郷隆盛らと「薩土討幕の密約」を締結する。戊辰戦争に際し、軍事の才能、智略に秀で最前線で戦った武将。熊本鎮台司令長官であった西南戦争においては、熊本城攻防戦の官軍指揮者として手腕を発揮し、更に武名を挙げた。後に政治家となる。

国分川南岸(中島経由)ルート

布師田御殿跡にあった国分寺川南岸のルートを辿る。国分川南岸の中島を経由し国分川を八幡渡瀬で渡り返し北進し南国市岡豊町八幡に向かう。
八幡渡瀬」は大雨などの時は渡河できず、この道筋は敬遠されることが多かった、と言う。では何故にこの南岸ルートが開かれたのだろう。距離が大幅に短縮されるようにも思えず、北岸ルートに難所といった箇所も見受けられない。
あれこれチェックすると、この中島への参勤交代道は、土佐北街道が開かれる以前の参勤交代道である土佐の城下から甲浦に出る野根山街道、通称「東街道」への道筋であった。その名残りかと思える。この道筋は初期の参勤交代道である野根山街道、通称「東街道」への道筋でもあったようだ。北街道のルートとしても初期の頃利用されたものかと思える

葛木橋を渡り国分川左岸に

往昔は上述、「西山六本松(旧布師田橋の所在地の一つ)」の案内にあった、現在の葛木橋の少し下流、旧布師田橋を渡ったのだろうが、現在その橋はない。葛木橋を渡り国分川左岸に移る。






郡境石
左岸に移り県道249号を国分川左岸に沿って進むと、国分川・小山橋から下ってきた道がT字に合流。その合流点に郡界石が立つ。「是東長岡郡」・「是西土佐郡」と刻まれる。現在は高知市布師田と南国市岡豊町中島の境となっている。








県道252号を左折し国分川に向かう
郡境石より更に西進し県道252号を左折し北へと国分川へと向かう。少し北に進むと、県道を左に逸れる道がある。布師田御殿跡にあった北街道はこの左に逸れる道のように思える。 左に道を逸れ北に進む道筋には水路が流れる。水路に沿って北に進むと国分川の土手にあたる。布師田にあった「ぬのしださんぽ」案内には、この辺りに国領の水越跡が記されていた。
水越
高知大悪の資料
水越とは越流堤のこと。洪水時には水が堤防を越えることをあらかじめ想定し、その下流を水没させ、中堤(水張堤)により一帯を遊水池とすることを目する。河川上流部を水没されることにより河口部の洪水を抑制し、下流域、国分川、久万川、鏡川などの河川が織りなすかつての氾濫平野、三角州に普請した高知の城下町を護る治水対策のひとつである。国分川水系の洪水をそのまま河口部まで流すと鏡川などの城下町を流れる川の水位が上がり、逆流現象が起き水が城下に流れ込むのを防ぐこととも意図しているのではないだろうか。
参考に高知大学の飼料「高知の藩政期の水防災対策の再評価平成 25 年自然災害フォーラム論文,2013」を掲載しておく(高知城下の治水事業に興味があるかたはこちらの記事をご覧ください)。
「伊奈流」とも関東流と呼ばれる越流堤の治水施策は埼玉の見沼などで出合った。

岡豊橋を左折し県道252を北進し北岸ルートと合流
土手に出た北街道は国分川左岸を進み岡豊橋の南詰めに出る。岡豊橋南詰を左折し県道252号を北進し、上述国分川北岸ルートと合流する。
合流点手前の丘陵地側に「谷泰山先生先塋の地」の案内。先塋(せんえい)とは先祖の墓の意である。



地図に記載された「土佐北街道」ルート

ついでのことでもあるので、Google Mapに記載された「土佐北街道」のルートもメモしておく。国分川北岸ルートではあるが、高知大学医学部の北を通ることなくその南、国分川に沿って進むルートであり、29番札所国分寺から30番札所善楽寺へと向かう遍路道でもある。

山崎川・蒲原橋
山崎川・蒲原橋で北岸ルートと分かれ国分川に沿って高知大学キャンパス南を東進する。しばらく進み国分川の支流に架かる橋を渡ると、道は岡豊城の建つ丘陵南裾に入る。




山裾を水路に沿って東進
山裾に入った北街道は、国分川から少し離れしばらく木立が日陰をつくる水路脇の道を進む。ほどなくして集落の里道出ると、その先は国分川に沿って進む。




岡豊橋北詰めに出る
道は岡豊橋北詰めに出る。遍路道はそのまま直進するが、北街道はこの地で中島を経由してきた南岸ルートと合流し県道252号を北進し、北岸・南岸ルート合流点に向かう。




北岸・南岸ルート合流点から領石まで

この間の土佐北街道もふたつのルートがあったようだ。布師田御殿跡の案内に「北山道を取る場北街道合、発駕後一泊目は主として比江高村家に宿しましたが、天保頃から布師田に転じ、天4(1833)年 12代豊資以降は布師田御殿泊が中心となります」とあったように、参勤交代初期の頃は比江戸経由のルート、天保頃からは布師田御殿に泊まりそのまま領石へと向かったようである。 資料が少なくはっきりしないが、とりあえずこの二つのルートを追っかけてみる。

直接領石を目指すルート

県道252号を右に逸れ旧道を県道384号に

布師田御殿跡にあった地図に拠れば、北街道は北岸・南岸ルート合流点辺りから県道252号を右に逸れ笠ノ川川方向に向かっている。水路に沿ってほとんど畦道といった道を進み。県道32号の少し手前で左折し県道384号に向かう。



比江ルート渡河地点
布師田御殿にあった地図には、土佐北街道は県道32号を越え、その先で笠ノ川川にあたる。
笠ノ川川の対岸が国分でありその東が比江である。これが初期の比江経由のルートの渡河地点であろうと思い込む。







県道384号右手に笠ノ川地蔵
道より一段高いところにあるお堂にあった案内には、土佐の殿さまも参勤交代の途次立ち寄り参拝されたとの言い伝えが残り、通称笠取地蔵、特に首から上に御利益あらたかとされるお地蔵さまとのことであった。首から上って頭痛や目の病に霊験あらたか、ってことだろうか。

県道384号を左に逸れ丘陵土径に
布師田御殿跡にあった地図に拠れば、北東に進む県道が高知道南国インター手前で北に向きを変える手前で土佐北街道は県道を左に逸れている。はっきりしないが、なんとなくそれらしきところ、民家の間の細路を進み小さな丘陵を越える。


県道384号をクロス
道はすぐ県道に合流する車道に出るが、布師田御殿跡にあった地図に従えば、道は県道手前で北に進み高知道南国インター手前で県道を越えている。地図にあるルートに従い進むことにしたが、道はなく畑跡といった場所を進み、民家の裏手を越えた先で県道に合流。なりゆきで県道を渡る



高知道インター高架下を進みルート合流点に
県道を渡り高知道の高架下を潜り、その先集落の細い里道を進むと右手から細い道が合流するところに出た。はっきりしないが、そこが比江経由の北山道の合流点と思い込む。






比江経由のルート

比江経由の北山道をトレースしてみようと思ったのだが、はっきりとしたルート図がわからない。ポイントとなる宿泊地である比江の高村家でもわかれば、それなりに道筋もわかるだろうが、それも検索でヒットしない。あれこれチェックすると、上述笠ノ川川の渡河地点から先は、ジグザグに県道256まで進み、国府小学校の裏を通り阿波塚神社前を抜けて高知道インター北のふたつのルート合流点まで進んだようである。
以下はっきりしたルートであるとの確証はないが、それらしき道筋を歩いてみることにする。

笠ノ川川渡河地点
上で布師田御殿跡にあったルートに従い笠ノ川川の土手までメモした。現在そこに橋はない。少し右岸を上流に進み、県道256に架かる無名の橋を渡り、笠ノ川川左岸を下り、渡河地点(実際渡河したのかどうか不明だが)まで戻る。
そこからは田圃の中の道を成り行きでジグザグに進み県道256号に出る。




県道256号に出る
途中道筋に長曾我部検地帳の案内が立つ。このあたりには随所に長曾我部検地帳の案内が立っていた。
長曾我部検地帳
豊臣政権期に土佐国主であった長宗我部氏が実施した、土佐一国の総検地帳。天正15(1587)年から数カ年かけて行われた検地の成果で、土佐七郡全域にわたる368冊が現存する。初代土佐藩主山内一豊は慶長6(1601)年の土佐入国時、長宗我部氏の居城浦戸城に入城し、地検帳を接収。七郡の郡奉行がそれぞれ保管し、初期の土佐藩政に利用した。その後写本を作成し、原本は実務的な使用からは離れるが、近代まで土佐一国の基本台帳として大きな意義を持った(「文化遺産オンライン」より)。

府小学校の東の里道を北進
県道256号に出るとそのまま東進。その先で北に向かう県道を離れ、県道より少し東、国府小学校裏を進む道に入る。先に進むと道は少し小高い丘に上る。




阿波塚神社
成り行きでそれらしき道を進むと道の左手に阿波塚神社。長曾我部氏ゆかりの社、というか小洞といったお堂である。お堂のまわりには幾多の小さな五輪塔が並んでいた。
この祠の由来は鎌倉時代まで遡る。当時、長宗我部家7代目兼光のころ、大豊町豊永地域を本拠とした小笠原左近太夫という豪族がいた。左近太夫は阿波の一部まで領地をもち、香長平野に進出する好機を窺い、時を得て阿波兵を配下として南に下り岡豊に向かって一挙に進撃を開始。守戦一方の兼光は、日頃から信心する岡豊八幡宮に戦勝を祈願。 と、あら不思議にも一振の金の鉾が飛び 出し、阿波勢の陣の上を縦横無尽 に飛びまわった、と。
長曾我部勢は金の鉾に恐れおののく阿波兵を追撃し多くの阿波兵を打ちとった。阿波塚は討死した阿波の兵士を埋葬したところ。が、それ以降も怪異な現象が続くため、永禄年間、元親は長門国(今の山口県)壁雲寺の高僧通安が、土佐の山野を行脚して法力を見せているのを知り、魂鎮めの法会を行ったところ怪奇な事件はぱったりと止んだといわれている。

道のえき風良里(ふらり)東北端の駐車場

阿波塚神社の先は双葉台の中央木材工業団地となっており、古い道は消える。工業団地内を成り行きで進み、「道のえき風良里(ふらり)」の東北端の駐車場に出る。



丘陵地の土径を進み国道32号に出る
「道のえき風良里(ふらり)」から先、旧路はないかと地図をチェックすると丘陵地を北に進む道筋が見える。それが土佐北街道かどうは不明だが、とりあえずそこを進むことにする。 道の法面に斜めに上る道に入る。直ぐに竹林の中を北に進む土径が分岐。なりゆきで北に進む。

高知道インターの高架を潜り北進
丘陵を出て里道を下り国道32号の陸橋を渡り国道西側に出る。国道に沿って北進するが道は高知道インターへの出入り口アプローチ道に阻まれ先に進めない。しかたなく、迂回しアプローチ道高架下を潜る。迂回したため直ぐ下の道は先ほど歩いた直接領石を目指す道筋〈推定)。


合流点に
高架を潜りアプローチ道に阻まれたであろう道の続き箇所らしきところまで進む。そこから旧路を北進するとほどなく、上でメモした「直接領石を目指すルート」との合流点らしきところに出る。

以上、北岸・南岸ルート合流点から、領石で直接領石を目指すルートと比江経由のルートが合流する箇所までをトレースしたが、資料がなくはっきりした道筋とは言い難い。取敢えず、それらしき道筋を辿った、といったところである。




領石より権若峠取り付き口の釣瓶まで

南国市の図書館まで行ってチェックした『土佐の道 その歴史を歩く;山崎清憲(高知新聞社)』にも領石より権若峠取り付き口の釣瓶までの詳しいルートは記されていない。ただ、領石の送り番所とか、領石川の浅瀬を渡河した一の瀬渡瀬、楠木渡瀬、亀の本渡瀬、下着(私注;ママ)渡瀬といったルートの目安となる地名が記されている。
また同書には記載されていなかったが、過日土佐北街道・權若峠越えのとき、確認隅のふたつの渡瀬、左手渡瀬と中渡瀬を加え権若峠の取り付き口を目指すことにする。

ルートは領石川右岸の地にある領石の送り番所を経て北進。一の瀬渡瀬で領石川を左岸に渡り、その先楠木渡瀬で右岸に、更に亀の本渡瀬で再び左岸に渡り直し、「左手渡瀬」で領石川支流中谷川の右岸に移り、その先中渡瀬で左岸に渡った後、中谷川に合わさる梼山川の左岸から下り付け渡瀬で右岸(北)に渡ると權若坂の登山口に着く。
これらのポイントを追っかけて領石より権若峠取り付き口の釣瓶まで進むことにする。
領石
領石の由来は「根曳峠への登り口の集落。地検帳には龍石。竜に似 た奇岩?竜石寺という寺名に由来?(土佐地名往来)」とある。

領石の送り番所
領石へ直接進むルートと比江経由の北街道合流点とおぼしき箇所から少し北に進むと直ぐ県道384号に出る。そこから少し北に進み県道384号が国道32号に合流する手前に左に逸れる道がある。北街道はここを左に逸れる。
ゆるやかな坂を上るとすぐ左手に天満宮の鳥居があり、そのすぐ先に「領石の送り番所跡」と刻まれた石碑が立つ。割と新しい。
天満宮と石灯籠
天満宮鳥居前に天満宮と石灯籠の案内があった。
天満宮
「天満宮 領石部落の氏神、産土神である。「天神様」とも呼ばれ、祭神は菅原道真である。鳥居は参道入り口と、急な石段の下の二基、狛犬も大正八年に建立され、変遷を物語る棟札も数枚残されている。文化十二年(一八一五)南路志には「天満天神社岡屋敷祭九月二五日・僧壱人社地三十代林八十間 横十間」とある。
菅原道真(八四五~九〇三)平安時代の貴族、学者、政治家 朝廷で右大臣まで上ったが、藤原時平との政争に敗れ、太宰府へ左遷され、二年後にその地で失意のうちに病没した。その後、藤原時平は早世、天皇家では皇子が相次いで病死、京で疾病がはやり、天変地異が続いた。道真公のたたりを恐れた朝廷は、身分を戻し、京都「北野天満宮」を建立、神号を「天満大自在天神」とした。やがてそのような記憶の風化と共に道真が生前優れた学者だったことから、学問の神様として信仰されるようになった。
天満宮の境内の中に三基の小さなお社が祀られ、まとめて「小宮さま」と呼ばれている。右から「白山神社」「竃戸神社・山神社」「清川神社」「大神宮」と書かれている。勸請の時期などは不明である。
鳥居の下に、明治四十三年に建立された「日露戦役記念碑」には植野・領石から従軍した人々の名前が刻まれている。 平成二十三年一月吉日 久礼田地区史談会」

天晴の石灯籠
この石灯籠には「天晴 丁卯 十月吉日」と刻まれている。
『天晴』という年号は存在しない。丁卯とは、幕末最後の年、慶応三年(一八六七)のことで翌慶応四年には明治に改元されている。
朝廷の定めたものでない年号は「私年号」といわれるが、「天晴」という年号は土佐に限られて使われ、現在確認されている石灯籠は、領石のものを含めて四ヵ所しかなく、非常に貴重である。 慶応三年十月、領石の住民がこの石灯籠に、「天晴」の年学を刻んだいきさつについては一説がある。参勤交代北山道の要所であった領石には、中央の情報もいち早く伝わっていたことから「国内不穏につき改元する。新しい年号は天晴である」という話が誤って伝わり、住民は「来年は天晴という年号になる」と信じたに違いない。
翌年は「明治」に改元された。領石の住民はどのような思いで明治元年を迎えたのであろうか。 平成二十三年一月吉日」とあり、またその下には
「天晴の棟札
領石で作られた「天晴」の石灯籠に続いて棟札が新たに見つかりました。この棟札は、これまで領石天満宮境内社の小宮さま(大神宮)に納められていましたが、平成二十七年六月の調査の折に発見され、領石での「天晴」年号二例目として貴重であることから保存・管理のため高知県立歴史民俗資料館に寄いたしました。
(表)
天下太平国家安全氏子安全 奉建立 弁才天客
(裏)
「天晴元年丁卯 九月十七日 願主北村金次郎」と記される。

一の瀬渡瀬
「領石の送り番所」の石碑から里道を北進する。先に進むと民家がありそこで道はふたつにわかれる。右へと川筋に下る道をとり国道32号の高架下、更には高知自動車道の高架下を潜り、大きく曲がる領石川右岸の道を進む。山裾を流れる水路に沿って少し進むと「一の瀬渡瀬」と刻まれた石碑が立っていた。これも比較的新しいものであった。
往昔、ここから領石川を左岸へと浅瀬を渡っていったのだろう。
この渡瀬に石碑があった、とすれば、その他の渡瀬にも石碑か標識などが立つ可能性が高い。ここで渡瀬のポイントハンティングのモチべーションが結構高まった。

楠木渡瀬
一の瀬渡瀬で領石川左岸に渡り宍崎に出る。北山道は領石川左岸を北進し楠木渡瀬で再び領石川を右岸に渡り清川神社前を進むと『土佐の道』にある。地図をチェックし領石川右岸の清川神社へ向かう道をチェックすると、楠木橋を渡る道筋がそれに一番近い。取敢えずその地に向かう。 一の瀬渡瀬辺りに橋はないため、一度引き返し県道384号が領石川を渡る領石橋まで戻り領石川左岸に移る。高知自動車道の高架を潜ってすぐ領石川左岸に沿って進む道筋に入る。道の左手に南国市立たちばな幼稚園を見遣りながら道を進むと楠木橋がある。
橋を渡ると「楠木渡瀬」と書かれた木の標識が立っていた。ここがかつての楠木渡瀬であった。楠木渡瀬のゆらいは、かつて川岸に対岸にまで枝が届く大きな楠木があり、身軽な者は枝につかまり川を渡った故、と『土佐の道』は記す。
標識の傍に「北山越え」と刻まれた石碑があり、裏面には「律令制度の昔、都と土佐の国府は南海道で結ばれていた。古代文献よると、勅によって北山越えの開かれたとある。山また山の険しい道だけに、のち海路とってか知られた
この北山越えは近世なり享保三年(一七一八)第六代藩主山内豊高公が参勤交代道に利用する。それ以後土佐上方 江戸を結ぶ幹道して参勤交代また文物や人々の交流の舞台となった 根曳越えの新道の開通などにより機能を失うこととなるが、地域に残貴重な歴史的遺産であり(後略)」といった文字が刻まれていた。
尚、国道32号から分かれた県道33号から楠木橋に分かれる分岐点にも「参勤交代北山道」の標識が立っていた。

県道33号に出る
楠木橋を渡り丘陵へのゆるやかな坂を上り、切通しを抜けると亀岩の集落へと下る坂道となり、左手に清川神社を見遣りながら里道を進むと領石川右岸を走る県道33号に出る。





亀ノ本(瓶の本)渡瀬
次の目安は領石川を左岸に渡る亀ノ本(瓶の本)渡瀬。県道33号を少し進むと県道33号右手に「亀ノ本渡瀬 領石川を左岸に渡る」と書かれた木の標識があった。
標識には「対岸の左方にハンド岩 坂道の右下にクツヒキ岩」と記された写真も張り付けられていた。
標識脇からスロープを下りる。そこは水草栽培をしている民家敷地。丁度家の方がいらっしゃったのでお話しを聞く。クツヒキ岩はスロープ脇にある岩とのこと。岩の窪みには祠が祀られていた。「クツヒキ」とは蝦蟇ガエルのこと。


「ハンド岩」は領石川対岸、樹木の間に見える大岩のこと。「ハンド」はこの辺りで「水瓶」のことを言う。この辺りの地名、亀岩の由来となった岩である(瓶>亀に転化)。
この「ハンド岩」と「クツヒキ」岩にまつわる伝説が伝わる;はるか昔、木花之開耶姫(このはなさくやひめ)がこの地に住い、瓶石川(領石川)の水で酒をつくる。が、出来上がる頃には瓶は常に空っぽ。どうも蝦蟇ガエルが酒を飲みほしているようだ。で、 木花之開耶姫は酒が飲めないようにハンド(瓶)を逆さにしてこの地を離れ、朝峯神社のある地に移った、とか。高知市介良にあるこの社は酒造りの人々からの信仰篤き社と聞く。
よく見ればハンド岩は酒瓶〈水瓶)を逆さにした形になっている、と。また、悪さをしたクツヒキ(蝦蟇ガエル)をハンド岩の傍に祀るって、なんだか、いい。

県道を右折し林道釣瓶線に
亀ノ本(瓶の本)渡瀬の標識のある領石川は、現在浅瀬でもなく渡ることはできない。県道33号を少し進み、領石川に奈路川が合流する箇所にある橋を渡り、領石川左岸に移る。
取敢えず亀ノ本(瓶の本)渡瀬を領石川左岸に渡った箇所から道を繋いでおこうと渡河点に向かう。川沿いは採石工場があり道らしきものは続かない。少し山際を走る里道を渡河点まで戻る。渡河点から川沿いに道筋らしきものは残っておらず、林道釣瓶線に戻り次の目安である左手渡瀬に向かう。
奈路
土佐を歩くと奈路(ナロ)に出合う。「四万十町地名辞典」には「山腹や山裾の緩傾斜地を表す地名地名を高知県ではナロ(奈路)という。奈路(なろ)の全国分布は高知県だけで、それも中西部に多い。ナロ地形にふさわしい地名がこの地「奈路」である 『愛媛の地名』の著者・堀内統義氏はナロ・ナル地名について「東北の平(たい)、九州の原(はる)、四国の平(なる)と同じ地名の群落。奈良も千葉県の習志野も、ナラス、ナラシの当字で、平らな原野を表現している。」と書かれている。 ちなみに「奈路」地名も愛媛県に越せば「成・平(なる)」が断然多くなり、四万十町内でも成川・鳴川がよく見られる。

左手渡瀬
林道釣瓶線を進み、領石川に支流中谷川が合わさる辺り、道の左手に「左手渡瀬 中谷川を西岸に渡る」の木の標識が立つ。
川との段差があるが川は渡れなくもない。下りてみようと思った矢先、近くから作業音がする。確認すると左手渡瀬の直ぐ先に橋があり、対岸に工場があり作業中。左手渡瀬を渡っても工場敷地に出るようで渡河は断念。

中谷川西岸(右岸)に渡る箇所を探すと、工場に渡る橋の直ぐ先にも橋が架かっている。林道用の橋かと思う。橋を渡り中谷川右岸に沿って続く林道を進む。
ほどなく林道は左へと曲がり山に向かう。曲がり角から先、川沿いに道は無くブッシュを掻き分けて進むことになる。



中渡瀬
次の目指すポイントは中渡瀬。この渡瀬は過日土佐北街道権若峠を歩くときに見つけたもの。権若峠釣瓶取り付き口には中谷川に合流する梼山川左岸にある「下り付きの渡瀬」から渡河するとあり、とすれば左手渡瀬で中谷川右岸に渡った北街道は、下り付き渡瀬までの間で中谷川左岸に渡る渡瀬があったはずとチェックしておいた。その時はそれだけのことであったのだが、今回誠に役立つこととなった。中渡瀬の右岸は藪で中渡瀬を示す標識もなく、右岸を進んでもどこが渡瀬かわからなかっただろう。
中谷川左岸にあった中渡瀬の標識までGPSを頼りに中谷川右岸を進む。途中まで林道が続き結構快適。が、林道が左手の山に大きく曲がる辺りから先は踏み込まれた道はない。中谷川に沿っての藪漕ぎ、岩場をクリアしながら先に進む。
中谷川左岸、林道釣瓶線に立つ「中渡瀬」の木の標識のある辺りまで力任せんに右岸を進む。大岩が転がる中谷川であるが、中渡瀬の標識のあたりは浅瀬となっており水に濡れることもなく左岸に渡り、崖を這い上がり「中渡瀬」の標識までの道を繋ぐ。はじめて渡瀬を徒河した。なんとなくの達成感がある。

下り付きの渡瀬
中渡瀬で中谷川左岸に移り、林道釣瓶線を先に進む。途中林道釣瓶線は中谷川の谷筋から離れそのまま梼山川の左岸を進むことになる。
ほどなく林道左手の梼山川側に「下り付きの渡瀬 梼山川を渡る飛石あり」の木の標識。川床に岩が転がるがどれが飛石かわからない。林道から川床まで結構段差もあり、ロープも持ってなかったため直ぐ先にある梼山川に架かる橋を右岸に渡る。

橋への分岐点には「釣瓶登り口左手200m」「梼方面右」の標識が立つ。

「ゆすの木」が多くある地ではあるのだろう。龍馬脱藩の道を梼原から歩いた、その梼原も同じ由来である。
釣瓶
釣瓶の由来は不明。瓶は「かめ・びん」のことだろう。途中亀石川があったが、その由来は瓶の形をした岩があることに拠る。地検帳では亀石だが、州郡志には瓶岩とある。で、釣瓶だが、「釣瓶落とし」というフレーズがある。一直線に落ちていく様を表す。垂直な大岩でもあった故の命名だろうかと妄想。 因みに,『高知の地名;角川書店』の亀石村の項に、「梼山の西に菎蒻坂を隔てて釣瓶落山がある」とする。上述の妄想、あながち妄想とは言えない、かも。

権若峠・釣瓶取り付き口
梼山川を右岸に渡ると「下り付きの渡瀬」の標識の立つ対岸あたりが権若峠・釣瓶取り付き口。「権若峠登山口」「峠まで二千三百三十米 約2時間半かかる 標高五百五十米」とある。


下り付きの渡しの案内
標識の手前の立ち木に登山者のために竹の杖が用意されている。なにか手頃なものは無いかと寄ってみると、手書きで「ここが「下り付の渡瀬」です。昔のとび石が残っています。ゴンニャク峠までは2㎞430m」と書かれたプレートが立ち木に括られていた。この案内によってひ左手渡瀬からこの下り付き渡瀬の間に「渡瀬」がなければ辻褄が合わないと、中渡瀬を見付けた(といっても林道に立っていただけなのだが)わけである。


これをもって土佐北街道のほぼすべての道筋を歩き終えた。新宮から四国中央市に抜ける法皇山脈横峰越、笹が峰越え、国見越えなどの険路もあったが、印象に強く残るのが権若峠越えと立川川谷筋の山腹を進む道。どちらもそれほど険しくもないのだが、権若峠越えでは倒木やブッシュに阻まれ、立川川谷筋の山腹道は道が「消え」、ともに途中撤退。再訪しなんとか道を繋いだ。 簡単に行けそうと高を括っていた箇所で痛い目にあった。
さて次はどこを歩こう。松山から高知の佐川に抜ける土州街道(松山街道)、龍馬脱藩の道散歩で予土国境の峠道部分といった脱藩の道中間部はクリアしたが、前半部と後半部が残っている。そこにしようか。それとも土佐北街道の本山で出合った野中兼山の残した上井、下井、また本山近くの行川にも残る兼山の井流といった用水路散歩がいいか、膝と相談しながら歩くことにする。

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